愛を頂いた人の生涯(Ⅰ) - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

愛を頂いた人の生涯(Ⅰ)
ヨハネによる福音
第 45 回全国大会・講演Ⅰ
愛を頂いた人の生涯(Ⅰ)
ヨハネ 13:34-35
「愛を頂いた人」という言葉から私がまず連想するのは、ヨハネ伝に登場
するある無名の人物です。弟子たちの一人で「イエスの愛しておられた者」
とあるだけで、名前は最後まで伏せたままです。“最後の晩餐”の場面では、
多分、主の右隣の席に座っていて、イエスのお声を耳元で聞ける位置にいた
らしく、シモン・ペトロはこの人に、
「先生は今なんとおっしゃった?」
(13:
25)と尋ねています。シモンはこの時、主の左隣にいたと思うのですが、ユ
ダヤ式の低い食卓に左ひじで体重をかけて、少し右向きに座る姿勢では、小
声の会話はイエスの頭の後ろから聞くことになって、シモンには聞き取れな
いこともあったのでしょう。それで主の右側「ふところ側」にいたこの人に
尋ねたのです。
この「イエスが愛しておられた弟子」という人物は、その後、十字架の場
面にも登場します。「イエスの十字架のそばには、イエスの母とほかに三人
の婦人が立っていた」のすぐ後、「イエスは母とそのそばにいる、彼が愛し
ていたその弟子を見て……」(19:26)という所です。それにこの人はまた、
主が復活された知らせをマグダラのマリアが持って来る場面にも出ます。
「マリアはシモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう
一人の弟子のところへも走って行って、彼らに告げた。」実は、福音書の最
後の場面での紹介の仕方から見て、この人は恐らくヨハネであろうと、古代
の教会は推測しました。ヨハネ福音書の全文を執筆したか、少なくともその
資料の提供者となった主の弟子ヨハネだというのです。その著者がどうして、
「その時この私は……、」と1人称で自分のことを書かなかったのか、理由
は分かりませんけれども、この人にとっては、「そのイエスが愛しておられ
た弟子は」と言う方が、自分の名前など出すよりずっと実感があって、リア
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愛を頂いた人の生涯(Ⅰ)
ルだったのでしょう。「私がだれか……名前を言っても良いのだが、でも、
名前よりもっと確かなことがあります。それは、『イエスが私を愛してくだ
さった』という、このことなのです。」
その意味で、この大会の主題をもう一度眺めてみますならば、「愛を頂い
た人」というのは、外ならぬこの私のことでもありますし、また何より、あ
なた御自身のことでもあると、そうお考えいただいてよろしいのです。です
から今日は、イエス様から愛を頂いた人が一堂に会して、そのまた同じ愛を
頂いた人がここに立って、お互い共通の経験についての告白を聞いていただ
いて、御一緒に神を称えようとしている訳です。
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「愛を受けた人」という言葉から、私が次に連想する人物は、ルカ福音書
の7章、あるファリサイ派の人がイエスをお招きした食事の席で、香油の入
った石膏の壷を抱えて、イエスのお席の後ろから近づいたという女の人です。
彼女は泣きながら、ボトボトこぼれる自分の涙でイエスの御足をぬらし始め
たものですから、周りの人には何とも謹みのない行為に見えて顰蹙を買った。
それもそのはず、この人は町でだれ知らぬ者もないくらい、身持ちの悪い女
だったと言います。そんな女性がイエスの足元に座って、涙でぬらした御足
を何と今度は、自分の髪の毛をほどいてそれをタオル代わりにぬぐった上、
何度もその足に接吻しては香油を注ぎかけたのです。「何ということだ。こ
のラビには女の正体が分からぬのか!」そんな無言の非難が部屋に満ちた中
で、そのときイエスはおっしゃったのです。「この人は多くの罪を赦された
のだ。ごらん、こんなにも愛を表したではないか!」
愛を受けた人は、愛を表さずにはいられなくなります。この場合のこの人
の振るまいは、どう見ても、ユダヤの謹みある女性にはそぐわないものだっ
たでしょう。日本だったら尚更です。イエスもそれをたしなめようと思えば、
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愛を頂いた人の生涯(Ⅰ)
おできになったはずでした。でも、イエスはそれをなさらなかった。彼女に
はそんな表現しかてきなかったし、愛を受けて愛を表している彼女の仕方が、
どんなに下手で洗練されていなくても、イエスはお叱りにならなかったので
す。彼女の無作法も愚かさも全部含めて彼女をイエスはカバーしておやりに
なったのだと、私は思っています。
今のエピソードからだけ考えますと、愛を受けた人は愛を与えた人に愛を
返すことになります。この女の人の場合、だれもが軽蔑して人間扱いしてく
れなかったこの町の住民とは違って、イエスはこの女性をひとりの人間とし
て、神様にとっての大事な人として御覧になったのです。この人が香油の入
った壷を抱えて食事の席に入り込む前に、イエスの愛がまずこの人に届いて
いたのです。愛が受け止められた時には、相互に交流するものです。その意
味で私たちは、何とかして、受けた愛を何としてもイエスにお返ししたい…
…。もしこの会場にイエスか、例えばそこの入り口から入って来られて、あ
なたの隣の席にお座りになったとしたら、あなたは何と申し上げて、感謝の
しるしには何をお献げしますか。「そんな馬鹿なことは起こるはずがない」
とおっしゃいますか。21 世紀も間近い今、イエスが自分の前に現れなさるこ
とはあり得ない……と思われる方には、マタイが記録したあのお言葉がヒン
トになります。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにして
くれたことなのである。」(マタ 25:40)
さて、今のマタイ 25 章のたとえの趣旨とつながる、もう一つのお言葉がヨ
ハネ福音書の中に出ています。港教会の美しいポスターでは、「愛を頂いた
人の生涯」という主題と「7 月 23 日」という日付の間に挟まって印刷されて
いたヨハネ伝 13 章 34,35 節というあの聖句です。
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愛を頂いた人の生涯(Ⅰ)
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新しい命令をあなたたちに与える。互いに相手を愛せよという命令だ。そ
れも、私があなたたちを愛したのと同じように愛するのだ。“愛する”とい
うこの一事で、あなたたちが私の弟子だということがすべての人に知られる
─互いに相手に対して、この愛を常に持つならば。(私訳)
その人が人を愛する愛し方を見て、人がショックを受けるというのです。
「見ろ。あれはイエスの弟子だぞ。」そんな人を目の前で見る経験をあなた
はなさったことがありますか。私にはあります。
ここで私は、私にとっては大事な一人の先輩との出会いを、皆様にお話し
させていただきたいと思います。私は沖縄では、信仰の先輩コールさんとベ
ックマンさんからどれだけ多くのものを頂いたかを、語りました。白浜では、
この四十年私を愛して見守ってくださった先輩飯島さんとの出会いを、感謝
をこめてお話しさせていただきました。亡くなったクラークさんから頂いた
貴重な宝は、「マタイ」の本の各所にちりばめてあります。それで、今日お
話しさせていただく先輩は、私がアテネの学校でお世話になった恩人のマル
コ・シオーティスさんのことです。
シオーティスという名前は、俳優のジョージ・チャキリスとか。海運業者
として知られた故アリストテリス・オナシスと同じ「イス」で終わる典型的
なギリシャ名です。これは、英語でいう family name,つまり日本の苗字(姓)
に当たるものです。「シオーティス」というようなギリシャ人の苗字になじ
みの薄い方には、福音書の著者と同じ「マルコ」というお名前 given name
の方が覚えていただき易いと思いますので、マルコ先生と申し上げても宜し
いのです。その、アテネのマルコ先生に出会うきっかけになったのが、先輩
のマーチン・クラークさんの一言でした。クラークさんは、ある日私にこう
言ったのです。「織田君、君のギリシャ語の発音は少しおかしいぞ。私の習
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愛を頂いた人の生涯(Ⅰ)
ったのとは随分違う。君のはまるでドイツ語だ。」私が甚だ心外だったのは
言うまでもありません。でもお陰で、私は意地になって、新約聖書のギリシ
ャ語の正しい読み方にこだわるようになりました。欧米の著名な学者のレコ
ードやテーブを集めたのもそのためでした。そして、最終的には、アテネや
テサロニケのギリシャ人が聖書を読む時はどう読むのだろう……と、それが
知りたくて、アテネとテサロニケの大学に英語で質問の手紙を書きました。
その手紙には、自分で読んだヨハネ伝の一部をテープに録音して同封しまし
た。今から三十五年も前のことです。
今から思うと、まことに不思議なのですが、このヘンな日本人の手紙が、
ちょうどアテネに着任なさったばかりのマルコ・シオーティス教授の目に留
まったのです。でも本当に取り上げて下さったのは、先生の上司に当たる新
約学の主任教授ヨワニディスさんでした。ヨワニディス教授は、テサロニケ
から着任したばかりの新進気鋭の教授に依頼されたのです。「マルコ、この
日本人の青年に返事してやった方がよければ、あなたの判断で処理してくだ
さい。」それが、アテネのマルコ兄弟とのつながりの始めでした。
アテネの消印のあるその手紙はこう始まっていました。「あなたのテープ
を聞きました。とても明瞭によく読めています。ヨーロッパの大学の教授た
ちの朗読よりは正確で奇麗だと申しておきましょう。」
(それ見たことか! …
…私はクラークさんから一本取ったと思いました)でも、その後が良くあり
ませんでした。「しかし、私たちギリシャ人はこれをギリシャ語とは言いま
せん。同封のテープは、アテネ放送局から説教を流しているアンティモス司
祭のものです。参考にしてください。」
その録音を聞いた時の印象は、「えッ! これがギリシャ語?」としか表現
できません。例えて言うなら、日本語を独学する青年が中国かアフリカで枕
草子を一生懸命読んで、それも、自分ては、11 世紀の発音を正確に再現して
いるつもりで、「パルパ曙」とか、「ファルーファ曙」と一生懸命読んでい
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た所へ突然、「春は曙」という、日本の声優が読んだ美しい朗読が舞い込ん
だようなものです。「ギョッ、“はるは”だって! “パルパ”って覚えてき
たのに……」私の聞いたギリシャ語も、それと同じでした。昔シュリーマン
が聞いて早とちりで感激したようなのと違ってもっと美しいギリシャ語の読
み方があったのです。
アテネの市内、リカヴィトスの丘の中腹にある古い修道院の境内に、神学
部の学生寮がありました。白い三階建の建物は、先日杉山さんと一緒に見に
行った時には、ギリシャ教会の放送スタジオに変っていましたが、三十二年
前は男子学生寮で、ギリシャ人の神学生数十名のほか、ロシア人、アラブ人、
エチオピア人、それにセルビア人などの留学生が寝起きしていました。実は
杉山世民さんも後にその同じ寮で生活されたのですけれど、今の寮はアテネ
市内から、環境の良い郊外の方に移転しています。その神学部の寮の玄関で
初めて、私は生涯忘れられない愛を頂いたその方にお目にかかったのです。
マルコ・シオーティス。その人は私にとっては、チャキリスよりも美しいも
のを、そして、オナシスも与え得ないような豊かな富を、与えてくださった
恩人なのです。
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アテネの空港からバスで都心に近づきますと、まず目に入るのはアクロポ
リスの岩山の上に聳えるパルテノンです。かつてソクラテスが教えた町。そ
して、何より、使徒パウロが説教した町です。でも、自分のような者がどう
して、ここまで来たのか……! ただただ不思議でした。
実はそれまで二年間英語でお手紙を差し上げて、新約聖書の時代のギリシ
ャ語の発音はどんなだったか……とか、シグマの字は“右巻き”に書くのか
“左巻き”に書くのか……とか、幼稚な質問で先生を煩わせていたのですが、
ついに大決心をしまして、ギリシャ語でお手紙を差し上げようと思い立ちま
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愛を頂いた人の生涯(Ⅰ)
した。と言いましても、当時私は現代ギリシャ語を一言も知らなかったので
す。それで仕方なく、自分の知っている聖書の単語だけをつないで、必死で
作文して書いたものです。例えばあなたが、今の日本語を全くご存じなくて、
その代わり「源氏物語」だけは原文で読んでおられたとしましょう。それで、
あなたが覚えている紫式部の使った単語だけを使って、千年前の日本語の文
法で無理に作文したとしたら大体、私の書いた手紙と同じ感じになると思い
ます。ところがです。そのまことに奇怪な文章の手紙が、なぜかマルコ先生
を動かして、日本に住む、コネも何もない、大学も中退の頼りない青年に、
ギリシャ政府の奨学金を世話してやろうというお気持ちにさせたのです。そ
んな手紙を聖霊がお用いになった─としか、私には説明できないのですが
……。
「織田君、遠い所をよく来た。私の家はこの寮のすぐ下だ。いつでも電話
して訪ねて来なさい。」そして本当に私はそのお言葉の通り、延べ三年二回
にわたる留学の間、マルコ先生と御家族の愛のぬくもりで守っていただいた
のでした。私の寮のあったヤシウ町から坂道を 50 メートル降りた最初の通り
ラヴィネ町のマンションの二階に、マルコ先生はお住まいでした。奥様と、
奥様のお母様の三人暮らし。お子様に恵まれないのが淋しいと言えば淋しい
ですが、私はこの家で、ギリシャ人の本当のクリスチャンの夫婦を、至近距
離から見せていただくことになっただけではなく、三人の方たちの愛に包ま
れて合計三年、鬱病にもノイローゼにもならずに、聖書の言葉を勉強して帰
ることができました。
外国人留学生のための現代ギリシャ語のクラスでは、まあまあの成績だっ
たと思いますが、正直言って、大学の講義は、まるで分かりませんでした。
ノートを取るどころではありません。最初の日は、“and”とか“the”に当
たる単語が時々聞き取れる程度です。これはショックでした。皆さんから励
まされて、祈って頂いて、大阪を出て来たのです。まさか「分かりませんで
した」と言って帰る訳にもまいりません。困ったことに、大阪空港ではハロ
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愛を頂いた人の生涯(Ⅰ)
ルド・コール先輩が、タラップに進む私の背中へ大声で、私には大変ショッ
キングな言葉を浴びせました。「織田君、日本一のギリシャ語学者になって
帰って来い!」そんな無茶な! 十か月でそんなこと、天才にだってできっこ
ありません。でも、これは後でも出てきますが、皆さん、愛というものは人
を「買いかぶる」ものです。愛する人の未来について「買いかぶる」のです。
その「買いかぶられて」、いい気になって出て来たのが、大学の講義も聞
き取れなくて、お手上げでした。その上寮で調子に乗って食べ過ぎた豆スー
プでおなかも壊して、三日目から寝込んでしまいました。実は寮での最初の
夕食のとき、学生食堂の正面の舞台の上に寮長先生と並んで座らせられて、
上級生たちを見下ろす高い所で初めての食事をしました。寮長のラムフォス
司祭という方は、私が今までに見た中で、サンタクロースに一番よく似た白
い美しい髭をお持ちでした。そのサンタクロースにオダはオダテられて、乗
ってしまったのです。「みんな見てみろ。日本の織田君は我々のスープを平
らげたぞ。拍手! お代わりは…… 行けるか? ブラヴォー! 拍手!」その
言葉が徒になり、着いた最初の週はベッドの中で過ごしてしまいました。
“フ
ァソラダ”という名のスープです。“ミソラダ”でしたら、いつも頂いて慣
れていますが、半音上がっただけで“ファソラダ”はとても胃にもたれまし
た。オリーブ油と豆とトマトの濃いスープです。
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二回目に留学した時は、楽器を使わない“キリストの教会”の方たちに随
分お世話になりました。この教会では、ギリシャ人の聴衆のためにギリシャ
語で説教も十数回させていただきました。しかし、最初に行きました 1962
年の時は“キリストの教会”が見つからなかったので、主にギリシャ教会と
ロシア教会の礼拝に出席していました。いつも緊張しっぱなしでしたし、カ
ルチャーショックも大変なものでした。そんな中で私にとってリラックスで
きるただ一つの場所は、マルコ先生の御家庭でした。月に一回以上は食事に
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愛を頂いた人の生涯(Ⅰ)
招いていただいたと思いますから、四十回くらいは食卓に連ならせて頂いた
と思います。私には父でも兄でもあるマルコ兄弟とケーティ夫人、それに、
老齢にも拘わらず眼鏡もかけないで刺繍をなさるお母様のヴァシーツァさん。
ギリシャ語の「母」という単語「ミーティル」は、「イエスの母」マ
リアの記事に出てきますし、「姑」という語「ペンテラ」は、「シ
モンの姑が熱病で床についていた」という場面で使われます。でも、私の記
憶の中ではこの二つの単語はどちらも、ヴァシーツァさんの笑顔とつながっ
ているのです。先日杉山さんと御一緒に挨拶にあがった時は、お母様は確か
九十才と伺いました。そう言えば、ギリシャ語の「食卓」という名詞「トラ
ペザ」も、私の頭の中では、辞書に出ている定義ではなく、あの家
の温かさと慰めがその内容になって残っています。
マルコ先輩は私を何とかリラックスさせようとして、ギリシャのジョーク
や面白い逸話を、食事のたびに話してくださいました。今御紹介するのは、
ギリシャのジョークではなくて、マルコ先生がドイツに留学中恩師の一人ア
ドルフ・ブルトマン教授のお宅での挿話です。念のため、私の先生はブルト
マンとは神学的にも随分対照的な方ですし、そのマルコ先生と私とは、月曜
日の講演で申し上げますように、信仰の持ち方や教会の伝統についての考え
方では極端に違っているのです。
ところで、皆さんは召し上がるかどうか存じませんが、オリーブのピクル
ズ(漬物)は慣れないとなかなか、口に合わないものです。あるとき、ブル
トマン先生のお宅に食事に招かれて、マルコ・シオーティスさんは故郷の名
物オリーブ漬を持って参上しました。イタリア人やフランス人は食べますが、
ドイツではあまり食べないものです。そのオリーブ漬をブルトマン先生は一
口召し上がってから、「うん、これがオリーブか」と一言、渋い顔をしてお
っしゃった。シオーティスさんは、その時の恩師のお顔を思い出すようにし
て、とてもおかしそうにお笑いになりました。ブルトマンさんの家では食後
に、家族の皆さんとドイツの聖歌を合唱なさったそうで、奥様がピアノをお
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弾きになったと言われたか、お嬢様と言われたか忘れましたけれど、その話
をされる時のマルコ先生が、とても嬉しそうにお見受けしました。
そのとき、私は急に一つの思いに駆られて、胸が一杯になりました。ブル
トマンさんがシオーティスさんになさった温かいもてなしが、今度は私の所
に届いているのです。皆さん、愛というものは、連鎖反応を起こすものです。
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神学部では、マルコ・シオーティス教授の福音書釈義のクラスと、上級生
の新約学ゼミに出席しました。二度目の時は先生のお薦めで、ギリシャ正教
の神学部から一度外に出て、哲学部に移籍しまして、ギリシャ哲学とギリシ
ャ悲劇などの古代文学、それにギリシャ語の歴史を二年間学びました。その
学問の方の話は、今日は省略させていただきます。
シオーティス夫妻は、ちょうど私が二度目に留学した 1967 年に運転免許を
お取りになって、車をお買いになったばかりでした。「織田君、日本製でな
くて済まないね」とおっしゃった新車は、英国製のモリスでしたが、英国人
はあまり暑い国のことを考えないで設計したものか、真夏にコリントの遺跡
へ往復した時などは、エンジンが過熱して煙が出たり、途中で何度か車を止
めて冷めるのを待つ、という代物でした。このモリスは五年前にまだ、その
まま乗っておられて、私ども夫婦には懐かしかったですが、でも車も 23 年も
使うと、結構痛むようです。
印象に残っているのは、エピダヴロスの野外大劇場で行われた古典劇フェ
スティバルにお供した時のことです。その時は家内が三才の和夫を連れて夏
の三か月を滞在していましたので、三人でモリスの後ろの席に乗せていただ
き、アルゴスの宿では、先生御夫婦と隣合わせの部屋に二泊させていただき
ました。ギリシャ国立劇場の公演で、毎年このフェスティバルには世界中か
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ら演劇ファンが集まります。その年の演物はアリストパネスの喜劇とエウリ
ピデスの悲劇でしたが、たまたま、ギリシャの人間国宝のような名優ネゼル
さんが客席の、私たちより数列前の席に来ておられたので、サインを貰うギ
リシャ人の列ができていました。日本ならさしずめ、片岡仁左衛門さんか、
中村歌右衛門さんのような方です。間もなく開演ということで、警察官がフ
ァンの列を解散させて静かになった瞬間、先生が、「織田君、いま行け!」
とおっしゃるのです。「『私はあなたのファンで、日本から来てギリシャ文
学を勉強しています』と言ってごらん。間違いなくサインくれる。」「でも
……」と躊躇していますと、「そら、今だ!」こうして私は、ギリシャの名
優クリストフォロス・ネゼルのサインを持っております。
古代のギリシャ人は、悲劇の作者の名を書くときは、例えば「ソフォクレ
ス作」とは書かないで、「ソフォクレスによりて教えられたる」と書いたと
は本で読みましたが、国立劇場の「オイディプス王」のプログラムを見ると、
本当に、(ソフォクレスにより教えられたる)
と印刷されていたのには、驚きました。
マルコ先輩がよく国立劇団の公演に連れて行ってくださったり、演劇関係
の方々や詩人の方たちにまで紹介してくださったのは、多分、それを通して
「生まの人間を知れ」という御趣旨だったと思います。ノーベル賞の詩人エ
リティスさんには、現地ではお目にかかる機会はありませんでしたけれど、
帰国してから私が書いた下手な短い文を、エリティスさんにお見せして、喜
んで頂いたと知らせてくださいました。私が書いた文というのは、エリティ
スの長い詩にギリシャの音楽家テオドラキスが作曲したオラトリオ「アクシ
オン・エスティ」《》を聞いた短い感想です。先生はその文章
を「教育研究」という立派な雑誌に載せてくださって、オラトリオの作詞者
にもお見せして、「これは私の生徒で日本人の織田昭君が書いた」と言って、
自慢してくださるのです。「穴があったら入りたい」とは正にこのことです
が、どうか皆さん、先程の「愛は人を買いかぶる」ものだという言葉を思い
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愛を頂いた人の生涯(Ⅰ)
出してください。
それにしてもマルコ先生は、随分たくさんの色々な方たちに私を紹介して
くださいました。文部大臣のテオドラコプロスさん。この方は哲学部長のま
まで大臣をされたので、教室ではプラトンの講義を拝聴することができまし
た。この先生は学生たちから「ベートーベン」のあだ名を奉られていました。
手を後ろに組んで講壇の上を歩き回る姿がベートーベンの絵にそっくりだっ
たからです。その先生に、「日本の織田君にプラトンをよく教えてやってく
ださいよ」と一声かけておいてくださる。私みたいな者がプラトンの哲学を
ベートーベンから教えて頂いても半分も消化できる筈がないのに……です。
それでも期待を持って見守ってくださるのです。いつも、会う人ごとにシオ
ーティスさんは、「これは日本から来た織田昭君。聖書の学徒です」と、P.R.
なさるのです。
国立劇場の会長フォティアデイスさんは、まだ入場年令に達しない和夫の
ために、特別許可書を書いてくださいました。鈴恵と私が子供を連れたまま
で古典劇を見られるようにです。その時の三才児が、今年は港の委員に加え
て頂いて、その辺をウロチョロしておりますが、こいつがもしギリシャ悲劇
を少しでも覚えていたら、天才ですね。
「メディア」の公演の時は、国立劇場の会長が私を最前列に引っ張って行
って、時の軍事政権の副首相パタコスさんとアテネ市長に引き合わせました。
「日本のヘレニスト、織田昭氏です。専門は聖書ですが、ギリシャ語とギリ
シャ文学の勉強に来ています。」「それは珍しい人にお目にかかる。ここへ
お座りなさい。」市長さんと副総理の間で緊張して見た「メディア」は、さ
すがにあまり覚えておりません。でも、この時の不思議な御縁で、五年前に
アテネに参りました時には、政治犯として服役中のパタコス副総理を癌病棟
に、杉山さんと一緒にお訪ねすることになった話は、「マタイ」の本に出て
おります。(この項 C.M.)
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少しずつ結論に近づけねばなりませんが、マルコ先生のエピソードをもう
少し……。1967 年のクーデターの朝、私は戒厳令に気づかずに教室へ行きま
したら、革命軍に逮捕されてしまいました。幸い、角川映画のラストみたい
に射殺されることもなく、すぐ釈放されましたが、先生に報告すると、「織
田君、驚くな。こういうのは、我々の所ではソクラテスの頃からやってるよ」
とおっしゃって、少々心細くなっていた私を、その晩すぐ食事に招いて下さ
いました。御自分のことはその時、何もおっしゃらなかったのですが、19 年
後に出た伝記によると、先生はそのころ文部省の宗務局長の立場で、軍の圧
力に抵抗する良心の戦いをしておられたことが書かれていて、その努力に対
するギリシャ教会からの感謝状のコピーが印刷されていました。「右翼の刺
客に襲われるような危険が一度ならずあったのに……」とありました。この
「マルコス・シオーティス─その活動と著作」という 70 頁ほどの本は、杉
山さんの先生がお書きになったものです。その本を読んで私は、こんな忙し
い先生がどうして、私ごとき小さな者を相手にしてくださる時間をお持ちだ
ったのか、ただただ不思議でした。まことにおこがましい想像で、笑われる
かも知れませんが、マルコ兄弟は主の“新しい命令”「互いに相手を愛せよ」
というあの命令をあの 3 年間、私ひとりに絞って行っておられたのではない
か! もちろん、主観的な受け止め方です。でも、「イエスが愛しておられた
弟子」と名乗ったあの人なら、私の言う意味も分かってくれると思うのです。
マルコ先生の所へ友人の杉山さんをお届けして、帰国してかなり経ったこ
ろ、私のインタービューの録音がアテネ放送の宗教プログラムでオンエアに
なりました。11 日間の滞在の二日目に、大学で私の同級生でもあった女性ア
ナウンサーが訪ねて来て、杉山さんの部屋で録音して行ったのです。何しろ、
21 年間しゃべる機会が殆どなかったギリシャ語なのに、マイク突きつけて、
「さあしゃべれ」というのです。私が聖書の福音を学んだいきさつ……その
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聖書の語学をギリシャまで学びに来た理由……私の師匠シオーティスさんと
の出会い……世界の救いのために日本人のクリスチャンが持つヴィジョン…
…そんな話題でした。それが帰国して半年以上経つのに、その後アテネ放送
の電波に乗った形跡がない。杉山さんからもアナウンサーのフィルー夫人か
らも、一言も、何も言って来ません。時々家内が、「あんた、あの録音なん
で放送に出ェへんねゃろ?」その度に私は、口には出しませんでしたが、心
の中ではいつも不機嫌に答えていました。「ワシのギリシャ語がヘタやから
や。」
ところがついに、その放送のテープが届きました。40 分番組です。私はそ
んなにはしゃべらなかったのですが……。杉山さんが九カ月でマスターした
ギリシャ語を立派に使って、堂々としゃべってました。それに驚いたことに、
マルコ先生御自身のお声で、先生と私との三十年間の交わりをお話しになっ
ているのです。番組の仕上げは、ビザンチン音楽の学者でシンガーでアナウ
ンサーもしている私のクラスメート、フィルー夫人の企画で、私の恩人マル
コ・シオーティスさんと杉山世民さんのトーク番組の形で、九か月前の私の
インタビューの録音を挟みながら進みました。その日、スタジオで見たこと
を伝えて来た杉山さんの言葉を、私は恐らく一生忘れません。「シオーティ
ス先生は、ほとんどずっと、オダさんのこと……マイクの前で、涙を流して
話しておられました。」
「私はあなたの涙を忘れていない。飛んで行って会いたい。喜びで満たさ
れたい。」(2テモ1:4)あれは、パウロが テモテへの気持ちを表した言
葉ですが、本当は、テモテもパウロの涙を見たのです。
シオーティスさんのお宅で、アテネ学士院の院長と同席させていただいた
ことがあります。学士院─アカディミアというと、プラトンが教えた時代
からの由緒ある名前ですが、五年前の会長はソロン・キドニアティスさんで
した。アテネを離れる最後の夜の食事でしたが、ソロン博士に私は自分の実
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感を、こう申し上げたのです。「“愛”と言う言葉、“アガーピ”は
ヨハネ伝の主の言葉から学びました。でも、その本当の意味と内容は、シオ
ーティスさんの中に見て経験したものです。」ソロン博士が言われるのに、
「大学では、教師にとっての学生は多くの場合、単に学籍簿のナンバー以上
の意味を持たないものですが、そんな素晴らしい、美しいつながりが生まれ
たのは、シオーティスさんの場合も、織田君の場合も、まあ、考えられ得る
最上の選択をなさったのですよ。」その瞬間、私はソロン先生に“No!”と
申し上げるのは失礼かと思って抑えながら、心の中で叫んでいました。「違
います。これは、神様が与えてくださった上からの賜物なんです。」
もし主がお許しくだされば、再来年の春に発売する予定の「新約聖書の文
法書」には、マルコ・シオーティスさんへの献呈の言葉を、本の扉に二か国
語で掲げてあります。
イエス・キリストの愛を生きた人間の形にして、常に私の霊に感動を与え、
「わが弟子であれ」という主の御言葉を、身をもって示してくださった、わ
が師マルコス・A・シオーティスに献げます
ある人がこの献辞を見て、「イエスの真の弟子」ということは確かに良く
表されているけれども、もう少し「世界的な優れた聖書学者」としてのシオ
ーティスを表現できたのでは……と、助言してくれました。でも私にはそれ
は、残念だけれども、十分に表現できないのです。と言うのは、“受け皿”
としての私の器があまりに小さくて、あの方の学問の百分の一も受け止めら
れなかった。“偉大な学者”としてのシオーティスを知る人なら、ほかに何
人もいらっしゃいます。シュナイダー、ブルトマン、キッテル、アーラント
……そういう立派な人たちです。私は証言する資格がない。でも「イエスの
弟子」としてのシオーティスなら、私にも証言できます。と言うより、私に
は誰よりもリアルに、自分の体験から証言できるのです。
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愛を頂いた人の生涯(Ⅰ)
「この“愛する”ということで、あなたたちが私の弟子だということが、
すべての人に知られる……互いに相手にたいしてその愛を常に持つならば。」
そう、主は言われたからです。
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今晩のお話をまとめてみます。いつも聖書の講義のような説教をする私が、
今日はあまりにも具体的に、生きた人間との触れ合いにこだわり過ぎたかも
知れません。本当は、イエス・キリストの愛を頂く経験をするのには人間の
介在を必要としないのです。極端に言えば、独りで洞窟の中に閉じこもって、
ローソク一本で聖書の言葉を前にするだけでも、イエスはこの私を愛してく
ださった! というショックに触れることはできます。「私たちがなお罪人で
あった間に、その神を畏れぬ私たちのためにキリストは死なれた。私たちへ
の神の愛はこのようにして、神御自身の手で実証されているのだ」(ロマ 5:
8)とパウロが言った通りです。もし私たちの霊性が研ぎ澄まされているなら、
この確信は、人間の実例など借りなくても、「私たちに与えられた聖霊によ
って、神の愛は私たちの心に、ドッと注ぎこまれているのが分かる」(同:8)
のです。
しかし、嬉しいことに、神さまはその愛の連鎖反応を具体的な形でもこの
地上に一杯に陳列なさって、見る目を持った人には、聖書の外からもこのキ
リストの愛を反映する実例を、ちゃんと示していてくださいます。「これで、
どうだ……少しは具体的に分かるか?」と。
「私が愛したように愛せよ。それで、私の弟子がどこにいるかが見える。」
ほんとうに、見えるのです。そしてその弟子の向う側には、私のために十字
架で死なれたイエスが見えます。私を生かすためにイエスを復活させた父が
見えます。イエスの弟子の存在は、神の愛が本当であることの生きた証拠な
のです。
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愛を頂いた人の生涯(Ⅰ)
何か月ごとにアテネの消印のある手紙が届きます。私は胸をときめかしな
がら封筒を開けて、便箋の裏までピリオドとコンマが突き抜けるほど力を入
れてタイプされた、シオーティスさんの手紙を、貪るように読んで、「私は
勇気に奮い立つのです」と申し上げれば、そんなのは肉的で感傷的だ……と
軽蔑なさいますか。本当は、それと共通する感動をこの大会の交わりの中で
も四十年間、愛する先輩や友人たちから頂いたお陰で、私は今日まで勇気を
失わずに、「愛を頂いた人」としての歩みを続けることがてきました。多分、
あなたにもそんな、魂を揺り動かすような具体的な愛の経験がおありだと思
います。それだけではありません。あなたはお気づきにならなくても、きっ
と誰かの魂にとって、あなた自身がそんな「イエスの弟子」として映ってい
るのです。そしてそこにまた、「愛を受けた人の生涯」が始まっているので
す。
(1994/07/23・天城山荘)
《研究者のための注》
1.人名表記は、オナシス、シオーティス等、すべて現代ギリシャ語によりました。チャ
キリスは英語読みです。恩師のお名前は主格で「マルコス」と s が付きますが、聖書
で慣用の「マルコ」を使いました。
2.歴史上また伝説上の人名は、西洋古典学会でも採用している慣例に従って、ソクラテ
ス、プロクルステス等と表記しました。「エース」で終わる名は、現代語では「イ
ス」語尾(4 頁)となります。
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