1.1 ネットワーク・ポリシーの意味

1.1 ネットワーク・ポリシーの意味
1.1 ネットワーク・ポリシーの意味
1997 年頃から,インターネットやイントラネットなどの情報ネットワークの技術分野で,
「ポリシー」という用語が盛んに使われるようになりました。英和辞典によると,ポリシー
に対応する日本語として,政策,方針,手段などがあります。
情報ネットワーク関係の文献や資料に出てくるポリシーという用語は必ずしも明確に定
義されていませんが,おおむね「情報ネットワークの利用条件や運用条件の規定がポリシー
であり,ポリシーに従って情報ネットワークを設計し,あるいは構成要素の運用条件を決め
る」といったことを意味しています(図 1.1.1)。
外部要求
ポリシー項目
(利用条件,運用条件,など)
設計目標
(性能,信頼性,サービス品質,など)
ポリシー管理
システム
ポリシー・ベース・システム
運用
図 1.1.1 ポリシー・ベース・システムの構築と運用
開発あるいは構築する情報ネットワークの利用目的,利用方法,運用方法などの外部要求
を決めて,それに基づいて,性能やサービス品質などの設計目標を具体的に決めます。ネッ
トワーク・ポリシーとして規定する外部要求や設計目標は,抽象的あるいは定性的な概念で
はなく,具体的であり,項目によっては定量的であることが重要です。いろいろの側面から
見た項目のポリシーを決めて,それに基づいて実現した情報ネットワークあるいは情報シス
テムをポリシー・ベース・システムと言います。
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1. 情報通信ネットワークのポリシー設計
ポリシーとして決めたことを日常的に確実に実行するためには,情報ネットワークの動作
状況を監視して,必要に応じて制御する機能が必要です。このために各種のポリシー管理製
品が次々に開発されています。ネットワーク・ポリシーに関心が高まってきた背景には,こ
の分野の製品の PR が盛んになってきたことや,システムインテグレータがポリシーという
キーワードを前面に出した事業を展開していることが見られます。
文献や市販されているポリシー関連製品の中には,特定の項目を対象とするポリシーだけ
を取り上げているものがありますが,ネットワーク・ポリシーとして規定する項目の範囲は
かなり広いと考えられます。本書では,サービス品質,性能,拡張性,ルーティング,セキュ
リティといった項目のポリシー設計を取り上げます。これらはすでに多くの人たちが関心を
もって議論し,あるいは技術開発に取り組んでいる項目であり,これらのほかにもいろいろ
なポリシーの項目が考えられます。
『通信政策の変化』
「ネットワーク・ポリシー」をいう言葉を聞いたときに,多くの人が連想することは通信
政策だと思います。日本では,1985 年に施行された電気通信事業法のもとで,電気通信事
業が完全に自由化され,これを契機にして多くの新しい企業が生まれました。かつて,電話
サービスを中心とする電気通信事業は世界の大部分の国で国営独占事業でしたが,OECD(経
済協力開発機構)の資料によれば,1999 年時点で独占事業を続けている国は,加盟国 29 カ
国のうち 6 カ国だけになりました。
マルチメディア情報通信技術が急速に発展した現在,通信政策は新しい段階に入っていま
す。それは通信と放送の境界をなくすことです。すでに米国ではこの境界がほとんどなくな
り,日本でも通信と放送の融合の時代が始まっています。
従来の放送事業者は,テレビジョン放送のディジタル化によって実現が容易になった双方
向通信機能による付加価値に注目しています。通信事業者は,アクセスネットワークを高速
化して,新しい形態の情報流通を始めようとしています。ケーブルテレビ(CATV)の設備や
衛星放送チャンネルを利用するインターネット高速アクセスがすでに始まっています。一
方,NTT が進めているアクセスネットワーク(電話加入者線)の光ファイバー化によって,技
術的にはテレビジョンの映像分配が可能になります。これらの新しい技術や機能をどこまで
自由に利用できるようにするかという開放政策が,これからの重要なテーマです。
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1.2 従来のネットワークの設計ポリシー
1.2 従来のネットワークの設計ポリシー
情報ネットワークのポリシー設計が注目される話題になってきたのは最近のことですが,
それでは従来の情報通信ネットワークには設計ポリシーがなかったかというと,決してその
ようなことはありません。100 年以上の歴史を持つ電話システムをはじめとする公衆通信
サービスを提供している通信ネットワークや大規模の企業情報ネットワークの多くは,しっ
かりしたポリシーに基づいて設計され,運用されています。あえて設計ポリシーと言わなく
ても,しっかりしたポリシーがなければ,優れた大規模の情報通信ネットワークを実現する
ことは困難なのです。
公衆電話網の伝統的な設計ポリシーは,すべての利用者に均質の良好なサービスを提供す
ることです(図 1.2.1)。
サービス・ポリシー
・普遍的
基本方針
・経済的
・良好な通信品質, など
設計要件
・接続完了率
・通話品質
実現条件
・サービス・アベイラビリティ
・緊急通信の優先制御, など
図 1.2.1 公衆電話網のポリシー
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1. 情報通信ネットワークのポリシー設計
このために,電気通信事業者は,接続完了率,通話品質,サービス・アベイラビリティな
どの各種の基準値を決めて,それを実行するのに必要な設備を用意し,日常的な運用管理を
しています。災害や局部的な異常トラフィックのためにサービス品質が低下したときには,
緊急性が高い通信を優先扱いする機能が用意されていますが,これも設計ポリシーに基づく
項目の一つです。公衆電話網に限らず,公衆パケット通信網などのデータ通信網も,利用者
に一定の品質のサービスを提供するためのしっかりした設計ポリシーに基づいて実現され
ています。
複数の事業所に設置した PBX(構内電話交換機)をつないだ企業内電話網の多くは,公衆電
話網の設計技術を参照した設計ポリシーを採用しています。また,1970 年代頃から構築さ
れた,ホストコンピュータを中心とする大規模コンピュータ・ネットワーク・システムの多
くは,設計ポリシーという言葉を使っていないにしても,実際はしっかりした設計ポリシー
に基づいて構築されています。
『技術標準の曖昧さ』
情報通信ネットワークでは,製造元が異なるハードウェアやソフトウェアを相互接続しな
ければならないので,技術の標準化が不可欠です。このために,ITU-T(国際電気通信連合・
電気通信標準化部門),ISO(国際標準化機構),IETF(インターネット・エンジニアリング・
タスクフォース)などの国際的な標準化組織や,各国の国内標準化組織があります。
これらの標準化組織が制定した技術標準に従ったハードウェアやソフトウェアの製品は,
互換性あるいは相互接続性が保証されるはずですが,互換性の保証はかなり厄介な問題で
す。寸法や電圧のような物理的な項目は明確に決められるのですが,プロトコルや API(ア
プリケーション・プログラミング・インタフェース)のような論理的な項目の規定には曖昧な
表現や選択項目があります。したがって,同じ標準規格に基づいて開発された製品の間で完
全な互換性が保たれているとは限りません。
標準用語についても,同じことについて複数の異なる表現がある場合があります。例えば,
IPv4(インターネット・プロトコル第 4 版)ではパケットのことを IP データグラムと呼びま
すが,IPv6 では IP パケットと呼んでいます。
国際標準準拠の製品だからと言っても多くの曖昧さがありますから,採用するときは十分
に確認する必要があります。
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1.3 IP ネットワークの設計ポリシー
1.3 IP ネットワークの設計ポリシー
それでは,なぜ最近になって設計ポリシーが強調されるようになったのかというと,その
背景には,明確な設計ポリシーがなくても,実用上差し支えない情報ネットワークを簡単に
実現できるようになった,情報ネットワーク構築の大衆化があると考えられます。その代表
例が,LAN(ローカル・エリア・ネットワーク)の技術と,インターネットの技術を組み合わ
せたイントラネットです(図 1.3.1)。イントラネットでは,LAN の上部プロトコルとして,
インターネットの標準プロトコルである TCP/IP スイートを使います。そして,離れた事業
所に分散設置した LAN の間をつなぐデータ伝送に,ディジタル専用線,フレームリレーな
どの広域通信サービス(WAN)を利用します。WAN としてインターネットを使うこともあり
ます。
イントラネット
(TCP/IPネットワーク)
LAN
WAN
(専用線,フレームリレー,など
LAN
図 1.3.1 広域イントラネット
イントラネットを構成するハードウェア,ソフトウェアともに,多種類の製品が市販され
ているので,これらの出来合いのネットワーク構成要素を組み合わせることで,比較的簡単
にいろいろな利用目的に合ったイントラネットを実現できるようになりました。設計ポリ
シーを明確に規定しなくても,標準的な LAN のハブ,ルーター,サーバーなどをケーブル
でつないで,マニュアルに従って利用条件を設定すれば,ある程度の規模と機能を備えた情
報ネットワークを構築できるのです。
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1. 情報通信ネットワークのポリシー設計
しかし,インターネットの中核である IP(インターネット・プロトコル)ネットワークには
大きな弱点があります。IP ネットワークでは,IP データグラムと呼ぶデータパケットを使っ
てデータを運びます(図 1.3.2)。IP ネットワークは,ネットワーク全体のパケットの流れを
集中的に制御する機能がなく,ネットワークのノード装置である個々のルーターが自律的に
パケットの宛先 IP アドレスを調べて,それを送り出すリンクを決めます。もしも,特定の
リンクやルーターにパケットが集中すると,パケットの流れが悪くなります。この結果,パ
ケットが送信元 IP アドレスから宛先 IP アドレスに到着するまでの時間(伝送遅延時間)が大
きくなり,ときにはパケットが廃棄されることがあります。
リンク
リンク
ルーター
ルーター
パケット
送信元端末
ルーター
ルーター
リンク
(a)
宛先端末
リンク
ルーター
IP ネットワークの構成
ヘッダー
送信元 IP 宛先 IP
アドレス アドレス
(b)
データ
IP データグラムの形式(概念図)
図 1.3.2 IP ネットワークの構成と IP データグラムの形式
アプリケーション機能が比較的少なく,流れるトラフィックがあまり多くない IP ネット
ワークなら,市販の構成要素を組み合わせて気楽に構築してもあまり問題はありません。性
能面でも経済性の面でも十分に実用になります。しかし,情報ネットワークの規模や機能,
あるいはトラフィックが拡大すると,次のような問題が表面化してきます。
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1.3 IP ネットワークの設計ポリシー
①
アプリケーション・サービスの応答性能の低下
②
個々の利用者から見たサービス・アベイラビリティの低下
③
再生したオーディオ信号やビデオ信号の品質劣化
④
セキュリティ機能が貧弱なために発生するいろいろなトラブル
同じ情報ネットワークを使っているときに,あるアプリケーションでは性能上の問題がな
いけれど,別のアプリケーションでは性能の悪さが利用者の業務効率を著しく制約すること
があります。あるいは,新しいアプリケーションを追加したところ,それまでは問題がなかっ
たアプリケーションの性能が著しく悪くなることがあります。こうした状態が起こった原因
を調べると,設計時点では注意していなかった利用条件の変化があったことに気がつくこと
がよくあります。
情報ネットワークは利用者の日常生活を支えるツールです。業務支援あるいは個人活動を
支援するツールとして,利用者が使いたいときにいつでも快適に利用できることが当たり前
です。コンピュータや通信機器が未成熟だった時代には,多くの制約の中でこれらを使いこ
なすために,利用上のルールあるいは規制を守らなければならなかったのですが,情報ネッ
トワークが日用品として普及した現在では,システム側の都合で利用者を制約することを最
小にしなければなりません。
しかし,情報ネットワークを構成する機器や通信回線の性能が飛躍的に良くなり,しかも
コストが低下した現在でも,利用者が常に満足するサービスを提供する情報ネットワークを
実現することは容易ではありません。情報ネットワーク利用の大衆化が進むほど,あらゆる
面でしっかりした設計ポリシーが必要になるのです。
どのようなシステム設計でも,利用条件を想定して設計することが基本です。設計条件が
明確であれば,問題が発生したときに,それが起こるべくして起こった問題なのか,予期し
ていなかった問題なのかといった原因を明らかにして適切な対策を取ることができます。し
かし,最初の設計条件が曖昧だと,発生した問題に対する対処療法的な手を打つことができ
るとしても,抜本的な対策の判断は難しいのです。こうした分かり切っていることが,発展
を続ける情報ネットワークについて,改めて認識され,これを具現化するためにポリシー設
計が注目されるようになったと言えます。
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