2.1MB - 北九州市立いのちのたび博物館

βm".K池ty“mjMizJ,MzI.蝿!.’8:81-98.December27,1988
北九州市小倉南区満干谷の間歌冷泉に関する
予察的研究(その1)
藤 井 厚 志
北九州市立自然史博物館
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I.まえがき
北九州市小倉南区頂吉(かぐめよし)の国有林中にある満干(みちひ)谷の名前は,この谷の
奥に潮の干満のように湧く水源があることに因んだものと言われ,企救郡誌(伊東,1931)には
次のような記述がある.「寛永の頃までは一村なりしが,今は枝郷となれり.此村に満干と云魔在.
常に満干在事,潮の如く,岩間より淡水を吹出すに依,読とす」.この短文からは直接的には明ら
かでないが,この水源のことはすでに江戸時代初期には知られていたらしいことが分かる.
地元においても,古くから住民の間に時折不意に川の水が増水する“満干の潮,’としての口伝
があった.現在,この谷は人里離れた山中にあるが,かつて戦前まではこの谷の麓にも人家があ
り,そこの何人かの人々は体験的にこの湧泉のことについてある程度の知識をもっていたものと
推測される.しかし戦後の混乱期と離村によって,それらの知識はほとんど忘れられてしまい,
E
脇
藤 井 厚 志
しばらくの間はその所在についても不明なありさまであった.ところがおよそ10年前,111仕事の
巌中の二人の人によって,“満干の潮”の噛出が偶然に1-1蝶され,その所在が再び確かめられた.
しかし地理的不便さもあって,その後も改まった洲炎は行われたことがなかった.
筆者は昭和62年7月,ハイキング・ガイドブック「北九州を歩く」の中の記班(関,1987)か
ら,この満干谷の名前の由来について初めて知り,洲在を始めた.その結果,予察的な段階では
あるが,この湧泉は,恐らく地球潮汐の影騨をも受けて,時に湧出のパターンが変化するらしい
特異な型の間歌冷泉である可能性が明らかになってきた(藤井,l988a,b).本報併では,この1
年間の概査によづて得られた結果を紹介し,今後の調査への問題点を明らかにしたい.
謝辞本研究に際しては,国有林への立入等に関して直方営林料には暖かい使立を│判っていただ
いた.上頂吉自治会の方々には調査行にあたって,多々お世話になった.111口憩一氏にはお忙し
い中,現地へのご案内をいただき,田中九州男,小方泰宏両氏には文献のご教示をいただいた.
また調査費の一部には文部省科学研究澱補助金(奨励研究B・課題番号63916034)を使用させて
いただいた.これら関係の方々に厚くお礼申し上げる次錐である.
Ⅱ、位置及び地形、地質の概要
満干谷は北九州市小倉南区頂吉の南南西1.5km,福智IlI塊の赤牟田ノ辻(791.2m)の東方
1.5kmにある(第1図).この谷は本流の赤牟田の谷へ合流して吉原川をなし,下流の紫川へと
流れて鱒淵ダムへ注いでいる.またこの地域はかつて吉原鉱山として銅鉱が開発された地域の上
流にあたり,満干谷においても試掘の跡がみられる.
0.
第1図満干谷付.近の地形.
国土地理院発行5万分の1地形図「行術」より掲救.
丸印が間歌冷泉位肘を示す.
2km
北九州市小倉南区満干谷の間歌冷泉に関する予察的研究(その1)
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3
問題の間歌冷泉は満干谷のほぼ中程,標高420m付近の右岸にある.崖錐斜而の小穴から地下
水が湧き,その激しいときには高さ3mほどの滝となるが,池をつくることはない.湧き口はま
とまって数ケ所にあり,水並の多いときほど高位の湧き口から流出する.最商所の湧き口は熊錐
の隙間が径30cm程の穴をつくり,水平に3m程の奥行きがある.内部は横幅70cm,天井高30
∼40cm,‘壁面は植物根の多い角喋混じりの粘土層から成る.最奥部は横幅1m,天井高80cmほ
どに広がり,結晶質石灰岩が露出している.床面は粘土混じり角牒で埋まっている.石灰岩には
溶蝕を受けて丸みを帯びた幅10∼20cmの割れめが縦にはしり,地下水はこれより湧出する.
湧き口一帯に接してすぐ下方には,幅5mの角閃玲岩の岩脈が満干谷を横断するように露出し
ている.また湧き口の背後上方には結納質石灰岩のかなりの露出がある.このような湧き口一帯
の地質から判断して,この間歌冷泉に湧く地下水は,脊後の石灰岩解中に玲岩岩脈を不透水性の
壁として貯留したものが,谷の浸食によって岩脈の天端がもっとも低くなった箇所から湧出して
いるものと位侭づけられる.
この石灰岩層は本地域一帯を構成する,主として千枚岩質の砂岩,粘板岩,凝灰岩などからな
る非変成上部古生界頂吉嚇の一員をなすものである.相当に膨縮しながら概ね東北東∼西南西に,
満干谷を縦断する形で商角度の傾斜をもって帯状に分布している(松下他,1969).このような禰
灰岩層はこの一帯に何胴か認められるもので,満干谷を上りきった標商620m付近の平坦な尾根
部に分布するものは,直径約30mの単一のドリーネをつくり,底部に常時浅い池をたたえてい
る.
第2図満干谷全紫.
問歌冷泉から約100mほど上ったところには,人がしゃがんではいれるほどの,奥行き6∼7
mの小さな洞窟がある.満干谷の谷床に露出したチャート層に挟在するレンズ状石灰岩が溶蝕さ
れたものであるが,地下水の流出は全くない.また満干谷下流部に別の石灰器ルィが分布するとこ
ろでは,谷水が伏流し,平時には30∼40mの区間が澗れ谷となっている.その伏流水は石灰瑞
屑の下流端付近の崖錐中から再び湧出している.この伏流区間も,強雨時や間歌冷泉から激しく
湧くときには表流する.
藤 井 厚 志
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4
Ⅲ“満干の潮”に関する聞き取り調査
調杢への取りかかりに当って,満干谷に関する地元での聞き取り調査を行ったので,以下にそ
の概要について述べる.
崎田菊雄氏(小倉南区頂吉):自分は現地を見たことはない.鍾乳洞のようなところから出る
という話である・自宅前を流れている吉原川(満干谷の下流約2km)がはっきりと噸水する.
「河原に縦き忘れた洗猫物が流された」という術が昔からある.蝋水は一昼夜くらい続くように思
う・海の潮のように定期的なものではなく,いつ湧くかは全く予想がつかない.渇水期によく見
るようだが,これはその時期に特によく目立つからだろう.
崎田敬昌氏(小倉南区頂吉):地元では「潮が満ちる」と表現している.自宅前の吉原川の水
位が5∼10cm増水し,少し泡立つようである.渇水期によく見られるようだ.雨がなければ,
一度満ちるとその後7∼10日は満ちないように思うが,岐近は川を利用することが少ないので,
周期については何とも言えない.そこから少し上がったところに人が2∼3人はいれる小さな洞
窟があるが,昔はここから出るのではないかと言われていた.道原の山口憲一,山口繁久両氏が
だいぶ前に水が噴き出ているのを目撃して,その場所が分かった.瞳近の経験では,昭和61年の
苗代時に,50aほどの水田にl晩で水が入ったことがあるのがはっきりとした記憶である.
上田治美氏(小倉南区預吉):前2氏の談話にほぼ同じ.「北九州を歩く」の中に自分が現場
を確認したとあるが,自分ではない.山口氏達の目喋の後,自分も何度か山仕聯の合間に現場を
訪ねたことがあるが,話に聞くほどの大並の噛出にはまだ出会ったことがない.一度は,夕方
コーラの空き缶*に砂を入れて湧き口に立てて州り,翌朝見たところ缶が倒れて少しの水が出てい
たことがある.満干谷を少しはずれた斜面の礁塊の間の小穴から湧くが,普通は冷たい風がライ
ターの炎が消えるほど吹き出ている.
第3図現場状況.
正而左手の崖錐より棚<‘
*湧き口内部の空洞を洲炎するため,周囲の岩塊を若干動かしたところ,内部よりコーラの空
き缶が見つかった.製造年月日は7423とあり,昭和52年である.
北九州市小倉南区満干谷の間駄冷泉に関する予察的研究(その1)
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5
山口繁久氏(小倉南区道原):福岡の大干ばつ(昭和53年)があった頃と思うが,7月末か8
月初め,山仕事の昼食時に従兄弟の山口憲一氏とともに満干谷で弁当を開けていたところ,林の
上のほうからザァーという水音がし,突然大量の水が落ち葉を流しながら流れ下ってきた.昔か
ら言う“満干の潮,’に違いないと思い,源を確かめようと登っていった.相当迅の水で大変驚い
た.すぐ上には石灰岩の露頭がある.
山口窓一氏(小倉南区道原):山口繁久氏の談話に同じ.もう4,5年とは言わず随分前のこ
とで,日付だけは8月2日であったとはっきり覚えている.その年も渇水で,満干谷はところど
ころに水たまりがある程度であった.昼食時,12時15分頃と思うが,その現象にであった.小穴
から水が勢いよく噴き出し,とにかく大避の水で鴬いた.2時間はみていたが,やむ気配もない
ので仕事に帰り,夕方もう一度見たときには止まっていた.100mほど登った谷の中に小さな洞
窟があり,昔はここから出るのだろうと言われていた.山の上に登ると,小さな池があるが,満
干とは関係ないと思う.
松下重夫氏(小倉南区頂吉):父の里が満干谷のふもとにあって,子供の頃遊びに行き,時々
谷川が濁るほど水が増えるのを見たことがある.また終戦後まもなくの頃,今潮が満ちているの
で見に行こうというので,一度現場を訪ねたことがあり,場所は前から知っていた.余り人に話
すこともなかったから,他の人達は知らなかったのだろう.しかしその時の水量はとても下流の
川の水位が増すほどのものには見えなかった.「天気がよくて,雨の降る前に満ちる」という話が
ある.
稲光松夫氏(小倉南区南方):伯父の吉村源一は戦前まで満干谷の麓に住み,伯父が我が家を
訪ねたおりに「今朝,満干の潮が満ちたから,天気が崩れるだろう」と話すのを何度か聞いたこ
とがある.自分はそういった話を「我が思い出(自費出版)」に書いたが,後に「ひろぱ北九州」
に転載した(稲光,1985).気圧変化がその原因ではないかと考えた.
平天海氏(北九州市立長行小学校長):山口氏らの目撃後,2週間ぐらいして現地を訪れた
ことがあるが,水は出ていなかった.山口氏らが湧き口においていた小枝はまだそのままで,そ
の間地下水の噴出はなかったらしい.昭和26年から8年間,今は鱒淵ダムに沈んだ頂吉小学校に
勤務したが,その頃崎田貫兵衛氏(故人)ら父兄からこの話を良く聞いた.「野菜やうなぎのびく
が流された」とか,「行橋の海につながっている」とかの話があった.また「満月で,満潮のとき
にでる」という話もあった.
上田義高氏(小倉南区頂吉):家の前の吉原川でも岩肌に10∼15cm増水した水の跡をよく
見る.
梅田俊治氏(小倉南区頂吉):崎田宅の前の吉原川は20∼30mの区間が渇水時に一番先に潤
れてしまう.数年前のある夕方,ここが個れ川となっているとき,不意に再び水が流れるように
なった.翌夕,また同じことが起こったので,2日続けて潮が満ちたのだろうとみんなで話題に
したことがある.
これらの話を総合すると,“満干の潮”に関して以下のようなおぼろげな像が浮かび上がる.周
期性については特に見当がつかないが,間歌的に地下水を流出する.時に非常に大最の地下水が
少なくとも数時間,連続的に湧出する.その水鉦は21m下流の吉原川の水位が肉眼的にもはっ
きりと増すほどのものである.
Ⅳ、測水観測
昭和62年8月11日,山口憲一氏の案内を得て初めて現場を確認した.そして出水の周期をおよ
藤井厚志
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6
そ知るために,湧き口に簡易な装置をセットし,出水時にウラニン(水系調査用の強力な黄緑色
の染料)が流出するよう工夫した.流出したウラニンは下流の吉原川にセットした活性炭に吸着
され,毎日活性炭を取り替えることによって流出のいかんが判定される.この調査を8月23日ま
で続けたが,この手法は成功しなかった.その理由は,先に述べた満干谷下流の伏流区間におい
てウラニンの滞留が起こるため,検出きれる日毎のウラニン濃度の変化に大きな違いが現れな
かったためである.
その間,幾度か現地まで登り,当初に聞いた湧き口の他に,すぐ下方からも冷たい地下水が少
量ではあるが湧き出ることがあるのを知った.ガレ場のために水量の実測はほとんど不可能な状
況で,経験的なカンに頼らざるを得ないが,少ない日には目測で数."秒,多い日には約6〃秒
程度であった.また全く湧いていない日もあった.いずれにしても,話に聞いていた“満干の潮,,
の水逓には比べるべくもない程に思われた.
8月21日,午後の間ずっと観測を続け,この水に周期的な水量の変化があることを初めて知っ
た.増水したときの水量は目測で61/秒程度,減水した時には数.〃秒であった.14時30分から
18時にかけて,約40分の周期で5回の増水がみられた.17時前から,湧き口の下方に砂喋で池を
作り,その水位の変化を1分ごとに測定した(第4図).
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第4図昭和62年8月21日のハイドログラフ.第5図昭和62年8月22日のハイドログラフと
水温変化.
増水の兆しがあって30秒∼1分後から水位上昇が激しくなり,水音も大きくなるが,最初はほ
とんど気付かれない程度の微々とした水位上昇に始まる.加速度的に水量が増し,増水開始後8
∼9分後に最高水位に達した.この状態を数分間維持して,ゆっくりと減水を始め,約30分後に
次の周期の増水が始まった.増水開始から次の増水開始までの周期は41分であった.
以後,同様の測水観測を折々に行ったので,その結果について述べる.なお水位測定の基準は,
砂喋による堰のため,測定日によって必ずしも同一のものとなっていない.
8月22日(第5図):前日と同様の間歌性が見られたが,周期は33分となり,増水開始から最
大水位に達するまでの時間は7∼8分とやや短くなった.水逓は前日とほぼ同じ程度であった.
満干谷の谷川の水温は18.3℃であったが,湧水の水温は間歌性に合わせてわずかに変化するこ
北九州市小倉南区満干谷の間欺冷泉に関する予察的研究(その1)
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第6図H日和62年8月26日のハイドログラフ.
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第7図
昭和62年9月3日のハイドログラフと
水温変化.
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第8図昭和62年9月15日のハイドログラ
フと水温変化
13.0
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14:00
15:00
とが分かった.即ち減水時にはやや上昇して13.0℃を,増水時には低下して12.6°Cを示した.
8月26日(第6図):8月22日から26日までの68mmの降雨の影響と考えられるが(93頁第
11行参照),周期は17∼19分と短くなり,増水開始から最大水位に達するまでの時間は4∼6分と
なった.相当量の水が湧き,間歌性が肉眼的には弱くなった.水量は10∼20〃秒と思われた.水
温はほとんど変化せず,12.2°Cであった.谷川の水温は17.0°Cであった.ハイドログラフの途
中の空白区間は砂喋の堰を作り替えたためで;そのため前後の水位測定の基準が違ったものと
なっている.
9月3日(第7図):観測中に4回の増水を見たが,最大水位より減水を始めてから,次の増
水が始まるまでの時間は1回目が20分で,後の2回はいずれも12分であった.その結果,“不整
脈”的な印象のハイドログラフを描いた.周期22分.最大水位に達するまでの時間6∼7分.増
水時の水遼約6〃秒.谷川の水温17.6℃、この日より水温の測定は二重管温度計(最小目盛0.2
℃)を用いた.
9月15日(第8図):8月26日と同様の間歌性の弱いハイドログラフとなり,“不整脈,,を示
す部分もある.周期17∼24分.最大水位に達するまでの時間5∼7分.水量10∼20〃秒.水温の
変化はほとんどなかった(12.8℃).
9月23日(第9図):図に示したとおり,11時15分からの減水は再び増水することなく,水位
は次第に減じて13時30分頃には完全に潤れてしまった.湧出量は12時頃にはほとんどOに近いも
のになった.この日は沖縄地方で皆既日食が見られた日で,この突然の間駄性の停止は月の南中
とあたかも時を一にしたかのように思えた.周期23分?最大水位に達するまでの時間8分.増
藤井厚志
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第9図昭和62年9月23日のハイドログラフと水温変化.
水時の水斌5∼10〃秒.職高所の湧き口の小穴から吐出する気流の気温13.1°C、
9月28日(第10図):9月23日と全く同様のパターンで,15時30分頃に水の流出はほとんど停
止した.間歌性の停止した時刻の遅れは,9月23日に比べて3時間40分である.周期21∼24分.
最大水位に達するまでの時間6∼8分.増水時の水ft5∼10〃秒.
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第10図昭和62年9月28日のハイドログラフ.
16900
北九州市小倉南区満干谷の間欺冷泉に関する予察的研究(その1)
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第11図昭和62年10月15日のハイドログラフ.
10月15日(第11図):湧出量はほとんど一定しており,変化はみられなかった.11時40分頃か
ら13時10分頃にかけて,ごくわずかの水位変化がみられたが,理由は明らかでない.水量数〃∼
1J/秒.水温13.2℃・谷川の水温15.5°C、
10月19日(第12図):9月23日と同じようなパターンで間駄性の停止がみられたが,湧出量は
完全に0にならず,数.I/秒の流出が続いた.水温は減水時にもほとんど変化せず,正午頃以降,
12.9℃となった.間駄性の停止した時刻は月の南中時刻よりも約2時間遅いものであった.周
期33分?最大水位に達するまでの時間7分.増水時の水最10∼20〃秒.水温12.8℃・谷川の
水温14.4℃、
11月9日:11時半頃から12時まで,そして'4時30分過ぎから15時30分まで観測したが,10月
15日と同様に変化は全く見られなかった.湧出量l∼2〃秒.水温12.7°C、谷川の水温11.4°C、
11月24日:14時過ぎから約1時間観測したが,変化は全く見られなかった.湧出髄数.I/秒.
水温12.7°C・谷川の水温11.4°C.
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第12図昭和62年10月19日のハイドログラフ.
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第13図短周期の間歌的湧出状況.
昭和62年10月19日.左:停止している時(午前11時24分)右:湧出している時
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北九州市小倉南区満干谷の間歌冷泉に関する予察的研究(その1)
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第14例昭和62年12月7日のハイドログラフと
水温変化14時以前は左頁下.
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15:OC
第15M大湧出の状況.
昭和62年12月7日午前11時16分.
11月26日:11時半から13時過ぎまで観測したが,変化は見られなかった.水温12.7°C・谷
川の水温11.2℃・
’2月7日(第14図):観測開始時にはほとんど澗れた状態で,約1."秒程度の水がわずかに
みられたが,11時11分30秒頃,突然の水音と共に大般の湧出が始まった.水競はたちまちの内に
増え,写真(第15図)に示したように小さな滝となった.湧出開始後20分間は,水面が激しく波
打つために水位が読み取れず,ハイドログラフにはおよそのパターンが描いてある.この激しい
湧出は次第に錐を減じながら約2時間継続し,13時過ぎから従来観測していたような短周期の間
歌性をもった湧出へと変化した.湧出並は妓火時に数十ノ/秒程度と‘思われた.水温は大湧出の前
藤井厚志
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第16図昭和63年4月17日のハイドログラフ.
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第17図H日和63年5月16日のハイドログラフ.
に11.2℃であったものが,湧出開始後徐々に高くなり,最終的に12.5°Cになった.最高所の湧
き口の小穴には,湧出前には夏季と逆に気流の吸い込みがみられたが,湧出後には流れはみられ
なくなった.周期17∼20分("不整脈”で23分).最大水位に達するまでの時間5∼8分.谷川の
水温7.2℃、
昭和63年4月17日(第16図):周期42分?最大水位に達するまでの時間8分.増水時の水量
数〃秒.水温12.6°C・谷川の水温10.4°C・
昭和63年5月16日(第17図):新月(月令0.2)で,12時50分頃に月の南中があったが,特別
な変化はみられなかった.周期に若干の乱れがある.周期18∼27分.最大水位に達するまでの時
間5∼8分.増水時の水量5∼10〃秒.水温の変化はなかった(12.7℃).谷川の水温12.0∼
12.3℃.
北九州市小倉南区満干谷の間歌冷泉に関する予察的研究(その1)
V・考
鵬
察
1.短周期の間歌'性と湧出機橘について
この短周期の間敬現象については,聞き取り調査の結果からこれまでには全く知られていな
かったもののように思われる.ただし伊東(1931)による企救郡誌中の記述に,「常に満干在事,
潮の如く,…」とあるのは,あるいは古人達はこの現象に気付いていた可能性があることを意味
しているのかもしれない.
この短周期の間歌性は必ずしも常時見られるものではなく,かなりの時間にわたって間歌性が
なく,流出斌が一定して藩し〈減じていたり,あるいは完全に洞れた状態のこともある.また間
歌性の周期は,日によってかなりの変化を示し,これまでの観測では17分から40分程度の違いが
みられた.短時間のうちでは周期はおよそ一定しているが,時に周期の変わった“不整脈,,が現
れることもある.これは主として減水の時間が長くなって現れている.周期変化の原因は一応降
雨との関係が考えられるが,ただ昭和62年12月7日のハイドログラフから見ると,大湧出後にし
ばらくして間歌性が始まった当初は全体に短周期の変化が観測されており,必ずしも降雨との関
係を考える必要のない而もある.
韮本的な湧出の機椛については,サイフォン櫛造をもった管路の存在以外には実際的に考えら
れない.それはanastomosisと呼ばれる,しばしば立体的に蛇行する石灰岩中の溶蝕'性の管路
(一般に面径数cm∼数十cm,第18図)である可能性が大きい.
第18脚満角度の節理而に発達したanastomosis・
立体写典.直径10∼15cm,岐阜県丹生川村
藤井厚志
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我国にはこの種の間歌冷泉として岡山県草間の潮滝(戸田,1920;佐藤,1920;小倉,1924),
広島県東城の一杯水(仲佐,1941;北田,1942;吉村・川田,1942),熊本県大瀬の息の水(小川,
1910;村上,1920)などの例が知られているが,いずれもサイフォンを基本にしたものがそのモ
デルに考えられている.ところで,サイフォンによる間駄的な湧出は,突然に大量の流出が始ま
り,その後は漸次水量が減少し,ついには停止するのが基本的な1サイクルの流出パターンであ
る.例えば東城の一杯水においては,増水に先だってサイフォンの成立を暗示する遠雷のような
響きが聞こえ,10秒後に湧出避が増加を始めるが,15秒後まではたいしたことはなく,やがて水
量が急増して1分余り後に最高水位に達すると報告されている(吉村・川田,1942).また,最高
水位から平水に復するまでの時間は17∼18分,増水開始から次の増水開始までの周期は77∼78分
と測定され,サイフォンの停止を意味するボコボコという水音まで聞こえるという.地表下すぐ
浅所にサイフォンがあるものであろう.この一杯水は昭和47年の大水害を受けて間歌性を失った
が,筆者の聞き取り調査では,遠雷のような響きに続いて冷たい風が吹き出し,その後に激しく
湧出していたという.
満干谷の例では,このような現象は認められず,また最大水位に達するまでの時間も,日に
よって変化するが4∼9分と相当に長い.このことはサイフォンの位置がかなり奥深いところに
あって,かつその時間が変化することは,サイフォンから湧き口までの水路が単純な管路ではな
く,恐らく途中に貯留帯と狭陰部(地表部の崖錐がこの役目を果たしている可能性もある)があ
ることを意味しているものと思われる(第19図).一方,煙突効果と呼ばれる季節に応じた気流の
吐出,吸い込み現象がみられることから,内部にはある程度の洞窟系があり,山地高所にのびて
いることが分かる.しかし,地下水の流出時に気流がみられなくなることから,この空洞の連絡
性は水没によってとぎれるものと推定される.
第19図サイフォン部以浅の水理構造概念図とそのモデル.
概念図は狭腔部が水路途中にある場合と,崖錐がその役目を果たしている場合と
を同時に描いたもの.
S:サイフォンC:貯留帯N:狭陰部EfS:湧出口T:崖錐P:紛岩
岩脈
北九州市小倉南区満干谷の間欺冷泉に関する予察的研究(その1)
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このように考えると,地下水の涌養量が大きく,サイフォン成立の周期が短い場合には,貯留
帯の水は次の周期の増水までに充分に排水されず,水路は一部水密した状態になるのであろう.
その結果サイフォンの影響は速やかに湧き口に現れ,壌大水位に達するまでの時間は短縮される
ことになる.小川(1910)の示した息の水や戸田(1920)による潮滝のモデルにおいても,同じ
ように漸次水逓を増し,漸次水量を減じていく湧出状況の説明に工夫がみられるが,やや複雑に
過ぎる印象を受ける.
2.水温の変化について
水温は年間を通じて非常に安定的で,12.6∼12.9℃の範囲にあることが多い.このことは地
表水の影響を受けない深層の地下水であることを示すもので,カルスト地帯に多くみられる表流
水の伏流した水系に類するものではない可能性が強い.
間歌的に湧出している場合,夏季には減水時に水温がわずかに上昇し,冬季には下降する.し
かし,それも湧出量が全体に増え,周期が短いときには,日によってその傾向がほとんどみられ
なくなる.このことはサイフォン部から湧き口までの間で,地表水の混入が若干あることを意味
している.増水時と減水時の地下水の水温と満干谷の谷川の水温とから,おおざっぱな推計を
行ってみると,減水時における地表水のfit的な混入は8月22日の例で7%,12月7日で25%とな
る
.
3.間歌性の停止現象について
サイフォン機櫛による間歌的な地下水の湧出は,地下水の滴養量が低下すれば当然その周期は
長くなり,休止期間が長くなってついには停止してしまう.本例においてもそのような状態が何
度か認められた.その時の泉は全く個れた状態のこともあれば,幾らかの水が湧いていたことも
あった.このような状態が酒養量の低下のためであるのかどうか,詳しい理由はまだ不明である
が,この点に関して昭和62年9月23日,9月28日,10月19日の特異な現象は興味深い推測を導く.
すでに述べたとおり,これらの日,それまで間欺的に湧いていた地下水は,全く突然に,不意
にその流出を停止した.その直前までの間欺性の周期は,他の日々のものに比べても特に長く
なっているものとも思われない.まだ観測度数が至って少ない段階での推断ではあるが,その原
因に地球潮汐の影響を考えてみる必要が大きい.
すなわち,地殻も月や太陽の引力の影響を受けて日周期的に変形を行っているが,その影響が
強い時刻には地下における微小な割れめが拡張し,その結果地下水位は低下する.引力の影響が
弱まれば,地下水位は元に復する.この現象はどこででもみられるというものでもないが,広く
世界各地で知られている現象である(酒井,1967).また,その影響は広域にわたるものであるた
めに,この水位低下によってサイフォンに空気が入り,地下水の湧出が停止すると,再び短時間
でサイフォンが回復する可能性は少ないといえよう.
本間歌冷泉の湧出機櫛を全体的に説明するモデルはまだ提唱する段階にないが,サイフォン部
以奥の水理構造にこのような特性をもったものを考える必要がある.いずれにせよ今後,重力値
の変化との比較と共に,自記水位計を用いた細かな観測が必要である.9月23日及び28日の事例
は,この仮説を積極的に支持するもののように見えるが,10月19日の場合には必ずしもそうでな
い.
4.“満干の潮,,について
昭和62年12月7日に観測されたサイフォンの停止状態から突然始まる大きな湧出が,古来地元
で伝承されてきた“満干の潮”であるらしい.かつて,山口憲一,山口繁久両氏が目撃されたと
きに比べれば,12月7日の湧出はまだ小きいもののように思えるが,今後の精密な流量観測に待
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第20図サイフォンと動水勾配の関係.
つところが大きい.この時,下流の吉原川でどの程度の水位増があったかも不明である.12月7
日の大湧出時における,最高所の湧き口小穴の水路深は5cmほどであった.山口氏らの目撃時に
はこれが10cmを越すほどであったというが,筆者が湧き口に置いた浮き子の様子から,昭和62
年9月23日から10月15日までの間に,同じ程度の流出があったことが考えられる.
地球潮汐の仮定に立つと,恐らく“満干の潮”は重力値が大きくなったときに満ちやすいので
あろう.極論すれば,月と太陽の位置関係によって違いはあるが,およそ月の出と入りの頃の毎
日2回,満ちる可能性(素地)があることになる.その場合にも実際的には地下水の涌養量や地
下水位,地下水面の勾配といった地下水環境や重力値が好条件に整った場合に満ちるものと予想
きれる.
12月7日の例では,月令15.9,月の入りから約2時間後に大湧出が始まった.また大湧出開始
後,約2時間の間は間獣性がみられなかった.そしてその後に短周期の間歌性が始まった.した
がって,この最初の2時間は,サイフォンへの空気の流入孔が動水勾配線以下にあったことはあ
きらかであるが,恐らく管路全体が動水勾配線よりも下に位置した状態にあったのであろう(第
20図,Aの状態).連続的な排水によってやがて地下水位が下がり,サイフォンが機能を始めるが,
ついには管路内へ空気が流れ込むようになって,排水は間歌的に行われるようになる.管路内へ
の空気の流れ込みは,必ずしもサイフォンの入口(x)からだけを考える必要はない.動水勾配
線よりも上にある管路(第20図,Bの状態)には負圧が作用するため,微小な割れめ(Y)を通
じても負圧が大きくなれば空気が激しく流入し,サイフォンは停止する.
古来の口伝の中に「満月の満潮に満ちる」とあるのも,地球潮汐との関係を暗示するもののよ
うに思えなくもない.また先にも述べたとおり,気圧変化の影響をきしていると思われる話もあ
るが,気圧変化が地下水位に影響を及ぼすことも既知の知識(酒井,1967)であるので,今後検
討する必要が大きい.
Ⅵ . ま と め
1.北九州市小倉南区頂吉の山中にある満干(みちひ)谷の名は,潮の干満のように湧く水源
があることに因んだものといわれ,江戸時代の初めにはすでに知られていたらしい.
2.本湧泉は頂吉層とよばれる非変成上部古生界に挟在した薄い石灰岩層から湧出している.
そこでは玲岩岩脈の貫入が,背後の石灰岩層中の地下水を堰上げているような形で見られる.
3.しばしば少遼の地下水(数伽∼20〃秒)の湧くのが見られ,この水には日によって17∼40
分程度の短周期の間歌性が認められる.周期の比較的長い場合には,減水時に湧出量がほとんど
あるいは全く0になる.しかし周期が短い場合には,減水時にも湧出量は0にならず,すぐに次
の周期の増水につながる.またそのハイドログラフは,増水開始後漸次水量を増し,その後徐々
に水量を減少する特徴を示す.
4.水温は夏季には増水するとわずかに低下し,冬季には上昇する.
5.この短周期の間歌性は時折不意に停止し,かなりの時間にわたってほとんど個れてしまう
ことがある.この停止は地球潮汐の影騨である可能性が強い.
北九州市小倉南区満干谷の間駄冷泉に関する予察的研究(その1)
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6.停止期間の後に,大湧出が突然始まることがある.この湧出が古来地元で伝承きれてきた
"満干の潮”であるらしい.1回の目撃では,この湧出は次第に量を減じながら約2時間継続し,
その後は短周期の間駄性のある湧出へ移行した.
文
献
藤井厚志,l988a,北九州市小倉南区で発見きれたカルスト性の間欺冷泉について(演旨).日本
地質学会西日本支部会報,(89):7−8.
,1988b・北九州市小倉南区で発見されたカルスト性の間欺冷泉について(予報).日本
地質学会第95年学術大会講演要旨,419.
稲光松夫,1985.紫川の思い出.ひろば北九州,(43):18,北九州都市協会.
伊東尾四郎,1931.麓原満干.企救郡誌,上編:696,秀巧社.
岩尾勇一・森田美奈子・岩尾明子,1972.伝承話一満干一.北九州市文化財調査報告瞥第10集,
頂吉:131,北九州市教育委員会.
北田道男,1942.東城の一杯水に就いて.天気と気候,9(2):97−100.
松下久道,永井利明,金子宣弐,1969.平尾台およびその周辺の地質構造(九州北部の地質構造
の研究−その1).九州大理学研報,地質,9(1):113-119,2pIs,
村上久義,1920.肥後園大瀬の間歌冷泉.地学雑誌,32(383):496-497.
仲佐貞次郎,1941.廠島騨東燦附近の一杯水(間歎湧泉)(演旨).地理学評論,17(6):491−
4
9
2
.
小川通架,1910.息の水.地学雑誌,22(253):53-56.
小倉勉,1924.潮瀧.地学雑誌,36(425):440.
酒井軍治郎,1967.地下水学,第2版:239-242,244,朝倉番店.
佐藤博蔵,1920.岡山解阿哲郡草間村大字草間馬繋の潮濃(間歌冷泉).天然記念物調査報告,
(
1
6
)
:
2
5
2
7
.
関忠,1987.満干谷の名の由来.北九州を歩く:188,海鳥社.
戸田保,1920.備中園草間の間駄冷泉.地学雑誌,32(382):447-448.
吉村信吉・川田三郎,1942.帝鐸石灰岩地の間歌冷泉,一杯水.陸水学雑誌,12(4):135-144.
追記:昭和63年7月より,現地に簡易型自記水位計を設置し,観測を続けている.その結果は
興味深いものが得られつつあり,稿を改めて報告したいと考えているが,昭和63年10月3日,記
録紙の交換に出向いた折りに再び“満干の潮”の大湧出にであった.10時45分頃に現場に到着し
たが,地下水の湧き出しは毎秒数〃程度のわずかなもので,間歌性はみられなかった.自記水位
計の時計は7日巻のものであるが,別に4時間巻のものを用意し,記録紙の交換時に現場に滞在
する短時間の間,この時計で精度を上げたハイドログラフを得るよう努めている.11時40分ごろ,
露頭調査のために現場を離れ,林の上へ上がっていったところ,数分後に下方で大きい水音が始
まったのに気付いた.すぐに引き返すと,大量の地下水の湧出が始まっていた.その量は昭和62
年12月7日の目撃時よりも大分多く(10割増?)感じられた.13時53分まで自記記録を続けたが,
湧出量はわずかに減少した程度に思われた.後に記録紙の解析から湧出開始は11時41分21秒,最
大水位に達したのは11時56分と求められた.また短周期の間歌性が現れたのは,湧出開始から約
藤 井 厚 志
班
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j戦況
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第21図昭和63年10月3日の大湧出の状況‘
午後0時27分.
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9時間後であった.湧出前の水温は13.0∼13.1°Cであったが,湧出後はしばらくして12.85.C
に落ち蒲いた.湧出時までは最高所の湧き口の小穴から冷気(13.8°C)の流出があったが,湧出
後は停止した.谷川の水温15.8℃・月令21.9.月入14:00(福岡).
伝承に関して:岩尾・森田他(1972)による頂吉地区の伝説調査では,崎田徴兵衛氏(故人)
の談話として「時によって出る.いつもは出ない.時候が非常に皐勉で,これだけ照ってはどう
もならんという位に早越になったあげ〈には必ず出る.必ず降り出す.潮が満ちたから,2,3
日内には雨があるじゃろうと昔からいう.」との記述がある.また蛎田シズエ氏の談話として「吉
原の奥に満干というところがある.そこは谷<ぼのようになっていて,それから水が出る.潮
(川の水)が満ちたり,引いたりする.夏,ショウケとか鍋とか御飯がすんでから,川につけてお
くと,いつともなしに川の水が出て押し流してしまうという.」とある.堀田シズエ氏(小倉南区
頂吉)はこれらの話を隣近所の人や満干に住んでいたおばから聞いたものと話された.