■ ファミコンの開発 上村 雅之(うえむら まさゆき) ■ 今から約20数年前に世の中に現れたファミコン(日本ではテレビゲーム-これもファミコン と同様に和製英語ですが-の代名詞となった)の開発の中心におられたのが、今回紹介する 任天堂の上村雅之さんです。 ご存じのように、その後スーパーファミコン、ゲームボーイ等 が続き、最近ではニンテンド DS や Wii として最も売れているゲーム機の源流となったのがフ ァミコンです。 上村さんは1943年京都に生まれ、1967年千葉工業大学電子工学部を卒業され、同年シ ャープに入社されている。 シャープでは産業機器事業部に配属となりフォトセルや太陽電池 の販売担当となられた。 技術系のセールスということで各社の専門家に知り合いができたこ とが後々の製品開発に非常にプラスに働いたようです。 その中では新日鐵での「鋼板の非 接触厚み計測装置」もありました。 顧客の一つに任天堂があり、任天堂とは「光線銃」の開 発を技術者として材料や回路の設計を行いました。 この光線銃は大ヒットし、この「光線銃」 が発売された1970年の翌年、1971年に上村さんは任天堂に移られています。 その辺の 事情を本人はシャープでは IC の開発を行うことになり、そのため転勤をせざるをえず、京都を 離れるのが嫌で、任天堂に移ったと言われています。 勿論、任天堂としても、花札やトラン プの旧来の玩具メーカから電子機器の時代が来るとの判断があり、上村さんを誘ったものと 思われますが。 <ファミコン誕生前夜> ファミコンが販売された1982年までの10年間、上村さんはおもちゃの開発に携わることに なります。この中で子供相手の商売であることからアイデアと低コスト(低品質)が重要であり、 更にヒットした商品には競合他社からほとんど同じものがすぐにでてくることからスピードが要 求されることを体得することになります。即ちまず価格があり、それにあったスペックと技術を 探索する。ここで技術に深入りすると時間がかかるので、人脈を通じて専門の技術者と組ん で技術をつまみ食いしアイデアを実現する方法を収得しました。 1973年頃からアメリカでは業務用ゲーム機(現在のゲームセンター用機械)の人気がでて おり、更にそれを家庭用ゲーム機として売り出し莫大な利益を得ていました。 そこで任天堂 はライセンスを得て日本での製造販売を開始しましたが、ゲーム機の心臓部である CPU を作 る技術を持っていなかったため、上村さんの提案で三菱電機と組んで1977年にカラーTV ゲ ーム機を開発しました。 当初はカラーテレビの色がでないなど苦労はしましたが、工場に入 り込んで改善を重ね、初めて家庭用テレビゲームを販売し 120~130 万台を売り、大きな利益 を得たのです。 1979年に上村さんは新設された開発第二部の部長になりました。 その頃、タイトーの 「スペースインベーダー」が大ブームであり、その中身はマイコンを使っており、その中身を勉 1 強することで技術レベルを高めて行き、池上電気と組んで業務用のゲーム機を開発していき ました。 <ファミコンの誕生> 1980年には任天堂では「ゲーム・アンド・ウォッチ」という電子カードゲーム(その後のゲー ムボーイの前身)良く売れていましたが、社長は将来性に疑問を感じ、アメリカで大ヒットして いたプログラムストアー型の家庭用テレビゲーム機、アタリ2600の日本版を作ることを上村 さんに命じました。 但し「特許にひっかからず、更に絶対にコピーされないように」との条件 が付きました。 その頃、半導体技術の発展で LSI の値段が下がり、ゲーム機用にカスタム LSI を発注できるようになっていたことも成功の要因の一つと思われます。 この開発には偶 然電話がかかってきたリコーと共同で進めることになりました。 上村さんの仕事は当然 IC 開 発ではなくソフト開発が仕事でした。 上村さんはそれまでの経験で、このぐらいのゲームなら このぐらいの規模で出来るという感があったので、具体的技術レベルでコストがかかるものは やめるとかスペックをここまでは落とせるといった技術的判断も可能でした。 IC の開発はそ のソフトと密接に関係しており、IC スペックを決めるのにソフトのデザイナーと協議し色数を限 定したり、サウンドも最低の音で我慢するようなことを繰り返していきました。 またコスト削減 のため、筐体の色が赤と白になったのはその色のプラスチックが最も安かったからでした。 アメリカの家庭用ゲーム機のコントローラはジョイスティックでしたが、日本では畳の上でやる ことを考え「ゲーム・アンド・ウォッチ」の十時キーが採用されました。 こうして機能をギリギリ まで抑えて当初の予算の 10000 円は無理でしたが、14800 円の価格になり、83年7月15日 にファミコンが発売されました。 その前年のトイショーには他社からそれまで良く売れていた 「ゲーム・アンド・ウォッチ」と同じような製品がワッと出てきて、「ゲーム・アンド・ウォッチ」は急 速に在庫の山になっていったため、任天堂としてはファミコンを売るしかないと言う状況に追 い込まれていました。 最初のソフトは「ドンキーコング」で業務用のソフトを「ゲーム・アンド・ ウォッチ」に焼き直し、さらにそれをファミコンに移植したものだったし、発売の年の歳末には IC の不良が見つかるなど、船出は厳しいものでした。 しかし、その頃、他社も同じような製品 を出していましたが、任天堂のみ自社のソフトで、日本人が作、り日本人が遊ぶものだったが、 他社はすべて外国のソフトを持ってきていました。そのため徐々にファミコンの人気が出てき ました。 そうして85年に“スーパーマリオ”出現しました。 ファミコンが何故売れたのか、何故面白いソフトが出たかというキーワードはつくりたい人 が自由につくれる環境がファミコンで初めて誕生したことによります。 それまでは基板や IC を集め、いちいちハードの設計をしなければならなかったのですが、ファミコンは時間だけが 必要でコンピュータとファミコンがあればあとは何もいらない、試行錯誤が簡単に出来るとい ったメリットがありまし。 更に初期は売れるものが少ないので、市場のフィードバックも早く、 この環境がスーパーマリオへと凝縮されていきました。 その後、他社からの類似品の出現 による共倒れの事態はスーパー・ファミコンの発売で乗り切りました。 2 <上司のバックアップ> 上村さんはこのファミコン開発に対して、はっきりした目的を持っていたため、あまり苦しみ は感じなかったとのことです。 さらに山内社長がおられなかったら、絶対にファミコンは生ま れなかったと断言され、途中いくつかの失敗をしながら目的まで邁進できたのは山内社長の 暖かさと、厳しさと、部下を信頼する態度等見事なリーダーシップによるものと考えられていま す。 <次の世代の人々に対するメッセージ> さらに、上村さんは一つのシステムを完成させるのはチームワークであり、それには誰か がしつこく言い続けていないといけないし、絶対に旨く行くと言う保証はないのだから、ずっと 追い求めていって、ねばりにねばっていると、何か知恵が集まって来るという気がするとのこ とです。 世の中にテクニックを持っている人は結構いる。 テクニックを持っている人も、「こ れが使える」と言って知恵を出してくれる。 これらをまとめることが出来る人が必要ではない かと思いますと述べられています。 【後記】 この記事が掲載されている「100 の技術者魂 第 1 巻」が出版されたのは1995年のため、 スーパーファミコンで終わっていますが、その後、任天堂はゲームボーイ、ゲームキューブ等 を発売し、現在は Wii やニンテンドーDS へとつながっています。 上村さんは2003年まで任 天堂に勤められ、2003年4月、任天堂アドバイザーであるとともに、立命館大学先端学術研 究科の教授になられています。 (了) 出典:100 の技術者魂 第 1 巻 (社)研究産業協会 http://www.jria.or.jp/w/ 3
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