トリエステの坂道・ 「 雨の中を走る男たち」 須賀敦子 両手で背 広の衿 も

画
自転車泥棒
顔をちょっとうつむけて首をすくめ、
まず背広のえりを立ててから、
より
両手で上着の前をきっちりあわせて、走り出す。
それを見た瞬間、私は、
ああ、あの走り方は知ってる、と思った。
ギリシャだけじゃない、イタリアでもこんなとき、
男たちはあの格好をして走る。
両手で背広 のえりの下 を握 るかた ちになるのだが、
そのとき左右の親指を垂直に立てるから・・・
死んだ夫が、波止場のカフェの男たちといっしょに、
アンゲロブロスの映画のなかで
走っていってしまったような気がした。
私を置き去りにしたあのときの彼も、
雨のなかを両手できっちり背広の前を閉めて、
走っていった。
夫が育った街はずれの鉄道員住宅の近所仲間だった
トーニ・ブシェーマも、上着を押さえて走る部類の
人 だ っ た 。 二 度 目 で 最 後 に 彼 を見 か け た と き 、 彼 は
あの格好で、都心の街路をいちもくさんに走った。
こちらがあっと思う間もなくいちもくさんに
近くの建物をめがけて走り出した。
さよならともいわずに、
両手で背広の衿もとをしっかりにぎって。
夫といっしょに街を歩いたのも
須賀敦子
トーニを見かけたのも、あれが最後だった。
トリエステの坂道・「雨の中を走る男たち」