- 慶應義塾大学 経済研究所

KEIO UNIVERSITY
MARKET QUALITY RESEARCH PROJECT
(A 21st Century Center of Excellence Project)
KUMQRP DISCUSSION PAPER SERIES
DP2005-019
たばこ税の引き上げや健康増進法は禁煙にどこまで有効か
石井 加代子*
要旨
喫煙には、非喫煙者の健康に害を及ぼすという外部性の問題、有害性に
関する情報の欠如、将来の健康損失リスクを過小評価してしまう問題があ
る。これら喫煙によるコストを、消費時点で喫煙者に理解させ、負担させ
るような制度を設計することにより、質の良い市場を作り上げることがで
きるだろう。本稿では、慶應義塾家計パネル調査のデータを用い、たばこ
価格や喫煙規制が喫煙者の禁煙実行確率に与える影響について計量分析を
行った。(『日本の家計行動のダイナミズムⅡ』掲載予定)
* 慶應義塾大学大学院商学研究科博士課程/日本学術振興会特別研究員
Graduate School of Economics and Graduate School of Business and Commerce,
Keio University
2-15-45 Mita, Minato-ku, Tokyo 108-8345, Japan
たばこ税の引き上げや健康増進法は禁煙にどこまで有効か
石井加代子
要旨
たばこは喫煙者のみならず、その周辺の非喫煙者にも健康上、有害な影響を与えることが確認されてお
り、たばこ税の引き上げや健康増進法といった政策を通して、喫煙率の抑制が試みられている。本稿では、
KHPS を利用し、これらの政策が喫煙者の禁煙実行に効果的な影響を与えてきたのかに関して、ハザード分
析を試みた。分析の結果、たばこ価格の上昇が喫煙者の禁煙実行を促すことが分かった。健康増進法の効果
については、有意な影響が見られなかった。この法により推進されている分煙政策が、喫煙者に禁煙を促す
ほどの喫煙コストを課していないことが理由として考えられる。たばこ税増税や更なる分煙政策の強化を通
して、喫煙者が喫煙コストを十分理解し、喫煙の外部性を解消できるような仕組みを形成することの必要性
を提示した。
0
たばこ税の引き上げや健康増進法は禁煙にどこまで有効か
石井加代子
第1節
イントロダクション
日本における成人男性の平均喫煙率は 2005 年時点で 45.8%であり、長期的には減少傾向にあるものの、諸外国
と比べるとはるかに高い。成人女性に関しては 2005 年時点で平均 13.8%と、他の先進諸国のそれと比較して低い値
を示しているものの、世界的な喫煙率低下の風潮とは逆に、20 代 30 代において喫煙率は上昇傾向にある(図 1,図
2 参照)
。
図 1 男女別 日本の成人喫煙率の推移(1970-2005)
%
90
80
男子20代
70
男子30代
男子40代
60
男子50代
男子60代以上
50
男子総合
女子20代
40
女子30代
30
女子40代
女子50代
20
女子60代以上
女子総合
10
0
04
02
00
98
96
94
92
90
88
86
84
82
80
78
76
74
72
19
年
70
出所:日本たばこ産業による全国喫煙者率調査(厚生労働省 HP「たばこと健康」
)
。
たばこが人体に悪い影響を及ぼすことは広く知られており、いくつかの国ではたばこ税の引き上げ、広告・販
売促進の規制、公共の場における喫煙制限などの政策を通して、喫煙率の抑制に努めている。1999 年には世界銀行
(The World Bank)が “Curbing the Epidemic: Government and the Economics of Tobacco Control(邦題『たばこ流行の抑
制』
)” を報告し、喫煙の有害性に関する警告をならすとともに、各国政府に対し喫煙抑制政策の設置を促した。日
本においても、たばこ税の引き上げを反映して、僅かではあるがたばこ価格は引き上げられている。また、2003 年
1
5 月には健康増進法が施行され、受動喫煙の防止を目的に分煙政策の強化が図られるようになった。このように、
予防医療の観点から喫煙習慣の抑制を図り、受動喫煙の防止やたばこを原因とする発病の減少が目指されている。
図 2 G7+スウェーデンの男女別喫煙率と 2003 年時点 20 本入りたばこ価格(US$換算)
%
US$
8
50
45
7
40
6
35
5
30
25
4
20
3
15
2
10
1
5
0
0
スウェーデン
男子
カナダ
アメリカ
女子 (左目盛り) /
イギリス
イタリア
国産たばこ価格(US$)
フランス
ドイツ
日本
輸入たばこ(US$) (右目盛り)
出所:World Health Organization (2003) Tobacco control country profiles: second edition.
注1:喫煙率はスウェーデン 2000-01 年、カナダ/イギリス 01 年、イタリア 02 年、他 2000 年時点。
注2:対象は、スウェーデン 16-84 歳、カナダ 15 歳以上、イギリス 16 歳以上、イタリア 15 歳以上、ドイツ 18 歳-59 歳、日
本 20 歳以上、他は 18 歳以上。
日本では第二次臨調での民営化の流れの中で、1985 年に製造たばこの専売制が廃止され、小売販売業に関する
事務の一部が、それまでの日本専売公社から日本たばこ産業株式会社(JT)に委任された。専売制が廃止されるに
伴い、たばこ税(当時はたばこ消費税)が創設され、以後、たばこには高い税率が課せられている。日本全国で同
一銘柄同一価格となっており、一般的な財と比較して政府による介入が大きい財と捉えることができる。政府がた
ばこ税を徴収する理由として、国民の健康に与える害を抑制するのと同時に、喫煙には中毒性が高く、安定した財
源を確保できることもあげられる。日本における製造たばこの専売制の廃止に伴うたばこ税の創設は、こうした財
政収入の安定的確保を期待してのものであった。イギリスでは数年間にわたりたばこ税率を大幅に引き上げていっ
たが、たばこ価格の上昇による消費量の減少は、税率の増大に相殺され、結果として税収が増加したことが報告さ
れている(The World Bank, 1999)
。
安定的な財源確保という理由以外にも、たばこへの政府の介入を正当化する経済学的理由が存在する。経済学
では、一般に①消費者が財の購入に際し、その財の便益と費用に関する情報に基づき合理的に判断すること、そし
て②消費者が財の購入にまつわる費用をすべて負担すること、の 2 つの仮定が満たされたとき、消費者は最適な選
択を行うことができると考えられている。しかし、たばこの消費に関しては、必ずしもこの 2 つの仮定が成立して
いない場合がありうる(The World Bank, 1999)
。第 1 に、経済学の用語で言うところの外部性の問題があげられる。
たばこの副流煙は非喫煙者に対して心理的不快感を与えるだけではなく、かれらの健康に対しても被害を及ぼすこ
2
とが医学的に明らかにされている。しかし、喫煙者は自身が喫煙することによって発生する、非喫煙者にのしかか
るこうした費用を負担していない。喫煙によって発生するコストを喫煙者が負担するように、分煙政策やたばこ価
格の引き上げといった喫煙のコストを高くするような政策介入が必要である。また、喫煙の外部性として、喫煙を
原因とする健康損失が、国民全体の医療費負担を引き上げているという指摘もある1。
たばこへの政策介入を正当化する第 2 点目として、情報の欠如や時間割引率の高さがあげられる。たばこによ
る便益(快感、お洒落)や価格として消費時点で顕在化する費用については、喫煙者自身、十分認識しているだろ
うが、将来発生する可能性のある健康上の損失に関する費用については、消費時点でその大きさを十分認識しない
場合が少なくない。喫煙の有害性に関する情報は広く知れわたっているが、実際、その有害性が表面化するのは将
来においてであるため、しばしば個人はそのリスクの大きさを過小に見積もってしまう。このことは、時間割引率
という経済学の概念を持って説明されている(Fuchs, 1981; 大日・佐藤, 2002)
。つまり、時間割引率が高く、将来
よりも現在に高く価値をおくものほど、喫煙する傾向が強いというわけである。
喫煙者の大半が 20 歳の時点ですでに喫煙を経験している。成人に満たない若者、もしくは成人になったばかり
の若者が、喫煙による将来の健康損失リスクについて、十分な情報や十分なコスト意識があるか疑わしい。このよ
うな理由から、たばこ価格に将来の健康損失リスクを反映させ、国民の健康維持を図るということが考えられるだ
ろう。以上 2 つの理由から、たばこには何らかの政策介入が必要であることが指摘されてきた。それでは、どのよ
うにすれば、喫煙者が将来の健康損失の費用を消費時点で認識し、非喫煙者が被る費用を喫煙者が負担できるよう
な制度を形成することができるだろうか。
本稿では、日本において、どのような属性のものが喫煙している傾向にあるのかという喫煙者の属性、そして
たばこ価格の上昇と分煙政策の強化(健康増進法)が喫煙者の禁煙実行に対して及ぼす影響について、KHPS を用
い実証分析していく。喫煙者の属性についてはクロス・セクション・データによるプロビット/トービット・モデ
ルで、また、禁煙実行に対するたばこ価格と分煙政策の影響については回顧データをもとに作成した擬似パネル・
データによりハザード・モデルで分析を行う。
1980 年代後半からアメリカを中心に始まった喫煙の経済分析において、中毒性の強い喫煙に関しても、喫煙者
は価格の上昇による費用負担の増大に反応を示し、喫煙量を減少させていくことが提示されてきた。単純に、日本
におけるたばこの実質価格(2000 年基準で物価調整)2と国内総販売本数(=消費量)の年次推移について、たば
こ税が創設された 1985 年から追ってみると(図 3)
、販売本数と実質価格は反比例の関係をなしていることが読み
取れる。ただし、販売本数は禁煙風潮の増大や個人の価格への反応の違いといった他の変数の影響を受けることが
考えられるので、そういった変数をコントロールするためにも、パネル・データによる分析が必要である。日本に
おいても、角田・小椋・鈴木(2005)でハザード分析により、価格の上昇が喫煙開始確率を下げることが推計され
ているが、未だ喫煙の実証分析は数少ない3。日本の成人喫煙率は高く、かれらに対していかに禁煙を促すかという
ことは、未成年者の喫煙開始抑制と並んで、保健医療政策における重要な点である。喫煙傾向の属性を分析するこ
と、そして、たばこ価格の変化(たばこ税率の変化)や分煙政策が喫煙者の禁煙実行に与える影響を分析すること
1
この意見には賛否両論あり、喫煙者は非喫煙者と比較し発病からの生存期間が短いため医療費があまりかからないという見解
もある。
2
価格変動はほぼ全銘柄で同様の動きをしているため、ここでは国内シェア第 1 位のマイルドセブンの価格のみを取り上げた。
3
その他、日本における喫煙の経済分析として、合理的依存モデルに関する理論的考察については小椋・鈴木(2004)
、個票を用
いた実証分析としては大日・佐藤(2002)があげられる。
3
は、興味深い情報を提示することができるだろう。
図 3 1985-2003 年たばこ国内総販売本数とたばこの実質価格(2000 年基準)の年次推移
(本)
3,600
(円)
270
3,500
260
3,400
250
3,300
3,200
240
3,100
230
3,000
220
2,900
210
2,800
2,700
03
02
01
99
20
00
98
97
96
94
たばこ国内総販売本数(左軸)
95
93
92
91
89
90
88
87
86
85
200
(年)
マイルドセブン2000年基準実質価格(右軸)
出所:厚生労働省 HP『最新たばこ情報』
、総務省統計局『小売物価統計調査』1985-2003 年。
注 :たばこ価格は各年における平均価格である。
第2節
先行研究と本稿の意義
喫煙に関する経済分析は、1980 年前後からアメリカで盛んに取り組まれ、理論研究や実証研究に関する論文が
多く発表されてきた。喫煙の経済分析の火付け役となったのは、1980 年代終わりに経済学者 Gary Becker と Kevin
Murphy により発表された合理的依存(Rational Addiction)モデルである。このモデルでは、たばこのような Addiction
財において、限界効用は逓増、つまり消費量が増えるほど効用が高まると考え、費用は価格(現在価格、将来価格)
と現在価値に換算された将来の健康損失により定義されると想定している4。そして、個人は限界便益が限界費用を
超えるときに、喫煙行動を選択するとされている5。
合理的依存モデルの発表以降、理論構築の発展に限らず、喫煙に関する実証分析も多くなされるようになった。
実証分析の多くは、費用として顕在化している価格に着目し、喫煙の価格弾力性を測ることに重点をおいている。
喫煙の実証分析における初期の段階では、喫煙の価格弾力性を測るにおいて、たばこの消費量や喫煙率と価格につ
いての時系列の集計データを用い計測する方法が主流であった。Becker, Grossman and Murphy(1990)は合理的依存
モデルを実証分析へ適用し、個人は長期的な価格の上昇予測に対し強く反応し消費量を減らすことを証明している6。
喫煙の価格弾力性を測定する上で、集計データを用いることにはいくつかの問題点がある。集計データを用い
る第 1 の問題点は、喫煙に対する価格の影響を分析する際、非喫煙者の喫煙開始に与える影響と、喫煙者の禁煙実
行に与える影響とを区別することができないことである。中毒症状のない非喫煙者と中毒症状を抱えている喫煙者
に対する価格の影響は大きく異なることが予想されるため、この点の識別は重要である。第 2 の問題点として、集
4
喫煙規制による喫煙の手軽さについても喫煙の費用に含むことができる(Douglas, 1998)
。
昨今では合理的依存モデルの不完全性が指摘されており、日本では小椋・鈴木・角田(2005)において再検討されている。
6
10%の永続的なたばこ価格の上昇は、現在のたばこの消費量を短期的に 4%、長期的には 7.5%減少させるのに対し、一時的な
たばこ価格の上昇は現在のたばこの消費量を 3%しか減少させないことを推計した。
5
4
計データでは短期的喫煙者と長期的喫煙者を区別することができない点である。第 3 の問題は、集計データである
がゆえ、喫煙者個人の属性(年齢、性別、学歴等)の効果を分析することや、それらをコントロールした上での価
格の効果を推計することができないという点である。この点、州ごとにたばこ価格が異なるアメリカでは、クロス・
セクションの個票データを用いることにより、同じ属性の人間が異なるたばこ価格に直面したことを想定し、個人
属性の効果をコントロールした分析が可能であった。しかし、日本のように全国で同一銘柄同一価格の体制がとら
れている場合には、クロス・セクション・データを用いたこの方法で価格の効果を測ることはできないし、またこの
方法では、集計データにおける第 1 と第 2 の問題点を解決することはできない。
集計データによるこのような問題を解決し、喫煙の経済分析に新たな流れをもたらしたのが、禁煙実行まで(非
喫煙者の喫煙開始に興味があるのならば喫煙開始まで)の「期間」を対象にするパネル・データを使ったハザード
分析(別名サバイバル分析)である。喫煙をテーマにハザード分析を行った先行研究は、非喫煙者(しばしば未成
年者に限定)の喫煙開始に対する価格の影響と、喫煙者の禁煙実行の価格の影響を分析対象にしたものが多い。
Douglas(1998)では合理的依存モデルに基づいて、過去、現在、未来のたばこの価格が喫煙者の禁煙実行に与える
影響について、US National Health Interview Survey の喫煙に関する回顧調査を用い、擬似パネル・データを作成し分
析している。将来におけるたばこ価格の上昇が、喫煙者の早期禁煙を促す(禁煙確率を高める)ことが明らかにさ
れ、将来価格に対する禁煙実行ハザードの価格弾力性(price elasticity of quitting hazard)は 1.07 から 1.30 の値と推定
された。
Tauras and Chaloupka(1999)では、高校生を対象に行われた US Monitoring the Future Surveys の中で、調査時点
で喫煙習慣のあった者を対象に追跡調査し、若年喫煙者における禁煙実行に対する価格の効果をハザード・モデル
で分析している。その結果、たばこ価格の上昇が若年喫煙者の喫煙期間を有意に短くすることが明らかにされ、禁
煙実行ハザードの価格弾力性は若者男子で平均 1.12、若者女子で平均 1.19 と推定された。
こうしたパネル・データの利用が可能になると、たばこ価格が全国で同一銘柄同一価格であるイギリスにおい
ても、ミクロ・レベルでの喫煙の経済分析が実施されるようになった。Foster and Jones(2000)では、British Health
and Lifestyle Survey の喫煙に関する回顧データを用い、たばこ税率が喫煙開始と禁煙実行に与える影響についてハザ
ード分析を行っている。分析の結果、たばこ税率の引き上げが有意に喫煙開始時期を遅らせること、また喫煙者に
とっては禁煙実行の時期を有意に早めることが明らかにされている。
日本における喫煙の経済分析は数が少ない。角田・小椋・鈴木(2005)では、大学生と一般成人を対象に Cox
比例ハザード分析により喫煙開始確率について分析している。大学生のみをサンプルにした喫煙開始ハザードの価
格弾力性は 0.62(1%価格が上昇することで喫煙開始確率が 0.62%下がる)と推計されている。
喫煙の経済分析では、価格の影響以外にも、年齢や性別、学歴などの個人属性の影響が考慮される。たとえば、
学歴と喫煙の有無の間には強い相関関係があることが何度も報告されている。Grossman(1972)の健康資本の経済
モデル(以下 Grossman モデル)7を引用して、人的資本が多い人ほど健康管理能力が高く、喫煙など身体に害を及
ぼす行動を避ける傾向が強いと説明される。また、このモデルに基づくと、歳を重ねるごとに、今期までの健康資
7
Grossman モデルでは、個人の健康状態を「健康資本(health capital)
」のストックとして捉え,今期の健康資本ストックは前期
の健康資本ストックに減耗率を掛けたものを受け継ぐと考えている。この減耗率は老齢期に向かうほど高まる。前期ストックか
らの受け継ぎ以外にも,健康資本は時間と財(医療サービス,運動,良好な食生活,禁煙といった健康行動,余暇)の投入によ
って増大するとされている。健康資本の増減に寄与するそれらの行動をいかに効率的に行うかは,学歴といった人的資本に依存
する。そして,健康資本を増大させる財の投入量は予算(所得)と時間の制約下にあると考える。
5
本ストックを次期に持ち越す能力が衰えるため、
年齢が高いほど自身の健康状態を気遣うようになると考えられる。
実際に、若年層(20 代から 30 代後半)において喫煙率が高いことは、Grossman モデルが示している。一方、Grossman
モデル以外にも、いくつかの分析が喫煙と個人属性の関係を説明している。たとえば、Fuchs(1986)は学歴と喫煙
率との相関について、時間割引率によってその因果の説明を試みている8。大日・佐藤(2002)においても、自分た
ちで収集した調査をもとに時間割引率の高いものほど喫煙開始ハザードが高いことが明らかにされている。
本稿では、日本における喫煙者の属性、そして喫煙者の禁煙実行に対するたばこ価格引き上げの効果と健康増
進法による分煙政策の効果について、KHPS を用いて分析する。日本では現在まで、喫煙率の抑制を目指した大幅
なたばこ税増税は実施されていないが、それでも僅かながら価格は上昇してきている。また、2003 年に施行された
健康増進法ではその 25 条で受動喫煙防止があげられ、公共施設や会社での分煙政策強化がなされるようになった。
本稿の意義を以下にまとめる。まず、KHPS では喫煙の情報に限らず、健康状態、生活習慣、労働状況、社会
経済的地位に関して同時に調査されているため、
個人の生活習慣と社会経済状況との関係を検討することができる。
喫煙者の属性を分析する際、喫煙行動と労働時間、所得、学歴、家族構成など多様な情報との関係が把握可能であ
る点は、本稿の特徴として強調できるだろう。また、喫煙履歴に関する回顧調査をもとにパネル・データを作成し
ハザード分析を行うことにより、集計データやクロス・セクションの個票を利用した場合に発生する問題を解決で
きるという点もあげられる。そこでは、たばこ価格のみならず、2003 年に実施された健康増進法の政策効果を測定
するが、これも本稿の特徴としてあげることができよう。
第3節
仮説と分析方法
本稿では、日本における喫煙行動について大きく分けて、以下 2 点について分析を行う。
・ 喫煙者の属性:どのような人が喫煙している傾向にあるか。喫煙量は他の変数と関係があるか。
・ 禁煙に対する価格と政策の影響:たばこ価格の引き上げと分煙政策は喫煙者の禁煙実行を促しているか。
喫煙者の属性についての分析では、喫煙しているかどうかに関して調査時点での喫煙者を Y i=1、非喫煙者を Yi
=0 とし、喫煙確率をプロビット・モデルにより属性を推計する。喫煙しているかどうかに影響を与える変数を Xi、
)に従う誤差項とすると、喫煙の有無を示すダミー
それに対応する係数をβ とし 、ui は標準正規分布(~N(0, 1)
変数は下記のプロビット・モデルによって示される。
1, if Xi β + ui ≧ 0
喫煙の有無(Yi )=
0, if Xi β + ui < 0
・・・・式 1
他方、喫煙本数に関しては、トービット・モデルを用いて推計する9。トービット・モデルでは、1 日あたりの
喫煙本数を潜在変数 S *とおき、非喫煙者の場合は S *= 0 とし、喫煙本数と他の変数 X との関係を見る。定数項α
と係数β の推定には最尤法が用いられる。これにより、最小 2 乗法で推計する際に発生する推定量のゼロへの偏り
8
Fuchs(1986)では、時間割引率が高く将来よりも現在に価値をおくものは、教育投資にも熱心ではなく、健康管理にも熱心で
はない、それゆえ学歴と喫煙との間には有意な相関が見られると説明している。
9
通常、こうした 2part モデルの推定では Heckman の 2 段階推定法が用いられるが、分散構造の仮定に対して感応的であるため、
今回の推定では良い結果が得られなかった。
6
を解消することができる。
S i* = α − β X i + u i
S i = S i*
if
S i* > 0
Si= 0
if
S i* ≦ 0
・・・・式 2
クロス・セクション分析における説明変数(X)には、2005 年時点の年齢、性別、学歴、所得、労働時間、ス
トレス度数を用いる。ストレス度数については、脚注 13 を参考されたい。年齢に関しては、Grossman モデルより
以下のように仮説をたてる。すなわち、年齢が高くなるほど、老化により今までの健康状態を維持していく能力が
低下していく(以前に生産した健康資本ストックを今期に持ち越す際の減耗率が高まる)ため、その分、より健康
に気を遣うようになることが考えられる。それゆえ、年齢が高いほど、喫煙をする傾向が弱まると考えることがで
きる。性別については、図 1 からも明らかなように、男性ほど喫煙傾向が強い。男女の喫煙率は大きく異なり、喫
煙に対する傾向も男女異なるものであることが予想されるため、男女のサンプルを別々に推計することとする。学
歴についても、Grossman モデルを参考にすると、学歴が高いほど健康維持に対しての意識がより高い(健康投資の
収益率が高い)ことが予想されるので、学歴が高いほど喫煙率は低くなると考えられる。所得についても、所得が
高いほど喫煙といった不健康な行動を避ける傾向が強いと仮説をたてる。Grossman モデルを引用すると、所得が高
いほど健康維持に向けた予算制約も大きくなるため、個人はより健康に気を遣うようになると考えられるからであ
る。喫煙にはストレス解消といった便益があるので、労働時間が長く、ストレスを多く感じている場合は、喫煙傾
向が高まることが予想できる。
価格の禁煙実行に対する影響の分析には、Cox の比例ハザード・モデルを用いる。分析では、喫煙経験のある
個人について、喫煙開始時期から禁煙実行時(もしくは 2005 年の調査打ち切り時)までを「期間」として分析の対
象とする。喫煙経験のある各個人の喫煙期間の推定式は以下のように定義される。ベースライン・ハザード関数を
h0 (t)で、proportionality factor を exp {β ’x i (t)}で表し、x i (t)を個人 i の各期における説明変数の行列とする。
h i {t; x i (t)} = h0 (t) exp {β ’x i (t)}
・・・・式 3
説明変数には、時間によって変化する変数(time variant covariates)として、たばこ価格、健康増進法ダミー、
第 1 子誕生前後計 3 年間、時代トレンド・ダミーをとり、時間によって変化しない変数(time invariant covariates)
として、性別、喫煙開始年齢、学歴、出生コホート・ダミーをとる。子供の誕生は禁煙の大きなきっかけとなるこ
とが予想されるので、第 1 子妊娠時(出産の 1 年前と計算)から誕生 1 年後までの 3 年間の期間をダミー変数とし
て投入し、その影響をコントロールする。喫煙の風潮は年代を追うごとに強くなってきているが、この影響はたば
こ価格とは独立である。そこで、時代トレンド・ダミーを投入することで、この影響の除去を図る。またコホート・
ダミーにより、喫煙習慣における世代効果を除去することにする。
7
第4節
使用するデータ
分析では主に KHPS 2005 年調査の喫煙に関する質問項目を用いる。2005 年 KHPS では、喫煙の有無と、喫煙者
と過去喫煙者に対して喫煙開始時期、過去喫煙者に対して喫煙終了時期を質問している。この回顧データを利用し
て擬似パネル・データを作成することで、ハザード分析が可能になる。回顧データを擬似パネル・データとして用
いる際、常に回顧記録の信憑性が問題視される。回顧データに代わる長期間のパネル調査が存在することがもっと
も望ましいことであるが、これについては今後の課題とする。
KHPS における男女別年齢階層ごとの喫煙率(2005 年時点)を表 1 に示しておく。図 1 に示した日本たばこ産
業(JT)による喫煙率の統計結果によると、2005 年時点において男性総合平均で 45.8%、女性総合平均で 13.8%で
あり、
KHPS による喫煙率の数値はそれよりも若干高い。
KHPS が調査対象として 69 歳を上限としているのに対し、
JT の調査では調査対象の年齢の上限を定めておらず、比較的喫煙率の低い後期高齢者もサンプルに含んでいること
がこの僅かな差の原因かもしれないが、KHPS の調査結果が大体の全体像をつかんでいると評価してよいだろう。
表 1 KHPS による男女別 年齢別 喫煙率(2005 年)
男子
女子
合計
喫煙率 喫煙者数 割合 % 喫煙者数 割合 % 喫煙者数 割合 %
20-29
86
56.58
53
30.29
139
42.51
30-39
240
57.01
108
21.95
348
38.12
40-49
248
51.13
90
17.21
338
33.53
50-59
292
52.71
67
12.43
359
32.85
60 +
174
34.94
27
6.37
201
21.8
1,040
49.29
345
16.02
1,385
32.49
合計
出所:KHPS 2005 より作成。
ハザード分析では、期間を設定する必要がある。分析では 1970 年以降に喫煙を開始した者のみを対象に、彼ら
の喫煙開始時期から過去喫煙者に関しては喫煙終了時まで、現在喫煙者に関しては 2005 年の調査打ち切りまでを
「期間」とし、分析を行っていくこととする。1970 年を選択したのは、1960 年代後半よりたばこの有害性が報告さ
れるようになり、1970 年に世界保健機構(World Health Organization: WHO)により公にその有害性が認められ、そ
の頃から禁煙の風潮が強まってくるようになったからである。KHPS では年単位で喫煙履歴について質問している
ため、本稿の分析では「期間」の単位を年とする。
たばこの価格に関しては、総務省統計局『小売物価統計調査』における銘柄ごとの価格について、1970 年から
2005 年までの値を参考にすることとする。たばこ価格は銘柄によって異なり、分析においてはこれをどう取り扱う
かが問題となってくる。1970 年から各年における各銘柄の売り上げシェアを把握することは不可能であるため、売
り上げシェアによる価格の加重平均を取ることはできない。たばこの価格は、ほとんどすべての銘柄で同時に値上
げされてきている。値上げ幅については、異なる銘柄間の価格差よりも小さく、ほぼ同額で増加している(図 4 参
照)
。そこで、1970 年から 2005 年までの 30 年間において少なくとも 25 年間連続して価格の変動を追うことのでき
る 20 本入りたばこ 10 銘柄10に絞り、個々の銘柄における前年差の平均を、2000 年基準の消費者物価指数総合で物
価調整し、その対数値を time varied な変数としてハザード分析に投入することとする。対数値をとることで、禁煙
実行ハザード率の価格弾力性を把握できるようにする11。
10
11
しんせん、ホープ、エコー、わかば、ハイライト、ピース、ルナ、セブンスター、チェリー、マイルドセブンの以上 10 銘柄。
前年から価格変化のない年には、0 に代わり 0.0001 を代入し対数値を計算した。
8
図 4 20 本入りたばこ 10 銘柄の 1970-2005 年における価格の変動
円(CPI調整なし)
300
250
しんせい
ホープ
わかば
ハイライト
ピース
ルナ
セブンスター
チェリー
マイルドセブン
エコー
200
150
100
50
年
0
05
04
03
02
01
00
99
98
97
96
95
94
93
92
91
90
89
88
87
86
85
84
83
82
81
80
79
78
77
76
75
74
73
72
71
70
出所:総務省統計局『小売物価統計調査』1970-2005 年。
表 2 喫煙者の属性に関するクロス・セクション分析の基本統計量12
変数
1日の喫煙量 (喫煙者のみ)
喫煙習慣あり:1/ なし:0
性別 男:1 女:0
年齢
等価所得の対数
学歴カテゴリー:01
中卒
高卒
高専・短大卒
大学・大学院卒
労働時間カテゴリー:01
0時間 (非就業)
1-34時間 (パート)
35-44時間
45-59時間
60時間以上
労働時間(就業者のみ)
ストレス指数
サンプル数
全体
男性
女性
平均値 標準偏差 平均値 標準偏差 平均値 標準偏差
18.586
9.409 20.202
9.387 13.713
7.635
0.325
0.468
0.493
0.500
0.160
0.367
0.495
0.500
48.027 12.641 48.807 12.861 47.263 12.376
5.761
0.594
5.780
0.588
5.743
0.599
0.104
0.507
0.147
0.243
0.305
0.500
0.354
0.429
0.264
0.441
0.226
0.418
0.175
0.380
0.212
0.408
0.124
0.330
40.363 19.519
15.306
6.720
4263
0.109
0.469
0.064
0.359
0.311
0.499
0.244
0.480
0.131
0.338
0.123
0.328
0.208
0.406
0.324
0.468
0.215
0.411
47.019 17.491
14.378
6.647
2110
0.099
0.543
0.229
0.129
0.299
0.498
0.420
0.335
0.394
0.489
0.327
0.469
0.142
0.349
0.102
0.302
0.035
0.185
31.008 18.356
16.216
6.668
2153
出所:KHPS 2005 より作成。
喫煙者の傾向とたばこの消費量に関するクロス・セクションでの分析においては、年齢、性別、学歴、世帯規
12
各変数の変数番号は以下の通りである(下線付きは配偶者における情報)
。喫煙の有無(w0321, w0574)
、1 日の喫煙本数(w0323,
w0576)
、性別(w0005, w0014 if 配偶者あり)
、年齢(w0006, w0015 if 配偶者あり)
、等価所得(世帯年収 w0750;同居人数 w0009)
、
学歴(v0106, v0803)
、労働時間(就労状況 w0139, w0392;週の平均労働時間 w0204, w0457)
、 ストレス指数(w0309-w0320,
w0562-w0573)
。
9
模調整済み所得(等価所得13)の対数値、労働時間、ストレス指数を投入し、その効果を見ていく。学歴について
は 4 段階のカテゴリー変数にし、高校卒をレファレンスにおき、それぞれの効果を見ていく。労働時間に関しても、
非就業者の存在を考慮し、非就業、パート(週 1~35 時間未満労働)
、週 35~44 時間労働、週 45~59 時間労働、週 60
時間以上労働の 5 段階のカテゴリー変数により分析を行う。ストレス指数に関しては、KHPS の中のストレスに関
する 12 の質問項目14から、単純合計により、0(もっともストレスが少ない)から 36(もっともストレスが多い)
の値をとる変数を作成した。クロス・セクション分析における基本統計量については表 2 を参照されたい。
表 3 喫煙者の禁煙確率に関する Cox 比例ハザード・モデルの基本統計量15
変数
過去喫煙者
物価調整 たばこ価格
1970-2005年 たばこ価格上昇額平均
(物価調整済み)
性別 男:1 女:0
喫煙開始年齢
学歴カテゴリー:
中卒
高卒
高専・短大卒
大卒・大学院卒
第一子誕生前後 計3年間
第一子誕生
調査時時点年齢(2005)
1930-59年生コホート
1960-90年生コホート
時代トレンド
(1970年からの経過年数)
サンプル数
平均値(カッコ内標準偏差)
男性
全体
喫煙者
過去喫煙者
214.534
(19.209)
喫煙者
220.713
(18.331)
0.661
(0.474)
20.083
(4.677)
0.701
(0.458)
20.116
(5.499)
19.587
(3.784)
19.394
(4.569)
21.05
(5.946)
21.810
(6.943)
0.051
(0.220)
0.504
(0.501)
0.121
(0.326)
0.324
(0.469)
0.011
(0.102)
0.002
(0.046)
43.104
(8.844)
0.419
(0.494)
0.581
(0.494)
11.979
(8.173)
472
0.067
(0.250)
0.559
(0.497)
0.119
(0.324)
0.255
(0.436)
0.023
(0.151)
0.007
(0.083)
40.967
(9.589)
0.355
(0.479)
0.645
(0.479)
14.149
(8.845)
1289
0.061
(0.240)
0.471
(0.500)
0.051
(0.221)
0.417
(0.494)
0.003
(0.057)
0
44.442
(8.061)
0.484
(0.501)
0.516
(0.501)
10.144
(7.572)
312
0.065
(0.247)
0.525
(0.500)
0.083
(0.276)
0.326
(0.469)
0.014
(0.119)
0.001
(0.033)
41.132
(9.242)
0.365
(0.482)
0.635
(0.482)
13.262
(8.839)
904
0.031
(0.175)
0.569
(0.497)
0.256
(0.438)
0.144
(0.352)
0.025
(0.157)
0.006
(0.079)
40.494
(9.708)
0.294
(0.457)
0.706
(0.457)
15.556
(8.139)
160
0.070
(0.256)
0.639
(0.481)
0.203
(0.402)
0.088
(0.284)
0.044
(0.206)
0.021
(0.143)
40.579
(10.362)
0.332
(0.472)
0.668
(0.472)
16.231
(8.515)
385
-
224.143
(16.510)
喫煙者
217.791
(18.878)
5.628
-
219.005
(18.684)
女性
過去喫煙者
-
224.723
(16.829)
-
出所:KHPS 2005 より作成。
いくつかの変数を公表統計と比較しておく。喫煙率については先述したとおり、公表統計と近似した値を示し
13
世帯所得を世帯規模の 0.5 乗で割り「等価所得」を作成することにより、世帯規模の異なる世帯同士を比較可能な形に変換す
ることができる。また、賃金率ではなく等価所得を用いる理由は、非就労者もサンプルに含むためと、非就労所得をも含めた個々
人の生活水準と喫煙との関係を観察するためである。
14
医学的知見に基づき、以下の 12 の質問項目の回答結果を用いて、個人のストレスの強度を測定した。
「頭痛やめまいがすると
きがある」
「動悸・息切れがするときがある」
「胃腸の具合がおかしいときがある」
「背中・腰・肩が痛むことがある」
「疲れやす
くなった」
「風邪を引きやすくなった」
「イライラすることが多くなった」
「寝つきが悪くなった」
「人と会うのがおっくうになっ
た」
「仕事への集中力がなくなった」
「今の生活に不満がある」
「将来に不安を感じる」のそれぞれについて、
「よくある・ときど
きある・ほとんどない・全くない」の 4 つの選択肢がある。
「よくある」を 3、
「全くない」を 0 とし、単純合計で 0~36 の値をと
るストレス指数を作成した。
15
各変数の変数番号は以下の通りである(下線付きは配偶者における情報)
。喫煙開始時期(現在喫煙者 w0322, w0575;過去喫
煙者 w0324, w0577)
、喫煙終了時期(過去喫煙者のみ w0325, w0578)
、第 1 子誕生時期(w0013-w0075 における対象者との続き柄
とその人の生年より作成)
。その他の変数は、クロス・セクション分析と同じ。
10
ている。1 日の喫煙本数については、JT の調べによると 2005 年時点で男性平均 22 本、女性平均 16 本であり、KHPS
の調査結果はほぼそれと一致する。年齢については、KHPS の調査対象が 20 歳以上であるため、公表の全人口にお
ける平均年齢よりは高い値を示している。
ハザード分析においては、価格以外に、性別、喫煙開始年齢、学歴、第 1 子誕生前後ダミー、出生コホート・
ダミー、時代トレンド・ダミー、健康増進法ダミーを投入する。第 1 子誕生前後ダミーは、第 1 子の誕生年前後 1
年の計 3 年間を 1、それ以外の年を 0 とするダミー変数である。喫煙習慣に対する世代ごとの違いも考慮し、1930
-1959 年出生コホートと 1960-1990 年出生コホートを識別した出生コホート・ダミーを作成する。時代トレンド・
ダミーとして、たばこ価格の変化(上昇)とは独立な禁煙風潮増大のトレンド効果を表すために、1970 年以降の経
過年数を用いる。健康増進法ダミーでは、2003 年に施行された健康増進法の政策効果を測るために、2003 年以降と
それより前を識別するダミー変数をとる。各変数の基本統計量については表 3 を参照されたい。
第5節
分析結果
表 4 は、喫煙の有無に関するプロビット・モデルの推計結果である。係数から説明変数 X における喫煙確率へ
の限界効果を計算し、それも記載した。限界効果については、X が 1%上昇した際に、限界効果の大きさだけ喫煙確
率が高まると解釈する。X が性別、学歴、労働時間といったダミー変数の場合は、レファレンス・カテゴリーと比
較して限界効果の大きさだけ喫煙確率が高まると解釈できる。
表 4 喫煙の有無に関するプロビット・モデルによる推計結果
Probit model
喫煙者 :1
非喫煙者:0
年齢
性別 男:1 女:0
学歴:
中卒
高卒
高専・短大卒
大学・大学院卒
等価所得の対数
労働時間:
0時間 (非就業)
1-34時間 (パート)
35-44時間
45-59時間
60時間以上
ストレス指数
定数項
サンプル数
対数尤度
全体
係数
男子
標準誤差 限界効果 標準誤差
係数
女子
標準誤差 限界効果 標準誤差
係数
標準誤差 限界効果 標準誤差
-0.017 ***
1.014 ***
0.002 -0.006 ***
0.053 0.341 ***
0.001 -0.011 ***
0.017
0.003 -0.004 ***
0.001 -0.026 ***
-0.031
ref
-0.234 ***
-0.367 ***
-0.124 ***
0.077
ref
0.069
0.055
0.039
-0.011
ref
-0.077 ***
-0.119 ***
-0.043 ***
0.026
ref
0.021
0.017
0.013
-0.048
ref
-0.022
-0.328 ***
-0.086 *
0.096
ref
0.118
0.063
0.051
-0.019
ref
-0.009
-0.130 ***
-0.034 *
0.038
ref
0.047
0.025
0.021
0.034
ref
-0.369 ***
-0.479 ***
-0.175 ***
0.13
ref
0.09
0.11
0.06
0.008
ref
-0.074 ***
-0.088 ***
-0.039 ***
0.030
ref
0.016
0.017
0.013
-0.263
0.039
ref
0.080
0.163
0.010
0.499
0.072
0.070
ref
0.066
0.076
0.003
0.241
-0.087 ***
0.013
ref
0.028
0.058 **
0.004 ***
0.023
0.024
ref
0.023
0.028
0.001
-0.289
0.114
ref
0.144
0.233
0.007
0.964
0.107
0.100
ref
0.078
0.086
0.004
0.313
-0.114
0.045
ref
0.057
0.093
0.003
0.041
0.040
ref
0.031
0.034
0.002
-0.309 ***
0.10
-0.037
0.10
ref
ref
0.025
0.13
0.107
0.19
0.014 ***
0.01
1.228 ***
0.37
2153
-873.369
-0.067 ***
-0.008
ref
0.006
0.025
0.003 ***
0.022
0.023
ref
0.030
0.046
0.001
***
**
***
**
4263
-2291.483
***
*
***
*
***
2110
-1405.610
***
*
***
*
0.00 -0.006 ***
0.001
注1:***、**、* はそれぞれ 1%、5%、10%水準で有意。
出所:KHPS 2005 より作成。
仮説通り、年齢が上がるにつれ喫煙する傾向が弱まっていくことが分析結果から読み取れる。男女を比較する
と、女性の方が年齢が高い人ほど喫煙の確率が大きく下がることがわかる。これは、ここ数十年における若年女性
の喫煙率の上昇を反映しているのかもしれない。性別に関しては、有意に男性の方で喫煙性向が強い。学歴につい
11
ては、高卒と比較して、高専・短大卒、さらに大学・大学院卒では有意に喫煙傾向が低く、中卒カテゴリーでは有
意な結果が出なかったものの、Grossman 仮説と一致するところである。学校教育が健康に対する人的投資として機
能しているのか、それとも他のファクターによるところなのか明確なことはわからないが、有意な相関があること
は KHPS においても確認することができた。所得においても全体サンプルおよび女性サンプルでは、所得が低いほ
ど喫煙傾向が強いという結果が出ている。労働時間に関してみると、総じて非就労者ほど喫煙の傾向が有意に低い
ことが読み取れる。一方で、全体および男性サンプルでは、労働時間が 60 時間を越すものにおいて、有意に喫煙傾
向が高まることがわかった。ストレス指数においても、男性サンプルではその有意性が低いものの、予想どおりス
トレスを強く感じているほど喫煙傾向が高まることがわかった。ただし、この点に関しては、逆に喫煙者ほど健康
に悪影響が現れ、ストレスを感じているという同時性の可能性について否定しきれないので、長期的なパネル・デ
ータが蓄積された後の課題とする。
表 5 喫煙の本数に関するトービット・モデルによる推計結果
全体
Tobit model
係数
年齢
年齢の二乗
性別 男:1 女:0
学歴:
中卒
高卒
高専・短大卒
大学・大学院卒
等価所得の対数
労働時間:
0時間 (非就業)
1-34時間 (パート)
35-44時間
45-59時間
60時間以上
ストレス指数
定数項
サンプル数
正値サンプル数
対数尤度
男性
標準誤差
係数
女性
標準誤差
係数
0.543 **
-0.009 ***
22.551 ***
0.259
0.003
1.090
1.218 ***
-0.014 ***
0.329
0.003
0.201
ref
-5.289 ***
-7.446 ***
-2.422 ***
1.462
ref
1.344
1.040
0.741
-0.129
ref
-1.728
-6.803 ***
-1.356
1.756
2.110
ref
ref
2.109 -8.418 ***
1.161 -10.819 ***
0.942 -4.190 ***
-5.188 ***
0.637
ref
0.716
2.765 **
0.239 ***
-12.105
4263
1385
-7492.919
1.453 -4.406 **
1.346
3.075
ref
ref
1.257
1.556
1.416
4.120 ***
0.062
0.171 **
7.038 -14.697
2110
1040
-5378.687
2.177
1.852
ref
1.427
1.559
0.077
8.955
0.055
-0.007
標準誤差
0.466
0.005
2.692
ref
1.853
2.437
1.231
-6.137 ***
2.178
-0.962
2.124
ref
ref
1.817
2.700
3.773
3.815
0.309 ***
0.107
15.150
11.668
2153
345
-2087.625
注1:***、**、* はそれぞれ 1%、5%、10%水準で有意。
出所:KHPS 2005 より作成。
表 5 は、1 日当たりの喫煙本数に関して、非喫煙者の情報(喫煙本数=0)を考慮し、トービット・モデルで推
計した結果を示している。年齢については、年齢の二乗項を説明変数に加え、年齢による本数の変化を観測してい
ったところ、全体サンプルでは 30 歳付近に到達するまで喫煙本数は増加し、30 歳を過ぎた時点より本数が減少す
る傾向にあることが分かった。男性サンプルでは、40 歳前半まで増加傾向、それを過ぎると減少傾向に転じること
が分かった。女性サンプルでは有意な結果は出ていない。男女別に比較すると、性別ダミーの係数より男性ほど有
意に喫煙本数が多いことも読み取れる。学歴についても、中学卒を除いて、学歴による喫煙本数の大小が有意に出
ている。所得に関しては、所得が低いほど喫煙本数が多いという関係が読み取れ、全体サンプルおよび女性のみを
サンプルとした推計結果では有意にきいていることがわかる。労働時間に関しては、35 - 44 時間労働するものに比
12
較し、非就業者ほど喫煙本数が有意に少ないこと、また全体および男性サンプルでは、労働時間が 60 時間を越すも
のにおいて、有意に喫煙本数が多くなることが示された。ストレス指数に関しても、すべてのモデルでストレスを
強く感じるほど喫煙本数が多いことが分かった。これについては上記で述べたように、喫煙本数が多いから健康を
害してストレスを強く感じているという解釈も考えられ、どちらが妥当しているか判断する十分な材料が揃ってい
ない。プロビット・モデルによる推計結果とトービット・モデルによる推計結果は、多くの箇所において類似した
結果を出している。
次に喫煙経験者を対象に、喫煙開始から禁煙実行までの期間に対するたばこ価格の影響と健康増進法における
分煙政策の影響を、Cox 比例ハザード・モデルで推計した結果をみていく。推計結果は表 6 に示されている。全体
サンプルおよび男性サンプルを用いた推計結果では、僅かであるがたばこ価格の上昇は有意に禁煙実行確率を高め
ていることが分かる。男性のみの推計結果では、たばこ価格の禁煙実行確率のハザード弾力性は 1.028 であると解
釈することができる。男女を比較すると、女性の方が喫煙開始から短期間のうちに禁煙する確率が高いことが分か
る。喫煙開始年齢については、男性のみの結果では、開始年齢が若いほど禁煙確率が低いことが読み取れる。この
ことは、若年期での喫煙開始が中毒性を高めるのか、もしくは Fuchs(1986)が指摘したように、喫煙開始を促す
他の重要な要因(たとえば時間割引率)が喫煙開始年齢と相関関係にあるのか明確ではない。クロス・セクション
の分析結果と合わせて考察すると、若年層ほど喫煙本数が多いことは、開始年齢が早いほど中毒症状を形成する確
率が高まり、将来における喫煙から得る便益を増大させ、結果として禁煙実行確率を低めてしまうと推論すること
もできる。
学歴カテゴリーについては、大学・大学院卒の層で禁煙実行確率が高いことが読み取れる。教育といった人的
投資が、健康資本の増大を促すと述べる Grossman モデルに一致するところであるが、因果関係について詳しいこ
とは現時点で分からない。第 1 子の出生前後計 3 年間における禁煙実行確率は男女とも有意にきいている。予想ど
おり、子供の誕生が禁煙実行に対する強いインセンティブとして働いていることが読み取れる。
健康増進法の政策効果を測定するために用意した健康増進法ダミーについては、男性では有意な結果を得るこ
とはできなかった。健康増進法が受動喫煙の防止を課題としており、喫煙者が分煙規制から被るコスト(屋外の喫
煙所で喫煙しなくてはならないなど)が現在のところそれほど大きくないこと、またたばこの中毒性により増大す
る喫煙からの便益が、分煙規制により発生するコストを超えていること、等の理由により、現段階では健康増進法
の十分な禁煙効果は見られないのかもしれない。一方、女性においては、健康増進法ダミーは予想と逆に影響して
いるという結果が出た。
つまり 2003 年以降ではそれ以前よりも喫煙者の禁煙確率が下がっているという結果が導か
れた。女性の喫煙率は今まで低かったが、ここ数年、社会の禁煙風潮とは逆に高まっている。女性の喫煙の意思決
定は、男性とは異なり、価格や喫煙抑制政策とは別の要因に影響を受けているのかもしれない。喫煙ムードが高ま
る中、女性において喫煙率が上昇傾向にあることは、それを物語っているのではないだろうか。また、トービット・
モデルの結果から、女性では男性よりも有意に喫煙本数が大幅に少ないことを考えると、分煙政策により喫煙女性
にとっての喫煙のコストが大幅に上がるということは考えられない。
推計結果を利用して、たばこ税の引き上げなどにより価格変化がある場合と価格に変化がない場合の禁煙実行
確率の違いをシュミレーションしてみる16。たとえば、1975 年生まれ大学卒の男性(1960-90 年生コホート=1)が
16
価格変化のシミュレーションにおいては、シミュレーションの容易さを考慮し、Weibull 分布で特定化した推計値を利用した
(男性のみ)
。価格前年差は対数値ではなく、物価調整した実数値を用いた。推計値は以下の通りである。
13
20 歳時点から喫煙を開始し、5 年後にたばこ税の増税により 50 円の価格上昇があった場合に禁煙実行確率は 2%に
なり、価格上昇がなかった場合(禁煙実行確率が約 1%)よりも 1%ポイント喫煙実行確率が高まる。同じように、
1970 年生まれ高校卒の男性(1960-90 年生コホート)が 20 歳時点から喫煙を開始し、10 年後に 100 円の価格変化
があった場合の禁煙実行確率は 5.0%、価格上昇がなかった場合の禁煙実行確率 1.2%と比較して、3.8%ポイント禁
煙実行確率が高まることが予測できる。
表 6 喫煙の期間に関する Cox 比例ハザード・モデルによる推計結果
禁煙発生:1
全体
Hazard
Std.Err
Coef.
Ratio
0.021 **
1.021 0.009 0.028 ***
-0.337 ***
0.714 0.108
0.018
1.019 0.012 0.044 ***
Coef.
物価調整 たばこ価格の対数値
性別ダミー (男子=1)
喫煙開始年齢
学歴カテゴリー:
-0.186
0.830
中卒
ref
ref
高卒
0.120
1.127
高専・短大卒
0.367 ***
1.443
大卒・大学院卒
0.637 ***
1.892
第一子誕生前後 計3年間
0.726
健康増進法ダミー(2003年以降=1) -0.320
ref
1930-59年生コホート
ref
1960-90年生コホート
0.163
1.178
-0.002
0.998
時代トレンド
2
0.092
1.097
時代トレンド / 100
34562
観測数
1761
サンプル数
472
禁煙発生数
-3266.94
対数尤度
***は1%、**は5%、*は10%水準で有意
男
Hazard
Std.Err
Coef.
Ratio
1.028 0.011 0.006
女
Hazard
Std.Err
Ratio
1.006 0.015
1.044
0.016 0.005
1.005
0.018
0.952
ref
0.831
1.322
1.922
0.829
ref
1.261
0.958
1.166
25290
1216
312
-2043.99
0.247 -0.577
ref
0.265 0.313
0.121 0.613
0.160 0.478
0.245 -0.656
ref
0.208 0.235
0.049 0.019
0.116 0.079
0.562
ref
*
1.368
***
1.847
**
1.613
*
0.519
ref
1.265
1.019
1.082
9272
545
160
-924.84
0.463
0.216 -0.049
ref
0.149 -0.186
0.108 0.279 **
0.127 0.653 ***
0.200 -0.187
ref
0.170 0.232
0.040 -0.043
0.094 0.153
0.188
0.235
0.215
0.358
0.311
0.075
0.169
注1:***、**、* はそれぞれ 1%、5%、10%水準で有意。
出所:KHPS 2005 より作成。
たばこ税収への影響
たばこはその中毒性ゆえに、強固な課税基盤としての性質を有しているが、たばこ価格の上昇による消費量の
減少は、たばこ税収にどのような影響をもたらすのであろうか。イギリスにおける先行研究に倣い、国たばこ税創
設時(1985 年)から 2005 年までのたばこ税収入額(国たばこ税、たばこ特別税、道府県たばこ税、市町村たばこ
税の合計額)とたばこ価格の年次推移を図 5 に表す。たばこ税収入額とたばこ価格は 2000 年基準で実質値化した。
1980 年代では 1986 年にたばこ税増税が実施されたが、
これによりたばこ税収が大幅に増加したことがわかる。
その後、1989 年にたばこ税収が減少する。たばこ税の課税方式が従価税と従量税の併用から従量税に一本化された
ことによる制度変更の影響と考えることができるだろう。販売本数は減少していないため、消費税導入による家計
支出の引き締めの影響とは考え難いだろう。
1997 年 4 月には消費税が3%から 5%に引き上げられることに合わせて、
たばこの定価が 10 円引き上げられた。
久々のたばこ価格の引き上げと不況期における消費税率の引き上げに反応し、
^
h (tj | xj ) = exp (-7.711 + 0.014*価格変化額 + 0.059*喫煙開始年齢 - 0.073*中学卒 – 0.145*高専・短大卒 + 0.273*大学・大学
院卒 + 0.676*第 1 子誕生前後計 3 年 + 0.593* 1960-1990 年生コホート 0.056*時代トレンド + 0.117*時代トレンド 2/100 –
0.080*健康増進法ダミー) 1.708 tj (1-1.708)
14
販売本数が減少し(図 3)
、税収が一時的に縮小したが、翌年 1998 年のたばこ特別税導入による 1 本につき 1 円の
増税は大きくたばこ税収を増加させるに至った。2003 年 7 月にもたばこ 1 本あたり 1 円の増税が実施され、その年
のたばこ税収額は増加したものの、その後は減少傾向にある。諸外国における先行研究ほど顕著な傾向を示しては
いないが、概ね、たばこ税増税の年には税収の増加が見られることが読み取れる。喫煙率やたばこ販売本数は年々
減少してきているにもかかわらず、たばこ税収額は長期的に眺めて増加傾向にある。また、日本よりもたばこ価格
の高い諸外国においても、たばこ税の増税は税収額を増加させている。これらのことは、日本において今後、ある
程度までたばこ税を引き上げても、税収の増加が見込めるだろうことを示唆しているのではないだろうか。
図 5 1985-2005 年たばこ税収総額とたばこの実質価格(2000 年基準)の年次推移
(10億円)
2350
(円)
300
290
2300
280
2250
270
260
2200
250
2150
240
230
2100
220
2050
210
200
実質たばこ税収額(左軸)
05
04
03
02
01
99
20
00
98
97
96
95
94
93
92
91
90
89
88
87
85
86
2000
(年)
実質マイルドセブン価格(右軸)
出所:財務省『財政統計』1985-2005 年、自治庁『地方財政統計年報』1985-2005 年、総務省統計局『小売物価統計調査』1985-2005 年。
注 :たばこ価格は各年における平均価格である。
第6節
議論と結論
日本人の成人男性の喫煙率は諸外国と比較してはるかに高い。政府にとっては、2 つの観点からたばこの消費
に対して政策的関心があると考えられる。1 つは、強固な課税基盤として、もう 1 つは、たばこの有害性に対する
配慮という観点である。2 つ目の点に関して、経済学的解釈を適用すると、以下のように説明することができるで
あろう。
a.
喫煙者はたばこを吸うことによって、周囲の非喫煙者に費用(受動喫煙による健康損失、心理的不快感)を負
担させているが、喫煙者はこの費用を負担していない、いわゆる外部性の問題。
b.
喫煙による費用は、①消費時点に直面する価格と、②消費時点では明示されない将来発生する健康損失のリス
クであるが、たばこの消費者(多くの喫煙者が若年期に喫煙を開始することを考えると、特に若者)は、しば
しば消費時点において②の費用を低く見積もってしまい(将来割引率が高い)
、長期的にみると必ずしも合理的
な判断をしているとは言いきれない。
経済理論に基づくと、a と b の理由から、政府によるたばこへの課税といった政策介入は正当化される。特に
15
b については、喫煙者の属性になんらかの一般的傾向(たとえば学歴や所得と喫煙の関係)が見られる場合、より
具体的な政策を構築することができるであろう。喫煙者が将来の健康損失の費用を消費時点で認識し、非喫煙者が
被る費用を喫煙者が負担できるような制度を形成していくことは今後の課題となっている。
本稿では、KHPS を用い、喫煙傾向の属性と、たばこ税の引き上げによるたばこ価格の上昇と分煙政策の導入
が喫煙者の禁煙行動に与える影響について分析してきた。プロビット・モデルによる喫煙傾向の属性についてのク
ロス・セクション分析と、トービット・モデルによる喫煙本数についてのクロス・セクション分析からは、学歴や
所得といった社会経済的地位により喫煙傾向に有意な差があることが確認された。これについては、Grossman モデ
ルが示唆するところと一致している。ただし、Grossman(1972)が提示するように、教育による人的資本への投資
が、健康投資における収益率を高めているかどうかまでは、現時点では分からない。また、労働市場との関係から
見ても、全体サンプルおよび男性サンプルで、週の労働時間が非常に長い人々(60 時間以上)の間で有意に喫煙確
率が高く、喫煙本数も多いことが分かった。非就業層では、喫煙確率、喫煙本数ともに有意に低かった。ストレス
との関係を見ると、いずれの結果においても、ストレスを強く感じているほど、喫煙確率、喫煙本数が有意に高い
ことが読み取れた。喫煙という(負の)健康投資が、社会経済的地位、そして労働状況と深く関わっていることが
分かった。
さらに、喫煙履歴に関する回顧調査より擬似パネル・データを作成し、たばこ税の引き上げによる価格の上昇
と分煙政策が喫煙者の禁煙実行に与える影響について、Cox 比例ハザード・モデルで分析した。推計結果より、女
性サンプルでは有意な結果を得られなかったが、男性サンプルあるいは全体サンプルを分析対象とした推計結果で
は、たばこ価格の上昇が有意に喫煙者の禁煙実行を促していることが分かった。男性のみモデルでは、禁煙実行確
率のハザード弾力性は 1.028 と推定された。僅かながらの価格上昇であっても、喫煙者の禁煙実行に有意に影響を
与えたという分析結果は興味深い。ただし、価格の上昇によって喫煙率や喫煙量が減少しても、たばこ税率の引き
上げは、結果として税収の増大を導いており、たばこが強固な課税基盤であることを再確認した。
学歴に関しては、高校卒に比較して大卒・大学院卒で有意に禁煙実行ハザードが高いことが分かり、ここでも
社会経済的地位により喫煙に対する行動に有意な差があることが確認された。また、第 1 子の誕生が禁煙に対して
有意に強い影響を及ぼしていることも分かった。
さらに、2003 年以降とそれ以前を区別するダミー変数を投入し、健康増進法による禁煙効果の推計を試みた。
男性サンプルでは有意な推計値を得ることができなかった。これについては、以下のように解釈できるかもしれな
い。すなわち、健康増進法は受動喫煙の防止(第 25 条)を大きな目的に掲げ、分煙政策の強化を図っており、喫煙
者の禁煙促進を直接的に目指した政策ではない。分煙政策は喫煙のコストを高めるものでもあるが、分煙政策の程
度によっては、喫煙の便益を超えるほどの喫煙のコストを課さない。北米での厳しい分煙政策(屋内レストランで
は一切の喫煙を禁止するなど)と比較すると、現状日本の分煙政策は緩やかなものであるため、喫煙者の禁煙実行
を促すほどの効果を出していないのかもしれない。分煙政策が禁煙を促すまでには、より長い期間の観測が必要で
あるということも考えられる。
喫煙には、非喫煙者の健康に害を及ぼすという外部性の問題、有害性に関する情報の欠如、将来の健康損失リ
スクを過小評価してしまう問題がある。これら喫煙から発生するコストを、消費時点で喫煙者に十分理解させ、負
担させることのできるような制度設計が必要だ。たばこ価格の引き上げによりそれらのコストを喫煙者に課すこと
も 1 つの手段であるし、政府による「たばこの本人ならびに家族や他人への害の情報」を周知させるアナウンス、
16
法的な分煙政策の徹底を通じた政府のコミットメントも必要である。さらに、長時間労働の削減といった企業によ
る労働環境の改善、それによりストレスの少ないライフスタイルの実現なども、政策による後押しで進めていく必
要があるだろう。
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小椋正立・鈴木亘・角田保(2005)
「喫煙習慣に関する経済分析――合理的依存症モデル神話とその再検討」田近栄治・佐藤主光
編『医療と介護の世代間格差―現状と改革―』東洋経済新報社。
角田保・小椋正立・鈴木亘(2005)
「喫煙習慣の世代間連鎖に関する計量経済学分析」田近栄治・佐藤主光編『医療と介護の世代
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佐藤雅代・大日康史(2002)
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厚生労働省 HP 健康ネット『たばこと健康』http://www.health-net.or.jp/tobacco/front.html, 2005 年 12 月 10 日。
17