「女中奉公と女工生活」 賀川ハル 著 <女中と女中奉公より> 師範学校へ入りたいと思っていたが適わず、小学校を卒業した 15 歳の夏の初めに伯母の 世話で決まってしまったのです。この伯母は毎年三月の小学校の試験が終わると、東京見 物に誘ってくれ、子どもが喜びそうな場所にも連れて行ってくれた。ガタ馬車時代や鉄道 馬車時代をも経験させてくれた。鉄道の高い響きのラッパも懐かしい思い出だった。父母 や妹たちと別れるのは辛く、温かい家庭から出ることは苦しかった。 母はハルのために、蒲団や衣類を全て奉公人向きに直してくれ、母も奉公したことがあ るため、奉公人としての作法を教えてくれた。そして住み慣れた横須賀を離れ、汽船は 4 時間ほどして東京の霊岸島へ着いた。 日本橋のある家に連れて行かれた。今までなら、伯父様、叔母様と呼ぶ人たちに対して、 旦那様、奥様と言わねばならない。奥様はとても綺麗好きな方で、外回りや台所もとても 綺麗にされていた。以前の女中もその通りであったと見え、台所の板の間は鏡の様に顔が 映るほどだった。 午前 9 時頃には 5~6 人の娘が裁縫の稽古に見えるので、その準備そして旦那様のお弁当 を届けるのも仕事の一つだった。 旦那様は「お前は、お乳母日傘で育てられたと言うのに奉公に出る様にまで零落したの は、お父様が道楽でもしたのか、それとも相場にでも失敗したのか?」と聞いたり、非常 に小柄なハルを使うのに痛々しく思い、気を付けてくれた。いつも空弁当箱にお茶菓子を 入れてくれ、ハルはそれを楽しみにしたものだった。ハルは先ず奥様にそれを差し出し、 残りの菓子を頂いた。毎日の風呂たきはというと、水道というものがあり、田舎から出て きたハルは水道の便利さを知った。また電燈は戸毎にはない時代なので、ランプの掃除で 竹ぼやの芯を真直ぐに切ることに苦労しました。丁寧な掃除が終わって夕食になるのであ る。奉公前の私の実家ではその日の出来事を話しながらの楽しいものだった。しかし奉公 人は八寸四方くらいの切溜のお膳で、奥とは別のおかずで済ます。夕食後片付けの後は、 磨き物を始めるのだった。盆、鼠入らず、家具などをから布巾をかけて磨く。寝る前には、 綺麗好きな奥様は座敷の畳を掃き、その上、手ぬぐいで拭く。奥の皆様が休んでから私も 休めたが、床につくのが楽しみだった。 以下ハルの手記<女中奉公と女工生活>を現代文字に直したり少々読み易い文にしたが、 ほとんどそのまま載せる。 奉公をして気づくことがあります。食事についてでも、家ではあれはいやだ、これは食 べられないと言っていても、他人の家まして奉公していてはそういうことは言えない。ま 1 た言わないほど不思議に美味しく食べられた。 少し風の吹く日などは、掃除に多忙を極める。三回も四回も掃いたり拭いたりして、雨 戸の桟まで雑巾をかけるのだから、夜は疲れ果てて居眠りが襲う。こうなると自分がかつ て家の使用人に悪戯をしたことを思いだした。夜に居眠る小僧たちに算盤を結び付けてお いて、急に「奥で呼んでいる」と言うと、驚いて算盤をつけたまま、ガラガラ言うのも気 がつかず走って行く滑稽さに手を打って笑ったのを思い出す。自分が同じ立場に立ってつ くづく悪かったと思い出すのだった。 またハルが読書好きなのを知った旦那様が「暇があれば読書してもよい」と言ってくれ たので太閤記を読み始めた。このことからも自由に勉強出来ない境遇の中で貧乏の悲しさ を深く感じた。その頃この家に出入りしている女の「小按摩」(マッサージ師)がいた。女 の両親とも失明していて、彼女は師匠から昼間は生理学を学び、夜は町を遅くまで歩いて 仕事をするのだ。遅くまで歩いても声がかからない時は、師匠の不機嫌を見るのが実に辛 いと言っていた。一時間くらい揉んで 5 銭もらって帰った。 「私は小按摩を見て誠に気の毒な人であると思ったが、私はそれ以上に、この人の 仕事は尊いことだと強く感じたのです。一日の中にはかなり多くの人に喜びを与え るだろう。奉公人が台所で働いてもそれほど喜ばれない。喜ばないばかりでなく、 私のように、年が行かなければ反って多くの世話を掛けることがあるのに、小按摩 は直接他人の肉体の苦痛を癒すのであるから、どんなにか人を喜ばせることが出来 よう。看護婦の働きと変わりはないと私は思ったのです。元来私は看護婦を志願し ていました。小学校時代ナイチンゲールのことを知ってから、その仕事に非常に憧 れを持っていて、その当時はどうしても自分は看護婦として働きたいと思う心が切 りでありました」。 女中のお正月というのも経験しました。お針子は晴れ着で年始の挨拶に来られます。 松の内三日は型通りの澄し汁のお雑煮、七日が七草粥、十一日が倉開きのお供えのお雑煮、 十五日が小豆粥というように定まったことがあります。十六日は奉公人の薮入りとなりま す。しかし最初の年であるし、実家に帰りたいと思っても暇は出そうにないのです。ある 日突然ハルの薮入りの話が出た。こんな寒い時に行かなくても、もっと温かくなってから 行ったらいいという奥様に対して、薮入りに寒いの暑いのとそんなことはない。一時だっ て早いほうが嬉しいものだ、と言ってくださり一晩泊まりの薮入りが許されたのです。そ の頃家は横須賀から横浜に移っていました。母に会うと言葉が改まってしまいました。父 も母も歓待をしてくれました。父は横浜には珍しい中国料理があると買って帰ってくれた。 母はハルの大好物を作ってくれ、二日一晩は天国のようでした。奉公に出なければこの薮 入りの嬉しさも味わうことはできません。 薮入りから戻り、ある日ハルをこの家の養女にという話になったことがありました。長 2 男の結婚の話から、旦那様には長男とは別に住むのがこの家の流儀のようで、奥様側は奥 様で自分の家名をたてる必要があるということからだった。正式な話ではないが、ハルは 奉公先としては相場師でもいいが、相場師が自分の家庭ということになると断らなければ ならないと思っていた。ハルは父と母の態度を誇りとしていた。父は決して金銭のために 頭を下げない人だった。金を得たからといって放蕩をしない、また儲からないからといっ て、他の婦人のところなどへ行かない、酒を好まない父は、酒の上での乱暴などかつて見 られなかった。母も外側だけを飾るということをせず、子どもたちのために骨を惜しまず 働くよい母だった。 伯父はハルの女中奉公について反対だった。「勉強したい望みを持った若い者が、長くそ んなところにおってはならない、奉公も一年すればよく分かっただろう、もう帰ってくる がよい、自分の家から学校に通わせようか」ということでハルは喜んで伯父の世話になっ て女学校に通うようになった。 一年を送ったこの家を去るのに心は曇った。辛いことがあっても愛されてきた。自分の 家以外の家風も知りまた家事の新しいことも覚えた。嬉しさも悲しさも深く味わった。こ の一年深い眠りに落ちていたような感じである。家が貧乏なため、望みも捨てなければな らないという逆境から、他の一切を顧みることなく過ごしてきた。伯父の一言が幸いにも この眠りから覚ましてくれるものとなった。 女学校に通ったハルだが、伯母の出産の世話をするようになり、結局は女学校にもいけ なくなった。 <女工生活> 父は創業以来、三度も火事に遭った。結局は廃業となり、父は義兄の印刷会社の社員と なって働くことになった。一家で神戸支店の働きを強化するために来たのは、明治 37 年の 5 月だった。 父は慣れない会社勤めと、神戸の暑さで随分苦労した。母は私に手伝わせて、その会社 へ勤める人々の下宿をしていました。妹二人は小学校へ通い、末の妹はまだ幼なかった。 ハルは下山手から鯉川筋まで下宿人の弁当を背負って運んだ。重いのと暑いのとで中々骨 が折れる手伝いだった。途中生田の森で一休みして行くのだった。ある日生田神社の境内 じんぐう で、神功 皇后の釣竿の竹というさかさに生えた竹に、雀の雛が止まっていたのが、つい落 ちたので私はそっと雛を取り上げた。すぐ逃がそうとも思ったが、持っていたくもあるの でそのまま軽く手の中へ入れて例の重い弁当を背負って会社へ急いだ。汗を流しながら着 いた時には、12 時 10 分過ぎだった。印刷工は楽しみにしている昼の弁当が遅いので門口に まで来て待っていた。私は自分の遊んでいたためこの人たちにすまないことをしたと恐縮 した。 十月になって会社は女工を募集したので、私も女工になろうと思った。貧乏しても生ま れ故郷の横須賀であれば、質屋の娘が女工になったと言われるのも恥ずかしいし、学校の 友だちの誰かに、学校では成績が良くても貧乏したから女工にでもなると思われるのも 17 3 歳の娘としては苦しかった。しかし 150~160 里も離れた神戸では誰にも会うことはないだ ろうと思いながら女工となった。私は家の零落した悲しみと、賤しく思っていた「女工」 に私も今日なったのだという悲しみを持ちながら会社の門をくぐった。 事務室を通り抜けると印刷の機械場で、薄暗いところに十六頁や八頁の機械が据え付け ハ ン ド られていた。手機械 には名刺や封筒の住所の刷り込みが掛けてある。そのそばを過ぎて行 くと製本部へ登る階段がある。登りつめると 6-7 坪の板間に数人の職人がいた。女工も製本 用の機械や器具も珍しく見えた。私は女工生活の第一日目なので隅の方で時間のくるのを にかわ 待っていた。小僧たちが忙しく火をおこして 膠 を溶かしたり、糊を溶かしたりして、仕事 の準備をしている。八時の始業の鐘が鳴ると階下の機械場の印刷機が大きな音を立てて運 転しだした。私も折台の前に座って聖書の刷り本を折るように仕事を与えられた。この会 社は聖書の印刷が主なものだった。他の女工は私より年下だが工場には慣れていて、仕事 にも慣れているので、小歌を歌いながら紙を折っている。私はまったく恥ずかしくて頭を 折り台に向けたまま、臆病に教えられたことを間違いがないように一生懸命だった。昼に 近い頃、当番の女工は茶を汲んで来たり、職工たちの茶呑み茶碗を洗ったりしていた。私 は慣れない仕事にすっかり肩を凝らしているのを感じた。女工たちは粗末な弁当をサッサ と食べ終わり、汚い仕事着のまま出ていって近くの元町通りの商店街を見て帰ってくる。 やすえさんは漸く 11 歳になる女工だったが、非常に手先の器用な、仕事の早い子だった。 はやりうた 小学校に僅か一年半しか行かなかったので、仮名ばかりを頼って流行歌 を詠んでいた。私 は自分も女工にまでなるほど可哀相な者だと思っていたが、この児を見ると本当に気の毒 だと思った。父親は踏切番人で極僅かの収入しかない。姉娘は放蕩して早くから家を出て、 岡山辺で酌婦をしているそうだ。そしてこの印刷所に来る前もやすえさんは既にマッチ会 すだれや か ご や 社と簾屋 と籠屋 に働いていた。今でもここから帰るとマッチの箱はりをするのだと言う。 でも境遇をあきらめている様に快活だった。芝居が唯一の楽しみらしくその話をしていた。 この人たちの会話を面白く聞いているうちにもう六時がきた。私は八つ折を 600 枚した。 これが私の賃金労働の第一日だった。慣れれば 3000 枚も折れるらしいが、でも大した失敗 もなく一日の労働を終えた。やかましい音響と粉塵の中から脱して、家路に向かったが膠 の臭気と肩の凝りはまだ私から離れない。 社長にしても課長にしても以前からの知己であるにも関わらず、羞恥心の深い私として は、家に帰って重荷を降ろしたようにホットした。しかし一日だけで行くことを止めよう などとは決して考えなかった。また辞められる境遇でもなかった。翌朝も早く出勤した。 やすえさんは私より更に早く来ていた。私も今日は少し慣れて二言三言ことばを交わした。 この日も肩は非常に痛んだ。事務室にいる父は、私を案じて時々製本部にまで上ってきて くれた。そして私の仕事を見て注意をしてくれたり、自分の茶菓子を私に持って来てくれ たりした。私はかつて父の全盛の頃、美しい衣類を作ってもらったり物見遊山に連れられ たりした以上に、社員となって働いている父の私への愛を深く感じた。 4~5 日経つと恥ずかしさも薄らいだ。仕事も慣れて皆と話をするようになった。やすえ さんには、はる代という親友があった。やすえさんが言うには、はる代さんも女工を 2~3 4 年している。やすえさんより 3 つ年上で、小説を読んだり、役者買いをする生意気な人だ という。なるほど貸し本屋の印のあるものを昼休みに読んでいる。席の身振り芝居の役者 に菓子を持って行って、かんざしをもらったことがあるので役者買いと言われていた。色 の黒い深目のやすえさんに比べると、はる代さんが見た目には勝る。女工のうちで目に付 くのは、お清さんである。一番年長者で 35~36 歳であった。身体は肥った目の細い人だ。 言葉が関東弁なので聞いてみたら長い間横浜に住んでいたと言った。私の目にもその人が 純然たる女工でないことが解った。それはその筈だ。お清さんは中国人の妾だった。そし てまた若い娘たちを中国人に斡旋する人だった。時折はここの女工たちを招いて御馳走し たりするので、お清さんはもてはやされていた。その他には荒田の貧民窟から来る 13 歳の 君江さん、髪結いの娘、人力車夫の娘など同じ年頃の娘たちがいる。女工頭は横浜の本社 から派遣されたおとみさんであったが、実に良い熟練女工だった。大阪の「○○さかい」、 京都の「どすえ」、兵庫神戸の「なんぞいな」というように周囲の言葉は私には可笑しく聞 こえる関西弁の中に、おとみさんの言葉は懐かしい関東を忍ばせた。小さい女工たちの木 綿縞の着物や私の色あせた更紗の羽織など着ているなかに、おとみさんの銘仙の着物や持 ち物は女工たちの羨望の的となっている。皆心の内では、早く女工頭くらいの日給を取っ て、美しい着物を着たいと思っている。中には給料が多くなっても全部家に入れなければ ならないので、とても自分の着物は望みがないとあきらめている者もあった。 労働者の嬉しい日が来た。初めての給料日に私は一円 80 何銭か受け取った。計算してみ ると、一日が 12 銭の割りになっている。他人が弁当代にもならない日給だと笑っても、こ れが自分の手で労働して得た金だと思うとうれしくてたまらない。とにかく嬉しさはいっ ぱいになって家に帰った。やすえさんはその時 8 銭の日給だった。私も彼女もしばらくし て 3 銭の昇給があった。 その年も年末に近づいた。仕事も多くなったので、女工たちも夜業が始まった。時間の 割増しがつくのをみな喜んで夜業をした。夜の 12 時になると、そば代がでる。当時神戸で はうどんが 2 銭であったので、その二つ分を貰うのである。これがまた皆を喜ばせた。寒 い夜更けに私は他の人と一緒にうどん屋に入って飢えた胃の腑を満たしたりした。その頃 生田の森の横には屋台店の天婦羅屋があった。連れの人たちがよくその店のものを買い、 人通りの少ない夜、食べながら歩いた。私はいくら女工だと言っても行儀が悪いと心のう ちで笑っていた。しかし自分がその仲間入りをしたのは、あまり時間を経ないことだった。 元来脂肪をあまり好まなかった私も 1 銭で大きな揚物 2 つもあり、また非常にそれは美味 しく感じてよく食べた。実際朝の 8 時から夜の 12 時まで 16 時間も働く労働者は、多くの 女中にかしずかれ、化粧と衣装の選択にのみ時間を費やす人と同一視することの出来ない ことを深く自分ながら感じた。そうしてまったく良いことか悪いことか分からないが、自 たもと 分も女工になりきってしまった。白足袋であったものが黒足袋と変わり、 袂 のものを筒袖 と替え、単衣の上っぱりを来て労働するようになった。 製本部の男工の中でも仕事は専門的である。ある者は紙裁ちであり、ある者は罫引であ る、ある者は金箔を本の周囲につけたり、表紙の金文字を入れたりする。ある者は表紙に 5 用いる皮のみを取り扱う。ある者は綴じ、ある者は断裁機を扱う。特に私を驚かせたのは 欧文課の課長の指先であった。その人は暗闇でもその文字が解るというのであった。文字 の組み方も非常に上手であったため、その会社の欧文ものはこの地で評判であった。 私はそのようなことに感心して聞いていた反面、社会で恐るべき罪悪が多々在ることを 知った。僅か一ヶ月ほどで私は大きな学問をした。青年たちは給料の支払日には必ず遊郭 に足を入れる。そして悪性の性病を貰ってきて悩んでいる。女工は真面目に働いているか と思えば中には、中国人その他の外国人に貞操を売っている者もある。お清さんのように その斡旋をして他人を堕落に陥れている人もある。かつて見聞したことのない事実を、し かも社会の悪は私の目前に展開されていた。私は驚異の眼を見張って心を引き締めた。 この会社の社長は早くからキリスト教信者となって、イエスの福音の宣教に平信徒とし て努めた。それで自分の会社の社員や労働者に福音を聞かせたかったので、一週間に一度 工場内で伝道説教があった。牧師を通して、そして神戸の支店でも本社に倣って、毎月曜 日の朝に一時間、讃美歌を教えられ説教を聞いたりした。12 月の 25 日クリスマスの祝賀会 が催された。クリスマスが西洋人の正月だなどと間違いはなかったが、信仰を持つ者はそ の頃ほとんどなかった。ただ半日休みであるのと立派な菓子折りが皆に喜ばれたくらいの ものだった。 クリスマスが済むといよいよ正月が来る。女工たちは、課長や女工頭に年末の贈り物を するために忙しい中を元町あたりに買い物に行く。女工の子どもたちはとにかく正月を楽 しんでいる。皆揃って芝居見物をするのだと言っている。私は芝居を好まなかったが、皆 女工たちが芝居見物をすると言うので私も見る気になった。それ以来私も好きになった。 正月は三日間休みである。かるたをしたり芝居に行ったりして楽しく送った。男子の 間では酒の上での喧嘩があったり、遊郭に行って不始末をしたりのようである。正月四日 は仕事始めであるので、皆着飾ってくる。着飾るといったところで女工部の大部分は銘仙 も容易ではない。ほんの普段着と変わっている程度のものである。支店長の訓示があって 後に福引が始まる。なんでも本社の方では、社長の年齢が一番くじになるのであって、一 等は総桐の箪笥ということだった。神戸は支店だけにそんな大した物はなかったが男女職 工は大喜びであった。 一月の月は年の暮れのように忙しくはなかった。しかし少しずつ会社も発展するので 夜業も始まるようになった。男職工たちは夜業を喜んでいる。正月に支出が多く経済的に ひっばくしているので少し働かなければならないと言っている。女工たちは時間給が付く のは嬉しいが、家が遠い者は帰りを淋しがる。元来会社が市の中央で最も繁華な所にある ので、工場を出る時は連れも多いし街も賑やかで、近所の賑やかな神社の境内を通って明 るい街を帰って行くが、連れが少なくなると同時に道は淋しくなる。私と別れてやすえさ んとはる代さんはまだ 5 町か 6 町も先へ帰っていく。あのひさしの傾いた、カンテラの灯 の暗い、冷たい家へ帰って行く。 新しい女工がますます増えてくる。来た当時は皆「折り」をする、そしてその中から 選択されて「綴じ」の仕事に移るのである。「綴じ」になったからと言ってすぐ昇給するわ 6 けではないが、とにかく名誉である。またその中から一段上の仕事に変わり、男女工と一 緒に仕事をするようになる。あるいは別れて封筒専門になったり、罫引きの方に移ったり する。 女工頭は新しく来た者に仕事を教えたり、皆の折った「折本」を 5 百づつ縄でむすんだ り、女工の折る数や綴じの冊数を成績表に記入するのが仕事である。また働きの時間をつ けるのもその人の仕事である。 女工頭であったおとみさんが横浜に帰らなければならなくなった。私は色々と仕事につ いて教えを受けた。おとみさんには深い感謝をもって三ノ宮駅から送ったのだった。おと みさんに変わって神戸の女工養成のために一人本社から送られてきた。それは 50 歳をだい ぶ過ぎている、もと製本屋を開業していた人の未亡人であった。春も過ぎ初夏の頃であっ たので、その人は神戸の名物と言われている南京虫を非常に恐れて、予防として白布の大 きな袋を作って持ってきた。夜寝るときにはその袋を敷き蒲団の上に置いて、身体をその 中に入れ首のところで袋の口を締め、顔だけ出して虫の来襲を防御していた。そんなにま で準備してきてくれたのにもかかわらず、工場において女工の間ではあまり喜ばれなかっ た。あまりにも年齢に相違があるのが原因か知らないが、若い女工たちはその人を差し置 いて仕事をするので、ひどく感情を害してしまった。気の毒に二ヶ月ばかりで横浜に帰っ てしまった。それでその仕事は万事私がすることになった。なんだか権力争いの勝利者の ようで不都合だと思ったが、課長の言われるままに私はその位置に座った。これは私が女 工生活の一周年に二ヶ月ほど前のことであった。 工場では森課長が女工さんと二人で神戸から消えてしまった後、宮澤氏が変わってその 任を受けた。この人は横浜の本社から神戸に来られたのは極最近のことで、私の入社より 以後であった。よく話す人で工場内の子どもとも女工ともよく話をする。それで宮澤氏が 製本職工となった訳も知った。それによると生まれは信濃で、中学を卒業すると東京へと 出た。それは勉強を続けるためだった。在学中にふと知ったのは、親たちの考えによって、 国の従妹と婚約が約束されていたということだった。生憎宮澤氏はその人を嫌っていた。 最近どう変わったか知らないが、幼い時見たその容貌によると、あまり美人という方では ない。その婚約は破棄してもらいたいと思い、その目的達成のために放蕩を始めた。放蕩 息子では先方の親たちも当人もきっと見放してこの婚約は取り消されるであろうと、つい に紅灯の巷に足を入れるようになった。その結果、自分の狂言の放蕩は真実の放蕩となり、 学費は全く断たれてしまい、国の婦人はいつまでも約束の人の帰りを待つと言ってくる。 それ以来学校生活も止めて、迷った。僧侶になったり、俳優になったりして、ついに製本 屋に入ることになった。製本屋といえば兎に角本に縁のあるものだから、読書もできるだ ろうという考えがあった。ところが 28 歳の書生上がりの小僧でこの仕事に対しては何の知 識もないところから、雑用に追われ読書などの時を作れなかった。これを終生の仕事とも 勿論考えなかったが、それを継続させていた。その後国ではしきりに結婚の時期を急いで きたので、自分も今度は承諾して信州に帰った。親戚のことであるから改めて見合いとい うこともなく祝日は近づいてきた。幼い時に別れたままの顔はおぼろにしか知らない。見 7 せて貰いたいとも言うのも自分としては恥ずかしいし、嫌いであったほどその容貌が気に もなるので、心は非常に不安であった。やがて待たれた当日になって、見たくて仕方がな い花嫁は美しい装いで、添え人に助けられて席についた。しかし花のかんばせは惜しくも 綿帽子で全く覆われていて失望した、と話しては若い人たちを笑わせていた。時折課長の 家を訪問すると、特に正月の年始の挨拶に女工たちが行くと必ずこの綿帽子で新郎を悩ま した夫人の御馳走になるのであった。 宮澤課長になって初めて私どもの間に一つの会が組織された。それはごく小さいもので あった。労働組合の初期において英国などに於いてもあったような所謂葬式組合のような ものである。各自の収入に比例して僅かな会費を積み立てて会員中の幸不幸に対して一定 の金額を送るようになっていた。ただ残念なのはこれが会社全体ではなく製本部に限られ ていた。他の課においてこの企画はなかった。子ども心にさすが教育のある者の優れてい ることをしみじみ感じた。 益々拡張されてきた会社は、大阪から製本工を 5~6 名入れた。最も年長者で独身である 関東生まれだがしばらく大阪に居てその職にあった者、一人はまだ青年で非常な病身、血 色がいつも悪かった。どこからつけたあだ名か、仙人のあだ名があった。もう一人は純粋 の大阪生まれで優しい言葉の持ち主であった。他の一人は熟練工であった。その人はかつ て大阪の工場で働いていた時、断裁機で負傷し片手の四本の指先を機械に取られてしまっ ている。その他大阪の者もいたので、関西の色彩が大分強かった。それで以前からいる関 東側と自然に二派ができるようになった。 <長唄> 自分が女工になるまで馬鹿にしていた芝居が、止めることが出来ないほど好きになっ たのは工場に勤めだして一年半ほど後であった。芝居は関東で子どもの時に見たのはごく まれであった。横須賀には芝居小屋が二座しかなく、一座は自分の家の近くで一丁くらい しか離れていなかった。この座が火事で焼ける前は、家の前が芝居小屋であって自宅の二 階から楽屋などがよく見えたようだ。この横須賀は当時遊郭が海岸にあった。遊女屋を見 たことは記憶にないが、娼妓の簪をよくもらった。誰がくれたのか知らないが、赤い大き な花に銀のピラピラが付いている花かんざしを喜んだことを覚えている。その後遊郭は市 外に移転したが、芸者家は残っていた。これは私の 4~5 歳の時だった。芝居や料理屋、芸 者屋に取り巻かれた私の家は、父が非常に厳格であった。私は踊りも唄も好きであったが、 稽古をすることは許されなかった。それで私は母に少し教えてもらった。夜床に入って母 が添い寝してくれる時に、私の要求に応じて口三味線で教えてくれた。それで 5~6 つの長 唄を覚えた。7 歳で小学校に行くようになってから、友だちの多くは清元や踊りを習いに、 学校からの帰途師匠の家に寄って稽古をしてゆくのだった。順番に木の名札を掛けて自分 の番が来るまで師匠の家の前で遊んだり、熱心な者は他人の稽古を見たりしている。私も どうかして習いたいと父にせがんだ。横須賀では当時そんなことが流行していた。一年に 一回は大々的に舞ざらえがあって劇場で華やかにしたものである。各自得意な踊り、三味 8 線、唄というように、家人も力を入れたもので、その衣装に何十両もかけて京都で染めた とか、今度の踊りの出来栄えはどうであったとかいうようなことを誇っていた。父はそれ が嫌いであった。家では一切舞いざらえなどに出さない条件で許してくれた。わたしは地 味な弟子で 4~5 人もいない長唄の師匠に行くことになった。時折師匠の自慢などして、私 の師匠には弟子が 50 何人もあるなど皆が言い合っている場合、私は隅に小さくなっていた。 私は踊りが踊りたかったが出来ないので、よく他の師匠宅の家の前に行って、人の稽古を 見ていたものだ。それも背が低くて見えないので肘掛まどの格子につかまって無理に伸び 上がって見た。師匠が足拍子を取るとき、入れ歯が舞台の上に落ちたことや、踊りのうち に酔うてよろけるのを見て、とめどなく笑って師匠に叱られてことなどがあった。 一年に一回か二回、母に連れられて芝居に行くことが嬉しかった。一生懸命に見ていて 帰って来て真似るのでよく人を笑わせた。それがいまだに古い伯母や従妹に会うと話に出 されて困っている。質商という商売柄引幕などが質物として扱われまた衣装もある。子ど も心に妙なものだと思うようなものがあるのできくと、これは芝居の衣装で、お船という 娘の父で渡しの頓兵衛が着るのだろうと言われたことがあった。 少しずつ進んだ私の唄も、やがて三味線を習うようになった。小さな膝に大きな三味線 の胴は乗せきれないで、膝からいつも落としていた。師匠の丹精で糸も 6 つ 7 つ上げた頃、 師匠は病気のために教えられないことになった。それで他へ紹介するというのを断って学 校も面白くなった矢先、惜し気もなく一年半後まったく辞めてしまった。 <芝居> 女工となってまたまたそれらのものに対する愛好は復活した。しかし何を見ても関東好 きの自分には、初めから関西の芝居には物足りなさを感じた。艶物に対して関西が得意で、 左団次的ものに関東の妙味があり、各々その特徴があるとは言いながら、どうも始めは心 地よく感じられなかった。しかし静かに長い年月見ているうちにやはり惹き付けられるも のがあることが解った。そうなるとどちらが勝りどちらが劣るということもなく見るよう になった。私には何の批評を下すことも出来ない、ただ所謂一流の俳優以外に立派な技量 を持つものが引き上げられないで、自由にその優れた技能を現し得ない今日の俳優間の門 閥を惜しく思うのである。それでよい芝居を喜んで見るがまたその反対のものも好んでみ がんばい たものである。雁梅などが来るような劇場でも普通木戸(賃)が 3 銭であった。もちろん 中銭がないではないが、3 銭で一日見ようと思えば見られるものであって、関東のように一 幕だけ見るという立見はない代わり、舞台に最も遠いところは木戸の 3 銭のほかには少し も払わないで 12 時から晩の 11 時までみることが出来るので女工には相応した娯楽である。 明治 37~38 年頃であるから勿論今日の活動写真はなかった。勘定日に近い日曜の休日に、 髪を結って風呂に入って女工の 4~5 人と連れ立って芝居見物に出かける。着物を着替えた はんてん といっても普段の筒袖の上に羽織か半纏 を取り替えるのみで、白足袋もさっぱり似合わな 9 い。 白粉をつけてはいるが女工の匂いは失せない。15 銭くらいの場代を払って花道の傍あたり に一行は座る。少しも損のないように始めから見る。巻き寿司のお弁当やごま塩のおにぎ りもある関東煮や昆布は私ども女工の非常な好物である。大した御馳走もなくその他には 余り小遣いを使わないのである。30~40 銭くらいのところで一日見てくるのであるから、 実に安いものである。しかし我々女工としてはそう安価なものでもない。 日給 30 銭の者は当時まで私の会社にはいなかった。女工の最高が 30 銭とされていて早 くここにまで昇給したいと考えていたので、女工頭の自分さえ 24 銭くらいのところであっ た。ある者は 15~16 銭の日給であるから安い芝居見物でもそう度々許されないのであった。 しかしだんだんと熱心になって来ると、中々そう悠然と見る時まで待てない。夜業を終わ った 9 時頃でも一幕だけ見る考えで行く、時によるともう終わりに近いので、木戸の 3 銭 を 1 銭くらいにしてくれるので喜んで見たものだった。 日曜日でも極めて簡単に芝居見物をする。関西は劇場でよく飲食する方で、重箱を沢山 持ち込んで、見るのと食べるのと同時に楽しむような傾向がある。それに私たちは見るば かりに懸命であった。食事をせずに見る時も多くあるので、自分ながらこれこそ全く、飯 より好きな芝居というわけだと思った。 <紙入れに百五十円> 四十ぐらいの労働者らしい婦人が娘を連れて事務室に来た。その娘を雇ってもらいたい とのことであった。親子は実によく似ていた。額の広い頬の赤い、眼が小さくて丸い、髪 の毛の極めて赤い母と娘であった。係りの者は早速承諾の旨を伝えた。それで毎日通勤し ていた。このおすえさんは、かつて簾屋に仕事をしたことのあるものであった。製本のこ とも覚えてからはその仕事は実に早くすることができた。急ぎのものはこの娘にわざわざ させたくらいで成績は最高であった。性格は温順ではなく、喧嘩にはひけを取らない。ま だようやく十四の幼い身で職人を相手にして罵倒する。この娘が入社した秋も過ぎて冬に なったある朝、おすえさんは赤い顔を一層赤くして息を切らせて社に駆け込んできた。仔 細を聞くと、今自分が会社に来る途中、中道筋の小間物屋の前で綺麗な女ものの紙入れを 拾った。中を開けて見ると十円札が十四枚も入っていた。他にまだあったが数えていない。 あまりに沢山入っているので、恐ろしくて持って行くことが出来ないから、やはり今あっ たところにまた置いておいた。すると小間物屋の隣の小僧が言えの戸を開けに来て、その 紙入れを見てすぐ取り上げて派出所に届けるのだと駆け出した。見ていたおすえさんはそ れが惜しくなった。でもどうすることも出来ないので社に走ってきて私どもに話した。 聞いていた職人の一人が、そのままではあんまり馬鹿らしい。交番に行ってそれは私が 拾ったのだと言えと教えた。おすえさんはまた社を駆け出して最も近い派出所に行き、今 私は斯く斯くの場所で斯くのごとき品を拾ったが、隣から出てきた小僧がそれを私より先 に走って交番所に持って行ってしまったのです。拾ったのは私ですと言って帰ってきた。 翌々日おすえさんは呼び出されて、あの紙入れは灘の酒造家の娘が神戸に買い物に来て、 10 雨が降ってきたので身づくろいをするのに一寸紙入れをおいてそのまま置き忘れ、後から 気づいて警察に届けたものと解った。それで謝礼として十円あまりを貰って帰った。次の 日のこと、工場に知れてきたので職人たちは、おすえさんに冗談にあれは私らが教えたか らこそ10幾円も貰えたのだから、その割り前を少し出さなければいけないと言うと、彼 女は真顔になって、私だって少しも貰わない。母さんが皆お酒を呑んでしまったから私も つまらないのだと断りを言っていた。 <女工の間食> 監獄に生活すると非常に脂肪が不足するので、それを自然要求するそうである。ある紳 士が入監中に肝油が最も珍味であってその甘味が忘れ難いものであったが、自由の身とな りその忘れ難い珍味の筈の肝油を摂取したがとても臭気が強くて口にすることが出来なか ったと(貧民心理の研究)に記されてあった。女工の多くがその家庭で飲食するところは、 充分その栄養を取ることが出来ないため、間食は止むを得ないところだと思う。私たちの 仲間では朝となく昼となく区別なしに食べる習慣がある。 ある者は朝の出勤の時に買い求めてくる。ある者は母親の仕事先の物を持ってくる。と いうのは南京豆の倉庫や茶庫、海産物の倉庫に行く人たちがやはりその取り扱うものを持 って帰るのである。海産物の貝柱、剣先するめ、あわび貝はあまり安価なものではないの でそのあたりの監督が厳重であるが、それでもそうした間違いが時々ある。甚だしいのに なると、それを女工頭としての私にまで贈物として持ってくるので随分私も困った。いず れの工場でもあることだが、自分の昇給のためにその他の運動として自分の上に立つ者に 充分心を用いるのである。女工の間でも出入りがあるので聞いてみると、かつて何々会社 に入っていたとかどこの倉庫にいたとか言う。そこで扱うものを飲食するくらいは黙認し のだから、上等の茶などになるとその人の賃金より以上を盗み帰るわけになる。植字場な どもかつてある小僧が一本 5 厘くらいの活字を例の空き弁当に入れて帰ったというのを聞 いたことがあった。製本部なども女工の間にはないが、帳簿の一冊 8 円から 10 円のものを 作って帰る者がある。 会社あるいは資本家の利益分配の不平等を考え、今日の労働者の不利益な地位にいるこ とを思うならば、職人のそうしたことが九牛の一毛にしか過ぎないと言うかもしれない。 どの工場に於いても勿論こうした不正を行う者が全部ではない。一工場に数人かもしれな い、否一人かもしれない。その数人あるいは一人によって労働者を裏切ることを悲しむべ きことだと思う。資本家の大なる不合理に対抗するに、それらは余りに惜しむべきことで はあるまいか。そんな欠点をよい餌食にされて資本家に横暴を極められているとするなら、 不正な数人を除き一人を除いた多くの働き人はどうして立てよう、その人こそ実に獅子身 中の虫と言いたい。労働は神聖なりと言う働き人が誠に正々堂々と一点の非なく労働の運 動を進ませるべきだと私は思う。 そんな風に家から持ってくる者もあれば、会社に来て当番の使いが皆の注文を受けて買 いに出ることもある。日清戦役に軍用パンと称する堅パンが売り出されたのを自分は覚え 11 ている。それは厚さが 5 分くらいもあって、三寸くらいの四角なものであった。それが日 露戦争の時のは、味も形も変わっていた。私が女工になってから第二の軍用パンが菓子屋 に出た。それは形の壊れた、軍隊に納まらないもので菓子屋の店先には、一盛一銭または 一袋一銭というようになっていた。女工の間にはそれが流行になって誰でも買ったものだ。 二銭もあれば随分と食べられたものであった。兎に角その当時は米一升が 14 銭くらいだっ た。賃金も安いが物価も安かった。神戸では一年中薩摩芋があるのでこれもまた女工には 非常に喜ばれた一つである。勿論新いもの出る前はその味は全く落ちてしまうが、それを 油で揚げてあるので相当食べられるのである。関西で生の昆布を好んで食べていることは、 ・ ・ ・ ・ 私のような関東育ちの者を驚かせる。ことに「夜の昆布」はよろこぶ と言って縁起がいい ので、たとえ少しでもいる人たちが分け合って食べるのである。えんどうとそら豆の煎り 豆は皆好きである。いかなる日でもこの注文のない時はないと言ってもよい程で、水菓子、 果実は稀である。しかし夏みかんだけは例外である。餅菓子は好むが高いので余り買わな い。 神戸の女工の間では煙草を吸う習慣がある。私の工場ではあまり女子が好まなかったが、 3~4 人は常にあった。十六歳くらいから始めたとその内の一人は言った。若い人で喫煙す るのはその人くらいで、あとは家庭を持っている相当年の寄った人だった。酒はほとんど 女工は飲まない。やはり若い女たちが多いせいだと思う。 <神社めぐり> 神戸では一年の初めに参詣に行くのは、長田神社とされている。早い参詣者に御利益が あると言われているので、一月元旦は夜明け前、大晦日からつまり夜の十二時を過ぎてす ぐ行く人もある。そのために電車は終夜運転の盛況を示している。長田神社の参詣道には、 縁日商人の中に混じってポンペイを売っている。薄い長いガラスの管の先が大きいのにな ると直径 5 寸くらいの円形になっているもので、管を吹くとガラスが薄いためペコンペコ ンと鳴る。実に壊れやすいが子どもの喜ぶ玩具である。 一月十日は戎神社が賑わう。これも福を受けに行く人は著しく多い。九日から翌日の十 日の両日は福を受けたい人でも電車も、道も境内も人で埋まっている。戎が耳が聞こえな いと言うので社の扉を叩いて「福をくれ福をくれ」と言っている。私どもの間では、この 時などは大抵遊びに行くので真に信頼して福を得ようとまで熱心に思うものは見受けられ ない。 ふたたびやま 一月二十一日は初大師で再度山 が賑わう。三月には生田神社の祭礼が行われる。ここは 春祭りと秋祭りの年二回行われる。この秋祭りには祭りが終わっても、出店した商人がそ れより更に 5 日間くらい留まって品物を売る。今日のように交通が便利ではなかった昔の こと、近郷から祭礼に町に出て来た者が農具を買い整えたり、正月の衣類の新調をその時 にしたりするので、そうした習慣があるのだということである。それが尚今日にまで引き 続いている。この生田神社は女神であって、この神社の土のほかに移ることを好まず、祭 じんぐう こうごう 礼には必ず雨が降ると言い伝えられている。境内には例の神功皇后の釣竿の竹、敦盛の萩、 12 えびら うめ うまや 箙 の梅、 厩 には白馬が刻まれて納められている。これが日露戦役には、日本を守護される しゅつぎょ うまや 神が自ら 出 御 なされ、この彫刻された白馬にまたがって行かれたので、戦中はこの馬が 厩 にいなかったと伝えられている。社の裏は、敵と味方が互いにしのぎを削ったことが歴史 うっそう に名高い生田の森である。電車の響きと電気燈の輝く神戸市中に昔を偲ばせる鬱蒼 たる森 のあることも面白い。 み る め み る め 神戸の東部に敏馬 というところがある。ここに敏馬 神社が建てられてある。神様にも専 門があって、ここは絶縁を好む神様で誰でも縁を切りたいと願ってその人々が連れ立って 参詣すると必ず縁が切れると信じられている。もしその相手の人と連れ立つことの不可能 な場合には、その人の所持品でも衣類でも持っていって祈願を込めると大願成就疑いなし とされている。私は私の知った女工の一人の夫が放蕩を止めるため、夫と他の婦人との絶 縁を祈っていたことを聞いた。同神社はまた眼病によい霊水が岩間に湧くと言い伝えられ て、その水を汲む者が多い。 <麻耶参詣> 信仰面ではこれらを心から信仰するというようには女工の間であまり言われていない。 私の知った中では、何といっても麻耶山に祀られたる麻耶夫人またそこに安置されたる観 音とが信仰されていた。麻耶山は市の東北、名高い六甲はそれに続いている。海抜二千尺 以上で中々登山は楽ではない。ここに参るには判然たる目的があって「一ヶ月一回ここに 参詣する者は小遣い銭の絶えることがない」と言われている。私たちの仲間はよく日曜日 にじゅう はっちょう などに申合わせて行く。登り 廿 八 丁 は終日座って仕事をしている私たちには骨が折れる。 ふもと でも高いだけに美しい。 麓 の松林を過ぎると麻耶橋に出る。橋を渡るとその流れに沿って 登りになる。かめの瀧が落ちている。信仰厚い人が打たれて病を癒されるという。山と山 よ し ず の谷あいを涼しい風に吹かれて行くと、葦簾 を張った茶店がある。千代子、花代、秀奴な の れ ん どと白で染抜いた濃い茶の暖簾 をつりさげている。こんな店がところどころにあって下駄 こ ぎ れ を草履にぬぎかえ、5 厘の竹の杖や草履を足に結ぶ小切などが備えてある。台の上には菓子 が並び、屋台店のところには海苔巻が出来ている。しかし私たちは大抵各自に持っている ので、その辺りには少しも用事はない。山を一つ越え、谷を二つ渡ると登りの烈しさをお ぼえる。汗ばんだ顔を冷たい水で洗い、渇きを小川の澄んだ流れに癒していく。杉が険し い斜面に繁っている。何となく俗界を離れて心がすみ切る。山は益々急で全くつまさき登 りとなる。あと 5 丁、もう 4 丁と示されてある石の立札に励まされて歩く。山頂の社から つぼさか 鐘の音、険しい山、深い谷、壺坂 のお里ならぬ自分も何だかこれでは、小遣い銭が絶えな い御利益以外に何かありそうに思える。やがて珍しく平坦な道に出た。ホッと息をつくと、 他の参詣者が、これは極楽坂と言うのだと教えてくれた。なるほどここは極楽に違いない。 いよいよあと三段の長い石段を登り詰めると目指す社である。石段の両側は三軒ほどの坊 あかがね がある。行き過ぎると先ず手洗い水がある。 銅 の龍の口から美しい水が出ている。奉納の 柄杓でその水を汲んで再び水に落とすと、水泡が一文銭の型を現すといって始めての参詣 者は不思議がる。始めてでなくとも、その裏屋根の形が映るのだという理由の解らぬ人に 13 は合点がいかない顔つきで有難がっている。その左手に釣鐘堂がある。これが風の加減で 遥か山の下の町にまで聞こえてくる。その堂のなお左に平面の石があってそれに大型の足 たてまつ 跡が刻まれている。これは釈迦尊の御足形であるといわれて、米が数粒 奉 ってあった。中 央に参拝すると、入り口に家内安全無病息災の祈願のお蝋燭が売っている。小型の蝋燭は 一銭、少々大きいものは二銭である。反対側に赤ら顔のおびんづる様が数知れぬ病人にな でられて痛々しくも鼻や耳が形を失っている。正面の賽銭箱には善男善女の捧げ物が入れ られている。その正面の御本尊は私にはよく見えなかった。 麻耶山は中々熱心な信者を持っているので、どんな日でも一人の参詣者のない時はない。 もし一人もお参りしない日があれば、観音の御腹立ちでこれより尚三里の山奥に入ると宣 告されてあるそうで、どんな風の烈しいまた雪の寒い日も天を焼く夏の日も参詣人のない 時はないということである。 お参りが済んで一休みして帰途につく。石段の両側の何れかに寄って皆御くじを引く。 石段の下の所には乞食がその憐れみを得ようとつきまとう。帰りはなんと言っても登りよ りか容易である。この山は往復四時間あれば大抵私たちの家にまで帰れるのである。山を 離れて人家のあるところまで来るには、途中畑を通るので信心に来た筈の私どもは、時に よると畑にいたずらして馬鈴薯の蔓を引いてそれにズラリとなりさがっているお芋をハン カチに入れて持って帰ったりする。信心かなにやら全く解らないことになってしまう。毎 年旧の七月十九日は四万六千日で、その日に参詣する者はつまり四万六千度行ったことに なるというのである。故にその日の人出は驚くばかりで夜を徹して老若男女が登る。登山 者が手に持つ松明は空を紅くしている。日ごろは真っ暗な麻耶の山に火が灯されて美しい。 <お化けのおえみさん> 神戸では毎年二月の節分には「お化け」と言って変装の習慣がある。女工たちもそれを まるまげ 喜んでする。12~13 歳の子どもが島田に結ったり、娘が丸髷に結ってみたりする。以前は よほど念入りの変装をしたのだそうだが、近頃は許されないで女が女の範囲で化けて諸々 の神社に参拝するのである。 今度入ったおえみさんは十六歳だというのにすこぶる身の丈の高い娘であったが、栄養 不良で淋しい顔をしている。以前は女髪結いの助手をしていたのだそうだ。節分の朝、お まげ えみさんはそれはそれは実に綺麗に顔のお化粧をしている。頭を見ると美しい元禄髷 を結 って皆を驚かせた。当時は元禄模様などが流行し出して、花柳界などではそんな髷も全く 見ないこともなかったが、おえみさんがそれを選んだのは、全く奇抜だと思った。それ以 来あだ名がお化けのおえみさんとなった。 <アメリカへのあこがれ> そうこうして 2~3 年を過ごしまた桜咲く春が来た。同情会では会員の親睦を計って春の 運動会が郊外の石尾川で開かれた。その頃は阪急電車が敷設されまだ珍しい時だったので、 電車も嬉しく、工場から解放された春の一日を川原で楽しく踊りはねたことは忘れられな 14 い思い出の一つである。 ふとアメリカに長く住んでいる母の従妹が日本に帰って来た。この人はよほど前にアメ リカへ夫と共に出て行って、非常に金儲けをした人たちであった。五年目くらいに帰国し ては、立派な贈物を親戚の誰彼にしていた。サファイヤの指輪等も幾つも持って帰った。 私も幼い時にこの人から送られた葡萄やいちじくの砂糖漬けを喜んだ。日本とは模様が全 然違っている布地ももらって、妙に一種の匂いのあるのをアメリカの匂いだと自分でして いたことなどもあった。鉛筆一本見ても縫い針一本を使ってみても実にアメリカ製の上等 であることを深く感じた。それ以上に感じたのは、アメリカに於ける労働賃金の日本に比 較してよいことだった。以前から全く聞かないこともなかったが、今日自分自身が純然た る賃金労働者になって、アメリカのことを聞くと実に、大きな憧れをもつのであった。葡 萄を摘んでも、ガラス拭きをしても、皿洗いに雇われても高い賃金が得られると聞くと、 さんふらんしすこ 私はもうたまらなくアメリカ行きを思いたった。もう私の魂は 桑 港 あたりの何十階かの 高い建築物のある街を通っているのであった。小母ははや米国行きのために横浜に出た。 私も後を追って是非同行を頼もうと決心して両親にそのことを話した。両親は反対しなか った。行きたいなら行ってもよいと容易に許してくれた。私は喜んですぐにも横浜に行く ところであった。だがこの決心をたちまちに砕いてしまったものがあった。私はあまりに も両親との離別の悲しみの深いことを思った。私は両親をこの上もなく愛した。また私も 愛された。よい父でありよい母であると常に思っていた。 行きさえすれば俗に言う「ぬれ手で粟の」金儲けが出来得ると思ってみても、兎に角ア メリカと言えば三週間足らずも太平洋を航海しなければ渡れぬとあれば、出る者も、残る 者も病気と知ってすぐには遭えない。望みの金を望み通り得たとしても、故郷に帰れば懐 かしい親は冷たい墓に入っているならば、どんなに悲しみの大きいことだろう。看護を少 しもなし得ないでこの世の別れをするならばどんな深い嘆きをするだろうと考えると、私 は忽ち断念せざるを得なかった。やはり静かに両親の膝元で、あまり心配もかけないで楽 しく送ることがよいと思った。この思いがなかったら十九の春私はかの地に渡って、私の 一生はどうなったであろうか。 <従妹の訪問> 華やかな春も過ぎて行く。日あしも思い切り延びた。女工たちはもう仕事場では軽い単 衣ものとなっている。冷たくなく暑くなくこの頃だけは実に仕事もしやすい。ある日事務 室から小使いが来て、私に面会したい人があると伝えてくれた。私は誰だろうと思いなが ら行ってみると、それは父の姪にあたる私と同じ年頃の藤子さんだった。小学校時代に横 須賀と東京との間でありながら、休暇などには遊びに行ったことがある。もうほとんで十 年くらい前のことなので、全く不思議な感じに思った。亡くなった伯母に似ているし、父 にもよく似ているので、すぐその人だと解った。久しく北国の方に住んでいて今も其処か ら来たので、衣類なども私たちが単衣物であるのに従妹は綿入れを着ていた。私は色あせ こんがすり た 紺 絣 の筒袖の仕事着を着て紺足袋である。従妹は上品な紫銘仙の矢絣であった。私が女 15 中奉公をしたり、女工になったりして働いている間、彼女は女学校を出た。従妹は私の家 が解り難いので、父の勤め先のこの会社に尋ねて来て、女工として働いている私がいるこ とを知ったようだ。私は直ちに我が家に案内した。従妹は教育も受けた。私のように女工 にならなくてもよい、私と比較するなら本当に幸いだと道すがらに思った。私は何とつま らない者であろうと自身を悲しんだ。しかし私はまた彼女の気の毒なことを知らぬわけで はない。彼は早くその実母を失った。父は後添えを入れた。その人には多くの子どもがあ った。私のように両親と共にいる温かい家庭が彼女には無かった。 そんなふうに考えてくると自分にも、幸福と言うものは経済的に豊かであるもののみで はないと思えてくる。しかし実際にお金のために全ての苦労も忍んで働かなければならな い自分の境遇を思うとやはり財を得ることが人生の幸いのようにも思うし私は考えた。 <皆勤賞> 平々凡々たる者には境遇を突破して進んで行こうなどとは中々思いもよらぬことである。 私はやはり勤勉に工場に通っていた。この会社は朝の始業が八時だが 15 分までは遅刻とみ なさない。8 時 16 分に行くと罰として 30 分引かれる。それで朝 8 時から午後 6 時まで働 くと 9 時間勤務になるのである。職工の中にはそんな事は少しも念頭になくいつも朝 8 時 30 分頃出勤する者もある。人によっては半期の間、一日も休まず遅刻なしに皆勤する者も ある。社はその賞として反物を贈ることになっている。それを 5~6 回も継続させる働き手 もある。皆勤賞を得ようと心掛けるが中々骨が折れるものである。他人が出来るなら自分 も一回なりと 6 ヶ月間欠勤なしに働いてみようとその年は励んだ。といっても自分は平常 怠惰の休みなど一日だってしたことはない。気分が悪かったりして半期は 2~3 回くらい休 むだけであった。だから少し心掛けて遅刻などないようにしたら出来ないこともなかろう と思った。それで 6 月 20 日からその年の 12 月の 20 日まで続け、年の暮れに冬物一反の生 地をもらうことができた。そしてまた 12 月 20 日から翌年の〆切日まで、続けて 2 回皆勤 賞を得た。 <春の芽萌> 筒袖の汚い着物にやつれた身体を包んで通勤していた子どもたちがすっかり成長した。 そして驚くばかり美しくなった。肉付きもふっくらして艶々としてきた。そんなに美しい とも思われなかった女の子が、髪を気にしたり着物を上手に着たり、白粉を綺麗につけた りするようになった。さすがに人生の春に出遭ったように如何にも生々していることを感 じる。 私にさえ目についてきたこの女たちを、男工は中々見逃さない。勘定日に支払いを済ま すと幾らも残らぬ財布から、絹ハンカチを贈ったり、白粉の瓶の贈物をしたりする。友だ ち仲間は好奇心やら羨望やら黙っていないで盛んに冷やかす。誰には誰が似合いだとか、 誰の嫁さんには誰がよいとかの話題にする。配偶者の性格とか、趣味とか勿論何にも考え ないで、性に芽生えた若い娘たちが二言三言の異性の甘い言葉につい一生を誤ってしまう 16 ものがある。 16 歳の可愛いおとくさんは年より背が高く大きかった。仕事の都合上男子工場によく行 くので、ある職人のそばで仕事をしていた。小僧たちがしきりにその職人に嫁さんが来た と言ってはからかっていたが、それが真実となって 18 歳の年に結婚してしまった。その夫 は大酒家で私たちの間では有名であった。若い母さんから子どもが次々に産まれた。大勢 の父親になったのだから大酒も改めたかと思ったがやはり続いているので、若い母さんを 気の毒に思った。またちょっとしたことから誘われて芝居見物などに出かけ、ただそれだ けで別にその人を生涯守ろうともしない男子に、貞操を犯させるような隙を女工自らが与 えているようなことを私は聞かされていた。如何に女工のある者が無知であるかを驚いた。 私は自身に学力のあるわけでもないし、立派な理想の持ち主でもないが、そんなに無闇 にその娘たちのようにはなれない。単に人が評判したから、あるいは外側から見て似合い の夫婦だからと言っても、そう容易に配偶者を定めることはできない。職工の多くは貧乏 である。その貧なるものの大抵は自分の放蕩から来ている。また私は酒飲みの不体裁極ま る様子を見る時に全く耐えられない憎悪を感じた。またある職工たちは不品行な恥ずべき 行為を誇り気に言いふらす。勘定日の翌日の男子工場の会話はとても顔を染めないではお られないほどであった。 もしこのような人と結婚するなら、おそらく一生その家庭の円満はたもたれない。人生 の幸福は感じられず、悲しみのうちにその生涯を終えなければならないと思った。私の配 偶者選択がもしこの人たちの範囲に限られるものなら、私は絶望的であった。 また私が望むような人が、女工風情の自分を娶ってくれることも極めてありえないことだ った。私には独身生活が決定されているように思った。しかし私にもそう大した欲望のあ るのでもなく単純に不品行や飲酒をしない、このような職人の道楽をしない人がいれば私 の配偶者の選択にあてはまる者となるだろう。実際のところを告白するなら、私も数えの 19 歳の頃、初恋を経験した。しかしそれは一年も続かず私の脳裏から忘れてしまうものだ った。 <養女の一年> 翌年の夏、私が 20 歳の時に私は母方の親戚に養女に望まれた。徳川幕末に栄えた浦賀港 の一商家である。老夫婦は跡取りがないので親族に尋ねたところ、私に白羽の矢があたっ た。私が神戸から一人でも先に故郷に近い所に帰っていれば、やがて家族も関東に戻って くるだろう。2~3 年で帰る予定だったものが、いまだに帰れぬのだからこれが帰るきっか けにもなるというと言うのである。資産があると言うほどでもないが、家蔵を持っていて 気楽に暮らせる。店には呉服もあれば綿も袋物や化粧品、シャツ類まで置いてある万屋で ある。話を聞いて私も養女に行く決心をした。父に送られて 4 年ぶりで関東に帰った。 老夫婦は喜んで私を迎えてくれた。今までいた女中を返して私ども三人の暮らしが始ま った。工場と違って年寄り相手に淋しいものがある。反対に嬉しいことも多い、商売は面 白い、時間があれば裁縫をしているので家庭気分が充分に味わえることは嬉しいことであ 17 る。老人が丹精を込めて菊の花を咲かせている。また立派ではないが 広い庭には季節の草花が美しく咲きだす。庭続きの畑には、瓜やナスが家では使い切れな い程に実る。横須賀のような小さな町に育った自分は、田舎の生活を全く知らない。ここ も純然たる田舎ではないが、自宅に野菜ができることなど経験したことがなかった。ここ の生活は嫌ではなかった。しかし父が病気になったことで、自分だけ養家で気楽に暮らす ことはできない。そして私は父の病気中の生計を立てなければならないと決心し、神戸へ 戻った。一年ほど止めていた製本女工の仕事をし始めた。その後父は回復したが、私は養 家には帰らず続けて女工として神戸で働くことにした。 <伯母の死> 工場が新築されて私たちは新工場に移った。私の家には続いて下宿人が 3~4 人いたので、 工場に近い家に移り住んだ。 次の年の秋のある日、一通の電報が私たちを驚かせた。それは父の姉の病が重いという ことだった。父と私は急いで横浜に向かった。伯母は私が働いている印刷会社の横浜本社 の社長の妻である。長い間病床にあったが、それほど重症だとは知らなかった。つい 5~6 日前に伯母の息子は英国に渡るために神戸に寄港したので、私たちは遭いに行った。そし て伯母の病状も聞き大した事もないということだった。伯母は息子と元気で別れたという ことだったので、この電報はまったく不意だった。 伯母は早くから伯父と共にキリスト教信者だった。私が小学校に入学する以前から、キ リスト教の本が横浜から送られてきていた。信仰を勧められたが文字が読みにくく、カタ カナや人の名前で面白くないのでそのままにしていた。 12 歳の時の夏休みに横浜の伯母のところに遊びに行くと、日曜日には皆で会堂に出かけ る。とにかく熱心な信者だった。私はこの人たちには世話になって、伯母からよい感化を 受けた。伯母は夫に対しても子どもに対しても、また友だち隣人に対しても良い人だった。 私はこの伯母を尊敬していた。 不安に思いながらも 14 時間汽車にゆられて平沼駅に付いた。急いで駆けつけると入り口 に忌の文字が記されていないのを見て安心した。家の中に入るとその湿った空気に私の胸 は押しつぶされそうになった。 伯母の腎臓炎は息子を外国に立たせるのに非常な心遣いと心労が重なり、にわかに病状 が重くなり心臓が弱くなったようである。昨夜もその前夜も恐ろしいほどの苦痛があり、 看護の者もその座に居るのがたまらない程の激痛だったと聞き、私はまったく悲しかった。 このよき伯母がそんなに苦しんだかと思うと悲しかった。伯母はその苦しみの疲労か今は、 静かに眼を閉じて横たわっている。かすかな呼吸は地上に在るものというただ一つのしる しで、もう意識は全くないようだ。私は涙を流して伯母との別れを惜しんだ。そして赤酒 を一匙口に入れたが、もう飲み込む力もなくなっていた。二時間ばかりして、そのかすか な呼吸も全く止まって、冷たい死体となってしまった。 葬式は立派に行われた。伯母は多くの教会の友人に送られた。社員や男女職工に見送っ 18 てもらった。伯母は満足であっただろう。しかし私は疑った。キリスト教は神は愛だと教 え、神を信じている伯母は何故あの病苦があったのだろう。神に頼らないキリスト教を嫌 う人のうちにも、そこまで病の苦しみを知らない人もあるのに、愛の神だという神がどう して伯母にあの苦しみを与えたのだろうと私には解らなかった。私が信仰のない者だと知 って、教会の人は慰めてくれ、その教えを説いてもくれた。しかし私はこの疑いを抱いて、 強い反感をもって説く人を退けた。こんな疑いをもって私は、数日の後神戸に帰って来た。 相変わらず通勤していた会社では、毎月曜日に半時間牧師によってキリスト教の教えが説 かれていた。しかしそれらは私の胸の内の疑いを解くよすがもなかった。 <哀れな姉妹> 神戸は一般に稼ぎ場所である。向かいの家も隣の人もその故郷は異なる。五人問えば五 人が異なった生国を答える。皆一攫千金を夢見て稼いでいる。相当子どもたちに教育の出 きるような家でも、それをしないで稼がねばならないという考えで、子どもたちを働かす。 この会社にもそんな子どもたちがたまに来る、大部分は貧困者である。極めて僅かの子ど もの賃金も、その勘定日が待たれるという家が多数を占めている。時折私は友達の家を訪 ねてみると、その住まいが屋根裏であったりすることにびっくりすることがある。また放 蕩する父親に逃げられ、虚弱な母親と小さい弟とを自分の細腕で養はねばならない友だち をも見る。また自分自身がリュウマチを患いながらも痛い手で製本に通っている娘もあっ た。皆小学校も出ていない気の毒な者が多い。 14 歳と 16 歳の二人の娘が同時に入社した。一人は色の白いというかむしろ青白い、それ でも目に立つほど痩せてもいないおとなしそうな娘で、もう一人はちょっと背の高い皮膚 の美しい娘だった。この妹の方が痩せている。二人は実の姉妹だった。 仕事は上手にする方でまた揃って精勤者だった。二人とも木綿縞の着物にモスの巾の狭 い帯を丁寧に〆ていた。幾度か洗い張りした随分ひどい着物でも、色の白いためそんなに 醜くもない。この娘たちの楽しみも芝居であって、たまたま見物に行くと五日も一週間も それを話して楽しんでいた。 この娘たちはいつも休んだことがなかった。夜業も勘定日を楽しみに喜んでしていた。 本当によく働く子どもたちであった。 一年ほど経った時、姉の方が何だか元気がなく、自分でも身体がだるい、だるいと言っ ていた。少し仕事をしても疲労するらしかった。私は元来丈夫であるので、疲労なども経 験がないので全く同情できなかった。そしてそれがどんな病気の前兆であるかも知らなか った。そうこうして一ヶ月ほど過ぎた時に、姉はどうとう欠勤した。はまさんは今度は皆 勤賞が得られないなどと話して数日を過ごした。休んだことのない人が 4~5 日見えないの で淋しい思いをしていた。妹に聞くと姉はまだ会社には出られない容態だと言う。早く治 ればよいがと思っているうちに、私たちは悲しい便りを聞いた。ほんの一週間前にここで 皆と一緒に仕事をしていたおはまさんは、長年働いたその身体を薄い蒲団にわずか 5~6 日 休ませてこの世を去ってしまった。 19 私は実に驚いた。死ぬ程容態は進んでいたのか、この世を去るまで僅かな賃金の為に働 かねばならなかった彼女は、何といじらしいものではないか。何と社会は悲しいものだろ うか。医学の研究、医術の進歩は昔不治の病と言っていたものが今日は治るではないか。 しかしそれは金のある余裕の者のみに得られるもので、この娘には何の役にも立たないの であった。 滋養の肉の一片も取ることが出来ず、閑静の地に療養する一日も与えられない彼女は、 その代わりに轟々たる機械の響きを聞きながら、渦巻く塵芥を浴びてしなければならない 労働が待っていた。「自分の家は貧乏だ。働かなければ食べられない」と言う観念が、やす りのようにその身をすり減らすのであった。 同情会は彼女の霊前に一定の金額を贈った。私はその使いに立って、ささやかなその家 を訪ねて悲嘆にくれる両親に会った。何と慰めようもなく私は長時間留まることができな かった。そして私どもの驚きと悲しみはこの姉娘の死だけに止まらず、二ヶ月も経たずし て妹も姉と同じ結核に倒れてしまった。 <一縷の光明> そうだ人間には「死」ということがある。自分は健康ですぐ死ぬようにも考えられない。 幼い時父が信用していた易者が私を見て長生きだと言った。私はまだ死なない。しかし私 を最も愛してくれている両親もいつかは死ぬ時が来る。必ずくる。一緒に働いている多く の女工の大抵は両親の揃っていない者だ。まれに二親あるとどちらかが実の親ではない。 私は幸いにも今日まで実の両親に愛されてきた。貧乏は辛いが富んでも親がなければ、ど んなに辛いことであろう。私は親に死に別れる時の来ることを本当に恐れる。どうかこの 恐ろしいことから逃れたい。しかしそれは不可能なことで、いかなる方法もそれを免れな いことである。もし思いを転換させれば、その悲しみを薄くすることはできる。強烈な恋 でもして、他のことに対しての感性が鈍くならない限りこの悲しみに耐えられないだろう と思った。 年の暮れの夜、遅くまで働いて会社からの道を我が家に向かっていると、右側に大きな ガスタンクが真っ黒く立っている。そばのレンガ作りの建物の中は、鉄の機械が怪物のよ うに黒く小さい窓から見える。時折工夫がすくって入れる石炭に火がついて燃え上がるの が見える。それがまた汚れて曇ったガラス窓に映って、怪しい火のように見える。 そんなものを身ながら、見ながらシーンとした道を歩く時、いろいろなことを考え出し てくる。暗い空を見上げては燦燦と輝く星を見ると、地上の人の生活とはかけ離れていて、 神々しさを思うのである。自分にはこれだと指摘し得ないが、何かこの世の中には私たち 人類の支配者なるものがあると思える。そして私はこんなに愛する両親と永くこの世にい るのは、よほど特別な恩恵を受けているものだと考えてくると、私には行く手に一点の光 明を見出すことが出きるのである。 <一年間の借銭> 20 印刷屋の忙しい季節になった。この忙しい時に、もと製本屋を開業していた者が夫婦連 れで会社に入ってきた。関東の者だが東京ではない。子どもたちは言葉に興味があるよう で、新入りの二人の言葉を真似したり、関東の田舎言葉を笑いもしている。正月前で製本 場も臨時の仕事が増えて忙しかったが、女工たちの心は正月の晴れ着が話題となっている。 ごく小さい子どもたちは、親にまかせて平気だが、それでも親にせがんで貧しい中からも 新しい何かをこしらえてもらうようである。大きくなると中々自分の好みがあるものだ。 夫婦連れで来たお瀧さんも始めての正月を立派にしたいようだった。といっても神戸に 来て新しく所帯を持ったので、台所道具もまだ調っていない。だから衣類の方は全く手が 届かないほどである。それでも江戸っ子の意地で、皆年下の者に負けまいとしていること がよく解った。お互いに一日の給料だって解っているのだから、そんなに見栄を張らない でもよさそうなものである。しかし私のように呑気にもしておれないと見えて、仕事をし ながらも、着物は何にしたらよいか、柄はどんなのが自分に似合うだろうと悩んでいた。 ちりめん 正月 4 日例によって仕事始めの朝が来た。お瀧さんはお召しの立派な着物に縮緬の羽織 で日ごろから美しい髪の毛を綺麗に丸髷に結い上げて、どこの令夫人であるかと思う程だ った。日給 36 銭の製本女工とは思えない位だ。なるほどこんなに仕様と思えば骨の折れる ことも当然だと肯く。頼母子講で借金をし、正月の晴れ着は立派に出来たが、気の毒なこ とには、その借銭は一ヵ年中かかって払はなくてはならない。他人のことながらどんなに 借金に煩らはされたことだろうと同情を寄せた。 このようなことは、ただ虚栄の化身とまで言われる婦人ばかりでなく、男子のうちにも 見られる。 <熟練工の誇り> 6 年 7 年と長い年月の間には、女工の出入りもかなり多くある。三日間だけ来て自分には 出来ないと落胆してしまう者もあり、ここで仕事を覚えて給料のよい他の工場へ行く者も ある。また他で修行して再びここに帰って来る者もあった。でも私のように同じ所で 6 年 も継続している人たちも多くいた。その人たちは皆もう熟練女工である。「綴じ」をする者 にしても始めは小さい穴に針を通すのも困難で、指先を絶えず傷つけて困る者が、慣れて くると外を向いていても通るほどになる。紙を掴むにしても指先の感じて 500 枚とろうと 思えばあまり違いもなく取ることができる。丁度たばこ専売局の女工が一袋に入れる巻き たばこをその数だけ掴むことが出来るのと同じである。折本を扱うにしても、始めは時間 がかかっても合わせるところが上手くいかず折った紙が無駄になるが、慣れると早くて紙 が少しも傷まない。綴本を作るにしても折本の一枚が 16 頁であるから 500 頁のものとする と 32 枚ほどを綴り合わせるのだが、慣れないとそれを一枚づつ綴りつけていくのには、あ る紙は糸の引きが緩く、あるところは強くむらができる。これは本を持つ上に大変な損失 ゆる で本自体が損じ易い。最初の女工は必ずそうなる。全体的に緩 かったり、きつ過ぎたりす るのも良くない。兎に角同じ一冊にしても不熟練者と熟練者との相違は甚だしいものであ る。製本のみに限るものではないが、全ての製作品においても同様のことがおこる。折っ 21 た紙を本にするように、その頁数を組み合わせる仕事についてもまた熟練を要する。この 仕事は女工のすることの最も上の仕事である。折本の 15~6 枚を順次に並べてページを追 ってとるのだが、不慣れな者は一枚づつ取るべきものを、5~6 枚同時に取ってしまう。そ して手早く揃えなければならない。慣れた者はその動く手も見えない程の早さで間違いな く組み合わせることが出来る。それが 3 人も 5 人もが同一の仕事を並んでしているので、 間違いなく早く組むことの競争が何時も行われている。 何れの仕事もよく競争する。それが始まると昼の休憩時間の他は全く遊んだり怠けたり しない。競争心の強い子どもなど休憩の時間さえ仕事をしようとするので、仲間から抗議 を申し込まれていることがある。 仕事は面白いものであるし嬉しいものである。また愛すべきものである。金縁の美しい ものが出来上がる時、職人は最も大切に取り扱う。製作中のことには一方に金箔が付いて いて、一方は表紙をつけるために糊がついている。金を汚さない為に、汚れた糊のついた 手を頭の毛で拭う。朝は綺麗に髪の毛を整えてきた者が、仕事に懸命になると髪の毛も着 物も手ぬぐいを代用するほどに熱中する。 労働は決して嫌なものではない。これを好まない理由は労働そのものではなく、労働を する人に多くの事故が伴ってくることが、労働が喜ばれない理由である。病弱な身体に長 時間の労働をさせなければならない生活状態であったり、労働者だからと言って、その子 女に教育を受けさせることは贅沢だと評される。女工は病気でも医者にかかれず、住む家 といっても屋根裏に住まねばならないとされることから、労働者になることも嫌になるの で、それらを取り去るなら労働そのものは全く喜びである。 仕事に対して一つの熟練を得ると誇りが生まれる。学者がそれを修めて奥義を究めた学 術を社会に発表することで益をもたらせるなどにより誇りが生まれるだろう。製本工がま たその仕事の書物の製作に対して、熟練の技量を自覚する時にも誇りを持つものである。 <女工で満足> 明治 44 年社会にはどんな事件があるかなど知らずに、私はただ印刷工場だけが自分の世 界だった。そして 24 歳の日まで女工だった。6~7 年前こそ自分も少しは成長したいと思っ ていたが、今では女工で満足して落ち着いていた。 今までなら女工になっていても、心から女工気分に染まらないようにしたものだった。 他人が卑猥な話をすれば自分は独り読書をしたり、俗な唄を歌うときには詩吟を吟じたり、 職工たちが遊郭に行って持って帰る濃厚な色彩の紙を私の目の前にチラつかせても私は目 の汚れだと堅く避けていた。 しかし 7 年もその中で働いていると、実際その境遇に打ち勝つことが出来ないで遂に落 ち着いてしまっている。そして心も女工に満足しているので、全ての好みがそれに相応し たものと変わってきた。 あ づ ま 仕事用の 14 銭の紺足袋を工場にぬぎ捨てると、寒中でも素足が好きで紫の鼻緒の吾妻 げ た 下駄 を決まって履いている。髪は母が結んでくれる銀杏返しが気に入っていた。実際には 22 美しい髪を髪結に結わせたいところだが、自分の髪の毛の質がよくないのであきらめて満 足したわけである。 芝居は相変わらず好きで、その頃からは演芸画報を毎月楽しみに読んでいた。購読する 雑誌はこれのみであった。ただ手元で作っている聖書を時折見ることと、会社で出来るキ リスト教の分かり易いトラクトなどを読んでいた。毎朝出勤前に新聞は読むが、世界の大 勢がどうなろうと、どんなことが議会に上っているのかということは自分には少しも関係 なく、続き物の講壇と三面のところどころ、芝居の芸題などを見るのが楽しみだった。 <乞食の親分> この夏は残業のない晩など夕飯を終えてから、一家 6 人自宅の前に椅子を出して涼むこ とや星を見たりすることを楽しんだ。皆健康で無事で嬉しかった。その夏も過ぎてまた忙 しい時期が近づいてきた。 その頃の月曜のある日、例によって牧師は説教のため工場に来られた。今日は一人の青 年を伴っている。30 分の説教が済むと、支店長は立ち上がって青年を紹介した。私はその 人を見た時、粗末な裾の破れた袴を見て、この人は牧師の書生だと思った。弱々しい身体 であることは、その真っ白な顔を見ても解る。ただ不思議に思うことは、着物などに似合 わず髪の毛を綺麗にしかも極めて美しく分けている。一見して好人物とは見受けられない。 と言って悪人らしくもない、何か大野心でもあるのではないかと思わせられるようなとこ ろが見える。青年は鋭敏らしい眼差しで集まっている 70~80 人の男女工を一回見廻して、 社長の紹介するまで黙って牧師の説教を聞いていた。 社長の紹介によると、この青年はある教会員で日曜学校を担当していた。非常に讃美歌 に堪能であるという。特にこの会社の職工諸君に歌の稽古をしてくださるというので、こ れから月曜日の説教の時に来るということであった。支店長の紹介が済むと、この青年は 社長の引き下がった後に立って口を開いた。 「私は神戸に住む乞食の親分であります」とひ弱な体質の持ち主とも思われない大声を 出した。それでその言葉と、その声の大きいのに皆びっくりしてしまった。私はその乞食 の親分と言うのを聞いて訳が解らなかった。なるほど神戸の生田川近辺には乞食が多いに 違いない。しかし兎に角、裾が切れていても袴をはいて教育もありそうなこの青年が、乞 食の親方とは合点がいかない。 その時には、新しい讃美歌 288 番を教わった。クスクス笑っている者もある。女工たち は面白がって、学校にでも行った気で一節づつ牧師について習った。青年は手を振って元 気に教えてくれる。 その日は一日中女工たちは習った歌を口のうちで繰り返した。説教と違って皆には興味 がある。青年の噂も出た。女工の中には神戸のスラムから来ている子どもたちもあったが、 その中の 11 歳のあきちゃんは私に説明してくれた。 『おはる姉さん、アノ先生な賀川先生だっせ。先生の家には乞食がおりまっせ。病気の お爺さん、お婆さんも先生が世話しておりまんね。淫賣もおりまんね。先生は病気の人の 23 大小便を取ってやっていまっせ。アノ先生、耶蘇だっせ、朝でも早うに大きな声で讃美歌 歌いまんね。晩もだす。』 <四十四年のクリスマス> 他のもう一人の女工は、賀川青年の別の面を聞かせてくれた。その女工の叔父が青年と 同じ教会であるので知っているが、まだ 23 歳のその青年は、神戸で最も貧乏人や病人犯罪 者の多くが寄り集まっている長屋街に住み、キリスト教の伝道を始めた。彼は恐ろしい病 気を持っている。教会のある人はそのために彼の用いた茶呑み茶碗を別にして置くのだそ うだ。病気のために他人に嫌われている。しかしその内で彼を最も愛しているのは、米国 宣教師の夫人である。夫人にも二人の子どもがあったが、愛する点において我が子もその 青年もほとんど差別がなかった。彼の着ている着物もその夫人によって作られたものだっ た。 こんなことを問わない内に話してくれるので、不思議な青年の生活ぶりが解った。月曜 日ごとに必ず来て、讃美歌を愉快に教えて帰る。決して嫌われるような病気を持っている とも思えないほどである。 クリスマスが近くなった。讃美歌の教師は歌いそうな人を選んだ。喜んで覚えた女の子 が 4~5 人、男子工の中からはほとんどない。ただ師弟の 3 人が信者であるので快諾した。 社員ではやはり信者の 4~5 人が歌うことになった。 12 月 25 日午後 6 時の定時で仕事を終わり、クリスマス祝賀会が開かれた。今までにな い賑やかな会であった。けれども私は二千年前に実在したイエスが今日自分に関係がある ようにも考えられなかった。 翌年の 7 月、もの工場は非常な暑さで仕事は楽にはできない状態である。金のある暇人 は、山や海へと涼しいところを選んで神戸から逃れる。私たちはようやく残業を休ませて もらい、行水に一日の汗を流して喜ぶのが贅沢に感じるくらいだった。月曜日毎に説教に 来てくれる牧師が夏休暇を取ったので、讃美歌の先生が説教をしてくれた。この説教こそ 私がイエスに導かれる第一歩であった。神が私の心を捕らえられたのは何時からなのか私 は知らないが、私が意識したのは実にこの日だった。 伯母の病気以来、キリスト教という神が解らなかった。愛の神が不可解だったのが、教 師の説かれるところに拠ると、神は愛だから試練がある。人にはそれがある時は非常に苦 痛である。しかしそれを以って神の愛を否定してはならない。愛する人類をより立派なも のにするために鍛えられることそれが神の愛である。と説かれた。折から隣の鉄工場で高 く槌の音が聞こえる。説教者は言葉を続け『あの鉄にしてもそのままならばただの鉄であ るけれども、火に入れ水に浸し打ち叩く後に立派な鋼鉄になるのである』と。 丁度私の疑惑をすっかり知って私に説かれた心持ちがした。そして私は恥じた。知りも しないのに神の愛を否定したり、生意気な考えを持っていたと悔いた。 私は喜んだ。私の心に光がさして来た。その神の愛こそ私をめぐみのうちに置かれたの だ。貧乏して工場に働いていても私の心は安らかだった。それがキリスト教の教える神の 24 愛だった。私は一ヶ月半ほど青年説教者の話を聞いていた中で、一言一句が心に触れた。 この教えこそ誠に真面目に聞くべきものであると解った。その後牧師は休暇を終えていつ ものように話すようになった。青年は讃美歌ばかり教えて帰るので私は残念でならなかっ た。そうかと言って説教が聞きたいとその要求をするだけの勇気が私にはまだなかった。 <芝居か教会か> 救世軍の山室軍平先生がこの印刷所に来て職工のために説教をなさったのもこの頃であ った。先生の名声は私がまだ子どもの時から聞いていた。私の心の扉がようやく開き始め たとき、先生の敬虔な信仰の話を聞くことができるのは恵みだった。 10 月のある日曜のこと、私は好きな芝居見物に出かけた。この日は連れの者もなかった。 何という題の芝居だったか、非常に人気のあるもので入り口に大入満員と掲げられており 入ることができなかった。他の座に行こうかと踵を返したが、ふと心に浮かんだのは、日 曜の夕方、神戸スラムの四つ角でイエスの福音を伝えている一団だった。もし青年説教者 の話を聞けるならば幸いだと今来た道を引き返した。途中自分の心を考え神のことを思っ た。占いのようだが、もし今夜あの四辻で伝道している人たちに出会ったなら、神が私を 引き寄せているのだと考えよう。 行く時には俳優のせりふや誰が何に扮するとかであった私の心に、今は全く別な考えで 一杯になっていることも不思議である。 水の少ない生田川を越えると神戸スラムである。目指すは一丁ほど先の四つ角である。 例の伝道隊がいるか、いないか。私は灯火を見たので急ぎ足で行った。この灯はその一隊 の目印の『神は愛なり』と赤字で書いた高張り提灯である。 青年の労働者の妻らしい人が立っている。私の先生はその人たちの真ん中に立って、例 の大声で熱心に真面目な生き方について話をしていた。私は多くの聴衆の後に隠れて懸命 に聞いていた。しばらくして話は終わったが、先生は言葉を継いで言った。 「外の話はこれで終わりますが、教会で引き続いて神様の話があります。聞きたい人は 私どもについてお出でなさい。この教会は日曜日と水曜日の晩は毎週キリスト教の話があ ります。どなたでもいらっしゃい」先生を先頭にして汚い通りを一行は行く。あとに続く 者はあまりない。私は話は聞きたいが、名も恐ろしい神戸スラムである。どんな凶漢が出 るかもしれない。わたしはこことあまり離れているところではないが、何年もこの恐ろし い街に足を入れたことはないので躊躇した。しかし私の心はその話を聞きたいと思ってい る。ついにそっと一行について行った。先生に見られることも恥ずかしいし、一行を見失 わない程度に遅れて行く。大通りを左に折れるとあばら屋が並んでいる。三畳敷きくらい の一間の家と軒を傾けてようやく建っている共同便所がある。暗く狭い路地は歩くのが危 ない。二角三角廻ってある家に着いた。ここが先生の住居である説教所である。外の汚い すす 家と変わったことはない。煤けた壁は哀れにも何箇所も落ち、新聞紙が格子に貼ってある。 それも古びて赤くなっている部屋は 40~50 人は入れると思うくらいの広さがあった。ねず み入らずが本箱の代用をしている。部屋の隅には夜着や蒲団が高く積み上げられている。 25 電燈一つにランプが三つともされている。 路傍伝道を終わった人たちはその畳の上に座った。先生は正面の机のそばで跪いて黙祷 している。私は外に立ってようやく一枚のガラス障子の陰から中をのぞいている。やがて 先生は 176 番の讃美歌を選んで、自ら小さいオルガンを弾きだした。14~5 人の信者は歌 って祈った。話は「十字架の上のイエス」であった。私はそれによって始めてイエスと深 い関係のあることを知った。私は障子の外でイエスの愛に涙を流していた。それほどまで に私をイエスが愛してくれるなら私はイエスに従っていくと決心した。今日から自分の欲 を捨てて私の主に仕えよう、と私は立っている暗い道端にかがんでそのことを祈った。こ れが私の祈りの始めだった。 翌日は月曜なので工場で礼拝のある日である。先生は私を見るなり「あなた昨晩来てい ましたね。今度の日曜にもお出でなさい」と言った。私は誰も知らないだろうと思ってい たので驚いた。工場の礼拝の多くが不真面目で遊び半分の中で、私は真剣に礼拝し祈るよ うになった。私は職工や女工にも神との新しい出会いが来るように祈った。 私がキリスト教に熱心になると周囲はますます嘲笑した。古い習慣を改められない人た ちが、盛んに私を罵倒してようやく信仰の芽がでてきた私の心を踏みにじろうとする。敵 は多く味方は少ない。しかし内面の助けがあった。信者の数の多いことではない。彼らを 議論で屈服させるものでもない。これは私の強い心、信仰による堅い心だった。 他人は「半狂人の伝道者の言葉に欺かれて狂人の真似をする」と私に言った。なるほど 街頭に立ち福音を説くことは全ての人には出来ないことだろう。しかし考えてみると尊敬 を払う先生が自分の病も死もすべてをなげうって他人のために尽くすことや、人の善に立 ち返り、幸福な世界を見出すために街頭にイエスの道を説くことに何の誤りがあるだろう か。また私が物質の世界だけしか見えなかったものが、心の世界に目を開くことが出来た。 より向上しようとする生き方がどうして悪いのか、決してそうではない。 もしこれらのことで「狂人」と言うなら「狂人」で満足である。この工場内の全ての人 が反対するとしても、私は一度見出した輝く世界から離れることは出来ないと思った。こ の強い私の心は最も力強い私の助けだった。 <日曜学校> 私の家がまだ横須賀にあった頃、日曜学校の名を聞いていた。その場所がずっと街はず れであった。見たことはないが、途中牛を屠る場所がある。小僧がよく「牛の首がころが っていますよ」と言うので日曜学校に行く気になれなかった。 25 歳になって初めて日曜学校の生徒になった。それは先生が工場内で開いてくれた。工 場は日曜日は休みなので、機械の音はない。折台を机にして『平民の福音』を読んだ。生 徒は私と他に女工が 4 人と私の二人の妹だった。日曜学校を終わると生徒と先生は原田の 美しい森を歩いた。先生は花を見れば、この花が色を持つまでの色の進化を説明される。 いばら 桜の木を見れば、昔この木には 棘 があったことを教えてくれる。空を見れば雲の説明と次 から次へと知識の世界を広げてくれた。私自身は、ただ食べて生きればよい、自分の腕に 26 頼って一日 50 銭か 52 銭儲ければ食べていける。私はそれを誇って他の何も受け入れよう としなかった。単に生きて行くことは犬でも鳥でもすることができる。人には人の道があ る、私は何と無知であったのか。天才でなくとも読めば幾分何かを理解することができる。 説明を聞けば一つでも知識を増やすことができる。女工だからと遠慮する必要はないと知 って私の知識欲が噴出してきた。 <尊敬する先輩> 日曜学校には末の妹二人を連れ、夜の集会には私のすぐ下の妹を連れて行った。信者は たいていこのあたりの貧しい人たちである。中には神様と阿弥陀様との区別がないような 女の人もいる、物質の援助を受けて信仰に入ったものもある。また貧しく無学でも全く徹 底した信仰を持つ人もある。 先生の弟子の鍋屋の武内さん、豆腐屋の植田さんは私の尊敬する信者だった。武内さん はいつも労働者用の上っ張りを着て働らく青年だった。私が教会に行く一年半ほど前から イエスを信じた。まだ徴兵適齢期前だが病身の母と多くの弟たちのためによく働く人だっ た。イエスに導かれる前から真面目な青年として周囲の人たちの賞賛を受けていたが、一 度イエスを受け入れてから尚立派な人格者となった。一日の労働に疲れた身体をおして先 生を助けて伝道した。 朝は五時前に起きて先生と新旧約聖書を読みまた科学書をひもといてもらった。武内さ んが仕事を共にしている青年たちに良い影響を与えているのには感心した。植田兄は無頼 漢として知られており、人と喧嘩をしては命を落としそうにしていた。彼の一眼ないのは やはり争いからだった。数回獄にも入れられ、6 人の妻は彼の身持ちが悪いのを嫌って逃げ た。彼はすべての人に見放され死を選ぶより道がなかった。轢死を企て鉄道線路を目指し て行く途中、賀川先生の伝道隊に出会い、イエスが救い主であることを知った。人生の重 荷を背負って疲れたその身を主にまかせて彼は復活した。それ以後彼は自分の苦い経験を 語って恵みの世界を紹介している。彼の賭博仲間、酒のみ友だちは彼の再起に驚いた。人 生のドン底を経てきた彼の話は人を強く引きつけた。彼は雄弁にイエスが人を罪の生活か ら離れさせることができるお方だと説教した。 このような人たちが毎夜自分の仕事を終えてから教会に来て、先生と共に伝道にでかけ るのだった。私は残業があり日曜日の夜だけしかこの群れに加わることが出来なかった。 <路傍説教> 極寒の寒風に晒されて四辻に立つ時、健康である自分も寒さに身を震わせるほどである。 心配するのは先生の身体である。先生は決まって午後に発熱し、この寒さに最も薄着で路 傍に立たれる事は私どもの心をより寒くした。先生が熱心にイエスを紹介し終わると、先 生の喉は恐ろしく腫れ上がる。どうなることがと案じていると、翌月曜日に工場で見ると 非常に回復している。そのように不健康がどうにか保たれることも恵みだと思った。 路傍伝道は常に 3 人の婦人が一緒であった。一人は植木屋の嫁で乳飲み子を背負って救 27 われた証をしている。一人はスラム流に喧嘩が好きで常に短刀を懐に入れていて、喧嘩の 場所に飛び出していくような人の妻である。それがキリスト教になってまったく回心した と聴衆に話す。かつて小学校に通学している時、奥村五百子女子が中国から帰って、学校 の生徒に話をしたことを覚えている。私は婦人が人前で話が出来る等はよほどの学者でな ければならないと思っていた。ところがこの地に住む、私の内心軽蔑している人たちが勇 気あるそして他人のためになることを話せるその力を驚いた。まったくイエスは人を強く させるものだと思った。 そうしたことを思いながら路傍説教の群れに加わっていると、突然先生が私の耳もとへ 「今夜あなた証をしてください」と囁かれた。私はとても自分にはできないと断りたく思 ったが、イエスの有難さは自覚している。それを頼みにして断らなかった。衆人の前に立 つのは初めてである。50~60 人の人が聞いている。私は一生懸命に「神は我々が神に帰る のを待っておられる。われわれの今までの罪はイエスが大いなる愛を以って贖ってくれた。 今神に帰らねばならない。」というような意味のことを初めて話した。 私はブース大将のことを聞いた。彼は回心して今まで好んで読んだ小説を全部橋の上か ら川へ投げ込んだことや、喜んで持っていた金鎖と時計も自分が大事にする持ち物ではな くなった。私もそうしたいと思い、溜めていた演芸画報を売り払った。芝居を見る暇があ れば、伝道に出よう、小説を読む時間があれば聖書に替えようと思った。工場の昼休みに も僅かな時間で教会に行った。小さい女工たちと一緒に仕事着の筒袖を着て草履ばきで出 かける。先生が勉強しておられる時もあれば、図書館に行かれて留守の日もある。先生の 大きな机の上には書きかけのキリスト教論争史が紙ばさみに入れてある。こんなに机の上 を見たり、オルガンを触ったりするのは先生が留守の時だけである。先生は喜んで迎えて くれるが、私は恥ずかしくていつも躊躇していた。 <受洗> この教会では、家庭集会もしていた。週に一回は私の家でも行われるようになった。父 がキリスト教を嫌いなので私は困った。母は父が反対なので、先生にもすまないと心なら ず座っている。先生は皆が心から喜んで集まっていると思っておられる。冬の晩に先生は 外套もなしで必ず時間には来られた。 私の信仰を先生も認められたと見えて、12 月 21 日に他の 11 名と共に洗礼を受けること を許された。教会の毎礼拝は午前 5 時である。私は真っ暗い夜の明けない前に支度をして 教会に出かけた。男女 12 名が主の御名に加えられた。マヤス博士によってこの式が営まれ た。この恵みに私は感涙した。 四日経ってクリスマスである。私の心に主が誕生された。意味深いクリスマスを私は喜 んだ。そして喜びや御礼を兼ねて、教会の方がたに贈物をした。先生にウールのシャツを 贈ったところ「私は自分の寒さをしのぐものが買えないのではないが、周囲の人たちを見 ると、自分だけが飽食暖衣することができないのです。決してそんな心配をしてはなりま せん」とたしなめられた。そして翌日立派な額を私にくださった。その裏には 28 おも おっ 「我に従わんと欲う者は己を棄てその十字架を負て我に従え」可(マルコ)8:34 この聖句が墨跡新しく書かれてあった。 私は教会のために働こうと決心した。休日には教会を掃除したり、新聞紙を障子紙に張 替えたりした。植田さんは「教会にお母さんが出来た」と言った。日曜学校を見ていると、 立派な先生たちが鼻たれ子どもの履物を一々整理しておられる。私は今まで工場で下の女 工たちが私の履物を整理してくれるのを平気でいたが、この時実に恥じた。私の生活は追々 変化していく。いつの間にか髪は銀杏返しから束髪にし違い心持ちも改めることが多くで きた。 私は昼間は工場に行き、晩は神戸スラムの教会を訪れた。独りの貧しい家を訪ねてみる と、先生がどんなにこれらの人たちに尽くしているかが解った。そして先生ばかりでなく 武内さんやその他の青年が人に分からないようにして、彼ら自身の生活費を割いて他人に 尽くしていることを知り、尊く思った。 先生が自分の三食を一食減らして人々に与えたり、一枚主義の代わりのない衣類をまた 脱いで与える心持ちは、弟子たちをすっかり感化している。私は一層イエスの精神がすべ てのものを超越している事実を知った。 私たちはもうすっかりイエスのものとなってしまった。イエスに捕まえられた。もう離 れることが出来なくなった。 私は朝早く祈った。裏の井戸側のそばの石は私の祈りの場所となった。夜が明けないう ちに私はよく祈った。この尊い教えを宣べ伝える先生が祝福され、充分ご用をされ、世界 の全人類が神の元に帰るように、働き人としての師の健康が保たれるようにと私は長い時 間祈った。 午前五時の礼拝に出る。聖日などは神秘の世界に溶け込んだ。教会に行く道は暗く人々 はまだ夢の中である。万象声なくして静寂で、空には星が残っている。初代教会の地下の 礼拝もそぞろに思い出しながら、その熱心な女弟子に倣いたいものだなど考えながら行く。 この年わが国に、天皇陛下の崩御があり、国民の嘆きの中に新しく大正の御代と変わっ た。しかし私の生涯も一大変化を来たして信仰の生活に入ったことは、喜びに堪えない。 こうして大正 2 年の年は暮れた。 <伝道> クリスマスには教会が貧しい人たちを百数十名招待したが、新年は信者の人たちの親睦 会があった。皆の持ち寄りで五目飯ができた。信者に限らず気の毒な人を招いた。 新年は初週祈祷会もあれば、特別伝道もあった。私には新しく学ぶ点が多かった。私は 益々教会に熱心に通った。この恵みの世界が私に展開し始めたので、私の伝道に対する気 持ちは燃え始めた。 まず自分の家庭の救われんことを願って伝道をした。けれどもそう急に家族の者には理 解されなく、いたずらに焦るばかりだった。 工場内に伝道を始めたが皆は一笑に付して相手にしてくれない。伝道は難しいものだと 29 つくづく感じた。それにつけても私が救われたのは実に神の特別な恵みによるものだと今 更ながら感謝した次第である。 女工の四人は私と共に教会に出席した。この人たちは確かに信仰を持っている。ある時 お瀧さんが珍しく私と一緒に教会に行くと言った。一度でも行ってくれれば信仰を持つ糸 口が開かれると思うと嬉しい。 私は次の集会も楽しみに彼女を誘った。ところが私がお瀧さんから聞いたのは、「説教を 聞きに行ったのではなく、ハルさんがあまり熱心に教会に行くので、普通の女工が青年の ところに行くには、一つの目的があるようなものだと思った」ということで私を探りに来 たのだということが分かった。私は聞いて苦笑してしまった。 <女工生活の終わり> 突然私に結婚問題が湧き上がった。社長は以前から死んだ伯母にそのことについての依 頼を受けていた。ところが今度同じ教会内の人で子どもを残して妻に死に別れた教員があ った、それで私を嫁がせたらということで相談を受けた。 今までならば職工でない知識階級からならば喜んで嫁いだと思うが、今はあまりにも伝 道に心が傾いていた。結婚生活よりも一生を伝道に尽くしたいと考えた。しかし私はどう 欲目に見ても伝道者としての知識があるかと自身に問うと「ない」。「全くない」。「今後勉 強して間に合うのかしら」、兎に角信頼し尊敬する師に聞いてみようと教会に出かけた。始 終を話したところ、先生は婦人の独身生活の間違いを正された。しかし「それでも伝道を 是非続けたいなら救世軍に入るとよい」と言われた。それで私は断然その結婚を断ろうと せいてん へきれき 思った。先生は急に「私はあなたと結婚してもよい」と私には晴天 の霹靂 とも言う耳を疑 うほど意外な言葉を言われた。 私は答えるべき言葉を見つけられなかった。そしてすぐ帰ってしまった。先生はすぐ長 い手紙を私に送られて、言った言葉を悔いて悩んでいると言ってこられた。 私は元より失望もしなかった。今日までの先生の生活が全く凡人でないことを理解して いた。もし今日キリストが世に来られるとするなら、必ずこうしたように貧しい人の間に、 病人の慰めとなり、罪人の友となって来られるのだと信じていた。しかしこの先生がイエ スのように生涯独身で子どもも持たないだろうと思っていた。これは私だけの考えだけで なく、それに共鳴している多数の人を私は知っている。 私は先生に愛されていたことは知っていた。しかし先生は私一人を愛したのではない。 他の女の人も老人も病人も淫賣婦も不良少年をも、すべての人を愛していた。先生の愛は 半端のない愛であった。私はそうだと思っていた。 私は先生を愛していた。実際愛していた。しかし先生は神のものであるから、もし私の 愛がそれを妨げるようなことがあってはならないと、自分の先生に対する愛に境界線を作 っていた。 私は先生を犯すことを恐れていた。私は無学である。信仰も浅い。崇高な人格は元より あろう筈がない。若くもない、女の誇りの美貌は全くない。どう考えても立派なあの先生 30 には相応しくない。相応しくない妻を持った結果、先生が一生その尊い働きをできないと するなら、私は神の前にその罪を恐れる。私は単に弟子として先生を愛し、先生に仕えて いけば結構なことである。それで私としては充分光栄であると思った。 一方先生は私が貧乏の中にも恐るべき病気をも、また困難を極めている神戸スラムの事 業をも理解し、先生を愛するということに最大なる尊さを見た。私がこの結婚に資格がな いと思ったもの以上に、愛を以ってもう一度「結婚する」と言われた。 先生を傷つけまいとして押えてきた私の愛は、ここに樋を放された水のように一気にほ とばしり出た。 わずか二週間ばかりで、私どもの結婚は取りまとめられた。そして 5 月 27 日の栄光ある 日を目の前に、4 月の始め、17 歳の 10 月より 26 歳の 3 月までの私の長い女工生活が終わ りを告げた。 31
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