労働社会学からパブリック・ソシオロジーへ――マイケル・ブラウォイの軌跡―― 長野大学・環境ツーリズム学部 京谷栄二 マイケル・ブラウォイは Manufacturing Consent. 1979 において、ハリー・ブレイヴァマン (Labor and Monopoly Capital. 1973 )を批判し、1980 年代から 90 年代にかけて起こった労働 過程論争の立役者になった。客観主義的で本質還元論的なブレイヴァマンの議論に対して、ブラ ウォイはシカゴの農業機械メーカーのエンジン組み立て職場において10ヶ月間働いた参与観察 をとおして、労働者が経営の管理に対して同意を付与する主体的な要因を分析した。 ブラウォイのエスノグラフィー研究はそれ以前に、ザンビアの主要産業である銅鉱山における 労働研究によって開始されていた。ここで彼はその後の30年にわたるエスノグラフィーを貫通 する方法論である「拡大事例研究法」the Extended Case Method――研究対象をそれ自体の構造 と論理のなかに閉塞させずに、社会全体および世界全体との関連のなかへ拡大して分析する―― を修得した。 1980 年代に入るとブラウォイの関心は、資本主義の労働過程と社会主義の労働過程の比較研究 に移る。まず彼はハンガリーに渡りレーニン鉄鋼所などで参与観察を行い、次に 1990 年代には、 ソヴィエト社会主義体制崩壊後市場経済への移行が大混乱のなかで急速に進むロシアに赴き、コ ミ共和国の家具工場で働き参与観察を行った。 2000 年代に入ると、ブラウォイの研究は労働過程のエスノグラフィーに終止符が打たれ、社会 学理論の批判的研究へと変化し、この途上で彼はパブリック・ソシオロジーを提唱する。 その契機は三つある。 第一に、カリフォルニア大学バークレー校社会学科の学科長として、バークレー社会学の存在 証明を図ったこと。さらにアメリカ社会学会会長に就任するや、その課題はアメリカのみならず 現代社会学全体の自己変革へと発展した。 第二に、今日「市場原理主義」とグローバリズムが手を携えて世界を席巻し、一国内でも国際 的にも経済格差が広がり、貧困問題が深刻化したにもかかわらず、この現実にたいして社会学は 有効に対応できないという焦燥、これがブラウォイを社会学の再構築へと駆り立てた。 第三に、この現実が社会学に突きつける課題に、これまでのブラウォイ自身の労働社会学は何 を答えられるのかという自己批判である。 これらの契機に突き動かされて、ブラウォイは社会学が本来もっていた現実に関与する「道徳 的原動力」(the originating moral impetus)の復活をめざして、2004 年のアメリカ社会学会大 会においてパブリック・ソシオロジーを宣言した。 パブリックから離れてしまった社会学を、今一度パブリックのなかに引き戻し、社会学者とパ ブリックとの対話をとおして研究を進め、社会学者自身がパブリックを苛む問題の解決と状態の 改善に貢献する。これがパブリック・ソシオロジーの骨子である。 だがしかし、パブリックとともにあり、パブリックと「対話 dialogue」し、パブリックに「関 与 engagement or commitment」し「参加する participate in」とは具体的にどういうことなの であろうか。 パブリック・ソシオロジーの具体的なあり様を、ブラウォイが USA における事例としてあげる 移民労働者と「社会運動ユニオニズム」に関する調査研究、とくブラウォイと至近距離に位置す るカリフォルニア大学ロスアンジェルス校のルース・ミルクマンとバークレーでの同僚キム・ヴ ォスの研究を素材に検討する。
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