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臨床ワークブック
麻酔導入後の予期せぬ開口障害
小谷 順一郎 大阪歯科大学歯科麻酔学講座 教授
Junichiro Kotani
プロフィール:1973年:大阪歯科大学卒業
1974年:名古屋大学医学部口腔外科学講座 助手
1983年:大阪歯科大学歯科麻酔学講座 講師
1997年: 同 助教授
2002年: 同 教授
学会:日本歯科麻酔学会常任理事、日本口腔科学会理事、日本臨床モニター学会評議員、
日本小児麻酔学会評議員など
趣味:元来無趣味で、六甲山の山歩き程度だったのが、2 年前に大型犬(バーニーズマウンテンドッグ)を保護
してからは生活が一変。愛犬家を自称し時間があれば犬グッズを装備しての散歩です。マンション住
まいなので、最近では犬小屋の中に同居させてもらっているようなものです。
はじめに
では麻酔科医にとってよく認識されている悪性高熱症
発症時の咬筋強直は割愛し、顎運動のメカニズムと麻
麻酔前診察の段階では開口障害が存在せず、挿管困
酔との関連に焦点を合わせ、どのような場合にこのよ
難時の気道管理(difficult airway management:DAM)
うな予測不可能な開口障害が生じるかを考察し、その
の対象とはならないと評価されていた患者が、麻酔導
場合の対処法について解説する。
入後の意識消失により突然開口度が減少し、筋弛緩薬
を投与しても改善することなく麻酔科医を慌てさせる
ことがある。一般的に開口障害とは、“口が開きにく
い状態”で、その個人が元々可能であった最大開口域
1. 開口運動とは
開口運動は顎関節運動であるが、顎関節は、関節包、
が何らかの病因により減少することをいう。開口距離
関節円板、関節靭帯、滑膜などの軟組織、開口筋・閉
の絶対値で定義するものではないが、臨床的には、上
口筋、そして下顎頭、関節結節、下顎窩などの硬組織
下顎切歯の切端間距離で 2 横指径(約30mm)以下であ
1)
から構成されている(Fig.1)
。すなわち、側頭骨の下
れば種々の問題が生じる。麻酔導入にあたっても、こ
顎窩から関節結節までに至るまでの部位と下顎骨の関
れ以下の開口度しか得られない場合は、直視下での気
節頭(下顎頭)で構成された関節である。
管挿管が難しい。開閉口運動は顎関節の運動を基盤と
開口運動の際の顎関節内での動きは、単なる 1 つの
するため、顎関節疾患の多くや、一部の外傷、腫瘍な
回転軸を持った蝶番運動ではない。下顎頭の運動の軌
どの顎骨疾患、口腔内外の軟組織疾患、悪性高熱症の
跡は大きく 2 つの相に分けられる。運動の初期は左右
咬筋強直などで開口障害を呈することがあるが、ここ
下顎頭の中心を結ぶ線を軸とする蝶番運動であるが、
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徐々に下顎頭が前下方に回転しながら滑走運動し、関
とくに外側翼突筋が収縮すると関節円板と下顎頭が前
節結節頂点を超える位置まで移動する 2 段階の動きに
方に移動し開口運動を助ける。関節円板は下顎頭の動
よって最大開口位に至る
(Fig.2)。この場合、下顎頭と
きに協調しながら移動することから、関節円板の動き
関節窩の間に介在する関節円板は赤血球のように中央
が顎関節内での下顎頭の運動を制御していることにな
部が窪んでおり、厚みの最も薄い中央部を介して下顎
り、円板に障害があると、後半の滑走運動ができなく
頭と関節結節の両者に物理的に挟まれている。この円
なる。臨床的には、上下顎切歯の切端が約20mm離れ
板中央部の前後にはかなり硬い肥厚部が存在する。さ
るまでは蝶番運動、それ以上の開口域を得ようとする
らに、関節包を含めた線維性結合織で下顎頭と関節結
と下顎頭は前下方に滑走移動する。
節に強固な結合が形成されている。また、外側翼突筋、
さて、麻酔導入後の開口障害の原因としては、①悪
咬筋、側頭筋の一部の線維が関節円板の前部に付着し、
性高熱症、②筋弛緩薬の非奏効、③顎関節症、④咀嚼
筋腱・腱膜過形成症、⑤下顎張反射、などが考えられ
るが、筋弛緩薬が充分奏効していない場合などは、前
記の蝶番運動のみとなり、約20mm程度しか開口しな
い。また、咬筋や側頭筋などの閉口筋が急激に他動的
に伸張されると、反射的に口が閉じる下顎張反射も可
能性としては考えられ、プロポフォールによる鎮静下
では、強制最大開口量が減少するという報告2)がある。
しかしながら、いずれも筋弛緩薬の効果発現とともに
解決する。
ここでは、あくまで術前には開口障害が認められな
A:関節結節
B:下顎窩
C:下顎頭
D:前方肥厚部
E:中央狭窄部 関節円板
F:後方肥厚部
いが、麻酔導入後に予期せぬ開口障害が生じる病態に
G:円板後方結合組織
H:外側翼突筋上頭
I:外側翼突筋下頭
J:上関節腔
K:下関節腔
Fig.1. 顎関節の構造
ついて、顎関節症と咀嚼筋腱・腱膜過形成症を中心に
解説する。
(文献1より引用)
2. 顎関節症 3,4)
顎関節症は、顎運動時の顎関節雑音、疼痛および開
口障害を主症状とする疾患で、急性炎症症状はなく、
咬合位
外耳道
下顎頭
関節円板
慢性に経過する病態の総括的診断名である。病因とし
関節結節
て、低位咬合、過蓋咬合、片咀嚼、咬頭干渉などの咬
合に起因する慢性の外傷性因子や、歯ぎしり、くいし
上頭
外側翼突筋
下頭
ばりなどの咀嚼筋緊張や顎運動の異常習癖に起因する
もの、またこれらの異常習癖の誘因となる精神的緊張
閉口時
開口時
(ストレス)、骨折や打撲あるいは顎矯正手術後の後遺
障害が考えられる。しかし、これらは単独の原因で作
用するのではなく、多因子によるものが多い。顎関節
症は、開口度の低下をきたす代表的な疾患であるが、
病変の部位によって主な症状が異なり、日本顎関節学
会では、次のように 5 つの症型に分類している。
(1)
咀嚼筋障害(Ⅰ型)
;咀嚼筋痛、咀嚼筋障害を主徴
候としたもの(筋緊張、スパスム、筋炎など)
最大開口位
(2)
関節包・靭帯障害(Ⅱ型)
;関節包、円板後部組織・
Fig.2. 開閉口運動時における右側顎関節の諸相
(文献1より引用)
30
関節包・靭帯の慢性外傷性病変を主徴候としたも
の(関節包、靭帯、関節円板の伸展・捻挫など)
臨床ワークブック
(3)
関節円板障害(Ⅲ型)
;関節円板の異常を主徴候と
るような咬合状態が存在すると、外側翼突筋上頭の作
したもの(関節円板転位、変性・穿孔・線維化)。
用により関節円板の前方転位を生じうる可能性があ
関節円板の復位を伴うものをⅢa、復位を伴わな
る。勿論、クローズドロックは、麻酔導入操作などに
いものをⅢbと細分類
よってのみ特異的に誘発される現象ではないので、術
(4)
変形性関節症(Ⅳ型)
;退行性病変を主徴候とした
前から時々、無痛性のひっかかるような開口障害が生
じる既往がある場合は、よりその可能性が高い。
もの(軟骨破壊、骨吸収、添加、骨変性など)
(5)
その他;以上のいずれにも分類されないもの(心理
医学的要因など)
以上の病態は、いずれも症状として関節痛と開口障
3. クローズドロックへの対応
害を伴うことが多く、術前の開口度検査において、挿
クロスフィンガー法による単純な強制開口を続けて
管時の開口操作が容易であるかどうかの予測が可能で
も開口障害は改善しない。この場合、徒手的円板整位
ある。しかし、Ⅲ型、とくに関節円板が前方に転位し復
術(マニピュレーション)
(Fig.4)を試みる。方法は、
位を伴わない病態であるⅢbが、気管挿管時の強制開
顎関節脱臼整復術の逆方向の動作により、術者の徒手
口操作時に初めて生じるような場合は、術前から予測
で前方に転位した円板の整位をはかる。患側大臼歯部
できないことが多い。すなわち、Ⅲb型は、下顎頭の前
に術者拇指を置き、下顎を下方に押し下げると共に健
方滑走が変位した関節円板自体の存在により物理的に
側に向けて回転させる。ロックが解除され関節円板が
制限され、開口運動が蝶番運動に留まるため、筋弛緩
後方へ復位すると、典型的にはコキッという関節音
薬の作用とは無関係に、ある開口域以上の開口は全く
(クリック)
の発現とともに一気に正常開口域まで回復
不可能となる。これをクローズドロックという
(Fig.3)。
5)
する。
もし、筋弛緩薬投与前に下顎頭が持続的に後方変位す
関節円板
a
b
Fig.3. 復位を伴わない関節円板前方転位(クローズドロック)
閉口時すでに関節円板の前方転位があり
(a)、開口運動時に円板が復位しないため、滑走運動が行え
(文献5より引用改変)
ない(b)。 Fig.4. 徒手的円板整位術(マニピュレーション)
患側下顎頭をローテーションするように前下方(矢印の方向)へ牽引する。
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4. 咀嚼筋腱・腱膜過形成症 6)
近年、開口障害を呈する新しい概念の疾患として咀
嚼筋腱・腱膜過形成症が注目されている。本疾患は、
側頭筋の腱や咬筋の腱膜が過形成することによって筋
の伸展障害が生じ、開口器を使用しても不能な硬性の
開口障害を呈する。しかし、その病態や臨床像につい
ての報告が少なく、診断基準も不明瞭なため、現在で
も筋突起過長症や咬筋肥大症、あるいは難治性の顎関
節症Ⅰ型などと診断される場合がある。ただし、筋突
起過長症や咬筋肥大症は片側性に発症する症例がある
のに対し、本症は両側性に発症する。診断にあたって
は、長期にわたり極めて緩徐に進行する硬性開口制限
と最大開口時に咬筋前縁に触知する硬く突っ張るよ
うな索状構造物が重要な根拠となる。また、クローズ
ドロックのような顎関節疾患などの合併症がなけれ
ば、下顎の前方および側方運動にはほとんど制限がな
い。また、強制開口時にも疼痛は発現しないので、患
問題は、本疾患が潜在していることを見逃して麻酔
導入を行い、挿管操作に難渋するということもさるこ
とながら、すでに本疾患の診断がつき、治療目的で行
われる咬筋腱膜切除術、側頭筋腱切離術などの麻酔導
入に際して、筋弛緩薬を投与したにもかかわらず、む
しろ有意識下よりも開口度が減少するという報告7,8)が
あることである。このメカニズムを論理的に説明する
明確な根拠は存在しない。何故、筋弛緩薬使用下で開
口度が減少するのかという疑問に対しては、意識下で
は、咬筋、側頭筋の伸展障害があっても舌骨筋群や外
側翼突筋などの開口筋が作用することである程度の開
口距離が得られていたものが、筋弛緩薬投与により開
口筋も弛緩され、意識下での開口運動機序が破綻する
と推論する報告が多い。また、閉口筋群に対する筋弛
緩薬の作用強度が開口筋群ほど強く作用しないと考察
するものもあるが、臨床的に筋弛緩薬の感受性、ある
いは開口筋と閉口筋に作用時間発現に差があるという
根拠を示した報告はない。
者は開口障害を自覚しても病的状態として認識しにく
い。特徴的なこととして、本疾患では、咬筋や下顎角
部が発達した、いわゆる“えら”の張った顔貌(square
mandible)を呈する割合が高い(Fig.5)
。
5. 導入時の対応
あらかじめ本疾患の診断がついた症例や、square
mandibleを呈する症例の麻酔にあたっては、術前には
自力開口が可能でも、導入後に予想外の開口障害をき
たす可能性があるため、綿密な気道確保計画を準備し
ておく。自験例において、同様な現象が生じ挿管困難
となった症例の 2 度目の麻酔に対して、導入前にあら
かじめ歯科用のバイトブロックを装着したまま麻酔導
入を行ったところ開口度の低下を防止できた経験をし
たので、このような方法も有用であろう。また、本疾
患は、下顎の前方・側方運動には制限がなく、蝶番運
動のみが阻害されることが特徴の 1 つ 9)であることか
ら、開口操作時に一旦下顎を前方へ突き出すようにし
ながら開口操作を行うのも有効かもしれない。
おわりに
麻酔導入後の予期せぬ開口障害について、顎関節
症のクローズドロック症例と咀嚼筋腱・腱膜過形成症
について解説した。日常何気なく行っている挿管のた
Fig.5. 咀嚼筋腱・腱膜過形成症
咬筋や下顎角部(矢印)
が発達した特徴的な顔貌
(square mandible)
を呈する割合が高い。 32
めの開口操作にあたっても、顎運動の生理を知って行
うことで問題が解決できる可能性があることを強調し
たい。
臨床ワークブック
引用文献
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