200907時報(2.54M)

ティ、これと共に致命せし聖イパテ
︶、ピシデ
80
ゲルマン︵ 14C
︶
日 聖使徒ペトル及びパワェル、ロスト
フの聖ペトル︵ 1290
︶
日 十二使徒ペトル、アンドレイ、ゼベダ
イの子イアコフ、その兄弟イオアン、
フィリップ、ワルフォロメイ、フォ
マ、マトフェイ、アルフェイの子イア
コフ、イアコフの子イウダ、シモン
﹁ジロト﹂、マトフィイ
日 奇蹟者廉施者聖コスマ及びダミアン
ナリイ︵
︶、キエフの克肖者総主教
458
シティヤの聖致命者インナ、ピンナ、リ
プ︵ 1652
︶
日 クリトの大主教聖アンドレイ︵大カ
聖フォティイ︵ 1431
︶
日 モスクワの奇蹟者府主教聖フィリッ
ムマ
4日 シリキヤの聖致命者ユリアン、イコ
ニヤの神品聖致命者テレンティ
5日 サモサタの神品聖致命者エウセビイ
︵ 4C
︶、コンスタンティノポリの聖致
命者ガラクチオン、ユリアニヤ
6日 ロマの聖致命女アグリピナ︵ 3C
︶
7日 前駆授洗イオアン、ノヴゴロドの克
肖者聖アントニイ︵ 1224
︶
8 日 ニ シ ビ ス の 聖 致 命 女 フ ェヴロ ニ ヤ
︵ 304
︶、輔祭聖アデルベルト︵ 740
︶
9日 フェサロニカの克肖者聖神父ダビィ
ド︵ 540
︶ 日 コンスタンティノポリの克肖者聖神
︵
︶、ラドネジの奇蹟者克肖者聖神
986
父セルギイ︵ 1423
︶
日 克肖者神父聖大シソイ︵
︶、ロマの
429
︶
6C
日 カッパドキヤのケサリヤの聖大致命
聖致命女マルファ︵ 269
︶
日 シナイの階梯者聖アカキイ︵
︶、クリトの神品聖致命者
1C
者プロコピイ︵ 303
︶
日 シシリヤの神品致命者主教聖パンク
ラティ︵
︵ 1073
︶
日 聖大致命女エウフィミヤ︵
︶、聖大
451
日 ロシヤの初めて正教を入れしキエフ
の大侯亜使徒聖ウラディミル︵ 1015
︶
日 聖致命者パワェル、聖致命女アレウ
ティナ、ヒオニヤ︵ 308
︶
日 アンティオケの聖大致命女マリナ
︶
4C
日 シルストリヤの聖致命者エミリアン
︵
発 行 所 正 教 時 報 社 〒 東 京 都 千 代 田 区 神 田 駿 河 台 四 丁 目 一 の 三
電 話 ︵ 代 表 ︶︵ 〇 三 ︶ 三 二 九 一 ¦ 一 八 八 五 番 ︵ 毎 月 一 回 二 十 日 発 行 ︶
振替 〇〇一六〇¦六¦三七二〇五 年¥二四〇〇
キリル︵ 3C
︶
日 イコニヤの聖致命者アポロニイ︵ 3C
︶
、
キエフの克肖者聖神父アントニイ
発行人 山 口 義 人
編集人 松 井 貢 治
ラリイ
日 神使首ガウリイル、サワ修道院の克
肖者聖ステファン︵ 794
︶
日 聖使徒アキラ及び聖プリスキラ
28 27
ノンの作者︶︵ 712
︶
日 アトスの克肖者聖神父アファナシイ
29
昭和四十五年二月十九日︵第三種郵便物認可︶
平成二十一年七月二十日発行︵第 一 四 二 六 号︶
父サンプソン︵ 530
︶
日 ワラムの克肖者聖神父セルギイ及び
侯オリガ︵ 969
︶
日 アンキラの聖致命者プロクル及びイ
24
︵ 284
︶
日 イエルサリムの克肖者総主教聖ユペ
25
26
1日 シリヤのトリポリの聖致命者レオン
ィ、聖フェオドル︵ 73
︶
2日 聖使徒主の義兄イウダ︵
14
17
19
21 20
22
23
31 30
ィヤの聖致命者ゾシマ︵ 2C
︶
3日 パトラの神品聖致命者メホディ︵ 312
︶
、
12
13
15
16
正 教 時 報
正教時報
July
7
2009
10
11
18
1010062
7 月の聖人暦
昭和45年 2 月19日 第 3 種郵便物認可 平成21年 7 月20日発行(毎月 1 回 20日 発行)正教時報 1426号
目 次
─
亜使徒大主教聖ニコライの不朽体入り聖像を安置 ────
司祭 ミハイル 対中 秀行
主教
ダ─
ニイ
ル
『ペトル・パワェル祭』
──────────府─
─ ─
─
福岡 正教春季セミナー 開催 ──
────
────────
司─
祭─
パウエル 及川 信
────────────────────────
─
今月の奉事式 ────────────────
ラ─
フ─
ィ─
ム
聖ニコライとセルギイ府主教⑬ ──
──────主
─教
─ ─セ─
司祭 パウエル 及川 信
聖大侯 亜使徒 聖ウラディミル聖洗名ワシリイの祭日 ─
─
6
3
12
14
表紙の写真《聖大侯女オリガ 》
主教の不朽体が嵌入された聖像を安置さ
教座下が来釧され、亜使徒聖ニコライ大
下、東日本のセラフィム主教座下の両主
祭に併せて全日本のダニイル府主教座
北海道釧路教会の堂祭である聖神降臨
成聖された油を塗って祝
人一人の額にリティヤで
ラフィム主教座下より一
祷を行った。早課ではセ
夕方十七時より祭日徹夜
の出迎えを受けた。同日、
聖大侯女オリガは亜使徒聖大侯ウラジミルの祖母で
あり、ロシアの支配階級で最初に正教徒となった人物
である。
オ リ ガ は 九 世 紀 の 終 わ り ご ろ に プ ス コ フ に 生 ま れ、
キエフ侯イーゴリの妃になった。イーゴリは暴君であ
ったため、その支配に対してドレヴリ族が反乱を起こ
し、イーゴリは殺されてしまった。亡国の危機にあっ
てオリガは、幼い息子のスヴャトスラフを守りながら、
ドレヴリ族を再征服し、キエフ国を立て直して国力を
増強することに成功を収めた。
当時の多くのロシア人は多神教の土着宗教を信じて
いた。しかし、ビザンチンとの交易を通じてキリスト
教はキエフ領内に広まりつつあり、既にキエフ市内に
も 聖 預 言 者 イ リ ヤ を 記 憶 し た 聖 堂 が 建 て ら れ て い た。
そのような環境の中でオリガもキリスト教に帰依する
願いを持つようになり、九五七年にコンスタンチノー
プルに行って洗礼を受けるに至った。
息子のスヴャトスラフは長じた後も戦に明け暮れた
ため、オリガは国政の傍らウラジミルや他の孫たちの
養育にあたった。オリガは九六九年に永眠し、結局ス
ヴャトスラフは異教信仰に留まった。しかしウラジミ
ルは兄弟たちとの闘争を経てキエフの支配者となった
後、九八八年に洗礼を受け、正教を国教とした。これ
がいわゆる「ロシアの洗礼」である。
聖大侯ウラジミルによって「ロシア正教会」が誕生
したことに異論の余地はない。しかしそれは、オリガ
による国政と彼女自身の信仰という礎があったが故な
のも、また事実なのである。 □
れた。ダニイル府主教座下は、今回が着
福された。
路教会の堂祭である聖神
翌日六月七日(日)釧
府主教座下による聖堂成聖式以来、実に
行った。セラフィム主教
六月五日(金)セラフィム主教座下は
れ、司祭祈祷に近い形で
時間に及ぶことに配慮さ
座下は、一連の祈祷が長
苫小牧教会イアコフ篠永輔祭と共に千歳
▲釧路正教会での集合写真の様子。
察された後、信徒たちと昼食(弁当及び婦人部製作の蟹汁)
祈祷の終了後信徒会館では、両主教座下は司祭住居を視
に祈ることが実現した。
じていたが、ついにこの日聖ニコライの聖像と不朽体を前
聖ニコライの記憶日に近い主日には、このモレーベンを献
十月に当地を訪問し受け取られていたものである。従来も
パウェル女子修道院のイコン工房に制作を依頼され、昨年
セラフィム主教座下がロシア・ハバロフスクの聖ペトル・
教聖ニコライモレーベンを献じた。聖ニコライのイコンは、
あったため、一同新鮮な感動を覚えた。その後亜使徒大主
は全国公会などで一部信徒しか与ることが出来ない光景で
聖体礼儀を行ったが、これまで二人の主教品が並び立つ姿
教会信徒たち
に到着、釧路
共に釧路空港
ル松井輔祭と
堂教会パウエ
東京復活大聖
は 十 四 時 半、
ル府主教座下
(土)ダニイ
六月六日
入られた。
空港より陸路にて約六時間かけて釧路に
―釧路ハリストス正教会巡回―
降臨祭聖体礼儀・晩課を
▲聖歌隊の美しい歌声で聖堂内は華やかに。
十七年ぶりのことであった。
た。府主教座下の来釧は故フェオドシイ
座以来初の東日本主教教区の巡回となっ
23
22
16
編
集
後
記
亜使徒大主教聖ニコライの
不朽体入り聖像を安置
2
3
7月
主降生2009年
ダニイル府主教座下・セラフィム主教座下ご巡回
聖神降臨祭のトラクトをもとにお話下さった。そしてこの
であるので約一時間半で
根北峠を経由、この時期
―斜里ハリストス正教会巡回―
地域の経済情勢が全国に先駆けて厳しい中、釧路教会が聖
着いたが、冬期は時々吹雪
を取りながらしばしご歓談された。ダニイル府主教座下は
堂建設と信徒会館建設という二つの大事業を十二年という
で通行止めになるくらい
危険な道でもある。上武佐
六月八日(月)朝九時、巡回教会である上武佐教会と斜
でも聖ニコライのモレー
半に斜里教会に到着。ここ
教会から約六十㎞、十四時
里 教 会 へ 視 察 の た め、 府 主 教 座 下 一 行 は 信 徒 た ち に 見 送
ベンを献じた後、懇談。ダ
―上武佐ハリストス正教会巡回―
ら れ 教 会 を 出 発。 そ し て 釧 路 か ら 約 一 〇 〇 ㎞、 二 時 間 の
ニイル府主教座下は、日本
生神女福音教会として成聖され現在に至っている。
移転し、一九七九年(昭和五四)二代目として現会堂を建立、
教によって成聖されました。一九四八年(昭和二三)現在地に
マン福井神父のもと斜里町西一線二〇番地に建てセルギイ府主
所属していましたが、一九一五年(大正四)に初代の会堂をロ
城県原町教会のパウェル佐藤以下五戸の信徒は初め網走教会に
一九一一年(大正元)
、十勝国新得より斜里に再移住した宮
斜里ハリストス正教会
下りん作の一二大祭イコンがある。
は根室および北方領土に深い関係を持った教会。イリナ山
五三)九月に成聖された。根室教会衰退後、現上武佐教会
二 六 ) に 二 代 目 が 建 立 さ れ、 現 会 堂 は 一 九 七 八 年( 昭 和
一二月に標津原野武佐教会として建立、一九五一年(昭和
た。 会 堂 は 一 九 一 九 年( 大 正 八 )
伊藤はそこで布教し教会が誕生し
佐駅逓の取扱人としてフィリップ
した。一九一六年(大正五)上武
藤神父より受洗し標津教会を組織
年(明治三〇)十月イグナティ加
勤務する薫別のふ化場で一八九七
し、根室教会パウェル小川文治の
伊藤繁喜は屯田兵として入植
上武佐ハリストス正教会
て成聖され現在に至る。
司祭常駐の教会に聖ニコライの不朽体を隈なく安置する
主教座下は空港まで見送りの後帰仙された。
り帰京、女満別在住の信徒が見送りに訪れた。セラフィム
斜路湖畔に宿泊、翌日ダニイル府主教座下は女満別空港よ
夕方になっていた。巡回を終えられた府主教座下一行は屈
斜里教会を出発し、屈斜路湖畔にさしかかった時は既に
―帰路へー
いたいという意向を示された。
た。セラフィム主教座下はいずれ斜里教会で聖体礼儀を行
町教会(後に仙台教会へ吸収)出身であることが話題となっ
したということもあり、当教会の多くの先祖が宮城県原ノ
徒を励まされた。またセラフィム主教座下が仙台よりいら
常駐地釧路から一三〇㎞、峠を挟んで離れている同教会信
正教会最北端にあり司祭
道のりを経て十一時に中標津町にある上武佐教会に到着。
亜使徒大主教聖ニコライ
の不朽体嵌入の聖像を携
え、 モ レ ー ベ ン を 献 じ た。
両 主 教 座 下 は、 上 武 佐 教
会はポドヴォリエの長屋
長 司 祭 の 出 身 教 会 で あ り、
この地に於ける信仰の継
承と司祭を生み出したこ
と を 讃 え た。 昼 食 と し て
巡回時恒例のうどんと山
菜、 そ し て 今 回 は 信 徒 宅
牧場の牛乳が振る舞われ
た。 そ の 後 上 武 佐 教 会 を
出発。
という方針のもと今回の栄を得る機会に恵まれ、今後釧路
教会の信徒たちも聖ニコライに見守られながらその信仰を
育む事が出来ることとなった。両主教座下は道東管轄三教
会でそれぞれ信徒たちの歓迎を受けた。道東管轄区にとっ
て二人の主教品を迎えるという、記念すべき日となった。
ダニイル府主教におかれましてはご多忙の中、釧路教会
の堂祭である聖神降臨祭にご巡回頂き、長時間に渡る移動
など本当にお疲れ様でした。またセラフィム主教座下にお
かれましては、今回のご巡回実現のためにご尽力頂き、ご
(司祭ミハイル 対中秀行)
来釧に際しましては手配一切のお骨折りを頂きましたこと
に心より感謝申し上げます。
教会の沿革
釧路ハリストス正教会
一八九八年(明治三一)色丹、根室に巡回されたニコラ
イ主教はイグナティ加藤主計神父の苦衷を察し、アレキサ
ン ド ル 室 越 伝 教 生 を 釧 路 に 派 遣 し た。 一 九 〇 二 年( 明 治
三五)十月釧路の春採番外地に最初の会堂が建てられ、ロ
マ ン 福 井 神 父 が 成 聖 を 行 っ た。 そ
の後、根室教会の衰退
によりロマン福井神父は釧路に移った。一九三二年(昭和
七 ) 二 代 目 の 聖 堂 が ペ ト ル 内 田 政 之 助 神 父 の 時、 同 地 に
建 て ら れ、 セ ル ギ イ 府 主 教 に よ っ て 成 聖 さ れ た。 そ の 後
一 九 九 二 年( 平 成 四 ) 老 朽 化 の た め、 新 聖 堂 が 建 立 さ れ
フェオドシイ府主教によって成聖された。二〇〇四(平成
一六)年に司祭館兼信徒会館を新築、セラフィム主教によっ
4
5
▲斜里正教会での集合写真の様子。
▲敷地内にある納骨堂(上武佐正教会)
短い期間で成り遂げたこと讃えた。
▲亜使徒聖ニコライのモレーベンの様子(上武佐正教会)。
ほまれ
えいかん
あ
『ペトル・パワェル祭』
か
府主教 ダニイル
人を讃栄し、偉大さを再認する心は第一にハリストス正教
い
しゅせん
あは
「我等如何なる令誉の栄冠を編みてかペトル及びパワェ
かな
しん
会の信仰の真理と拡大に努めた彼らの深い精神の生ける現
たてまつ
ルに奉らん、彼等は身にては分れ、神にては合せられたる
実を見るからである。両者とも、人間の救いに関して熱烈
かみ
らう
よろ
かみ
ひとり
者、神の傳教師の先立者、其一は使徒等の首先にして、一
な眼差しと実践に満ちていた。彼らは多くの人々をハリス
た
あはれみ たも
そのひとり
は他の使徒より多く労せし者なり。ハリストス我等の神、
トスの永遠なる王国に連れてきた。至る所でハリストスの
おほい
せんりつしゃ
大なる憐を有つ主は、實に宜しきに合ひて、不死の光栄の
かうむ
名が讃栄されることを熱望していた。ハリストス正教の名
かんむり
うるは
冠 を彼等に冠らせ給ふ。」
か
あが
を世界に知らせるために生涯を費やした偉人である。彼ら
い
おごり
しきょく
「我等如何なる美しき歌を作りてかペトル及びパワェル
つばさ
の唯一の喜び、楽しみは一人でもハリストスを知ることに
さづ
つの
ふ
あくき
しん ち
を讃め歌はん、彼等は神智の翼、四極を飛び過ぎて天に挙
あった。人々が信の国の中で、ハリストスと、その律法に
ほ
りし者、恩寵の福音を授けし手、真実を傳教する為に走り
仕え、生きている姿を見ることほど「慰むるもの」は何も
もつ
し
おほい
し 足、 叡 智 の 川、 十 字 架 の 角 な り。 ハ リ ス ト ス、 大 な る
なかった。
あはれみ たも
ぞくしん
やぶ
憐 を有つ主は彼等を以て悪鬼の驕傲を壊り給へり。」
か
もだ
おそ
しる
あはれみ たも
かみ
しん
しかし、現実は、一人の真の正教徒を得るまでには戦闘
い
しうしょく
むしん
「我等如何なる属神の詩を賦してかペトル及びパワェル
あ
が待っていた。生涯は血を流す戦争であった。二人とも、
ほ
を讃め揚げん、彼等は無神を殺す黙さざる口、神の畏るべ
己の生命を真理の敵、正教の敵に勝利するまで戦った。救
つるぎ
こわうめい
き剣、ロマの光明なる修飾、全世界の養育者、神の録した
いとは何か、命懸けの説得に努めたのである。全く見捨て
せきばん
(大晩課 讃頌)
厳、尊位、聖伝の堅立を呼び覚ます努めである。ハリスト
ある。自分自身に勝つ智慧の道の自覚とは己の中に人間尊
られ、助けのない人間存在に智慧の目を呼び覚ますことで
る新約の霊智なる石板、ハリストス、大なる憐を有つ主が
シオンに於て述べ給ひし者なり。」
ダー、社会のリーダーの目ではない。正教が彼らに尊位を
ね ば な ら な い。 こ の 目 は 決 し て 地 の ヒ ー ロ ー、 知 の リ ー
徒はこの内容、行間の読みの中で使徒と等しい聖性を覚え
教会で記憶するとは敬意の心を集めることである。この二
徒を讃栄すると言うが、彼らの生命はどこに伝えられ、開
あり、他にどこに、いつ、と言えるであろうか。人々は使
ない。神が今、ここにーある、おる、語りかけているので
この読み上げの音(声)に全注意を傾けていなければなら
言葉は書簡として人から人へ伝えられ、今日に及ぶ。正教
ス正教の完全なる到達地の型を告げている。彼らの説得、
置く場は今一つの別の目点に他ならない。地の目は、時に、
かれているのか。他ならぬ聖奉事の声―今、ここである。
正教会では、ペトル・パワェルは最高の使徒として祭る。
祖国のための死、犠牲、人間的な諸事件のための死、無力、
使徒の目は地のあらゆるものを後にしてハリストスの愛に
向かって昇っていたのである。
弱さに出合い致命した人たちを讃頌しさえする。
しかし、正教会の集会が使徒たち、致命者を讃頌する目
はずである。使徒の精神性を教会聖奉事で讃頌と共に歌唱
えている。つまり、己を天の祖国に至るために備えている
生命まで超え、天のための今が地の祖国のための愛すら超
正教徒の目は生命の基準の移りでこの世の終わりー地上の
大、小の群、全てを彼に向かって輝かせているのである。
リストスと同根の血類感の中にある。この戦士たちは地の
精神的、聖神的深味を見ている故である。集会の人々はハ
い訳で塞ぎかかっている。「忙しい、多忙、仕事だ・・・・」
稀ではない。主日の精神の充実―霊の洗濯日すら、他の言
る。この現実は正教の洗礼の恩寵に与った人々の間にすら
歩も許さない状況に置かれる環境すら日常的となってい
ている。実際、社会生活において、ハリストスへの愛を一
は生まれながらこの罪業の波(慣習)の中に投げ入れられ
原罪―多くの欲に取り巻かれ、攻められていると言う。人
者)を捨て去ることは安易ではない。ここは私たち人間は
現実に生身がハリストスのために残余の全てのもの(物、
する姿は、彼らの書簡の教えを確認し、この中に盛られて
日 曜 日 ― 教 会 へ な ど 遠 い 慣 習 と な り、「 付 き 合 い が あ る、
的はどこまでもハリストスのための英雄(ヒーロー)で、
いる精神的、聖神的な声に触れるからである。正教徒は聖
すら消え去り、罪意識、欠落など全く冷笑に付しかかり、
忙しい・・・・」と生命の根源の風に触れることを自ら拒
本日は改めて彼等の書簡を読み直さねばならない。ここ
時に、正教徒であることすら流れ去り、汚物、毒物の中に
奉事の讃詞(トロパリ)、讃頌(ステヒラ)などの意味深
は新約の「約」の理由が告げられている。使徒経はただ単
走り続けている。復活の日=主日=日曜など「どこ吹く風
否する。気まま、勝手を自由とすり替え、ハリストスの名
なる文字集、文学集で終わってはならない。真の正教徒は
ぞ」で、この日は休息として、本来の神の呼びかけの声を
い呼びかけの声を基準として生きる努めを喚起される。
文字の背後に流れている精神の営みを生きる。教会で聖奉
真の正教徒の本来のあり方は、この日は早めに起き、心
聞かない。
第一に精神的、聖神的集中のただ中にあらねばならない。
を祈りに備える。教会の聖奉事に常に立ち、仁愛、仁慈の
事中の読経を単に耳に聞くだけでは意味がない。誦経者は
神の声を今、使徒を通して聞いている気風にあり、人々は、
6
7
自分は何を食べ、飲み、着るか・・・・」のみの思いー今
あ っ た。 こ こ で、 己 の 信 の 度 合 い に も 出 合 う。「・・・・
実に住まうのである。使徒たちは、他の人の救いに熱烈で
とは使徒たちが「彼」のために、己の生命を差し出した現
くのである。ここで限りない愛=(仁愛)の淵に坐するこ
リストスと共に留まる、あるいはハリストスの中に入り行
喜ぶのである。ハリストスの日(復活の日=毎主日)はハ
毎主日は己の信の堅立をお互いの輝きの中に生き、楽しみ、
れて、一層、己の霊を洗いかかる。正教徒は祭日と言わず
る。特に、司祷者の福音経、使徒経の読みは傾聴するにつ
讃詞(トロパリ)は事の方向性を教え、告白し、語りかけ、
る。これ以外何が?正教の祭日、主日の讃頌(ステヒラ)、
ない、ない=塵、灰、土)に近づいている生のみを見てい
れ、「永遠」など入る余地もない。かかる毎日は死(ない、
始する人間群である。彼らは「時」の中に忙しく振り回さ
の絡まりつきで忙しくしている。いわゆる罪の言い訳に終
えない世界の拡がりである。精神、聖神の喪失は己を情念
心の必要事を報らせる。精神のない現実生活から容易に窺
永遠を見ながらで、これから、来世の生命のために備える
い時、場を垣間見る。正教の信仰に生きるとは、時の中で、
拡大は、あらゆる言動面に表れる。そして、ついに死のな
人生―生―世界の目的は?私たちの地の目の移転範囲の
世の生活のみに追われた思いで一杯ではないか。「いつま
全ての解答を送っている。
何たるかに触れかかる。聖奉事の言葉は常に霊の救いであ
でも、この地に生き続けるだけだろうか。己の倉に収穫物
分の追求あるいは目的とする姿が全人類の到達点ではない
聖、至潔を目指し、罪傾向を避けさせる。教会は常に、自
日に神の気風に触れることである。娘たち、青年たちが至
の幼児たちを害毒から守り、滅びを避ける姿は、祭日、主
に、信を養育するドッフ(しん)―神気風で包み、地上で
聖奉事との関わりである。教会は次の代―類の救いのため
毎日から離れ、神の目を第一に、霊に匂わせる日が教会の
して第一義的である。己中心―自分正義のみの判断基準の
あり、神への畏怖感と善意に努める姿は、正教会の会員と
覚めていなければならない。子は親の背中を見て育つので
正教徒は教会の告げる声―福と永遠、霊の救いに常に目
を祝福している。ペトル・パワェルは今、私たち正教徒の
と連なり、時を超えて、今、今日、天において、正教の人々
の時間を費やした。霊の目覚めと、この動向の重視は不死
プネウマー神(しん)の呼び出しと活用に忙しく、己の生
の源であり、常に、この保有者である。使徒たちは何より、
の上に、身体的、肉体的生活(念)ではない。教会は聖神
いた。これは通常人の逆の目である。精神的、聖神的生活
はプネウマが支配し切り、体を包み、外表となって表れて
ただけではなく「永遠」に生きていた。聖者の内部生活で
き面を教えかかっている。彼らは「時」の中で、時に生き
ばかりではなく、全正教の聖人の祭りは、各々、特別な働
思わず、今、彼らに習おうとの願望に生きる。二人の例え
ペトル・パワェルの祭日は信仰の実の豊かな甘味を告げ、
と見えるまで導いている。
ルの告白はメシア=ハリストス=イイススで、これこそ堅
を積み重ねることが生であろうか・・・・」
一人ひとりの霊の救いを配慮している。アミン。
い証との意味である。
シモンペトル対へて曰へり 爾はハリストス活ける神の子
なり。イイスス答へて彼に謂へり、イオナの子シモンよ、
す。イイスス彼等に謂ふ、爾等は我を言ひて誰とか為す、
と為し、又他の者はイエレミヤ、若くは預言者の一人と為
彼等曰へり、或人は授洗イオアンと為し、他の者はイリヤ
徒に問ひて曰へり、人人我人の子を言ひて、誰とか為す、
「イイススはフィリップのケサリヤの地に来りて、其門
の子=この確固たる信の上に教会は建てられる。ペトルと
葉で、この使徒の信念の堅さの特徴を指している。私=神
まりの基は何かとの約を見る。天の国と地の鍵に注意。ペ
によって完全啓明、実証を教えている。教会とは何かー集
の体、血、判断ではなく、神の目―天にあるもの=父(神)
イスス、生ける神と同一の意味である。ここは、人間の目
子を指す。聖三者の第二の顔(位)で、真理そのものがイ
ハリストスは神の生ける子で、塗油された者、神の独生
爾は福なり、蓋血肉は之を爾に示ししに非ず、乃天に在す
は、ハリストスの中に集まる人々の信念の場、時―行き交
―ペトル・パワェル祭の注目点―
我の父なり。我も亦爾に語ぐ、爾はペトルなり、我此の磐
う集いに他ならない。鍵は、全ての使徒と教会の牧者(教
)
19
②「且一切を以て損と為す、ハリストスイイスス我が主を
正教徒はいつも信の答えをここに見なければならない。
よ。」(ペトル前 :
3 )
15
を 問 ふ 者 に、 温 柔 と 敬 虔 と を 以 て 答 へ ん こ と を 常 に 備 へ
①「主神を爾等の心に聖なりとせよ、凡そ爾等の望の由縁
⑵関連事項
トル(岩、(へ)、本来の意味)はハリストスの口からの言
の上に我の教会を建てん、而して地獄の門は之に勝たざら
役者)に与えられた。あるいは使徒の位の権とも言える。
かぎ
ん。 且我爾に天国の鑰を与へん、爾が地に縛る者は、天
─
13
にも縛られ、爾が地に釈く者は天にも釈かれん。」(マトフェ
イ
:
16
⑴福音書から
ペトルがハリストスを神の子として信認告白したこと。
教会の基は、この神=ハリストスとの堅い基(巌―ペトル)
に置かれる。岩に向かって自分の中の読み、叡智の高みに
に「問い」は思念の目を啓かせ、岩(ペトル)の意味を解
識る知識の勝れたるが故なり。彼の為に我一切を棄て、一
昇るためのハリストスの問いかけで、浅い読み取りの人々
させるためである。人々の前駆イオアン、イリヤ、イエレ
あくた
すぐ
ミヤなどの言及は「甦り信仰」と預言者、メシアの現れの
(フィリップ :3)8
切を以て芥と為す、ハリストスを獲ん為、」
「蓋我爾等の中に在りて、イイススハリストス、且其十
並べかかりで、真理の系譜を悟らせている。次いで、ペト
8
9
これらがイイスス・ハリストスは生ける神の子との言葉
間との中に立っている。この別称は多数ある。第一司祭―
字架に釘せられし事の外は、何をも知らざらんことを定め
たり。」(コリンフ前 :2 )
2
「我に在りては、我等の主イイススハリストスの十字架
王―預言者―人間の仲介者―贖罪者―生命の治者、指揮者
リストスへの絶対信頼の上に立っている。ペトルの告白は
⑤正教の信の基(ザコンボージィイ)は福音書の教えーハ
である。ハリストスとは真の神で、真の人間で、私たち人
の外に誇る所なし、此に由りて世は我の為に釘せられたり、
などであり、正教は神の口からの言葉を告白している。
われ よ
)
我世に於ても亦然り。」(ガラティヤ :6 14
父とイイスス・ハリストスの一つのものとの信認は永遠
に生きるとの読みである。
全使徒、正教会の告白の言葉である。ハリストスの建物と
は不動、堅固、永遠を友とする。
さばき
③「爾等は肉に循ひて審す、我は何人をも審せず。」(イオ
彼らはわたしがわたしの民に施すもろもろの恵みのことを
わたしのために喜びの名となり、誉となり、栄えとなる。
べてのとがをゆるす。この町は地のもろもろの民の前に、
とがを清め、彼らがわたしに向かって犯した罪と反逆のす
「わたしは彼らがわたしに向かって犯した罪のすべての
⑶信仰と痛悔
はか
)
アン :8 15
れい
しん
「霊に属する人は神の神の事を受けず、其彼の為に愚たる
しん
が故なり、且之を識る能はず、蓋此れ神に由りて度らるゝ
)
なり。」(コリンフ前 :2 14
人間の目、この世の目は不正確、不信、不浄で情念(肉)
の目に過ぎないことの注意。神性は何か迫る。
聞く。そして、わたしがこの町に施すもろもろの恵みと、
もろもろの繁栄のために恐れて身をふるわす。」(イエレミ
つつし
: ─
33
8 9口語訳)
④「兄弟よ、慎め、人が、ハリストスに循はずして、人の
くうじゅつ
ヤ
りがく
堅い信の前に己の省察、痛悔の心を呼びかけている。実
げんぎょう
惑はさざらん為なり。」(コロサイ :2 )
8
「蓋律法はモイセイに由りて授けられ、恩寵と真実とはイ
れねばならない。教会の司祷者(教役者)の務めは、人々
いでん
遺傳に循ひ、世の元行に循ふ理学と空術とを以て、爾等を
)
イススハリストスに由りて来れり。」(イオアン :1 17
しん
「然れども我等は斯の世の神を受けしに非ず、乃神よりす
がアド(地獄)に投げ入れ、飲み込まれたままではなく、罪、
とは天が到達極地と見えて、永遠の降福の入り口が告げら
る 神 を 受 け た り、 神 よ り 我 等 に 賜 は リ し 事 を 知 ら ん 為 な
痛悔から天が開かれている奥密を知らせることである。
しん
)
り、」(コリンフ前 :2 12
また、すでに信にある正教徒は己の立っている場を常に
凝視していなければならない。己の試練を見るとは、己の
知恵を通して、イイスス・ハリストスを見て、神性を悟る
ことである。己の心、感性を拡く開き、「神人」の実在に
仕える姿となる。使徒ペトル・パワェルの姿は、忍耐と苦
悶、苦痛、死に晒される型である。この中で己の信の確か
めに出合う闘いの連続であった。行いの伴わない信は無き
に等しい。
「蓋人心を以て信じて義とせらるゝを致し、口を以て承
か
: 10
)
け認めて救はるゝを致す。」(ロマ 10
「是の故を以て、我此等の苦を受く、然れども耻とせず、
よく
蓋我は我が信ずる者を知り、且彼が我の託せし者を彼の日
に至るまで守らんことを能すと確信す。」(ティモフェイ後
はん
:1 12
)
( ペ ト ル )
ぞくしん
「自も亦活ける石の如く、己を以て属神の堂、聖なる司
祭班を建てよ、イイススハリストスに由りて、神の悦び納
るゝ所の属神の祭を獻げん為なり。」(ペトル前 :2 )
5 たす
「然らば我等此に於て何をか言はん。若し神我等を佑け
)
ば、誰か我等に敵せん。」(ロマ :8 31
正教会は祭日に当たり、これ等の信を生きるのである。
10
11
パワェル
ペトル
主教 セラフィム
ニシ彼ヲ教會ヨリ追放スベク積極運動ニ移ル予定ナリト云
聖ニコライとセルギイ府主教 ⑬
セルギイ府主教に対するロシア人たちの非難は東京の
しかし、この排斥運動は神戸以外では具体的な成果は得
フ」と記されている。(アジア歴史資料センター)
国内各地のロシア人たちにも連帯を求め排斥の檄文を出し
られず、東京や横浜での新教会設立までには至らなかった。
「旧露国人移民協会」のチェルトコフたちが中心であった。
たが、その内容はセルギイ府主教が共産政府に帰順し、そ
北海道庁長官池田秀雄は昭和六年五月十三日付で内務大
されている。一つは昭和六年六月二十六日付で、モスクワ
この時期に記されたセルギイ府主教の手紙がいくつか残
の傀儡となったというものである。
臣や関係官庁に「ニコライ堂大司教排斥運動ニ関スル件」
のセルギイ〔ス〕府主教宛のものである。
マ
を出している。(アジア歴史資料センター)
載されたパリのエウロギイ府主教からセルギイ〔ス〕府主
マ
札 幌 に 住 む「 北 海 道 露 國 移 住 民 協 會 長 旧 露 國 人 セ ル
ゲーワシリウイチ、ミロノフ」にチェルトコフからの檄文
教に宛てられた一九三十年十二月九日付の手紙について
その内容はロシア正教会の「西ヨーロッパ教区報」に掲
が届いており、同地でも「旧露國人ノ結束ヲ計リツツアル」
の 非 難 で あ っ た。 エ ウ ロ ギ イ 府 主 教 は こ の 時 点 で は す で
に セ ル ギ イ〔 ス 〕 府 主 教 と ロ シ ア 正 教 会 臨 時 総 主 教 シ ノ
ママ
という報告で以下のことが記されている。
――「セルギーガ最近頻リニ東京市在住旧露國人ニ対シ
マ
ドから西ヨーロッパロシア正教会管理者のポストを解か
ママ
ママ
マ
『ソ』 邦ハ既ニ経済状態並ニ教會モ従前ノ通リ回復シ住
ママ
民ノ生活モ平和ニ復シツゝアルニ依リ此際皈國スル云々―
マ
)、聖職停止処分を受けていたが( 1931.4.30
)、
れ( 1930.7.10
自身を日露戦争時の聖ニコライに喩えたのであった。
マ
吹聴シ居レルガ本名ハ現『ソ』 邦政府ヨリ司教ノ位ヲ授
「一九三〇年十二月九日付けの府主教エウロギイから座
月、
ケラレタル結果其報酬トシテ斯ル態度ヲ持シ居ル事判明シ
、
No.3
下 宛 の 手 紙 の 中 に、 次 の よ う な 勝 手 な 記 述 が あ る の を 拝
見しました(西ヨーロッパ教区報一九三一年
ページより引用します)。
17
マ
タルニ依リ其変節ヲ排斥スベシ云々」――
マ
マ
活動における関係は中断してはなりません。これまでのよ
父)、皆さんは私の子供です。私たちの伝道ミッションの
私も皆さんも正教の信者です。私は霊的な父であり(大神
ません。私はロシア人で、皆さんは日本人です。それでも
には来ますが個人的に祈ります。公祈祷を行うことはでき
結するまでの最后の祈祷であることを申し上げます。聖堂
たちを祝福することもできません。従ってこれが戦争が終
とはできません。また私の祖国ロシアとの戦争出征する人
「~私はロシア国民として日本軍の健闘のために祈るこ
引用している。
自身の立場を明らかにしたがセルギイ府主教はその言葉を
聖ニコライは日露戦争が始まった時、ロシア国民である
誹謗する虚偽であります」
ロギイ府主教が書いていることは全てこの偉大な伝道者を
ともロシアへの裏切り者たることはなかったのです。エウ
黙っていることはできません。ニコライ大主教は一瞬たり
イ の 後 継 者 と し て、 私 は ニ コ ラ イ 大 主 教 の 名 誉 の た め に
日本正教会において日本の使徒であられた大主教ニコラ
ることもありませんでした』
に対して彼に何らかの罰を与えることも、彼に祈祷を禁ず
とを阻害するものではありませんでした。聖シノドもこれ
がロシア正教会に属することや、ロシアの主教品であるこ
態にある日本の教会と健勝と平安を祈りつつも、それは彼
に思います。何故ならば彼は日本に残り、ロシアと戦争状
本の大主教ニコライを思い出させるような状況にあるよう
『私が現在置かれている状況は、どこか露日戦争下の日
3
16
17
同年五月九日付の神奈川県知事山縣治郎の報告書も残さ
マ
▲イコノスタスの前に立つセル
ギイ府主教
(後にイコノスタスの色は塗り
替えられたが、王門部分だけ
は現聖堂内に保存されている)
れているが「『セルギー』大司教ノ『ソヴィエト』化ヲ明
▼釧路正教会「聖神降臨聖堂」成聖式(S.7.10.23)
セルギイ府主教を中心に同地在住のロシア人たちも写っている。
セルギイ府主教は自ら離れてロシア国外にいるエウロギ
は常に『分裂』を先鋭化させるだけです〜」と書き始めたが、
を知って私の悲しみは限りないものです。このようなもの
まり、『政党プロパガンダ』に満ちた記事を掲載したこと
イ府主教と戦争中も日本に留まった聖ニコライとは全く志
シモン主教は日本のロシア人社会で非難された三月二十九
うに続けていきます~」
も立場も違うとし、エウロギイ府主教の言動はパリの移民
教を批判したのであった。
日の復活大聖堂での説教の内容を取り上げ、セルギイ府主
収録古文
2000 No.1[10]
ロシア人たちを惑わすものであると非難した。(季刊誌「教
会と時」モスクワ総主教庁渉外局 書)
と貴座下は新聞に書いています。貴座下はどこでこれを読
セルギイ府主教は「『日本正教会の首座は…ソヴィエト
)七月十四日付
さらにセルギイ府主教は昭和六年( 1931
で、在外シノドの下にあった上海のシモン主教に長文の手
まれたのでしょうか?」と問いかけたが、これは「悪意あ
たことに対して反駁したものである。聖書や教会法の諸規
ソヴィエト権力への関係について」という記事で批判され
ヴィエト、ロシアにおける正教会への迫害と正教聖職者の
八〇一号六月二十四日付)に掲載されたシモン主教の「ソ
上 海 で 発 行 さ れ て い た ロ シ ア 語 新 聞「 こ と ば 」( 第
と述べている。
が、充分に「検査し」その後にはじめて判断すべきである
し様々な情報で伝えられるロシア正教会を病人に喩えた
かしたら貴座下の見解と違うかもしれません」と前置きを
正教会の現状に関する私の見解は多くの人々、そしてもし
る嘘」であると反論する。そして「確かにロシアにおける
・ロシアにおける正教会への迫害の事実を否定している』
紙を書いている。(アメリカ正教会古文書館所蔵)
則からの引用を駆使し「注釈」も付けられており、「論文」
復活大聖堂の説教で紹介したセルギイ府主教の故郷ノヴ
ソヴィエト下のロシア正教会については「モスクワ総主
と言っても良いものであるが、受け取った者がうんざりす
ちが自分たちにとって不都合な聖職者を中傷する手段とし
教ジャーナル」の「編集者より」を引用し、「現在の国家
ゴロドの村の様子を記した手紙は「検査」のため同地に住
て新聞を選択するなら、それは分裂をさらに深め、そうい
体制の条件にあって存在のための充分な可能性を持ってい
るであろうほどの長さであり、これを執拗に書いたセルギ
う人たちの移住を弱め、だめにし、腐敗させてしまうので
る」のであり、ロシア正教会の歴史的な出来事を連ね、過
む弟に問い合わせて返信されたもので、「復活祭前の慰め」
す。~神の司祭長で、若くなく、隣人の兄弟と書面で連絡
去の国家と教会の在り方を検証している。そして、セルギ
イ府主教の性格が垣間見えるものである。
が取れたのに新聞を選び、そしてそこに未確認の噂から始
が認める)立っておられる教会はモスクワ総主教庁に対し
として話をしたものであったとした。
イ府主教は説教で述べたように、「いま教会は苦難の中で
て、いかなるカノニカルな関係にあると認識しているのか、
「~いわゆる政治闘争に深入りして去っていった信者た
清められつつあり、再生されつつあります」という考えは
について』」
ただこれだけであり「いかなる『忠誠』に関する言及は
揺らぐことはなく、現在のロシア正教会こそが「ハリスト
スの花嫁にふさわしい新たで自由な原則のもとで教会が自
ありません」とセルギイ府主教は言う。
ているロシア人主教職の中で自分を区別し、ロシア正教会
次にシモン主教の「日本正教会の首座は…海外に在住し
れた干渉の回復、その他の障害によって断絶された総主教
せん。また総主教庁から書留書簡を受け取る日を、断絶さ
り、一時間たりともその外にあるとは考えたこともありま
らの活動を成し遂げつつある」と結論づけている。
の首座としてニジェゴロドの府主教を認め、主教職と司祭
庁との関係の回復の日とみなします」とモスクワに回答し
そ し て「 日 本 正 教 会 は ロ シ ア 正 教 会、 母 教 会 の 娘 で あ
職から無神論のソヴィエト政権に対し忠誠を求めている」
3)一月二十三日に指示書簡(一
(
2・ ・ )、翌年(
という新聞での記述については「そうです。つまり、私は
り、またその権限を府主教セルギイ・ストラドゴロスキー
して総主教の代理者である府主教ペトル座下のために祈
管理監督するように提案する』」であった。
信徒をこれまでどおり今後も総主教庁の直接管轄にあって
その要旨は『日本の大主教に対し、彼に委任されている
あり、これについてはセルギイ〔ス〕府主教が一九三〇年
2)九月のセルギイ〔ス〕府主教からの手紙を紹介する。
座下に譲渡されたので府主教セルギイ座下のためにも祈り
(
十月二十八日にパリのエウロギイ府主教に宛てた手紙から
号でモスクワ総主教
「一九二七年九月二十四日付 No.401
は私を呼び出しました。(文字通りの北京の主教の言葉に
衆の前で公にソヴィエト政権に対する立場をとったから
のはソヴィエト国籍を持たない在外聖職者たちの数名が大
次の部分を引用している。
よると)
で、前記した人々が総主教庁の管轄下にあり続けながらこ
説明しているが(「聖ニコライとセルギイ府主教⑩」参照)、
『貴座下の国(つまり日本)における正教会の状況につ
のような表明を行い、総主教庁に影を落としているのです。
「私たちの所で在外聖職者に関する問題が起きた
いて、貴座下の所の教会管理組織について、特に教会とい
今後このようなことから自己を守るために総主教庁は在
(一九二七年七月十六/十九日の私たちの『決議』を見よ)
う身体(組織)の一部で、首座として貴座下が(つまり私
公会では明らかにされていない事も記している。
昭和五年の公会でもこの手紙についてセルギイ府主教は
「忠誠」という言葉が拡大解釈され、独り歩きしたので
月四日付)を受けていたのであった。
S
ます。彼とは活発な関係にあります」と記し、一九二七年
自分の聖なる中心としてモスクワ総主教庁を認めます。そ
10
27
18
19
S
S
外聖職者たちから忠誠義務を決定したのです。なぜならこ
一九二七年にそれを始めました。そして今はこの悪を治す
誠』という言葉を狭義的な特別の意味で総主教庁は用いた
して、その大聖堂は競売に付されてしまいました!その時、
ら借りた七十万マルクで大聖堂を建てて成聖しました。そ
ベルリンを見てみましょう。カルロフツィ派は、銀行か
薬はあるのでしょうか?
のでもなく、広義的に、いわゆるミニマムに、様々な表明
助けてくれる人もいませんでした。
の案件のときにソヴィエト国籍取得に関する話はなく、『忠
から保護するという意味で用いたからです~(西ヨーロッ
今、 ブ リ ュ ッ セ ル で 聖 堂 を 建 て る た め の 募 金 活 動 を 行
命者〔皇帝ニコライ二世〕の聖なる名前まで利用していま
、 1931
)」
パ教区教会報知 No.3
共産政権に「忠誠」を求めたのではないことは明らかで
また「ソヴィエト連邦の忠実な国民」であり、かつ「忠
す。しかし、この事業は『党派』の事業ですから、期待す
なっています。大主教アレクサンドル(元・アメリカの主
実な正教徒」であることは可能かということについては「清
るほど成功もしません。そして、そちらの上海でも、軍人
あり、総主教庁の真意とはハリストスの言葉「私の国はこ
い正教の精神を自分の仕事に発揮し、国民としての義務を
たちが聖ニコライ教会を建てると共に、貴兄等も大聖堂を
教)の座です。この事業を成功させるために、皇帝たる致
忠実に実行すること」により可能となるのであり、幼子ハ
建てようとしています。その両方とも聖なる事業です。し
の世からのものではない」だったと説明した。
リストスがローマに占領されていたユダヤにあって「アウ
かし、前者は府主教エウロギイの事業であり、後者は府主
せん。これらは皆、ロシア教会の境界外にあるのです!
を中心に? 中心が必要ですが、ニューヨークも、パリも、
スレムスキ・カルロフツィもロシア教会の中心ではありま
一つにならなければなりません。でもどうやって? 誰
ん!実に悲嘆すべきことです!
動 力 が な い の で す! で す か ら、 然 る べ き 成 功 も あ り ま せ
教アントニイの事業です。心は二つあるのです!一つの原
グストの記録簿」に登録されたことを先例としてあげた。
さらにセルギイ府主教はこの手紙の後半では共産政権下
のモスクワ総主教庁の正当性と在外シノドの存在について
論を張るが、在外シノドに対する見解は別の手紙の方が良
くわかる。
先に紹介した上海の「イワン・ウラジーロヴィチ」とい
う 人 へ の 手 紙(「 聖 ニ コ ラ イ と セ ル ギ イ 府 主 教 ⑨ 」 参 照 )
数の面では豊かですがベロ=クリニツカヤ・ヒエラルキー
行 い ま し た ) の 報 告 を き っ か け に、 府 主 教 ア ン ト ニ イ が
す。ボグチャルの主教セラフィム(私が彼の修道剪髪式を
「 し か し、 教 会 の 分 裂 と は! あ あ、 こ れ が 最 大 の 悪 で
互いに兄弟愛をもって交わり、㈤まったく不必要なスレム
の『大河』ではありません(『アントニイの小川』は主教
資金の少ない『アントニイの小川』も、勿論、ロシア教会
人数や資金の面で豊かな『エウロギイの小川』も、人数や
複数の小川は大河に注がなければなりません。しかし、
〔古儀式派の一派〕のように、カルロフツィ・ヒエラルキー
スキ カ
・ ルロフツィ拠点(この拠点はハルビン、北京主教
区によって扶養されているが、誰をも扶養しないのです!)
には次のように記されている。
の 形 成 を 急 い で い る か の よ う で す )。 ア メ リ カ の 小 川 も、
会の名前だけでなく、異なる政治綱領やスローガンの上で
主教を記憶するのは〕彼だけです!)。それとも、国粋主
チノープルの総主教を記憶する教会は一つもなく、〔同総
ちをだましている。彼の管轄下の教会のうち、コンスタン
教會ノ近況ニ関スル件」を報告している。
長崎といったロシア人の住む地域の長官宛に「神戸舊露三
警視庁の他、神奈川、北海道、福井、大阪、山口、福岡、
昭和七年五月十六日、兵庫県知事白根竹介は内務大臣や
分裂している人たちが一つになる唯一の道です~」
を中心とせずに、改めて教会生活を始める。これが現在教
あまりにも濁っています! 唯一の『大河』とは、『旧教会』
のモスクワ総主教庁なのです!
それとも、府主教エウロギイのように『ギリシャ人』の
義者セルビア人の下に立てばよいというのか。多くの実現
「三教會」とは「大正十四年開設ノ旧露正教會」、「昭和
所へ逃げればよいというのか(府主教エウロギイは信徒た
不可能な計画の作者はそうするように呼びかけています。
マホメット教會」である。
報告ではボブロフ神父が管理する従前の教会は紛糾以後
六年十一月新設ノ旧露正教會」、そして「旧露タタール系
否! 私はロシア人です。百パーセントロシア人なのです。
ロシア人でありたいし、現にロシア人であり、これからも
ロシア人であり続けます。そして、私は自分の教会と共に
十一日以降ハ日曜日ノ禮拝等ニ漸ク十五、六名内外ノ参拝
は「~信徒約三分ノ二ヲ失ヒ多数有力信者ニ離反サレ客年
モスクワですか?『金色の円屋根を頂いた』モスクワは
者アルノミ」と衰退した事を記している。一方、新教会は
ロシアの総主教庁の下にいます。
こわくありません!『赤い政権』ですか?『赤い政権』は
き、「約六十世帯ノ信者ヲ有シ、本月上旬の『パスカ』祭
マ
ニハ約百名ノ禮拝者アリ」と盛況だが、「財政ノ基礎充分
マ
ハルビンから「アレキサンドル・パエウスキー」神父を招
教会なんてどうでもいいのです! われわれに対する『赤
い政権』の態度はそんなものです! ㈠モスクワ総主教庁に帰属し、㈡一時的な自治管区、パ
ニ確立セザル」であった。
7)セルギイ府主教は十月二十三日、釧路正
ク管区(府主教…〔不明〕
)
、極東管区(北京、中国、満州)
、
に住んでいたロシア人たちより大口献金が寄せられたこと
教会の「聖神降臨聖堂」を成聖したが、聖堂建設には同地
この年(
日本管区(府主教セルギイ)を置く許可をモスクワ総主教
を「釧路正教會百年の歩み」は特筆している。 (続く)
リ管区(府主教エウロギイ)
、スレムスキ カルロフツィ管
・
区(府主教アントニイ、セルビア、ブルガリア)
、ニューヨー
庁からもらい、㈢モスクワ総主教庁に精神的に従い、㈣お
20
21
S