チェ・ゲバラ - livedoor Blog

「チェ・ゲバラ」
伊高浩昭著
第1章
1928年
目覚めへの旅
・6月14日、エルネスト・ゲバラ=デラセルナ(以下チェ---名前の由来
は P.37 参照)は父エルネスト・ゲバラ=リンチと母セリア・デラセル
ナ=デラジョサの長子とし、サンタフェ州ロサリオ市の病院で生まれた。
実際はできちゃった結婚で、母は上流階級出身のため、人目を避けてラ・
プラタ川上流の農場に移っていたが、出産を控えブエノスアイレスに戻
る船中で、5月14日チェを出産していたのが定説だ。
1930年
・2歳になったチェに喘息の兆候が表れ、医師から、河畔は喘息によくな
いと言われて、一家は1932年首都に移り、さらにコルドバ郊外に移
住した。
チェは小学生になると父母の蔵書を多く読み、1942年コルドバ市の
国立中学校に入学。チェは同級生の兄アルベルト・グラナード(国立コ
ルドバ大学卒の理学修士、医師)と親友になった。
・この年、アルゼンチンでは陸軍将校団のクーデターで軍政が樹立。
将校団の一人ファン=ドミンゴ・ペロンは、第2次大戦後、副大統領(後
に大統領)として実権を握り、反共・反米主義者として、南米を資本主
義でも社会主義でもない「第3の立場」にすべきと唱えた。
(後に、チェは反米主義を鮮明に打ち出した点でペロンを評価した)
1947年
・チェは国立ブエノスアイレス大学医学部に入学。大学の図書館で1日
10時間も読書に没頭することもあった。
1951年
・チェは国営の石油会社と契約し、タンカーの看護師として、初めて外国
旅行をする機会を得た。アルゼンチン南部のパタゴニアとカリブ海を4
往復し、南米大陸とカリブ海の地理的感覚を得たのが収穫だった。
・チェとアルベルトは約束していた南米大旅行に出発した。
1952年
訪問国は、チリ
⇒
ペルー
⇒
コロンビア
⇒
ベネズエラ
⇒
アメリカ(マイアミ)。
・この間、チェは、最貧層の先住民や、酷使されて惨めな生活を強いられ
てきた鉱山労働者の貧しさと、快適に暮らす米国人資本家やチリ人共同
経営者の豊かさとの激しい対比に驚愕した。この旅を通じてチェの政治
1
的関心は大きく膨らみ、自分たちの世界、ラテンアメリカを発見した。
・帰国したチェは大学に戻り猛勉強の末、医学部を卒業し、医師免許を取
得した。
1953年
第2章
1953年
運命の出会い
・チェは、医師家業に入らず、友人と一緒に親友アルベルトのいるベネズ
エラを目指して旅立った。(旅の途中、チェがメキシコでカストロ兄弟
に会い、キューバ革命に参加したため、ベネズエラ行きは中止)
訪問国は、ボリビア
コスタ・リカ
⇒
⇒
ペルー
ドミニカ
⇒
⇒
エクアドル
ニカラグア
⇒
⇒
パナマ
⇒
グアテマラ
⇒
メキシコ
・チェは初めにボリビアに入国。前年、ボリビアでは鉱山労働者主体の人
民軍が政府軍を撃破する革命が起きていた。ラパスでボリビア中央労連
の松明行進を目撃したチェは、疲れ切って精彩を欠いた行進を見て革命
の末路を感じた。
・チェは、ボリビアでアルゼンチン弁護士リカルド・ロホに会った。
(後に、ロホはグアテマラでチェに再会、チェの最初の妻となる左翼活
動家イルダ・ガデアを引き合わせた。
)
・中米を縦断して、コスタ・リカに入国。多くの亡命者と会い英気を養っ
たチェは「グアテマラに行き、真の革命家になって立ち上がろう」と日
記に記していた。
・チェはロホに紹介された7歳年上のペルー人亡命者イルダに案内されて
参加した亡命者の集いで、ニコ・ロペスらキューバ人亡命者に会った。
・10年間グアテマラで続いてきた変革は「グアテマラの春」と呼ばれ、
1954年
アルベンス大統領政権を支えてきたのは共産党に等しいグアテマラ労
働党だった。政府の農地改革によって農地を接収された米国策会社を所
有するアメリカでは、ジョン・ダレス国務長官とアレン・ダレス CIA
長官がグアテマラ侵攻を計画。6月、800人の CIA 仕立ての部隊が
侵攻し、首都に迫ると、アルベンス大統領はメキシコ大使館に亡命した。
・9ヶ月のグアテマラ体験はチェの人生の転換点になった。チェは、激し
い戦闘、暴力こそ敵を倒し、ラテンアメリカを開放する唯一の手段だと
認識し、米国の覇権に抵抗すると米国は必ず侵略すると、後に記す。
2
・9月、チェはグアテマラからメキシコに入り、間もなくメキシコ市の総
合病院アレルギー研究所に職を得た。一方、グアテマラで逮捕されてい
たイルダは、メキシコ追放処分になり、メキシコで政治亡命を許された。
チェとイルダはメキシコ国際空港で再会を果たした。
・10月、グアテマラで面識を得たキューバ人ニコ・ロペスが医師を求め
て総合病院に来て、偶然チェと再会した。
・キューバが1903年グアンタナモ湾中心部を米国に恒久的に奪われた
のに続いて、1954年8月、米国からパナマ運河までの距離短縮のた
め、キューバ島中央部に運河を建設する米政府案をキューバのバテイス
タ政権が受け入れた。
・これらの米国の政策に、多くのキューバ人が怒りを覚えた。反対運動の
中で、1953年7月26日、青年弁護士フィデル・カストロたちが陸
軍のモンカーダ兵営を襲撃し、逮捕されていた。
・フィデルたちの釈放を求める世論が沸騰すると、5月、恩赦法が成立、
カストロ兄弟ら兵営襲撃者は解放された。フィデルは兵営襲撃の日付に
因む「7月26日運動」をハバナで組織した。
1955年
・6月、メキシコに着いて間もなく、ラウール・カストロはニコ・ロペス
の案内でチェに会った。
・7月、フィデルがメキシコ市に到着。チェはラウールの紹介でフィデル
に会い、キューバ革命の覇者同士の歴史的出会いが実現した。フィデル
は政権打倒の革命構想を提起し、2人は夜通し語り続けた。フィデルは
「キューバ独立はラテンアメリカ全体の独立にとって決定的に重要だ。
何故なら、米軍がキューバを橋頭堡にしてラテンアメリカを侵略する恐
れがあるから。
」と話し、チェも納得した。明け方にはチェは従軍医師
になることが決まっていた。チェは「キューバ革命が成就したら、自分
は祖国アルゼンチン解放のために戦いたい」とフィデルに伝え、了解を
得た。
・8月初め、チェはイルダから妊娠を告げられた。2人は総合病院の同僚
の故郷で、ラウールらの立会いのもと挙式し、結婚届に署名した。
その夜、メキシコ市で開いた披露宴にはフィデルも出席した。
(翌1956年2人の長女イルダ=ベアトウリス・ゲバラ=ガデア
<イルデイータ>が生まれた。
)
・1月、フィデルはゲリラ戦の訓練を開始。3月、チェは病院勤務を辞め、
軍事訓練に専念する。
・キューバの秘密警察はフェデルらの動きをつかみ、メキシコ政府に取り
3
1956年
締まりを依頼。フィデル他2名が逮捕された。無用な流血を避けるため、
フィデルは同志を投降させ、チェを含めて計24人が拘禁された。
7月、大半の同志は解放され、8月になると元メキシコ大統領ラサロ・
カルデナスの尽力でチェも解放された。
・9月、バテ イスタ政権打倒に向けて、ハバナ大学学生会を中心とした
「革命幹部会」
(DR)指導者ホセ=アントニオ・エチェベーリアと
フィデルはメキシコ市で話し合い、「7月26日運動」とDRが連携し
て戦う「メキシコ憲章」に調印した。
・11月、フィデル、チェ以下82人の志士を乗せたクルーザー「グラン
マ号」はキューバを目指して出航した。
・チェは大きな旅を経て、医師から、社会の病根を断ち切る革命家に転じ、
人生目標にたどり着いた。
第3章
1956年
キューバ革命戦争
・フィデルは、キューバに向かう船内で、ゲリラ部隊の指揮系統を確認し
た。米国になびくラテンアメリカ諸国の多すぎる将軍の悪しき実例を踏
まえ、フィデルは少佐を最高位にし、自分は主席少佐・最高司令に就い
た。その下に、ラウールなど数人の大尉を置いた。
・グランマ号は予定より2日遅れて、12月2日キューバに上陸。ゲリラ
は昼間隠れ、夜間東方のマエストラ山脈に向けて行軍していた。5日、
ゲリラは政府軍の待ち伏せを受け、犠牲者は40人を超え、負傷者は拷
問され殺された。12日、フィデルたちは農民の案内で山脈奥地の安全
な場所に着いた。21日、チェもフィデルと合流、21人の同志が再結
集した。フィデルは同志の1人をハバナに派遣し、地下抵抗運動の構築
と武器弾薬の調達を命じた。
1957年
・1月24日、フィデル以下ゲリラ部隊はラ・プラタ川の河口付近にある
政府軍駐屯地を最初の攻撃目標に選び、これを攻撃、初の勝利をあげた。
・2月、
「7月26日運動」の平地(都市)組も市民抵抗運動を組織し、
破壊活動を開始した。山地組と平地組を束ねるのは、カリスマ性を備え
たフィデルを措いて他になかった。チェ初め山地組には、ゲリラ戦こそ
革命の道であり、平地組がそれを支えるのは当然という意識があった。
・5月、平地組が送り込んだ50名を加えたフィデル以下80人のゲリラ
部隊は、カリブ海岸にあるエル・ウベーロ要塞を攻撃、これを制圧した。
フィデルの同伴者(愛人?)セリア・サンチェスさえも銃を手にした激
戦で、ゲリラ側は6人戦死、15人が重傷を負い戦闘不能になった。
4
・7月、フィデルは「山脈宣言」を発表。革命戦争勝利後の自由選挙実施、
民主政権樹立、基本的人権の保障、農地改革実施を掲げた。
・11月、チェは新聞「エル・クバーノリブレ(自由なキューバ人)」を
発行した。
・2月、チェは「反乱放送」を開始。放送はラテンアメリカ各地で流され、
部隊間や各地の仲間との連絡に大いに役立った。
・3月、ブエノスアイレス「エルムンド」新聞・放送の契約記者ホルヘ=
1958年
リカルド・マセッテイが山脈陣地のチェを訪問。2人はすぐ友人になり、
後に革命の同志となる。以前チェがインタビューを受けたウルグアイ
「マニャーナ」紙特派員とマセッテイの書いた記事はラテンアメリカの
「チェ神話」の始まりになった。
・5月、
「7月26日運動」の幹部会開催。フィデルは反乱軍最高司令に
加えて、平地組の地下戦力を束ねる総司令になった。併せて「7月26
日運動」の書記長にも就任し、権威は盤石のものになった。この会合で
は、人民社会党(PSP
共産党)との連携も決めた。
・5月、政府軍は大攻勢を開始、12,000人の兵力で300人の反乱
軍の高原陣地を囲んだ。6月、平地組のウベール・マトスが坂道にある
要衝の攻防戦で政府軍を撃退。激戦は8月初めまで続き、反乱軍は奇跡
的に勝ち、政府軍の膨大な武器弾薬などを手に入れた。反乱軍は革命戦
争で初めて優位に立ち、フィデルとチェは平地での戦域拡大を決める。
・8月下旬、マトスが東部中心地サンテ イアゴ、チェが中部要衝のサンタ
クラーラ、グランマ号同志のカミーロ・シェンフエゴスが西部のピナル
デルリオへ向けて進軍を開始。10月、フィデルはカミーロの西部への
進軍を止め、チェの部隊とともに中部に部隊を展開させた。東西に細長
いキューバ島を中央で分断するフィデルの戦略だった。
・チェは12月初めまで中部のエスカンブライ山脈に留まり、近隣の大農
場で農地改革を実施した。地元幹部は5万ペソの資金を提供、サンタク
ラーラの活動家アレイダ・マルチ=デラトーレに届けさせた。
やがて、チェとアレイダは恋に落ちる。(1959年5月のイルダとの
離婚後、同年6月、チェはアレイダと再婚、翌年長女誕生)
・12月、チェはサンタクラーラ攻略戦を開始、市内に攻め入った。政府
軍の無差別爆撃によって市民3,000人が死傷したため、怒った市民
はゲリラ支援に回った。年末、政府軍兵士は降伏した。カミーロは北部
の要衝ヤグアハイを攻略。サンテイアゴでは、フィデルとマトスが政府
軍兵士5,000人の立てこもるモンカーダ兵営をまさに攻略しようと
5
していた。
・政府軍司令官カンテ イージョ将軍に全権を託して、バテイスタ大統領は
巨額の公金とともにドミニカ共和国への出国準備を整えていた。フィデ
ルはバテイスタ政権を直接倒して勝利する目的は叶わなかった。
第4章
1959年
革命政権の試行錯誤
・フィデルはサンテ イアゴを臨時首都とし、マヌエル・ウルテ イーア
判事を大統領に擁立した。元旦の夜、フィデルはサンテ イアゴ城に入場
し、夜半、市庁舎のバルコニーから大群衆に向けて勝利の演説を行い、
自由選挙、言論の自由、農地改革を謳いあげた。
・翌日、チェはアレイダと4人の護衛とともにハバナに向かい、ラ・カバ
ーニャ要塞を支配下に置いた。チェは重犯のバテ イスタ政権官憲を拘禁
し、革命裁判で裁いた。
・1月7日、米国アイゼンハワー政権はキューバ革命政権を承認。
・1月8日、フィデルは大群衆に迎えられ、ハバナに入城した。フィデル
は「私は皆さんを圧政から解放した」と勝利宣言をした。
・この頃、報道陣の質問に対して、フィデルもチェも共産主義者であるこ
とを否定、
「7月26日運動」は民主運動だと主張していた。フィデル
はコルンビア基地での演説でも、
「赤(共産主義)ではなく、オリーブ
色の革命だ」と強調した。
・フィデルは米新聞編集者協会の招待で、米国を非公式訪問。米市民との
間で大変な人気を博したが、ホワイトハウスはフィデルに冷淡だった。
アイゼンハワーは米国を腐すフェデルが嫌いで、ゴルフに行き不在を決
め込んだ。代理でフィデルに会ったニクソン副大統領は、革命政権下で
の共産主義影響力の拡大、反革命派の処刑などを問い詰めた。
後に、ニクソンはキューバ人亡命者部隊を編成し、キューバに侵攻すべ
きとアイゼンハワーに進言した。フィデルは米国の本質を見たと感じ、
チェの「米帝国主義こそ正面の敵」という考え方と一致した。
・フィデルは、ラウール、チェ、カミーロらと秘密会合を重ね、反乱軍の
諜報局「G2」を設立。局長にはチェの腹心ラミーロが任命された。ラ
ミーロはメキシコ市でソ連のKGBと接触し、指導を求めた。
・2月、革命基本法が公布され、革命への功績により、チェにキューバ国
籍が与えられた。
・5月、第一次農地改革法が発効、反乱軍最大の公約が実現した。ユナイ
テッドフルーツ社など外資系の土地も接収されたため、米国は報復のた
6
め砂糖輸入割当量削減に向かう。農地改革は、革命政権が対米離別、対
ソ接近に進む決定的な道標になった。
・6月~9月、フィデルは、チェの反体制派処刑に対する米メデ イアの批
判を回避し、革命政権の新外交構築などの思惑で、チェを国外に外交特
使として派遣。フィデルは、早晩対米関係がこじれて、対ソ接近が不可
避と覚悟していた。
・主な訪問国・地域と面会者は、
エジプト<ナセル大統領>
⇒
パレステイナ・ガザ地区
⇒
インド<ネール首相>
⇒
ビルマ・タイ・香港
⇒
日本<藤山愛一郎外相
池田勇人通産相
*広島で原爆ドーム
⇒
⇒
⇒
福田赳夫農林相
他>
原爆死没者慰霊碑など視察
インドネシア<スカルノ大統領>
ン・パキスタン
⇒シリア
⇒
シンガポール・セイロ
ユーゴスラビア<チトー大統領>
スーダン・イタリア・スペイン・モロッコ
⇒
帰国
・チェにとって印象的だったのは、日本の工業発展、インドの貧富格差
の大きさ、ユーゴスラビアの計画経済、セイロンとパキスタンの小規
模通商の効用だった。
・10月、共産主義者と見られていたラウールが革命軍を統括する革命軍
国防相に就任。フィデルは、革命戦争で大きな軍功を挙げたが、自分に
批判的な反共産主義者のマトスの逮捕をカミーロに命じた。マトスと同
じく反共産主義者のカミーロはやむを得ずマトスを逮捕拘禁した。
また、カミーロも同月小型機に搭乗したまま行方不明になった。後年、
マトスはカストロ兄弟がカミーロを暗殺した可能性を指摘した。
・10月、建設計画を司る農地改革庁(INRA)の工業局長に就任。
中央計画会議が設置され、INRAはその中枢を担う。ソ連・チェコは
INRA に専門家を派遣し協力した。経済の対米従属から脱却するには、
農業多角化と並行して工業化が不可欠だった。さらに、11月、チェは
国立銀行の総裁にも任命された。
第5章
1959年
ヒロン浜の勝利
・アイゼンハワー政権は CIA に対して、キューバでの海空からの破壊活
動、キューバ国内の反革命勢力の支援、カストロ体制打倒工作とフィデ
ル暗殺計画などを承認した。
1960年
・2月、革命政権の招きで、ソ連のミコヤン副首相がキューバを訪問。
ミコヤン来訪の成果は、1億ドルの借款供与、砂糖買い付け、武器売り
7
渡しなどを柱とする経済協力協定の調印だった。
・米政府はアレン・ダレス CIA 長官にカストロ体制打倒計画立案を要請。
ダレスは傭兵部隊による侵攻計画を策定し、アイゼンハワーも同意。
3月、ベルギー製武器を積んだフランス貨物船がハバナ港で大爆発を起
こしたが、この事件は CIA の犯行であることは疑いなかった。
・5月、キューバはソ連との国交復活に踏み切り、翌月、原油供給協定に
調印した。ソ連から最初の原油が届いたが、キューバにある米精油3社
はソ連原油の精製を拒否。8月、革命政府はこの3社初め米資本の製糖
会社や電力会社などを国有化した。
・8月、コス・タリカで米国は米州諸国機構(OEA)の外相会議を主導
し、モンロー教義を基に「中ソのキューバ支援は米州への干渉」と非難、
カストロ体制打倒を目指す「サンホセ宣言」を採択した。これに対して、
9月フィデルは玖米相互防衛条約破棄を表明した。
・チェは、米経済封鎖に対抗して、新しい市場を開き、援助の獲得を目的
に2度目の外遊に出発した。
訪問国および主な面会者は、
ソ連<フルシチョフ>
⇒
中国<毛沢東 周恩来>
日成>
⇒
ソ連<ミコヤン>
⇒
東ドイツ
⇒
⇒
北朝鮮<金
チェコ
⇒帰国
*ロシア革命記念日の日、チェはフルシチョフ、ベトナムのホーチミン
主席、ルーマニアのチャウシェスク政治局員等と一緒に、クレムリンの
バルコニーで群衆の歓呼を浴びた。
*東ドイツでチェの通訳を務めたアルゼンチン女性タマーラ・ブンケ
(タニア)は、後年キューバに移住。その後ボリビアに入り、チェとと
もにゲリラ活動をしたが、悲劇的な最期を遂げた。
・フィデルは米大使館員の大半をキューバから退去させた。これに対し、
アイゼンハワーはキューバ断交に踏み切り、1月20日、キューバ侵攻
1961年
計画を置き土産にして、政権をケネデイに引き渡した。
・4月、ケネデイは国家安全保障会議でキューバ侵攻を決定。侵攻部隊は、
反革命派キューバ人1,600人で構成され、ニカラグアから発進する
準備を整えていた。
・15日、キューバ旗で偽装した米空軍 B26 がハバナ、サンテイアゴなど
の空軍基地を爆撃。ニカラグアを出航した侵攻部隊は、17日キューバ
島カリブ海側のヒロン湾へ上陸を開始した。次いで落下傘部隊がサパタ
湿原に降下し、侵攻部隊と合流し、革命軍および民兵部隊との銃撃戦に
突入した。米軍本体の投入はなく、侵攻部隊は2日目で早くも劣勢に陥
8
り、19日に降伏した。侵攻部隊が期待した反革命派の国内蜂起は起き
なかった。侵攻部隊の死者は114人にのぼり、捕虜は1,200人を
数えた。
・この勝利で、フィデルもチェも自信過剰に陥る。フィデルは「世界の英
雄」の栄光を求め、国外に顔を向け、国内の経済、消費生活を疎かにす
る。チェは「世界革命」を夢想し、その方向に人生の舵を切る。
第6章
1961年
ミサイル危機と経済停滞
・フィデルは、モンカーダ兵営襲撃8周年の7月26日、
「7月26日運
動」、革命幹部会(DR)
、人民社会党(PSP)、を統一して、「統一革命
機構」
(ORI)を結成したと発表。フィデルが第1書記、ラウールが第
2書記に就任した。書記はフィデル、ラウールを含めて25人、チェは
カストロ兄弟に次ぐ序列第3位だった。
・ ORI には、フィデルら「7月26運動」系とアニーバル・エスカラン
テなどの PSP ソ連派の主導権争いがあったが、エスカランテは査問委
員会で、「偏狭なセクト主義者」として追放された。ORI は1963年
に社会主義革命統一党に改組、1965年にはキューバ共産党(PCC)
になった。
1962年
・1月、米国は米州諸国機構(OEA)からキューバを締め出し、2月、
対キューバ経済全面禁輸に踏み切った。一方、フィデルはラテンアメリ
カ革命を呼びかけ、OEA を脱退した。
・キューバに対して、フルシチョフは米軍の侵攻に備えて戦略ミサイルを
配備したいと提案、これをキューバも受け入れた。
6月から10月までの間、ソ連からキューバに行ったミサイル関係要員
は4万2,000人に達する。
・7月、フルシチョフは訪ソしたラウールに対して、戦略核ミサイル、地
対空ミサイルをキューバに配備する狙いを説明。ソ連の公式文書を持ち
帰ったラウールは指導部に諮った。ミサイル配備の政府間協定書にフィ
デルが署名し、8月末、チェがこの文書をフルシチョフに届けた。
・9月15日、最初のミサイルがソ連の貨物船でキューバに届けられた。
搬入された戦略核ミサイルは、射程1600km の準中距離弾道ミサイ
ル48基と射程3500km の中距離弾道ミサイル24基。
この他に、ソ連軍は近距離攻撃用核ミサイル90基も携行していた。
・10月、米空軍の U2偵察機がミサイル運搬の証拠写真を撮影。ケネデ
イは海上封鎖とソ連船臨検の強硬手段に出て、ソ連にミサイル撤去を要
9
求した。同月、キューバ上空に侵入した U2 が撃墜されると、米軍はケ
ネデイに先制核攻撃を迫り、緊張は頂点に達した。だが、フルシチョフ
がミサイル撤去と関連施設の解体を、ケネデイがキューバ軍事侵攻中止
をそれぞれ公約し、危機は収束に向かった。
・フィデルはマスコミから米ソの頭越し取引を知らされた。後日、フィデ
ルは「私はミサイルの配備を求めていなかったが、国際社会主義の強化
のため、モスクワから要請され受け入れた」と仏ルモンド紙に語った。
・前年2月、工業化4ヶ年計画が実施に移され、統一革命機構に経済委員
会が設置された。委員はドルテ イコース大統領、CR ・ロドリゲス書記、
1963年
工業相チェの 3 人。生産性向上のため、労働者の意欲をどう高めるかが
課題だった。キューバ国内では1961年頃から物資供給が滞り、配給
制を実施していた。労働者が過剰で生産性は低下、製品の欠陥が多い。
「人民皆就職政策」は労働力過剰と生産性低下を招いた。ソ連を真似た
計画の多くが幻想とわかり、画餅に帰していた。
・1963年4月下旬、フィデルはフルシチョフに招かれ、ソ連を訪問。
レーニン勲章とソ連邦英雄章を受章した。
この訪ソでキューバは革命体制の存続を保証された。
・帰国後、フィデルは砂糖産業を柱とする農業重視政策こそが経済発展の
基礎であると宣言した。フィデルがソ連に説得されて、ソ連圏の産業分
業政策を受け入れたのである。農産物を売り、工業製品を買うという革
命前の制度を義務づけられたキューバの対ソ依存度は高くなるばかり
である。
・フィデルは12月、年間砂糖生産量を1970年 1,000 万トンの大台に
乗せる「大収穫計画」を打ちだした。 農地改革庁と工業省が推進して
きた農業多角化と工業化は、砂糖中心主義に取って代わられた。
チェは工業優先派であり、農地改革庁をフィデルから引き継いだ CR ・
ロドリゲスは農業優先派で、この対立が4ヶ年計画を失敗に向かわせた
大きな要因だった。
・チェは、「約束の工場設備の代わりに、がらくたをキューバに輸出しよ
うとしている。
」と東ドイツを非難。ソ連圏からの物資の品質について、
初めて公然と文句を言った。翌年も、チェは「ソ連がキューバに搬入し
た物資は、協定より3割も少なかった」と批判した。
第7章
1963年
「出キューバ」へ
・11月、米国ケネデ イ大統領がダラスで暗殺された。
10
後継のジョンソン政権はキューバとの和解工作を受け継いでいた。密使
の役割を持った TV キャスターがハバナでチェにインタビューし、米国
に望むことは何かと聞いた。チェは「何もない。反キューバ政策をやめ、
我々を放っといてほしい」と答えた。
・この年、チェから「人民ゲリラ軍」(EGP)の指揮を任されたマセッテ
イはアルゼンチンで革命を起こすべく同国に潜入したものの、国境警備
の憲兵隊にその存在を把握された。翌年4月、EGP は待ち伏せに会い、
多くが射殺されたり逮捕されたりした。マセッテ イは行方不明になっ
た。アルゼンチン人の大勢は内戦を望んでいなかった。
ゲリラを送り込んだチェの完敗であった。
1964年
・ジョンソン政権はキューバ締め付けを強化。これに対して、フィデルは
グアンタナモ米軍基地への給水を遮断。IMF からも脱退した。米政府
は、米州諸国機構に対キューバ集団断交と全面禁輸を迫った。さらに、
世界銀行と米州開発銀行の融資も禁止した。
・12月、チェは国連総会で演説し、米帝国主義を非難するとともに、
併せて「社会主義陣営内で搾取者と非搾取者が形成されるのなら、弱小
国が帝国主義者と植民地主義者の支配下に陥るのと似た状態になる。
」
と、暗にソ連を批判した。
・12月、チェは NY を立ってアフリカ歴訪の旅に出た。
1965年
・訪問国と主な面会者は、
アルジェリア(ベンベラ大統領)
⇒
マリ
⇒
⇒
ガーナ・ダメオー
ギニア(トウーレ大統領)
中国(周恩来
劉少奇)
アルジェリア
⇒
⇒
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コンゴ共和国
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タンザニア(ニエレレ大統領)
エジプト(ナセル大統領)
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帰国
*この外遊中、再度アルジェリアに戻ったチェは、アジア・アフリカ連
携機構の経済研究会合で、63ヶ国、19の解放組織を前にして、
「後進国が原料を(安すぎる)国際市場価格で売り、機械類を(高すぎ
る)国際市場価格で買うのは互恵と言えるのか。この種の関係が社会
主義先進国と発展途上国の間にあるのなら、社会主義国は帝国主義的
搾取の共犯者だと確信せざるを得ない。
」と演説した。
この演説に、ソ連ブレジネフ書記長は激怒した。モスクワはチェを
何とかせよとフィデルに迫る。
第8章
コンゴ遠征
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1965年
・3月、チェはフィデル宛に「別れの手紙」を書き、工業相の地位を離れ、
キューバ国籍を返上した。革命指導部内の「反ソ分子」になったチェは、
潔く去るしかなかった。
「諸国人民が今私を求めている。君がキューバ
の指導者であるがゆえにできないことでも、私にはそれをするのが可能
だ」「私は勝利するまではキューバに戻らない。だが、いつも私の心に
は『祖国か死か、勝利するのだ』の標語がある」と書いたチェ。
・この手紙は、チェがゲリラ戦で死んだ場合の遺書になり、かつチェを死
地に送ったフィデルを非難から守るために書かれたものと理解された。
ただし、外地で勝利した場合に帰還する可能性を盛り込んでいた。4月
2日、チェはハバナを出発した。
*10月、キューバ共産党(PCC)のスタートに際し、フィデルはチェ
の「別れの手紙」を読み上げた。この手紙の文章から「私は勝利する
までは」と「いつも」の文言が抜け落ちていた。フィデルの読み上げ
た手紙をラジオ放送で聞き、チェは愕然とし、「キューバ人の同志は
チェをよそ者とみなし、私を戦士から遠ざけてしまった」と記す。
フィデルは、手紙を「永遠の別れ」のように改竄することによって、
万一チェが勝利してもキューバに帰れないようにした。
・コンゴでは、資源豊かなカタンガ州で、親ベルギー派のモイゼ・チョン
ベ軍が CIA の支援を得て、解放人民軍(EPL)と戦っていた。チョンベ
の下には、南アフリカ人、ベルギー人、反カストロ派キューバ人など外
国人1,000人が雇われていた。チェは成算のないまま、チョンベ軍
との戦いに乗り込んでいく。それは、チョンベの背後にいる CIA との戦
いでもあった。
・5月、チェはタンザニアを経由し、コンゴに入った。チェは、「アフリ
カ大陸革命」の起爆地として、コンゴをゲリラ戦の戦場に選んだ。
EPL は、「アフリカ人は独立よりも白人植民地主義者を追い出すために
戦ってきた」と、黒人支援に白人のチェが来たことに違和感を覚えた。
・6月、チェの最大の理解者アルジェリアのベンベラ大統領がクーデター
で失脚した。この日、キューバ人部隊は初めてチョンベ軍攻撃に参加し
た。24日、新たに37人のキューバ人部隊が到着。ルワンダ人部隊と
合同で敵要塞を攻撃したが、攻略できなかった。
・10月、コンゴ大統領カサヴブはチョンベを追放、アフリカ首脳会議で
「コンゴから白人傭兵は去る。謀反は終わった」と宣言。11月、タン
ザニア政府は「アフリカ首脳会議の合意に基づく」として、キューバ大
使に対して、キューバ人部隊のコンゴからの撤退を要請した。
11月、チェは7ヶ月間の滞在でコンゴから撤退した。
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・この年は「連帯の年」。1月、ハバナでそうそうたる顔ぶれを集めて第
1回「アジア・アフリカ・アメリカラテ イーナ3大陸人民連帯会議」が
開かれた。会議では、キューバ革命路線の優位性を決議し、ラテンアメ
1966年
リカ連帯機構(OLAS)の創設を決めた。
「連帯の年」の「連帯」は
主
に、チェのボリビア行きを意味していた。3大陸人民連帯会議に出席し
たボリビア共産党(PCB)のマリオ・モンヘ書記長は、フィデルに会い、
チェを支援するのは PCB だけだと伝えた。
・チェはプラハ滞在後、ボリビア行きの準備のため、7月、極秘裡にハバ
ナへ帰った。帰国後、チェは山地にあるゲリラ訓練基地に直行。既にボ
リビア遠征隊は選別され、準備を整えていた。
・チェの護衛の1人ホセ=マリーア・マルテイネス=タマヨ(リカルド)
は拠点構築のため、プラハからボリビアに直行した。その後、ハリー・
ビジェガス(ポンボ)とカルロス・コエージョ(トウマ)もプラハを立
ち、ボリビアに到着、タニア、リカルドと合流した。チェは、ボリビア
内での後方基地3ヶ所を調査していたが、現地とチェの意思疎通が不十
分なまま、リカルドは既にニャンカウアスー渓谷で1,200ha の農
場を購入済みだった。
第9章
1966年
ボリビア
・11月、チェはブラジルを経由し、首都ラパス郊外に広がっている標
高4,000m アンデス大高原のエル・アルト空港に到着した。ポンボ、
タニアらに迎えられたチェは、2台のジープに分乗してラパスを出発、
コチャン・バンバ市を経て、ニャンカウアスー渓谷の農場に到着した。
チェの到着で、物資輸送、設営、偵察、行軍訓練が本格化してゆく。
・大晦日、PCB のモンヘ書記長が渓谷の野営地に到着。モンヘは、自分
が政治・軍事両面で指揮を執るという条件を提示したが、チェは断固拒
否し、話し合いは暗礁に乗り上げた。チェは、モンヘとの会合内容を部
下に伝え、
「ボリビアでゲリラ戦の態勢が整ったら、指揮権をボリビア
人に渡して、我々はアルゼンチンに行く」と明言した。
・ボリビアの軍政大統領レネー・バリエントスは勢力基盤として農村を
1967年
重視、農民の忠誠をかち得ていた。
・2月初め、訓練を兼ねて行軍を開始していたゲリラ部隊のボリビア人
先遣隊が農民オノラート・ロハスに会い、うかつにもゲリラ部隊の存在
を口にした。また、キューバ人ゲリラが出会った石油技師たちに武器を
13
見せびらかしたため、技師たちは政府軍に武装グループの存在を通報し
た。さらに、ボリビア人ゲリラの脱走者が警察に捕まり、チェ、タニア
の存在など白状するなど、情報は政府軍に筒抜けだった。
・3月、ゲリラ部隊は陸軍の分遣隊を急襲、政府軍の兵士を死傷させ、
捕虜にした。政府軍も直ちに空爆を開始。ここにゲリラと政府軍の間に
戦闘が開始され、チェは「ボリビア民族解放軍」(ELN)を名乗った。
政府軍は陸軍部隊、降下部隊、ヘリコプター編隊を出動。バリエントス
大統領は記者会見でゲリラの存在を認めた。
米国ジョンソン政権もボリビア軍支援を決め、米軍顧問団を派遣した。
・チェは、ゲリラ軍を前衛隊、本隊、後衛隊の3隊に分け、ムユパンパ地
域に向かった。チェは、ゲリラ軍に同行していたキューバとの連絡役の
フランス人ドブレとアルゼンチン人画家のブストスを脱出させたが、彼
らは政府軍に逮捕された。これにより、キューバとの連絡は途絶え、ア
ルゼンチンのゲリラ計画は挫折。チェの「アンデス計画」は事実上ボリ
ビアだけになった。5月、ゲリラ部隊は25人に減った。
・8月、農民ロハスの通報を受けた政府軍の攻撃で、タニアを含めた後衛
隊はほぼ全滅した。
・9月、バリエントス大統領は、生死に拘らずチェの身柄確保に通じる
情報提供者に5万ペソを与えることを発表。
チェは、「我々は窮地に陥った」と9月を総括した。
・10月8日朝、民族解放軍がユーロ渓谷に着いたところ、農民に姿を
見られ、農民はラ・イゲーラ村の村長に通報した。
・午後2時半過ぎ、チェは、ガリー・ブラード大尉率いる特殊部隊に身柄
を確保された。チェは、約3km離れたラ・イゲーラ村に連行され、小
学校の校舎に監禁された。ブラード大尉の上官センテーノ大佐もヘリコ
プターで小学校に飛来した。
・同日、ラパスの軍政は、
「チェは戦闘中に死んだ」と偽りの情報を流す
とともに、バリエントス大統領らが国軍最高会議を開き、チェの処刑を
正式に決めた。
センテーノ大佐は志願者を選んで、チェを銃殺した。
・10月15日にチェの死を確認したフィデルは、18日、革命広場で
追悼演説をした。
・6月28日、キューバ、アルゼンチン、ボリビアの合同調査隊はチェ
以下7人の遺骨を発見した。7月14日、チェの遺骨はハバナに帰還し、
国葬の後、10月17日、サンタクラーラの霊廟に納められた。
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1997年
<私事で恐縮ですが -------->
(1)澤登がフィデルとニヤミス?
1993年、ベトナム自動車視察団の一員としてハノイ空港に降りた時、
見たこともない国旗を付けた飛行機が2機駐機していました。
翌日、ホテルで新聞を開いたら、カストロ首相の来訪が報道されていま
した。
ジョンソン政権下の米軍が北爆している中、果敢に抵抗しているベトナ
ムを、フィデルもチェもキューバと運命共同体と認識し、ベトナムに親
近感を抱いていました。(P.241参照)
(2) 映画「GOD FATHER」PARTⅡ
投資話の交渉でキューバに行っていたイタリア系マフィアのドン、マイ
ケル・コルレオーネらが革命に遭遇し、一行が命からがら脱出するシー
ンを鮮明に想い起しました。(P.153参照)
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