- 1 - 2016.5.22 「永遠のいのちの水」 ヨハネ4:1-14 〇 皆さんに見て

2016.5.22
「永遠のいのちの水」
ヨハネ4:1-14
〇
皆さんに見て頂きたいものがあります。
これなんだと思いますが、数字がずらっと並んでいて、そして一番下が激しくまわって
います。
そう世界の人口です。
今 73 億人そして、
国連の予想ですと、2065 年には 100 億になります。
今日見て頂いたのは、食糧問題、環境問題について話をするためではありません。
世界にどれだけ沢山の人達がいるか、そしてその73億人の中の一人である皆さん、一
人ひとり神様は愛し、創造してくださり、神様の目的の為に私たちは生きることができる
ように、神様は導こうとしておられる。皆さんは神様に愛されている貴い存在なのですよ。
ということをお話ししたかったのです。
神様に忘れられている人はいません。
今日は、イエス様が人に忘れられ、数にいれてもらえそうに無かった人のところにいら
っしゃった所から話をします。
〇
先日お渡しした、一目で見るイエス様のお働き
を出して頂けますか。
過越の祭り①というところからイエス様の最後の 3 年が始まっています。
先程が世界人口の数字が増えていくカウンターを見て頂きましたね。
365 × 3 = 1095 日
今度は 1095 から始まって一日ごとに数字が減っているカウンター
を想像してくださいますか。
これまで礼拝で、イエス様の誕生
イエス様の洗礼、
カナの結婚式、ニコデモ訪問を
見て来ました。この表にある流れです。一度エルサレムにいらっしゃったイエス様はカナ
の結婚式のためにガリラヤにゆかれ、カペナウムでしばらく過ごし、今度は、エルサレム
に上られます。そこで、ある夜ニコデモがイエス様に会いにきたのです。今度はまたエル
サレムからガリラヤに下られることになります。
ユダヤ人は普通、通らないところがあります。それはサマリヤというところです。
普通はサマリヤというところを避けて通ります。
というのは
ユダヤ人と、サマリヤ人は互いに仲が良くなかったようです。
というのは昔、アッシリアという国が攻めてきたときに、アッシリアの人達と雑婚する
ようになり、ユダヤ人の血の中に、アッシリアの血が入ったということで、差別されてい
た人達なのです。それでサマリヤという地域はイスラエルと言う国の中にありながらも、
特別な地域となっていたのです。
悲しいですよね。同じ民族で、サマリヤの人達はアッシリアに支配されて苦しみの中を
通り、やっと雑婚というかたちで生き抜いた人達、壮絶なところを通っていた人達なので
す。その人たちも
唯一の神様、ヤハウェーを信じているのですが、エルサレムで礼拝す
ることができず、自分達でまことの神様を礼拝する祭壇を作って、礼拝をしていたのです。
-1-
今もサマリヤの地域にサマリヤ人と呼ばれる人達がいます。
差別という背景に人間のプライド、罪深さがあります。自分はあの人より優秀だ。だか
らあの人は劣っている、汚れている。そう思う罪深さです。
すべての人は神様によって創造されている素晴らしい人、価値ある人なのに、人間の方
でランク付けをしてしまうのですから。
エルサレムにいらっしゃったイエス様は、普通のユダヤ人とは違う行動をされます。
ガリラヤに行かれるときに、敢えてサマリヤを通って行かれたのです。
弟子達は違和感を感じたと思います。サマリヤ人達とは仲が良くなかったのですから、
その地域に入ったらどんなことをされるか、どんな目で見られるか?できれば通りたくな
いと思っていたと思います。
それなのに、イエス様は「サマリヤを通って行きます」と決められて進んで行かれたの
です。イエス様は一人の女性に神様の福音を伝えるためにサマリヤに入られたのです。
スカルという村に到着しました。お昼ごろです。
皆さんもお昼が近くなってお腹がすいてきたでしょう。
イエス様はスカルのところある井戸のそばに座っておられました。弟子達は、食料を調
達に村に入っていっていませんでした。
当時の井戸に行って水を汲みに行くのは朝だったそうです。
井戸の所に集まった女性たち、井戸の水をくみ上げるときに、女性たちは互いに世間話、
噂話をするのでしょう。日本では井戸端会議 1 ということばがありますね。
サマリヤの女達が朝早く井戸に行って水を汲む間に互いに、世間話をするのがとても楽
しく感じているとは対称的に、そこに行ったら苦痛と感じる人がいました。それが今日出
てくる一人のサマリヤの女です。彼女には触れて欲しくない話題、聴きたくない話題があ
りました。ですから、彼女は時間をずらして井戸のところにきたのです。
この女性が井戸の所に来たのはお昼の12時です。ヨハネの福音書には第 6 時(6 節)
と書いてありますね。下の欄外をみると、1:39 の欄外を見なさいと書いてあります。そ
こを見ると、朝の 6 時から一日が始まると考えていくので、第 6 次というのはお昼の12
時だということが分かりますね。
このことが分かりませんと、この女の人は早朝 6 時に来たのに、誰も来ていなかったと
いうことになります。
1)心の空白を感じていた女
2)心の空白を満たして下さるイエス様
3)心の空白が消えて行った女
1)心の空白を感じていた女
彼女は孤独だったと思います。世界には沢山の人がいる、神様は自分のことをしって
くださるのだろうか。私のようなものには関心が無いかも知れない。でも、救い主が来ら
1 井戸端会議(いどばたかいぎ)は、かつて長屋の女たちが共同井戸に集まり、水くみや
洗濯などをしながら世間話や噂話に興じたさまをからかって言った言葉
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れたら自分の人生は変わるのに。
・他の女たちとは会いたくなかった。コミュニケーション拒否
本当は楽しく話をしたい。しかし、その場所にいたら、嫌な思いをすることが分か
っている。
・心の空白を感じているときに、イエス様が現れた
わたしに水を飲ませて下さい。
・・・以外や以外、見るからにユダヤ人なのに、
9節
イエス様は、生ける水
を与えたのに
と仰った。
水を下さい、それなのに、その人は生ける水をくれる?
一体何の事か、彼女は話を飲み水ではなく、生ける水、不思議な水のことに関心を
向けます。そんな生ける水ってどこにあるのですか。
何か特別な生ける水というのは、井戸のどこにあるのか、深いし、この人は汲む物
ももっていない。一体何を言っているのか?
全く彼女には分かりません。
ところがイエス様は、「喉渇いているから、ほら、水をくださいっていっているで
しょ」とも言わずに「この水を飲むものはだれでも、また渇きます。しかし、わ
たしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」
と仰るではありませんか。びっくりです。
彼女は飲む水ではなくで、渇くことの無い水、永遠のいのちへの水という特別な
水があるということに気づきます。
彼女は心に空白があるからこそ、その渇くことの無い水、永遠のいのちへの水が
必要だ。自分の心には空白があると感じたのです。
皆さん、私たちにも心の空白が誰にでもあります。
食べても、飲んでも、満たされない空白です。
2)心の空白を満たして下さるイエス様
目の前に現れたユダヤ人、一体誰か
・先生、主よ
15 節
イエス様が仰ったのは、夫を呼んできなさい。
これは彼女が他の女達に一番言われたくないことば。
私には夫はいません。
実は今までに 5 人の夫があったのです。
ここで
このサマリヤの女について、二つの立場がでてきます。
彼女はふしだらな女性で男性から男性に渡り歩き、この人の方が良い、玉
の輿と思うと、乗り換えていた、でも 5 人の夫も満足しないで、6 人目は同
棲している。心の空白を男性で埋めようと思っていた女性。
このように考える人もいます。
大間さんが大学の礼拝で、一人の女性牧師の話を聴いたことを教えてくれ
ました。その女性牧師は
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当時結婚は女性が決めるのではなく、父親が決めていた。
だから彼女は良く言われるふしだらな女ではなかったのではないか。
という当時の文化を捕らえた見方でした。
この所を読みながら、その女性牧師の見方は非常に興味深いと感じていま
す。そしてお祈りしながらこの所を読むと、解釈の幅はありますが、この
女性は自分で男から男へと渡り歩き、最後には同棲しているというのでは
ないように思います。主が後悟るべしで、天国に帰ったときに、この女性
のことがはっきりと分かります。
女性牧師の立場をとるとこう言うことになります。
父親によって許婚となった人と時がきて結婚しました。
ところがこの夫が死別したか、気にくわないと離婚状を出して父親の所に
戻って来ました。父親は別の人のところに嫁にだします。しかしこの人も
死別か、離婚状を出し、又戻ってくる。
そうこうしているうちに 5 人の夫と結婚したけれども、父親のところにい
ますが、生活のために身を寄せるようにと父親に言われた人とはまだ結婚
はしていないが、事実婚ということになります。
サマリヤ人も、ユダヤ人も創世記を大切にしています。
1
旧約聖書の創世記に、タマル という女性がでてきます。
彼女はユダの長子エルと結婚しましたが、エルは死にます。当時レビラー
ト婚といって、そのような時には弟と結婚することになっています。オナ
ンと結婚しますが、オナンも死んでしまいます。三男はシェラといいます
が、また小さいのです。成人するまでには時間がかかります。ですので、
タマルは実家に戻されますが、いくらまてどもお呼びがかかりません。
そして悟るのです。あっ自分は不吉な女と思われている。だから三男シェ
ラと結婚したらまた彼の死ぬのではと思われている。とうことは体の良い
嘘。タマルは遊女を装って義父であるユダと会い、ユダは関係をもち、そ
して子供を授かるのです。ユダの所に知らせがきます。自宅で待っている
はずのタマルが姦淫をして妊娠している。
ユダはひどいことをいいます。「あの女を引き出して、焼き殺せ」
嫁のタマルを何かの所有物のように思っているユダです。
タマルはユダから預かった印形を見せて、この印形の持ち主が自分と関係
をもったことをいいます。その時初めてユダは自分が罪を犯したことを認
1「なつめやしの木」という意味.1.ユダの長子エルの妻となったが,エルが死ぬと,弟
オナンの妻となった.オナンも死ぬと,オナンの弟シェラが成人するまで実家に帰って寡
婦の生活をしていた.しかしシェラが成人しても父ユダが結婚させようとしなかったので,
遊女を装ってしゅうとユダと結ばれ,ペレツとゼラフというふたごを産んだ(創 38 章).
彼女の名はユダの系図に載せられ(ルツ 4:12,Ⅰ歴 2:4),新約聖書冒頭のイエス・キ
リストの系図の中にもその名が見られる(マタ 1:3).
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めます。
1
これは一つの例です。つまり、このサマリヤの女は 6 人兄弟の長男と結婚
したけれども、死に、次男と結婚したけれども、また死に、三男と結婚し
たけれども・・・と同じ事が続いて 6 人目とも結婚かとおもいきや、彼ら
の父親はこの嫁は不吉な嫁、6 人目とも結婚したら 6 人目は死ぬだろう。だ
から結婚は認めない、しかし、6 人目の息子の家に入っている。妻として同
じ事をしているけれども、妻とは認められない。
そのようなことも考えられるのですね。
この考えだと、このサマリヤの女は嫁ぎ先の父親に上手く利用されている
けれども、物のように利用されている。
5 人夫がいたけれども、今一緒にいる男性からは妻とは認められていない、
とても複雑な家庭ということになります。
旧約聖書では、女性がつぎつぎと男性を乗り換えていたと言う例は、ホセ
アの妻ぐらいです。ホセアの妻は売春婦で神様は彼女と結婚し、幸せな家
庭を作ったかのように思うのですが、またその世界に戻って言ってしまっ
て、神様はホセアに彼女を買い戻すようにおっしゃいます。ホセアの妻は
不倫はしますが、夫は一人でした。
こうして考えますと、このサマリヤの女は性的不道徳な女性ではなく、
人生は翻弄され、そして今の暮らしも不安定な状況、そして心は傷つき、
渇き、悲しんでいるということになります。
井戸端会議で、「あら、可愛そうに 5 人も夫がいたのに、皆なくなってしま
うなんて。信じられない、不吉な女だから 6 人目とはさすがに結婚できな
いでいる。あの人は災いをもたらす、不吉な女。いやね」
1 マタイの福音書では、復活を信じないサドカイ派がイエス様に以下の用に質問していま
す。
結婚した夫がつぎつぎと死に、7 人目も死んでしまったというたとえ、あり得ない
と思われるたとえですが、サマリヤの女におなじようなことが起こっていたのかもしれま
せん。
22:24 言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は
兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない』と言いました。
22:25 ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、
子がなかったので、その妻を弟に残しました。
22:26 次男も三男も、七人とも同じようになりました。
22:27 そして、最後に、その女も死にました。
22:28 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、
その女を妻にしたのです。」
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と言葉であってもなくても言われるのが辛かったのではないでしょうか。
心の空白、そして深い傷,を負っていたということになります。
ヨハネの福音書を見てみると、彼女についてはイエス様は
「あなたには夫が 5 人あったが、今あなたといっしょにいるのはあなたの
夫ではないからです。あなたの言ったことは本当です」と仰っています。
このイエス様のお言葉はただ事実だけを仰っていて、そこにホセアの妻の
ような性的不道徳をしていたと言う事感じさせる非難のことば、たとえば
「あなたは五人もの夫を次々と乗り換えだけれど、今一緒にいるのは夫で
はないね」とは仰っていません。
恐らくあの女性牧師が女性の視点でまた当時の文化を踏まえた解釈の方が
より訴えるものがあります。彼女の心には深い傷、そして悲しさがあって、
心が空白であったのかもしれません。真相は天国に行ったあとイエス様に
聞いて見ないとわからないのですが、私はどうも後者の方では無いかと思
います。皆さんはどう思われますか。
しかし変わらない事実があります。それは彼女の心は空白、満たされない
状態だとうことです。
現代の私たちに適応してみるとこうです。
あなたの心は今満たされていますか、空白ですかということです。
ある人は、罪責感を感じていて、心に空白がある
ある人は、将来の不安で、心に空白がある
ある人は、心に受けた傷によって、心に空白がある。
ある人は、どうしてこんなに不幸と思えるようなことを経験しなければな
らなかったのか、どうしてなぜ私が,そう思って心に空白が、
ある人は、愛する人や愛するペットを失って,心に空白が・・・・
いろいろな空白が考えられます。
自分だけ取り残されているような寂しさ、他の人が幸せそうだけど、私は
幸せではない。心の空白を感じる・・
時間があればその空白が満たされるか、何か努力したらその空白が埋めら
れるか、ということ、現代に生きる私たちへの神様からの問いかけがあり
ます。
そして神様は私たちに問われます。
「では、あなたのこころに空白はないか」と
3)心の空白が消えて行った女
彼女は自分の身に起こった不幸と思えるような事実、夫が 5 人いたが、今
一緒に暮らしている夫ではないという事実を言い当てたイエス様について
預言者ではないかと思いました。
彼女は、「すごい、どうして分かったんですか、信じられない」と言うよう
な浅い理解はしていません。非常に神様に求めを持っていたひとです。
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サマリヤ人はエルサレムで礼拝ができなくなって、ゲリジム山で礼拝をし
ていました。サマリヤ人はゲリジム山で礼拝をし、ユダヤ人はエルサレム
で神様を礼拝をしています。いったいどこで、私は神様を礼拝することが
できるでしょうか。わたしは、私を救ってくださる、この悲しみのどん底
にある自分をそのまま受けとめ助けてくださる、本当の神様を礼拝をした
い。そう思っていました。
するとイエス様は,彼女に、父なる神様は、場所ではなくて、霊と真実、つ
まり真実な心をもってを礼拝する人を求めておられると仰います。非常に
彼女は霊的な渇き、求めを持っている人です。不道徳な人にはないものを
もっています。彼女は何とこう言うのです。「私はキリストと呼ばれるメシ
アの来られる事を知っています。その方が来られるときには、いっさいの
ことを私たちに知らせて下さるでしょう」不道徳で情欲の塊のような人は
決してこのようなことがすぐにでてきませんでしょう。
彼女は、どうしてこんなことが私の身にばかり起こるのかと思えるような
ところを通りながらも、なおも神様を求めていた人だったのでしょう。
詩篇42.43篇にはにこうあります。
詩 43:5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。
なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなお
も神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。
うな垂れてしまうような、心が思い乱れるような事って人生にありますね。
自分の心の中にある罪を、ダビデがバテ・シェバと犯してしまった罪、神
様が喜ばれないと示される罪に気づいてうな垂れることもあるでしょう。
しかし、一生懸命生きているのに、どうして次から次と「敵」「試練」と思
えるようなことによって人生が翻弄される、そしてうな垂れてしまうよう
なこともあるのです。
詩篇42,43篇では
この詩篇を書いた信仰者は、「私の涙は昼も夜も、
私の食べ物」という苦しい所を通って居たのです。人は自分の事を、お前
の神は一体こどこにいるのか、
お前が神様を礼拝しても、何も良いこと
はないではないか、お前に降りかかる不幸はなにか。と言うような苦しい
状況でした。それなのに、この信仰者は「神を待ち望め、わたしはなおも
神をほめたたえる。救いの神を」(詩篇 42:5,11,43:5)を言っているので
す。
サマリヤの女はまことの神様を求めていたからこそ、礼拝、神、キリスト
と呼ばれる方がが来られ、すべての事を教えて下さる。という言葉がでて
きたのです。
イエス様は仰います
「あなたとはなしているこのわたしがそれです」
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わたしがそれですというのは、ギリシャ語で
evgw, eivmi
「エゴー
エイミ」 です。即ち「わたしははある。」ということです。
旧約聖書でモーセに神様が現れてくださって、モーセがあなたの名前は何
と仰るのですがと聴くと「わたしはある」と仰いました。エゴーエイミー
です。
主イエス様はサマリヤの女が苦しさの中でもずっと待ち望んでいたキリス
ト、救い主、そしてまことの神様なのです。
〇
ちょっと待って下さい。イエス様は喉が渇いておられ、
「水をください」と仰った。
彼女は井戸の水を汲むものをもっていました。では喉の渇いたイエス様は水をもらえたの
でしょうか。
彼女はあまりにも嬉しかったので、イエス様の言葉をすっかり忘れてしまっているよう
です。可愛そうにイエス様は喉の渇いたまま。でも嫌な顔一つ見せません。
自分の水かめを置いて、会いたくなかったサマリヤの町にいって、
「この方がキリストなのでしょうか」と言うのです。これは婉曲表現でしょう。
私は待ち望んでいたキリストに会えた、私の空白の心からいのちの水が流れてている。私
はキリストにあった!とこととです。
42 節には
それを裏付ける事が書かれています。
「もうわたしたちは、あなたが話した事によって信じたのではありません。自分で聞い
て、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」
彼女の空白の心はイエス様によって満たされ、いのちの水が流れ出したのです。
〇
皆さん、今心の中に空白がありませんか。
アウグスティヌスが告白論の序文の所に書いているように、人は神様しか埋める事の出
来ない空白がある。それは真理です。そのような空白を感じていませんか。
イエス様をお迎えしましょう。
信仰者であっても、詩篇42,43にあるような、これでもか、これでもかというよう
な試練の連続、あのサマリヤの女が夫が 5 人そして今一緒に暮らしている人は夫ではない
という言うに言われないような苦しさを通ることもあるでしょう。
詩篇42には何と書いてありますか。「神を待ち望め、私はなおも神をほめたたえる。
御顔の救いを」
ホットラインというのがありますね。公衆電話でも緊急時はこのボタンを押せばお金が
なくても、119,110にかけられる。つまりホットラインです。いつでもかけられる
電話です。
皆さん、愛する神様はホットラインをもっていてくださるのです。いつでも、わたした
ちは神様とお話をすることができる。深夜でも、早朝でも、いつでもお話をすることがで
きる。悲しみのどん底で、「なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れてい
るのか」と言うようなときにも、神様は私たちの祈りを聞いて下さるお方です。
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イエス様をこころに迎えるときに、永遠のいのちの水がわき出てきます。
ここに、「涙をもう
ぬぐって」江見太郎さんの本があります。
ここにこんな実話がでてきます。
場所は南紀白浜、そこには断崖絶壁の三段壁という景勝地があります。
景勝地ですが、自死の名所でもあります。
そこに公衆電話があります。私はそこに行きましたが、セロハンテープでコインがはっ
てありました。
公衆電話のボックスのすぐ向こうに看板があります。
こんな内容だったと思います。
大切な決断をする前に、お電話を下さい。
大切ないのちですから・・・
いのちの電話
〇〇〇ー〇〇〇
このいのちの電話は、白浜バプテスト教会のの江見先生ご夫妻が始められたものです。
「私と B 子との出逢いのばとなった無人駅は、岬につうじていた。
彼女は散々ないたらしく、まぶたが赤くは腫れ上がっていたが涙は乾いていた。気に
なったわたしが声をかけると、その夜、私が宿泊を予定していた国民宿舎に彼女も予約し
ていたいることがわかった。後日、彼女は「摂理」といったが、確かにそうであろう。
宿の主人の好意で私たちは管理人室で明け方近くまで話し合うこととなった 1」
話はこうです。彼女は自死をしようとしてこの地を訪れたのでした。
優しい両親のもと、彼女は短大に進みました。ある大学生と知り合います。彼は早朝よ
りアルバイトをしている勤労学生、好青年です。彼女の両親も認め、二人はつきあってい
ました。両親は彼に何くれとなく面倒をみてくれていたのです。
ある日父親は酒の席で、ある医師と意気投合し、この医者は自分の息子を彼の娘にどう
かとうことになる。それはいい、是非家の娘を。と話は進み、やがて親同士で結婚を決め、
結婚の日取りも決めてしまうのです。彼女の意見は全く無視です。
そのことを恋人に告げると
「ぼくの君への愛は変わらない。でも、お世話になった君の両親に対しては・・・」
と、彼女を抱きしめ、キスをして帰って行くのです。
引き留めようとするのですが、
彼の後ろ姿が厳しい拒絶を物語っているようで声をのんだ。
それから数日後、彼の自死が報じられたのです。
自分を責め、悲しみ、そして三段壁のある駅に降り立ったのでした。
やがて、江見先生を通して彼女はイエス様を信じたのです。
そう
永遠のいのちの水が流れ始めたのです。
この本にはこう締めくくられています
「後日、聖書講演会に招かれた際、独唱者として私の前座をつとめ、聴衆のまえで証し
をした B 子の姿を、会場の片隅で、感動の面持ちで見つめている初老の夫婦があった。
1「もう涙を
ぬぐって」江見太郎
143-145 頁
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いのちのことば社
1990
それが彼女の両親であることに気づいたのは、私たち以外にはいなかった」
どうして、神様、どうしてなんですが、というところを人は通ることがあります。
どうして、私の身にこんな事が起こるののか、あのサマリヤの女でしたら、どうしてつ
ぎつぎと不幸が私の身に起こるのか。神様、本当に生きておられるのですか。そうさけび
たくなるようなところを通った。
でも、皆さん、神様はそのどん底に思える、その下に手を置いて引き上げてくださいま
す。
イエス様を信じるときに、あのサマリヤの女に主イエス様が仰ったように、永遠のいの
ちの水が流れ出るようになるのです。
それは神様に信頼すればするほど、わき出てくるのです。神様を信頼しているからこそ、
いつでも私たちは神様に祈ることができます。嬉しいときも、悲しいときにも、これでも
かという試練ときにも、なおも待ち望み祈ることができます。すると神様はあなたのここ
ろから永遠のいのちの水がわき出るようにしてくださいます。
・具体例
まずイエス様を信じましょう。
それか
祈りのリストを作りましょう
祈りを始めた日、そして祈りが聞かれた日を書きましょう。
それを読み返すと、神様はこのときも、この時も、祈りに応えて下さった。
そうこの時には、人生の最悪と思われるときだった、それなのに、まるで神様は
私をおんぶするかのように助け、祈りに応えて下さった。
だから、今の試練も試練どわれない、試練と脱出の道が備えられていると、信じ、
信頼し、祈ることができます。
最後にヨハネ4:14を読みましょう。
ヨハ 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがあり
ません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が
わき出ます。」
お祈りをしましょう
天の愛するお父様、御名を讃美します。
サマリヤの女は悲しみの中を通っていました。どうして私の身にだけこんなことが起こ
るのかと思うような連続でした。そして心の中に空白を感じていました。私たちも「どう
して、わたしだけ」という悲しみの所を通過した方も、今その中を通っているかたもある
でしょう。主よ。その方のすぐそばにいてください。
心の中に空白を感じるときに、そこを埋めてくださるのはイエス様です。
イエス様がサマリヤの女の心の空白を埋めてくださり、その心の底から
永遠のいのち
の水が流れ出してくださったように、私たちの心を恵み溢れるイエス様への思いで満たし、
永遠のいのちの水を流れでますように、お願い申し上げます。
愛する主イエス様の御名によって、父なる神様にお祈り申し上げます。アーメン
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