70周年記念誌掲載 - 社会福祉法人 北海道社会事業協会 余市病院

開院
70 周年 記 念 誌 目
次
■余市病院理念・基本方針 ……2
■余市病院沿革・歴代病院長 ……3
■2012年 aggressive 余市病院 ……6
■70周年記念イベント ……8
■開院70周年を祝して
理 事 長 髙 橋 透 ……12
■余市病院との出会い
院 長 吉 田 秀 明 ……13
■お祝いの言葉(OB.OG)
あの頃の医局
佐 野 道 朗 ……14
開院70周年を祝して
林 隆 子 ……15
忘れられない思い出
八 田 七 實 ……16
当時の記憶
岡 田 順之助 ……17
あの頃の思い出
大 平 羊 吾 ……19
■職員・各部署より
開院70周年にあたり
名誉院長 塚 田 守 雄 ……20
余市病院70周年にあたって
副 院 長 野 水 眞 ……21
開院70周年を迎えて
事務部長 大久保 善 之 ……22
開院70周年を迎えて
看護部長 深 川 知恵子 ……23
1942
顧 問 谷 川 淑 郎 ……24
医 局 主任医長 横 山 和 之 ……25
【看護部】 外 来 師 長 古 澤 ゆかり ……25
透析センター 師 長 森 靖 子 ……26
手術室 師 長 工 藤 千 春 ……26
第1病棟 師 長 吉 田 真由美 ……27
第3病棟 師 長 中 島 久 美 ……27
【診療技術部】 薬剤科 科 長 山 田 良 治 ……28
診療放射線科 科 長 本 間 智 ……28
臨床検査科 科 長 赤 堀 紀代世 ……29
リハビリテーション科 科 長 舘 澤 吉 晴 ……29
栄養科 室 長 本 間 立 子 ……30
臨床工学室 主 任 古 川 徹 ……30
【事務部】 総務課 課 長 大 津 昌 文 ……31
財務・管財課 課 長 野 中 英 寿 ……31
医事課 課 長 藤 田 美 帆 ……32
施設係 係 長 泉 谷 忍 ……32
■編集後記
70周年記念実行委員会委員長 野 水 眞 ……33

70 th
Anniversary
【余市病院理念】
私どもは、医療・保健・福祉の従事者として力を
合わせ、心のこもった医療・看護・介護の実践に努
めます。
【余市病院の基本方針】
患者様の笑顔・地域への貢献・自らの幸せを求め
て参ります。

余市病院沿革・歴代病院長
昭和14年2月
本会小樽病院分院として発足(病床総数 44床)
〃 17年3月
附属小樽病院から分離独立し、
附属余市病院と改称
初代 岡 本 正 三
昭和14年
昭和17年3月1日~昭和17年12月9日
2代 真 柳 英 真
昭和17年12月28日~昭和19年2月21日
昭和27年
3代 中 山 復四郎
昭和19年2月22日~昭和20年10月4日
昭和33年
〃 26年8月
余市病院附属仁木診療所開設
〃 27年5月
本会余市病院の改称(社会福祉法人に組織変更)
〃 27年12月
結核病棟新築完成(病床総数 80床)
〃 29年9月
台風15号による被災復旧工事に伴い増床(病床総数 87床)
〃 33年11月
病棟増築完成(病床総数137床)
〃 34年12月
積丹町入舸へき地診療所開設

70 th
Anniversary
4代 髙 橋 一 雄
昭和20年10月5日~昭和45年2月28日
昭和37年3月1日
昭和38年 3月
入舸診療所を積丹町に移譲
〃 38年9月
院舎を用途変更 (病床総数 171床)
〃 38年10月
余市町外4カ町村隔離病舎組合伝染病棟(198床)27床の委託診療を行う
〃 40年12月
看護婦寄宿舎完成 (収容人数30人)
〃 42年5月
病棟診療棟管理棟全面増改築工事完成(一般30床)(病床総数228床) 昭和42年
〃 55年3月
病院敷地として余市町土地開発公社所有の土地33,059.62㎡買収
〃 55年12月
院舎を用途変更(病床総数 235床)
〃 59年8月
病院敷地として余市町土地開発公社所有の土地3,305.98㎡買収
平成4年11月
院舎移転新築完成、同時に脳神経外科及び眼科を新設
(病床総数202床)(一般178床、結核16床、隔離8床)
5代 目 黒 幸 夫
昭和45年3月1日~平成5年3月31日

未熟児室 分娩室 ナースステーション
平成4年
平成 5 年10月 結核病床16床を廃止
(病床総数186床)
〃 10年 9 月 訪問看護ステーション「しりぺ」開設
〃 10年12月 一般病床58床を療養型病床群に変更
〃 11年 3 月 伝染病予防法の廃止により伝染病床(8
床)を廃止(病床総数178床)
6代 川 村 昌
平成5年4月1日~平成12年3月31日
〃 12年 4 月 余市協会病院指定居宅介護支援事業
所設置
〃 13年 1 月 北後志衛生施設組合より旧伝染病隔
離難病舎(362.72㎡)を譲り受ける
〃 15年 3 月 余市病院附属仁木診療所廃止
7代 塚 田 守 雄
平成12年4月1日~平成15年3月31日
〃 15年12月 人工透析開始
〃 19年 2 月 余市協会病院指定居宅介護支援事業
所廃止
〃 20年 1 月 訪 問 看 護 ス テ ー シ ョ ン 「 し り ぺ」
廃止
〃 21年10月 療養病床6床廃止(病床総数172床)
8代 吉 田 秀 明
平成15年4月1日~ 
70 th
Anniversary
2012年 aggressive 余市病院


70 th
Anniversary
社会福祉法人
70th
北海道社会事業協会
余市病院
開院70周年記念週間
2012年10月6日~12日
正面玄関

1 . 開 院70周 年 記 念 講 演 会 講 師 札幌医科大学医学部 地域医療総合医学講座
教授 山本 和利先生
題 目 「北海道地域医療の現状と今後の展望と課題」
日 時 平 成24年10月6日 ( 土 )14:00~16:00
場 所 余市町中央公民館 参加人数 101人
開 院70周 年 記 念 講 演 で は 、 地 域 医 療 に 関 し て 第 一 人 者 で あ る 札 幌 医 科 大 学 医 学 部 地 域 医
療総合医学講座教授である山本和利先生をお招きし、ご講演していただきました。
余 市 町 嶋 町 長 を は じ め 永 井 余 市 医 師 会 長 に も 参 加 い た だ き 、 職 員 も 含 め101人 の 参 加 者 と な
りました。
講演の前に吉田病院長より、挨拶及び当院の沿革を紹介し、その後記念講演となりました。
講演内容は、「北海道地域医療の現状と今後の展望と課題」という題目で、地域医療を支える
総合医の考え方、地域医療再生に向けて現状の医療体制の状況を踏まえて、今後の総合医・研
修医のあり方、総合診療医育成のための3つの試みなど約1時間半にわたりご講演を頂き、今
後当院が地域医療を支えていくための参考となる貴重な講演を拝聴することが出きました。

70 th
Anniversary
2 . キ ッ ズ セ ミ ナ ー ( 病 院 探 検 ・ 手術体験セミナー) 日 時 平 成24年10月 6 日 ( 土 )
場 所 職員食堂・院内・手術室
参加人員 10人 ( 小 学 生 )
キッズセミナーは、学生の皆さんが将来医師や医療従事者を志すきっかけになることを目的
に 開 催 い た し ま し た 。 人 体 模 型 を 使 用 し た 心 臓 マ ッ サ ー ジ とAEDの 講 習 を 行 っ た 後 、 放 射 線 科
で レ ン ト ゲ ン ・ CT の し く み を 説 明 、 そ の 後 病 院 内 の 各 職 場 を 探 検 。 手 術 室 で は 手 術 体 験 セ ミ
ナーを開催。超音波検査の実際や手術体験では鶏肉を使用しての縫合・模擬で鏡視下手術を行
いました。今後は年に2回程度開催する予定です。

3 .DVD上 映 会 「 竹 鶴 政 孝 物 語」
日 時 平 成24年10月 9 日
場 所 機能回復訓練室
内 容 ニッカウィスキー創業者、日本のウィスキー造りに人生を賭けた物語。
参加人数 9 人
4.健康相談・栄養相談 日 時 平 成24年10月10日 、11日
場 所 1階待合ホール 内 容 身体・血圧・骨密度・血糖測定、血管年齢、ストレスチェック、栄養相談
参加人数 121人
5 . 中川 和子氏(小 樽在住ピアニスト)ピアノコンサート 日 時 平 成24年10月12日
場 所 1階待合ホール
プログラム モ ー ツ ア ル ト ト ル コ 行 進 曲 他 6 曲
参加人数 70人

70 th
Anniversary
開院 70 周年を祝して
ました 。医 療 スタッフが 潤 沢 に 揃 わ なくても 、
住民ニーズに対する対応力はそれなりに維持
さ れ て い た と い う こ と で す 。 し か し 平 成 16
年に始まった医師臨床研修制度により大学医
局の医師派遣能力は著しく低下し派遣先病院
を限定せざるを得ない状態に陥りました。そ
の犠牲となったのが地方の中小病院であり余
市病院も例外ではありません。それでも、余
社会福祉法人北海道社会事業協会
市病院は吉田秀明院長の優れた指導力の下、
理 事 長 髙 橋 透
職員の強い団結力と少数となったにもかかわ
らず頑張っている医師の力を結集し、北後志
北海道社会事業協会余市病院(以下余市病
の基幹病院として役目を果たしてきました。
院 ) の 開 院 70 周 年 を 心 か ら お 慶 び 申 し 上 げ
しかし今後の更なる発展を期するためには
ます。
医師の補充、とくに内科の強化は喫緊の課題
過去、多くの関係者の努力に支えられて、
であります。大学以外の医師供給ルートが未
北後志の地域医療を守ってきた余市病院の存
だ確立されていない中で、医師確保能力の優
在の重さを改めて感じております。
劣が病院の命運を左右する現状を鑑みると、
私 事 で 恐 縮 で す が 、 私 は 昭 和 20 年 10 月 か
本部も一層の努力を強いられていることを自
ら 同 45 年 2 月 ま で 院 長 を 勤 め た 故 髙 橋 一 雄
覚せざるを得ません。
の 息 子 で 、 中 学 卒 業 後 昭 和 31 年 4 月 に 札 幌
しかし、今後の地方中小病院の運営は漫然
へ転じました。その後、医師になって短期間
かつ総花的なものでは立ち行きません。開院
の出張医として余市病院に勤務した以外は社
70 周 年 を 節 目 と し て 、 今 後 の 進 む べ き 方 向
会事業協会とは全く無縁であった私が理事長
を病院全体で再度考えるきっかけにして戴け
としてこの原稿を書いている訳で、何とも不
れば幸甚に存じます。
思議な気分であります。
余市病院が持てる力を全面的に発揮できる
参考資料として送って戴いた小冊子に昭和
状況を一日も早く作り上げ、更なる前進を始
13 年 竣 工 の 古 い 病 院 の 全 景 写 真 が 載 っ て い
めることを公私両方の立場で祈念申し上げま
ま し た 。 そ れ を み て 50 年 前 の 記 憶 と 思 い 出
す。 の数々が蘇りました。戦火を免れて川岸に建
っていた木造二階建の病院と当時の職員の方
々のことは私にとっては正に余市病院そのも
のであります。
さらに資料を読んで気付いたことは戦後
50 年 間 に 赴 任 し た 多 数 の 医 師 の 中 で 長 期 間
勤務した方は、例外的存在であり、殆どは1
年程度で交代しているという点です。しかし
大学医局が切れ目なく後任を派遣してくれた
結果、病院の機能は変動なく維持出来ており

余市病院との出会い
た。車中で、手術になるかなと考えつつもと
くに恐怖心はなく、かえって監視員のお兄さ
んの見事な対応を思い出し、救急対処法を一
つ覚えることができて嬉しく思いました。
搬送されたのは新築間もなかった余市病院
でした。救急室に現れたのは颯爽とした外科
医で、キズを見るなり「なんだ、もう血が止
まっている。縫う必要ないね」と、あからさ
病院長 吉 田 秀 明
まにがっかりし、ガーゼを貼って「はい、お
しまい」、なにか物足りなさを感じました。
私が余市病院と関わりを持ったのは、昭和
そ れ か ら 20 年 ( 平 成 元 年 前 後 ) 、 こ ん ど
43 年 夏 の こ と で し た 。 父 の 転 勤 に 伴 い 前 年
は急患を診る立場となって何度か余市病院の
に浜中町に引越してきたのですが、海水浴場
土日当直に出張して来ました。 かつて自分
がすぐ近くにありましたので、夏休み中は毎
が運び込まれた同じ救急室で、病気やけがの
日海で泳いでいました。その日は前日の雨の
方々を診ることになろうとは、まったく想像
影響で海水が濁っていました。それでも水眼
すらできなかったことです。ただ、当時の当
をかけて「えいっ」と潜りだしたところ、眉
直は、ものすごく忙しいという程ではなかっ
間に強い衝撃があり水眼が割れてしまいまし
たので、いつも近くの黒川廉売でラーメンや
た。どうやら岩に当たったようでした。浅い
蕎麦(インスタントではない)などを買い込
所でしたのですぐに浜に揚がったところ、兄
み、当直の合間に医局で調理して食べるのが
や友達がとてもビックリした顔で私をみて、
楽しみの一つでした。
そのうち顔から血がボタボタと流れ落ちてい
平成3年に大学を出ることになり(余市に
ることに気づきました。割れたガラスで眉間
はもう来れないなと)旭川に赴きました。し
(正確には鼻根部)がパックリと切れていま
かしそこでのお見合いに失敗し、函館に移さ
した。
れ て 6 年 後 の 平 成 11 年 ( 最 初 の 出 会 い か ら
この部位の出血は止めにくいことを知って
31年後)に、「騙されて」余市病院に外科
いた ので「や ば い な、死 ぬ かも」と 思 い つ つ 、
医 と し て 着 任 し ま し た 。 間 も な く 丸 14 年 、
とりあえず監視員のお兄さん(大学生のアル
医師人生のほぼ半分をここ余市で過ごしたこ
バイトだったと思います)のところで応急手
とになります。
当を受けました。そのお兄さんも一瞬「やば
土曜日の午後、ときどき浜中に行きます。
い」表情をみせましたが、小学生の私を動揺
テトラが敷設され、私がぶつかった岩(第一
させないように明るく振るまい、ありったけ
淵釜)は砂に埋もれ、攀じ登った岩山は削ら
の軟膏をガーゼに塗って、エイッとキズに蓋
れて民宿が建っていて、水族館跡は漁港にな
をしてくれました。なんでも「ボクシングで
っています。そこから見るシリパと余市岳は
切れたときにやる方法と同じだ」との説明で
変わらないですが。
した。
救急車は出払っていたので、代わりに警察
の白いジープに乗せられて病院に運ばれまし

70 th
Anniversary
あの頃の医局
ませんでした。
副院長は、後に院長になられた川村昌先生
ですがクラシックを聴きながらジクソーパズ
ルを並べるのが趣味という物静かな先生で、
酒席で好んで唄われた「サントワマミー」は
渋い味があり、楽しく酔うと、「昔は余市の
アランドロンと言われたものだ」と少し照れ
くさそうに仰ったものでした。「余市医師会
佐野内科クリニック 佐 野 道 朗
五十年史」の発行にあたっては、校正印刷ま
で進んでいたものを没とし、一から編集しな
余 市 協 会 病 院 開 院 70 周 年 、 お め で と う ご
おすことになったのですが、先生がお一人で
ざいます。昭和から平成へと大きく変貌する
取り組んでくださり無事出版にこぎつけまし
社会情勢の中で、絶えず北後志地域の中核病
た。いまある「余市医師会五十年史」は先生
院としてその役割を担ってこられたことに敬
のご苦労の賜物であります。
意を表します。
お二人とも退職後間もなく、病をえて故人
私 は 昭 和 62 年 か ら 8 年 間 、 内 科 医 と し て
となってしまわれましたが、余市協会病院そ
勤務させていただきました。この間に、強く
して北後志地域医療の大功労者と言わなけれ
印象に残る事が二つあります。一つは、旧病
ばなりません。
院 を 改 造 し て CT が 導 入 設 置 さ れ た こ と で 、
また当時の医局には外科の小松先生、小児
私は読影の勉強のため、週1回北大放射線科
科の若松先生、整形の大辻先生と私の四人の
の早朝カンファランスへの出席を命じられ、
団塊世代が陣取っており、私は彼らの個性的
せっせと通ったものでした。
でタフな仕事振りに大いに刺激を受けたもの
もう一つは、病院の新築移転という滅多に
です。
ない事象に遭遇したことです。引越し実行委
現在の余市協会病院は医師不足など、さま
員長に指名されたものの、実際は事務方や看
ざまな困難な情況下であっても、吉田秀明院
護師さん達が中心となってテキパキと段取り
長を先頭に着実にダイナミックに歩を進めて
を決め、当日は吹雪模様の中、自衛隊の応援
い る と 思 い ま す 。 OB ま た 余 市 医 師 会 の 役 員
を得て、無事に終了しました。私はただ私物
の一人としてサポーターでありたいのです
の整理をしていただけのように思います。
が、実際はお世話になることの方が多い現状
当時の院長は目黒幸夫先生です。酒豪で風
です。
貌はさながら武将のイメージでしたが、車の
今後ますますのご発展を祈念いたします。
運転は超のつく慎重派で、ある時、あまりに
遅い車列を追い越したところ、先頭はソアラ
を駆る目黒先生でした。一度ご自宅で、自慢
の木工作品を披露されました。作品よりも先
生の傷だらけの手の方に目がゆき、つい「医
者の手には見えません」と感想を述べたとこ
ろ、いたく機嫌を損じ、二度とお声がかかり

開院 70 周年を祝して
正に不眠不休で皆一丸となって実によく働き
ました。今では考えられないことばかりです。
あの看護体制の中、医師、患者、看護婦等の
信頼関係もよく、事故なく定年退職を迎える
事ができましたことは、感謝以外の言葉はあ
りませんでした。
毎日のように3階の水の出が悪い、4階の
洗面所のお湯が出ないと、そのたびにボイラ
林 隆 子
ー新谷さんとかけ回ったこと、お詫びと苦情
開 院 70 周 年 を 迎 え ら れ ま す こ と を お 祝 い
処理に追われたことなど、思い出は沢山あり
申し上げます。
ます。そんな中、初代信用金庫理事長の藤田
私 は 昭 和41年 髙 橋 一 雄 院 長 、 服 部 事 務 長 、
幸夫様が入院されお亡くなりになり、民間で
佐藤美代婦長の頃の採用で、3階内科病棟の
は初めての町葬で、奥様が後に私に語られた
勤 務 と な り ま し た 。 昭 和 42 年 に 目 黒 副 院 長
感謝の言葉などは忘れられない思い出の一つ
がご就任された後に、総婦長制度が敷かれま
です。
し た 。 昭 和 50 年 総 婦 長 心 得 を 経 て 総 看 護 婦
そんな忙しい中にも楽しいことも沢山あり
長の任を受けましたが、戦前、戦後、戦中を
ました。忘年会には各科対抗の様に出店を開
知るものとして、只厳しい軍隊の様な日赤教
き、私共の「おでん屋」には髙橋院長、仁木
育で「博愛にして懇篤親切なるべきこと」だ
診療所長渡辺先生がお二人でみえ、開店より
けは常に心がけ、日本看護協会北海道支部の
閉店までよく飲み召し上がって下さいました。
研修を受け、当時の看護体制を基準化もでき
又、先生方のバンド「ドクターサンズ」の生
ず、相変わらず2交代当直制で、小樽の看護
演奏で歌って踊ったこと等々、今では荒木歯
学校に通う人も残された人達も大変な負担の
科医院の院長先生と川村先生、野尻先生の三
日々でした。宮田事務長になられてから小樽、
人のお姿しか思い出せませんが、川村先生を
余市の高校に説明依頼を始め、看護婦を育て
偲び、もう一度お会いしたくて涙がでます。
ることに致しましたが、都会中心でなかなか
新病院の明るい広々とした廊下を歩く度に、
資格を得て余市に勤務していただける方は数
昔の病院の暗く狭い内科外来の沢山の患者さ
が少なく苦難の連続でした。
んの前を、頭を下げて手術室まで走ったこと
当時は内科、外科、整形外科、産婦人科、
を昨日のことの様に懐かしく浮かんで参りま
小児科、耳鼻咽喉科があり、外来入院共に多
す。
忙 で し た 。 結 核 病 床 も あ り180床 満 床 も つ づ
最後になりますが、今日の立派な看護体制
きました。古平、美国トンネル工事等も多く、
確立までのご苦労、ご努力に敬意を表し、こ
町中活気に満ちて人口も3万人近くになった
れからも後志基幹病院として余市住民に愛さ
と記憶しております。交通事故で他町村より
れる様、一層のご発展をお祈り申し上げます。
救急患者が移送されても病室がなく、屋上に
プレハブの病室を緊急に造り、一時凌ぎも致
しました。夜間の呼び出しや手術で私もよく
呼び出され、一人で二人分の仕事をこなし、

70 th
Anniversary
忘れられない思い出
が、とりあえず石の上にも3年という心境に
なっていたのです。就職したころ聞いた話で
すが余市祭りの出店の場所争いが絶えなく、そ
んな時に当時の事務長の服部さんが呼ばれて
は仲裁に入ったそうです。有名な話であり余
市協会病院事務長の何か人間らしく、地元の
人らしい貫禄なのだと感心させられました。そ
んな事務長は嵐の日の見回りと出張の帰りに
八 田 七 實
は必ず顔を見せてくれ、「お疲れさん」と声
をかけてくれました。今でも懐かしく思い出
70 周 年 の 節 目 と い う 記 念 す べ き 年 を 迎 え
されます。
ましたこと、心よりお祝い申し上げます。職
就職して驚いたことは、時間内も時間外も
員の皆様の日々の営みと努力の賜物がこの歴
臨時の手術が多いことでした。外科外来に配
史を築いてきたのです。
属されていた私は同僚と、医師と共に深夜ま
私にも忘れられない懐かしい思い出が数々
で働きました。外科は川村先生と出張医1名、
あ り ま す 。 昭 和 29 年 頃 は 余 市 川 の 河 口 付 近
外 科 と 整 形 外 科 の 60 床 が ほ と ん ど 満 床 で 昼
に木橋がかかっており、その右後方に余市協
夜、職員も懸命に働きました。当直の翌日も
会病院が建っておりました。散歩で見た病院、
午前中は勤務し、午後からの明けも帰れない
「病気はしたくないね」の父の一言が今も私
ことが多く、地域の病院の大変さを実感しま
の記憶に残っております。高校生のときに弟
した。外科医といえども婦人科以外の内科、
が扁桃腺の手術を受けることがあって、病院
小児科まで診療していること、何でもしなけ
に一泊して付き添ったことがあります。今ま
ればならないのが地方の病院なのだと思い知
では遠くから眺めていた余市協会病院が身近
らされました。病棟に配属され、今では信じ
な存在に感じました。当時耳鼻咽喉科の先生
られないくらい家族と家政婦の付き添いが多
は鈴木先生で、治療を嫌がる弟をなだめて治
かったです。その方々に頼らなければならな
療をして下さいました。先生にも額に汗・・
い看護体制であったと思います。
看護師さんも優しかったです。現在、息子さ
新築移転では賛成派と反対派の狭間で、当
んも同じ耳鼻咽喉科の医師として小樽で開業
時の目黒院長先生が移転を一旦保留され、苦
をしております。往事の先生の面影はそのま
慮された決断をされたことと思っています。
まと、最近患者になった私は受診のたびに思
今は亡き方々を思い起こし、筆を執る機会
っております。
に恵まれたことに本当に感謝し、更なるご発
昭 和 47 年 私 は 看 護 師 と し て 実 家 の 余 市 に
展を心よりご祈願します。今日が歴史の1ペ
移り住んで、故郷の余市協会病院に就職しま
ージです。
した。環境が変わり、なかなか打ち解けない
で居た私を当時の佐藤総婦長さんが「仲良く
やってね。いいひとばかりなのだから。」と
言われ、私なりに反省することがありました。
すぐにでも辞めて違う職場をと考えていた私

当時の記憶
院勤務の辞令が交付され、青木理事長より激
をいただき、余市の前任者が退職したとのこ
とで軽く流され、文化都市札幌よりはチト淋
しい余市へ荷物を纏めて引っ越しました。余
市病院に出勤すると、初対面の川村先生から、
むずかしいお顔で種々病院事情を伺いました。
病院は元地より移転新築、運用して1年も経
っていませんし、移転した先が市街地より離
岡 田 順 之 助
れており、利用する患者さんの足となる路線
バスの便数が少ないために、診察時間とのか
開 院 70 周 年 大 き な 節 目 を 迎 え た こ と を 心
み合いが悪く、病院利用がままなりませんで
か ら お 祝 い 申 し 上 げ ま す 。 70 年 と 云 う 時 の
した。今思うと当時の病院の周りは北星高校
流れは、「十年一昔」と云う諺によれば七昔
だけで、ブドウ畑と何軒かの民家、近くは草
が過ぎた訳で、随分と長い昔話のような、長
が生え繁り、本当にこの地で病院運営が成り
い年月歴史を刻んだ事になります。歴代の院
立つのかと思う程でした。早速、梅田課長、
長先生始め職員の方々の汗と涙と努力によっ
古川課長と町役場へ行き、町長、民生課長へ
て続けて来られた賜とあらためて敬意を表し
事情を報告し、又中央バス会社にも何回も陳
ます。
情に伺いましたが、乗って下さるお客が少な
私 は 縁 あ り ま し て 昭 和 40 年 北 海 道 社 会 事
いとの理由で無理との事でした。このままで
業 協 会 岩 内 病 院 に 就 職(S40 ~ 60)、小 樽 病
はと町の有志の方々に相談し、お願いに伺っ
院(S60~63)、洞 爺 病院(S63~H2)、母 子福 祉
ている話の中で、移転新築の話が出た折に期
支 援 施 設(H2~5)、余 市 病 院(H5~10)含
成会が発足したがその後中止になっている事
め て 33 年 間 共 に 仕 事 を さ せ て い た だ き ま し
を耳にし、町の長老、各組合団体の長の皆様
た。定年退職の送別会は、余市病院で多く
に引き続き活動をお願いに昼夜かまわず伺
の退職者を含めニッカ会館で盛大に行ってい
い、寄付をお願いして廻りました。経理か
た だ き ま し た 。 あ れ か ら 15 年 も 経 過 し 、 ま
らは資金繰りで銀行に頭を下げるように言わ
じ か に80歳 が 見 え 隠 し て お り ま す 。
れ、何度となく通い続けました。
岩内病院に勤務の頃、余市病院は協会一の
川村院長先生はじめ医局先生方、又職員皆
金持病院だと先輩達が良く言っており、当時
様は休む暇なく診療を精力的に行っておりま
髙橋院長先生、服部事務長さんのコンビで、
した。やがて旭川医大眼科と遠隔操作映像シ
職員がよく働いてくれたお蔭で安定した経営
ステムをつなげ、眼科医固定へと願っており
ができると話していました。小生、余市病院
ま し た 。 脳 外 科 で は 高 圧 酸 素 装 置 、MRI撮 影
との関わりは、兵庫県で全国母子福祉施設長
装置を導入、人工透析も動き出し患者様も増
会議に出席のため会場のホテルへ着くと、北
えてきました。一方、資金繰りに困り大切な
海道より電話が入っていると云うことで、会
財産である土地を整理する事を本部より許し
議の前に本部に電話すると、荒川常務が直ぐ
を得て、各所にちらばっていた敷地を売却し
に北海道に戻るようにとのことでした。会議
ました。 もそこそこに翌日帰札し、協会本部で余市病
一方職員の充実と、看護学生募集を強力的

70 th
Anniversary
に実行し、道内は基より八戸五所川原と奨学
当時は夜遅く、翌朝早く、単身赴任でありな
生を送り出し、看護師宿舎も建て、医療従事
がら健康でいられたのも余市病院職員の心優
者の確保に万全を期しました。
しいお付合いの賜と感謝しております。
そのような中、休日に屋根の雪下ろしをし
現在も谷川先生の診察に岩内町より伺う日
ていると、救急車が頻繁に走っており、問い
を楽しみにしています。お蔭様で現在も勤務
合わせると豊浜トンネルの落盤事故が発生し、
の傍ら、好きな油絵墨画畑と冬はスキーにと、
バス乗客が埋ったとのことでした。救急医療
時間のゆるす限り行動し、一日一日を楽しく
施設を担っている関係上、病院へかけつけま
過ごしています。
したが、一向に救急車は来ません。職員は召
余市病院職員の皆様「人生七転八起」頑張
集 待 機 し 、X線 室 、OP室 と 準 備 に て ん や わ ん
る事で明日が開けます。健康第一でこれから
やでありました。結局その日は救出出来ず、
の余市病院の一層の発展を祈念いたします。
一夜を過ごしました。職員は病院待機で、病
在職中大変お世話になり、ありがとうござい
院には報道、新聞社やニュースカメラマン等
ました。
でごったがえし、又電話の応対が大変であり
ました。次の日も次の日も救出に時間がかか
り、職員も疲れが溜まっていました。川村院
長先生は自ら災害現場にて待機し、救出を今
か今かと待っていましたが、結果的には救出
出来ず、一週間後だったか、全員死亡が確認
され、検死等行いました。あらためて、被害
に遭われた方のご冥福をお祈りするととも
に、遺族の皆様に心からお悔やみ申し上げ
ます。
さ て 先 日 、 我 が 北 海 道 社 会 事 業 協 会 OB 会
に幹事として出席した折、髙橋理事長より協
会 だ よ り 第 78 号 を プ レ ゼ ン ト さ れ ま し た 。
決算関係資料で、余市病院は損益収支で昨年
度 は 赤 字 で し た が 、 平 成 23 年 で は 黒 字 と な
っていました。少ない職員で院長先生の指導
のもと、一丸となった努力の賜だと、我なが
ら 嬉 し く 思 っ て い ま す 。 OB 会 の 資 料 に は 、
余市病院事務部長さんのコメントで「余市は
23年 度 決 算 が 5 年 ぶ り に 黒 字 と な り ま し た 。
まだまだ不安定ではありますが、今後も経費
削減に努め黒字化が継続できるよう、職員一
同精進してまいります。余市協会病院事務部
長 大久保善之」と力強い言葉で纏めており
ました。小生、余市在職当時を顧みて、あの

あの頃の思い出
月1日には、温泉一泊でスキーに行き職員と
の親交を深めました。夏は海水浴、年末恒例
の忘年会、若さで大胆な演芸会など出来たこ
とを今でも思いだし笑っています。又、院内
スポーツが盛んになり、テニスに誘われて一
振り眩暈して、これでは駄目だと思い起こし
たことが、我が人生の大きな転換期となり、
当 時 44 歳 か ら 余 市 町 体 育 館 主 催 の ラ ン ニ ン
大 平 羊 吾
グデッキを走って、北海道一周の企画に参加
し、2年かけて完走しました。その後走り終
こ の 度 は 余 市 協 会 病 院 開 院 70 周 年 誠 に お
わった時の爽快感がたまらず、生活の一部と
めでとうございます。
なり、続ける事となりました。それから日本
私 は 縁 が あ っ て 、 昭 和 52 年 9 月 当 院 に 勤
一周、地球一周4万キロの目標に変わり夢と
務 し て 平 成10年 3 月 定 年 退 職 と な り ま し た 。
なりました。挑戦する気持ちが自分にエネル
余市町は温暖な気候で自然豊かな風光明媚な
ギーを与え、若さを保つことだと思います。
ところで山菜取りや海釣りなど、色々楽しん
マラソンから学んだことが3つあります。
だことが思い出に残ります。当時の亡き元院
1 目標が夢となり 2 気力が自立
長目黒先生、川村先生はじめたくさんの職員
3 努力が継続に繋がることを実感しました。
の方達にお世話になり勤務出来たことに感謝
目的は健康な体になるため、手段としての
しています。
マラソンでした。これからも前向きに走って
年々患者さんが多くなり、院内が狭いため
流汗健康で行きたいと思います。忙しい生活
行きかうにもままならない状況でした。院内
の時にスポーツで時間を割くことは無駄と思
業務は調剤中心で、処方箋の薬の種類の多い
っていましたが、決してそうでなかったと信
こと、分包機4台がフル稼働で大変忙しく薬
じています。退職後は札幌に移りましたが、
品管理と薬効率については大変苦慮しました。
10 年 間 健 康 で 病 院 勤 務 出 来 た こ と に 感 謝 し
又、薬局業務を機械化したい事から、自前で
ています。
揃えたコンピューターと良き職員のお蔭で業
今後、余市病院の益々のご発展を心からお
務は一気に改善されました。
祈り致しています。
薬剤師の不足で求人募集で悩み、勤務状況
は 複 雑 に な り ま し た 。 平 成 4 年 12 月 病 院 が
移転してから環境が一転し、医療改革に伴い
業務の見直しがあり、北後志の基幹病院にな
ったことから、北後志医療協議会北海道病院
薬剤師会、北海道薬剤師会等の連携が強まり
一段と責任が強まりました。又余市町内の小、
中、高校の環境衛生について、飲料水、教室
の照度、プールなどの調査で、院外業務の仕
事も多くなりました。毎年の開院記念日の3

70 th
Anniversary
開院 70 周年にあたり
名誉院長 塚 田 守 雄
開 院 70 周 年 お め で と う ご ざ い ま す 。 よ く
頑張りましたね。
平 成 14 年
平 成 4 年 11 月 に 黒 川 町 に 新 築 移 転 す る 前
の旧病院に一度勤務したことがあるだけで余
市病院とは縁がなかったのですが、札幌の斗
南病院を定年退職するときに勧誘されました。
平 成 11 年 4 月 1 日 余 市 病 院 に 赴 任 し 、 平
成 12 年 4 月 に 川 村 院 長 の 後 を つ い で 院 長 に
なりました。最大の目標は赤字体制からの脱
皮でした。幸いに職員皆さんの努力で黒字を
続けることができました。嬉しかったです。
平 成 15 年 3 月 に 定 年 退 職 を 迎 え 、 そ の 後
院長に吉田先生が就任いたしました。発想が
豊かな院長のもとにこれからも益々の発展を
期待しています。
平 成 21 年
平 成 11 年

余市病院 70 周年にあたって
開 院 70 周 年 を 迎 え る に あ た り 、 職 員 の
代 表 が 委 員 会 を 作 り 、 70 周 年 記 念 イ ベ ン
トと本誌記念誌発行を計画致しました。
10月 6 日 ~12日 を70周 年 記 念 週 間 と し て 、
普段は病院に縁の薄い方が病院に興味を持
って訪れてくれるイベントを考えました。
地域の子供たちが病院のことを少し知る機
会として、病院探検や模擬手術体験を行い、
参加した子供たちはとても喜んでもらいま
副院長 野 水 眞
し た 。 札 幌 医 科 大 学地域医療学教授の山本
和利先生の講演では、地 域 の 病 院 が 目 指 す
余 市 協 会 病 院 が 開 院 し て 本 年 で 70 周 年
べき方向が見え、職員が少し元気になるお
を迎えました。地域住民の皆様や多くの先
話 が 聞 け ま し た 。 DVD 鑑 賞 会 で は 竹 鶴 政 孝
輩の職員の方々に支えられて今日の病院が
物語の映画から、余市のニッカを創った当
存続していることを思い、その節目の時に
時の竹鶴氏の情熱と壮絶な苦労を知ること
余市協会病院に私自身が在籍することがで
が で き ま し た 。 病 院 の ロ ビ ー で 行 わ れ た健
き、誠に光栄に思っております。
康相談には多くの方が相談にみえました。
地域の多くの病院と同じように、当院が
またロビー待合の一部に病院の歴史を振り
現在置かれている状況は常に楽観を許せな
返る写真が掲示され、来院された患者さん
いものがあります。慢性的な医師不足や看
が興味深く鑑賞されており、ベテランの職
護師不足から、地域の医療ニーズに応えき
員達は懐かしく見入っておりました。最後
れないことや病床制限をせざるを得ない現
を飾る中川和子さんのピアノコンサートに
状です。更に当院のような中小病院には診
は 、 入院中の患者さんも職員付き添いで参
療報酬体系上にも優遇されているとは言え
加され、余 市 協 会 病 院 な ら で は の 心 温 ま る
ず、毎月の収支報告に一喜一憂するような
コンサートとなりました。
状況であり、経営的にも不安定となってい
改めて病院の長い歴史を振り返る機会と
ます。
な ったことはとても有意義であったと思い
しかし、一昨年に横山医師と私が赴任し
ます。今 後 も 地 域 医 療 を 旗 頭 に 地 域 住 民 の
て医局の体制が少し改善し、看護部と事務
健康を守り、働く職員を大切にして、余市
部のリーダーの交代もあって、病院運営
協会病院が一層発展するきっかけになれば
にかかわる議論が活発に行われるように
幸いです。
なり、昨年からは病院の活動が若干上向
いて来ているように感じられます。困っ
た時に地域の方々がかかれる病院を目指し
て救急患者対応にも力を入れることによっ
て、救急車搬入台数も増加傾向です。更に
リハビリテーション部門の強化によって、
急 性 期 の 医 療 か ら 亜 急 性 期 ・ 慢 性期の医療
にも徐々に充実が図られています。近 々 オ
ープンする予定の回復期リハビリテーショ
ン病棟は入院治療と在宅療養の橋渡しをす
る大事な役目を果たすことになると確信し
ています。

70 th
Anniversary
開院70周年を迎えて
も力を注いでおり、臨床研修病院側からも高
い評価が得られております。ここで余談です
が、臨床研修医が赴任したときは必ず歓迎会
を開きます。場 所 は 病 院 の 職 員 食 堂 だったり、
時 に は 医 師 の 公 宅 で 行 わ れ ま す 。 何 よ りも凄
いのは常勤医師(院長も結構好きです)の 手
作りで料理を振る舞うことです。外でやれば
簡単で楽なんですが、研修医を囲み、病院幹
部、看護師、コ・メディカルも参加する病院
挙 げ て の 歓 迎 会 な の で す 。 手 作 り 料 理 も さす
事務部長 大 久 保 善 之
が外科医?包丁さばきはもちろんですが、洋
食、中華、和食、あらゆる鍋料理等のメニュ
私 は 平 成 23 年 4 月 に 北 海 道 社 会 事 業 協 会
ーの豊富さと何といってもこれが「旨い!」と
へ入職、同年同月、余市病院に赴任致しまし
いうことです。こんな歓迎会はどこにもない
た。赴任して1年が経過したところで開院
と思います。初日に病院職員とふれあい和ま
70 周 年 の 記 念 す べ き 節 目 と な っ た こ と に 私
せ、そして歓迎する心、何と素晴らしいこと
と余市病院との縁を感じております。で、こ
でしょうか。この記念誌がいつまでも残るこ
の縁と言えば吉田秀明院長であります。吉田
とを考えた時、どうしても残しておきたかっ
院長が平成6年から平成8年にかけて、私が
た行事なのです。
以前勤めていた函館の病院に心臓血管外科開
過去の事はよくわかりませんが、以前は診
設時の医長として赴任し一緒に仕事させて頂
療科もそれなりにあり、充実した医療の提供
いたことを考えれば、これこそ縁があるとし
ができたていたと聞いております。しかし近
か言いようがありません。人との繋がりはわ
年の慢性的な医師不足(都市部偏在)と臨床
からないものだと改めて感じたところです。
研修制度で地方病院には今まで以上に厳しい
さて、私には病院の歴史について語ること
現実です。都市部では豊富に病院が存在して
はできませんが、赴任してからの余市病院の
いる分、専門特化し合理的な医療の提供で採
現状について記してみたいと思います。
算が充分とれていると思います。しかし、地
余市病院は現在、常勤医7名となっており
方では様々な疾患を少数の医師で診療しなけ
ますが、そのうち名誉院長、顧問の2人をカ
ればならない現状と病院経営としてみれば効
ウントしての7人であります。許可病床数
率が悪く、無駄も多い。しかし、地域医療を
172 床 、 現 在 、 3 病 棟 の う ち 1 病 棟 が 閉 鎖
担う病院として、たとえ不効率や無駄があっ
( 休 棟 )されており2病 棟 で の 運 用 で、約100
たとしても、地域の医療を守らなければなら
人 の 入 院 患 者 と 約240人 ( 1 日 平 均 ) の 外 来
ないという職員一同の奮闘に私のこの1年半
患者の診療に当たっております。内科、総合
という短い期間のなかでさえ感じられます。
診療科、小児科、手術では消化器系、血管系
最 後 に な り ま す が 、 こ の 70 年 と い う 歴 史
等 の 外 科 領 域 か ら 整 形 外 科 領 域 と 多 岐 に わた
の重さに加えて、今後の余市病院の新たな歴
り、他に人工透析、365日の救急医療と、と て
史づくりには、自治体、地域住民の皆さまの
もこの医師数ではと驚くばかりです。もちろ
ご理解とご協力なくしてはなし得ません。地
ん、一部、大学や開業医の先生方からも診療
方の医療崩壊が叫ばれる中で余市病院が北海
支援を受けておりますが、院長をはじめとす
道の地域医療モデルとなるように職員一丸と
る先生達の地域医療に対する志は高く、頭の
なり邁進する決意です。
下がる思いです。また臨床研修医(地域医療
枠で1カ月常時1~3人研修)も積極的に受
入し、これからの担い手となる医師の養成に

開院 70 周年を迎えて
第三次医療法改正では、地域支援病院制度の
創設、インフォームドコンセントが義務化さ
れ ま し た 。 平 成 12 年 の 第 四 次 医 療 法 改 正 で
は、病床の機能分化を進めるため、一般病床
と療養病床の区分と医師・歯科医師の臨床研
修 が 必 修 化 さ れ ま し た 。 平 成 18 年 の 第 五 次
医療法改正では、入院から在宅まで切れ目の
ない医療提供を目指し、医師不足地域の確保
対策、病院勤務医の負担軽減対策などによ
看護部長 深 川 知 恵 子
り、医療関係者の確保に努めると定められ
ました。
余市協会病院が、この地に開院してから
こ の よ う に 、 昭 和 60 年 以 降 は 医 療 法 改 正
70 年 と 云 う 時 を 刻 み 、 多 く の 方 々 に 支 え ら
がめまぐるしく、それに伴い私たち看護職を
れて今日を迎えられましたことに心より感謝
取り巻く環境の変化が激しかったのです。当
いたします。
院 が 開 院 し た 昭 和 17 年 は 保 助 看 法 も な く 、
平 成 24 年 10 月 1 日 現 在 、 当 院 の 病 床 数 は
病院は看護を提供する場というより「医師の
120床 で 稼 働 し 、 職 員 総 数177名 中 看 護 職 員
仕事場として位置づけられ、医師は病院長と
は102名 、 全 体 の 約60% を 占 め て い る の が 看
して診療と管理の両方に責任があった」経緯
護 部 門 で す 。 今 か ら 45 年 前 、 昭 和 42 年 の 病
があり、看護教育も医師によってなされ、医
床 数 が228床 、 職 員 総 数112名 、 看 護 職 員57
師の助手として機能することを求め、診療の
名 の 時 代 か ら 比 較 す る と 約2倍 の 人 員 配 置 と
補助業務を中心に教授されていたそうです。
ベッド数は2分の1に縮小しているにも関わ
その後、病院勤務看護婦業務指針、完全看護
らず、看護必要度要件、在院日数、入院基本
制度の制定、基準看護制度への移行、病院業
料の時間数などの制約に追われつつ、やっと
務 の 中 央 化 の 実 施 、 ま た 、 昭 和 52 年 に は 医
基準をクリアしているのが現状です。
師の指示は「無制約ではなく、医師が担当す
70 年 の 歴 史 を 顧 み ま す と 、 太 平 洋 戦 争 直
る患者のことに限られ、かつ、その診療の目
前から、終戦、日本の敗戦という初めての体
的を達成するに必要な事項に限られる」とさ
験をした国民が必死に復興へと歩みを進め、
れ、これからの病院は欧米先進国と同様に入
高度成長を成し得た後バブルが崩壊し、世界
院患者に対する医療サービスを中心とする体
からは経済は一流、政治は三流と評されてい
制を整備する必要性から療養上の世話が重視
た経済の根幹さえぐらつきだしました。医療
されるべきで主体的に担当するのは看護部門
界に於いても、戦時中の物資・食糧難を経験
であると厚生省からの見解が示されました。
した国民の死亡率の一位が結核などの感染症、
70 年 と い う 時 の 積 み 重 ね は 、 余 市 協 会 病
昭 和 35 年 ま で が 脳 血 管 疾 患 で し た 。 平 成 22
院という小さな組織にも紆余曲折があり、歴
年の死因順位では、悪性新生物、心疾患、脳
史の中では看護婦から看護師へと名称が変わ
血管疾患の三大死因による死亡は国民総死亡
っただけでなく、専門職としての自覚と責任
の 約55% を 占 め て い ま す 。 を求められています。
医 療 を 提 供 す る し く み は 、 昭 和 23 年 に 医
吉田院長の下、今を支えている看護部職員
療法が制定されました。しかし、社会構造の
に、患者のいかなる変化に対応できる力と、
変化、高齢化の進展、医療費の急増などの状
療養上のお世話を毎日同じ事を愚直にこなす
況 に 対 応 す る た め 昭 和 60 年 に 第 一 次 医 療 法
ことの大切さを伝え、当時から紡いできた看
改正が行われました。平成4年の第二次医療
護の糸を、さらなる未来へと紡いでいくと太
法改正は、特定機能病院、療養型病床群の制
い丈夫な糸になることを信じ、次の世代へと
度 化 、 在 宅 医 療 の 推 進 が 図 ら れ 、 平 成9年 の
襷を渡していきたいと思っています。

70 th
Anniversary
1942 年
の 誕 生 日 が 1944 年 8 月 で あ り 、 行 李 に 入 れ
られて運ばれる程の大きさを考えると未だ誕
生を迎えるまえであると推定でき、まさに
1945年 3 月 に な る と 考 え て い る 。
その後千葉県市川市に住まいしていた我が
家は、食料品を求めて買い出しと言った作業
をこなす母の活躍が始まった。先ほどの道路
には時に芋の山が何個かでき、近所のおばさ
顧 問 谷 川 淑 郎
ん達が一山づつ担いで帰ることがあった。い
わゆる配給である。そんな光景を見て記憶し
太 平 洋 戦 争 の 記 録 を 見 る と 「 1942 年 3 月
ている私は既に5才ぐらいにはなっていたと
1日バタビヤ沖海戦。日本軍、蘭領東インド
思 わ れ る 。1976年 こ の 病 院 に 赴 任 し た 当 時 、
ジャワ島スランに上陸」となっている。まさ
古い職員の方が話された事実を思い出す。戦
にこの日に余市協会病院は1つの病院として
後間もなく病院で患者に出す食材もなく、病
出 発 し た 。1941年12月 真 珠 湾 攻 撃 に よ っ て
院の周りに畑を作り色々と調達したり、蘭越
太平洋戦争が始まってから約4カ月経ってい
などに米を求めて買い出しに行ったようなこ
た 。 私 も 1942 年 6 月 生 ま れ で 積 み 重 ね た 年
ともあったとのことである。
月はほぼ同じである。しかし北海道と千葉県
戦後の市川市の我が家の生活を記して当時
と、離れた場所でかつ生まれたばかりの乳幼
の様子を推察していただきたい。上水道、下
児が当時のことを知るよしもない。まさに戦
水道はなく家庭用水は全て井戸水、手動ポン
争のまっただ中でこの病院が誕生し、その結
プで水を汲む。都市ガスはもとよりプロパン
果働く医師達も戦争へと駆り出された時代で
ガスもなく、薪や炭、石炭やコークスを燃料
あったことを心に入れて欲しい。私としては
としていた。ご飯を炊くのは薪の竈、七輪に
病院の歴史を書きつづることはできないが
炭をおこし魚を焼き、味噌汁を作る。食器洗
1942 年 か ら の 日 本 の 流 れ を 体 験 し た も の と
いは井戸水で、洗濯も当然井戸水を汲み洗濯
して話を進めたい。
タライで洗濯板を使って固形石鹸を使用する。
私の一番古い記憶に「空襲警報が鳴り、居
病院でも同じではなかったかと思う。水道施
間から防空頭巾をかぶり、庭にある防空壕に
設があったとも思えない。燃料も色々なもの
にげた」ものがある。防空壕の一番奥に妹を
を使う必要があっただろう。薬剤だって満足
入れた行李があり、妹が泣き続けていた。防
にあったとは考えにくい。消毒を含む清潔維
空壕の入り口には父ではない兵隊服をきた男
持にも大変な苦労があったと推測する。たっ
が空を眺めていた。その日の出来事か、ある
た70年 前 の 話 で あ る 。
いは全く違った日なのかは今は知るよしもな
いが、家の前の道路から真っ赤に色づいた西
の空を眺めていた。この赤い西の空はおそら
く 後 日 の 記 憶 か ら 判 断 し て 、 1945 年 3 月 の
東京大空襲であったのではと理解している。
病院ができてから3年が経っていたのだ。妹

医 局
【看護部】 外 来
主任医長 横 山 和 之
師 長 古 澤 ゆ か り
余市協会病院に平成22年4月赴任して2年半
私は10年前も外来勤務をしていました。10年
になりました。この病院に来て何ができるのか今
目とは大分顔ぶれが変わっていますが、看護師の
現在も模索中です。余市協会病院は地域の病院と
元気さはパワーアップしていると思います。 して地域の住民の医療ニーズにできるだけ応える
現在外来は、常勤医師の他、脳神経内科、血液
ことが使命ですが、更にすすんで当病院で何がで
内科や泌尿器科の専門医、総合診療科専門医や他
きるのか、医療ニーズを掘り起こすことも大切だ
施設の医師のご協力等、多くの方々の支えの下、
と思っています。余市では治療できないことだと
運営されています。私達看護スタッフは、地域病
あきらめて、小樽や札幌に行っている疾患が、実
院の玄関として患者様・ご家族様に来てよかった
は当病院で普通に治療可能であったり、病院に来
と感じて頂けるように看護スタッフ一同、笑顔と
ることで予防や治療のできる、疾患を抱えていて
優しさを大切にし、又、急性期医療に対応できる
も知識がないために放置されていたりする患者さ
ように業務にあたっています。当院の外来は待
んがかなり存在するという現実があり、そういう
ち時間が長いと評判のようです。今の外来の課
患者さんに病院に来てもらえるようにするにはど
題は、どうしたら待ち時間が短縮できるか、そ
うしたら良いのか。つまり病院で待っているので
して、待ち時間の有効活用法です。これからも余
はなくこちらから地域住民にアプローチしていく
市協会病院の一員として地域に貢献していきたい
にはどうしたら良いのか。病院職員の創意工夫と
と思います。
情熱で病院として地域に還元できるよう、次の
80周年を更に良い病院として祝えるようにして
いきたいと思います。

70 th
Anniversary
透析センター
手術室
師 長 森 靖 子
手術室 師 長 工 藤 千 春
開院70周年、旧病院からこの地へ移転20年を
手術室・中央材料室部門は現在、看護師3名・
迎え、その節目に職員として祝えることを嬉しく
看護補助者1名に加え臨床工学技士1名で、外科
思います。
・心臓血管外科・整形外科の3科の手術と中央シ
昨今の医療制度の変化とともに当院も、沢山
ステムでの院内の洗浄・消毒・滅菌を担当してい
の変化がありました。医師・看護師の減少から、
ます。
診療科の減少や療養病棟の閉鎖は辛い出来事で
この10年は科の減少や休診に伴い手術数も減
した。しかし、現在回復期リハビリ病棟の開設
少傾向でしたが、22年度より整形外科の手術も
等、変化に伴い地域への医療サービスの提供を
再開し、昨年度は460件にのぼる手術を行ってい
目指し邁進しています。
ます。
現在の透析センターでは、透析治療を受けてい
今年度は下記を目標に掲げています。
る約50名の患者様とお付き合いをさせて頂いて
1.患者様の不安軽減に努め、安全安楽を守る。
います。今後益々透析治療を必要とする方が増加
2.自己の体調管理に努め、安全な環境を整備す
すると言われています。安心・安全に治療が受け
る。
られ、生活の質が向上できるように支援させて頂
3.よりよい人間関係を作る。
きたいと思います。また、地域の皆様が、身近な
4.看護の質を向上させるため、自己学習を強化
存在と感じることができる病院づくりに貢献した
し積極的に研修会に参加する。
いと思います。
業務は患者様の「安全」「安楽」に重点を置
き、事故防止・感染防止のため、術前訪問や業
務の振り返り・確認を大切に考えています。今
後は、院内はもちろん地域の他の病院とも連携を
図りながら、地域へ貢献できるよう看護を展開し
ていきます。

第 1 病棟
第3病棟
第1病棟 師 長 吉 田 真 由 美
3病棟 師 長 中 島 久 美
私は、新卒から余市協会病院に勤め、今年で勤
この記念すべき年に職員として在籍出来たこと
続17年になります。新人の頃から、地域医療に
をスタッフ一同嬉しく思います。
携わる事ができて感謝しています。
第3病棟は以前より急性期の病院としての役割
最近は、慢性期の障害者病棟で勤務していま
を担い、現在でも一般急性期病棟として、入院患
す。院内の多職種との連携も必要ですが、更に
者の受け入れ口となっています。診療科は、外
院外での他職種との連携をとっていくことが必
科、整形外科、心臓血管外科ですが疾患で言え
要なのだと実感しています。
ば、総合診療科の入院もあり多種多様にわたっ
医療を提供しながら、日常生活を安心して送れ
ています。スタッフは看護師26名・准看護師7
るような看護の提供と、根拠ある看護について考
名・介護福祉士1名・看護補助者6名です。大半
え、学び続けていきたいです。
が20歳前半の若手ということもあり、元気で明
今後も80年、90年、100年と、余市協会病院
るい病棟です。「笑顔と優しさを大切にし、温か
が発展できるよう、貢献していきたいです。
い看護を提供する」、「看護行為の確実性と自己
の健康管理をし、安心・安全な医療を目指す」を
目標に、日常生活のケアをはじめ、手術・検査・
処置などの業務は多忙ですが、忙しさの中にも笑
顔を忘れず、若者パワーを取り入れながらスタッ
フ一同目標に向かい努力しています。

70 th
Anniversary
【診療技術部】 薬剤科
科 長 山 田 良 治
科 長 本 間 智
現在薬剤科は薬剤師3名、医療助手2名で業務
私が、勤務しました昭和59年頃の当院は、ア
を行っています。10年以上前には院内薬局で外
ナログ画像が中心で、CT装置も無く、もちろん
来、入院の調剤を行っていたため薬剤師が5名勤
MRI装置(その頃はNMRと呼ばれていました。)
務していましたが、現在は院外処方となり入院業
は大学病院で稼動し始めた頃でした。今では、博
務のみ行っています。この10年間を振り返り、
物館行きとなる装置ですが、その当時では画期的
外来調剤が院外処方へ移行し入院調剤のみとな
な血管造影撮影装置・Heガス気圧式自動注入装
り、病棟業務、注射無菌製剤、外来・入院抗癌剤
置・多軌道断層撮影装置等が、地域医療中心の余
混注業務へと業務を拡大してきました。しかし、
市病院に導入されていた事には大変驚かされまし
その間、薬剤師が退職し、2名体制での業務を余
た。医療機器だけではなく、それを使う技師の
儀なくされました。平日勤務にプラス休日勤務を
知識、技術の向上を常に心得て「余市でも都市
2名で数年間行ってきましたが、1年365日×数
と変わらぬ医療を」今でも受け継がれている目
年を2名で乗り切る事は肉体的・精神的につらい
標です。
時期でありました。今現在、薬剤師の勤務先とし
現在は、放射線科領域においても特に医用画像
ては調剤薬局の人気が高く、病院薬剤師はあまり
診断装置の飛躍的な進歩でアナログからデジタル
人気がなく、採用募集をしてもなかなか希望者が
化へとめざましいものがあります。余市病院が5
来ませんでしたが、幸いなことに1名の薬剤師を
カ町村の救急を担ううえでも、画像診断は必要不
採用する事ができ、現在に至っています。
可欠なものとなっています。日頃携わっている私
世の中では今年から6年制卒薬剤師が卒業して
達診療放射線技師も、より精度の高い画像情報の
社会人として働いておりますが、我々3名のベ
提供のできるよう努力し、より信頼されるチーム
テラン4年制卒薬剤師も若い薬剤師に負けない
医療人への誇りを持って真剣に取り組んでいきた
よう自己研鑚、体力増進に励み、患者様から信
いと思っています。
頼される薬剤師を目指し業務に取り組みたいと
思います。

診療放射線科
臨床検査科
リハビリテーション科
科 長 赤 堀 紀 代 世
科 長 舘 澤 吉 晴
現在、臨床検査科には臨床検査技師5名で、生
私が余市に転勤して来てから早12年が経ちま
化学・免疫血清・血液・凝固・輸血・一般・生理
した。十年一昔といいますが、今やもっと時間の
(心電図・ホルター心電図・呼吸機能検査・ABI
加速が進んでいるように感じます。当時、リハビ
・心エコー・頸動脈エコー・脳波・誘発筋電図
リテーション技師長の腰越正男先生とともに理学
等)・細菌検査・外来採血等を行っています。
療法士2名、助手2名、そして言語聴覚士1名と
この17年間、新人が入ってきていませんので、
少ない人数ながら和気あいあいとリハビリテーシ
新しい風を誰もが求めている状態です。ここ10
ョンを地域の住民の方々に提供してきました。趨
数年で、患者様とコミュニュケーションをとる機
勢ともいえますが、現在は理学療法士6名、助手
会が増えてきました。それまでは検査技師が患者
1名、作業療法士3名、言語聴覚士3名と、計
様と接するのは生理検査」くらいでしたが、現在
13名のリハビリ・スタッフとなりました。
では外来採血・健診業務・糖尿病教室・健康教室
2013年度、更にスタッフが増員となり回復期
など年々多くなってきました。最初は、患者様へ
リハビリテーション病棟が開設される予定です
の接遇は大変難しく、教科書どおりにはいかず、
が、より地域住民の方々にリハビリテーション
ご迷惑を多々お掛けしたのを覚えています。今で
を提供できるようにと頑張っているところです。
は、冗談を言い合ったり、笑ってお話ができたり
吉田院長、野水副院長とともに、更なる地域に
と地域に合った接遇が少しは出来てきているので
根差した医療、リハビリテーションの充実を図り
はないかと思っています。
邁進していく所存です。
今後は検査科に閉じこもることなく、医師や他
のコメディカル・事務職員とコミュニケーション
を積極的にとり、“チーム医療で欠くことのでき
ない検査科”を目標にがんばっていきます。

70 th
Anniversary
栄養科
室 長 本 間 立 子
主 任 古 川 徹
栄養管理室は、栄養管理などの業務は病院がそ
当院では、平成15年12月より透析室が開設さ
の他労務は委託として進められています。以前は
れ、それに伴い臨床工学技士が採用になったのが
「厨房」の標榜に仕事の内容がすべて含まれてい
始まりです。人工透析室の業務を主に行い、体重
たと思いますが、その後“栄養科”“栄養管理室”と
・血圧測定から穿刺・返血など患者様の近くで治
の名称の変遷に時の流れを感じます。新人栄養士
療に深く関われるよう日々努力しております。そ
の頃は病態別食事管理と食事の“美味しさ”“季節
の他、高気圧酸素治療もおこなっており安全に治
感”“行事食”“嚥下状態”など献立作成の条件の多さ
療が行えるように努めております。
に悩みの山でした(現在進行形ですが)。患者様
平成23年4月より医療機器安全管理室を立ち
の「美味しかったよ」「退院決まりましたありが
上げ、人工呼吸器や院内の医療機器の管理を行
とう」の言葉に励まされ、勇気づけられ、院内外
い、トラブルを未然に防ぐように使用前、使用
でお会いした時にも「頑張ってますよ。栄養士さ
後の点検を行っております。ドライバーを片手に
んも頑張ってね。」「今日の検査値は~」など笑
部品交換を行う事もあります。現在、臨床工学技
顔で声をかけて頂きコミュニュケーションの大切
士としては比較的新しい分野である手術室や内視
さを学び、ゴールのない仕事に向き合っていける
鏡室などにも関わり始めています。今後、技士と
力を頂いたと思います。利休百首に「稽古とは一
看護師のそれぞれの特色を活かして業務を発展さ
より習い十を知り、十より帰るもとのその一」と
せたいと思います。また、血液浄化治療の幅も広
の言葉があります。解釈は多くあると思います
げられるよう努めてまいります。院内のあらゆる
が、栄養管理室も多くを学びながらも基本を振
職種の方々と連携を取り、依頼に対して迅速に対
り返り、すべての世代で「健康は食事(食べ物)
応できるよう臨床工学室一丸となり邁進していき
から」との思いを栄養士としてしっかり受け止
たいと思います。
め、これからも、食の安全、安定に緊張感を持
ち、患者様の治療、健康への一助となれるよう
研鑽をつみチーム医療の一員として社会のニー
ズに即応し行動できる栄養管理室でありたいと
思います。

臨床工学室
【事務部】 総務課
財務・管財課
課 長 大 津 昌 文
課 長 野 中 英 寿
総務課は、私の他、職員1名、パート1名の3
余市病院開院70周年に際し、財務・管財課か
人体制です。主な業務は、患者様や職員に色々な
ら寄稿させていただきます。
情報をお知らせする事、給料計算や様々な手続き
ちなみに財務・管財課の業務内容はいわゆる経
関係、大学医局や役所関係とのやりとり等です。
理全般の業務、物品・備品の購入・管理及び施設
時には、想定外の出来事も対応します。このよう
の保全等に係る業務となります。
な時は、全員で知恵を出し合いながら解決するの
さて、開院70年と言っても、旧病院(大川
ですが、不安と焦りで何とも言えない気持ちにな
町)より現在地へ移転したのが約20年前、それ
ります。終わってしまうと、達成感が大きく、楽
より更に50年も前というとで、旧病院の跡地し
しかったと思えたりする事もあります。
か見たことのない筆者には感覚的にはあまりピン
当院が地域の基幹病院として住民に良い医療を
とこないのですが、書類保管室にある永久保存の
提供する為に、病院スタッフをサポートするのが
黴臭い書類(和紙状の書類に毛筆で記載された申
総務課の大きな役割と考えます。サポートするに
請書や辞令・手書きの計算用紙による帳簿等)か
は、我々が元気で明るく接する事、次に色々な知
ら歳月の経過と当時の仕事の雰囲気を何と無く感
識がある事、そして、柔軟な考え方で対応する事
じることができます。
だと考えます。院内では、各種勉強会が開催され
少し前までは、ワープロが便利なツールとし
ているので、出来るだけ参加し、色々な知識を得
て、もてはやされていたような気がしますが、
て、他職スタッフと協力し、病院運営に参加して
今の主流はコンピューターで、携帯にしても、ス
行きたいと思います。
マートフォンに移行してきているように、30年
後に開院100周年を迎えるころ(筆者は退職して
いますが・・・・)にはどのようなシステムが業
務や日常で主流になっているのか興味津々ではあ
りますが、まずは現行のツールを効率よく活用
し、業務を機能的にこなしていければと考えて
おります。

70 th
Anniversary
医事課
課 長 藤 田 美 帆
施設係 係 長 泉 谷 忍
私は昭和60年4月に入職し早26年余り、70年
私は、平成6年12月に縁があり余市病院施設
の約3分の1を病院と過ごしたことになります。
係に勤務することになり、早19年、平成25年3
入職時の家庭的な職場の雰囲気が大好きで、結
月で定年を迎えます。その中で大きな出来事は、
婚・出産後も退職は考えず、今まで頑張れたの
平成7年2月余市川汚水事故でその対応に大変
だと思っています。新しく眩しかった新病院への
だった事、台風での停電、落雷による停電等、
移転を経験し、レセプトは手書きから電算化ま
色々なことが思い出されます。何とかその事を
で、医事職員として良い経験を積むことが出来
乗り越えてこられたのも、職員が一致団結し対
ました。ここ20数年、政策による診療報酬改定
応にあたってくれたからこそ、乗り越えられた
を通しての大きな変革期の中で、療養病棟開設、
と思います。深く感謝申し上げます。余市病院
院外調剤、中央カルテ化等々、当院も様々な変化
には職員が一致団結知れば何でもできる力があ
を遂げています。そんな中で、電算化に伴い診療
ります。又、平成24年院長の年頭の挨拶の中で
報酬点数は複雑化され、医事課の業務も多様化し
「職員の求めるもの」を提言されました。1「患
ています。効率的に収入を上げるために、常に前
者の笑顔」、2「地域への貢献」、3「自らの
を見据え医事課が各部署のまとめ役として中心に
幸せ」この3つの求めるものを心に留め、仕事に
立てるよう、皆で協力し話し合える、楽しく仕事
役立てることにより、医療業界の厳しい荒波も乗
のできる職場にできたらと思っています。そして
り越えることができると信じています。その1つ
基幹病院である余市協会病院を町民から信頼され
として、回復期リハビリテーション病棟開設も大
る本当に良い病院にしたいと、一町民として、一
きな意味があると確信しています。
職員として、心から思っています。80周年まで
は私も、微力ながらまだまだ頑張っていけそう
です。

施設係
編集後記
余市協会病院設立70周年記念事業を締めくくる形で、この記念誌を発行することにな
りました。実行委員会で記念誌の構成と執筆者依頼のリストを検討し、原稿を依頼いたし
ました。病院の沿革をまとめるにあたり、病院に残る資料からたくさんの貴重な写真が発
見されました。ここに一部掲載いたしました。
原稿に関しましては、多くの病院OB・OGの諸先輩方から快諾をいただき、早々に原稿
を送っていただいたことを心より感謝いたします。
北海道社会事業協会 髙橋透理事長からの応援メッセージに続き、吉田秀明病院の「余市
病院との出会い」でかつての余市病院の姿をおぼろげながら想像することができました。病
院職員の各職場からは、余市病院の現状と今後の展望について書いてもらいました。余市
病院の明るい将来がみえてくるような気がします。
最後に、70周年記念行事に参加していただいた多くの方々、とりわけ各プロジェクト
の中心となって活躍してくれた実行委員の方々に心より御礼申し上げます。
平成25年3月1日
開院 70 周年記念行事実行委員会
委員長 野 水 眞
70 周 年 記 念 行 事 実 行 委 員 会
委員長 野 水 眞
委 員 菅 原 昭 洋 加 藤 健
本 間 立 子 佐 藤 圭 子
本 間 智 藤 田 美 帆
舘 澤 吉 晴 野 中 英 寿
赤 堀 紀代世 大 津 昌 文
工 藤 千 春
開 院 70 周 年 記 念 誌
発 行 日 平 成 25 年 3 月 1 日
編 集 記念誌編集委員会
発 行 開 院 70 周 年 記 念 行 事 実 行 委 員 会
印 刷 株式会社 毛 利 印 刷

70 th
Anniversary
募集
北後志の地域医療を共に守りましょう。
医師・看護師・PT・OT募集
詳しくは病院のホームページをご覧下さい。
http ://www.yoichi-hospital.com