調性空間としての臨床 April 25, 2016 itabashi 1.ピタゴラスコンマ

調性空間としての臨床
April 25, 2016 itabashi
1.ピタゴラスコンマ(Phythagorean comma)
数理の人ピタゴラスは、モノコード(一弦琴)を用いて、弦の単純な整数比が協和音を
与えることを発見した。1/2がオクターブ、2/3が五度、3/4が四度、4/5が三度、9/8が全音で
あり、感覚と数理の一致である。ここで整数比は振動比を与えている。振動数1/1のユニゾ
ンは完全に協和する。振動数2/1のオクターブも協和して聴こえる。振動数3/2の五度、4/3
の四度は〈うなり〉のない協和した音程であり、それぞれ「純正」(just)と形容される。
〈単純な比率の音程ほど、より協和してきこえる〉。──ユニゾン、オクターブはもっと
も協和しているが、純正五度、純正四度と単純さが低くなるにつれて、協和性の度合いも
低くなる。協和性という視点に立てば、純正五度、純正四度および八度の三つだけが正し
い音高を与える音程であり、それ以外の音程は楽句における経過音となる。
2/3という素朴な整数比が与える純正五度が母なる音程である。この純正五度を積み上げ
て行くことで、音列を得ることができる。その最初の五つの音CGDAEをもって、素朴なサ
ウンドを与える五音音階(pentatonic scale)C-D-E-G-Aができあがる。それは操作的ではな
く、民衆の節回しのなかで自ずと音階として定着して行ったものと推測する。各音程間の
広さと狭さに対しては風土的音響つまり自然音が重要である。たとえば琉球音階はC-E-F-G
-Bの五音音階であるが、広さのなかでE-F-GとB-Cといった音の流れ(流麗な走句)が風土
的な印象を与える。
純正五度を積み上げて得られる最初の七つの音C-G-D-A-E-B-F#を音階上に並べて、F#をC
への純正五度Fに置き直すことで、「ピタゴラス音律」が得られる。純正五度の積み上げ操
作を「上下反復原理」と理解する。古代中国では竹管を三分の一短くする(三分損)こと
で純正五度上げる、あるいは三分の一長くする(三分益)で純正四度下げるといった操作
によって規定の音高を得て、それらによって音律を作り出す「三分損益法」が用いられた。
東西の両者は同一の自然的発想にある。純正八度と純正五度は基音の自然倍音となって共
鳴しており、耳を頼りにそれを探り出して、素朴な音律としたのである。
ところが純正五度を12回積み上げて得られる音程B#はCと一致しない。調和を積み上げ
るだけでは、調和の環は完結しない。このB#はCよりも24セント(1オクターブを1200分割
した音程単位)だけ高い。これがピタゴラスコンマ(ずれとしての微分音程、予定調和の
断層)である。先のピタゴラス音律では、純正五度からこのコンマ分外れた五度がどこか
にできてしまう。そこにはウルフトーン(狼の遠吠え:うなり)が発生する。さらに純正
三度5/4=80/64よりも高い三度(C-E)81/64という不完全協和音が発生してしまうという二
つの問題が生じた。
それにしてもピタゴラス音律の四度は美しい。時代を遡り、四度の音域のなかに音の群
を配列したものとして、古代ギリシアにテトラコード(四音配列tetra-code)という規則単
位があった。それには全音(diatonic)、半音(chromatic)、微分音(enharmonic)をそれぞ
れ固有に抱え込んだ三つのテトラコードが存在した。微分音とは半音のさらに半音つまり
四分の一音のことである。半音と長三度を分離型で組み合わせた五音音階では、狭さと広
さの著しい不均衡と偏りが存在しており、そうした音階による旋律の響きはとても秘儀的
である。さらに官能的な縦笛アウロスが、こうした音程感をより微細に変化させた。その
帰結が微分音を奏でるテトラコードを結合した音階構成であった。微分音は縦笛の指孔を
加減することで得ることができた。精妙なる微分音のつづれ織り。微分音は単なる経過音
ではなく、旋法を作るための重要な契機であった。微分音を聴き取ることで、より一層微
.....
細なところへ思いを寄せて、世界に分け入ることができる。おそらく音そのものの世界へ
の響き方を十全に聴き取るために、微分音といった差異の感覚が必要であった。ところが
古代ギリシアが作り出した微分音は、数理的調和の絶対化のなかで西欧から閉め出され、
周辺の西アジアへと伝播されることになる。
音の調和単位の発見が、一方では感覚的な微分世界の探求に、他方では数理的な積分世
界の構築へと展開した。前者は質料同志の調和の圧政を逃れて行くものであり、後者は質
料同志の調和に君臨するイデアであるといってよいのかも知れない。
2.ミニマルミュージック(minimal music)
純正五度に基づくピタゴラス音律は、中世まで東西の音楽に君臨した。その傍らで異質
なケルト民族は純正三度の音律を固有に持っており、それがイギリス経由でルネサンス期
に輸入されると、純正調の全音階すなわち純正律(just intonation)が台頭してきた。ラモス
の音律と呼ばれるもので、後にそれが古代ギリシアにおける全音の四音配列に一致してい
ることが再発見された。調和単位への復帰であり、純正調の方向が決定づけられた。時代
は旋律の多声から和声へと変化しており、倍音(overtone)に加えて差音(difference tone)
の音響現象も発見された。しかし発展する和声様式に楽器が追随できなくなる。
そこで純正五度に少しの「調整」(temperament:妥協)を施すことになった。それがモ
ーツァルトの好んだ中音律(meantone system)である。この音律では、ある五度にウルフ
トーンが発生するが、その代わりに美しい純正三度が確保された。ピタゴラス三度とこの
純正三度との差81/80(syntonic comma)は純正五度に分散吸収させた。DがC-Eのちょうど
真ん中(mean)に来るので、この音律名称となった。これらの結果、たとえば和音CEGな
どにおいて、純正三度C-Eとウルフの五度C-Gの混在に独特の味わいが得られるため、ウル
フトーンはバロック様式としての人間的感傷あるいは感情過多(empfindsam)といった様相
を表現するものとして音楽のなかで用いられた。
より近代的な「調整」律として、「平均律」(well-tempered)が現れた。ここではウルフ
は解消され、音程は均質化されたため、転調が容易となった。転調における調性(tonality)
とは、ひとつの主音(tonic)に関係づけられる音の組織体の特性をいう。調性は音律とい
う分節構造をそれの客体としていた。転調を自在に操作できる平均律は鍵盤楽器には最適
な音律となるはずであった。だがそれは決して耳には快適な音律ではない。それは和声的
音楽空間に明示的な楽句(point)の位相を設定し操作するための音律秩序であり、ここに
均質なスコア空間という知的対象物が出現したといえる。引き替えに、平均律によって調
性は崩壊した。その後ドビュッシーは全音音階(wholetone scale)を考案し、シェーンベル
クはついに無調の十二音技法に至る。特に後者の前衛音楽家には調性と旋律、協和音への
敵意がある。
前衛音楽への反動として、ミニマルミュージックが台頭する。そもそも生活のなかに響
いている音とくに持続音(drone:持続低音)を意識し、その響きのなかに存在する自然倍
音に耳を傾けることで、自然倍音列やさらには純正律が音色として蘇ってくるものである。
創始者のヤングは、幼少期から郷里のアイダホ広原に張られた送電線が風に鳴る様々にう
なる音を耳にしてきた。それは自然が作り出した風琴であり、大平原に張られた一本の弦
(monochord)であった。うなり続けるドローンの響きは、多様な倍音と純正音を生み出し
て行く。その倍音どものゆったりとした移り変わりは、人の声のような抑揚となって聞こ
えるという。
ミニマルミュージックは、通奏する持続低音の上に短い音型を反復させて、その抑揚を
少しずつ変容させる様式である。音の動きは最小であり、そこにおいてかすかな変容とそ
の予兆を聴く者の耳は、次第に研ぎ澄まされて行く。音楽という一個の意識が何かを探求
し、追求しているかのようである。そのとき意識は浄化され、協和世界の至福に満たされ
る。耳の感覚が取り戻される。一本の弦の鳴る響きをゆったりと繰り返し聴き込むことで、
意識に変容と浄化が訪れる。
3.自らの声を聴く
自らの声を聴くということは、発声の制作の現場に立ち返り、繊細な感覚をもって自ら
の声に同調し、その場に現前する自らの声とその変容物(再現前および代行的音声)のす
べてを聴き取ることである。音楽でいえば、微小表象である微分音の蠢く音空間へと一歩
分け入ることで、改めて調性の具体化として出現しているユニゾンや純正音程を聴き取り、
それがひとつの音の絶対性に亀裂を生じさせつつ主音とともに作り出している調和の色調
に触れることである。これは秘儀ではない。自らの声が置かれる場とは、本来の無限定で
豊饒な空間そのもののことなのだから。自らが自らの声に触れる(聴く)とき、その空間
において「主音」が自己形成され、自然的に「純正律」が立ち上がる。それは音域の中原
を人為的に均質に区分する「平均律」とは随分異なる。場は感性世界において「純正律」
をもって自ずと限定され、それに基づいて「調性」が自己決定される。
西田は、実践的行為と直感的認識の同時的結合を、「行為的直観」と呼んだ。行為的直
観的に物を聴くということは、「世界の生産様式的に物を把握する」ように物を聴くとい
うことである。「直観とは唯我々の自己が世界の形成作用として、世界の中に含まれてい
るということでなければならない」。そして「世界は無限なる表現作用的個物の否定的統
一として自己自身を形成し行く。かかる世界において個物が世界の自己形成を宿すという
時、個物は無限に欲求的である。我々が欲求的であるということは、我々が機械であると
いうことでもなく、単に合目的的ということでもない。世界を自己の内に映すということ
でなければならない。世界を自己形成の媒介とするということでなければならない」。実
践的行為的自己とは、「世界のなかに現実存在するようなものの現前性であるのでは決し
てなく、それ自体がイデア的であるようなもろもろも反復作用と相関関係にある」(デリ
ダ)といえる。
「対象のイデア性とは、対象の、非経験的意識に対する存在であるから、それが表現さ
れうる場は、その現象性が世界性という形式をもたないような場にほかならない。声とは、
そのような場の名称である。声は自己自身を聞く。音声的記号(《聴覚映像》、現象学的
声)は、この記号の現前の絶対的近さにおいてこの記号を発する主観によって《聞かれ》
る」。──なるほど主観である私という自己は、原義的に絶対的に近いところで自らの声
を聞いている(すでに触れている)。そしてその声は、対象のイデア性を随伴的に読み上
げているといえるだろう。そのような「現象学的声」といういわば干渉的な言語映像を貫
通する、ひとつのリアルな声が存在する。それは世界の自己形成の源流として、原器とし
ての素材となって存在する。このひとつの声は純正音程を派生させる基音(unity)として、
世界身体のなかに、それを統括するものとして、出現と同時的に設定される。それは多声
(polyphony)ではなく、一声(monophony)である。しかも世界を自己の内に映す一声で
ある。このひとつの声の実在の響きを聴け。この声がそれへの同調に沿って自己形成され
るところの世界身体を、「場所」(西田)と読み替える。基音は場所の自己限定であり、
世界をも宿すところの、遠く根源からの流出なのである。
「自己を無として、世界の中心から自己を見る場所的限定」という視点に立てば、創造
的自己形成におけるひとつの声と、対立的場所(対位法)における多声とでは、自己創造
の源泉からの流出の上流と下流、それの主体と客体ほどの差がある。「対立的無の場所、
即ち単に映す鏡から、真の無の場所、即ち自ら照らす鏡に到る」。──スコア空間は対立
的場所として単に映す鏡であるが、差異の感覚が蠢く微分音は対立的無の場所の謂々であ
る。そこから真の無の場所、即ち自らが自らの声を照らす鏡、すなわちひとつの声が自己
形成される場所であり、ひとつの声を聴く場所に至らなければならない。もとより遠く超
越的一者への帰還は、「それ自身の方を振り返って完全に見る」(プロティノス)ことで
あった。それから流出するひとつの声は、世界をメタ化運動させるという自己回帰的創造
的契機を孕んでいる。音楽の生産様式の流れは純正律を通過して、音楽機構に基づいた構
成的作品化に至る。
自らの声を聴くことは、それを含む世界の生産様式において聴くことであった。すでに
私は語りつつ、自らの声を同時的に聞いている。すでに語られた自らの声は、実践的行為
として世界の自己形成を宿している。世界の自己形成は場所の限定として行われるが、そ
れの奥深く匿われた意味は無である。無の場所の自己限定において卒然と有が顕然すると
き、ユニゾンや純正音程が現れる。そして生命の色彩感とともに調性が現れる。そのよう
な秘蹟を訪ねるべく、非純正音程と多声によって干渉され汚染された現実から逃れるよう
に、身体と自らが同調する自らの声への探索へ向けて、差異と微分音の不安定な揺れのな
かを敢然と遡行する。倍音への憧憬が差異の彼岸にひとつの声の存在を夢想し続けるのか、
あるいは差延の暗澹たる現実に向き合い続けるのか、それはわからない。このように自ら
の声を聴こうとする者は、相手に対しても非経験的に声を聴くことの途上に在る者である。
4.調性空間(modulatory space)としての臨床
この人の「主音」は何なのか?つまりこの人の思いの原点は何なのか?──自身の声を
聴き取るように、微分音の揺れのなかから、この人が語り出そうとしているひとつの声を
聴こうとする。それが〈臨床のモノフォニー的態度〉である。それへと思いを寄せること
で認識の場は優しい調子となり、それがこの人の夢想する同調世界とその調性の色調がま
さしくこの人のこころの調子であることの理解へとつながる。そして集約的にこの人の同
時的な叫び(倍音overtone:ユニゾンとオクターブ)とささやき(純正音)を聴くことがで
きる。
だがこの人の調律世界は現実のそれと祖語が生じているだろう。現実の調律世界は格子
状の平均律のようなのだ。それゆえ敢えて人は音程を歪ませ、ついに調律それ自体を歪ま
せる。そして表現法を固有に変形生成させる(transform)。ここに見られる音程の過密と過
疎は、かの四音配列の展開のように見える。ここで過密な場所の微分音、少しの違いの重
要さを聴け。そして表現の過疎と空白は、不在の純正音程の派生場所であったのかも知れ
ない。それらから疎外されて、唯々この人は持続音を発生させ続ける客体となっているの
かも知れない。この人の持続音から、微分音と自然倍音を聴き取るように。そしてこの人
のレパートリーとそれの限界(倍音が響かず、ゆがんでしまう)を聴き取るように。人の
表現の微分音を聴くことは人の個性の場所においてそれを正しく認めることであり、人の
表現の自然倍音を聴き込むことは人のこころを治療することである。
転移空間において、いくつかのゆがんだ感情楽句が位相として独立し確立されることで、
それが水平の流れにおいて時空を超えて模倣され反転し反復する。そうした転移空間はま
さしく対位法空間である。さらに主観的調性が設定されることで転移空間は日常の人の臨
床空間となり、具体的他者を取り込んだ和声的対位法が世俗的に協働展開することになる。
これが治療者、患者の居場所でもある「調性空間」である。それは恣意的転調を好むと同
時に、他者によって調性を操作されている。
こうして「調性」が設定された後の「人格」による臨床問題の〈主題と変奏〉が、〈調
性空間としての臨床〉を与える。それは世俗の興行のなかで、次第に響きを曇らせて行く
だろう。それを「平均律」の格子にはめ込んで、過不足要素を削ぎ落とすことも、たやす
いだろう。だがそうはしない、自らの声を聴き取るようにひとつの声に思いを寄せるなら
ば。そして、おそらくは音楽という、凡庸さを微分音が侵犯しイデア的調和が回収する光
景に魅了され続ける夢想から目を覚まし、純粋認識に至るべきであろう。聴くことの音楽
的楽しみは捨てて、まなざしをもって向き合い、見ることの真剣さに戻るべきであろう。
5.追加
私は研究会の夜に夢を見た。
──「今から面白いことをしますよ」と言いながら、彼は山間の急斜面へと颯爽と飛び
出した。がれ場に遊ぶ猿飛佐助か八艘飛びの義経か、彼は身軽に次々と断崖に飛び移って
行った。飛び移る箇所には文字を書いた紙面が張ってあった。彼は飛びつくやその紙面を
つかみ、また対岸に飛び移る。それを繰り返した。ところが大きな紙面をつかみ読み上げ
ようとしたところ、足場が崩れ転落してしまう。彼の身体はゴムまりのように大きくはじ
き飛ばされ、急斜面に叩きつけられた。それでも彼はふらふらと立ち上がった。その後、
彼は生存できていたようで、温泉場のシーンとなる。一つ目の温泉は忘却された。二つ目
の露天温泉には「八高」と書いてある。私は夢のなかで、八王子の高湯(福島市内同名の
温泉があるが、夢の光景ではそれは恐山温泉を彷彿させた)かと考えた。
──おおらかなマクロコスモスは、すでに小賢しい人間の日々の営みをそれの宇宙像の
なかで捉えている。地上空間もまた宇宙空間である。そのなかで夢もまたマクロコスモス
の語法で語られており、世俗世界の記憶を宇宙像に反射させている。ルネサンスでは、人
間の個別性は非常に深く隠されているため、それの同一性が現れ、マクロコスモスに秩序
や象徴を与える星となって現れるには、一個の人生よりも多くの時間がかかると考えられ
た。そうした同一性の代償として、あるいはマクロコスモスが見えるものとして、世俗世
界の素材を活用して布置状況すなわち宇宙像としての星座を形成する。ここに出現する聖
性は象徴機構空間に特別に宿るコーラの質感である。
ここにおいて、私は二重の不足を夢にからかわれている。ひとつは布置状況の形成に代
償されたという現実の象徴機構不足。もうひとつは主題を与える内容不足。踏み込んだ解
釈は控えるが、私は自らの転移空間であるこの夢によって反省を促された。そう彼はメモ
のような文章をつかみ、また別の場所のメモに飛び移る。聞き手もきっと跳躍が必要であ
ろう。文章は一貫して構築されるべきだという夢からのからかい、だが書字ではこれでよ
いのだという我意。不活発期での忍耐を欠いた活発な跳躍者の顛末は、丸ごと落下と快楽
原則そのものの軟着陸。そう一個の人生までもが、ただ結び合わせているだけの好事家風
のそれの真実底までもが、夢の掲示板に反射されている。最期の張り紙の書字は思い当た
るところのひとつのトポスを示すが、そもそも夢は重層的に意味を構成し、重層性そのも
のが夢における形式的な星座を作り出していた。断崖のスリリングな微分音の夢から覚め
て、温泉の静かなオクターブの夢のなかで、そういずれ音どもの奏でるオクターブのなか
で聖性の眠りに着けとでも?
文献
・藤枝守著「響きの考古学」音楽之友社1998(本書の記載から多く引用させて戴いた。感謝
致します。)
・玉木宏樹「純正律は世界を救う」文化創作出版2002
・西田幾多郞「絶対矛楯的自己同一」岩波書店1989
・西田幾多郎「場所」岩波書店1987
・デリダ著、高橋允昭訳「声と現象」理想社1970