130 年史原稿(仮) ワンダーフォーゲル部 ワンダーフォーゲル部の歴史は 1951 年 10 月に始まる(運動会への加入は 1961 年) 。本 部の名前はドイツで 19 世紀末~20 世紀初頭にドイツで始まった山野を徒歩旅行する青年活 動である「Wandervogel」に由来する。 「Wandervogel」のドイツ語の意味をそのまま解釈し、 『未知の物に憧れ、旅をする「渡り鳥」 、自由人の集まり』として名づけた。 もともとは 1950 年頃から旅行会社の添乗員のアルバイトとして集まった学生が八ヶ岳や 甲斐駒ケ岳、尾瀬へと登山をしていく中で出来上がった同好会であった。そして 1951 年(昭 和 27 年)10 月に山上御殿で発足式を実施し、同年 11 月末にワンゲルとしての初の山行を 裏高尾にて実施した。この登山には 20 人くらい参加したようである。この当時の同好会参 加者は登山部的な活動・トレッキング・ハイキング・観光旅行などの様々な活動を行い、 また同好会に対するイメージも高原・奥秩父・八ヶ岳等の登山と秘境・僻地を「何でも見 てやろう」との探検部的なイメージであった。なお発足当初から運動会に加盟するかどう かという議論があったようだが、この当時は運動会への加入に否定的な者が多く参加の申 請を見送っている。 本格的な活動が始まったのは 1952 年からである。この頃はまだ戦争後の物資が不足して いた時代であり、現在の我々から見ると貧弱な装備で登っている。例えば登山靴は地下足 袋や運動靴、アメリカ軍の放出した靴などである。服装も角帽に学生服で山に登る人もい るようである。リュックサックに至ってはキスリングは高価だったので、どこの家にも必 ず1つはあった買い出し用のリュックを使用していたようである。また活動の中心も駒場 にあり、本郷と駒場の学生は別々に活動していたようである。この当時に行った山域には 北アルプス・南アルプス・奥秩父・丹沢・蔵王や磐梯山などの東北地方があり、どのよう なルートであったかは不明ではあるが、現在のワンゲルの活動でも頻繁に行く山が多数含 まれている。但し、現在のワンゲルでは活動として主に「道(登山道に沿って山を登る活 動) 」 、 「藪漕ぎ」 、 「沢登り」 、 「冬山」の4つをメインの活動として行っているが、この当時 は「道」の活動が大多数を占めている。 1954 年頃になると高校の山のクラブ出身の人が入ってくるようになり、山行中心の体制 へとシフトした。同好会が設立されて以来、本同好会は山岳部的な登山を好まず、縛られ ない山歩きを楽しみたいという面々が中心であった。そのため合宿的な山行への参加も義 務付けておらず、逆に部外の人の参加も歓迎するサロン的な雰囲気があった。また山行も 少数の人数で、小ぢんまりとした山行を楽しむという雰囲気であった。しかし昭和 30 年代 ごろから徐々に登山中心の同好会に移行し、折からの登山ブームの影響もあって入部者が 増加した。特に 1955 年は入部申込者が 150 人、歓迎山行参加者 46 人、夏合宿参加者 50 人 などのように人数が膨れ上がった。これによりそれまでのあいまいな組織体制から脱皮し、 サブリーダー陣の強化や合宿の制度化などが行われてワンゲルの組織力が向上した。 組織力の向上に伴い、合唱祭や合同ワンデリングの実施などの対外活動も行われるように なった。なお入部者の増加に伴い、同じ登山関係の活動を行うスキー山岳部との関係に微 妙な空気が流れていたが、こちらは表向きには「技術レベルの差で住み分けるから無関係」 との立場を取り、裏では幹部同士の接触により小康状態が取られていたようである。 1955 年には全日本学生ワンダーフォーゲル部連盟に加入し、理事校に就任する。すぐさ ま連盟内でリーダーシップをとるようになり、1959 年の全日本学生ワンダーフォーゲル部 連盟と関西ワンダーフォーゲル部連盟の統合に大きく貢献する。1957 年には学友会への加 入も実現するなど同好会としての地位を高めていった。また 1957 年にはそれまでの駒場中 心の活動から 4 年制の部の組織体制に移行し、最初の部誌である「山路」と山行記録であ る「ETWAS REPORT」が創刊された。特に「ETWAS REPORT」 (現 ETWAS)にはコースタイムや その山行中に起こった出来事などが克明に記載され、現役部員が企画を立てる際の重要な 資料として大切に利用・作成されている。このような流れの中で運動会への参加に向けた 風潮が高まり、1957 年に初めて運動会への加盟申請を行ったが否決されている(翌 1958 年 にも運動会への加盟申請を行ったが、このときも却下されている)。 運動会への申請が却下されたことと入部者の増加を受けて、より組織体制の強化が進ん だ。具体的には部の規約の制定、トレーニングの制度化などである。トレーニングの制度 化は部員の体力向上という面だけでなく、部の存在のアピールという側面も持っていた。 そのためワンゲルのゼッケンをつけた部員が大挙して走り、学内にワンゲルを宣伝すると いうことも行われたようである。また運動会への加入の実現のための実績作りも盛んに行 われた。前述の全日本ワンダーフォーゲル部連盟への役員の派遣、ワンダーフォーゲル部 10 年史の作成、OB 会の設立などがこの一環である。また皇太子殿下(現天皇陛下)のご成 婚をお祝いして連盟が行った大集会ではフラダンスを披露して拍手喝采を浴び、テレビで も放映された。さらに 1962 年の入部者が史上最多の 172 名になるなどしたため、そのマン パワーを生かして駒場祭では雪男の張りぼてを引いて渋谷まで練り歩き、観衆の喝采をう ける。そしてなによりも忘れられない活動として、沖縄遠征があげられる。当時の沖縄は 米国の軍政下にあり、渡航にはパスポートが必要であった。沖縄への遠征をワンゲルの正 式な企画として承認するための企画委員会では、政治的な不安定な状況下の中で様々な危 険があるとして長時間の議論が行われた。この不安は安保闘争の中で不幸にも具現化し、 渡航許可申請は却下される。この時に大きなお力添えをして下さったのが東京大学で総長 を務められていた茅誠司先生である。沖縄問題に並々ならぬ関心を抱いていた茅先生は当 時の部員を激励するだけでなく、沖縄遠征が実現するまでの間支援を下さり、結果として 予定より 2 ヵ月延期して実現に至る。これは部にとって海外遠征第一号であり、西表島横 断の快挙も含めて一か月をかけて沖縄各地を踏破した。そしてこの活動がきっかけとなり、 琉球大学ワンゲル部が翌年に創設され、引き続き県内の大学、看護学校、高校にも相次い でワンゲル部が設立された。琉球大学ワンゲル部では 40 周年を迎えた 2001 年の創設パー ティーにて部の前史を本沖縄遠征と位置付けて、紹介してくださったそうである。 組織の制度化や実績作りと並行して、ワンゲルの本質論について盛んに議論されたのも この時期の特徴である。部員が 100 名を超える状況の中でワンゲルの基本的なスタンスを しっかりと定める必要と、運動会への加入に当たってスキー山岳部との差異を打ち出す必 要があったからである。例えば、ワンゲルの本質論に大きな影響を与えた考え方として下 記のようなものがある。 「自然に浸り、融合し、働きかけ、その美と偉大さにうたれ、以て自己の個性を豊かにし、 失われつつある人間性を確固たるものにしなければならない。自然によって得たもの、学 んだものを最大限活用し、自己の精神を浄化し、人間形成への足掛かりとして、もって社 会の一員として立派な、自信にあふれた行動をとることの出来る人間とならなければなら ない」 (昭和 35 年卒部の小林弘氏が在部当時に書かれた論文より) 当時は山のテントの中でも、食堂や教室でも部員が集まれば本質についての議論が盛ん に行われた。様々な議論が数年に渡って議論された結果、議論の集大成として次のように まとめられた。 ・ワンダーフォーゲル運動は広く自然に接し、自然との調和を図り、そこから得られたも のを社会へ還元しようとする活動である。 ・ドイツで 19 世紀末に誕生したワンダーフォーゲル運動は昭和初年に体育運動として我が 国に移植されたが、山岳を神聖視する我が国独自の自然観の影響と、我が国の地理的条件 により、山岳を活動の主たる対象とするが、スポーツアルピニズムとは異なり、精神性を 重視する運動へと発展した。 ・我々はワンダラーの養成という役割を担い、独自性のあるワンデルングを実践するとと もに、ワンダーフォーゲル運動の啓蒙活動に取り組む。 以上のような組織整備、実績の構築、本質についての議論を数年かけて行った結果、執 行運営機関である総務部の永久直轄という形ではあったが、 賛成 22 票(内無条件賛成4票、 条件付き賛成 18 票) 、反対4票ということになり 1961 年に運動会への加盟が実現する。 運動会への加入と並んで 1960 年代を代表する活動に山小屋の建設がある。1960 年頃に部 結成から 10 周年を迎えるにあたり「何か後輩に残せるもの・我々の記念になるものはない ものか」と山行途上や部室内で議論になったのがきっかけである。山小屋建設の呼びかけ が 1960 年に行われて以降、毎月 OB と現役部員による山小屋準備委員会が本郷の学士会館 で行われ、5ヶ年計画で場所の選定・設計図の作成・資金集めが進行した。様々な候補地 の中から建設予定地に選ばれたのは新潟県にある巻機山の山麓であった。冬期に巻機山へ 登ろうとしていた部員が、巻機山のふもとの清水で民宿を営む雲天に宿泊したのがきっか けであった。そこで雲天の人の人柄や雰囲気に魅了された部員が清水に通い始め、巻機山 は小屋建設予定地の有力候補ではなかったものの、雲天で一夜を過ごして魅了された調査 班によって逆転採決された。設計時点では建築学科の部員が設計を担当し、部としても建 築学科への進学を推奨した。余談ではあるがこの結果、1960 年入学の建築学科の定員 40 名 中 7,8 名が部員であったらしい。さらに一人2回などのノルマを決めて建設予定地に毎週 のように部員を派遣し、スコップ、つるはし、モッコ、ロープなどを使って整地工事を行 った。また企業に勤めている OB に依頼して木材やコンクリートブロックといった建築資材 を安くまたは無償で提供してもらったり、建設会社に就職したばかりの OB が会社を休職し て3か月にわたり現場監督を務めるなど山小屋建設はまさに部を総動員したプロジェクト であった。資金調達においても OB 会から 55 万円の資金供給を受けたり、一流のピアニス トやバイオリニストを招いてコンサートやダンスパーティーを開催して資金調達を乗り切 った。この結果、1964 年に山小屋は完成し、 「巻機山荘」と名付けられた。これ以来、巻機 山荘は現役部員に活動の拠点として利用されるようになり、毎年のように巻機山荘を中心 と山行が企画されている。加えて春と秋に小屋ワークと称して下級生を中心に小屋に派遣 し、小屋のメンテナンスや前述の雲天のお手伝いを実施したり、地域の住民の方々との交 流を行っている。また現役部員だけでなく OB・OG も積極的に利用しており、OB・OG の同期 会の開催の場や年に 1 回開催される「小屋祭」という OB・OG や現役部員が一堂に会して親 睦を深めるイベントの場所となっている。昔は小屋がある清水にて「サマースクール」と 呼ばれる行事も開催されていた。これは清水にある「第二上田小学校清水分校」の小学生 向けに勉強を教えたり、スイカ割りや鬼ごっこ・野球などを一緒にやって清水の地域の方々 と親睦を深める行事であった。これは地域住民の方々に好評を得ただけでなく、ワンゲル 部員にも好評だったようである。残念ながら「第二上田小学校清水分校」はすでに廃校に なり、サマースクールが行われなくなってから久しいが、地域貢献という面からも有意な ものであり将来の部員の手によって復活させてもらいたいものである。 ところで小屋であるが 2009 年には 45 周年を迎え、南魚沼市長を招いて盛大に祝典が行わ れた。現在もメンテナンスや山小屋委員会によるイベントの実施が継続されて行われてお り、今後ともワンゲルの重要な活動拠点であり続けるだろう。 話がだいぶそれてしまったので、話を 1960 年代の活動に戻したい。1960 年代は基本的に 現在のワンゲルの活動が確立した年代と言える。既述の通り、我が部では「道」 、 「藪漕ぎ」 、 「沢登り」 、 「冬山」をメインの活動として行っているが、このスタイルが確立したのが 1960 年代だからである。道のない区間を地図とコンパスを頼りに藪を漕いで進んでいく「藪漕 ぎ」は 1960 年代初頭から行われるようになり、 「沢登り」や「冬山」などは前から行われ ていたがきちんと安全面を議論し、講習や訓練などの制度を構築したのが 1960 年代であっ た。もちろん現在とは大きく違う面もある。例えば、入部者と卒部者の数の違いなどがあ げられる。1960 年代は 100 名以上を超える部員が入部し、そのうち卒部するのは 10~ 20 名程度であったようである。人数を減らすために合宿で新入生をこき使ったりしていた ようだ。近年は入部者が少なく、入部したらそのまま 4 年間在籍するものが多いので、我々 現役部員から見ればうらやましい限りである。いずれにしても年間の参加者数・山行日数 などの様々な指標から見ても 1960 年代が部の歴史において黄金時代であったことは間違い ないと言える。 1969 年には東大入試が中止され、新入部員がゼロとなった。学生紛争で大学の機能がマ ヒしている間に、ワンゲル部員は小屋に居座ったり、いろいろな山に出かけたりするなど 部の活動を継続していたが、これはワンゲルに大きな危機をもたらした。というのも沢登 りや冬山の技術の継承が出来ず、一度技術が断絶してしまったからである。このため 1970 年代は冬山や沢登りの活動を手探りで始めるという状態で幕を開いた。また入部者も 1960 年代には 100 人を超えていたが、1970 年代は 100 人を下回るようになり 40~60 人くらいで 推移している。基本的にこの年代は安定して活動を継続いていた時代であったが、この年 代の大きなイベントとして抱返沢の事故と共通一次試験の導入があげられる。抱返沢の事 故では落石により部員が沢で滑落し、左肩を脱臼する。これにより救助隊が出動すること になり、ワンゲルの活動で初めて新聞沙汰となってしまう。これにより、今まで以上に安 全に対して意識されるようになり、特に沢の活動に関しては難易度の高い沢については自 重されるようになった。また共通一次試験の導入もワンゲルの活動に大きなインパクトを 与えた。どのような因果関係があるのかは不明であるが、共通一次試験が導入される前の 部員にとっては、導入後の部員はそれまでのワンゲルの部員と質も何もかもガラッと変わ ってしまったと感じたようだ。例えば、共通一次試験直後の入部者数は約 20 名であり、そ れまでの部員を淘汰するという風潮ではなくなった。実際にこの質などの面において大き な変化があったという感想が正しいのかどうかはさておき、共通一次試験導入後は部員数 が減少し始め、1980 年代の大きな事故の影響もあるが部員がどんどん少なくなる傾向へと 向かっていく。 1980 年度の卒部生が 4 年間のあいだに登った山の名前を見ると、このころには現在ま でワンゲルで良く登られている山々が出そろい、定番となっていることが見て取れる。夏 山では北アルプス、南アルプス、白山などが合宿に選ばれ、冬は八ヶ岳、乗鞍岳、甲斐駒 ケ岳~千丈ヶ岳、1978 年の聖岳、1979 年の磐梯山、八甲田山、塩見岳など。1980 年には上 州穂高でスキー企画が出されている。いずれも、今の現役部員たちにとっても馴染みのあ る山々である。同じく 1980 年に金城山~ホームグラウンドの巻機山までスキーで縦走した 企画は、登山情報誌『山と渓谷』でも取り上げられた。 このように、夏山・冬山登山が堅調であった一方、1980 年前後には沢登りでの事故が相 次いだ。ひとつは 1978 年の抱返沢(谷川岳湯檜曽川支流)での滑落事故、もうひとつは 1981 年、ヒツゴー沢(上越谷川周辺)での増水による死亡事故である。特にヒツゴー沢の事故は、 ワンゲルの沢活動に大きな影響を与えるものであった。1981 年 9 月 27 日、早朝に水上駅を 出発してヒツゴー沢に入った部員 2 名であったが、8:30 ごろには天候が悪化したため尾根 上にエスケープし、下山を目指した。しかし、下山途中の渡渉地点で当時 3 年会だった部 員 N が転倒し、そのまま水流に飲まれて行方不明となった。既に渡渉し終わっていたもう 一人の部員 M は谷川温泉に走り、警察・消防等に連絡した。ただちに捜索活動が始められ たが、悪天のため困難と判断され、16:00、捜索は打ち切りとなった。翌日、天候の回復 を待って部員・地元消防団による捜索が行われ、まもなく N 谷川寮付近の中州を隔てた岩 場において、N の遺体が発見された。 この事故の原因は、天候判断の甘さ、そしてなによりも、増水した沢の渡渉にザイルを 用いなかった点にあった。また、事故後の反省においては企画の段階で十分な審議がなさ れていたのかどうかも、問題とされた。そもそも当時の部は、先述した抱返沢での事故を 経験したばかりであり、上越での沢活動に対して慎重な姿勢がとられていたはずであった。 にもかかわらず、このような痛ましい事故を起こしてしまったことは、沢登りという活動 のありかた全体に反省を促すきっかけとなった。具体的な方策としては、安全対策の責任 者として安全係を設置し、トレーニングや安全基準の強化を図ったこと、沢への参加者自 体を限定し、集中的に養成を行うことなどが挙げられる。また、登る沢自体のレベルに関 しても、現役のあいだは専ら丹沢・奥秩父・奥多摩の沢に登り、より難易度の高い上越や アルプスの沢には OB になってから行くという傾向が定まってきた。これらの取り決めは、 厳格な安全基準や沢におけるリーダー養成制度として、現在まで引き継がれている。事故 直後には沢登りという活動自体を止めてしまおうという動きもあったようである。山での 活動のなかでも沢登りは冬山と並んでとりわけ危険度が高いものであり、こうした意見が でるのも当然のことであろう。しかしながら、事故の結果を踏まえたうえでぎりぎりの安 全基準・対策を模索し、なんとか部の活動の一端として沢登りを維持しようとした当時の 部員たちの決断もまた、現在の部員たちにとっては貴重なものである。ワンゲルの多彩な 活動がこのような先人の苦悩と努力のうえにあることを、将来の部員たちも忘れてはなら ない。最後に、1983 年に卒部した N の同期たちの文章を掲載しておく。 山への想い:N 君が上越谷川に逝ってからちょうど 20 年がたちます。あのとき、我々が学 んだのは、山から無事に帰ってくることの大切さであり、我々がいかに多くの人の祈るよ うな気持ちに支えられているのかということであり、仲間のありがたさでした。事故のあ と、我々を支えた思いは人それぞれに違ったでしょうが、少なくとも「それでも山へ」と いう思いは共有していました。全ての山行が、あの山行を除く我々の多くの山行がそうで あったように、楽しくいつまでも心に残る山行であることを願ってやみません。 東大ワンゲルの登山は、決められた枠があるなかでなんとか変化をつけ、より楽しく、 より安全な活動を目指すところにその特徴がある。特に、ワンゲルの 1 年間を通じて最大 のイベントである夏合宿において、その傾向は顕著に現れる。夏合宿のリーダーは何カ月 も前から計画を立て、何度も審議を重ねてルートや装備の改善、危険個所の発見といった かたちで企画を練り上げるのである。 1980 年代の夏合宿を見ていくと、 80 年には白馬北部、 立山北部、飛越国境、白山、加越国境が、81 年には月山・鳥海山、秋田駒ケ岳南方、焼石 連峰、真昼山地、といったように、4隊に分かれて出されているものが多いようである。 これが、部員増加に伴って部の創立当初に確立された分散・集中方式の夏合宿である。分 散・集中とは、複数の隊が別々の登山口から登り始め、最後に予め決めておいた地点に集 合することを意味する。例えば 82 年には会津駒ケ岳・燧ヶ岳、平ヶ岳・巻機山、笠ヶ岳・ 至仏山~越後駒ケ岳、朝日岳の4隊が出され、最後は全員が銀山平に集合した。総員 60 名 の大合宿であり、全員が集合した様はさぞかし壮観であったに違いない。 この分散・集中方式は現在でも存在するが、あまり厳密には行われないことが多い。こ れは、80 年代の終わりごろから見られる、部員数の減少を反映している。 1988 年に卒部した代までは、一学年の人数はおおよそ 20 名前後で推移していた。無論、 60 年代・70 年代の入部者数数百名時代には遠く及ばないが、部としてはそれなりの規模を 保っていたといえるだろう。しかし、1989 年卒部生のころから、一学年 10 名に満たない年 が多くなってきた。これは、世相の変化を反映した面もあろうが、1986 年新人合宿後の宴 会における飲酒による死亡事故が与えた影響も否定できない。この事故によってワンゲル は 3 カ月の活動停止処分を受け、同年の夏合宿も中止となった。新人合宿後、集合地で盛 大な宴会をおこなうことは当時すでに伝統となっていたが、この事件をきっかけとして部 活動中の飲酒が禁止されることとなった。 事故に伴う部のありかたそれ自体の見直し、部員数の減少など、1980 年代後半は部にと って大きな曲がり角であった。当時の執行学年のあいだでは、全学年をあわせても 20 名程 度という小所帯となったワンゲルを運営していくためにどのような方針を採るべきか、議 論があったようである。例えば人数の減少にあわせてより先鋭的な登山に絞って活動しよ うという意見などもみられた。結局この意見は採用されずにうやむやとなったが、どちら かといえば大衆的な登山部として発展してきたワンゲルにとって、大きな転機が訪れてい たことは間違いない。 しかし、当時の記録を見ても、部の活動にさほど大きな変化は見られない。87 年の合宿 は飯豊・朝日に計3隊が企画され、野方海水浴場で恒例の集中も行われた。夏合宿後も北 海道の日高・大雪、屋久島など意欲的な企画が見られ、丹沢・奥秩父などで沢登りも続け られている。巻機山で 1 年生のために冬山の訓練を行い、3 月には八幡平のスキー合宿が出 されている。翌 88 年の合宿も白神山地など 3 隊が企画されている。 しかしながら、このような活動が維持されたのは、部員たちの非常な努力によるところ が大きかった。そしてこのような矛盾は、90 年代に入ってから顕在化してくる。当時の記 録に見られるのは、部の活動を支えるために考え、献身する部員たちの姿である。 僕たちの同期は、最初に 19 人いたのが、徐々に減って、執行の時点で残っていたのは 5 人 でした。今から振り返ると、その 5 人で、人数が多かった頃と同じことをやろうとしてい たので、山を楽しむこともさることながら、四六時中業務に追われていたという印象が強 いです。とにかく、休日は山か在京、平日は山行の審議に明け暮れていました。また、山 行や活動のあり方についても、原則論に立ち返る余裕がないので、今までのスタイルを踏 襲しておこうという意識が強かったです。(…)当時はちょうど、カヌーやパラグライダー などが普及し、アウトドアの遊び方が多様化しつつありましたし、海外トレッキングなど も身近なものになっていました。かように学生の興味の対象が拡がっている中で、部員を まとめ活動のレベルを維持するにはどうすればよいのか、現在のスタイルをこのまま続け ていけるのか等々と、皆の胸中に将来に対する漠然とした疑問が芽生えていたのです。 1996 年度卒部生 我々の現役中にワンゲルから消えたもの。キスリング。白ガスの火器、夏合宿後の引継ぎ、 秋合宿…。我々の代は歴史の転換点にいたような気がする。部員の減少という状況に促さ れた面もあるが、我々自身もワンゲルを変える努力をした。(…)結果から見ればあまり変 わらなかったのかもしれない。それでも、一つのアクセントを付けることはできたし、他 の代より変わったことができたという自負はある。 1997 年度卒部生 人数が減少したとはいえ、1990 年から 93 年までは夏合宿 3 隊が維持され、参加者も 40 名近くいることが多かった。しかし、1994 年の合宿は飯豊・朝日の 2 隊に縮小し人数 32 名、 翌年は南アルプスの南部・北部の2隊で 21 名といったように、90 年代なかばから明らかに 縮小傾向にあった。このような中で安全性に気を配って山行を企画立案し、下級生の指導 に当たった部員たちの苦労は並大抵ではなかったに違いない。 このような逆境にも関わらず、ワンゲルの活動内容が縮小されることなく維持されたこ とは、全く貴重な成果であった。それどころか、90 年代終わりごろには様々な面で意欲的 な取り組みがみられる。例えば部の沢登りが訓練のためだけのものになりがちであったこ とを反省し、沢の指導者養成マニュアルを作成することで技術習得の効率化を図る試みや、 藪トレ谷後や清水峠などのワンゲルクラシックルートを復活させる企画などがそれである。 企画面でも、部にとって必須のもののほかに、97 年には夏合宿後の白神山地、北海道の大 雪山・利尻岳、四国の剣山・石鎚山、屋久島、98 年には修験道で有名な大峯奥駈け、西表 島など遠方・離島への企画が多数組まれた。99 年には最終的には断念されたものの、北海 道での夏合宿が構想されたり、沢を取り入れた赤木沢-槍ヶ岳企画や 9 泊で 7 つの百名山 を踏破するという南アルプス企画がだされるなど、特筆に値する活動が見られる。これら の活動はひとえに、山に懸ける部員たちの熱意を示して余りある。 98 年の白山、99 年の上越国境稜線、2000 年の秋田駒周辺と、3 年続けて、合宿は藪 2 隊 で組まれ、一隊あたり十数名の部員が参加した。登山道のない山を地図とコンパスを頼り に突き進む藪活動は東大ワンゲルに特徴的な活動であり、しばしば非常に過酷な山行とな るいっぽう、とりわけ藪合宿を完遂したときの達成感はなにものにも代えがたいものがあ る。山野に分け入って全身で大自然を満喫する藪合宿の伝統は現在まで維持されている。 しかし、2000 年代に入ったころ、進行する部員数の減少を反映して、夏合宿の形態に関 しても模索が行われた。2001 年には燕~乙妻~雨飾の道・藪隊、赤城山・尾瀬の藪隊、谷 川・上越国境の沢・藪隊と、久々に 3 隊での夏合宿が出されている。しかし、各隊の人数 は 7~8 名と少なくなり、かつ沢・藪合宿という難易度の高い企画が組まれている。その一 方、2 年後の 2003 年には白山北方稜線の1隊のみで、18 名という大人数での合宿となって いる。これらふたつの合宿の形態は、道を中心に活動する部員と沢・冬山などを担う部員 とのニーズの違いや、合宿を企画運営する執行学年の人数減少などを考慮した結果として 考え出されたものであり、その後も踏襲された。例えば 2008 年の夏合宿は上越国境稜線の 一隊で 12 名、2009 年は北海道大雪山系の道隊 5 名と日高の沢藪隊 7 名、2010 年は朝日連 峰の道藪 1 隊で 7 名が参加した。 2000 年代に入ってから部員数は一学年 8 名程度のことが多く、5 名を切ることもしばし ばであったが、特に 2006 年からの 4 年間、入部者数は 4 名、5 名、4 名、4 名と低調であり、 2010 年に至っては新人合宿に新入生が 1 名しか参加しなかった。幸い秋ごろになって新た に数名が入部してきたものの、人数の減少について、部員たちのあいだで本格的に危機感 が共有されるようになってきた。 無論、山登りという活動自体は個人でも可能なものである。しかし、例えば夏合宿・3 月 合宿といった長期間の山行はある程度の人数が参加しないと実現困難であるし、いちど途 絶えてしまうと運営方法などの点で多くのノウハウが失われてしまう。つまり、部員数の 減少がワンゲルとしての活動それ自体の維持を困難にするところにまで至っているという 危機感が共有されるようになったのである。 このような危機的状況のなか、部のなかでは現役・OB 会が一丸となって新入生の獲得に 臨むことが決定され、 次の新歓活動に向けて話し合いと準備が重ねられた。 そして 2011 年、 このような努力が実を結び、12 名の新入生を確保することができたのである。 特筆すべきは、このとき入部した新人たちがその後も部に定着し、非常に積極的に山に 関わっていることである。もともとワンゲルは中途で退部してしまう部員の多い部活であ った。これは、活動内容自体のハードさや、上級生になったときの責任の重大さなどを考 慮すればある程度仕方のないことであろう。しかし 2011 年の新人たちは上越国境稜線の藪 隊、北海道大雪山の道隊に分かれた夏合宿後もひとりも抜けることなく、その後も多くの 企画に参加しながら全員が 2 年会に上がったのである。 これで勢いがついたのか、2012 年 4 月には当初の入部希望者が 30 名を超え、うち 20 名 が入部するという異例の事態となった。当時の 2 年生による熱心な新歓活動の成果であろ う。 <<ここに 2013 年以降のことを挿入>> ワンダーフォーゲル部60余年の歴史を振り返ったとき、その原点にあるのは「自由」 の精神であった。ワンゲルは、明確な活動領域を定めたうえで発足したのではなかったし、 当初は主将・リーダーといった概念すら存在しなかった。ワンゲルは、漠然と「山」や「旅」 に関心を持つ自由人たちの仲間としてスタートしたのである。 このような発足当初のワンゲルは、「部」といった固定的なありかたには馴染まないとこ ろが多かった。このため草創期のメンバーたちは、ワンゲルを運動会に加入させるという 発想すら持っていなかった。 ワンゲルが運動会の部となったのは、ひとえに 1950~60 年代の登山ブームによる部員数 の増加を背景としたものであった。部員数が増えれば、団体の運営方法などをある程度明 確に定めなければならないし、大学から正式な部として認められたほうが好都合である。 こうしてワンゲルは昭和 38(1963)年、運動会に加入し、以後「東京大学運動会ワンダーフ ォーゲル部」として活動してきたのである。 運動会に加入してから 50 余年、ワンゲルの活動にはさまざまな変遷があった。活動形態 の多様化、巻機山荘の建設、部員数の増加と減少、OB 会との関わり、等々。しかし、これ らの変遷を通じて一貫しているのは、部員たちが楽しく安全な登山を続けてきたというこ とであり、夏合宿・3 月合宿といった長期合宿の伝統や沢登り・藪漕ぎなどの技術を伝えて きたことである。ワンゲルの活動は、試合と勝敗を伴う一般のスポーツから見れば異質な ものであるが、山野というフィールドにおいて多数の学生に豊かな体験の機会を提供し続 けてきたことは、他の部・サークルなどによっては代えがたい功績であろう。 最後に、部に残された記録のなかから、歴代の部員たちがワンゲルについて語った言葉 を引用してみたい。将来の部員たちがワンゲルをよりいっそう発展させることを、そして 彼らがここに引いた先人たちに劣らず豊かな 4 年間を過ごすことができるよう願っている。 旧制と新制が併存する時代。仲間は殆どが旧制の学生で第二外国語としてドイツ語になじ む世代であった。戦中戦後の一方的なイデオロギーの押し付けはもう結構、そしてアメリ カニズム信奉者といわゆる進歩派の人々の狭間にあって自由人と自称した。 『放浪する鳥た ち』ワンダーフォーゲルの名を選んだ。それぞれがヘッセ、シュトルムを想い、ナチズム に悪用されたこの呼名に肩入れした。高校を含めて旧制への最後の挽歌であったろうか。 登山派、散策派、無銭旅行派、温泉派、観光派、幅広い人々がいた。又、あれもこれもの 人もいた。自由に仲間を誘い、勝手に行動する。会則も記録もない。ゆるやかな結合だっ た。 1952 年卒 北原大平 当時、明確に意識した訳ではなかったが、登山の本質である「自由と困難の追及」(奇人変 人の冒険という人もいる)のうち、 「自由」のイメージをワンダーフォーゲルに重ね合わせ、 受験勉強の閉塞感からの解放から入部したものが多かったのではないだろうか。 「困難」を 放棄した後めたさをちょっぴり感じながら。そして奇人変人の先輩に「山の心」を伝授さ れ、 「放浪」 「漂泊」への傾斜を持ち続けながら、部員数の増加によって、否応なしに組織 化、管理化に進まざるを得なかった時代であった。 1961 年卒 猿山昌夫 …TWV 部員の行動パターンやメンタリティは、驚くほど以前と変わっていない気がする。TWV の神髄のようなものは、時代の流れを超えた価値をもつものとして、私たちは大いに自負 してよいのではなかろうか。そこにあるのは、強制や打算ではなく、感性にじかに響いて くる真実であると思うのである。 1972 年卒 牧島一夫 大学時代というものは、誰しもが、多かれ少なかれ過剰な観念と思い入れの世界に生きて いるものだ。そしてこの過剰な思い入れが時には精神に自家中毒のように作用して、人間 を自意識という名の牢獄に閉じ込める。御多分にもれず私もそうした自意識過剰の学生の 一人であったが、だからこそ私は合宿を心待ちにしていた。さまざまな想念の澱でよどん でしまった心を浄化するには、合宿の厳しい規律の下に自分を置き、自然の真っ只中で力 の限り自己の限界に挑戦してみる以外にない。山に登ることで、頭の疑わしさを否定する のだと本気で思っていた。 1984 年卒 吉岡弘彰 世相が移りゆくなか、重厚長大、ばんから気質の最後の世代だったでしょうね。バブルの 真っ直中にあって、世の中に背を向けオカンに出てゆく。オカンとは、屋根もテントもな い野山にシュラフをぽんと置いて夜を明かすことですが、深い樹林中では森との一体感が 楽しめますし、山頂で雷雨にさらされたりすると、これはもう無限宇宙の無限時間に漂う 一分子の気分を味わえるのでした。 1989 年卒 西村総介 この部の目的は何かと問われたら、それは、感性と判断力を備えた旅人を養成することと、 何よりも楽しく旅ができることと答えたい。我々が目指しているのは、危険を事前に察知 し、窮地に陥る前に回避する、万が一窮地に陥っても、何が何でも生きて帰ってくる、そ んな旅人であり、また、少しでも自然と交歓できる感性を持った旅人である。 2002 年卒 奥田青州 執筆者 長崎健吾 佐藤真之
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