90 年代外交思想潮流に位置づけて - 久保文明研究室

ボスニア問題
ボスニア 問題と
リベラル ・ ホークの
ホーク の 思想
問題 と リベラル・
— 90 年代外交思想潮流に
年代外交思想潮流 に 位置づけて
位置 づけて―
づけて ―
東京大学法学部公法コース3年
松井孝太
目次
はじめに
1.紛争の経緯とアメリカの関与
2.民主党リベラルと武力行使
3.介入の主張と思想的特徴
4.役割と自己認識
おわりに
はじめに
本稿では、ボスニア問題(1991−95 年)において見られたリベラル・ホークの思想がど
のような特徴を持ち、またそれがアメリカ外交の思想潮流においてどのように位置づけら
れるかを論じる。リベラル・ホークとは、主に民主党系のリベラルの中で、タカ派的な思
想を持ったグループを指す。後述するように、その思想には独特の特徴があり、また現在
リベラル・ホークとされる人々の多くは、程度の差はあれ共通した時代背景のもとで似た
ような思想的展開を辿ってきたことが指摘できる。また最近では、共和党保守派やネオコ
ンの主張とは一線を画しつつも、対イラク開戦に賛成した人々が少なくない。
彼らの思想と歴史についての研究としては、中山 1の他にまとまったものは見当たらない
が、リベラル・ホークの論客がその思想的背景に触れたものとして、Packer 2や Berman 3、
Rieff 4 などが挙げられる。イラク戦争への賛同とその後の混迷を受けて、オピニオン誌や
インターネット上では現在でも、リベラル・ホークを巡って様々な議論がなされている 5。
1
中山俊宏「リベラル・ホークと武力介入論の諸相」久保文明編『アメリカ外交の諸潮流―リベラルから保守
まで―』日本国際問題研究所、2007 年
2
George Packer, Assassins’ Gate: America in Iraq, (2005, Farrar Straus and Giroux)
Paul Berman, Power and the Idealists: Or, the Passion of Joschka Fischer and Its Aftermath , (2005, Soft
Skull Press)
4 David Rieff, At the Point of a Gun: Democratic Dreams and Armed Intervention , (2003, Simon &
Schuster)
5 代表的なものにネット誌の『スレート(Slate)
』
(http://slate.com/)がある。2004 年 1 月には”Liberal Hawks
Reconsider the Iraq War”という企画が組まれ、Paul Berman, Thomas Friedman, Fred Kaplan, Christopher
Hitchens, George Packer, Kenneth M. Pollack, Jacob Weisberg , Fareed Zakaria らが意見を交わした。
3
-1-
その中で、90 年代に活発になった「人道的介入」を巡る議論が彼らの思想形成に関係して
いるという点で概ね合意が存在しているが、やはり中心的な関心は現在のイラク問題との
関係で、当時についてはエピソード的に触れられるだけの場合が多いように思われる。し
かし、現在の状況に至った背景として、実際にボスニア問題において彼らはどのような主
張をしていたのか、そこにはどのような特徴が見られたのか、を見直すことは現在のアメ
リカを見る上でも何らかの示唆を与えてくれるものと考える。
91 年から 95 年にかけて旧ユーゴスラビア連邦で勃発したボスニア内戦は、死者 20 万、
難民・避難民 200 万を出した悲惨な紛争であった。その人道危機にアメリカがどのように
対応するかという課題は、とりわけクリントン政権の外交担当能力を見る試金石として、
アメリカ国内においても政治問題化した。そのため、アメリカのボスニアへの関与を論じ
るものとしては、阿南 6やハイランド 7 など、多くの先行研究が存在する。そこでは、主に
アメリカの行政府・議会の対応について、議会共和党と政権の対立、戦争権限のあり方を
巡る論争などを中心に議論を展開するものが多い。当然そこには共和党の保守化といった
イデオロギー的な含意もあると思われるが、外交当局にとどまらず、より広く対外政策を
巡る思想潮流との関連でボスニア問題の意義を論じるものは多くない。超党派外交が弱ま
り、外交分野においても党派的な主張が強まっている冷戦後のアメリカを考える上で、イ
デオロギー的な枠組からリベラル・ホークが展開した議論に目を向けることには意義があ
るのではないだろうか。
本稿では、以下のポイントに特に焦点を当てることを研究のオリジナリティとしたい。
第一に、リベラル・ホークの思想的特徴はボスニア問題への態度において具体的にどのよ
うに形で表れたのか。ここで、歴史のアナロジーに見られた変化、西欧諸国や国際機関に
対する意識、国益の認識と世界観、といった点に見られた特徴を指摘する。次に、リベラ
ル・ホークは自らの思想が、ボスニア問題ひいてはアメリカ外交においてどのような意義
を持つものと捉えていたのか。つまり、現実にどれだけの影響力があったのかではなく、
彼らがどのような自己認識を持っていたかを論じる。またそれが、90 年代アメリカ外交の
思想潮流との関係でどのように位置付けられるのか、またボスニア問題からのフィードバ
ックを受けてどのように現在に至っているかを検討したい。
なお、後に再度触れるが、具体的に誰が「リベラル・ホーク」として括られるのかにつ
6
阿南東也『ポスト冷戦のアメリカ政治外交
~残された「超大国」のゆくえ~』東信堂、1999 年
7
ウィリアム・G・ハイランド(堀本武功他訳)
『冷戦後のアメリカ外交
明石書店、2005 年
-2-
クリントン外交はなぜ破綻したのか』
いて明確な基準が存在する訳ではない。そこで本稿では差し当たり、90 年代から人道的介
入論を主張していた代表的な論者とされるデーヴィッド・リーフ(David Rieff)、ポール・
バーマン(Paul Berman)、ジョージ・パッカー(George Packer)、アンソニー・ルイス
(Anthony Lewis)、レオン・ウィーゼルティア(Leon Wieseltier)らを中心に、その思
想を考察する。
1 . 紛争の
紛争 の 経緯 8 と アメリカの
アメリカ の 関与 9
(1)G.H.W.ブッシュ政権期(~92 年 12 月)
1991 年にユーゴスラビア連邦の解体が始まると、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国(以
下ボスニア)でも、92 年 3 月にムスリム人勢力 10主導で独立が宣言された。しかし、ボス
ニア内には少数派としてセルビア人勢力が独立に反対しており、ムスリム人勢力とセルビ
ア人勢力の間で衝突が拡大し内戦となった 11。
ブ ッ シ ュ 政 権 の 外 交 安 保 チ ー ム に は 、 ブ ッ シ ュ 本 人 を 始 め と し て ベ ー カ ー ( Howard
Baker Jr.)、スコウクロフト(Brent Scowcroft)など共和党穏健派が多数参加しており、
比較的国際協調的、実務的な対外政策を指向していた。ブッシュ政権はユーゴ問題に対し
ては西欧諸国に問題を委ね距離を置いていたが、その背景には冷戦の終結によってユーゴ
が重大な国益に関わる地域ではなくなったという現実主義的な判断があった。また、不安
定なソ連情勢や、湾岸戦争後の中東への対応などを優先事項として考慮すべきという事情
もあった。
(2)クリントン政権期(93 年 1 月~)
92 年 11 月の選挙では、民主党中道派を支持基盤とし、経済重視を謳うクリントンが勝
利した。クリントンは 92 年大統領選挙において、空爆を積極的に唱えるなどボスニア問
8
歴史的な展開は本稿の目的と直接には関係しないと思われるので、最低限触れるにとどめる。なお、ボスニ
ア紛争自体の経緯については月村太郎『ユーゴ内戦—政治リーダーと民族主義』東京大学出版会、2006 年が詳
しい。
9
アメリカの関与の過程については、デービッド・ハルバースタム(小倉慶郎他訳)
『静かなる戦争 アメリカ
の栄光と挫折(上・下)』PHP 研究所、2003 年,五十嵐武士「「超大国」への別離 —クリントン政権のボス
ニア政策」『覇権国アメリカの再編』東京大学出版会、2001 年、ハイランド(2005)参照
10
ボスニア地域に住むイスラム系住民を指す民族的呼称として「ムスリム人」という。
11
ボスニア内戦はムスリム人(総人口の 44%)とセルビア人(同 31%)、さらにクロアチア人(同 17%)の三
勢力による対立が原因となって生じた。また、当時のアメリカでは一般に、カラジッチ(Radvan Karadzic)
を指導者とするボスニア内のセルビア人勢力とミロシェビッチ(Slobodan Milocevic)大統領の旧ユーゴ連邦
は密接な関係があると考えられた。しかし両者が実際にどこまで一体であったのかについては否定的な見解が
ある。柴宜弘「ボスニア内戦と国際社会の対応 ―ユーゴスラヴィア解体から和平協定調印まで」『国際問題』
1996 年 6 月号参照。
-3-
題に対して強硬姿勢を示していた。しかし大統領に就任すると間もなく、強硬姿勢は選挙
戦略によるレトリックであり、実際にはボスニア問題に対して明確な指針を持っていない
ことが明らかになった 12 。というのも、クリントンはまずもって内政の大統領であり、対
外政策にそれほど強い関心を抱いていたわけではなかった。またボスニアへの軍事介入に
対しては、関与拡大の懸念からパウエル(Colin Powell)統合参謀本部議長を中心に軍の
反対が強かった。
93 年前半にはボスニアを 10 の自治州に分割するというヴァンス=オーウェン和平案に
基づいた調停も進められたが、セルビア人勢力の既得権益を容認するものとして、クリン
トン政権は批判的な態度を示した。その後 93 年から 94 年にかけて、クリントン政権はボ
スニア問題に対し有効な政策を提示できなかった。しばしばボスニアのムスリム人勢力に
対する武器禁輸措置の解除 13 とセルビア人勢力への空爆が検討されたが、これに対しては
西欧諸国の反対が強かった。その理由として、ボスニアへの武器の流入が紛争を激化する
恐れや、西欧諸国が派遣している国連保護軍がセルビア人勢力の報復にあう危険性を懸念
する声があった。93 年5月にはクリストファー(Warren Christopher)国務長官が訪欧
して共同の軍事介入を提案したが、西欧諸国の賛同は得られなかった。
クリントン政権がボスニア問題に関して打開策を見いだせないでいる間、介入強硬派を
中心に、新聞やオピニオン誌上で空爆・武器禁輸解除を要求する主張が強まった。また国
務省の中堅官僚の中からも、空爆や武器禁輸解除を主張してクリントン政権の政策を公然
と批判する者が現れた。その中には、アメリカが介入しないことへの抗議から辞任するも
のや、メディアに対しボスニアの惨状をリークする者もいたという。さらに議会からも、
共和党上院院内総務のドール(Bob Dole)を中心に、アメリカ単独でも武器禁輸措置を解
除すべきとの圧力が大統領にかけられた。ドール自身はユーゴ問題に個人的に強い関心を
持っていたが、クリントンへの対抗という観点から党派的に政権のボスニア政策を批判し
た議員も多かった。
93 年から 94 年にかけてはジュネーブでボスニア紛争の三当事者による和平交渉が進め
られたが、問題は主としてボスニアの領土をどのように分割するかという点にあった。94
年 3 月には米英仏独ロ及び EC からなるコンタクト(連絡調整)・グループが結成された。
12 ジョナサン・クラーク「レトリック優先のクリントン外交」
『中央公論』1995 年 11 月(Jonathan Clarke,
“Rhetoric Before Reality: Loose Lips Sink Ships” Foreign Affairs, Vol.74.No5, Sep./Oct. 1995)
13
紛争の勃発に際して、全紛争当事者に対する武器禁輸措置が採られた。この措置に対しては、ボスニアのム
スリム人勢力が軍事力の面でセルビア人勢力に劣っているという認識から、ムスリム人勢力の劣勢を固定化す
るものであるとする批判が加えられた。
-4-
同グループはムスリム人及びクロアチア人の連邦国家の領土 51%、セルビア人が同 49%
とする分割案を 7 月に提示したが、これはセルビア人勢力によって拒否され、実現には至
らなかった。
しかし 94 年末から 95 年になると、様々な条件が積み重なり、クリントン政権も政策転
換を図るようになった。95 年 8 月以降セルビア人勢力に対し NATO 軍による空爆が加え
られ、レイク(Anthony Lake)、ホルブルック(Richard Holbrook)を中心に和平交渉が
進められた。9月にはコンタクト・グループが提示した案と同じ分割割合の共同合意原則
が合意され、NATO 軍の空爆による圧力を背景に 10 月にはボスニアで停戦が実現した。
またこの過程で、国連保護軍に代わって NATO 主体の平和維持軍(IFOR)を展開するこ
とになり、アメリカも地上軍を派兵することに同意した。こうして、11 月にオハイオ州デ
イトンで新ユーゴ、クロアチア、ボスニアの三者による合意が結ばれ紛争終結に至った。
2 . 民主党リベラル
民主党 リベラルと
リベラル と 武力行使
ケネディ(John F. Kennedy)大統領は就任演説の中で、「私達はどんな代償でも払う、
どんな重荷も担う、どんな困難にも立ち向かう、どんな友人をも支持する、どんな敵にも
対抗する、自由の存続と成功を確実なものにするために」と高らかに述べた 14 。この言葉
に象徴されるように、冷戦初期の民主党には、トルーマン(Harry S. Truman)やケネデ
ィなど、外交政策において軍事力や同盟関係を重視する伝統が存在していた 15。
しかし、ベトナム戦争の敗色が強まった 1970 年代頃から、民主党内からは軍事力の行
使に積極的な考えを持つタカ派は圧倒的に少数になり、著しく左傾化が進んだとされる。
そして、対ソ強硬策を唱えるジャクソン(Henry Jackson)上院議員のもとに終結したタ
カ派も、レーガン(Ronald Reagan)の登場とともに大挙して共和党に鞍替えした。ベト
ナム以降もタカ派が完全に消えたということはできないが、やはり軍事介入に対して条件
反射的に反対するリベラルが民主党の中でかなり力を持つようになったことは否定できな
い。その結果が、1991 年の湾岸戦争の開戦においても民主党議員の多くが反対に回った事
実に如実に現れたといえる 16。
この状況に再び顕著な変化が見られたのが、湾岸戦争からボスニア紛争にかけての時期
であった。90 年代初頭はソ連が崩壊したことでアメリカが唯一の超大国となる一方で、ル
14
15
http://www.americanrhetoric.com/speeches/jfkinaugural.htm
中山、前掲書 p, 106
16
Charles Krauthammer, “How the Doves Became Hawks”, Time , Jan. 24, 2001
-5-
ワンダ、ボスニア、ソマリアなどの地域では紛争が発生し、大規模な人道危機が起こった。
メディアを通して悲惨な光景が日々伝えられているにもかかわらず、国際社会は何も手を
打たずに放置している現状に憤りを感じたリベラルの一部からは、強硬に介入を求める主
張が現れた 17 。彼らはボスニア紛争に際して、セルビア人勢力がムスリム人に対して集団
殺戮を行っており、アメリカは積極的に介入してそれを止めるべきである、とする主張を
展開し、「ボスニア・ホーク(Bosnia hawk)」さらにはリベラル・ホークと呼ばれた。も
っとも、この言葉には「ネオコン」や「リアリスト」といったカテゴリーと同様に思想的
な幅のある人々を含んでおり、一括りに特徴付けることは困難を伴う。ただそれでも、ボ
スニア介入問題において、やはりある程度思想的なまとまりを持ったグループとして認識
されていたことは間違いなく 18 、概ねの共通点を挙げることはできるのではないかと思わ
れる。
彼らの多くは作家やジャーナリスト、新聞のコラムニストなど、主にインテレクチュア
ルの集団であり、また必ずしも外交分野の専門家ではないものもいた。
『ニューヨーク・タ
イムズ』誌の裁判所ウォッチャーとして有名なルイスや、
『ニーズ・オブ・ストレンジャー
ズ』などの著書で知られるイグナティエフ(Michael Ignatieff)など、むしろ国内の文化・
社会的な政策において「リベラル」であったと言える。彼らはそれぞれ個性的な主張をし
ていたが、背景とする思想に共通点があるとすれば、政府の力や働きかけによって社会を
改良することができるというアメリカ的なリベラリズムであったと言えるのではないだろ
うか。外部からの介入によって人道問題を解決すべき(できる)という態度も、そのよう
な観念が国境を越えて投影されたものとして見ることも不可能ではない。
ただ、彼らが「民主党支持」という党派性によって強く特徴付けられていたとは言いに
くい面がある。第二期クリントン政権でコソボ介入を推進したオルブライト(Madeleine
Albright)やホルブルックなど、リベラル・ホークに近い考え方を持った外交エリートが
存在しないわけでは無かったが、やはり議会や行政府に強固な基盤が存在していたわけで
はなかった。彼らを「民主党リベラル」と呼ぶことができたとしても、組織的な党派性が
あったというよりは、社会・文化的な思想傾向において民主党に近い人々であったと考え
る方が妥当であるように思われる。
17
Anthony Lewis, “Abroad at Home; What We Should Do in Bosnia” New York Times December 7, 1992 な
ど参照。Lewis は New York Times 誌上でボスニア問題について数多くの記事を書いている。
18
David Halberstam, War in a Time of Peace: Bush, Clinton, and the Generals, (2001,Scribner; 1st
Touchstone Ed edition) p.307 等を参照
-6-
なぜ彼らがボスニアやルワンダなど冷戦終結後の地域紛争において軍事介入の主張をす
るようになったのかという変化を、どれか一つの要因に帰着することはできない。しかし、
リベラル・ホークの論者自身が指摘よるように、冷戦終結と地域紛争の続発、民主党大統
領の誕生などが、リベラルが軍事介入を真剣に考慮できるようになった大きな要因であっ
たと考えてやはり間違いではないであろう 19。90 年代初頭はアメリカの力と理念に対して
再び希望が抱かれた時代であり、多国籍軍の軍事介入によって短期間にクウェートを解放
されたことは、軍事介入に否定的であったリベラルの認識にも影響を与えた。また、共和
党(とりわけ保守的な)政権のもとで、リベラルが積極的な軍事力行使を主張することは
考えにくかったことから、やはり民主党政権の誕生という要素も無視できないであろう。
さらに、武力行使を容認するようになった一つの背景として、湾岸戦争の予想外の短期
決着と、それを実現した軍事技術の革新が指摘されることもある。すなわち、目標をピン
ポイントで爆撃することを可能にした軍事技術革命(RMA)によって、武力行使に伴う犠
牲を減らせるのではないかという期待が生まれたという 20 。それに加え、メディアの発達
という環境的な変化も軽視できない。ボスニア紛争において、現地の惨状が繰り返しアメ
リカ国内で報道されたことも、それ以前の地域紛争にも増してリベラルに対応を迫る一因
であったと言えるのではないだろうか 21。
3 . 介入の
介入 の 主張と
主張 と 思想的特徴
(1)歴史の教訓とアナロジー
92 年 8 月に『ニュー・リパブリック』誌に掲載された『ボスニアを救え』 22をはじめと
して、ウィーゼルティアらは、セルビア人勢力による「民族浄化」を食い止めるためのア
メリカの介入を主張した。それらの主張の中に見られる特徴の一つは、ボスニアにおける
ムスリム系住民の迫害をホロコーストに喩え、またミロシェビッチに立ち向かわないこと
は「ミュンヘンの失敗」であるというように、歴史のアナロジーを多用していることであ
る。特に、リベラル・ホークがボスニア介入を主張する記事などでは、ミュンヘンやホロ
コーストの失敗、ナチの再来など第二次世界大戦のアナロジーがかなり頻繁に使われてい
19
Packer, op. cit. p,33
20
中山、前掲書
21
「視線
22
“Rescue Bosnia” New Republic, August 17&24, 1992
p,118
複雑さ消す TV 映像(メディアの闇
旧ユーゴ紛争から:10)」、朝日新聞、1995 年 9 月 27 日
-7-
ることが指摘できる 23。
もちろん、ミュンヘンやヒトラーといった教訓は、
「脅威に立ち向かうべき」という文脈
で冷戦期を通してしばしば外交議論に登場し、それ自体は特に珍しいものとは言えない。
しかし、例えば湾岸戦争においてもベトナム化の懸念が表明されたように、それまでの民
主党リベラル派は軍事介入を忌避する際にベトナム戦争のアナロジーを用いる傾向があっ
た 24 。ヨーロッパで人道危機が起きたというボスニア紛争の特性がホロコーストのイメー
ジを想起させた面も大きいが、やはりリベラルの中からも「善の側で戦う戦争」というイ
メージが復活したことを象徴的に表していたと言えるのではないだろうか。
『ニュー・リパブリック』誌の編集者であったウィーゼルティアは、ホロコーストを繰
り返してはならないという意志を次のように述べている。
「 私自身の家族が犠牲となった犯
罪と同様の様々なやり方で、犯罪がまさに行われているところだった。ユダヤ人として私
は憤慨した。・・・NATO は理想主義者の戦争を戦っているのだ」 25 ここには、再びナチ
スによる大量虐殺のような人権侵害を繰り返してはならない、という「ネバー・アゲイニ
ズム」や、
「絶対悪」に対しては断固として戦わなくてはいけないという強い決意を見るこ
とができる。
もっとも、ボスニアの情勢はホロコーストと簡単に同視できるものとは言えなかった。
確かに、セルビア人勢力によってムスリム系住民が大規模な攻撃を受けていた事実は疑い
ようがなかった。ただ、セルビア人勢力はムスリム人を計画的に絶滅させようとしていた
訳ではなく、またそれぞれの勢力が互いに残虐行為を行っており、一方が「絶対悪」と言
えるような単純な情勢ではなかった 26 。にもかかわらず、リベラル・ホークが介入を主張
した文脈においては単純なセルビア「悪玉」論が多く見られた。後のイラク戦争において
も、リベラル・ホークの中にはフセイン政権とアルカイダのつながりを観念的に信じ、ま
とめて一つの悪(evil)だと考える傾向があった。イラク戦争を人道的介入として支持し
たバーマンに対して、ホームズ(Stephen Holmes)は、彼らが極端なアナロジーを使う
傾向があると批判したが 27 、そのような傾向はボスニア問題においても既に現れていたと
23 Alan E. Steinweis, “The Auschwits Analogy: Holocaust Memory and American Debates over
Intervention in Bosnia and Kosovo in the 1990s” Holocaust and Genocide Studies, Vol19 No2, Fall 2005,
24 George C. Herring, “Analogies at War: The United States, The conflict in Kosovo, and the Uses of
History” in Kosovo and the Challenge of Humanitarian Intervention: Selective Indignation, Collective
Action, and International Citizenship edited by Albrecht Schnabel・Ramesh Thakur (United Nations
University Press, 2000)
25 Paul Starobin, “The Liberal Hawk Soars” The National Journal , 15 May 1999
26
27
Steinweis, op. cit.
Stephen Holmes, “The War of the Liberals” The Nation , November 14, 2005
-8-
言えよう。もっとも、セルビア悪玉論などは図式的なメディア報道を通してアメリカ国内
に広く浸透しており、必ずしもリベラル・ホークのみに帰責されるものとは言えない。し
かしながら、リアリストや政策コミュニティの外交専門家などがバルカン情勢や介入の帰
結などについてより慎重な見解を述べていたのに比べ、やはりやや単純な図式化によって
介入の正当性を主張していた面は否めない。
(2)国際組織・西欧諸国に対する意識
次に、リベラル・ホークが国連や西欧諸国に対してどのような意識を持っていたのかを
検討する。そこでは、介入のあり方や手段を巡る西欧諸国との対立の中に、彼らの思想的
な傾向が反映されていたと考えられる。
一口に「介入」と言っても幅のある概念であり、選択肢は一つに限られない。クリント
ン政権においても、様々な案が検討された 28 。まず一方の極に西欧諸国に問題解決を委ね
て距離を置くという選択肢があり、もう一方の極には地上軍の派遣も含めた本格的な軍事
介入が考えられた。そしてその中間的なものとして、ボスニアのムスリム人勢力に対する
武器禁輸措置の解除とセルビア人勢力に対する空爆という選択肢が検討された。その中で
可能性の高い選択肢としてしばしば提示されたのは「リフト&ストライク」、すなわち武器
禁輸措置の解除とセルビア人勢力への空爆であった。
リベラル・ホークが要求していた介入策も主にこの組み合わせであったと考えられる。
前述の『ボスニアを救え』でも、ムスリム人勢力が自衛するための武器禁輸措置解除が主
張され、地上軍の派兵に対してはかなり否定的な見解が述べられている。また、ルイスは
『ニューヨーク・タイムズ』誌のコラムで継続的にボスニア問題を取り上げているが、そ
こでも主にボスニアへの武器の輸出と空爆を要求しており、フランスなどがアメリカに要
求していた地上軍の派遣を求めているわけではない 29 。介入の主張の多くは、クリントン
政権がボスニアへの武器の供給というオプションを避けていることへの苛立ちであり、ム
スリム人勢力が自らの身を守れるように武器を供給すべきだ、という主張である。
しかし、既に述べたように、ボスニアのムスリム人勢力に対する武器禁輸措置の解除と
セルビア人勢力への空爆に対しては、西欧諸国の反対が強かった。ボスニアへの武器の流
入が紛争を激化する可能性、西欧諸国が派遣している国連保護軍がセルビア人勢力の報復
28
「深入りは回避か
29
New York Times 誌上に“Abroad at Home”などのコラムを掲載していた。
軍事介入の泥沼化に懸念
米新政権の対ボスニア政策」朝日新聞、1993 年 1 月 30 日
-9-
にあう危険性が懸念された。そのためクリントン政権は西欧諸国との協調から、アメリカ
単独で空爆に踏み切るということには躊躇を続けた。これに対し、リベラル・ホークはア
メリカ単独であっても必要な介入をすべきである、とクリントン政権に対し圧力をかけて
いた。ここには、国連保護軍としてユーゴに地上軍を展開していた西欧諸国の要望との間
にギャップが存在していた。
もっとも、リベラル・ホークは基本的に国際主義を否定しないとする指摘もある 30 。そ
もそも 95 年の空爆は NATO の枠組みで行われ、西欧諸国との共闘という色彩は後のコソ
ボ介入ではより鮮明になる。しかしながら、リベラル・ホークの議論の中には、国連や西
欧諸国に対する敵対心と、それらに頼るよりもアメリカのパワーによって問題解決を目指
すべき、とする考え方がしばしば見られた。この一見相反する態度について、バーマンは
次のように心情を述べている。
「国際刑事裁判所(ICC)や国連決議、地域的な介入軍など、
長期的な解決策も提示されたが、それはプラクティカルな答えというよりはむしろ、崇高
な望みのように見え、
・・・ますますアメリカのパワーという解決策に傾斜していった」と
いう 31 。つまり、リベラル・ホークの基本的なスタンスは、やはりネオコンや保守に見ら
れたような国際組織への原理的な反発ではなかったと考えられる。むしろ、抑圧された人々
を保護すべきであるにもかかわらず国連が役割を果たせていないことに不満や憤りを感じ、
無為によって人道危機を放置するくらいならアメリカ単独でも必要な介入を行うべき、と
いうものであった。
リーフもまた、90 年代にリベラルがアメリカの軍事力を頼るようになった原因として、
ふさわしい代替策が見つからなかったことを挙げている。彼はボスニアの惨状を「屠殺場
(Slaughterhouse)」と表現し、厄介な問題を回避しようとした西欧諸国の失敗によるも
のだと批判した。またボスニアに対してアメリカ軍による介入を主張した理由は国連の無
力であったと述べている。リーフは当時を回顧して、
「国連は壊れた制度であり、無駄な望
みに過ぎなかった・・・
(国連の)消極性、追従性、順応主義、独りよがり、臆病、怠惰の
ために、アメリカの後押しなしには最も基本的な人権規範すら強制することができず、
・・・
西側諸国の軍事力にかわる代替策は見つけられなかった」のだという 32 。このように国連
や西欧諸国との協調よりも人権などの理念を優位に考える姿勢が際立っていた点は、強硬
な介入には慎重であったクリントン政権との温度差として現れていたと言えよう。
30
中山、前掲書
31
Packer, op. cit. p.34
Rieff, op. cit.
32
- 10 -
(3)国益の観念と介入の動機
リベラル・ホークがボスニア介入を求めた根拠を見ると、
「国益」が彼らを突き動かす中
心的な動機ではなかった、ということが指摘できる。もちろん国益をどのように定義する
かは一様ではなく、国家を中心に国際政治を見るリアリストのように狭く国益を捉える場
合もあれば、軍事介入によって虐殺を止めることもアメリカの国益である、と考えること
も不可能ではない。ただ、少なくとも、リアリスト的な意味でのアメリカの国益や戦略的
利益を介入すべき理由として掲げていたとは言いにくい。
もっとも、介入の主張に「国益」や「国家安全保障」というフレーズが全く見られない
わけではなく、それぞれの論者によって大きな幅が存在していたことは確かである。ただ、
やはり中心的な関心は、人権や民主主義といったより普遍的な価値のための介入であった。
一概には言えないが、
「国家主権」を盾に介入を避ける議論に対しては、コスモポリタン的
な世界観によって反発する論調も見られた。パッカーは近著『暗殺者の門(The Assassins’
Gate)』において、「(人道的介入は)倫理的な証明を試すものであり、存在をかけた問い
であり、価値の表明であった」 33 と振り返っているが、彼らの考え方を最も端的な形で言
い表している言葉であろう。
これに対し、国益を狭く定義するリアリストからはボスニアへの軍事介入に慎重な意見
が見られた。キッシンジャー(Henry Kissinger)は、ベトナムにおける出口戦略の欠如
という教訓から、アメリカ軍の展開を伴ったユーゴへの関与に対して懸念を示した 34 。ま
た大国間の国際関係を重視すべきという観点から、クリントンがユーゴやその他の地域紛
争への関与のような「ソーシャル・ワーク」に傾倒すべきでないとする批判もなされた 35。
保守派の論客であるクラウトハマー(Charles Krauthammer)も、リベラル・ホークが
軍事行動を主張する一方でアメリカの国益を考慮してこなかったと辛辣に批判した。彼は、
湾岸戦争ハト(Gulf War dove)からボスニア・タカ(Bosnia hawk)への変化を理解す
る鍵は、国益に基づく動機に対するリベラル・ホークの深い懐疑にあるとする。そしてそ
のような典型例は、「G.H.W.ブッシュはセルビア人にボスニアを侵略させた臆病な弱虫で
ある」としたルイスであった。ブッシュは湾岸戦争に 50 万の大軍を派遣したではないか、
という指摘に対して、ルイスは「どんな弱虫でも死活的な国益のために戦争に行くが、本
33
Packer, op. cit. p,34
34
Henry Kissinger, “The Wrong Invasion” Ottawa Citizen February 22, 1999
Michael Mandelbaum, “Foreign Policy as Social Work” Foreign Affairs, Jan/Feb 1996
35
- 11 -
当の男は正義の理由(reasons of right)のために戦争に行く」のだ、と勝ち誇るように述
べたという。クラウトハマーにとって、そのようなリベラル・ホークの思考様式は、個人
のモラリティと国家のモラリティを混同しているものであった 36。
(4)思想潮流における位置
前述したように、リベラル・ホークがどのようなグループで、アメリカ外交のイデオロ
ギー的な流れにおいてどのように位置づけられるかと言う問題は単純ではない。特にイラ
ク戦争には民主党系のタカ派から中道派的なグループまで幅広い人々が賛成したこともあ
り、
「リベラル・ホーク」という言葉でどこまで含むのかはかなり曖昧になっている。そこ
で以下では、本稿で検討している代表的論者の主張が 90 年代当時にどのように位置づけ
られたかを検討したい。
まず指摘できるのは、武力行使の容認はリベラルすべてに起こった変化ではなかったと
いうことである。チョムスキー(Noam Chomsky)に代表される左派リベラルの中には、
依然として根強い反戦派が残っており、アメリカ軍による介入に対しては否定的なスタン
スをとっていた 37。これに対して、クリントン政権は民主党指導者会議(DLC)を基盤に
するなど中道・穏健的な性格を帯びており、それまでの民主党リベラルとはやや一線を画
していたと言える。彼らは従来の民主党の左派への偏向を中道寄りに修正しようとしてい
たが、軍事力の行使についても条件反射的に拒絶するものではなかった。
しかしながらクリントンは第一に内政の大統領であり、ボスニア問題においても、外交
でトラブルを抱えたくないという意識を終始抱いていた 38 。また、レイクなど第一期クリ
ントン政権の外交チームを担っていた民主党穏健派は、積極的な人道的介入よりも西欧諸
国との安定した関係をより重視していた。その意味で、ボスニアへの介入を訴えていたリ
ベラル・ホークの論者と比較してよりプラグマティックであり、また軍事力の行使につい
ても選択的であった。
なお、保守の一部やネオコンの論者からも、ボスニアへの軍事的関与について肯定的な
意見は見られた。
『ポリシー・レビュー』誌上では代表的な保守系知識人のシンポジウムが
特 集 さ れ た が 、 ギ ャ フ ニ ー ( Frank J. Gaffney Jr. ) や カ ー ク パ ト リ ッ ク ( Jeane J.
36
Krauthammer, op. cit.
“Bosnia Divides Pacifists; Peace Groups Split on Military Action”, The Washington Times, May 9, 1993,
Sunday, Final Edition
38 Halberstam, op. cit.
37
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Kirkpatrick)など多くの論者がボスニアへの軍事的関与を支持していた 39 。このように、
ボスニア問題においてもネオコンとリベラル・ホークには共通する主張や類似性が指摘さ
れ、「奇妙な共闘関係(strange bedfellow)」と揶揄されることすらあった 40。両者が本質
的にどこまで違うのかについて本稿では深入りしないが、人権・民主主義の拡大といった
普遍主義的な面とともに、アメリカの国益というナショナリスト的な側面も内部で共存さ
せている点がネオコンの特徴であるとする指摘がある 41。
4 . 役割と
役割 と 自己認識
リベラル・ホークの「人権擁護のための武力介入」という主張が、実際にどこまでアメ
リカ政府のバルカン政策に影響を及ぼしたのかを断定することは難しい。
『US ニュース&
ワールドレポート』誌のストロベル(Warren P. Strobel)や、国務省でユーゴ問題に取り
組んだバルカン専門家のウェスタン(Jon Western)のように、リベラル・ホークやメデ
ィアが介入過程で果たした役割について肯定的に論じる者もいるが 42 、リベラル・ホーク
的な主張は所詮一部の運動に過ぎないとする見方も強い 43。
否定的な見解を持つ論者は、リベラル・ホークの介入圧力が紛争の終結を導いたという
見方を幻想に過ぎないとする。彼らに言わせれば、90 年代のアメリカ外交政策においても、
人道的介入といった道徳的責務は中心的なドクトリンではなかった。というのも、共和党
の多数はバルカンでの紛争において軍事行動に反対したし、ジェノサイドはアメリカの国
家安全保障政策とは何の関係もなかったという 44。
既に述べたように、アメリカがセルビア人勢力への空爆にまで踏み切った背景には、ア
メリカ国内の介入圧力に加えて現地の情勢、西欧諸国の政策転換など様々な事情が錯綜し
ていた。NATO による空爆に至った一つの要因としては、ボスニア問題がクリントン政権
にとって重荷になっており、96 年選挙に悪影響を及ぼしかねないという懸念があった。ま
た、当初はアメリカによる空爆に反対していたフランスで 95 年 5 月にシラク(Jacques
39
“To Die in Sarajevo: U.S. Interests in Yugoslavia,” Policy Review, Fall 1992
Halberstam, op. cit. p, 307
41 中山、前掲書、p, 116
40
42 Warren P. Strobel, “The Media: Influencing Foreign Policy in the Information Age”
http://usinfo.state.gov/journals/itps/0300/ijpe/pj51stro.htm;Jon Western, ”Sources of Humanitarian
Intervention: Beliefs, Information, and Advocacy in the U.S. Decision on Somalia and Bosnia”
International Security, Vol.26, No.4 (Spring 2002)。ウェスタンは、リベラル人道主義者と介入強硬派、メデ
ィアの連合が政府に圧力をかけ、介入を実現したと主張する。
43
John Dumbrell, “Was There a Clinton Doctrine?: President Clinton’s Foreign Policy Reconsidered”
Diplomacy & Statecraft, 13:2 (2002)など
44
Holmes, op.cit.
- 13 -
Chirac)が大統領に就任すると、アメリカの毅然たる態度と本格的な軍事介入を要求した
という変化もあった。さらに、95 年 7 月のセルビア人勢力によるスレブレニツァ侵攻も大
きな転換点であったと言える。スレブレニツァは国連が安全地域に指定していたにもかか
わらず、多くのムスリム系住民が殺害された。この事件はクリントン政権のみならず世論
にも大きな衝撃を与えた。このように見ていくと、政策形成過程においてどの要素が重要
であったと単純に断定することは困難であるように思われる。
しかしながら、リベラル・ホークの果たした役割について肯定的な意見も強く存在する。
「リアリズムは決してジェノサイドの敵ではない・・・リアリストを心配させたのは、バ
ルカンでの NATO の軍事介入がロシアとの関係を悪化させかねないということだった」45
という指摘も、恐らく否定できないであろう。クリントン政権がユーゴへの関与にそれほ
ど熱意を示していなかったことを考えると、やはり、彼らが掲げた「人道的介入」という
アイディアとアジェンダ・セッティングは無視できない要素であったと言えるのではない
だろうか。また、結果的に NATO 軍による空爆の圧力を背景に和平合意が結ばれたことか
ら、リベラル・ホークの主張が軍事介入というかたちで実を結んだというように見ること
もあながち不可能ではなかった。
それでは、リベラル・ホーク自身は、ボスニア問題へのアメリカの関与において、自分
たちの思想や存在意義をどのように捉えていたのだろうか。彼らの論調を見る限りでは、
ボスニア問題がリベラル・ホークに与えたフィードバックは、概ね肯定的なものであった
と考えられる。ボスニアへの介入が遅きに失したことで多くの犠牲者が出たことは、早期
に適切な介入をすべきという教訓となった。また、NATO の空爆を背景に和平が達成され
たという事実は、後のコソボにおいてより積極的に介入を促すことにもつながったと考え
られる 46 。またリベラル・ホークの論者は概して、ボスニア問題へのアメリカの関与にお
いて道徳的責務が果たした役割を高く評価していると言える。そのため、リベラル・ホー
クの論者の主張の中には、ボスニア問題などを経て「人権のための武力行使」という理念
がアメリカ外交において果たす役割は大きくなったとする理解を示すものも少なくない 47 。
リーフの考えでは、冷戦期を通して「反共産主義」が最重要な行動原理であったのと同じ
ように、まさに「人権」が 90 年代の最重要な行動原理になったのだという 48。
45
Berman, op. cit. p, 84
Steinweis, op. cit.
47 Starobin, op. cit. など
46
48
Rieff, op. cit. p,37
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おわりに
本稿では、冷戦後の新たな国際環境のもとで発生したボスニア問題において、リベラル・
ホークがどのような主張を展開していたのか、またそこにはどのような思想的な特徴が見
られたのかを論じてきた。
イラク戦争については本稿で深く立ち入ることはしないが、リベラル・ホークに与えた
衝撃の大きさという点で興味深い展開を見せている 49。2003 年の対イラク開戦には、リア
リストの論者のほとんどが反対に回る中、共和党保守派やネオコンと並んでリベラル・ホ
ークの多くも賛成に回った。しかしその理由付けは、ブッシュ政権や共和党の大多数が、
大量破壊兵器(WMD)に対する自衛の必要性やテロ対策を目的に掲げていたのとは異な
った。リベラル・ホークが依拠した根拠は主に、フセイン政権を打倒することでイラクの
抑圧された人々を救うという、人道的介入論に近いものであった 50。
しかしながら、イラク戦争が混迷の様相を呈し始め、アメリカ軍やイラク市民に多数の
被害が出るようになると、戦争への賛同が正しかったのかについてリベラル・ホークの多
くが自己のあり方を問い直している 51 。そのため、ボスニア問題におけるリベラル・ホー
クを、現在の視点から振り返って批判的に検討することには、イラク戦争の評価と関連し
て否定的なバイアスがかかってしまうことは否めない。しかしながら、90 年代に彼らが唱
えた人道的介入論を、単にイラク戦争と結びつけてのみ見ることはリベラル・ホークのあ
り方を捉える上でやはり充分ではないと思われる。
リーフは後に、リベラル・ホークには「世界の状態を戦略的に考えることをしない傾向」
があり、ネオコンと結合することで「人権」をアメリカ帝国主義のイデオロギーにしてし
まったとして、アメリカの軍事介入に否定的なスタンスを取るようになる。当然それはイ
ラク戦争を支持したリベラル派知識人を批判するものであったが、「私の心は割れている
(“I am of two minds”)」という言葉に端的に示されるように、人道的介入論に対しては
複雑な心境を告白している。イラク戦争は否定しつつも、ボスニアやルワンダへの介入を
49
George Packer, “The Liberal Quandary over Iraq” New York Times , December 8, 2002; Anatol Lieven,
“Liberal Hawk Down” The Nation , October 25, 2004; Matthew Continetti, “Liberal Hawks, an Endangered
Species: What Iraq Has Done to the Interventionists of the Democratic Party” The Weekly Standard,
05/28/2007, Vol012; Robert D. Kaplan, “Interventionism’s Realistic Future” Washington Post November 22,
2006 などを参照
50
中山、前掲書 p107
51
『スレート』の試みもそのようなものの一つであった。また、ネオコンとリベラル・ホークは結局のところ
同類なのではないか?という問いとそれに対する反論のやりとりが見受けられる。Roger Cohen, “The new
L-word: 'neocon'”, International Herald Tribune , October 3, 2007 など参照
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主張した倫理的正当性を否定することはできず、やはりボスニアには介入する正当な大義
(just cause)があったという確信は持ち続けている 52。リーフに限らず、現在のリベラル・
ホークにとっても、ボスニアやコソボへの介入は否定されるべきものとしては考えられて
いないのではないだろうか。
リベラルを代表する国際政治学者のアイケンベリー(G. John Ikenberry)も、「人道的
介入論には、専制的なパワーの行使から、賢明なパワーの行使を区別する能力を内在して
いない」ために、安易に軍事力行使の正当化に用いられる危険性を認める。しかし同時に
人道的介入論の理念自体は擁護しており、イラク戦争によって「人道的介入のプロジェク
ト」全体が否定されたとリベラルは考えるべきではない、と主張している。というのも、
イラク戦争はそもそも人道的介入ではなく、従って失敗例ではありえないからだという 53。
ここでもやはり、たとえイラク戦争支持が間違ったものであったとしても、ボスニアやコ
ソボへの関与は正当なものであったという認識を見ることができる。
それでは、リベラル・ホークの思想は果たして、冷戦直後という特殊な時代に現れた一
時的な潮流であり、イラク戦争によって消えていくものなのであろうか。あるいはより深
くアメリカの知的伝統に根ざした思考様式と見るべきなのであろうか。ケナン(George F.
Kennan)はアメリカ外交における「根本的な現実」について、次のような言葉を残して
いる。
「・・その現実とは、軍事的な力を政治的政策に関連づけるための、一般的に受け入
れられ、長続きするような理念の欠如であり、他国との関係において、現実的でそして切
実な必要となっている成果を達成することよりも、むしろわれわれ自身についての自己満
足的イメージを増幅させるために、他の国々に対する政策を形成しようとする相変わらず
の傾向である。」 54
冷戦終結からボスニア問題にかけて活発になったリベラル・ホークの主張は、良い・悪
いという価値判断は別にして、ケナンが戒めた「法律家的・道徳家的アプローチ」の一類
型であったと考えることができるのではないだろうか。このようなウィルソニアン的な思
考様式、すなわち外交において理念を重視する考え方は、アメリカ外交に伝統的に存在し
てきた。そして、両大戦の前後をはじめとして、国際環境の変化や大きな政策転換に際し
52
Rieff, op. cit. p, 7
53
G. John Ikenberry, “A Wilsonian Family Quarrel?” TPM Cafe , November 1,
2005(http://americaabroad.tpmcafe.com/story/2005/11/1/10058/1863)
54
ジョージ・F・ケナン『アメリカ外交 50 年』岩波書店、2000 年、1985 年版への序
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て形を変えつつも繰り返し登場してきたと言うことができよう。とすれば、イラク戦争に
よって深刻な影響を受けつつも、リベラル・ホークが掲げた「人道的介入」というアイデ
ィアは、将来のアメリカ外交においてもやはり無視できない存在であり続けるのではない
だろうか。
また、喫緊の情勢を考える上でもリベラル・ホークを無視することはできないと思われ
る。もちろん、現在の時点で 2008 年大統領選挙の結果を予測することが時期尚早である
ことは言うまでもない。しかし、仮に民主党政権が誕生した場合に、バルカンへの積極的
関与を主張したホルブルックらが再びアメリカ外交の舵取りに関与することは、可能性と
して存在している。次の「ボスニア紛争」があり得るかはわからないが、リベラル・ホー
クというムーブメントが今後どのようなものになるのかを考える上で、90 年代に見られた
議論を見直すことには少なからぬ意義があるのではないだろうか。
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参考文献(注に挙げたもの以外)
参考文献
・久保文明他『国際情勢ベーシックシリーズ⑧
北アメリカ』自由国民社、2005 年
・久保文明編『G・W・ブッシュ政権とアメリカの保守勢力
―共和党の分析―』財団法人日本国
際問題研究所、2003 年
・久保文明編『米国民主党
―2008 年政権奪回への課題―』財団法人日本国際問題研究所、2005
年
・山本吉宣『「帝国」の国際政治学―冷戦後の国際システムとアメリカ』東信堂、2006 年
・佐々木卓也編『戦後アメリカ外交史』有斐閣、2002 年
・浅川公紀『アメリカ外交の政治過程』勁草書房、2007 年
・中山俊宏「解説
リベラル・デモクラティック・インターナショナリストによる帝国是認論―マ
イケル・イグナティエフと対イラク武力行使をめぐる論争」イグナティエフ(中山俊宏訳)
『軽い
帝国』風行社、2003 年
・G. John Ikenberry, “The Costs of Victory: American Power and the Use of Force in the
Contemporary Order” in Kosovo and the Challenge of Humanitarian Intervention:
Selective Indignation, Collective Action, and International Citizenship edited by
Albrecht Schnabel・Ramesh Thakur (United Nations University Press, 2000)
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