明石文学散歩 -源氏物語から川上弘美まで

平成 21 年度第 4 回図書館利活用講座
明石文学散歩
-源氏物語から川上弘美まで
開催日 平成 21(2009)年 10 月 3 日(土)
午後 1 時半~4時半
会 場 兵庫県立図書館 1階 第 2 研修室
現地探訪 図書館~人丸山~無量光寺
日
程
13:30~
開会・日程説明
13:35~
講義「明石文学散歩-源氏物語から川上弘美まで」
講師
西田尚美
兵庫県立図書館
主任調査専門員
現地探訪
引率:西田尚美
16:30
解散(無量光寺)
-1-
尾崎肇
熊野清子
谷口充利
図書館からのお願い
1.名札は、講座受講中は必ず着用してください。
2.現地探訪は、2 列になって前の人に遅れないように
歩いてください。
3.引率者の指示に従い、列から離れたり危険な場所に
近寄らないようにしましょう。
4.無量光寺で解散時に名札をお返しください。
5.体調管理には各自気をつけ、もし具合が悪くなれば
すぐに引率者に声をかけてください。
6.万一、探訪の列から離れて迷子になったときは、
078-918-2586(県立図書館協力課直通)まで
電話してください。
-2-
現地探訪コース
兵庫県立図書館 → 明石市立文化博物館 → 亀の水
→ 人丸山月照寺・柿本神社 → 明石市立天文科学館
→ 馬塚・両馬川旧跡
→ 山陽電鉄人丸駅
→ 腕塚・忠度塚 → 人丸花壇 → (西林寺)
→ 中崎公会堂 → 朝顔光明寺 → 善楽寺・無量光寺
解散
→ 魚の棚 → 明石駅
→ 西新町駅
-3-
兵庫県立図書館
1974 年隣接する明石市立図書館と同時に開館。
地上 3 階、地下 1 階。蔵書数約 55 万冊。
県内全域への資料貸出サービス、調査相談を行う
とともに、専門書、郷土資料、行政資料を中心に
収集保存を行っている。
川上弘美「ゆっくりさよならをとなえる」新潮社(914.6/1761)
*(
(初出 2001)
)内は兵庫県立図書館の請求番号
p119「明石の人たちは、明るくおおらかだった。明石という土地と同じく。私は明石がほんと
し ゃ こ
うに好きだった。魚の棚市場で買ったバケツいっぱいの生き蝦蛄。ゆでて、指を蝦蛄のとげに刺
されながら、でもあんまりおいしいのでかまわずどんどん食べた。
魚住の町の道。夏で、少しほこりっぽくて、一生に一篇くらいは小説を書いてみたいものだと
思いながら、私は日傘をさしてどこまでも歩いた。
松江の浜。平日には、誰もいなくて、私は明石城趾のそばの図書館で借りた本を膝の上に広げ、
ぼんやりと沖を眺めた。
明石に住んだ短い期間、私の血は澄んでいたように思う。胸はいつも新しい空気に満たされて
いたように思う。
その後もまた引っ越しを繰り返し、今では私は明石にとって「よそ」の人になってしまった。
でもたぶん、ほんの少しだけ明石の空気は私の体の中には残っているのだと思う。明石に引っ越
しをした春という季節が来ると、体の中がいつもより明るくなるから。さんさんと差す明石の日
の光を、思い出すから。
そのとき、私は確かに明石の人に戻っているのである。」
川上弘美と明石
1958 年東京生まれ。お茶の水女子大学卒業後、4年間田園調布雙葉中学校・高等学校
(世田谷区)で生物の教員をする。結婚後退職。夫の転勤に伴い明石に1年間ほど住む。
1996 年「蛇を踏む」で芥川賞受賞。作品に「センセイの鞄」「真鶴」
「溺レる」など。
亀の水
1699(元禄 12)年に柿本神社への西の参道が造ら
れた時、人丸山上に水がないため、手水鉢として
設けられたのが始まり。現在の手水鉢は罪人を追
って明石までやってきた常陸の国の目明かし飯塚
宣政が、柿本神社に祈願し役目を成就できたので
1719(亨保4)年に寄進したと言われる。
-4-
稲垣足穂「明石」小山書店(291.643/78) (初出 1948) ①
p85「・・この町のたれの手拭もタオルも何故真赤になってゐるかといふわけを、私にをしへた。
海べには塩分が多い。市中の井戸は金気くさく、水あかが出て、そのままではたうてい使へない。
これが、住みよい土地の唯一の欠点である。しかし悪水の明石にも飛切り上等の水がある。
」
稲垣足穂と明石
1900~1977 年。大阪の歯科医の次男として生まれる。小学生の時祖父母のいる明石に
移住。関西学院普通部卒業後、上京して佐藤春夫に師事。1923 年「一千一秒物語」出版。
アルコール、ニコチンの中毒により執筆活動が出来ない日々を送り、1930 年明石に帰る。
その後、文壇から遠ざかり各所を転々とするが、終戦後創作を再開。
「タルホ」ブームが
おきる。作品に「星を売る店」「弥勒」「A感覚とV感覚」「少年愛の美学」など。
永井荷風「罹災日録」(「戦争文学全集3」)毎日新聞社(918.6/16/3) (初出 1947.扶桑書房)①
p24「漫歩、明石神社を拝し、林間の石段を上りまた下りて人丸神社に至る。石磴の麓に亀の
井と称する霊泉あり。掬するに清冷氷の如し。神社に隣りして月照寺といふ寺あり。山門甚古雅。
庭に名高き八房の梅なるものあり。海湾の眺望城址の公園に劣らず。石磴を下り電車通に至る間
け
し
路傍の人家に罌粟、矢車草、長春花(キンセンカ)の花絢爛たるを見る。麦もまた熟したり。」
永井荷風と明石
1879~1959 年。東京で士族の長男として生まれるが、落語家に弟子入りしたり、歌舞伎に
りゅうろう
なろうとしたり、自由奔放な生活を送る。作家広津 柳 浪 に師事し、ゾラ、モーパッサンに傾
倒する。1903 年より 1908 年まで外遊。帰国して「あめりか物語」「ふらんす物語」
(発禁)を発表し、文名を高める。1910 年慶応大学教授となり「三田文学」を創刊。
その一方、花柳界を好み「腕くらべ」「つゆのあとさき」などを著す。1945 年 6 月戦禍か
ら逃れ明石の西林寺へ避難し、その後岡山へ疎開。1952 年文化勲章受章。作品に「日和下駄」
「断腸亭日乗」など。
人丸山月照寺・柿本神社
弘仁2(812)年弘法大師空海が赤松山(現在の明石城祉)
に湖南山楊柳寺(ようりゅうじ)を創建し、仁和3(887)年
楊柳寺覚証和尚が寺号を月照寺と改めた。
明治4(1871)年神仏分離令により人丸社は月照寺より分離
して柿本神社となった。
-5-
「 伝 説 漫 歩 ( で んせつ そ ぞ ろ あるき ) 」 タウンクリエイトイーダッシュ AS ぽけっと編集室
(388.1/K33)
「取りつぶしとなった赤穂藩の大石良雄と間瀬久太夫の二人が、四十六人の同志と吉良義央(き
らよしなか)を討って亡き主君の恨みをはらすべく江戸へ向かう道中に立ち寄った人丸山月照寺。
柿本神社で「なにとぞ、われらの大願をかなえてください」と手を合わせます。そして立ち去ろ
うとしたときに、ふと思いつき久太夫は荷物のなかから、ひとはちの梅の盆栽を取り出し、梅を
はちから抜き境内に植えました。
「今は木の植え替えにはむかぬ真夏だが、大願がかなうなら梅も
根付きましょう」赤穂浪士が無念をはらしたその年の暮れ、
見事に梅は咲きました。その梅は一つの花に八つの実をつけ
たことから人々は「赤穂浪士の魂がこもっているのだろう」
と「八つ房の梅」と名づけて大切にしました。
」
柿本人麻呂「新編日本古典文学全集 6、8
萬葉集①、③ 巻第 3、第 11」小学館(918/22/6、8)
○ともしびの明石大門(おおと)に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず
(月照寺歌碑「万葉集」巻 3 254)
(明石の海峡に船がさしかかる日には大和とも漕ぎ別れることであろうか
家の辺
りも見られないで)
○天離(あまざか)るひなの長道(ながぢ)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ
(人丸神社歌碑「万葉集」巻 3
255)
(遠い田舎からの道のりを恋しく思いながらやってくると
明石の海峡から大和の山々が見え
てきた)
○あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねむ
(人丸山公園歌碑 「万葉集」巻 11 2802 では詠み人知らず。百人一首では人麻呂作 )
(山鳥の尾のように長いこの秋の夜を、私は一人寂しく寝るのであろうか)
芭蕉ほか「新編日本古典文学全集 70、20
○蛸壺やはかなき夢を夏の月
松尾芭蕉集②、源氏物語①」小学館(918/22/70、20)
芭蕉(人丸山展望台「笈の小文」)
(夏の月が、こうこうと夜の海面を照らす海の底で、蛸壺のタコは捕らわれの身とも知らず、
なんとはかない夢をむさぼっていることだろうという意味に解されている。また、
「はかなき
夢」には、平家一門にまつわる哀れを重ね合わせているという解釈もある。)
○ゆほびか(文化博物館前「源氏物語(若紫)
」)
(「ゆほびか」とは、豊かに広々としている事。
「新編日本古典文学全集源氏物語①
若紫p202」
に「近き所には、播磨の明石の浦こそなほことにはべれ。何のいたり深き隈はなけれど、た
-6-
ことどころ
だ海のおもてを見わたしたるほどなん、あやしく他 所 に似ずゆほびかなる所にはべる」(都
に近いところでは、播磨の明石の浦、これがやはり格別でございます。どこといって奥深い
趣のあるところではございませんけれど、ただ海の面を見渡した風景が、なぜかよそとちが
ってゆたかに広々とした所でございます。)とある。)
稲垣足穂「明石」小山書店(291.643/78 )(初出 1948) ②
p95「人丸が亡くなって四百年あまりたつて、ここに粟田
さぬきの守兼房といふのが、思ふやうに和歌ができないので、
一生懸命人丸を拝んでゐた。ある夜、梅の花が雪のやうに散
の う し
りしいてゐるところに、直衣に薄色(薄紫色)のさしぬきを
穿き、くれなゐの下の袴をつけ、なえたエボウシをかむつた
老人が立つてゐた。左手に紙を、右に筆を持つてゐるのが、
こちらへ口を開いて、おんみ日頃人丸を心にかけてゐるによ
つてこの姿を見せる・・・と云つたまま消えてしまつた。
柿本神社
この夢の印象を、畫工信茂にゑがかせて拝んだところ、歌は思ふやうに作れた。兼房が亡くな
って、絵は鳥羽宝蔵中に加へられたが、六條顕季(あきすえ)がこれをきいて、ぜひにと借りう
けてうつしを作らせた。この絵を懸けて行はれた歌合せが、人丸影供(ひとまるえいぐ)の始ま
りで、元永二年六月十日(1119 年)のことだとある。」
松本清張「Dの複合」(「松本清張全集3」)文芸春秋 (918.68/65/3)
p232「<伊瀬忠隆の取材ノートより>
(初出 1968.光文社)
拝殿の中の欄間には、百人一首のような奉納額が掲げ
られてある。三十六歌仙ならんか。
拝殿から逆に門に向かうと、灯台のような白い塔が屹立してみえる。どこかで見たような景色
だと思ううち、京都の東本願寺から京都タワーを見た風景だと思い当たった。この塔は隣接の明
石天文科学館なる由。
門に向かって石だたみを歩くと、左側に社務所や休憩所がある。折りから婦人たちが集まって
歌会を催していた。それが二組もあったのにはさすがだと思う。右側は内庭となっていて植込の
間に歌碑などが立っている。門前から石段を降りて、地つづきの天文科学館に向かう。浜中君の
勧めによる。一見して悪くなかろうと思う。
歌会の席より中座して出てきた和服の女性あり、年齢は二十七、八歳ぐらい。すこぶる美人な
れば記憶にとどめてここに追記する。
○天文科学館にはいる。見学料を要する。館内にプラネタリウムがあるためらしい。塔内のエ
レベーターで展望台に立ったが、館員の説明は、このエレベーターの通じているところが、
『東経
一三五度の通過線です』という。改めて珍しそうに函(ケージ)の中を見まわす。してみると、
この塔そのものが東経一三五度通過の標識というわけである。
展望台に出る。明石市内はもとより、海峡を越えて淡路島の北端が手に取るように見える。左
に神戸、右に姫路の湾曲部が両手をひろげたようなかたちで霞んでいた。」
-7-
「Dの複合」あらすじ
売れない作家の伊瀬は、雑誌「草枕」から羽衣・浦島伝説を探る紀行文を書く依頼を受け
る。編集の浜中と取材旅行に出かけるが、木津温泉の宿の近くで白骨死体が見つかる。その
後雑誌が出版されると、柿本神社で出合った美女坂口みま子が尋ねて来て、35 の秘密を知っ
ているという。しかし、みま子は熱海の山中で絞殺されてしまう。
伊瀬はやがて自分たちが取材している場所や距離がことごとく数字の 35、135 に関係があ
ることに気づく。
松本清張と明石
1909~1992 年。今年が生誕 100 周年。九州小倉生れ。給仕、印刷工などいろいろな職を
さいごう さつ
経て朝日新聞西部本社に入社。41 歳で懸賞小説に応募、入選した「西郷札」が直木賞候補
となり、1953 年、「或る「小倉日記」伝」で芥川賞受賞。推理小説界に“社会派”の新風を
生む。
1955 年明石原人発見者の直良信夫をモデルにした小説「石の骨」を発表し、信念を貫く
考古学者の姿を描いた。1963 年 6 月旅館「人丸花壇」に 10 日間ほど逗留しているが「Dの
複合」p231 では、「加古川の町を通り抜け、右側の方に淡路の灯が見え隠れしているうちに
明石市内に入り、着いたところ海岸に面した「人丸花壇」という旅館だった。二階に通され
ると、正面が淡路島で、もう、島の形は見えず、真向かいの岩屋あたりの灯が輝いているだ
けだった。その間には漁船の赤い灯が点々としていた。」と書いている。
内田康夫「「須磨明石」殺人事件」徳間書店
(初出 1992)
p17「人丸とは、もちろん万葉歌人柿本人麿のことである。柿本人麿は旅の途中、明石の風光
あまざか
ひな
な が じ
と
を愛でて、沢山の歌を詠んでいる。
〔天離る夷の長道ゆ恋ひくれば明石の門より大和島見ゆ〕は由
香里の好きな歌だ。
その人麿を祀った「柿本神社」は崎上家と道をひとつ隔てた向かい側の岡にある。だから、人
麿が歌を詠んだのもきっとこのあたりだったにちがいない。
当時は海も近く、もちろんこんなに家が建て込んでもいなかっただろう。のどかな岡の上から
明石海峡を望んで、あの歌聖・柿本人麿が〔天離る-〕
と、しみじみ旅情を詠った昔が、ほんとうにここにあっ
たのだと思うと、由香里はまるで万葉人のように、おお
らかな気分に浸ることができるのである。」
明石市立天文科学館
-8-
山陽電鉄
人丸駅
1917(大正 6)年兵庫電気軌道により開業。1927(昭和 2)
年会社合併により宇治川電気の駅となり、1933(昭和 8)年
事業譲渡により山陽電気鉄道の駅となる。1991(平成 3)年
山陽明石駅とともに高架化。第 3 回近畿の駅百選に選定。
乗降人数 1218 人(2007 年 1 日平均)。東経 135 度線が通過
しており、ホーム上やや西寄りに子午線を示す線が引かれ
ている。
p36「人丸駅のホームには東経一三五度の子午線が、ほぼ直角に横切るように、赤い塗料で印
されてある。その線を真北の方角に辿ると、二百メートルばかり先に明石天文科学館のドームが
聳え立っている。逆に真南に向くと、ちょうど正午の太陽を振り仰ぐことになる。つまり彼(浅
見光彦)は科学館と太陽を結ぶ線上に佇んでいるわけだ。
」
「「須磨明石」殺人事件」あらすじ
大阪の新聞社に勤める新人記者、前田淳子が失踪した。依頼を受けた浅見光彦は、失踪
当日淳子と須磨浦公園駅まで一緒だった明石に住む神戸女子大生、崎上由香里と捜索を始め
る。明石原人について取材中だった淳子は、当日二人連れの男を気にしていたという。しか
し旗振山で淳子の死体が発見され、情報を握る男も移情閣で死体で発見される。
内田康夫と明石
1934(昭和 9)年東京生まれ。コピーライター、CM制作会社社長を経て、1980 年『死者
の木霊』で作家デビュー。1982 年からは作家業に専念。名探偵浅見光彦が登場する数々の
作品は、テレビ化、映画化されている。作品に「鄙の記憶」
「天河伝説殺人事件」
「藍色回廊
殺人事件」など。明石を取材で訪れたのは 1992 年初夏で、その年の 11 月に「須磨明石殺人
事件」を発表した。
椎名麟三「美しい女」中央公論社(913.6/38)
(初出 1955)
p79「私は、バッテラ(木製の単車)と違ってちゃんとドアのある車掌臺に凭れながら海を見て
いた。水平線近くに、巨大な木の葉に似た雲が浮かんでいて、私たちの車の進行と歩調を合わせ
ながらぎこちなく動いていた。海面はぴかっと光って、波はその光の下で、首でもすくめるよう
に揺れた。その向こうを、三本煙突をつけた白い小さな砂糖菓子のような汽船が生意気そうに走
っていた。駄菓子屋で買えば一銭ぐらいの大きさだな、と私は思った。
そのとき私は明日地球がほろぶということがはっきりしていても、今日このように電車に乗っ
ている自分に十分であり、この十分な自分には、何か永遠なるものがある、というおかしな気が
していたのである。」
-9-
「美しい女」あらすじ
電鉄従業員の「私」は美しい海岸を走る電車に愛着を持って仕事に励んでいるが、平凡
でひどく勤勉なためにかえって同僚から嘲笑されていた。そんな「私」を支えているのはど
こかに美しい女がいるという想念である。しかし、現実に現れるのは「私」を理解してくれ
ない三人の女達だった。死や暴力、異常なことを嫌う「私」は、戦前戦中戦後と極端から極
端に揺れ動く社会や人々に対し辛抱強く柔軟な抵抗を続ける。
椎名麟三と明石
1911~1973 年兵庫県姫路市生まれ。家庭の事情から困窮し、14 歳で家出。旧制姫路中学(現
姫路西高等学校を中退し、果物屋、出前持ち、コック見習いなどの職を転々とした。宇治川
電鉄(現山陽電鉄)の車掌時代に日本共産党に入党。1931 年に特高に検挙されたが、獄中
で読んだニーチェ『この人を見よ』をきっかけに転向し文学を志す。1950 年キリスト教へ
入信。作品に「深夜の酒宴」「永遠なる序章」「邂逅」など。
ただのり
馬塚・両馬川旧跡・腕塚・忠度塚
馬塚:平経正の馬を埋めた所
両馬川旧跡:1184(寿永三)
と言われる。経正は清盛の弟
年2月一の谷の戦いで敗れ
経盛の長男、敦盛の兄。琵琶
た平忠度が岡部六野太(ろく
の名手として知られる。一ノ
やた)に追いつかれ馬を並べ
谷の合戦で河越小太郎重房
て戦ったので「両馬川」と名
の手勢に討たれる。
がついたと伝えられる。
「新編日本古典文学全集 46
腕塚神社:忠度
忠度塚:清盛の
の右腕を祀っ
末弟忠度の墓
ている。神戸市
と伝えられる。
長田区にも腕
神戸市長田区に
塚がある。
も胴塚がある。
平家物語 2
巻第九
忠度最期」小学館(918/22/46)
p227「やがて刀をぬき、六野太を馬の上で二刀(ふたかたな)
、おちつく所で一刀、三刀までぞつか
れける。二刀は鎧の上なればとほらず、一刀は内甲(うちかぶと)へつき入れられたれども、うす手な
わらわ
れば死なざりけるを、とッておさへて頸をかかんとし給ふところに、六野太が童 おくればせに馳せ来
ッて、打刀(うちがたな)をぬき、薩摩守の右のかひなを、ひぢのもとよりふつときりおとす。
・・
(中
略)
・・よい大将軍をうッたりと思ひけれども、名をば誰とも知らざりけるに、箙(えびら)にむすび
- 10 -
付けられたる文をといてみれば、
「旅宿花(りょしゅくのはな)
」といふ題にて、一首の歌をぞよまれた
る。
『ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひの主ならまし 忠度』と書かれたりけるにこそ、
薩摩守とは知りてンげれ。
」
(すぐに刀を抜き、六野太を馬の上で二刀、馬から落ちたところで一刀、あわせて三度までお突きに
なった。初めの二刀は鎧の上なので通らない、あとの一刀は内甲に突き入れられたが、軽い傷なので死
ななかったのを、取り押さえて首を斬ろうとなさるところに、六野太の童が後ろから駆けて来て、打ち
刀を抜き、薩摩守の右の腕を、肘のつけ根からふっつと斬り落とす。
・・
(中略)
・・六野太は立派な大
将軍を討ったと思ったけれども、名は誰ともわからなかったが、箙に結びつけられた文を解いて見ると、
「旅宿花」という題で、一首の歌を詠まれていた。
『旅の途中で日が暮れて桜の木の下陰に宿るならば、
桜の花が今夜の主となり、もてなしてくれるであろうか 忠度』と書いていられたので、薩摩守とはわ
かったのであった。)
中崎公会堂
1911(明治 44)年「明石郡公会堂」として、明石町
と 11 か村によって建てられた。奈良・鎌倉の建築様式
を取り入れた和風建築。8 月 13 日の杮落としには夏目
漱石が招かれて記念講演を行った。当日は有名な作家
先生を一目見ようと 1000 人を超す聴衆が大広間(収容
人数 200 名)を埋め尽くした。1983(昭和 58)年に大規
模な改修工事が行われた。
夏目漱石「道楽と職業」
(
「日本の名随筆 75」
)作品社(914.6 /218 /75) (初出 1911.朝日新聞社)
<参考>内田百閒『明石の漱石先生』「日本の名随筆別巻 61 美談」作品社(914.6/218/161)
p71「けれども明石という所は、海水浴をやる土地とは知っていましたが、演説をやる所とは、昨夜
到着するまでも知りませんでした。どうしてああいう所で講演会を開くつもりか、ちょっとその意を得
るに苦しんだくらいであります。ところが来てみると非常に大きな建物があって、あそこで講演をやる
のだと人から教えられてはじめてもっともだと思いました。なるほどあれほどの建物を造ればその中で
講演をする人をどこかから呼ばなければいわゆる宝の持腐れになるばかりでありましょう。
」
講演「道楽と職業」概要
職業は時代とともに多様化するが、それに伴って専門化、孤立化し「相互の知識の欠乏と
同情の希薄」という弊害が生まれてくる。それを改善するためには文学書を読むことを勧め
る。また、
「職業というものは要するに人のためにするものだということに、根本義を置かな
ければなりません。人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本
位である。
・・
(中略)
・・いやしくも道楽であるあいだは自分勝手な仕事を自分の適宜な分量
ちがい
でやるのだから面白いには違 ないが、その道楽が職業へと変化する刹那に今まで自己にあっ
やむ
た権威が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦痛になるのは已を得ない。
」これが道楽と
職業の違いである。
- 11 -
夏目漱石と明石
1867~1916 年。東京生まれ。東京帝国大学英文科卒業。愛媛県尋常中学教師、熊本の第
五高等学校講師などを務めたあとイギリスへ留学。帰国後東京帝国大学講師として英文学を
教えながら小説を書く。教職を辞して朝日新聞入社。作品に「吾輩は猫である」
「草枕」
「三
四郎」「それから」「門」など。
こけら
1911(明治 44)年 8 月 13 日、朝日新聞の依頼を受け中崎公会堂の 柿 落としに「道楽と職
業」の講演を行う。内田百閒の「明石の漱石先生」には漱石が宿泊した衝濤館に「紋附羽織
に袴を穿いた人達がうようよする程ゐました」と地元の名士が挨拶に詰めかけている様子、
講演の様子などが描かれている。
海岸より淡路島を臨む
稲垣足穂「明石」小山書店(291.643/78)
(初出 1948) ③
p70「明石の殿様といへば、小笠原忠眞、松平直明についで、信之とその父忠国があげられる
が、最も親しまれてゐるのは、直明候で、トノサマの話としてきかされたのは、みんなこの人の
ことであった。
沖はうつらうつらして、波戸崎に近づく帆影もない。カモメばかりが上り下りしてゐる初夏の
午後、巡視中にあった直明は、船虫が這ひづり廻ってゐる波戸崎の床几から立上がって、真正面
に遠メガネを向けた。
『島の畠に牛らしきが見ゆるぞ』
かういつて、かれは近習に、メガネを渡した。
『まことまこと牛が見えてつかまつりまする』
メガネは次へ廻される。
『げにげに牛も牛、黒牛の如く見受けられます』
筒は、三番目の者に渡された。
『いかにもいかにも』と、それを手にした家来は頷いた『黒牛が少しづつ動いてをりますヮ』
ここに一人、伊藤五郎右衛門だけが、何とも云はずにメガネを覗いてゐる。ややあつて殿の方
をかへりみて『その牛らしきもの、それがしにはいつかう見當りませぬが、いかが致した次第で
ござりませぅぞ』
アハハハと明るい笑ひが起こった。
『さうぢや』我君が云った。『そのとほり何も、最初から、見えぬのであつたヮ』
」
永井荷風「罹災日録」(「戦争文学全集3」)毎日新聞社(918.6/16/3) (初出 1947.扶桑書房)②
めいろう
p23「(昭和二十年)六月初三。
(~六月十二まで) 菅原(明朗
作曲家)氏に導かれ歩みて大
蔵町八丁目なる其邸に至る。邸内には既に罹災者の家族の来り寓するもの多く、空室なしとの事
に三四町隔りたる真宗の一寺西林寺といふに至り当分ここに宿泊することとなれり。西林寺は海
岸に櫛比(しっぴ
櫛の歯のように隙間なく並んでいること)する漁家の間に在り。書院の縁先
より淡路の島影を望む。海波洋々、マラルメが牧神の午後の一詩を思起さしむ。江湾一帯の風景
古来人の絶賛するところに背かず。殊に予の目を喜ばすものは西林寺の墓地の波打寄する石垣の
- 12 -
どしょう
そ さ い
上に在ることなり。墓地につづき数弓の菜園崩れし土墻をめぐらしたるあり。蔬菜(野菜)の青々
と茂りたる間に夏菊と芥子の花の咲けるを見る。これ亦海を背景となしたる好箇の静物画ならず
べつしょ
や。予明治四十二年湘南逗子の別墅を人に譲りてより後三四十年、一たびも風光明媚の海辺に来
り遊ぶの機会を得ざりき。然るに今図らずもこの明石に来りて、その静閑なること雨声の如き濤
声をきき心耳を澄すことを得たり。何等の至福ぞや。」
朝顔光明寺・善楽寺・無量光寺
江戸時代、「源氏物語」を好んだ五代藩主松平忠国によってつくられた源氏ゆかりの名所
朝顔光明寺
明石城主小笠原忠真が、現神戸市西区の福中城内から
現在地に移した。境内には光源氏ゆかりの「月見の池」が
あり、光源氏が「秋風に
波やこすらむ夜もすがら
あか
しの浦の 月のあさがほ」と詠んだという。
(「源氏物語」にはこの歌は出てこない)
本堂内陣の格子天井には、狩野派の画家岡田東虎の極彩
色の四季の草花が描かれている。
善楽寺
戒光院・円珠院を総称して善楽寺と言う。大化年中(645~650
年)に天竺の僧法道仙人によって創建された明石最古の寺。
1119(永久7)年に火災にあった寺を平清盛が再興したこともあ
り、境内には清盛供養の五輪塔がある。また宮本武蔵が作庭し
たと言われる枯山水の庭園もある。
善楽寺を明石入道の浜辺の館にみたて、境内に「明石入道の
碑」や「光源氏古跡明石の浦の浜の松」などの石碑がある。
また、いにしえの
名のみ残りて
有明の明石の上の 親住みし跡という松平忠国の和歌
の碑もある。
無量光寺
光源氏が月見をした寺で、境内に源氏屋敷や月見の松も
あったとされる。山門の彫刻は左甚五郎作と言われる。山
門を入って左手に源氏稲荷がまつられている。
光源氏が、無量光寺から明石の君の住む「岡部の館」へ
通った道が山門に向かって左手の「蔦の細道」とされる。
- 13 -
紫式部「新編日本古典文学全集 21
源氏物語 2
明石」小学館(918/22/21)
p233「浜のさま、げにいと心ことなり。人しげう見ゆるのみなむ、御願ひに背きける。入道の
領じめたる所どころ、海のつらにも山隠れにも、時々につけて、興をさかすべき渚の苫屋、行ひ
をして後の世のことを思ひすましつべき山水のつらに、いかめしき堂を建てて三昧を行ひ、この
世の設けに、秋の田の実を刈り収め残りの齢積むべき稲の倉町どもなど、をりをり所につけたる
見どころありてし集めたり。高潮に怖じて、このごろむすめなどは岡辺の宿に移して住ませけれ
ば、この浜の館に心やすくおはします。」
(浜の景色は、なるほどまことに格別の風情である。人の行き来の多そうなことだけが君のご希
望に添わないのだった。入道が領有している土地は、海岸にも山の陰にもあって、渚には四季折々
につけて、興趣を盛り上げるようにしつらえた苫屋を建てるとか、勤行をして後生を念ずるにふ
さわしく山水のほとりに立派な御堂を建てて念仏三昧に勤めるとか、またこの世の暮らしの用意
には、秋の田の実を刈り収めて余生を送れるよう米倉の町を営むとか、折りにつけ所につけて見
どころのあるよう万事ととのえてある。高潮に恐れをなして、近ごろは娘などを岡の麓の家に移
し住まわせているので、君はこの浜辺の館に落ち着いた気分でお住まいになる。
)
p234「所のさまをばさらにもいはず、作りなしたる心ばへ、木立、立石、前栽などのありさま、
えもいはぬ入江の水など、絵に描かば、心のいたり少なからん絵師は描き及ぶまじと見ゆ。月ご
ろの御住まひよりは、こよなく明らかになつかし。御しつらひなどえならずして、住まひけるさ
まなど、げに都のやむごとなき所どころに異ならず、艶にまばゆきさまはまさりざまにぞ見ゆる。」
(この地の有様はいまさらいうまでもなく、屋敷の造作にうかがえる趣向や、木立や石組、植込
みなどの風情、えもいわれぬ入江の水など、もし絵に描くとしても、筆の立つ絵描きでなければ、
とても描ききることもなるまいと思われる。この幾月かのお住まいよりは、格段に晴れ晴れとし
ていて和やかなご気分になられる。お部屋のしつらいなど言いようもなく善美を尽くして、入道
の暮らしぶりなど、いかにも都の高貴な邸のあれこれに変わるところがなく、まぶしいほどには
れやかな風情はむしろ立ちまさっているように思われる。
)
p239 あはと見る淡路の島のあはれさへ残るくまなく澄める夜の月
源氏
(昔の人が「あはれ」といって淡路島を眺めた折りの風情までも、残るところなく味わわせる今
夜の澄み渡った月よ)
- 14 -
兵庫県立図書館
〒673-8533
明石市明石公園 1 番 27 号
電話 078-918-3366(代表)
078-918-3377(調査相談)
http://www.library.pref.hyogo.jp
開館時間
休館日
9:30~18:00
毎週月曜日・毎月第 3 木曜日
年末年始(12 月 29 日~1 月 3 日)
特別整理期間(春季に 2 週間以内)
- 15 -