「“Made in Occupied Japan”(MIOJ)とその時代」(502kb)

陶業史こぼれ話 ⑭
『“Made in Occupied Japan”(MIOJ)とその時代』
近藤 進
日本陶磁器産業振興協会 参与
(元 日本陶磁器輸出組合・専務理事)
1. 連合軍占領下の日本
1945(昭和 20)年 8 月 15 日、第 2 次大戦終結により、日本に米国と英連邦の連合軍が駐留し、日
本を統治することになりました。その統治命令は色々な形でなされましたが、主要な命令方式として
SCAPIN があります。SCAP は Supreme Commander for the Allied Power(連合軍最高司令
官=マッカーサー元帥)の略称で、SCAPIN は「SCAP の指令(Instruction)」の意味です。
SCAPIN を発令する総司令部(General Headquarters)のことは GHQ として知られており、
SCAPIN は、言い換えれば GHQ の指令のことです。SCAPIN 指令は、国立国会図書館憲政資
料室に記録 1・保管されており、その数は 2204 件に及んでいます。
その中から「占領下」の意味するところを理解するために、SCAPIN の一例を挙げます。
【1945 年 9 月 3 日発令 SCAPIN2 の概要】: 日本政府は連合軍の必要とするすべての資材を供
給しなければならない。日本政府は各地の占領軍司令官の指示された時と所に、必要な技能を
備えた労働者を提供しなければならない。日本政府は占領軍の要求に従い、適切なすべての建
物を提供しなければならない。
この指令に基づいて、日陶連ビル(日本陶磁器センター北側部分の旧館)も一時期米軍に接収さ
れていました。
“Made in Occupied Japan(占領下の日本製)”の表記も 1947
年に発令された下記の SCAPIN(camerapedia〈英文〉2 から引
用)に基づいて実施されたものであり、これに従わなければ輸出
することが出来ませんでした。
【1947 年 2 月 20 日: SCAPIN 1535「輸出品のマーキング」
概要】:
日本政府は「この指令を受付けた日から 15 日を経過した後に、
輸出用のすべての製品に Made in Occupied Japan”を適切
な英語で記す」ことを確実に実行できるように、直ちに準備する
ことを命令する。
この指令は次の通り 1949 年に改定され、“Made in Japan” 等で
MIOJ の碗皿と裏印
(名古屋陶磁器会館蔵)
もよいことになりました。
【1949 年 12 月 5 日: SCAPIN 2061「輸出品のマーキング」概要】:
SCAPIN 1535 を廃止する。日本政府は、特定の場合を除き、輸出用のすべての製品及び内箱、
外箱に“Made in Occupied Japan”、“Made in Japan”又は”Japan”を適切な英語で記すもの
とする。
業界紙「陶業タイムス」3 1949 年 12 月 23 日付け記事によれば、総指令部渉外局 12 月 6 日発表
により、「バイヤーが売り手との契約についてこのような表示を仕向国が必要としない旨の証明をす
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れば、原産国表示をしなくてもよい」ことになりました。なお、米国、カナダ、オーストラリアは原産国
表示がないと輸入を認めないのでこの規則の適用外です。
実際の廃止時期についてみると、業界によってまちまちですが、陶磁器業界では対日平和条約発
効(1952 年 4 月 28 日)、即ち占領統治が終了した頃まで継続していた業者が多いようです。米国
の関係サイト(後述の“occupiedjapan.net”)では、「一部の商品については 1955 年まで“Made
in Occupied Japan”が付けられていたという記述を見た」と説明しています。
ノリタケカンパニーは自社の裏印の歴史をパンフレット
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に纏めています。同書には、 “Made in
Occupied Japan”が付けられた 1947 年作成の裏印の註に「講和条約が発効した 1952 年まで使
用」と記されており、1949 年にも 3 点の MIOJ 裏印が掲載されていますが、同じ 1949 年に Made
in Japan の輸出用裏印 1 点が掲載されているので、1949 年から 1952 年の間に一部の輸出品は
Made in Japan に切り替えたように思われます。なお、ノリタケは Noritake ブランドの評価を維持
するため、品質が戦前の水準に回復するまで“Rose China”の裏印を使用しており、Rose China
にも“Made in Occupied Japan”が付けられたものがあります。
また、カメラの大手メーカーは、1950 年上半期まで“Made in Occupied Japan”の表記を継続して
いたようです。
2.
“Made in Occupied Japan”に対する思いとコレクター
米国の人々は、この“Made in Occupied Japan”が付けられたものを、コレクターズ・アイテムとして、
かなり前から関心を持っていました。小生のニューヨーク駐在中の 1970 年、事務所にやってきたあ
るアメリカ人から「このカップ/ソーサーは“Made in Occupied Japan”の裏印が付いているが、骨董
的価値のある貴重なものではないか?」と質問され、回答に困りましたが、「今はそれほど高価では
ないが、珍しいものであるので、将来価値が高まると思う」 と相手が失望しないように気を使って答
えたことがあります。気になって、マンハッタンの 25 丁目あたりの屋外で開かれていたノミの市で調
べたところ、数ヵ所で赤銅判のカップ/ソーサー等が$2 前後の値札を付けて売られていました。そ
の頃の日本製品は$1 以下のものが多かったので、かなり良い値です。その値段で売れたかどうか
はともかく、その頃から関心がかなり高かったことは確かです。
その後 1970 年代後半頃よりコレクターの関心は更に高まってきました。収集家のための本も数知
れず出版され、最近は“Made in Occupied Japan”もののインターネット販売、オークション・サイト
も実に盛況です。また 2005 年以降、米国には “Made in Occupied Japan”に関する興味深いホ
ームページが作られています。一つは、シアトルの近くに住む収集家による“Cathy Anderson’s
Home Page”5 であり、そこには 78 の裏印と、その裏印が付けられているカップソーサーの写真百
数十点がブランドごとに分類されて掲載されています。
“Cathy Anderson’s Home Page”に紹介されている裏印の一部をご参考までにお伝えします。
Chubu ( 中 部 陶 器 ) Chugai ( 中 外 陶 業 ) Jyoto ( 城 東 陶 器 ) Kyokuto ( 極 東 貿 易 )
Noritake(日本陶器:現ノリタケカンパニー) Saji(佐地貿易) Sango(三郷陶器) Shofu
(松風陶器) Wako(和光陶器) Yamaka(山加商店):
以下輸入商ブランド、Adline(Adline Trading, N.Y.) Ardalt(Ardalt Inc., Fla.)
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Lefton(Geo.Z. Lefton, Chicago) Nasco(National Silver, N.Y.) Ucagco(United
China & Glass Co. N.O.)
もう一つは、“occupiedjapan.net”6 というサイトで、“Made in Occupied Japan”の歴史、マーク等
について解説されています。そのサイトの中でネット販売・世界最大手の eBay のオークション・サイ
トが紹介されており、18 項目中の「カップ/ソーサー」項目のみでも約 600 点が掲載されています。ま
た、Amazon の book list に 40 冊以上も紹介されています。ガラスやライター、カメラの収集を対象
にした本も含まれていますが、陶磁器関係が圧倒的多数を占めています。
最も数多くのコレクターズ本を書いている人は、Gene Florence さんで、名古屋陶磁器会館にも調
査に来られて、著作を一部寄贈されています。この方は、1976 年以来改訂版を含めて十数冊の本
を出しており、Occupied Japan Collectors Club(会費年$20)を作り、月刊ニューズレターを配布、
年 1 回 Occupied Japan Show を開催しているとのことです。
“Made in Occupied Japan”は輸出品のみに付けられたマークなので、日本では、米国ほどは関
心が持たれていませんが、Google や Yahoo の検索でみると、通販サイトやその他の様々な関連サ
イトを見つけることが出来ます。一般サイトでは単に珍しいものを見たという記述が多いのですが、
中には「日本が聨合国軍、実質的にはアメリカ軍に占領されていたことは知っていたが、迂闊にも
“Occupied Japan”つまり‘被占領国日本’という国が存在していたことを知らなかったのである。だ
から、ノリタケの紅茶カップの裏の“Made in Occupied Japan”を見つけた時の衝撃はあまりにも大
きかった。」、「・・・なので現在の日本国憲法(1946 年 11 月 3 日公布、1947 年 5 月 3 日施行)は”
Made in Occupied Japan”なのです」といった話も載っています。
㈶名古屋陶磁器会館では“Made in Occupied Japan”を付した碗皿、人形等を収集しており、そ
のうちの碗皿 14 点、人形 8 点、その他 9 点を常時展示しています。同会館のホームページ等を下
記お知らせします。
展示室
㈶名古屋陶磁器会館
〒461-0025 名古屋市東区徳川一丁目 10-3
℡: 052-935-7841 fax : 052-935-9592
E-mail:[email protected]
http://nagoya-toujikikaikan.org
(展示室の見学は:月~金曜日 10~17 時)
なお、西ドイツも戦後の占領下で、同様の命令により “Made in Germany US Zone”、“US Zone
Germany”というような表示が強制されていました。米国には、この“米国統治地域のドイツ製”マー
クの陶磁器コレクターもいますが、日本品と比べると数が少なく、関心度は比較的低いようです。な
お、米国占領地域以外ではこのような原産地表示が強制された例は知りませんが、これは米国では
「1930 年関税法」第 304 条により、すべての輸入品に原産国表示を義務付けているのに対し、欧
州の戦勝国では原産国表示を行う慣習も規則もないためかと思われます。
陶磁器業界では、戦後の産業復興に奮闘した思い出と重なって、“Made in Occupied Japan”に
深い愛着を覚える人も多いのではないかと思います。
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3.
戦後の陶磁器産業復興と GHQ
戦後、陶磁器業界は他の業界の先駆けて素早い復興を成し遂げました。勿論、復興は業界の方々
の努力の結果ですが、この背後には、GHQ の大きな支援がありました。
その頃、米国一般大衆の使用食器は、オハイオ渓谷周辺で製造された陶器/半磁器が主体であり、
白い磁器製品は憧れの的でした。磁器製食器はティファニーのような宝石店や高級百貨店のみで
売られていました。終戦後間もない 1945 年 9 月末頃、名古屋を本拠地とする米第 5 空軍が名古屋
陶磁器会館にやってきて、日本陶磁器交易会社が東濃地域に保管していたディナーウェア、スー
プ皿等の在庫品を直ちに引き渡せと命令したのに対し、早急に運搬する手段がないと説明したとこ
ろ、翌朝にトラック二十数台が米軍により用意されて引き渡しを行うことが出来たとのことです。この
ことは、「名古屋陶業の百年」7 の中の加藤富一氏(交易会社・貿易公団勤務、後陶磁器検査協会
理事)の記録等に書かれていますが、同書の他「日本輸出陶磁器史」8、「永井精一郎伝」9「概説近
代陶業史」10 等に戦争直後の様子が詳細に記録されています。
・ GHQ 経済科学局に窯業班、陶磁器輸出班があって陶磁器の生産・輸出を管理監督するととも
に、生産.輸出をしやすいように数々の支援をしてくれた。輸入原材料についても、良質のカオリ
ン、玉石、石膏、コバルト等の輸入の道を付けてくれた。例えばカオリンについては、従来使用し
ていた朝鮮カオリンの品質が悪化していたため、香港カオリンの輸入を GHQ に懇請したところ、
直ちに貿易庁に実行を指令し、GHQ 担当者自身が海外との交渉、海上輸送の手配などしてく
れた。
・
GHQ の命令で、貿易庁が 1947 年 8 月 15 日、制限付民間貿易再開の日に東京、名
古屋、京都、仙台の 4 都市に、バイヤー宿泊・商談用の直営ホテルを開設したが、そ
の一つが通称「トキワホテル」(正式名称は「ホテルトキワ」)であり、その場所は日
陶連ビル(現・日本陶磁器センター)の北 100 メートル位のところ、いわば陶磁器業
界の中心地であった。名古屋の場合、利用者は主として陶磁器バイヤーであり、如何
に GHQ が陶磁器を重視していたかがわかる。なお、
「トキワホテル」は 1950 年 4 月
に名古屋観光ホテルの経営に移され、1956 年 11 月に廃業するまで陶磁器業界の会議
等にもしばしば利用された。
・ 戦争直後の頃、輸出に相当するものは「見返り物資」といわれ、GHQ の指令に基づ
いて海外に積み出されていた。貿易庁契約第 1 号となった朝鮮向けサバル(丼)も朝
鮮米緊急輸入の代償=「見返り物資」として 1946 年 6 月頃から 1947 年にかけて出
荷された。これが戦後最初の輸出陶磁器生産となり、復興への第一歩なった。また、
海外各地の基地を含めた PX(米軍基地内売店)用に大量のディナーウェア等が出荷
され、業界の復興に大いに役立った。当時、これらは輸出通関の手続きを行わず、米
国軍用船で運ばれたり、米兵の身の回り品として送られたりしたので、実際には統計
記録の輸出額よりもかなり多い輸出が行われていた。
ちなみに、当時の陶磁器(食器、ノベルティ、タイル、衛生陶器等を含む)の輸出額
は、1946 年: 96 万円、1947:4.7 億円、1948:30.6 億円、1949:78.6 億円、1950:
82.7 億円。1950 年の輸出額の中、食器は 56 億円であり、物価水準を考慮すると現在
の約 440 億円に相当するので、既に昨年の食器輸出額 64 億円の 7 倍以上が輸出され
ていたことになる。
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・ GHQ/窯業班のリーダーであったデリュウー氏は陶磁器業界で絶対権力をふるってい
たので、デリュー天皇と呼ばれていたほどであり、退役後も日本人と結婚し、貿易商
社の顧問などをしていた。輸出班のリーダーであった 2 世のミスター・フルデラは、
戦前ニューヨークの森村ブラザースで日本陶器(現・ノリタケ)の人々と同僚であっ
た人であり、日本びいきでいろいろと尽力してくれただけでなく、米国市場の情報も
教えてくれた。その他にも日本語がペラペラで日本文化に造詣の深いパッカード氏等
日本びいきの人達がいて、上記のように日本の陶磁器産業の復興に力を貸してくれた。
1947 年 8 月 15 日に制限付き民間貿易が再開されるまでは、全く GHQ 頼りだったわけです。その
後、1948 年 8 月 15 日に民間同士の価格交渉が出来るようになり、1949 年の 12 月に民間自由貿
易に移行しました。戦争直後から自由貿易に移行するまで、業界団体は特に大きな役割を果たし
てきました。
GHQ や貿易庁(1945 年 12 月 14 日開設)と交渉の窓口となった業界機関は戦時中に設立された
日本陶磁器交易㈱(貿易庁の実務代行機関)及び 1946 年 1 月に設立された日本陶磁器工業協議
会でしたが、1947 年に、それぞれ鉱工品貿易公団窯業資材部(7 月 1 日発足)及び陶業協会(10
月 1 日発足)に引き継がれ、更に 1948 年 8 月に両者が合併して日本陶業連盟に移されました。上
記支援の他にも、それらの団体が主軸となって、産業復興公団の助成や金地金・燃料の調達、金
融等に色々と有利な待遇を受けました。金融については、GHQ との輸出契約を担保として、業界
機関で大金を借り入れ、復興・設備資金に流用することが出来たとのことです。更に、業界にとって
大きなプラスとなったのは、円/ドルの交換率であったと思います。
4.
単一為替レートに至るまでのドル交換率
1947 年 8 月 15 日制限付き民間貿易再開までは、政府間貿易といわれ、交易会社は GHQ の指
令に基づき特定の場所へ調達した貨物を納入するだけであり、GHQ が何ドルで輸出したか関知し
ないところでした。
制限付き民間貿易再開後は品目によって交換レートが異なる、いわゆる複数レートの時代になりま
した。陶磁器のドル交換レート(輸出)を、「概説近代陶業史」から転載します。
ディナーウェア
350 円
500 円
550 円
当初
1947 年 7 月
1947 年 11 月
加野忠氏の論文
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一般食器
330 円
470 円
500 円
ノベルティ
300 円
430 円
500 円
全輸出平均
(10 月)140 円
によれば、その頃の輸入レートは、国内の統制価格とその商品のドル価格の比
率であり、輸入品は食料、原材料など生活や生産の維持に必要な基礎物資であったことから低価
格に抑えていました。1947 年 10 月の時点でのドル交換レートは輸出平均 140 円に対して輸入平
均は 60 円、1948 年 8 月には輸出 268 円、輸入 115 円でした。
「名古屋陶業史の百年」に掲載された恒川清氏(貿易公団勤務、後ジャパントレーディング社長)の
証言によれば、ドル建ての英文契約書の審査をパスし、取引が行われるとドル貨は一旦 GHQ 経済
科学局の特別勘定に入り、日本政府に 1 ドル 270 円(1948 年初頭の日銀/GHQ 取決めレート)の
交換レートで振り込みますが、業者へは 1 ドル 550 円(ディナーウェアの場合) レートで支払われ、
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270 円との差額は貿易庁管理の「貿易資金特別会計」から支出されました。従ってこの差額は一種
の政府補助金といってもよいものであり、原材料輸入の交換レートの有利さと相まって、業界復興に
大いに役立ったわけです。
しかし、制限付き民間貿易再開を契機に、為替相場に関する論議が高まり、その結果、単一為替相
場設定に向けて、輸出・輸入の交換レートを段階的に調整変更していきました。
1949 年 2 月 1 日に換算率の上限(600 円)を 450 円に引き下げ
同年 3 月 25 日に更に 425 円に引き下げ
同年 4 月 25 日に 1 ドル=360 円の単一為替相場になりました。(最初の発表は、米国陸軍省
であり、業界は UPI 電で初めて知った由)
360 円の決定について、1949 年 5 月 5 日付「陶業タイムス」の記事には、「安い公定価格で資材割
当を受けている輸出品関係の指定工場(全国 3,005 工場の中の 750 工場)は運営していくことが出
来るが、高い自由価格で資材を購入しなければならない残りの和物業界等の 2,255 工場は倒産一
歩手前にまで落ちるものと予測されている」といった内容の記述があり、陶磁器行政が輸出一本槍
で貫かれていると論評しています。
なお、1 ドル=360 円の為替レートは、1971 年 8 月 15 日のニクソンショックまで続きました。
“Made in Occupied Japan”の頃は、戦後の荒廃の中で食料も統制され、僅かな配給米では生きる
ことさえ困難であり、違法のヤミ米を求めなかった判事が栄養失調で死んだことが新聞記事(1947 年
10 月)になった時代でした。しかし、輸出陶磁器業界にとっては、上述のように保護・優遇され、急速に
復興の道をたどった活気に溢れた時代でした。この時に蓄えた力が原動力となって、1970 年代を最
盛期とする世界一の陶磁器輸出国へと発展する歴史を作ることが出来たと思っています。
【参考資料】
1 国立国会図書館憲政資料室 SCAPINs 対日指令集
(2007 年 4 月作成 pdf 版):http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/tmp/SCA_1.pdf
2 camerapedia: http://camerapedia.wikia.com/wiki/Made_in_Occupied_Japan
3 「陶業タイムス」㈱綜合通信社・中部総局発行(1948 年 3 月 23 日創刊、1953 年に綜合通信・
陶業版に改名)
4 「ノリタケ陶磁器の素材開発の変遷と裏印の歴史」㈱ノリタケカンパニーリミテド発行(1996 年)
5 Cathy Anderson’s Home Page: http://www.the4cs.com/~cathy/
6occupiedjapan.net: http://www.occupiedjapan.net/
7 「名古屋陶業の百年」: ㈶名古屋陶磁器会館編集・発行(1987 年)
8 「日本輸出陶磁器史」: ㈶名古屋陶磁器会館発行(1967 年)
9 「永井精一郎伝」小出種彦著: 永井精一郎伝記編纂委員会発行(1974 年)
10 「概説近代陶業史」三井弘三著:日本陶業連盟発行(1979 年)
11 「1 ドル 360 円相場決定の政治経済学」加野忠著(『横浜商科大学紀要』第 8 巻 2002 年):
http://homepage3.nifty.com/kanotadashi/political%20economy%20of%20$1yen360.htm
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