学校における「市民的リテラシー教育」導入の方向性

2 00 4 年 度 提 出 修 士 論 文
学校における「市民的リテラシー教育」の導入の方向性
−教育を通じた公共圏のコミュニケーションの成熟化に関する一考察−
立 教 大 学 大 学 院 21 世 紀 社 会 デ ザ イ ン 研 究 科
比較組織ネットワーク学専攻修士課程
(正指導教授:中村陽一教授/副指導教授:北山晴一教授)
川 中
大 輔
K AWA N A K A , D a i s u k e
学 籍 番 号 03VM017B
目
序章
次
アクティブで批判的な市民による変革
1.はじめに
2
2.問題設定
3
3.本稿の構成
第1章
2
5
公共圏の担い手としての市民
1.公共圏とは何か
7
2.公共圏概念の現代的意義と課題
3.公共圏の担い手を巡る課題
第2章
7
10
13
市民的リテラシーと市民教育
1.市民的リテラシーという概念
2.複合的な市民的リテラシー
18
22
3.イギリスの市民教育の取り組み
第3章
18
27
市民的リテラシーと新たな教育実践
1.調査目的と調査内容
36
36
2.事例 1
お茶の水女子大学附属小学校「市民」
3.事例 2
都 立 千 早 高 等 学 校 「 NPO・ コ ミ ュ ニ テ ィ 」 分 野 の 教 育
4.事例 3
大 学 コ ン ソ ー シ ア ム 京 都 「 NPO ス ク ー ル 」
5.新たな教育実践の特徴
第4章
47
市民的リテラシーを育む「学びのデザイン」
57
2.市民的リテラシー教育の学びを巡る課題
65
3.民主的な学校共同体へ
81
文献一覧
83
論文要旨
95
77
77
2.日常のコミュニケーションの変革
あとがき
57
74
公共圏のコミュニケーションの成熟へ
1.関係性をひらいていく
43
54
1.市民的リテラシー教育の学びのスタイル
終章
37
78
1
序章
アクティブで批判的な市民による変革
1.はじめに
本論文は、
「 公 共 圏 と 市 民 的 リ テ ラ シ ー 」と い う 壮 大 な テ ー マ の も と で 、学 校( 主 に 中 等
教育)における「市民的リテラシー教育」の必要性、内容/形式、そして今後の展望につ
い て 論 じ て い く 1 。 第 2 章 で 詳 述 す る が 、「 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 」 と は 、 公 共 圏 / 市 民 社
会/民主主義の担い手を育む教育に他ならない。そして、市民的リテラシーとは、そうし
た 担 い 手 に 求 め ら れ る 意 識 / 能 力 / 行 動 様 式 を 指 し て い る 2。
2 00 4 年 4 月 、 イ ラ ク で 3 人 の 日 本 人 が 人 質 と な る 事 件 が 起 き 、「 人 質 」 に 対 し て 、 国 内
では「自己責任」を問う声が各方面で展開され、彼ら/彼女らが「国家(政府)に迷惑を
か け た 」こ と へ の 謝 罪 を 要 求 す る 言 説 が マ ス メ デ ィ ア で は 大 き く 報 道 さ れ た 3 。彼 ら / 彼 女
らは、草の根の支援としてボランティア活動に従事していたわけであり、ある種の市民的
公 共 性 を 体 現 し て い た と 言 え る 。そ れ に も 関 わ ら ず 、非 難 さ れ た 4 の は 、未 だ に 国 家 的 公 共
性 、 即 ち 「 お 上 」 の 優 位 を 多 く の 人 が 分 か ち 持 っ て い る か ら で あ ろ う 5。
こ こ で 見 出 さ れ る の は 、現 代 日 本 に お い て 望 ま し い 人 間 像 と し て 、お 上 に 従 順 な「 国 民 」
を 規 範 と し 、国 家 と は 関 係 な く 自 律 的 に 社 会 活 動 に 従 事 す る 、時 に は「 市 民 的 不 服 従 」
(ハー
バ ー マ ス [ 2 00 0 : pp .79 -1 06 ]) も 辞 さ な い 「 市 民 」 を 規 範 と し な い 、 と い う 暗 黙 の 了 解 で
あ る 。 筆 者 は こ の 「 了 解 」 に 対 し て 「 了 解 」 し か ね る 6。
第 1 章 で 述 べ る と お り 、 そ も そ も 公 共 圏 ( p ub lic sph e r e) は 、 ハ ー バ ー マ ス が 『 公 共 性
の 構 造 転 換 』 で 史 実 を も と に 示 し て い る 通 り 、 国 家 権 力 へ の 対 抗 空 間 と い う 側 面 が あ る 7。
1
本論文で十分に論じられない点は、日本における市民的リテラシーおよびその教育につ
い て の「 歴 史 」で あ り 、こ の こ と が 本 論 文 の 大 き な 弱 み で あ る こ と は 筆 者 も 痛 感 し て い る 。
今後の研究課題である。
2
詳しくは第 2 章を参照のこと。
3
人質事件の責任論で不問となっているのは、国民を危険に晒した国家(政府)の責任で
ある。
4
この「非難」の実態は、市民が主体的に行ったものというよりかは、マスメディアの報
道の影響を受けて、生み出されていったものである。そして、そのマスメディアの報道に
影響を与えたのは、国家(政府)であったと言われている。その意味では、メディア・リ
テ ラ シ ー の 問 題 と 見 做 す こ と も 可 能 で あ る が 、メ デ ィ ア・リ テ ラ シ ー の 未 成 熟 だ と し て も 、
内 容 的 に( 雰 囲 気 と し て )盛 り 上 が っ た 点 に 違 和 感 を 抱 か ざ る を 得 な い の で あ る 。こ こ に 、
近年広がってきている「非寛容の空気」を見て取ることができよう。この分析を深めてい
く 上 で は 、ア ド ル ノ ら に よ る『 権 威 主 義 的 パ ー ソ ナ リ テ ィ 』が 手 掛 か り と な り 得 る だ ろ う 。
5
この現象から、市民間の他者代替可能性の認識低下に基づく共感範囲の縮小もまた、見
出すことが可能であろう。危険/安全を問わずに、国際的に活動する人々を「他人事」と
割 り 切 れ る か ら こ そ 、「 痛 烈 な 」 非 難 を 繰 り 広 げ る こ と が 可 能 だ っ た の で あ ろ う 。
6
宮 田 [ 19 73: p p. 22 6-2 41] は 、「 市 民 教 育 の 哲 学 」 と し て 考 え る べ き 項 目 と し て 、 次 の 三
つ を 挙 げ て い る 。「 啓 蒙 」「 政 治 参 加 」、 そ し て 「 市 民 的 不 服 従 」 で あ る 。 市 民 的 不 服 従 は 、
国家公共性から自律した市民的公共性が分かりやすく露わとなるものに他ならない。
7
花 田 [ 19 96] は 、『 公 共 性 の 構 造 転 換 』 の 中 で 用 い ら れ て い る 「 エ ッ フ ェ ン ト リ ッ ヒ カ イ
ト」という言葉を「公共性」ではなく「公共圏」と訳し、空間概念として用いている。筆
者もこれに準ずる。
2
そこに見出される規範的人間像は、国家に従順な国民とは異なるものである。しかし、既
述の通り、日本人人質事件で浮かび上がった現実は、そうした認識が一部のものであるこ
と を 私 た ち に 突 き つ け た こ と に 他 な ら な か っ た 8。
こうした現況は、自律的で市民的な公共圏の成立/成熟を著しく阻害するものである。
この現況をいかにして変革することが可能かというアクチュアルな問題意識の上に本論文
は成り立っている。もちろん、そうした変革は「教育」を通じてのみなされるものではな
く、それは一つの糸口に過ぎない点は理解している。
本 論 文 で は 、19 90 年 代 の 市 民 セ ク タ ー へ の 注 目 の 高 ま り と 期 を 同 じ く し て 、言 論 界 に て
市民社会の「規範型」として関心が高まった公共圏概念を本論文の「土台」に位置づけた
上で、そうした公共圏の担い手に求められるリテラシーがどういったものであるかを明ら
か と す る 。 そ の 上 で 、 イ ギ リ ス な ど で 展 開 さ れ て い る 「 市 民 教 育 ( c i t i z e n s h i p e d u c a t i o n)」
や、既に日本国内で実践されている幾つかの新しい教育実践事例を取り上げる。こうした
作 業 を 通 じ て 、市 民 的 リ テ ラ シ ー を 育 む「 学 び 9 」が ど う い っ た も の で あ る の か 、変 革 を も
たらす「学び」がどういったものであるかを考察していく。こうした考察を進めることに
よ っ て 、公 共 圏 の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン が 活 性 化 し 、成 熟 化 し て い く 道 筋 の 一 つ を 示 し た い 。
2.問題設定
前節の大きな目論見を踏まえた上で、本節では(既述している部分もあるが)本論文の
問題設定を確認したい。
公 共 圏 概 念 は 、ハ ー バ ー マ ス の 19 62 年 の 著 作『 公 共 性 の 構 造 転 換 』の 中 で 、史 実 か ら 抽
出 さ れ た 近 代 市 民 社 会 の 一 つ の モ デ ル で あ る 。こ の『 公 共 性 の 構 造 転 換 』を 巡 っ て は 、様 々
な 批 判 / 論 争 が な さ れ た わ け で あ る が 10、 そ れ に 対 し 、 ハ ー バ ー マ ス は 新 版 の 発 行 時 に 、
50 ペ ー ジ に も 及 ぶ「 応 答 」を 序 言 と し て 記 し て い る 。本 論 文 で も 第 1 章 に お い て 、そ う し
た批判を簡単に概観しながら、今日的課題を整理するが、結論を先取りして言えば、筆者
が 大 き な 問 題 と し て 捉 え て い る の は そ の「 行 為 主 体( age n t) 1 1 」、つ ま り 担 い 手 に 関 す る も
8
こ の 背 景 に 、阿 部[ 2 00 1]が 指 摘 す る「 ナ シ ョ ナ ル な も の 」の 高 ま り が あ る と 思 わ れ る 。
佐 藤[ 1 995: pp .5 0- 52]は 、
「 こ れ ま で 外 か ら 操 作 対 象 と し て 認 識 さ れ て き た『 学 習 』を 、
学 び 手 の 内 側 に 広 が る 活 動 世 界 と し て 理 解 す る 」( p.50 ) も の と し て 「 学 び 」 と い う 概 念 を
提起している。この学びについて、佐藤は語義やその語の用法の歴史的変遷から「目的的
で 行 動 的 」「 共 同 体 的 で 社 会 的 」「 知 性 的 で 倫 理 的 」 と い う 三 つ の 性 格 を 見 出 し て い る 。 本
論 文 で は 、 こ う し た 佐 藤 の 議 論 を 受 け 、 い わ ゆ る 「 学 習 」 や 「 勉 強 」 で は な く 、「 学 び 」 と
いう言葉(概念)を、本論文では学習のあり方として位置づける。
10
そ う し た 論 争 を ま と め た も の と し て 興 味 深 い も の に 、 キ ャ ル ホ ー ン 編 [ 19 99] が 挙 げ ら
れる。
11
フ ー コ ー [ 19 77] は 、 近 代 に 特 徴 的 な 権 力 と し て 、 規 律 訓 練 型 権 力 を 見 出 し 、 近 代 的 主
体 ( s u b j e c t) が 抑 圧 の 諸 制 度 か ら 個 人 を 解 放 す る も の で は な く 、 寧 ろ 自 ら を 規 律 化 し 、 抑
圧の諸制度へ自発的に服従することをもたらす権力装置であったことを明らかにした。こ
うした批判に象徴的なように、社会学においては「主体性」の自律性を巡って、第一世代
から様々な論争が展開されてきている。フーコーが位置づけられる構造主義では「主体」
は構造の所産に過ぎないと見做される。本論文では、この議論に深入りはしないが、本論
9
3
のである。公共圏という「場」をどのように設定し、討議を深めていくのか、社会的影響
力を行使していくのかという問題設定の重要性は認めるが、そうした「場」に入ってくる
「行為主体」が幅広いものでなければ、公共圏はそのポテンシャルを十全に発揮し得ない
と考えるからである。
現代日本にあって、市民活動のプレゼンスは確かに高まり、従来よりも多くの市民が活
動に取り組むようになったと言える。しかし、そうした活動に参加することは、未だ身近
で一般的な行為とまでは言えないのが現実であろう。前節で既述した「日本人人質事件」
から窺い知れるように、現代日本においては、アクティブであり且つ批判的な市民は、多
数を占めるには至っていないと思われる。
イギリスで導入された市民教育もまた、その必要性が認識される過程/背景を踏まえる
に 、ア ク テ ィ ブ で 批 判 的 な 市 民 を 再 興 す る 試 み と 見 做 せ る( Q C A( e ds .[
) 199 8]、長 沼[ 20 03])。
また、デューイは教育の目的を「自律的判断能力をもつ、民主主義にふさわしい倫理的公
衆 を 育 て る こ と 」( 林 [ 2 00 4: p .1 44]) と し 、 教 育 を 通 じ た 公 衆 の 再 建 / 再 興 の 現 代 的 必 要
性 を 近 代 化 の 初 期 段 階 で 既 に 述 べ て い る ( デ ュ ー イ [ 196 9])。
当然のことでもあるが、この様にして公共圏議論の今日的課題と「市民的リテラシー教
育」の問題意識は明確なつながりを有している。このことを確認した上で、本論文ではア
ク テ ィ ブ で 批 判 的 な 市 民 を 育 む 教 育 実 践 に つ い て 論 じ て い き た い 12。
この際、今回は敢えて中等教育機関における「学校」の中での教育の方向性についての
考 察 を 行 う 1 3 。 も ち ろ ん 、「 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 」 の 全 て は 、 学 校 と い っ た 既 存 の 社 会 シ
ス テ ム を 維 持 す る 装 置 の 中 で な さ れ る べ き も の で は な い 。し か し 、
(その価値判断は留保す
る と し て も 、) 現 実 と し て 「 学 校 化 1 4 」( イ リ イ チ [ 19 77]) が 徹 底 さ れ て い る 中 で 、 学 校 を
経由しない学習が「幅広い」市民に実践されることは困難であろう。しかも、初等・中等
教 育 段 階 で は 、子 ど も に と っ て 学 校 の 占 め る 位 置 は 、非 常 に 大 き な も の で あ り 1 5 、ア ク テ ィ
文 で は 、 主 に ギ デ ン ズ [ 1 989] の 「 構 造 化 理 論 」 を 下 敷 き に 、 構 造 の 中 で の 他 者 と の 相 互
行 為 の 中 で 生 み 出 さ れ る 能 動 性 に 注 目 し 、「 主 体 / 客 体 の 二 重 性 」 を 主 張 す る 「 行 為 主 体
( ag e n t)」 概 念 を 用 い る 。
....
12
ア ク テ ィ ブ で 批 判 的 な 市 民 が「 な ぜ 生 ま れ な か っ た の か 」と い う 問 い を 立 て 、分 析 す る
ことが、社会学的(特に批判理論の視点)には必要な過程であることは承知しているが、
本論文ではその原因を分析するに充分な準備ができておらず、
「 教 育 」を そ の 原 因 と す る 仮
説に基づき、論を進めたい。しかし、この分析は注釈 1 の研究同様、他日を期して、取り
組まねばならないテーマである。
13
ジ ョ ー ン ズ &ウ ォ ー レ ス [ 20 02: p .1 7] が 、 シ テ ィ ズ ン シ ッ プ ( 本 論 文 で の 市 民 的 リ テ
ラ シ ー に 近 い 言 葉 、 詳 し く は 第 2 章 参 照 の こ と ) の 概 念 枠 組 み を 用 い て 、「 自 立 し た 大 人 」
への移行を考えていることからも明らかなように、
「 理 論 的 に は 」シ テ ィ ズ ン シ ッ プ の 獲 得
は「若者」の課題である。
14
本 来 、自 律 的・能 動的 に 行 わ れる は ず の 学び が 、学 校に よ っ て 、他 律 的・強制 的・受 動
的 に さ せ ら れ る 行 為 に 転 化 し て い く 状 態 の こ と を 言 う 。( 田 中 [ 200 3: p .94])
15
学 校 の プ レ ゼ ン ス の 大 き さ そ の も の が 問 題 で あ る こ と は 言 う ま で も な い 。そ の 意 味 で は 、
筆 者 の 議 論 は こ う し た「 問 題 を 抱 え た 現 状 」を 追 認 す る 危 険 性 が あ る と も 言 え る 。し か し 、
その理論的危険性を回避し、現状をラディカルに批判したところで、その批判の実効性は
低いと思われる。故に、敢えて現状の枠組みの中で可能な範囲で「改善策」を提示すると
4
ブで批判的な市民を育むことを現実的に考える上で、学校における教育を無視することは
できない。このように考えれば、学校という装置の「限界性」を認識しつつも、その枠の
中でどういった教育がなされるべきか/なされ得るのか(あるいはなされるべきではない
のか)を明らかとする試みは意味深いものではなかろうか。
また、イギリスでの市民教育の制度化に伴い、近年、日本においても「市民科」などの
名 称 で 学 校 の 中 で の 「 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 」 が 展 開 さ れ 始 め て い る が 16、 現 時 点 で は 試
行錯誤を繰り返す「模索段階」と言える。そうした段階に、理想と現実、先進事例と現実
を突き合わせながら、
「 模 索 」を 通 り 抜 け る 一 つ の 提 案 を ま と め る こ と は 、意 義 深 い 行 為 で
あろう。
本論文では、以上の通り、学校における「市民的リテラシー教育」での「学びのデザイ
ン」の方向性を明らかにするという問題設定に基づき、以下に続く各章での考察を深めて
いく。
3.本論文の構成
本 論 文 の 構 成 は 大 き く 分 け て 、( 1 )理 論 的 前 提 を 整 理 す る た め の 第 1 章 と 第 2 章 、(2 )実 践
事 例 を 紹 介 す る 第 3 章 、 ( 3)事 例 研 究 か ら 浮 か び 上 が る 理 論 的 背 景 を 明 ら か と す る 第 4 章 、
( 4 )全 章 を 整 理 し つ つ 、 今 後 の 展 望 を ま と め る 終 章 の 四 部 構 成 で あ る 。
第 1 章は、本論文を基礎付ける概念として、公共圏に注目する。公共圏がどういった概
念 で あ る の か 、そ こ に ど う い っ た 批 判 が 展 開 さ れ て き た の か と い っ た こ と を 踏 ま え た 上 で 、
現代という時代における課題と有効性を明らかにしていく。
第 2 章は、第 1 章で明らかとされた課題の一つを解決するために、公共圏や市民社会を
担 う 複 合 的 な 能 力 と し て の 市 民 的 リ テ ラ シ ー に 着 目 し つ つ 、そ の 内 実 を 提 示 す る 。そ し て 、
実際に市民的リテラシーを修得するための教育として、既に提案/実施されているイギリ
スの市民教育を紹介し、市民的リテラシー教育のイメージを明らかにしていく。
第 3 章は、第 2 章で提示された「市民的リテラシー」を育む教育の国内の具体的事例を
紹介し、実践的な有効性や課題を明らかとする。第 1 章・第 2 章での議論は、この具体的
事例の分析視角を提供することに貢献することになる。
第 4 章 は 、第 3 章 で 紹 介 さ れ た 事 例 を 検 討 し つ つ 、市 民 的 リ テ ラ シ ー を 育 む 際 に ど う い っ
た教育プログラムや教育コミュニケーションが望ましいのかを浮き彫りにしていく。この
際に、現代日本において実践を試みる場合に向き合うと思われる課題についても、明らか
としていく。
終章では、先行する各章での議論と知見を踏まえつつ、市民的リテラシー教育を学校教
育に導入する方向性について論じたい。
ころに本論文は踏みとどまりたい。
例 え ば 、本 論 文 第 3 章 第 2 節 お よ び 第 3 節 に て 紹 介 す る 事 例 や 、東 京 都 品 川 区 に お け る
2 00 5 年 度 以 降 の 「 市 民 科 」 の 設 置 な ど が 具 体 的 に は 挙 げ ら れ る 。
16
5
なお、本論文に、ごく僅かながらも、論文としての「オリジナリティ」が認められると
すれば、それは第 3 章から第 4 章の議論であろう。公共圏論や市民社会論から市民(的リ
テラシー)教育論へと展開していくものは、政治学や社会学では決して珍しいアプローチ
ではない。しかし、そうした議論の大半は、本章の構成で喩えて言うならば、第 1 章・第
2 章から第 5 章へと展開するパターンである。そこでは市民的リテラシー教育の必要性や
その大まかな方向性は提示されるものの、実際の国内事例に基づく実践的な「学びのデザ
イ ン 」 に 関 す る 議 論 が 十 分 に な さ れ る こ と は 珍 し い 17。 こ う し た 現 況 へ の あ る 種 の 「 苛 立
ち」が本論文を書く原動力ともなっている。
以上のような問題設定と議論構成のものとで、本論文は公共圏概念の有効性を高めてい
くことを目論んでいる。それは、公共圏概念の理論的価値を高めるためではない。実践的
価値を高めるためである。公共圏という概念は「実践」の中から生み出されたものに他な
ら ず 、 実 践 / 理 論 を 「 媒 介 」 す る に 適 し た も の で あ る と 筆 者 は 考 え て い る 18。 し か し 、 公
共圏概念は理論的なものであって、実践的には「使えない」と見做される場合が少なから
ずある。本論文は、こうした位置づけへの有効な批判でありたいと考えている。
「 理 論 の た め の 理 論 」で は な く 、
「 実 践 」 を 下 支 え す る「 理 論 」 で あ っ た り 、実 践 か ら 理
論が生成されることを促す手立てとしての「理論」を提示していくことこそ、実践者とし
ての側面を持つ、筆者に与えられた課題であると考えている。そうした理論と実践の「媒
介」を果たせない理論の提示は筆者の望むべきところではない。
17
教 育 学( 成 人 教 育 な ど )や 、教 育 社 会 学 で は 、一 部 の 議 論 に こ う し た 研 究 を 見 る こ と は
でき得る。本論文でも第 4 章で取り上げるデューイやフレイレの議論がそうしたものであ
る。本論文では、彼らの議論を、事例調査で見られる「現実」と突き合わせることで、彼
らの議論のリアリティを高め、深みを増すことに貢献したいと考えている。
18
こ こ で 述 べ て い る の は 、概 念 の 現 実 へ の 単 純 な「 当 て は め 」で は な い 。解 釈 / 適 応 / 援
用のプロセスが含まれた「媒介」のことである。
6
第1章
公共圏の担い手としての市民
本論文は、学校における「市民的リテラシー教育」の方向性について考察を行うもので
あるが、その教育は「市民社会」や「民主主義」の担い手を育むものに他ならない。この
場 合 、 目 指 さ れ る 「 市 民 社 会 」 や「 民 主 主 義 」 の イ メ ー ジ が 明 確 で な け れ ば 、
「市民的リテ
ラシー教育」について一貫性を保って具体的に論じていくことは叶わない。第 1 章ではそ
う し た 規 範 的 基 礎 付 け を 行 う こ と を 目 指 す も の で あ る 。し か し 、
「 市 民 社 会 」や「 民 主 主 義 」
を一義的に定義付けることは容易なことではない。
そこで、序章でも触れたように、目指す市民社会/民主主義のイメージを、ハーバーマ
スが提起した「公共圏」概念を中核に据えて、明らかとしたい。民主主義とは、最終的な
意思決定の方法については様々な意見があるものの、その過程はコミュニケーションを通
じて実現されるべきものだとの認識は共通している。1 節にて明らかとなるように、公共
圏は、そうした市民社会のコミュニケーションの変容に着目して見出された市民社会の一
つ の 規 範 的 モ デ ル で あ り ( 阿 部 [ 2 00 4 a: pp .2 35 -2 42])、 本 論 文 の 礎 に 据 え た い 1 9 。
1.公共圏とは何か
1 - 1. ひ ら か れ た 概 念 と し て の 公 共 性
公 共 圏 が ど う い っ た 概 念 で あ る か と い う こ と を 論 ず る 前 に 、「 公 共 性 ( p ub lic )」 と い う
言 葉 に 関 す る 定 義 づ け を 行 う 。 日 本 に お い て は 、 9 0 年 代 に 至 る ま で 、「 公 共 事 業 」「 公 共 の
福 祉 」と い う 言 葉 に 見 ら れ る よ う に 、
「 公 共 」と い う 言 葉 は「 オ オ ヤ ケ 」と 近 し い 言 葉 と し
て用いられ、
「 お 上 」が「 公 共 性 と は 何 か 」を 定 義 し 、そ の 主 体 と な る も の だ と 広 く 了 解 さ
れ て き た ( 山 脇 [ 20 04: p p. 28 -35])。
し か し 、 根 本 的 に は 公 共 性 と は そ の よ う に 独 占 さ れ 、( イ ン タ ラ ク シ ョ ン が 起 こ ら な い )
閉 じ ら れ 概 念 で は な い 。 長 谷 川 [ 2 00 0: p . 6][ 2 002: pp.1 2-1 3 ] は 英 語 の pu blic と い う 言
葉 の 根 本 的 / 中 心 的 な 意 味 か ら “ p e o p l e i n g e n e r a l( 一 般 の 人 々 に 関 わ る こ と : 多 様 性 ) ”な
い し は “ op en to a ll( 全 員 に 開 か れ て い る : 公 開 性 2 0 ) ”を 定 義 と し て 示 し て い る 2 1 。 こ の 定
義から公共性に対しては、誰でも関与できるものであり、そのイニシアチブは「お上」が
とるものと限らないことが導出できる。
19
こ う し た 作 業 は「 基 礎 付 け 」と 呼 ば れ る が 、ハ ー バ ー マ ス が 代 表 的 論 客 と 見 做 さ れ て い
る フ ラ ン ク フ ル ト 学 派 の 批 判 理 論 に お い て 重 要 視 さ れ る 作 業 で あ る (「 批 判 の 基 礎 付 け 」)。
そ も そ も 公 共 圏 は 、批 判 を 基 礎 付 け る た め の 概 念 の 一 つ に 他 な ら な い 。
( 後 に 、ハ ー バ ー マ
ス自身は基礎付ける概念を「コミュニケーション的合理性」へと変えていく)
20
ハ ー バ ー マ ス は 「 市 民 的 公 共 性 は 、 一 般 公 開 の 原 則 と 生 死 を と も に す る 。」( ハ ー バ ー マ
ス [ 19 94: p .116]) と 述 べ 、 公 共 性 を 担 保 す る も の と し て 「 公 開 性 」 を 重 要 視 し て い る 。
21
ち な み に 、 長 谷 川 の 定 義 と 大 き く は 変 わ ら な い が 、 斎 藤 [ 20 00: ⅷ -ⅸ ] は 「 公 共 性 」
という言葉が、一般に用いられる意味合いは次の 3 つに集約されるとまとめている。第一
に 、 国 家 に 関 係 す る 公 的 な ( o ff i c i a l) も の と い う 意 味 。 第 二 に 、 す べ て の 人 に 関 係 す る 共
通 す る も の ( co mmo n ) と い う 意 味 。 第 三 に 、 誰 に 対 し て も 開 か れ て い る も の ( o p e n) と い
う意味。
7
ま た 、ラ デ ィ カ ル・フ ェ ミ ニ ズ ム が 掲 げ た「 私 的 な こ と は 政 治 的 な こ と で あ る( th e p r iv a te
i s t h e p o l i t i c a l)」 と い う 主 張 な ら び に そ の ス タ ン ス か ら な さ れ た 異 議 申 し 立 て は 、 極 め て
「 私 的 」だ と 思 わ れ て い る こ と で あ っ て も 「
、 公 共 的 」な 事 柄 と な り 得 る こ と を 明 ら か と し 、
「 公 共 性 」 概 念 を 大 き く 揺 ら が せ た 2 2 。 こ の こ と を 踏 ま え る と 、「 公 共 」 と 「 私 」 が 深 く つ
ながっているということもまた提示できよう。
日本において、公共性概念について、こうした本来的な定義による理解が一般的に定着
す る の は 、 1 99 5 年 の 阪 神 ・ 淡 路 大 震 災 を 契 機 と し て 市 民 活 動 が 「 新 た な 公 共 」 の 担 い 手 と
注 目 さ れ て か ら で あ る 。 本 論 文 で は 、「 公 共 ( 性 )」 と い う 言 葉 は こ こ で 確 認 し た 根 本 的 な
定義の内で用いられるし、またハーバーマスの『公共性の構造転換』で用いられる「公共
性」という言葉もまた同様である。
1 - 2. 公 共 圏 の 構 造 転 換
この認識に立った上で、ハーバーマスの『公共性の構造転換』を非常に簡単にではある
が 概 観 し た い 23。 ハ ー バ ー マ ス は 同 書 で 、 ヨ ー ロ ッ パ に お け る 近 代 市 民 社 会 の 黎 明 期 に 見
られた歴史的事象をもとに「公共圏」という理念/現象を抽出している。公共圏の成立と
近 代 の 成 立 と が つ な が っ て い る の は 次 の 観 点 か ら で あ る 。 前 近 代 に あ っ て は 、「 真 」「 善 」
「美」が三位一体であったが、近代への展開を通じ、それぞれが独立して存在することが
可 能 と な る 。こ の こ と を ハ ー バ ー マ ス は 公 共 圏 の 成 立 の 契 機 と 見 做 し て い る 。な ぜ な ら ば 、
前 近 代 で は 、「 王 権 ( 世 俗 的 権 威 )」 や 「 教 会 ( 宗 教 的 権 威 )」 に よ っ て 正 当 化 さ れ て い た 議
論が、近代ではコミュニケーションに参加する人々の間での「普遍的合意」によって正当
化されるようになったからである。こうした近代に特徴的な「普遍的合意」の社会的意味
空間こそ(市民的)公共圏に他ならない。
こうした「普遍的合意」による正当化の背景には、王権や教会から独立したブルジョワ
ジーの存在があり、
「 近 代 的 公 共 圏 」の 存 立 は 経 済 自 由 市 場 の 誕 生 が 大 き な 前 提 と し た も の
で あ っ た 24。 こ の ブ ル ジ ョ ワ ジ ー に よ る 「 自 由 ・ 平 等 」 を 原 理 と す る コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン
空間を「ブルジョワ公共圏」とハーバーマスは呼んでいる。
このブルジョワ公共圏は、当初カフェやサロンにおける文化や文芸についての批評なさ
22
フ ェ ミ ニ ズ ム の 理 論 に つ い て は 、 ド ノ ヴ ァ ン [ 19 87] を 参 照 。
こ の 際 、ハ ー バ ー マ ス[ 199 4]を 中 心 に 、阿 部[ 1994:pp .1 23 -125]、阿 部[ 19 97:pp .3 2-3 5 ]、
阿 部 [ 19 98: p p. 68 -77]、 花 田 [ 19 96: p p.23- 54 ]、 花 田 [ 1 999 a: pp :2 5-2 7]、 吉 田 [ 20 00:
p p .17 4- 185]、 三 上 [ 19 98][ 20 03: p p.116 -14 9]、 成 田 [ 1 997: pp.2 15- 22 2] を 参 照 し た 。
24
こ の こ と か ら 、 花 田 [ 1 999 b: pp . 3 8 - 4 1 ] は 、 市 場 と 公 共 圏 は 双 子 の 空 間 で あ る と 述 べ 、
そのパラレルな関係を示している。なお、ハーバーマスが『コミュニケイション的行為の
理 論 』 で 示 す 「 シ ス テ ム に よ る 生 活 世 界 の 植 民 地 化 」( ハ ー バ ー マ ス [ 19 87: p p .30 7- 325])
では、市場はシステム、公共圏は生活世界へと位置づけられるが、これは後期資本主義社
会における、国家と市場の癒着の結果である。この生活世界/システムの構図の理論的問
題 点 を 指 摘 し た も の と し て は 、 花 田 [ 19 99 b: p p. 29 -33]。
23
8
れ る「 文 芸 的 公 共 圏 」と し て 立 ち 現 れ 2 5 、や が て 議 論 の テ ー マ は「 文 化 的 な も の 」か ら「 政
治的なもの」へとシフトしていく。こうして「文芸的公共圏」は「政治的公共圏」へと変
遷成立していったのである。そして、各カフェでの「政治的公共圏」で交わされる、ブル
ジョワジーにとっての公的な事柄を巡る議論内容が、
「 政 治 新 聞 」と い っ た 活 字 メ デ ィ ア に
よ っ て 媒 介 さ れ る 中 で 、 大 き な 「 政 治 的 公 共 圏 」 は 生 ま れ 、「 公 論 ( p ub lic o pin io n)」 が 形
成 さ れ て い く 。こ う し て 、
「 政 治 的 公 共 圏 」が 国 家 に 対 抗 す る 批 判 の 場 と し て 機 能 す る よ う
になり、公共圏は国家の政治的決定に影響を及ぼすようになっていくのである。
その後、対抗/批判の言説空間となった「公共圏」は、修正資本主義が提唱され、経済
市場領域への国家介入が始まる中で、国家領域に取り込まれていき(これを「再封建化」
と 言 う )、 独 立 性 を 失 い 、 対 抗 / 批 判 の 機 能 を 失 効 し て し ま う 。 そ の 過 程 で 、「 政 治 的 公 共
圏」の中心的役割の一翼を担ったメディアは、国家決定事項の伝達やその合意を調達する
た め の PR の メ デ ィ ア 、 そ し て 大 衆 へ の 娯 楽 提 供 の メ デ ィ ア と な っ て し ま う 。 こ の 一 連 の
変動の中で、市民は「読書する/議論する公衆」から「消費する大衆」へと成り下がり、
コミュニケーションの主体としての自律性を失ってしまう。この事態が、ハーバーマスに
よって描き出された「公共性の構造転換」である。
本論文では、以上を概略とする『公共性の構造転換』に端を発する公共圏議論を精緻に
紹 介 す る こ と は 行 わ な い が 、『 公 共 性 の 構 造 転 換 』 は 出 版 後 、 様 々 な 論 争 / 批 判 を 惹 起 し 、
そ こ で の 批 判 を ハ ー バ ー マ ス が 受 容 / 摂 取 し て い っ た 末 26、 ま た そ の 後 の ハ ー バ ー マ ス 自
身の研究成果を反映させた末、第二版の「序文」で幾つかの加筆修正が述べられることに
なる。この序文の中で、初版で下したペシミスティックな時代診断へも修正が加えられる
こととなることだけは述べておきたい。
改 め て 確 認 し て お け ば 、同 書 で 定 式 化 さ れ た「 公 共 圏 」と は 、
「私人による公的な事柄に
つ い て 討 論 す る 場 」 で あ り 、 そ こ で の 討 議 ( d is c ou r s e) は 、 自 由 ・ 平 等 を 条 件 と し た 理 性
的 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 2 7 に よ る も の で あ る 、 と ま と め ら れ よ う 2 8 ( 阿 部 [ 20 04b : p . 5 2 ,
25
前 近 代 で は 、芸 術 は「 宗 教 的 権 威 」と 強 く 結 び つ い て お り 、完 全 に 自 由 な 批 評 は 不 可 能
であったのであり、こうしたことは字句の通り「呪縛からの解放」であったと言える。
26
こ の 受 容 / 摂 取 の 具 体 的 な ケ ー ス と し て 、 阿 部 [ 19 96b] は 参 考 に な る 。 阿 部 は ラ デ ィ
カル・フェミニズムからの批判をハーバーマスがどう受容/摂取したのかを明らかにしつ
つ、フェミニズムと批判理論との理論的対話の可能性とその意義を述べている。
27
フ ラ ン ク フ ル ト 学 派 第 一 世 代 は 、 近 代 理 性 ( 彼 ら の 言 葉 で あ れ ば 「 道 具 的 理 性 」) の 暴
力性を自覚し、全面否定することで、自らの批判の根拠そのものを否定せざるを得なくな
るという理論的アポリアを抱えてしまい、
「 批 判 の 袋 小 路 」に 陥 っ て し ま っ た( ホ ル ク ハ イ
マ ー / ア ド ル ノ 『 啓 蒙 の 弁 証 法 』 岩 波 書 店 , 1 99 0 年 )。 そ こ で 、 第 二 世 代 の ハ ー バ ー マ ス
は、道具的理性とは異なる「別の近代的理性」をもって、道具的理性を批判していく。そ
れが『コミュニケイション的行為の理論』で示される「コミュニケーション的合理性」で
あるが、この理論的着想の萌芽は『公共性の構造転換』にも見受けられる。
28
ハ ー バ ー マ ス は 、公 共 圏 に お け る「 自 由・平 等 」の 理 性 的 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン が 可 能 と
な る 状 況 を「 理 想 的 発 話 状 況 」と 呼 ん で い る 。こ の 理 想 的 発 話 状 況 は 、
『コミュニケイショ
ン的行為の理論』で展開されるコミュニケーション的合理性が実現されていく中で、生み
出されるものだとされている。
9
p . 63 ])。 な お 、 ハ ー バ ー マ ス は 、 そ う し た 理 性 的 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン に つ い て 、 次 の よ う
な状態を理想的なものだとしている。紹介しておく。
第一に、各参加者はコミュニケーションを開始し、それを続ける平等な機会を持たね
ばならない。第二に、各参加者は主張、勧告、説明を行い、正当化に異議を申し立てる
平等な機会を持たねばならない。第三に、すべての参加者はみずからの願望、感情、意
図を表現する行為者としての平等な機会を持たねばならない。第四に、話し手は、行動
のコンテクストにおいて、
「 命 令 し 、命 令 に 抵 抗 し 、約 束 し 、拒 み 、あ る 者 自 身 の 行 動 に
対する説明責任を果たし、他者に説明責任を果たすように要求する」機会の平等な配分
、、、、
、、、、、
があたかも存在するかのように行為しなければならない。
( ハ ー バ マ ス ほ か 『 テ ロ ル の 時 代 と 哲 学 の 使 命 』、 200 4 年 、 p .29 5)
次節では、現代日本の市民社会の現状と将来を考えていく上で、公共圏概念がどのよう
な 意 義 が あ り 、同 時 に 課 題 を 孕 ん で い る の か を 検 討 す る 。そ し て 、こ の 検 討 を 通 じ て 、
「市
民的リテラシー教育」を論じる上で孕み得る課題も事前に確認しておきたい。
2.公共圏概念の現代的意義と課題
2 - 1. 危 機 に 瀕 す る 民 主 主 義
現代社会にあって、日本のみならず、多くの国家において、市民の意見(民意)と関係
な く 国 家 政 治 が 進 行 す る 場 面 に 多 く 接 し て い る 。具 体 的 に は 、2004 年 に 実 施 さ れ た 参 議 院
選挙の争点となった、イラクへの自衛隊派遣、多国籍軍への参加、年金法の改正が挙げら
れ、これらは新聞報道の世論調査結果や大規模な形で展開されたデモによって示された民
意をことごとく無視する形で遂行された。
こうした状況に顕著なように、現代にあって民主主義は実態としては危機に瀕している
と 言 え る 。 ス ズ キ [ 200 4 : pp .1 9-2 4 ] も 、 企 業 市 場 と 国 家 の 相 互 浸 透 と い う 「 市 場 の 社 会
的深化」を背景として、現代の民主主義が(市場原理主義の前に)劣化していっていると
の 診 断 を 下 し て い る 。そ も そ も デ モ ク ラ シ ー の 語 義 は「 d e mo s( 一 般 民 衆 )の k r atia( 支 配 )」
というものであるが、エマニュエル・トッドの『帝国以後』での知見を踏まえて、姜・ス
ズ キ [ 200 4 : p p. 44 -46 ] が 指 摘 し て い る よ う に 、 先 進 デ モ ク ラ シ ー 国 家 に お い て は 寡 頭 制
が 浸 透 し て い る 。 ま た 、 ギ デ ン ズ [ 1 99 9 : p p. 1 2 4 - 1 3 7 ][ 2 00 1 : p p. 1 4 4 - 1 5 4 ] も 、 民 主 主 義
の プ ロ セ ス が 十 分 に 民 主 的 で は な い と し 、「 民 主 主 義 の 民 主 化 」 の 必 要 性 を 説 い て い る 。
民主主義社会にあって、この危機的状況は変革される必要があろう。この変革を模索す
る 上 で 、公 共 圏 概 念 は 規 範 的 な モ デ ル と し て 意 義 深 い も の で あ る 。公 共 圏 は ア ソ シ エ ー シ ョ
ン関係を通じて、市民と国家政治を媒介するもので、そこには一般民衆の参加を特に重視
10
し た 概 念 だ か ら で あ る 29。 理 論 的 で は あ る が 、 公 共 圏 を 通 じ た 民 主 主 義 の 実 現 は 、 市 民 の
参加なくしては成立し得ないし、また、公共圏で形成される公論は国家政治に影響を持つ
点 で 、市 民 か ら 乖 離 す る も の で は な い 。エ ー レ ン ベ ル ク[ 20 01:p .30 5]は「 ハ ー バ マ ス は 、
正 当 に も 、 市 民 社 会 の 民 主 的 潜 在 の 力 の 重 要 性 を 確 認 し た 。」 と 述 べ て お り 3 0 、 ギ デ ン ズ
[ 1 999 : pp.1 32- 13 3 ] も 「 民 主 主 義 の 民 主 化 」 の 改 革 の 一 つ に 、 市 民 と 政 府 の 関 係 を 緊 密
に す る た め の 「 直 接 民 主 制 の 導 入 」 を 挙 げ て い る 31。
公共圏概念を巡っては、常にそれが理念型に過ぎず、経験的世界と断絶しているのでは
ないかとの批判がなされる。上述した現代的意義についても余りに非現実的ではないかと
の批判がなされるかもしれない。しかし、筆者はそうした批判が全く意味を持たないとは
言 わ な い も の の 、 生 産 的 な 問 い と は 考 え な い 。 花 田 [ 200 4 : pp .5 0-5 1 ] は 、 公 共 圏 概 念 の
二重性を指摘し、可能態と現実態に分けて論じる必要性を述べ、現実として公共圏がある
のか/ないのかを二項図式で問うナイーブな議論を退けている。花田は、現実態としての
公共圏は「固定した実体」として存在するものではなく、私たちの「コミュニケイティブ
な行為の出来高」によって生み出されるものであると指摘している。その上で、可能態と
し て の 公 共 圏 を 規 範 と し て 32、 現 実 態 の 公 共 圏 を 「 吟 味 」 し て い く こ と を 提 案 し て い る 。
こうした理解こそ、公共圏のポテンシャルを顕現化させ得るのであり、現在の時点で、非
現実的だからと一蹴するのは余りにもナイーブであろう。
2 - 2. 公 共 圏 概 念 の 批 判 的 検 討
もちろん、公共圏概念は万能薬や特効薬ではないし、単純に手放しで賞賛される概念で
はないことは言うまでもない。
『 公 共 性 の 構 造 転 換 』を 巡 っ て 、様 々 な 論 争 / 批 判 が な さ れ
た こ と は 、 既 述 の 通 り で あ る 。 阿 部 [ 19 98 : p p .17 0- 212 ] は 、 そ う し た 一 連 の 批 判 を 「 歴
「現状認識に関
史認識に関する批判」
( 人 民 的 公 共 圏 の 不 正 確 な 把 握 に 対 す る 批 判 3 3 な ど )、
29
近 代 西 欧 的 な 概 念 を 日 本 に お い て 、そ の ま ま 適 用 で き る か と い う 問 題 提 起 が よ く な さ れ
るが、近代西欧的な「公共圏」そのものではなく、地域文脈に即した「公共圏的なもの」
が 、展 開 可 能 で あ る と 筆 者 は 考 え て い る 。具 体 的 に ど う い っ た も の が 、そ れ に あ た る か は 、
筆 者 は 未 だ 明 示 で き な い が 、 花 田 [ 19 99 b: pp .49- 87 ] や 、 東 島 誠 『 公 共 圏 の 歴 史 的 創 造 −
江 湖 の 思 想 』( 東 京 大 学 出 版 会 , 2 00 0 年 ) は 、 そ の 手 掛 か り と な り 得 る 論 考 で あ る と 考 え
ている。
30
エ ー レ ン ベ ル ク は 、同 書 で の そ の 後 の 考 察 の 中 で 、ハ ー バ ー マ ス が 経 済 的 位 相 に 関 し て
過小評価している点を指摘し、公共圏概念のリアリティのなさを批判することになる。
31
ギ デ ン ズ は 、「 民 主 主 義 の 民 主 化 」 の た め に 、 以 下 の 六 つ の 改 革 方 針 を 具 体 的 に 挙 げ て
い る 。「 中 央 か ら の 地 方 へ の 権 限 委 譲 」「 公 共 部 門 の 刷 新 − 透 明 性 の 確 保 」「 行 政 の 効 率 化 」
「直接民主制の導入」
「リスクを管理する政府」
「 上 下 双 方 向 の 民 主 化 」。詳 し く は 、ギ デ ン
ズ [ 19 99: p p .12 7- 137]。
32
阿 部 [ 19 98: p p. 21 3-2 16] は 「 公 共 圏 」 が 「 単 な る 過 去 ( 史 実 ) の も の 」 で は な く 、「 事
実 」 で も あ り 、「 規 範 」 で も あ る と し た 上 で 、 そ の よ う な 「 規 範 」 と 「 事 実 」 の 緊 張 関 係 を
活かしながら「媒介」する公共圏概念を「規範の準拠点としての公共圏」と定義している
( 阿 部 [ 200 2 a: p .19 3])。
33
ハ ー バ ー マ ス [ 19 94: p .2] は 、 ブ ル ジ ョ ア ジ ー と 異 な る 農 民 や 労 働 者 か ら な る 人 民 的
公共圏をブルジョア公共圏(市民的公共圏)の従属的な一変種として捉え、人民的公共圏
11
する批判」
( メ デ ィ ア シ ス テ ム 分 析 の 欠 如 に 対 す る 批 判 な ど )、
「 規 範 認 識 に 関 す る 批 判 」の
三 類 型 に 整 理 し て お り 、批 判 を 吸 収 し た 上 で 、
「 可 能 態 と し て の 公 共 圏 」を 描 き な お す 必 要
性を述べている。本論文ではそうした批判を概観し、また公共圏を現実化していく際の今
日的課題を幾つか整理したい。
公共圏概念に対してなされる批判は次のようなものが代表的なものである。公共圏での
「合意」は「差異」を抑圧するものではないのか。公共圏でのコミュニケーションは言語
能力に依拠し過ぎてはいないか。公共圏での権力的ではないコミュニケーションは不可能
で は な い か 34。 実 際 の 公 共 圏 は 「 教 養 と 財 産 」 と い う 文 化 的 / 経 済 的 資 本 を 有 し な い 社 会
勢力を排除したものであったのではなかったか。また、公共圏の成立は家父長制と連関し
たものでもあり、
「 女 性 」が 本 質 的 に 排 除 さ れ て い た も の で は な か っ た か 。ハ ー バ ー マ ス は
「 単 一 で 包 括 的 な 公 共 圏 」を 志 向 し て お り 、
「 多 元 的 で 複 数 の 公 共 圏 」を 軽 ん じ て い る の で
はないか。そして、このことに関連して、多元的公共圏間におけるヘゲモニー闘争への考
察 が 抜 け 落 ち て い る の で は な い か 。ま た 、
「 単 一 で 包 括 的 な 公 共 圏 」に お い て 、討 議 条 件 を
遵守し、社会的不平等を「括弧に入れて」議論を行うことは、不平等の問題化を回避し、
不平等の再生産に加担するのではないか。
こ れ ら の 批 判 は ポ ス ト ・ モ ダ ン 論( 例 え ば リ オ タ ー ル[ 1 98 6])や フ ェ ミ ニ ズ ム( 例 え ば
フ レ イ ザ ー[ 1 99 9] 3 5 )の 視 角 か ら 展 開 さ れ た も の で あ り 3 6 、 い ず れ も 示 唆 深 い 。一 連 の 批
判は、
「 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 」を 論 じ て い く 上 で 、陥 り や す い 問 題 点 の 幾 つ か を 明 ら か に
し て く れ る よ う に 思 わ れ る 。 山 田 [ 2 000 : pp.1 55- 15 6 ] も 政 治 教 育 の 陥 穽 と し て 述 べ て い
る こ と で あ る が 3 7 、「 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 ( 市 民 教 育 )」 を 論 じ る 上 で 、 最 も 留 意 す べ き
が市民的公共圏の基準を志向したものであったとまとめている。しかし、ジョフ・エリー
は、二つの公共圏は「競合」関係にあったことを指摘し、ハーバーマスの見解に批判を加
え て い る ( 阿 部 [ 19 98: p p .17 2- 17 5])。 ハ ー バ ー マ ス [ 1 99 4: pp .ⅵ -ⅶ ] は 、 第 2 版 の 序 言
で、こうした批判の妥当性を認めている。この批判は、阿部も指摘する通り、ヘゲモニー
概 念 を 公 共 圏 に 接 続 し て い く 上 で 、示 唆 深 い も の で あ る 。こ の 点 に つ い て は 、三 島[ 2 0 0 2 :
p . 66] も 文 化 的 ヘ ゲ モ ニ ー へ の 批 判 の 欠 如 を 述 べ て い る 。
34
こ の 批 判 と し て は 、 吉 見 ・ 姜 [ 2 00 1: pp .50 -5 1] が 参 考 と な る 。 吉 見 ・ 姜 は 、 公 共 圏 が
権力の真空状態に成立することはあり得ないとし、
「 公 共 空 間 は 、決 し て す で に 自 律 性 を 確
立した人間がヘゲモニーやイデオロギーから切り離された水平的に討議する空間などでは
なく、まさしくそうしたヘゲモニーやイデオロギーのただなかでアイデンティティが集合
的 に 構 築 さ れ て い く 政 治 の 場 そ の も の な の で あ る 。」( 同 書 、 p .51) と 述 べ て い る 。
35
フ レ イ ザ ー [ 19 99: p p .12 9- 157] は 、「『 社 会 的 地 位 の 留 保 』 に 対 す る 批 判 」、「 単 一 的 ・
包 括 的 公 共 圏 に 対 す る 批 判 」、「 公 的 − 私 的 区 分 に 対 す る 批 判 」、「 国 家 ‐ 社 会 区 分 に 対 す る
批 判 」、 こ の 四 点 か ら ハ ー バ ー マ ス に 対 す る 規 範 性 批 判 を 展 開 し て い る 。 こ う し た フ レ イ
ザーの批判は、
「 多 元 的 で 複 数 の 公 共 圏 」の 積 極 的 肯 定 と 、そ の 多 元 性 を 実 現 す る た め の「 対
抗的公共圏」の正当的評価へと収斂される。対抗的公共圏が正当に評価されることで、社
会的不平等を巡る議論の内、支配的公共圏で私的と見做される公的事柄を討論の対象とし
て保障することにもつながる。
36
こ こ で は 、 阿 部 [ 1 99 4b: pp .3 82 -3 91] に 倣 い 、 公 共 圏 批 判 の 代 表 的 な も の を リ オ タ ー ル
とフレイザーに絞った。
37
山 田 は 、こ こ で 筆 者 が 述 べ て い る こ と 以 外 に 、公 教 育 で の 政 治 教 育 は 国 家 に 都 合 の よ い
「国民」の育成となりかねないことなどを挙げている。
12
こ と は 、「 エ リ ー ト 」 や 「 優 位 に 立 つ マ ジ ョ リ テ ィ 」 に よ る 「 大 衆 」 や 「 劣 位 に 立 つ マ イ ノ
リ テ ィ 」 へ の 「 一 方 的 な 啓 蒙 に よ る 同 化 」 の ロ ジ ッ ク に 陥 ら な い こ と で あ る 38。 そ の よ う
に考えれば、上述の批判に見られる排除や抑圧の問題化は傾聴に値しよう。極端に述べれ
ば、
「 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 」に お け る「 分 か り や す い 啓 蒙 / 同 化 の ロ ジ ッ ク 」は 前 衛 革 命
論と相似形をなし、公衆の力への信頼に依拠する公共圏概念とは相容れない。こうした問
題点に配慮した教育実践を展開すべきであると、理論的/規範的にこの段階で示せる。
なお、筆者は、上述の批判も踏まえつつ、本論文の問題関心に沿う、公共圏を現実化し
ていく上での今日的課題を列挙すると次の六点が挙げられるのではないかと考えている。
( 1 )い か に し て 幅 広 い 市 民 が 参 加 /参 画 す る 公 共 圏 を 実 現 す る か ?
或いは、なぜ実現していないのか?
( 2 )い か に し て 公 共 圏 の ア ジ ェ ン ダ を 設 定 し う る か ?
誰にとって容易で、誰にとって困難か?
( 3 )い か に し て 公 共 圏 の 自 由 ・ 平 等 な 理 性 的 討 論 を 実 現 す る か ? 3 9
或いは、なぜ実現していないのか?
( 4 )い か に し て シ ス テ ム 世 界 に 影 響 を 及 ぼ す 公 共 圏 を 実 現 す る か ?
或いは、なぜ実現していないのか?
( 5 )い か に し て 多 元 的 に 展 開 さ れ る 公 共 圏 は 相 互 に 影 響 し あ え る か ?
或いは、なぜヘゲモニー闘争が有効性を発揮していないのか?
( 6 )い か に し て 諸 公 共 圏 の 議 論 が 媒 介 / 討 議 さ れ る 公 共 圏 は 実 現 す る か ?
或いは、なぜ実現していないのか?
( 1) と (2 ) は 公 共 圏 の 議 論 の 「 入 口 問 題 」、 (3 ) は 公 共 圏 「 内 」 の 問 題 、 ( 4) か ら ( 6) は 公 共 圏
の 議 論 の 「 出 口 問 題 」 40と 図 式 的 に 整 理 で き る 。 本 論 文 で は 問 題 関 心 の 所 在 か ら 、 こ れ ら
す べ て の 課 題 に つ い て 議 論 を 展 開 す る こ と は 行 わ な い が 、い ず れ も 未 解 決 の 問 題 群 で あ り 、
今後の公共圏議論を実践的に成熟化させていく上で、少しばかりは手掛かりとなろう。
3.公共圏の担い手を巡る課題
3 - 1.「 参 加 」 を 巡 る 二 極 化
前 節 末 に て 、 筆 者 が 指 摘 し た 六 つ の 課 題 の 内 、 本 論 文 で は 特 に 「 入 口 問 題 」( 特 に (1 ) の
38
阿 久 澤 [ 20 01: pp .3 4-3 5] に よ れ ば 、「 一 部 の エ リ ー ト と そ れ に 従 う 大 衆 」 と い う 構 図 が
ナチズムを生み出したという反省に立って、民衆の政治判断力を高めるべきだという議論
から、政治教育や市民教育が展開されたとされている。にもかかわらず、エリート主義的
な側面が垣間見えるところに、市民教育が抱えているアンビバレンスが指摘できる。
39
こ こ で 想 定 し て い る 自 由 ・ 平 等 な 理 性 的 討 論 は 、権 力 の 真 空 状 態 の よ う な 空 間 に お い て
で は な く 、 ヘ ゲ モ ニ ー を 巡 る 闘 争 空 間 に お い て 展 開 さ れ る も の で あ る 。 阿 部 [ 2 00 3:
p p .19 3- 195] が 述 べ る よ う に 、 公 共 圏 を ヘ ゲ モ ニ ー の 視 角 か ら 位 置 づ け な け れ ば 、 公 共 圏
が秩序や伝統を維持し、再生産する場となりかねない。
40
ここで言う「出口問題」に関する著作としては、ハーバーマスの議論を踏まえながら、
討議デモクラシー概念を提起するドライゼクらの議論を手掛かりに、多くの実践事例を紹
介 し て い る 篠 原 [ 20 03] が 興 味 深 い 。
13
問題)に着目したい。たとえ、公共圏が「公開性」を担保して設けられ、そこで「理想的
な 討 議 」が 交 わ さ れ 、公 論 が 生 み 出 さ れ て い っ た と し て も 、そ の 公 共 圏 に 参 加 し て い る 人 々
が多様かつ多数でなければ、それは寡頭制的な構図(少数者の支配)となんら変わりない
からである。本来は公開性が公共圏を正統化するものであるが、いくら「手続き」を重視
したとしても、実態として少数の参加に踏みとどまった場合、それは正統化し得ないので
はないかと筆者は考えている。
この「参加」を巡る問題こそ、現代社会において重要なものとなってきているものであ
る。昨今の市民活動の隆盛を見れば、この指摘は的外れではないかと思われるかもしれな
い が 、現 在 、市 民 の 政 治 参 加 を 巡 っ て 進 行 し て い る 現 象 は 、若 者 層 を 中 心 と し て「 二 極 化 」
で は な い か と 見 て い る 。 平 成 16 年 版 国 民 生 活 白 書 (『 ES P』 p.10 8 ) で も 、「 N P O や ボ ラ ン
テ ィ ア 、 地 域 の 活 動 な ど に 現 在 参 加 し て い る 人 」 は 全 体 の 10 .1 %に 過 ぎ な い こ と が 報 告 さ
れ て お り 、し か も「( 現 在 参 加 し て い な く て )今 後 も 参 加 し た く な い 」と 答 え た 回 答 者 は 若
者 に な れ ば な る ほ ど 多 い と 示 さ れ て い る 41。
もちろん、こうした調査結果や低投票率だけをとって、政治的な関心の低下を論じるの
は 、 軽 薄 で あ ろ う 4 2 。 し か し 、 筆 者 が こ こ で 論 じ た い こ と は 、( 若 者 の ) 政 治 「 関 心 」 の 高
低 に つ い て で は な く 、政 治「 参 加 」の 有 無 に つ い て で あ る 。こ の 点 に つ い て は 、
(参加しな
い理由はどうであれ)国民生活白書の調査結果は、それなりの参考となるのではないか。
ス ズ キ [ 200 4: p .1 58] は 、 政 治 へ 関 心 が あ っ た と し て も 、 政 治 的 無 力 が 「 政 治 的 無 感 情
( po litical ap a t h y)」 を 惹 起 し 、 政 治 参 加 を 阻 害 し て い る こ と を 指 摘 し て い る が 4 3 、 こ う し
た様相は若者のみならず、多くの人々に分かちもたれてきていると思われる。こうした中
41
同 報 告 書 で は 、「( 地 域 の 活 動 に ) 今 後 も 参 加 し た く な い 」 と 答 え た の は 、 1 0 代 4 5 . 5 % 、
2 0 代 4 0. 9 %、 30 代 40 .4 %、 40 代 3 4 .4 %、 5 0 代 2 9. 3 %、 6 0 代 3 5. 4 %、 70 代 54 .6 %と な っ て い
る。このことを、加齢に伴う市民としての成熟や人間関係の複雑化の帰結として自然のこ
ととして受け止めるか、それとも若者の関心低下と受け止めるかは、判断が難しいところ
で あ る が 、 2 0 代 の 約 半 数 も が 関 心 す ら 示 し て い な い 点 に つ い て は 、「 問 題 」 と 指 摘 で き る
のではないだろうか。
42
「 若 者 の 政 治 離 れ 」と い う 言 説 に 対 し 、時 代 変 化 へ の 未 対 応 や 因 果 関 係 の 整 理 で の 粗 雑
さから疑問を呈したり、また知識社会学の視点から、そうした言説の形成過程やそこに潜
む ポ リ テ ィ ク ス を 、 批 判 的 に 検 討 し た 研 究 に 丸 楠 ・ 坂 田 ・ 山 下 [ 200 4] が あ る 。 し か し 、
同 書 が 具 体 的 に 提 示 す る 、 N P O な ど の ネ ッ ト ワ ー ク を 媒 介 と す る 政 治 参 加 は 、ま だ ま だ 一
般 的 な も の と は 言 い 難 い の で は な い か と 思 わ れ る 。な お 、三 島[ 200 2: pp .71 -72 ]は 、ハ ー
バーマスの『晩期資本主義における正統化の諸問題』の議論を受けて、大量消費社会の中
で、
「 個 人 的 に エ ン ジ ョ イ し 、公 共 の テ ー マ へ の 関 心 を 喪 失 す る 」無 関 心 状 況 が 広 ま っ て い
ると時代診断を下している。
43
ス ズ キ は 、ベ ン ジ ャ ミ ン・バ ー バ ー の「( 人 々 は )無 力 ゆ え に 無 感 情 と な っ た の で あ る 。
無 感 情 ゆ え に 無 力 と な っ た の で は な い 。」と い う 言 葉 を 引 用 し 、政 治 的 無 感 情 は 政 治 的 無 力
の帰結であると指摘している。このように考えれば、政治的無力な状態を変革すること、
本論文の表現で言えば、公共圏の「出口問題」を解決していくことが、政治へのコミット
メントを惹起するものとなることになる。この「出口問題」を一気に解消することは難し
いことであるが、政治的効力感を私たちが獲得していくことは不可能ではない。そうした
効力感の獲得に市民活動への参加(体験)は有効であろう。従来の民主主義教育や政治教
育は、そうした効力感には気を留めず、専ら知識伝達に熱心であった。そうした効力感を
高めることを促してこなかった従来の教育への批判を行うことが本論文のねらいである。
14
で は 、 市 民 活 動 44の 「 成 功 」 を 通 じ て 政 治 的 効 力 感 を 得 て 、 政 治 的 無 感 情 に 陥 ら な か っ た
も の と( こ れ は ご く 一 部 に 過 ぎ な い )、そ う し た 効 力 感 を 得 ず に 政 治 的 無 感 情 に 陥 っ た も の
45
との間で、政治や民主主義にコミットする/しないの二極分化が、傾向として出現して
いくと考えられよう。
もし、この傾向が進展していけば、公共圏概念は「参加」の部分で元来のポテンシャル
を発揮しえず、民主主義の危機に対抗する概念として十全に機能しまい。では、どのよう
にすれば、こうした傾向に歯止めをかけ、オルタナティブを構想できるのか、という問い
がここで立ち上がる。
スズキの議論に従うのであれば、政治的無感情とならないように政治的効力感を人生の
早い段階で得ることが重要であると言えよう。そうした効力感の付与とその準備がどこで
なされると効果的かということを考えた時に、
( 良 し 悪 し は と も か く )制 度 化 さ れ た「 学 校
教育」を本論文では取り上げたい。もちろん、こうした「学校」を中心とする議論は、既
述したように市民教育の「学校化」を促すばかりか、学校教育以外のオルタナティブな教
育を選択した子どもの「市民的リテラシー」の獲得についての視点が欠落しかねない。ま
た、そこでは人生の早い段階でそうした経験を得られなかった成人へのアプローチはどの
ように考えるのか、という疑問も出てこよう。本論文はあくまで「学校教育」を例として
取り上げるだけに過ぎず、効力感の付与のアプローチは学校に捕われるものではなく、多
様に存することは断っておく。
3 - 2.「 公 共 圏 の 耕 作 人 」 の 不 足
苅 谷[ 200 4: pp .7- 13 ]は 、コ ミ ュ ニ テ ィ デ ザ イ ン へ の「 参 加 」を 巡 る 議 論 に お い て 、197 0
年 代 に は 地 域 に( 参 加 が 不 十 分 で あ る と い う 結 果 に 関 す る )
「 責 任 」が あ り 、地 域 教 育 に よ
る「主体」形成をどう行うかということが議論の中心であったが、現在は「市民」に責任
が移り、
( 主 体 形 成 は 不 問 の 形 で )参 加 / 協 働 と っ た 関 係 性 を 構 築 で き る 場( 地 域 )の「 開
放性」が保障されているかどうかということが議論の中心となっていることをまとめてい
る。こうした変遷は新自由主義の浸透によるもので、つまり「デファクトの要求」に応え
ているだけに過ぎず、
「 主 体 」の 形 成 を 無 視 し た も の に 他 な ら な い 。苅 谷[ 前 掲 書:pp.16- 19]
は 、 こ う し た 変 遷 を 不 可 逆 の も の と 見 做 し 、 そ の 上 で ギ デ ン ズ [ 200 2] の 「 生 成 力 の あ る
政 治 」の 概 念 を 参 照 し つ つ 、
( 既 存 の 流 れ の 中 で )市 民 の 自 立 性 を 高 め る た め の 資 源 配 分 を
44
ギ デ ン ズ [ 2 001: pp.1 48- 14 9] は 、 市 民 活 動 を 通 じ た 政 治 参 加 は 、 市 民 が 強 く 関 心 を 寄
せ る「 既 存 の 政 治 が 手 に 負 え な く な っ た 問 題 」で 主 に 展 開 さ れ て お り 、
「堕落したビジネス」
と市民に認識される「既存の政治」では行われていない問題へのアプローチが行われるこ
と を 指 摘 し て い る 。 な お 、「 既 存 の 政 治 」 の 刷 新 も ま た 、「 民 主 主 義 の 民 主 化 」 に 必 要 な 事
柄であることを考えると、
( 形 式 は と も か く )そ う し た「 既 存 の 政 治 」が 担 っ て い る 部 分 へ
の政治参加の展開が模索されるべきであろう。
45
重ねて注意すれば、政治的関心の高低と、政治的無感情とはイコールの関係ではない。
15
い か に 行 う か と い う 議 論 を 展 開 し て い る 46。
「 生 成 力 の あ る 政 治 」 と は 、 ギ デ ン ズ [ 前 掲 書 : p.2 8] に よ れ ば 、「 社 会 全 体 の 関 心 や 目
標との関連で、個人や集団の身に何かがふりかかる政治というよりも、むしろ個人や集団
が《何かを引き起こす》ことを可能にする政治」を指す概念である。こうした政治の方向
性 は 、 対 話 的 民 主 主 義 を 重 視 す る 点 で ( ギ デ ン ズ [ 前 掲 書 : pp .2 9-3 0 ])、 公 共 圏 概 念 と も
通 ず る と こ ろ が あ る 。ま た 、こ こ で 言 わ れ る「 政 治 の 生 成 力 」を 高 め て い く こ と は 、
「市民
的リテラシー教育」が目指すところの一つに他ならない。
筆者も、苅谷の判断と同じく、時代の流れは不可逆のものであると認識しているが、二
極化を容認/促進する「デファクトの要求」への抗いとして、本論文では敢えて「行為主
体」の形成から論じることに取り組みたい。もちろん、本論文では詳細に論じないが、コ
ミ ッ ト し た く な る 場 や 環 境 の デ ザ イ ン も ま た 重 要 で あ る こ と は 言 う ま で も な い 47。
ちなみに、公共圏の「入口問題」としては、前節でも指摘したように、公共圏のアジェ
ンダセッティングについても今日的課題と言える。これまでの議論を踏まえれば、市民が
「政治の生成力」をつけるということは、公共圏のアジェンダセッティングを担えるよう
に な る と い う こ と で あ る 。そ も そ も の 公 共 圏 概 念 に お い て は 、ア ジ ェ ン ダ セ ッ テ ィ ン グ( の
ための問題提起)を行うことは、誰でも可能であるが、問題提起された事柄から論点を抽
出したり、また交わされる議論の交通整理を行いながら、議論を促したりしていくといっ
た意味でのアジェンダセッティングは、易々と行えるものではなかろう。
筆 者 は 、こ う し た 役 割 を 果 た す 人 を「 公 共 圏 の 耕 作 人 」と 名 づ け た い 。ハ ー バ ー マ ス[ 1994]
は、公共圏の耕作人としてはマスメディア、より具体的にはメディアを担うジャーナリス
ト を 、当 初 想 定 し て い た 。し か し 、ハ ー バ ー マ ス は 第 2 版 の 序 言 に お い て 、
「新しい社会運
動」の担い手に対しても、クラウス・オッフェの「アソシエーション関係」概念を用いな
が ら 肯 定 的 な 評 価 を 下 し 、公 共 圏 の 耕 作 人 の 位 置 づ け を 付 与 し て い る 4 8 。
「生成力ある政治」
の 概 念 か ら も 、 市 民 組 織 が そ の 位 置 を 担 う こ と は 、 望 ま し い も の で あ る と 言 え る し 、 NPO
46
こ う し た 指 摘 は 、行 政 や ま ち づ く り へ の「 参 画 と 協 働 」の 必 要 性 が 叫 ば れ 、幾 つ か の 先
進地域を除けば、
「 形 式 的 」な 部 分 で し か 実 現 し て い な い 近 年 の 動 向 を 批 判 的 に 検 討 す る 上
で示唆深い。
47
例 え ば 、 高 橋 [ 20 04: p p. 187 -18 8] は 、 公 共 圏 に コ ミ ッ ト す る た め の 時 間 的 / 精 神 的 な
「 ゆ と り 」が な い こ と を 指 摘 し て い る 。こ の ゆ と り の な さ に つ い て は 、川 中[ 2 00 4 a]を 参
照。
48
花 田[ 1 999:pp .1 7- 21]で は 、ハ ー バ ー マ ス の 公 共 圏 議 論 の 変 遷 の 中 で 、ア ソ シ エ ー シ ョ
ン が 常 に 規 範 的 空 間 に 位 置 づ け ら れ 、そ の こ と か ら 、公 共 圏 議 論 に お け る「 ア ソ シ エ ー シ ョ
ン の 特 権 化 」 を 見 出 し て い る 。 し か し 、 ハ ー バ ー マ ス [ 1 98 7: p.4 14] は 、 シ ス テ ム に よ る
生活世界の植民地化に抗してなされる、
「 生 活 様 式 の 文 法 」を 巡 る 抵 抗 / 闘 争 と し て の「 新
し い 社 会 運 動 」 に 対 し て 、「 解 放 的 な も の 」 と 「 防 衛 的 な も の 」 に 区 分 を 行 っ て お り 、「 ア
ソ シ エ ー シ ョ ン 関 係 」を 全 て 肯 定 し て い る わ け で は な い 。こ の 場 合 、後 者 に 対 し て 、プ レ ・
モ ダ ン / ポ ス ト・モ ダ ン へ の 退 却 を 志 向 す る も の だ と 、否 定 的 に 捉 え て い る 。阿 部[ 199 4a:
p . 143]は 、フ ェ ミ ニ ズ ム 運 動 を 例 示 し な が ら 、こ う し た ハ ー バ ー マ ス の「 新 し い 社 会 運 動 」
の理解は、その「近代」へのラディカルな問題意識を十分に捉えきれていないものである
と指摘している。
16
の 社 会 的 機 能 と し て ア ド ボ カ シ ー 機 能 が 入 っ て い る こ と を 鑑 み れ ば( 藤 井[ 2004:p.24 ])、
当 然 の 位 置 づ け で あ ろ う 。 篠 原 [ 2 00 3 : p .3 0 ] も 、 新 し い 社 会 運 動 は 「 民 主 主 義 の 資 本 」
であり、民主主義の民主化を進めるものである、というルフトの主張を紹介している。
ま た 、高 坂[ 2 000 a]が ラ ザ ー ズ フ ェ ル ド の 議 論 を 下 敷 き に し て 整 理 し た 、
「ミドルマン」
と い う 存 在 も ま た 、公 共 圏 の 耕 作 人 と い え る の で は な い か と 考 え て い る 。ミ ド ル マ ン と は 、
専門家が保有する社会学の理論や方法といった「専門知」を、一般市民や行政などのクラ
イアントへと媒介するエキスパートのことである。公共圏における理性的討議を深化させ
ていく過程において、専門家の知恵をどこまで有効に用いれるかは、非常に重要なポイン
トになることは言うまでもなく、専門家の知恵を議論の文脈に添った形で日常言語に「翻
訳」していく人間の存在は、公共圏のコミュニケーションの成熟を考える上では、意味深
かろう。
こうした「公共圏の耕作人は」は、現代日本においては、質/量ともに十分存在しない
と思われる。ジャーナリストは近年のフリーランスへの注目もあり、質的に向上してきて
い る と 言 え る が 、量 的 に は 不 十 分 で あ る 。市 民 組 織 に つ い て は 、量 的 に 増 え 続 け て い る が 、
耕 作 人 と し て の 質 に 関 し て は 不 十 分 で あ る 。 こ の こ と に つ い て 、 栗 原 [ 2 003: p p .18 5- 186]
は 、 90 年 代 以 降 の 日 本 に お け る N PO に つ い て 、 既 存 の 政 治 シ ス テ ム に 従 順 で あ り 、 異 議
申し立てを行わない様から、
「 市 民 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 不 確 立 」を 課 題 と し て 突 き つ け て
いる。ミドルマンに至っては、一部の社会学者やジャーナリストがその機能を担っている
が 、 職 能 と し て 確 立 し て お ら ず 、「 未 来 の 職 業 」 の 域 を 出 て い な い 。
もちろん、すべての市民が「公共圏の耕作人」となる必要はない。公共圏へ参加し、議
論を行う中で、民主主義や政治へコミットするだけでも十分である。しかし、できる限り
多くの市民が耕作人としての機能も有することができれば、公共圏のコミュニケーション
は 、活 性 化 / 成 熟 化 の 道 を 進 む こ と と な ろ う 。こ の 意 味 で も 、
「 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 」は
意味深いものである。
整理すれば、公共圏の「入口問題」からは、参加主体の形成という問題と、公共圏の耕
作人としての技能の習得という二つの課題が導出できる。
以上のように、本章では「市民的リテラシー教育」を論じていく上で、基礎付ける必要
が あ っ た 市 民 社 会 の イ メ ー ジ に つ い て 、公 共 圏 概 念 を 用 い て 明 ら か な も の と し た 。そ し て 、
公共圏概念への批判を踏まえつつ、今日的課題を整理した。そこで明らかとなった課題の
中から、本論文では公共圏に参加する「行為主体」形成や「耕作人」育成に関する問題を
現代社会において深刻なものとして捉え、
「 行 為 主 体 」形 成 の た め の 教 育 の 必 要 性 へ と 展 開
しようとしている。次章では、そうした「行為主体」に要請される市民的リテラシーがど
う い っ た も の か を 明 ら か と し つ つ 、イ ギ リ ス で 既 に 実 践 さ れ て い る 市 民 教 育 を 紹 介 し た い 。
17
第2章
市民的リテラシーと市民教育
第 2 章では、第 1 章を踏まえ、公共圏/市民社会/民主主義の担い手や耕作人としての
市民に要請される「市民的リテラシー」がどういうものであるべきかを明らかとしていく
ことを試みる。次に、市民的リテラシー教育について体系化し、先駆的に取り組んでいる
イギリスでの市民教育の取り組みを概観し、
「 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 」へ の イ メ ー ジ を 具 体
化させていく。
こうした作業を行い、市民的リテラシー教育という提案への前提を整える。予め断って
おけば、こうした市民的リテラシー教育の提案は何ら珍しいものではない。これまで、民
主主義教育や政治教育という形で実践されてきている。そうしたものと共通する部分もあ
ろ う が 、異 な る 部 分 も 幾 つ か あ る 。そ う し た 差 異 に つ い て は 、本 章 3 節 と 第 4 章 で 論 じ る 。
なお、教育を通じて、獲得を促す技能や知識、作法としては、様々なものが提示されて
い る が 49、 本 論 文 で 提 示 す る 市 民 的 リ テ ラ シ ー は 、 そ う し た 総 合 的 な 能 力 の 一 部 に 過 ぎ な
いことを断っておく。
1.市民的リテラシーという概念
1 - 1. 民 主 主 義 の 実 現 を 促 す 教 養 と し て の リ テ ラ シ ー 概 念
市 民 的 リ テ ラ シ ー と い う 言 葉 は 筆 者 の 造 語 で は な い 。 高 坂 [ 2 000 b: p .ⅷ ] が 「 市 民 と し
て弁えておくべき知識や規範・価値を自分の視点として有していること」という意味で既
に用いているところからの引用である。本論文では、この定義を発展させていきながら、
定義づけを行っていきたい。なお、ハーバーマスは『公共性の構造転換』の新版序文で、
市 民 の「 責 任 あ る 行 為 」に つ い て 、オ ッ フ ェ が 提 示 し た 次 の 定 義 を 肯 定 的 に 引 用 し て い る 。
責任をもって行為するとは、行為者が自分自身の行為にたいして方法上先取り的に、
専門家の視点、すなわち一般化された他者の吟味の視点をもつと同時に、自分固有の自
己の吟味の視点をもつことによって、行為の基準が事柄にかなっているか、社会や時代
の中で妥当であるかどうかを確認するということである。
( ハ ー バ ー マ ス 『 公 共 性 の 構 造 転 換 』、 199 4 年 、 p .ⅹ ⅹ ⅹ ⅸ ) 5 0
49
ト ー マ ス・ア ー ム ス ト ロ ン グ( 吉 田 新 一 郎 訳 )
『マルチ能力が育む子どもの生きる力』
(小
学 館 、 2 002 年 )、 吉 田 慎 一 郎 『 い い 学 校 の 選 び 方 − 子 ど も の ニ ー ズ に ど う 応 え る か 』( 中 公
新 書 、 20 04 年 )、 門 脇 厚 司 『 社 会 力 が 危 な い ! 』( 学 習 研 究 社 、 2 00 1 年 )、 同 編 『 学 校 の 社
会 力 − チ カ ラ の あ る 子 ど も の 育 て 方 』( 朝 日 新 聞 社 、 200 2 年 )、 齋 藤 孝 『 子 ど も に 伝 え た い
< 三 つ の 力 >』( NH K ブ ッ ク ス 、 2 00 1 年 )、 藤 原 和 博 編 『 中 学 改 造 − 学 校 に は 何 が で き
て 、 何 が で き な い の か 』( 小 学 館 、 2 00 2 年 ) な ど の 議 論 に 筆 者 は 注 目 し て い る 。 な お 、 門
脇 [ 200 2: p . 8] は 「 人 が 人 と つ な が り 社 会 を つ く る 力 」 を 「 社 会 力 」 と 呼 ん で い る が 、 こ
れは市民的リテラシーと近しい概念であろう。
50
原 文 は 、 C . O ff e 1 9 8 9 ‘ B i n d in g , Fe s s s e l , B r eme s . D ie U n u b e r s i ch t l i c h k e i t v o n S e l b s t b e s c h ran ku ng sf ormeln ’ , in : A.H onn eth , Th . M c C a r t h y, C . O ff e , A . We l l m e r, “Z wis c h e n b e tra c ha tun g en”
F f m. p . 7 5 8
18
こうした定義において、
「 自 分 の 視 点 と し て 」と い う 部 分 に 注 目 し た い 。市 民 的 リ テ ラ シ ー
は、誰かが定めた特定の規範・価値を内面化して習得するものではなく、個々人が自らの
規範・価値観を各々で形成していくものであることが、この定義から明らかとなる。この
観点が、いわゆる「道徳教育」とは袂を分かつポイントである。結論を先取りすれば、従
来の民主主義教育や道徳教育が「価値伝達の教育」であったとすれば、市民的リテラシー
教育とは各人の価値観の形成を促していく「機会提供の教育」だと言えよう。もちろん、
後述するように完全に価値中立的な機会や空間を設けることは、ほぼ不可能であろう。機
会を提供する側が持つ価値観が明に暗に滲み出てくるものではある。この問題をどのよう
に向き合って、価値形成を促すのかということについては、第 4 章にて考えたい。
そ も そ も リ テ ラ シ ー と い う 言 葉 は 、 佐 藤 [ 2 00 1b : p.41 ] に よ れ ば 、 17 世 紀 イ ギ リ ス で
初めてその用法が認められ、当時はシェイクスピアの戯曲を読めて理解できることを示し
て い た も の で あ り 、 こ こ で の 語 義 は 「 共 通 教 養 」 と な る 。 佐 藤 [ 199 5 : pp .152- 15 6 ] は 、
その後「共通教養」という言葉が、学問教育と市民教育のそれぞれにおいて異なる意味を
形成していったことを整理している。学問教育のそれが人文教養を指すものとなったのに
対 し 、普 通 教 育 で の そ れ は 、
「 民 主 主 義 の 実 現 を 促 進 す る 教 養 」と「 現 代 的 課 題 の 解 決 に 貢
献 す る 教 養 」 を 指 す も の と な っ た の で あ る 51。 高 坂 の 定 義 は 、 こ う し た 市 民 教 育 の 文 脈 で
の「共通教養」としてのリテラシー概念の理解に基づくものである。
な お 、現 在 で は 、リ テ ラ シ ー と い う 言 葉 は 、
「 共 通 教 養 」と し て で は な く 、そ の 一 部 分 を
なす「読み書き能力」として理解され、用いられることが一般的である。例えば、メディ
ア・リテラシーの場合、この「読み書き能力」の語意から定義づけを行っており、具体的
にはメディア使用能力、メディア受容能力、メディア表現能力からなるものであると述べ
て い る ( 水 越 [ 20 02: p p .92 -1 00])。
以上のように、リテラシー概念は能力や教養を指す客観的側面の意味合いが強いが、高
坂の定義にも明らかなように、市民的リテラシー教育は、そうした能力を発揮しようとす
る際の規範や価値観といった主観的側面としての意味合いも含まれている。この主観的側
面には、能力や教養を発揮しようとする、即ち社会へコミットしようとする意識/意欲も
また含まれるべきだと、筆者は考える。そのように考えれば、市民的リテラシーを実効性
あ る 概 念 と な る か ら で あ る 。本 論 文 で は 、市 民 的 リ テ ラ シ ー の 主 観 的 側 面 を 広 く 理 解 し て 、
用 い た い 。ボ ッ ラ ド リ[ 20 03]も ハ ー バ ー マ ス と の 対 話 を 経 つ つ 、
「他者への関心と集団の
幸福への関与の感覚」という主観的側面が人々になければ、公共圏は成立しないことを、
述べている。
51
こ の 教 養( や 能 力 )を ど う い っ た 人 々 が 、ど の よ う に 定 義 づ け し て い く の か 、と い う 部
分に権力作用を見出すこともできよう。そうした視点で、3 節にて取り上げるイギリスの
クリックレポートの作成過程を捉えれば、何が言えるのであろうか。今は、その問いに対
する答えを有していないが、興味深い事柄である。
19
公共圏に関するどのような議論も、他者に対する私たちの関心の本性と、政治的な関
与の射的に係わるものである。他者への関心と集団の幸福への関与の感覚がなければ、
公共圏はない。
( ボ ッ ラ ド リ 「 テ ロ リ ズ ム の 再 構 築 − ハ ー バ マ ス 」、 2003 年 、 p.92 )
1 - 2. シ テ ィ ズ ン シ ッ プ 概 念 の 思 想
市民的リテラシーは、シティズンシップ概念の一部分と見做されることがあるため、シ
ティズンシップという言葉についても踏まえておきたい。3 節で取り上げるイギリスの市
民教育は、シティズンシップ概念に立脚している。
宮 島 [ 200 4 : pp .2 -4 ] は 、 シ テ ィ ズ ン シ ッ プ に つ い て の 議 論 を 見 渡 し て 、 以 下 の 三 つ の
意 味 の 文 脈 で 用 い ら れ と 述 べ て い る 。 第 一 に 、「 国 籍 」 と い う 意 味 。 第 二 に 、「 市 民 と い う
地 位 、 資 格 に 結 び つ い た 諸 権 利 」 と い う 意 味 。 第 三 に 、「 個 人 が 共 同 体 5 2 に 参 加 す る 行 為 や
アイデンティティの型」という意味。この三つである。
第二の意味については、市民的自由(思想・信条・身柄の自由や表現の自由など)や政
治的/社会的権利(参政権や生存権など)が、具体的な内容となる。この点について、現
代 的 な シ テ ィ ズ ン シ ッ プ の あ り 方 に つ い て 、 宮 島 [ 前 掲 書 : p p. 14 9] は 、「 自 分 の ア イ デ ン
ティティやライフスタイル、文化選択、さらには性的指向のために、社会的権利の行使が
妨 げ ら れ る 」事 態 が「 切 実 」な も の で あ る 場 合 を 紹 介 し つ つ 、
「 シ テ ィ ズ ン シ ッ プ は 、こ れ
までどちらかといえば、斉一的な平等の観念と結び付けられることが多かった。すべての
者が同じように扱われることがその種の主張であるが、今では多様な状況、文化背景、要
求をもつ個人、カップル、家族にどのようにシティズンシップを保障するか、という課題
も 大 き く な っ て い る 。」 と 述 べ て い る 5 3 。 ア イ デ ン テ ィ テ ィ ・ ポ リ テ ィ ク ス が 現 代 政 治 の 特
徴であることを考えれば、こうした多様性を肯定するシティズンシップ概念への更新は重
要なものであると思われる。
第三の意味について、宮島は主観的・客観的両面において個人と共同体の関係が成立す
ることが、この意味でのシティズンシップの実現にあたると述べている。ここで注意すべ
きは、この第三の意味でも多様性の肯定が重要であるということである。個人と共同体の
関係性や、また共同体へ参加する行為やアイデンティティの型について、斉一的なものを
想 定 す れ ば 、そ れ は 余 り に も 暴 力 的 な 議 論 と な る 。
「 そ の 人 ら し く 」社 会 に コ ミ ッ ト し て い
く こ と が 志 向 さ れ る べ き で あ ろ う 。宮 島 も 少 し 別 の 観 点 で は あ る が 、
「個人はいくつもの集
52
こ こ で の 共 同 体 は 、非 常 に 多 義 的 な も の で 、身 の 回 り の 共 同 体 か ら 、地 域 共 同 体 、国 民
国 家 、グ ロ ー バ ル 共 同 体 ま で 伸 縮 自 在 の 概 念 と し て 考 え た い 。な お 、筆 者 は 、樋 口[ 2 0 0 4 :
p . 7]が 紹 介 す る グ ッ デ ィ ン の 議 論 を 参 照 に し つ つ 、共 同 体 は「 内 的 に は あ ま り 包 摂 的 で は
なく、外的にはあまり排他的ではない」ものであるべきだと考える。
53
ギ デ ン ズ [ 2 002: pp.2 7-2 8 ] は 、 現 代 の 政 治 の 中 心 的 位 置 を 占 め て い る の は 「 ラ イ フ ス
タ イ ル の 政 治 」( 生 き る こ と の 政 治 ) と 述 べ て い る 。
20
団 に 所 属 す る の で 、シ テ ィ ズ ン シ ッ プ は 、多 元 的 な い し 複 数 的 で あ ろ う 」
( 宮 島[ 前 掲 書 :
p .4 ]) と 述 べ て い る 5 4 。 な お 、 こ の 意 味 で の シ テ ィ ズ ン シ ッ プ の 実 現 に 際 し て 、 そ れ に 足
る文化的資本/経済的資本はどういったものであるか、ということが問われるべきであろ
うが、本論文ではこの論点については深入りできないことを断っておく。
市民的リテラシーは、主に第三の意味でのシティズンシップに関連するものである。第
三の意味でのシティズンシップを構成している、共同体に参加するための能力や資質など
の 客 観 的 側 面 、ま た 共 同 体 に 参 加 し よ う と 思 う モ チ ベ ー シ ョ ン な ど の 主 観 的 側 面 が 、
(広義
の)市民的リテラシーにあたる。また、主観的側面も客観的側面も、第一や第二の意味で
のシティズンシップが実現した上で確立されることを考えれば、市民的リテラシーはシ
テ ィ ズ ン シ ッ プ 概 念 全 体 と つ な が っ て い る と 言 え る 55。 こ う し た つ な が り は 、 市 民 的 リ テ
ラシーの形成を考える上で、社会環境面への視野を広げる/深める点で重要である。単に
教 育 が 充 実 す れ ば 、等 し く 全 て の「 社 会 構 成 員 」
( 国 家 構 成 員 で は な い )に 市 民 的 リ テ ラ シ ー
は形成されるものではないことを認識しておかねばならない。それを支える第一や第二の
シティズンシップの面で課題を抱えている人々については、教育以外の取り組みが極めて
重要となってくることは当然である。
こ の こ と は 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 を 考 え る 上 で も 示 唆 を 与 え て く れ る 。工 藤[ 20 04:p .66]
は、現代的シティズンシップには、相互依存関係を自覚し、他者や自然との連帯・共生を
可能にする資質が重要な位置を占めると述べており、市民的リテラシーの基盤の重要な要
素 の 一 つ に 「 共 生 ( liv in g tog e the r ) 5 6 の 技 能 と 作 法 」 が 位 置 づ け ら れ て い る 5 7 。 こ の こ と
を考えれば、市民的リテラシー教育の中で、第一や第二のシティズンシップを巡っての問
題に向き合い、議論していくことは、その問題を抱えていないマジョリティに位置するよ
うな市民にとっては、切実性の高いイシューからマイノリティに気づく契機となる。
なお、市民的リテラシーを「義務」の観点から捉えれば、国家に従順な国民を育てると
いう意味合いが強くなり、
「 ナ シ ョ ナ ル な も の 」に 掠 め 取 ら れ か ね な い 。故 に 、筆 者 は 、義
務/責務が全くないとは言わないが、市民的リテラシーを「権利」と「機会」の観点から
捉えるようにしており、市民的リテラシー教育を、民主主義社会において市民が本来有し
て い る 当 事 者 と し て の「 権 利 」と 、そ の 権 利 を 行 使 す る「 機 会 」を 社 会 の 中 で 見 つ け 出 し 、
54
ヒ ー タ ー [ 2 002: pp.1 96- 19 9] は 、 こ う し た 多 元 的 で 複 数 的 な シ テ ィ ズ ン シ ッ プ を 「 多
重市民権」と読んでいる。
55
本 論 文 で 市 民 的 リ テ ラ シ ー と い う 言 葉 を 用 い て い る の は 、シ テ ィ ズ ン シ ッ プ 概 念 が 余 り
にも多義的であり、また第一ないし第二の意味での用法の方が一般的で、他の論考との混
同を回避するためである。
56
長 谷 川 [ 19 97: p p.142 -1 43 ] は 、 曖 昧 に 用 い ら れ る 「 共 生 」 の 用 法 は 、 次 の 三 つ の 英 語
で も っ て 整 理 さ れ る と 述 べ て い る 。第 一 に 生 物 学 用 語 の s y mb i o s i s 、第 二 に イ リ イ チ が 提 示
し た co nv ivialit y 、 第 三 に liv ing to g e th er。 本 論 文 で は 第 三 の 用 法 に 従 っ て い る が 、 こ れ は
「同化を強制するのではなく、異質性を認めつつ、共存をはかる」という意味合いのもの
である。詳しくは、長谷川の論考を参照。
57
大 澤 [ 2 004: pp .17 2-1 73] は 、 私 が 他 者 で あ り え る と い う 「 根 源 的 偶 有 性 」 が 意 識 さ れ
るよって、特定の価値観を同じくせずとも公共圏が成立し得る可能性を見出している。
21
そ の 機 会 を 活 か し て い く 学 び で あ る と 考 え て い る ( 川 中 [ 2 004 b: p . 1 5])。
市民的リテラシーにせよ、シティズンシップにせよ、こうした概念が特に近年盛んに議
論されている背景には、前章において紹介した民主主義の危機や、ライフスタイルや価値
観の多様化の進行、グローバリゼーションを通じた多文化社会の進行といった事態を前に
して、従来のシティズンシップ概念や市民的リテラシー概念が揺らぎ、その刷新や理論的
な 成 熟 、 実 践 的 な 充 実 が 求 め ら れ て い る か ら で あ ろ う 58。 次 節 で は 、 こ う し た ニ ー ズ を 踏
まえ、市民的リテラシーがどういったものから構成されるものかを考えたい。
2.複合的な市民的リテラシー
2 - 1. 市 民 的 リ テ ラ シ ー と は 何 か ?
前節までの議論に対し言葉を補いながら整理すれば、以下の通りとなる。市民的リテラ
シーは、公共圏/市民社会/民主主義を担う「政治の技能と知識」と、そのことに密接に
関連した、様々な他者と共に社会を構成するための「共生の技能と作法」の二つが中心的
位置を占めており、こうした技能や知識といった客観的側面は、各人の主観的側面(価値
観/意識/意欲)によって方向付けられるものである。
「 政 治 の 技 能 と 知 識 」の 形 成 は 、別 の 表 現 を 用 い れ ば 、公 共 圏 の 担 い 手 と な る た め の「 討
議能力とそれを支える批判的知性の形成」と、行動的な市民となるための「市民的問題解
決 行 動 の 形 成 」 の 二 つ を 目 指 す も の で あ る と も 整 理 で き る 59。
本 節 で は 、「 共 生 の 技 能 と 作 法 の 体 得 」、「 討 議 能 力 と そ れ を 支 え る 批 判 的 知 性 の 形 成 」、
「市民的問題解決行動の形成」といった互いに相関する三つの目標のそれぞれについて、
コメントを付したい。いずれも「あるべき」という規範的な記述となっているが、形成が
不十分であったり、或いは本論文の記述と相反する方向性であったりしても、それは批判
されるものではない。高坂が「自分の視点として」と定義づけたように、三つの目標それ
ぞれについて、どのような価値観を形成するのかが重要なのである。本論文では、リベラ
ルな視点からの規範的な方向性を提示している。なお、この三つの目標で示される技能の
総体が市民的リテラシーであると言えると考えている。
2 - 2. 創 造 的 寛 容 と い う 「 共 生 の 技 能 と 作 法 」
第一の体得すべき「共生の技能と作法」は、社会を構成する多様な他者の存在を積極的
に 承 認 し あ い 、共 に 社 会 を 担 っ て い こ う と す る 心 構 え や 、ま た そ の た め の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ
58
ダ ー ル [ 20 01: p p.257 -2 58 ] は 、 近 年 、 市 民 が 政 治 と 向 き 合 う 上 で 起 こ っ て い る 変 化 と
して、以下の三つを挙げている。一人一人の生活がグローバルな影響の下にあり、それ故
に グ ロ ー バ ル な 政 治 に つ い て も 考 え る 必 要 性 が 生 じ た と い う 「 規 模 の 拡 大 」、「 公 的 問 題 の
複 雑 さ の 向 上 」、
「 情 報 量 の 増 大 」、こ う し た 三 つ の 変 化 を 前 に 、従 来 の 市 民 教 育 は 機 能 し 続
け得ないとし、市民教育の刷新を今後の民主主義の課題の一つに挙げている。
59
こ う し た 整 理 に あ た っ て 、筆 者 が イ ギ リ ス の 市 民 教 育 の 目 標 に 全 く 影 響 を 受 け て い な い
わけではなく、もちろん参考にしている。議論の組み立て上、前後してしまうが、イギリ
スの市民教育については、本章 3 節を参照されたい。
22
ン能力のことである。前節でも既述したとおり、グローバリゼーションの中で経済資本の
みならず、人々の移動も激化しており、またアイデンティティやライフスタイルを巡る政
治が政治の中心的な位置を占めてきている中で、多様な人々のニーズの抗争が顕現化する
よ う に な っ て き て い る 60。 こ う し た 抗 争 を 肯 定 的 に 捉 え 、 調 整 し つ つ 、 合 意 を 目 指 し て い
くことは決して容易なものではないが、市民に分かちもたれるべきものであろう。
一般的に、
「 共 生 す る 」と い っ た 場 合 、多 文 化 共 生 や 多 民 族 共 生 と い っ た 文 脈 で 用 い ら れ
る こ と が 多 い が 、こ こ で は 広 く「( 自 分 と は 異 質 な )他 者 」と の 共 生 を 指 し て い る 。共 生 を
....
巡る議論で抜け落ちやすいのは、共同体の中でマジョリティが同文化/同民族と思い込ん
...
でいる中での異質な他者との共生である。セクシュアル・マイノリティや文化資本/経済
資本などを十分に持たないと言われる下位層の人々などが、具体的には言える。
ま た 、「 他 者 と の 共 生 」 と い っ た 場 合 、 い わ ゆ る 「 市 民 派 」 の 議 論 の 中 で は 、保 守 派 や 右
派などの「理解」しえないであろう他者との共生は余り取り上げられないが、こうした点
へ も 配 慮 す べ き で あ ろ う 。 平 田 [ 2 00 4 : pp .62 -6 3 ] は 、 対 話 を 成 り 立 た せ る た め に は 、 話
者 間 で の「 コ ン テ ク ス ト の 摺 り 合 わ せ 」が 必 要 で あ る と 述 べ て い る が 、
( 筆 者 も 含 め )わ れ
われは、コンテクストを摺り合わせやすい人々との間でしか、対話を行おうとしていない
傾 向 が あ る よ う に 思 わ れ る 61。 コ ン テ ク ス ト を 摺 り 合 わ せ に く い 他 者 と の 公 共 圏 に お け る
討議こそが、多元的で複数的な公共圏を想定した場合にあっても、公共圏/市民社会全体
の 議 論 を 深 め て い く 上 で 重 要 な こ と は 言 う ま で も な い 。小 玉[ 200 3: pp .8 0- 81]も 、シ テ ィ
ズンシップの教育思想にあって、
「 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン の 危 う さ を 露 出 さ せ る 」存 在 、つ ま
り「思い通りにならない他者」とどのように公的な関係を作り上げていくかが重要なテー
マとなってくると述べている。
な お 、 長 谷 川 [ 1 997: p . 140] は 、 現 代 に お い て 求 め ら れ る 共 生 と し て 、 以 下 の 五 つ の レ
ベルでの包括的な共生を示している。
「 第 1 は 、自 然 と 人 間 と の 共 生 で あ る 。第 2 は 、異 質
な諸外国の文化との共生、または日本の中の外国人、日本の中の異質な文化との共生であ
る。第 3 は、都市と農村の共生、中央と地方との共生である。第 4 は高齢者や社会的弱者
と の 共 生 で あ る 。第 5 は 、女 性 と 男 性 と の 共 生 で あ る 。」こ の 五 つ で あ る 。具 体 的 に 共 生 を
考えていく上で、参考となろう。このような様々な「共生」すべき他者をどのように意識
60
齋 藤 [ 2 000: pp .62 -64] は 、 公 共 圏 に お い て 「 ニ ー ズ 解 釈 の 政 治 」 と い う 次 元 が 含 ま れ
るべきだというフレイザーの問題提起を紹介している。様々な人々のニーズを解釈し、そ
れを公的だと定義する過程に、言説の政治が介在していると述べた上で、そうしたニーズ
の解釈について(多元的な)公共圏において議論が交わされていく必要性を述べている。
そ う で な け れ ば 、新 し い ニ ー ズ の 内 、過 去 あ る い は 現 在「 私 的 」と 見 做 さ れ て き た イ シ ュ ー
について、
「 再 私 化 す る( r e- pr i v at i z e)」議 論 が 展 開 さ れ て し ま い か ね な い と 指 摘 し て い る 。
こうした政治が責任を転嫁させる「再私化」のロジックには、フレイザーが述べる「家族
化 す る ( f amil i a r i z e)」「 経 済 化 す る ( econ omize)」 以 外 に も 、「 市 民 の 活 力 」 や 「 地 域 の 連
帯」といった言葉によって「市民社会化する」といったロジックがあると齋藤は述べてい
る。この「市民社会化する」という指摘は、近年の「構造改革路線」が標榜される政治動
向を批判的に考える上で、幾つかの示唆をもたらすものだと思われる。
61
日 本 社 会 に お け る 対 話 の 不 在 に つ い て は 、 中 島 [ 19 97] と 平 田 [ 2 00 1] を 参 照 。
23
化していくか、市民的リテラシー教育では重要な課題となる。
そ も そ も 民 主 主 義 と は 、 デ ュ ー イ [ 19 75( 上 ) : p .142 ] の 理 解 に よ れ ば 、「 多 様 な 人 々 が
共 に 暮 ら す 生 き 方 の 哲 学 」( 佐 藤 [ 2 004 b : p . 2 36 ]) が 具 現 化 し た も の で あ る 。 こ う し た 意
味 で の 民 主 主 義 が 機 能 す る た め に 、マ ン ハ イ ム[ 1 97 1:pp .347 -3 52 ]は「 創 造 的 寛 容( creativ e
t o l e r a n c e)」と 呼 ば れ る 態 度 が 市 民 に 求 め ら れ る と 述 べ て い る 。山 田[ 2 000:p . 157]は 、
「創
造 的 寛 容 」に つ い て 「
、 自 身 の 見 解 と 意 志 を 他 者 に 押 し つ け ず 、意 見 の 相 違 を 許 容 す る こ と 、
場合によっては自身のパーソナリティそのものを変動にさらす勇気を持つこと」などを弁
えつつ、
「 立 場 や 意 見 の 相 違 を 欺 瞞 的 に 隠 蔽 す る こ と な く 、し か も 共 同 生 活 の た め に 一 致 点
を見出していく」態度だとまとめている。こうした態度は、意見の優劣よりも対話プロセ
スに価値を見出している点でも、また一般的に求められがちな「分かりやすい」議論を、
多様な意見間に存する差異を無効化してしまうものとして退ける点でも、公共圏での十分
な討議への志向性を高め、重要なものである。
2 - 3. 相 互 承 認 と い う 関 係 性
マ ン ハ イ ム の 「 創 造 的 寛 容 」 の 概 念 は 、「 共 生 の 技 能 と 作 法 」 の み な ら ず 、 第 二 の 「 討 議
能力とそれを支える批判的知性の形成」を論じる上でも、有効なものであろう。マンハイ
ム の 議 論 か ら 公 共 圏 で の 討 議 を 考 え る 上 で 、 内 田 ・ 平 川 [ 2 004 : p p. 1 2-1 6 ] が 提 示 す る 、
対話のマナーは興味深い。内田・平川は対話のマナーとして、相互の意見を「まずそのと
おり」と互いに許容する(=簡単な合意をする)ことから、対話を始めるべきだと述べて
いる。一般的には、合意は対話を通じて、他者の思考/感情を理解した後に形成されるも
の だ と 理 解 さ れ て い る 。内 田 ・ 平 川 は 、こ う し た モ デ ル で は 、
「 分 か り 合 え な い 」局 面 に お
い て 、議 論 を 継 続 す る こ と が 困 難 と な る と し て 、
「 合 意 か ら 出 発 し て 対 話 が 始 ま る 」と い う
ロジックを示している。
確かに、内田・平川の議論は理解できるものである。ただし、相互に「寛容」の精神を
もって、他者の議論を受容しあい、一定の信頼関係を成立させなければ、継続的な討議関
係 は 結 ば れ な い と い う こ と を 指 す こ と を 考 え れ ば 、「 合 意 」 と い う 言 葉 よ り も 「 相 互 受 容 」
と い う べ き も の で あ ろ う 。こ の 点 で 、内 田・平 川 の 着 想 は 、
「 創 造 的 寛 容 」の 概 念 の 内 に( バ ー
ジョンアップの材料として)位置づけることも可能だと考えている。以上の議論を踏まえ
れ ば 、理 性 的 対 話 の 成 立 に お い て 、
( 最 初 の 段 階 だ け で は な く )い か に 寛 容 的 態 度 を 維 持 し
続 け ら れ る の か 、 と い う こ と が 重 要 な も の で あ る と い う こ と が 言 え よ う 62。
ちなみに、私たちの日常の人間関係において、散見される光景は、意見の対立が感情の
62
ハ ー バ ー マ ス[ 19 87]は 、妥 当 性 要 求 に 沿 っ た 相 互 行 為 が 展 開 さ れ る と い う コ ミ ュ ニ ケ ー
ション的合理性が分かちもたれることで、話者間の信頼関係が担保されるものだと考えて
い る 。こ れ は 確 か に そ う な の で あ る が 、余 り 現 実 的 な 議 論 で は な い よ う に 思 わ れ る 。な お 、
内田・平川の議論は、シュッツのレリヴァンス概念でもって、理論的に整理できるかもし
れないが、本論文では深入りしない。レリヴァンス概念を踏まえ、他者との相互理解を論
じ た も の と し て は 、 奥 村 [ 19 98: p p .21 7- 258] が 参 考 に な る 。
24
対立を惹起し、その感情的対立が理性的対話を破綻させるというものであるが、この構図
を逆手にとれば、感情的融和が理性的対話を支えるという方向性も見出せよう。こうした
方向性で考えれば、意見の対立から感情の対立が起こった場合、そこで意見の統合を図っ
て、その結果として感情的対立の修復がなされる、という感情的対立を放置するアプロー
チ で は な く 、 ま ず は 対 立 原 因 で あ る 「 目 の 前 の 議 論 」 を 一 旦 留 め 置 き 、「 遊 び 6 3 」 や 別 次 元
で の 議 論 な ど に よ っ て 、感 情 的 対 立 の 修 復 を 行 っ て か ら 意 見 の 統 合 を 行 う 、と い う ア プ ロ ー
チが妥当と見做されよう。この感情的融和に支えられる理性的対話可能性という事柄や、
また理論の構築が問題意識を支える原体験での情動に支えられたものが多いことを踏まえ
れば、
「 感 性 的 判 断 」と「 理 性 的 判 断 」を 二 項 対 立 や 優 劣 関 係 で は な く 、相 補 関 係 と し て 捉
えるべきではないかと筆者は考えている。
少し迂回したが、こうした議論も参照すれば、他者との共生の「あり方」としては志向
さ れ る も の は 、「 相 互 理 解 」 で は な く 「 相 互 承 認 」 に 他 な ら な い と 言 え よ う 。 相 互 理 解 は 、
実現すればそれはそれで良いが、現実に全ての人が全ての他者を理解しあえることは不可
能である。故に、相互に差異を承認し、受容し、討議の対象として付き合い続けることこ
そ 、 重 要 な の で あ る 6 4 。 数 土 [ 2 00 1a : p.19 5 ] は 、「 最 小 限 の 合 意 」 と し て 、 相 互 に 理 解 し
きれないことを理解するという「非合意の合意」を提案し、この合意が相互承認を支える
寛容を生み出すとゲーム理論から導出している。こうした指摘を既述の議論に交えて整理
すれば、内田・平川の言う「まずそのとおり」から討議を始め、数土の言う「最小限の合
意」を経て、幾つかの溝を残したまま何らかの妥結を向かえ、そうした一連のプロセスか
ら相互承認の関係性が育まれる、ということになろう。粗い論理展開であるが、合意形成
のプロセスを考える上で、参考にはなろう。
2 - 3. 批 判 的 知 性 に 支 え ら れ る 討 議 能 力
さて、既に「討議」の部分について幾つかのコメントを付したが、第二の形成されるべ
き 「 討 議 能 力 65と そ れ を 支 え る 批 判 的 知 性 」 を 改 め て 説 明 す れ ば 、 こ れ は 政 治 的 な 問 題 の
63
筆 者 は 、キ ャ ン プ リ ー ダ ー と し て 、子 ど も 同 士 の 喧 嘩 に 伴 う 行 動 班 内 の「 も つ れ 」を ど
う解消するのかという場面に接したが、多くの子どもは(嫌々ながらも)喧嘩した相手と
一緒に遊ぶ中で、自ずと仲を取り戻していた。こうしたことから、個別的な体験から、普
遍 的 な 議 論 へ と つ な げ る に は 、乱 暴 で は あ る が 、
「 遊 び 」の 持 つ 効 能 と し て 、感 情 的 対 立 の
修復の可能性を考えたい。
64
相 互 に ど う い っ た「 差 異 」が あ る の か を 知 る だ け で は 、共 生 社 会 の 実 現 へ 十 分 な 意 味 を
なさない。そうした私たちの間に存する「差異」とどのように付き合っていくのかを考え
て い く こ と こ そ 、重 要 で あ る 。し か し 、学 校 教 育 で は 、
「 差 異 の 存 在 」を 確 認 す る 段 階 ま で
で終始することが多く、その後は「共生すべきだ」という規範的なメッセージが伝えられ
るだけである。こうした展開では、子どもは「共生」について、主体性をもって考える機
会が提供されえない。
65
討 議 能 力 と い っ て も 、ハ ー バ ー マ ス が 提 起 す る コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 的 行 為 の 理 論 や そ れ
に 支 え ら れ た 討 議 倫 理 学 に 捉 わ れ ず に 考 え た い 。 な ぜ な ら ば 、 阿 部 [ 19 98: p .7 8- 79] な ど
の何人かの論者で指摘されるように、言語論的転回を経たハーバーマスの論考は、理論的
体系化と精緻化で進展を見たものの、アクチュアルな議論からは遠のいたと考えられるか
25
動向を批判的に理解/解釈し、公共圏における議論へ参加できる能力のことである。ここ
でいう批判的という言葉には、二つの含意がある。一つは、公共圏が国家/政府の活動を
監視し、評価するという批判的機能を有しているという意味から、国家/政府への批判的
なまなざしである。もう一つは、ハーバーマスが代表的論客に位置づけられるフランクフ
ルト学派の特徴を成す批判的研究が、現状をあるがままに肯定するのではなく「現状の矛
盾 や 問 題 点 を 明 ら か に し た う え で 、『 よ り 良 い 』 未 来 に 向 け て 知 的 ・ 実 践 的 模 索 を 試 み る 」
( 阿 部 [ 199 8: p .1]) も の で あ る と い う 意 味 か ら 、( 当 然 視 さ れ る ) 現 状 へ の 批 判 的 な ま な
ざ し で あ る 。注 意 す べ き は 、
「 批 判 的 」に な る と い う こ と は 、シ ニ カ ル に な る こ と で は な い
ということである。一般市民のマスメディアへの批判的態度に顕著であるが、現在、私た
ち の 生 活 の 中 で 蔓 延 し て い る 批 判 性 は シ ニ カ ル な も の が 多 い 。そ う し た シ ニ カ ル な 態 度 は 、
結果として現状を追認するものとなり、本来「批判性」に託された意味から大きく乖離し
て し ま う 。 阿 部 [ 20 04b: p .65] は 全 幅 の 信 頼 で も な く 、 全 く の 不 振 で も な い 距 離 を お い た
信頼を「批判的信頼」といっているが、そういった信頼が批判的なまなざしの先にあるも
のとして形成されることが望まれる。
なお、学校の公民科にて学ぶ、いわゆる「民主主義に関する知識」はこの能力を構成す
る一部であるが、従来の「知識」では上述のような、権力作用を見抜くような、批判を助
け る 知 識 は 稀 少 で あ っ た こ と を 考 え れ ば 、「 知 識 」 の 内 容 も ま た 刷 新 さ れ る 必 要 が あ ろ う 。
2 - 4. 政 治 を 生 成 す る 行 動
最 後 に 、第 三 の 形 成 さ れ る べ き「 市 民 的 問 題 解 決 行 動 」は 、
「 政 治 生 成 力 」を 指 し て い る
と 言 え 、公 共 圏 へ 問 題 提 起 を 行 っ た り 、
「 公 共 圏 の 耕 作 人 」と し て の 役 割 を 遂 行 し た り 、ま
た時に「問題」に対して解決への実際的な行動を起こしたり、参加する能力を意味してい
る 。 昨 今 、 注 目 を 集 め て い る フ ァ シ リ テ ー シ ョ ン の 能 力 ( 例 え ば 中 野 [ 20 03]) や 、 9 0 年
代後半に市民活動業界において習得の必要性が認識されたマネジメント能力(例えばド
ラ ッ カ ー[ 1 99 1])は 、い ず れ も こ こ に 位 置 づ け ら れ る 。も ち ろ ん 、誰 も が イ ニ シ ア テ ィ ブ
を発揮する側の人間となることは非現実的であり、市民活動へ参加するということも、十
分に市民的問題解決行動が形成された一つの結果だと見做して良いであろう。
2 - 5. 市 民 的 リ テ ラ シ ー 概 念 の 留 意 点
こうした複合的な技能として、市民的リテラシーをとらえる際に、確認しておかねばな
らないことが三点ある。一点目は、三つの技能は独立しつつ、互いに関係しあって、総体
をなしており、バランスの良さが求められるということである。二点目は、これら全ての
技能を完全に備え持つ「完全な市民」はいないということである。三点目は、こうした技
ら で あ る 。ハ ー バ ー マ ス の 討 議 倫 理 学 に つ い て は 。ハ ー バ ー マ ス『 道 徳 意 識 と コ ミ ュ ニ ケ ー
シ ョ ン 行 為 』( 三 島 憲 一 ・ 木 前 利 秋 ・ 中 野 敏 男 訳 、 岩 波 書 店 、 20 00 年 ) に 詳 し い 。
26
能の有無から市民/非市民といった区分けを誰も行ってはならないということである。
二 点 目 は 、三 点 目 と も 関 連 す る の だ が 、特 に 注 意 す べ き と こ ろ で あ る 。こ う し た 議 論 は 、
何でもこなせる「完全な市民」を想定し、エリート主義へと転化しかねない危険性を常に
孕 ん で い る 。し か し 、
「 完 全 な 市 民 」な ど 存 在 し 得 な い し 、人 そ れ ぞ れ に 発 揮 さ れ る 特 性 は
ば ら ば ら で あ る べ き で あ る 。こ う し た 認 識 に 立 っ て 、市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 で は 、
「欠けて
いる」部分、即ち「弱さ」について肯定的に注目すべきである。本論文が想定している中
等教育レベルの学生であれば、そうした「弱さ」をどのように取り扱いたいかは、個々人
の判断に委ねられるものだと考える。なお、個々が「弱さ」を自覚することは、相互に支
え 合 っ て い く 必 要 性 を 認 識 す る こ と に も つ な が ろ う 。 小 玉 [ 2 00 4 : p . 13 ] も 、 シ テ ィ ズ ン
シップが序列化や選別になじむ概念ではないことを述べている。
三 点 目 は 、特 に シ テ ィ ズ ン シ ッ プ 概 念 に ま と わ り つ く 問 題 で あ る が 、
(第一や第二の意味
を 中 心 に )シ テ ィ ズ ン シ ッ プ は「 誰 が 市 民 で あ る か / な い か 」と い う 選 別 と 常 に 一 体 と な っ
て い る 。こ う し た 選 別 は 、誰 が ど の よ う に 行 う の か と い こ と 自 体 が 、
(ナショナリズム/レ
イシズムなど関連し)極めて重要な政治的イシューとなるものである。本論文では、こう
した選別とは距離をおいた、或いは距離をおくべきである市民的リテラシーという言葉を
用いて、
( 議 論 の 焦 点 を 絞 る べ く )深 入 り を さ け て い る が 、こ う し た 議 論 は 非 常 に 意 味 深 い
も の で あ る 66。
次 節 で は 、 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 の 像 を 具 体 化 し て い く た め に 、 体 系 化 と 制 度 化 67で 先
駆 的 だ と 言 わ れ る イ ギ リ ス で の 市 民 教 育 の 取 り 組 み を 概 観 す る 68。
3.イギリスの市民教育の取り組み
3 - 1. 市 民 教 育 の 導 入 を 促 し た 背 景
イ ギ リ ス の 中 等 教 育 に お い て 、 200 2 年 か ら 新 教 科 と し て 必 修 化 さ れ た 「 C i t i z e n s h ip( 市
民 教 育 )」 の 取 り 組 み を 概 観 す る 前 に 、 そ の 導 入 に 至 る 背 景 を 、 興 梠 [ 20 00 : p . 78- 79 ] や
長 沼[ 20 02: p p .37 -4 1 ]を 主 な 手 掛 か り に し て 確 認 し て お く 。な ぜ な ら ば 、長 沼[ 前 掲 書 :
p . 37 ] も 述 べ る よ う に 、 導 入 過 程 を 理 解 す る こ と は 、 イ ギ リ ス の 市 民 教 育 の ね ら い や 社 会
66
魚 住 [ 2 001: p.20 ] は 、 こ う し た 問 題 に 陥 ら な い よ う に す る た め 、「 多 次 元 的 市 民 性 」
と い う 概 念 を 提 示 し て い る 。こ こ で の 多 次 元 と は 、
「個人的次元」
「社会的次元」
「空間的・
場 所 的 次 元 」「 時 間 的 次 元 」 が 示 さ れ る 。
67
制 度 化 に つ い て は 、単 純 に 先 進 的 で あ る と 手 放 し で 言 え る も の で は な い 。幾 つ か の 弊 害
が そ こ に は 含 ま れ よ う 。高 橋[ 200 4: p .3 0]は 、国 家 が「 何 を 学 ぶ の か 」を 定 め る こ と は 、
市民的公共性ではなく、国家的公共性を強めかねないことを指摘し、市民社会の中で市民
教 育 が な さ れ る べ き で あ る こ と 、具 体 的 に は N P O が 民 主 主 義 に つ い て 学 べ る 機 会 を 提 供 す
ることの必要性を述べている。
「 ナ シ ョ ナ ル な も の 」と ど の よ う に 距 離 を 保 つ か は 、後 述 す
る「歴史」からも重要なポイントとして言える。
68
他 国 で の 事 例 と し て は 、 法 教 育 や 政 策 教 育 と い う 観 点 か ら 江 口 編 [ 2 003] や C e n te r f o r
Civ ic E d u c atio n 編 [ 200 3] に 、 消 費 者 教 育 と い う 視 点 か ら 北 欧 閣 僚 評 議 会 [ 200 3] に ま と
め ら れ て い る 。ど う い っ た 能 力 を 育 成 す る の か と い う 重 み の つ け 方 で 異 な っ て い る が 、い
ずれも市民的リテラシーの形成を目指す点では一致している。なお、リングウィスト&
ウ ェ ス テ ル [ 1 997] は 、 中 学 段 階 で の ス ウ ェ ー デ ン の 市 民 教 育 を 理 解 す る の に 役 に 立 つ 。
27
的意味の把握に貢献するからである。
もともとイギリスでは、教育に対して国家がレッセフェールの態度を示し、地域ごとに
教育行政が委ねられていた。各地域での教育制度が分離しながらも緩やかに統合するとい
う複雑な仕組みの上、しかも制度より個々の学校が優先される特徴が見られた(中村
[ 2 004: p.2 26])。し か し 、イ ギ リ ス は 19 70 年 代 か ら 8 0 年 代 に か け て 、い わ ゆ る「 英 国 病 」
と言われる深刻な経済不振に見舞われ、その解消が急務となる。こうした社会背景の中で
誕生したサッチャー政権は、経済の立て直しと同時に、国際的な経済競争に打ち勝つ人材
を育むための教育改革を行うこととなる。この改革によって、一気に教育の中央集権化が
進 み 、 19 88 年 に 教 育 改 革 法 が 成 立 、 翌 年 に は ナ シ ョ ナ ル ・ カ リ キ ュ ラ ム が 制 定 さ れ る こ と
と な る 69。 こ の 改 革 で は 、 競 争 と 市 場 の 原 理 の 導 入 を 行 い な が ら 、 リ テ ラ シ ー ( 読 み 書 き
能力)とニューメラシー(数量的思考力)を中心とした基礎学力の向上が目指され、その
目論見は達成されることとなる。
し か し 、こ の 基 礎 学 力 重 視 の 政 策 は 結 果 と し て 、
「 落 ち こ ぼ れ 」や「 怠 学 者 」の 増 加 を 招
き 、学 校 で は 市 場 で 生 存 す る た め の 社 会 的 評 価 の 向 上 を 意 図 し た 成 績 不 良 者 の「 放 校 処 分 」
が目立つようになるなどの問題を引き起こしてしまう。こうした問題を含め、イギリスの
青 少 年 を 巡 る 諸 問 題 と し て 、政 治 的 無 関 心 、心 理 的 / 情 緒 的 未 発 達 、社 会 的 有 用 感 の 欠 如 、
コミュニケーション能力の低下、職業的/社会的なスキルの未修得といった問題が指摘さ
れ る よ う に な る 70。
こ う し た 諸 問 題 へ の 解 決 策 の 一 つ と し て 示 さ れ た も の が 市 民 教 育 で あ る 71。 も ち ろ ん 、
市民教育が求められた背景は、この一面からのみではなく、他に国家の役割変化や文化的
多 様 性 の 高 ま り が あ る ( 栗 田 [ 200 0: pp .2 6- 28])
こ う し た 複 合 的 な 背 景 か ら 、 19 97 年 に
ブレア政権が発足すると同時に、バーナード・クリックを委員長とする市民教育に関する
諮 問 委 員 会 が 設 け ら れ 、 19 98 年 に は 「 ク リ ッ ク レ ポ ー ト 7 2 」 と 呼 ば れ る 報 告 書( Q C A( e d s.)
[ 1 998]) が 提 出 さ れ 、 こ れ を も っ て 市 民 教 育 の 必 修 化 が 水 路 づ け ら れ た 。
3 - 2. 市 民 教 育 の 前 史 − 政 治 教 育 プ ロ グ ラ ム と 1 9 世 紀 末 市 民 教 育 −
とはいえ、注意しなければならないことは、市民教育は全く新しいものとして登場した
わ け で な い 。ク リ ッ ク は 、197 4 年 か ら 1 97 7 年 ま で 中 高 生 を 対 象 と す る 政 治 教 育 の カ リ キ ュ
ラムの開発などを行う政治教育プロジェクトに参加しており、そこで生み出された政治教
育 プ ロ グ ラ ム ( P r o gr a m f o r P o l i t i c a l E d u c a t i o n) は 、 そ の 後 の 各 地 で の 学 校 教 育 や 成 人 教 育
69
中 央 集 権 化 の 象 徴 で も あ る「 ナ シ ョ ナ ル・カ リ キ ュ ラ ム 」の 導 入 は 、日 本 の 学 習 指 導 要
領 を 参 考 に し た と 言 わ れ て い る ( 永 井 [ 20 00: p .1 6])。
70
こ れ ら の 指 摘 が 、 長 沼 [ 20 02: p p .40 -4 2] で 示 さ れ る よ う に 統 計 デ ー タ に 基 づ く も の で
あるとはいえ、どこまで妥当なものかは、筆者には分からない。しかし、こうした指摘の
結果、市民教育が要請されたことは、事実に他ならない。
71
こ の 解 決 策 の 一 つ に 、学 校 の 自 主 的 財 政 運 営 を 認 め る な ど 、旧 来 の イ ギ リ ス の 教 育 で 見
ら れ た 「 学 校 の 自 立 性 」 を 強 化 し た こ と も 含 ま れ て い る ( 興 梠 [ 200 0: p .79])
72
栗 田 [ 2 000] は 、 ク リ ッ ク レ ポ ー ト の 大 半 を 訳 出 し て い る 。
28
の 内 容 に 影 響 を 与 え て い た ( 阿 久 澤 [ 20 01 : p p .33 -3 7 ])。 ま た 、 よ り 具 体 的 に は 、 従 来 か
ら の ナ シ ョ ナ ル ・ カ リ キ ュ ラ ム で 教 科 横 断 的 な 科 目 と し て 位 置 づ け ら れ て い た P SH E
( P er so n a l a n d S o c i a l H e a l t h E d u c a t i o n) と 呼 ば れ る 「 人 格 ・ 社 会 性 の 形 成 及 び 健 康 に 関 す
る 教 育 」で 、多 く の 学 校 が 2 00 2 年 に 必 修 化 さ れ た 市 民 教 育 と 近 し い 内 容 を 行 っ て い た の で
あ る ( 永 井 [ 2 000: p.1 8])。
こうしたことを踏まえれば、市民教育の必修化は、こうした従来の取り組みの大きな発
展 や 、全 国 的 な 足 並 み の 統 一 を 行 う た め も の も の で あ っ た と 言 え よ う 。20 02 年 の ナ シ ョ ナ
ル ・ カ リ キ ュ ラ ム に お い て も 、 市 民 教 育 と PS H E と の 相 互 補 完 性 は 強 調 さ れ て い る ( 永 井
[ 前 掲 書 : p . 19])。 こ の よ う な 「 土 壌 」 が あ っ た こ と は 、 興 味 深 い 。 日 本 で は 2 00 2 年 か ら
「総合的な学習の時間」が始まったが、それは「土壌」がなかったが故に、多くの教師の
困惑を招いたのであった。
な お 、 19 世 紀 末 か ら 20 世 紀 初 頭 の 世 紀 転 換 期 イ ギ リ ス に お い て も 、 シ テ ィ ズ ン シ ッ プ
という言葉や、市民教育の必要性が盛んに取り上げられた。現代の市民教育とは直接には
関 係 す る も の で は な い が 、 源 流 に 遡 り 、「 前 史 」 と し て 明 ら か に し て お き た い 。
小 関 [ 200 0: p .19 -2 1] に よ る と 、 1 88 0 年 頃 か ら シ テ ィ ズ ン シ ッ プ へ の 関 心 が 高 ま り 、 頻
繁に問題とされるが、これは当時、段階的に進められた選挙法改正に伴った労働者階級の
政 治 参 加 と 関 係 し て い る 。上 中 流 階 級 層 が 選 挙 権 に ふ さ わ し く な い と 見 做 し た 労 働 者 を「 未
完のシティズン」から「ふさわしいシティズン」へとするために、成人教育も含めた「市
民教育」が展開されたのである。
ただし、当時の市民教育の教科書に記された「シティズンになるということはイングラ
ン ド 人 に な る こ と で あ る 」 と い っ た 言 葉 で 分 か る よ う に ( 小 関 [ 前 掲 書 : pp.25 -2 6 ])、 当
時のシティズンシップの中身は市民的自由を獲得し、政治的権利の認識し、能動的に行使
....
す る と い っ た も の で は な い ( 松 浦 [ 2 00 0 : p .1 23 ])。 寧 ろ 全 く 逆 で 、「 自 制 、 規 律 、 義 務 、
目上のものに対する恭順な態度といったヴィクトリア朝のミドルクラスの価値観をと上流
階 級 の 自 己 犠 牲 、勇 敢 さ と い っ た 男 性 ら し さ の 規 範 を 反 映 し た も の 」
( 中 村[ 20 04:p.240])
である。こうしたシティズンシップ概念のもとでの市民教育は「国史」を要としたもので
あ っ た が 、そ れ は「 ヴ ィ ク ト リ ア 朝 の イ ギ リ ス に 人 類 史 の 道 徳 的・制 度 的 頂 点 を 見 る ホ イ ッ
グ 史 観 」が 、当 時 優 勢 で あ っ た こ と と 関 係 し て い る( 小 関[ 前 掲 書 : p . 2 2 ]、中 村[ 前 掲 書 :
p . 249])。
また、当時の市民教育にあっても「コミュニティへの奉仕」という実践を通じた学びは
行われており、その際の実践の拠点となったのは「シティズンシップのゆりかご」と呼ば
れたアソシエーションであった。
こ う し た エ リ ー ト 主 義 と ナ シ ョ ナ リ ズ ム と 一 体 と な っ て い る「 前 史 」で の シ テ ィ ズ ン シ ッ
プ概念と市民教育論は、完全に過去のものとは言い切れず、こうした考え方を(そのまま
ではないにせよ)継承している保守層もいよう。現代日本にあっては、市民教育の必要性
を述べるものの中には、こうした考え方に立脚する保守派も少なくなく、進歩派と保守派
29
が 同 床 異 夢 の 状 態 で 、 市 民 教 育 の 必 要 性 を 述 べ て い る 73。
3 - 3. ク リ ッ ク レ ポ ー ト が 示 す 市 民 教 育
しかし、以下に引用した透り、クリックレポートで、現代の市民教育の掲げる目標が、
(完全にとは言えないが)
「 前 史 」に 見 ら れ る 同 化 / 啓 蒙 と は 異 な っ た も の で あ る こ と を 確
認 で き る 74。 現 代 日 本 で 市 民 教 育 を 構 想 す る 際 に も 、 前 史 的 な も の で は な く 、 以 下 の よ う
な目標が求められよう。
私たちの目標は、まさしく、この国の政治文化を国全体においても地方においても変
えることである。人びとが自分たちのことを、公共生活に影響を及ぼそうとする意志を
持ち、その能力を有し、またその技能を備え、発言したり行為したりする前に事実にも
とづいて熟考する批判的能力を備えた、積極的な市民であること。コミュニティへの関
わりと公共奉仕活動のこれまでの伝統の中で最良のものを基盤として、それを徹底して
若者へと広げてゆくこと、そして若者一人ひとりがコミュニティへの新たな関わり方を
大胆に発見し、自分たち自身で行動してゆくようにすること。
( ク リ ッ ク 『 デ モ ク ラ シ ー 』、 2004 年 、 p.198)
こうした目標に基づき、中等教育終了時に生徒が到達されるべき主要要素の概観をク
リ ッ ク レ ポ ー ト ( Q CA( e d s .)[ 1 998: p.44 ]) は 示 し て お り 、 図 1 が そ れ に あ た る 。 図 1 で
並ぶ言葉は抽象的な記述であるが、前節において、三つの技能からなるとした市民的リテ
ラ シ ー を よ り 細 分 化 し た も の だ と 理 解 で き よ う 75。
表1
主要コンセプト
・ 民主主義と独裁政治
義 務 教 育 修 了 時 ま で に 到 達 さ れ る べ き 主 要 要 素 の 概 観 76
価値観と性向
・ 公益への関心
・ 人間の尊厳と平等へ
スキルと適性
知識と理解
・ 口頭と筆記でキチン
・ 地 域 レ ベ ル 、国 家 レ ベ
とした論ができる能
ル 、E U レ ベ ル 、コ モ
73
こ の 同 床 異 夢 の 状 態 は 、特 集 を「 シ チ ズ ン シ ッ プ 教 育 − 新 し い 授 業 の 提 案 」と し た『 社
会 科 教 育 』( 2 00 5 年 1 月 号 、 明 治 図 書 ) に 並 ぶ 数 々 の 論 考 を 見 れ ば 、 一 目 瞭 然 で あ る 。
74
こ う し た 展 開 に つ い て 、ど う い う 思 想 的 な 変 遷 が あ っ た の か に つ い て 、詳 し く は 明 ら か
としないが、それはカルチュラル・スタディーズの思想展開にヒントがあるように思われ
る。カルチュラル・スタディーズは、源流にリーヴィス主義(スクールティニー派)のノ
ス タ ル ジ ッ ク な 道 徳 主 義 が あ っ た も の の 、バ ル ト の 記 号 論 や 成 人 教 育 運 動 「
、ニューレフト」
の 動 向 に 影 響 を 受 け 、そ う し た 文 化 保 守 主 義 と 訣 別 し て い っ た の で あ る( タ ー ナ ー[ 199 9:
p p .56 -1 05]、 川 中 [ 200 3: pp .1 7-2 5] な ど )。
75
類 似 し た も の で あ る が 、 今 谷 [ 1 99 7: pp .29 -3 0] は 、 ア メ リ カ で の 市 民 的 資 質 教 育 論 で
展 開 さ れ て い る 議 論 か ら 六 つ の 能 力 を 市 民 的 資 質 と し て 整 理 し て お り 、 ま た 魚 住 [ 20 01:
p . 19] は グ ロ ー バ ル ・ シ テ ィ ズ ン シ ッ プ 概 念 か ら 市 民 的 資 質 を 定 義 付 け て い る 。
76
原 典 は ク リ ッ ク レ ポ ー ト( Q C A(e d s .[
) 19 98:p .4 4])の ” F i g 1 . O v e r v ie w o f e s s e n t i a l e l e me n t s
t o b e r e a c h ed b y t h e en d o f c o mp u l so r y s ch o o l i n g ”で あ り 、 訳 は 筆 者 も 参 加 し て い る 、 ク リ ッ
クレポート翻訳本の出版企画会議において提出された鈴木崇弘によるものである。
30
・ 協力と紛争
・ 平等と多様性
・ 公 平 性 、正 義 、法 治 、
ル ー ル( 規 則 )、法 律 、
の信頼
・ 紛争解決への関心
・ 他 者 と 働 き 、同 情 的 理
解をもち他者のため
に働く性向
・ 責任をもって行動す
人権
・ 自由と秩序
る傾向
他人や自分を気にす
ること。効果的な行動
・ 個人とコミュニティ
・ 権力と権威
・ 権利と義務
を予め計画したり計算
することは、他者を考
え て い そ う で あ る こ
と。予想できないある
いは不首尾な結果に対
力
・ 他者と協力し、効果
的に働ける能力
ンウエルスレベルさ
らに国際レベルでの
時事的かつ同時代的
課題、出来事
・ 他人の経験や見通し
・それがどのように機
を 考 慮 し 、評 価 す る 能
能 し 、変 化 す る か と い
力
・ 他人の見方を寛大に
扱う能力
・ 問題解決方法を引き
伸ばせる能力
・ 情 報 収 集 に お い て 、批
判精神をもちながら
う こ と も 含 め て 、民 主
主義的コミュニティ
の性質
・個人、地域やボラン
テ ィ ア コ ミ ュ ニ
ティーとの相互依存
関係
・ 多 様 性 、不 同 意 、社 会
紛争の特性
して責任をとること
も 、現 在 の メ デ ィ ア や
・個人とコミュニティ
・ 寛容であることの実
技術を活用できる能
の法的かつ同義的な
践
・ 倫理基準に基づき判
断し行動すること
・ 考えを擁護する勇気
・ 議論や証拠に照らし
合 わ せ て 、自 分 の 意 見
や態度を自由に進ん
で変えること
・ 個人のイニシアチィ
ブと努力
・ 法治に対する丁重な
言動と敬意
・ 正義に基づいて行動
する決意
・ 機会の平等やジェン
ダーによる差別のな
い平等を確約するこ
と
・ 活動的な市民である
ことの確約
・ ボランティア活動へ
の確約
・ 人権への関心
・ 環境問題への関心
力
・ 自分の前にある証拠
を批判的に活かした
り 、常 に 新 し い 証 拠 を
探す能力
・ 操作や説得の形式を
認識する能力
権利と責任
・個人やコミュニティ
が 直 面 す る 社 会 的 、道
義的、政治的挑戦
・それがどのように機
能 し 、変 化 す る か と い
うことも含めて地域
レベル、国家レベル、
E U レ ベ ル 、コ モ ン ウ
・ 社 会 的 道 義 、政 治 的 挑
エルスレベルさらに
戦 や 状 況 を 認 識 し 、反
国際レベルでの英国
応 し 、影 響 を 与 え ら れ
る能力
( Britain) の 議 会 に 関
する政治的法的制度
・コミュニティにおけ
る政治的かつボラン
ティア活動
・消費者、被雇用者、雇
用 者 、家 族 や コ ミ ュ ニ
ティの一員としての
市民の権利と責任
・個人やコミュニティと
関係する経済システ
ム
・ 人権憲章と課題
・持続的発展と環境問
題
続いて、クリックレポートを踏まえて作成された、ナショナル・カリキュラムにおける
市 民 教 育 の 記 述 か ら 、 市 民 教 育 の 概 観 を 捉 え た い 77。 ナ シ ョ ナ ル ・ カ リ キ ュ ラ ム は 市 民 教
77
日 本 ボ ラ ン テ ィ ア 学 習 協 会 編 [ 2 00 0: p p. 89 -1 07] に 、 市 民 教 育 の ナ シ ョ ナ ル ・ カ リ キ ュ
ラ ム の キ ー ス テ ー ジ 3 か ら 4( 日 本 で い う 、 中 学 ・ 高 校 に あ た る ) バ ー ジ ョ ン が 、 訳 さ れ
て い る 。 本 論 文 で は 長 沼 [ 20 02: p p .44 -5 4] の 訳 を 参 照 に し つ つ 、 一 部 筆 者 が 改 訳 し て い
る。
31
育を通じて、どういった学びが実現されるべきかという方向性を明らかにするものであっ
て、具体的な授業内容は提示されていない。予め断っておく。なお、これまでの筆者の議
論と重複する記述もあるが、イギリスの市民教育の大枠をそのまま提示しておく。
市民教育は次の三つの構成要素からなるとされている。
( 1 )責 任 あ る 社 会 的 行 動 ( s o c i a l a n d mo r a l r e s p o n s i b i l i t y )
学校の内外において、児童・生徒が社会的・道徳的に責任ある行動をとること
( 2)地 域 社 会 へ の 参 加 ( c o mmu n it y in v olv e me n t)
隣人の生活や地域社会に対して関心を払い、社会に貢献すること
( 3)民 主 社 会 の 知 識 ・ 技 能 の 修 得 ・ 活 用 ( p o l i t i c a l l i t e r a c y)
民主主義の制度・問題・実践を学び、国や地域社会の中でそれらを効果的に運用す
ること
そして、四つの成長機会を生徒に提供すると述べている。
( 1 ) 精 神 的 成 長 の 機 会 の 提 供:青 少 年 が 人 生 の 意 味 や 目 的 、人 間 社 会 の 異 な る 価 値 観 に
ついて知り、理解するのを助ける
( 2 ) 道 徳 的 成 長 の 機 会 の 提 供 : 青 少 年 が 社 会 に お け る 善 悪 や 正 義 、構 成 、権 利 と 義 務 の
問題について、批判的な眼を持って正しく認識できるように助ける
( 3 ) 社 会 的 成 長 の 機 会 の 提 供:青 少 年 が 分 別 を 持 っ た 有 能 な 社 会 の 一 員 と な る た め に 必
要な理解やスキルを習得するのを助ける
( 4 ) 文 化 的 成 長 の 機 会 の 提 供:青 少 年 が 自 分 た ち の 所 属 す る さ ま ざ ま な グ ル ー プ の 性 質
や役割を理解するのを助け、多様性と相違を尊重する気持ちを奨励する
こうした四つの成長機会を通じて、獲得されるスキルとしては、次の 6 項目が示されて
いる。ここで示されるスキルは、他の教科や課外活動で獲得され得るものも含んでおり、
市 民 教 育 は 「 教 科 横 断 型 」 の 学 び で あ る こ と が 分 か る ( 長 沼 [ 20 00: p .4 7])。
( 1 ) コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 能 力:さ ま ざ ま な 社 会 的・政 治 的 問 題 や コ ミ ュ ニ テ ィ の 問 題 に
ついての調査、討論、情報や思想を通じてのコミュニケーション能力の習得
( 2 ) 数 字 活 用 能 力:さ ま ざ ま な 社 会 的・政 治 的 文 脈 の 中 で 数 字 が 活 用 さ れ た り す る 例 に
ついて考察するために、統計を検証することを通じての数字活用能力の習得
( 3 ) I T( 情 報 技 術 )能 力 : 論 点 や 出 来 事 、問 題 を 分 析 す る た め の コ ン ピ ュ ー タ ー を 活 用
し た り 、 応 用 し た り す る こ と を 通 じ て の I T( 情 報 技 術 ) の 習 得
( 4 ) 他 者 と 協 力 す る 能 力 :考 え を 話 し た り 、政 策 を 立 案 し た り 、コ ミ ュ ニ テ ィ で 責 任 あ
る行動に参加したりすることを通じての他者と協力する能力の習得
( 5 ) 自 己 の 学 習 と 成 果 を 向 上 さ せ る 能 力:自 己 や 他 者 の 考 え や 業 績 を 反 省 し た り 、将 来
の行動や向上について目標をつくったりすることを通じての自己の学習と成果を
向上させる能力の習得
( 6 ) 問 題 解 決 能 力:政 治 的 問 題 と コ ミ ュ ニ テ ィ の 問 題 に 参 画 す る こ と を 通 じ て の 問 題 解
決能力の習得
32
以上の市民教育で育まれる 6 項目のスキルについて、それぞれ習得過程が説明されてい
る が 、こ れ で も っ て 市 民 教 育 で ど う い っ た 教 育 方 法 が 展 開 さ れ る の か が イ メ ー ジ で き よ う 。
栗 田 [ 2 000 : p .3 9 ] は 興 梠 と の 議 論 の 中 で 、 従 来 の 公 民 科 と 市 民 教 育 の 違 い と し て 次 の 五
点を示している。
「 ク ロ ス カ リ キ ュ ラ ム 的 横 断 的 学 科 で あ る 」、
「( ボ ラ ン テ ィ ア 学 習 な ど の )
ア ク テ ィ ブ ・ ラ ー ニ ン グ ( 実 践 を 通 じ た 学 び ) を 基 礎 に お い て い る 」、「 問 題 解 決 型 学 習 の
視 点 を 持 つ 」、「 生 徒 の 生 活 す る 地 域 社 会 を 教 材 化 す る ダ イ ナ ミ ッ ク な 姿 勢 を 持 つ 」、「 民 主
主 義 へ の 志 向 を 強 く 持 つ 」、以 上 の 五 つ で あ る が 、こ れ ら は 、上 述 で イ メ ー ジ さ れ る 教 育 方
法の特徴を言い表しているものであろう。
興 梠 [ 20 03 : p p. 15 1- 16 4 ] は 、 市 民 教 育 の 方 法 と し て 、 特 に ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 へ の 参 加
を 通 じ た 学 習 ( ボ ラ ン テ ィ ア 学 習 ) を 重 視 し て い る 7 8 。 興 梠 [ 前 掲 書 : pp .158 -1 59 ] に よ れ
ば 、 ボ ラ ン テ ィ ア 学 習 は 、「 助 け 合 い の な か の 学 び ( l e a r n i n g b y c a r i n g)」 に よ っ て 、「 自 己
へ の 探 求 」「 社 会 問 題 の 理 解 」「 学 習 成 果 の 応 用 」 を 総 合 的 に 学 べ る も の で あ る と 述 べ て い
る。イギリスでは、こうしたボランティア学習を学校で展開する際のコーディネートやサ
ポ ー ト を 、 民 間 の ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 推 進 機 関 で あ る CSV( Co mmu n ity Serv ice Vo lu n teers)
が 行 う こ と で 円 滑 に 展 開 さ れ て い る ( 橋 本 [ 2 00 0: pp .48 -5 2]) 7 9 。
た だ 、 ク リ ッ ク [ 20 04 : p p. 19 9- 20 0 ] は 、 市 民 教 育 が 、 一 つ の ア プ ロ ー チ に 過 ぎ な い ボ
ランティア学習や公共奉仕教育(サービスラーニング)のみへと切り詰められていってい
る点を批判している。しかしそれは、従来の知識伝達型の教育方法を取り入れよというこ
とでは決してない。従来の教育方法について、クリックは次のように批判している。
昔ながらの決まりきった「憲法」教育を議論も問題提起もなく、そのため死ぬほど退
屈なやり方で教えること(これがしばしば公民科と呼ばれているものの中身である)は
いずれにしても無益であり、最悪の場合にはデモクラシー精神の奨励にマイナスの効果
しかもたらさないことが今では一般的に認識されている。
( ク リ ッ ク 、 前 掲 書 、 p p .20 0- 201)
つまり、個々人の「内外」に、何かしらのダイナミズムが起こる学習機会を多様なアプ
78
日 本 に お い て も 20 00 年 に 教 育 改 革 国 民 会 議 が 「 18 歳 以 上 の 青 年 全 員 が 1 年 間 程 度 の 奉
仕活動に参加する」ことを中間報告として提案したが、ボランティア学習はここで提案さ
れた「奉仕活動の義務化」とは一線を画すものである。奉仕活動の義務化は国家的公共性
に貢献する人材の育成を目指すものであったが、ボランティア学習は市民的公共性の担い
手を育むものである。また、奉仕活動の義務化で提案された内容は、学習プログラム化と
いう面でも十分に考慮されておらず、その教育的意味は極めて曖昧なものであった。
79
橋 本 [ 2 000: pp .49 -50] で は 、 C S V の メ ン バ ー が 学 校 理 事 会 へ も 参 画 し て い る こ と が 紹
介されている。日本の学校評議会のような諮問機関でパートナーシップを構築するのでは
なく、実際の意思決定機関もオープンにして、踏み込んだ協働関係を構築している点は興
味深い。
33
ロ ー チ 80で も っ て 提 供 し て い く こ と を 市 民 教 育 に 対 し て 求 め て い る と 言 え よ う 。
なお、ナショナル・カリキュラムでは、市民教育の授業を通じて、他の分野の能力育成
へ も 影 響 を 与 え る こ と も 記 さ れ て い る 。 そ れ は (1 ) 思 考 力 の 育 成 、 ( 2) 経 済 概 念 の 育 成 、 ( 3)
事 業 経 営 と 起 用 の 能 力 の 育 成 、(4 )職 業 に 関 連 し た 学 習 能 力 の 育 成 、( 5 )持 続 可 能 な 発 展 に つ
い て の 能 力 の 育 成 、 と い っ た も の で あ る 81。
こうした「効果」を明らかにした上で、ナショナル・カリキュラムは。中学・高校それ
ぞ れ に つ い て 、 学 習 項 目 と 達 成 目 標 が 整 理 さ れ て い る 。 学 習 項 目 は 、「『 成 熟 し た 市 民 』 に
なることについての知識を理解する」
「『 調 査 と コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 』の ス キ ル を 育 成 す る 」
「『 参 加 と 責 任 あ る 行 動 』の ス キ ル を 育 成 す る 」と い っ た 三 つ の 目 標 に 区 分 け さ れ 、そ れ ぞ
れごとに示されている。達成目標については、以下に中学終了段階でのそれを例示してお
く 。い ず れ も 詳 し く は 。日 本 ボ ラ ン テ ィ ア 学 習 協 会 編[ 2 00 0:pp. 89 -1 07 ]を 参 照 さ れ た い 。
z 生徒は、市民の権利、責任、義務や、ボランティア組織の役割、政府の形態、公共
サービスの提供、そして刑事システムと司法制度など、彼らが学習する時事的出来
事について幅広い知識と理解をもっています。
z 生徒は、一般大衆がどのような情報を得るか、メディアを通したものを含め、どの
ように意見は形成され表明されるかを説明できます。
z 生 徒 は 、い か に そ し て な ぜ 、社 会 に 変 化 が 起 こ る の か に つ い て 理 解 を 示 し て い ま す 。
z 生徒は、学校やコミュニティベースの活動に参加し、自分たち自身と他人に対する
態度の中で、個人の責任とグループの責任を発揮できます。
( 日 本 ボ ラ ン テ ィ ア 学 習 協 会 編 『 英 国 の 「 市 民 教 育 」』、 2 00 0 年 、 pp .106 ‐ 1 07)
3 - 4.「 報 告 書 」 か ら 「 実 践 」 へ
もちろん、こうした目標が本当に達成されているのかという検証作業にこそ、より意味
があることである。しかし、現時点で筆者にそれは分かりかねるところである。今後、検
証作業を通じて、目標の再設定や、目標達成に見合う教育方法の創造が行われていくべき
であろう。
前 述 の 「 共 生 の 技 能 と 作 法 の 体 得 」「 討 議 能 力 と そ れ を 支 え る 批 判 的 知 性 の 形 成 」「 市 民
的問題解決行動の形成」を目指す市民的リテラシー教育は、以上で概観したイギリスの市
民教育から多くの着想を得ているものであり、具体的なイメージを明らかにする上で、こ
の概観は欠かせない作業であった。
80
例 え ば 、 小 玉 [ 20 03: p p. 172 -17 3] や 興 梠 [ 2 003: pp.1 89- 19 0] で は 、 生 徒 ( 会 ) を 学
校 組 織 運 営 に 参 加 さ せ て い る 事 例 が 紹 介 さ れ て い る 。 こ の 他 に 、 CS V 編 [ 2003] で は 、 教
室の中で議論をしながら学びを深めていくグループワークの例も紹介している。なお、筆
者はボランティア学習とともに、メディア・リテラシー教育が、市民的リテラシーの形成
で は 有 効 で あ る と 考 え て い る ( 川 中 [ 20 03])。
81
詳 細 は 、 長 沼 [ 20 02: p p. 49 -50]、 ま た は 日 本 ボ ラ ン テ ィ ア 学 習 協 会 [ 20 00: p .9 4]。
34
しかし、イギリスの市民教育は、価値到達型教育の色合いが強く出ている部分も見受け
られ、こうした点は斉一的なシティズンシップを志向するものへとつながりかねず、十分
に 注 意 を 払 う 必 要 が あ ろ う 。 と は い え 。 山 田 [ 2 00 0: p .1 58] が 述 べ て い る よ う に 、 市 民 教
育/政治教育のモチーフは「政治的無関心・私生活中心主義を特徴とする大衆を、活動的
な市民にする」といったものから、個々の内在するそれぞれの力の賦活化を目指す「市民
へ の エ ン パ ワ ー メ ン ト 」へ と 移 行 し て お り 、イ ギ リ ス の 市 民 教 育 も そ の 点 は 共 有 し て い る 。
多様な「能動的で民主主義に参画する市民像」を描いていく重要性は、既に繰り返し述べ
たとおりである。
な お 、 ウ ィ ッ テ ィ ー [ 2 00 4 : pp .13 2- 13 3 ] は 市 民 教 育 に は 肯 定 的 で あ る が 、 イ ギ リ ス の
教育改革全体について、新自由主義の政策がもたらす、学校間や社会全般にある不平等の
拡大への視点が欠如している点につき、批判を行っている。また、新自由主義で後押しさ
れている「市場」が暗に与えている影響が、市民間の「共通性」の実感を突き崩している
点 か ら 8 2 、 市 場 の 「 隠 れ た カ リ キ ュ ラ ム ( h id de n cu rr ic u lum) 8 3 」 に 対 抗 す る 教 育 実 践 の 必
要 性 を 述 べ て い る ( ウ ィ ッ テ ィ ー [ 前 掲 書 : p . 133])。 学 校 教 育 を 巡 る 研 究 / 実 践 で は 、 子
どもが生きる社会空間で起こっている教育作用全体への視座を有した上で、学校教育の内
容 を 定 め て い く 作 業 が 抜 け 落 ち 、学 校 や 教 室 を(「 良 い 」も の /「 良 く な い 」も の を 問 わ ず )
外部環境の影響からシャットアウトして考えてしまいやすい。その意味で、ウィッティー
の批判は、より実効性ある市民的リテラシー教育を構想していく上で、示唆深いものだと
言えよう。
以上のように、本章では市民的リテラシーと市民的リテラシー教育という二つの概念が
よりリアルなものとなるよう、どういった要素で構成されているのかを明らかとした。こ
うした作業の際に、大々的に参照したイギリスでの市民教育の取り組みが既に実際に展開
されていることは、こうした議論が机上の空論で留っていないことを示している。次章で
は、市民的リテラシー教育に位置付けられるような新しい教育実践を具体的に行っている
事例を紹介し、イメージの具体化をより前進させたい。
82
こ う し た 影 響 は 、他 者 へ の 非 寛 容 の 態 度 を 生 み 出 し て し ま う が 、具 体 的 に は 監 視 社 会 の
進行でこの影響が顕現化していると言える。もちろん「非寛容の態度」は政治的な影響も
うけた上で生み出されてきているものであるが、いずれにせよ、マンハイムの言った「創
造的寛容」の概念は危険に晒されている。
83
「 隠 れ た カ リ キ ュ ラ ム 」 の 元 来 の 意 味 は 、「 学 校 教 育 の 過 程 に 潜 在 し て い る 政 治 的 イ デ
オ ロ ギ ー 的 な 社 会 化 の 機 能 」( 佐 藤 [ 19 96: p . 122]) を さ す 概 念 で あ る 。
35
第3章
市民的リテラシーと新たな教育実践
第 3 章では、第 2 章で紹介したイギリスの市民教育のような市民的リテラシーの形成を
目 指 す 日 本 国 内 の 教 育 実 践 と し て 、三 つ の 事 例 を 紹 介 す る 。イ ギ リ ス の 市 民 教 育 の 事 例 は 、
ナショナル・カリキュラムベースの「方向性」を明らかにする上では役立ったが、具体的
な教育プログラムの内容について、未だに本論文では明らかにしきれていない。
そこで本章では、教育プログラムの具体像を明らかとすることを試みる。また、同時に
プログラムデザインといった枠組みのみならず、既に実践されている事例については、プ
ログラムの中で交わされるコミュニケーションへも注目したい。この注目によって、市民
的リテラシー教育の提案は、よりリアルで実効的なものとなると考えるからである。
予め断っておくが、当然いずれの事例も本論文の市民的リテラシーという概念とは「直
接的には」無関係に取り組んだものであり、ここで紹介する事例がそのまま市民的リテラ
シー教育であるとは言い切れない。
1.調査目的と調査内容
1 - 1. 調 査 内 容 と 調 査 方 法
今回の調査は、上述の通り、市民的リテラシー教育の具体的なプログラム化や実践スタ
イ ル を 明 ら か と す る た め に 行 わ れ た も の で あ り 、調 査 内 容 は ( 1)取 り 組 み 始 め た 経 緯( に 見
る 「 ね ら い 」)、 ( 2) 取 り 組 み が 育 成 を 目 指 す ス キ ル 、 (3) プ ロ グ ラ ム 上 の 特 徴 、 (4 ) 生 徒 ・ 学
生 と の 関 わ り の 特 徴 、( 5 )今 後 の 展 望 、( 6)現 代 日 本 に お け る 市 民 教 育 全 体 の 課 題 の 6 項 目 を
挙げ、担当者へのインタビュー調査と各種資料及び授業観察によるケース分析を調査方法
として、把握した。
1 - 2. 調 査 対 象 の 選 定
調 査 対 象 の 選 定 に あ た っ て は 、地 域 に 捉 わ れ ず 、(1 )他 よ り 先 行 し て 取 り 組 み を 開 始 し た
も の 、( 2)部 分 的 な 取 り 組 み で は な く 、体 系 的 な プ ロ グ ラ ム 化 が 進 め ら れ た も の 、(3 )市 民 教
育 論 の 文 脈 を 理 解 し て 展 開 さ れ て い る も の 、を 条 件 と し 、そ の よ う な 条 件 に 合 致 す る 学 校・
機関をリストアップした。その上で、実際に調査可能で、調査に応諾いただいた「お茶の
水 女 子 大 学 附 属 小 学 校 」 の 市 民 科 ( 岡 田 泰 孝 教 諭 )、「 都 立 千 早 高 等 学 校 」 の コ ミ ュ ニ テ ィ
デ ザ イ ン 演 習( 佐 藤 芳 孝 校 長 )、
「 大 学 コ ン ソ ー シ ア ム 京 都 」の N PO ス ク ー ル( 山 口 洋 典 研
究主幹)の 3 校・機関に対し、調査を行った(括弧内の氏名はインタビューに答えてくだ
さ っ た 方 々 の 名 前 で あ る ) 84。
この調査対象に対しては、中等教育を中心とする学校での市民的リテラシー教育の導入
84
本 調 査 の 一 環 で 長 沼 豊 氏( 学 習 院 大 学 助 教 授 )へ も イ ン タ ビ ュ ー を 行 っ て い る が 、内 容
が市民教育論全般に関する議論となったため、事例研究としてはまとめていない。第 4 章
に お け る 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 の 構 想 を ま と め る 際 に 、イ ン タ ビ ュ ー 結 果 を 反 映 し て い る 。
36
をテーマとしている本論文では、中等教育機関以外と言う点で、一見相応しくないように
思われるかもしれない。しかし、その実践内容はいずれも十分に本論文の問題関心に合致
するものであったし、またいずれも、中等教育で実践されても全く違和感のないと思われ
るものであり、こうした批判にはあたらないと考える。
な お 、 本 調 査 は 、 200 4 年 1 0 月 か ら 11 月 に か け て 行 わ れ た も の で あ り 、 全 て の 記 述 は そ
の時点のものであるということに注意されたい。
2.事例 1
お 茶 の 水 女 子 大 学 附 属 小 学 校 「 市 民 」 85
2 - 1.「 市 民 」 の 概 要
お 茶 の 水 女 子 大 学 附 属 小 学 校 は 、 2 00 1 年 に 従 来 の 社 会 科 を 改 編 し 、「 市 民 」 と い う 教 科
を正式に立ち上げている。この立ち上げの直接のきっかけは、文部科学省の教育開発研究
の 指 定 を 受 け る に 際 し て 、ど う い っ た テ ー マ で 指 定 を 受 け る か が 議 論 さ れ た こ と で あ っ た 。
し か し 、 こ の 動 き は 突 発 的 に 始 ま っ た も の と は 言 え ず 、 そ の 源 流 は 1 998 年 〜 1 999 年 に
見 出 せ る 。19 98 年 に 同 校 社 会 科 部 会 は 、児 童 の 学 力 形 成 に 関 し て「 得 た 知 識 を 生 か し て の 、
価 値 判 断 力 や 意 思 決 定 力 の 育 成 が 、 不 十 分 で あ っ た 」( 岡 田 [ 20 04a: p .4 0]) と い う 総 括 を
行 い 、従 来 の 社 会 科 の 内 容 の 問 い 直 し を 始 め て い た 。
「 物 知 り 博 士 」に な る だ け で は 、自 分
と社会とを結びつける作業を行う主体とならないという批判を内在的に試みたことが意味
深い。この自己批判は、社会科が掲げる「公民的資質の育成」という目標に焦点を絞った
改編がなされることへとつながっていくのである。
さらに、同時期に科目名の変更を行っていることも、従来の教科教育の見直しを促した
背 景 と 言 え る 。こ の 科 目 変 更 は 、従 来 の 科 目 名 か ら 、そ の 科 目 で 重 点 が お か れ る 概 念 で も っ
て 科 目 名 に 変 え る と い う も の で 、 全 科 目 で な さ れ た 。 具 体 的 に は 、「 国 語 」 が 「 こ と ば 」、
体育が「からだ」という感じである。この中で、社会科は高学年で「市民」という言葉を
あ て た の で あ る 8 6 。「 公 民 」 と い う 言 葉 を あ て な か っ た 理 由 と し て 、 中 学 校 社 会 科 公 民 分 野
との混同を回避するということと、
「 公 民 」と い う 言 葉 が 、1 90 0 年 代 に 展 開 さ れ た( エ リ ー
ト主義色の強い)
「 地 方 改 良 運 動 」で 生 み 出 さ れ た と い う 背 景 8 7 へ の 配 慮 が あ っ た と 岡 田 氏
は述べている。この岡田氏の発言は、従来の公民教育とは異なるものを志向している点、
そしてエリート主義的な市民教育観を退けている点で興味深い。
85
調 査 日 と 内 容 は 以 下 の 通 り で あ る 。 1 0 月 20 日 ( 水 ) と 2 2 日 ( 金 )、 そ れ ぞ れ の 日 に つ
き 、 6 年 生 「 市 民 」 の 授 業 を 2 ク ラ ス 観 察 。 1 0 月 2 5 日 ( 月 )、 同 校 「 市 民 」 担 当 教 諭 の 岡
田泰孝氏へインタビューを実施。いずれも場所は同校構内。なお、筆者が同校の取り組み
を 知 っ た の は 、小 玉 重 夫『 シ テ ィ ズ ン シ ッ プ の 教 育 思 想 』
( 白 澤 社 、20 03 年 )の 注 釈 に よ っ
てであるが、小玉はお茶の水女子大学教授であり、同校の取り組みに際しても、助言を与
えている。
86
当 時 、 名 称 の 候 補 に 挙 が っ た の は 、「 く ら し 、 シ テ ィ ズ ン 、 よ わ た り 、 よ の な か … 」 と
い っ た も の で あ っ た が 、社 会 科 が 担 う べ き 使 命 を 表 現 し て お り 、
「言葉としてもしっくりき
た」のが「市民」であった。
87
イ ギ リ ス の 市 民 教 育 の 源 流 も 、1 90 0 年 代 の 労 働 者 の「 改 良 」を 目 指 し た も の で あ っ た こ
とは既に述べたが、こうした共時的な進行は興味深い。
37
こうした背景の中で立ち上がった「市民」は、現代的な問題の特質を「価値観の相違に
よ っ て 解 決 が 困 難 と な っ て い る 」 と 分 析 し た 上 で 、「 21 世 紀 に 必 要 な 市 民 的 資 質 」 と し て
「社会的価値判断力」と「意思決定力」を掲げている。より具体的には、次の「社会を見
る 三 つ の 目 」 と 言 わ れ る 認 識 で 表 現 さ れ る ( 岡 田 [ 20 04b: p.25 ])。
(1) 社 会 に は 、 一 個 人 の 工 夫 や 努 力 で は 、 で き る こ と と 、 で き な い こ と が あ る こ と
(2) 個 人 の 利 害 と 社 会 全 体 の 利 害 は 必 ず し も 一 致 し な い こ と
( 3 ) だ か ら 、世 の 中 に は 広 い 視 野 か ら 社 会 を 調 整 す る 仕 組 み が 必 要 で あ る と と も に 、一
人一人の工夫や努力が必要であること
こ う し た 力 の 獲 得 の た め に 、「 市 民 」 で 貫 か れ る 学 習 過 程 と し て 、「 第 一 次 的 に 予 想 的 価
値判断をして、第二次的に子ども相互の価値判断・認識の葛藤を経た後、第三次的に個人
がどのような価値判断をするのか個人内で葛藤」して、最終的な自分の考えを表明する、
と い う フ ロ ー が 定 義 づ け ら れ て い る ( 岡 田 [ 2 00 4b: pp .2 5- 26])。 こ の フ ロ ー に つ い て 、 岡
田氏は、
「 意 識 を ハ ッ と さ せ る 情 報 と 出 会 い 、自 分 の 考 え を 疑 う 中 で 、感 情 か ら 理 性 へ と 展
開するもの」と述べている。
このフローを、筆者が実際に観察した「明治維新」について学ぶ授業を例示したい。こ
の授業は、
「 明 治 の 国 づ く り に お い て 西 郷 と 大 久 保 の ど ち ら を 支 持 す る か ? 」と い う 問 い か
けから、展開されるものである。最初に、二人の銅像建設に伴うエピソードをとりあげ、
興味をひいてから、征韓論を巡る駆け引きに関するマンガの一シーンが配られ、それを教
員が読み上げる。そして、先ほどの「問い」が児童に示される。そこで児童は、征韓論の
やり取りから、西郷と大久保どちらを支持するかを決める。全クラス、この一次判断では
(征韓論での手続き的な正当性から)西郷の支持が大半だそうであるし、観察したクラス
でもそうであった。
その後、各々で西郷/大久保を支持する理由を、歴史的事実を探りながら、整理してい
く。この際、指示理由をまとめるシートが配られる。このシートは、廃藩置県や徴兵令、
地租改正などの明治維新政府の主要政策を縦軸に列挙した上で、各々の政策に対し、西郷
と大久保がどのような態度をとったか、そしてその理由となる思いや考えはどういったも
のであったのかを記入するものである。とはいっても、児童はそれぞれの政策を初めて聞
くものなので、基本的な理解ができるよう、当時の主要政策に関して解説してある補助プ
リントが配られる。児童の大半はそれをもとに、情報を編集していく。中には、少数であ
る が 、自 分 で 資 料 を 持 ち 込 む 児 童 も 見 ら れ る( こ の 時 間 は 十 分 に 用 意 さ れ る )。こ の 後 、調
べ た 内 容 を 、西 郷 派 と 大 久 保 派 に 分 か れ て 発 表 し 合 い 、
(それぞれが主要に推したものがど
れかを明らかとしつつ)政策に含まれる意図/価値について、議論を行った上で、再度、
どちらを支持するかを決める。こうした展開で、明治維新についての歴史的知識を獲得し
ていきながら、同時に政治判断や政治的対立軸の一つ(中央集権と地方分権など)につい
ても学習していくのである。
歴 史 的 分 野 は 、地 域 社 会 に 出 向 い て い く こ と が 難 し い 上 、
「 過 去 」の 出 来 事 な の で 、児 童
38
の 現 在 の 生 活 と 直 接 的 な つ な が り が な く 、西 郷 と 大 久 保 に な り き る と は い え 、
「 市 民 」と し
て行っていくには難しいものだと、岡田氏は述べたが、政策に含まれる意図や価値観を分
析していくことへと展開したのは、十分に市民的リテラシーの形成を促す内容であった。
そ の 他 の 授 業 テ ー マ を 例 示 す る と 次 表 の 通 り で あ る 。 3・ 4 年 が 公 民 的 分 野 、 5 年 生 は 地
理的分野、6 年生は歴史的分野を主要テーマとしているのは、一般の学校の社会科と同じ
である。
表2
実施学年
「 市 民 」 の 授 業 テ ー マ 例 88
提案や意思決定活動を行った学習問題
z 大塚公園を造るとしたら、どこにどんな公園を造りたいか:みんなが喜
ぶ公園づくり
z 学校が火事になったら:自分たちの消防計画をつくろう
中学年
z くらしの中で、何を残し、何を捨てるか?
( 3・ 4 年 生 )
z 私が決める夕飯のメニュー
z 私の東京ゴミ減量計画
z 九州の友だちに東京の良いところを 3 ヶ所紹介する新聞づくり
z 自 給 率 100%の 食 材 で 、 和 食 料 理 店 を 開 店 さ せ よ う
z 日本の食料自給率は大丈夫か
z 諫早湾干拓と新聞報道
z 校内通貨づくりから銀行の役割を知る
5 年生
z 自動車工場、どこに造る?
z 沖縄(北海道)に会社を造るなら?
z 白神山地の素晴らしさをアピールするなら
z 東 京 23 区 と 北 海 道 、 あ な た な ら ど ち ら で 酪 農 農 家 を や り ま す か
※方法:歴史上の人物になって考える
z タイムスリップするなら縄文時代か弥生時代か
z 聖徳太子、聖武天皇、鑑真、行基が日本の未来を語ったらどうなる?
z 元が攻めてくる、時宗はどんな決断をすべきか
6 年生
z 明治の国づくり、西郷と大久保のどちらを支持する?
z 日本の独立を守るために条約をどのように改正していくか
z 戦争中の国民生活を、新聞記者になってインタビュー
z 戦後日本の三大ニュースを決めよう
z 今 後 の ODA を ど う 考 え る か 89
88
岡 田 [ 2 004 a: p.41 ] の 図 を 元 に 、 お 茶 の 水 大 学 附 属 小 学 校 編 [ 200 4: pp .2 4-1 23] の 内
容も踏まえ、引用者が加筆・修正した。
39
z 私の高齢化社会対策
こうした授業の幾つかは、実際に地域でまち歩きをしてみる、ミュージアムで学ぶ、関
係 者 に 電 子 メ ー ル な ど で 実 態 を 聞 い て み る( 話 し を 聞 き に 行 っ て み る )、保 護 者 に 協 力 を 求
めるなど、学校の「外部資源」を有功に活用しつつ、実践されている。また、教員自身が
現 地 に 足 を 運 び 、聞 き 取 り 調 査 を 行 っ て 資 料 を ま と め る な ど 、
「 外 部 資 源 」を 間 接 的 に 取 り
込 ん だ も の も あ る 。 こ う し た 「 外 部 」 と の 媒 介 者 ( me d ia to r ) と し て 教 員 が 存 在 し て い る
ことは重要なことであろう。
な お 、現 在 の 学 習 指 導 要 領 で は 、1・2 年 生 は 社 会 科 が な く 、生 活 科( 同 校 で は「 な か ま 」)
が行われているが、同校ではこの「なかま」から「市民」への連続性へも保持すべく、い
ず れ に お い て も 、「 提 案 と 意 思 決 定 か ら の 学 び 」 を 重 視 し て い る 。 相 違 点 と し て は 、「 意 思
決定の質」と「他者との関係性」の二つで見られ、前者は「個人的な意思決定」から「社
会 的 な 意 思 決 定 」へ と 、後 者 は「 仲 間 と し て の 他 者 」か ら「 説 得 相 手 と し て の 他 者 」へ と 、
そ の 変 化 を 示 せ る 。こ の 変 化 は 、
「 な か ま 」が「 市 民 」の 前 段 階 と し て き ち ん と 位 置 づ け ら
れていることが分かるものであろう。個人の意見形成がなければ、集団での議論は成立し
ないし、また議論しあえる関係は「一緒にいることが楽しい」と感じる相手だからに他な
らない。
ちなみに、
「 市 民 」の 目 標 や 内 容 の 方 向 性 、な ら び に 観 点 別 細 目 分 類 と し て 整 理 し た「 学
びの概要」については、イギリスの市民教育とも重なる部分が多いので、本論文では割愛
す る 。 お 茶 の 水 女 子 大 学 附 属 小 学 校 「 市 民 」 研 究 部 編 [ 2 00 4: pp .9-1 0 , pp .146 -1 47 ] を 参 照
されたい。
2 - 2.「 市 民 」 に つ い て の 特 徴 と 考 察
ま ず 、同 校 の 学 び の 取 り 組 み の 特 徴 は( 提 案 や 意 思 決 定 に 力 点 を お い て い る こ と 以 外 に )
以下の三点あげられる。
一 つ は 、授 業 に お い て 、
「 切 実 に な る 」こ と を 重 視 し て い る 点 で あ る 。こ こ で 言 う 切 実 感
は二種類からなる。ひとつは学習テーマが生徒にとって身近な問題として認識される切実
感、もう一つは友達を説得したいという切実感である。こうした切実感が授業への参加を
形骸化させないのである。
もう一つは、友達と「学び合う」ことを重視している点があげられる。グループで、調
べたことを教えあったり、意見を述べ合い、コメントしあったりすることで、学び合い/
教え合いが起きている。
89
こ の 「 今 後 の O DA を ど う 考 え る か 」 に つ い て は 、 岡 田 [ 20 04 a] に て 、 子 ど も の 価 値 判
断の変容について、一人の子どもの考えの変遷を手掛かりに論じている。その際、岡田は
( 1 )学 級 の 仲 間 か ら の 学 び 、 (2 )教 材 ( 人 ・ も の ・ こ と )、 (3 )教 員 の 発 話 と 行 為 、 (4 )生 活 と 学
びの履歴の 4 つを「変容の原因を探る視点」としている。
40
最後の一つは、
「 教 員 の 価 値 観 を 押 し 付 け な い 」こ と を 重 視 し て い る 点 で あ る 。価 値 判 断
/意思決定時は、生徒個々人の考えを問い、最後までその判断について、教員は評価しな
い 。 た だ し 、「 評 価 を し な い 」 と い う 点 だ け で 、「 押 し 付 け な い 」 こ と を 担 保 で き る か と 言
え ば 、そ れ は 難 し い 。実 際 に 、筆 者 が 観 察 し た 授 業 、
「西郷と大久保のどちらを支持するの
か 」 と い う 価 値 判 断 を 児 童 に 迫 っ た 際 、 あ る ク ラ ス で だ け 、「 自 分 は 大 久 保 が 好 き で あ る 。
う わ て
大 久 保 の ほ う が 政 治 的 に 上 手 で あ っ た 。」と い う 、岡 田 氏 は 自 ら の 意 見 を 述 べ て し ま っ た の
だが、これは生徒の第一次判断に少なからず影響を与え、大久保を支持する子どもが他の
クラスより増えるという現象が見られた。もちろん、岡田氏には価値判断を押し付けよう
と言う気持ちは一切なく、あくまで一個人の意見を表明したに過ぎなかった。これを「押
し付け」と言えるかどうかはともかくとしても、教員の価値観に大きな影響を受けたこと
に は 違 い な い 。影 響 力 を 無 化 す る こ と は 不 可 能 で あ る が 、子 ど も に 価 値 判 断 を 求 め る 際 は 、
(演技的になろうが)価値中立の姿勢と発言が求められよう。
こうしたことから、市民的リテラシー学習では、子どもにとっては、権力者であり権威
者でもある教員は非常に「配慮に基づく抑制」が大きな意味を持ってくることが分かる。
筆者の授業観察時、子どもが調べ学習などの作業中、岡田氏は教室内巡回こそするが、余
り書いていることを覗き込むことをしていなかった。これも一つの「配慮」であったと思
われ、それは「見る/見られる」関係を、できる限り意識させないためのものである。
次に、
「 市 民 」を 支 え て い る 同 校 の 制 度 や 環 境 面 で の 特 徴 が 二 つ あ る 。一 つ は 教 科 担 任 制
をとっている点である。一般的には、小学校は教室担任制であるが、同校は専門性を発揮
で き る よ う 、教 科 担 任 制 を と っ て い る 。教 員 の 誰 で も が 、
「 咄 嗟 の 機 転 」が 問 わ れ る ワ ー ク
シ ョ ッ プ 9 0 的 な 「 学 び の 場 」 を う ま く ま わ せ る わ け で は な い 。 こ の 制 度 は 、「 市 民 」 に 合 致
し て い る 。こ の 教 科 担 任 制 に よ っ て 、
「 単 年 で は な く 、複 数 年 で『 流 れ 』を 考 え る こ と が で
き る た め 、 教 科 の 全 体 的 な 目 標 が 明 確 化 さ れ た 。」 と 岡 田 氏 は 述 べ て い る 。
も う 一 つ は 、学 校 文 化 の 特 質 で あ る「 チ ャ イ ム 、出 欠 、号 令 」が な い こ と で あ る 9 1 。チ ャ
イムについては、同行の家庭科教諭は「のりしろ」の時間として役立つし、2 コマ連続の
際、休憩時間を少し動かせられるという点をメリットに挙げていたが、議論や作業を伴う
学習では、こうした時間の融通が利くことは重要なところであろう。
同校の取り組みは、筆者の市民的リテラシー教育が目指す「共生の技能と作法の体得」
「討議能力とそれを支える批判的知性の形成」
「 市 民 的 問 題 解 決 行 動 の 形 成 」と い っ た 三 つ
の目標から考えると、
「 討 議 能 力 と 批 判 的 知 性 の 形 成 」に 重 点 が 置 か れ て い る 。岡 田 氏 も「 得
90
ワ ー ク シ ョ ッ プ の 定 義 を 巡 っ て は 様 々 な も の が あ る が 、本 論 文 で は 、中 野[ 2 00 1: p .11]
の定義である「講義など一方的な知識伝達ではなく、参加者が自ら参加・体験して共同で
何 か を 学 び あ っ た り 創 り 出 し た り す る 学 び と 創 造 の ス タ イ ル 」と い う も の を 用 い る 。な お 、
ワ ー ク シ ョ ッ プ の 歴 史 的 変 遷 に つ い て は 、 高 田 [ 20 01] に 詳 し い 。
91
チ ャ イ ム が な い こ と は 重 要 で あ る 。筆 者 は 徳 島 県 の K 高 校 に て 、ワ ー ク シ ョ ッ プ を 行 っ
た際、このチャイムによって、ワークに集中していた生徒のスイッチが「切れてしまう」
事態に困らされた経験がある。特にフッキング段階では、生徒がワークショップに意識を
集中しきれていないので、外的な影響が出やすい。
41
た 知 識 を 出 す 喜 び 」を 議 論 の 中 で 味 わ い つ つ 、達 成 感 を 得 て 、
「議論を楽しめるようになっ
て ほ し い 。 そ う し た 態 度 こ そ 、 10 年 後 、 2 0 年 後 の 未 来 に 役 立 つ 態 度 だ 」 と 述 べ た 。
し か し 、授 業 時 で の 最 終 的 な 意 思 決 定 時 で も「 満 場 一 致 」は あ り え な い と し て 、
「意見の
異 な る 他 者 」 を 尊 重 し て い る の だ が 、「( 意 見 が 同 じ に な ら な い の で あ れ ば ) 話 し 合 っ て も
意味ないのでは」というニヒリズムに近い感情が一部に生じてきているとも述べており、
こ う し た 子 ど も か ら す る と( と て も 重 要 な )
「 曖 昧 さ 」の 部 分 を 、ど う 積 極 的 に 受 け 容 れ て
もらえるかということは、今後の課題となっている。
なお、行動重視型の「総合的な学習の時間」に比べ、社会科を再編した「市民」では、
実際に地域の問題解決へと動く市民的行動の形成については、十分にアプローチできてい
な い と 述 べ つ つ も 、「 市 民 」 で 形 成 さ れ た 意 識 と 態 度 が 、 特 別 活 動 の 中 で 活 か さ れ 、「 自 治
意 識 」 を 高 め る こ と に 貢 献 し て い る こ と を 紹 介 し て く れ た 92。 例 え ば 、 五 年 生 で は 宿 泊 を
伴 う 学 習 を 行 う か ど う か 、行 う と す れ ば 、ど こ に 宿 泊 す る の か( 空 き は あ る の か )、そ こ に
はどのようにして行くのかについて、情報収集を行いながら議論を重ね、計画を立ててい
る の で あ る ( 岡 田 [ 200 4 a : p . 5 5 ])。 今 後 は 、「 学 校 と い う 身 近 な 社 会 」 に つ い て だ け で は
なく、
「 学 校 の 近 辺 」あ る い は「 居 住 地 域 の 近 辺 」と い う 身 近 な 社 会 へ も ア プ ロ ー チ に 入 れ
ていけるかも、課題となってこよう。
こ の 社 会 科 の 再 編 と し て の 「 市 民 」 と い う 部 分 に つ い て 、 岡 田 氏 は 「 も っ と 、『 市 民 』だ
か ら こ そ 、と 言 え る 内 容 へ と 見 直 す 必 要 が あ る 。」と 述 べ 、具 体 的 な ト ピ ッ ク の 一 例 と し て
「なぜ学校に行くのか?」といった問いを軸に展開するもの提示してくれた。
ま た 、最 後 に 岡 田 氏 は「 シ テ ィ ズ ン シ ッ プ の 教 育 は 、
『 市 民 』だ け で は な く 、学 校 全 体 で
取 り 組 む 必 要 が あ る 。」と 述 べ た 。こ の よ う に 考 え た 理 由 と し て は 、
「( こ れ だ け や っ て い る
のに)育っていない。市民的資質の形成は週 3 時間では無理」と痛感したからだと述べて
い る 。 そ の よ う に 考 え れ ば 、「 こ と ば 」 は 「 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 」 に つ い て 、「 か ら だ 」 で
はスポーツ・ルールから「ルール」について学ぶ機会になると思え、実際に他の教員とも
共 同 で 授 業 開 発 を 行 っ て お り 、「 こ と ば 」 に お い て は 、「 市 民 」 が 目 的 と す る 二 つ の 力 を 育
む た め の 授 業 が 既 に な さ れ て い る 93。
こうした他教科との連携がスムーズに行われるのは、小学校だからこそ、という面があ
92
子 ど も た ち が( 教 員 の「 そ そ の か し 」が 一 切 な く )自 ら の 発 案 で 学 校 外 で の 募 金 活 動 を
提案して、実際に行ったエピソードを岡田氏は筆者に示してくれたが、こうしたエピソー
ドは、授業で繰り返し求められる「提案」という行為を日常的なものとして認識している
ことを示している。
93
調 査 時 に い た だ い た 指 導 案 に よ れ ば 、「 私 た ち の 生 活 白 書 」 と い う 授 業 が あ る 。 以 下 が
授業の流れである。まず、自分の日常の生活行為の中で、他者がどうしているのかと疑問
に思うものをあげていき、それを複数の生徒で共有した上で、グループの「調査項目」を
決める。そして、その調査項目について、アンケートやインタビューによって、実際に調
査を行い、政府が刊行した「国民生活白書」と読み比べながら、調査知見を明らかにして
いく。最後に、一連の調査結果をグループごとに、ポスター発表し、各グループの発表内
容の間の類似点/相違点を考え、何かしらの自分なりの考えを持つことを促す。なお、こ
の授業へは、アドバイザーに保護者を 2 名、招くことになっている。
42
るように思われる。小学校は教室担任制がスタンダードであり、小学校教諭免状は全科目
をカヴァーしたものである。故に、専門以外の他教科についても、その理解は当然ながら
具体的でリアルなものである。教員が「専門意識」を高く持つ中学以降では、他教科につ
いて、そういったリアルな理解は難しいものであろう。
以上で見た同校の取り組みは、小学校段階とはいえ、十分に中等教育でも通用する内容
であることは分かろう。寧ろ、小学生にはハードルが高いというのが、実際であろう。こ
うした高度な学びを実現しているのには、次の「特殊」な背景が指摘できる。
一つは、教育開発研究指定校であり、教員に専門性がある点である。総合的な学習の時
間 が 、20 02 年 に 導 入 さ れ た 時 に 、現 場 の 教 員 の 多 く が 戸 惑 っ た と あ る が 、一 般 的 な 学 校 で 、
ワークショップ的な授業を実際に行ったことがある教員は、増加傾向にあるとはいえ、中
等 教 育 に な る と 、 ま だ ま だ ご く 少 数 で あ る 94。
もう一つは、同校は公立学校ではないので、入学試験を経由した子どもが通っており、
小学校段階で入試を受けさせる「教育熱心」な家庭の子どもの集団である点である。筆者
が 授 業 観 察 で 最 初 に 驚 い た の は 、「 お と な し く 、 ま じ め に 、 課 題 に 熱 心 に 取 り 組 ん で い る 」
児童が殆どであったことであった。家庭教育の裏支えもあるのだろう。
こうした背景を無視して、
「 実 験 校 で う ま く い っ た 」か ら 政 策 化 す る と い う こ と で は 、総
合的な学習の混乱の轍を踏むことになる。イギリスも市民教育の制度化以前に、それを受
け入れる「土壌」づくりが長年かけて行われていたことは、既に述べた通りである。
3.事例 2
都 立 千 早 高 等 学 校 「 N P O・ コ ミ ュ ニ テ ィ 教 育 」 9 5
3 - 1.「 コ ミ ュ ニ テ ィ デ ザ イ ン 演 習 」 の 概 要
東 京 都 立 千 早 高 等 学 校 は 、2004 年 に 新 設 さ れ た 進 学 型 専 門 高 校 で あ り 、専 門 学 科 と し て
「ビジネスコミュニケーション科」を開設している。新しいタイプの学校として同校は、
「将来の職業選択を視野に入れた大学進学支援」と「コミュニケーション能力の向上」を
教 育 上 の 目 標 と し て お り 、「 国 際 理 解 の た め に 『 使 え る 英 語 』 を 楽 し く 学 ぶ 」「 経 済 の 仕 組
み を 学 ぶ 」「 コ ン ピ ュ ー タ ー を 駆 使 し 、 情 報 の 発 信 能 力 を 身 に つ け る 」「 コ ミ ュ ニ テ ィ の 大
切さを学ぶ」という 4 つの柱を立てている。そして、この柱の後ろ三つを具体化するため
に、
「 ビ ジ ネ ス 教 育 」の 科 目 群 と し て「 流 通 ・ ビ ジ ネ ス 」
「 簿 記・会 計 」
「 情 報( I T )」
「 NPO・
コミュニティ」という 4 つの分野を設けている。
ビジネスを専門とする高校において、
「 N P O・ コ ミ ュ ニ テ ィ 分 野 」が 主 要 な も の の 一 つ と
な っ て い る 点 は 、極 め て 異 例 で 珍 し い こ と で あ る 。こ の よ う に N PO や コ ミ ュ ニ テ ィ デ ザ イ
94
筆者は、幾つかの高校でワークショップを行ったが、その際、教員の方々に「ワーク
シ ョ ッ プ 」 や 「 参 加 型 学 習 」 を 実 践 さ れ て い る か を お 尋 ね す る が 、 学 年 団 で 1~2 名 し か い
ないことが殆どである。
95
調 査 日 と 内 容 は 以 下 の 通 り で あ る 。 1 0 月 25 日 ( 月 )、 同 校 校 長 の 佐 藤 芳 孝 氏 へ イ ン タ
ビューを実施。場所は同校校内。
43
ンを教育の根幹の一つに位置づけた高校は他に聞かれない。
本 論 文 で は 、 こ の 「 N P O・ コ ミ ュ ニ テ ィ 分 野 」 に つ い て 取 り 上 げ る 。 た だ し 、 同 分 野 に
つ い て 本 格 的 に 学 習 を 始 め る の が 、2 年 生 以 降 な の に 対 し 、同 校 は 2 00 4 年 度 に 新 設 さ れ た
ばかりであるため、まだ在校生に 1 年生しかおらず、本格的な取り組みはまだ始まってい
ない。本論文では、そのカリキュラムを概観しながら、こうした取り組みが何をねらって
いるのか、そしてなぜこうした取り組みを始めるに至ったのかを明らかとすることに重点
を置く。
同 校 の 学 校 案 内 で は N P O・コ ミ ュ ニ テ ィ 分 野 の 説 明 と し て 、
「 近 年 注 目 を 集 め て い る NPO
活動やコミュニティ社会について、知識や技術を学ぶとともに、調査・研究、フィールド
ワーク、発表・報告など実習や体験を重視した授業を展開し、理解を深めることができる
ようにします」と記されている。生徒は、1 年次にビジネス教育の 4 分野全体について広
く 学 び ( 8 単 位 )、 2 年 次 か ら 分 野 を 選 択 し 、 選 択 科 目 も 含 め て 専 門 性 を 深 め て い く ( 20 単
位 )と い う 流 れ で 、分 野 ご と の 学 習 へ と 入 っ て い く 。こ の 大 き な 流 れ の 中 で 、N P O・コ ミ ュ
ニティ分野では、学年があがるにつれ、講義から調査研究、そしてフィールドワークへと
軸足が動いていく学びの展開をとっている。
1 年 生 で は 、 必 修 科 目 「 ビ ジ ネ ス 基 礎 」 の 中 の 8 コ マ を 用 い て 、 い わ ゆ る 「 NPO 概 論 」
が 行 わ れ る 。具 体 的 に は「 N P O 活 動 と は 何 か 」
「 N PO の 歴 史 と 役 割 」
「 N PO と ビ ジ ネ ス 」
「 NPO
の法制度」
「 N P O 研 究 Ⅰ( 同 校 の 学 術 ア ド バ イ ザ ー 9 6 に よ る 特 別 講 義 )」
「 NPO 研 究 Ⅱ( N PO
に つ い て グ ル ー プ で 文 献 調 査 を 行 い 、発 表 資 料 を 作 成 す る )」
「 N PO 研 究 Ⅲ( 前 授 業 の 発 表 )」。
2 年 生 で は 、選 択 必 修 科 目 と し て「 経 済 シ ス テ ム と し て の N PO( 商 品 と 流 通 )」と い う 授
業 が 一 年 間 15 コ マ で 設 け ら れ る 。
「 N P O 基 礎 Ⅰ の 復 習 」か ら 始 ま り 、N P O の 国 際 比 較 や 情
報 化 と N PO、 N P O の マ ネ ジ メ ン ト 、 行 政 ・ 企 業 と の 協 働 、 税 務 ・ 会 計 、 コ ミ ュ ニ テ ィ ビ ル
ディング、学術アドバイザーによる特別講義といった講義を経て、グループごとに分かれ
て 、 授 業 内 容 を 踏 ま え た 文 献 調 査 と 発 表 を 行 う も の で あ る 。 2 年 生 で は 他 に 、 N PO の 分 野
ごとのケーススタディや現場実習を織り交ぜながらコミュニティ・ビジネスについて学ぶ
2・ 3 年 生 共 通 選 択 必 修 科 目 「 コ ミ ュ ニ テ ィ デ ザ イ ン 」 が あ る 。
3 年生では、これらの学習を踏まえた「コミュニティデザイン演習」が選択必修科目と
して、
「 課 題 研 究 」が 必 修 科 目 と し て 設 け ら れ て い る 。前 者 は 、グ ル ー プ に 分 か れ て 、活 動
現 場 へ の イ ン タ ー ン ま た は フ ィ ー ル ド ワ ー ク を 行 い な が ら 、調 査 研 究 発 表 を 行 う 。後 者 は 、
個人またはグループで調査を行い、研究報告書を書くという授業である。調査時に、活動
現場の見学も生徒が望めば行われるようである。
以 上 が 同 校 N P O・ コ ミ ュ ニ テ ィ 教 育 の 内 容 で あ る が 、な ぜ N PO・ コ ミ ュ ニ テ ィ 教 育 に 取
96
同 校 は 、教 育 の 4 つ の 柱 、ビ ジ ネ ス 教 育 の 4 分 野 、こ れ ら に 対 応 す る 大 学 研 究 者 に 、学
術アドバイザーに就いてもらい、カリキュラムや授業内容について、助言を得ており、ま
た 年 に 数 回 は 、 実 際 に 授 業 を 行 っ て も ら っ て い る 。 N PO・ コ ミ ュ ニ テ ィ 分 野 の 学 術 ア ド バ
イ ザ ー は 、 中 村 陽 一 教 授 ( 立 教 大 学 大 学 院 21 世 紀 社 会 デ ザ イ ン 研 究 科 )。
44
り組むのか、そして、その内容がなぜ以上のようなものであるのかという筆者の質問に対
し 、 佐 藤 氏 は 次 の 5 つ の 理 由 を 示 し た 。 (1)キ ャ リ ア ガ イ ダ ン ス ( N PO / N GO も 就 職 の 選 択
肢 と し て 存 在 す る こ と を 学 ぶ )、 (2 ) ボ ラ ン テ ィ ア を 通 じ て 社 会 に 関 わ り 、 社 会 理 解 を 多 面
的 な も の と し 、 社 会 に 有 用 な 人 材 へ と 育 っ て も ら う た め 、 ( 3)実 習 作 業 を 通 じ て 、 リ サ ー チ
と レ ポ ー ト 、コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン と い っ た 能 力 を 高 め る た め 、(4 )大 学 進 学 へ 有 利 と な る た
め 、 ( 5)学 校 経 営 を 行 う 際 に 特 色 が 出 る た め 、 と い っ た 理 由 で あ る 。
そして佐藤氏は、
「 経 済 的 に 豊 か な 社 会 の 中 で 困 ら ず に 、し か も『 自 分 と 違 う 人 』と 関 わ
り を も っ て い な い た め 、生 徒 は 判 断 を す る 必 要 が な い 中 で 育 っ て き て い る 」と 述 べ な が ら 、
まずは異質な他者が社会にはいるということ、そしてそうした異質な他者と共に暮らして
い く 必 要 が あ る こ と 、そ の た め に は 違 い を 認 め 合 え る「 心 の も ち よ う 」が 重 要 で あ る こ と 、
こ れ ら を 高 校 段 階 で 理 解 し て ほ し い こ と だ と 続 け た 。 そ の 上 で 、「 N PO は 色 々 な 人 が い る
の で 、 こ う し た こ と を 理 解 す る 場 と し て 向 い て い る 。」 と も 述 べ 、 N PO を 教 育 の 柱 に 取 り
入れた理由を解説してくれた。
こ れ ら の 理 由 と 学 習 内 容 か ら 、 同 校 の N PO・ コ ミ ュ ニ テ ィ 教 育 は 、 共 生 意 識 を 高 め る と
いうことと、調査研究能力を高めるところに、その教育的目的が示せよう。後者について
は、
「洞察力やリサーチスキルと同時に、
『 ま と め る 力 』、国 語 力 の 向 上 が 重 要 。感 動 を き ち
んと伝えられるような国語力が特に大事」だと佐藤氏は述べている。
この取り組みを思い立った背景には、佐藤氏が企業を退職して、民間人校長として学校
開 設 の 準 備 に あ た っ た 期 間 に 、立 教 大 学 大 学 院 2 1 世 紀 社 会 デ ザ イ ン 研 究 科 へ 進 学 し た こ と
が大きい。同大学院において、これまで出会うことのなかった人々とのネットワークが広
が る こ と で 、「 企 業 は 功 利 主 義 価 値 が 身 に つ い て い る 人 ば か り 」 だ と 痛 感 し 、「 色 ん な 人 が
色 ん な 価 値 観 を 身 に つ け て 欲 し い 」 と 思 う よ う に な っ た と い う 。 こ の 経 験 が 、 生 徒 が N PO
で の 学 び を 通 じ て 、「 色 ん な 人 」 と 出 会 っ て 欲 し い と い う 思 い へ と つ な が っ て い く 。
3 - 2.「 N P O・ コ ミ ュ ニ テ ィ 教 育 」 の 特 徴 と 考 察
同 校 の 学 び の 取 り 組 み の 特 徴 と し て は 、次 の 二 点 が 言 え る よ う に 思 わ れ る 。グ ル ー プ ワ ー
ク、実践現場からの学び、の二つである。実践現場からの学びという点については、積極
的に外部講師を招聘していくことが計画されていること、3 年生であれば一年間にも及ぶ
現場へのインターンが行われるなど、生徒が学校から実践現場へ出向いていくことが計画
さ れ て い る こ と に 示 さ れ る 。し か し 、
「 現 場 と の 出 会 い 」ま で の「 授 業 」が 多 く あ る と こ ろ
で、生徒の関心がどう維持されるのか、リアリティをもてるのか、という点で疑問が残ら
な い わ け で は な い 。NPO は 生 徒 に と っ て 日 常 生 活 の 中 に あ る 身 近 の も の で は な い 。授 業 の
中でリアリティを高める工夫が、今後どう展開されるのか、注視したい。
環 境 面 で の 特 徴 と し て は 、3 年 生 に な る と 、一 ク ラ ス 15 人 の 少 人 数 制 ・ ゼ ミ ス タ イ ル で
授 業 が 展 開 さ れ る こ と が 、教 員 が 個 々 の 学 び を し っ か り と 把 握 し( そ し て 尊 重 し )、サ ポ ー
トできる環境につながる点で示せる。
45
実践現場からの学びという特徴を生み出している背景でもあるが、同校は学校の外に対
し て「 風 通 し が 良 い 」と い う の を 大 き な 特 徴 と し て 有 し て い る 。今 後 の 学 校 教 育 に つ い て 、
佐藤氏は「学校が地域での『教育プラットフォーム』になっていく必要がある」と述べた
のであるが、この「教育プラットフォーム」という言葉に、そうした志向が見て取れる。
このことに関して、佐藤氏は「地域の中での学校の存在感が低いことを感じた。学校は
第 一 義 的 に は 生 徒 の た め に 存 在 す る が 、地 域 の 人 々 に と っ て も 、学 び の 場 や 憩 い の 場 と な っ
て欲しい」と述べたことに見られるように、アメリカでのコミュニティ・カレッジのよう
なものを志向しているように思われる。
そ し て 、 こ の 結 果 と し て ( 時 に 過 程 と し て )、「 地 域 が 学 校 を 支 援 す る よ う に な る 。 学 校
が地域に信頼されるよう、その支援を受け入れられるようにする」展開を述べ、地域が学
校教育を支える姿、地域の人々が学校教育に参画していく姿を目指していることを示した
97
。
しかし、学校を地域にひらくと言っても、現状では「市民の成熟が十分で、ひらきすぎ
る の は 危 険 」 と 述 べ て お り 98、 ど の よ う に 学 校 の 外 と の 距 離 を 近 め な が ら も 、 距 離 感 を 保
つかという点が、今後の課題として挙げられる。
また、この課題と同様のものであるが、実際の授業が行われ出せば、教員/外部講師、
共に双方の現場に対する理解が不十分で、行き違いやフラストレーションの高まりが起こ
る こ と も 考 え ら れ る 。こ の 授 業 を 担 当 す る 教 員 が 全 て N P O で の 活 動 経 験 が あ る か と い え ば 、
そ う で は な い 。ま た 、外 部 講 師 は N P O の 実 践 者 で は あ る が 、教 育 者 で は な く 、学 校 で の 活
動 経 験 が な い 。 NPO と 行 政 ・ 企 業 と の 協 働 の 際 に も 、 こ う し た 双 方 の 価 値 観 や ル ー ル 、 マ
ナーなどに関する不理解が相乗効果の妨げとなることは、既によく知られていることであ
る 。こ う し た 不 理 解 を 減 じ て い く た め に も 、教 員 は N PO で の 活 動 に あ る 程 度 継 続 的 に 参 加
し、現場に馴染み、外部講師は授業計画の策定段階から(まずは形式的にでも)関わり、
授 業 見 学 な ど を 通 じ て 「 学 校 教 育 」 に つ い て 学 習 し て い く 必 要 が あ ろ う 99。
なお、同校の取り組みは、筆者の市民的リテラシー教育が目指す「共生の技能と作法の
体 得 」「 討 議 能 力 と そ れ を 支 え る 批 判 的 知 性 の 形 成 」「 市 民 的 問 題 解 決 行 動 の 形 成 」 と い っ
た三つの目標から考えると、二番目に重点がありつつ、全体をバランスよく取り入れたも
のであると言える。
97
構 想 段 階 で あ る が 、既 に 授 業 計 画 に つ い て 、学 術 ア ド バ イ ザ ー だ け で は な く 、2 1 世 紀 社
会デザイン研究科の卒業生や地域の人々と協働で考えていくことも検討されている。
98
具 体 的 に は 、「 学 校 を 利 用 し て 、( 子 ど も を 無 視 し て ) 自 分 た ち の 価 値 観 を 実 現 し よ う と
す る 人 々 」や「 自 分 は 傷 つ か な い と こ ろ で 意 見 ば か り 言 っ て 、行 動 し 、責 任 を 持 た な い 人 々 」
が学校に入り込みかねないと述べている。
99
筆 者 は 関 西 の NPO で 活 動 中 に 、 一 年 間 だ け で は あ る が 、 区 役 所 に 嘱 託 職 員 と し て 勤 め
た こ と が あ る が 、 そ の 際 に 、 NPO は 行 政 の こ と を 知 ら な い ま ま 、 協 働 を し て い る こ と の 弊
害を強く実感した。相手の文脈を知らずに、相手の文脈を変えたりすることはできないで
あろう。
46
4.事例 3
大 学 コ ン ソ ー シ ア ム 京 都 「 N PO ス ク ー ル 」 1 0 0
4 - 1.「 N PO ス ク ー ル 」 の 概 要
大 学 コ ン ソ ー シ ア ム 京 都 は 、199 4 年 に 設 立 さ れ た 京 都・大 学 セ ン タ ー を 母 体 に 生 ま れ た 、
大 学 連 合 体 の 財 団 法 人 で あ る 。198 0 年 代 後 半 か ら 9 0 年 代 前 半 に か け て 、京 都 市 外 へ の キ ャ
ンパス移転が相次ぐ中で、
「 大 学 の ま ち ・ 京 都 」が 揺 ら ぎ 、京 都 市 や 各 大 学 は そ う し た 事 柄
への危機感から、京都・大学センターを発足させたのである。設立後は、全国初の単位互
換 制 度 の 実 施 な ど に 取 り 組 み 、 一 層 の 充 実 化 の た め の 財 団 法 人 化 ( 1 99 8 年 ) を 経 て 、 現 在
の 組 織 と な っ て い る 。資 金 も 人 材 も 大 学 や 京 都 市 が 供 出 し て お り 、ま た 、5 0 の 大 学 の ほ か 、
京都市や経済団体も加盟するなど、地域における幅広い支持の中で、活動が展開されてい
る ( 山 口 [ 2 00 2: pp .16 -1 7][ 2003: pp .32 -33])。
本 論 文 で 取 り 上 げ る N P O ス ク ー ル は イ ン タ ー ン シ ッ プ・プ ロ グ ラ ム を 中 心 と す る 同 財 団
の N P O 教 育 プ ロ グ ラ ム 全 体 を 指 す も の で あ る 1 0 1 。大 学 生 を 対 象 と し 、し か も 学 校 と い う 枠
組みではないところで展開されている事例であるが、市民的リテラシー教育のプログラム
を考える上で、その体系性や実践現場との関係性、学生とのコミュニケーションのとり方
など、多くの点で示唆深く、本論文では取り上げた。
N PO ス ク ー ル は 、 京 都 ・ 大 学 セ ン タ ー 時 の 19 97 年 に パ イ ロ ッ ト プ ロ グ ラ ム ( 民 際 学 入
門 演 習 ) が 行 わ れ 、 1998 年 か ら イ ン タ ー ン シ ッ プ ・ プ ロ グ ラ ム NP O コ ー ス と し て ス タ ー
ト す る 1 0 2 。 そ の 後 、 20 00 年 度 に は 、 長 期 休 暇 期 間 中 の み の プ ロ グ ラ ム で 個 々 人 の 「 ボ ラ ン
ティア活動体験の意味づけを到達点」とする「ボランティア・スタディプログラム」と、
社 会 起 業 家 育 成 を 目 指 す 「 コ ミ ュ ニ テ ィ ・ ビ ジ ネ ス & サ ー ビ ス 講 座 」 が 、 2002 年 度 に は 現
場 実 習 を も と に 研 究 論 文 を 執 筆 す る 「 NPO ス ト ラ テ ジ ー ・ ス タ デ ィ ・ プ ロ グ ラ ム 」 が 開 設
さ れ 、 発 展 し て い く ( 山 口 [ 20 03b: pp .38 0-3 82])。
こ の プ ロ グ ラ ム の 特 徴 は 、イ ン タ ー ン シ ッ プ・プ ロ グ ラ ム を 中 核 に し て 、ボ ラ ン テ ィ ア ・
ス タ デ ィ プ ロ グ ラ ム が 導 入 的 な も の に 、コ ミ ュ ニ テ ィ・ビ ジ ネ ス & サ ー ビ ス 講 座 と N P O ス
トラテジー・プログラムが発展的なものに位置づけられ、一つの大きな連続性が階層化さ
れている点にある。なお、ボランティア・スタディプログラムが個人(ボランティア)の
視 点 か ら N P O 分 野 を 見 て 、関 っ て い く 講 座 で あ る の に 対 し 、コ ミ ュ ニ テ ィ・ビ ジ ネ ス & サ ー
ビ ス 講 座 と N P O ス ト ラ テ ジ ー ・ プ ロ グ ラ ム は 、組 織 ・ 事 業 体( N P O/ CB)の 視 点 か ら N P O
分野を見て、関っていく講座となっている。インターンシップ・プログラムはその中間点
100
調 査 日 と 内 容 は 以 下 の 通 り で あ る 。 9 月 26 日 ( 日 )、 N P O ス ク ー ル の 事 務 局 長 を 務 め 、
現在は同財団の研究主幹である山口洋典氏へインタビューを実施。場所はキャンパスプラ
ザ 京 都 共 同 研 究 室 に て 。な お 、こ の N P O ス ク ー ル の 記 述 に 関 し て は 、筆 者 が 何 度 か 講 座 講
師を務めたことがあり、また本節三項にて述べている通り、インターン受入団体の一つで
担当者を務めていたこともあることも、踏まえて書かれたものである。
101
N PO ス ク ー ル は 、199 8 年 か ら 20 02 年 ま で 5 年 か け て 実 施 さ れ て き た が 、一 定 の 役 割 が
果 た さ れ た と の 総 括 か ら 、200 3 年 度 以 降 は 事 業 を 休 止 し て い る 。200 3 年 度 は 、イ ン タ ー ン
シ ッ プ ・ プ ロ グ ラ ム の 中 に NPO コ ー ス が 残 っ て い る だ け で あ る 。
102
こ の NPO 分 野 の イ ン タ ー ン シ ッ プ ・ プ ロ グ ラ ム は 全 国 初 の 試 み で あ っ た 。
47
に 立 ち 、こ の 講 座 は「 橋 渡 し 」、あ る い は 視 点 の 転 換 が な さ れ る 講 座 で あ る 。そ れ ぞ れ の プ
ログラムのねらいは、山口氏によると、次のように整理される。
表 3
講座名称
N PO ス ク ー ル の 講 座 群 概 要 1 0 3
ねらい
実施期間
対象
定員
Learning in a NPO
ボランティア・
大学生・
・問題解決より発見能力を学
約 1 ヶ月
スタディプログラム
60 名
大学院生
ぶ(自分と社会を結ぶ)
Learning about a NPO
・ NPO の 活 動 を 系 統 的 ・ 実 践
学部 2 回生
インターンシップ・
的に学ぶ(現場を持つ)
約半年〜1 年
以上・
40 名
プログラム
・組織の一員として働き、必
大学院生
要な技術と能力を知る
Learning for a NPO
コミュニティ・ビジネ
・社会的に成熟した担い手の
3 ヶ月〜4 ヶ月
広く一般
40 名
ス&サービス講座
育成(実践家養成)
学部 2 回生
Leaning with a NPO
NPO ス ト ラ テ ジ ー ・
・「 実 践 」 に 役 立 つ 論 文 執 筆
半年
以上・
40 名
プログラム
(研究者養成)
大学院生
同 財 団 は 、N P O ス ク ー ル の 各 プ ロ グ ラ ム の ほ か 、企 業・行 政 な ど へ の イ ン タ ー ン シ ッ プ ・
プログラムも提供しているが、それは単純な就業体験の場として捉えるのではなく、事前
と事後学習を組み合わせた「教育プログラム」として行われている。具体的にそれはコー
オ プ 型 教 育( c o - o p e r a t iv e e d u c a t i o n )と 呼 ば れ る も の を 志 向 し た も の で あ っ た 。山 口[ 2 001:
p . 71 ] に よ る と 、 コ ー オ プ 型 教 育 は 、 イ ン タ ー ン シ ッ プ 経 験 を も と に 、 学 生 個 々 の 専 門 分
野、職業選択、能力開発、個人的関心に基づいて地域と大学が協同で提供する「学校外の
学びのプログラム」である。
NPO ス ク ー ル で の 学 び は 、こ う し た 大 き な 志 向 性 に 基 づ き 、概 ね ど の 講 座 も 次 の よ う な
フ ロ ー で 展 開 さ れ る 。 ( 1 )事 前 学 習 で NPO に 関 す る 基 礎 知 識 を 習 得 し た 後 に 、 現 場 の 実 践
103
本 表 は 、山 口 洋 典 ・ 渥 美 公 秀 ・ 新 野 豊 に よ る 2 00 3 年 度 日 本 N PO 学 会 大 会 発 表「 専 門 性
あ る NPO 分 野 の 人 材 育 成 ‐ 講 座 形 式 に よ る NPO 教 育 の ジ レ ン マ か ら 」 で の 配 布 資 料 及 び
山 口 [ 20 03b: p.382] の ほ か 、 同 財 団 発 行 パ ン フ レ ッ ト に 基 づ き 、 筆 者 が 作 成 し た 。
48
者 の ゲ ス ト 講 義 を 交 え つ つ ケ ー ス ス タ デ ィ を グ ル ー プ で 行 い 、N P O を 考 え る 視 点 を 増 や し
て い く 、 (2)そ の 後 、 OB/ O G と の 交 わ り を 得 つ つ 、 イ ン タ ー ン 先 の す り あ わ せ ( マ ッ チ ン
グ)を経て、インターンとして現場活動に入る。現場活動期間中も毎週あるいは隔週に一
回 で ス ク ー リ ン グ が 実 施 さ れ 、イ ン タ ー ン 生 同 士 の 体 験 や 問 題 意 識 を 共 有 す る 。(3 )そ う し
て 時 間 を か け て な さ れ た 現 場 活 動 後 に 、事 後 学 習 と し て 、個 々 人 の 気 づ き や 学 び を 整 理 し 、
プレゼンテーションを行ったり、プロジェクト型企画立案やその実施したり、また講義を
受 け て 、 学 び を 発 展 さ せ て い く ( 山 口 [ 20 01: p .7 2]、[ 2 00 3b: p .38 1])。
現 場 活 動 で は 、「 団 体 活 動 を 『 知 る 』、 団 体 実 務 を 『 補 助 す る 』、 組 織 活 動 に お い て 『 企 画
を 立 て る 』、立 案 し た 企 画 を『 実 践 す る 』、そ し て レ ポ ー ト 作 成 を 通 じ て『 ま と め る 』」と い
う 5 段 階 の 学 び が あ る ( 山 口 [ 200 1: p .72])。
こ う し て 学 び を 、座 学 と 実 習 の 二 つ に 分 離( そ し て 乖 離 )さ せ ず に 、行 き 来 さ せ 、
「混ぜ
合 わ さ っ た ( i n t e r mi n g le d )」 形 式 を と っ て い る 点 で 、 こ の プ ロ グ ラ ム は 「 教 室 」 が ベ ー ス
で は な く 。「 現 場 」 が ベ ー ス で あ る こ と が よ く 分 か ろ う 。 現 場 で 実 践 し て い る リ ー ダ ー は 、
活動しながら、同時併行で(迷い悩みつつ)体験や読書など様々な方法で日々の活動を向
上/前進させるべく学習し、活動に取り組んでいるが、インターン生もまた、そうした学
び の ス タ イ ル を と る わ け で あ る 。山 口 氏 は 講 座 の プ ロ グ ラ ム デ ザ イ ン の 際 、
「学生時代に自
分が市民活動の中で経験した葛藤プロセスを再生産する」という視点で行ったと述べてお
り、現場ベースとなっているのは、こうした経緯を考えれば当然である。
NPO ス ク ー ル で は 、 イ ン タ ー ン 生 を 「 無 償 の 非 常 勤 職 員 」 と 呼 ん で い る が 、 こ れ は 現 場
ベースを象徴的に表しているように思われる。
「 学 生 な の で 、イ ン タ ー ン 生 な の で … 」と い
う教室ベースの甘えを良とせず、しっかり現場ベースでこの学び活動に取り組むことの必
要性を提示した言葉に他ならないからである。
なお、この「無償の非常勤職員」という言葉は、受入団体にも向けられている言葉であ
る 。 一 般 的 に N P O や ボ ラ ン テ ィ ア 団 体 で は 、 イ ン タ ー ン 生 を 「 戦 力 外 選 手 」と し て 、 時 に
「お手伝いさん」や「お客さん」として扱う傾向がある中で、非常勤職員というある意味
で「正規」に位置づけることを明確に求めているのである。もちろん、実態としては、正
規選手と戦力外選手の間のような位置づけとなるが、マインドとして「正規」の位置づけ
をインターン生に与えることで、
「 学 生 だ か ら 、イ ン タ ー ン 生 だ か ら … 」と 甘 や か す こ と を
良としなくなるのである。
こ の よ う な N P O ス ク ー ル の プ ロ グ ラ ム で 育 む 力 は 、次 の 6 つ で あ る と い う( 山 口[ 20 03a:
p p .17 -1 8])。
「 生 活 力 」、「 実 行 力 」、「 発 想 力 」、「 技 術 力 」、「 組 織 力 」、「 決 断 力 」1 0 4。 幾 つ か 、
補足を行えば、生活力は、自らの生活経験を活かしながらキャリアデザインを考え、生計
104
筆者が今の学生に一番必要だと考える力について尋ねたところ、山口氏は「事態を評
価し、選択肢をそろえて、判断をくだすことができる決断力だ」と述べた。岡田氏、佐藤
氏、山口氏の三人ともが、意思決定力や判断力を主たる問題として指摘している点は興味
深い。こうした力がついてこなかったのはなぜかを今後より精緻に考えていきたい。
49
を立てていこうとする力、実行力は、自ら何かを始められる力、組織力は組織化を行える
力を指している。この 6 つの力は、山口氏が自分自身の経験を抽象化しつつ、同時に社会
起業家育成を目指すコミュニティ・ビジネス&サービス講座で招聘するゲスト講師がそれ
ぞれ、
「 ど う い う 力 が 飛 び ぬ け て い る の か ? 」と い う こ と を 整 理 し 、そ の 結 果 と し て 浮 か び
上がったものである。
山 口 氏 は N P O ス ク ー ル の 一 連 の プ ロ グ ラ ム 開 発 に 従 事 し て き た 当 事 者 で あ る が 、 NP O
スクールを立ち上げていった思いは、
「 自 分 た ち を『 特 殊 』な 人 間 と し な い た め 」で あ っ た
と 述 べ て い る 。山 口 氏 の 世 代 は 、学 生 時 代 に 阪 神・淡 路 大 震 災 や ナ ホ ト カ 号 重 油 流 出 事 件 、
気 候 変 動 枠 組 み 条 約 第 3 回 締 約 国 会 議 ( C O P 3) と い っ た 、 N P O 分 野 を 活 性 化 さ せ た 「 特
別な出来事」が続き、その中で意識が覚醒され、能力を高めていったのであったが、大学
学部の卒業を控えた時に、自分たちが「特殊」であったということに終始すれば、活動は
継 続 さ れ ず 、「 や り っ ぱ な し 」 と な っ て し ま う と い う 危 惧 が 生 じ た の で あ る 1 0 5 。 こ の 危 機
感 が NPO 分 野 で の 人 材 育 成 へ と 向 か わ せ 、 NPO ス ク ー ル へ と 結 晶 化 し て い っ た 。 こ の 点
で 、N PO ス ク ー ル が 、実 際 に 問 題 解 決 行 動 に 参 加 す る こ と 、あ る い は 起 こ す こ と に こ だ わ っ
ている理由が見えてこよう。
な お 、ボ ラ ン テ ィ ア・ス タ デ ィ プ ロ グ ラ ム 以 外 は 、休 暇 に 関 係 な く 実 施 さ れ る 。こ れ は 、
「『 休 み だ か ら す る 』 の で は な く 、 日 常 の 生 活 の リ ズ ム と ス タ イ ル の 中 に NPO を 組 み 込 ん
でもらいたい」とのねらいがあったからだと述べている。いかにして、講座から日常の生
活のリズムとスタイルに継承するのかということは、講座形式(引いては学校の中での学
び)では常に付きまとう問題であり、日常の時間の流れを意識した点は興味深い。
4 - 2.「 N PO ス ク ー ル 」 の 特 徴 と 考 察
NPO ス ク ー ル か ら 学 べ る 運 営 面 で の 特 徴 と し て は 、 次 の 三 点 が 示 せ る 。
一 つ 目 は 、N PO と の 共 同 開 発 管 理 志 向 を 徹 底 し て 行 っ た と い う 点 で あ る 。NPO ス ク ー ル
は 1 99 8 年 の イ ン タ ー ン シ ッ プ・プ ロ グ ラ ム 以 来 、
「 地 学 協 働 」を 掲 げ 、地 域 で 活 動 す る N P O
との協働を通じて、プログラム開発や運営管理を行ってきている。
それは「受入先にジョブディスクリプション(職務記述書)をつくってもらうことから
始 ま る 。協 働 の プ ロ グ ラ ム で あ る こ と を 常 に 発 信 し て い る 」と 山 口 氏 が 述 べ て い る よ う に 、
全体のプロセスを共有しているのである。現場活動が始まる前からの関わりは、インター
ン先の確定にあたっても、事務局と学生だけではなく、受入団体も交えて行われるところ
でも明らかである。事後も受入団体交流会を設け、プログラムの改善が協働でなされてい
くのである。
また、プログラム開発や運営管理は、受入団体とだけ行われるのではなく、インターン
105
こ う し た 思 い は 、 取 り 組 ん で き た 事 柄 は 異 な っ て い た が 、「 特 別 な 出 来 事 」 に 覚 醒 さ れ
たという点で共通する同世代の仲間(例えば、赤澤清孝氏や内山博史氏)と共有されたも
の で あ り 、そ の 後 の N P O ス ク ー ル は 、そ う し た 仲 間 と 協 働 し て 実 施 さ れ て い く の で あ っ た 。
50
生 や そ の OB/OG と も な さ れ る 。 提 供 さ れ る プ ロ グ ラ ム で 満 足 で き な い 時 は 、 自 主 的 に プ
ログラムを補完する取り組みを行うことを促しており、そのサポートを事務局が行うこと
を可能としている状態であることも、そうした共同開発管理志向の表れである。また、プ
ロ グ ラ ム 終 了 後 に 、 OB/O G に メ ン タ ー と し て 事 前 学 習 や 事 後 学 習 の 場 面 に 顔 を 出 し て も
らっている点は分かりやすい例であろう。
山口氏は共同開発管理志向を徹底するということは、事務局・受入団体・インターン生
の 間 を 区 分 し て し ま う 「 線 を 引 か な い 」 と い う こ と で あ り 、 全 体 で 一 つ の 「 学 び の N PO」
として捉えるということであると述べている。
なお、分かりやすく共同開発管理志向が顕現化したのが、ボランティア・スタディプロ
グ ラ ム を き ょ う と 学 生 ボ ラ ン テ ィ ア セ ン タ ー が 、そ の 他 の 講 座 を き ょ う と N PO セ ン タ ー が 、
協 働 の パ ー ト ナ ー と し て 、同 講 座 の コ ー デ ィ ネ ー シ ョ ン を 行 っ て い る と い う こ と で あ ろ う 。
これが二点目の特徴である。
二つ目の特徴は、参加者と年齢の近い「外部」の人間へコーディネーター権限を委譲し
た 点 な の で あ る 。き ょ う と 学 生 ボ ラ ン テ ィ ア セ ン タ ー や き ょ う と N P O セ ン タ ー の ス タ ッ フ
が、コーディネーター権限をもつことで、教員でも大学職員でも、受入れ先でもない中間
的な「第三者的」だからこそ言えることが出てくるし、既存/内部の枠にとらわれずに事
業を展開できたのである。
コーディネーターが委譲された権限を最大限に活かしたことには、委譲した総合コー
デ ィ ネ ー タ ー の 中 村 正 ( 立 命 館 大 学 産 業 社 会 学 部 助 教 授 [ 当 時 ] 106) と コ ー デ ィ ネ ー タ ー
と の 関 係 性 が あ る 。基 本 的 に 中 村 は「 守 っ て く れ る 、逃 げ な い 」と い う 姿 勢 で コ ー デ ィ ネ ー
タ ー を 支 援 し た の で あ る 107。
また、コーディネーターが若いことで、学生にとっては、身近なロールモデルとなると
同時に、相談相手ともなり、ピア・エデュケーションの様相を見せたこともあったと山口
氏は述べている。
最後の一つも、一つ目の共同開発管理志向と関係しているが、受入団体の共同開発管理
志向を高めるべく、受入団体にもメリットのある学びのフローを含めた点である。
受入団体は、通常、何らかの「課題」を運営上、抱えながら活動している。しかし、多
くの場合、その課題について整理できていない。そこで、インターン生は現場活動を通じ
ながら、問題を記録し、言語化することに取り組むことになっている。そして、記録をも
とにした発表とその課題を整理する議論をスクーリングにおいて行い、そこで見えてきた
問 題 に 対 し て 、受 入 団 体 と イ ン タ ー ン 生 は 協 働 で 問 題 解 決 に も 取 り 組 む 、こ の よ う な フ ロ ー
106
現在は立命館大学大学院応用人間科学研究科教授
こ の 姿 勢 、 そ し て 「 暇 じ ゃ な い の に 時 間 を さ い て く れ る 」 こ と な ど か ら 、「 ス タ ッ フ が
先生に『嘘』をつかせたくない」という思いがわき、言ったことは実現する、といった規
範 が で き あ が っ た そ う で あ る 。 な お 、 N PO ス ク ー ル で の 中 村 の 役 回 り は 、「 経 験 を 社 会 的
な も の に し て い く 」「 大 学 / 学 問 と の 接 続 」「 仕 掛 け 人 の 経 験 を 没 人 称 化 し 、 プ ロ グ ラ ム 化
していくエッセンスを提示する」といったものが挙げられた。
107
51
が 、 NPO ス ク ー ル の 講 座 に は 含 ま れ て い る 。 こ う し た 展 開 は 、 う ま く い け ば 、 組 織 マ ネ ジ
メントへ大学での専門性や学問的成果が反映されることにもなり得よう。もちろん、実際
に 全 て の 派 遣 事 例 で こ の 展 開 ど お り に 行 わ れ る こ と は 少 な い 。 し か し 、「 言 わ れ て み る と 、
そ う い う こ と だ っ た の か 」 と い う レ ベ ル で の 指 摘 は 多 く の 場 合 で な さ れ て い る よ う だ 108。
ま た 、 イ ン タ ー ン 生 の 「 レ ポ ー ト 集 」 を ま と め る こ と も 、 NPO に と っ て メ リ ッ ト が あ り
得 る と 考 え て い る 。山 口 氏 は レ ポ ー ト 集 が ま と め ら れ る こ と に よ っ て 、
「 受 入 先 同 士 が 、相
互にどんなことをやっているのか、どんな指導を行っているのかを見る機会になる」と述
べ た 上 で 、「 N P O ス ク ー ル が ネ ッ ト ワ ー ク を 生 む 」 き っ か け と な る こ と を 目 論 ん で い る こ
とを示してくれた。どういった内容であれ、受入団体にもメリットを、という考え方は極
め て 重 要 で あ る 。 NPO は 教 育 を 主 た る 目 的 と し た と こ ろ で は な い 。 日 々 、 問 題 解 決 の た め
の活動に忙しく取り組んでいるわけで、そうした日々忙しく取り組む事柄に貢献しない事
柄は、プライオリティが低く位置づけられやすい。教育プログラムが低く位置づけられな
いようにするには、日々の活動にフィードバックされる必要があることは当然であろう。
次 に 、 NPO ス ク ー ル か ら 学 べ る 「 学 生 と の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 」 の 面 で の 特 徴 と し て 、
これまで紹介した事例で見られた事柄以外のことでは、次の四点が示せる。
一つ目は、マッチングの際に、インターン先で「何をしたいか?」ではなく「何をすべ
き だ と 考 え る か ? 」と い う 問 い を 投 げ か け 、問 題 意 識 を 高 め て い る 点 で あ る 。こ れ は 、マ ッ
チ ン グ 段 階 で「 学 び た い 」と 思 っ て い る だ け の 団 体 に は 行 か さ ず 、
「 な ぜ そ の 団 体 か ? 」と
い う 問 い に 対 し て 、十 分 な 答 え が で き る 団 体 に 行 か せ る と い う も の で あ る 「
。学ぶべきこと」
が 見 え て い な い ま ま 、 現 場 に 入 っ て も 、 し っ か り と 現 場 を 見 る こ と が で き ず 、「 現 場 体 験 」
からの学びが薄くなってしまうと考えられるためである。
二つ目は、参加者同士の中にモデル関係やライバル関係といった関係性を発生させてい
る点である。常に、他の参加者と自分と比べ、自分の「位置」を相対化することを参加者
に 促 し て い る 1 0 9 。 そ う す る こ と で 、「 あ ぁ 、 僕 は 本 を 読 ん で い な い 」 と か 「 あ い つ よ り 動
け て い な い 」、「 あ の 人 み た い に な っ て み た い 」 と い う 自 覚 が 発 生 し 、 い い 意 味 で の 競 争 が
生 ま れ る の で あ る 。( 一 見 、 逆 説 的 で あ る よ う だ が ) こ う し た 「 相 対 化 」 の た め に も 、 多 様
な動機の参加者を歓迎しているとのことである。
108
大学コンソーシアム京都が発行しているインターン生のレポート集には、そうした指
摘がなされているのを垣間見ることができる。
109
筆者は、自らが受入団体担当者を務めていた際、前年度インターン生にピア・サポー
タ ー と し て 、 相 談 相 手 役 を 担 っ て も ら っ た が 、 イ ン タ ー ン 生 に と っ て 、 OG /OB は 、 常 に 自
分と「比較対照する相手」であったと、最後の振り返りの際に筆者に述べている。また、
筆者が活動していた団体は学生主体であったため、インターン生と同じ年齢の学生が、中
心 的 な 役 割 を 果 た し て い る こ と も 多 い 。2002 年 度 イ ン タ ー ン で は 、そ う し や 同 年 齢 で 中 心
的役割を担っていたメンバーと、インターン生、ピア・サポーター、筆者で週に一回のゼ
ミを開催していた。このゼミ活動を通じても、自分の位置の相対化が進み、学習意欲が高
まっていったことが観察された。もちろん、こうした相対化はニヒリズムを生みかねず、
そこはスーパーバイザーが十分に留意しなければならない。
52
三 つ 目 は 、「 イ ン フ ォ ー マ ル な 関 係 1 1 0 」 も 重 視 し て い る 点 で あ る 。 筆 者 が 行 っ た 「 学 生
への働きかけの中で、伸びた学生とそうでない学生を分けたものは何か?」という質問に
対 し 、山 口 氏 は「 食 事 を 共 に す る な ど 、
『 オ フ の 時 間 』を 共 に し た か ど う か と い う こ と が 挙
げ ら れ る 。」と 述 べ 、イ ン タ ー ン 以 外 の 部 分 で 互 い に 知 り 合 う こ と で 、深 い 人 間 関 係 へ と 進
展し、そのことが関心や意欲をより高めるという構図を示した。そして、こうした「オフ
の時間」を提供するような「ホーム・ホスピタリティ」が重要ではないかとまとめてくれ
た。
四つ目は、学校や学年を始めとする属性を超えた「学びのコミュニティ」を形成させて
いるという点である。属性に囚われず、関心を共有するメンバーで生まれる学びのコミュ
ニ テ ィ は 、問 題 意 識 の 高 さ で 足 並 み が そ ろ い 、二 つ 目 の 特 徴 を 支 え る こ と に な る 。同 時 に 、
異なる属性の人間との協働作業や共通体験は、世界観の拡張にもつながるものであろう。
ただし、旧来の地域の共同体が所与の時空間がその共同性を担保していたのに対して、
学びのコミュニティには「所与の共同性」がほぼない。学びのコミュニティが機能するた
めには、共同性が構築される必要があり、スクーリングなどの機会を通じて、共同性を構
築 す る た め の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン が 交 わ さ れ る の で あ る 。 そ う し た 、「 構 築 さ れ る 共 同 性 」
( 阿 部 [ 199 9b: p.13 6 ]) は コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン の 停 止 と と も に 、 機 能 不 全 と な る 点 は 注 意
しなければならない。折角、形成された「学びのコミュニティ」が講座の終了に伴って、
解消されるのではなく、必要に応じて継続されていくことを、学生や事務局、受入団体そ
れぞれが仕掛けていく必要があろう。
な お 、今 後 の 課 題 と し て は 、
「 制 度 化 」を ど う 克 服 す る の か 、と い っ た こ と が 挙 げ ら れ た 。
具体的には、
「 質 か ら 量 へ 」と 主 な 要 求 が 変 わ っ て く る 中 で 、手 間 隙 が か か り す ぎ る 現 在 の
シ ス テ ム を 変 え て い く 必 要 が あ る と い う こ と で あ る 。 ま た 、「 質 か ら 量 へ 」 と い う 流 れ は 、
受入団体の数の確保のため、受入団体に求められる要件が下がることへもつながりかねな
い 。「 N P O で あ れ ば ど こ で も 良 い 」 な ど と い う こ と は 、 絶 対 に あ り 得 な い こ と で あ り 、 余
り要件を下げすぎると、教育プログラム全体の水準が低下してしまう。それでも、数を増
や す の で あ れ ば 、受 入 団 体 の ス キ ル ア ッ プ に つ い て の 支 援 を 考 え な け れ ば な ら な い だ ろ う 。
また、制度化が進む中で、官僚的になり、教員でも職員でもない「中途半端な存在」を
受け入れられにくくなっており、
「 間 」に 立 つ 自 由 度 の 高 い コ ー デ ィ ネ ー タ ー が 不 在 と な っ
て い る と い う こ と で あ る 。制 度 化 が 進 む 中 で 、
「 責 任 」を 厳 密 に 定 義 し だ す と 、中 間 に 立 つ
「中途半端な存在」へはリスクヘッジの中で、権限が委譲されなくなってくる。しかし、
自発的で思いのある第三者の発想や取り組みが、プログラムを改善し、充実させていくこ
と を 、 こ れ ま で の N PO ス ク ー ル の 「 成 功 」 は 教 え て く れ て い る こ と を 忘 れ て は な る ま い 。
他 に は 、以 上 の 二 つ と も 関 係 し て い る が 、コ ン テ キ ス ト( 文 脈 )よ り コ ン テ ン ツ( 項 目 )
110
全くのプライベートではないことを考えると、フォーマル/インフォーマルの間に位
置する「セミフォーマル」と言った方が正しいかもしれないが、ここではインタビューで
の発言を尊重した。
53
を重視した、官僚的な型にはめたようなプログラム提供という現象が見られる点も課題と
な っ て い る ( 山 口 [ 200 3b : p.38 6 ])。 こ れ は 、 教 室 ベ ー ス へ の 逆 流 に 他 な ら な い 。 相 互 作
用を無視して、型にはめるのではなく、型が形成されていく、動態的な学びの場づくりが
求められてこよう。学生が変わる、体験活動も変わる、時代も変わるという中で、何をい
つ学ぶのか、ということは完全にパッケージ化され得ないはずであろう。どのように「フ
レキシビリティある学びの空間」を維持していくのかは難しいが重要な課題であろう。
な お 、 NPO ス ク ー ル の 取 り 組 み は 、 筆 者 の 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 が 目 指 す 「 共 生 の 技 能
と作法の体得」
「討議能力とそれを支える批判的知性の形成」
「市民的問題解決行動の形成」
といった三つの目標から考えると、
「 市 民 的 問 題 解 決 行 動 の 形 成 」に 重 点 が 置 か れ 、事 前 /
事後の学習内容次第で、その他の目標へも重みが変わってくるという感じであろう。
5. 新 た な 教 育 実 践 の 特 徴
前節までにおいて三つの事例を紹介し、授業段階での工夫やプログラム運営面での工夫
について、考察を行ってきたのであるが、こうした事例に共通している事柄や、また(中
等教育での)市民的リテラシー教育を構想していく上で参考になりそうで点として、以下
の 7 項目を挙げ、本章のまとめとする。なお、こうした 7 つの特徴は本論文の結論の一部
ではあるが、これを満たせば必ず成功するというものでもない。コンテクストの中で、満
たされるべき事柄が変わってくるのは当然である。
( 1 )参 加 者 同 士 の 相 互 作 用 の 重 視 が 一 点 目 で あ る 。い ず れ の 事 例 に お い て も 、教 員 が 何 か
を教え、教授内容を確認する問題を出し、個々人で解く、といった従来の教育スタイルを
採っていなかった。グループワークによって、参加者同士で学び合い/教え合い、相互に
刺激を与え合いながら、問題解決を進めていくスタイルが見られた。
( 2 )基 本 的 に は 、 学 習 項 目 を 生 徒 に 依 存 し て い る 点 が 二 点 目 で あ る 。 も ち ろ ん 、 知 識 と し
て様々なことが教え、問題意識の刺激や掘り起しはなされるが、プログラム全体を通じた
何を学ぶのかは、生徒のグループワークの結果次第というところで、生徒に依存している
と言える。グループワークの中から何を学ぶのかは、誰かが決められるものではないし、
決 め つ け て は な る ま い 111。
( 3 )「 答 え 」 を 必 ず し も 教 員 が 有 し て い な い 問 題 を 取 り 扱 っ て い る 点 が 三 点 目 で あ る 。 こ
れ は 二 点 目 と も つ な が る が 、一 連 の 事 例 は「 答 え 」を 創 り 出 し て い く 学 習 で あ り 、そ の「 答
え」は用意されたものに辿り着くというものではない。お茶の水女子大学附属小学校の学
習問題例は、いずれも教員の答えが唯一絶対と言えないものばかりであろう。
111
学 校 教 員 の 多 く は 、 グ ル ー プ ワ ー ク の 後 に 、「 今 日 は こ ん な こ と を 学 び ま し た ね 」 と 意
味づけてしまう傾向がある。しかし、そういった意味づけは、生徒が自分たちで気づいた
こ と と 合 致 し て お れ ば 問 題 は な い が 、ず れ て い た 場 合 、
「 価 値 判 断 の 押 し 付 け 」と な っ て し
まう。その点で、グループワークへの意味づけ(解釈作業)を行うことには、相当の力量
が必要であるし、易々と行うべきものではない。なお、プログラムのパッケージ化は、こ
うした価値判断の押し付けを助長する危険性が多分に含まれている。
54
( 4 )「 行 動 の た め の 座 学 」 と い う 座 学 の 位 置 づ け が 四 点 目 で あ る 。 こ こ で い う 行 動 は 、 グ
ループワークで議論する、というものも含めた広義での問題解決である。座学が活用され
る 場 面 を つ く る こ と で( 時 に 場 面 が 先 立 つ )、な ぜ こ の こ と を 学 ん で い る の か が 、明 確 に 理
解 で き 、 積 極 性 を 促 せ る の で あ る 。 NPO ス ク ー ル の 事 後 学 習 の よ う に 、 行 動 体 験 を 整 理 す
るための座学は、より座学のそうした位置づけがクリアなものである。
( 5 )学 び が 実 際 の 社 会 と つ な が っ て い る と い う の が 五 点 目 で あ る 。そ れ は 、学 校 の 外 へ と
出て行くということも含まれるし、学校の中での学びもそれが言えよう。教科書では取り
上げられない、
「 ど ろ ど ろ し た 生 々 し い 現 実 」の 問 題 や 現 場 に 生 徒 は 衝 撃 を 受 け 、ま た 関 心
を持つのではないかと、筆者は考える。なお、現行の教科書のように、社会の汚れた部分
を見せない内容というのは、そうした問題の隠蔽に他ならない。そうした問題を提示した
上 で 、問 題 と ど う 向 き 合 う( = ど の よ う に 問 題 構 造 を 把 握 し 、問 題 解 決 策 を 提 示 し て い く )
のかを投げかけていく必要があるのではないだろうか。
( 6 )学 校 外 部 と の 深 い 協 働 が 六 点 目 で あ る 。 い ず れ の 事 例 も 外 部 資 源 ( 特 に 地 域 資 源 ) と
の 協 働 の 中 で 、 プ ロ グ ラ ム を 運 営 し 、 実 施 し て い る が 、 そ の 際 、 NP O ス ク ー ル の よ う に プ
ロ グ ラ ム 開 発 と い う 初 期 段 階 か ら 外 部 と 協 働 を す る こ と は 、重 要 で あ る よ う に 思 わ れ る 112。
初 期 段 階 か ら 手 を 組 み 、 し か も 権 限 を 外 部 に も 委 譲 す る 「 深 い 協 働 」 113で は 、 協 働 の パ ー
ト ナ ー 同 士 の 相 互 理 解 や ね ら い の 入 念 な 摺 り 合 わ せ が 促 さ れ 、結 果 、教 育 プ ロ グ ラ ム が「 学
校 の も の 」で は な く 、
「 地 域 の も の 」へ と な っ て い く の で あ る 。教 員 に は 、こ う し た 外 部 と
の深い協働の「音頭をとる」統括コーディネートの役割を果たしていくという、新しい職
能が求められる。
(7)市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 を 学 校 全 体 の 取 り 組 み と 見 做 し て い る と い う の が 七 点 目 で あ
る。岡田氏が述べた、市民的リテラシーの形成は、特定の教科だけでなされるものではな
く 、様 々 な 教 科 の 中 で 取 り 組 ま れ る べ き も の で あ る と い う 意 見 は 、山 口 氏 か ら も 聞 か れ た 。
山口氏は今後の学校における市民教育で必要なことは、
「 既 存 の カ リ キ ュ ラ ム を『 市 民 教 育
化 』 す る と い う 方 向 性 を 持 つ 」 こ と だ と 述 べ た 114。 こ の 指 摘 は 、 こ れ ま で の 学 校 が 「 崇 高
な 教 育 理 念 」を 掲 げ て い て も 、
「 縦 割 り カ リ キ ュ ラ ム 」故 に 、学 校 全 体 の 取 り 組 み と な っ て
いないことを考えると、意味深い指摘である。
従 来 の 教 育 は ( と 一 括 り に 論 じ る の は 乱 暴 に 過 ぎ る と の 批 判 も あ ろ う が )、 多 く の 場 合 、
112
松本市立山辺中学校は「総合的な学習」の時間を、ドリーム大学と名づけ、プログラ
ム や 授 業 内 容 を 地 域 の 人 と 協 働 で つ く っ て お り 、こ う し た 動 き は 既 に 実 践 さ れ だ し て い る 。
113
「 深 い 協 働 」 と い う 言 葉 は 、 協 働 の た め の 企 業 ・ 自 治 体 の 視 点 か ら の NPO 評 価 研 究 会
編 『 企 業 ・ 行 政 と N PO の よ り 深 い 協 働 を め ざ し て 』( 地 球 産 業 文 化 研 究 所 、 2 00 4 年 : 筆 者
は 調 査 担 当 者 / 分 担 執 筆 者 ) に お い て 用 い ら れ た も の で あ る 。 ハ ー ト [ 20 00: p p .41 -5 0]
の「参画のはしご」で言えば、仕事を任されるが、情報は一方的に与えられるような第 4
段の参画ではなく、一緒にルールや意思決定の方法を決め、実施するような第 8 段の参画
を目指すということである。
114
長 沼 豊 氏 は こ の 点 に 関 す る 、 筆 者 の イ ン タ ビ ュ ー に 対 し 、「 い き な り 全 て の 教 育 内 容 /
方法を変えることは(教員の力量不足もあり)できない。取り組みやすいところから取り
組む」という切り崩しが戦略的には必要だと述べた。
55
以 上 の よ う な 特 徴 は 見 出 せ な か っ た と 思 わ れ る 。 佐 伯 [ 1 99 5: pp .2- 4] は 、「 従 来 の 学 習 観
、、
では、学習とは、学習者個人が、頭の中に、特定のまとまりをもった知識や技能を獲得す
る こ と だ 、 と し て い た 」 と 述 べ ( 佐 伯 [ 前 掲 書 : p .2])、 そ れ は 座 学 を 中 心 と し た 学 習 を も
たらし、
「 紙 と 鉛 筆 に よ っ て 問 題 を 解 か せ る 」こ と で 評 価 さ れ て き た も の だ と 整 理 し て い る
( 佐 伯 [ 前 掲 書 : p .3 ])。 ま た 、 こ う し た 学 習 観 で の 教 育 は 、「 子 ど も が 学 習 時 に 入 り 込 ん
で し ま う 個 別 的 で 具 体 的 な 文 脈 」を 無 視 し た も の で あ っ た と も 述 べ て い る( 佐 伯[ 前 掲 書 :
p . 4])。
このような学習観に立つ従来の教育では、学習は「学習のための学習」に終始するとい
う 様 相 を 呈 し が ち で 、個 々 人 の 意 識 を 覚 醒 し 、
「 そ の 人 ら し く 」社 会 に 関 っ て い く 市 民 的 リ
テラシーの形成は十分になされるものではなかろう。今回、明らかとなった新しい教育実
践の特徴は、こうした従来の学習を刷新する上で、多くの示唆を与えてくれるものではな
いかと考える。
以上のように、本章では、市民的リテラシーの形成に取り組む、新しい教育実践事例を
3 つ取り上げ、そこからどういった「学びのデザイン」の特徴を見出せるかを考察した。
次章では、今回明らかとした新しい教育実践に見られる特徴の整理を進めながら、一層
効果あるものとする上でどういったことを考えるべきか、という問いを立て、市民的リテ
ラシー教育の素描作業を前進させる。
56
第4章
市民的リテラシーを育む「学びのデザイン」
第 4 章では、第 3 章での事例研究で明らかとなった「学びのデザイン」の特徴について
の考察を深め、市民的リテラシー教育を実践していく際に、どういった点に留意すべきか
を明らかとする。
そこでまず、市民的リテラシー教育の実践を支える理論を検討する。そして、そういっ
た理論を実践化していく中での課題を、先の事例研究や筆者の実践経験を手掛かりに、明
ら か と す る 。こ う し た 手 順 に よ っ て 、具 体 像 を 一 層 ク リ ア な 状 態 に し て「 学 び の デ ザ イ ン 」
を提案したい。
1.市民的リテラシー教育の学びのスタイル
子どもの問題解決体験を重視し、そこで起こるグループでの学びから市民的リテラシー
を 形 成 し て い く と い っ た 、前 章 で 見 ら れ た「 学 び の 特 徴 」を 支 え て い る 理 論 / 思 想 と し て 、
本 論 文 で は デ ュ ー イ の 経 験 主 義 、 フ レ イ レ の 対 話 型 教 育 、 レ イ ブ &ウ ェ ン ガ ー の 状 況 学 習
論を挙げたい。まず、それぞれの理論を簡単に概観した上で、これらの理論を接合した学
習モデルの一例を(これまでの議論の整理として)紹介したい。
こうした理論の中に、市民的リテラシー教育の「学びのデザイン」に求められる基本的
コンセプトが見出せ、またその学びの場で求められるコミュニケーションのあり方が導き
出せるであろう。
1 - 1. 探 求 を 通 じ た 経 験 の 再 構 成
市民的リテラシー教育は、第 2 章 3 節で紹介したイギリスの市民教育や、前章でみた新
しい教育実践で明らかであったように、座学で終始するのではなく、何らかの体験を通じ
て 学 ん で い く と い う ス タ イ ル が 見 ら れ る 。こ う し た 、体 験 か ら の 学 び と い う 事 柄 に つ い て 、
理論的基盤を与えたのがデューイであった。
デューイは、経験主義教育を標榜した哲学者であるが、その目論見は「学校と社会の連
続性を回復し、学校を学びの共同体として再組織することによって、民主主義の社会を学
校 教 育 を 通 じ て 準 備 す る こ と 」( 佐 藤 [ 19 96 : p .1 9 ]) と い う も の で あ っ た 。 そ し て 、 そ の
ために、生活と密着した問題を主題として、協同での作業や経験を基礎においた活動的な
学びを提起したのである。
デューイが提起した学びは、一般に問題解決型学習といわれるが、それはデューイが、
すべての思考が次の 5 段階のパターンで進むと考え、そのプロセスを授業で実現したから
で あ る 。そ の プ ロ セ ス と は 、( 1)問 題 が 漠 然 と 認 知 さ れ る 、(2 )問 題 の 正 体 を は っ き り さ せ る 、
( 3 )解 釈 で き そ う な 考 え( 仮 説 )を 思 い つ く 、(4 )思 い つ い た 考 え に 含 ま れ る 意 味 や 関 連 を 明
ら か に す る 、 ( 5)観 察 や 実 験 に よ っ て 、 思 い つ い た 考 え ( 仮 設 ) が 正 し か っ た か ど う か を 検
証 す る 、 と い う も の で あ る ( 岡 崎 [ 2 001: p.4 8])。
57
このような問題解決型学習をデューイは「探求」と呼ぶのだが、これは以上のプロセス
が 、 反 省 的 思 考 ( r e f l e c t i v e t h i n k in g) で も っ て 「 経 験 を 再 構 成 す る 」 営 み と し て 行 わ れ る
と い う こ と を 意 味 し て お り 、「 体 験 す る こ と で 終 始 し な い 」 と い う 含 意 が あ る 。
そして、デューイは、こうした「学習経験」が学問的研究へと連続するものであること
と 、 ま た 「 探 求 」 を 共 有 す る 「 共 同 体 」 が 学 校 に 構 成 さ れ て ( 協 同 学 習 が 行 わ れ て )、 そ こ
で の 経 験 か ら 民 主 主 義 の 担 い 手 と し て 育 つ こ と を 重 視 し た の で あ っ た ( 佐 藤 [ 1 995 :
p p .55 -5 7 ])。 こ の 重 視 は 、 デ ュ ー イ の 経 験 主 義 が 知 性 的 社 会 的 な 性 格 を 色 濃 く 有 し て い た
ことがわかる。
この経験主義教育は、戦後間もない日本においては大々的に取り組まれたのであるが、
1 95 0 年 代 に は 、「 は い ま わ る 経 験 主 義 」 と 揶 揄 さ れ 、 経 験 主 義 教 育 へ の 批 判 が 高 ま る ( 小
玉 [ 20 03 : p p .15 2- 154 ])。 以 降 、「 子 ど も 中 心 の カ リ キ ュ ラ ム ( 経 験 主 義 教 育 )」 か 「 学 問
中 心 の カ リ キ ュ ラ ム( 系 統 主 義 教 育 )」か 、
「 学 び 」か「 教 え 」か 、
「 ゆ と り 」か「 詰 め 込 み 」
か、といった二項対立の論争が、繰り返し行われ続けている。
し か し 、 佐 藤 [ 19 95 : p p .55 -5 8 ] も 指 摘 す る よ う に 、 こ う し た 論 争 で の 経 験 主 義 へ の 批
判は妥当なものではない。なぜならば、デューイの教育哲学は「探求」による「経験の再
構成」に意味があるのだが、日本に
おいては、この「探求」という考え
具体的
方が論じられないままに経験主義が
経験
適応的
語 ら れ て い る か ら で あ る 115。ま た 子
拡散的
知識
知識
ども中心主義という語感から、個人
判もなされるが、これもまた「探求
能動的
の共同体」の中での学びという社会
実験
的性格への視点が抜け落ちた批判で
あ る 。デ ュ ー イ の 経 験 主 義 は「 学 び 」
直感による理解
決意による変化
拡大による変化
主義を招くのではないか、という批
内省的
観察
知識による理解
と「 教 え 」、
「 経 験 」と「 知 識 」と い っ
収束的
たものをつなぎ合わせ、より高次の
知識
教育を構想するものであったことを
同化的
抽象的
知識
概念
確認しておきたい。
デューイの問題解決学習での経験
が知識に変わっていくプロセスをコ
図 1
コルブの経験学習モデル
115
佐 藤[ 19 95:p .5 7]は 、デ ュ ー イ の 議 論 を 受 け て 、プ ロ ジ ェ ク ト・メ ソ ッ ド を 提 唱 者 し 、
子ども中心主義という考え方を示したキルパトリックの言葉である「なすことによって学
ぶ」という言葉がデューイのものだと日本で「誤解」されたことが、こうした的外れな議
論を招いたと指摘している。キルパトリックは、デューイの経験主義にある知性的社会的
性格を重視していなかったと、佐藤は述べている。
58
ル ブ は 経 験 学 習 モ デ ル と し て 示 し て い る ( 図 1) 1 1 6 。 こ う し た モ デ リ ン グ は 、「 知 識 に よ る
理解」がきちんと位置づけられていることからも分かるように、経験主義が「体験だけ学
習」ではないことを明確に示すものであろう。
こ の モ デ ル と 類 似 し た も の と し て 、E I A H E ’と 呼 ば れ る「 体 験 学 習 法 の 循 環 過 程 」モ デ ル
が あ る が ( 津 村 ・ 山 口 編 [ 1 99 2 : p . 6- 8 ])、 EI AH E ’ と は 、 Ex p er i e n c e ( 体 験 )、 Id en tify ( 指
摘 )、 An alyze ( 分 析 )、 Hypo th esize ( 仮 説 化 )、 Ex p er i e n c e ’ ( 試 行 ) の 頭 文 字 を と っ た も の
で、
「 何 か し て み る 」、
「 体 験 を 分 か ち 合 い 、何 が 起 こ っ た の か 、プ ロ セ ス を 見 る 」、
「どのよ
う に 、 な ぜ 起 こ っ た の か 、 プ ロ セ ス を 考 え る 」、「 体 験 か ら 学 ん だ こ と を 整 理 す る 」、「 学 ん
だことを踏まえて新しい体験へのプランを立て、実行する」という「体験から学ぶ」プロ
セ ス を 示 し て い る 。こ の 体 験 学 習 の 循 環 過 程 ( E IA H E’プ ロ セ ス )で は 、コ ル ブ の モ デ ル で「 内
省 的 観 察 」と な っ て い る 部 分 が 、
「 指 摘 」 と「 分 析 」 に 分 け て 考 え ら れ て い る 他 は 、 基 本 的
に は 同 型 の モ デ ル と 見 做 し て よ い で あ ろ う 117。
い ず れ に せ よ 、 こ の 経 験 学 習 で は 、 ウ ィ ル ソ ン &ジ ャ ン [ 20 04: pp.1 9-2 3 ] も 指 摘 す る よ
うに「振り返り」という、得た体験を吟味する作業が重要な位置を占める。それはデュー
イ が 「 探 求 」 と 呼 ん で い た 作 業 に 他 な ら な い 。 経 験 学 習 は 「 振 り 返 り 」( 探 求 ) が 十 分 に な
されるかどうかで、その意味が大きく変わることは、既に述べたとおりである。
以 上 が 、デ ュ ー イ の 経 験 主 義 、そ し て そ こ か ら 生 ま れ た 経 験 学 習 に 関 す る 概 観 で あ る が 、
前 章 で 紹 介 し た NPO ス ク ー ル で 、 こ の 流 れ が 貫 か れ て い る こ と が わ か ろ う 。 NPO ス ク ー
ル の 学 び は 、現 場 で の 問 題 解 決 体 験 に 取 り 組 み 、そ う し た「( 問 題 解 決 )経 験 の 再 構 成 」と
してスクーリングやレポート執筆がなされたのであった。
1 - 2. 対 話 を 通 じ た 問 題 の 意 識 化
次 に 、フ レ イ レ の 対 話 型 学 習 に つ い て 概 観 す る 。デ ュ ー イ の 経 験 主 義 の 影 響 を 受 け つ つ 、
より実際の社会/文化の中での状況や経験、そして実際の変革を重視したのがフレイレで
あ っ た ( 高 田 [ 2 001 : p . 82 ])。 フ レ イ レ が 主 張 し た こ と は 、 知 識 を 伝 達 / 注 入 す る 学 習 で
はなく、
「 対 話 に よ る 学 び 」を す べ き だ と い う こ と で あ っ た 。こ の 考 え は 、こ れ ま で 見 て き
た多くの事例で、グループでの話し合いが持たれている点で、つながっていよう。
フ レ イ レ[ 19 79]は 、知 識 を 伝 達 / 注 入 す る よ う な 、既 存 の 教 育 を「 銀 行 型 教 育( Bankin g
E d u c a t i o n)」 と 批 判 す る 。 教 員 が 持 っ て い る 知 識 を 一 方 的 に (「 沈 黙 の 文 化 」 の 中 で ) 切 り
売りして、
「 貯 蓄 」さ せ て い く 教 育 は 、抑 圧 的 状 況 を 生 み 出 し 、教 員 / 生 徒 の 垂 直 関 係 の 中
で 生 徒 は 服 従 の メ ン タ リ テ ィ を 育 て る も の だ と 見 抜 い た の で あ っ た 118。
116
出 所 は 北 欧 閣 僚 評 議 会 編 [ 20 03: p .4 4]。
日 本 の ワ ー ク シ ョ ッ プ に お い て は 、 コ ル ブ の 経 験 学 習 モ デ ル よ り も 、 E IA H E’プ ロ セ ス
の 方 が 一 般 的 に 説 明 に 用 い ら れ て い る 。な お 、E I A H E ’プ ロ セ ス は 、人 間 関 係 ト レ ー ニ ン グ
の分野で用いられ、その後、環境教育や国際理解協力などのオルタナティブ教育の分野へ
と広がっていた。
118
なお、フレイレによる用法ではないが、この「銀行」というメタファーは、知識を金
117
59
この銀行型教育に対し、フレイレは対話を通じた学び(対話型学習)を提案する。具体
的には、
「 問 題 提 起 型 教 育( Pr ob le m P o s in g Ed u c a tion)」と 呼 ば れ る も の で あ る 。教 員 が フ ァ
シ リ テ ー タ ー 119と し て 問 題 提 起 を 行 う な ど の 関 わ り な が ら 、生 徒 が 自 ら の 社 会 的 現 実 に 関
して対話/議論を行い、その過程で社会問題を「意識化」していくといった学びである。
ここでは教員は生徒の学習のサポート役であり、共同探求者であり、その関係は「水平」
的なものである。
こうしたフレイレの教育思想は、彼が抑圧的状況におかれた第三世界で識字教育に従事
し て い た こ と が 大 き な 意 味 を 持 っ て い る 120。 フ レ イ レ の 教 育 の 定 義 が 「 未 完 成 な 人 間 が 未
完成な世界に批判的に介在し、世界を変革することを通して自らを変革(解放)し続ける
終 わ り の な い 過 程 」( 池 住 [ 20 01 : p .1 0 ]) と い っ た エ ン パ ワ ー メ ン ト を 意 味 す る も の で あ
ることは象徴的であろう。しかし、フレイレの教育思想は第三世界にのみに有効なもので
は な く 、民 主 主 義 の 危 機 の 中 で 、
「 政 治 的 無 感 情 」へ と 陥 り か け て い る 現 代 日 本 社 会 に あ っ
ても、重要な意味を持とう。
以 上 が フ レ イ レ の 対 話 型 学 習 と い う 考 え 方 の ご く 簡 単 な 概 観 で あ る が 、前 章 で 紹 介 し た 、
....
教員が答えを持って、それを獲得するという学びではないという特徴とつながってくるも
の で あ ろ う 。ま た 、
「 コ ン テ キ ス ト に ま さ る テ キ ス ト は な い 」と い う 考 え 方 を フ レ イ レ は 有
し て お り ( 池 住 [ 前 掲 書 : p .1 5 ])、 こ の 考 え 方 が デ ュ ー イ よ り 実 際 の 社 会 と の つ な が り を
意識させていることも、市民的リテラシー教育との関係を考える上で、大事な点である。
1 - 3. 状 況 に 埋 め 込 ま れ た 学 び
最 後 に 、 レ イ ブ & ウ ェ ン ガ ー [ 1 99 3 ] に 代 表 さ れ る 「 状 況 学 習 論 」 に つ い て 概 観 す る 。
経験学習での学びを理論化したものであり、前章末にて整理した従来の学習観へのアンチ
テ ー ゼ と な る 学 習 観 を 提 示 し た 理 論 で あ る 。 レ イ ブ &ウ ェ ン ガ ー は 、 徒 弟 制 の 職 業 共 同 体
の 中 で 新 参 者 の 学 習 過 程 を 分 析 し 、従 来 の 次 の よ う な 学 習 観 を 退 け る 。
「 行 う 」こ と や「 成
長する」ことは、脱文脈的/系統的な知識獲得の後で可能になる、というものである。
藤 井[ 200 3: pp .1 60 -1 61]は 、レ イ ブ &ウ ェ ン ガ ー が 指 摘 し た 状 況 学 習 の 特 質 は 主 に 二 つ
銭的な「貯蓄」と同様に「いつか使うもの」と位置づけ、文脈から切り離して、知識をと
にかく詰め込んでしまうというスタイルの批判としても用いられることがある。こうした
批判もフレイレの批判と通底しているところも多いように思われる。
119
フ レ イ レ [ 1 979] の 本 文 で は コ ー デ ィ ネ ー タ ー と な っ て い る が 、 意 味 内 容 的 に は フ ァ
シリテーターという言葉がより相応しいと思われ、本論文ではファシリテーターとした。
120
実 際 の 識 字 教 育 で は 、 次 の よ う な 手 順 で 問 題 提 起 型 教 育 が 行 わ れ る ( 池 住 [ 2 00 1:
p p .11 -14])。 ( 1)民 衆 の 中 に 入 り 、 日 常 会 話 を 行 う 、( 2) 日 常 会 話 の 中 か ら 、 参 加 者 の 置 か
れ た 社 会 的 現 実 を 表 現 す る 言 葉 を 選 び 出 す 、( 3 )幾 つ か 選 ば れ た 言 葉 の 中 か ら 、発 音 が 難 し
く 、 且 つ 、 民 衆 の 日 常 経 験 か ら 切 り 離 せ な い 言 葉 を 「 生 成 語 」 と し て 決 め る 、 ( 4 )生 成 語 が
表 し て い る 具 体 的 な 状 況 を 絵 や ス ラ イ ド で 示 す ( コ ー ド 表 示 )、 (5)コ ー ド 表 示 さ れ た も の
について、ファシリテーターによって問題提起が行われながら、そこに関係する社会問題
に つ い て 討 議 す る 、 (6)生 成 語 と な っ た 単 語 に つ い て 、 音 節 ご と に 区 切 っ て 、 音 素 系 を 学 習
し た 後 に 単 語 と し て 学 ぶ 、(7 )こ の 時 に 習 っ た 音 素 系 の 記 さ れ た カ ー ド を 渡 し 、新 し い 言 葉
の習得を促す。
60
であるとして、次のようにまとめている。
第一は、ある職人たちの共同体に徒弟となった新参者は、その共同体の実践活動の周
辺的な業務であるものの、その共同体の正統な一員として、熟練者たちとその共同体の
実践活動における実際の業務に従事しつつ、その業務の遂行の仕方を学び、しだいに中
心的な業務に従事するようになるという特質であり、第二は、新参者が、しだいに中心
的な業務に従事するようになるにつれて、その共同体における実践活動の熟練者として
の、あるいは古参者としてのアイデンティティが形成されているという特質である。
( 藤 井 千 春 「 学 習 理 論 の 新 局 面 」、 2 00 3 年 、 p p. 160 -16 1)
新参者が、実践的な共同体へと周辺であるが正統的に参加するということを、レイブ&
ウェンガーは「正統的周辺参加」と呼ぶが、こうした指摘は、余りにも当然のことである
ように思われるかもしれない。しかし、学校での学びは、このような共同的な実践の中で
新参者と古参者が学び合うことは、クラブ活動を除いてほぼないであろう。なお、新参者
と古参者が、学び「合う」となっているのは、古参者にとっては、新参者との共同実践を
通じて、新たな思考や観点を学ぶからである。徒弟制とはいえ、一方的な関係を想定して
いるのではない。
状 況 学 習 論 と は 、こ の よ う に 活 動 が 根 ざ す 状 況( 共 同 体 )の 中 に「 埋 め 込 ま れ た 」学 び 1 2 1
を、状況(つまり活動)に参加していく中で習得していくことである。こうした指摘は、
経験教育が、実践活動の中で行われる重要性を指すものであり、この重要性から現場への
フ ィ ー ル ド ワ ー ク や イ ン タ ー ン が 、こ れ ま で 見 て き た 事 例 で も 盛 り 込 ま れ て い た の で あ る 。
ただし、状況学習論は学習の一形態を示したものであり、学習者が意欲的に状況から学
ぼうとしなければ、状況に埋め込まれた学びは、埋め込まれたままとなってしまい、現場
の知識を獲得することはかなわない。その意味で、学習者(そして教員)には、ショーン
[ 2 001]が 、デ ュ ー イ の「 反 省 的 思 考 」の 概 念 を 踏 ま え て 提 起 し た「 反 省 的 実 践 家( r ef l e c t i ve
p r actitio n e r)」 た る こ と が 求 め ら れ る 。 反 省 的 実 践 家 と は 、 行 為 し な が ら 「 状 況 と の 対 話 」
を 行 い 、そ の「 行 為 の 中 の 省 察 」に 基 づ い て 、
( す ぐ に )状 況 に 働 き か け て い く と い う サ イ
ク ル を 繰 り 返 し 続 け る ス タ イ ル を 体 得 し た 存 在 で あ る 122。 な お 、 反 省 的 実 践 と い う ス タ イ
ル に は 、「 状 況 と の 対 話 」 の み な ら ず 「 自 己 と の 対 話 」も 含 ま れ 、そ の た め に 、 実 践 の 事 後
にふりかえる「行為の後の省察」や、実践の事実を対象化して検証する「行為についての
省 察 」 が 行 わ れ る ( 佐 藤 [ 20 01 a: p .1 0])。
状況学習論や正統的周辺参加という概念を学校現場へ援用することについては、レイブ
&ウ ェ ン ガ ー [ 前 掲 書 : pp .1 5- 19] は 、 意 図 的 に 避 け て い る 。 そ れ は 脱 文 脈 化 志 向 の 従 来 の
121
ポ ラ ン ニ ー [ 20 03] の 言 葉 で は 「 暗 黙 知 」 と 呼 ば れ て い る も の で あ る 。
ショーンは、教員や看護士、福祉士など「臨床の専門家」には、反省的実践家として
のスタイルを身に着けるべきであることを述べている。
122
61
教育とは相容れない上、職人の正統的周辺参加が共同体への参加意義やメリットが明確で
切実であり、新参者の学習に対する動機付けが強いという背景の中で行われるのに対し、
学 校 で の 授 業 で の 参 加 は そ う い っ た も の で は な い か ら で あ る ( 藤 井 [ 200 3: p .1 69])。 状 況
学 習 論 を 援 用 し て い く 際 に は 、 こ う し た レ イ ブ &ウ ェ ン ガ ー の 懸 念 を 払 拭 す る た め の 工 夫
を行わなければなるまい。具体的には、受け入れる共同体(現場)や教員は「正統的に参
加した」と実感できる活動の提供を行うことが、そして生徒は「状況から学ぶ」意欲や能
力 を 高 め る こ と が 、 求 め ら れ よ う 。 こ う し た 相 当 の 配 慮 が な け れ ば 123、 い く ら 学 び が 豊 か
な共同体に参加したとしても、十分な学びは展開されない。
1 - 4. サ ー ビ ス ・ ラ ー ニ ン グ と い う 学 び 方
以上、足早であったが、市民的リテラシー教育での学びを支えていると思われる理論を
概 観 し た 。本 項 で は 、デ ュ ー イ の 経 験 主 義 、そ し て コ ル ブ の 経 験 学 習 を 基 盤 に し つ つ 、
「伝
達」ではなく「対話」を通じて、実際に子どもが置かれた生活の中の社会問題の意識化す
べきだというフレイレの主張、実践的な活動に周辺的に参加して状況に埋め込まれた学び
を 習 得 す る 必 要 が あ る と し た レ イ ブ &ウ ェ ン ガ ー の 主 張 、 こ れ ら の 理 論 を 摂 取 し た 「 学 び
のデザイン」の「一例」として、既に実践されているサービス・ラーニングを取り上げた
い。
サ ー ビ ス・ラ ー ニ ン グ は 、19 80 年 代 以 降 、ア メ リ カ の 大 学 教 育 を 中 心 に 、小・中・高 校 、
そして成人教育まで、幅広く行われている経験学習の手法の一つである。学習者が社会問
題 解 決 の た め の 奉 仕 活 動( サ ー ビ ス )に 参 加 し て( 自 ら の 力 を 提 供 し て )、そ し て 活 動 自 体
と サ ー ビ ス を 受 け る 側 か ら 学 ぶ ( ラ ー ニ ン グ ) と い う ( 佐 々 木 [ 200 4: p .3 58])、 こ れ ま で
の 実 践 事 例 で も 見 て き た 現 場 活 動 と 座 学 を 混 ぜ 合 わ せ る 学 び 方 で あ る 。こ の サ ー ビ ス・ラ ー
ニ ン グ の 特 徴 は 、 佐 々 木 [ 前 掲 書 : pp .358 -59 ] も 述 べ て い る よ う に 、「 互 恵 的 要 素 」 に あ
る。学習者だけではなく、現場(のスタッフと顧客)もまた、このプログラムからメリッ
ト を 受 け る よ う 、 サ ー ビ ス と ラ ー ニ ン グ の バ ラ ン ス の 良 い 両 立 が 目 指 さ れ る 124。
実 際 の サ ー ビ ス ・ ラ ー ニ ン グ は 次 の よ う な 展 開 で 行 わ れ る ( 図 2 1 2 5 )。 (1 ) 学 習 者 が 学 習
テーマに関して理論的/実践的な講義を受ける(これは学習プロジェクトを決めるためで
あ る )、 ( 2 )学 習 プ ロ ジ ェ ク ト を 決 め 、 活 動 先 を 決 め る 、 ( 3 )活 動 先 に 入 る 前 に 、 個 々 に 予 備
的 知 識 を 得 る 、( 4)現 場 活 動 に 取 り 組 む 、( 5)活 動 現 場 で の 経 験 に つ い て 批 判 的 に 考 察 す る( 体
験 を 記 録 し 、 そ れ を 分 析 す る )、 (6 ) レ ポ ー ト を ま と め 、 口 頭 発 表 を 行 い 、 グ ル ー プ で 討 議
123
藤 井 [ 2 003: p.170] は 、 そ う し た 配 慮 と し て 、 周 辺 的 な 参 加 と は い え 「 一 人 前 」 と 実
感できるような活動を設定すること、教員が経験からの学びをファシリテートすること、
学校や学級が一つの実践的な共同体として機能していることを挙げている。
124
サービス・ラーニングの枠組みでの理解では、ボランティア活動は現場が大きな恩恵
を受けるもので、インターンシップは学習者が大きな恩恵を受けるものだとなる。
125
本 表 は 、佐 々 木[ 200 4:p .36 0]、及 び 山 口 ら が 日 本 N P O 学 会 大 会 で の 発 表 資 料( 注 103)
から引用したものである。
62
す る 、( 7)担 当 教 員 が 各 学 習 者 の 体 験 し た ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 内 容 と 学 習 テ ー マ を 連 結 さ せ る
授 業 を 行 う 、 ( 8)学 習 者 は 総 括 と し て 小 論 文 を ま と め る 、 と い う 感 じ で あ る ( 佐 々 木 [ 前 掲
書 : pp .3 60- 36 1])。
サービス・ラーニングは、学校で得た知識や取り扱われる理論と現場で得た体験との間
を切り結んでいく作業に重点が置かれる点で、従来のボランティア学習よりも知性的性格
が 強 い 。 こ れ は デ ュ ー イ の 「 探 求 」 の 重 視 を 継 承 し て い る か ら で あ る 126。
体験
学習プロ
学習者
た概念と知見を
ジェクト
Experience
の決定
L e a r ne r s
新たに統合され
Definition
of
連結学習
Critical
Mediated
w i t h n e wl y
Reflection
Learning
integrated
Learners
the task
図 2
得た学習者
批判的考察
concepts
サービス・ラーニングの学習者のレンズモデル
市民的リテラシーの「討議能力とそれを支える批判的知性」と「市民的問題解決行動」
という二つの能力の形成へどう貢献するのかということを考え、このレンズモデルに、若
干の付け足しを行いたい。具体的には、批判的考察(振り返り)の方向性を二つに分けて
考えるということである。
一 つ は 、フ レ イ レ の「 意 識 化 」の 方 向 性 を 持 た せ る と い う も の で あ る 。こ れ は 、メ ン バ ー
の様々な現場活動を通じて、見聞きし、感じたことを手掛かりに、様々な社会への問題意
識を高め、現代社会の問題構造についての議論へと発展していくという流れで示される。
これは討議能力や批判的知性を高めていくことにつながる。この際、キーワードの一つと
な る の は 、「 意 識 化 」 と い う こ と を 考 え れ ば 、「 な ぜ 私 は こ う い う 現 場 の 問 題 を 知 ら な か っ
たのか?」という問いであろう。
もう一つは、
「 実 践 共 同 体 へ の 参 加 」を 進 め る 方 向 性 を 持 た せ る と い う も の で あ る 。こ れ
は、個々が現場活動で果たした/果たせなかった役割から学んだことを整理しながら、今
後それぞれがどういった問題、あるいは役割で専門性を高めていくかを考えていくという
126
筆者はこうした理由からボランティア学習ではなく、サービス・ラーニングを取り上
げ て い る 。繰 り 返 し に な る が 、
「 知 識 に よ る 理 解 」も ま た 教 育 に お い て は 、重 要 な 行 為 で あ
るからである。フレイレの批判は、そうした知識の獲得の「方法」であって、知識そのも
のではなかったことに注意しなければならない、
63
流れで示される。これは、実際の活動体験を契機として、市民的行動の形成を促していく
た め で あ る 。 こ の 際 、 キ ー ワ ー ド の 一 つ と な る の は 、「 参 加 」 と い う こ と を 考 え れ ば 、「 そ
れ で 、 私 は ど う す る の か ? 」、 よ り 具 体 的 に は 「 今 後 、 ど う い う 活 動 に 取 り 組 み た い か ? 」
「社会でどういう役割を果たしていきたいのか?」という問いであろう。
な お 、い ず れ の 場 合 に お い て も 、
「 こ れ 以 上 、考 え た く な い / 参 加 し た く な い 」と い う 学
習者がいるかもしれないが、まずそれはその人なりの学びであったと認めなければならな
い。その上で、その理由を確認していく作業がなされ、そこで、プログラムを終えるべき
である。討議や参加を強要しては、自律性が基本的価値にある市民社会が根底から覆って
しまうからである。
1 - 5. 関 係 性 を 編 み 直 し 続 け る 学 び の 対 話
市民的リテラシー教育の全てがこのレンズモデルで示されるサービス・ラーニングの学
習過程でなされるわけではないことは、重ねて断っておく。何より、サービス・ラーニン
グの取り組みは、その準備やコーディネート作業に大きな労力が割かれる上、現場体験の
時間を確保しなければならないという大きな壁もあり、容易に取り組めるものではなく、
あくまで一例に過ぎない。実際、お茶の水女子大学附属小学校の取り組みは、現場活動経
験を含まずして、十分に市民的リテラシーを育むものであった。
そうした教室の中での問題解決学習と、サービス・ラーニングのような教室の外での実
践共同体への参加を通じた学びにも共通しているのが、教員が一方的に文脈性なく知識を
伝達する学びではなく、教員は「そそのかし役」やコーディネーターとして振る舞い、学
習 行 為 自 体 は 、子 ど も が「 仲 間 」と 一 緒 に「 対 話 」を 通 し て「( 実 践 的 な )問 題 解 決 」を 行 っ
ていき、それに伴って知識や学びを獲得していくという姿であろう。これが、市民的リテ
ラシー教育の「学びのデザイン」の大枠に他ならない。ここにデューイの経験主義やフレ
イレの対話型教育が底流に流れていることは言うまでもない。
佐 藤 [ 19 95 : p p. 72 -7 4 ] は 、 こ の よ う な 学 び を 「 学 び の 対 話 的 実 践 」 と 呼 ん で お り 、 そ
こ で は 、 自 分 と 「 学 習 対 象 ( 世 界 )」「 自 己 」「( 協 同 し た ) 他 者 」 の そ れ ぞ れ と の 間 の 「 関
係 性 の 編 み 直 し( r e te x tu r ing r e la tio n s)」が 行 わ れ る と 整 理 し て い る 。こ う し た 整 理 か ら も 、
社会的な相互作用に対して、鋭敏な感性を注ぐことが、市民的リテラシー教育で求められ
る 一 つ の 作 法 と 言 え よ う 。た だ し 、こ う し た 学 び の 中 で も 、
「 学 習 ス タ イ ル 」は 個 々 に 異 な
るものであることは当然である。バランスへも配慮しつつ、それぞれなりのスタイルを尊
重 す る こ と が 重 要 で あ ろ う 127。
以上が、市民的リテラシー教育を支える理論の概観であるが、こうした理論が実際に意
127
パ イ ク &セ ル ビ ー [ 1 99 7: pp .10 7- 112] は 、 学 習 ス タ イ ル の 議 論 を 整 理 し な が ら 、 マ ッ
カ ー シ ー が コ ル ブ の 議 論 を 発 展 さ せ た 4 MAT シ ス テ ム と い う も の を 紹 介 し て い る 。こ れ は 、
縦軸に「感覚・感情」と「思考」をとり、横軸に「行動」と「観察」をとり、そこでつく
ら れ る 四 象 限 で 学 習 ス タ イ ル を 区 分 し た も の で あ る ( 前 掲 書 : p . 112)。
64
味を持つためには、幾つかの課題を克服しなければならないと、筆者は考えている。次節
では、解決の方向性を模索しながら、そうした課題を列挙し、確認しておきたい。
2.市民的リテラシー教育の学びを巡る課題
事例研究や先行研究を手掛かりに、市民的リテラシー教育での「学び」についての理論
的整理が前節でなされたが、こうした理論が実践化していく際に挙げられる主な課題とし
て 、次 の 5 点 を 提 示 し た い 。こ こ で 挙 げ ら れ る 5 つ の 課 題 の 内 、(1)~( 3 )は 、そ れ ぞ れ 順 に 、
「 体 験 ( 活 動 )」、「 対 話 」、「 振 り 返 り ( 探 求 )」 に つ い て の も の で あ る が 、 こ の 三 つ の 概 念
が 1 節で示した市民的リテラシー教育を支える理論の中心的概念に他ならない。こうした
中心概念について実践的検討を加えることは、リアルな議論を行う上で、意味深いことで
あろう。
なお、全てにおいて明確な答えが提示できるわけではない。中には問題の提示にて終わ
るものもあるが、そうした問題は実践の中で解決策が見出されていくものである。
( 1 )ど う い っ た 体 験 が 望 ま れ る か ?
( 2 )演 技 的 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を ど う 超 え る か ?
( 3 )体 験 に 相 応 な 学 び を 引 き 出 す 「 振 り 返 り 」 は い か に し て 可 能 か ?
( 4 )「 N P O の 教 育 力 」 の 向 上
( 5 )教 員 の 市 民 的 リ テ ラ シ ー と 教 育 力 の 向 上
2 - 1. ど う い っ た 体 験 が 望 ま れ る か ?
経験学習であれば、どのような体験でも良いのかといえば、それは違うであろう。佐伯
[ 1 995: p .3 9] も 述 べ て い る よ う に 、「 自 分 に は 全 く 関 係 な い 」 と 思 わ せ て し ま う 体 験 機 会
を 提 供 す る こ と は 、「 橋 渡 し 」 で は な く 「 橋 く ず し 」 と な り か ね な い 。 ま た 、「 橋 渡 し / 橋
く ず し 」と い う 区 分 ま で い か な く て も 、
「 効 果 あ る 体 験 」と そ う で は な い 体 験 と い う 分 か れ
目もあろう。
しかし、だからといって、普遍的にこういう体験をすると良いという、コンテクストを
軽 視 し た パ ッ ケ ー ジ 化 は 、前 章 で も 述 べ た と お り 、余 り 意 味 を な さ な い 。教 員 が 協 働 の パ ー
トナーと共に、向き合う生徒が置かれたコンテクストにフィットする体験を見出していく
必要がある。
本論文では、そうしたコンテクストを踏まえることの重要性を踏まえつつ、前章で取り
上げた事例や筆者の実践を踏まえ、抽象的なものではあるが、三つの要素に注目し。そう
した要素を含む体験機会が「効果ある体験」や「橋渡し」とある経験となるのではないか
という提案を行う。なお、大前提として、市民社会が解決に取り組む「社会的な問題」に
直接的/間接的に関係したものであることは言うまでもない。
一 つ 目 は 、 他 者 の 「 宛 て 先 」 と な る ( 鷲 田 [ 20 01: pp.8 0-8 4 ]) 体 験 で あ る 。 鷲 田 [ 前 掲
書 : p .8 3] は 、「 他 人 に と っ て 、 他 の 誰 か に と っ て の 無 視 で き な い 、 意 味 の あ る 他 人 で あ り
65
え て い る 」 と い う こ と を 感 じ ら れ る こ と が 、「 他 者 の 宛 て 先 と な る 」 こ と だ と 述 べ て い る 。
ここでいう他者とは、ケアをする他者(そしてそれはケアしてくれる他者)であり、いわ
ゆる友達関係とはまた異なる関係である。そうしたケアという行為を媒介とする関係の中
で 、他 者 に 求 め ら れ る 、存 在 を 必 要 と さ れ る こ と で 、人 間 は 自 尊 感 情 や 自 己 効 力 感 を 高 め 、
より求めに応じようとする。
鷲田は特定の他者をここでは想定しているが、本論文では脱人称化して、その解釈を広
げて考えたい。第 2 章でも述べたように、政治的無力による政治的無感情が民主主義の危
機を加速させている中にあって、政治的効力感を高めていく必要がある。そうした効力感
を得ていくのは、当然であるが、社会に役立つ、社会から求められる体験である。自分が
社会に働きかけることで、小さくても反応が返ってくることを体験することは、市民的リ
テラシーの形成の上で必須である。サービス・ラーニングやボランティア学習で、社会問
題解決行動への参加が含まれているのは、こうした観点からでもあろう。
二 つ 目 は 、「 ゆ ら ぎ 」( 尾 崎 編 [ 1 99 9]) の 体 験 で あ る 。 尾 崎 は 、 社 会 福 祉 専 門 職 が 「 ゆ ら
ぎ」という体験からの学びを通じて、その専門性や技術を高めることが可能となることを
述べ、
「 ゆ ら ぎ 」に つ い て「 実 践 の な か で 援 助 者 、ク ラ イ エ ン ト 、家 族 な ど が 経 験 す る 動 揺 、
葛 藤 、 不 安 、 あ る い は 迷 い 、 わ か ら な さ 、 不 全 性 、 挫 折 感 な ど の 総 称 で あ る 」( 尾 崎 編 [ 前
掲 書 : p . ⅰ ]) と 説 明 し て い る 。 そ し て 、 そ の よ う な 「 ゆ ら ぎ 」 と の 直 面 が 、( 対 人 的 な 援
助である以上)
「 つ ね に 正 し い 画 一 的 な 答 え 」が 存 在 し な い 社 会 福 祉 実 践 の 本 質 で あ る と 述
べ て い る ( 尾 崎 [ 19 99 : p .7 ])。 こ の 「 正 し い 画 一 的 な 答 え 」 が な い こ と は 、「 ゆ ら ぎ 」 と
い う 不 快 な 体 験 を 引 き 起 こ す が 、同 時 に「 決 め つ け 」や「 押 し つ け 」を 生 ま な い た め に( 尾
崎 編 [ 前 掲 書 : p.ⅸ ])、「 ゆ ら ぎ 」 は 「 多 面 的 な 見 方 、 複 層 的 な 視 野 、 新 た な 発 見 、 シ ス テ
ム や 人 の 変 化 ・ 成 長 を 導 く 契 機 」( 尾 崎 [ 前 掲 書 : p.19 ]) で あ る と 述 べ て い る 。
このように「ゆらぎ」が、否応ない現状と自分への問い返しとして、自己変革の覚醒を
引き起こすという、尾崎の指摘は興味深い。市民的リテラシー教育での学びでは、自分と
「 自 己 / 他 者 / 世 界 」と の「 関 係 の 編 み 直 し 」で あ る と 前 節 で 記 し た が 、
「 ゆ ら ぎ 」は そ う
した編み直しを迫るものであるし、特に学校で行われる場合、市民としての「はじめの一
歩」を踏み出すために、何らかの覚醒が時間をかけてでも行われる必要があり、そうした
覚 醒 に 「 ゆ ら ぎ 」 は イ ン パ ク ト が あ る よ う に 思 わ れ る 。 山 口 [ 2 001 : p .7 3 ] は 、 実 習 先 で
大きなトラブルを招いたインターン生の言葉として「無知の涙」という言葉を紹介してい
るが、こうした言葉は「ゆらぎ」の結果を象徴的に示しているように思われる。
「ゆらぎ」の危険性に晒されるような体験機会を敢えて選ぶことや、そうした機会を意
図的に創り上げるとした際、生徒が「ゆらぐ」体験とは具体的にどういうことになるだろ
う か 128。 例 え ば 、 生 徒 が そ れ ま で 生 き て き た 生 活 世 界 の 中 で 、 出 会 っ た こ と の な い 異 質 な
128
「 ゆ ら ぐ 」体 験 と い う 、あ る 種「 不 快 」な 体 験 を プ ロ グ ラ ム に 盛 り 込 む と い う こ と は 、
単純に子どもの希望や関心に即した機会の提供だけではなく「
、次に子どもたちが体験すべ
き 機 会 」と 考 え る 機 会 も 提 供 す る と い う こ と を 表 す 。こ の 考 え は 、前 章 で 紹 介 し た N P O ス
66
他者との出会い、協同作業の機会をつくるというのも一つであろう。異年齢で、障碍の有
無 に 関 係 な く 、地 域 も 様 々 な「 異 質 性 の 高 い 人 た ち の 集 団 を( 教 室 に )つ く る 」
( 上 野[ 200 2;
p . 96])こ と は 、こ れ ま で も 細 々 と 行 わ れ て き た こ と で あ ろ う が 、そ う い っ た 人 を「 ゲ ス ト 」
と位置づけず、協同作業を行う方向性も模索してみても良いのではなかろか。様々な意味
で の ボ ー ダ ー を 越 え る「 越 境 す る 学 び の コ ミ ュ ニ テ ィ 」は 、
「 ゆ ら ぎ 」の 空 間 に 他 な ら な い 。
特 に 、価 値 観 の 異 質 な 他 者 と の 議 論 は 、異 質 な 他 者 と の 交 流 を 求 め ず「 文 化 的 孤 島 」
(早
川[ 2 001:p . 153])に 留 ま る 傾 向 が 増 し て い る と 言 わ れ る 中 で 、
「共生の技能と作法の体得」
の 観 点 か ら も 意 味 深 い も の で あ ろ う 。 黒 崎 [ 2 00 3 : p .1 5 ] も 、 ヘ ン リ ー ・ レ ビ ン の 「 民 主
主義的価値を形成するにあたって、対立した立場に身をさらすことを経験していることの
重 要 性 は 誇 張 さ れ す ぎ る こ と は な い 」 129と い う 言 葉 を 紹 介 し な が ら 、 階 層 化 が 進 行 し て い
る現状にあって、対話を通じて他者への寛容度を高める必要性を述べている。
三つ目の体験は、自分の取り組みをオフィシャルな空間で物語る体験である。地域住民
や全く知らない人に対し、自分が市民的リテラシー教育の中で取り組んでいることをプレ
ゼンテーションすることは、言語化を通じた意識化を進めるだけではなく、現場活動以外
の学習活動を社会的な営みへと発展させることにもつながる。この現場活動以外の学習活
動を社会的なものとして意識させることは、学び全体のトーンを整える上で意味深い。
以 上 の 他 に も 、「 あ こ が れ る 存 在 」( 感 動 の 他 者 ) と の 出 会 い 1 3 0 な ど 、 色 々 指 摘 で き よ う
が、本論文が注目したのは、効力感や覚醒という点から以上の三つとした。
2 - 2. 演 技 的 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を ど う 超 え る か ?
本項では、学びの中のコミュニケーションを巡る課題の内、生徒の「演技的なコミュニ
ケーション」について考える。学校という空間で、しかも教員と生徒という権力関係の中
で、市民的リテラシーの学びの場は成立するのか、という問いがここにはある。
より具体的に言えば、市民的リテラシー教育の学びの場で、子どもが教員の評価を得る
た め の ポ ー ズ と し て「 期 待 さ れ る 市 民 像 」を 演 じ 、そ の 場 が 終 わ れ ば 、
「 演 技 」を 終 え て し
まうという、構図に陥ってしまわないようには、どうすべきかということである。
生徒の前にあって、教員は多くの権力を有した存在に他ならない。制度的にも文化的に
も 権 力 関 係 で は 優 位 に 立 ち 、生 徒 は そ う し た 権 力 に 抵 抗 す る 場 合 も あ る が 、概 ね 従 う( ポ ー
クールにおけるマッチングの際の工夫に通じるものであろう。
こ の よ う な 主 張 は 、 多 く の 論 者 が 行 っ て い る 。 例 え ば 、 長 谷 川 [ 1 99 7: pp .35 -4 1]、 平
田 [ 2 003: p . 78]。 長 谷 川 は 、 ジ ン メ ル の 議 論 を 下 敷 き に 、 紛 争 が 社 会 問 題 を 開 示 し 、 統 合
が行われることを明らかにしている。
130
筆 者 は 、 圧 倒 す る 他 者 と 感 動 で き る 他 者 を 分 け 、 圧 倒 す る 他 者 と の 出 会 い は 。「 自 分 と
は 世 界 が 違 う 話 」だ と 認 識 さ れ 、
「 橋 く ず し 」に な り や す い の で は な い か と 考 え て い る 。
「橋
渡 し 」に は 、感 動 で き る 他 者 以 外 に 、
「 良 き ラ イ バ ル 」と い う 存 在 も ま た 意 味 を 成 す も の だ
と 考 え て い る 。 な お 、 秋 田 [ 20 00: p .1 48] は 、「 一 芸 に 秀 で た 人 や 専 門 家 」 を ゲ ス ト に す
ると、教える/教えられるという関係となりやすいことを指摘している。どういった役回
りをゲストに期待するのかによって、どういう人を招聘するのかを考える必要性を的確に
ついている指摘である。
129
67
ズ を と る )。教 員 に 正 統 性 を 見 出 し 積 極 的 に 従 属 し て い る 場 合 も あ る が 、多 く の 場 合 は そ う
ではないだろう。抵抗に伴う不利益を被らないようにするため、教員の期待を予測して、
その場での期待に応え、
「 穏 便 」に 済 ま せ よ う と し て い る か ら で あ ろ う 。も ち ろ ん 、期 待 に
応えるといっても、完全に応える場合もあれば、最低限にしか応えない場合もある。一斉
授業で言えば、前者は「よく発言する」という行為での応えであり、後者は「寝る」とい
う行為での応えである。
こうした教室での「演技」のコミュニケーションが、市民的リテラシー教育の学びの場
面でも展開された場合、本論文の目論見は無効化されてしまう危険性がある。そこで、こ
うした問題への処方箋を幾つか考えたい。もちろん、全ての生徒を変えることは無理であ
る。また完全な処方箋を提示することも不可能である。その上での可能性を考えたい。
こ の 問 題 を 考 え る と き に 、批 判 的 教 育 学( Cri t i c a l P e d a g o g y)の 議 論 が 参 考 に な る 。批 判
的教育学は、本論文でも批判を行った近代の伝達志向/管理志向の教育へのオルタナティ
ブとして、
「 生 成 志 向 / 力 動 志 向 」の 教 育 を 掲 げ て お り 、具 体 的 に は「 連 接 と 危 機 」を 機 軸
と す る 実 践 を 提 案 し て い る ( 田 中 [ 20 03: p p. 1 7 0 - 1 7 1])。 田 中 に よ れ ば 、「 連 接 と 危 機 」 を
機軸とする実践とは、異質な領域・言説・実践を接合し、敢えて「危機」を創出する実践
である。ここで生み出された「危機」は、所与の自明性を超える思いがけない可能性を創
り 出 し つ つ 、そ の 可 能 性 が 現 状 を 揺 ら が せ 得 る「 危 う さ 」を も た ら す も の で 、そ う し た「 危
うさ」を学習者も教育者も引き受けるところに、批判的教育学の特徴があるとしている。
いわば、批判的教育学の実践とは、学習者と教育者の協働関係を生成し、その力動的な危
う さ を 楽 し む も の で あ る と 言 え よ う ( 田 中 [ 前 掲 書 : p.1 71])。
こうした生成志向/力動志向の教育は、経験主義教育と大きくは変わらないが、ここで
注目すべきは、
「 連 接 と 危 機 」と い う 考 え 方 で あ る 。こ れ は 、本 節 1 項 で 取 り 上 げ た「 ゆ ら
ぎ」概念ともつながる考え方であろう。そこで、単純に生徒の日常の生活とつながってい
るだけではなく、生徒が「演技」では踏みとどまれないようなテーマや状況を創り出して
いくという処方箋が提示できよう(もちろん、そうした状況を演技的に乗り切る可能性も
あ る )。な お 、筆 者 な り に「 ゆ ら ぎ 」と い う こ と を 考 え た 際 、学 び の 中 で 起 こ る 権 力 作 用 や
相互作用をその場で問題化する、つまり権力(関係)がグループの中で生成されていくプ
ロセスを問題化するという行為がなされるようになれば、学びのコミュニケーション関係
がゆらぐように思われるが、こうした取り組みも処方箋の一部にはなろう。
ま た 、学 習 者 と 教 育 者 の 協 働 関 係 の 生 成 と い う 観 点 は 、学 び の 中 で 行 わ れ る コ ミ ュ ニ ケ ー
ションの構造が変わるということを意味するが、これも「演技」への牽制として有効であ
る。従来の教育における学びの中でなされていたコミュニケーションは、教員から生徒た
ちへ(生徒から教員へ)というものであった。そうしたコミュニケーションの中で「演技
的」となるのだが、経験主義や批判的教育学で想定されるコミュニケーションは、生徒同
士のコミュニケーションがメインで、そこに一員として教員が参加するという構造に他な
ら な い 。こ う し た 中 で の「 演 技 」は 、教 員 に 対 し て で は な く 、グ ル ー プ メ ン バ ー に 対 し て 、
68
不誠実なものとなるので、
「 戦 略 的 」に 演 技 を 緩 め る と 言 え ま い か 。評 価 が 教 員 に よ る も の
だけではなく、グループの仲間や実践現場のメンバーや顧客からもフィードバックされ、
そして自らの経験からも「手応え」として跳ね返ってくるということは、この戦略を引き
出すことに貢献するであろう。
当然、こうした一連の取り組みの中で、教員は「反省的実践家」として、自らの言動や
振る舞いに反省的思考を働かせ、自分の「期待」を読み取って、場が動いていれば、そう
した場を変え、予め決まった結論がない、個別それぞれに結論があるというマルチ・エン
ディング・ストーリーの学びを実現する必要がある。このようなところが、筆者なりに考
えた処方箋である。
しかし、そもそも「演技をする」ということが、全て否定されるものではないのではな
い か と も 考 え る 。「 演 技 」 を し て い る 内 に 、 問 題 解 決 行 動 の 面 白 さ に 気 づ く こ と も あ る し 、
「演技」も繰り返していれば、どこからが「演技」で、どこからがそうでないのかという
境目が曖昧となる場合も少なくない。このようなことを考えると、次のような思考実験も
不可能ではない。
市民的リテラシー教育での討議を敢えて「儀礼的」なものとし、それ故に「日常ではし
ないようなこと」にも取り組むことへ違和感を下げて、儀礼的に取り組んでもらう。そう
した「演技」を繰り返す中で、パブリックなことについて「儀礼的関心」を払うようにな
り 、 次 第 に 「( 普 通 の ) 関 心 」 と し て 定 着 す る 。 こ の よ う な 展 開 で あ る 。 現 実 に は 、 こ う し
た展開もあるように見受けられる。
いずれにせよ、いわゆる「演技」をどう超えるか、という目標は同じである。様々なア
プローチが実践/検証されていくべきであろう。
2 - 3. 体 験 に 相 応 な 学 び を 引 き 出 す 「 振 り 返 り 」
本 項 で は 、学 び の 中 の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を 巡 る 課 題 と し て 、
「 振 り 返 り 」に 関 す る も の
を考える。これは本論文全体を見ても、この部分のみが非常に微視的な議論であり、違和
感があるかもしれない。しかし、1 節においても述べたように、経験学習では、探求(振
り返り)における「経験の再構成」が十分になされて、初めて意味を成すものである。そ
の意味で、
「 振 り 返 り 」の 作 業 は 、本 論 文 で 紹 介 し た 幾 つ か の 学 習 モ デ ル に お い て も 、中 心
的な位置を占めており、本論文でも振り返りについてを取り上げることとした。
「 振 り 返 り 」 を 巡 る 課 題 は 、 次 の 二 つ に あ る 。 一 つ 目 は 、「 振 り 返 り 」 と い う 行 為 を ど の
よ う に 習 得 す る か 。二 つ 目 は 、
「 振 り 返 り 」の 精 度 を ど う あ げ る か 。こ の 二 つ で あ る 。そ れ
ぞれにつき、コメントを付したい。
な お 、 振 り 返 り と は 、 ( 1 )体 験 終 了 後 、 自 ら が ど の よ う な 体 験 を し た の か 、 体 験 の 中 で ど
の よ う な ダ イ ナ ミ ズ ム が 起 こ っ て い た か を ( ま ず は 評 価 を せ ず に ) 記 述 的 に 吟 味 す る 、 (2)
体 験 の 中 で 起 こ っ た こ と は 、な ぜ 起 こ っ た の か を 考 察 す る 、(3 )同 時 に そ こ で 気 づ い た こ と
や 思 っ た こ と 、感 じ た こ と が 何 で あ る か を 確 認 す る 、(4)体 験 か ら 何 を 学 ん だ の か を 明 ら か
69
に す る 、(5 )そ う し た 学 び か ら 、今 後 の 自 分 / グ ル ー プ の 課 題 や 目 標 を 明 ら か に す る 、と い っ
た こ と を 内 省 し た り 、言 葉 に し た り 、表 現 す る こ と で あ る( 星 野・川 嶋・平 野・佐 藤 編[ 20 01:
p . 148 ]) 1 3 1 。 こ の 行 為 で 、 自 分 と 「 自 己 / 他 者 / 世 界 」 と の 関 係 が 編 み 直 さ れ て い く の で
ある。
一点目の「振り返り」という行為の習得についてであるが、上記のような「振り返り」
は感想を述べ合うこととつながっているものの、そうした次元に終始する行為ではない。
そうした感想も一つの材料として、
「 考 察 」が な さ れ て い く も の で あ る 。そ の 際 、体 験 の 中
で起こったダイナミズムを把握するという視点を持つことが、重要なポイントとなるが、
こうした視点は、自然に身につくかといえば、必ずしもそうではない。
筆 者 は 、徳 島 県 の K 高 校 に て ワ ー ク シ ョ ッ プ を 行 っ た 際 に 、次 の よ う な 体 験 を し た 。あ
るグループワークが終わったところで、振り返りの時間を持ったのであるが、振り返り用
紙 を 前 に し て 、何 人 も の 生 徒 が 戸 惑 い 、
「 感 じ た こ と を 書 く と 言 っ て も 、ど ん な こ と 書 い た
らいいのか、よく分からない」と生徒から言われてしまったのである。これは、まだ視点
を持てていないが故のコメントであった。
従来の教育においては、振り返りは個々でなされるもので、する人はするし、しない人
は し な い 、と い う 状 況 で あ る 。し か も 、振 り 返 り の よ う な 時 間 が 持 た れ て も 、個 人 的 な「 感
想 」を 述 べ る 程 度 で 終 始 す る 場 合 は 殆 ど で あ り 、
「 振 り 返 り 方 」を 習 得 す る 機 会 が 十 分 に は
な い の で あ る 132。 こ の 問 題 は 、 実 際 に 現 代 日 本 で 導 入 し て い く 際 に 、 大 き な 壁 と な る と 思
われる。では、どのようにして習得されうるのであろうか。
この課題を解決していく方法としては、大きく三つあると考える。一つは、振り返り用
紙を工夫し、質問に答えていくことが、振り返りのプロセスをなぞるというパターンにす
る と い う も の 、も う 一 つ は 、
「 お 手 本 」を 提 示 す る と い う も の 、最 後 の 一 つ は 、正 統 的 周 辺
参加を通じて学ぶというものである。
一 般 的 に は 、最 後 の 方 法 で( つ ま り ワ ー ク シ ョ ッ プ に 参 加 し な が ら )、私 た ち は 振 り 返 り
方を習得していっているが、学校ではその状況をつくることは容易ではない。第一か、第
二 の 方 法 に よ っ て 、「 振 り 返 り の 型 」 の 一 つ を 学 ぶ の が 実 際 で あ ろ う 。 ウ ィ ル ソ ン &ジ ャ ン
[ 2 00 4 : p .1 2 ] も 、 教 員 が モ デ ル と な る 必 要 性 を 述 べ 、 モ デ ル の 真 似 を し な が ら 、 子 ど も
たちが振り返りの技法を習得することを述べている。ただし、振り返りの型は、本来様々
あり、各自が使い勝手の良いものを用いるものである。そう考えれば、教員が提示した型
によって、振り返り方が習得されてこれば、いずれは、そうした自分の「型」を見出すこ
とを促していく必要があろう。
二点目の振り返りの精度をいかに高めるかという問いは、本論文では、振り返り慣れを
131
確認しておけば、サービス・ラーニングのレンズモデルは、こうした作業をグループ
で 行 っ た 後 に 、 連 結 学 習 ( 知 識 の 習 得 ) に よ っ て 、「 体 験 か ら の 学 び 」 を 発 展 さ せ た り 、あ
るいは定着させたりするのである。
132
ク ラ ブ 活 動 で は 、「 振 り 返 り 」 が 行 わ れ る 場 合 も あ ろ う 。
70
し て く る こ と で 生 じ る パ タ ー ン 化 の 弊 害 を ど う 越 え る か 、 と い う 問 い と し て 考 え た い 133。
このことを考える上で、ミルズの「動機の語彙論」を参照したい。ミルズは、人々の動
機を語る言葉が、社会的文脈で妥当される語意のレパートリー(類型)から選択されて用
いられているものであって、内的状態を示したものではないであると主張した(井上
[ 1 986: p.3 0])。も し 、振 り 返 り で 語 る 気 づ き や 学 び の 言 葉 が 同 様 に 、語 彙 の 中 か ら の( 余
りに)単純な選択となっておれば、それは体験に相応した学びから遠のくことになるので
はないだろうか。
もちろん、完全に語彙の類型からの選択を離れることは不可能ではあるが、予定調和的
で陳腐化された振り返りの言葉が語彙として選ばれる時、多くの場合、十分な考察が行わ
れないだろう。では、こうした語彙選択の中で、体験に相応な学びへと接近するには、ど
ういった振り返りがなされるべきであろうか。
その方法として、選んだ語彙の選択理由を問い返すという方法をここでは示したい。語
彙の類型から選んでいるとはいえ、全く意図や背景なく選んでいるわけではないはずであ
る。そうした意図や背景となる体験/事実についての考察を行うことを通じ、体験に相応
する学びへと接近できよう。
経験学習への慣れは、振り返る力を高めると同時に、ある種のパターン化を招く。これ
は学校で「日々」行われるのであれば、なおのことであろう。その意味で、このようにし
て、語彙選択という効率化の中で生じる「語られない学び」の領域に光をあてることは、
経験学習の可能性を顕現化していく上で、意味ある作業であろう。
なお、振り返りという自己の内面と向き合う作業は、以下に阿部が述べているように、
非対称の関係の中で行えば、教員の権力を強めることにつながってしまうものである。
二者間での言語化の機会が不均等な場合(教師と生徒、医者と患者の関係等)には、
一方の自主的な内面性の言語化(相手への自己告白)によって、他方は相手を知り尽く
し、その結果としてより高度な支配が可能になると考えられるからである。
( 阿 部「 ハ ー バ ー マ ス 理 論 に お け る『 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 観 』の 批 判 的 検 討 」1 9 9 0 年 、p p . 2 2 9 - 2 3 0 )
故 に 基 本 的 に は 1 3 4 教 員 も ま た 、( 模 範 演 技 と し て で は な く )「 一 人 の 人 間 と し て 」 気 づ き
や 学 び を 言 語 化 し 、自 己 変 革 し て い く プ ロ セ ス を 提 示 し て い く こ と が 必 要 と な っ て こ よ う 。
なお、こうした自己開示は時に、教員が自らの「弱さ」を示すことにもつながり、垂直関
133
振り返りの精度を上げていく際に、経験の蓄積という議論の立て方も可能であろう。
ここでは、経験が足かせとなるような記述となっているが、当然に順機能もある。
134
ここで基本的にはと書いたのは、教員が感想を述べることは、学習者に大きな影響を
及ぼす行為であり、時に自制することも求められるからである。テクニカルには、自分の
学 び は 最 後 に 述 べ る 、と い う こ と が 挙 げ ら れ る が 、も ち ろ ん 、そ れ だ け で は 十 分 で は な い 。
なお、グループにかかわっていないのにも関わらず、グループワークへ価値判断的なコメ
ントを行うことは、
「 評 価 者 」と し て の 位 置 に 立 つ こ と に な り 、従 来 の 教 育 の 関 係 性 へ と 引
き戻されてしまうので原則行うべきではない。
71
係を緩やかにする契機を含むとも考えられる。
と も す る と 、経 験 学 習 は 体 験 に 時 間 を と り す ぎ て 、振 り 返 り に 時 間 が 十 分 に 割 か れ な い 。
しかし、振り返りはそうした「おまけ」の時間として行われるものではない。既に明らか
なように相当の時間がかかるものである。体験と振り返りという経験学習の両輪がバラン
スよく展開されていく必要をここで改めて確認しておきたい。
2 - 4.「 N PO の 教 育 力 」 の 向 上
以上までで議論してきた「学びの場」を支える環境面での課題につき、本項と次項にて
述 べ る 。 具 体 的 に は 、 N P O( 協 働 の パ ー ト ナ ー ) と 教 員 の そ れ ぞ れ の 教 育 力 を ど の よ う に
高 め る か 、 と い う こ と で あ り 、 本 項 で は 「 NPO の 教 育 力 」 に つ い て 述 べ る 。
様々な論者が述べているように、
「 市 民 的 行 動 の 形 成 」や「 批 判 的 知 性 の 形 成 」に つ い て
は、
「 NPO の 教 育 力 」
( 佐 藤 編[ 20 04])が 重 要 な 位 置 を 占 め る も の で あ り 、成[ 2 00 4:p .13 0]
も 「 NPO が 、 気 づ き を 促 し 、 問 題 意 識 の 芽 を 育 て 、 価 値 観 の 転 換 と 継 続 的 な 行 動 へ つ な げ
る 」 と 述 べ て い る 。 既 に 繰 り 返 し 述 べ て い る が 、 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 で は 、 NPO で の 現
場 活 動 参 加 や NPO ス タ ッ フ に よ る ゲ ス ト 授 業 が 、 手 法 と し て 取 り 入 れ ら れ る 。
こ う し た NP O の 教 育 力 が 発 揮 さ れ る こ と は 、 機 会 提 供 を 行 っ て い る N PO に と っ て も メ
リットのあることである。なぜなら、構成メンバーが市民的リテラシーを高めていくこと
は、個々人の活動への意識/意欲を高めることとなり、ひいては活動全体の水準向上へと
向かうからである。また、長い目と広い目で見れば、市民社会全体にとって、担い手を育
む と い う の は 、 紛 れ も な い 「 成 果 」 の 一 つ で あ る 。 ド ラ ッ カ ー [ 199 1: p .ⅷ ] も 、 N PO の
成 果 と は 「 変 革 さ れ た 人 間 」 で あ り 、 N PO は 「 人 間 変 革 機 関 」 で あ る と 述 べ て い る 。
し か し 、 NPO は そ も そ も 「 学 校 」 で は な く 、 全 て の NPO が 教 育 力 を 十 分 に 顕 現 化 で き
て い る わ け で は な い 。市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 の 場 と し て 機 能 す る N P O も あ れ ば 、そ こ ま で
余 力 が な い N PO も あ る 。ま た N P O と い っ て も 、保 守 的 な 価 値 観 を 有 し て い る N PO も あ り 、
そ う し た N P O を 通 じ た 市 民 的 リ テ ラ シ ー の 形 成 は 国 家 的 公 共 性 を 強 め か ね な い 1 3 5 。現 実 に
は こ う し た 多 様 な N PO 存 在 す る こ と を 認 識 し な け れ ば な ら ず 、学 校 の 協 働 の パ ー ト ナ ー と
し て の N PO を 考 え て い く 際 に は 、「 教 育 力 の あ る N PO」 が ど う い っ た も の で あ る か を 明 ら
か に し て い く 必 要 が あ ろ う 。こ の 作 業 を 行 い 、学 校 と N P O を 仲 介 す る の は 、地 域 の 中 間 支
援センターの役割に他ならない。
「 ス タ ッ フ が 忙 し く て 構 っ て も ら え な い 」、「 そ の 場 の 思 い つ き で 仕 事 を 割 り 振 ら れ た 」、
「 活 動 後 の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン に 時 間 が 割 か れ な い 」 と い っ た よ う な 声 を NPO へ の イ ン
ターンに行った経験のある学生から聞いたが、こうした体験提供では、学べる人には学べ
る が 、経 験 学 習 の 作 法 が 体 得 さ れ て い な け れ ば 、学 べ な い と い う 状 態 を 招 く 。こ こ 数 年 で 、
135
注 48 で も 述 べ た よ う に 、 ハ ー バ ー マ ス は 新 し い 社 会 運 動 を 二 つ に 区 分 し て お り 、「 市
民社会的なアソシエーション」に公共圏を活性化するものだと位置を与えている。
72
N P O へ の イ ン タ ー ン シ ッ プ は 一 般 的 な こ と と な り 、現 在 の 実 態 は こ こ ま で で は な い と 思 わ
れるが、なかなか「人事担当者」が設けられない現状を考えると、十分な教育力を発揮し
て い る N PO は ま だ 少 数 で あ る 可 能 性 も 高 い 。
こ う し た 状 況 の 中 で 、 N P O の 教 育 力 を 高 め て い く に は 、 大 学 コ ン ソ ー シ ア ム 京 都 N PO
ス ク ー ル が 模 索 し た よ う に 、N P O ス タ ッ フ の 学 び の コ ミ ュ ニ テ ィ が 形 成 さ れ る こ と が 重 要
で あ ろ う 136。
2 - 5. 教 員 の 市 民 的 リ テ ラ シ ー と 教 育 力 の 向 上
学 校 に お け る 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 を 考 え る 上 で 、「 教 員 の 市 民 的 リ テ ラ シ ー と 教 育 力 」
の 向 上 は 避 け て は 通 れ な い 問 題 で あ る 。既 述 し た が 、
「 総 合 的 な 学 習 」の 時 間 の 導 入 に あ た っ
ても、こうした教員の能力開発へのアプローチが十分になされず、多くの戸惑いを招いた
のであった。市民的リテラシー教育を担う上では、まず「一市民としての成熟」が求めら
れ、その上で、新しい教育実践を担える「教員としての成熟」が求められてこよう。そう
でなければ、
「 橋 く ず し 」が 起 こ る 可 能 性 が 高 く な っ て く る で あ ろ う 。本 項 で は 後 者 の 問 題
について考えたい。
従来の教育の担い手から新しい教育実践の担い手へとなっていくためには、特にどのよ
うな能力の向上が求められるか、市民教育について研究/実践に長年携わっている長沼豊
氏 ( 学 習 院 大 学 助 教 授 ・ 元 中 学 校 教 員 ) に イ ン タ ビ ュ ー を 行 っ た 1 3 7 。 長 沼 は 、「 市 民 教 育
を 進 め る 上 で は 、 (1) フ ァ シ リ テ ー シ ョ ン 能 力 、 (2) コ ー デ ィ ネ ー シ ョ ン 能 力 、 (3 ) コ ミ ュ ニ
ケ ー シ ョ ン 能 力 、こ の 三 つ の 能 力 が 重 要 な も の と な る 。」と 述 べ 、い ず れ の 能 力 も 現 在 の 教
員は十分なトレーニングを受けていないことを指摘した。
現在の教職課程での教育方法学で教えられる内容は、各大学で異なりがあるとはいえ、
基本的には、
「 正 解 を 知 っ て い る 教 師 が た ず ね 、正 解 を 知 ら な い 生 徒 が 答 え 、そ の 答 え を 教
師が評価するという、
『 教 師 の 発 問・生 徒 の 解 答・教 師 の 評 価 』の 三 つ の 要 素 」
( 佐 藤[ 199 5:
p . 79]) で 構 成 す る 授 業 方 法 に つ い て が 、 主 た る も の で あ る 。
こうした従来の教育のチョーク&トーク型の授業から、ワークショップ型へと教育方法
を変えることは、従来のスキルやノウハウとは全く異なるものを体得する必要性を表して
いる。しかも、それは単純にノウハウが異なるだけではなく、価値観として対極に位置す
る た め 、従 来 の 指 示 / 命 令 / 管 理 と い っ た 価 値 に 支 え ら れ た「 教 員 と し て の 身 体 所 作 」や 、
「 学 校 的 な 時 間 観 / 空 間 観 」 138ま で 解 体 す る 必 要 が あ る 。 こ の 「 解 体 」 作 業 は 、 い き な り
136
こ う し た ネ ッ ト ワ ー ク の 広 が り が 、 多 元 的 な 公 共 圏 を 媒 介 す る 役 割 を NPO が 担 う 可 能
性をもたらすと思われる。
137
長 沼 豊 氏 へ の イ ン タ ビ ュ ー は 20 04 年 9 月 2 4 日 ( 金 ) に 、 東 京 に て 実 施 し た 。
138
子どもが時間と空間を自由に使えないという統制権は、教員の権力的絶対優位を支え
て い る 主 要 な も の の 一 つ で あ る 。 な お 、 佐 藤 [ 1 995: pp.7 5-7 6 ] は 、 大 量 生 産 の た め の 効
率性を実現するためのテーラーシステムのような、
「 コ マ 切 れ 」さ れ た 時 間 は 、子 ど も が 体
験と向き合う時間の流れを寸断するものだと批判している。学習項目や内容、子どもたち
73
全 て 行 う こ と は 難 し い 。長 沼 も「 い き な り『 教 え る 型 』を す べ て 崩 す の は 難 し い 。
『総合的
な 学 習 』 の 時 間 を 用 い て 、 少 し ず つ 変 え て い っ て も ら う ほ か な い 。」 と 述 べ つ つ 、「 良 質 な
ワークショップを体験する必要がある」と学校の外に出かける必要性を指摘した。教員自
身が、経験学習を通じた学びを経験する必要は大いにあろう。
こうした一連の能力開発は個々で行われるのではなく、外部者も巻き込みつつ、教員同
士 の 学 び 合 い や 相 互 評 価 を 通 じ て 高 め あ う チ ー ム の 中 で 行 わ れ る べ き で あ ろ う 139。お 茶 の
水女子大学附属小学校の岡田氏が述べていたように、一教科のみが実施したところでは、
大 き な 効 果 が 期 待 で き な い の で あ り 、学 校 全 体 の 取 り 組 み と す る た め に は 、教 員 集 団 が チ ー
ムとなり、共同でステージアップを志すことが重要である。
現場体験活動を行うタイプの市民的リテラシー教育の学びをコーディネートする場合に
つ い て は 、教 員 が 地 域 社 会 の 人 材 や N P O な ど に つ い て 把 握 で き て い な い と い う 問 題 が あ る 。
当 面 は ( 予 算 の 問 題 が あ ろ う が )、 大 学 コ ン ソ ー シ ア ム 京 都 N P O ス ク ー ル が そ う し た よ う
に、第三者にコーディネーター権限を委譲し、共同開発管理型で市民的リテラシー教育の
実施/管理を行っていくほかないのではないだろう。そのプロセスから既存の価値の「ゆ
らぎ」もまた経験すると思われ、良い学びの機会となろう。
な お 、長 沼[ 20 00: p p .64 -6 7]に よ る と 、イ ギ リ ス の 市 民 教 育 に お い て も 、教 員 の ト レ ー
ニングは課題となっており、民間の中間支援センターがトレーニング事業を行っているも
模索しながらであると言う。
3.民主的な学校共同体へ−公共圏で「公共圏」を学ぶ−
本章は 1 節において、前章の事例研究で浮かび上がった「学びの特徴」を手掛かりに、
市民的リテラシー教育を支える理論を整理し、そうした理論を具現化したモデルとして、
サービス・ラーニングのレンズモデルを紹介した。そして 2 節においては、市民的リテラ
シ ー 教 育 を 支 え る 理 論 を 実 践 化 し て い く 上 で の 課 題 を 挙 げ 、そ れ ぞ れ に つ き 考 察 を 行 っ た 。
こ こ ま で で 、キ ー コ ン セ プ ト が「 活 動 体 験 」
「 対 話 」「 状 況 か ら の 学 び 」「 振 り 返 り ( 探 求 )」
といったもので示される「学びのデザイン」についての素描は大体において、できたので
はないかと考えている。
しかし、これらの議論は、前章の事例研究から踏まえ、主に「授業」での「学びのデザ
イン」を想定したものであった。既に何度か述べているように、市民的リテラシー教育が
効果ある形でなされるには、新しい教科として付け加えたり、社会科を読み替えたり、ま
た総合的な学習の時間の中で行われたりするだけでは不十分であり、学校全体で取り組ん
でいく必要がある。それは、単純に全ての授業がデューイの経験主義に基づく問題解決学
の反応によって、必要とされる時間は変わってこよう。
志 水 [ 2 003: pp .48 -57] は 、「 力 の あ る 学 校 」 の 内 実 を つ く る の は 、 教 員 の チ ー ム ワ ー
クが大きいと述べ、事例を元に、教員が相互に支えあい、高めあっていくことの重要性を
確認している。
139
74
習 を す れ ば 良 い と い う こ と だ け で は な い 。 ウ ィ ッ テ ィ ー [ 2 004 : pp.1 49- 15 0 ] が 、 デ モ ク
ラ テ ィ ッ ク ・ ス ク ー ル ( ア ッ プ ル & ビ ー ン [ 1 99 6 ]) の 議 論 も 踏 ま え て 述 べ て い る よ う に 、
「隠れたカリキュラム」も含めて、学校での日常経験が市民教育の原理に基づくものへと
し て い く こ と が 必 要 で あ る 。本 節 で は 、前 節 ま で の 議 論 の「 個 別 の 授 業 」と は 別 の 次 元( 学
校 全 体 )の 視 点 か ら 、よ り 効 果 の あ る 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 に 向 け て 、
(そして今後の研究
の布石として)どういったことが必要かを考えておきたい。なお、そうした際でも、1 節
で示した理論的背景は貫かれるものである。デモクラティック・スクールの考え方が、
デ ュ ー イ [ 1 99 8] の ア イ デ ア で あ る こ と か ら も 、 そ れ は 明 ら か で あ ろ う 。
デ モ ク ラ テ ィ ッ ク ・ ス ク ー ル と は 、 従 来 の 学 校 が 「 慈 悲 深 い 独 裁 的 組 織 」( 吉 良 [ 2 0 0 3 :
p . 390]) で あ っ た の に 対 し 、「 学 校 統 治 に と ど ま ら ず 、 授 業 経 営 、 人 間 関 係 ま で 含 め て 、 民
主 的 に 組 織 さ れ た 学 校 」( 吉 良 [ 前 掲 書 : p.3 92 ]) で あ る 。 ア ッ プ ル & ビ ー ン [ 1996 ] は 、
その具体的な事例をまとめているが、同書では教科のカリキュラムづくりから、学校経営
の意思決定にまで、生徒や地域住民が参画をしている事例を見ることができる。
このように授業のみならず、学校全体が民主的空間となり、実効性の高い公共圏が立ち
上げられることは、政治的効力感を有した公共圏の担い手を育むことに大きな貢献をもた
ら す と 言 え よ う 。 阿 部 [ 199 8: p.2 4 3] は 、 フ レ イ ザ ー [ 199 9: pp.1 41- 14 2] の 議 論 に 着 想
を得て、公共圏が「討論を通じて公論が形成される場」としてのみならず、その文化的な
側 面 か ら「( 公 衆 と し て の )ア イ デ ン テ ィ テ ィ が 形 成 さ れ て い く 場 」と し て も 機 能 す る こ と
を 述 べ て い る 。 ハ ー バ ー マ ス [ 199 4 : p .4 8 ] も ま た 、 文 芸 的 公 共 圏 が 「 公 共 の 議 論 の 練 習
場」として機能していたことを踏まえ、文芸的公共圏での議論には「私人」が「公衆」と
なる自己啓蒙の過程としての側面があったことを指摘している。状況学習論の視座から言
えば、公共圏への正統的周辺参加とも言える。すなわち「公共圏で公共圏を学ぶ」という
ことであろう。
デモクラティック・スクールの試みは、そうした「アイデンティティ形成の場」として
学校が機能することを目指すことに他ならず、いわば学校での生活体験を通じた学習が、
そのまま市民的リテラシー教育となると言える。
こ う し た 取 り 組 み は 、 吉 良 [ 200 3 : pp .399- 40 2 ] が 述 べ る よ う に 、 容 易 な ら ざ る も の で
あ り 、 実 際 に 様 々 な 葛 藤 を 抱 え な が ら 、 進 め ら れ て い る 140。 し か し 、 そ う し た 葛 藤 に こ そ
意味があろう。もし、デモクラティック・スクールのような「学校を舞台とする公共圏」
が「権力の真空状態」の場であれば、それは形式的な参画に過ぎず、意味をなさない。
批判的教育学は、学校を「デモクラティックな闘争の場」や「ポリフォニックな対話を
140
吉 良 [ 前 掲 書 : pp .40 4- 40 6] は 、 デ モ ク ラ テ ィ ッ ク ・ ス ク ー ル が 成 立 す る た め の 「 生 徒
と 教 員 の 信 頼 関 係 」を 生 み 出 す 要 因 と し て 、以 下 の よ う な も の を 挙 げ て い る 。
「規模の小さ
さ 」( 吉 良 の 訪 れ た 学 校 は 一 学 年 115 人 )、「 継 続 性 」( 同 じ 校 舎 で 同 じ 教 員 と 数 年 間 学 べ る
< 最 長 三 年 > な ど )、「 生 徒 の 意 見 を 反 映 さ せ る 制 度 の 確 立 」、「 高 い 教 員 の 資 質 ( 参 画 型 の 学
び が 実 施 で き 、 格 差 再 生 産 へ の 批 判 的 想 像 力 が あ る )」、「 生 徒 の 共 同 体 意 識 」。
75
可 能 に す る 公 共 空 間 」「( 再 生 産 へ の ) レ ジ ス タ ン ス の 場 」 と し て 捉 え た が ( 田 中 [ 20 03:
p . 170 ])、 そ う い っ た 空 間 へ ど れ だ け 近 づ け る か が 重 要 で あ ろ う 。 第 2 章 末 に て ウ ィ ッ
ティーの指摘として、学校を外部の影響や刺激からシャットアウトするのではなく、取り
込んで考えていくことの必要性を示したが、批判的教育学の視角はウィティーの指摘にも
応えるものであろう。
こ う し た 視 座 は 、通 常 の 授 業 時 に お い て も 、持 た れ て も 良 い も の で あ ろ う 。
「隠れたカリ
キュラム」を主題化した授業のように、日常の生活の中の権力作用を明るみに出していく
授業は討議能力を支える批判的知性の向上に大きな貢献をするであろう。
もちろん、こうした議論は余りに先駆的で、一般的ではない。しかし、こうした方向性
を志向し、学校全体での市民的リテラシー教育に向けた小さな取り組みを積み重ねること
が必要となるのではなかろうか。市民的リテラシー教育は、本章でまとめた「学びのデザ
イン」で示されるような「授業」と同時に、デモクラティック・スクールで見られるよう
な実効性ある公共圏での活動(からの学び)が合わさることで、より効果ある学びとなる
であろう。
なお、デモクラティック・スクールの基盤にあるのは「民主的な人間関係」であるが、
吉 良 [ 20 01: p p. 396 -39 7] は 事 例 調 査 先 ( ブ ル ッ ク ラ イ ン 公 立 高 校 SW S) で 見 ら れ た 厚 い
信 頼 関 係 の 特 徴 と し て 次 の 3 つ を 挙 げ て い る 。 (1 )互 い を 熟 知 し て い る 、 (2) 互 い に 敬 意 を
払 っ て い る 、 ( 3)教 職 員 が 個 人 的 に も グ ル ー プ と し て も 生 徒 を ケ ア し て い る 。 こ う し た 「 安
心の空間」が、あらゆる授業においても、生徒の参加を求める場合、求められてこよう。
こうした人間関係があるからこそ、激しい議論も破綻せずに熟議されるのである。
以上のように、本章では前章までの議論を踏まえ、市民的リテラシー教育の学びのデザ
インのコンセプトを明らかとすることに取り組んだ。また、そうした学びがより効果ある
ものとなるべく、学校空間全体の民主化の必要性を指摘した。
次の終章では、これまでの議論を整理した上で、市民的リテラシーを論じ、実践してい
く上での今後の方向性を明らかとして、まとめとする。
76
終章
公共圏のコミュニケーションの成熟へ
本論文は、民主主義が危機に瀕する中で、公共圏/市民社会の担い手たるアクティブで
批判的な市民がいかにしたら育成されるのかという問題意識の下、市民的リテラシー教育
のあり方を、主に「学びのデザイン」という微視的な視点から捉えることを試みてきた。
なお、実践的な課題を考える際には、学校教育を想定した。
序章では、本論文の問題意識と全体構成を明らかとし、続く第 1 章では、市民社会の規
範的なモデルとして公共圏概念に注目した。公共圏の歴史的展開を概観し、現代的意義を
確 認 し た 後 、そ う し た 公 共 圏 が 現 在 抱 え て い る 課 題 と し て 、
「 幅 広 い 市 民 の 参 加 」を 取 り 上
げた。
第 2 章では、そうした公共圏や市民社会の担い手に求められる技能を市民的リテラシー
と名づけ、どういう要素によって構成されるのかを検討した。本論文では「共生の技能と
作 法 」、「 討 議 能 力 と そ れ を 支 え る 批 判 的 知 性 」、「 市 民 的 問 題 解 決 行 動 」 の 三 つ の 要 素 の 複
合的なものとして、市民的リテラシーを考えることとした。その上で、イギリスの市民教
育のカリキュラムを市民的リテラシー教育の方向性の一例として示した。
第 3 章では、市民的リテラシーを育むことを促していると思われる国内の実践事例を取
り上げ、そうした教育実践の象徴的な特徴を探り、市民的リテラシー教育プログラムを実
施していく際に留意すべきことを 7 項目に整理した。
第 4 章では、そうした実践事例から示された学びの特徴を元に、どういった理論的背景
を市民的リテラシー教育は持ちえるのか、またそうした理論は学校現場で実践化していく
際 に ど う い っ た 課 題 が 考 え ら れ る か を ま と め た 。こ の 作 業 の 中 で 、
「 学 び の デ ザ イ ン 」の キ ー
コ ン セ プ ト と し て 、「 活 動 体 験 」
「 対 話 」「 状 況 か ら の 学 び 」「 振 り 返 り ( 探 求 )」 と い っ た も
のを挙げた。
こうして議論を進めてきたのであるが、本章ではまとめにあたって、市民的リテラシー
教育を学校に導入する方向性を述べ、同時に本論文がアプローチできなかった大きな課題
を示したい。
1.関係性をひらいていく
本論文では、アクティブで批判的な市民(市民的リテラシーが形成された市民)の育成
について、学校がどういう学びを提供すべきかということを考えてきたわけであるが、繰
り 返 し 、本 論 文 で 模 索 し て き た「 学 び の デ ザ イ ン 」を 抽 象 的 に ま と め る と 次 の よ う に な る 。
( 1 )ま ず 、 自 分 と 「 自 分 / 他 者 / 世 界 」 と の 関 係 性 を ひ ら き ( 従 来 の 枠 か ら 解 き 放 ち )、
( 2 )自 由・平 等 な コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を 通 じ て 、ダ イ ナ ミ ッ ク な 相 互 作 用 を 起 こ し な が ら 、
( 3 )実 社 会 と の つ な が り を 意 識 し て 、何 か を 生 み 出 し て い く( 時 に 公 共 圏 に 働 き か け る )、
( 4 )知 識 も 織 り 交 ぜ な が ら 体 験 か ら 学 ん で い く 。
このプロセスを貫く概念として、創造的寛容、反省的思考、批判的知性が基底に据えら
77
れることで、市民的リテラシーの形成へとつながっていく、大雑把に描けばこういうこと
で あ っ た 。な お 、こ の プ ロ セ ス は 順 を 追 っ て 展 開 さ れ る も の で は な く 、実 際 に は 入 り 混 じ っ
て展開されるものである。
こうした行為は子どもに対してのみ求められるものではない。教員にも求められるもの
である。また、多少の読み替えを行えば、学校という組織体にも求められることとして提
示 で き よ う 。第 3 章 や 第 4 章 で 何 度 か 、市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 プ ロ グ ラ ム の 運 営 に つ い て 、
言及を行っているが、これからの学校は、まず社会/子どもへと関係性をひらき、様々な
人々に乗り入れてもらい、そうした人々と協働で学校づくりに取り組む、或いは公共圏を
形成する、ということが極めて重要なことになろう。それは規範的な物言いに留まるもの
で は な い 。様 々 な 思 惑 が 入 り 混 じ っ た も の で は あ る が 、社 会 的 な 要 請 と し て も 出 て こ よ う 。
そ し て 、こ の 過 程 を 通 じ 、
「 教 育 」が 学 校 の 所 有 物 か ら 、地 域 の 所 有 物 へ と 変 容 し て い く こ
とが、長い目では必要であろう。
宮 台 [ 199 7: p .20] は 、 イ リ イ チ の 「 学 校 化 」 と い う 概 念 を 踏 ま え て 、「 日 本 的 学 校 化 」
と い う 問 題 提 起 を し て い る 。日 本 的 学 校 化 と は 、家 や 地 域 が「 学 校 の 出 店 」と な り 、サ ポ ー
ト機関となってしまうことを指す。確かにこれまで、学校と地域という関係性を見た時、
学校的価値観が地域社会に流出するという構図で展開されたことは否めない。
しかし、これからの関係は、寧ろその逆の状態、地域社会などの現実世界の価値観が学
校に流入していくという構図で展開される局面が増えてこよう。そうした価値観がせめぎ
合う中での、使う/使われるの関係ではない、協働的実践としての「学校づくり」によっ
て、コミュニティが活性化していくことも考えられる。この流れが実現すれば、第 4 章 3
節で見た学校という組織体の民主化は絵空事ではなくなろう。
市民的リテラシー教育を学校教育へと導入していく際には、一つは第 3 章や第 4 章で見
られた、個々の「授業」レベルでの取り組みがある。第 4 章 1 節で見たサービス・ラーニ
ン グ は そ の 分 か り や す い モ デ ル で あ っ た 。し か し 、第 4 章 3 節 で 述 べ た よ う に 、
「隠れたカ
リキュラム」を踏まえれば、それだけでは不十分である。上述したように学校という組織
体がひらかれ、民主的になることもまた、効果ある市民的リテラシー教育には必要なこと
である。
以上が、本論文における、学校における「市民的リテラシー教育」の実現の方向性を指
し示す結論である。こうした結論は、何ら新鮮なものではないかもしれない。しかし、未
だ、
「 慈 悲 深 い 独 裁 主 義 」が 授 業 で も 、学 校 づ く り で も 見 ら れ る 現 在 、市 民 的 リ テ ラ シ ー 教
育(市民教育)という、近年注目を集める取り組みが、学校の内と外を結びつける教科横
断的なものであるが故に「根底からの変革」を促し得るという可能性を示せたのではない
かと思われる。
2.日常のコミュニケーションの変革へ
筆者の深い部分での問題意識は、公共圏概念の有効性をいかにして高めていくのか、と
78
いうものである。その解決のアプローチの一つとして、今回は学校における市民的リテラ
シ ー 教 育 を 取 り 上 げ た が 、あ く ま で 手 段 と し て の 認 識 で あ る 。そ こ で 、本 論 文 の 最 後 に は 、
市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 に つ い て 、「 学 校 」 と い う 枠 に 捉 わ れ ず に 考 え 、「 次 」 へ の 橋 渡 し を
行いたい。
もともと市民的リテラシー教育は、市民社会の中で行われるものであったし、実際に行
われてきたものである。第 4 章 3 節で紹介した「アイデンティティが形成される場」とし
ての公共圏という考えに立てば、日常のコミュニケーションの中に公共圏が存在し、その
場においてエンパワーメントされ、市民的リテラシーを形成していく、というのが本来の
あるべき姿に他ならない。
しかし、実際にはそうした市民的リテラシーが形成の機能は十分に発揮されていないが
故 に 、学 校 と い う 装 置 を 用 い て 、代 替 し よ う と い う 考 え が あ る の だ が 、そ れ と 同 時 並 行 で 、
考えるべきは、市民社会の中での教育の活性化であろう。そうでなければ、イリイチの学
校 化 批 判 に あ る よ う に 、「 学 校 で し か 学 べ な い 」 と い う も の と な っ て し ま う 。
本論文では、教育の中の学びのデザイン、そしてその場でのコミュニケーションを従来
の教育から「変革」する必要性を示してきた。しかし、以上の観点から考えれば、最も現
状のコミュニケーションを変革しないといけないのは、日常のコミュニケーションであろ
う。
日常のコミュニケーションの変革、ひいては公共圏のコミュニケーションの成熟化を考
える際に、前節で主張したような学校への市民的リテラシー教育の導入/実践もまた、さ
さやかながらの貢献をするものではないかと考える。学校への市民的リテラシー教育の導
入/実践が地域の人々と共に行われることを通じて、地域の成人もまた(周辺的なところ
から)市民的リテラシー教育について学び、市民的リテラシーが高まること可能があるか
らである。
も ち ろ ん 、こ れ だ け で は 不 十 分 で あ り 、様 々 な ア プ ロ ー チ で も っ て 、日 常 の コ ミ ュ ニ ケ ー
ションの変革が必要である。本論文において示された、市民的リテラシー教育の学びのデ
ザインやコミュニケーションのあり方は、権力作用への感性を持つことなど、市民社会の
市民的リテラシー教育や、日常のコミュニケーションの変革の方向性として、幾つかの示
唆 を 与 え る の で は な か ろ う か 。本 論 文 で は そ の 作 業 を 行 わ な い が 、他 日 を 期 し て 挑 み た い 。
思想や理念をバックボーンとしてもたずに、ただただ現実に対応していくだけの「節操
なき現実主義」が存在感を示し、公共圏での議論の意味が無効化されんとしている。とも
すれば、そうした動きに押し流され、政治的無感情となりかねない時代である。そうした
流れに抗っていかねば、民主主義はまさに「飾り物」と化してしまう。そうした抗いとし
て は 、「 あ き ら め ず 」 地 道 に 、( 小 さ な ) 公 共 圏 に お け る 批 判 的 討 論 と 市 民 社 会 に お け る ア
クションの展開に取り組んでいくしかないのであろう。
ア ン ト ニ オ・グ ラ ム シ は 、
「 理 知 の ペ シ ミ ズ ム 、意 志 の オ プ テ ィ ミ ズ ム 」と 言 っ た 。本 論
79
文で得た知見を、意志に支えられつつ、実践へとつなげることが、今後の筆者に求められ
てこよう。
80
あとがき
至らないところが目に付き、
「 あ と が き 」を 書 く に は 、正 直 ま だ 不 十 分 な 気 が す る が 、不
十分ながらも一つのまとまった論文となったところで、一つの区切りをつけておこう。
筆者は、卒業論文において、メディア・リテラシーの(思想に裏打ちされた)実践が、
公共圏の議論と参加を活性化させる契機となるものではないかということをまとめた。し
か し 、同 論 文 執 筆 中 に 、
「 メ デ ィ ア ・ リ テ ラ シ ー さ え 身 に つ け れ ば 、市 民 に な っ た と 言 え る
のか?」という問題を抱えるようになった。その後、様々なリテラシー論に目を配りなが
ら、次第にそれら全体の基盤となるような「市民的リテラシー」というものが、提起され
る べ き で は な い か 、 と 思 う よ う に な っ た の で あ る 。 20 02 年 1 2 月 の こ と で あ る 。
ち ょ う ど そ の 頃 は 、2 00 2 年 9 月 か ら イ ギ リ ス に お い て 市 民 教 育 が 必 修 化 さ れ る と い う こ
とで、市民教育に関する取り組みが盛んに紹介されており、そうした偶然の出会いから、
本論文のテーマへと発展していったのである。
卒業論文からのつながりで言えば、公共圏概念の検討という作業は継承されたし、また
メ デ ィ ア・ リ テ ラ シ ー か ら 市 民 的 リ テ ラ シ ー へ と い う 卒 業 論 文 で 、
「 積 み 残 し 」の 形 で 出 し
た議論は継承し、今回発展させられた。しかし、メディアと公共圏/市民の関係性に関す
る議論については継承できず、この点は今後、別の形で発展させていきたい。
さて、そうした中で、書きあがった論文であるが、筆者が一番心配しているのは、本論
文が、本文中で批判をした「啓蒙モデル」や「エリート意識」に掠め取られていないか、
ということである。もしあれば、それは大いなる矛盾に他ならない。シティズンシップと
いう、既に学会でも馴染みのある言葉ではなく、市民的リテラシーという言葉を用いたの
は、こうした矛盾への警戒意識からであったが、どこまでその警戒が実を結んだのか、正
直、胸を張っていえるほどの自身はない。自らの中に、全く「啓蒙」意識がないとは言い
切れないし、こうした「お節介」な論文を書こうとしている、自分にはそうした側面があ
ることは、容易に想像できる。その点については、本論文の議論をより精緻なものにして
いく際に、再度チェックを入れたい。
他に、積み残した課題も多く、筆者の力量不足を激しく痛感したのも事実である。
最も大きな積み残した課題は、
「 教 育 シ ス テ ム 」に つ い て の 考 察 で あ る 。個 別 の 学 校 や 教
室での取り組みレベルは、大きな教育システムと不可分の関係であり、どういった支えが
必要なものであったのかという部分への言及は必要であったように思われる。そうした研
究が社会デザイン学としても望まれていたであろう。次に大きな積み残した課題は、若者
論やアイデンティティ論について、論じられなかったという点である。また、現在の学校
教育の実態についての言及や、市民的リテラシー教育の担い手となる市民がどのように確
保されるのかという論点についての記述が浅くなったことが、本論文の説得力を下げてい
ることは、読者の指摘を待つまでもない反省点である。個人的には、第 4 章 2 節 2 項で取
り上げた演技的コミュニケーションについては、ゴフマン社会学を整理した上で挑みた
81
かった。手が及ばず、不十分な議論になっているのも残念なところである。
なお、発展していくための今後の課題としては、身体論から市民的リテラシー教育を捉
えるということ、成人教育と学校教育の市民的リテラシー教育としてのつながりを高める
ということ、学校外でなされる社会参画についての学習についての検討を行うこと、こう
したことが示せよう。またカリキュラム論からの検討も今後の議論を精緻なものとするに
は必要であろう。いずれ他日を期し、幾つかの課題とは向き合いたい。
こうした課題の山積状態にも象徴的だが、本論文は社会学、政治学、教育学のいずれの
既存の学問分野から見ても、結果的には「中途半端」な論文となった。しかし、そうした
「 中 途 半 端 さ 」や 、そ れ 故 の 論 理 展 開 に 粗 雑 さ に つ い て は 、
( 身 の 丈 に 応 じ な い )既 存 学 問
の切り結びへの冒険の結果であるとして、大目に見ていただけると幸いである。もし万が
一にでも、社会デザイン学という「新しい学」の構想への貢献となっておれば、この上な
い喜びである。
最後に、本論文を書くにあたって、お世話になった方々への謝意を記したい。
ま ず 、今 回 の 修 士 論 文 執 筆 の た め に 、ご 多 忙 な 中 に も か か わ ら ず 、長 時 間 の イ ン タ ビ ュ ー
の 機 会 を お 与 え く だ さ っ た 岡 田 泰 孝 先 生 ( お 茶 の 水 女 子 大 学 附 属 小 学 校 教 諭 )、山 口 洋 典 氏 ( 大 学
コ ン ソ ー シ ア ム 京 都 研 究 主 幹 )、 佐 藤 芳 孝 先 生 ( 都 立 千 早 高 校 校 長 )、 長 沼 豊 先 生 ( 学 習 院 大 学 助 教 授 )
に心より感謝申し上げたい。特に、岡田先生には、急な依頼にもかかわらず、授業観察の
機 会 ま で ご 提 供 い た だ け た こ と に 、お 礼 を 申 し 上 げ た い 。本 論 文 が 現 場 に と っ て リ ア リ テ ィ
のある、有意味なものになっているとすれば、それは諸先生方との「対話」と「支援」が
あったからに他ならない。
市 民 活 動 の 現 場 の 実 践 の 中 で は 、 高 田 研 先 生 ( 岐 阜 県 立 森 林 文 化 ア カ デ ミ ー 教 授 )、 長 尾 文 雄
先 生 ( 聖 マ ー ガ レ ッ ト 生 涯 教 育 研 究 所 主 任 研 究 員 )、 興 梠 寛 氏 ( 世 田 谷 ボ ラ ン テ ィ ア 協 会 理 事 長 )、 加 藤
哲夫氏(せんだい・みやぎ
N P O セ ン タ ー 代 表 理 事 )、 青 木 将 幸 氏 ( 青 木 将 幸 フ ァ シ リ テ ー タ ー 事 務 所 代
表 )、 吉 田 理 映 子 氏 ( 市 民 情 報 セ ン タ ー ・ ハ ン ズ オ ン ! 埼 玉 )、 赤 澤 清 孝 氏 ( き ょ う と N P O セ ン タ ー 事
務 局 次 長 )、 佐 々 倉 玲 於 君 ( ま ち な か 研 究 所 わ く わ く 理 事 )、 三 浦 一 郎 君 ( 関 西 学 院 大 学 ) を 始 め と
する「活動仲間」の諸氏との交流とご指導の中で、インスパイアされ、知見を見出すヒン
トを数多く頂戴した。お礼を申し上げる。
最 後 の 最 後 に 、 論 文 指 導 を お 引 き 受 け い た だ い た 中 村 陽 一 先 生 ( 立 教 大 学 大 学 院 教 授 )、 そ
し て 学 部 時 代 か ら ご 指 導 い た だ い て い る 阿 部 潔 先 生( 関 西 学 院 大 学 教 授 )の 両 先 生 に 心 か ら 深
謝申し上げたい。大学院生としては相当に不出来な筆者が、このように一遍の論文を何と
か書き上げられたのは、先生方のご指導の賜物である。
皆さま、本当に有難うございました。
2 00 5 年 1 月
川 中
大 輔
82
文 献 一 覧
秋田喜代美
『子どもをはぐくむ授業づくり−知の創造へ』岩波書店
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200 3
『 自 由 を 考 え る − 9 .11 以 降 の 政 治 思 想 』 N HK ブ ッ ク ス
アップル,マイケル/ビーン,ジェームズ
1 99 6
『デモクラティックスクール−学校
とカリキュラムづくりの物語』澤田稔訳、アドバンテージサーバー
渥美公秀
2 00 1
『ボランティアの知−実践としてのボランティア研究』大阪大学出版
会
阿部潔
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武 蔵 野 大 会 発 表 資 料 ( デ ィ ス カ ッ シ ョ ン ・ ペ ー パ ー )、 未 公 刊
姜尚中/スズキ,テッサ・モーリス
姜尚中・吉見俊哉
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ギデンズ,アンソニー
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精文・立松隆介訳、而立書房
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宏之・佐々木毅・塩沢由典・杉山光信・姜尚中・須藤修編『社会科学の方法Ⅷ シ
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「 大 学 と 地 域 が 協 働 で 取 り 組 む N P O 人 材 養 成 − N P O ス ク ー ル 」、 き ょ
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う と NPO セ ン タ ー ・ 京 都 新 聞 社 会 福 祉 事 業 団 編 『 京 都 発 N PO 最 前 線 − 自 立 と 共 生
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学 会 N P O 教 育 研 究 会 編 『 N PO 教 育 と 人 材 育 成 』 日 本 N P O 学 会 、 pp .6 7-7 7
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「 大 学 の ま ち・京 都 で の 社 会 起 業 家 育 成 プ ロ グ ラ ム − コ ミ ュ ニ テ ィ ・
ビ ジ ネ ス & サ ー ビ ス に 注 目 す る 意 味 ・ 意 義 」、 地 方 自 治 研 究 機 構 『 地 域 政 策 研 究 』
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「 新 し い 学 び の 場 を 創 出 す る 京 都 の 挑 戦 」、 大 阪 ガ ス エ ネ ル ギ ー ・ 文
化 研 究 所 『 C E L 』 6 1 号 、 p p. 32 -36
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「 自 ら の 経 験 を 抽 象 化 し て 呈 示 す る 6 つ の 力 を 育 て て い る 」、
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教 育 』 第 22 号 、 pp .14- 19
2 00 3b
「 N P O 分 野 の 教 育 ・ 人 材 育 成 講 座 事 務 局 の 役 割 に 関 す る 一 考 察 」、 大
阪 大 学 大 学 院 人 間 科 学 研 究 科 ボ ラ ン テ ィ ア 人 間 科 学 講 座 『 Σ YN 』( ボ ラ ン テ ィ ア 人
間 科 学 紀 要 ) 第 4 号 (2)、 pp .3 79 -39 0
山 之 内 靖 ・ 村 上 淳 一 ・ 二 宮 宏 之 ・ 佐 々 木 毅 ・ 塩 沢 由 典 ・ 杉 山 光 信 ・ 姜 尚 中 ・ 須 藤 修 編『 社
会科学の方法Ⅷ システムと生活世界』岩波書店
山脇直司
吉田純
2 00 4
2 00 0
『公共哲学とは何か』ちくま新書
『インターネット空間の社会学−情報ネットワーク社会と公共圏』世界
思想社
リ オ タ ー ル ,ジ ャ ン = フ ラ ン ソ ワ
19 86
『 ポ ス ト・モ ダ ン の 条 件 − 知・社 会・言 語 ゲ ー
93
ム』小林康夫訳、水声社
リ ッ プ ナ ッ ク . J/ ス タ ン プ ス , J
1 984
『ネットワーキング−ヨコ型情報社会への潮流』
正村公宏監修・社会開発統計研究所訳、プレジデント社
リンドクウィスト,アーネ/ウェステル,ヤン
『あなた自身の社会−スウェーデンの
中学教科書』川上郁夫訳、新評論
レイヴ,ジーン/ウェンガー,エティエンヌ
19 93
『状況に埋め込まれた学習−正統
的周辺参加』佐伯胖訳、産業図書
ワークショップ・ミュー編
19 99
『「 ま な び 」 の 時 代 へ − 地 球 市 民 の 学 び ・ 3 0 人 の 現
場』小学館
鷲田清一
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「 聴 く こ と の 力 」、ケ ア す る 人 の ケ ア・ サ ポ ー ト シ ス テ ム 研 究 委 員 会 編
『 生 命 に 寄 り そ う 風 景 − ケ ア す る 人 の ケ ア 』 た ん ぽ ぽ の 家 、 pp .7 3-8 6
渡部淳
200 1
『 教 育 に お け る 演 劇 的 知 − 21 世 紀 の 授 業 像 と 教 師 の 役 割 』 柏 書 房
94
<論 文 要 旨 >
学校における「市民的リテラシー教育」の導入の方向性
−教育を通じた公共圏のコミュニケーションの成熟化に関する一考察−
立 教 大 学 大 学 院 21 世 紀 社 会 デ ザ イ ン 研 究 科 比 較 組 織 ネ ッ ト ワ ー ク 学 専 攻
正指導教授:中村陽一教授
副指導教授:北山晴一教授
学 籍 番 号 03 V M 0 1 7 B
川 中
大 輔
1. 研 究 目 的
本 論 文 は 、現 代 の 民 主 主 義 が 危 機 に 瀕 す る 中 で 、公 共 圏 / 市 民 社 会 の 担 い 手 た る ア ク テ ィ
ブで批判的な市民がいかにしたら育成されるのかという問題意識の下、市民的リテラシー
教育のあり方を、主に「学びのデザイン」という微視的な視点から捉えることを試みた。
なお、実践的な課題を考える際には、学校教育(主に中等教育)を想定した。
2. 構 成
本 論 文 の 構 成 は 大 き く 分 け て 、( 1 )理 論 的 前 提 を 整 理 す る た め の 第 1 章 と 第 2 章 、(2 )実 践
事 例 を 紹 介 す る 第 3 章 、 ( 3)事 例 研 究 か ら 浮 か び 上 が る 理 論 的 背 景 を 明 ら か と す る 第 4 章 、
( 4 )全 章 を 整 理 し つ つ 、 今 後 の 展 望 を ま と め る 終 章 の 四 部 構 成 で あ る 。
3. 各 章 要 約
第 1 章では、市民社会の規範的なモデルとしてハーバーマスの公共圏概念に注目した。
公共圏の歴史的展開を概観し、現代的意義を確認した後、ナンシー・フレイザーらの内在
的 批 判 を 検 討 し な が ら 、公 共 圏 が 現 在 抱 え て い る 課 題 を 明 ら か と し た 。そ の 上 で 本 稿 は「 幅
広い市民の参加」という課題を取り扱うこと、そしてその課題に「教育」というアプロー
チをとることを述べた。
第 2 章では、そうした公共圏や市民社会の担い手に求められる技能や態度を市民的リテ
ラシーと名づけ、シティズンシップ概念を参照しながら、どういう要素によって構成され
る の か を 検 討 し た 。本 論 文 で は 、
「 共 生 の 技 能 と 作 法 」、
「討議能力とそれを支える批判的知
性 」、「 市 民 的 問 題 解 決 行 動 」 の 三 つ の 要 素 の 複 合 的 な も の と し て 定 義 し た 。 そ の 上 で 、 イ
ギリスの市民教育のカリキュラムを市民的リテラシー教育の方向性の一例として示した。
第 3 章では、市民的リテラシーを育むことを促していると思われる国内の実践事例(お
茶の水女子大学附属小学校、都立千早高校、大学コンソーシアム京都)を取り上げ、そう
した教育実践の象徴的な特徴を探り、市民的リテラシー教育プログラムを実施していく際
に 留 意 す べ き こ と を 次 の 7 項 目 に 整 理 し た 。( 1 )参 加 者 同 士 の 相 互 作 用 の 重 視 、(2 )基 本 的 に
は 、 学 習 項 目 を 生 徒 に 依 存 し て い る 、 (3 )「 答 え 」 を 必 ず し も 教 員 が 有 し て い な い 問 題 を 取
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り 扱 っ て い る 、(4 )「 行 動 の た め の 座 学 」と い う 座 学 の 位 置 づ け 、(5)学 び が 実 際 の 社 会 と つ
な が っ て い る 、( 6)学 校 外 部 と の 深 い 協 働 、(7 )市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 を 学 校 全 体 の 取 り 組 み
と見做している、以上 7 項目である。
第 4 章では、第 3 章で紹介した実践事例から示された学びの特徴を元に、どういった理
論的背景を市民的リテラシー教育は持ちえるのか、またそうした理論は学校現場で実践化
していく際にどういった課題が考えられるかをまとめた。この中で、理論的な背景として
は、デューイの経験主義、フレイレの対話型教育、ウェンガー&レイブの状況学習論が導
きだせ、それらを接合する学習モデルとして、サービス・ラーニングのレンズ・モデルと
言 わ れ る 学 習 フ ロ ー を 取 り 上 げ た 。そ の 際 、本 稿 で 言 う 市 民 的 リ テ ラ シ ー 教 育 に 合 う よ う 、
体 験 活 動 後 の 批 判 的 考 察 の 部 分 に 、若 干 の 修 正 を 施 し た 。以 上 の 作 業 の 中 で 、
「学びのデザ
イ ン 」の キ ー コ ン セ プ ト と し て 、
「活動体験」
「対話」
「状況からの学び」
「 振 り 返 り( 探 求 )」
といったものを挙げ、
「活動体験」
「対話」
「 振 り 返 り 」な ど に つ き 、実 践 時 に ど の よ う に 行
われるべきか、また課題としてどういう事柄が挙げられるかを論述した。
終章では、先行する各章での議論と知見を踏まえつつ、市民的リテラシー教育を学校教
育に導入する方向性について論じた。その結論としては、以下の通りである。
市民的リテラシー教育を学校教育へと導入していく際には、一つは第 3 章や第 4 章で見
ら れ た 、 個 々 の 「 授 業 」 レ ベ ル で の 取 り 組 み が あ る 。 し か し 、「 隠 れ た カ リ キ ュ ラ ム 」 と い
う概念を踏まえれば、それだけでは不十分であることが言える。学校という組織体そのも
のが、ひらかれ、民主的になることもまた、効果ある市民的リテラシー教育には必要なこ
とである。
こ う し た 結 論 は 、何 ら 新 鮮 な も の で は な い か も し れ な い 。し か し 、未 だ 、
「慈悲深い独裁
主義」が授業でも、学校づくりでも見られる現在、市民的リテラシー教育(市民教育)と
いう、近年注目を集める取り組みが、学校の内と外を結びつけるもので、しかも教科横断
的なものであるが故に「根底からの変革」を促し得ることは、示せたのではないかと思わ
れる。
最後に、このような形で市民的リテラシー教育が学校に導入されることで、アクティブ
で批判的な市民が育つこと、そして同時にその導入/実践が地域の人々と共に行われるこ
とで、地域の成人もまた市民的リテラシー教育について学び、市民的リテラシーが高まる
こと可能性につき言及した。この可能性は、公共圏のコミュニケーションが成熟化に貢献
し得るもので、筆者の問題意識への応答となり得ると見做し、本論文を締め括った。
4. 今 後 の 研 究 上 の 課 題
1. 教 育 シ ス テ ム 論 か ら の ア プ ロ ー チ
2. 若 者 論 / ア イ デ ン テ ィ テ ィ 論 か ら の ア プ ロ ー チ
3. カ リ キ ュ ラ ム 論 か ら の ア プ ロ ー チ
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