第3回 音階とリズム:音楽を疑え!

第3回
派のミュージシャン/アーティストにとって、それはな
音階とリズム:音楽を疑え!
くてはならない存在です。
久保田晃弘
今週の初めに名古屋でISEAという電子芸術の国際会議
が行われました。その関連イベントとして、名古屋港に
保存されている南極観測船「ふじ」の上で、音響イヴェ
はじめに
僕は今、美術大学というところで仕事をしています。
ントが行われました。hoonという日本人4人のグループ
がそれぞれテーブルの上でラップトップを広げて演奏し
美術大学といえば、これまで視覚表現や空間表現が中心
ました。ウィーンから来たPITAという人、それから同じ
でしたが、僕はあえて音や音楽、そしてコンピュータや
くHeckerも、ラップトップを前に置いて演奏しました。
ネットワークをテーマに取りあげて、広く音響表現を軸
このイヴェントに限らず、今日、こういうスタイルで演
としたコンポジションやパフォーマンスに関するワーク
奏する人が非常に多くなりました。
ショップやレクチャーを行なっています。
音楽も、今や非常にカジュアルなものになってしまい、
今紹介したPITAが、1996年にMEGOというレーベル
からリリースした「Seven Tons For Free」というアル
空気や水と同じぐらい身近でありふれたものになりまし
バムは、この世界におけるエポックメイキングな作品の
た。町を歩けば、いたるところで音楽が鳴っていますし、
ひとつといわれています。これは、オルタナティヴなテ
テレビをひねれば常に音楽が溢れています。でも今日は
クノミュージック、あるいはダンスミュージックの骸骨、
「疑いの実験室」ということですから、この慣れ親しんだ
ともいえないことはないのですが、むしろ先程言ったよ
音楽にもう一度疑いを持ちながら、音楽って一体何だろ
うな、リズムやメロディ、ハーモニーといった既存の構
う、音楽と技術の関係はどうなっているのだろう、とい
造に依拠しない新たな美意識の萌芽、さらには音楽のみ
ったことを、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
にとどまらず、映像や建築などの世界ともリンクした大
きな価値観の変革のひとつであるようにも思います。ポ
「音響派」の出現
ータブルなコンピュータをひとつの技術的なシンボルと
音楽といえば普通、リズムがあって、メロディがあっ
して、そこからジャンルを超えた表現手法が生まれてき
て、和音がある。あるいは全体の流れでいえば、イント
たということなのですが、そこには音とデジタル・テクノ
ロがあって、ヴォーカルがあって、ソロがあって、テー
ロジーを発端とした新たな文化の始まりとさえ言いたく
マに戻る。そういった、いわば音楽を音楽たらしめてい
なるような可能性が孕まれているように感じてなりませ
る、暗黙の構造、約束事がありました。しかしながら近
ん。
年、こうした「音楽」が持っている和声的、旋律的、あ
るいは楽曲的な構造を持たないスタイルの音楽が現れ始
めました。これらの音楽は、音楽以前の音そのものに着
電子音楽とテクノミュージック
今、テクノミュージックと言いましたが、コンピュー
目し、そこから出発する、という意味で音響派、と総称
タと音楽といえば、もうひとつ、「電子音楽」と呼ばれた
されることもあります。そこでは、音楽をまず音波とし
ジャンルがあったことを忘れるわけにはいきません。そ
て、例えばメロディやスケールという以前の周波数であ
れは主に、現代音楽や実験音楽といったアカデミックな
るとか、リズムという以前の時間であるとか、音色とい
世界の出来事だったのですが、その起源は古く、コンピ
う以前のスペクトルであるとか、そうしたいわば物理的
ュータを使った音の合成、あるいは、コンピュータを使
な要素にまで立ちかえって、音楽(もはや音楽という必要
った作曲ということ自体は、すでに1950年代の終わりご
もないのかもしれませんが)を再構築し、そこからもう一
ろから始められていました。
度、音楽が持っていた既成の時間や空間、さらには価値
観や美意識までつくり変えようとしています。
なぜ、こうしたことが起きたかということを最初に考
えてみたいと思います。音響派と呼ばれている音楽のま
実際、そうした研究や実験の中から、さまざまな新し
い音楽が生み出されたわけですが、だとすれば、その40
年以上前にすでに起ってしまったことと、最近ここ4∼
5年に起きつつあることの違いは何なのでしょうか。
ず第一の特徴は、それがコンピュータやネットワークと
まず技術的には、80年代までのコンピュータ音楽とい
いったデジタルテクノロジーの普及と深く関連している
うのは、コンピュータが非常に高価で数が少なかったた
ということです。例えば、今日僕はここに、ラップトッ
め、例えば大学の研究所であるとか、音楽を研究するた
プ型のコンピュータを持ってきていますが、多くの音響
めの特別のスタジオといった、極めて限られたところで
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しか行えませんでした。
80年代までのコンピュータ音楽は、そうしたある種非
ミュニティーを維持していました。
そんな中にコンピュータという新たな楽器が現れて、
常に特権的な場所で行われてきたわけですから、そこか
リズムであるとか、メロディであるとか、ハーモニーと
ら生み出だされた表現も、そこでの文化・社会的な背景
いった伝統的な音楽の構造や、ピアノやギター、トラン
と非常に深く関係してきます。そんなコンピュータ音楽
ペットといった伝統的な楽器の奏法によらない、新しい
は、どうしても伝統にとらわれたものであったり、ある
音楽の可能性があるのではないか。そうしたことが、コ
いは狭い意味で実験的であったりします。音楽を作りた
ンピュータミュージックの黎明期に、ある種の情熱や希
いのか、論文を書きたいのか、そのあたりの境界があい
望を持って議論したり実践されたりしたわけです。ただ
まいなこともよくありました。
し、唯一かつ最大の制約は、そうした実験を行うことが
一方で、テクノ・ミュージックに代表される大衆音楽
の世界においては、高価な汎用のコンピュータではなく、
シンセサイザーやサンプラーといった比較的安価な音楽
できたのが、研究や学術目的の、アカデミックの範疇に
とどまっていた、ということでした。
それに対して、シンセサイザーやサンプラーといった
専用マシンが使用されてきました。つまり、90年代の半
市販の音楽専用マシンは、なるべく多くの人に使用(購
ばまでは、希少で特権的なマシンからつくられる実験的
入)してもらうこと、つまり既成の概念に近いというわか
なアカデミック音楽とこうした状況が同時並行的に存在
りやすさを必要としていたので、逆にコンピュータが持
していました。
っていた新しい楽器という可能性を、一旦コンピュータ
ところが、汎用のコンピュータの性能が急速に向上す
ると同時に価格が下ってくると、この2つの文化間の技
というものが現われる以前の状態に押し戻してしまいま
した。
術的な隔差がだんだん希薄になってきました。音を生成
一番いい例が、シンセサイザーにキーボードというピ
したり加工したりするためには、コンピュータにはそれ
アノの鍵盤型のインターフェースを付けてしまったとい
なりの性能が必要で、例えば、コンパクトディスクと同
うことです。これだけで、多くの人はシンセサイザーを
じクオリティーの音を生成するためには、1秒間に4万
新種のピアノやオルガンのように捉えてしまいます。僕
4100個のデータ、さらに左と右の2チャンネルになると、
は学生時代ジャズバンドでピアノを弾いていたのですが、
その倍の8万8200個のデータを処理する必要があります。
するとあなたはピアノも弾けるのだから、きっとシンセ
これは最終的に音を出すために最低限必要なデータの量
サイザーもすぐに弾けるでしょうという見方をされてし
であって、コンピュータの内部でそれを処理しようと思
まうのです。
うと、その1秒間に8万8200個の数を足したり引いたり、
このことが、電子音楽に非常に大きな限界と、後退を
さまざまな演算を施さなければなりません。そういう意
もたらしました。シンセサイザーにキーボードというイ
味では、コンピュータがリアルタイムに音を扱うという
ンターフェイスを付けることで、逆にピアノのような音
のは、なかなか大変で、80年代のパーソナルコンピュー
楽的概念や構造をそのままシンセサイザーにあてはめて
タでは性能的に無理でした。ところが、近年、コンピュ
くださいと言っていることになってしまいます。キーボ
ータの高性能化と低価格化が急速に進んだため、個人で
ードというのが付いてしまっただけで、ドミソと弾きた
購入できるコンピュータでも、音楽を作ったり、あるい
くなったり、ドレミファソと弾きたくなったり、メロデ
はリアルタイムで演奏できるようになったのです。
ィを弾きたくなったり、和音を押さえたくなったりする。
そうした技術的な変化を背景にして、今までストリー
でも、コンピュータというテクノロジーに期待されてい
トとアカデミックを分けていたマシンの壁、いってみれ
たのはそういうことではなくて、そもそもメロディとは
ば特権的なマシンと汎用のマシンの違いがなくなってく
いったい何だろう、ハーモニーとは?、リズムとは?と
ることで、同時にこの2つのカルチャーが交流し、融合
いう、まさに今日のタイトルと同じ「音楽を疑う」とい
し始めました。それこそが音響派、と呼ばれるような音
うことでした。
楽が生まれてきた第一の理由です。
しかしそれが、テクノロジーの普及段階で、いつのま
そもそもコンピュータが60年代に現れた時、それは通
にか背後に隠されてしまい、
「誰もがすぐに音楽家になれ
常のアコースティックな楽器とは異なる新しい楽器だと
る」であるとか「あなたも明日からアーティスト」とい
捉えられていました。それまでの伝統的な楽器は、五線
ったような、本末転倒のメッセージにすり替えられてし
譜のような伝統的な音楽の記述法に基づいて演奏したり、
まいました。今振り返れば、7∼80年代に適用された、
あるいはそれをメディアとして音楽を伝承したりしてコ
伝統的なキーボードのインターフェースというものが、
久保田 晃弘
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シンセサイザーの可能性、そして音楽の可能性に大きな
楽概念は、半ば無意識のうちに、捨て去られ始めている
制約を加えたといえるのではないか。僕はそのように考
のです。
えています。
さらに音楽を作曲する際の基本操作、通常の音楽の場
今日のコンピュータの一つの特徴は、だれでも買える
合の転調や解決といった作曲法に相当するものは、カッ
ということです。もちろん決して安いとは言えませんが、
ト&ペーストです。例えば、ペーストを繰り返し行うこ
それこそたかだか10年前には、リアルタイムの音響合成
とで、反復という構造を生みだすことができます。さら
ができるコンピュータというのは、フランスのポンピド
に、アルゴリズムを使うことで、そのカット&ペースト
ー・センターにあるIRCAMという研究機関が開発した
の操作に反転であるとか縮小拡大といった操作を加えた
ISPWというマシンのように、世界で数台しかない、とい
り、人間の手の動きを超えた速度や量を与えることで、
う極めて閉ざされた状況でした。それが今では、もっと
さまざまな変換が可能になります。それは、五線譜が読
高性能なマシンが、誰の手にも入るようになって、今こ
める、あるいは楽器が弾ける、といった伝統的な音楽の
の目の前に置かれているというまさにオープンな状況に
スキルとは関係ありません。コンピュータの操作と、音
なっています。それは単なる技術的な発展のみならず、
を聞いて、いろいろ判断をする能力さえあれば、いわゆ
音響派の誕生にみられるような、音楽的、文化的変革を
る音楽に関するスキルがなくとも、デスクトップ上で音
もたらす引きがねになりました。
楽を制作できるのです。
ノイズと楽音の融合
周波数と知覚
20世紀の音楽の一つのポイントは、ノイズと楽音の区
コンピュータによる波形の生成が、楽器という音響装
別がなくなったということでした。それまで、音楽を構
置や、それを弾くという人間のスキルの制約を受けなく
成するのは楽器の音のように、音の高さや長さが明確で、
なったということでまず行われたのは、人間の可聴域、
構成できる「楽音」によって組み立てられていました。
さらにはそれを超える低い音、高い音、弱い音、強い音、
それに対して、例えば今、耳を澄ましてみると聞こえて
長い音、短い音を自在に駆使して音楽をつくるというこ
くるような音、ジーという音や、ガサガサといった音の
とです。言い換えれば、技術的に記述、生成可能な音を
ように、日常身の周りに溢れている、ノイズ、騒音があ
すべて使うということです。そこから、その音のひとつ
ります。今ではこのノイズも、音楽の素材として扱われ
ひとつが人間にどう知覚されるのか―それは音楽の変
るようになりました。コンピュータという音響合成装置
容のみならず、人間の変容、あらたな可能性の開拓とい
によって、その動きはさらに加速され、ノイズですら、
うことにつながっていきます。
意図的かつダイナミックにコンポーズすることが可能に
なりました。
先程のPITAの曲でも、プチップチッというような音と、
一般的に音の高さ、ピッチの知覚は、周波数という物
理パラメータに対応しています。個人差や年令差はあり
ますが、おおよそ20ヘルツから2万ヘルツが、人間が知
非常に高いシーッという音が同時に鳴っています。これ
覚できる音だといわれています。ここで、ヘルツという
らの音は、もう楽音なのかノイズなのか区別がつきませ
のは音の周波数を単位で、20ヘルツは1秒間に20回空気
ん。五線譜に記述すること自体が不可能というか無意味
の圧力が変動するということ、2万ヘルツというのは1
です。そこではすべての音がまず、波形というものに還
秒間に2万回空気の圧力が変動するということになりま
元されているからです。
す。
物理的にいえば、音は空気の振動、圧力の疎密波です。
重要なのは、オーディオ装置の性能です。こうした、
それが鼓膜や皮膚を通して人間の体に伝わることによっ
人間に聞こえるかどうかぎりぎりの低周波音や高周波音、
て知覚され、さまざまな感情や思考を引きおこします。
小さい音や大きい音、などを探究していくと、まずぶつ
音楽を空気の振動、すなわち音の波形という時間的変化
かるのは、人間の耳の限界ではなくて、それを再生する
にまで還元するということは、音楽を人間の知覚レベル
装置の限界です。人間の可聴域よりも、オーディオ装置
から再構築するということに他なりません。
の再生域の方が狭いことがほとんどなのです。もちろん、
波形そのものには、音階という概念も、和音という概
だからこそオーディオマニアが装置に非常にたくさんの
念もありません。長調や短調という概念も、4拍子や3拍
お金をかけたりするわけですが、一般のポータブル・オ
子という概念もありません。コンピュータ上で音の波形
ーディオや家庭用ステレオでは、人間の可聴域をカバー
を直接操作するということだけで、すでにもう既存の音
できる程広いレンジの音を再生することができません。
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可聴音という物理的現象の第一の特徴は、それが非常
す。
に広い周波数レンジに渡っているということです。波長
コンピュータで音楽をつくる、ということは、こうし
でいうと、20ヘルツの音は17メートルもの長さで、一方
た人間の知覚の特性をもう一度再確認する、ということ
2万ヘルツの音の波長はわずかに1.7センチです。20ヘル
と密接に関係しています。コンピュータを使えば、メロ
ツの音と2万ヘルツの音では、1000倍も波長が違うわけ
ディもリズムも和音も、鍵盤も弦もないところから音を
です。同じ知覚でも、可視光の場合は、そんなに違わな
作っていくことができますが、そうした白紙の出発点に
いのです。波長の長い赤と、短い紫を比べても波長は2
道標を与えてくれるのが、人間の知覚なのです。
倍ぐらいしか違いません。色の場合、赤と紫はプリズム
もう少し例をあげてみましょう。周波数の異なる2つ
を使って分けることはできますが、可聴音の場合、低周
の音を足し合わせるとどう聞こえるのでしょうか。音が
波域の音が持っている物理的な特性と、高周波域の音が
2つ以上同時に現れると、2つの音の周波数差の音が聞こ
持っている物理的な特性は、そもそもが非常に異なって
えてきます。例えば、160ヘルツと220ヘルツの音が一緒
いるのです。
に鳴ると、この2つの音に加えて、220引く160ヘルツ、
具体的にいうと、低い音というのは物体をどんどん回
すなわち60ヘルツの音が生み出されます。第3の音です。
り込んできます。全然見えないところの振動(超低音)が
正弦波のような最も単純で基本的な音でも、それをひと
伝わってくるのは、音が壁や廊下などを回り込んでくる
つづつ重ねていくことで、今度はその音どうしが干渉し
からです。離れたところから感じる人の気配、というの
て、次々と新しい音が生み出されていきます。実は僕ら
も超低音の一種でしょう。だから低音には、あまり方向
は、これまでもずっと、そのように音を知覚していまし
性がありません。それに対して、高い音というのは、光
たのですが、そのあたりまえのことに、もう一度フォー
のように方向性を持っています。スピーカーは、正面に
カスを当ててみよう、という訳です。
向けると高い音が聞こえるのに、横に向けると聞こえな
くなります。低音はスピーカーを横に向けてもあまり聞
時間
こえ方に変わりがないけれども、高い音は向きが違うと
次に、時間について考えてみましょう。例えば、一定
すぐに聞こえにくくなります。低音と高音の物理的特性
の周波数、一定の音量で持続している正弦波を、短く細
は、そもそもが大きく異なっているのです。
切れにしていったらどう聞こえるのでしょうか。すると
しだいにそのピッチが不明瞭になっていき、最後にはク
オーディオ装置
リックというインパルス音になってしまいます。
オーディオ装置が大変なのは、そうした非常に広い範
音楽における時間といえば、これまでリズムについて
囲の物理現象を、同時に発生しなければならないことで
考えることがほとんどでしたが、さらにそこから遡って
す。大口径のものから小口径のものまで、複数のスピー
考えてみると、「持続」という概念が現われてきます。音
カを組み合わせたり、さまざまな形状やしくみのエンク
楽における時間を、音の持続、ということから捉え直す
ロージャのスピーカがあるのは、それが理由です。そう
ことによって、音の聞こえ方がどう変わっていくのか。
いった意味では、ディスプレイの方がずっと楽です。赤
そこからまた、新たな音の可能性が発見できるように思
は波長が長いから出ないとか、紫は波長が短いから出し
うのです。
難い、ということはありません。
こうしたことはある意味で、単に60年代の再来のよう
また、デジタル情報の上では同じ大きさ(振幅)の音で
に見えてしまうのかもしれません。しかしそのアプロー
も、音の高さが違うと、その音量が異なって聞こえます。
チの仕方や、そこで発見したことの使用法は全く異なり
その理由の1つは先ほど述べたように、オーディオ装置
ます。何もラップトップ・コンピュータを使って、音楽
の特性によるもの、もう1つの理由は人間の耳の特性に
心理学の研究をしたり、人間の知覚のメカニズムを探究
よるものです。人間の耳は音の高さ、つまり周波数によ
したいわけではありません。チッチッチッという音やシ
って全然感度が違って、1000Hzから5000Hzあたりの音
ーッという音、ピッという音の中に新たな美を発見する。
に対して耳は最も感度がいいのです。それより低くなっ
それはデジタル音響美学、とも呼ぶべき、新たな美意識
ても、高くなっても耳の感度は悪くなって可聴域の両端
の構築に他なりません。
では著しく感度が低下します。また高周波の感度は年齢
とともに低下していき、成年になると大抵1万5000ヘル
ツくらいまでしか聞こえなくなってしまう人が多いので
スペクトル
時間と表裏一体の概念として、スペクトル、周波数分
久保田 晃弘
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布という概念があります。波形表現の場合、横軸は時間
ゼンテーションを行なっています。つまり、ラップトッ
でしたが、スペクトルの場合、横軸が周波数になります。
プ・コンピュータ=日常の作業環境なのです。ラップト
つまりスペクトルとは音という現象を、時間ではなく、
ップ・コンピュータを持ち運ぶ、ということは作業環境
周波数を軸として表現したものです。
を持ち運ぶ、ということです。今日の講演も、まったく
スペクトルが表現しているのは、高い音から低い音ま
同じ話です。
で、それぞれの高さの音が、どのように分布しているの
これはコンピュータ・ソフトウェアのヴァージョン・
かということです。音楽を、このスペクトルを見ながら
アップの考え方に似ています。これまで考えてきたこと、
聞いてみると、自分が今聞いている音に、どの高さの成
試行錯誤してきたこと、達成してきたことの蓄積がこの
分がどのくらい含まれているのかがよくわかります。
ラップトップの中にあって、今日の時点でのスナップシ
例えば人間のヴォーカルが大体どの辺の音域なのか、
ョットを、一つのヴァージョンとして提示する。音楽の
あるいは自分が低い音と思っている、例えばベースの音
場合は、ある時点でのスナップショットとして、ライヴ
の周波数がどれぐらいなのか、高いと思っている音がど
演奏会を開催する。美術の世界でワーク・イン・プログ
のくらいの周波数なのか、そういうことが一目でわかり
レス、進行中の作品、という概念がありますが、ラップ
ます。このスペクトルを見ながら音楽を聞くというのは、
トップというポータブルな環境にとっては、それを単な
それ自体が非常におもしろい体験なのではないかと思い
る概念としてではなく、あたりまえの現実として実践す
ます。
ることができます。
例えば、池田亮司とカールステン・ニコライの2人に
その場合、完成されたパッケージを制作することより
よる「cyclo」というユニットの「C3」は単調なサイン
も、むしろいかにこのポータブルな環境を変化させ、発
波、といわれているものや、非常に短いクリック音、そ
展させつづけるか、ということがポイントになってきま
してサーッというノイズなどを使って、新たな美意識を
す。ラップトップというポータブルな作業環境が制作の
つくりあげよう、という作品です。彼らが作っている音
場であり、保管や保存の場であり、プレゼンテーション
楽には、ある種のビート構造のようなものを感じること
の場でもある。それは、ユニバーサルな個人美術館とで
ができます。明確な反復構造を感じとることができる曲
もいえるでしょうか。アトリエ兼美術館ともいえるでし
もあります。デジタル表現の特徴のひとつは、数を直接
ょう。これが、ラップトップがもたらしたもうひとつの
操作することで、非常に微細で精密なものを構築できる
重要なポイントです。
ことです。マイクロ、ミクロ、そういった感じです。こ
うした音楽をマイクロサウンドと呼んだり、アーティス
トのことを、マイクロコンポーザと呼ぶ所以でもありま
す。
ジャンルの融解
さて、これまで音を中心に話を進めてきました。しか
し、前述のポータブルなデスクトップ環境で扱うことが
できるのは、何も音に限りません。文章を書くことも、
日常のスナップショットとしてのライブ
映像を流すこともできます。デジタル表現においては、
さて、話を少し別の方向に向けましょう。ラップトッ
音のみならず、映像も、テキストもすべて数字列という
プ・コンピュータを使って制作する、ということには、
同一の素材に還元することができます。つまり、デジタ
もう一つ重要な意味があります。それは、日常の作業環
ル・デスクトップ環境においては、すべての表現が数の
境を持ち運ぶ、ということです。これまでは家の中で、
もとで等価なのです。絵画や音楽、小説や彫刻といった、
あるいはアトリエで制作をして、それをまとめたパッケ
表現形式の間にあったジャンルの壁は、もうそこにはあ
ージ的なものにして展覧会に出品したり、ライブをやっ
りません。デジタル技術やラップトップ環境による変革
たりしていました。何もこれは音楽に限ったことではあ
は、何も音の世界にだけやってきたわけではありません。
りません。絵画でも彫刻でも、まったく同じ状況でした。
映像を作る人たちにも、文章を書く人にも、等しく同時
それに対して、例えば、今僕がここに映し出している
環境、すなわちラップトップ・コンピュータのデスクト
にやってきたのです。
こうした動きが、ウェブやインターネットを介して、
ップは、今朝ここに来る前に仕事をしていた環境であり、
世 界 同 時 多 発 的 に 生 じ て い ま す 。 例 え ば
昨日まで使っていた環境であり、おそらく明日も仕事を
meta(http://www.meta.am)は、ウェブ上でさまざまな
するであろう環境です。日常の作業環境を、そっくりそ
デジタル映像、画像、音響の作品を発表していますが、
のまま今ここに持ってきて、日常作業と同じ状態でプレ
そのいずれもが、形式やジャンルを超えて、デジタル表
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現が固有に持っているドット感やクリック感、マイクロ
弾くために、一生懸命にピアノの練習をして、ピアノに
感やスピード感を生かしたスタイルやテイストを共有し
特有のスキルを身につけます。しかし、そのスキルと、
ています。
デッサンを描くためのスキルはあまり関係がありません。
それは言い換えれば、コンピュータを何かを操作する
もちろん何かに取り組む、何かを表現する、という態度
ための道具というよりもむしろ、新たな素材として捉え
や精神には、共通する部分がありますが、譜面を読む能
ようとしているかのようです。デジタル表現の限界を制
力に長けるとデッサンの技術が向上する、ということに
約としてではなく、むしろ素材の特徴と考えて、そこか
はなりません。しかし、デジタル環境においては、映像
ら逆にデジタル表現でしか出せないテイストや美学を生
をハンドリングするスキルと音響をハンドリングするス
みだし、視覚体験や聴覚体験を再構築しつつあるのです。
キルは、もっとずっと近いのです。音に関するプログラ
コンピュータの低価格化と普及、すなわちコンピュー
ムを書くスキルと、映像に関するプログラムを書くスキ
タの民主化によって、デジタル表現のフォーカスは、最
ルの関係も同様です。
新鋭の特権的なマシンを用いて保守的な美学を踏襲する
ジャンル分けというのは、表現形式というよりも、む
ことから、だれもが手に入れることができるスタンダー
しろスキルによって分けられていました。伝統的な徒弟
ドなマシンを用いて、新しい美学を構築することへとシ
制とそれを支えるコミュニティーというのが良い例です。
フトしていきました。既成概念や意味の解体という点で、
従来の美術大学や音楽大学なども同様でしょう。それに
これはダダを思い起こさせます。デジタル・ダダとでも
対して、コンピュータに関するスキルというのは徒弟制
いえばいいでしょうか。さらにそこで解体されるのは、
度で学ぶ、あるいは師匠について学ぶものというよりも、
美学だけではありません。「ピアノのように」弾くこと、
むしろネットワークに接続して、サンプルプログラムを
「筆のように」描くこと、
「粘土のように」造形すること、
ダウンロードして自分で改造したり、メイリングリスト
「原稿用紙のように」書くこといった、スキルも同時に解
やBBSのコミュニティーの中で身につけていくものです。
体されてしまいます。既存のメタファーやシミュレーシ
それは1対1の徒弟制度や、家元制度とは大きく異なるス
ョンから離脱して、スキルや、意味のグランド・ゼロに
キルの共有、伝承方法です。表現の壁を生みだしていた
立ち返ること、それがデジタル表現、コンピュータ表現
社会的な構造そのものが、全く違ったものになってしま
の本質といえるのではないでしょうか。
いました。
コンピュータと人間、コンピュータと社会
ようやく始まったばかりだ、ということに気がつきます。
そう考えると、デジタル表現の可能性の探索は、実は
コンピュータによるアルゴリズミックな操作が持って
人間がスキルを身につけるのには、どうしても時間がか
いる速度や精度は、人間の手業をはるかにしのぎます。
かります。人生の半ばからコンピュータを使い始めた人
何万回ものカット&ペーストを瞬時に行なったり、1サ
は、どうしてもそれ以前の経験にしがみつきたがります。
ンプル、1ドット単位で精緻な操作をすること、そこか
コンピュータにメタコンピュータを使う以前に、何か他
ら生まれる量や質こそがデジタル表現の真髄です。さら
のことをやっていた人には、昔の言葉で説明してあげな
に表現の劣化なきコピーや編集が可能であるため、どこ
いとわからないものなのです。ところが、最初からコン
かでピリオドを打つようなかたちで作品を固着化させる
ピュータの世界から入っている人には、メタファーは不
必要がない。ラップトップ環境の中にあるのは、常にヴ
要です。昔の言葉で説明しようと思っても、昔の言葉を
ァージョンアップの余地を残した、作業プロセスのスナ
知らないのだからあたりまえです。大事なのは、どれだ
ップショット群なのです。
け自分の感覚や知覚のセンスを磨くために時間を費やす
コンピュータに最も必要なことは、人間が直感的に操
か、表現のコンセプトについてとことん考え抜くかとい
作できるようにすることではありません。コンピュータ
うことなのであって、昔の言葉を知っているかどうか、
を人に近づける必要はありません。逆に、コンピュータ
ということではありません。
によって、人間が変化することの方が重要です。デジタ
最後にもう一度音楽の話に戻りましょう。僕が、音楽
ル技術によるスキルの変化によって、人間自身や人間社
とテクノロジーの関係が面白いと思っているのは、もち
会もどんどん変化していきます。
ろん音楽やコンピュータが好きだからですが、それだけ
かつては、デッサンをするためには、デッサン固有の
ではなく、これまでの動きを見ていると、音楽は映像や
トレーニングがあり、楽器を弾こうと思ったら、ある楽
立体に比べて、新しいテクノロジーを現実の制作や商品
器に固有のスキルが必要とされました。ピアノを上手に
に取り入れるのが早いのです。デジタル化された表現が、
久保田 晃弘
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商品としていち早く流通したのがコンパクト・ディスク
した値で実現したのではうまく行きません。乱数によっ
ですし、賛否両論、物議をかもしだしたNapsterや
てゆらぎを与え、コンピュータによって定義されたゆら
GnutellaのようなP2P技術で、まず交換されたのも音楽
ぎに、人間の側が応答していく、そうしたことが深い表
ファイルです。テクノロジーと表現の関係で見ていくと、
現をするためには、非常に重要なことではないかと思い
音楽の世界で起こっていることが、少し何か先のことを
ます。
考えるのに非常にいいヒントを与えてくれることが多い
かつて、乱数といえば、ジョン・ケージのようにそれ
のです。だからこそ、今日お話しした、90年代後半から
自体が一つのコンセプトになっていて「偶然性の音楽」
起こった「音響派」の動きが、実はこれからのテクノロ
と標傍されたり、あるいはブーレーズのように「管理さ
ジーと表現の関係を探るための鍵なのではないか―僕
れた偶然性」ということが語られました。しかし、イン
はそんな風に考えています。
タラクティヴなパフォーマンス環境においては、むしろ
その偶然性を自律させたり管理するのではなく、偶然と
質疑応答
対話していくことが本質になってきます。なぜなら、乱
今日の話でおもしろかったのは、新しいテクノロジ
数というのは、コンピュータが持っている重要な特質の
ーがでてきたり、いろいろなソフトウェアが生まれてき
ひとつで、逆に人間が乱数を生成することは非常に難し
ても、全く別のものが生まれるというよりは、むしろ音
いのです。例えば、ドラムを「でたらめにたたけ」と言
そのものというのはどういうものなのかということに立
われても、本当にでたらめにたたくのは不可能で、どう
ち戻っているような感じがするということでした。楽器
しても何らかのビートのようなものを感じさせてしまい
を使ってライブを行う場合には、そこに例えば偶然性が
ます。ですから、先程お話した素材の特徴という意味で
入り込むことで、面白い演奏が生まれるという経験があ
は、乱数こそがデジタル素材の持つ大きな特徴のひとつ
るのですが、コンピュータを使っている場合、偶然性と
だといえて、乱数を出せない人間の身としては、むしろ
いうのはどういうかたちで介在する可能性があるのでし
それとどう対話し、その特徴を表現に反映させていくか、
ょうか。
そのあたりが一番の思案のしどころになる訳です。
Q1
A1
これは先週の火曜日にISEA2002名古屋でベルギー
Q2
先程、ワーク・イン・プログレスという言葉があり
のGuy Van Belleと行ったパフォーマンスの映像です。彼
ました。久保田さんが自宅や大学で作られているアトリ
とは、初めて知りあってから、もう10年ぐらいになりま
エ環境を、そのまま会場の展示や演奏の場所に持ち込む
す。映像とサウンドの両方を使っていて、スクリーンと
ことができるということですが、例えばライブの場合、
スピーカが二組向いあうかたちでセットアップされてい
その会場だけが持っている雰囲気ですとか、一緒にパフ
ます。2人共ラップトップマシンを使用していますが、
ォーミングする人の反応であるとか、そうした場の違い
それをネットワークで接続して、ネットワークとカメラ
のようなものはあまりないのですか。その時も自宅でや
でリアルタイムでデータを交換しながら、即興パフォー
っているものと同じように演奏していると考えてもいい
マンスを行いました。
のですか。
今の偶然性という意味では、プログラムの中でよく乱
A2
作業環境だけがあればライブができる、というわけ
数が使われるのですが、こうした即興演奏の場では、そ
ではありません。例えば、今日この会場にもスピーカー
の乱数を対話の対象として使うと面白いと思います。ど
などの機材や、会場の音の響きなどのさまざまな物理的
ういうことかいうと、乱数を使っていくうえで一番大事
状況があります。今日話したのは、主にデジタル環境と
なのは、その乱数をどこで使うか、という乱数の使い方
いうデジタルの側からの視点でしたが、僕らにはもう1
に関するある種のセンスです。そのセンスが悪いと、結
つ、身体というものがあって、コンピュータの中のデジ
局乱数が乱数で終わってしまいます。この乱数は、プロ
タルデータを、どのように身体で受け止めるかという問
グラムを書いていくうえでは「肝」になる部分なのです。
題があります。そこには先程のオーディオ装置の問題で
ランダムではあるが、そのランダムさと対話しながら、
あったり、オーディオ空間の問題があったりします。で
全体として、うねるようなデジタル・グルーヴをつくり
すから逆にいえば、だからこそ物理的空間でライヴをや
だしていく。
る意味があるのです。
例えば、一定のように聞こえているけれども、気づか
例えばオーディオ装置という観点からいえば、従来の
ないうちに少しずつ変化していくという状況をつくりだ
オーディオマニアの基本的な価値観は原音再生です。い
すためにはどうすればいいか。単にそれを連続的に変化
かにピアノの音がうまく再生できるか、いかにコンサー
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トホールの生の音が再現できるか、ということが伝統的
なオーディオマニアの一番の関心事でした。
しかしデジタル素材から直接的に表現をつくり出した
久保田晃弘
コンピュータ音楽、多摩美術大学情報デザイン学科助教授。近年盛り上がり
場合、そもそも原音というものがないのです。はじめに
を見せるデジタル技術による表現についての考察をすると同時に演奏者とし
音ありきではなく、はじめに数ありき、なのです。だか
ても知られる。主な著書:『消えゆくコンピュータ』(岩波書店)、主な共
ら、オーディオ装置がハイファイかどうか、ということ
よりも、自分がどういう体験をこういうコンサートやラ
著:『200CD
テクノ/エレクトロニカ』(立風書房)、『ポスト・テクノ
(ロジー)・ミュージック』(大村書店)
イブでつくりだしたいか、ということの方が重要なので
す。自分が望む体験の場をつくりだすことができれば、
紹介ウェブサイト
mego(http://www.mego.at)
べつにオーディオ装置はハイファイでなくてもいいわけ
falsch(http://fals.ch/)
です。逆に、オーディオ装置の性能それ自体を、会場と
fallt(http://www.fallt.com/)
同じようにひとつの前提と考えればいいだけの話です。
.tiln(http://home.rochester.rr.com/tiln/)
ハイファイでなければオーディオはだめだ、ということ
notype(http://www.notype.com)
underconstructing(http://www.underconstructing.com)
ではなくて、むしろそのオーディオ環境の制約を考慮し
ながら、その制約を生かすように、制約に合わせた音を
meta.am(http://meta.am/)
作っていけばいい。逆の言い方をすれば、たとえデジタ
m9ndfukc.m2cht.fre!(http://www.eusocial.com/)
ルレベルで同一の作品だったとしても、そこから音響を
Untitled game/download(http://jodi.org)
生成するオーディオ装置が10種類あれば10通りの作品が
できる、と考えることもできるのです。
Q3
ひと昔前の楽器には、例えばピアノのような鍵盤が
付いていて、それに引きずられてきたのではないかとい
うお話がありました。けれども、ラップトップコンピュ
ータにはマウスとキーボードが付いていて、それが人間
の身体とのインターフェースになっています。このこと
がピアノの鍵盤と同様に、一つの限界になったりはしな
いのでしょうか。
A3
もちろん、ピアノの鍵盤と同様に、マウスとキーボ
ードというインターフェイスの制約があります。しかし、
重要なのは制約の有無ではなくて、同じインターフェイ
スでも、例えばピアノの鍵盤でも、初心者のピアノ演奏
と名人のピアノ演奏は全く違っている、ということです。
最初からだれでも名人のように弾けるわけではありませ
ん。何年、何十年という時間を費やして、いわば名人の
域に達することもできる。マウスとキーボードの場合も
同じです。例えば、15年マウスを使い続けることによっ
て、名人芸のようなマウスさばきが可能になる、である
とか、そうした探究の方向性があります。
一方で、アルゴリズムによって、そうした名人芸のよ
うなスキルを、身体から切り離してしまうことができま
す。名人芸のようなマウスさばきを行うのではなく、名
人芸のようなプログラムを書けばいい。プログラムを書
く、という作業にとって最も重要なことは、抽象化とい
う非リアルタイムかつ非身体的な概念的スキルであって、
それはピアノの演奏のようなリアルタイムで身体的なス
キルとは別物だといえます。
久保田 晃弘
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