物語の生成と変容 拡張物語理論 物語の構造分析と変容 パラダイム論と

物語の生成と変容
拡張物語理論
物語の構造分析と変容
パラダイム論とトランスメディア
埼玉県社会福祉事業団
加藤
仁資
はじめに
文学と認知について、物語の生成と感情移入を研究の対象とする。物語の生成について
は、構造分析と変容についての理論を考えていく。日本における物語研究といえば、古典
の物語を意味し、文学的な見地からの研究に限られる。もっと広い範囲で物語を採取し、
分析を進める必要がある。
構造分析とは、要素に分解するだけでなく、それが如何に構成されるか。それが、次の
作品にどう利用されているかを考察するものである。物語の構造を分析していくと、まず
気付くのが、物語は層をなしているモザイク構造をとっていることである。本論分では、
「源
氏物語」の分析から、物語が多層な構造を持つことを示し、その構造を分析することによ
り、物語の創生の可能性をさぐっていく。
本研究での「物語」とは、小説の要素としても文学を構成するが、必ずしも文学的な性
質を持つものに限らない。この論文では、ストーリーとその解釈のみをさし、文学以外の
非常に広い範囲での認知的な要素となるものをいう。
人の認知の基本はエピソードと考えることができる。スクリプトやエピソード記憶とし
て研究対象となっているが、主流には至っていない。しかし、人の記憶は、シンボルの認
識以前に経験から始まっている。
経験はすべて物語に置き換えることができる。人が何によって行動するかと考えれば、
経験に従っている場合がほとんどであることに気付く。論理による判断、行動はむしろ、
意識的な作業が必要である。
人の知能は論理がベースと言うのが、人工知能のセントラルドグマであるが、これは確
かなのであろうか?発達心理学では、人の論理能力は、早くとも5歳まで待たなくてはな
らず、7,8歳頃に発達することが知られている。このことから、確かに論理は人の高度な
知能であると言えなくもない。
しかし、実際にはこれ以前に他の霊長類と知能の差は出現している。人の知能の発達を
考え、それをシュミレーションしようとするならば、論理以前の知能発達を無視すること
はできない。
また、工学などの専門分野を AI 化しようとするとき、ヒュ―リステックな知識と言うも
のが、論理に立ちふさがっていた。経験に基づき、論理化できない知識である。このよう
な知識を、どのように自動的にシステム化するかは、いまだ未解決の課題となっている。
最終的には物語の自動形成を考えていくが、今回は作家自身の物語の形成と変容がどの
-1-
ように行われているかを分析する。
1
拡張物語理論
子供は、とても物語を好み、いろいろな機会にせがむ。なぜ、子供は物語をそこまで好
むのか?そこに、人の知能にかかわる本質があるのではないか。
人の世界の認知は、シンボルの記憶から始まる。自身の感覚する世界を、他者と共有す
るためにシンボルが用いられる。この発達の萌芽は、三項関係と言われているもので、本
人と母親が、指示する対象との関係を共有できる関係である。自閉症では、この関係がう
まくいかないことが指摘されており、知能の発達に不可欠であると考えられている。
一方、自身の行動は、エピソード記憶として蓄えられる。運動は、小脳の中にニューロ
ンの回路が形成されることにより、発達していく。同様な回路は大脳でも形成されるとの
見方が有力である。決まりきった日常の行動や思考は、ほぼ自動的に行われるようになっ
ていく。
物語とは、原初的には他者の経験である。なぜ、物語を催促するのか?それは、他者の
経験を自己のものとするためである。つまり、物語とは、統合的な世界の理解と考えるべ
きである。物語とは、人の脳で思考されたものすべてであり、他者に、何か(情報や感情)
を伝えるものである。
事実とされるマスコミ報道も、人の知能を介しており、客観的な事実そのものではなく
物語と考えることができる。人の脳が介在すれば、すべては物語化される。物語には、ス
トーリーと解釈が含まれる。
解釈の意義は非常に大きく、物語の存在意義は文学だけにとどまらず、人の知的生活に
なくてはならないものである。人は、論理だけで意思決定をせず、自分の中で納得するス
トーリーと解釈を語ることにより初めて納得することができる。
例えば、経済学では、同じ経済事象について、マルクス経済学、ケインズ経済学(近代
経済学)どちらからの解釈も可能である。これら二つの経済学による解釈は、要は語りで
あることを示している。経済学は物語であるとの主張は、構造主義経済学の視点からも出
されている。
社会科学の理論だけでなく、自然科学の理論でも、解釈は重要な役割を担っている。現
代物理学においても、数学的捜査によって導き出された数式を解釈する必要がある。得ら
れたデータは数学的操作により、特定の数式が導き出される。その数式は特定の意味を付
与されることによって始めて、理解が可能になる。
つまり、論理という鎧をつけているが、それだけでは何ら価値を見出すことができない。
わかりやすいものに、思考実験というものがある。人工知能の分野でも、「中国人の部屋」
と言う物語は有名である。そもそもコンピューターの元になったチューリングマシンも、
仮想マシンという物語でしかなかった。
この思考実験は、量子力学を理解するために数多く行なわれた。量子力学の解釈におい
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て、ボーア率いるコペンハーゲン派とアインシュタイン、シュレディンガーとの間の論争
は、著名である。そのシュレディンガーが持ち出したのが、猫の物語である。
科学の歴史は、思考実験によって発展していった。また、天文物理学において結論とし
て出てくるのは数式であるが、それに解釈を加えることにより多様な宇宙が導き出されて
いる。
また、最近社会において人為的なミスが多発しており、リスクマネージメントの重要性
が指摘されている。その対策として、ヒヤリハットという事例が収集されている。これま
での安全対策は、事故を統計的に終結することが多かったが、これは事例を単に集めたも
のである。集めただけでなくこれを分析し活用する必要があるが、その手段が詰められて
おらず、まったく同様のミスを繰り返す場合も多い。
このように、物語は文学に限らず拡張して考えれば、非常に応用範囲が広い。物語を認
知科学的に解析することにより、実用的なシステム創生の手がかりとなろう。
2
物語の構造分析
2.1 竹取物語(承前)
LCCにおいて、2001 年に、物語の変容として竹取物語を題材として取り上げた。なぜ
竹取物語かと言えば、日本における物語文学の創始とされているからである。紫式部が言
うように、竹取物語が物語の始めであるが、竹取物語自体は、それ以前のさまざまな要素
で構成されている。創作者のまったくのオリジナルではなく、伝承をもとに他国の物語や
実在の人物名を用いている。
古事記、日本書紀での、神話や伝記があるが、文学としての物語ではない。神話や伝承
は、鑑賞されることを目的とせず、時に権力者に都合の良いものとなる。物語の素材とな
る神話、伝説、事件はいずれも、人の評価の対象として生まれたものではない。理不尽、
不合理な内容であっても、ストーリーを変更することは禁止される。文学、美学的な評価
に耐えるためには、変容が必要であり、グリム童話集は伝承を集めたとされるが、編者の
手がかなり加えられている。
竹取物語の素材としては、異種誕生と天女伝説がメインとなるが、それに至福長者が加
わり、その間に王朝物語としておきまりの求婚話がはさまれている。しかも、この求婚話
は、五つの話が並列しており、その中に神仙思想が根強いことは既知であり、実在の貴族
も登場し、オコとして笑いを誘っている。
つまり、民間伝説を複数組み合わせたメインストーリーに、王朝物語にするために求婚
話を入れ込んだモザイク構造をとっている。この求婚話も、求婚者に無理難題を押し付け
るという原型がある。
このように日本の物語の始まりと言われる竹取物語でも、すでに複雑なモザイク構造を
もっており、その要素も物語の条件を満たしている。紫式部が、竹取物語を物語の始祖と
したことは傾聴すべきであり、彼女自身も竹取物語をさらに原型として、源氏物語を書い
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ていると思われる。
2.2 源氏物語の構造分析
源氏物語に先行する物語は、竹取物語だけでなく、現存するだけでも竹取物語、伊勢物
語、大和物語、落窪物語、うつほ物語等がある。それ以外にも、源氏物語の中でその存在
が示唆される物語が指摘されている。源氏物語は、それら先行する物語の影響を根強く受
けて書かれた。
物語は、時空を越えた場を舞台にしなければならない。実在の人物をモデルとしても、
それは架空の人物もしくは過去の人物にかせられる。源氏物語も、作者の時代より一世紀
前の宮廷を舞台にしているが、道長などの同世代の人物がモデルとなっていると考えられ
ている。
物語は、「もの」+「かたり」であるが、この「もの」については出来事を指すというの
が一般的ではあるが、「もの」を霊と解釈する説もある。「かたり」については、源氏物語
は文字文学として知られているが、創作当時は読み語られていた。これは、文章の中に、
物語を語る女官の言葉が出ていることからも明らかである。つまり、ト書きとして感想を
書いたものが、本文に紛れ込んだと考えられている。
源氏物語は素人が手を出すことが多いが、素人の手に負えない領域と言われている。数
学での「フェルマーの最終定理」のように、素人でも届きそうに思えながら、その解析に
は学問的な深さが必要とされるためである。しかし、日本文学の物語分析をする上では避
けて通れない題材と言える。古典文学としてではなく、認知科学の対象として構造分析を
行ないたい。
メインストーリーは、もちろん光源氏の一生を描いたものであるが、源氏の死後も物語
は続いている。ストーリーを、3部に分けることができる。
第一部
藤裏葉まで
第二部
幻まで
第三部
それ以降
源氏の絶頂まで
源氏の死まで
源氏死後の物語
このうち、ストーリーが一気に展開するのは、第二部のみであり、第一部は、いわゆる
紫の上系と玉蔓系が入り乱れており、第三部は宇治十帖の前に三巻ある。
特に、第一部の玉蔓系に顕著なのが、サブストーリーがいくつも組み込まれていること
である。このサブストーリーは、本編に関係のないエピソードに終始する巻もある。
もともと、源氏物語には原型となったウル(原)源氏物語の存在が示唆されている。こ
れは、色好みという類型化された主人公が、様々な恋愛経験を重ねていくと言うものであ
る。加えて、貴種流離話、すなわち、貴人が都を追われて、鄙びた地で苦労したあげくに
都に帰ってくる、さらに、致富伝説、予言通りに恵まれない人が豊かになるというストー
リーが組み込まれている。
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物語の主人公は、良い意味でも悪い意味でも、
(通常の)人ではない。光源氏はまさにそ
の通りの主人公であった。生まれが一世源氏であり、光り輝く容姿、国主に順ずる地位な
るという予言など、典型的な王朝物語の主人公である。
その一方、明らかに社会秩序を逸脱した犯罪者としての一面を、併せ持っている。女官
への強姦を多数行い、夕顔への監禁致死事件では、さすがの源氏もこれまでと思う。ヒロ
インである紫の君に対しても、幼女誘拐監禁強姦行為を行っており、藤壷と朧月夜への姦
淫は、国家反逆罪という政治犯となり、斎宮との関係は宗教的な反抗となる。身分や、事
件が明るみに出ないことにより断罪を免れていたが、朧月夜との関係が明らかになりそう
になったので、自ら都を離れ明石に離流するという展開をとっている。
これらの展開は、伊勢物語の主人公、実在人物の在原業平とまったく類似している。つ
まり、元になったストーリーは、類型の焼き直しに過ぎない。ちなみに、これらの主人公
は、いわゆるトリックスターとの類似性があるように思える。
また、霊媒としての一面もあり、夕顔を殺した霊を呼び出したが、これは六条御息所の
生霊であるという説と現場となった廃墟の地霊であるという説がある。桐壷帝の霊そして
海神(明石)など、源氏を利する霊も常に憑依している。光り輝くという人離れした美し
さも、それを呼び出す要因となっている。
伊勢物語の影響は大きく、天皇の血筋を引いた臣下の男が、斎宮、東宮妃と関係を持っ
たために、都を追われるまでは、まったく同様の貴種流離話である。田舎の氏族の娘と関
係を持った後に、都に復帰する。さらに、以前からの伝承を伊勢物語が取り入れ、それを
源氏物語が継承しているものも多い。筒井筒、あづさ弓、源の内侍
伊勢物語と違って、主人公が栄華を極めるのは、致富伝説を構想に加えたためである。
致富伝説では、主人公は富をもたらす玉を手に入れなくてはならない。この玉は、竜神で
ある明石入道の娘明石の上と考えられる。この玉を手に入れたことにより、源氏は都に変
えることができ、宮廷政治の王道を歩み始めた。
ただし、第二部若菜以降は、普通の老境迎えた人になりさがっていき、第三部の宇治十
帖は、源氏なき後の普通の人物による恋愛小説となっていく。現代小説につながる女性の
生き方を表しているとして、特に女性で愛好する人も多いが、率直に言って退屈である。
物語の構成では、桐壷から帚木がつながらないことは古くから指摘されている。また、
若紫の文章が稚拙であるのに対し、帚木は書きなれた文章と思えることから、紫の上系を
書き終えてから、玉蔓系を書いたという説が根強い。
さらに、桐壷は、物語の前提を説明している巻で、全体の構成からも異質であり、しか
も、桐壷から、若紫へもダイレクトにはつながらない。そのために、失われた巻があるか、
作者が意図的に書かなかったという説もある。
第一部では、玉蔓系はあってもなくても良いサブストーリーであるが、第二部では、玉
蔓系も前提にして物語が進んでいく。つまり、第二部の開始に当たって、両編の統合がは
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かられている。いずれかが先に書かれたにせよ、若菜を書き始める前に、ストーリーを整
理したことが窺える。
読んで感じるのは、紫の上系は構成が非常に緻密であり、無駄がない。特に、澪つくし
までは、すべてが連続したストーリー構成をとっており、伏線が生かされている。エピソ
ードで終わるのは、源の内侍と花散里ぐらいである。前者は、紫の上系で源氏唯一のオコ
(愚か者)としての女性関係を表しており、後者は、実は源氏の表面的な正妻(女三の宮
以前)となった女性である。物語の構成上は、はずせない話なのかもしれない。
さらに、須磨明石は独立したストーリーとなっている。これらの巻だけでも一つの物語
となっており、この巻を書きはじめとする説もある。この説を採る場合には、紫の上と明
石の上との関係が興味深いものとなる。
紫の上は、それまでの物語類型にはない主人公であり、紫式部による完全なオリジナル
と思われる。つまり、物語の類型にあてはまらず、物語のメインストーリーである源氏が
栄える話には、そもそも必要のない人物なのである。花散里を正妻としても、物語は成立
する。
紫の上の物語とされているが、実は源氏の致富伝説の中では、単なる脇役としての役割
しかない。ヒロインは、明石の上でなければならない。紫の上は、源氏物語を源氏の物語
ではなく、女性の物語に変容させた。紫の上は、古典としての物語ではなく、今日まで通
ずる文学として評価させる存在である。
紫の上は、色好みの対象にならない幼女であったのに、それを連れ去ってしまう。源氏
との間にまともな恋愛話はなく、一方的に源氏が仕掛けて、紫の上は従っていくだけであ
る。実は、玉鬘は見事な対比をなしており、同様な境遇でありながら、源氏を断固として
拒んだ。二人の女性に対して、どちらかというとオコとしての源氏が描かれている。
玉蔓系は本編と同じ設定でありながら裏表的に物語は展開する。玉蔓の求婚話は、竹取
物語の求婚話と同様で、この時代の物語類型に即している。
光源氏は、政略結婚を三度している。葵の上と女三宮、そして明石の君である。明石の
君とは、正式な結婚ではないが、海神にかせられた父親が源氏に差し出した娘であり、致
富伝説にはなくてはならない人物である。この 3 人にのみ子供ができたのは、作者の意図
があるものと思える。
玉蔓系はサブストーリーの集まりであり、外伝的な物語である。文体も異なっていると
いわれるが、作者が違うのではなく意図的に文体を変えたと考えられる。現代の小説や漫
画でも、本編と外伝で意図的に表現法を変えることはよくある。例えば、平井和正の狼男
と外伝のウルフガイシリーズ、白土三平のカムイ伝とカムイ外伝がある。
本編と外伝が入り組んでいる第一部の構造にもっとも似ているのは、江戸時代の歌舞伎
ではなかろうか。後期の歌舞伎は、2日続く芝居で、二つの物語を幕ごとに代えて後援し
た。例えば、忠臣蔵とその外伝とされる四谷怪談を、交互に演じている。
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書き始めが、どの巻であるかが議論されてきた。その候補として、桐壷、若紫、帚木、
須磨などとする説がある。物語の始まりは桐壺であるが、作家が時系列に沿って書くとは
限らない。若紫は紫の上系の始まりであり、帚木は桐壺の次の巻である。須磨を最初とす
る説は、須磨明石の巻が、完成度が高く主題が集約されていることから、この巻が独立し
て存在し、これを元に前後の物語が書かれたとするものである。
帚木のほうが文章はこなれているが、ストーリー展開は紫の上系のほうが、ずっと精細
である。紫の上系は、事前にストーリーをあらかじめ構成してから書き始めている。
ウル源氏物語があったとすれば、それを題材にして、帚木、空蝉、夕顔、末摘花を書い
た。その後、本格的な物語を求められ、オリジナルの紫の上系を構想したのではないだろ
うか。始めの構想は藤裏葉までで終了しており、さらに物語を求められて、続編となる玉
蔓編を書いていった。
紫式部の構想が、どこまでであったか知る余地はないが、周囲の続編を求める要望に抗
することができず、書き続けざるを得なかったのではないか。致富伝説であれば、頂点の
藤裏葉まで、源氏の一生あるいは伊勢物語のオコ類型であればその死までで、物語は完了
する。ここで、筆を置けなかったのは、やはり周囲の圧力のせいであろう。
気が進まずに書かれた匂の宮からの三帖には、試行錯誤の後が感じられる。宇治十帖の
最後も見事な物語の完結とされるが、続編もありえる未完の状態とも思えてならない。
紫の上系だけでも、原型となる物語類型を一つだけでなくいくつも階層的に絡み合わせ
ていることがわかる。さらに、玉蔓系をモザイク状に挿入し、第二部、第三部では、すで
に書かれた源氏物語そのものをアレンジし、一種のフラクトル構造をなしている。第二部
では、夕霧の不倫、女三宮と柏木の不倫など、第一部の世界が裏返って物語を形成する。
第三部の宇治十帖の前に、匂の宮以下三帖ある。源氏物語の中でもっとも退屈な部分と
言われるが、構想を練っていたとする説もあり、一考する余地はありそうである。
3
物語の変容
物語はその萌芽から、多くの変容を経る場合がある。この変容を内からの変容、外か
らの変容に区分する。
3.1 内からの変容
ここで言う内からの変容は、作者自身によるものをさす。作者自身による変容としては、
公表前と後に分けられる。発表前に、推敲を加えて書き直しにいたる。発表後に、さらに
推敲を加え書き直す。連載した作品であれば、整合性が取れないところや、表現を書き直
したりする。多作で長期間作品を発表した作家で、作品を書き直すこともある。
発表前
習作の推敲
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発表後
さらに推敲を重ねる。
連載をまとめる。
作品を書き換える。
デビュー前の作家では、何度も作品に手を加えられることは珍しくない。作者がよほど
著名で、その製作過程まで関心を持たれる(研究対象)等の場合に限られ、そのまま出版
されることはまれである。特に、その習作が公表される機会は少ない。
宮沢賢治は、この点で特異な作家である。生前は公にされた作品が少なく、死後になっ
て未公表の作品が相次いで出版された。公表前の習作は出回ることが少ないのであるが、
本人の公表する意思にかかわらず公表された。そのために、普及版である文庫にさえ習作
が掲載されている。
連載された作品が、単行本として出版される時には、作者による推敲が入る場合が多い。
連載中に生じた矛盾や表現の統一等を行なう。人気を得た作品は、改版や出版社を変えて、
何度か出版されることもある。一部の作家では、その度に作品に手を加える場合もある。
グリム童話集は、改版のたびに書き換えられていることはよく知られている。また、初
版の中の童話であっても、忠実な聴き書きではなく、グリム兄弟の手が加えられている。
横溝正史は非常に多作な作家であるが、短編の作品を長編に書き直している。その中に
は、主人公を金田一に変えた改作もある。
主人公だけ変えた作品が多い作家に、平井和正がいる。彼は、漫画との関係が深く、漫
画原作を、別の小説に書き換えている。原作者としてでなく小説家として認められた後も、
漫画の原作を行っている。
幻魔大戦シリーズは、石森章太郎の漫画原作として当初書かれたが、未完で終わった。
その後、平井によっていくつかのシリーズ化した小説が多数書かれ、石森単独の漫画化も
はかられている。
スパイダーマンはアメリカンコミックであるが、日本の出版社に自由な改作が許された。
スパイダーマンは、現在も人気があるが、それまでのヒーローとの違いがあった。青年期
に葛藤する主人公と敵への同情など、アメリカンヒーローらしからぬ性格を持っていた。
漫画家自身によるストーリーが作成されたが行き詰まり、平井に原作がゆだねられた。
漫画の原作原稿には規定がなく、簡単なメモ程度からきちんとした小説とした形まで
様々である。平井は、小説の形式で原作していたらしく、主人公を代えてまったく同じス
トーリーの小説を公表している。
3.2 外からの変容
森田は、宮沢賢治作品の他者による変容を、作者の死後から現在まで追っていった。そ
の変容は、大きく3つに分けられるのではなかろうか。
①
編者の誤解や無知によるもの
②
外部からの強制
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③
意図的な改ざん
「注文の多い料理店」では、①は振り仮名の間違いなどがあり、②は「イギリスの兵隊
のかっこをして」が削除されたように時の政府などの権力者、あるいは社会的要請などに
よるものである。
③に属するものとしては、物語始めに死んだと書かれた猟犬が、終盤で主人公を助けに
来たという矛盾を解消するために、
「気絶した」と改ざんしたものがある。
このような変容が行なわれた背景には、著作権についての認識が未発達であることがあ
げられる。宮沢賢治の作品は、生前に発表されたものが少なく、死後注目されてから、多
数が出版された。当然、作者自身による承諾がないまま、編者による変容が行なわれたの
である。死後の著作権が、長らく保護されていなかったことが原因となっている。
①については、論ずることはない。②の外部からの強制は、著作権が守られるようにな
った現在でも、時に大きな問題となる。作者による表現の自由と社会的な自主規制との対
立が明らかになった場合である。
例えば、筒井康隆の「無人警察」では、てんかん患者の運転を取りしまるとの記述が差
別であるとの指摘から、論争を経て断筆宣言までに至った。もっとも、この問題は、小説
そのものではなく、教科書に掲載されたことが問題とされたものである。この点が曖昧な
まま、筒井作品全体の検閲が行なわれることにより、問題がエスカレートしていった。
また、平井和正は、その作風から倫理規定にかかる表現が多く、編集者が作者に無断で
校正したことから、複数の出版社とトラブルとなり絶縁関係となっている。小説を発表す
る場を失ったため漫画の原作を提供していた時期があり、そのメディアとの関係は興味深
い。
前世紀後半に「言葉狩り」が盛んに行なわれるようになり、様々な言葉がマスコミから
抹殺されていった。言葉だけに限らず、映像表現にもメスは入れられようになったが、作
者の死後は著作権の保護の観点から、寛容される傾向にある。
③の意図的な改ざんは、悪意でないにしろ作品の文学的な価値を損ねる可能性も出てく
る。例にあげた猟犬の死と再生は矛盾と言うべきではなく、童話的世界を構成している。
死んだ猟犬が生き返るのはおかしいので気絶にとどめるというのは、むしろ物語の構成を
壊すものとなる。
宮沢作品に対する意図的な他者の変容は、作品集の編纂に著名である。イーストハーブ
の童話集は12巻が予定されたが、実際に発行されたのは「注文の多い料理店」のみであ
る。死後多数の童話作品が残されたが、それを編者達は未完成、完成にかかわらず、任意
に編纂し、全集や童話集としている。この作品集は、各社から文庫としても出版されてい
るが、その編集は任意に行なわれている。
「注文の多い料理店」で、宮沢賢治はその表題や挿絵に非常にこだわっている。おそら
く、残された作品についても、その編集にはこだわったのは確実であろう。これらの出版
は、作者にとってはまったく不本意であると推測できる。
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作品集を刊行するときに、表題、作品の選択・その順序も、著者の創作であり、それを
他者が勝手に変更することも、作品集という物語の変容に当たるといえよう。
森田は非常に面白いデータを示していた。賢治の死後、その人気の高まりとともに出版
数は増加したのであるが、一時減少に転じ、その後再び激増していたのである。これは、
社会が著作権を認めるようになったことから、出版数が減ったが、著作権が消滅する死後
50年を待って、再び出版数が増加したと推測された。
岩垣の「物語原型・原始的エピソード展開」は、一種族であるケルト人の恋愛物語詩が、
ヨーロッパにおいて進展していった過程を分析したものである。物語が如何に変容してい
ったかを時代とともに追っていった分析は、非常に興味深い。これは、物語が、時代とと
もに外からの変容を受けて変化した過程を示すものである。
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物語のパラダイム論
物語は、まったくのオリジナルではなく、原型があることが多い。エポックメイキング
的な物語が存在し、それから派生して数多くの物語が生み出される。源氏物語にも、ウル
源氏物語や伝承があり、それを組み合わせながら創造性の高い物語が生み出された。
物語は、一度だけでなく何度となく再利用される。人間は、パターン化されたものを好
む。新奇なものも流行することもあるが、常ではない。物語のパターン化の例としては、
水戸黄門がわかりやすい。ほぼ毎回、同じようなストーリーで、同じ時間に印籠が示され
ている。これは、水戸黄門だけではなく、他の時代劇(TV ドラマ)でも同様である。
水戸黄門も、実在の人物をモデルにしているが、水戸黄門漫遊記などの読み物を経て、
テレビドラマ化し、人気を得たことでパターン化が行われている。この点も、歌舞伎によ
く似ている。役者の型というものが継承されるのも同様である。水戸黄門を最初に演じた
役者により、白いあごひげに杖、がっはっはと笑うなど類型化された。
また、時代劇だけでなく、人気があってシリーズ化されたドラマはパターン化しやすい。
例えば、ごくせんは漫画の原作は始めのシーズンのみで、第2,3シリーズは、テレビの
オリジナルであるが、パターン化している。
江戸歌舞伎においても、あたりを得た演目は、類似の設定で長い間演じ続けられた。例
えば、忠臣蔵は非常に多くの物語を排出している。まったく同じ脚本の場合もあるが、変
化をつけて演じられている。科学論でパラダイムと言うものがあるが、物語の世界でもパ
ラダイムと言う言葉を用いたい。歌舞伎には、
「世界」と言う多くのパラダイムがあり分析
対象として興味深い。歌舞伎からつながる時代劇映画でも、パラダイムが形成されている。
SF では、ウェルズがタイムマシンや宇宙旅行、宇宙人など、多くの概念をポピュラーに
した。一般化するにつれてパラダイムとなり、説明なしに物語が始めることができ、SF 小
説が全盛となっていく。アメリカでは、スペースオペラ全盛の時代があったが、その延長
上に、エイリアン、スターウォーズがつながっている。
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他の物語を参考にすることはよくあり、著作権が確立しなかった時代には問題とはなら
ないが、それ以降は問題として糾弾されるが、意識せずに似てしまう場合もあろう。特に
時代小説の場合には、特定の人物、時代が繰り返し取り上げられる。それらをすべて網羅
するように、作品を提供した作家に、司馬遼太郎、吉川英治がいる。彼らによって、パラ
ダイムが形成され、同時代の作家はその影響を脱却することが難しい。
盗作とされ、絶版となったのが、池宮彰一郎の「遁げろ家康」と「島津奔る」である。
表現の類似が指摘されたが、決定的であったのが司馬作品での史実に基づかない創作部分
が取り入れられていた。
先行する作品からヒントを得て、物語を作成することは当然のことであるが、どの範囲
までがオリジナルとなり、盗作となるか、あるいはパラダイムとして許されるかは、微妙
な問題である。
5
トランスメディア
5.1 物語の媒体
物語には媒体がある。物語を表現し伝達する手段としては、音声言語による伝承、文字
による書物、そして演劇が代表的なものであった。江戸時代に入り、歌舞伎、印刷技術に
より物語は日常化、大衆化した。そして近代に入り、映画やテレビが、中心的な媒体とな
っていった。
現代は、様々な媒体が出現し、それぞれ違う媒体で物語が変容を受けている。漫画、ア
ニメは、小説や映画ドラマの原作となってきている。さらに、ゲームを原作として、漫画、
アニメ、映画までが作成されている。
古典的媒体:伝承、文学、朗読、演劇、音声劇、
現代的媒体:映画、漫画、アニメ、歌謡曲
新しい媒体:ゲーム、インターネット、パチンコ
物語は、媒体を乗り換え、作り手も変わる。原典は、もはや小説や漫画に限られておら
ず、ゲームやインターネットの掲示などから物語が形成されることもある。例えば、バイ
オハザードでは、ゲームから映画化され、その脚本から小説化が行われている。メディア
ミックスと名づけているが、複数の媒体で、意図的に同時公開することもある
また、インターネットのテキストからも物語が創作されている。新しい媒体としてパチ
ンコがあるが、物語の最終媒体となっている。
現在は、物語が様々な媒体を自由に乗り換えることが可能である。これを、物語のトラ
ンスメディアと呼びたい。
5.2 電車男
インターネット上のテキストを元として、出版されることも多く、物語も作られるよう
になった。インターネット上の、いわゆる掲示板のやり取りにより、それをまとめた出版
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物ができ、それを元に、テレビドラマが作成されただけでなく、映画化、同時に漫画化さ
れた。しかも、この漫画化では、同時に 4 人の漫画家が連載しており、その経緯や表現の
違いは、非常に面白い。
5.3 エヴァンゲリオン
日本のロボットマンガ、アニメはパラダイムを構成している。日本の漫画に大きな影響
を与えた漫画家に、マジンガーZ の永井豪がいる。それまでの、アトム、鉄人から、人がロ
ボットに乗って操縦するというジャンルを作り出した。
この新しいジャンルをさらに確立したのが、ガンダムであり、宇宙空間で戦闘するロボ
ットとそれを操縦する平凡な少年というパラダイムを作り上げた。ガンダム自体も多くの
続編が作られるが、類似したアニメも作られる。
エヴァンゲリオンも、そのパラダイムに従ったアニメであるが、特異性がある。放映さ
れたテレビシリーズでは、物語が完了せず、その後、完結しようとする試みが繰り返され
たが、いまだ未完の状態にある。
テレビ放映後、10年以上を経て新たに完結を目指した映画が製作され、トランスメデ
ィアされた漫画がいまだに連載され続け、最終媒体であるパチンコが人気を呼んでいると
言うことから、研究対象として非常に面白い存在である。
おわりに
物語の形成変容として、源氏物語からエヴァンゲリオンまでを取り上げた。異質なもの
と思われるかもしれないが、物語を認知科学からみればまったく等価な対象である。古典
と言われる源氏物語も、その時代ではおそらく通俗小説に近いものであり、女性向けの恋
愛小説やコミックのような存在であったはずである。事実、源氏物語を原作とした女性漫
画も書かれている。
物語はその時代のパラダイムをベースとして、作者のオリジナルを加えて創生される。
現在は物語を表現する媒体が非常に多く、物語は自由にメディアを乗り換えていく。
言及できなかったが、物語に終わりがあるのかということに関心を持っている。読者を
もった物語は、作者の自由に終焉することができなくなる。古くは源氏物語があるが、近
世に入って南総里見八犬伝も 40 年にわたって継続され、現代では平井和正の幻魔大戦シリ
ーズ、狼男シリーズ、ドラゴンボールZなど、枚挙に限りがない。
今回は取り上げられなかったが、感情移入は人の認知に大きな意味を持つ。物語は、感
情移入されることで、はじめて他者の経験を自己のものにすることができるのである。こ
の感情移入はどのようにして実現されるかは、今後の課題である。
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