京都医健専門学校 演劇部 「私は覚えている」 講評 河瀬仁誌 (Kyoto

京都医健専門学校 演劇部
「私は覚えている」
講評 河瀬仁誌 (Kyoto 演劇フェスティバル実行委員/劇団 ZTON)
俳優たちは、発足 1 年目の演劇部とは思えないほど舞台度胸があり、しっかりと話を受
け取ることができた。また、まとめあげられたシーンの構成は美しく、クオリティも高く
映る。真摯に演劇に向き合っているという印象を受けた。物語は、専門家のマントを羽織
った俳優が舞台上に現れて医学的見地を述べると、認知症の親と同居する二つの家庭がケ
ーススタディとして演じられていく、という手法が何度か繰り返され、観客は「認知症」
についての見識が深まる。
「 認知症」を知る教材として捉えれば、大変見事に作られている。
公的機関に売りに出せば、恐らく買い手がつくだろう。
しかし、いま一度考えたいのは、観客は「認知症」の勉強をするために劇場へ足を運ぶ
のだろうかということだ。奇想天外な物語を楽しむため、俳優の感情を体感するため、ア
ーティスティックな世界を体感するためなど、観客が劇場に足を運ぶ理由はさまざまであ
る。ただ、私はこの「私が覚えている」という作品において、そのような芸術的な感動を
覚えることは残念ながらなかった。これは、
「登場人物の感情の変化」が物語の中で語られ
なかったためである。
確かに、物語上のケーススタディにおいて、認知症患者介護者の感情や葛藤は十分描か
れている。認知症の親を精神的に受け入れている家庭のシーンと、認知症の親を精神的に
受け入れられない家庭のシーンの対比は、それだけで問題点が浮き彫りになった。
しかし、その介護者の感情や葛藤、問題点を解決しないまま物語が進行してしまう。そ
の困難をいかに乗り越えていくかを描く、ドラマの部分を見せてほしかった。例えば、認
知症患者が子どもの顔にけがをさせるシーンがあったが、介護者はこの問題をどのように
解決したか、どのように 1 人で介護による精神的な悩みを乗り越えたかなどだ。物語の最
後に描かれる、認知症患者と介護者が折り紙を折るシーンで、さまざまな問題を乗り越え
てきた介護者が、初めて認知症と向き合うことができる物語の運びにできていれば、観客
も心が洗われ、とてもよい演劇になったように思う。
テクニカルで言えば、極力暗転を少なく、場転の時間を短くできれば観客は見やすい。
さまざまなテクニックは、ある程度上質な演劇を見れば体得できるはずだ。発足してまだ
1 年。今後、いろいろなジャンルの演劇を見ることが何より勉強になると思う。