わが古墳研究50年

第 4 回・図書館講演会「著者と語る」
わが古墳研究 50 年
大塚 初重∗
第 4 回図書館講演会「著者と語る」は、2001 年 6 月 22 日(木)に和泉図書館第
2 開架閲覧室で行われた講演の記録です。(編集部)
∗おおつか・はつしげ/名誉教授/考古学
こんにちは。大塚でございます。
ただいま過分なご紹介をいただきましたけれども、大学を定年になりま
してから 4 年目になりまして、自分の出身校、母校で、しかも、こういう
図書館のアカデミックな雰囲気のなかで講演できるというのは、普通の公
会堂などの講演と違って非常に嬉しく思っております。
きょうは、いろいろご相談いたしまして『わが考古学研究 50 年』という
テーマにさせていただきました。大学を定年になって 4 年目を迎えたと申
しましたけれども、駿河台の考古学の先生方は、私の教え子に当たる方ば
かりですが、
「最近、学生さん、どお?」ときくと、
「まぁ、宇宙人と話し
ているようなものですよ」というように言うのです。どこまで真実か知り
ませんけれども、今日は和泉キャンパスの宇宙人がたくさんいるかと思っ
たら、そうでもなくて、むしろ一般の方のほうが相当いらっしゃる。これ
も時代だなというふうに思っております。
たぶん私の人生にとって、自分の母校であるこの和泉キャンパスで、自
分の考古学研究 50 年の歩みを語るのは、これがラストチャンスだろうと
思っております。この秋で 75 歳になりますので、そうそういつまでも元
気でいるわけではありませんので、自分にとっても一生の思い出になるだ
ろうと思っております。
そこで『わが古墳研究 50 年』というのには幾つかのポイントがござい
まして、なぜ私が考古学を勉強することになったのか、なぜ明治大学の門
を叩いたのか、ということがスタートの話になるかと思います。
戦争、海軍の軍属
戦争というものがございました。もちろんいまの学生諸君、和泉キャン
パスには 18 歳、19 歳位の年齢の諸君が多いのですけれども、私は、18 歳
で戦争に駆り出されました。駆り出されるというよりも、志願をいたしま
した。そんな話をしに来たわけではないのですが、なぜ考古学の道に入っ
たかということをお話しするには、そこから話が始まらないとご理解いた
だけないと思いますので、お話致します。太平洋戦争です。東京の大空襲
もございました。
私は、旧制の中等学校を卒業といっても、私は商業学校の在学でしたか
ら、昭和 19(1944)年 3 月卒業すべきところを、昭和 18 年の 12 月に繰上
卒業。つまり、商業学校とかそういう実業学校の生徒諸君は、早く卒業さ
せて戦場に送り込む。普通中学の生徒さんは翌年の 3 月ということで、私
は昭和 18 年 12 月に東京の商業学校を卒業しました。
大学へ行きたかったのです。だけれども、そのころ大学受験なんという
ことを口にすれば「非国民」「国賊」だという言葉がクラスで戻ってくる
ような状況でございました。したがいまして、私は、海軍水路部というと
ころで海軍の軍属になって、兵隊に行くまで 20 歳の徴兵検査を受けるま
で、少しでもお国のためになろうというので、私だけではない、当時の若
者はみんな多かれ少なかれ日本の国のためにと意を決して、そういうこと
で自分の人生を歩み始めたわけです。
海軍水路部というところに回されまして、そこは天気予報、気象観測を
やるところでございました。もちろん海図を作ったりいろいろなことを
やっているのですが、商業学校卒業の私が、そこで地球物理学とかそうい
う勉強をさせられて、気象観測をやりました。海軍気象部というところに
回されて、海軍の軍令部というところの作戦用の世界の天気図を描く役を
やってました。モスクワでは東南東の風、風力 3、気温何度、湿度がいく
ら、気圧が何ミリバール、というのが暗号電報で世界中から入ってくる。
それを解読して世界地図に入れる。それは軍事作戦に非常に重要な仕事で
ありました。
ところが、途中から海軍は気象術予備練習生という制度をつくりました。
せっかく海軍でお金と時間をかけて中学を卒業したばかりのフレッシュマ
ンに気象観測の専門の勉強を教え込んで一人前に仕立てたと思うと、20
歳で徴兵検査で陸軍の飛行兵に採用されて、今度は陸軍の気象観測要員
になる。これじゃ、お金をかけて陸軍に持っていかれたのでは困るという
ので、海軍は一計を案じて、6 か月の新兵教育で 5 階級いっぺんに上げる。
こんなうまい話はない。どうせ軍隊に行って命を落とすならば、少しでも
早く楽をして偉くなりたいと思うのが相場でございまして、みんな受けた
んです。受けろと強制的に受けさせられて、海軍軍属だった私が第 2 期海
軍気象術予備練習生というのを受けて合格して、横須賀海兵団に入団した
のです。
横須賀海兵団入団
これは本に書いたこともあるのですけれども、昭和 19 年の 10 月 5 日に
新橋駅前広場に集められて、そこから横須賀線で横須賀海兵団に入団しま
した。午前 9 時集合というのを、私は 9 時前に行きましたけれども、定刻
9 時に来た若者たちは、駅前で海軍の兵隊に殴り倒されました。全ての行
動は 5 分前というのが帝国海軍のしきたりだったのです。出航何時という
と何時 5 分前には船に乗って出航の準備ができているというのが建前だと
いうことで、これはえらいとこに来たと思ったのですが、母一人子一人で
ありましたので、おふくろが新橋駅まで見送ってくれて、そうした情景を
じっと見つめていました。私は 18 歳の時に新橋駅から横須賀海兵団に入っ
たのでした。
水兵服に着替えて、その晩です。「東京出身者は出てこい」という。こ
のぐらいの部屋で海軍は一個分隊というのが 160 人ぐらいいるのですけれ
ども、そのなかに東京出身者が 5、6 人いました。その 5、6 人の兵隊たち
が前に出ていきました。私も出ていきました。そしたら「貴様らは赤坂の
虎屋の羊羹を食べたことがあるか」と言われて、私は東京の板橋生まれ
ですけれども浅草蔵前育ちで知っておりましたから「食べたことがありま
す」と返事をしたら、この野郎っ、とそこで殴り倒されました。そして、
起き上がったんです。
「銀座のネオンサインを見たことがあるか」
「ありま
す」と言ったら、バカヤローっということで、また殴り倒されました。つ
まり、旧軍隊は、東京育ちで宮内庁ご用達の赤坂の虎屋の羊羹を食べたり、
銀座のネオンサインを見て知っているというのは、帝国海軍の軍人として
ヤワな軍人だと。鍛えなおさなければ役に立たないという考えがあったん
でしょうね。18 歳の青年で、日本のお国のために、天皇陛下のために、と
真剣にみんな思っていました。それで海軍に入ったのに、なんで虎屋の羊
羹を食べたことが殴られなければならないのか。銀座のネオンを見たこと
があると、なぜ殴られなければならないのか。ということで私は、横須賀
海兵団に入った第一夜、ハンモックのなかで涙が出てくるのを止められな
かったです。
そうしましたら、東京出身の下士官が「第一班の大塚いるか」と小さな
声で聞きましたから、
「はい、私です」
「ハンモックから降りてこい」どこ
の世界にもいろんなことがある、いろんな人がいる。頑張ろう、頑張ろう、
というところに、そういうことをやられて、ああやめたという萎えた気持
ちになることを、私よく分かりませんけれども、「じゃくる」という言葉
が海軍用語であったんです。「じゃくるなよ。頑張れよ。俺も東京の人間
だけれども、そういう男もいるけれども、軍隊というのはそういうところ
だということを、よく知っておきなさい。頑張れ」って激励をしてくれま
した。そこで私は、こういう人も海軍にいるのだなということで、6 か月
の海軍の訓練を横須賀海兵団で受けたんです。
一班 16 人班員がいるんです。カッター訓練というボートの訓練を行う
のに、背の高い人から、舳先から順繰りに右舷・左舷で 1 番、2 番、3、4、
5、6 とやって、私は背が小さいですから、一番舵に近いほうの 15 番、16
番になる。そこに班長がいて舵をとっているんです。大波が来た後はオー
ルが水面から出るんです。櫂が流れてしまうんです。そうすると反動で後
ろに引っ繰り返るんです。すぐ爪竿でこんこん殴られる。舳先のほうは届
かないんです。だから背の高い人は殴られない。背の低い我々はこぶだら
けということで毎日やられました。
東京大空襲・乗っていた船が撃沈
そういうことがありまして、半年後に 5 階級上がって海軍一等兵曹。陸
軍でいえば軍曹と同じ階級になって、任官して下士官の服を着て、今度は
東京に戻ってきて、なんと神田駿河台のいまの明治大学の斜向かいにある
YWCA が海軍気象部だったんです。その海軍気象部に私は自宅から通勤
することになりました。それが昭和 20(1945)年の 3 月初めでした。
3 月 10 日の東京の下町の大空襲。明治大学は辛うじて焼け残りましたけ
れども、あの駿河台から向島、ずうっと千葉県まで見えたんです。全部焼
け野原です。3 月 11 日の朝から私は、荷車で兵隊さんを 5 人ぐらい連れて
深川の富岡八幡宮という有名な神社がございますけど、その周辺で焼け死
んだ方たちの死体の片付けをいたしました。それはもう、とても言葉には
表せないような悲惨な状況でありました。B29 の編隊を組んだ飛行機が、
地上から赤々燃える火でよく見えましたから、そこからバラバラ焼夷弾が
落ちてくる。
いま、私は山梨県立埋蔵文化財センターの所長をやっているのですけれ
ども、県立甲府工業高等学校のキャンパス移転に伴って、甲府工高のグラ
ンドの発掘調査をしましたら、数十発のアメリカ軍の焼夷弾が校庭に突き
刺さっていました。その上に土が乗っかってグランドで選手たちが野球の
練習をしていたんです。その焼夷弾もいまや考古学調査の対象となり、何
度の角度で土に突き刺さっているか。5m 平方に何発落ちているかという
ことまで考古学の遺跡の調査でいたします。それによって飛行機の高度と
速度と風から全部計算すると、どの程度どう落ちたかということが分かる
のです。そして、市ヶ谷の防衛庁にある戦史室に行って昭和 20 年 7 月 5 日
の山梨県の甲府空襲のアメリカ軍の資料を読ませていただきますと、サイ
パンを発進した 230 機の B29 が御前崎を通り富士山の西側を通って甲府の
上空に達して、3 編隊 230 機が甲府に焼夷弾を落とす。甲府の大半が焼け
る。相当の死傷者が出る。その跡を我々がいま発掘をするということで、
現代の考古学が近現代の戦争にかかわる遺跡の調査もやるようになったと
いうことです。
そういうなかで私は、死体の片付けをやるということは、後でいろいろ
なことが分かってまいります。命令をもらって、おまえは上海第二気象隊
に転勤せよということで、仲間 32 人と一緒に昭和 20 年 3 月 26 日に東京
を出発いたしました。佐世保に行きましたら、私の乗るべき船は既にア
メリカ潜水艦に撃沈されて乗る船がありませんでした。3 日間ほど佐世保
で待って、寿山丸という 6 千トンぐらいの輸送船が調達されましてそれに
乗って、昭和 20 年 3 月 31 日に佐世保港を出港して門司へ行って、門司港
で航空魚雷、飛行機から落とす魚雷を 36 本その船に積んで、総員で 600 人
乗って門司を出港して、巨文島、済州島経由で上海へ向かったんですけれ
ども、昭和 20 年 4 月 13 日の夜中に、実は私の乗っていた寿山丸がアメリ
カ潜水艦にやられるのです。そのとき護衛艦の駆潜艇と海防艦も 2 隻同時
にやられ、アッという間に 3 隻が、済州島の沖で撃沈されるのです。東京
を私と一緒に出た 32 名の仲間で生き残ったのは 12 名でした。
考古学を始める原点
なんでそんな話をするかというと、実は、そこが私の考古学を始める原
点でございまして、轟沈に近い爆発を起こして夜中に私の乗っている船が
沈みました。ところが、幸いにも済州島の沖で 20m という浅い水深だっ
たものですから、船の前半部が海のなかに突っ込んで逆にスクリューが水
面上に突き出た状態で海のなかから爆発して燃えている。そういう状態で
した。よく映画で出てくるように船内の中段に蚕棚のような棚がありまし
て、そこにびっしりくっついて寝ているんです。灯火管制をしていますか
ら、汗ダラダラです。シャツ 1 枚、ズボン下 1 枚です。それがすべてドー
ンと飛ばされて、起き上がったら、もう船のなかが燃えていました。
「船火
事だ、船火事だ、火を消せ」なんて言っているうちに水が入ってきて、こ
れはいかん甲板に逃げなければというのだけれども、甲板に上がる階段が
2 つとも飛んでしまって上がれないのです。つまり、我々がいるところか
ら甲板まで、この天井より高いんです。船底からどんどん燃えているんで
す。もうだめかと思って、見たらばクレーンのワイヤーロープが、ズタズ
タに切れたのがぶら下がっているんです。いまは私お腹が出て太っている
のですけれども、そのころは痩せておりましたので、そのうちの 1 本に飛
んでロープにしがみついて上に上がろうとしましたら、後から後から何人
つかまったか、私の足に無言のうちに兵隊たちがつかまるわけです。で、
ズルズルズルズル、燃えている船底へ落ちていくということで、これはた
まったものじゃないということで、私は両足でもって私の足につかまった
兵隊を蹴落としました。殺人をしましたよ、私は。みんな燃えている船底
に落ちていった。まったく無言のなかでそういうことがあった。というこ
とで、私は何とか甲板に上がったときに、人を助けたこともありますけれ
ども、船がだめだということで、海へ飛び込みました。船から離れたとき
に、海兵団時代に関西出身の私の上官が「遭難したら、泳いだらあかへん
で。海にたくさんの物が浮かぶから、それにつかまってじっとしていろ」
と言われたことを思い出して、目の前に板があったので、それにつかまっ
て漂流を続けておりました。4 月の東支那海は冷たくて、寒くて、怖くて、
カチカチカチカチ音がする。何かと思ったら、寒さと怖さで私の歯がカチ
カチ鳴っていたんです。
そのときに私は頭に、神武天皇とか、伊邪那岐・伊邪那美命とか、天照
大神という神話で始まる日本の建国の歴史を思い出しました。小学校 6 年、
旧制中学 5 年、合計 11 年間、「神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・
・
・」
小学校の 3 年生ぐらいから教室に、神武天皇から今上天皇まで 124 代の天
皇の名前が貼ってあるのです。たぶん全国どこの小学校もそうだった。授
業が始まる前に起立して先生と一緒に「神武・綏靖・安寧」と、小学校 3
年生ぐらいで 124 代全部暗記していたのです。そして、神話に基づく日本
の建国の歴史というものをずっと教わってきたから、批判力のない子供た
ちのなかには、それが真実だと思っていた節が多いのではないかと思うの
です。私はそう思っていました。神国日本は不滅である、神風が吹く、と
いうことを本当に信じていました。だから、日本は戦争に絶対負けないと
思っていました。ところが、やられてしまったのです。
東京の大空襲で、あの焼死体を荷車で運んだ生々しい状況も忘れられな
いときに、今度は自分の身の回りで仲間がどんどん死んでいく。目の前に
四斗樽の酒樽か醤油樽が、浮いているんです。こんな小さな四斗樽に十数
人の兵隊たちがつかまるんです。大波がドーッとくると樽が、回転して、
もう人の影は数人になっています。どんどん東支那海の波間に自分の仲間
が消えていくという現実を見て、戦争というものはこういうものだという
ことと同時に、船が燃えながら沈むということは美しいな、とも思いまし
た。しかし、これはだめだな。日本は危ない。もし命があって、再び日本
の土が踏めるとしたら、神風が吹くとか、神国日本は不滅であるとか、そ
ういうことではなくて、もっと科学的な勉強を、歴史を勉強しなければだ
めだというふうに、私は漂流しながら思いました。
だんだん寒くて、海上には済州島の漁民が船で助けに来ているのです
けれども、波の上に自分が上がったときは周りがよく見えるのですけれど
も、波と波の間に落ちたときには、もうずっと上に波頭がありまして見え
ないんです。波を叩いて、自分の存在を示すけれども、そばまで来ている
にもかかわらず助けてくれないのです。気がついたときには、私は済州島
の浜でした。韓国の済州島の翰林邑の挾才里という、今はきれいな海水浴
場です。挾才里の村の人たちが船を出して、浮かんでいる日本人を助けて
くれたわけです。ですから、韓国の皆さんは私たちの命の恩人なんですけ
れども、そこの一軒の漁民の家に私は引きずっていかれました。そして手
厚い看護を受けたのでした。そういうことで、私は 18 歳のときに、そう
いう命懸けの経験をいたしました。
もうだめかな、再び日本の土は踏めないかなと思ったら、いまにして思
えば、幸いにも戦争に負けた。幸いと言っていいのかどうか分かりません
が、とにかく負けてしまったんですね。そこで再び昭和 21(1946)年 2 月
に日本の土を踏むことができました。その間、約 10 か月近く、私は上海
で捕虜生活を経験しました。自分たちが入っていた、退避していた防空壕
を自分たちで壊して、その防空壕のコンクリートと土をモッコ担ぎで毎日
毎日、池を埋める作業を捕虜生活でしました。実は、その労働が後に考古
学で役立つのです。
後藤守一先生との出会い
日本に復員するとまず歴史を勉強しなければならないと思いました。し
かし、喰わなければならないということで、東京の焼け野原で、新橋の駅
前にある闇市というのでしょうか、そこでおにぎりが一つ 5 円だったか 10
円だったか知りませんけれども、買って食べたり、そういう生活をするな
かで、私は通産省(当時は商工省)の特許庁(特許標準局)に勤めました。
とすれば当然、昼間は通産省のお役人ですから、夜学です。夜学で歴史の
古代史を勉強できるところはどこかというので、すぐ大学案内などを調べ
たんですけれども、各大学は試験が終わっていて、新聞で分かったのは、
明治大学だけだったんです。3 月の終わりの頃に明治大学の専門部の地理
歴史科というのが、これから試験だ。虎の門の特許庁から通うのにも便利
だということで受けたんです。相当の志願者です。みんな兵隊服です。戦
地から帰ってきた兵隊さんばかりが、大学の受験に来ていたんです。
私は、幸いにも受かりました。実は、専門部ですから、明治大学の専門
部の地理歴史科の 1 年生の授業に「考古学」という授業があったんです。
みなさん、へェと思うかもしれませんが、私は明治大学の門を叩くまで、
『古事記』とか『日本書紀』ということは知っていましたけど、「考古学」
という学問があることは知りませんでした。1 年生で考古学の講義に出ま
した。担当は後藤守一という有名な考古学の先生でした。その講義が「三
種の神器の考古学的検討」という講義だったんです。つまり、草薙剣<別
名「天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)」>、熱田神宮にある剣。日本
武尊がいただいて、それを持って東国に遠征してくるというのです。静岡
県の焼津の原で賊に襲われて火をつけられる。最後に、その剣で草を払っ
たら、逆風になって賊のほうに火が行って賊を平らげたという有名な説話
があります。そこで別名「草薙剣」ともいう。これが名古屋の熱田神宮に
所蔵されている。八咫鏡(ヤタノカガミ)という字を書いて、たぶん八咫
鏡というのは、皇位のみしるしが宮中賢所にあって、八稜鏡ではないかと
いう話とか、戦争に負けた途端に明治大学の夜学で後藤先生の考古学の講
義で「三種の神器とはいかなるものか」知ることになったのです。ところ
が、熱田神宮の神官たちが江戸末か明治の初め頃に、タブーを破って箱の
蓋を開けた。草薙剣の蓋を開けた。そしたらば<青黒く鈍く光っていた>
という記録がある。「もし鉄の剣ならば、諸君、考古学の発掘で古墳を掘
ると、鉄剣は錆びだらけになってボロボロだ。黒く鈍く光っていたという
のは青銅の可能性が強い。銅に錫が入ったブロンズ、青銅の剣の可能性が
強い。もし銅剣だとすれば、それは北部九州を中心とした日本の弥生時代
の青銅器ではあるまいか。そうすると、2000 年位前の青銅器が宮中の剣
になっているかも知れぬ」というような、戦争中にそんな話をしたら、た
ぶん後藤守一先生は憲兵隊に引っ張られて拘留されて大変だったでしょう
ね。だから、戦争に負けたということは、平和になって自由に学問研究が
できるということになったと思うのです。
僕は、後藤先生の講義を聴いて、これだっと思いました。俺の行く道は
これだ、これ以外にない、というふうに思ったんです。つまり、文献の歴
史は文字を読んで勉強していく学問だけど、考古学は物の形を理解して、
歴史を叙述していく学問だ。だから、発掘調査をして出てくるその状況
をどう理解していくかということで、つまり物から入っていくということ
で、これしかない、俺の行く道はこれだ、と思ったんです。
登呂遺跡発掘
ある日、後藤先生が「実は、来年の夏から静岡の登呂遺跡の発掘を行う。
諸君のなかでもしよかったら登呂遺跡の発掘に連れていってあげる」と言
うのです。但し、1 週間や 10 日ではだめだよ。7 月から 9 月まで、まるまる
2ヶ月はやるのだから、長くて 1ヶ月とか、全期間とか、半月とかというロ
ングランで来てくれというのを、夜学の授業で後藤先生がおっしゃいまし
た。僕は、家へ帰ってすぐ後藤先生に手紙を書きました。「どんなことで
もいたしますので連れていってください」と。そしたら後藤先生が翌週の
授業で、諸君のなかの学生さんから手紙をもらった。やる気まんまんで、
よし連れていくよ。但し、1ヶ月単位で来てくださいよと言われました。
ところが、私は特許庁に勤めておりましたから、通産省(商工省)のお
役人だったんです。それが 1ヶ月も 2ヶ月も無断欠勤できません。しようが
なくて、私は浅草蔵前の知り合いの病院長に相談に行きました。そしたら、
大塚さん、それは精神病しかないねと「強度の神経衰弱症で長期転地療養
を要する」というニセの診断書をいただいて通産省に出しました。「大塚
さん、あなた少し真面目に仕事をしすぎるよ。人生は長いのだから、ゆっ
くり仕事したほうがいいですよ。どうぞ夏は 1ヶ月でも 2ヶ月でも行って
いらっしゃい。どこへ転地療養するの」と言われて、登呂遺跡とは言えな
くて困ったことがあります。だけど、私はそうやって登呂へ行くんです。
つまり、2ヶ月間、商工省を病気で長期欠勤です。そういうふうなことを
して考古学の道を私は歩み始めました。
登呂へ行って発掘が始まりました。ところが、後藤守一先生は、たくさ
ん学生さんがいますから、私が大塚だということは分からない。ある日、
登呂遺跡で後藤先生がステッキを持ちながら遺跡の発掘現場を見て回りま
した。いまの発掘は、キャリアカーなどで掘った土をずっと遠くへ運んで
発掘現場をきれいにお膳立てします。ところが、昔の大学の発掘とかは、
お金がありませんから、掘り上げた土は穴のすぐ周りに積み上げる。2m
も掘ったら、容積が倍になりますから、周りに 2m 以上の山ができるので
す。そうすると、穴の底から 4m も土を放り上げないと山の向こうに行か
ないのです。ところが、粘土質の土ですから、スコップに張りつくんです。
一回一回スコップを水を付けながら粘土をポーンと放るんです。「おいお
い、君は何という名前だね」と頭の上から言われる。「明治大学の大塚と
申します」
「あぁ、君が大塚君か。体は小さいわりに、いい腰しとるな」っ
て後藤先生にほめられたんです。それは上海の捕虜生活で毎日毎日モッコ
を担いだり肉体労働をしたお陰なんですね。長嶋だとか、王選手の打撃
を見ていると、確かに選球眼もいいし、腰の回転と手首の返しですよ。だ
から、弾丸のように飛んでいくのです。いくら打とう打とうと思ってもだ
めです。ちょうどいまイチローが頑張っていますけれども、打撃理論から
いくと、腰を軸にした手首の返しなんですね。それと同じで、考古学のス
コップも腰の回転と手首の回転なんです。でないと土がバラバラバラバラ
と広がっちゃうんです。これが 3 年生から 4 年生ぐらいになると、目的の
ところへ、4m 先のあそこの A 地点というと、パーッと土がまとまってそ
こへ飛んでいきます。新入生だとバラバラバラバラと届かないのです。人
生には、発掘でも、労働でも、何でも極意というものがある。達人という
のは、こういうものだというのを、私は登呂遺跡で知りました。
しかも、天下に有名な後藤先生から名前を聞かれて、「君はいい腰しと
る」とほめられたのは、僕にとって勇気づけられました。よしっ、体は小
さいけど俺にも考古学ができると思いましたね。だから僕は、それから明
治大学の教員になってからも、学生さんはほめる。いいところがあったら
ほめる。もちろん悪いところは、めっためったにやりましたけどね。いい
ところは「そこはいいぞ」っとほめるんです。学生さんは、エンジンがか
かると目の色が変わってきますよ。教室で見ていて分かります。ゼミでも、
エンジンがかかったなという学生さんは、姿勢がいい、目が光る。全然エ
ンジンがかからないのは、とろんとしている。四十数年間教壇にいると、
よく分かるのです。
命をかけて本を読む時代
戦後まもない明治の夜学生活のなかで、本がないんです。何しろ紙がな
いのですから。それで仙貨紙という灰色の、印刷したって紙に穴があいて
いるんですから。そんななかで、あした神保町の岩波書店で本の発売があ
る、文庫本の発売がある。何という本が売られるか分からない。特に夜学
の我々の教室にも、あした神保町の岩波で文庫本の発売があるぞというの
で、私は板橋の東上線の下赤塚というところに住んでいたのですけれど
も、朝の一番電車で、冬寒かったのですけれども行きました。そしたら、
もうずうっと神保町から錦町河岸のほうまで数百人並んでいました。陸軍
の外套とか軍服の襟を立てて。つまり、いかに当時の若者や大学生や一般
の人が本に飢えていたかということです。いまの学生さんは、そんなこと
言ったって、もうすごいですよね。コンピュータで、パソコンでどんどん
引き出せる時代ですけれども、私も付和雷同性があるというか、そうやっ
て並んで買った本が、カントの『純粋理性批判』、西田幾多郎の翻訳本で
した。読んだって哲学の本って分かりません。けれどもむしゃぶりつきま
したね。あっこれが平和だな、これが学問研究の第一歩だな、というふう
に思いました。本の貴重さ、大事だということが、そういうところでよく
分かりました。
当時の明治大学の駿河台校舎の教室の照明は裸電球です。蛍光灯などな
かったですから裸電球。それも盗まれるんです。だから、裸電球に針金で
覆いがしてあるんです。最後の授業が終わると、クラス委員は電球を外し
て教員室に持っていくんですよ。いまの和泉キャンパスでは信じられない
でしょ。そんなことは全くね。だけども、いま思い出しますと、そういう
環境劣悪。だけども本のないひもじい思い。そういうときのほうが命をか
けて本を読み授業を受けましたね。
学者もそうです。私も明治大学の考古学で大学院を出て、幸いにも明治
大学に残していただいて、助手になり、専任講師になっていくのですが、
助手になったばかりの頃に、今度、河出書房新社から『日本考古学講座』
全 7 巻が出る。後藤先生から、大塚君にも「石室と棺」という項目を書い
てもらいたいというので、天にも昇る気持ちで勉強して書きました。
私、何も知りませんでしたから、原稿を渡すと出版社というのはすぐ原
稿料をくれると思っていたんです。ところが、本が出るまでに 1 年ぐらい
かかるんですね、その巻が出るまでに。本が出てからまた数か月経たない
と原稿料は来ないんです。原稿料がもらえると思って、原稿 1 枚幾らで何
十枚だから幾らもらえるというので、そのぶん先に本を買っちゃうんです
よ。ところが、全然原稿料が来ない。若いときというのは、そういういろ
んな思いがありましたけれども、そういうときのほうが、本当に命をかけ
て勉強しました。
ところが、次第に「考古学に大塚あり」ということで全国の研究者から、
ご自分が書いた報告書や本を送っていただく。出版社から本を寄贈してい
ただく。要するに、買わなくても月に 10 冊、20 冊、どんどん贈られてく
る。つい先年まで奈良国立文化財研究所の所長をしていた坪井清足さんが
「大塚さん、どのぐらいあなたは 1 年間に本をもらう?」と言うので、私
も相当はもらいますけれども、
「僕は高さ 8m だよ」と。いただく本が床に
積んで 8m。いかに考古学の報告書や何かの出版の冊数が多いかというこ
とです。そういうことで、だんだん自分の懐を痛めないで、人から本をい
ただいたりするようになると、人間ってだんだんだめになります。勉強し
なくなります。と同時に忙しくなるのです。学会活動とか大学のなかのこ
ととか何かでね。私に言わせれば、本がなかったら大変です。本がないと
いうことは、ひもじい思いをいたします。だから本の貴重性、大事なこと
というのは、よく分かっています。
本は一生使うべきもの
私、42 年間、明治大学でお世話になったのですけれども、自分でも本を
ずいぶん買いました。明治大学の先生方はいま、個人研究費 1 年間に 34 万
円はお一人お一人に出ていると思います。それは、ご自分の本が買える研
究上の役立つ費用だと思います。私なんかは、ほとんど本を買いました。
書店でも買うし、人からもいただくし、ということでどんどん増える。
私は、千葉県の成田に住んで、多少土地を広く買いましたから、いま 2
棟増築して書庫が 3 棟ございます。そこに本が詰まっているのです。家内
は「あなた、ちっとも使わないのだから古本屋さんに売ったら」なんてけ
しからんことを言うのですけど、自分の頭のなかには、どこの書庫の天井
に近いところの上から何段目の右から 10 冊目には梅原末治さんの『日本
古代文化論攷』とか、4 段目のところには森本六爾のどういう本とかとい
うことが、だいたい頭の中に入っているんです。だから、自分の家で研究
したり論文を書くときは、私は炭鉱の坑夫さんがやるようにヘッドランプ
をつけています。下にもぐって、こうやって書庫の下のほうの本まで探し
ますから、トレパンをはくのですよ。きれいな服なんか書庫では着ていら
れないです。そうやって電気をつけて書庫を探す。だいたいみんなあるん
です。あるべき本がない。それはだいたい卒業論文で学生さんに貸したと
きです。
私の恩師の杉原荘介先生は、絶対に本は人に貸しませんでした。書庫
にある自分の研究書は自分の命だと。後藤守一先生は、阿佐ヶ谷の 3 丁目
526 番地のお宅にいたんですけれども、僕は助手で仲人までしていただい
た後藤先生が、
「先生、一度書庫に入れてください」と言ったら、
「僕の命
の場だからだめ」と、後藤先生は亡くなるまで私を書斎には入れてくださ
いませんでした。だけど、私は人がいいというのか江戸っ子で気前がいい
というのか、
「先生、国会図書館に行ったけどないんです、これは。先生、
お持ちですか」と言うと、「おまえ、国会図書館まで行って探して、よく
行った。よしっ、持ってきてやる」と言って持ってくるのです。だから、
ずいぶん私は学生さんには貸したんです。すぐ返してくれればいいけれど
も、それが忘れちゃうと、私も忘れちゃんですね。ところが、私が使うと
きにないというと、もう血圧がダーッと上がって、なぜないのかといって
記録を見ると、何年何月何日誰々に貸したと。そうすると形相が変わりま
すよ。人から本を借りたら、終わったらすぐ返すのが常識なのに。もう貸
すもんかと思う。
定年間際のとき、私は卒業論文指導で「先生、この本と、この本と、こ
の本」といって 10 冊くらいリストアップしてくるんです。よしっ分かった
といって、私は家へ帰って、これが大変なんです。こっちの書庫、こっち
の書庫と、3 時間も 4 時間もかかって捜して、風呂敷に包んで大学へ持っ
てくるんです。30 分もたたないうちに「先生、ありがとうございました」
と返しにくる。全部コピーするわけです。俺は本の運び屋じゃないんだ。
もうちょっとありがたく、時間とって読んだふりぐらいしてくれよ、とい
うことも言ったんですけどね。やはり時代というのは刻々変わって、「先
生の貴重な本をお借りして、ありがとうございました。コピーをとらして
いただきました」と言う。
もし、諸君のなかで、そういう貴重な本をというときは、先生がご自宅
から本を持ってきたということが分かったら、少しはありがたいという姿
勢を示してやったほうがいいんじゃないですか。5 分か 10 分でドッと返す
と、先生はがっかりして、血圧の高い先生は脳卒中になっちゃうかも分か
らない、というくらいなんですね。
そういうことで、私は戦後、考古学をやった人間です。いまはパソコン
で引き出せるという有利性はありますけれども、本というのはいつでもそ
こにある。ふだん使わないけれども研究上どうしてもというときは、そこ
にないと困るというものなんです。
ところが、明大の考古学博物館の図書室なども、ときどき行くと逆さま
に入っていたりする。その本を使った者が、その本の有効性とか、有用性
とか、貴重性に、無頓着かと思うのです。そばにいたら張り倒すというく
らいに、私は思いますよ。それくらい本というのは一生使うべきものだ。
だから大事にしなければだめだ。
もう一つは、これはちょっと横道に逸れる話ですけれども、私、中学の 1
年生、だから満 14 歳、中学に入ったばかりのときに、六興出版だったか、
吉川英治の『宮本武蔵』十数巻読みましたね。お杉とか、お甲とか、お通
とか、武蔵が登場するんですね。いまでも忘れないのは、武蔵に迫るお甲
の鬢付油の匂いがプーンと武蔵の鼻をさして、武蔵がグラグラッといくく
だりがあるんです。私、小学校 6 年で、早熟だったのか、いまでも生々し
く覚えています。
本というのは、自分が読んで、自分が考えて、自分が情景を描いていく
ものですから、いろんなことを本から学ぶことができる。映像は、そこで
パーッと通っていってしまうんですね。だから、全てが悪いわけではあり
ませんけれども、やはり考えるということでは本は大事だ。だから、私は
絶対「本は読むべきだ」というふうに思うのです。
卒業論文は箱式石棺の研究
考古学ですから、考古学の話なんですけれども、亡くなった後藤守一先
生の文章と明治大学の考古学の杉原荘介先生の文章には、後藤的な文章と
杉原的な文章があるんです。卒業論文を読んでいると分かりますよ。途中
で文体が変わってくるんです。だけれども、ちゃんと鍵括弧をして引用文
として注を付けて、そういう業績を引用するのは、卒業論文では多ければ
多いほど、私はいいと思います。ところが、自分があたかも書いたように
前の文章からくっつけていくんです。それでも、読んでいくと分かります
よ。そこで卒業論文の面接で「ちょっと君、後藤先生の『日本古代文化研
究』をその書庫から持ってきて」、持ってくると、312 頁を開かせて「いい
か、読むぞ」と言って本人の論文を読んでいく。すると、二十数行全く同
じ。丸写しなんです。いまの先生方は、私みたいに厳しくやらないかもし
れませんけれども、それは許さなかったです。分かるんです。そういうこ
とが非常によく分かりました。いま会うと「先生、厳しかったけれども、
それがためになった」というふうに言います。
私が卒業論文を書いたのは昭和 26 年ですけれども、私は「箱形石棺の
研究」というのをやりました。後藤先生と相談しました。後藤先生が「大
塚君、日本には古代の棺桶を専門に研究している人はいないんだよ。明治
大学で君ひとりくらい棺桶の専門家がいてもいいんじゃないかな」と言う
んです。私、純情で、素直なものだから、「はい。わかりました」という
ことで、即座に決まりました。卒業論文「棺桶」ですよ。学部の卒業論文
は「箱式石棺の研究」、大学院は「舟形石棺の研究」ということです。
そういうことで、日本の考古学者のなかで、古代の石棺や石室研究の専
門家といわれるようになったのです。1872(明治 5)年に大阪府堺市にあ
る大山陵(仁徳陵)古墳の前方中段が台風の関係で崩壊したのです。486
mという大墳丘の前方部ですから、かなり大きな土崩れだったことでしょ
う。そこから石室が見え、中に長持形石棺が発見されました。当時、堺の
県令、税所篤という人が修理にかかわるのですが、絵図を遺しています。
このような記録というものが、資料として、いかに重要なものかは、研究
していくと、よくわかるのです。長持形石棺は西暦 5 世紀の大王陵(天皇
陵)に用いられた豪華な棺なのです。専門家の書いた絵図を見ると、石棺
を囲んだ石室の中から金メッキをした甲冑が発見されています。青銅の短
甲と冑に金メッキをしているのです。
宮内庁が指定しているこの大山陵が 100 パーセント仁徳陵なのかどうか
は、わかりません。しかし 140 万 m3 を超える土量を積んだこの大山陵が、
古代日本の大王陵であることは、ほとんど疑う余地はありません。中国の
宋書に記された「倭の五王」の一人であることも認めてよいと思います。
堺の県令は石棺のふたは開けなかったようです。但し石棺の周りから、ガ
ラス椀、鏡、飾り大刀などが発見されたことを伝えています。どうしたこ
とかアメリカのボストン美術館のコレクションの中に伝仁徳陵出土という
鏡と飾大刀があるのです。元通りに埋めた事になっているのに一部がボス
トンにあるというのは、ミステリーです。物に執着する人間の弱さという
か、汚れのようなものが見えかくれしています。考古学はこのような人間
自身の歩みをも、教えてくれることもあるのです。
いま私が最大の関心を抱いているのは日本における積石塚古墳の研究
です。とくに長野県の善光寺平の一角、千曲川のほとりにある約 500 基の
積石塚が集中している大室古墳群についてです。約 20 年近くも明治大学
として発掘しているのですが、30 基ほど調査しただけですから、研究が
完成するまでには 100 年以上もかかるのでしょう。積石塚は東北アジアか
ら東アジア一帯に分布する古代基制で、日本の積石塚も中国や朝鮮半島の
積石塚と関係があると指摘されてきました。日本にいつ頃から渡来人が来
て、どのような活躍をしたのでしょうか。明治大学における私の後半の 20
年間は、積石塚古墳の調査研究に集中したものでした。長野市大室古墳群
で発掘調査が進むと、戦前から先学によって云われてきた事実とは、異な
る事実が判明してきました。いわゆる合掌形石室は 7–8 世紀の終末期古墳
だと云われていたのに、そうではなく 5 世紀に遡り、大室の積石塚の中で
は、もっとも早く出現する事が明確になったのでした。こうした古墳研究
のきっかけは明治大学で後藤守一先生のご指導を受けたからでした。
明大人の歌う早大校歌
私が明治大学に入学する前後の状況も実は平穏なものではなかったので
す。とにかく古代史の勉強が目的でしたから、大学受験でも史学科のある
ところを捜しましたが復員したばかりで、入学状況がさっぱりわからず、
あせっておりました。早稲田大学の入試情報を知り、高等師範部で古代文
学をまず勉強しようと思い受験したのです。一次試験に合格し、二次の面
接で不合格となりました。面接の先生は私の答案をほめてくれました。入
学後の大学図書館の利用についてまで指針を与えてくれました。その日私
は高田馬場で早大の学生服とあの角帽を注文しました。一週間後の発表を
見に行って、何度見ても私の番号はありませんでした。私が甘かったので
した。
私は絶望の淵に落ちました。注文した服も学帽もキャンセルして、重た
い足どりで帰宅しました。3 月末近くに明大の二部受験です。東上線下赤
塚駅でいくら待っても池袋行きの電車が満員で乗れないのです。この入試
に遅れたら私の人生設計は大きく狂うと思い、最後は電車の屋根によじ登
り腹ばいになって池袋へ到着しました。電車屋根には 10 人近くの通勤者が
乗っていました。一生で初めて、ただ一回限りの電車の屋根乗車でした。
明大を卒業して考古学の道を歩き始めてから、私は早大の瀧口宏教授
と親しくしていただき、ともに研究の仕事をするようになり、ずいぶん可
愛がっていただいた。早大の受験には失敗したけれども、早大に入学した
のと同様に深いお付き合いとご指導をいただいた。門を叩けば必ず開か
れる。大学の名前ではなく、いかに自分がその道で努力するかが問題だと
思ったのでした。
私が日本学術会議の会員をしている時に早大の瀧口先生が逝去され、そ
の一周忌の「偲ぶ会」が開催されました。最後に瀧口先生の遺影を前に
400 名の参会者が早大の校歌を合唱したのです。私は学生時代から六大学
野球の明早戦で早大の校歌はよく知っていました。「都の西北…」で始ま
る早大の校歌、1、2、3 番まで私は大声で歌いました。瀧口先生の冥福を
祈る気持ちで一杯でした。私の早大校歌は早大マン OB の心を捉えたよう
で、後日、多くの早大関係者から「明大人の歌う早大校歌」として御礼を
云われました。
人生の歩みは明大とか早大という出身校の違いで異なるというよりも、
自分の仕事を通じて勝負だと思ったことでした。早大に進学できなかった
けれども、私は明治大学の教師として生命をかけることができて幸福だっ
たと思っています。
終わりに
終わりに大学に入学した自分の目的を明確にして、時間を大切に大学生
活を送るべきだと思うのです。明大へ入学した 3 年目、昭和 23(1948)年
に東洋史の青山公亮先生の夏休みの宿題に「倭寇の研究」があった。私は
数日、明大図書館に通った。先学の関連論文が数十篇あることを知って、
学問の深さ、努力の必要なことを痛感したのでした。図書館とわが学生生
活、その深浅さ、濃厚さが人生の方向性と味合いに深くかかわるのと思う
のです。
明大図書館から自己の人生設計の糸口を掴み取ってほしいと思ってい
ます。
(拍手)