中央 大 学 社 会 科 学 研 究 所 研 究 報 告 第12号(1993年3月) 第2章 第1節 公 教 育 思 想 エ ル ヴ ェ シ ウ ス か ら コ ン ドル セ へ 教育思想の継承 と展開 永 冶 日 出 雄 は じめ に 本 節 は フ ラ ンス 革 命 期 の思 想 家 マ リ ーJ.-A.-N.C.コ cet1743-1794)を,百 ン ドル セ(Marie-J.-A.-N.C.Condor- 科全 集 派 の代 表 的 哲 学 者 ク ロ ー ド ・ア ドリア ン ・エ ル ヴ ェ シ ウ ス との 関連 にお い て考 察 す る。 啓 蒙 思 想 の 最 後 を飾 る哲 学 者,ジ ロ ン ド派 の 指 導 的 な 革 命 家,進 歩 史 観 を築 き上 げ た歴 史 家 と して コ ン ドル セ は著 名 で あ るが,主 と して こ こで は公 教 育 の 原則 を確 立 した とい う観 点 か ら検 討 され る。 なお,啓 蒙 思 想 の 継 承 お よび 発 展 とい う観 点 か らエ ル ヴ ェ シ ウ ス とコ ン ドル セ の 係 りを追 跡 し,双 方 の教 育 思 想 を比 較 ・分析 す る こ と を,執 筆 者 は特 殊 な課 題 と したい 。 専 門的 な学 者 の 間 だ けで な く,一 般 の教 師 や 学 生 の 間 で もわ が 国 に お い て は コ ン ドル セへ の 関心 が か な り高 い 。 戦 後 の 日本 で か れ の 著 作 が 近代 公教 育 の 源 流 と して 紹 介 され,教 育界 や教 育 運 動 に相 当 の 影 響 を与 えた か らで あ る。 た だ し,外 国 文 化 を受 容 す る際 しば しば 生 ず る よ う に,コ ン ドル セ の 思 想 も一一面 的 な理 解 と誇 張 を伴 って,私 た ち の も と に導 入 され た 。 日本 の現 実 に対 す る直 接 的 な指 針 をそ こ に求 め るあ ま り,文 化 遺 産 の 一 面化 や単 純 化 が発 生 した わ け で あ る。 とはい え,だ が,コ ン ドル セ の教 育 思 想 に関 す る,ひ い て は公 教 育 の原 則 に 関 す る部 分 的 な誇 張 と誤 解 が,教 育 界 や教 育 運動 の な か で 国 家 主 義 的 な統 制 に抗 す る 強力 な理 論 的武 器 と な っ た。 日本 の 教 育 界 にお け る コ ン ドル セ の 受 容 は 複 難 な要 素 を秘 め,本 論 考 は そ れ を分 析 ・評 価 す る もの で は ない 。 む しろ,彼 の教 育 思 想 が 本 来 どの よ うな 意 味 と意 義 を有 した か を,筆 者 は歴 史 研 究 と比 較 思 想 の 方 法 に よ って 解 明 し よ う。 287 第2章 公教育思想 1エ (1)エ ル ヴ ェ シ ウ ス 夫 妻 と コ ン ドル セ の 直 接 的 な 関 係 ル ヴ ェ シ ウ ス 夫 人 の 文 芸 サ ロ ン と コ ン ドル セ の 関 係 エ ル ヴ ェ シ ウ ス が 文 筆 活 動 に 専 念 す る た め 総 括 徴 税 請 負 人 の 職 を 辞 し,ア ヴ ィユ=ド ト リ ク ー ル と結 婚 して 数 年 後,パ リ の サ ン ・タ ン ヌ 街 で1755年 ン ヌ ・C .リ ニ ュ 頃 か らエ ル ヴェ シウ ス 夫 人 の 文 芸 サ ロ ンが 始 ま っ た 。 こ れ こ そ ジ ェ フ ラ ン 夫 人 や ドル バ ッ ク男 爵 が 主 宰 す る 社 交 と と も に,啓 蒙 期 にお け る哲 学 者 た ち の 拠 点 とな った 会 合 で あ る 。 労作 文芸サ ロ ン カ バ ニ ス と観 念 学 派 』 で 著 者A.ギ 『エ ル ヴ ェ シ ウ ス 夫 人 の ロ ワ は彼 らの参 集 や 交 流 につ い てつ ぎ の と お り書 く。' エ ル ヴ ェ シ ウ ス と そ の 夫 人 は サ ン ・タ ン ヌ 街 の 壮 麗 な 邸 宅 で 毎 年4カ と も 著 名 な 文 筆 家 た ち が 正 餐 に招 か れ,毎 で あ る 。 デ ィ ド ロ と ダ ラ ン ベ ー ル,ド リ ア ー こ と ベ ッカ ー リ ア,マ ,一 に 寄 り集 ま っ た の は,こ ル バ ッ ク と レ ナ ー ル,テ ル モ ン テ ル と モ ル レ,デ ーム と シ ョー ンベ ル クな どで あ り シ ウス 夫妻 の 邸 宅 に お け る 週 の 火 曜2時 月暮 した。 もっ の邸 宅 ユ ル ゴ と コ ン ドル セ,ガ ュ ク ロ と サ ン ーラ ンベ ー ル,ヒ 言 で 述 べ れ ば,こ ュ れ ら の 人 び とす べ て が エ ル ヴ ェ 〈人 間 精 神 の 三 部 会 〉 に 参 加 し た わ け で あ る 。(中 略) こ う し て 夫 人 が 談 笑 を 活 気 づ け る 一 方,エ 覚 書 に 書 き つ け た ば か り の 想 念,や が て ルヴェシウスは 〈 思 想 の 追 究 〉 に 専 念 し, 『 精 神 論 』 に鐘 め ら れ る想 念 を だれ か れ に開 陳 エ ル ヴ ェシ ウス と コ ン ドル セ の 著作 お よび 邦 訳 に つ い て 脚註 で は下 記 の略 号 を使 用 す る。 HEl :Claude-AdrienHelvetius,D6Z'Es勿',Paris,Durand HH1 :Claude-AdrienHelvetius,D6Z'Ho挽 ,1758. 柳 θ,伽3θsノ 召6πZ彪3伽'6〃66伽6〃 ε36渉4θ30η 記 π6αあo% ,Lon- dres,Soci6t6typographique,1773.2volumes. HOL :Claude-AdrienHelvetius,06卿 COA :Marie-J.-A.-N.C.Condorcet,06卿 惣360初 ρZ2'θs,ed.L.LaRoche ,Paris,Didotl'ain6,1795. (GeorgeOlmsVerlagsbuchhandlung,Hildsheim,1967)14volumes. 惚s,publi6esparA.CondorcetO℃onnoretM .F.Arago, I C M T C C Paris,FirminDidotFreres,1847.12volumes.(FriedrichFrommannHorzboo91968) :Condorcet,"Surrinstructionpublique",dansづ :Coγ 紹sコリoπ4α%oθ 勿 記 猛θ(Zθ わ砿,tomeV皿. α ηzdoγ6θ'θ'(16Tz4㎎o',1770-1779,parC.Henry ,Geneve,1970. (SlatkineReprints) CSC :Coγ 猶θsメ)(ア%4α π06伽 記 ②'θ46α ηz40π θ'6'ル 毎(Zα〃zθSπ αγ16,1771-1791,parE.Badinter,Paris, Fayard,1988. エ ニ ネ:エ ル ヴ ェ シ ウ ス著,根 岸 国 孝 訳 『 人 間 論 』 明 治 図 書,1966年 。 コ コ マ:コ ン ドル セ 著,松 島 鈎 訳 『 公教 育 の 原 理 』 明 治 図 書,1966年 。 な お,エ ル ヴ ェ シ ウ スの 著 作 に関 して は諸 版 の 間 に 相 当 の 異 文 が 認 め られ る。本 節 に お け る試 訳 は信 頼 度 の高 い 『 精 神 論 』初 版 お よび 『 人 間 論 』初 版 に依 拠 す るが,広 (復刻 版)の 該 当 箇 所 を も註 に付 記 した 。 288 く流 布 して い る ラ ロ ッシ ュ編 『 全集』 第1節 エル ヴェシウスか らコン ドルセへ(永 冶) す る ので あ っ た1)。 エ ル ヴ ェ シ ウス の主 著 『 精 神 論 』 は1758年 に公 刊 さ れ,『 百 科 全 書 』 第7巻 弾 圧 に曝 され る。 しか し,か れ が 逝 去 す る1771年 まで,サ と と もに苛 酷 な ン ・タ ン ヌ街 にお け る哲 学 者 た ち の 会 合 は続 け られ た 。 これ をエ ル ヴ ェ シ ウス 夫 人 の 第1次 文 芸 サ ロ ン と名 付 け よ う。 『 精 神 論』 へ の 弾 圧 が 鎮 静 す る1760年 に,ダ ラ ンベ ール と レス ピナ ス 嬢 が コ ン ドル セ をエ ル ヴ ェ シ ウス夫 人 に紹 介 した2)。 寡 婦 と な った エ ル ヴ ェ シ ウス 夫 人 はパ レ ・ロ ワ イヤ ル 付 近 の サ ン ・タ ンヌ 街 か らブ ー ロ ー ニ ュの 森 近 くの オ ー トゥユ 街 へ 転 居 し,こ こ に も多 くの 知 識 人 が 参 集 す る。 コ ン ドル セ は この 第 2次 文 芸 サ ロ ンで,重 農 主 義 者 テ ユル ゴ との 旧 交 を暖 め,カ バ ニ ス な ど観 念 学 派 と も親 し くな った 。 思 想 家 お よ び政 治 家 と して コ ン ドル セ を大 成 させ た 土壌 に は,オ ー トゥユ に お け る こ う した切 磋 琢 磨 が 勿 論 含 ま れ る 。E.バ ダ ンテ 等 に よ る 最 新 の 評 伝 『コ ン ドル セ にお け る知 識 人 政 治 の世 界 』 を参 照 した い 。 コ ン ドル セ が エ ル ヴ ェ シ ウス 夫 人 の も とに足 繁 く通 うの は,か の女 が寡 婦 とな っ て数 年 の ちで あ る。60歳 代 の 未 亡 人 に コ ン ドル セ は深 い 愛 着 を感 じた 。 ダ ンヴ ィル夫 人 に比 較 す る と,そ れ ほ ど 冷 刷で はな い が,心 の広 さで は劣 らな い 。 か の女 の魅 力 に惹 きつ け られ,一 定 の 間 隔 を置 い て,フ ラ ン ク リ ン とテ ユル ゴ が 再婚 を 申 し込 ん だ 。 コ ン ドル セ に と って 大 革 命 は ダ ン ヴ ィル 夫 人 との 友 愛 を破 壊 した が,エ ル ヴ ェ シ ウ ス夫 人 との絆 を 強 化 し,そ の 絆 は両 者 の 思 想 を も結 び つ け た 。 コ ン ドル セ は後 年 〈 観 念 学 派 〉 と呼 ば れ る若 い 世代 の哲 学者 た ち,す な わ ち ヴ ォル ネ ー,ド ノ ー,デ ス テ ユ ッ ト ・ ド ・ トラ シ, ジ ャ ン グネ ら と,エ ル ヴ ェシ ウ ス夫 人 の も とで繋 が っ て い く。 オ ー トゥユ で カバ ニス と 会 う こ と も これ らの 人 々 は好 ん だ 。1778年 に テ ユ ル ゴ とル ー シ ェが こ の若 い医 学 生 をエ ル ヴ ェ シ ウス 夫 人 に紹 介 した の で あ る 。 カバ ニ ス は21歳 で あ り,か の女 の息 子 が 生 き て お れ ば,同 年 で あ った ろ う。 オ ー トゥユ の聖 母 〔 エ ル ヴ ェ シ ウ ス夫 人 〕 は た だ ち に カバ ニ ス を家 族 の 一 員 と し,邸 内 に 同居 させ た 。 こ の非 凡 な若 者 は繊 細 な体 質 と憂 愁 の 影 を もち,才 知 と感性 を漂 わせ て い た 。洗 練 され た魅 力 に も恵 ま れ た か れ は,エ ル ヴ ェ シ ウ ス 夫 人 の小 さな社 交 界 を た ち まち盤 惑 した。 か れ を フ ラ ンク リン は鐘 愛 し,テ ユル ゴ は 称 讃 し,慧 眼 な 主治 医 で あ る か れ に の み ミラ ボ ー は約 束 を守 っ た。 本 当 の 義 弟 に な る以 前 か ら,コ ン ドル セ もカバ ニ ス を弟 の よ うに可 愛 が っ た3)。 1)AntoineGuillois,L6ε αZoη46ルZα4α 〃36H6Z刀4'伽 畠Cα わα痂36'Z63∫440Zogπ63,Paris,CalmanL6vy, 1984.pp.ユ3-15. 2)ElisabethBadinteretRobertBadinter ,Coπ40猶66乙 σりz伽'6〃 召6渉z¢ θZ6%1)oZ髭 勾 π6,Paris,Fayard, 1988.pp.157. 3)1玩4.,pp.157-158. 289 第2章 公教 育思想 1786年 に コ ン ドル セ は20歳 年 下 の ソフ ィ ・ド ・グ ル ー チ と結 婚 し,大 革 命 勃 発 の の ち コ ン ド ル セ 夫 人 の 文 芸 サ ロ ンに は革 命 家 や観 念 学 派 が 結 集 した4)。1792年4月 に成 立 した ジ ロ ン ド派 内 閣 は,オ ー ス トリア 軍 の侵 攻 とブ イ ヤ ン派 の圧 力 に よっ て一 時 崩 壊 した もの の,8月10日 の 武 装 蜂 起 で ふ た た び 立 ち 直 る 。 コ ン ドル セ もジ ロ ン ド派 の指 導 的 な議 員 と して活 躍 し,か れ の 起草 による 『 公 教 育 の 一般 組 織 に か ん す る報 告 』 が 同年2月 か ら8月 ま で立 法 議 会 で 審 議 され る。 この 緊 迫 した 時期 に コ ン ドル セ は妻 子 と と もに しば しば オ ー トゥユ に赴 き,エ ル ヴ ェ シ ウ ス 夫 人 の 邸 宅 に も逗 留 した5)。ジ ロ ン ド派 の 政 権 復 帰 と国王 の権 利 停 止 が 決 った1792年 夏 につ い て,ギ ロ ワ著 『コ ン ドル セ侯 爵夫 人 そ の家 族,文 芸 サ ロ ン,友 人 』 につ ぎの記 述 が み られ る。 休 養 して 人 生 の新 しい段 階 に登 る必 要 を感 じた か の よ うに,コ ン ドル セ は あ の麗 しい 村 落 オー トゥユ,そ れ まで 沢 山 の 甘美 な 瞬 間 を 味 わせ て くれ た オ ー トゥユ に,妻 や 娘 と 一 緒 に永住 す る こ と を ,そ の 時 点 で 考 え た 。 8月5日 には コ ン ドル セ が 夫 人 同伴 で新 しい庁 舎 の 落成 式 に列 席 して い る。 近 隣 の 国 民 軍 に護 衛 され て,娘 た ち の行 列 が 夫 妻 の あ とに 続 い た 。 か の女 らは ヴ ォル テ ー ル とル ソ ーの 胸 像 に花 冠 を捧 げ た ば か りで あ る。 そ して,エ ル ヴ ェ シ ウ ス の胸 像 の とこ ろへ 来 る と,楽 の 音 が 響 い た 。 家 族 の な か で 暮 す 以 上 に,い ず こが快 適 で あ ろ うか 。 哲学者 〔 エ ル ヴ ェ シ ウス〕 の 肉 親 や 友 人 が彫 像 を花 で飾 り,感 動 す る公 衆 の ま え で抱 擁 して い た が,コ ン ドル セ 夫 妻 もそ の仲 間 に 入 った 。 8月10日 夫 妻 は まだ エ ル ヴ ェ シ ウス 夫 人 の 邸 宅 に滞在 して い た 。 「 警 鐘 が 鳴 り響 く」 とコ ン ドル セ は 『 弁 明断 章 』 に誌 す 。 「私 は オ ー トゥユ に い た 。パ リに戻 る。 議 会 へ は国 王 よ り数秒 前 に到 着 した 。 国 王 は怯 え た 態 度 よ りも,む しろ不 安 な様 子 を示 し,気 を張 っ て い るが,威 厳 を もた な い 。 私 に は 秘 密 が 明 か さ れ て い な い が,一 斉 砲 撃 の あ と友 人 の ひ と りが 来 て,不 満 を訴 え た 。議 会 をや は り尊 重 して ほ しか っ た,と 。 コ ン ドルセ は妻,娘,義 母,そ して 義 妹 の フ ェ リ シテ ・シ ャル ロ ッ トを もオ ー トゥユ へ しば しば連 れ て い った6)。 4)E.BadinteretR.Badinter,oクo鉱,PP.209-220. 5)Guillois,ψ.o肱,pp.66-70. 6)AntoineGuillois,LαMα γg協3θ46Coπ40π θち8α 知 働 ②〃θ,30%sαZoπ,3θsα 伽 砥1764-1822,Paris, PaulOllendorf,1897.PP.109-110. な お,ギ ロ ワ が 引 用 す る 『弁 明 断 章 』 も,ア Condorcet,"Fragmentdejustification",dansCOA.tomeI,p.601. 290 ラ ゴ ・ オ コ ナ ー 編 『コ ン ド ル セ 著 作 集 』 に 含 ま れ る 。 第1節 な お,翌 年5月31日 エル ヴェシウスか らコン ドルセへ(永 冶) 権 力 を 掌 握 した モ ン ター ニ ュ派 は,多 数 の ジ ロ ン ド派 を議 会 か ら追 放 し,コ ン ドル セ に も逮 捕 状 を発 した 。 潜 伏 した コ ン ドル セ を護 るた め,エ ル ヴ ェ シ ウス 夫 人 の 周 辺 も慌 だ しい 動 き を 示 し,国 民 公 会 公 安 委 員 会 はふ た りの 警 視 に オ ー ト ゥユ を捜 査 させ る7)。や が て コ ン ドル セ は リュ ク サ ン ブ ー ル庭 園 の 近 くに住 む ヴ ェ ル ネ 夫 人 に 匿 まわ れ,『 人 間精 神 進 歩 史 素 描 』 の 執 筆 に没 頭 した 。 逮 捕,処 刑,自 決 に至 るか れ の 悲劇 的 な 最期 は よ く知 られ て い る。 (2)エ ル ヴ ェ シ ウス の 著作 に た い す る コ ン ドル セ の 論 評 エ ル ヴ ェ シ ウス の 作 品 の なか で も っ と も著 名 か つ 重 要 な もの は,さ きに述 べ た 『 精神論』 で あ る。 『 精 神 論 』 は啓 蒙 思 想 の代 表 的 な作 品 の ひ とつ で あ り,こ れ に た いす る弾 圧 の激 しさ は, ル ソー著 『エ ミー ル』 に 向 け られ た迫 害 に 匹敵 す る。 『精 神 論 』 へ の論 評 は刊 行 後 ま もな くデ ィ ドロ,ヴ 才ル テ ール,ル ソ ー,等 々 に よ りな され た が,コ ン ドル セ に よる評 言 は1773年 以 降 の 『コ ン ドル セ ニテ ユル ゴ往 復 書 翰』 に見 出 され る 。 『百 科全 書 』 に も寄 稿 した 重 農 主 義 者 テ ユ ル ゴ は,1761年 か ら リモ ー ジ ュ県 知 事 と して租 税 と行 政 の 改 革 を進 め,ま た 数 学 者 コ ン ドル セ も政 治 や 経 済 の 問 題 に 関心 を寄 せ つ つ あ っ た。 ル イ16世 の 要 請 に よ って テ ユル ゴ は1774年 財 務 長官 に就 任 し,コ ン ドル セ も造 幣総 監 と して か れ を補 佐 す る。 1771年 に エ ル ヴ ェ シ ウ ス は急 死 し,や が て オ ー トゥユ にお け る 第2次 文 芸 サ ロ ンが 始 ま っ た。 哲 学 者 た ち の 政 権 参 加 が現 実 の もの とな り,啓 蒙 思想 の真 価 が政 治 的実 践 の次 元 で試 さ れ る時 期 で あ る8)。エ ル ヴ ェ シ ウ ス夫 人 の 文 芸 サ ロ ンで もテ ユル ゴ と コ ン ドル セ と しば しば顔 を 合 せ,急 務 と され る社 会 改 革 の 原 理 や構 想 を論 じあ った 。 そ う した状 況 の な か で コ ン ドル セが 『 精 神 論 』 を あ らた め て検 討 した こ とを,1773年12月4日 付 書 簡 は語 って い る。 コ ン ドル セ か らテ ユル ゴへ 1773年12月4日 拝復 怖 ろ しい まで の厳 し さで,あ な た は 『 精 神 論 』 を判 断 して お られ ます 。 こ れ は 立 派 な書 物 で あ る,と あ な た に抗 弁 した い の です 。1)な ぜ な ら,こ の書 物 は 自負 心 とい う襲 の うち に,ま た他 人 と肩 を並 べ,他 7)E.BadinteretR.Badinter,ρ 人 を 出 し抜 くた め,た えず 勉 励 す る とい う襲 の ク6鉱,PP.581-583.Le6nCahen,Coη40π6'6'ZαR4りoZπ 渉 づo%∫ γα%- cα②s6,Paris,1904.pp.524-526. 8)テ ユ ル ゴ と コ ン ド ル セ の 関 係 お よ び エ ル ヴ ェ シ ウ ス に た い す る 両 者 の 評 価 に つ い て は,下 記 の 書 物 を 参 照 さ れ た い 。 Keith-MichaelBaker,Cα 安 藤 隆 穂 著 剛 γoo6ち γαづs伽6渉 ρoZ②吻 πθ,Paris,Hermann,1988.pp.266-296. 『フ ラ ン ス 啓 蒙 思 想 の 展 開 』 名 古 屋 大 学 出 版 会,1989年 。93-123ペ ー ジ 。 291 第2章 公教 育思想 うち に,エ ル ヴ ェ シ ウス の魂 の 素 朴 な 肖像 を示 して くれ ます 。 モ ラ リス トの観 察 に従 う よ り も,特 別 の 意 図 を持 たず に,人 間 自体 に即 して 肖像 を 描 くほ うが よか っ た で し ょ う。2)こ の 肖像 は 大 勢 の 〈 紳 士 〉 を描 い た もの で あ り,ブ ヴ ォー夫 人が 評 した とお り, エ ル ヴ ェ シ ウス は か れ らの秘 密 を洩 ら した に す ぎ ませ ん 。3)自 然 ま た は教 育 が 詐 欺 師 に な る よ う運 命 づ け た 人 び とは沢 山 い ます 。 エ ル ヴ ェ シ ウ ス の方 法 や原 理 で しかか れ ら は ま と もな 人 間 に な れ ませ ん 。4)つ ぎの よ うに述 べ た ほ うが よ い で し ょう。 己 れ の友 人 が 私 を愛 す る こ とを,か れ は妨 げ ませ ん 。 己 れ の功 績 や栄 誉 を た えず 考 え る こ とに,死 ぬ ほ ど倦 怠 す る の を,か れ は答 め ませ ん 。 問題 を解 い た の は,美 しい女 性 が 近 寄 って くる こ と を期 待 した か らだ,と 私 は思 い ませ ん。 幾 何 学 に夢 中 とな る女 性 に,こ れ まで 会 わ な か っ た か らで す 。 だ か ら,私 に もほ か の善 良 な人 び とに も,か れ は悪 害 を及 ぼ しませ ん 。5)か れ は あ らゆ る聖 職 者 の不 寛 容 を激 し く非 難 して い ます 。 か れ の もっ と も大 き な 欠 陥 は,つ ぎの よ うな仕 方 で専 制 政 治 を糾 弾 す る とこ ろ にあ る と思 い ます 。 専 制 君 主 は 滅 多 に本 を読 まず,大 臣 は さ らに読 書 を しませ んが,か れ ら に たい して で は な く,次 官 や 間諜 に た い して,す べ て の英 明 な人 物 が 不 倶 戴 天 の敵 で あ る,と 教 えて い るの で す 。 これ こ そ英 明 な人 物 へ の迫 害 を惹 起 す る仕 方 で す 。 敬 具9) 『 精神 論』 は600ペ ー ジ を超 え る体 系 的 な著 作 で あ り,そ の 精 彩 あ る叙 述 は認 識 論 や 知 識 論 か ら,道 徳 論,政 治 論,芸 術 論,教 育 論 へ と展 開す る。 エ ル ヴ ェ シ ウス に向 け られ た 多 くの 評価 と同 じ く,12月4日 付 書 簡 の論 評 は短 簡 に過 ぎ,『 精 神 論 』 の主 張 自体 も批 判 者 自 身 の論 理 も, ほ とん どそ こ か ら把 握 で きな い。 しか し,コ ン ドル セ が 『 精神 論』 を熱 心 に読 み,テ ユル ゴ と 白熱 した論 議 を交 した こ と,ま た前 者 が 『 精 神 論 』 を高 く評 価 し,エ ル ヴ ェ シ ウス の 主 張 にか な り共 感 して い る こ とは,容 易 に察 せ られ る。 この書 簡 に先 立 つ テ ユ ル ゴ の コ ン ドル セ 宛 手 紙 に は,『 精 神 論 』 にた い す る詳 細 な批 判 が含 まれ た はず で あ る。 テ ユ ル ゴ に よ る批 判 の 核 心 は,功 利 主 義 的 な人 間観 と道徳 観 へ の 論駁 と考 え られ る。 ま た,上 記 の書 簡 を読 んで,テ ユル ゴ はみ ず か らの 思 想 的 立場 を返 書 で 吐 露 した ら しい。 残 念 なが らそ れ ら2通 の コ ン ドル セ 宛 手 紙 は散 逸 した ま まで あ る。 テ ユ ル ゴ とコ ン ドルセ に あ って は,こ う して 百 科 全 書 派 の社 会 理 論 を再 検 討 す る こ とが,経 済 政 策 や政 治 改 革 の立 案 と密 接 に結 びつ い た。 た だ し,エ ル ヴ ェ シ ウス 夫 人 をめ ぐ って青 年 時 代 か らの恋 敵 で もあ る ため か,テ ユル ゴ は 『 精神 論』 の 著 者 にた い して 終始 辛 辣 で あ る 。 よ り 客 観 的 な コ ン ドルセ が,エ ル ヴ ェ シ ウス の 思 想 に親 近 感 を抱 い て い る こ とは,つ っ て も判 る。 9)Condorcet,"LettreaTurgotdu4d6cembre1773",dansCO,TomeI,PP.219-220.CTC.PP. 140-141. 292 ぎの書 簡 に よ 第1節 エ ルヴェシウスか らコ ン ドルセへ(永 冶) コ ン ドル セ か らテ ユル ゴへ 1773年12月13日 拝復 あ な た の信 条 告 白 を受 け取 っ た とこ ろ です 。 だ か ら,こ こ で私 の信 条 告 白 を語 ります 。 コ レー ジ ュを卒 業 した 頃,私 は正 義 や徳 とい う道 徳 的観 念 につ い て省 察 を始 め ま した 。 公 正 で 有 徳 で あ る こ との 利 益 は,ひ と りの 感 性 的 存 在 を圧 す る不 幸 を見 る の が,ほ か の感 性 的存 在 に とっ て も必 然 的 に苦 痛 あ る こ とに基 づ く,と 私 は観 察 で き た よ うに思 い ます 。 そ の 時点 か らほ か の利 益 に よ っ て邪 悪 とな る の を私 は怖 れ,い ま述 べ た感 情 を本 来 の 強 烈 の ま ま保 持 す る よ う努 め ま した 。 狩 猟 へ の趣 味 を もっ て い ま した が,そ れ も断 念 し,酷 い害 悪 を発 しな い か ぎ り,虫 類 を殺 さぬ よ う慎 ん だ ので す 。 だか ら,エ ル ヴ ェ シ ウス の考 え に私 は賛 同 しませ ん。 なぜ な ら,私 は人 間の なか に そ う した感 情 を見 出 しま す が,エ ル ヴ ェ シ ウ ス は そ れ の力 も影 響 も認 め て い ない よ うで す 。 〈 哲 学 者 た ち〉 と呼 ば れ る人 た ち に この書 物 が 多 大 の被 害 を与 え る,と 私 も思 い ます 。 とい うの は,宗 教 や 政 治 につ い て 自 由 に考 え る人 た ちす べ て が,か れ の よ う な意 見 を秘 密 の原 理 に して い る,と 世 人 が か な らず 誤 解 す るか らで す 。 専 制 政 治 に抗 して か く も力 強 く書 く人 間 が,人 類 に害 悪 しか 与 え ない 専 制 君 主,著 者 自身 と彼 の著 書 に た いす る讃 辞 だ けが 唯 一 の 功 績 で あ る専 制 君 主 を,惜 しみ な く褒 め 讃 え て い る こ と も,私 は好 み ませ ん。 エ ル ヴ ェ シ ウ ス と同様 に私 もつ ぎ の とお り考 え ます 。 人 び とが きわ め て 公 正 に,き わ め て情 深 く,き わ めて 良心 的 に な りう る,と 。 と りわ け人 び とが偉 大 な 軍 人,偉 大 な哲 学 者,偉 大 な詩 人 とな り,同 時 に ま た嫌 悪 す べ き品 性 を も具 え う る,と 。 そ して,さ ま ざ ま な徳 の 問 に序 列 を設 け る な ら ば,純 潔,貞 節,節 制 な どの は るか 上位 に,正 義,善 行,祖 国愛,気 概(家 畜 小 屋 の 犬 すべ て にみ ら れ る 闘志 で は な い),圧 制 者 へ の 憎 しみ を置 くべ きで あ る,と 。 た だ し,た ん な る局 部 的 な もの と,あ らゆ る時代,あ らゆ る場 所 に共 通 す る もの を,道 徳 にか ん して は区 別 す べ きで し ょ う。 た とえ ば,一 定 の拘 束 を 受 け る の に 同意 した 女 性 と楽 しむ こ とは,そ れ な りに 許 容 で き,弁 護 で き ます 。 しか し,ほ か の 種 類 の 放 蕩,い か が わ しい 場 所 で の 乱痴 気 騒 ぎ,誠 実 な相 手 に た いす る約 束 の躁 踊 な ど は,か な らず 公 徳 心 の欠 如,人 類 を員 乏め る嫌悪 すべ き行 為 と され る の です10)。 エ ル ヴ ェ シ ウス の 残 後1773年 に遺 作 『人 間 論 人 間 の 精神 的 能力 と教 育 』 が オ ラ ンダ で 刊 行 され た 。 上 巻639ペ ー一ジ,下 巻760ペ ー ジ に及 ぶ この 大作 で,彼 は 『 精 神 論 』 の主 張 を敷 10)Condorcet,"LettreaTurgotdu13d6cembre1773",dansCO,TomeI,PP.221-222.CTC.PP. 142-143. 293 第2章 公教育思想 術 しつ つ,教 育 に関 す る詳 細 な叙 述 を繰 り広 げ る 。 『 人 間論 』 も また フ ラ ン スで 禁 書 に処 せ ら れ た が,革 命 期 ま で さ ま ざ ま な形 態 で刊 行 され,広 の な か で,こ く流 布 して い た。 百 科 全 書 派 の 影 しい 著作 の 遺 作 に コ ン ドル セ の教 育 理 論 は も っ と も近 縁 性 を もつ よ うに 思 われ る。 しか し,『 人 間 論 』 自体 に コ ン ドル セ が 言 及 した 文書 は い まだ見 出せ な い。 な お,エ ル ヴ ェ シ ウ スが 青 年 時 代 に試 作 した哲 学 詩 『 幸 福 』 も,サ ン ーラ ンベ ール に よ る小 伝 を付 して や は り残 後 に公 刊 さ れ た。 魅 力 的 な シ ュ ア ー ル夫 人 と コ ン ドル セ との 往 復 書 簡 で こ の 韻文 が話 題 に され て い る 。1772年 頃 に お け る社 会 状 況 の変 化 に も触 れ て い る もの の,そ こで も コ ン ドル セ の感 想 は あ ま りに 断片 的 で あ る。 しか し,エ ル ヴ ェ シ ウス の 著 作 をか れ が 直接 評 した 史料 と して無 視 で きな い 。 コ ン ドル セ か らシ ュ ア ール 夫 人 へ(1772年 秋) エ ル ヴ ェシ ウス の 詩 は私 に な ん らの楽 しみ も与 え ませ ん。 そ こ に綴 られ た好 ま しい 事 柄 す べ て が,ヴ ォル テ ー ル に お い て一 層 見 事 に表 現 さ れ て い ます 。 残 りの部 分 は わ ざ と ら しい 想像 で あ り,私 は我 慢 で き ませ ん 。 人 び とが 神 殿 を建 立 して も,そ して エ ル ヴ ェ シ ウス が 書斎 で 語 れ る よ うな事 柄 を告 げ る た め,そ こ に知 恵 の神 を招 く と して も,私 に は ど う で も よい の で す 。巧 み に書 か れ た 叙 述 が 若 干 そ こ に はあ ります 。 〔 中 略〕 ま た, わ れ わ れ の 国 家体 制 に 生 じた 変化 を悲 しん で い る,と 人 び とが エ ル ヴ ェ シ ウ ス を非 難 し ない よ う望 み ます 。(モ プ ー 高等 法 院)1)な ぜ な ら,人 民 とい う落 葉 の な か で 果 す べ き 役 割 につ い て,聖 職 者 団 体 や 大 臣官 房 と 口論 して い る200人 の下 士 官 が,国 家体 制 を形 成 す るわ けで は ない の で す 。2)な ぜ な ら,モ リナ 派 の な らず者 が ヤ ンセ ン派 の な らず 者 を引 継 ぎ,赤 い ミサ が い つ も行 なわ れ るの で,肝 心 の と ころ は保 持 され た ま ま です 。3) なぜ な ら,あ る書 物 を感 嘆 しなが ら読 ん だ,と 確 言 した 男 に残 酷 な刑 を下 した 人物 が, 軽 く罰 せ られ るの を見 て,そ れ を著 した 哲 学 者 が 悲 しみ,病 気 に な った と して も,か れ を称 讃 す る必 要 は ない か らで す11)。 2エ ル ヴ ェ シ ウス の教 育 思想 と コ ン ドル セ の教 育 思 想 の比 較 ・検 討 (1)政 治 と教 育 エル ヴ ェ シ ウス と コ ン ドル セ の 対 比 そ の1 エ ル ヴ ェ シ ウ ス の著 作 お よ び 同夫 人 の 文 芸 サ ロ ン にた い す る コ ン ドル セ の 直接 的 関係 は,以 上 の よ うに興 味 深 い事 実 を含 んで い る。 しか し,ふ た りの 思 想 家 が 理 論 的 に い か な る類 似 性 と相 違 性 を もつ か は,こ れ まで に挙 げ た史 料 か ら は漠 然 と しか 判 らな い 。 エ ル ヴ ェ シ ウ ス お よび コ ン ドル セ の著 作 自体 を検 討 す る こ とが,彼 11)"CondorcetaMmeSuard(automne,1772)",dansCSC.PP.106-107. 294 らの 現 実 認 識 や 論 理構 第1節 エルヴェシウスか らコ ン ドルセへ(永 冶) 造 を比較 し,ひ い て は啓 蒙期 か ら革命 期 へ の思 想 的 な継 承 を明 らか に す る た め,ど うし て も必 要 な の で あ る。 た だ し,こ こで は 比較 ・検 討 の範 囲 を教 育思 想 の領 域 だ け に止 め,コ ン ドル セ につ い て は 分析 の対 象 と して 『 公 教 育 に か ん す る5つ の覚 書 』 だ け に 限定 す る。 膨 大 で多 岐 に わ た る エ ル ヴ ェ シ ウス の著 書 と対 比 す る た め に は,広 汎 な領 域 に またが る コ ン ドル セの 作 品,す くな くと も 『人 間精 神 進 歩 史素 描 』 を取 り上 げ る のが 至 当 で あ ろ う。 コ ン ドル セ に か ん して教 育 を扱 った理 論 的 な著 述 の み を分 析 の対 象 とす る の は,本 節 の紙 幅 と執 筆者 の 力量 が 制約 され て い る か らにす ぎな い12)。 【 比較対照A】 α エ ル ヴ ェシ ウ ス著 『 精神論』 政治改革 と教育改革 第4篇 第17章 人 間 を形 成 す る技 術 はす べ て の 国 で 政 治 形 態 と密 接 に結 び つ い て い る。 した が っ て,国 家 体 制 そ の もの の 変 革 な し に,公 教 育 の 重 要 な 改 革 は お そ ら く不 可 能 で あ る13)。 β コ ン ドル セ 『 公 教 育 に かん す る第1の 覚 書一 公 教 育 の 本 質 と 目的 』 公教 育 は市 民 に た いす る社 会 の義 務 で あ る。 も し も精 神 的 能 力 の不 平 等 の た め,大 半 の人 び とが 権 利 を充 分 に享 受 で き ない な ら ば,す べ て 人 間 は 同 じ権 利 を有 す る と宣 言 す る こ と,ま た,こ う した第1の 原 理,永 久 の正 義 とい う原 理 を 国法 に よっ て尊 重 す る こ と も,無 益 とな るで あ ろ う14)。 〔 対 照A〕 の αあ るい は β と して掲 げ た 論述 が,エ ル ヴ ェ シ ウス と コ ン ドル セ の い ず れ につ い て も教 育 思 想 の核 心 に あ た る。 論 述 αは 『 精 神 論 』 の 最 後 を飾 る第4篇 第17章 「 教 育 につ い て」 の 冒頭 に置 か れ,教 育 改 革 を主 題 とす る遺 作 『 人 間 論 』 の 予 告 と もな った 。 論 述 β も 『 公 教 育 に か んす る第1の 覚 書 公 教 育 の本 質 と 目的 』 の 壁 頭 に記 され,教 育 史 上 有 名 な一 文 で ある。 12)前 述 の松 島鉤 訳 ま た,『 第5の 覚書 『公 教 育 の 原 理 』 に は 科 学 教 育 』,『 第4の 『第1の 覚書 覚書』お よび 『第2の 職 業 教 育 』,『 第3の 訳 は つ ぎの刊 行 物 に各 々収 録 さ れ て い る。 松 島 鉤 覚 書 』 の 全 訳 が 含 まれ る 。 覚書 成 人 の 普 通 教 育 』 の全 「コ ン ドル セ 研 究 メ モ(1),(2),(3)」 『西 洋 教 育 史 研 究 』,第5号(1976),pp.49-631第6号(1977),pp.82-101.第7号(1978),pp.103-134. コ ン ド ル セ の 教 育 思 想 に か ん す る 総 括 的 研 究 と し て は,つ 晴著 『フ ラ ン ス 公 教 育 の 源 流 』 風 間 書 房,1977年 ぎ の 書 物 が 周 到 ・的 確 で あ る 。 吉 田 正 。 13)HE1.p.632.cfHOL.tomeVI,p.181. 14)CMI.p.169.cfコ コ マ,9ペ ー ジ。 295 第2章 公教育思想 政 治 改 革 と教 育 改 革 の緊 密 な 関 連 を 強 調 して い る こ とが,両 者 に 共通 す る第1の 特徴で あ る。 た だ し,ア ン シ ャ ン=レ ジ ー ム の も とで エ ル ヴ ェ シ ウス は教 育 改 革 の前 提 と して 政 治改 革 を提 唱 し,フ ラ ンス 革 命 の最 中 に書 か れ た 『 公 教 育 に か ん す る5つ の覚 書 』 は,『 人 権 宣 言 』 等 の法 的 成 果 を実 質 化 す るた め,公 教 育 の確 立 に努 力 を傾 注 す る15)。 【比 較 対 照B】 15)「 専 制 政 治 にお け る知 お よ び 教 育 コ ン ドル セ の 理解 を通 して み れ ば,〔 中略 〕(1)学校 は家 庭 の延 長 で あ り,そ の機 能 の代 替 で あ り, 別 の 側 面 で い え ば 私事 の 組織 化 で あ り,親 義 務 の共 同化(集 育 の 思想 と構 造』 岩波 書 店,1971年,14ペ 団化)で あ っ た」(堀 尾 輝 久,『 現 代 教 ー ジ。) 公教 育 の 原則 に か んす る 上記 の よ うな理 解 が,わ が 国 で は 国家 主 義 的 な統 制 を駁 す る論 拠 の ひ と つ とな った 。 しか し,エ ル ヴ ェ シ ウ ス か らコ ン ドル セ に至 る百 科 全 書 派 の思 想 を吟 味 す る と き,か れ らが教 育 の私 事 性 を と くに主 張 した と解 釈 は で きな い。 人 間形 成 の社 会 的 要 素 や教 育 と政 治 の 緊 密 な 関連 を強調 しな が ら,教 育 の源 泉 を親 権 や家 庭 に認 め た とす れ ば,百 科 全 書 派 は論 理 的 に も不 整合 で あ る 。 16)HE1.pp.388-389.cf.HOL.tomeIV,pp.180-182. 296 第1節 を独 占 的 に 習 得 し,優 越 し た 存 在 で あ る こ とが,こ エ ル ヴ ェ シ ウ スか ら コ ン ドル セ へ(永 冶) れ ら武 人 の 世 襲 的 な 専 制 を 基 礎 づ け た17)。 (2)素 質 と能 力 エル ヴ ェ シ ウ ス と コ ン ドル セ の 対 比 素 質 と能 力 にか んす る議 論 は 『 精 神 論 』 第3篇 その2 の 主 題 で あ り,『 人 間 論 』 で も主 要 な 論題 の ひ とつ と され た。 い わ ゆ る環 境 ・教 育 決 定 論 は ロ ックの 思 想 に源 を発 し,フ ラ ンス啓 蒙 思 想 を 貫 く基 調 で あ るが,エ ル ヴ ェ シ ウス の著 作 にお い て もっ と も鮮 明 に表 現 され る。 この 理 論 は封 建 的 な差 別 や不 平 等 を擁 護 す る遺 伝 ・素 質 決 定 論 と対 比 し,万 人 にお け る精神 的 素 質 の 平 等 と 能 力 の後 天 的 な形 成 を力 説 した18)。 【 比 較 対 照C】 17)CMI.PP.171-172.cf.コ 18)素 人 間形 成 に お け る環 境 ・教 育 の 役 割 コ マ10-11ペ ー ジ。 質 や 能 力 の 問 題 を め ぐ る 中 世 的 な 人 間 観 と 近 代 的 な 人 間 観 の 相 克 に つ い て,筆 者 は 下 記 の 論稿 で素 描 を試 み た。 拙稿 「フ ラ ン ス 近 代 思 想 に お け る 人 間 の 素 質 と 能 力 」 梅 根 悟 監 修 史 体 系10>』 講 談 社,1975年 『フ ラ ン ス 教 育 史II〈 世 界 教 育 。pp.247-270,316-321. 19)HE1.PP.473-474.cf.HOL.tomeV,PP.92-94. ' 29ヲ 第2章 公教育思想 それ ゆ え,い か な る才 能 を も見 落 さず,取 り逃 さな い公 教 育 の形 態,こ れ まで富 者 の 子 ど も にの み 用 意 され た あ らゆ る支援 を,か れ らに も提 供 す る公 教 育 の形 態 を確 立 す る こ とが 重 要 とな ろ う20)。 一 コ ン ドル セ の思 想 も環 境 ・教 育 決 定 論 の色 彩 が 濃 厚 で あ り,『 精 神 論 』 か らの著 しい 影 響 が 感 知 で き る。 た だ し,か れ は教 育 改 革 の立 案 や理 想 社 会 へ の構 想 にお い て各 人 の先 天 的 な条 件 と個 性 的 な差 異 に も綿 密 な 配慮 を示 して い る。 こ う した理 論 は な に よ り も特 権 身分 と第 三 身分 との平 等 を根 拠 づ け るが,女 性 解 放 の 側 面 で も見 事 な成 果 を挙 げ た。 男 女 の本 質 的 な平 等 を訴 え る コ ン ドルセ の 論 述 は,エ ル ヴ ェ シ ウス の そ れ と酷 似 して い る。 た だ し,前 者 は女 性 の学 術 的 な才 能 を評 価 し,後 者 は国 政 にお け る女傑 の功 績 を褒 め讃 え た21)。 【 比 較 対 照D】 α 女 性 の 能力 と教 育 エ ル ヴ ェ シ ウス 著 『人 間 論』 第2篇 第12章 勿 論 男 性 と女 性 の身 体 組 織 は若 干 の 点 で 非 常 に異 な る。 だ が,こ の よ うな相 違 が女 性 の精 神 を劣 等 に した,と 考 えて よい で あ ろ うか 。 否 で あ る。 つ ぎの よ うに論 証 で き る とで も言 う のか 。 男 性 と同 じ身 体 組 織 を持 つ 女 性 が ひ と りもい な い 以上,男 性 に 匹 敵 す る精 神 を有 す る女性 はあ りえ ない,と ・ サ ッフ ォ,ヒ パ テ ィ ウス,エ エ カ テ リーナ2世,等 リザ ベ ス, 々 は天 才 的 な男 性 に ひけ を と らな い 。男 性 に較 べ,一 般 に女 性 が 見 劣 り す るの は,か の 女 らが男 性 よ り貧 弱 な教 育 しか受 け ぬ か らで あ る。 極 端 に条 件 の違 うふ た り,た と えば 王 妃 と下女 を対 比 して み よ う。 どち らの 身分 に お い て も, 女 性 は 自分 の 伴侶 と同等 の精 神 しか持 た ぬ 。 なぜ か 。下 女 もそ の夫 も劣 悪 な教 育 しか 受 けぬ か らで あ る22)。 β コ ン ドル セ 『 公 教 育 に か ん す る第1の 覚 書 一 公 教 育 の 本 質 と 目的 』 なお また,女 性 は男 性 と同 じ諸 権 利 を有 す る。 だ か ら,知 を習 得 す る た め男 性 と同 20)CMI.P.179.cfコ 21)た と え ば,L.ア コ マ16-17ペ バ ー ジ 。 ン ス ー ル は 女 性 解 放 史 に 関 す る 先 駆 的 な 名 著 の な か で エ ル ヴ ェ シ ウ ス と コ ン ドル セ に 高 い 評 価 を 与 え る 。 L60nAbensour,LαFθ 祝 吻 θ θ'Zθ 伽 伽 ②s祝6α"α%'ZαR吻oZ磁 ②oη,Paris,1923.(SlatkineReprint Gen6ve,1977).pp.357-358. L60nAbensour,研s孟o伽 召9顔4γ αZθ伽 彦 初 伽 ぜε伽 θ,Paris,1921.(SlatkineReprint,Gen6ve,1979). pp.180-183. 22)HH1.tomeI,PP.252-253 298 .cf.HOL.tomeV皿,PP.16-17.エ ニ ネ,93-94ペ ー ジ 。 , 第1節 エ ル ヴ ェ シ ウス か ら コ ン ドル セ へ(永 冶) じ便 宜 を供 され る権 利 も,女 性 は持 っ て い る。 男 性 と同様 に独 立 し,男 性 に等 しい 範 囲 で そ う した 諸 権 利 を実 際 に行 使 す る こ と は,知 に よ っ て の み 可 能 だ か らで あ る。 〔中略〕 イ タ リア の きわ めて 著 名 な大 学 で は,幾 人 か の 女 性 が 講 座 を担 当 し,き わ め て 高 度 な学 問 にお い てす ら教 授 の 職 務 を遂 行 して,称 讃 を受 けて い る。 この 国 で も各種 の偏 見 が 消 え去 っ た とは思 えず,素 朴 で 純 真 な習 俗 が 有 力 なわ けで もない の に,上 記 の よ うな結 果 い さ さか の 不 都 合 や 苦 情 や,椰 楡 す ら も生 じて い ない23)。 (3)道 徳 と教 育 エル ヴ ェ シ ウ ス と コ ン ドル セ の 対 比 そ の3 コ ン ドル セ の提 案 の なか で 道 徳 教 育 は重 要 な教 育 内 容 の ひ とつ で あ り,と くに これ は エ ル ヴ ェ シ ウ ス の教 育 思 想 を継 承 した もの と考 え られ る。 百 科 全 書 派 は主 知 主 義 に偏 し,コ ン ドル セ は公 教 育 か ら道 徳 教 育 を排 除 した,と わが 国 で は しば しば誤 解 され る。 宗教 と教 育 の 関係 が ヨ ー ロ ッパ と大 い に異 な る精 神 的 風 土 の も とで は,道 徳 あ るい は道 徳 思 想 の概 念 を明確 に しな い と,そ う した誤 解 が 発 生 し易 い24)。 い わ ゆ る非 宗 教 性 は近 代 公 教 育 の 主 要 な原 則 の ひ とつ で あ る。 中 世 以 来 公教 育 を支 配 して き た カ トリ ック教 会 に抗 し,学 校 の 管 理 ・経 営 を国 家 の 手 に委 ね る よ う,啓 蒙 期 の 哲 学 者 た ち は 主 張 した。 理 神 論 あ るい は唯 物 論 を信 奉 す るか れ ら は,教 育 内 容 にお い て も宗教 的 な教 義 の 除 去 を 当然 要 求 す る。1 \ / 23)CMI.PP.220-221.cf.コ コ マ,49-50ペ ー ジ。 24)「 コ ン ドル セ 案 の もっ と も本 質 的 な 特 色 は知 育 主 義 の主 張 で あ った 。 コ ン ドル セ は 『 公 教 育 は知 育(instruction)の ら分 離 され,正 み を対 象 とす べ きで あ る』 と明 快 に論 じて い る 〔中略 〕 ま た,道 徳 は,宗 教 か しい道 徳 感 情 や思 想,ま た そ の結 果 で あ る正 義 の 原 理 につ い て の 正 確 で 厳 密 な分 析 力 を 養 う方 向 にお い て取 り扱 わ れ る こ と に な っ た」(松 島鉤 著 『フ ラ ン ス革 命 期 に お け る 公教 育 制 度 の成 立 過 程 』 亜 紀 書 房,1968年 。257-259ペ ー ジ)。 「 公 教 育 は,人 間 教 育 のす べ て を 引 き受 け る こ とは で きな い 。 そ れ は 『 良 心 の権 利 』 に 反 し,親 の 自然 権 を犯 す こ とに な る。 こ う して 教 育(徳 育)が 区 別 され,公 教 育(1'instructionpublique) は そ の名 の とお り知 育(ア ンス トリュ ク シ オ ン)に 限定 され る。 そ して 公 教 育 か ら宗 教,お れ と連 関 す る道 徳教 育 が 除 か れ,世 俗 主 義(laicisme)が 実 の 中 で の知 育 の 重 視 は,そ れ 自体 新 た な 徳 育 観(知 よ びそ 要 求 され る。 〔中 略〕 に もか か わ らず 現 育 を軸 とす る道 徳 教 育 思 想)を 準 備 す る」 (堀尾 輝 久,前 掲 書 。13-15ペ ー ジ)。 公 教 育 で の知 育 主 義 な い し知 育 限 定 と い う コ ン ドルセ 解 釈 が,と もす れ ば わ が 国 で 公教 育 にお け る道 徳教 育 の排 除 と単 純 に理 解 され,〈 修 身〉 の 復 活 を警 戒 す る教 育 運 動 に ひ とつ の拠 り ど ころ を 与 え た。 しか し,コ ン ドル セの 提 案 が 非 宗 教 的 な道 徳 の 学 習 を含 む こ と は,こ こ に引 用 した研 究 書 で も明記 さ れて い る。 299 第2章 公教育思想 【 比較対 照E】 公教育 と宗教教育 α エ ル ヴ ェシ ウ ス著 『 人 間論 』 第10篇 第8章 市 民 の教 育 を聖 職 者 に委 ね る民 族 は不 幸 で あ る! 聖 職 者 は正 義 にか ん し誤 った観 念 しか授 け な い 。市 民 に な に も授 け て くれぬ ほ うが ま しで あ る。偏 見 に染 ま らぬ 人 は,真 の認 識 に そ れ だ け近 く,優 れ た教 育 を それ だ け 受 け入 れ易 い 。 だ が,優 れ た教 育 を ど こに見 出せ る か。 人 間 の歴 史,さ や 法 律 の 歴 史,ま まざ ま な民 族 た さ ま ざ まな 法 律 が 制 定 さ れ る事 由 の歴 史 の な か にで あ る 。 た だ し,聖 職者 は そ う した 源泉 か ら正 義 の原 則 を汲 み取 る こ とを許 さ な い。 か れ らの 利益 が そ れ を禁 ず る 。 そ う した勉 学 に よっ て諸 国民 が 開明 的 に な れ ば,一 一般 利益 とい う尺 度 で さ ま ざ まな行 為 を,あ る い は称 讃 し,あ る い は軽 蔑 す る に至 る,と か れ ら は感 じ て い る25)。 β コ ン ドル セ 『 公 教 育 に かん す る第1の 覚 書一 公教 育 の本 質 と 目的』 公 権 力 は道 徳 教 育 を宗 教 教 育 に結 びつ け る権 利 を有 しない 。 この 問題 に か ん して公 権 力 の行 為 は独 断 的 で も,普 遍 的 で もい けな い 。 す で に 明 ら か に した とお り,公 権 力 は独 立 した良 心 の選 択 に先 立 って,あ れ これ を優 先 させ る権 利 な ど持 た な い ので,宗 教 的 な教 説 を普 遍教 育 の 一 部 にす る こ と はで きな い 。 か くし て道 徳 教 育 を そ う した教 説 か ら厳 格 に独 立 させ る必 然 性 が 生 ず る。(中 略) い か な る事 柄 にか ん して も公 権 力 は教 説 を真 理 と して教 え させ る権 利 を持 た な い 。 また,ど ん な信 仰 も課 して は な らぬ 。 一 定 の教 説 が 危 険 な 誤謬 に思 わ れ て も,公 権 力 が そ れ を打 破 した り,防 止 す るた め,対 立 す る教 説 を教 え させ て は な らぬ 。 国法 に よ っ てで は な く,教 師 や 方 法 の 選 択 を とお して そ う した誤 謬 を公 教 育 か ら遠 ざけ るべ き で あ る26)。 エ ル ヴ ェ シ ウ ス は こ う した宗 教 的 な 道 徳 の 習 得 に代 え て,近 代 的 な公 民 道 徳 の 酒 養 を提 案 し,具 体 的 な学 習 計 画 まで 作 成 した 。 た と えば 『 公 教 育 に か ん す る第2の 覚 書 児童 にたい す る普 通 教 育 』 にお い て コ ン ドル セ も,青 少 年 の発 達段 階 に応 じて道 徳 を教 え る よ う立 案 して い る。 両 者 に よ って提 唱 され る道 徳教 育 とは,公 民 と して 大切 な 知識 や 自覚 を培 うこ と,す な わ ち 人 間 生 活 の 基 礎,社 会 の基 本 的 な構 造,政 治 的 な 義 務 お よ び権 利 を学 ぶ こ とに ほ か な ら 25)HH1.tomeH,pp.664-665.cfHOL.tomeVH,p.122.エ 26)CMI.PP.204-205.cf.コ 300 コ マ,36-37ペ ニ ネ,164,172-173ペ ー ジ 。 ー ジ 。 第1節 エル ヴェシウスか らコ ン ドルセへ(永 冶) ぬ 。 た だ し,こ の よ う な道 徳教 育 の 方 法 は,主 知 的 ・理 論 的 な学 習 を中心 と し 『エ ミー ル』 で 力 説 され る よ う な道 徳教 育,心 情 や 実 践 を重視 す る教 育 と,は た しか に異 質 で あ る。 なお,大 革 命 以 前 にお い て エ ル ヴ ェ シ ウス が,既 存 の 制 度 や法 律 に批 判 的 な態 度 を育 成 す る こ と を訴 え る 一 方,大 革 命 の渦 中 に あ る コ ン ドル セ は,『 人 権 宣 言 』 に掲 げ られ た 義 務 と権 利 を実 質 化 す るた め 公 民教 育 を強 調 す る。 【比 較 対 照F】 α 道 徳 教 育 ・公 民 教 育 の 内 容 エ ル ヴ ェ シ ウス 著 『人 間 論』 第10篇 第9章 しか し,正 義 にか んす る明確 な観念 を少 年期 か ら授 け る こ とは で きな い か。 往 々 き わめ て 滑稽 で あ る信 仰 の教 えが,宗 教 的 な教 理 問 答 を とお し子 ど もの記 憶 に刻 み込 ま れ る以 上,有 益 か つ 真 理 で あ る こ と を,日 々 の経 験 に よ って立 証 され る教 え や公 正 の 原 理 も,道 徳 的 な 教 理 問答 を とお し刻 み 込 む こ とが で き る,と 執 筆 者 は判 断 す る。 (中略) 道 徳 の真 の 原 理 を認 識 しよ う と望 む 者 は,執 筆 者 と同 じ よ うに,肉 体 的感 性 の原 理 まで 遡 るが よい 。 そ して 繁 殖 を続 け る人類 が,土 地 を耕 や し,社 会 的 に結 合 し,相 互 に契 約 を定 め ざ る を え ない事 由,ま た そ う した契 約 を遵 守 す る か,躁 踊 す る か に よっ て,各 人 が あ るい は公 正 と され,あ るい は不 正 と され る事 由 を,飢 え や渇 きな どの欲 求 の なか に探 究 す るが よい 。(中 略) 「公 益,こ れ こそ 至 上 の 法!」 さ きに述 べ た 格 率 で 示 され る有益 な事 柄 すべ て を,こ の公 理 は きわ め て一 般 的 かつ 明 確 に包 含 す るの で,市 民 が 占め る一切 の さ ま ざ まな地 位 に適 用 で き,ブ ル ジ ョワ に も裁 判 官 に も大 臣 に もふ さわ しい もの で あ る。敢 え て言 え ば,こ う した原 理 の高 み に 立 ちつ つ,各 民 族 の 慣 習 法 を構 成 す る局 部 的 な契 約 を観 察 す れ ば,自 己 の約 定 が い か な る種 類 に属 す るか,自 国 の慣 行,法 律,風 俗 が 賢 愚 い ず れ で あ る か を,各 人 は一 層 明 瞭 に理 解 で き る。 また,国 法 自体 の 賢 明 さや公 正 さ を測 る尺 度 と して,大 い な る原 理 を念 頭 に置 く習 慣 を持 て ば,ま す ます健 全 な判 断 を下 す こ とが 可 能 とな る27)。 β コ ン ドル セ 『公教 育 に か ん す る第2の 覚 書 児 童 に た い す る普 通 教 育 』 道 徳 の 教 育 を宗 教 の 一一般 的観 念 と結 合 す る こ とす ら必 要 で な い 。私 た ち の義 務 を規 制 す る原 理 が,そ う した 観 念 か ら独 立 した真 理 を含 まな い とか,義 務 を履 行 す る動 機 を人 間 は己 れ の 心 に見 出 せ な い と,開 明 的 な 人物 が今 日敢 え て言 うで あ ろ うか 。 そ し 27)HH1.tomeII,pb.644-646,661-662.c£HOL.tomeXH,p.100-102,118-120.エ ニ ネ,174ペ ー ジ 。 301 第2章 公教育思想 て また,正 しい精 神 で もみ ず か ら納 得 で き る反 論 が な ん ら為 し え な い宗 教 的 な教 説 が,た だ ひ とつ 存 在 す る と,敢 えて 主 張 す るで あ ろ うか 。(中 略)一 初 等 段 階 の教 育 しか受 けず,そ れ が 終 了 す る年 齢 か ら家 業 に従 事 す る生徒 た ち は, 勉 学 の た め充 分 な時 間 も供 せ ない 。 そ して,自 然 的 権 利,政 治 的 権利,公 的 な義 務, 制 定 さ れ た憲 法,各 種 の実 定 法 な ど につ い て 詳 しい 知 識 を得 た と確 信 で き るほ ど,教 育 機 関 に なが く留 ま る こ と もで き ない 。 これ らの 生 徒 に は権 利 の 宣 言 にか ん す る も っ と も簡 単 な説 明,対 象 と な るか れ ら に も っ と も判 り易 い 説 明 だ け を授 け るが よい 。 か れ らの義 務,す な わ ち己 れ と同 じ権 利 を他 者 につ い て も尊重 す る義 務 の説 明 も,こ こ か ら演 繹 され る。 また,こ れ に加 えて,か れ らの 生存 に不 可 欠 な社 会 の構 造 や権 力 の 本 質 にか ん し,き わ め て 簡 明 な概 念 を与 えて も よい28)。 以 上 の よ う にエ ル ヴ ェ シ ウス の 見 解 と対 比 しな が ら,私 た ち は教 育 と政 治 の密 接 な 関連,人 間形 成 にお け る社 会 的 要 因 の 重視,非 宗教 的 な 道徳 教 育 の 奨励 な ど を,コ ン ドル セ の教 育 思 想 と して把 握 した 。教 育 の 本 来 的 な 私事 性 や 学校 か らの徳 育排 除 を説 く主 張 が,い まで は さ して 有 効 性 を もた ぬ もの と して も,こ の よ う に理解 され た か れ の思 想 が,現 代 日本 の教 育 問 題 に重 要 な示 唆 を与 え る こ と は勿 論 で あ る。 な お,学 校 な る もの の存 立 自体 に しば しば強 い疑 義 が 投 ぜ られ る今 日,公 教 育 につ い て の提 言 を主体 とす る コ ン ドル セ の論 文 よ り も,人 間形 成 に お け る種 々 さ ま ざ ま な社 会 的 要 因 を解 明 す るエ ル ヴ ェ シ ウス の著 作 の ほ うが,現 代 的意 義 を よ り多 く もつ と も言 え よ う。 28)CMI.pp.254-255.cf.コ 302 コ マ,76-77ペ ー ジ 。 第2部 第2章 第1節 エ ル ヴ ェ シ ウ ス か ら コ ン ドル セ へ 教育思想の継承 と展 開 永 冶 日 出 雄 中央 大 学 社 会 科 学 研 究 所 研 究 報 告 第12号 『フ ラ ンス 革 命 とは何 か』 抜 刷 1993年3.月
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