「みかぐらうた」釈義批判

論文 「みかぐらうた」釈義批判 ―「味わう」ことの身体性にふれて― 井 上 昭 夫 要旨
かつてニーチェは「身体は大きい理性である」と述べた。それは精神や理性ではない身体知
というものがあるという意味でもある。一方、ヘーゲルは「理性が精神へ」とつながっていく
という。両哲学者の思想にしたがえば、
「みかぐらうた」は身体知から基本教理へ、
「おふでさき」
は理性知から宗教精神へという道筋を示し、教祖「ひながたの道」が身体と理性、教理と精神
を主軸としたこの二つの原典を架橋する。このような考察から「みかぐらうた」と「おふでさ
き」の意義は、既成天理教学の位置づけとはほぼ逆転の様相を帯びてくる。本稿においては、
「み
かぐらうた」の言語転写的釈義のあり方を批判し、「みかぐらうた」の教祖による自筆原本が存
在したとする前提に反して、「みかぐらうた」は存命の教祖からの直接口授であり、自筆原本は
なかったという反論をさまざまな視点から試みる。その試みを通して、天理教教理の普遍性を
エクリチュール(書記言語)の次元だけではなく、
「みかぐらうた」に見られるパロール(音声)
と身体・芸術性に求め、天理教学に新たな開扉を期待する。言節から時間性を取り去ったもの
がデリダのいうエクリチュールの対極にある踊りというものであるかぎり、その思想は「みか
ぐらうた」が究極の宗教舞踊音楽として独自的意義を持つことを深化させると思われる。
【キーワード】ヴィトゲンシュタイン、味わう、世阿弥、音声、転写、教語の磨滅、
両面鏡、食神と神食、口記、理の歌、身体知
はじめに:ヴィトゲンシュタインの言葉
論理実証主義者といわれながらも、神秘的な資質を持つヴィトゲンシュタインは、
その著『反哲学的断章』において「新しい言葉は、新鮮な種子に似ている。それは議
論という土地にまかれる」「実際の行動が、言葉に意味を与える。」と述べている。さ
らに「わたしが影響をうけないようにする、ということはよいことである。」と確信し、
「わたしの独創性(という言葉が適切なものであるとしての話だが)は、土地の新し
さにあって、種子の新しさではない。(ことによると私には、自分の種子がないのか
もしれない。)わたしの土地に種をまけ。すると種は、ほかのどの土地ともちがった
実をむすぶだろう。」などと語っている。それは「わたしの頭に帽子をかぶることが
できるのは、私一人だけ。それとおなじく、わたしのかわりにかんがえることができ
るのは、だれひとりとしていない」という言葉と共鳴している。ヴィトゲンシュタイ
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ンのやり方は、旧来のアカデミックとは全く違っていて、歴史的な原典研究とか、資
料を探索して出典箇所を明示するという手法は一切拒絶している。歴史的名著として
知られる彼の『論理哲学論考』は、このような断章に表現された独自の信念で貫かれ
ている。
換言すれば、ヴィトゲンシュタインは、行動の欠落した言葉は、本来言語が持つべ
き意味を持ち得ないということを、さまざまな比喩をとおして主張しているのである。
このことはきわめて宗教哲学的な論理実証主義者としての発言であると思われる。宗
教の原典やその解説も同様であって、言葉に対応する行為的体験がなければ、いかほ
ど過去の文献の引用や分析、そして理屈をこねまわしても、それは根から切り離され
た、言の葉の枝葉の単なる遊びであって、田地に根づく魂という播かれた種に、つま
り信仰者・宗教者の成人や人格形成に、強烈なインパクト(「いさみ」や「こえ」)を
与えないというのが筆者の信念でもあり、これが本稿の話の前提となる。
「深い眠りと浅い眠りがあるのとまったくおなじように、心の奥深くをうごく思想
と、表面でさわぎまわる思想とがある」と哲学のかたちを直観するヴィトゲンシュタ
インは、思想の斬新さと浅薄さを直観的に見る能力をそなえていた。本論においては、
既成の天理宗教学の表面でさわぎまわる議論の場を提供しながら、新たな土地の耕作
に向けて種まきができればと期待する次第である。
20 世紀で最大の哲学者であったと評価されるバートランド・ラッセルは、『論理哲
学論考』を著したヴィトゲンシュタインを、「伝統的に考えられるように、情熱的で、
鋭い洞察力をもち、強烈で、支配的な天才。ヴィトゲンシュタインは、私の知ってい
る天才のおそらくもっとも完全な例である。」「ヴィトゲンシュタインに出会ったこと
は、私の生涯でもっとも刺激的な知的冒険の一つであった……。彼の思想は、信じら
れないほど情熱的で鋭い洞察力を持っていて、私は心から驚嘆した」と述べている。
「実際の行動が、言葉に意味を与える」という命題に納得させられている一信仰者
としての筆者は、最近ますます沈黙の世界に足を引っ張られている。ジョン・レノン
が人間の imagination が世界平和を作るんだと言った言葉や、オノ・ヨーコの「ひと
りで見る夢は夢でしかないが、一緒に見る夢は現実だ」といった深い言葉も思い出さ
れる。こういった活学的思想は、「どのよふなゆめをみるのもみな月日 まことみる
のもみな月日やで」(12:163)という「おふでさき」の一首や、覚えていれば夢うつ
つとは言えようまいという中山みき教祖の言葉と共鳴していることを思い出さずには
おれない力をもっている。一方、バシュラールは誰も見たこともないイメージを創造
する力、つまり「知識」ではない魂の無意識から出る能動的想像力から生まれてくる
思想の力を高く評価していた。天理教学が過去の諸原典研究の資料を逍遥し、教語の
意味を比較分析・解説する営みからは、何ら新鮮な思想に出会うという感動は湧いて
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井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
こない。ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の序文で「私の考えたことが、す
でに以前、他人によって考えられていたかどうかといことには、関心はない。いかな
る出典も引用しなかったのは、そのためである」と語っている。以上に述べた独自的
想像力と構想力にこそ真の思索力の価値があるという発言に鼓舞されて、与えられた
「みかぐらうたと現代」という命題に、机上ではなく、寝床や散歩中にひらめいた連
想や幻想、そして直観といったものからさまざまな意味をもつ「語り得ぬもの」の沈
黙を破る罪を犯してみたいと思う。したがって、本稿は研究論文といったたぐいのも
のではなく、主観的体験的信仰エッセイとして一読されんことを期待したい。
ヴィトゲンシュタインの論考は、その有名な言葉、つまり「語りえないものについ
ては、沈黙しなければならない」という趣旨で一貫して終わっている。いうまでもな
くこの意味は権威をまえにして沈黙を守れという命題とは関係がない。語りえないも
のとは、一口で言えば、宗教的なもの神秘的なものを意味しているのである。真実と
いうものは、語れば語るほどそれから遠ざかって行くという逆説を持っている。この
ことはまた、ある著名なピアニストがコンサートで、ピアノの前に座り鍵盤に一指も
触れずに、じっと座ったまま無音の演奏を終えたという挿話を思い出させる。能学の
元祖世阿弥も「さて言わんとすれば無し」という意味の言葉を発している。こういっ
た言葉やそれに従う行動は奇異に思われがちだが、私たちに不思議なうなずきを与え
るのはなぜか。そこには人間と存在それ自体への深い関係性における神秘が込められ
ているからにほかならないからだと思われる。
筆者は留学時代、ヴィトゲンシュタインの授業を受け、のちに論理実証主義の泰斗
となったドイツのハーバート・ファイグル教授から、当時学生であった教授の体験談
を聞いたことがある。教壇に立つヴィトゲンシュタインは、一学生が質問した言葉の
意味の意味が分からず、学生に背中を見せ後ろを向いたまま両手で自分の頭を抱え込
み、沈黙したまま講義は終わったという思い出である。真の沈黙とは、ただ黙してい
るだけではなく、思索の苦しみが内部で並走していて言語化できないという非条理が、
語ろうとするものを扉の中にかたく幽閉した世界をいうのであろうという強烈な印象
をもった。
以上が筆者の長いイントロである。読者もこの意味で勇気ある沈黙を破る共犯者に
なっていただければと望みたい。このように閉ざされた既成概念に対して新生を目指
す象徴的犯罪的思想の試みは、人類の歴史が示すように、沈滞しつつあるいかなる国
家や宗教組織に対してもルネッサンスの扉を開くことの前提となることを信じるから
である。
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1)「味わう」ということ
このような次第で、まず最初に、おやさと研究所が 2009 年度に開催した 12 月の公
開講座の「おわりのはじめ」にあたって、公開講座の総合タイトルである『「みかぐ
らうた」を味わう』について、筆者が述べた所感についてふれておきたいと思う。
「味わう」ためには、まず「食べる」ことが必要条件となる。食べたものは「排泄」
しなければ生物は生かされない。排泄行為は飲食行為と同じく、「くもよみのみこと」
の守護であり、生物が生かされることの前提である。「元の理」によれば、原人間は
その道具となる水生動物が神に食べられた後に創られる順序が語られている。神に見
出された「道具衆」は、それぞれその心を神に食味されたのち、その実体は排泄され
たと推測される。神話としての「元の理」には、このことは活字化されてはいない。
しかし、その語りが暗示することは真実を射ている当然の「天の理」として納得でき
る。人間はその排泄物を栄養素として食し、成長したという考察、そしてあるいはも
う一歩進めて、人間は神の排泄物から創造されたという解釈も成り立つと考えられる。
事実それに類似した人間創造説話は世界には少なくない。
ところで、モーツアルトは幼児時代から 19 歳になるまで、毎朝自分の排泄物(大便)
をこねまわしていたということはあまり知られていない。幼児時代のモーツアルトが、
どのような鼻歌を歌い、なにを考え、自分の体内から出てきた排泄物に、素直に不思
議な感じをめぐらせながら、両手で自分の「大便」をこねまわして遊んでいたのかど
うかは、つまびらかではない。実は筆者も幼児時代にバケツに自分の「大便」を入れ
て、家の裏の庭でかき回して一人で遊んだという原体験があり、いまでもそのときの
様子とある種の不思議な感覚を思い出すことができる。モーツアルトがわれわれ凡人
と違うところは、それをかれは 19 歳になるまで毎日つづけていたという点であろう。
モーツアルトの天才的な作曲と、この奇妙な行為の関係性については、生態学がコズ
モロジカルに音楽という芸術にかぎりなく結びついている証になると考えられる。
「元の理」と芸術の関係性を論じるに際しては、この点はきわめて興味がそそられ
る解剖生態学者三木成夫の専門領域であると思われる。三木は腸を解剖学的に体外と
位置づけ、腸の働きを身体内の働きではなく、その煽動を体外的宇宙におけるリズム
に対応した消化活動として捉え、芸術大学の学生に対する一時限目の宿題は、翌日の
朝食後に排便した自分の排泄物を 20 分間両手でこねまわして、その感想を宇宙論的
にまとめて提出することであった。三木は筆者との「元の理」対談において、「泥海」
は排泄物を象徴しているとも語っている。
そこで、神の言葉を人間が「味わう」ということは、比喩的に、神のエッセンスを我々
人間が、
「食する」ということであると解釈できる。人間が神の言葉としてのロゴス(理)
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井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
を食することは、人間が神と同化される、人間が神に近付くということを暗示してい
るといえる。したがって、われわれ人間は、順序的に原初において神に食されたのち、
栄光ある聖なる神の「排泄物」に繋がって行くと認識すべきであろう。つまり、人間
が「神の排泄物」であるということを理解することは、人間は他者救済の「肥やし」
になるべきだという、暗黙知をもって誕生したという解釈にわれわれを導くのである。
また祭事が終わった後で、御酒や供物などを下げ、神官やおもだった氏子などがそれ
をいただく宴会・直会などは、神が供物を食した後の聖なる排泄物を人間が食してい
る象徴であるとも解釈できる。
この着想が、いま筆者が進めている東アフリカにおける貧困漁村でのバイオガス
ラトリーン、つまり野外便所における微生物よるリサイクル実験を生んだのであっ
た。それは豚糞や人糞が、自然の微生物の力によって有機肥料や燃料としての液肥や
ガスを産出させる技術につながっている。この技術を「バイオレメディエーション」
(bioremediation)というが、この人工化学物質を媒体としない安心・安全な先端科学
技術は、自然の微生物のもつ力を利用した汚染物質分解作業をとおして、世界におけ
る巨大な環境修復産業を生み出している。
さまざまなバイオレメディエーションに関する調査研究活動は、「元の理」に語ら
れた「たくさんのどじょう」を微生物に見立てた着想に動機づけられたことにはじま
った。かつてのロシア船籍タンカー・ナホトカ号の日本海における油濁汚染の微生物
による筆者の修復紹介活動が、天理実践教学のあらたな扉を開いた活動であったと自
認している次第である。その研究と活動実績については拙著『天理教学の未来』にも
くわしく紹介したことがある。日本の国会の議事録にバイオレメディエーションとい
う言葉が記録されたのも、この活動をもって初めてとされる。「元の理」の「どじょう」
が変化して、国際社会に飛び出たことに筆者はひとり快哉を叫んだものだ。
2)世阿弥の「稽古哲学」
このように、さまざまに原典に啓示された何気ないと受け止められる日常的な言葉
を深く思索し、その理の筋道をたどってゆくと、たとえば、「みかぐらうた」の一下
り目の第一歌が、正月「肥」のさづけは「やれめずらしい」から始まっているのは、
偶然ではないという事実にたどりつく。「肥」は限りなく農作物の有機農法にもつな
がる自然の微生物から成り、つまり「みかぐらうた」にうたわれ、おどられる「肥」は、
「元
の理」に語られる「どじょう」に象徴される微生物の働きに収斂してゆくのが理の道
筋として理解できるのである。
また、二下り目の一つは、「正月踊りはじめはやれ面白い」と歌われる。この二首、
がんそ
つまり「みかぐらうた」の手踊りの始め出しの言葉と手振りは、日本の能学の元祖と
─ 69 ─
ふうしかでん
される天才世阿弥が『風姿花伝』において、不断に「稽古」に専念し、まことの「花」
を極めることが、天下の御祈祷であると考え、役者のあるべき姿を、その芸道思想に
示したことを思い出させる。
世阿弥のいう「まことの花」とは、いかなる時と場の「演能」も、花が咲くことを
成就しうる能力であることを意味している。ここにおけるキーワードである「花」とは、
「演能」、つまり能の演者が、観客に与える感動を意味し、それは「人の心にめづらし
き・面白き心」を与えるものであると説かれている。「花が能の命」とされる世阿弥
哲学のキーワードは、
「生命の躍動が手踊りの命」と言い換えることができるであろう。
くわえて世阿弥の能面は、かぐら面とも不思議に共振している点が感じられる。
昔、天理教では、病人の枕もとに鳴り物までを持ち込んで「みかぐらうた」を祈り、
踊ったと伝えられる。身上者は、手踊りを見ながら、「みかぐらうた」を聞く。
『広辞苑』によれば、見舞うの語源は、見廻るであり、巡視する、医師が病人を訪れる、
また病気や災難を受けた人を手紙で問い慰め、金品を贈るというというところにあっ
た。また、天理大学の国文学者・大橋正叔教授の御教示によれば、「見舞」うという
言葉は歴史上さまざまな派生的意味を持ち、和語であり漢語にはない独自の日本語で
あるという。とすれば、「見舞い」という言葉には新たな派生的意味づけも可能であ
ろう。つまり、病人に「みかぐらうた」の音声を伴う手振りの舞を見て同調してもら
うことにより、病者と舞者の共感により喜びと勇みの場が発生するという「見舞い」
の意味付けである。天理教学の視座からすると、天理教者の「見舞い」は当然のこと
として、事情や身上のお願い勤めには「みかぐらうた」の舞が伴うのである。公共的
病院施設においては、先人が病人の枕元で手振りを舞ったようにはできないであろう。
「みかぐらうた」の「見舞い」が「おさづけ」の取次ぎに時代と共に変化したのかも
しれない。筆者の経験では、母の身上に際して、自宅において家族で連日「みかぐら
うた」を病人の枕元で舞ったことが思い出される。
世阿弥の能学における「稽古哲学」における「天下の安全」を祈る姿勢には、舞手・
芸人の命がかかるというほど厳しいものであったといわれる。この点においても世阿
弥はその芸道をとおして「みかぐらうた」に通ていする精神を持っていたと思われる。
「初心不可忘(しょしんわするべからず)」とは、世阿弥の『花鏡』の結びに、あら
ゆる功能につながる箴言として紹介されている一句である。今日では、物事を始めた
頃の新鮮な気持ちや意欲を忘れてはいけないという意味で使われているが、これは世
阿弥の言った意味とは異なっている。世阿弥の「初心」は、若い頃の未熟な芸や、年
齢ごとの芸の初めての境地を指しており、芸の向上をはかるものさしとしてこの初心
を忘れてはいけないというのであった。たとえば、年来稽古条々「七歳」においては、
白洲正子の訳によると、「この芸は、大体七歳ぐらいの時に始めるのがよい。こども
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井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
が自然にやって見せることには、必ず美しいものが現れる」とあり、教祖が女鳴り物
を、子供に教えられた逸話を想起させる。つづいて十二、三、十七、八、二十四、五、
五十有余、における初心のあり方が、世界における「芸能哲学史」には見られないと
評価されるほどの、独創性をもって述べられている。世阿弥は、その教えを三つに分
ぜ
ひ
けても説いている。まず「是非初心を忘るべからず」といい、若い頃の未熟な芸を忘
ときとき
れなければ、そこから向上した今の芸も正しく認識できるとする。次に「時々の初心
を忘るべからず」といい、年ざかりから老後に至るまでの各段階で、年相応の芸を学
んだ、それぞれの初めての境地を覚えていることにより、幅広い芸が可能になるとし
ている。最後に「老後の初心を忘るべからず」といい、老後にさえふさわしい芸を学
ぶ初心があり、それを忘れずに限りない芸の向上を目指すことを説いている。世阿弥
の稽古哲学といわれる営みは、いずれも「みかぐらうた」のまなび、つまり稽古に通
ていする思想であると考えられる。
この大天才世阿弥が生まれ育ったのが、大和の「ぢば」に隣接する磯城郡の三宅町
であったことはあまり知られていない。
「みかぐらうた」誕生の場所との因縁というか、
演能と「かぐらておどり」には歴史的なつながりを感じざるを得ないのである。くわ
くぼたうつぼ
えて、窪田空穂は、
『万葉集評釈』において、万葉集第一の歌人とされる柿本人麻呂は、
「夫婦生活」というものを重視した人物であることを述べている。
柿本人麻呂よりやや遅れた奈良時代の人物である石上宅嗣は、日本で最初に公開図
書館をつくったことで知られるが、石上氏のゆかりの石上神宮のほど近くに天理図書
館がたてられたことを考えると、「忘れるから筆先に知らし置いた」といわれる和歌
で書かれた「文字」と「地と天とをかたどりて夫婦」をこしらえたとされる「つとめ」
の第二節の神言に加えて、神を喜ばせるという語源をもつ「神楽」の原点が、歴史的
事実として、「ぢば」に配置されている不思議は、まことに神業であると感嘆せずに
はおれない。
世阿弥によれば、「面白き心」とは深い歓喜を意味し、舞台に「咲く花」の魅力を
語る言葉とされている。演能により咲いた花で、「諸人の心を和らげて上下の感をな
さむ」、つまり差別のない「ろっくの地」を意味する一列救済の極地を目指すことを、
世阿弥は役者に厳しい稽古によって要請しているのである。世阿弥によれば「人の心
にめずらしき・面白き心をあたえるもの」、つまり「めづらしい(声)=(肥)や、
面白い(真剣な)心(による踊り)を与えるものは」、天下安全のためであり、その
能の源流が神楽であったのである。「面白い」とは、天照大神が、岩戸の扉を開いた
ときに差し込んできた一筋の光が、神楽を踊る神々の「顔面」を照らした瞬間の光景
を、心理描写した言葉である。『世阿弥の稽古哲学』においては、「みかぐらうた」の
神楽としての芸術・宗教学的原流を示唆している点が多く見られる。
─ 71 ─
3)「みかうぐらうた」釈義批判
能楽とはちがって、天理教の「みかぐらうた」では、農業用語と工業用語を用いた
比喩が豊富に使われている。たとえば、種・苗代などは、夫婦のシンボル、地天の見
立てとなっている。言霊において「肥」は「声」につながり、その意味でも「みかぐ
らうた」は、「元の理」の通奏低音となっていることが理解できる。「みかぐらうた」
における「音声」の重要性については後ほど述べてみる。
また「かみのやかた」「やしき」「でんぢ」「つとめのばしょ」「ごくらく」「たすけ
るところ」「しょやしき」「ふしん」「だいく」などといった言葉に象徴される工業的
キ―ターム群の、建築学的、社会学的、言霊的な領域における研究、つまり学際的な
解釈、裏守護的な解釈学は、従来の天理教学では不思議にほとんどなされてこなかっ
た。「みかぐらうた」という原典は、人類救済の珠玉の宗教的神楽でありながら、天
理教学においてはその現代的解釈や裏守護的・思想的解釈とは長い間無縁であったと
いわねばならない。
その原因を一口で言えば、天理教学や教団の保守的気質、世俗主義はもとより、自
宗教内の自由主義をも批判しようとする原理至上主義(ファンダメンタリズム)的傾
向、「復元」への無力性にあったと思われる。とりわけ、これらの壁を打破し、乗り
越える実力と勇気が欠落した原典研究を使命とする天理教学者の責任は重大である。
痛烈な自己批判による天理教学における思想的な変革が、まず新しい時代の初めに、
目覚めた挑戦的教学者によってなされることを期待したい。ヴィトゲンシュタインは
述べている。「思想には値札をつけることができるだろう。ある思想の値段は高く、
ある思想の値段は安い。さて思想の代金は、なにによって支払うのか。勇気によって、
とわたしは思っている。」と。
なべて既成の「みかぐらうた」研究の参考文献は、筆記文字の遂条的解説と辞書的
説明がほとんどであった。比較思想的解釈や、たとえば和歌や俳句の評論的なものも
文学的側面をもつ「みかぐらうた」解釈には役立つと考えられるが、教内の学者はも
とより、教外の学者からもそういった試みはいまだに見られない。
言葉を変えてわかりやすく言えば、既成の原典「みかぐらうた」解説書に魅力がな
いのは、外国語の翻訳に耐え得るものではないからともいえる。このことは他の世界
宗教の原典の解説書と比較してみれば明らかである。つまり、日本語によるあまたあ
る天理教の「みかぐらうた」解説書は、他言語への翻訳の価値をもち得ないレベルの
産物である。諸外国語による翻訳の価値を持ち得ないものは、普遍の異文化世界に抜
け出る力をもたないことと同じである。その理由は、いわゆるテキストの解説が原語
の辞書的トートロジーに終始しているが故に、他の言語に移行する際に、その日本語
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井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
による解説や説明がテキストの他言語による同義語反復的表現に終わらざるを得ず、
解説があらたな意味をテキストから創出し得てないからである。つまり、解説が翻訳
文の循環定義に陥ってしまっている。
同じことは日本語どうしでもいえる。たとえば、ある国語辞典が「石」を「砂より
大きく、岩より小さいかたまり」と定義し、「砂」を「石の細かい粒」というように
定義しているように。循環定義の輪にはまった読者は、つまり「石」という言葉の意
味を「みかぐらうた」に求めている人は、結局「石」を知っていなければ、永遠に「石」
の意味は理解できないという、不思議な仕組みに巻き込まれてしまうことになる。こ
れが「石」のような物体ではなく、人間の感覚表現であればさらにその理解は難しい
こととなる。たとえば「やまいはつらい」とか、
「こいしなる」
「これふしぎ」
「ごくらく」
などといった「みかぐらうた」の言葉は、「痛い」といった感覚表現とおなじように、
いくら説明しても「みかぐらうた」のレベルに要求される体験がなければ、その真意
を知ることができないということになる。そこで、
「みかぐらうた」に求められるのは、
循環定義から抜け出し、読み手と踊り手を納得させ得る解説、そして感覚言語表現の
意味する深みに入り込むことができる疑似体験を読者に感じさせるような、きわめて
感性豊かな文学的・比喩的な表現能力であるということになる。
「みかぐらうた」を循環定義的に叙述するのは「みかぐらうた」の説明や解説では
ない。異言語間の翻訳からいえば、それは単なる直訳に過ぎないということと似てい
る。理想的にいえば手振りと唱和を含む数え唄である「みかぐらうた」は、詩歌でも
ってしか解説できないと考えられる。他の例でいえば、鴎外の「即興詩人」や上田敏
の訳詩のような意訳をとおした創作スタイルによる「みかぐらうた」の解説である。
これが筆者の将来期待する究極の「みかぐらうた」釈義のかたちである。
従来の循環定義的解説の極端な例は、ひらかなで書かれているテキストを漢字変換
して「みかぐらうた」を解説している場合などはその典型である。外国語翻訳も同様
のパターンを継承しており、直接「みかぐらうた」を解説した英文文献は、いまだ教
内では見当たらない。かつて岩井尊人は、自分が昭和8年にはじめて「みかぐらうた」
の英訳を行ったと自認していたが、それより 40 年前の明治 27 年には「聖書」の日本
語翻訳者の一人であったD.C.グリーンが、すでに「みかぐらうた」英訳と「おふ
でさき」1号の試訳を教祖論とともに試みていた。
グリーンによる「みかぐらうた」の英訳や天理教教義の英文解説は、40 数年後に
二代真柱によってその文献が発見された。明治 24、5 年にわたって天理教を実地見聞
したグリーンの著作が、出版直後に我が国における教内外の知識層に知られていたな
らば、その社会学的・神学的天理教教理の客観的分析と評価は、明治 29 年の内務省
訓令の弾圧を回避するに十分な内容をもっていたという見解もあるほどである。筆者
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の所見によれば、それ以来数々の外国人による天理教に関する解説書はあるが、その
オリジナリティーにおいてグリーンの著作を超えるものは見当たらない。近年にいた
って見られたドイツ人神学者であるヨハネス・ラウベ教授の研究は、マールブルグ大
学から博士号を取得する論考となった。ラウベの場合は、天理教が邪教として社会・
政治的批判や反対攻撃の中にあった百二十数年まえのグリーンの時代とは異なって、
天理に 1970 年代数年間滞在し、豊富な文献調査や関係宗教学者と質疑応答する機会
に恵まれていた。グリーンの天理教に関する研究は、当時教内の教理に関する研究文
献は皆無といった状態であったから、天理教撲滅運動に関する数点の出版物を参考に
するしかなく、彼のフィールドワークは天理教の布教所や教会訪問に裏づけられた研
究となった。つまり、過激な天理教撲滅文書とその実態との比較検証において、聞き
取りによる彼の調査はキリスト教日本伝道のための貴重な参考文献となったに違いな
い。その動機が聖書翻訳や日本におけるキリスト教伝道のためであったにせよ、反対
攻撃にもかかわらず燎原の火のごとく広がる天理教に、キリスト教の迫害の歴史が重
ねられたかのようなイメージが読後感として伝わってくる。これら数少ない教外学者
のすぐれた外国語文献研究書を除いて、教内学者によって外国語で直接書かれた教理
解説書や研究書がいまだ陽の目を見ないのは残念である。
さて、『IQ84』第十一章において作家である村上春樹は、主人公青豆に「肉体
こそが人間にとっての神殿である」と言わせている。惑星科学者の松井孝典は、現在
の地球を破滅から救う思想は「レンタルの思想」しかないと論破し、人間の肉体は地
球からの 「 借り物 」 であるという事実に目覚めることが第一だと述べている。
「元の理」
の扉を哲学的に開示した社会学者蔵内数太は言うまでもなく、後に述べるNHK交響
楽団の創設者といわれる山田耕作や民族音楽の泰斗である小泉文夫といった芸術部門
の知識人も、つとめの音楽性に関して教内者が気付かない視点を提示している。これ
ら教内外の文系と理系の知識人たちは、限りなくそれぞれの専門分野を通して「元の
理」や「みかぐらうた」の独自性に接近してきている。原典は、常に時代の先端に立
って、あるいは時代を先取りして、私たちの未来を照らすものであると筆者は常に思
っている。現代世界の激変するテンポに取り残されないためには、よほどの覚悟が天
理教学研究には要求されていると認識すべきであろう。私たちの志の低さが、教学研
究の停滞を生んでいると憂うのである。
親神からの現代世界へのメッセージは「世界の鏡」につぎつぎと映り始めている。
その典型は、米国のオバマ大統領の就任演説と鳩山首相の国会における所信表明に見
られる。前者は教祖年祭直前の日に当たる 2009 年1月 21 日に、後者は立教の元一日
である 10 月 26 日に行われた。いずれもその演説の共通するキーワードは、過去に堆
─ 74 ─
井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
積した個人や社会の「我慾」や「高慢」、そして戦後体制の「大掃除」などであった。
オバマは「埃を払って」(dusting off)という天理教者になじみの深い表現を使い、米
国はいま建国の精神の原点、つまり「元一日」に復元すべきだと訴えた。米国初の黒
人大統領と与野党劇的逆転を成し遂げた我が国の民主党党首はともに彼らの言葉で
「一列きょうだい」の「友愛精神」と「復元」への覚悟を訴えたのである。しかし、
鳩山首相の主張する戦後の「大掃除」が cleaning と正式に外務省によって英訳されて
いるのには、オバマ大統領の dusting off(埃を払う)という身近な直喩の力強さと比
較して、電気洗濯機によるクリーニング屋さんの他力を連想させられてうんざりとさ
せられた。
このようにさまざまな世上の巨大な「チェンジ」の文明的濁流のなかで、「みかぐ
らうた」はどのように現代世界に山積する緊急課題を「世界を鏡」として反映し、い
かなるメッセージを私たちに発信しているかということを思索することが求められて
いる。教学分野における未開拓分野はまだまだ多い。こういう教内の現状に対して教
学者が「筆執り学人」としてその対応に無関心であり、また新たな人材養成に向けて
指導力と先見力に欠けているという状況にあるならば、心ある教内の布教師や知識層
は一種のいらだちに悩まされざるを得ないであろう。特に天理教学の弱点というか、
他宗教に遅れを取っている点は、社会問題一般に対する教理の原則的解釈が発信され
ていないという点であろう。筆者の手元には意識の進んだ地方の信仰者からのメイル
や手紙がときどき届けられる。ここ 10 年を超す月刊『グローカル天理』の巻頭言に
おいても、筆者は意識的に社会問題を教理に関連付けて問題提起を試みて来たが、皮
肉にとも言おうか教内よりも教外において、若者より年配層に反応が多いように思わ
れる。その原因は原典解釈の方向が反復内面化し、外の世界に拡散し得る普遍性を持
ち得ないからであろう。たとえば、原発問題、政治・経済、同性結婚、良心的兵役拒
否、憲法9条、紛争緩和・平和構築、貧困格差など数え上げれば限りがないさまざま
な国際問題に関して、原典研究による宗教社会学的視座から追求した天理実践教学論
考や教団からの表明文章にはいまだお目にかかったことがない。
さて、既存の遂条解釈を避け、比較宗教や思想的な普遍的概念を援用して天理教外
者も理解しやすいように書かれた「みかぐらうた」解釈本は、管見によれば西山輝夫
になる『みかぐらうたの世界』(1989)くらいであろう。西山の解釈の根底になって
いる研究姿勢は、西山自身の体験をもとにして実感的に分かるお歌の中から、九つの
キ―タームをテーマとして取り上げ、それらが提起する問題を掘り下げるという姿勢
である。たとえば、「病のもと」「世界一列」「思案」「世直り」などが隠しもつ意味世
界を、キリスト教、仏教、儒教、イスラームをはじめとして、さまざまな社会思想や
─ 75 ─
哲学を縦横に織り交ぜながら掘り下げ、お歌のキ―タームを自身の見解を交えてエッ
セイスタイルで展開している。その思索の中身は上質で充実している。この書は「み
かぐらうた」の新しい形式の研究書と言えるであろう。
また、手振りと音声の伴わない「みかぐらうた」は存在し得ないということを考え
ると、手振りや音声からの解釈がなければ、
「みかぐらうた」の解釈は、
「おふでさき」
や「おさしづ」と同じ表記言語からの解釈となりがちである。音声をふくめた身体動
作としての「みかぐらうた」の分析と解釈の重要性を見逃した天理教学研究はやはり
十分とはいえない。言語の起源は、鳴き声ではなくジェスチャーにあったという進化
心理学が探る言語の起源説もある。言語は「身振り」の体系として進化したというわ
けだ。しかし、既成の「みかぐらうた」の解説本といわれる資料は、「ひらがな」か
らの「漢字転写」のレベルにおける文字解説や、単なる言語の自明の説明の域を出て
いないものが多い。あたかも教理研究の新たな発見であるかのような疑似分析の一例
をあげれば、各下りの類似した言葉を取り出して、その対応性を研究したものであっ
たりする。つまり、言葉が同じでも、
「手振り」が異なっている点を見落とした解釈や、
言語表現が異なっていても、「身振り」の類似形を通して、関連する意味を「手振り」
が表現していることに気がついてない解釈などである。たとえば、六下り目の十ド「こ
のたび「見えました」(裏返しの手振り)「扇の伺いこれ不思議」は、六下り目の第三
歌「みな世界の胸の内(鏡)のごとくに映るなり」における「映るなり」の手振りが
示す、人間と世界との両面鏡と「鏡」の(円)形との関連性の重要性に気づいていな
いと思われる解釈などは、「おさしづ」における「世界は鏡」という重要なキーター
ムと断絶した解釈になっていて、「みかぐらうた」の「胸の内が鏡」という言葉と構
造的に総合化された解釈を提供していない。具体例を名指しする必要もないほど、既
成の「みかぐらうた」の説明や釈義といわれるものは、なべて単なる常識の域を出な
い遂条的説明であったり、言葉の個人的悟りであったり、辞書的説明であったりして、
身体動作や音声の類似的比較研究をとおして、構造的な思想的解釈がみられないのは
残念である。たとえば「鏡のごとくに映るなり」は、「みな世界の人々の胸の内に世
界が鏡のように映り、神意も映っている」とは解釈されていないのである。この六下
り目の第三歌は、四下り目の一つ「人が何事云おうとも 神が見ている気を静め」の
道徳的レベルで、つまり、神は見抜き見通しであるから隠れて悪いことは出来ないと
いう意味に例外なくすべての「みかぐらうた」注釈本においてなされている。六下り
目の第三歌が示す意味に相互に関連して解釈すべきであるにもかかわらずである。こ
のように、各下りのお歌の構造的関連性のもとに、三原典の全体的解釈をとおして個
別的解釈がなされなければ、天理教の原典解釈は、普遍的な世界宗教としての宗教哲
学思想の深みにまで届かないのではと憂慮される。
─ 76 ─
井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
遂条的解釈や思想的解釈ではなく、舞踊論の視覚から捉えた唯一の研究に自らが民
俗舞踊家でもある宗教学者・小林正佳の論考がある。小林のつとめの舞踊論は『あら
きとうりょう』(1980)に初出し、つづいて『G-TEN』(天理やまと文化会議)や
『現代宗教学』(1992)において連載・展開されるが、その舞踊論の中核となる思想は
以下に集約される独自の指摘にある。小林は教祖が「みかぐらうた」の手振りに言及
して「理を振る」と口述された言葉に注目し、理に合った振りとは教祖の動き、教祖
の踊りに表れた動きのことを指し、それを私たちは繰り返し繰り返し辿ることの意識
が信仰の上で重要であると示唆した後、次のように述べている。
繰り返しになりますが、自然な動きは、繰り返せば繰り返すほど、同じからだ
をもった別の人間の同じ動きに近付いていきます。自分の体を内側から見詰める
時、それは自分の動きを通して、すなわち、自分のからだを通して、別の誰かの
からだを見詰めることにもなるのです。
とするなら、同じ『みかぐらうた』の音や言葉の流れを五感に感じながら、わ
たしたちが教祖と同じ動きの軌跡をたどってゆく時、同じ軌跡を辿る二つのから
だが同じ感覚を共有する、同じ体験を共有する、わたしたちの感覚が、生身のか
らだをもった教祖その人の、その時の感覚に重なってゆく、ということが有り得
るのだといえはしないでしょうか。うまく踊れば踊るほど、踊り手の感覚は、教
祖自身の体験に無限に近付いてゆく。
つまり、小林は、教祖が動いたように動いてみることは、自身の動きを教祖に重ね
合わせてゆこうとする踊り手の一瞬の「意識」の中において、「教祖の身体と心のあ
りようが『つとめ』を通してわたしたちに開示される」と述べているのである。歴史
的時空間と私たちの心の成人のレベルは、教祖が示された「ひながた」の道とは大き
く隔たっている。しかし、小林は教祖が舞われた「みかぐらうた」の動作の「形」の
繰り返しが、両者の隔たりの距離を瞬時に結びつける可能性を籠めているとする。こ
のような舞踊論の視覚から見えてくる天理実践教学への指摘はきわめて新鮮で刺激的
である。
既成天理教学が思想的・学際的に普遍性に欠ける理由の一つには、従来の解説者が、
たとえば「みかぐらうた」の踊りの身体動作や音声を忘れて、言葉の常識的第一印象
にとらわれるあまり、他の天理教原典との照合と、裏守護における偉大な世界思想の
援用や比較を、おろそかにしていたからと見られる。このような傾向は、世界宗教と
しての天理教を支える天理教学を、内に閉じ込めてしまう危険性を含んでいる。教理
解釈には、その教理の普遍性の発掘を念頭におくべきであるという私見に基づいて、
─ 77 ─
その一例を提示しておいた。
さて、先人の説明を延々と引用紹介し「みかぐらうた」の言葉を比較・分析してみ
たところで、自らから思索し、あらたな時代に即した解釈が生産し得ない天理教学は、
単なる過去の言説の反復に過ぎないという意味のことを述べた。「みかぐらうた」の
遂条的説明は、学問といった営みではなく、単なる言葉の辞書的説明でしかない。過
去、現在を通して「みかぐらうた」釈義の大半は、遂条的辞書的転写をもって説明が
なされ、ほとんどその中には独創的思索は見られなかった。ひらがなで表記された原
典を漢字に転写するレベルにおいては、すべてが個人的経験による追記的粉飾に終始
し、普遍の思想界をつきぬける独自の哲学的解釈は存在しなかったといって差し支え
ないであろう。したがって、世界の宗教史学研究においても、天理教教理をとりあげ
て比較思想の俎上に載せられることがほとんどなかったことは不思議ではない。
原典のコンテキストの「説明」とその「解釈」とでは、思考方法のレベルと回路が
違うのである。解釈とは深い思索であり、あらたな思想構築の動機を求道者に提供す
る。その行為には、変化する時代に対応し、あらたな意味を追求する独自の既成的解
釈への深化、ないしは批判と否定、そしてそれらを弁証法的に昇華していく創造的精
神が求められる。そうでなければ「みかぐらうた」は、世界への思想的普遍性の場を
獲得し得ず、真理の「扉」は開かれるどころか、将来も「扉」が閉ざされたままの「蛸
壺」世界に安住せざるを得ないという残念な事態となるわけである。
4)「みかぐらうた」の音楽性
「みかぐらうた」は、他の天理教原典と異なり、教理の音楽的表現と舞踊的表現を
もった宗教芸術である。天理教音楽研究会は、「つとめ」の研究の一助として昭和 30
年に設立された。以来教内外の著名な音楽家による作曲や研究が発表されてきた。そ
のつとめの音楽性について、世界の民族音楽や民謡の新しい分野を開拓した国際的学
者として知られる東京芸術大学教授の小泉文夫は、
「みかぐらうた」の拍子を研究して、
それが日本人の音楽性の根源に触れる印象を与えるばかりではなく、日本土着の旋律
というよりは、はるかインドや西アジアの拍節構造と類似している点を指摘している。
そして「それは東ヨーロッパまでつながるものもあるので、日本人のみでなく、ひろ
く人類の祈りの音楽として親しまれる要素も、同時に兼ねていることも注目すべきで
ある。」と述べている。
また、東京芸術大学音楽部の前身である東京音学校を卒業して「みかぐらうたカン
タータ」を作曲した源野道宣は、そのすぐれた論考「みかぐらうたに於ける音楽的一
考察」のなかで、教祖は、「みかぐらうた」を教祖の住まわれた身辺の楽器をつかい、
超世界的な宇宙のリズムとメロディを見事に表現されたとして、その楽器編成につい
─ 78 ─
井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
て次のような見解を述べている。「教祖は敢えて管弦を用いられている。ここにやは
りだめの教えの教示を見るのである。即ち単なる平均律音感では表現不可能な境地と
音楽性を、堂々たる楽器編成とヴォーカルとにより人間情操の達し得るぎりぎりの限
界で表現することの可能性をお示しくだされたということである。そしてそのために
は、平均律に左右されない楽器編成を用いざるを得なかった」と。
「みかぐらうた」の音楽性を考えるに際して、特筆すべきは天理教讃頌譜『おやさま』
を半年かけて作曲した山田耕作の創作のプロセスにおける感慨である。初演に際して
そのプログラムの後記に記した告白的エッセイは次のように表現されている。山田は
あらゆる天理教に関する書籍を読みあさり、天理教の実際生活に触れる努力をとおし
て「天理精神」にふれ、「芸術家一人よがりから解放された」と結んでいる。
私の過去の作品には、暗い影があった。それは然し、私本来の心の現れではな
く、暗いものゝ内に真理が存在し、美が生きるのだ、といふような偏狭な、一種
の芸術家気取りの所産であったのだ。幸いにもこの曲(『おやさま』)には、漸く、
私、生来の明るさが取り戻されている。今や私は芸術家的一人よがりから解放さ
れたのである。私の歩むべき新しい路はひらかれた。私はこの与えられた、私本
来の路を、衆と共に明るく、力づよく進まう。月のような音楽も美しい。が、太
陽のやうな音楽が書けたら、.... と思いながら。
山田耕作は「みかぐらうた」に発露された教えと、その音律の世界に作曲家として
のめり込むことによって、「陽気ぐらし」の真髄に触れ、新たな心の扉が開かれ、芸
術家としての脱皮をみずから体験したのであった。
「みかぐらうた」の旋律にのめり込んだこれら三者のすぐれた音楽家の言葉からは
ある種の神秘的な背景が浮かび上がり、神秘主義者として知られるシュタイナーの語
る「人間の音体験」の一節を想起させる。シュタイナーはアトランティス人の音楽知
覚にふれて、彼らには「私が音楽を奏でる」という感覚はなく、「私が神々が作った
音楽のなかに生きる」という感覚のなかにあり、その音体験は現代とはまったく異な
っていたという人間の故郷である精神界についてショーペンハウアーとワグナーの作
品例をあげて語っている。
「扉を開いて地を均らそうか」というあの有名な明治 20 年の「おさしづ」のお言葉は、
教祖が現身を隠される決定的瞬間に発せられた先人達への問いにとどまらず、現代か
ら未来にかけて、私たちに発せられた永遠の問いであると受け取らねばならない。求
道者の心魂の神秘の扉、教会の扉、教学の扉は、いまこの瞬間に開かれているのかと
─ 79 ─
いうことを、私たちは常に真剣に問わなければならないのである。「今がこの世のは
じまり」という「おふでさき」の言葉は、この意味をも指し示している。まことに「元
の理」は「今の理」であるという意識が徹底して拡充して行かなければ、それはわれ
われにとって絶望である。
5)「みかぐらうた」と現代
筆者はいま「みかぐらうたと現代」というテーマを考察するに際して、「みかぐら
うた」の解釈が、現代の問題に解決の糸口を与えないならば、その解釈は実は解釈で
はなく、単なる言葉のむなしい羅列であり、「表記文字」の説明にすぎないという意
味のことを述べた。表記言語の説明は、ひらかなを漢字化するようなもので、言語を「転
写」しているに過ぎない意味のない営みであるということについても述べた。換言す
れば「言語的転写」を「概念的解釈」と混同してはならないということである。転写
という意味と諸例については、おふでさき英訳の拙著の解説例を参考にしていただき
たい。ここには、後で述べる「みかぐらうた」は「口記」であるという筆者の主張す
る傍証が散見されるであろう。その検証と傍証に関しての素材には事欠かないが、後
ほど少しだけ触れてみたい。
さて、「みかぐらうた」と現代というテーマで語るとき、まず現代の日本には問題
が山積しているということを具体的に意識することが求められる。たとえば、今現在
の日本が抱える複雑な外交問題、くわえて、財政赤字、円高デフレ不況、経営悪化、
格差問題、教育問題、新型インフルエンザ、天災地変、地球温暖化、就職難、平和の
中の貧困と不幸、家庭崩壊、食糧輸入依存の問題などなど数えきればきりがないほど
に、問題は相互に関連しながら多岐多様にわたっている。現代日本のこれらの問題は
「みかぐらうた」が教えられた幕末におけるローカルな歴史舞台と比較して、世界の
グローバルな問題と切り離して解決できない問題である。つまり、世界は今、とくに
経済・財政的側面において、国境、民族をこえて完全に一つの人類共同体として相互
に影響されているからにほかならないからである。
2008 年のリーマンブラザーズのサブプライム問題による経営破綻に端を発した世
界金融危機の悪夢から、世界は今ようやく目覚めようとしているかのようにいわれる。
しかし、安定を取り戻しつつあった国際金融市場も、中東ドバイの政府系持ち株会社
が債務返済繰りのべを要請したことで、金融危機の第二波に怯え始めている。内外の
多くの識者が「まだ危機は去っていない」と強調しているのはそのためである。拙著『ユ
ートエコトピア』において紹介したように、アブダビの環境理想都市計画を知り、そ
の先端科学技術適応の素晴らしさに目を見張り、勇気づけられた筆者にとっては、そ
こに見られるユートピア理想境は一瞬にして砂上の楼閣となり、ディストピアが理想
─ 80 ─
井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
を壊滅する近未来の戦争を幻想する始末である。
つまり、先述したオバマ大統領の所信表明における米国建国の原点に帰る決意や、
鳩山首相の所信声明には、戦後の「大掃除」の後に見えてくる地域や国家の、そして
新世界の「かたち」を立ち上げる理想的「普請」の具体的な世界平和へのロードマッ
プが欠落していた。同じように宗教者高山にも「掃除したあとの人類の理想的共同体」
の構築と理想実現に向けての実践教学が問われているのである。そのためには従来の
いわゆる「世界宗教間平和会議」といった儀式的対話スタイルからの脱却が求められ
る。過去において人類は歴史的危機に直面したとき、それを克服するために勇気ある
賢者が命をかけて常に構想し、実践してきたユートピアがあった。しかし、現在危惧
されるのは現代世界の論壇もふくめて、理想としてのユートピアがさまざまな「高山」
階層において欠落しているという点である。ウォーラスティンでさえ『ユートピクテ
ィクス』という概念を使いはじめ、思想的に後退しているように見受けられる。直面
する危機から脱出する出口が、教内教外両面の世界において、まったく前景として具
象的に描かれていないのである。この意味でも、筆者は「世界は鏡」というお言葉の
厳しさに、身震いを覚えざるを得ない。
6)教語の磨滅 天理教者の目指すユートピアは「陽気ぐらし」世界の実現である。しかし、「陽気
ぐらし」という教語は教語として最も言い古された言葉であるが、この言葉は個々人
の心の問題や組織の内面の話に収れんされるという、悪循環や心性還元論の罠にはま
っているように見受けられる。従来の天理教学は、公共学的な視点から「陽気ぐらし」
の世界を、具体的に活写することに無関心であったことは否めない。「陽気ぐらし」
という言葉が、いまほとんど現代的意味を失ってしまっているのではないかという心
配である。「陽気ぐらし」とは、英語で joyous life、life of joy、あるいは joyful life な
どと訳されているが、いまやその言葉は世俗化されて、スーパーマーケットや商品の
ブランド名として人口に膾炙している。本来の言葉の持つ教学的な意味は、ますます
遠ざかっていく感じがする。「十字架」や「他力本願」という宗教用語の通俗化によ
る誤解に見られるように、他の世界宗教においても教語の世俗化が避けられない時代
があった。しかし、その湾曲する世俗化に対して既成宗教は反論を繰り返すことによ
って、教学深化への努力の契機としたことも事実であった。時代の変化に置き去りに
された教語は、その独自性と正しい意味のもつ普遍性を失い、閉ざされた中において
さえも、その言葉の本来の意味は、使われれば使われるほど磨滅してゆく危険性をも
つ。「陽気ぐらし」というすばらしい教語が抽象化され、個々の信仰者における心の
世界の問題であるとして規定され矮小化されて行くことを憂うのである。
─ 81 ─
私たちは「陽気ぐらし」という言葉を、伝統的心性還元論から解放し、もっと公共
的なアプローチをもって社会化するユートピアへ向かう道筋について議論すべきであ
ると思われる。その具体的な実践は、ローカルな地域における場からまず出発すべき
であろう。もっといえば、日本唯一の宗教都市といわれる天理市・おやさとの惨憺た
る行政の財政的現状を直視し、それが教祖の思し召される神人和楽の共同体にどれほ
ど近づいているのか、遠のいているのかという、きびしい検証からまず始めなければ
ならないだろう。「みかぐらうた」の四下り目の第六歌「むらかたはやくにたすけたい」
という、親神の思し召しの現代的解釈をベースにした研鑽と、公共的理解と地域行政
改善への実践力や、たとえば限界集落化する大和高原における、あらたな共同体モデ
ル構築へのロードマップの策定などは、天理大学を主導とした官学共同で立ち上げね
ばならない仕事だと考えられる。
「ここはこの世の極楽や」と教えられる境地に向けての公共的な実践教学的努力や
関心が欠落していては、いくら「ておどり」の形を正しく学んでも、私たちの祈りは
空虚であると批判されても返す言葉が無い。宗教儀式における祈願は具体的世界への
行動的実践力を手にして初めて架橋されるのである。
原典研究からは、お互いに助け合うことによる「陽気ぐらし」への「基本的教理」
の構築と、各個人による個別的なそれぞれの信仰実践的な「掘り下げ」が求められる。
真実の根を掘り下げてゆけば、立場は異なっても同じ地中において、それぞれが「掘
り下げる」ときに出会う不思議体験が発生する。それは真実の向日的樹木を支える思
想の背日的根茎によって、同志としての魂の成長がその精神の見えざる根と絡み合い、
さらなる地上における可視的活動に勇みが与えられる。
筆者は論理や理性ではなく、自ら一人の活学的「筆執り学人」たらんとする信仰体
験によって、このことを信じ、「心根」の世界における神秘について語っているので
ある。限界を突破するためには、
「基本教理」である 「 元の理 」 のさらなる研鑽と、個々
人の「根を掘る」模様の、さまざまな実践活動の「二段構え」で進むしか方法はない。
7)世界と自己の両面鏡
2009 年 12 月 25 日は、奇しくも 30 年前にソ連がアフガニスタンに侵攻した日にあ
たる。1979 年の 12 月 25 日以後、ソ連は 10 年間アフガニスタンに居直ったが、つい
に撤退させられた。その結果、ペレストイカを招き、ベルリンの壁が崩壊して、共産
主義というユートピアは見事に挫折した。そのアフガニスタンに、オバマ大統領はタ
リバンテロ防止のためと称して、ノーベル平和賞を受賞した直後に、皮肉と言おうか
3万余の軍隊をアフガニスタンに増強・派遣するという決断を強いられた。もはや思
想化して目に見えないアルカイーダという敵に勝利するチャンスは、米国という国家
─ 82 ─
井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
には 99%ないと断言しておきたい。厭戦気分はいまや米国内に止まらず EU 諸国で
まん延している。いくら理屈をならべても、ベトナムの二の舞を避けられない道をた
どっていることはあきらかであろう。加えて、イスラムという宗教が関わるこの戦い
の休戦にむかって、期待される他の世界宗教の仲介的関与や、世界の宗教団体のアフ
ガニスタン問題への解決は、絶望的である。世界は徐々に、しかも確実に地獄に向か
っているという、悲壮感がただよっているかのようだ。「ここはこの世の極楽や」と
陽気に歌われる「みかぐらうた」の言葉は、ますます内面の世界へと逃避して、かつ
て提唱された人類救済という情熱に燃えた理想も消え去って行くかのように感じられ
る。同時に「家族の絆」などというマイホーム的なテーマが大問題であるとして、雨
後のたけのこのごとくジャーナリズムや宗教・教育界を賑わせている。我が天理教は、
中山家という家の崩壊からはじまり、伝統的世上の「家族の絆」を超克する厳しさか
ら教祖「ひながたの道」は始まったのではなかったか。この厳然たる教史における「ひ
ながたの道」の教えが、世上に流される信仰者や教学者の俗化傾向によって棚上げに
されている印象をもつ。
筆者は9・11の米国同時多発テロ事件以降、7度もアフガニスタンを訪れ、自爆
テロの現場もこの目で見たことがある。様々な意味で現在も、アフガニスタン問題に
直接・間接に関わっている日本の宗教界では数の少ない一信仰者であると思われるが、
30 年間アフガン問題の一研究者、体験者として、アフガン紛争侵入者の結末のあり
かたについては、その悲喜劇の様子が、一篇のドラマのようにすぐさま頭をよぎる。
多くのジャーナリズムは、アフガンの真実を見落としている。加えて慙愧に堪えない
のは、我が国の政治家もアフガニスタンのリアリティーについては殆どわかっていな
いということである。世界だすけを標榜する天理教者は、この人類の歴史を左右する
アフガニスタン問題やイラクの紛争などについては、関心がないのだろうか。筆者に
はそのことが不思議でならない。
中村哲が率いるペシャワール会所属の伊藤和也青年の祖父は、天理教の信者である
という痛ましい死亡記事が、天理時報の一面を大きくかざったことがある。しかし、
彼の生きざまを写真集にし、ドキュメンタリー映画化することによって、アフガン支
援のリアリティーに学び、追悼記念作品としたのは、天理教外の出版社であり、天理
大学ではなく他大学であった。私の良心には、天理教は彼の死を単純に「においが
け」の宣伝素材として利用しただけではないのかという、悲しい声が聞こえてくるの
である。そこで私は、これまでのアフガニスタンの関わりの総括として、一般社団法
人 Peace Cuisine Film Initiative( 平和構築映画機構 ) という組織を、隠れようぼくのプ
ロ集団と協働して立ち上げるという種まきをすることにした。ホームページも立ち上
─ 83 ─
げ、映画製作による紛争予防・平和構築への些細な教育・啓蒙活動を開始する準備に
入ることとなった。広報のためのチラシもようやく出来上がったところである。 「みかぐらうた」や「おふでさき」が、これからの信仰活動の始めを示唆しておわ
っていることが公開講座において指摘されていた。この指摘はただしいと思う。一方、
「元の理」は「文字」の仕込みで終わっている。本教の栄光ある布教師たちと違って、
日常おたすけ活動に従事することが出来ない私たち「筆執り学人」の仕事は、「文字」
の仕込みを手段として、時代の変化に対応し、時代を先取りする、あらたな教学思想
の構築がその使命である。それを休止することは怠惰であり、死学であり、活学では
ない。教内であれ、国内外であれ、有名学者の文献紹介や思想紹介だけが、筆執り学
人の仕事ではないというのが、「元の理」の終りの始めの意味するところであると考
えている。お道の学者は、活学者であるべきであり、そのためには原典の「終りの始
め」を強調するだけではなく、独自の体験をとおしてさらなる前進に挑み、自らの信
仰に立脚した経験をとおして、教学やその専門領域を強固にし、さらにはその成果を
拡充することによって、外の世界に向けて影響力を発揮できないのならば、それは道
の筆取り学人として、敗北以外のなにものでもないという覚悟が求められる。
閉ざされた時代意識下のもと、つまり「扉が」開かれてない状況のなかで、私たち
が「みかぐらうた」の「六つ謀反の根を切ろう」と歌い踊り、神に祈願し、そのこと
ばの説明をおこなって一件落着とすましていることは、世界助けを思し召される神意
とどのようにつながっているのかを反省すべきであるということを力説しておきた
い。正しい歴史観とは、現実のリアリティーの大地に両足をしっかりと置くものであ
り、過去の事実を羅列し、回想するものだけであってはならない。温故知新の知新と
は、この点を突いているのであろう。
話を世界金融危機に戻すと、筆者はちょうど金融危機が世界に急激に波及したその
時、東アフリカ・ウガンダのビクトリア湖畔に位置するカージ村のはずれで、東アフ
リカ五カ国の大使と立ち上げた TICAD Ⅳ(第4回国際アフリカ開発会議)の提案に
そった、土のうドームによるエコヴィレッジの建設やアグロフォレストリーの試作に
かかり始めていた。東アフリカを縦断する大溝地帯は、進化論や考古学、遺伝子工学
などで証明された人類発祥の地として知られている。私は準備のため本隊出発以前の
ひと月前に、事前調査・折衝に一人で現地に赴き、作業の順当な準備を終了していた。
しかし、天理大学のスローガンである「他者への献身」を実践する貧困緩和自立支
援調査研究活動と称する第一次隊を率いて、アフリカに到着した時には、事前に駐日
大使を通して契約を結んでいたウガンダの工事会社の契約当時者は、諸費用の世界金
融危機による急激な物資の値上げから、約束していた作業現場には姿を現さず、建築
デザインが求める土のう建築の資材は一切無く、現場の草刈りから作業をはじめる次
─ 84 ─
井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
第となった。協働者として働いてくれたエイズや戦争の孤児たちへの給料の折衝や、
足場組みから、土のう袋の現場における製作、傾斜する土地の地ならしからの出発で
あった。作業中孤児たちが、ドラム缶を鍋がわりにして作ってくれる 30 人分の野外
昼食は、午後の4時。切り詰めた予算による朝食はパン二枚。安ホテルから作業現場
までの一時時間半の悪路と、想定外の道路封鎖のデモもあるなか、赤道直下における
炎天下での肉体労働は、予定通りに進まないストレスに加えて、70 歳を超えた人間
にとっては相当身にこたえるものであった。病院に運び込まれマラリヤと診断された
のちは、赤道直下で毎晩ホカロンを6枚体に巻きつけて寒気を防ぐという日がつづき、
帰国寸前についにダウン。帰国直後は脳梗塞に襲われ、右手と右唇、そして口内は、
いまも常時しびれていて、急性前立腺手術の後遺症で2ヶ月間血尿に苦しみ、入退院
を繰り返し、どうやら命を御守護はいただき、今日にいたっているという状態である。
これも突然襲った世界金融危機が、私という個人の肉体と精神に及ぼした影響の一
つの実例であろう。私は身をもってグローバリゼーションの悲哀を、自ら神の手引き
として味わわされたのであった。真実を「味わう」には、命がかかるのだという貴重
な経験を、アフガニスタンや、三年間にわたる貧困緩和自立支援の東アフリカにおけ
る活動を通して学ぶこととなった。筆者の「みかぐらうた」を「味わう」というテー
マの言葉への執拗なこだわりは、この「痛み」の体験から来ていると言っても過言で
はない。
激変する世界と日本の「両面鏡」に映る、自分の姿はどのように変わろうとしてい
るのか。加えて、天理教の信仰者は本当に「世界の鏡」を見て変わろうとしているの
だろうか。また「世界を映す鏡」が、それぞれの「胸の内の鏡」に見えているのか
を、まず私たちが自分自身の立場において真剣に問はねばならないと思うのである。
その問いに答えるためには、信仰者として、社会人として、世界人類の一員として、
宗教者はどのような覚悟と責任感をもって仕事にかかっているのかを、それぞれの立
場々々において答える親神に対する義務が顕在化している現在という瞬間をとらえ、
しっかりとした悔いのない新たなこころを定めなければならないと考えている。その
ような百年に一度も直面したことのない、歴史の分岐点となる瞬間が、いまここにあ
り、私たちは、いまその狭間にぶらさがって存在しているという、実存的自覚が求め
られている。堺屋太一による統計調査によれば、我が国における人間の信頼度は、最
低が公務員、その次が政治家であり、宗教家の信頼度は最低からかぞえて三番目とい
うデータが出ているそうである。私はただただ一宗教者として、自らを省みて、この
こうべ
客観的な冷酷な数字に頭をたれるしかない。統計も「世界の鏡」を映しているからに
ほかならないからである。
─ 85 ─
8)「食神」と「神食」
さて、テーマに戻り「食べてその心味わいを試し」という、神の人間創造の原初に
おける行為を「神食」という言葉で表現し考えてみたい。神が原人間・道具衆を食す
る目的は、きわめて救済的であり、それは陽気ぐらし世界実現にあると教えられてい
る。「みかぐらうた」を味わうとは、「陽気暮らし」を目的とした人間が、神の言葉の
咀嚼を通して、ロゴス、つまり、「天の理」を食することを意味していると捉える。
この行為を「神食」に対して「食神」という言葉に言い換えておきたい。そこでこの「神
食」と「食神」を架橋する「味わう」という体験は、
「表記言語」を単に黙読し、分析・
解説することではない。「味わい」は「食する」ことを前提とするから、食のない「味
わい」は、視覚による錯覚であって、それは人間の「神への反逆的行為」に到るとい
うのが、筆者の信念であり主張でもある。
「食神」は、一種の神殺し・親殺しにたとえられる。その覚悟がなければ、神の言
葉を味わう資格はないという恐ろしい挑戦が「みかぐらうた」を「味わう」という言
葉に隠されていることに気づかねばならない。筆者は「おふでさき」や「稿本・教祖伝」
の翻訳作業においても、子供と家内の命がかかるというすさまじい経験を「味わった」。
立場はちがえ、おなじような体験を共有する人たちも少なくないことは知っている。
体験のない教学は空虚であるといわれるが、その個人的体験の詳細については、割愛
する。ただここで繰り返しておきたいポイントは、「味わう」ためには、咀嚼という
「噛み」= ( 神 )「切り」「切られる」という「痛み」が、体験のコンテンツとして前
提となることを知らねばならないということである。
この切られる「痛み」への気づきと覚悟がなければ、「味わう」というテーマにつ
いては語らない方がよいし、聞かない方がよいであろう。また、「痛み」という感覚
は言葉では定義できないゆえに、「痛み」の経験のない「味わい」は、信仰者にとっ
ては言葉の遊びであり、たとえその言葉を聴覚や視覚が受け入れても、それは単な
る記号であり、「表音文字」にしかすぎないのである。こういう状態のなかでは、信
仰に必須である感動がさっぱり伝わってこないということになるわけである。野口
三千三の体操では、重さに身を「まかせる」ことが基本である。筆者は野口体操に関
心を持ち一日入門を経験し、終日身体動作のなんたるかの手ほどきを受けた。のちほ
ど数回氏の自宅まで伺ってその謦咳にふれたことがある。氏に一貫しているのは、自
分のからだの実感を信じること、からだを自然・宇宙の分身と捉えること、体を緩め
かぎりなくリラックスさせて下方へ一度放つこと、そして「自分がからだを動かす」
という自意識を一度捨て去って「丸ごとひとつのからだ」にまかせて、そのからだの
声を「聞く ( 貞く )」ことが重要とされる点である。体操の極限も演能とおなじく「み
かぐらうた」の身振りに示唆するところが豊かである。両者とも身体を宇宙の一部と
─ 86 ─
井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
位置づけている。
宇宙のリズムとかたちは、身体を神の「かりもの・かしもの」とする天理教教理の
根本であるから、「みかぐらうた」の音楽と唱和、そして身振りや手振りをともなう
祈願と感謝は、身体運動の視座からの極めが言語的解釈を超えたかたちで追求される
領域を提供する。その体験には体操や演能におけるプロとしての厳しい稽古が求めら
れることはいうまでもない。
つまり、それが過酷な稽古であれ、壮絶な布教体験であれ、思想的葛藤であれ、
「痛
み」のない「味わい」のレベルでは、話者も「みかぐらうた」の言葉を「舐めまわす」
という子供のおもちゃ遊びの段階に終わっている。その段階に留まる行為は「みかぐ
らうた」を咀嚼し、食することによって、
「食神」としての「親殺し」に相応する「痛み」
の経験、厳しい布教や求道における思索体験を通して、魂の「肥やし」を生産し得て
ないからであるとも言えるだろう。噛み切られることは、「痛み」と「苦しみ」をと
もなう。痛みや苦しみのない、目的不在の「神食」と「食神」はあり得ないというの
が私の信条である。食べ切るためには、つまり「みかぐらうた」についての発言や釈
やいば
義と名のつくものには、相当の「痛み」の覚悟と、鋭利な歯による頭脳の切れ味、加
えて、たくましい想像力と構想力が救済学としての稽古学のなかにおいて追求される
ことが求められるのである。
9)「口記」としての「みかぐらうた」
従来の天理教学においては、「みかぐらうた」の教祖直筆による原本は発見されて
いないとされていた。原本が発見されてないという発言は、原本があったという主観
的確信から発せられたものと思われる。しかし、「みかぐらうた」の原本が存在した
という歴史的証拠を提示する信頼できる客観的文献がないかぎり、「みかぐらうた」
の教祖直筆の原本が存在したことは仮説とされるべきではないか。筆者は、「みかぐ
らうた」教祖直筆原本の存在を前提とする歴史教学に対しては疑義をはさむものであ
る。そもそも世界宗教の宗祖は自らその教えを筆に残さず、高弟たちが宗祖によって
口授された教えや問答を写筆した。釈迦、キリスト、モハメッド然りである。宗祖に
よって口授された「声」は、弟子たちに直接に受け継がれることによって受肉化され、
写筆されたのであった。宗教において経典を朗誦することが重要視されるのはその故
である。看経と朗誦は真理に接近する道が異なるのである。まず次の教祖のお言葉か
ら議論を展開したい。
教祖伝逸話篇18「理の歌」
十二下りのお歌が出来た時に、教祖は、
─ 87 ─
「これが、つとめの歌や。どんな節を付けたらよいか、皆めいめいに、思うよ
うに歌うてみよ。」
と、仰せられた。そこで、皆の者が、めいめいに歌うたところ、それを聞いてお
られた教祖は、
「皆、歌うてくれたが、そういうふうに歌うのではない。こういうふうに歌う
のや。」
と、みずから声を張り上げて、お歌い下された。
この逸話は「みかぐらうた」を解釈するに際してきわめて重要な要素からなってい
る。「お歌ができた」とは、数え歌形式の歌詞と作曲、そして踊りの振り付けが、教
祖自身の中に完成したという意味であろう。それが前もって教祖により記述されてい
て、皆の者に筆写させたとか、テキストとして回し読みされたという意味ではないと
思われる。
永尾廣海は『みかぐらうた本研究の諸問題』において「常識的判断をすれば、教祖
のお姿を拝せた頃は、側近の方々はお許しを得て原本を写させて頂けたと思われる」
と原本が存在したという前提で議論を展開している。この原本存在の前提は、二代真
柱のフィリップス大学における第 10 回国際宗教学宗教史学会における研究発表「天
理教教義における言語的展開の諸形態」の結語からの引用によっている。要旨は「お
ふで先によって原理的規範が示され、これに先立って、みかぐらうたによって生命的
教導がなされ、『こふき話』によって神秘的玄奥が語られ、おさしづによって現実的
指示が与えられた」という原典の定義とされる叙述であり、つづいて「これ等の中、
前二者はお筆で以て、後二者はお言葉を以て示されたものである」という箇所に触れ、
これを唯一つの根拠として、永尾は「みかぐらうた」は教祖の直筆であると確定して
いる。これに関しては後ほど問題点を指摘してみたい。
二代真柱の前出の論文には「みかぐらうた」に教祖の直筆があったとの教史的論拠
は何ら示されていない。これに関する文言は「このおふでさきの御執筆に3年先立っ
て、教祖は慶応2年(1966 年)から、後にみかぐらうたと総称されるつとめのおう
たを示し始められた」と記述されている。「示し始められた」とは「教えられた」と
同様に漠然とした表現であり、直筆を示されたのか、口授をもって示されたのかにつ
いては明らかではない。それを直筆と断定する根拠は主観的信仰信念に基づいた推測
であったと思われる。しかし、永尾は、その原本は没収されたか、どこかにまぎれて
不明になっているとしか思えないと述べたあと、「ここに一つの問題が惹起してきま
す」と書いている。つづいて「お許しを得て原本を写させて頂けたと思われる」との
想定にしたがって、後の原本写筆は「大綱においては一貫」しているが、「各おうた
─ 88 ─
井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
に至っては、種々相違点を見出すのであって、それには当該筆者の誤字脱字もある」
として、
「みかぐらうた」本の転写の違いについての比較研究を進めている。加えて、
「み
かぐらうた」本を年代順に対照比較することによって「つとめの完修へ着々とその準
備を具体的にお進め頂いているふしぶしごとに、おうたそのものも現行のおうたへと
記録上ととのえられてゆく姿が、ありありと伺える」と結論づけている。この論旨で
は「みかぐらうた」には教祖直筆の原本が存在したが、何らかの理由によって紛失さ
れたと解釈するより、地唄と踊り、そして鳴り物を伴う「みかぐらうた」は、教祖の
口授によって直接教えられ、稽古をつけられて、弟子たちによって後ほど筆写された
と理解する方が素直に納得させられると思われる。弟子たちによって筆記されたこと
ばの違いは、聞くものの聴覚の相違による転写の違いであったにすぎないと考えられ
るからである。この部分的傍証は、明治 33 年 11 月 5 日「十二下り神楽歌本の是まで
の分、文字の違いを訂正の上再版致し度く御許しの願」のおさしづの解釈にも伺うこ
とができる。また「みかぐらうた」の教祖による自筆の原本は最初からなく、教祖が
口授された歌詞をともに歌いながら、教祖の指導を直接・具体的に受けて自然に身に
ついた「みかぐらうた」を暗誦し、その記憶にしたがって、それを弟子たちがそれぞ
れ筆記したと考える方が、音声を伴う身体運動としての「舞踊の稽古」という伝統に
ふさわしいと思われる。永尾は次のようにも述べている。
当時のありさまをみかぐらうた諸本の記録からし思案しても、信仰にお引き寄
せ頂いて、直ちにおうたを覚え、おうたを記すことを進められたというよりは、
直ちにつとめの手振り理振りをお仕込み頂き、その備忘録とも言うべき記録を各
人各自がしたためたと申せます。古い写本、特に明治十年以前のみかぐらうた諸
本―それは現在までに発見されているもののすべてでありますが―を通覧いた
しますとき、けっして、一つの原本を写させて頂いたものであるとは考えられま
せん。古い写本の特色の一つである漢字の使用は申すまでもなく、大和方言もま
ちまちであるものが見られるばかりでなく、おことば自体にも相違するものが見
られるばかりでなく、おことば自体にも相違するものがあるからです。教祖自ら
お教え頂いた方々が、記録されたものから言えば、必ずしも一つのものを間違い
なく一つに身につけていたとはおもえないのであります。
この文章を裏から読み込めば、教祖の「みかぐらうた」はかぎりなく口授であった
ということを傍証しているようにも思われる。文章は「みかぐらうた」は教祖による
口授であったと前提として読むほうが、無理なく史実が明確に浮かんでくるように感
じられるのである。その故か , 永尾が述べる「みかぐらうた」の教祖直筆の原本存在
─ 89 ─
を前提としたあとに続く上記の説明文は、きわめて歯切れが悪いものとなっている。
筆者が目にした文献の中では、桝井孝四郎本部員のみが『みかぐらうたの始まり (
十二下りご製作 )』において、十二下りは「口で教祖がお伝え下されまして、それも
一度二度ではもちろんなく、なんべんもなんべんも仰せ下されましたものを、先輩の
先生方が耳で聞かしていただかれて、それを心におぼえられたもののようにうかがわ
れます」と述べ、さらに「その書いておられる文字が思い思いになっておりますとこ
ろから思案さしていただきますと、口伝を書かれたように推察されます。これに反し
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て、おふでさきの写本なんかを見せていただきますと、その字体までが同じように原
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本に合わして書いておられる点と考え合わします時、みかぐらうたは原本を見て写し
ておられるように思われません。わが心に覚えている歌を書いておられるように思い
ます」と述べ、
「みかぐらうた」には原本はなかったと思わせる表現になっている(『み
かぐらうた語り艸』1980)。筆者の信仰的信念によれば、教祖の命がかかる「つとめ」
の完成に必須である「みかぐらうた」の原典としての重要性に鑑みて、見抜き見通し
である予言者教祖が官憲の弾圧にまぎれて、大切な「みかぐらうた」の「原本」を失
うようなことは、そばな者には決して許されなかったと信じている。
また、慶応元年の陰暦 8 月19日、教祖が大豆越村の山中忠七宅にお入込頂いた百
周年目を記念して出版された『山中忠七伝』(1965)によれば、慶応2年の春、お屋
敷に忠七の息子である彦七が参詣していた時と、同年の秋 10 月 5 日におぢばに暴れ
込んだ小泉不動院の山伏が、その足で大豆越村に乗り込んで来て乱暴狼藉に及んだ二
つの事件について述べられている。しかし、そういったなか翌年の慶応三年に教祖が
「みかぐらうた」を教えられ、それを彦七が写筆したことについて『山中忠七伝』に
おいては触れられていないのが不思議である。
忠七の子息である彦七によって筆記されたといわれる『天輪王踊歌写帳』は「みか
ぐらうた」写本では最も古い文献として知られている。その内容は第5節である。永
尾はこの写帳の表題、本文ならびに各下り目終りの神名は一貫して「天輪王」「天輪
王命」であるが、「問題を残しているのは、八、九、十、十一下り目に、神名が記さ
れていないことであります」と指摘している。このことは彦七がその年、教祖から完
成した直筆の「みかぐらうた」の原本を見せていただいて、それを写筆したとは考え
られないことを示しているのではないか。筆者の見解は、教祖が原本をお書きになり、
それを彦七に写筆せよと仰せられたのであれば、神名を八、九、十、十一下り目に限
って省略されるはずはないと信ずるからである。もちろん彦七が原本の一部を写し忘
れるということは考えられない。写帳は教祖が口授されたお歌の彦七の覚書であった
と想像される。
─ 90 ─
井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
深谷忠政は、桝井孝四郎著著『みかぐらうた語り草』(1955)出版の翌年、『みかぐ
らうた講義』(1956)を著している。両者の「みかぐらうた」に原本あったかどうか
についての解釈には微妙に異なる点が見られる。深谷は「みかぐらうた」の製作年代
について、「慶応三年正月中に三下りまで、残りを八月までかかられて、十二下りの
お歌(第五節)をお作りになり、その後満三年かかって、そのお手振りを、悉く教え
られた」と解説している。
ところで、二代真柱が第 10 回国際宗教学宗教史学会において、「みかぐらうた」を
「おふでさき」と同じく「お筆で以て」、また「お言葉を以て示されたもの」としてそ
の発表を結んでいるのは 1960 年のことであった。この「お言葉を以て示された」と
いう表現は、必ずしも教祖の直筆で書かれた原本があるという明確な表現ではないよ
うに感じられる。言葉には音声言語も含まれるからである、その故か、「おふでさき」
の「原本」の存在を明確にするために、永尾はこの項の英文を「その原文を左記して
『お筆』の意味を明確にします」と断ったうえ意図的に引用し、「原本」の存在を真柱
の発言をもとに確定している。参考のために示すとその英訳は「The former two works
were revealed with the Foundress’ own pen,and the other two were oral revelations;」となっ
ている。「the other two」とは言うまでもなく口授としての「こふき」と「おさしづ」
を指している。
二代真柱は『こふきの研究』において、「“こふき”は口で述べられたお話を、“記”
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された書き物を意味し、おふでさきに対しての“こふき”、即ち、教祖の親しく筆を
執られた書物に対して、教祖が口で述べられ、取次ぎを仕込む上から、筆執り学人と
して、一は取次に筆を執らしめ、一は取次の話の台本をされたものと考えられる」と
し、「強いて字を当てれば、“口記”の方が寧ろ、本来の意味を写す文字ではないかと
考える」と述べている。そして最後に「又、ご意見ある方はお申し出ください。談じ
会いたく存じます」という言葉で『こふきの研究』は結ばれているのである。
筆者の趣旨はこの二代真柱の思いに動機づけられて、私的見解を自由に展開したも
のである。筆者の立場は、「みかぐらうた」は「口記」であり、「原本」は紛失された
のではなく、最初から存在しなかったというところにある。その傍証が本論考の主た
る目的であるが、読者の反論を期待するものであることには変わりはない。「こふき」
と「みかぐらうた」の「口記」としての基本的相違は、前者は特定の取次人に口授さ
れたものであり、後者は万人に口授されたものとして、特に第五節は、いつ、どこでも、
だれにでも、歌い、踊れ、祈れる世界宗教舞踊としての独自性と自由性を有し、自己
の心の成人と「陽気ぐらし」世界実現に向けて教示されたという点にある。
─ 91 ─
上記のような次第で、筆者は「みかぐらうた」は教祖が、歌詞を皆の者に口授され
たのであって、最初からこのように歌うべきものとして、そのテキストを自ら筆を執
ってお書きになり、皆にそれを見せて歌われたのではないと考えている。なるほど、
映画製作に譬えれば、教祖は「みかぐらうた」のシナリオライターであり、作曲家で
あり、俳優の演出家なのであった。しかし、そのシナリオはあくまでも役者にたいす
る口授をもって伝授されたと思われる。総数百二十首からなる十二下りの短い数え唄
のセリフと旋律を教え、稽古するのに、慶応3年の正月から8月までかけられたとい
うことは、信じることができない。振り付けの完成に3年の年月がかかったと言われ
るのは、舞踊としての手振りの型を定着される稽古であるから、当然のことであった
と考えられる。逆にいえば、複数の側近に踊りの「型」の稽古をつける途上において、
実際にやらせてみて、その振り付けや節付けに、いくらかの改良がなされたことも推
測される。このことは「つとめ」の地歌の完成に慶応二年から十数年をかけられたと
いう史実にも対応している。
とくに「みかぐらうた」の音声に関しては、その言語表記されていない分節が、言
葉と動作に勢いをもたらす「つなぎ」の重要な役割を果たしていることに気付かされ
る。その例は、一下り目の「一つ、正月こえのさづけ」の「こえ」という言葉の直前
に発せらる「うー」という強調音に始まっている。「おびやつとめ」や「はえでつと
め」では、最後において「天理王命」の神名が三度つづけて唱和されるが、二度目と
三度目の間に挟まれた「おお」という短調的な印象を醸し出す「つなぎ」の「突き上
げ」と言われる発声は、台本には表記されてはいない。しかし、この間節音なしには、
深夜の薄暗いぢば甘露台を囲んで真座において執り行われる「おびやつとめ」の神秘
性は失われるといってよいほど、言葉にならない「突き上げ」の音律は、強烈に参列
者の魂に響いてくる。同じような「突き上げ」による間節音の響きは、トルコのカッ
パドキアの郊外にある 13 世紀に建立されたサルハンのアヒ・ユスク回教寺院で、ス
フィーの深夜における旋回舞踊の音声においても経験したことがある。神秘的な人間
の発する「声」は、言語化されない視覚をこえた彼方から、求道者の魂を揺り動かす
ようである。
第二に、十二下りのお歌ができた時に教祖が「これが、つとめの歌やと」仰せられ
たのは、前もって筆記された書き物をそばの者にお見せになって歌われたのではない。
まず初めにあたって、一下り目の第一歌「一つ、正月こえのさずけはやれめづらしい」
と教祖が口授された風景が想像される。その節付けを側近の者にしてみよと求められ
たと考えられる。つとめの第一節の手振りと主旋律は、その前年の慶応2年に完成し
ているから、十二下りの手踊りとその調べは全くそばの者にとっては異質なものでは
なく、習い覚えたつとめの第一節の手振りと同じ音律の延長線上において受け止めら
─ 92 ─
井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
れたと推測される。 以上が「みかぐらうた」は「よし」とされた「こふき」(口記)
として、三原典の中でもっとも重要なものであるという筆者の論拠である。
さらに逸話篇 18 は、踊り、つまり振り付けについて、次のように「踊り」(おてふ
り)の「地唄」としての原典である「みかぐらうた」の「理」に関する史実を伝えて
いる。この光景からは伝統芸能の創作者が弟子に初めての作品を口授する姿が浮上し
てくる。作品の始だしにおいてはマニュアルやテキストは師匠から示されず、師匠が
師匠みずからの口を通して直接に口授したのであった。そのことにより師匠の肉体言
語としての「声」が、弟子の体内に身体言語として引き継がれ、のちほどそれが弟子
たちによって写筆され、写本として伝承されることとなる。
次の逸話篇 18「理の歌」の挿話からは、その始まりだしの光景が浮かんでくる。
「この歌は、理の歌やから、理に合して踊るのや。どういうふうに踊ったらよ
いか、皆めいめいに、よいと思うように踊ってみよ。」
と、仰せられた。そこで、皆の者が、それぞれに工夫して踊ったところ、教祖は、
それをごらんになっていたが、
「皆、踊ってくれたが、誰も理に合うように踊った者はない。こういうふうに
踊るのや。ただ踊るのではない。理を振るのや。」
と、仰せられ、みずから立って手振りをして、皆の者に見せてお教え下された。
こうして、節も手振りも、一応皆の者にやらせてみた上、御みずから手本を示
して、お教え下されたのである。
これは、松尾市兵衞の妻ハルが、語り伝えた話である。
10)「身体知」としての「みかぐらうた」
「みずから手本を示す」とは、「動き」と「形」とが混然一体となって見分けがつか
ない教えられる側の「ておどり」に対して、師匠がこうあるべきというモデルを自ら
の「動き」で示すことである。同じ舞踊でも師匠によって舞われる独自の「形」があ
るはずである。人間はロボットではないがゆえに、体格も性別も、年齢も、精神的成
熟度も同じではない。教祖が師匠としてある場合は、「理を振る」とは教祖の動きの
真似をそのままするわけである。存命の教祖は人類の親として体格、性別、時代をこ
えた存在である。その実証として 50 年の「ひながたの道」がある。忘れるから筆先
に記しておいたという「おふでさき」と異なり、手振りを伴う「みかぐらうた」は、
言語を読み砕いて解釈し教理を視覚から学ぶということが出来ない身体動作を伴う踊
りである。「おふでさき」は読まなくてもそこに存在するが、「ておどり」は誰かが実
際に踊らなければ存在しない。1,711 首の「おふでさき」は、いつどこでもだれでもが、
─ 93 ─
読めるわけではない。しかし、「ておどり」は文字が読めなくても、いつどこでもだ
れでもが踊れるのである。その身体の動きをとおして、師匠である教祖の踊りを追体
験しようとすることは、ひながたの道を追体験しようということにほかならない。し
たがって、「みかぐらうた」における「つとめ」と、十二下りの「ておどり」は、教
祖の動きをそのまま反復する舞であるから、ひながたの道そのものの根源であるとい
えよう。
ここでさらに注目すべき点は、教祖はこの歌には踊りがつくので「よいと思うよう
に踊ってみよ」と言われ、頭ごなしに「このように踊れ」とは教えられなかった点で
ある。しかし、それぞれが踊ってみたが、だれも「理」に合うように踊ったものはい
なかったと言われ、教祖みずからが踊られることによって、「おてふり」の「形」が
誕生した。その教祖の「形」である動きをわれわれはなぞっているという意味で「て
をどり」は「ひながたの道」を歩むもっとも具体的なだれでもができる「踊る原典」
「踊
られる原典」であるといえる。したがって、「ておどり」は教祖が自ら踊られた姿を
再現しようとする営みである。つまり、もっとも近くに存命の教祖がおられるという
感覚を身体知として体験できる学びである。その故に地歌である「みかぐらうた」を
通して、つまり「みかぐらうた」の言語表記を主体として、何らかの悟りを得ようと
するのは「みかぐらうた」への副次的アプローチといわねばならない。地唄の言葉は
教科書ではないのであった。
もっといえば、音声を伴う「ておどり」の完成後は、完成前と違って、それは踊り
が教語という言語に逆変化したものといったほうが正しい。したがって、踊ることに
よって私たちが変わらなければ、踊る意味はないわけである。私は「理をふる」とは
自らが「ておどり」を通して成人することであると考えている。逆に心の勇みと成人
がもたらされない「ておどり」は、いくら外見は正しく美しく踊れたとしても「理を
ふる」ということにはなっていないという意味である。
「みかぐらうた」が「ておどり」の「地唄」であるということは、それが「踊り」
を生み出す原動力であり、直接「動き」を生み出す契機になっている。「地唄」は、
信仰の目的を実現するための単なる写筆言語でなく、生きた「声」であり、この「声」
が求道者を存命の教祖へと近づける。動き、つまりひながたの実践の道筋だとおっし
ゃっているのだと思われる。「おふでさき」では「みかぐらうた」の「理をふる」に
対して「歌の理」で「せめる」と啓示されている。「せめる」とは、攻めるであり、
責めるの意味であろう。つまり、後者は身体実践知に重きが置かれ、前者は頭脳言語
知に重点が置かれた原典であるといえるだろう。このように両原典においては、信仰
に必須である感性と知性、身体知と理論知の統合が要請されている。「おてふり」の
動作をそのまま辿ることは、最も具体的に教祖の「ひなたがた」を辿ることに外なら
─ 94 ─
井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
ないということになるわけだ。
「月日の社」である「やしろ」とは教祖の「からだ」であり、「やしき」はその存命
の教祖の「からだ」の住処であるとすれば、月日の社の「からだ」は神の「からだ」
である。同様に人間の「からだ」も神からの「かしもの・かりもの」であるから、神
の「からだ」である。人体と世界とのあいだには、十全の守護の働きに言及するまで
もなく、ゆるやかな写像関係が介在している。そのことを「世界はわがからだ」とい
う命題をかかげて、樺山紘一は歴史の中に「からだ」のさまざまな写像を掘り起こした。
まさに「みかぐらうた」の動作や旋律は、存命の教祖の「からだ」、つまり月日の「か
らだ」のリズムとハーモニーを奏でているということにもなるわけだ。
11)「みかぐらうた」を味わう
ところで「味わう」という感覚、つまり味覚とは、視覚や聴覚、嗅覚などとは別の
感覚である。味覚の言葉は基本的に「甘い」
「苦い」「 辛い 」「渋い」「 酸っぱい 」「塩
辛い」「うまい」など数語しかなく、視覚にかかわる色や形の言語表現がほとんど無
数にあるのと極めて対照的である。同じ感覚でも視覚は理知的であり、味覚や嗅覚は
生命的・原初的な感覚であると仕分けされる。聴覚はその中間と見られるが、音声言
語や音楽を受け入れる感覚として、視覚と比べてより宗教的で根源的・霊的な感覚で
ある。記述言語の意味解釈とか音楽を伴う身体動作の関わりを研究するのは、視覚や
聴覚に依存している。歌は必ずしも言語から成り立っているわけではない。歌の原初
的な形は、言葉や文字の誕生以前に発生したもので、人類のコミュニケーションにお
いては、言語や文字よりも根源的にエコ・スピリチュアルなものである。その典型的
な例はべつの機会に譲るが、一例を挙げれば、信仰者は「南無天理王命」というキー
ワードである神名が、原典「みかぐらうた」において何故記述言語として表記されて
ないかという点にまず疑問を抱かなければならない。「みかぐらうた」を「歌う」と
いう身体的な行為は、神意を記述言語で記すという無機的なスタイルではなく、和歌
体的なリズムをもって数え唄形式で表現されている。とりわけその各下りの最後に、
神名を合掌して繰り返し唱えるという祈りの行為は、それに先立つ記述言語を身振り
で表現するという舞踊的な行為とは、根源的に異なっているというところに気づかね
ばならない。
筆者は「みかぐらうた本」の研究者である故永尾廣海本部員に直接尋ねたことがあ
る。ちょうど「みかぐらうた」の英訳と解説を終り、教祖 70 年祭に『稿本天理教教
祖伝』が公刊され、しばらくしたころで、私はその英訳を命ぜられ、与えられた日本
語の翻訳の章のなかには「みかぐらうた」の全文が引用されていた。加えて教祖伝に
─ 95 ─
頻出する「おふでさき」の引用文は、1,711 首の訳語統一を要請されるものであった
から、『稿本天理教教祖伝』の英訳が「おふでさき」英訳の直接の動機付けとなった。
つまり、「おふでさき」全首の翻訳なくして、「教祖伝」の翻訳は不可能であると気づ
かされたわけである。
そこで「みかぐらうた」について言えば、各下りの最後に唱える神名が記述化され
ていなかったことが気になって仕方が無かった。そこでその理由を永尾先生にお聞き
したところ、「わしは神名を書いて真柱様にみかぐらうたを提出したのだが、神名だ
けははずされていた」というご返答であったので、「それはなぜですか」と問うと、
先生は「わからん」といわれた。その問答を歩きながら交わした場所と、その数分間
に交わした緊張した雰囲気は、いまでもはっきりと思い出すことができ、記憶から消
え去ることがない。
教祖が書かれた「みかぐらうた」の原文は、発見されてないといわれる。しかし、
筆者の推測では、教祖は「おふでさき」を自動筆記されたように「みかぐらうた」を
筆記されたとは考えていない。そうであれば「みかぐらうた」の原文をさがしても見
つからないのは当然のことであろう。最初から「みかぐらうた」は、教祖によって自
ら書かれた原典ではなくて、歌というかたちをとり口授された独自の調べをともなう
もう一つの「こふき」(口記)であるというのが筆者の主張であった。永尾広海本部
員は「みかぐらうた本研究の諸問題について」の中で二代真柱の言葉をもとに、「お
そらく、圧迫干渉弾圧下で厳しい調べもあったことではあり、おふでさきは焼いたと
言うことにして生命をかけて守り通した歴史に鑑みても、没収されたか、どこかにま
ぎれて不明になっているとしか思えない」と推測を述べている。そしてほぼすべての
天理教学における「みかぐらうた」釈義本は、この原本存在・紛失・紛れを前提とし
て、写本研究を行っている。直筆原本があったとする前提に賛同することは、「みか
ぐらうた」を教祖が自ら舞われ歌われた身体運動の万人救済的意義を軽減するもので
あるが故に、筆者には到底論理的に納得不可能なことである。教祖自身によって示さ
れ、舞われた身体舞踊を「ひながたの道」の根源的な「かたち」として学ぶことが出
来る「みかぐらうた」は、活字ではなく口授で始まったが故にその声の独自性を通し
て世界の宗教界に偉才を放っているのである。これまでに述べた理由に加えて、この
意味でも「おふでさき」と「みかぐらうた」を筆記言語による原典として同列に扱う
ことには賛同しかねるのである。
教祖は明治 2 年「七十二才の正月に、初めて筆執りました。」(逸話篇 22)と「お
ふでさき」執筆にふれて述べられている。慶応2年に始め出された「みかぐらうた」
が教祖の口授であり「口記」であるということの傍証は、逸話篇 18,19、22 番に加
─ 96 ─
井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
えて、38,54,113,109、192 番にも伺われ、「おふでさき」の1号、4号、6号、12
号などの関連する各首の読み込みにおいて、あるいは「おさしづ」においても推論さ
れるが、本稿では割愛することとし、別の機会にゆずりたい。
「みかぐらうた」が教祖の口授で始まっていることは、次のような視点からも納得
できるであろう。たとえば公刊本の「てんりわうのみこと」という神名は、声で唱え
られていたから、その音声を記憶するために筆記する人間の聴覚と視覚の連携によっ
て、さまざまな神名につながる漢字への転写のよる表記がなされていたと考えられる
からである。「みかぐらうた」の写本のうちで、最も古いとされる山中彦七による「天
輪王踊歌写帳」の成立は慶応 3 年とされる。ところが他の写本の神名の表記は、天輪
王で統一されたものにはなっていない。「天龍王」もあれば、
「てん里んおふ」もある。
聞き手によって表記された言葉が異なるのは、教祖が自筆されたテキストを筆写した
ものではないということの傍証でもある。「みかぐらうた」が教祖の口授としての「こ
ふき」(口記)たるゆえんであろう。
慶応 3 年の「天輪王踊歌写帳」は、教祖による発声音を、山中が独自に漢字転写を
したものと考えられる。なぜなら、教祖は複数の弟子たちを前にして「みかぐらうた」
を口授し、歌い、教えられたからである。教祖の自筆をそばの者が筆写したとすれば、
少なくとも神名の表記は「おふでさき」の外冊が原本にかぎりなく忠実に統一筆写さ
れていたのと同じであったはずである。つまり、神名の表記は教祖の神名の発声を、
それぞれが異なった当て字で表記したに過ぎないと思われるからである。大和では「二
月堂」などを「にんがつどう」と「ん」を挟んで発音する習慣があった。そこで教祖
が「天理王」と発声されても、聞き手には「てんりんおう」と聞こえ、その音声は「天
輪王」「天龍王」「てん里んおふ」などと転写されたが、信者たちは同じ音声としてそ
れぞれが唱和したであろう。神名の音声は同じで、記号が同一表記でないが故にも、
「み
かぐらうた」は「こふき」(口記)であるという推測も成り立つのである。
従来の「こふき」と決定的に異なる点は、「みかぐらうた」が教祖によって「よし」
とされたと推測される点である。慶応3年の正月から八月までに、十二下りの歌を作
られたと言われているが、ここでの「作られた」とは「おふでさき」のように筆記さ
れたという意味ではなく、数え唄のように教祖は「語り」として、ひとりで慶応 2 年
の段階から何度も口ずさんでおられて、その出来上がりまでに、その「歌」と「形」
を自らそれぞれの弟子の振る舞いを観察され極められるのに慶応 3 年正月から七カ月
を要されたということではないかと考えられる。
「ておどり」は一種の形をともなった独自の宗教舞踊である。舞踊である限り、創
─ 97 ─
作した師匠がいる。師匠は自分が歌い踊って見せて、弟子にその型を習得させる稽古
をほどこす。一下り5分前後の短い踊りを十二下りとはいえ、3年間もかけられたと
いうことは、歌詞や動作を図面や楽譜に書いてそれらをテキストとして使い教えられ
たのではない。第四節のよろづよ八首は、歌われる以前の明治 2 年にすでにほとんど
同じ言葉で「おふでさき」の冒頭に書かれていた。高弟たちは明治 3 年には「おふで
さき」の筆写をとおして、その八首は知っていたはずである。教祖が十二下りの書き
物を見せて弟子たちに歌ってみよと言われたのではない。まずお歌を一首一首口授さ
れ、最初に史実が示すように田舎浄瑠璃を歌い声が良かったと伝えられる村田幸右衞
門に歌ってみよと仰せられたという推測が成り立つ。幸右衞門が歌ったあと、教祖は
そのように歌うのではない、このように歌うのやと仰せられて、自ら歌われたという。
そのときに第四節の第一首は最後の「から」という二文字が和歌体から外された。こ
の史実は、
「みかぐらうた」の節付けを考える上で見逃すことが出来ない点である。「み
かぐらうた」の主旋律は、慶応 2 年に口授されて第一節をベースとして、この瞬間に
決定している。一下り目と二下り目は、数え唄としてはきわめてシンプルである。教
祖の口から一首づつ発声言語として迸り出たのを、弟子たちが模倣反復して学ぶこと
は容易であったろう。ひと月に一下りの歌詩を反復して耳から記憶することは、書き
ものを見て覚えるよりもやさしい。数え唄ならなおさら身につきやすい。三年もかか
って教えられたというのは、「みかぐらうた」の言葉よりも、音声をともなった「て
おどり」の「型」であり、鳴り物の稽古であった。数え唄形式で踊られる「ておどり」
の音声のなかには、筆記言語にない突き上げといわれる音声などが、数多く発声され
ることは自明である。
「型」は身体の「動」きであり、鳴り物は「音」の「動」きであるから、言語では
表現できない。「ておどり」の歌詞は音声があって意味をなす。したがって、歌詞を
伴う舞踊は、師匠の発声を真似るほかに道はない。つまり、聴覚が言葉を受け止める
のであるから、学ぶにあたっては視覚に依存する記述は不要となる。というより、視
覚に頼る活字は真の踊り手にとっては邪魔になるのである。学ぶ者の視覚は、言語と
しての歌詞にではなく、つねに師匠の動きである「型」に向けられていなければなら
ない。したがって、師匠としての教祖は、「みかぐらうた」を吟じながら、その言葉
に対応する動きを歌詞と共時的に示されたと思われる。
したがって、
「みかぐらうた」の言葉を記述したのは、教祖ではなくて、
「ておどり」
を学んだ弟子たちであった。これが「みかぐらうた」は、数え唄としての「ておどり」
と同時に教えられた歌詞であるが故に、その師匠である教祖によって「忘れるから筆
先に記しおいた」と言われる「おふでさき」と基本的に異なる「こふき」(口記)と
しての位置を占めていると考えられる理由である。「ておどり」は、教祖の動きのか
─ 98 ─
井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
たちを反復するという意味において、ひながたの道の目標となる「陽気ぐらし」に向
かっているといえよう。その限りにおいて、「ておどり」は口授された「こふき」本
に対して、動く「口記」とも位置づけられる天理教における第一の原典であろう。「お
ふでさき」は神を第一人称において啓示された原典であり、その総合的解釈には深い
信仰的知性が求められるが、「みかぐらうた」は感性に重点を置く、神人対話形式の
身体の動きと音声を伴うもっとも宗教的で、いつ、どこにおいても、誰もが親しみの
もてる実動的原典である。
『稿本天理教教祖伝』においては、「みかぐらうた」の各下りは「親神の望まれる陽
気ぐらしの喜びに充ちて居る」と述べられている。それに反して「おふでさき」は主語、
主格が神であり、その内容は「みかぐらうた」と比較して、人間に対する理の厳しさ
においてきわめて対照的である。「おふでさき」には、全編をとおして「みかぐらう
た」には見られない神の残念立腹が際立っている。数人の欧米の神学者に「おふでさ
き」の私訳を読んでもらい、読後感を聞いたところ、ほとんどの学者は「おふでさき」
に啓示されている神の恐ろしさを指摘していた。一神教の文明的背景がそのような印
象を必ずしも与えたという分けではないようである。筆者は「おふでさき」は親神の
人間に対する救済愛に根ざしているがゆえに、救済の「つとめ」の芯となる甘露台の
没収に象徴的に収斂して行く「残念の書」であるとも考えている。「 残念 」 という言
葉は「おふでさき」を通して実に 94 回も出てくるが、甘露台没収後に書かれた 17 号
においては、5首に1首の割合で神の「残念」がクライマックスに達している。
教祖は「みかぐらうた」の調べにつづいて、その節付けと振付けに、満三カ年かか
られた。「これは、理の歌や、理に合わせて踊るのやで、たゞ踊るのではない、理を
振るのや。」と仰せられ、又、「このつとめで命の切換するのや。」とその理を諭され
たことは前にも述べた。教祖のなかでは、節付けは作詞と同時に完成していて、その
語りの節付けに、振り付けのイメージを身体表現させることを弟子たちに教えられる
のに、満三カ年を要されたと解釈するのが妥当であろう。つまり、「みかぐらうた」
が「こふき」話とちがい「よし」とされたのは、教祖自らが歌われ、手ぶりも,鳴り
物も、何度も複数の高弟を前にして厳しく三年間にわたって仕込まれ、稽古をつけら
れたからである。理をふるのや、手がふにゃふにゃしていては、命にかかわるという
ような厳しい指導は、そのゆえになされたのであろう。冒頭に引用した世阿弥の命を
かけた真剣な能学の「稽古哲学」がここにいたって想起されるゆえんである。
「こふき」は「みかぐらうた」のように「教えられ、仕込まれた」のではなく、一
時的に個人に「語られた」のであるから、筆写する人によって聞き洩らしがあったが
─ 99 ─
故に、不完全、未完成とされた。したがって、天理教学は、原典「みかぐらうた」研
究においては、その叙述的解釈に先んじて、地唄の基本となる「音」とか「声」とは、
宗教にとってなにを意味するのかという、根源的な研究からスタートすべきであった
のである。それを怠ってきたが故に、天理教学はおおむね信仰の芸術表現において無
関心であり、他の宗教教教団と比較してとくに近年は一時と異なり、その領域におい
て明らかに遅れをとっていると思われる。一例をあげれば、「元の理」の芸術表現に
頑張っているようぼく彫刻家の作品展示会を天理大学校内において開催し、その数点
をキャンパスに保存することを主張したが、唯一つ残った作品が創設者記念館「若江
の家」に隣接した場所に展示されているに過ぎない。研究棟には同じ作家の十全の守
護を象徴する「かれい」の鋳金作品が一時展示されていたが、その作品には何の説明
もなく、知らぬ間に研究棟の一階正面から二階の空間に移動されていた。「元の理」
に直結する巨大な鋳造美術作品の説明は一切施されてなく、作者名もタイトルも製作
年度の表記もない。ただその場所にモノとして置かれているという状態である。「か
れい」は「元の理」において風と息吹きわけ、つまり言葉や文字の守護を表し、天体
では「蓑宿」を象徴している。この星座は知恵を象徴するものであるが、新幹線京都
駅の広告表示看板に何故か京都産業大学の校紋あるいはシンボルとして使用されてい
た風景を思い出す。天理大学は建学の精神を海外伝道者養成においている。海外伝道
には外国語習得が必須とされる。その故に外国語に重きを置く大学として発足した。
語学を支える文字の仕込みの象徴が「かれい」であることは、天理教学の基本であろ
う。その自宗教芸術活動への無関心ぶりには驚かされる。古から宗教が芸術の源泉的
役割を担ってきたことは自明の理であるが、宗教私学として出発した天理大学の天理
芸術作品に対する教育的関心の無さは、理想からほど遠い現状を示している一つの象
徴である。
また一方、筆者の主張を傍証するものとしては次のような事実もあげられる。「み
かぐらうた」には身体動作である「おてふり」の形式や鳴り物と言われる歌曲の伴奏
としての楽器演奏に力点がおかれ、その学びと言われる稽古にはそれなりに熱心であ
るが、歌手に対応する「地方」(地歌を唄う楽人)の修業に対しては、ほとんど重点
が置かれていない傾向にもみられる。この点においては、イスラームのコーラン朗誦
やキリスト教の聖歌、仏僧の読経の「声」のもつ感化「力」にたいする重点と比較して、
天理教では明らかに救済手段としての宗教の「声」という根源的な存在に対する認識
が欠けていると考えられる。この事実は「みかぐらうた」の解釈を、理知的な言語解
釈、しかも遂条的・言語転写的レベルから捉える伝統教学の傾向と同じ線上にあると
思われる。「つとめ」に参加する信仰者にとって、
「みかぐらうた」の地方のあり方が、
歌い手によってピッチがきわだって異なったり、テンポが一定してないという現実は、
─ 100 ─
井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
「つとめ」に参加する信者の精神的集中力を妨げることはほぼ確実である。声調や音
声の熟練上達は、それが宗教の霊力とは切り離すことができない重要な要素であるか
ら、手振りの形や鳴り物の調律と同様、否それ以上に力点が置かれるべきであると考
えられる。
おわりに
宇宙における絶対神と人間のコミュニケーションの可能性は、「音」や「声」の質、
ピッチ、旋律などを基本に思索を展開することが前提となる。自然の発する風の音、
波の音、鳥の声、虫の声、動物の鳴声など、これらの音や声はエコ・スピリチュアル
な意味をもっている。また視覚や聴覚を失ったヘレンケラーは音楽会にもしばしば通
ったといわれるが、彼女は演奏会場の前列の椅子の脊中に両手をあてて、両足の裏面
と両手に伝わる振動を感触して音楽を鑑賞したという。私たちがこの事実から学ぶこ
とにはきわめて奥深いものがある。聴視覚障害者と音楽については、拙著『天理教の
世界化と地域化』においてくわしく述べたことがあるので、ここでは繰り返さない。
人間の「声」、つまり音声は、器楽の演奏では表現できない質感をもっている。した
がって古来宗教においては、人間の発する音声に重点がまず置かれていたのであった。
かつてニーチェは「身体は大きい理性である」と言った。それは精神や理性ではな
い身体知というものがあるという意味でもある。一方、ヘーゲルは「理性が精神へ」
とつながっていくという。両哲学者の思想にしたがえば、「みかぐらうた」は身体知
から基本教理へ、
「おふでさき」は理性知から宗教精神へという道筋を示し、教祖「ひ
ながたの道」が身体と理性、教理と精神を主軸としたこの二つの原典を架橋する。こ
のような次第で「みかぐらうた」と「おふでさき」の意義は、既成天理教学の位置づ
けとはほぼ逆転する様相を垣間見せることとなる。「元の理」における「知恵の仕込み」
と「文字の仕込み」を受けた人類究極の歩むべき「道」は、このような思索を通して
その地平の現れが期待される。
まだまだ主題については述べたい領域があるが、与えられた紙面をはるかに超えて
しまったので、「みかぐらうた」の教祖の手による「原本」は最初からなかったとい
う仮説を提示し、天理教学における芸術分野におけるさらなる研鑚と展開を期待する
とともに、あわせて「みかぐらうた」という天理教の原典は、宗教的人類救済におけ
る芸術的表現としても重要な側面をもっているという点を見逃してはならないという
ことを強調して筆をおきたい。このような一扇の「扉」が開かれた視座から見わたせ
ば、グローバルに「変革」を求める激動する現代世界の球体「鏡面」には、あらたな
普遍の世界に突き抜ける「グローカル」な天理実践教学、天理総合人間学、天理躍動
生命学の光に包まれた未来への可能性が投射されていることを祈りたい。直接参考文
─ 101 ─
献の引用や批判は必ずしも行わなかったが、入手可能な関連貴重文献と思われる数点
を後学のために備忘録として参考文献に追記しておいた。
参考文献:
石井恭二『現代文 正法眼蔵 2』、河出書房新社、1999 年。
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井上昭夫「三代真柱と天理教音楽の展開」、『天理教の世界化と地域化』、日本地域社会研究所、2007 年。
井上昭夫「生命記憶と『元の理』」、『中山みき「元の理」を読み解く』、日本地域社会研究所、2007 年。
井上昭夫「天理ユートエコトピアの思想的論拠」、『ユートエコトピア』、日本地域社会研究所、2009 年。
イマニュエル・ウォーラスティン『ユートピクテックス―21世紀の歴史的選択―』、松岡利道訳、藤原書
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ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』、岡澤静也訳、青土社、昭和 56 年。
金子正「みかぐらうたの力—その構成面からの考察—」、『天理教校論叢』第四号、天理教校本科研究室編、
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樺山紘一『歴史のなかのからだ』、筑摩書房、1987 年。
鎌田東二編著『思想の身体・霊の巻』、春秋社、2007 年。
小林正佳「つとめの舞踊論」、『あらきとうりよう』、天理教青年会、1980 年。
小林正佳『踊りと身体の回路』、青弓社、1991 年。
小林正佳「舞踊を『語る』眼差し」、『現代宗教学1~宗教体験への接近』、東京大学出版会、脇本平也・柳
川啓一編、1992 年。
斉藤孝『身体感覚を取り戻す』、NHKブックス、2001 年。
白洲正子『世阿弥』、講談社文芸文庫、1996 年。
天理教教会本部『稿本天理教教祖伝逸話篇』、天理教道友社、昭和 61 年。
永尾広海「みかぐらうた本研究の諸問題について(上)」、『天理教校論叢』第 16 号、1980 年。
中山正善「天理教教義における言語的展開の諸形態」、『みちのとも』70 巻 11 号、昭和 35 年。
中山正善『こふきの研究』、天理教道友社、1957 年。
西山輝夫『みかぐらうたの世界』、天理やまと文化会議、1989 年。
西平直『世阿弥の稽古哲学』、東京大学出版会、2009 年。
野口三千三『野口体操 からだに貞く』、柏樹社、1977 年。
バラック・オバマ『オバマ大統領就任演説』、朝日出版社、2009 年。
Penguin Books, Barack Obama The Inaugural Address 2009,Together with Abraham Lincoln’s Addresses and Ralph
Waldo Emersons’s Self-Reliance, NY, USA, 2009.
兵頭裕己編著『思想の身体・声の巻』、春秋社、2007 年。
深谷忠政『みかぐらうた講義』、天理教道友社、1956 年。
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桝井孝四郎「みかぐらうたの始まり(十二下りご製作)」、
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─ 102 ─
井上昭夫 「みかぐらうた」釈義批判
三隅治雄『踊りの宇宙』、吉川弘文館、2002 年。
森本和夫『反西洋と非西洋』、春秋社、1981 年。
山中忠正・山中忠昭編『山中忠七傳』、天理教大和眞分教会、1965 年。
ルドルフ・シュタイナー『色と形と音の瞑想』、西川隆範訳、風涛社、2001 年。
鷲田清一『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』、阪急コミュニケーションズ、2008 年。
─ 103 ─
A Critique of the Mikagura-uta Interpretation
—On the Physical Aspect of Savoring—
INOUE Akio
Nietzsche once said, "The body is a great reason." Among other things, it means that there
is physical wisdom which is different than spirit or reason. Hegel, on the other hand, spoke
of transition from "reason to spirit." In light of both philosophers' ideas, the Mikagura-uta
shows the path from physical wisdom to the fundamental teachings and the Ofudesaki that
from reason to religious spirit, whereas the path of Oyasama's Divine Model bridges the two
Scriptures, one focused on body and reason and the other on the teachings and spirit. This
observation puts the significance of the Mikagura-uta and the Ofudesaki almost in opposition
to their definition by the existing study of the Tenrikyo teachings. This paper will criticize the
way the transcription of the Mikagura-uta is used for its interpretation. It will also attempt
to argue from various angles that Oyasama directly transmitted the Mikagura-uta verbally
and that there was no manuscript written by Her, contrary to the premise that there was a
manuscript of the Mikagura-uta written down by Oyasama. This paper seeks the universality
of the Tenrikyo teachings not only in the area of écriture but also in the parole and the physical
and artistic aspects of the Mikagura-uta in the hope that a new door will be opened by the
study of the Tenrikyo teachings. So long as speech rid of temporality is dance which is at the
other end of spectrum from what Derrida calls écriture, that thinking will deepen the fact that
the Mikagura-uta has unique significance as the ultimate religious dance music.
Keywords: Wittgenstein, savoring, Zeami, parole, transcription, erosion of the Tenrikyo
terms, two-sided mirror, shokujin and jinshoku, Koki, songs of truth, physical wisdom
─ 104 ─