ポーランドの旅(後編)~ワルシャワ 増山博行 前編では国際会議が開催された古都クラクフおよびその近郊にあるアウシュビッツについて記 した。この後編は首都ワルシャワの訪問記である。実はクラクフだけを訪れるにはヨーロッパの ハブ空港から直接に空路で行けば良い。しかし今回の旅は 100%自費、しかも家族同伴であった ので、日程に余裕をもたせて4日間(移動日を除くと正味2日間)ワルシャワに滞在した。 成田を朝 10 時前に発ったルフトハンザのエアバスは 12 時間足らずでドイツのフランクフルト に着いた。EUへの入国審査を済ませ、再びルフトハンザの中型エアバス機に乗り換え、ワルシ ャワ到着は現地時間の夕方7時過ぎ、ちょうど太陽が地平線に沈んでいくところであった。正規 の乗り場からタクシー(ガイドブックには白タク注意とあった)に乗ってワルシャワ駅前のマリ オットホテルへのチェックインしたのは成田を発って17時間後。機内食でお腹は満ちていたの で、すぐにベットにもぐり込んだ。ちなみに、JTBで予約したのはルフトアンザの航空券のみ で、ホテルは「じゃらん」でとったが、何のトラブルもなかった。空港の両替所ではなく、駅の 地下街や観光地の両替所の方が圧倒的にお得。空港ではタクシー代とホテルのチップ代として5 千円も両替すれば十分。おみやげ物屋はもちろん観光名所のチケット売り場でもクレジットカー ドで間に合う。 翌日も良い天気で、ホテルの 24 階の部屋から は市内が一望でき、眼下にワルシャワ中央駅、 その前の広場に文化科学宮殿がそびえている。 駅の裏にはハイカラなショッピングモールとそ の横に建設中のくねった形状のホテルがそびえ る。復元された歴史的建造物と超近代的なビル とはなんというコントラスト。街は整備されて いたが、駅周辺にはホームレスとおぼしき姿も ちらほら。観光客のイメージダウンを避けるた めか、パトカーが頻繁に警邏し、そうした姿を 通りの向こうの左手に中央駅、右前方に文化科学 見かけるとすぐに尋問していた。 宮殿、駅の裏にショッピングモールとホテル お目当ての旧市街区へは徒歩で小一時間。途中の新世界 通りをはじめ街は実にきれいに整然と再建されている。ク ラクフ通りに 入る科学アカ デミー広場に はポーランド が誇る科学者 コペルニクス の像があった ので、記念撮影。 その広場に隣 コペルニクスの像の前 接して聖十字 聖十字架教会の祭壇のひとつ 架教会があった。19 世紀のこの国が生んだ天才的ピアニスト、ショパンがパリ亡くなった後、彼 の心臓が納められていたが、戦時中にナチスに持ち去られ、戦後、再びこの教会に戻されている。 戦争で破壊された教会はきれいに再建されている。ここはクラクフの教会などとは違って、内部 の写真撮影は制止されなかったが、さすがに正面にカメラを向けるのは気がとがめて、右側の祭 壇を撮った。聖なるものが眩いばかりの金色であるのは古代文明から脈々と続く人類普遍の心理 なのか、それとも永遠不滅の権威の象徴か。 聖十字架教会の斜め向かいにはワルシャワ 大学本部と大統領府がある。昨年訪れたロシ アのクレムリン宮殿の中の大統領府とは段違 いで、街の中にとけ込んでいる。警備の兵士 を見落としたら大学の一部と思ったかも知れ ない。せっかくだから大学本部前でも記念撮 影。レストランが通りにテーブルを並べてお り、アイスクリームを堪能した。農業国なの でクリームは美味しくて安い。 通りをさらに北上すると、ほどなく、カラ ワルシャワ大学本部前 フルな建物と広場が見えてきた。王宮広場である。旧市街の南の端に位置し、東側を流れている ヴィスワ川に対しては小高い丘の上となっている。広場の真ん中に立っているのは 1596 年に首 都をクラクフからワルシャワに移したジグムン ト三世の像である。 ポーランド王国はゲルマン民族の大移動と前 後して入ってきたスラブ系民族が建国した。14 ~16 世紀には大いに繁栄したが、その後、数度 にわたって大国の支配下におかれた歴史を持つ。 第1次世界大戦の終結で百年以上続いたロシア、 オーストリア、ドイツの三国分割統治から独立 を回復したのもつかの間、ナチスドイツの侵攻、 戦後のソビエトによる衛星国としての扱いを経 王宮広場とジグムント三世の像 て、1989 年に現在の共和国になった。こうした 歴史のなかで、独立心・反骨心を培ってきた民 族のようである。EU に加盟したのは 2004 年 だが、独自の通貨を持っている。なによりも母 国語を大切にしているので、外国人旅行者には ガイドブックが手放せない。特に困るのはバス や電車(トラムや地下鉄)の行き先や乗り方で ある。しかし、ポーランドの人は親切であり、 困った顔でおろおろしていると男子学生のよ うな青年が英語で話かけて助けてくれた。 博物館となっている旧王宮を見学し、城壁で 王宮広場からみた旧王宮 囲まれた旧市街を散策。北の城門(バルバカン)を拭けると新市街に出た。新市街とは言っても 数百年の歴史があり、旧市街とともにユネスコの世界遺産に登録されている。町並をそんなに古 く感じさせないのは第2次世界大戦末期に破壊された石造り・煉瓦造りの建物を復元しているた めだろう。 さて、新市街でのお目当てはキュリー夫人 博物館であった。バルバカンを抜けてすぐの 石畳の通りに面した3階建ての夫人の生家が 博物館となっている。壁に鉄腕アトムを彷彿 させるようなイラストが描かれているので、 すぐに分かった。Po と Ra という文字がある のは、夫人が夫のピエールと共に発見した放 射性元素、ポロニウムとラジウムである。ポ ロニウムは、夫人が母国ポーランドにちなん で命名した元素であることは有名な話である。 キュリー夫人博物館 写真の下部に赤ん坊を抱いた女性のイラスト があるが、これはキュリー夫人が娘のイレー ネを育てながら研究を続けたことを表している。キュリー夫人はノーベル物理学賞と化学賞をも らったが、イレーネも夫と共に 1935 年(夫人 の亡くなった翌年)にノーベル化学賞をもらっ ている。この博物館を 30 分ばかりかけて見学 した間、訪れた者は全て日本人だったというこ とは書き留めておかねばならないだろう。ガイ ドブックにも「日本人にも有名なキュリー夫人」 と書いてある! 右の写真は新市街の西側の大通りで見かけた モニュメントである。ガイドブックに載ってい ないが、察したとおり、1944 年のワルシャワ蜂 起の記念碑の一部であることは帰国後にインタ クラシンスキ公園の記念碑 ーネットで調べて確認できた。ポーランドの歴 史を見ると、数百年の外国による支配下で何度 も蜂起を行い、手痛い打撃を受けている。ショ パンがパリに行ったのも、彼の友人がロシアに 対する 11 月蜂起(1930~31)に関係していたた め、母国に帰れなかったためである。ショパン 自身が熱烈な愛国者であったし、その旋律にポ ーランドの人々は民族の誇りを感じていた。反 省を見せないロシア圏に戻ることはなく、ナチ の戦犯を今日でも追及しているドイツとは EU に加盟して一緒にやりはじめた国である。それ ショパン博物館 ぞれの国の尊厳と歴史認識を誤ると隣国との 友好はおぼつかないということは日本にとって他人事ではなかろう。 以上を見学したのがワルシャワ滞在の前半である。後半の滞在ではショパンにゆかりの場所を 中心に訪れた。まず、3年前のショパン生誕 200 周年にリニューアルオープンしたショパン博物 館。映像と音楽を駆使した展示は見事であり、子どもから老人まで堪能できる。1日いても飽き ないほどだが、旅行者の悲しさ、2時間足らずの鑑賞となった。 博物館の向かいの喫茶店で美味しいサンドイッチを食べて、午後は市の中心部から 2km ほど南 に下がったワジェンキ公園に行った。まず迎えてくれたのはショパンの像である。柳の木の下で 故郷に思いをはせるショパン像を第2次大戦中にナチスドイツ軍が最初に破壊したが、今は野外 音楽堂の中心に復元されている。 ショパンの像を取り囲む樹木の東側に水 中の宮殿といわれるワジェンキ宮殿と関連 の建物がある。ひとつひとつの建物はさほ ど大きくはなく、内部の部屋もこじんまり と感じられるが、白い大理石の建物が美し い。右の写真には宮殿前の池の畔で結婚式 を迎えた二人が記念撮影をしていた。公園 内では数組の結婚式とおぼしきカップルに 出あった。9月はじめの日曜日だったせい かもしれない。 まだまだ見所を残していたが、翌朝早く 池の上にあるように見えるワジェンキ宮殿 の帰国便に便利なワルシャワ空港前のホテルへ向かった。ガイドブックには中央駅と空港の間に は都市高速鉄道がサッカー大会を機に 2012 年6月に開通したとあるので、これに乗ろうとチケ ット売り場に行ったが買えない。バスで行けという。不審に思って時刻表をようやく納得、その 日はもう運行していない。朝と午後に数便が運行しているだけで、夕方4時過ぎになれば次は翌 朝という信じられないスケジュール。実際は安価なバスが頻繁に、渋滞時でも30分足らずでつ ないでいるので、不便はなかった。でも折角つくったインフラなのにもったいない。ワルシャワ 市内には南北を結ぶ地下鉄1号線が運行している。これと直交する2号線がだいぶ前から工事中 だが、完成はまだまだ先のことだという。2号線が空港線とつながれば利用者が増えるのであろ う。市内の幹線は車で渋滞気味であり、成長の最中の首都であるとの感を受けた。 (ワルシャワ空 港も半分しか完成していない。 ) 鉄道といえば、駅舎は改築されて立派であるが、近隣の国や国内の主要都市を結ぶ特急列車は 少々くたびれた感じがした。長距離路線は航空機に、短距離路線は自動車にとって代わられつつ ある。ワルシャワ-クラクフ間の車窓や、ワルシャワを飛び立った飛行機の窓からは、新しく建 設中の道路が何本も見えた。 第2次世界大戦では人口の2割以上の犠牲者を出しながら戦後に復興し、今はEUの一員のポ ーランドは、日本の8割の面積とはいえ、ほとんどが平原で有効面積は何倍も広い国土に4千万 弱の人口を有する。近年は日本と同様に出生率が低迷し、将来の人口減は避けられないという。 この国は将来との日本の姿を重ねながら、フランクフルト経由で成田への帰国の途についた。帰 りの便はよく眠れた。 (小さな反省:成田経由としたため、成田前泊、羽田で宇部便を4時間待ち という贅沢が付いた。 ) (2012 年3月定年退職、元理学部教員)
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