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パーソナリティーの行方 - Tama Art University

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(正)
2011年度 多摩美術大学大学院美術研究科 修士論文
2011, Master Thesis, Graduate School of Art and Design, Tama Art University
「パーソナリティーの行方」
「Personality s Whereabouts」
上野和也 31012022 多摩美術大学 博士前期課程 絵画専攻 油画研究領域
Kazuya Ueno, Student ID number 31012022, Oil Painting Field, Painting Course, Master Program
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2011年度 多摩美術大学大学院美術研究科 修士論文
2011, Master Thesis, Graduate School of Art and Design, Tama Art University
「パーソナリティーの行方」
「Personality s Whereabouts」
上野和也 31012022 多摩美術大学 博士前期課程 絵画専攻 油画研究領域
Kazuya Ueno, Student ID number 31012022, Oil Painting Field, Painting Course, Master Program
3
4
【目次】
序論 …………………………………………………………………………………………………………
7
第1章
オタク文化を分解することにより顕現する傾向とは…………………………………… 8
第2章
オタク文化が抱える歪みとは…………………………………………………………………… 9
第3章
第3、第4世代と大きな物語について………………………………………………………… 12
第4章
リアリティーへの欲求と方向性について…………………………………………………… 14
第5章
第3、第4世代が抱える矛盾点と起因とは……………………………………………………16
第6章
リアリティーからパーソナリティーへ……………………………………………………… 16
終わりに…………………………………………………………………………………………………
5
17
6
序論
私は作品と向き合う際、決めごとが存在する。それはルールというより心構えに近い。そして、その心構えは制作され
た作品の視覚的な効果に分かり易く現れてくる。その心構えとは リアルを超えるリアリティーを追求する姿勢 である。
作品の作者である私にとってこの心構えとは重要な意識であり、作品を制作する全ての過程に注ぎ込むべき意識だと考え
ている。つまり制作の根幹となるものだ。この根幹を制作者が軽視すると、数多の作品群の中で自己の存在を提案させる
ことは困難となるだろう。
また、この意識とは作家の思考と作品の具体的なイメージを繋げる為に必要な心臓部であり、趣向を凝らす為の準備段
階とも言える。例えるならば、料理で言うところの下味だ。この下味を制作の土台としてしっかり構築させた場合、どん
なにコンセプトや技法といった表現媒体が他者と類似していようと鑑賞者にとってそれは 似て非なる物 として処理さ
れ、問題視されないという効果が発揮される。というより問題に出来なくなるのだ。つまり、今日までの作家たちからこ
れから誕生する作家たちに至るまで、この土台をしっかり構築している限り個の確立は保証されている。言い換えれば、
私たち制作者にとってオリジナルという個の確立を促す装置は最早この存在に尽きるのではないかと私は感じている。そ
して、このように私は全ての作家の土台を司る下味という存在に強い関心がある。そして、それはどのようにして私自身
も身につけたのか。もしくは先天的に備わっていたものなのか。また、なぜ好むのかを自らに問いたいと考えた。そこで
目をつけたのが、日頃から慣れ親しんでいた漫画やアニメといったオタク文化もしくはオタク系文化と言われるものだ。
そこに至った理由として2つのことが挙げられる。
まず1つ目は、私の 趣向の傾向 、 先天的と後天的 という観点から見る際に無視の出来ない対象だと考えたからだ。な
ぜそう考えたのかと言うと、私自身の興味の矛先が未だにこのオタク文化から離れきれていないという事実。そして中学
に進学するまで漫画やゲームといった子供の娯楽は一切経験出来ず、テレビアニメだけが当時の私にとって唯一の娯楽だ
ったという経緯があるからだ。そして2つ目は、岡田斗司夫の『オタク学入門』に記されていたオタクたちのリアリティ
ーとは 見立て
と 世界 によって形成されているということ。そして時代とともに変化していった趣向と、私の制作
[注1]
に対する意識の移り変わりに近いものを感じ取ったからだ。以上の理由を元に、自らが求め続けているリアリティーとオ
タク文化の見立ての世界が実は密接しているのではないのかと仮定して論じてみようと思う。
しかし、少し注意しておきたいことがある。それは、私がこれまで制作してきた作品のコンセプトにこのような文化を
意図的に据えることは特にして来なかったということだ。しかし発想の本質という次元でそれらコンセプトを再確認した
場合、『オタク文化を意図的に据えることはなかった』というそれまでの意識には信憑性が感じられない。なぜなら、今
まで自然と行き着いた答えや思考はどこまで意識的に自らがコントロール出来ていたのか判断出来ないからだ。つまり、
ある意味において今日まで意識することなくコンセプトを提示してきたが、そこには少なからず興味の範疇にあった物事
の影響があったという可能性は十分考えられるのだ。そう思考することで、容易にオタク文化の影響によって形成される
自我は無意識的に存在するだろうと仮定出来る。これらの理由から、今回、私が追い求めているリアリティーとオタク文
化の繋がりを絡めて論じてみたいと思う。
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第1章 オタク文化を分解することにより顕現する傾向とは
まずはこのことを論じる上で記しておかなければならないことがある。それは、私が無意識下で影響を受けたと仮定し
たオタク文化についてだ。この文化には主流というものが明らかに存在する。そして、そのメインとなる流れは他の影響
を受け辛いといったどっしりと構えたものでは決してない。意外と他文化の流れや私たちを取り巻く環境の変化に随時反
応し、貪欲に変容していっているように私には映る。このように見ている私にとって、この文脈を踏まえるということは
とても重要である。希望的観測ではあるが、この性質から生まれてくる流れやこれまで見えてこなかった流れまでも踏ま
えたことによって視覚化される可能性があると密かに私は考えているのだ。このことを証明する為にもオタク文化の歩み
についてふれておくべきである。
今日までのオタクは大まかに3つの世代に分けて語ることが出来るようだ。それは、1955年代生まれを中心とした第1
世代。その10年後、1965年代生まれを中心とした第2世代。さらにその10年後である1975年代生まれを中心とした第
3世代の3つである。このオタク文化の背景を踏まえなければ、後に記すべき私たち1985年代生まれについて理解するこ
とは出来ないだろう。
まずは第1世代だ。1955年代生まれを中心とした第1世代は幼少期にSFブームを迎え、10代で『ウルトラQ』に『マ
グマ大使』、後に『仮面ライダー』といった特撮作品を迎えた。世に言う変身ブームと怪獣ブームを満喫した特撮世代で
ある。一方、アニメでは『ジャングル大帝』、『巨人の星』、『タイガーマスク』といった子供向け作品群を迎えた後に、
20代手前で『マジンガーZ』や『宇宙戦艦ヤマト』、『機動戦士ガンダム』といった俗に言うスーパーロボット、リアル
ロボットを迎える。『スターウォーズ』や『2001年宇宙の旅』の影響を受けたこの第1世代のオタクたちからは、今後
の世代に影響を与えるアニメ作家たちがどんどん排出されることとなる。次に第2世代だ。1965年代生まれを中心とし
た第2世代は幼少期よりアニメに親しんでいたアニメ世代だ。
『機動戦士ガンダム』を10代で迎えた彼らは、その後に『う
る星やつら』、『Dr.スランプ アラレちゃん』、
『超時空要塞マクロス』
、
『北斗の拳』といった細分化されたジャンルを消
費した。そして第3世代だ。1975年代生まれを中心とした第3世代は10代で『新世紀エヴァンゲリオン』が社会現象と
なる様を体験した。その後、この作品を筆頭としたセカイ系と呼ばれるジャンルがオタクたちの前を飛び交うようになっ
た。また、この第3世代よりインターネットが普及し始めたことでオタクたちの情報交換の場は拡散し多様化していった。
最近ではさらに、第4世代という存在も実は一部の人たちに認識されてきているようだ。彼らは、1985年から1989年生
まれ以降の世代(俗に平成生まれと言われる)が中心となっている。彼ら第4世代は、第3世代と今のところ趣向を共有して
いると考えられている一方で相違点も認められている。それは、取巻く環境がインターネットを当たり前の存在として幼
少時より構築されていた為に今ではコンピューターネットワーク上が彼らの生活環境の一部となりつつあるということ
だ。
このようにオタク文化は時代の流れに身を任せて変化してきたと言える。しかし、身を任せるだけではここまで肥大し
なかったであろう。そのような受け身だけでは、一過性の流行のようにツギハギで出来た流れになる可能性が多分に考え
られるからだ。
そう考えると、
オタク文化というのはそういうものではないと言える。
大きな見立てという世界を土台に、
その時代その時代の趣向が乗っかっているのだ。つまり、オタクたちは最新の趣向で彩られた古典的な見立てを飽きるこ
となく味わっていると私は考えている。そのことは、岡田斗司夫が『マジンガーZ』から『新世紀エヴァンゲリオン』ま
での世界感を例えに挙げて説明している。
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主人公は10代の少年である。その子供が極秘で開発されたロボットに乗って戦う。戦う相手は人類の敵のように描かれるが最後のあたりで「実は∼」
といった因縁や真相が語られる。主人公の身内は、たいていは父か祖父がロボットの開発に関わっている。
このフォーマットはこの25年間、まったく変わっていない。
中略
オタクたちはこの「世界」を承知の上で、その上に乗っている「趣向」を楽しむ。[注2]
つまりオタクたちが究極的に求めているものはルールにそった趣向であると言える。
第2章 オタク文化が抱える歪みとは
そんなオタク文化の世代間にも確実に歪みは存在する。そのことについて東浩紀はポストモダンという視点から切り崩
していた。その趣向の差とは消費対象の違いである。その中でも決定的なものが、第1世代と第3、第4世代である。第3、
第4世代のオタクたちは、第1世代のオタクたちと比較すると漫画やアニメなどから大塚英志が言うところの「大きな物
語」[注3]を読みとる必要がない方法で消費しているという東浩紀の指摘は一理あるだろう。この大きな物語とは 物語の
表面には現れない設定や世界観 を意味するのだが、その傾向は現在好んで消費されているアニメや週刊で発行されてい
る多数の漫画雑誌内に掲載されている作品内容、または関連商品からも伺える。
例えば、ここ数年でその趣向を圧倒的に象徴していると言えるもので、『けいおん!』、『らき☆すた』、『涼宮ハル
ヒの憂鬱』といった作品群が挙げられる。これら作品の大きく共通する点はオタク層を超えて一般層の人たちにまで認知
されたということだ。一見このこととオタクの趣向というものが繋がりにくいと感じるかもしれない。しかし、この現象
こそが、実は オタクたちが何を消費していたのか ということをとてもわかり易く物語っていたのだ。『けいおん!』で
言えば、一般層に認知され易いゴールデンタイムのテレビ音楽番組内にて紹介されるCD売り上げランキングの上位を
『けいおん!』のキャラクターソングが名立たるアーティストを押さえ、立て続けに何週にも渡って4曲以上ランクイン
していた事実がそれにあたると言える。この商品には大きな物語など勿論含まれていない。そのような消費者を隠された
深層へ誘い、虫食いの世界観を補完させるよう仕向けるといった代物では決してないのだ。この商品の本質は、物語から
離れたことで語ることが出来る個々のキャラクターたちの隠れたキャラクター性の宣伝だと言える。つまり、キャラクタ
ー単体が1つの大きな商品となる為の仕掛けなのだ。この消費形態はまさに東浩紀の言うところの「キャラ萌え」だと私
は認識している。そして、先程でもふれたように驚くべきことはその売れ行きだ。現代のオタクたちは、一般人を巻き込
む程に大々的な消費活動を展開していることがこの事実より伺える。また、それらキャラ萌えが特化した商品たちはその
性質上大きな物語を読み解くような高度な能力を消費者に要求していない。この側面はオタク文化の文脈を読み解けない
一般層にとっても有効であり、他の商品と比べてもずば抜けて認知し易かったのだ。この効果は結果として先程の事実に
作用したと言える。この消費形態は、『らき☆すた』や『涼宮ハルヒの憂鬱』をはじめとする近年のアニメ作品群でも十
分見て取れる。その他にも、アニメ内でモデルとなった地域や行事を実際に訪問し体感することでキャラクターたちと間
接的に同じ空気を共有し合おうと試みるオタクたちの存在。(これを俗に聖地巡礼と言う)また、実際に存在する商品がア
ニメ内で登場し突然売り切れになるといった現象など。これらオタクたちの二次的な消費行動は、設定という表層にオタ
クたちが価値を見出している証拠だと言えるだろう。
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そして、消費される作品自体からもこのことは肯定出来る。それは作品の構造だ。これらの作品群を構成する成分を大
きく分けると東浩紀が言うところのキャラ萌え要素と大塚英志の言うところの 特定の作品の中にある、特定の意味する
もの を指した「小さな物語」で成り立っている。この型は近代までの世界像であったツリー・モデルではなく、東浩紀
が唱えたポストモダンの世界像である データベース・モデル そのものなのだ。つまり、作品の主成分としての大きな物
語は先天的に存在していなかった可能性があると言える。そのことを思考する上で大塚英志が記した言葉は大きなヒント
になるだろう。
八〇年代から九〇年代初頭の二次創作であれば、原典である原作を一つの聖典と見なして、その物語の論理的な矛盾や破錠や
間を見出して、それを埋め
ていくことが彼らの創作のポイントでした。だから、ぼくが八〇年代に『魍魎戦記MADARA』(角川書店)を作ったときに、巻末に極めて杜
な年表を
敢えて載せたわけです。
中略
そうすると、受け手たちはそこを見て「なぜ三十六歳なのにこのキャラクターはこんなに若いのか」というところで、そこを埋めていく同人誌的なまんが
を作っていく。それを今度はぼくが原作に補完していくという形で、『MADARA』という商品を運用していった記憶があります。 [注4]
この言葉が指し示していることは、オタクたちの消費対象に応じて原作者たちはその対処をしているということだ。その
ことを踏まえた上で近代の作品傾向を考察してみると、先程記した作品の主成分に大きな物語が先天的に含まれていない
という仮説は大いに有り得るだろう。つまりオタク層をターゲットに置いた原作者側の意図として、このキャラ萌えと小
さな物語を主体とした構成は大きく意味があるのだ。そして、逆説的にこの制作方針は今日のオタクたちが大きな物語を
読みとることに趣をおいていないという消費傾向を私たちに露呈させていると言える。このような性質の作品群とキャラ
クター群を主軸に据えた公式関連商品や二次創作物、または他ジャンルとタイアップすることで可能となった二次的な商
品など、秋葉原の街並をそれらが鮮やかに彩る程に膨大な膨れ上がり方をしていることは今では珍しくもない周知の事実
である。また、それらを無尽蔵に浅ましく貪り尽くす第3、第4世代のオタクたちの姿はまさに東浩紀の『動物的』とい
う表現そのものである。この消費傾向が指し示す結論とは、第3、第4世代のオタクたちにとって大きな物語とはあくま
で踏まえておかなければならない お約束事 という設定に過ぎないということだ。それ以上の特別な価値を見出すことを
彼らはしない。
このことに関して私は概ね東浩紀の指摘するオタクたちの消費傾向の変化には共感が持てる。が、しかし、正直に言え
ば東浩紀の語る『メガゾーン23』や『機動戦艦ナデシコ』、『セイバーマリオネットJ』などに関してもそうなのだが、
私自身、東浩紀の解釈する作品のメッセージ性はピンと来なかったのが実情だ。例えば『メガゾーン23』では以下のよ
うに語っていた。
そのような自己肯定的な時代の空気に敏感に反応したオタク系作品としては、たとえば、八五年に作られた石黒昇原作・監督のアニメ『メガゾーン23』
を挙げることができるだろう。この作品は、当時の東京がじつはすべて未来の宇宙船内に作られた虚構であり、コンピューターの作り出した仮想現実だっ
た、という設定を導入している。
中略
この設定そのものも興味深いが、さらに注目すべきは、物語の後半、主人公がその虚構を作り出すコンピューターに対して、なぜ八〇年代の東京を舞台と
して選んだのか、と理由を問いただすことである。
10
このいささかメタフィクション的な問いに対して、相手のコンピューターは、「その時代が人々にとっていちばん平和な時代だった」からだと答えてい
る(注15)。おそらくその台詞は、オタクたちに限らず、当時の東京に生きる多くの若者たちの共通感覚を伝えていたに違いない。八〇年代の日本ではすべ
、、、、、、、、、
てが虚構だったが、しかしその虚構は虚構なりに、虚構が続くかぎりは生きやすいものだった。筆者は、その浮遊感の、言説における現れがポストモダニ
ズムの流行であり、サブカルチャーにおける現れがオタク系文化の伸張だったと捉えている。 [注5]
私にとってこのこと自体言われてみればそうかもしれないといった程度の印象である。しかし、仮に私がリアルタイムで
この作品を見ていたとしても自ずとこのメッセージに導かれただろうかと考えた場合、それは今の私にはとても考えにく
いものだ。なぜなら東浩紀が注目している「その時代が人々にとっていちばん平和な時代だった」という言葉は何も 80
年代 にだけ言えるとは限らないからだ。それはそうだろう。この物語はまず前提として数年先とか近未来とかではなく、
未だ観ぬ領域であるSFなのだ。つまり私なんかの感覚で言わせれば、まだ私たちが体験したこともない平和な時代がこ
れから来るかもしれないのだ。その可能性を無視して80年代が一番だなどと言うのは少し違和感が残る。とは言うもの
の、この設定を考えた制作者の立場からすればこの判断が妥当ということも勿論わかる。それはこの作品が発表された年
が 85年 だということ。そして この設定こそが最後の大きな話のオチになる ということ。またそのオチの性質から 意図
的に視聴者へ衝撃を与えたがっている ということなどから考えれば自然とそれ以前の時代が舞台になると容易に言える
のだ。では、なぜ80年代なのか。それにもおおよその検討はつく。まず人々にとっていちばん平和な時代とはいつかと
いうことを思考した際、幾つかの時代がパッと頭に浮かぶだろう。そしてその全てが過去のことだ。それは 人は知って
いることしか知らない という性質上、仕方のないことである。この時点で、私が先程提案した「未来」という選択肢は
既にないのだ。では、過去という選択肢から考えてみよう。こういった舞台の設定に過去を使用した際、まず浮かび上が
るのが 江戸時代 だ。現に江戸時代を舞台に据えた作品は漫画やアニメに限らず映画、ドラマ、演劇、伝統芸能と多種多
様である。実際に先程挙げた『セイバーマリオネットJ』でも舞台として使用され、その理由について東浩紀はふれてい
る。
日本の江戸時代はしばしば、歴史の歩みが止まり、自閉的なスノビズムを発達させた時代として表象されてきた。そして高度経済成長以降の日本は、「昭
和元禄」という表現があるように、自分たちの社会を好んで江戸時代になぞらえていた。
中略
日本の文化的な伝統は、明治維新と敗戦で二度断ち切られている。加えて戦後は、明治維新から敗戦までの記憶は政治的に大きな抑圧を受けている。した
がって、八〇年代のナルシスティックな日本が、もし敗戦を忘れ、アメリカの影響を忘れようとするのならば、江戸時代のイメージにまで戻るのがもっと
もたやすい。 [注6]
この東浩紀の見解を踏まえると、人々(この場合、日本人である)にとっていちばん平和な時代とはまさに江戸時代が舞台
としてうってつけであったと言える。しかし、『メガゾーン23』の制作者はこの最良の答えを選択しなかった。それに
は勿論理由があった。それはこの設定がオチになるという話の仕組みが関係するのだ。例えば、江戸時代を『メガゾーン
23』の舞台にすると最後のオチで視聴者は驚くだろうが、衝撃的とまではいかないだろう。なぜならそこには、リアリ
ティーがついて来ていないからだ。つまりどんなに平和な時代の表象だとしても、視聴者にとって知識としてしか把握出
来ていない情報は所
リアリティーのない理想と言える。この結論から『メガゾーン23』の制作者は、当時の視聴者に
11
衝撃を与える為に近年から候補を挙げたと考えられる。つまり、『メガゾーン23』の80年代という選択は、リアリティ
ーを与えることで後の衝撃を大きくさせるという話作りのテクニカルな部分による結果だと言えるのだ。
このように考えている私にとって、先程東浩紀が語った『メガゾーン23』の解釈は飛躍したもののように思えるわけ
だが、それはもしかしたら私だけがそうなのかもしれないと考えることも出来る。しかし、私はここで先程ふれていた第
3、第4世代のオタクたちの思考を絡めることが私の求める結論へ繋がると考えたのだ。
第3章 第3、第4世代と大きな物語について
東浩紀の語るオタクたちの趣向というものは、「求めた結果生まれた変化である」と言っているように私は感じるのだ
が、私の中ではあまりピンと来ない回答である。それは私自身、第3、第4世代のオタク層という微妙な立ち位置にあた
ることや、東浩紀がこの発言をしてから月日は既に10年以上経っているという時間の問題などがこの納得しきれない要
因を形成しているのであろう。私はこのことについて、変化の本質は寧ろ求めるが故に出来た体制という結果論的な姿勢
ではなく これしかわからない 、 これしかない といったオタクたちの選択肢のなさの現れだったのではないかと考えて
いる。つまり、大きな物語を読み解く際に必要であるマクロ的な視点が私たち第3、第4世代のオタク層には皆無なので
はないかと考えたのだ。その影響が今日、二次創作の世界やオリジナルの中で次々と具現化していっているように思われ
る。
そう感じ取った要因の1つとして、アニメ監督である新房昭之率いるアニメ制作会社シャフトが排出しているテレビア
ニメ作品の度重なるヒットが挙げられる。新房昭之が得意とする手法の中に テキストをアニメ内で多用する 、 エンドカ
ードに原作とは別の漫画家、もしくはイラストレーターやアニメーターなどが描いた本編に登場するキャラクターのカッ
トを使用する といったものなどがある。その試みは実験的であり、その一風変わったテイストがオタク層を超えて一般
層にまで支持を集めた。事実、これらの手法は現在の主流となりつつある。しかし、私に言わせるとそれらはストーリー
を見づらくさせる原因でもある。例えば、テキストを一瞬だけ見せるくらいなら音声で把握したいし、エンドカードを別
の作家が描いたのであれば、それは立派な公式の二次創作である。つまり、彼らが行っている工夫とはアニメのストーリ
ー自体を盛り上げる為に用意した演出ではなく、シャフトというアニメ制作会社としてのオリジナリティーまたはブラン
ド性をアニメーションの可能性によって確立させようという試みなのだ。このアニメの内容と別次元で己をアピールする
姿勢は概ね効果的であったと言えるだろう。それは「シャフトだから」と言って求めるオタクたちの姿を、私自身ここ最
近よく見受けることからも言える。その姿勢は、まさに大きな物語を読み解こうという素振りすら感じさせない。そう、
彼らはシャフトというキャラクターに萌えている状態なのである。その他にもシャフトと新房昭之が制作した『ひだまり
スケッチ』というアニメ作品のテレビ放送の手法は、まさに大きな物語は設定でしかないことを物語っていた。その手法
とは、原作の発行順や物語上の時系列と異なる順序で放送するといったものである。言い換えれば、その構造は どこか
ら見ても構わない物語である と言っているようなものだ。つまりこれも、意識に映る表層的な世界を規定すべき深層が、
設定だけの存在となっているという考えに繋がるのだ。実際に、この構造で当時のオタクたちから十分な支持を獲得する
ことが出来た。この事実は私にある恐怖を感じさせている。それは、自分たちが何を見ているのかという自覚でさえも危
うくなってきているのではないかということだ。この反応は、私の考えるオタクたちのマクロ的な視点の逆にあたるミク
12
ロ的な視点。つまり、
小さな物語によって引き起こされた中毒症状の現れなのではないのかと考えている。そしてこれも、
マクロ的な視点の皆無に繋がる要因の1つに入るだろう。
このように第1世代と第3、第4世代には大きな趣向の違いが明確に存在する。しかし、それと同時に共通する点も確か
に存在する。そのことに私が気づくきっかけとなったのが『ONE PIECE』という作品である。
『ONE PIECE』とは、尾田栄一郎が描く海賊漫画である。この作品はとにかく売れている。その要因の1つとして最も
大きかったと私が考えているのが、40代から50代の読者層を獲得したことである。この40代、50代という消費者層は
今日のオタクたちと歪みが生じている第1世代、第2世代にあたる。そして、他の作品群との格差が出来てしまった要因
を明かすヒントとなると私は考えた。その要因とは、先程挙げた第3、第4世代のオタクたちが持ち合わせていないと記
したマクロ的な視点だ。つまり、『ONE PIECE』には大きな物語が存在すると私は考えたのだ。より正確に言えば、第
1世代、第2世代を反応させる程の壮大な疑似歴史である大きな物語を『ONE PIECE』は内包し、それらを構築している
小さな物語の中にはマクロ的な視点が皆無である第3、第4世代のオタクたちも反応出来るようキャラ萌えであったり、
泣けるストーリーであったり、ど派手なバトルシーンや悪魔の実の能力といった表層的な仕掛けをふんだんに散りばめた
仕組みとなっているのだ。そして、それらの要素は『ひとつなぎの大秘宝』、『オールブルー』、『リオ・ポーネグリフ』、
『Dの系譜』といった未だに明かされていない
という大きな伏線で施された深層を根源に据えることで、それらは回を
重ねるごとにより強く際立ってきている。
つまり、それらの要素は互いを根拠におくことで支え合う形が出来ているのだ。
例えば、キャラ萌えの点で言えば主人公の一本筋の通った気質にも根拠があった。最近明かされたことなのだが、それは
深層である疑似歴史の影響によるものだった。階級社会、種族差別、暴力、憧れ、理想郷、そして死。それら主人公の生
き抜いてきた時代性と経験値が確かな手触りとして主人公の人格を形成させたのだ。
そして、それらは後から足していったストーリーではない。実は最初の段階から伏線としてあくまでわかり辛く散りば
めていたのだ。そうすることで尾田栄一郎は意図的かつ効果的にストーリーのオーバーラップを図ったのだと私は考えて
いる。そして、オーバーラップしたことで読者は当時気づかなかったその言葉の真意。つまり、深層へ近づけるのだ。こ
の仕組みは見事なまでに巧妙である。そう私が感じてしまうのにも理由がある。それは冒険活劇物としてコミックスが
60巻を超える今日でさえ、それら深層が気になって ついつい読んでしまう 。ということだ。このついつい読んでしまう
という感覚は、一部の漫画にしか生まれない貴重な感覚だと言える。その中でも『ONE PIECE』は別格だろう。なぜな
らその感情は最早、義務感にすら感じさせる程だからだ。この感覚は私にとって特異なものに見えている。それは周りの
読者の反応を見てもそうなのだが、最も顕著に私が感じたのはインターネット上の『ONE PIECE』読者のレビュー内容
とその数である。例えば『ONE PIECE』63巻のAmazonにおけるレビューでは367件のレビュー数が書き込まれ、その
全体の6割以上が星3つ以下に集中し、内容は全体的に『マンネリ気味』『読みづらい』『話を拡げ過ぎ』という言葉が
目立つものばかりであった。これだけの情報を見ると、次回作である64巻の売り上げは下がると予想出来るだろう。し
かし、この作品には不思議な現象が以前より起きていたのだ。それは、前回作である62巻を見てみると気づける筈だ。
62巻のAmazonにおけるレビューでは265件のレビュー数が書き込まれ、その全体の7割以上が星3つ以下に集中し、内
容はまたしても『マンネリ気味』『読みづらい』『話を拡げ過ぎ』という言葉が目立っていた。そしてこの流れはずっと
ることが出来る。これはあくまでインターネット上の話であり、どこまで信憑性があるのか判断出来ないが少なくとも
私はこれらのレビューの内容に共感を抱くことが出来た。そして、このように感じている私を含めた読者全員に言えるこ
とがある。それは、これだけの不満を感じるのであれば買わなければいいだけの話であり、普段ならば自然と読まなくな
る要因にもなれたのではということだ。しかし、結果は違う。不満を漏らす彼らは ついつい買ってしまう のだ。不可視
13
の強制力とでも言えるこの正体について私は大きな物語が関係していると考えている。そして、この特異な感覚は大きな
物語と第3、第4世代のオタクたちが出会った為に生まれた副産物なのかもしれない。また、この感覚を覚えたというこ
とから2つのことが言える。1つ目は、私の提示した第3、第4世代のマクロ的な視点の皆無という仮説は逆説的に立証出
来たと言えるのではないのかということ。2つ目は、マクロ的な視点は皆無だが 反射的 な反応は出来るという矛盾点だ。
この発見により、まだまだ考察の余地があると言えるだろう。とは言え、今回のテーマは私の制作についてもふれていか
なければならない。その為いったんこの問題はおいておき、これまでの考察を元に次は私の求めるリアリティーの趣向に
ついてオタクたちが求めるリアリティーの趣向を絡めて論じたいと思う。
第4章 リアリティーへの欲求と方向性について
まずは、私の求めるリアリティーの趣向とは何かということだ。序論でもふれたが私は作品と向き合う際、全行程を通
して意識的に リアルを超えるリアリティーを追求する ように心掛けている。そしてその意識は近年、共通してセクシャ
ルな表現にとれる表面のテクスチャーなどに登場してくることが多い。この要素は、使用するモチーフや掲げたコンセプ
トの内容に性的なニュアンスが全く含まれていない場合でも出て来る。感覚的な言い方だが、この場合 出て来てしまう
というのが私にとってしっくり来る表現だ。この存在はおそらく現時点での私の土台となる下味だと考えられる。そして、
私という個の確立を促す装置として機能しているのであろう。私にとってそれは何であるのかという問題はとても興味深
いものである。
しかし、今回のテーマはこのセクシャルという一点ではなく、支持体に触れ続けることで徐々に形成されていく表現形
態を主軸に論じたいと考えている。なぜそう選択したのかと言うと、まずセクシャルという要素が登場した根底にはおそ
らく私自身の内的なものが関係しているだろうということから、私という個人の範疇を超えることのない話だと考えられ
るからだ。それに対して先程提示した支持体に触れ続けることで徐々に形成されていく表現形態とは、方法論的な意味合
いを含む為に他の制作者にも当てはまるのではないかと考えついた。これは、リアルとリアリティーの奇妙な歪みを触る
という行為で制作者たちは意識的に構築していると考えている私にとって興味深いものである。
例えば、本来絵画の目的とは写真が出来るまでの穴埋めであり、その本質は記録としての歴史であった。そして、写真
の登場と共に絵画の歴史はもっと自由なものとなった。それは絵画にしか出来ない世界を提案し続けている数多の芸術家
達が証明している。まさにリアルを超えたリアリティーへの探求の結果だと言えるだろう。勿論、平面作品だけではなく
他の芸術分野の世界でもそうだ。しかし何故そのような過度ともとれる意識的なリアリティーへの追求が必要だったのか、
今日使われている意味でのリアリズムな描写ではいけなかったのかと考えることも出来る。ここでは私の短いながらも立
体制作に携わった経験より答えたいと思う。
私が考える結論として少々極端な話をすることになるが、厳密な写実的表現というものは鑑賞者にとってあくまで視覚
から受けた単一の刺激でしかない。その刺激と実際のモチーフより受ける刺激を比べた際、鑑賞者は圧倒的に作品から受
ける刺激を弱く感じてしまうだろう。なぜそう言いきれるのか。その根拠は明白である。それは、実際のモチーフから受
けることが可能である多重の刺激が作品と比べるまでもなく大量の情報を作り出す為である。その中には軟らかい物なの
か固い物かといった感触を始め、そのもの自体の持つ温度や音もあるだろう。また、臭いといった刺激もあり場合によっ
ては振動など動きによる二次的な体感もあるだろう。ここで挙げただけでもこれだけの要素がたった1つの物体の中に混
14
在しているのだ。それを全て表現するという選択肢もあるが、その選択によって生まれた物体は私に言わせれば模造品で
あり作品ではない。なぜなら、鑑賞者の思考の根幹には作品を通じて作家の観ている世界、つまり視点を共有することが
重要だからだ。先程の条件で制作された物体をこの根幹に沿って考察してみると、全ての情報を十分な下味も施さずにあ
くまでリアルという範疇の中で再現されたその物体から読み取ることが出来る視界とは、その完成度に比例して実際のモ
チーフから得られる視界と変わらない筈だ。鑑賞者の立場からしてみれば間違いなく作品とはほど遠い存在である。つま
り個の確立を求める作家にとっても、見たことのない視界や心に響く世界といったものを体感したい鑑賞者にとっても下
味を施すか否かという問題は重要となってくるわけだ。
実はこの下味の必要性を岡田斗司夫はオタクたちと『サンダーバード』の関係性で既に確認していた。それは『サンダ
ーバード』の記念すべき第1話、原子力旅客機ファイヤーフラッシュ号に爆弾が仕掛けられ、国際救助隊『サンダーバー
ド』が救出に向う回のワンシーンでも感じていた。サンダーバード2号のコンテナからエレベーターカーが出てくる場面
である。なんとエレベーターカーの車体がサスペンションで大きく揺れ、ぎしぎし軋みながら降りて来たのだ。ゴムタイ
ヤも車体の重みでへこんでいた。このオーバーサスペンション表現に当時のオタクたちは脱帽していたと言う。リアリズ
ム的な視点で冷静に考えれば本物の車サスペンションはこのようにグニャングニャンといった揺れ方はしないだろう。し
かし、見立ての世界に生きていた当時のオタクたちは圧倒的な重量感のリアリティーを感じ取っていたのだ。このことに
ついて岡田斗司夫は以下のように語っている。
特撮の心とは「イメージを大切にする心」であり、本物そっくりではなく「すごい」「かっこいい」「いかにも」「かわいい」といった感情を引き出すこ
とを意識して作ることでもある。
そのための方法論としてデフォルメと省略がある。何をどのくらい強調し、何をどのくらい省略するか、に特撮監督のセンスを見て欲しい。それが「粋
の目」で特撮を見ることなのだ。 [注7]
オタクたちのこの「粋の目」とは私にとってとても興味深いものだ。それは、この意識を第3、第4世代を含む今日のオ
タクたちも受け継いでいるからだ。ここで思い返して貰いたい。それは先程もふれたことだが、今日のオタクたちには世
代というものが存在し、その世代間には明確な相違が存在するということだ。しかし、その歪みでさえこのリアリティー
への欲求は押さえきれていない。この事実が私を導かせた結論とは、オタク文化を時間軸として捉えた場合、 粋の目は
オタク文化にとって大きな物語である ということだ。そしてそれは無意識的に、またはごく自然な流れとしてオタクた
ちの源流となっている。それは第3、第4世代に含まれる私も例外ではない。ここまでを整理してみると、私が意識的に
作品を制作する上で添加してきたリアリティーとはオタクたちにとっての粋の目であり、そのオタクたちの粋の目とはオ
タク文化にとって大きな物語でもあると言える。それはつまり、深層を作品に投影していると言い換えられるだろう。そ
う考えると、作品におけるコンセプトや技法といった表現媒体は小さな物語と言えるのかもしれない。この結論により先
程出て来た問題(第3、第4世代の矛盾点)にも説明がつくだろう。
15
第5章 第3、第4世代の抱える矛盾点と起因とは
結論から言えば、第4章より第3、第4世代のオタクたちはそれまでの世代と同様に大きな物語を共有出来ていると言え
る。しかし、その共有した素材の使い方や引き出し方が先程の矛盾を直接的に引き起こしていると私は考えている。つま
り、これらの問題の根底にはその直接的な要因と密接な関係にある 経験値 の存在が大きく影響しているのだ。ここでの
経験値とは、対象物と 関わって来た時間 または 関わり方 から研ぎ澄まされた視点のこと。つまり文脈を読み込む力の
ことを指している。このことを念頭において考えれば自ずと矛盾点の原因は見えてくる。
例えば、私を含めた第3、第4世代のオタクたちを取り巻く環境という点では、既に大きな物語を設定としてしか活用
しない趣向で完成されていた。勿論、設定として消費されることなく大きな物語を存分に振るっていた過去の漫画やアニ
メ作品も今ではインターネットやビデオ、DVD、BDと観る上で何不自由することなく楽しめる環境と言える。しかし、
このことも実は矛盾点を生んでしまった要因の1つと言えるだろう。それは、 苦労することなく 鑑賞出来るということ
だ。これは一見喜ばしい印象だが、その反面、苦労することで得られる筈の経験が自分のものにならないという絶対的な
経験値の損失に繋がっているのだ。例えば、ストーリーで言うところの深層を司る大きな
も、今日では苦労することな
くすぐに調べ上げ閲覧することは難しくない。それは攻略本を片手にゲームをする感覚に近いだろう。そして、私たちは
この一連の動きから得た情報を知識として処理してしまう。その為、本来それらが内包していた筈の深層という本質に対
して私たちは全くと言って良い程に反応出来なくなったのだ。この仕組みがもたらしたものこそ第3、第4世代のオタク
たちの趣向である。まさに慣れとでも言うべき程度の差異で生まれたものだ。つまり、第3章で私が記した皆無という絶
望的なものでは決してない。これは、私たちの負うべき経験値を簡単に他者から間借りしてしまう姿勢によって作り上げ
た絶対的な経験値不足という状態が選択肢すらも盲目にさせた結果だったのだ。この盲目の状態にある私たちが、今まで
選択肢としてすらそれらを認識していなっかった『ONE PIECE』などの大きな物語を内包した作品と出会えば自ずと矛
盾するような出来事が作用し、それを自然と副産物であると感覚的に認識するのは当たり前のことなのかもしれない。
第6章 リアリティーからパーソナリティーへ
これらのことを根拠に、今回私はリアリティーについて 作家の深層を作品に添加する ことで更なるリアリティーが追
求出来るという可能性を示唆したい。そしてそれは支持体に対して意識的に触れ続けることで徐々に形成されていく、ま
たは出て来てしまうと私は考えている。つまり、下味と手癖が個の確立を担っているということだ。逆に言うと、作家の
リアリティーが顕著に作用されてしまう個性という点において理論やコンセプト、技法や表現媒体は個の確立に繋がらな
いと言っているのだ。
この定義に対して疑問に思う方は居るだろう。それは「触れ続ける」という言葉が、ある方面にとって当てはまらない
からだ。その方面とは、大作を制作する為に大勢の手を借りる作家や自らが持ち合わせていない専門的な技術や技法を他
者の技術力に委ねる作家などが今日において決して珍しくないということだ。そして、それら数多の作家たちは美術史的
にもこの定義に反して個の確立を成功させている。彼らが作り出す作品を私の定義に当てはめた場合、その作品からは異
なる幾つもの下味と手癖が発見されるだろう。そして、それらは画面内に混沌を生み出し、その飽和状態にある作品が作
家の個の確立に繋がらないことは容易に想像がつく。だが、実際はしっかり作家の個の確立に結びついている。つまり定
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義上、個の確立は下味と手癖を残したスタッフ自身に繋がる筈なのだが、結果は他者である作家に繋がったのだ。この事
実は逆説的に私の定義を否定するものとなるだろう。このように、私の定義はことごとく崩されたように見えるだろう。
しかし、私の定義をことごとく崩してくれた彼らも実はこの定義に沿って個の確立を行っていたと私は考えている。な
ぜなら、根本が既に別物だからだ。その根本とは作家と作業スタッフの立ち位置、もしくは立場の違いと言える。まずは、
この定義を構築する際に出した大きな前提条件を思い出して欲しい。それは序論から度々出て来た「リアルを超えるリア
リティーを追求する姿勢」という心構えだ。私は、この心構えを作品と向き合う 全ての作家 が共通して持っていると既
に述べている。つまり、私の定義に作業スタッフという立場は含まれていないのだ。それもその筈だ。なぜなら、彼らは
あくまで依頼された作業をこなしているだけで、決してリアルを超えるリアリティーを追求するような思考の余地を雇い
主である作家から貰っていないからだ。逆にもしその余地を作家が彼らに与えたならば、それは作家自身の個の確立を危
うくさせる自殺行為となるだろう。だからだろうか、そのような大作を主に手掛ける作家たちの制作スタイルはシステマ
チックな分業制が目立つように思える。これも作業スタッフたちの個々を確立させない為の作家が仕組んだ仕掛けなのだ
ろう。このシステムがもたらす効果とは、向き不向きという言葉で区別され一部だけ特化してしまった スペシャリスト
集団 の育成である。つまり、各箇所で作家の意図にあった作業スタッフの下味と手癖だけが適材適所で残留していくの
だ。これにより作家の個の確立は守られるわけだ。逆に言えば、
作家がこの作業を怠れば幾つもの弊害が生まれるだろう。
そして、その全てが自身の個の確立に関わってくるのだ。このように個の確立を守る為、作家は作業スタッフをスペシャ
リストに育て上げ(作家の下味と手癖を再現させる)、作業スタッフはスペシャリストに養成されたことで個を確立出来ず
にいる(作家の模倣に徹する)と考えられる。これらの点から大作を主に手掛ける彼らもこの定義に則っていると私は言い
たい。
また、自らのリアリティー(下味と手癖)を作品に添加出来るか否かで、個の確立を大きく左右することがこのことより
更に明確に出来たと言えるだろう。やはり、個の確立とはこれら2つの要素で他者に認識されるのだ。
終わりに
私は今回、オタク文化というものを絡めて私自身が追い求めているリアリティーについて論じてきた。結論から言えば、
私のこのリアリティーを追求する 方向性 は幼少期にブラウン管を通じて受け継いだと言える。その求める方向性はまる
で生きているかのように今日も様々なものを加速度的に吸収し、無意識の内に世代を超えて受け継いでいる。
これは少し恐ろしいことでもある。それは、私自身受け継いだ自覚が無いからだ。自覚が無いまま私の中で粋の目もし
くは大きな物語は、今日まで制作して来た作品群の中で無意識に再現されている。これは今回論じたように、私の個を支
える1つの価値観であることは間違いない。しかしそれを認めてしまうということは、同じような条件下で育った不特定
多数の他者も同じような価値観を持っていると認めることとなるのだ。つまり、個が個でなくなる可能性は常に私たちの
周囲に存在するということである。私たちは現実にも深層にも共有した世界を持ち、その世界には感覚を揺さぶる多数の
問題が常に現れる。その1つ1つの問題に個を見出すきっかけがそれぞれ内包されているだろう。また世界を共有してい
る以上、その問題は他者との共通のものなのだ。
そして、制作者にとってその問題から個を引き出すきっかけは支持体を触り続けること(またはそれと同等の動き)であ
る。これは私たち作品を制作する者にとって欠かせない行為だ。触わるという行為は単純な動作であり運動であるが、制
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作者にとってその単純もしくは作業でしかない行為の中に個は明確に映し出されていく。このことを念頭に入れておかな
ければ、個の確立など叶うはずもない。また忘れてはいけないことは、今回、何度も登場した自らのリアリティーを追求
する姿勢である。意識とは必ず運動(手癖)に伝わるものだ。それはどうしても抗えない。つまり 各々のリアリティーをそ
れぞれが追求する この姿勢こそが世界を共有している私たちにとって、対抗し合う為の唯一の有効な手段と言える。だ
からこそ私達の本当の意味での個性は自らを削ることでしか形成されない。
18
【注】
[注1]
頭の中の「イメージ」を見せることを見立てと言う。例えば、日本古来のもので日本庭園などがそれにあたる。庭に置い
た大きな石を「島」に見立て、敷き詰められた玉砂利を「波」に見立てる。そして縁側から眺めたとき、島が美しく並び
庭全体を「絶景」に見立てるのだ。特撮で例えるならば、ハリウッド製のSFXが「リアリティーがすごい」なら、日本の
特撮は「嘘みたいにかっこいい」「夢みたいにきれい」という感動を目指す趣向だ。見る人も「本物」とは思っていない
が、それでも良いという世界である。
岡田斗司夫 『オタク学入門 「東大オタク文化論ゼミ公認テキスト」』 新潮社 2000年
[注2]
岡田斗司夫 『オタク学入門 「東大オタク文化論ゼミ公認テキスト」』 新潮社 P.170 L.5 14
2000年
[注3]
大きな物語とは18世紀末より20世紀半ばまで近代国家で成員をひとつにまとめあげる為に設備されたシステムの総称
である。例えば思想的には人間や理性の理念として、政治的には国民国家や革命のイデオロギーとして、経済的には生産
の優位として現れてきた。フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールが最初に指摘した「大きな物語の凋落」
に対応している。この言葉は今日まで様々な拡大解釈が行われ、70年代以降の世界の特徴を捉える便利な概念として流
通していった。今回では「大きな物語」を指す場合、ジャン=フランソワ・リオタールの固有の概念というよりそれら様々
な拡大解釈も含めた広い概念として使っている。
東浩紀 『動物化するポストモダン オタクから見た社会』 講談社
2001年
[注4]
大塚英志 『物語消滅論̶‒キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』 角川書店 P.56 L.13
2004年
[注5]
東浩紀 『動物化するポストモダン オタクから見た社会』 講談社 P.30 L.6 15
P.31 L.6 15 2001年
[注6]
東浩紀 『動物化するポストモダン オタクから見た社会』 講談社 P.35 L.14 15 P.36 L.1 11
2001年
[注7]
岡田斗司夫 『オタク学入門 「東大オタク文化論ゼミ公認テキスト」』新潮社 P.164 L.2 7
2000年
【参考文献】
岡田斗司夫 『オタク学入門 「東大オタク文化論ゼミ公認テキスト」』 新潮社 2000年
東浩紀 『動物化するポストモダン オタクから見た社会』 講談社 2001年
大塚英志 『定本 物語消費論』 角川書店 2001年
大塚英志 『物語消滅論̶-キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』 角川書店 2004年
榎本秋 『オタクのことが面白いほどわかる本』 中経出版 2009年
ワンピ漫研団 『ワンピース最強考察』 晋遊舎 2010年
19
P.31 L.1 11
【参照作品】
『ウルトラQ』 TV特撮
『マグマ大使』 漫画/TV特撮/OVA
『仮面ライダー』 TV特撮
『ジャングル大帝』 漫画/TVアニメ/OVA/劇場映画
『巨人の星』 漫画/TVアニメ
『タイガーマスク』 漫画/TVアニメ
『マジンガーZ』 漫画/TVアニメ/OVA
『宇宙戦艦ヤマト』 漫画/TVアニメ/OVA/劇場映画
『機動戦士ガンダム』 漫画/TVアニメ/OVA/劇場映画
『スターウォーズ』 SF映画
『2001年宇宙の旅』 SF映画
『うる星やつら』 漫画/TVアニメ/OVA/劇場映画
『Dr.スランプ アラレちゃん』 TVアニメ/劇場映画
『超時空要塞マクロス』 漫画/TVアニメ/OVA/劇場映画
『北斗の拳』 漫画/TVアニメ/OVA/劇場映画
『新世紀エヴァンゲリオン』 漫画/TVアニメ/劇場映画
『けいおん!』 漫画/TVアニメ/劇場映画
『らき☆すた』 漫画/TVアニメ/OAD
『涼宮ハルヒの憂鬱』 漫画/TVアニメ/劇場映画
『魍魎戦記MADARA』 漫画/OVA
『メガゾーン23』 OVA
『機動戦艦ナデシコ』 漫画/TVアニメ/OVA
『セイバーマリオネットJ』 漫画/TVアニメ/OVA
『ひだまりスケッチ』 漫画/TVアニメ/OAD
『ONE PIECE』 漫画/TVアニメ/OVA/劇場映画
『サンダーバード』 TV特撮
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