表紙(全文) - 学校法人 豊昭学園

ISSN 0917−5237
東京交通短期大学
研究紀要
第14号
―元学長 廣岡治哉先生追悼号―
目 次
〈追悼〉
廣岡治哉先生を偲んで… ……………………………………
田 中 宏 司…… (1)
元学長 故廣岡治哉先生の略歴と主要著作……………………………………… (3)
〈論文〉
企業不祥事とコンプライアンスの本質… …………………
田 中 宏 司……… (7)
会社法の全面施行と課題… …………………………………
松 岡 弘 樹…… (17)
1939 年のレイモン・クノー
―作家はいかにして作家になるのか―… ………………
沼 田 憲 治…… (33)
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷… …………
川 津 賢…… (49)
学校法人会計の計算書類明瞭化に関する一考察
―独立行政法人会計書類との比較から―… ……………
佐 藤 勝 治…… (65)
タクシー事業の料金問題… …………………………………
秋 山 義 継…… (77)
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
―同社の創立経緯を中心に―… …………………………
安 彦 正 一…… (87)
明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献……
安 彦 正 一…… (107)
「チョウダイスル」と共起する名詞
―文学作品における用例とWWWの用例を中心に―… …
秋 山 智 美…… (133)
〈研究ノート〉
最近の就職活動に関する一考察… …………………………
桑 原 賢 二…… (145)
簿記の歴史―その概略について、講義の一こま―… ……
佐 藤 良 之…… (151)
2008年12月
東京交通学会
廣岡治哉先生を偲んで
東京交通短期大学学長
田 中 宏 司
本学の第9代学長で名誉教授である廣岡治哉先生が、平成 19 年 11 月 17 日にご逝去さ
れた。
先生は、昭和 2 年 8 月 9 日、兵庫県竜野市にお生まれになった。昭和 25 年に東京大学
経済学部商業学科を卒業後、昭和 26 年から昭和 36 年まで、財団法人運輸調査局に研究
員として勤務された。その後、昭和 36 年から平成 10 年までの長きにわたり、法政大学
の経営学部で教鞭をとられ、交通関係を中心とした分野で、数多くの著書、論文を発表さ
れた。在任中には、学生部長、経営学部長、常務理事等の要職を務められ、ご退任後も名
誉教授として同大学の教育改革に貢献された。
学外においても、日本交通学会の会長を始めとして、国際公共経済学会、日本海運学
会、公益事業学会、日本経済学会などの理事、評議員を務めるとともに、運輸政策審議会、
学術審議会等の政府の多くの審議会委員など、幅広い分野にわたって顕著な業績を残され
た。
平成 12 年に本学の学長として赴任され、以来、短大内での学会の創設、本学の 50 周
年記念行事の開催等数々の改革を行い、現在の本学の基盤を作られた。先生は学生との
コミュニケーションを大切にすることをポリシーとしておられ、学長として自ら講義を
担当された。先生の講義は、交通の専門家ならではのウイットに富んだ語り口と相まって、
本学を代表する講義となり、非常に人気のある講座であった。平成 15 年に学長を退かれ
た後は、名誉教授として年に 1 回、特別教養講座の講師として本学の教壇に立たれた。
先生は、歴代の学長との関係が大変深い方であった。第 6 代学長の高橋秀雄先生は、
廣岡先生が運輸調査局勤務時代の専務理事にあたる方であり、
「豊昭学園 60 周年記念行事」
に際して、高橋先生から依頼されて記念講演をしたのが、廣岡先生と本学との最初の関
わりであった。第 7 代学長の今井則義先生は、東大経済学部の先輩であり、運輸調査局、
法政大学を通じて、50 年近くの間、公私ともに親交があった方でした。第 8 代学長の増
井健一先生は、廣岡先生に本学の学長就任を依頼された方であり、日本交通学会の会長職
は、増井先生から廣岡先生へと引き継がれた。
現在の本学は、少子化の影響等により、様々な改革を必要とする非常に難しい局面を迎
えている。先生が先鞭をつけられた改革の火を絶やすことなく継承し、教職員一丸となっ
て、本学の改革に取り組む所存である。
教職員一同、長年に亘る本学における先生のご功績を讃えて感謝を申し上げるととも
に、心よりご冥福をお祈り申し上げる。
−−
元学長 故廣岡治哉先生の略歴と主要著作
〈略 歴〉
1927 年 8 月 9 日 兵庫県龍野市に生まれる。
学 歴
1940 年 3 月 兵庫県龍野町立龍野小学校尋常科終了
1944 年 3 月 兵庫県立龍野中学校 4 年次終了
1947 年 3 月 旧制姫路高等学校文科一組甲類卒業
1950 年 3 月 東京大学経済学部商業学科卒業
職歴・教歴
1951 年 2 月 財団法人運輸調査局研究員
1961 年 4 月 法政大学経営学部専任講師
1963 年 4 月 法政大学経営学部助教授
1969 年 4 月 法政大学経営学部教授
1973 年 4 月 法政大学経営学部長
1981 年 5 月 法政大学理事
1981 年 7 月 法政大学常務理事
1988 年 9 月 財団法人運輸調査局評議員
1990 年 9 月 上海鉄道学院(現鉄道大学)顧問教授
1998 年 3 月 法政大学定年退職、同大学名誉教授
2000 年 4 月 東京交通短期大学学長
2003 年 4 月 同退任、同短大名誉教授
学会活動
1971 年− 1997 年 日本交通学会理事
1981 年− 1984 年 日本経済学会連合評議員
1986 年− 1997 年 国際公共経済学会常任理事
1987 年− 1991 年 日本交通学会会長
他、日本海運学会、公益事業学会の理事、評議員を歴任
公 務
1965 年− 1967 年 中小企業近代化審議会専門委員
1967 年− 1969 年 運輸経済懇談会専門委員
1970 年− 1974 年 運輸政策審議会専門委員
1972 年− 1973 年 東京都専門委員(総合交通担当)
1976 年− 1978 年 東京都交通問題対策会議委員(小委員長)
1978 年− 1982 年 日本国有鉄道運賃問題懇談会委員
1980 年− 1984 年 文部省学術審議会専門委員
1991 年− 1994 年 日本学術会議会員
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〈主要著作〉
著 作
江戸定飛脚問屋株仲間の研究―日本陸運資本前史―1958 年 一隅社
市民と交通1987 年 有斐閣
編著・共編著
外国の通運1954 年 一隅社
日本の交通問題1967 年 ミネルヴァ書房
交通戦争1968 年 法政大学出版局
鉄道と道路の国民経済的比較に関する調査・研究1968 年 国民経済研究協会
市民の交通白書1970 年 東京都交通局
現代交通の理論と政策1975 年 日本評論社
現代の交通経済1977 年 有斐閣
東京・ロンドンの研究1978 年 法政大学出版局
現代経済と国家 上巻1979 年 日本評議社
近代日本交通史1987 年 法政大学出版局
都市交通―技術と経済―1989 年 成山堂書店
現代の物流1994 年 成山堂書店
現代交通経済論1997 年 産図テキスト
都市と交通―グローバルに学ぶ―1998 年 成山堂書店
現代交通観光辞典
2004 年 創成社
共 著
通運史 第 2 巻1956 年 一隅社
日本の造船業1959 年 東洋経済新報社
現代日本産業講座 ・第二巻 鉄鋼業1959 年 岩波書店
危機に立つ都市交通1969 年 労働旬報社
訳 著
民営化の世界的潮流(共訳)1987 年 御茶の水書房
観光と経済開発(監訳)1992 年 成山堂書店
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〈論 文〉
東京交通短期大学 研究紀要第14号 2008.12
企業不祥事とコンプライアンスの本質
Deplorable Affair of Corporations and Essence of Compliance
田 中 宏 司
Hiroji Tanaka
(要旨)
企業不祥事は、企業社会の現状から見て、根絶は無理な状況にある。そこで、本論では、第 1 に、不
祥事を引き起こした企業の行動から教訓を学ぶこと、第 2 に、コンプライアンスの本質を改めて十分理
解すること、第 3 に、コンプライアンスの実践体制を構築して全社を挙げて取り組むこと、の重要性を
考察した。
さらに企業再生へのヒントとして、第 1 に、内部通報制度、倫理ヘルプラインの活用、第 2 に、消費
者重視経営の推進、第 3 に、不祥事が多発している食品企業に対する農林水産省「5 つの基本原則」へ
の適切な対応、の 3 点をあげて企業の持続的な発展を図る道を示した。
1.企業不祥事の続発
(1)食品企業不祥事の実態
この数年、企業不祥事が続発している。人々が最も関心の深い食品企業中心に見ると、①食品原材料
そのものの偽装出荷や消費期限切れ使用、②菓子類について消費期限不正表示、賞味期限改ざん、消費・
賞味期限切れ販売、③食品の製造日や原材料の重量表示の偽装などが、社会の批判を浴びている。これ
らの不祥事は、食品衛生法、JAS 法、不正競争防止法等明らかに法令違反である。重要なことは、“消
費者からの信頼”を失墜したことにある。
何故、食品企業不祥事が多いのであろうか。共通する原因を探ると次の通りである。
第 1 に、食品企業には、地方の伝統ある老舗で同族企業が多い。したがって、コンプライアンスや内
部統制への体制整備が遅れており、対策が不十分である。第2に、お客様・顧客の変化するニーズに対
応しようとして、手っ取り早く手ごろな価格や簡便な流通体制を利用するほか、社内の管理体制が整備
されていない。第3に経営者自ら不正行為を指示するケースや、経営者がうすうす不正と認識した後も
黙認する形で、長年にわたる“組織ぐるみの不正行為”が継続されていた。第4に、企業として、社外
取締役・監査役など外部からの監視が行われていない。第5に、社内通報制度が整備されず、社内で隠
せるとして内部告発されるとの意識がなかった。第6に、企業として、良質で安全・安心な商品を社会
へ提供することが食品企業本来の目標であるという意識が希薄化していた(図表 1 参照)。
総じて、不祥事の発生した食品企業は、モラルの崩壊や規律のゆるみが生じており、現場の業務運営
−−
企業不祥事とコンプライアンスの本質
面における相互牽制の手抜きやチェック機能の形骸化、不十分なコンプライアンス、内部統制への取組
み不足などにより、違法・不正行為が行われていたと考えられる。
図表1 最近の主な食品関連の法令違反事例
【2007 年】
・ 不二家消費期限切れ原材料使用事件(1 月)
・ 食品加工会社ミートホープの牛ミンチ偽装事件(6 月)
・ 石屋製菓の「白い恋人」の賞味期限改ざん事件(8 月)
・ 和菓子メーカー「赤福」消費期限不正表示事件(10 月)
・ 食肉加工製造会社「比内鶏」の「比内地鶏」としての偽装出荷事件(10 月)
・「船場吉兆」消費・賞味期限切れ菓子販売事件(10 月)
・「御福餅本家」の「御福餅」の製造日や原材料の重量表示の偽装事件(10 月)
・ ミスタードーナツ、シロップ賞味期限切れ事件(10 月)
・「船場吉兆」鹿児島産牛肉を但馬牛とした偽装事件(11 月)
・ マクドナルドの賞味期限切れ材料使用事件(11 月)
【2008 年】
・ 中国製冷凍ギョウザ中毒事件(1 月)
・ 牛丼チェーン「すき家」の残業代不正未払い事件(4 月)
・ 食品販売会社「山形屋」の輸入鶏肉の偽装事件(7 月)
・ 米粉加工販売会社「三笠フーズ」等の汚染米不正転売事件(9 月)
出所:日本経済新聞、朝日新聞等の各種報道に基づき作成。( )内は報道された月
(2)企業不祥事に共通する特徴
一般的に、企業不祥事が発生した企業は、長年培われた企業への信頼や信用が著しく損なわれ、経営
上計り知れぬダメージを被る。消費者、国民、社会の信頼を失い、社会からはその様な企業に対する怒
りや不信が急激に高まる。さらに、社会からコンプライアンス、内部統制、リスクマネジメントなどの
各側面で、不十分な対応や不適切な企業体質を指摘され、緊急対策に追い回される。
振り返ると、1990 年代の企業不祥事では、経営トップ層が直接関与する経営中枢の腐敗による反社会
的行為が目立った。最近では、経営トップ層が関与する事件のほかに、“業務の現場による違法・不正行
為”が多くの原因となっている。これは、現場の業務運営面における規律のゆるみ、業務相互牽制の手
抜き、チェック機能の形骸化など、組織ぐるみのコンプライアンス違反による不祥事へとつながる。経
営トップをはじめ、役員・社員が、社会や経営環境の変化に順応できずに、目先の利益を追求するあまり、
社会や消費者の目線を忘れ、コンプライアンス意識が希薄化し、業務遂行に際して問題解決を先送りす
るなど深刻な事態であると考えられる。
不祥事が発覚した企業を見ると、概ね次のような共通した現象がみられる。
第 1 に、緊急事態、異常事態が発生したことが、経営トップや上層部へ実情が迅速に報告されていな
いことから、初期動作に立ち遅れが目立つ。
−−
企業不祥事とコンプライアンスの本質
第 2 に、緊急に社内で実情調査を実施するものの、とかく隠そうとする企業体質を映じて、実態把握
に時間がかかる上、社会への情報公開が不十分である。
第 3 に、社内通報制度が形骸化しており、上司に実態を報告しても握りつぶされているほか、社内調
査の内容が二転三転する間に、内部告発によりさらに違法・不正実態が発覚する。一方、経営陣が実情
の把握に手間取り、記者会見などの場面で、率直な説明と真摯な謝罪が遅れるなど企業イメージの急落
を招いている。
第 4 に、現場の従業員の間では、不正行為や法令違反との声が上がっているにも拘らず、経営層の認
識が甘く、見てみぬ振りをするあるいは黙認するなどしている間に、単純な事故やミスから、本当の事
件に発展してしまう。
第 5 に、現場における業務運営のさまざまな場面で些細な変化や予兆を見逃し、対応がないままいつ
の間にか大事件につながる。これは、現場の管理職・社員等が、現場で発生するごく小さな変化・予兆
などを的確に捉えずに、業務マニュアルに従い形式的に業務を行っていることや相互牽制が十分機能し
ないことなどが原因となっている(図表 2 参照)。
図表2 近年の企業不祥事の主要内容
不祥事の内容
主要な当事者・関係者
主要な関係法令等
商品表示 企業役員 ・ 従業員、一般消費者
食品衛生法、JAS 法、不当景品
類及び不当表示防止法、不正競
争防止法、計量法
不良製品 ・ 商品
企業、一般消費者
製造物責任法、食品衛生法
不正取引
企業、取引相手
刑法、独占禁止法、下請法
企業情報漏洩 ・個人情報流出
企業、業者、委託先、顧客
刑法、不正競争防止法、個人情
報保護法
利益供与
企業トップ・総務関係者
商法、会社法
インサイダー取引
企業役員・取引関係部者
金融商品取引法
セクシャル・ハラスメント
企業役員・従業員
労働基準法、
男女雇用機会均等法
談合
企業、公正取引委員会
独占禁止法
贈収賄
企業、取引相手、官僚
類似商標・デザイン侵害
企業、競争相手
商標法、著作権法、特許法、実
用新案法等
薬害
企業、一般消費者
薬事法
損失補填
証券会社・各関係部署、顧客
金融商品取引法
刑法、国家公務員倫理法
出所 : 田中宏司(2007)『コンプライアンス経営 [ 新版 ]』生産性出版、p34
図表 1 − 6 に基づき、法令名など一部修正。
−−
企業不祥事とコンプライアンスの本質
(注 1)
労働災害の発生確率についての「ハインリッヒの法則」
によると、「1 件の死亡や重傷のような重
大災害が発生する背景には、29 件のかすり傷程度の軽災害があり、さらにその裏には 300 件のヒヤリと
する、ハットする体験がある」といわれている。企業における業務運営面でも、日常的に発生する 300
件の“ヒヤリ・ハットの体験”を生かしていかにして軽災害にしないか、29 件の軽災害を大事故の発生
につながらないようにするかについて、役員・社員が工夫することが求められている。
2.コンプライアンスの本質
(1)コンプライアンスの真の意味
企業不祥事が発生する背景には、経営陣をはじめ従業員に、仕事とコンプライアンスは別物で「コン
プライアンスに取り組むと、利益が上がらない」との誤解がある。本来は、「コンプライアンスは、業務
の遂行と一体となって行われる」との意識のもと業務が遂行されるべきものである。
企業不祥事に対して、どのような手を打てば経営の危機を防止できるのであろうか。基本対策として
は、消費者や社会の信頼を維持し向上させるため、コンプライアンスの本質をしっかりと理解した上で、
コンプライアンスの実践を能動的に、主体的に、誠実に取り組み行動することが必要である。
「コンプライアンス」(compliance)は、一般的に「服従、応諾、承諾、追従」、医薬の分野では、
「服薬遵守」
などの意味がある。しかし、最も重要なことは、「ルール、約束、法律などに従うこと」「関係者の願い
・ 要請などに対応する」などの意味があることを十分認識することである(注 2)。
ビジネスの分野でコンプライアンスが、関係法令を守る「法令遵守」を意味するのは、1960 年代から
アメリカおいて独占禁止法違反事件など各種の法令違反が発生し、この対策として企業がコンプライア
ンス・プログラムを作成し実践したことなどに起因する。
一方、わが国でも企業不祥事が続発していることから、企業存続のためにもコンプライアンスが重要
課題となっている。コンプライアンスの実践に際し、関係法令等の法規範を遵守する「法令遵守」(狭義)
は最低限の義務である。企業は、経済的存在であるのみならず、社会的存在として社会に与える影響が
大きいことから、単に法令を守ればよいというものではなく、さらに諸規定・マニュアル等の「社内規
範の遵守」や、社会の良識・常識等の「社会規範の遵守」を包含した「法令等遵守」( 広義 ) として、広
く解釈して行動することが望ましい。具体的には、金融庁では、金融検査マニュアルにおいて、「法令等
遵守」態勢の整備・確立を求めている。
さらに、先進企業では、コンプライアンスについて「第1段階の法規範、第2段階の社内規範、第3
段階の社会規範をそれぞれに遵守するほか、第4段階として、理念・ビジョン、計画に適う行動を取る」
ということまでを包含する、従来よりも広い意味にとらえ実践している。
このように、自社の経営理念、経営哲学、価値観等を踏まえてコンプライアンスを、
「理念 ・ ビジョン・
計画に適う行動」または「自社のステークホルダーの願い・要請への適切な対応」として、企業行動全
般まで広げた適切な対応が望まれている。この最も広義の意味こそが、まさに消費者や社会が企業に求
めているコンプライアンスの本質である。
このような状況を踏まえると、わが国産業界におけるコンプライアンスの定義と本質は、改めて次の
ように総括することができる(図表3参照)。
− 10 −
企業不祥事とコンプライアンスの本質
第 1 は、「法令遵守」(①)は、法律、政令、省令等の遵守であり、狭義の定義である。
第 2 は、「法令等遵守」( ①+②+③ ) は、さらに社内規則、業務マニュアル等の社内規範の遵守と社
会の常識・良識等の 社会規範の遵守まで包含する広義の定義である。多くの企業人がこの意味で捉えて
いる。
第 3 は、「理念・法令等遵守」( ①+②+③+④ ) は、上記第 2 に加えて、経営理念、経営哲学、価値
観等を踏まえて「理念 ・ ビジョン・計画に適う行動」として、企業行動全般まで広げた最広義の定義である。
したがって、企業経営のトップとしては、まず組織内で「法令、社内ルール、約束などに従うこと」
を厳守することを鉄則として、その上で「自社のお客様・消費者などのステークホルダーの願い ・ 要請
などに誠実に対応する」という強い決意を持って、時代の変化を敏感に感じて役員・社員と一体になっ
て業務活動を行うことが求められている。経営トップの重要な責務は、社会から望まれる「誠実な企業」
として、持続的に発展をできるように、コンプライアンスを実践し、倫理的な企業文化醸成に鋭意努め
ることにある。
図表3 コンプライアンスの定義
〜狭義から広義への広がり〜
④理念 ・ ビジョン・計画に適う行動
関係者の願い・要請への適切な対応
③社会規範の遵守
(社会の常識・良識)
②社内規範の遵守
(社内規則、業務マニュアル等)
①法令遵守
(法律、政令、省令等)
出所:水尾順一・田中宏司・池田耕一編 (2007)
『コンプライアンスと企業文化を基軸としたやわらかい内部統制』日本規格協会、P60。
コンプライアンスの真の意味は、「ビジネスにおける誠実性である」と著者は認識している。すなわち
コンプライアンスは、①組織を構成する経営者・社員の人間としての倫理観をベースに、②職業を有す
る人に関わる職業倫理・専門職倫理や、③企業経営に携わるトップマネジメントはとして、企業使命・
経営理念などに基づく企業活動に関わる組織倫理といった、すべての倫理観の基盤をなしていると考え
る。企業人として、関係者の願い・要請などに対応して企業活動をどのように正しく行うかに関する、
すべての倫理問題の基盤がコンプライアンスの真の意味と考えられる。
− 11 −
企業不祥事とコンプライアンスの本質
(2)経営理念に基づくコンプライアンス
企業にとって経営理念は、企業の経営方針、経営戦略の策定や意思決定をする際の拠り所となり、組
織の全メンバーが行動を起こす時の精神的支柱として、企業の諸活動の基本方針となる。しかも、この
経営理念には、コンプライアンスの本質が包含されている。
企業の経営理念には、①上位概念としての創業の精神、企業使命、企業理念、社是・社訓、経営理念
など長期的に守るべき理念・哲学があり、②中位概念として企業目的、事業目的、経営方針などを示し、
③下位概念として行動指針や行動基準、行動規範などを列挙する、という体系的な階層性および領域性
をもって構成されている(図表4参照)。このように経営理念には、すでにコンプライアンスは、経営理
念の実践にとり不可欠なものとなっている。
図表4 経営理念の内容
経営方針
事業目的
企業使命・価値観
経営戦略
行動指針
出所:田中宏司 (2005)『コンプライアンス経営 [ 新版 ]』生産性出版、P46。
経営理念には、各企業によりさまざまな表現を使用しているが、次のような多くの共通点が見られる。
①経営理念は、経営の“導きの星”として羅針盤の役割を果たしている。
②経営理念には、経営哲学から具体的な行動基準やコンプライアンスの実践まで、広範囲に明示され
ている。
③ステークホルダー重視の姿勢が、明確に表現されている。
④企業は誰のものか、どのように運営されるべきかなど、コーポレート・ガバナンスと内部統制の実
践が簡潔に明示されている。
近年、不祥事を起こしている名門企業、一流企業の場合には、これらはいつのまにか経営理念の言葉
や文章だけが形式的に掲げられ、経営理念が空洞化していたことが原因と見られる。
経営トップのリーダーシップのもと、経営理念に基づき、コンプライアンスの実践を経営戦略に組み
込み、すべての事業活動がコンプライアンスと表裏一体となり、公正で誠実に事業活動を行うことが求
められている。さらに、最近、社会・経済・経営環境の激変から、企業として良き市民性が問われ、環
境、人権、労働慣行、コーポレート・ガバナンス、公正な商習慣、コミュニティ参画、消費者課題などが、
CSR の推進に際しての課題となっている。このような事情を勘案するとコンプライアンス体制の確立と
− 12 −
企業不祥事とコンプライアンスの本質
実践・定着が必要不可欠となっている。
3.コンプライアンスの実践と具体的な方法
現代の企業にとり、コンプライアンス体制を構築してコンプライアンスを定着させることこそが、不
祥事の防止とともに社会からの信頼の向上につながる。不祥事が多発した食品企業は、経営規模として
中小零細企業が多い(全体の約99%)ことが特徴である。それだけに、企業行動基準、衛生管理マニ
ュアル、事故対応マニュアルなどの作成も遅れている。
そこで、社内にコンプライアンス意識を醸成し、従業員にこれを周知徹底するには、次のような取組
みをする必要がある(図表5参照)。
第 1 に、経営トップが、「お客様・消費者の信頼を得るために、コンプライアンスを誠実に実践する」
とのメッセージを社内外へ宣言するとともに、自ら率先垂範する姿勢を示すことである。このメッセー
ジは、社会に対する“公約”となり、企業として優先して取り組む課題となる。
第2に、自社の経営理念、経営哲学を役員・社員で共有するほか、具体的な企業行動基準、行動規範、
行動指針などを作成したうえで、ガイドラインとして社内に周知徹底する。できれば、このような自社
の行動基準を社外に公開することが望ましい。
第3に、コンプライアンスの遵守体制として、コンプライアンス担当役員・責任者の任命、コンプラ
イアンス当部署の設置、教育・研修プログラムの実施、倫理ヘルプラインの設置など体制を整備し、適
正な運用を図る。
図表5 コンプライアンス実践の全体像
経営トップのリーダーシップとコミッ
トメント
・経営理念・価値観の共有化
・企業行動憲章・行動基準の周知徹底
フォローアップ体制
・コンプライアンス委員会
実践体制
・コンプライアンス監査
・コンプライアンス意識調査
・コンプライアンス業績の評価
⎫
⎪
⎪
⎬
⎪
⎪
⎭
遵守体制
・コンプライアンス担当役員
・コンプライアンス担当部署
・教育・研修プログラム
・倫理ヘルプライン
出所:水尾順一・田中宏司・池田耕一編 (2007)
『コンプライアンスと企業文化を基軸としたやわらかい内部統制』日本規格協会、P66。
図表 3.5 のタイトルを修正。
− 13 −
企業不祥事とコンプライアンスの本質
第4に、コンプライアンス経営の実践状況をチェックし見直すために、コンプライアンス委員会の運営、
アンケート調査などによる社内外の意識調査や、社内外の監査・検査、人事考課にコンプライアンス評
価を組み入れなど、フォローアップ体制を整備する。
社会から望まれる「誠実な企業」として、持続的発展を遂げるためには、全社一丸となってコンプ
ライアンスの実践と定着に地道な取り組みをすることが、社会からの高い評価につながる。このような
取り組みの成果として、倫理的な企業文化や組織風土の醸成ができるのである。
4.企業再生へのヒント
(1)社内通報制度の活用
最近の企業不祥事問題は、その多くが内部告発により発覚している。本来、企業内の不正や法令違反
行為は、社内でいち早く発見して、改善することが望ましい。そのためには、社内の日常業務やコンプ
ライアンスに関する照会、疑問、相談、報告などについて、通常の業務報告ルート以外に、社内通報制
度として「倫理ヘルプライン」を整備して、活用することが不可欠である。
例えば、雪印乳業は、食中毒事件(2000 年)と子会社の食品牛肉偽装事件(2002 年)を経て企業再
生に取り組む過程で、企業倫理ホットライン(社内通報相談窓口)とスノーホットライン(社外通報相
談窓口)を設置して、些細な疑問、相談、提案などをはじめ、公益通報とそれ以外の業務上の法令違反
などを専用メール、専用電話、書面などにより受け付けている。
このような社員とのコミュニケーションの促進と、お客様・消費者への対応として、全国 6 ヶ所のお
客様相談室を、本社に集約して一元管理し、365 日お受けする「お客様センター」を開設して、きめ細
かく対応している。この結果、雪印乳業は消費者からの信頼回復が促進され、同社の企業再生が着実な
成果を上げている。
倫理ヘルプラインを活用することは、社内の役員・従業者相互のコミュニケーションを促進するとと
もに、不祥事から企業再生するための重要な取り組みである。
(2)消費者重視経営の推進
企業不祥事は、お客様・消費者の信頼を揺るがし、企業経営の根幹について抜本的な施策と改革を迫
っている。
消費者側から見ると、消費者団体が内閣府の委嘱を受けて、「消費者重視経営の評価基準—食品産業の
評価基準—」 をまとめ、2003 年6月に発表している。
その中には、消費者重視の主な対策として、①製品・商品の安全が確保されている、②製品・商品は、
地球環境保全に十分配慮したものとなっている、③製品・商品・サービスについて、的確な情報開示と
十分な説明がなされている、④消費者が苦情・意見を述べる手段・方法が確立している、⑤製品 ・ 商品
事故発生時に、被害拡大を防止するための体制が十分に整っている、の 5 項目を挙げている(図表 6 参照)。
最近の食品業界の不祥事などは、まさにこの 5 点を誠実に守ることの大切さを示している。
− 14 −
企業不祥事とコンプライアンスの本質
図表6 内閣府の 「消費者重視経営の評価基準」 の内容
経営トップのコミットメント
企業における自主行動基準の有無とその公開
消費者重視の主な対策
①製品・商品の安全が確保されている
②製品・商品は、 地球環境保全に十分配慮したものとなっている
③製品・商品・サービスについて、的確な情報開示と十分な説明がなさ
れている
④消費者が苦情・意見を述べる手段・方法が確立している
⑤製品 ・ 商品事故発生時に、被害拡大を防止するための体制が十分に整
っている
コンプライアンス経営のための組織体制
(3)食品企業への農林水産省「5 つの基本原則」
農林水産省では、食品企業のコンプライアンスの徹底に向けて、食品事業団体に対し支援ガイドライ
ンなど新たな枠組み作りに乗り出した。同省では、2008 年 3 月に『「食品業界の信頼性向上自主的行動計画」
策定の手引き〜 5 つの基本原則〜』を策定し公表した。農林水産省の支援策は、食品事業団体および食
品事業者にとって、この「5 つの基本原則」に適切に対応することが“社会的な要請”になっていると
考えられる(図表 7 参照)。
この手引きにポイントを整理すると、次の通りである。
第 1 に、農林水産省は、食品事業団体に対して「信頼性向上自主的行動計画」を策定して、食品事業
者へ周知を図るようを働きかける。同省に「食品業界コンプライアンスの企業 ・ 団体相談窓口」を設置
する。
第 2 に、食品事業団体は、総会 ・ 理事会において自主的行動計画を決定する(2008 年 5 月・6 月の総
会で採択している)。必要な情報の提供 ・ 発信、相談対応、行政機関との連携等を明確化する。さらに、
会員等事業者への「食品事業者の 5 つの基本原則」の周知を図る。
第 3 に、食品事業者は、「食品事業者の 5 つの基本原則」に基づき社内の取り組みを行う。食品の安
全と品質を確保し続ける必要性を社内に浸透させる。そのために、経営者等の強い意思の表明、必要な
教育訓練や研修の実施、従業員が意見を表明しやすい環境づくりをする。
このような行政の取組みに適切に対応すると共に、不祥事を引き起こした企業は、全社一丸となって
− 15 −
企業不祥事とコンプライアンスの本質
コンプライアンスの徹底を基軸にした消費者重視経営を推進することが、お客様・消費者の信頼を回復
する取り組みであり、社会から信頼回復になると確信する。
図表7 「食品事業者の 5 つの基本原則」
基本原則1 消費者基点の明確化
・消費者を基点として、消費者に対して安全で信頼される食品を提供することを基本方針とします。
基本原則2 コンプライアンス意識の確立
・取り巻く社会環境の変化に適切に対応し、法令や条例、公正なルールや社会規範を遵守し、社会
倫理に沿った企業活動をすすめていきます。
基本原則 3 適切な衛生管理 ・ 品質管理の基本
・人の生命と健康の維持、楽しみに大きく関わる仕事に携わっているという自覚を持ち、安全で信
頼される食品を消費者に提供するために、適切な衛生 ・ 品質管理をしていきます。
基本原則 4 適切な衛生管理 ・ 品質管理のための体制整備
・消費者に安全で信頼される食品を提供するために、適切な衛生 ・ 品質管理を行う体制を整備し、そ
れが形骸化しないよう改善を行っていきます。
基本原則5 情報の収集 ・ 伝達 ・ 開示の取組
・消費者などの信頼や満足感を確保するため、常に誠実で透明性の高い双方向のコミュニケーショ
ンを行います。また、そのために必要な情報の収集・管理を行います。
出所:農林水産省『「食品業界の信頼性向上自主的行動計画」策定の手引き〜 5 つの基本原則〜』2008
年 3 月に基づき、作成。
(注 1)「ハインリッヒの法則」
ハーバード・ウイリアム・ハインリッヒ氏(1886 〜 1962 年)が、アメリカの損害保険会社、技術・
調査部副部長時代の 1929 年に発表した論文で提起した法則である。同一人物が起こした同一種類の
労働災害 5000 件余を統計学的に調査・計算して導いたものである。災害防止のバイブルとして多数
の著作物に引用された結果、ハインリッヒ氏は「災害防止のグランドファーザー」と呼ばれている。
(注 2)「compliance」
1.The act or fact of obeying a rule、agreement、or law.
2.the tendency to agree too willingly to someone else’s wishes or demands.
出所:Longman Advanced American Dictionary
【参考文献】
田中宏司 (2005)『コンプライアンス経営 [ 新版 ]』生産性出版
水尾順一・田中宏司・池田耕一編 (2007)『コンプライアンスと企業文化を基軸としたやわらかい内部統制』
日本規格協会
齋藤 憲(2007)『企業不祥事事典—ケーススタディ 150—』日外アソシエーツ
日本経営倫理学会編(2008)『経営倫理用語辞典』白桃書房
岩倉秀雄(2008)『コンプライアンスの理論と実践』商事法務
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東京交通短期大学 研究紀要第14号 2008.12
会社法の全面施行と課題
A General Analysis of the Enforcement of Company Low
and the Issues of Its Implementation
松 岡 弘 樹
Hiroki Matsuoka
目 次
序 論
1、新しい会社法制
2、会社法成立の経緯
3、会社法の基本方針
4、会社法の内容
結 語
序 論
我々の社会生活は、企業の生産活動によって生み出される財貨・サービスを基盤として成り立っており、
ある意味で、企業を中心として営まれているといっても過言ではない。
企業の形態は多岐に渡るが、現在の経済活動の中で最も重要な役割を担っている企業形態は共同企業
の典型である会社制度である。会社制度は経済の仕組みの基盤を支える役割を担っており、その仕組み
が変更されることは、単に法律の内容の改正にとどまらず、経済の仕組みに影響が及ぶ重要な意味合い
を持つこととなる。
この会社制度は、従来は、旧商法・旧有限会社法等に規定が置かれていたが、会社制度が創設されて
以来の全面的な見直しが 2005(平成 17)年に行われて、現在は会社法に規定が置かれている。
会社法に関しては、要綱試案の段階で、パブリック・コメントの結果を基に検証を行ったが (1)、改め
て本稿では、会社法が全面施行されたのを期に、主たる改正項目について概観すると共に、若干の考察
を試みるものとする。
1、新しい会社法制
2005(平成 17)年 6 月 29 日、第 162 回通常国会において、会社法制の現代化を内容とする「会社法」
が「会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律」と共に成立した。
会社法とは、会社をめぐる経済主体間の私的利益の調整を図ることを主たる目的として規定を設けて
いる法規を指すが、従来、我国の会社法制に関しては統一された法典はなく、旧商法をはじめとした法
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会社法の全面施行と課題
律に分散されて置かれていた、共同企業形態である会社に特有な組織および活動に関する法律関係を定
めた規定を指して会社法と呼称していた。会社法は、これらの規定をまとめて、1 つの新たな法典とし
て創設したものである。
近時、会社法制に関しては、短期間の間に数次の改正が行われてきたが、会社法制の現代化に関する
改正は、これまでの一連の改正を凌ぐ規模の内容で構成されており、国際競争力の観点も視野に入れつつ、
企業経営のインフラとしての会社法を見直すものといえ、立て続けに行われてきた改正の総まとめとし
て位置付けられるものである。
2、会社法成立の経緯
従来、我国の会社法制の基本法であった商法、有限会社法は、いずれもいまだ片仮名の文語体で表記
され、現代語化がなされていないものとして残されていた。又、我国の会社法制に関しては、近時、我
国の経済情勢の急激な変化に対応することなどを主たる目的として、短期間に煩雑に改正が行われてき
た結果、全面的な見直しを行う必要性が出てきた。
このような状況の下で、法務大臣の諮問機関である法制審議会の会社法現代化関係部会は、2003(平
成 15)年 10 月 22 日に、「会社法制の現代化に関する要綱試案」を公表した (2)。この要綱試案は、商法
の現代語化というテクニカルな改正以外に、商法、有限会社法、株式会社の監査等に関する商法の特例
に関する法律(以下、商法特例法)等に分散している、会社に関する規定を「会社法」として一つの法
律にまとめたものであった。加えて、各制度間の不均衡を是正し、最新の社会経済情勢の変化に対応す
るための各種制度を見直す実質的な改正を提案する内容であった (3)。
この要綱試案を受けて、法務省民事局参事官室はこの試案を公表し、2003(平成 15)年 10 月 29 日
から 12 月 24 日までの間、法務省のホームページに掲載することによるパブリック・コメントの手続き
を実施すると同時に、裁判所、弁護士会・大学、経済団体・各業界団体などの多数の関係機関・団体に
対して個別の意見照会を行った。会社法部会においては、意見照会の結果を踏まえて引き続き検討を行い、
2004(平成 16)年 12 月 8 日に、「会社法制の現代化に関する要綱案」を公表した。この要綱案は、最低
資本金制度の撤廃、合併の対価の柔軟化、有限会社・株式会社の両会社類型の一体化、合同会社(日本
版 LLC)の創設などが主な柱となっており、国際化が進む経済の急激な変化への対応が狙いであった。
この要綱案に基づき、政府は、2005(平成 17)年 3 月 18 日に、「会社法案」および「会社法の施行
に伴う関係法律の整備等に関する法律案」を閣議決定し、両法案を 3 月 22 日に第 162 回国会に提出し
た。両法案は各々、
「会社法」、
「会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律(以下、会社整備法)」
として同年 6 月 29 日に成立し、これらの法律は、2006(平成 18)年 5 月に施行された(「対価の柔軟化」
の部分については、2007(平成 19)年 5 月施行)(4)。
3、会社法の基本方針
会社法の基本方針は、以下の3点にまとめられる。
(1)現代語化
商法は明治 38 年に制定されたものであり、片仮名文語体で表記されおり、用語の中にも、例えば、番頭・
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会社法の全面施行と課題
手代といった現在ではほとんど使用されない用語が残されていた(旧商法 38 条 2 項)。又、有限会社法
も昭和 13 年に制定されたもので、同じく片仮名文語体で表記されていた。このため、これらの法律に
ついては、利用者にわかりやすい平仮名の表記に改めるべきであるとの指摘がかねてよりなされていた。
そのため、会社法は、各規定について平仮名口語体化を図り、併せて用語の整理を行うことにより、口
語体の現代語によるわかりやすいものになった。
又、改正前の会社法制においては、準用規定が多用されており、特に有限会社法においては、規定の
多くが株式会社に関する商法の規定の準用によっていたが、規定の明確さ、わかりやすさを確保する観
点から、会社法においては、できるかぎり準用規定を設けない方針で規定が置かれている。さらに、今
まで解釈に委ねられていた点を明らかにするなど、規定の趣旨、解釈の明確化の観点からの規定の整備
も多数行われている。
(2)法典の再編成
従来、我国の会社法制に関する規定は、1つの法典としては存在せず、旧商法第 2 編第 2 章に合名会
社、第 3 章に合資会社、第 4 章に株式会社、及び有限会社法に有限会社の 4 種類の会社形態が規定され、
その他商法特例法に大中小の株式会社についての商法の特例規定が置かれていた。さらに、商法施行法、
商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律、商法中改正法律施行法、商法等の一部を改正する法律施行法など
の法律にも会社法制に関する規定が分散されて置かれていたため、利用者にとって非常にわかりにくい
との指摘がなされていた。
このため、会社法では、これらの会社法制に関する規定を 1 つの新たな法典としてまとめると共に、
わかりやすく再編成するものとした。
(3)実質的改正
商法に関しては、近年の我国の経済状況の急激な変化に対応するために、毎年のように大幅な改正が
行われてきた。
近時の改正内容を概観すると、平成 9 年に合併手続の簡素化、ストックオプション制度の導入、平成
11 年に株式交換・株式移転制度の創設、平成 12 年に会社分割制度の創設、平成 13 年は 3 回の改正が行
われ、6 月に金庫株解禁・法定準備金制度の改正、11 月に新株予約権制度の創設・種類株式制度の改正・
株主総会のIT化、12 月に株主代表制度の見直し・取締役の責任軽減・監査役の機能強化が行われた。
さらに、平成 14 年に委員会等設置会社制度・連結計算書類制度の創設、平成 15 年に自己株式取得の
緩和・中間配当限度額の算定方法の改正、平成 16 年に電子公告・株券不発行制度の創設など、短期間に
このような多数回に渡る改正が行われた結果、全体的な整合性を図り、体系的にその全面的な見直しを
行うべきであるという指摘がなされていた。
これに対して、会社法は、①会社法制の現代化の作業に合わせて、会社に関する諸制度間の規律の不
均衡を是正する、②最近の社会経済情勢の変化に対応するために、さらなる各種制度を見直す、③規制
緩和と経営の規律確保を柱とした一連の商法改正作業の総仕上げを行う、という観点から、実質的な改
正を行うものとした。
これらの基本方針に従い、会社法は、会社に関する実態的規定の他に、訴訟、罰則等の規程に加え、
− 19 −
会社法の全面施行と課題
新たに会社非訴訟事件に関する規定も加えるなど、各法律に分かれて置かれていた会社に関する規定を
統合した、第 1 編総則、第 2 編株式会社、第 3 編持分会社、第 4 編社債、第 5 編組織変更、合併、会社
分割、株式交換及び株式移転、第 6 編外国会社、第 7 編雑則、第 8 編罰則の全 8 編 979 条からなる法律
として創設された。
改正の項目は広範囲・多岐に渡るが、主要項目は、機関設計の規律の柔軟化、有限会社制度の廃止と
株式会社との統合、持分会社の創設、最低資本金制度の廃止、合併等の組織再編行為の対価の柔軟化、
商号規制の改正、会計参与制度の創設、財源規制の統一、などがあげられる。
以下、これらの会社法の主たる内容について、概観するものとする。
4、会社法の内容
(1)機関設計の規律の柔軟化
株式会社に関しては、会社法の施行に伴い、商法(第 2 編 第 4 章株式会社)から、会社法(第 2 編
株式会社)に規定が置かれることになったが、会社法第 2 編には、株式会社と有限会社の両会社類型を
統合した新たな類型としての株式会社の規定が設けられており、例えば、機関設計について従来の有限
会社の機関設計に類する簡素な機関設計の選択も可能にするなど、規律の大幅な柔軟化を図っている。
すなわち、全ての株式会社において、株主総会と取締役は必要常設の機関とされるが(会社法 295 条・
326 条 1 項)、この会社態様の組み合わせと、一定の原則の下に、会社法においては、株式会社は、定款
の定めによって、取締役会、会計参与、監査役、監査役会、会計監査人または委員会(指名・監査・報
酬の 3 つの委員会)を任意に設置することができる(会社法 326 条 2 項・327 条・328 条)。つまり、有
限会社型の機関設計(株主総会+取締役)を基本型として、定款の定めによって、その他の機関をオプ
ションとして追加できるという機関設計の規律の柔軟化が図られているのである。
旧法の下においては、株式会社および有限会社の機関設計については、法の定める一定の制度の採用
を強制することにより、基本的には、当事者の選択を認めていなかった。これに対して、会社法では、
所定の原則の下で、定款の定めにより、会社が自由に機関設計を行うことを認めている。
「定款自治」の範囲が広げられたことが会社法の特色の一つとしてあげられるが、機関設計の柔軟化は、
その典型といえる (5)。これにより、後掲の「会社法における機関設計の一覧表」のような多様な会社設
計が可能になるが、例えば、中小会社において、多額の費用がかかる会計監査人を設置するケースは一
般的には考えにくく、実際に利用される機関設計は、限られるものと思われる (6)。
機関設計の柔軟化に関しては、従来の法制度は、それぞれの機関の設置の必然性に鑑みて設置を強制
してきたのであり、会社法の認める程度まで「定款自治」の範囲を広げてよいのかという懸念は残るが (7)、
各会社によって実態が異なることを考えると、それぞれの会社の実態に応じた機関設計の採用を選択さ
せるという会社法の方針は、会社運営の円滑・適正化に資するものと考える (8)。
(2)有限会社制度の廃止と株式会社との統合
従来、株式会社に関しては商法第 2 編第 4 章および商法特例法に大・小会社に関する特例規定が、有
限会社に関しては有限会社法に、各々規定が置かれていたが、会社法においては、第 2 編に両会社類型
が統合されて、株式会社として規定が置かれることになり、両会社類型の統合の前提として、有限会社
− 20 −
会社法の全面施行と課題
の機関設計に類する簡素な機関設計の会社形態が認められることになった (9)。
第 2 編においては、最低資本金制度の廃止、公開会社である大会社以外の会社について、株式譲渡制
限の有無、会社の規模に応じて、選択できる機関設計が増えたことを始めとして広範囲にわたり株式会
社制度の見直しが図られている。これにより、従来の有限会社制度は廃止されることになるが、既存の
有限会社については、会社法の規定による株式会社として存続することになる(会社整備法第 2 条 1 項)。
この場合に、従前の有限会社の定款、社員、持分、および出資 1 口は、それぞれ存続する株式会社の定款、
株主および 1 株とみなされる(会社整備法第 2 条 2 項)。
株式会社として存続する既存の有限会社は、会社の商号選定の原則(会社法第 6 条 2 項)の例外として、
その商号中に「有限会社」の文字を用いなければならないとされる(会社整備法第 3 条 1 項)。このよう
な会社を特例有限会社という(会社整備法第 3 条 2 項)。特例有限会社への移行にあたっては、定款変更・
変更登記などの措置は原則として必要とされない。特例有限会社であっても、定款を変更してその商号
中に「株式会社」という文字を用いる商号の変更をし、この定款変更を登記することにより、通常の株
式会社へと移行することもできる(会社整備法第 45 条・第 46 条)。
又、株式会社の区分について、旧法の下においては、資本金と負債の額に応じ、「大会社」、「小会社」
(中会社については定義なし)に区分されていたが(旧商法特例法 1 条ノ 2)、会社法の下においては、
「大
会社」と「それ以外の会社(中・小会社)」に区分され(会社法 2 条 6 号)、さらに、株式の譲渡につき、
会社の承認を要する旨を定款に定めているか否かで、「公開会社」と「それ以外の会社(株式譲渡制限会
社)」に区分されている(会社法 2 条 5 号)。
有限会社と株式会社に関しては、準則主義により設立が認められる社員の有限責任が保障された会社
形態として、制定当初は株式会社が公開的な会社、有限会社が非公開的な会社として、各々それぞれの
会社形態に相応しい制度が設けられていた。しかし、度重なる改正の結果、実質的には株式会社を簡素
化したものが有限会社といっても過言ではない状況が生じていた。
加えて、株式の譲渡を制限している非公開的な会社が株式会社の大部分を占めている実態を考え合わ
せると、経済的実質を共通にする閉鎖的な物的会社に、譲渡制限株式会社と有限会社という 2 種類の会
社形態を制度上用意する必然性はなく、会社法が有限会社形態を廃止して、株式会社と統合したのは、
合理性があると考える (10)。
(3)持分会社の創設
会社法の制定に伴い、第 3 編に「持分会社」に関する規定が設けられた。持分会社とは、合名会社、
合資会社、および会社法により創設された会社類型である合同会社の総称である。
従来の合名会社と合資会社は、いずれも会社の内部関係について、定款又は商法に別段の定めがない
時は民法の組合に関する規定(民法 667 条〜 688 条)が準用されており(旧商法 68 条・147 条)、基本
的に社員の中に有限社員がいるか否かの違いしかなかった。又、合同会社は、有限責任社員のみから構
成されること、会社の資本という概念を有すること、出資について労務出資・信用出資が認められず(会
社法 576 条 1 項 6 号)、金銭及びその他の財産(現物出資)に限られること等を除けば、実質的に合名会社・
合資会社と異なるところはない (11)。
このため、旧商法においては、合名会社に関しては第 2 編第 2 章、合資会社に関しては第 2 編第 3 章
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会社法の全面施行と課題
に規定が置かれていたが、会社法においては、合名会社、合資会社および合同会社に関する各規定につき、
「持分会社」として、共通に適用すべき内部関係の規律等について、同一の規定を適用する形で規定を置
くものとした(会社法 575 条以下)。
なお、旧商法では、合名会社および合資会社に関する規定は、株式会社に関する規定の前に置かれて
いたが、会社法では、合名会社・合資会社があまり活用されていない利用実態に鑑み、持分会社に関す
る規定は、株式会社に関する規定の後に置かれることになった。
持分会社の中で、合同会社は、会社法において創設された会社制度である。合同会社とは、社員の有
限責任が確保され、会社の内部関係について、原則として全員一致で定款変更等の会社のあり方が決定
され、社員自らが会社の業務の執行にあたるという組合的規律が適用される特徴を有する会社類型をい
う (12)。我国においては、このような特徴を有する会社類型は存在しなかったが、例えば、米国などでは、
このような特徴を有する Limited Liability Company(LLC)が広く活用されている。
我国においても、合名会社や合資会社の類型は、定款によって比較的自由に経営が行うことができるが、
社員の全部又は一部が会社の債権者等に対して無限責任を負うためにあまり利用されていなかったのが
実情であった。これに対して、特に新規事業者の立場から、債権者等に対する対外的な責任は有限に留
めつつ、定款自治によって柔軟な会社運営を行いたいというニーズが高まり、これに応える形で会社法
において、会社法において、「合同会社」として、LLC と類似の会社類型が創設されることになったの
である。
合同会社に関しては、株式会社の1形態として位置づけるべきであったとの立法論的批判 (13) や会計監
査人の設置や決算公示義務がないことから、これらの義務を免れる目的で利用されるのではないかとい
う点が懸念されている (14)。
しかし、合同会社は、社員一人のみでの設立・存続が認められ(会社法第 641 条 4 号)、破綻しても
責任が出資額の範囲に限定されること、さらに、株式会社と異なり、株主総会や取締役などの設置は義
務づけられていないなど、機関設計や社員の権利内容について強行規定がほとんどなく、原則として会
社の運営方法については社員が自由に決められることから、合弁事業や少人数で設立するベンチャー企
業などに向いている会社類型であり、経済の活性化の観点からもその活用が期待される新しい会社形態
であるといえる (15)。
(4)最低資本金制度の廃止
最低資本金制度は、平成 2 年の商法改正において、会社設立時の経営基盤の強化、従業員・取引先な
どの債権者保護を主たる目的とし、株式会社・有限会社における出資者有限責任を担保するための制度
として導入された制度であり (16)、旧商法は、株式会社については 1000 万円(旧商法 168 条ノ 4)、有限
会社については 300 万円(旧有限会社法 9 条)の最低資本金の規定を設けていた (17)。
しかし、経済・雇用情勢が低迷する中、経済活動の活性化の観点からベンチャー企業などの起業の支
援が喫緊の課題となっているところ、最低資本金制度が新たな起業の妨げとなっているとの批判があっ
た。又、実務界からも、効率的な企業集団の形成のための分社化の容易化という観点からも最低資本金
制度の撤廃を求める要望があった。
これに対して、会社法は、定款で「株式会社の設立に際して出資すべき額又はその下限額」を定める
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会社法の全面施行と課題
ことになるのみで(会社法 27 条 4 項)、設立に際して出資すべき額の下限規制を撤廃し、資本金 1 円で
も株式会社を設立しうるものとした。旧法の下では、例外的に、2003(平成 15 年)2 月施行の時限立法
である中小企業挑戦支援法により確認を受けた、いわゆる「確認会社」については、資本金規制を受け
ないことが認められていたが、会社法の施行に伴い、この特例が一般化することになった。又、すでに「一
円会社」として設立されていた会社もそのまま存続することができ、恒久化が図られることになった。
ただ、最低資本金制度が廃止されても、資本金制度そのものは存在し設立の登記事項とされ(会社法
911 条 3 項 5 号)、
「純資産額が 300 万円未満の場合には、剰余金があってもこれを株主に分配できない(会
社法 458 条)。」など、剰余金の分配規制という形での新たな規制が導入されている。
最低資本金制度の廃止に関しては、債権者保護の観点から問題があるとの指摘があるが、債権者保護
の観点からすると、設立時の資本金の確保より、会社の財産の状況が適切に開示され、その財産が確実
に留保されていることの方が重要であると考える。会社法もこの観点から、まず会社財産の開示に関し
ては、会計帳簿の作成の適時性・正確性の明文化(会社法 432 条 1 項)、会計監査人の設置範囲の拡大(会
社法 326 条 2 項)、会計参与制度の創設、などの措置を講じた上で、すべての株式会社に対して、貸借対
照表の公告を義務付けている。
さらに、会社財産の留保に関しては、株主に対する会社財産の払い戻しについて統一的に財源規制を
課し(会社法 461 条)、財源規制に違反して配当等を行った取締役等の責任につき、分配可能額を超える
部分については、総株主の同意があっても免除できないものとし(会社法 462 条 3 項)、加えて、上記の
ように、純資産額が 300 万を下回る場合には、剰余金の配当を禁止する等の措置を講ずることによって、
会社財産の不当な流出を防止しているのである。
(5)合併等の組織再編行為の対価の柔軟化
旧商法においては、吸収合併・吸収分割・株式交換を行う場合、消滅会社の株主・分割会社又はその株主・
完全子会社となる会社の株主に対して、存続会社・承継会社・完全親会社となる会社の株式を交付する
必要があり、金銭その他の財産のみを交付し、株式を全く交付しない処理を行うことはできないものと
されていた。会社法においてはこれを改め、金銭その他の財産での対価支払いを可能にする、いわゆる
組織再編行為時における対価の柔軟化が行われた。
すなわち、会社法においては、吸収合併の場合、株主又は社員に払う対価としては、株式、社債、新
株予約権、新株予約権付社債、それ以外の財産が挙げられている(会社法 749 条 1 項 2 号・第 751 条 1
項 3 号)。それ以外の財産の内容は特に限定されていないが、新たに外国会社株を含めた親会社株や現金、
債券などを渡すことも認められ、外国株式を対価とする場合について、使用可能な外国株式の範囲、条
件は政令・省令で定められるものとしている。
この対価の柔軟化は、吸収分割の場合においても、分割会社若しくはその株主に対して、承継会社の
株式を交付せず、金銭その他の財産を交付することが認められ(会社法 758 条 4 号・760 条 5 号)、さら
に、株式交換の場合においても、完全子会社となる会社の株主に対して、完全親会社となる会社の株式
を交付せず、金銭その他の財産を交付することが認められる(会社法 768 条 1 項 2 号・770 条 1 項 3 号)。
対価の柔軟化に関しては、少数株主の締め出しが容易に行われるという批判や、対価が不十分とする
少数株主の保護の必要性が指摘されていたが、特に企業買収の容易化という観点から、国内外より以前
− 23 −
会社法の全面施行と課題
からその導入を強く要望されていた制度である (18)。
対価柔軟化により、消滅会社・分割会社等の株主に金銭のみを交付する交付金合併(キャッシュ・ア
ウト・マージャー)や合併における存続会社がその親会社の株式を対価として交付する合併(三角合併)
などの企業再編が可能となり、企業選択の選択肢が広がることになる。なお、新設合併、新設分割、株
式移転については、このような対価の柔軟化は認められない。
対価の柔軟化に関しては、対価の柔軟化により外国企業による日本企業に対する敵対的企業買収が進
むのではないかという懸念が強まり、各会社が買収防衛策等を準備する期間の必要性に鑑み (19)、対価の
柔軟化以外の部分の施行の日から 1 年後の 2007(平成 19)年 5 月に施行されたが(会社法附則第 4 項)、
買収防衛策を導入する企業の数は年々増加している (20)。
対価の柔軟化は必ずしも外資等による敵対的買収を助長するものではないとの主張もあるが (21)、企業
再編の自由度が増したことに対応して、その可能性は増したといえる。その点で、これからの企業経営は、
経営努力により企業価値を高めれば高めるほど、敵対的買収のターゲットになるという、常に敵対的買
収にあうことを想定しながらの難しい舵取りを強いられることになるといえよう。
(6)商号規制の改正
会社の商号に関する規制に関しては、旧商法は、「商号が登記された場合は、同一市町村内において、
同一の営業の為に他人がこれを登記することはできない(旧商法第 19 条)。」と規定していた。又、旧商
業登記法も、「同一市町村内において、同一の営業のため他人が登記したものと判然区別することができ
ない時は、商号の登記をすることができない(旧商業登記法第 19 条)。」と規定している。
しかし、実務上、同一の営業であるかどうかの判断に関して、定款記載事項および登記事項である会
社の「目的」の記載に関する審査が厳密に行われる結果、審査に時間と手間がかかり過ぎるなどの指摘
を受けて、会社法においては、これらの規制を廃止した (22)。
さらに、旧商法は、「商号の登記をすでにしている者は、不正競争の目的をもって、同一または類似の
商号を使用する者に対してその使用差し止めと損害賠償の請求をすることができる(旧商法 20 条1項)。」
と規定し、又、「同一市町村内において、同一の営業のために他人の登記した商号を使用する者は、不正
の競争の目的で使用していたものと推定される(旧商法 20 条 2 項)。」と規定していた。しかし、旧商法
20 条の規制に対しては、不正競争防止法が一般に知られる又は著名な商号を、登記の有無に関係なく保
護対象としている関係から、規制の存在意義が希薄であるとの指摘があり、この規制も廃止されること
になった。
ただし、既に登記されている他の会社と同一の住所の会社は、行う営業の如何にかかわらず、当該他
の会社と同一の商号を登記することができないとの規制が新たに設けられた(改正商業登記法第 27 条)。
類似商号規制の廃止に関しては、迅速な会社設立手続きの阻害要因となっているという実務上の問題
もさることながら、インターネット等のインフラが整備された現在の状況や企業活動の広がりを考慮す
ると、同一市町村に効力を限定する旧商法の規制の合理性はほとんどなく、規制の廃止は妥当なものと
いえる (23)。
− 24 −
会社法の全面施行と課題
(7)会計参与制度の創設
会計参与は、会社法で新たに導入された株式会社の機関である。会計参与は、すべての株式会社にお
いて定款の定めにより、任意に設置することができる(会社法 326 条 2 項)。会計参与の設置、氏名また
は名称等は、登記事項となっている ( 会社法 911 条 3 項 16 号 )。
会計参与は公認会計士・監査法人・税理士・税理士法人でなければならないとされ(会社法 333 条 1 項)、
取締役(委員会設置会社では、執行役)と共同して、計算書類(会社法 435 条)およびその付属明細書、
臨時計算書類(会社 441 条 1 項)並びに連結計算書類(会社法 444 条 1 項)を作成することを職務とする(会
社法 374 条 1 項)。
会計参与が適正な計算書類を作成するためには、監査役と同様、経営陣からの独立性が必要とされる
ことから、株式会社又はその子会社の取締役、監査役、執行役、支配人その他の使用人とは兼任できな
いとされる(会社法 333 条 3 項)。
会計参与は、会社の内部機関として位置づけられ株主総会で選任される(会社法 329 条 1 項)。任期
は取締役の規定(会社法 332 条)の準用により、原則 2 年(委員会設置会社の場合は 1 年)とされる。
例外として、取締役と同じく、株式譲渡制限会社においては、定款に記載することにより、10 年まで任
期を伸長できる(会社法 334 条 1 項)。会計参与が、職務の遂行において、悪意または重過失があった場
合は、それによって生じた損害を賠償する責任を負い(会社法 429 条 1 項)、株主代表訴訟の対象ともなる。
大会社では、会計監査人の設置が義務づけられているので(会社法 328 条)、ある程度計算書類の適
正性は確保されているといえ、会計参与は、中小規模の株式会社での活用が想定されている (24)。すなわ
ち、中小規模の株式会社においては、必ずしも会計に詳しい人材がいるとは限らず、むしろ、会社外の
税理士等に計算書類の作成を一任し、監査役は会計監査に全く関与していないという会社も少なくない
のが実態である。このような実態に鑑み、会社法は、外部の会計の専門家を会社の機関に取り込むことで、
中小規模の会社の作成する計算書類の適正性を向上させることを目的として、会計参与の制度を設けた
のである (25)。
制度上は、会計参与は、すべての株式会社において任意に設置できる機関であり、又、すべての株式
会社において、会計参与と会計監査人の併存が認められる(会社法 326 条 2 項)。これにより、会社の
規模にかかわらず、両者の併存によって、計算書類の作成とそれが適正であるか否かを判断する監査を、
それぞれ会計監査人、会計参与に分担することもできる。しかし、大会社にあっては、経理部門が整備
されていることが多いことから、会計参与を設置する必要性は少なく、この点からも、実質上、会計参
与は中小規模の会社での活用が中心になると考えられる (26)。
我国の株式会社のほとんどが譲渡制限会社であり、資本金 5 億円未満(かつ負債総額が 5 億円未満)
の中小会社であるという実態に鑑みると、中小会社における計算書類の適正性の確保は重要な問題であ
り、会計参与の担う役割は非常に大きいといえよう (27)。
(8)財源規制の統一
会社の財産を実質的に払い戻す行為は、会社の財産を不当に減少させる可能性があるため、払い戻し
のできる範囲については、厳格な財源規制を受けることになる。
旧商法では、株主に対する会社財産の払い戻し行為である利益配当(旧商法 290 条 1 項)、中間配当
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会社法の全面施行と課題
(旧商法 293 条ノ 5 第 3 項)、自己株式の有償取得(旧商法 210 条 3 項・4 項・211 条ノ 3 第 3 項等)、資
本金または準備金の減少に伴う払い戻し(旧商法 289 条 3 項・375 条 1 項)等に関して、財源がそれぞ
れ別個に規制されていた。これに対して、会社法においては、これらを「剰余金の配当」として統一的
に整理し、財源について同じ規制を受けるものとした(会社法 453 条以下)(28)。又、会社法においては、
株式会社・有限会社に関する最低資本金制度の規制(旧商法 168 条ノ 4・旧有限会社法 9 条)の撤廃に伴い、
新たに、会社の規模にかかわらず、純資産が 300 万円未満の場合には、仮に剰余金が存在したとしても、
株主への配当はできないものとする規制が導入された(会社法 458 条)。
これは、資本金の額と会社財産の額の関係が希薄になっていることから、資本金の額ではなく、一定
の純資産額が確保されていることを株主への配当の基準とするのが適切であることに加え、剰余金に関
して無条件で株主への配当を認めることになると債権者保護の観点から問題が生じる可能性が出てくる
ことから、設けられた規制である。
さらに、従来、株主に対する配当は、本決算による配当と中間配当(旧商法 293 条ノ 51 項)の年 2
回しか行うことができないものとされていた。これに対して、会社法では、株主への剰余金の配当を期
中のいつでも、かつ何度でも株主総会の普通決議で行えるものとした(会社法 453 条・454 条 1 項)。た
だし、金銭以外の物によるによる配当、すなわち現物出資の場合は、特別決議を要するものとし(会社
法 454 条 4 項)、さらに、一定の要件を満たした場合は、取締役会の決議で配当しうるものとしている(会
社法 459 条 1 項)。
近時の数次にわたる商法改正により、剰余金を財源とする株主に対する会社財産の払い戻しの方法は
多様化する傾向にある。これらの行為は、会社債権者の立場からすると、株主に対して会社財産が払い
戻され、会社の責任財産が減少するという点では全く同一の意義を有する行為であるといえる。従って、
会社債権者への責任財産を会社財産に限定している株式会社においては、株主と会社債権者間の利害調
整の役割を果たしている配当規制の観点からは、これらの行為を統一的に規制することが合理的である
といえよう (29)。
結 語
会社法の成立は、その内容、規模からして、明治 32 年に商法の制定によって会社制度の基本が構築
されて以来の会社制度の根本的な大改正であるといえる。
会社法の内容を理解する上では、
「規制緩和」がキーワードといえる。平成 9 年の商法改正におけるス
トックオプション制度の導入を始めとして、実務界の要求にこたえる形で、会社制度の急速な規制緩和
が毎年次々と進められた。会社法は平成 9 年以降の「規制緩和改正」の集大成という一面をその特徴と
してもっている (30)。
又、法典の体系の組み換えが行われると共に、中小企業に対するルールが会社法の中心に据えられた
ことも会社法の大きな特徴である。すなわち、会社法においては、非公開会社をベースとした規定を原
則として、公開会社を例外とするという構造となっている。このような措置がとられた理由は、我国で
は非公開会社が多数を占めているという実態に鑑みたものと思われるが、会社法が経済を活性化する担
い手として、ベンチャー企業をはじめとする中小企業を重視している証であると考える。
さらに、企業に対する法規制のスタンスが変わったことも会社法の特徴としてあげられる。従来の商
− 26 −
会社法の全面施行と課題
法は法律が定めた一定のルールに対して、企業がそれに合わせることを求めていた強行法規的な性格で
あったのに対して、会社法は企業がその実態に合わせて利用しやすいように定めた多様なルールを、企
業が自ら選択する任意法規的な性格のものとなっている。そうした会社法の特徴は、株式会社の機関設
計に対して広範な定款自治が認められたこと、多様かつ機動的なコーポレートファイナンスが容易にな
ったこと、活発化しつうある M & A(企業買収)に対応できるように、組織の再編行為において対価の
柔軟化が導入されたことなどに端的に表れている。
しかし、会社法は現代語化と共に、編や章や節などが合理的に並べられ、体系的にも整理されたもの
になったとはいえ、多様な選択肢を認め、それぞれの選択肢に応じたルールを定めた結果、その構成と
内容は非常に複雑なものになっている。これからは、各企業の経営者はこの膨大で複雑な会社法体系を
どう理解し、企業の戦略的経営や競争力の強化にどう生かしていくかが求められ、真の経営力が問われ
ることとなる。企業経営における選択肢が拡大するということは、企業にとって何かベストな選択肢か
を十分に検討し判断することが必要であり、経営者が企業価値を高めるためにどのような判断を下した
かが株主、投資家等の厳しい視線にさらされることになる。この点で、これからの経営者は、法制度を
戦略的に活用していく能力が今まで以上に要求されることになることは間違いないであろう (31)。
− 27 −
会社法の全面施行と課題
(別表)株式会社の機関設計の一覧表
Ⅰ 非公開会社( 注 1)
・非大会社( 注 2)
1
株主総会+取締役
2
株主総会+取締役+監査役(注 3)
3
株主総会+取締役+監査役+会計監査人
4
株主総会+取締役会+会計参与(注 4)
5
株主総会+取締役会+監査役(注 3)
6
株主総会+取締役会+監査役会
7
株主総会+取締役会+監査役+会計監査人
8
株主総会+取締役会+監査役会+会計監査人
9
株主総会+取締役会+委員会+会計監査人 ( 注 5)
Ⅱ 非公開会社・大会社
10
株主総会+取締役+監査役+会計監査人
11
株主総会+取締役会+監査役+会計監査人
12
株主総会+取締役会+監査役会+会計監査人
13
株主総会+取締役会+委員会+会計監査人
Ⅲ 公開会社・非大会社
14
株主総会+取締役会+監査役
15
株主総会+取締役会+監査役会
16
株主総会+取締役会+監査役+会計監査人
17
株主総会+取締役会+監査役会+会計監査人
18
株主総会+取締役会+委員会+会計監査人
Ⅳ 公開会社・大会社
19
株主総会+取締役会+監査役会+会計監査人
20
株主総会+取締役会+委員会+会計監査人
(注 1)「大会社(会社法 2 条 6 号)」以外の会社を指す。
(注 2)「公開会社(会社法 2 条 5 号)」以外の会社(株式譲渡制限会社)を指す。
(注 3) 定款をもって監査役の権限を会計に関する事項に限定することもできるが(会社法 389 条 1 項)、
「監査役設置会社(会社法2条9号)」にはならない。
(注 4) 会計参与は、原則として、全ての機関設計において、任意に設置することができる。
(注 5) 委員会は、指名委員会、監査委員会、報酬委員会の 3 つの委員会を指す。
− 28 −
会社法の全面施行と課題
(注)
(1) 松岡「会社法制の現代化に関する一考察」東京交通短期大学紀要 12 号 13 頁以下参照。
(2) 要綱試案の公表の詳細については、弥永・松井・武井編著「ゼミナール会社法現代化」・弥永「序
説―要綱試案の経緯等」を参照。
(3)
要綱試案及び補足説明の全文については、商事法務 1678 号、ジュリスト 1267 号別冊資料①②参照。
又、法制審議会会社法部会の議事録については、法務省のホームページで公表されている(http://
www.moj.go.jp/SHINGI/index.html)。
(4) 立案担当者の立場から、会社法を解説したものとして、相澤編著「立案担当者による新会社法の解
説」別冊商事法務 295 号 1 頁以下参照。
(5) ドイツにおいては、特に、有限会社において、広範な定款自治が認められている。
Peter Hommelhoff, Gestaltungsfreiheit im Gmbh-Recht, in Lutter/ Wiedemann, Gestaltungs-freiheit
im Gesellschaftsrecht, ZGR Sonderheft 13,S.38(1997) 参照。
(6) 江頭「会社法制の現代化に関する要綱案の解説(Ⅱ)」商事法務 1722 号 5 頁掲載の「別表」を一
部修正の上、引用した。
(7)
江頭「新会社法の意義と特徴」ジュリスト 1300 号 12 頁は、「中小会社でも相当に株式が分散した
会社も多く、そのような会社が例えば取締役会や監査役を設置しないような機関設計を認めてもよ
いのかという議論も当然ある。」として、機関設計の柔軟化における問題点の存在を指摘している。
(8)
相澤・石井「新会社法の解説(8)株主総会以外の機関(上)」商事法務 1744 号 88 頁も、「各会社
における機関設計のあり方は、各会社が自らの実態にもっとも適した機関設計の採用を選択してい
くといった実務上の工夫に委ねるべき問題といえる。」としている。
(9)
有限会社と株式会社との統合にあたっては、「既存の有限会社には、いささかの負担もかけないの
が、法制審議会会社法部会(現代化関係)の了解事項であった。」とされる。江頭・相澤・武井「座
談会―会社法制定までの経緯と新会社法の読み方」商事法務 1739 号 15 頁・相澤発言参照。
(10)我国と異なり、アメリカの統一 LLC 法においては、構成員以外の経営者を置くことを認めている
(Uniform Limited Liability Company Act Sec.101(10))。
(11)ア メ リ カ の 統 一 LLC 法 に お い て は、 明 文 規 定 で、 労 務 出 資 を 認 め て い る (Uniform Limited
Liability Company Act Sec.401)。
(12)有限会社と株式会社の統合は、「形式的には、有限会社が株式会社に吸収される形をとっているが、
実質的には有限会社の規律の株式会社への拡張という側面がある。」と指摘されている。岩原「会
社法制の現代化に向けた課題と展望―会社区分のあり方」ジユリスト 1267 号 35 頁参照。
(13)詳しくは、相澤・郡谷「新会社法の解説(12)―持分会社」商事法務 1748 号 12 頁参照。
(14)合同会社には、株式会社と異なり、会計監査人の設置義務や決算公示義務がないことから、これら
の義務を免れる目的で利用される可能性が指摘されている。詳しくは、関口・西垣「特集会社法の
いま―合同会社や有限責任事業組合の実務上の利用例と問題点」法律時報 80 巻 11 号 20 頁参照。
(15)合同会社の設立件数は、2006 年に 3392 件、2007 年に 6076 件とほぼ倍増しており、制度がある程
度定着してきたと評価されているが、構成員課税が認められず、株式会社と同様、法人課税が課せ
られたことが合同会社の利用を妨げる最大の要因として懸念されている。詳しくは、前掲・関口・
− 29 −
会社法の全面施行と課題
西口・法律時報 80 巻 11 号 19 頁参照。
(16)最低資本金制度がどのような機能を有するかについては理論的に難しい問題が存在すると指摘され
ている。詳しくは、神田「会社形態・設立・計算・組織再編関係」別冊商事法務 271 号「会社法制
の現代化に関する要綱試案の論点」24 頁参照。
(17)会社債権者保護の制度として、最低資本金、会社の計算・開示、取締役の責任がセットで議論され
ることが多いが、平成 2 年の商法改正においてもこうした形で議論が行われ、結果として、最低資
本金の導入だけが実現した。江頭・森本・神田・西川・武井「座談会―会社法制の現代化に関する
要綱案の基本的な考え方」商事法務 1719 号 11 頁・江頭発言参照。
(18)対価の柔軟化の導入は、会社法制の現代化の作業の開始当初から取り上げられていた主要課題の一
つであったが、それは主として日本経済団体連合会からの強い要請があったことによるとされる。
詳しくは、相澤「会社法の施行と法務省令等の整備」商事法務 1788 号 28 頁参照。
(19)買収防衛策の導入にあたっては、その適法性が問題となる。例として、鬼頭「敵対的企業買収・合
併に対する防衛策の裁判上の諸問題」法曹時報 60 巻 12 号、琴浦「ニレコ事件―平時に導入した買
収防衛策に基づく新株予約権の発行の可否が争われた事例」判例タイムズ 1259 号 48 頁以下、奈良・
石井「ニッポン放送事件―敵対的買収行為が現実に開始された後に導入された買収防衛策に基づく
新株予約権発行の差し止めの可否」判例タイムズ 1259 号 53 頁以下、田中「ブルドックソース事
件の法的検討(上・下)」商事法務 1809 号 4 頁以下・1810 号 15 頁以下、など参照。
(20)会社法制定後の平時における企業の買収防衛策の導入企業数は、2007 年末で約 420 社を数え、上
場企業全体における導入企業の割合は、約 10 パーセントに達している。詳しくは、川井「買収防
衛策の傾向と平成 20 年定時総会に向けた傾向」監査役 541 号 20 頁以下参照。
(21)石綿「三角組織再編をめぐる実務上の諸問題」商事法務 1832 号 43 頁以下は、「三角組織再編が行
われるのは、敵対的公開買付けが成立した後のことであり、三角合併が可能になったというイメー
ジが外資系企業の日本企業買収の動機に若干影響する程度である。」としている。
(22)相澤・岩崎「新会社法の解説(2)―会社法総則・株式会社の設立」商事法務 1738 号 4 頁は、①
類似商号規制が「目的」の記載が同一であるか否かを基準とした事前規制になっていること、②企
業活動が広域化していること、の2つの理由をあげて、類似商号規制の効果は、非常に限定的であ
り、合理性に乏しいと指摘している。
(23)前掲・相澤・岩崎・商事法務 1738 号 4 頁は、類似商号規制の弊害について、迅速な会社手続きの
阻害要因となっていることに加えて、①類似商号規制に該当するか否かの判断が「同一の営業」で
あるか否かを基準とすることが多いことにより、実務上、定款の事業目的を必要以上に細分化し、
同一の営業に該当しないことをもって類似商号規制に触れないことを担保しようとする傾向が生じ
ていること、②すでに設立された会社が「目的」に沿った営業活動を行っておらず、誤認・混同の
恐れが生じない場合であっても、類似商号規制が事前規制として一律に働いてしまう結果、これを
利用して商号権の譲渡により利益を上げようとする、いわゆる商号屋が活動する余地を与えている
こと、の2点をあげている。
(24)会計参与は、その職務である計算書類の作成・保存などが会社の業務執行に属することから、会計
参与は会社の業務執行機関であり、外部監査を担当する会計監査人と異なり、会社の役員とされる。
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会社法の全面施行と課題
詳しくは、浜田「キーワードで読む会社法」82 頁参照。
(25)会社法が会計監査人制度を拡充せず、会計参与制度を創設したのは、会計の専門職としての税理士
と公認会計士制度の存在に起因するとされる。詳しくは、浜田「新会社法の制定―Ⅱ株式会社関係
―会計参与、監査人、監査役会、会計監査人」ジュリスト 1295 号 80 頁以下参照。
(26)会計参与が新設された背景については、前掲・浜田・82 頁参照。
(27)会計参与制度はこれまで我国の会社法制の中に存在しなかった制度であるばかりか、諸外国におい
ても類をみない制度であるため、実際に制度が有効に運用されていくための指針の策定は特に重要
なものとされる。詳しくは、会計参与の行動指針に関する検討委員会「会計参与の行動指針の概要」
商事法務 1767 号 27 頁以下参照。
(28)平成 13 年の商法改正により、利益配当・中間配当と資本及び法定準備金の減少に伴う払戻しの区
別は相対化しており、当時から両者を法律上区別して規律する必要性は乏しいとされていた。詳
しくは、法務省民事局参事官室「会社法制の現代化に関する要綱試案補足説明」商事法務 1678 号
107 頁参照。
(29)配当規制の主たる目的は、弁済財源たる会社責任財産の維持・充実であると解される。従って、従
来は、財源規制違反に係る違法配当は無効であることに異論はなかったが、会社法の下では、有効
説が有力に主張されている。詳しくは、尾崎「会社法規則の制定―会社の計算」ジュリスト 1315
号 14 頁参照。
(30)前掲・岩原・商事法務 1775 号 16 頁は、「既存の制度を廃止した会社法は、いかなる具体的効果が
発生するかは予測しえないところがある。」として、特に経済界からの規制緩和圧力に対して適切
な歯止めをかける上で、実証的な研究の重要性を指摘している。
(31)上村「会社法規則の制定―新会社法の性格と法務省令」ジュリスト 1315 号 5 頁以下は、会社法全
般に関して、①有限会社と株式会社の統合において、規定内容を有限会社に合わせた上で有限会社
法の規制的な部分を廃止したこと、②最低資本金制度を廃止する合理性がないこと、③、会社法が
様々な概念に対して理数的な整理を行ったこと、の 3 つの理由をあげて批判的な評価を下している。
− 31 −
東京交通短期大学 研究紀要第14号 2008.12
1939 年のレイモン・クノー
—作家はいかにして作家になるのか—
Raymond Queneau en 1939
–Comment un écrivain devient-il un écrivain?–
沼 田 憲 治
Kenji Numata
顔のない作家の日記
レイモン・クノーは、長らく「顔のない作家」であった。実験的で、なおかつ荒唐無稽なその作品群
から作者の素顔を読み取ることは難しく、また、私生活が公にされることもほとんどなかったためである。
たとえば、ジョルジュ・シャルボニエとの対談(1962 年)も、
「インタビュー嫌いな」この作家の文学観・
言語観を作家自らに語らせたという点で貴重な試みではあったが、作家クノーの素顔に迫ろうとするも
のではなかった (1)。したがって、その死から 10 年経った 1986 年に、クノーの日記が出版されるという
ニュースは、多分にジャーナリスティックな興味から、文学関係者はもちろん一般大衆も含めて、世間
の注目を集めたのだった。この几帳面な作家が克明な日記を残していることは以前から広く知られてい
たし、シュルレアリスムから実存主義、ヌーヴォーロマン、さらにはウリポまで、20 世紀フランス文学
を生き抜いたクノーの日記によって、作家の素顔はもちろん、隠れた交友関係やフランス文壇の裏側など、
さまざまな新事実が明らかになるではという期待は否が応でも高まった。ところが、いざ出版された日
記は、1939 年から 1940 年にいたる一年間、いわゆる「奇妙な戦争」期間に限定された、いわば「断片」
にすぎなかった(その後、さらに 10 年を経てようやく「完全版」が出版されることになる)。要するに、
期待していたクノー愛好家たちは肩すかしを食らったわけである。
クノーの日記はなぜ、完全な形で公開できなかったのか。その理由はこの日記の性格による。すなわち、
これは「後世のために書かれた文学者の日記ではなく、極ありふれた日々の活動を書き留めた一般人の
記録」(2) であったためだ。したがって、多彩な交遊のあったクノーの日記に登場する膨大な数の人物の特
定に難航したのである。確かに、公開を前提として書かれたわけではないこの日記にはイニシャルや略
語の類いが頻繁に見られ、これに詳細な注をつけたジャン=ジョゼ・マルシャンの苦労がどれほどのも
のであったかは、想像に難くない (3)。したがって、作家の没後 10 年という節目の年に合わせて、ひとま
ず「断片」ではあっても、出版に漕ぎ着けたかった関係者の気持ちも容易に想像できる。しかし、それ
にしても、なぜ、1939 年なのか、という疑問が相変わらず残る。クノーの文学的キャリアからすれば、
20 年代のアンドレ・ブルトンとの交流(あるいはその後の絶縁)や、戦後のサンジェルマン・デプレ界
隈に花開いた実存主義全盛時代の証言など、切り取りたい衝動に駆られる「断片」の時期には事欠かな
− 33 −
1939 年のレイモン・クノー ―作家はいかにして作家になるのか―
いはずだ。あるいはもし、困難な時代を作家がどう生きたかという関心に応えようとするならば、「奇妙
な戦争」ではなく、その後4年にわたるナチスドイツによる占領時代のほうがより相応しいのではないか。
編集者の意図がどこにあったのかはともかく、ほぼ全生涯にわたって書き綴られたクノーの膨大な日
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記群の中から、
1939 年という年が選び取られたという事実には、何か象徴的意味がありはしまいか。以前、
われわれは《冒険者》という視点から 1920 年という年に注目し、クノーが故郷ル・アーヴルを離れて
パリ郊外に移り住んだこの年を――レイモン青年がまだ何者でもなかったこの年を――実質的な「作家
レイモン・クノー誕生の年」と位置づけた (4) が、その試みの中心にあった関心は、レイモン・クノーは
いかにしてレイモン・クノーになったのかということであった。本稿では、1939 年に注目することによ
り、この問いに対する新たな答えを探ってみたい。作家はいかにして作家になるのか。そうした視点から、
この日記を読んでみると、今まで見えなかった事実が見えてくるように思える。1939 年のクノー (5)。は
たして彼はこの年に何を考え、どう生きたのか。まずは、レイモン・クノーと「奇妙な戦争」との関わ
りから見てみよう。
兵士クノー――予言者としての運命
1986 年に発表された日記を何よりも特徴づけているのは、その大部分が軍隊での生活を送る「兵士」
の立場から書かれたものであるという事実である。1939 年 8 月 24 日、36 歳のレイモン・クノーは突然
動員される。9 月 1 日にナチスドイツがポーランド侵攻を始め、フランスで総動員令が敷かれる、わず
か 8 日前のことだった。36 歳での、しかも、二度目の軍隊召集。一番驚いたのは本人だった。このとき、
ノルマンディーのヴァランジュヴィルでヴァカンスを満喫していたクノーは、召集の知らせを聞いてわ
が耳を疑い、わざわざ市役所まで出向いて行って確認している。気落ちして食欲のないクノー。妻のジ
ャニーヌは「気丈に振る舞い」、息子のジャン=マリは父に優しく「さよなら」を言い、レイモンを感
激させる。家族との別れを惜しむ間もなく、列車はディエップを出発する。去りゆく汽車をいつまでも
追いかけ続けるジャニーヌ。普段は冷静な観察者たるクノーも、この時ばかりはセンチメンタルになら
ざるを得ない。ディエップからパリへ。しかし、自宅には戻る暇もなくそのまま東駅からスダン方面に
向けて出発という慌ただしい出征だった。その後、スダンを経由して近郊の町ストゥネーの兵舎へ到着。
ここには第 155 要塞歩兵連隊が駐屯しており、編入センターで「新兵」クノーが配属されたのは第6部
隊(中隊)第 24 歩兵隊、いわゆる留守部隊であった。
36 歳という年齢での召集に関して言えば、当時人口の少なかったフランスの事情――とりわけ、第一
次世界大戦による青年層の減少は著しかった――を考えればさほど異常ということは言えない。フラン
ス政府の動員の仕方は明らかに前大戦に比べて「熱意に欠けた」ものであり、「ドイツでの兵役年齢幅よ
りもさらに広い世代の男たちを召集した」のである。その結果、多くの世帯がクノー家同様、「夫や父親
の不在」を強いられたのだった (6)。知識人ももちろん例外ではなかった。著名な歴史家で『奇妙な敗北』
の著者のマルク・ブロックは 54 歳という高齢にも関わらず、なんと三度目の召集を受けていたし、のち
にヴィシー政府の有力なイデオローグとなったアンリ・マシスも 53 歳で応召し、軍から表彰までされて
いる。こうした「老兵の参戦」は例外としても、1903 年生まれのクノーよりも 2 歳年下のポール・ニザ
ン(この戦争で戦死した)やサルトル(ドイツ軍の捕虜になった)、レイモン・アロン(イギリスに亡命
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1939 年のレイモン・クノー ―作家はいかにして作家になるのか―
した)など「1905 年組」はもちろんのこと、年長者であるロベール・デスノス(1900 年生まれ)、アン
ドレ・マルロー(1901 年生まれ)等の世代も、アンドレ・ブルトン(1896 年生まれ)等の「第一次世
界大戦世代」も軒並み動員されているのである。ブルトンよりさらに 2 歳年上のルイ=フェルディナン・
セリーヌなどは、障害のためかろうじて召集を免れている。事実、クノーが配属された部隊にも、まわ
りには 30 代、40 代の兵士が当たり前のように動員されていることが分かる。
いずれにしても、決して「兵役適齢者」でないにも関わらず動員されたクノーは、おのれの運命を皮
肉まじりに嘆いている。それは年齢の問題などはるかに超えた、作家の業とでもいうべき運命だった。
というのも、前年末にクノーは最新作『きびしい冬』の執筆を終えたばかりだった (7) が、この小説は第
一次世界大戦を描いた、まさに「戦争小説」だったからである。まだ、宣戦が布告される前の 8 月 27 日
の日記に、クノーは次のように書いている。
軍隊にいる夢を見たら、それが現実になる。これがいわゆる《現実》というものだ。(中略)そ
れにしても・・・戦争小説を書いたら、動員されるとは。書いたことが現実になるという予言的感覚。
過去と未来の等価性という私の理論を実証するかのような事態だ。(p.35)
ここから、不吉な小説を書いてしまったという後悔を読み取るだけでは不十分である。「過去と未来の
等価性」という理論はクノーの小説にしばしば見られるものだが、過去と未来が通底し合い、循環する
時間の理論のことである。そこでは、過去と未来は対立する概念ではなく、重なり合い、融合する。一
瞬が永遠となり、永遠が一瞬となる。《過去に起こったこと》と《未来に起こるであろうこと》が《現在》
を通して互いに痙攣し、響き合う。まるで、シーソーのように揺れ動く「時の踏み台」。自分が築きあげ
たこうした小説理論がまさしく自分の実人生に降りかかってきたわけである。
しかも、繋がっているのは、過去と未来だけではない。書いた作品が小説である以上、今起こってい
る現実、そして、これから起こるだろう現実は、《虚構》が予言していたことになる。実際、日記に「書
いたことが現実になる」と書いたこの直後、戦争が始まるのである。虚構を愛し、その力を信じる作家
にとって、これほど手厳しい、皮肉な結果があるだろうか。さらに事態を複雑にしているのは、『きびし
い冬』が自伝的要素の強い小説だったことである。舞台は、クノーの故郷ル・アーヴル。主人公ルアモ
ーのキャラクターにはクノーの父親の――そして、もちろん、クノー自身の性格が色濃く反映され、作
中に描かれる重要な事件、大ノルマンディー劇場の火災は、1903 年 2 月 21 日、まさに彼の生年月日に
起こっている。フランス人の熱狂的愛国主義に水を差さずにはいられないルアモーは、シャルルロワの
戦いで負傷し、一端前線から離れている傷痍軍人だが、ふたたび戦場に赴かなければならないのは必死
の情勢であり、暗い絶望感に包まれて小説は終わる。この小説を書いた自分も今、ルアモーと同じ目に
遭おうとしているのだ。自分の「分身」であるルアモーに与えた苛酷な運命が、生みの親である自分に
そのまま返ってきたのである。「伝記的事実=過去」が虚構を通してさらなる未来を予見するという皮肉。
『きびしい冬』を書いたクノーは、まさにこのとき「厳しい現実」が降りかかってきたことを思い知らさ
れ、おのれの「予言者」としての運命に恐れおののいていた。
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1939 年のレイモン・クノー ―作家はいかにして作家になるのか―
祈りと家族愛
20 年代にカトリシスムを捨てたはずのクノーが突然教会通いを始めたのは、そんな運命に押し潰され
そうになっていた、入隊して間もなくのことである。8 月 29 日の日記に、「書き忘れていたが、昨日の
朝《町に》出た。教会を訪れ、祈った」(p.35) と、やや素っ気ない調子の告白が認められる。と、それ以降、
教会通いは完全な日課となり、日記には「神の摂理」という語が頻繁に出てくるようになる。多い時は
一日に三度も村の教会へ通い、ミサに参列し、ひたすら祈り始める。クノーの伝記を書いたミッシェル・
レキュルールも指摘するように、こうした「不確実と動乱の時代においては、多くの人々が伝統的信仰
に帰依するようになる」のはあり得ることだとしても――クノーの友人であるアンドレ・ブラヴィエも
この時期、信仰にすがったことを告白している (8)――、クノーの小説の無宗教性を知る読者にはとって、
彼の信仰への回帰は、やはり非常な驚きである。信仰への回帰とはいっても、もちろん、「私は神を信じ
ない」という言葉と「神は私の友である」という言葉が交互に見られるように (9)、クノーの信仰心は絶
えず揺らいでおり、事はそう単純ではない。しかし、教会通いと祈りがクノーの心を落ち着かせたことは、
疑いようのない事実である。
クノーの祈りは何に向けられていたのか。平和のためではない(「平和のために祈るのはもう止めた」
(p.38))。楽観論が支配する周りの雰囲気に反して、クノーは「大きな暗い穴」を開けて自分の前に立ち
ふさがる未来を感じていた (p.40)。思えば、ちょうど一年前、フランスの大多数の人々が「ミュンヘン
協定」を支持し、帰国した首相のダラディエを「平和の調印者」として熱狂的に称賛したときも、クノ
ーは自らを「1938 年 9 月の好戦主義者」(p.38) と規定していた。チェコという小国を犠牲にして回避さ
れたヨーロッパの平和には何の価値も見いだせなかっただろうし、「これが最後の領土的要求である」と
いうヒトラーの言葉にも胡散臭いものを感じていたに違いない。戦争を予言する小説『きびしい冬』が
書かれたのは、まさにこの時期だ。英仏両国がドイツに屈服したミュンヘン会談から、実質的な戦争は
すでに始まっていたのである。今さら、愚痴をこぼして何になるのだ。過去と未来は繋がっているのだ。
じたばたしても始まらない。必要なのは、あらゆることから「超然」とすることだ・・・。クノーの祈
りが彼にもたらしたものは、6年間続けた精神分析によっても得られなかった、心の平穏だった。「大い
なる静寂。私にとって。大いなる静寂。その向こうには完全な未知なるものが待っていて、私をじっと
窺っている。ああ、未来の計画が。乗り越えなければならない。できる。きっとできる。きっとできる」
(p.40)。
死の恐怖に怯えながらも、クノーは自らを鼓舞するかのように、「信頼」・「希望」・「力」という三つの
語をスローガンのように掲げる。その源にあったのは家族への愛だった。教会通いを始めて5日後、ク
ノーは突然、ノスタルジーに捕われる。「ジャニーヌとジャン=マリのそばにいたいという激しい欲望」
(p.37)。「大きな暗い穴」を開けて立ちふさがる未来の前に立っているのは、自分一人ではない。愛する
妻と息子がいる。戦局はすぐに収まると無邪気に信じ、平和を祈る多くの兵士たちの中にあって、クノ
ーの祈りを支えていたのは、自分が愛するものに対する絶対的な信頼だった。
かくして、召集直後の動揺からなんとか立ち直ったクノーには、ある種の覚悟が感じられる。9月5
日の日記には次のように記されている。
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1939 年のレイモン・クノー ―作家はいかにして作家になるのか―
これは、戦争だ。作戦はすでに開始されている。われわれにはまだ何も知らされていない。結局
のところ、みんな事態が収束に向かうと、まだ信じている。したがって、ここの兵士の士気は高い。
われわれは最前線から第3列か4列めにいるのだ。われわれにはガスマスクさえない。(p.39)
この後しばらくすると、パリでも一般市民がガスマスクをして街を行き交う姿が当たり前だったとい
うから、対独宣戦布告から 2 日後のこの時点で、「最前線から第3列か4列め」にいる兵士にガスマス
クが行き渡ってなかったというのは驚きである。加えて、この前日になって、ようやく兵士一人ひとり
に銃が配られたという記述を見ても、フランス軍の対応の遅さ、スピード感の欠如が如実に現れている。
詳しくは後に見るが、装備、戦力、スピード、あらゆる点でフランスがドイツに劣っていたことをクノ
ーの証言も裏付けている。しかし、ここでより重要なのは、11 ヶ月にわたる軍隊生活の中で、再三にわ
たって兵士たちの無気力ぶりを嘆き続けているクノーが、戦争が始まったばかりの、前線に近いストゥ
ネーでは、兵士の士気が高いと評価している点である。容易く「事態は収束しない」ことを知っていた
「予言者」クノーは、神が、運命が自らに与えた「兵士」という役割を全うしようとしている。今や自分
の為すべきことを為すのみ、と心に決めている。自分は今、前線からほど近い場所にいるのだ。「作戦は
すでに開始されている」。しかし、「われわれわれにはガスマスクさえない」。絶望感と高揚感の奇妙な同
居。実際、「第 155 要塞歩兵連隊」からは、次々と各部隊が任務地へと旅立って行く。その姿を目にしな
がら、クノーは自分の出征(戦地への?)を静かに待っている。はたして自分はどこに連れていかれる
のか。しかし、クノーが所属する「第 24 歩兵隊」が向かった先は、前線から 900 キロも後方に離れた
ナント方面だった。
前線志願
9 月 7 日、クノーたちの部隊は、ナントへ向けて大移動を開始する。ランス、ラン、コンピエーニュ
と車窓から確認できる地名を挙げていくクノーの筆からは、ある種のうきうきした気分さえ窺える。つ
い 2 週間ほど前までヴァカンスを過ごしていたヴァランジュヴィルでの幸福な日々が思い出される。あ
るいは、1927 年までの 6 年間を父母と暮らした、懐かしいエピネー=シュル=オルジュの名前。翌日、
ル・マン、アンジェを通り、ロワール川沿いのモーヴ=シュル=ロワール駅に到着。そこから 6、7km
の距離を夜の行軍。宿営地であるラ・テボーディエール(ナント北東 20km)に着いたのは、夜中 11 時
頃だった。兵舎となるその農家を一目見て、クノーは絶句する。そこは「恥辱的なまでに荒れ果てていた」
(p.41)。
クノーが前線行きを決意したのは、この瞬間だっただろうか。いや、そうではない。ナントへ向かう
列車の中で、すでにクノーは「前線」に対する熱い思いを日記に綴っていた。「一月後に、おそらく私は
前線への配属を願い出るだろう。あるいは、ポーランドでもいい。かの国がまだほんのちょっとでも残
っていればの話だが」(p.41)。クノー特有の皮肉な表現だが、それにしても、前線を通り越して、ポーラ
ンドとは驚きである。しかし、彼は決して自暴自棄になっているのではない。なぜなら、ナントでは妻
ジャニーヌに会えると期待しているからだ。自分を失意のどん底から救ってくれた家族との再会を心待
ちにしている人間が、自暴自棄になるわけがない。ともかく、移動中に最初の「前線志願」表明がなさ
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1939 年のレイモン・クノー ―作家はいかにして作家になるのか―
れていることから、その気持ちはおそらく、おのれの運命を甘受しようと決めたストゥネーの地で固ま
っていたに違いない。しかし、2 日間にわたる昼夜兼行の大移動の末にようやくたどり着いた新たな任
務地の言語を絶する荒廃ぶりは、クノーの決意をさらに決定的なものにした。
ラ・テボーディエールでの生活は悲惨の一語に尽きた。兵舎とは名ばかりの、打ち捨てられたあばら
屋。床は腐り、崩壊寸前。もちろん、トイレもない。兵士たちがそこら中に放尿し、糞をする。ものす
ごい悪臭が漂う。9 月 14 日の日記にはこうある。「強制収容所の生活。兵営の雑役。兵士たちの気の荒
さ。外出禁止。水もない。顔を洗えない。仕方がないので歯だけ磨く。藁をかぶって寝る。埃だらけ」
(p.45)。来る日も来る日も、雑役、雑役の連続である。雑役とは、主に営舎の清掃、荷の積み下ろし等の
仕事だった。しかし、その実態がどんなものだったかは、『日記 1939-1940』の巻末に収められたエッセ
ー『哲学者とならず者』の冒頭に明らかにされている。そこに描かれているのは、おそらくこの時期の
ものではないかと思われる軍隊生活のリアルな描写だ。
奇妙な戦争の大部分を私はフランス軍の一部隊の中で過ごした。障害者、負傷兵、戦闘不能者、
共産主義者、無政府主義者、忘れられた者たち、気の触れた者たち、血迷った人たち、すなわち、
屑みたいな連中とともに。私たちはそこで大いに飲んだ。特に、赤ワインを。私たちは暇を持て余
していた。惰眠を貪っては、トランプに興じ、仕事を怠けては、ぶらぶらしていたのである (10)。
このような状態で、いったいどうしてドイツ軍と戦えるのだろう。これからナントのために 200 時間
の「雑役」が続くという。寝付けない夜が続く。クノーは焦りを感じ始める。「こんな生活が 3 年も続く
のか」(p.44)。「このままここでぐずぐずしているのか」(p.43)。こうして、前線志願を願い出る最初の要
望書が提出される。
しかし、クノーの前線志願は見事に「却下」された。二度、三度と要望を重ねてみても、結果は同じだった。
クノーの軍隊生活はその後、ラ・テボーディエールからクーフェ、さらにフォントネー・ル・コント、ラ・
ロッシュ=シュル=ヨンとその「舞台」を変えて続けられたが、この舞台リストにスダン、メッツ、リ
ールといった前線の地名が加わることはついになかった。その間、要望書を提出しては却下されるとい
うことが何度も繰り返され、1940 年 7 月 24 日に動員が解除されるまで、前線を願い続けたクノーは一
貫してはるか後方に止まり続けることになる。プレイアッド版の年表作成者は、
「クノーはドイツ軍と《後
衛の後衛》で戦った」(11) という表現で、クノーの兵役生活を総括しているが、兵役を終えたクノーの中
に「ドイツ軍と戦った」という意識がはたしてあっただろうか。
さて、「屑みたいな連中」に囲まれて惰眠を貪り、飲んだくれの生活を余儀なくされたクノーの前線志
願の根底に、かくのごとき周囲の兵士たちに対する嫌悪があったことは否定できない。しかし、彼らを
非難したり、軽蔑したりすることで、憂さを晴らし、自分を正当化するのをクノーはよしとしなかった。
前線に行かせてもらえない自分もまた「忘れられた人々」の一人なのだから。
私が非難するのは、――いや、私は彼らを非難しはしない。私は確認するだけだ――それは、彼
らの完全なエゴイスムである。(中略)実際、彼らは食べること、布団代わりの藁をできるだけ多
くせしめること、酔っぱらうことしか考えていない。あたかも、それが当然の権利とでも言わんば
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1939 年のレイモン・クノー ―作家はいかにして作家になるのか―
かりに。そして、文句を言う。なんにでも文句をつけなければ気が済まない (p.42)。
クノーが兵士たちの中に見出したのは、「獰猛さ」、「がつがつした卑しさ」、「エゴイスム」だった。同
じ部隊で毎日顔をつき合わせて暮らしている「仲間」なのだから、彼らの「獰猛さ」は当然クノーにと
って有害である。彼らが藁を多くせしめるのを黙認すれば、当然、それは自分の分が少なくなることを
意味する(不眠に悩むクノーにとってそれは死活問題だった)。しかし、ともすれば感情的になるのを必
死に抑制し、クノーは努めて冷静に兵士たちを観察しようとする(「非難」と言ってしまってから、これ
を否定し、あえて「確認」と言い換えている点に注意)。兵士たちの「エゴイスム」はどこから来ている
のか。クノーの出した結論は、「軍隊的規律の欠如」(p.41) だった。悲しい結論だった。なぜなら、「軍
隊的規律」こそ、クノーが嫌悪する最大のものの一つだからである。「軍隊的規律」に嫌悪感を抱いてい
る自分がそう断言せざるを得ない、この矛盾。結論を言う前に、「言うのも悲しいことだが」という留保
の言葉を付け加えるクノーは、この矛盾をはっきりと自覚している。そしてこの後すぐに、クノーは厳
しい目を今度は自分に向けるのである。「はたして、私は前線に行って《志願兵》としてやっていくだけ
の肉体的能力があるだろうか」(12)(p.43)。
堕落しきった留守部隊から抜け出せず、《後衛の後衛》にとどまり続けざるを得なかったクノー。「前
線」への思いはついに果たせぬ夢と終わった。では、クノーがこれほどまでに行きたいと熱望した「前線」、
すなわち「マジノ線」ではいったい何が起こっていたのか。そもそも「奇妙な戦争」とはなんだったのか。
奇妙な戦争と奇妙な敗北
1939 年 9 月 1 日にドイツがポーランド侵攻を開始、2 日後にフランス・イギリスがドイツに対して宣
戦を布告する――よく知られた第二次世界大戦の勃発の構図である。しかし、この大戦の中の「西部戦線」、
すなわち、ドイツとフランス(イギリス)との戦いは、それほど知られているわけではないようだ。フ
ランス軍はザール地方に進出したもののすぐに撤退し、翌年の 4 月まで動かなかった。一方のドイツも
冬の悪天候により空軍の支援が見込めず、西部戦線での戦闘を延期し続けた。8 ヶ月にもわたる「戦闘
なき戦争」。フランス人戦場特派員のロラン・ドルジェレスが「奇妙な戦争」と呼んだ所以である。ドイ
ツではこの戦争に「座り込み戦争」と、イギリスでは「いかさま戦争」と、それぞれある種のイメージ
を喚起する具体的な呼称を与えているのに対し、後に惨めな敗北を喫することになる当のフランスが「奇
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妙な」という、どこか第三者的な――現に、当時第三者であったアメリカでも、「奇妙な戦争」という呼
称が採用された――、距離感を感じさせる曖昧な修飾語を使っている点は、非常に象徴的である。
厭戦気分と根拠のない楽観論が世間を支配していた。誰もが戦争を望んではいなかった。前線も銃後も。
フランスもドイツも。ライン川を挟んで対峙した独仏両軍はただただ無為を決め込むばかりだった。いや、
それどころか、「ときにドイツ軍がフランス語の甘い流行歌をラウドスピーカーで河向こうからフランス
軍にサービスすれば、そのお返しに、こんどはフランス軍のほうが大型スピーカーをドイツ側に向けて
据え、ベートーヴェンの交響曲を流してやるといった交歓風景さえ展開されたのである」(13)。
当時アルザス地方の部隊にいたサルトルは、1939 年の 10 月末、学校を休んでパリから会いに来たボ
ーヴォワールとの逢瀬を楽しんでいる。ドイツと交戦状態にあるフランス軍の兵士が、しかも、国境近
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1939 年のレイモン・クノー ―作家はいかにして作家になるのか―
くの兵営にいる兵士が、自分と妻のためと称して部屋を借り、二人で和やかに食事をとっているのであ
る。ボーヴォワールの証言によれば、サルトルはこの戦争は「殺戮行為のない、現代的で決定的な戦争」
になるだろうと言ったという。まるで「現代絵画に明確なテーマがなく、音楽がメロディーを重視せず、
物理学が物質を扱わない」ように (14)。
こうした楽観論の拠り所となっていたのが、
「マジノ線」の存在である。第一次世界大戦において、
「戦
勝国」フランスは満身創痍の状態であった。ドイツに国境を破られ、膨大な数の戦死者を出していたの
である。その苦い経験から莫大な費用を投じて作られたのがマジノ線だった。ヒトラーが台頭する前か
ら着工され、5年もの年月をかけてこの大要塞が完成したとき、「もはやドイツ軍のフランス国土への侵
入の恐れは、将来ともにまったくない、といった手放しの楽観論」(15) がフランス全体を支配するように
なっていった。
20 年代パリの寵児で、この時期、たまたまパリに戻って来ていた画家の藤田嗣治は、10 月 21 日付の
日記に次のように書いているが、この証言も直接はマジノ線に言及していないものの、やはりこうした
楽観論を代表するものだろう。「雨さえ降れば独軍の戦車は動かなくなり、今日このころのように雨が降
れば来春まで戦争はない。オランダにもベルギーにも水は一杯で、この分では安心だ。その内に英兵も
皆渡仏しようし、米国から軍需品食料が届いて、ドイツはどうにもならず大戦闘もなしで終局になって
しまうだろう。この冬は静かに暮らせそうだ」(16)。
第一次世界大戦もパリで経験している藤田の言葉は、その政治的無頓着にもかかわらず、ある意味正
しかったと言える。確かに「来春まで戦争はなかった」のだから。しかし、1940 年 5 月 10 日、満を持
してドイツ軍がベルギー、オランダ、フランスへの侵攻を開始すると、オランダはわずか5日で、ベル
ギーは2週間あまりでそれぞれ降伏し、次いでダンケルクを制圧されたフランス・イギリス連合軍も本
格的戦闘開始から 1 ヶ月余りで敗れ去ってしまう。ドイツ軍がパリに入城したのは、6 月 14 日、奇しく
もフランス革命記念日の 1 ヶ月前のことだった。8 ヶ月の長き沈黙の後の 1 ヶ月でのドイツの怒涛の電
撃作戦の成功。何故フランスはかくもたやすく敗れ去ったのか。
まず、マジノ線は壕の深さが浅く、空からの攻撃に弱かったこと。さらに、ドイツ国境にとどまり、
「中
立国」であったベルギーとの国境にまでは敷かれないという欠陥を持っていたことが挙げられる。マジ
ノ線が存在しなかったアルデンヌの森は「自然の要塞」であり、従来の歩兵部隊では突破は不可能と考
えられていたが、近代化目覚ましいドイツの機甲化部隊は、いとも簡単に突破してみせたのである。マ
ルク・ブロックの有名な言葉を借りれば、「新しい時代の速度を増した振動に合わせた」ドイツ軍のテン
ポに対し、そのテンポを理解できなかったフランス軍は「昨日の戦争、あるいは一昨日の戦争さえ試み
なかった」のである (17)。要するに、フランスは「長い投槍で銃に対抗する」という「未開人の役割」を
演じてしまったのだった。劣っていたのは戦術だけではない。「わが政府当局の宣伝の馬鹿さかげん、い
らいらさせられるお粗末な楽観主義、その優柔不断、なかんずく戦争目的をまじめに決定できない為政
者たちの無能」(18)。これらすべての欠点が、長きにわたる見せかけの平和、戦闘なき戦争中に、徐々に大
きくなり、取り返しのつかない失態を招いたのである。自身が前線で戦ったブロックの歯に衣着せぬ批
判は、――それは軍部やフランス政府当局ばかりでなく、末端の兵士、一般人を含むすべてのフランス
人にまで向けられた――クノーが描いた後方の「留守部隊」の堕落ぶりにも、そのまま当てはまるよう
に思われる。
− 40 −
1939 年のレイモン・クノー ―作家はいかにして作家になるのか―
通訳という職業
「奇妙な戦争」の「奇妙さ」を特に印象づける現象がある。それは戦時中であるにもかかわらず、街
で多く見かけられた「休暇兵士」の姿である。アンリ・マシスは言う。「1914 年 8 月には、この国民は、
戦死者や傷痍軍人によって、戦争や戦争がもたらす現実を実感することができた。しかし、1939 年のフ
ランスは、休暇兵士によってわずかに戦争を感じている」(19)。実は、クノーの軍隊生活もマシスの言葉を
裏書きするかのように進行した。入隊して 2 ヶ月も経たない 10 月 18 日に、早くも一回めの休暇が与え
られたのをはじめ(クノーはこの休暇を利用して早速妻ジャニーヌと息子ジャン=マリと再会している)、
その後も年末にはクリスマス休暇、いったん帰営するも年が明けるとまたすぐに三回めの休暇が与えら
れるといった具合である。この三度めの休暇中に、クノーは妻と子のために営舎近くにアパルトマンを
探し、「フォンタラビーホテル」での家族と水入らずで過ごす生活を手に入れている。あの、地獄のよう
な「第 24 歩兵部隊」生活からついに抜け出したのだ。
好転のきっかけは、10 月末にフォントネー・ル・コントに移ったことだった。ここで、クノーは翌年
春まで彼の「庇護者」となるカドレ少佐と出会う。知識人に理解のあったカドレ少佐は 「文学界で芽生
えつつあるクノーの名声」 (20) を知り、彼を自分の事務所に配属する。そして、クノーが望むだけの休暇
を自由に与えたのである。ラ・テボーディエールやクーフェでの 「雑役」 から逃れ、事務所を独り占め
できる快適な生活を手に入れたクノーは「あのまま兵舎で、地べたに藁を敷いて他の兵士たちと雑魚寝
をする生活を続けていたら、病気になっていただろう」(p.100) としみじみ述懐している。
こうして、好きなだけの時間を使って、図書館に通い、小説や雑誌への記事を執筆する自由を与えら
れたクノーは、動員によって中断していた『ピエールの面Ⅱ』(1934 年に発表された『ピエールの面』
の続編で、のちに『ぐずついた天気』として発表される)の執筆を再開する。作家として為すべき作業
が軍隊の「仕事」しても許されたのである。ある日のカドレ少佐とクノーの会話。「仕事は順調かね?」
と少佐が問う。クノーは答える。「はい、少佐殿。小説を一つ書き始めました。それから、記事を一つ準
備中であります。ただし、今はまだ構想段階であります」(p.136)。クノーのこの答えに、少佐はスタン
ダールの結晶化作用に思いを馳せ、満足げに頷く。そして、もう一つ、カドレ少佐の庇護の下にクノー
が没頭していたのが、英語の勉強だった。一日まるまる英語の勉強に費やされる日や、夢も英語で見る
日もあった。アングロサクソンの文学に造詣の深かったクノーは、1934 年以来 3 冊もの英語圏小説をフ
ランス語に翻訳していた。その「翻訳家」が、英語の軍事用語を熱心に研究し始める。なんのために?
それは、「通訳」になるためだった。通訳こそは、前線行きを最初に志願した頃からクノーが目指して
いたものだった。自らを「1938 年 9 月の好戦主義者」と看做していたにもかかわらず、決して好戦主義
者ではなかったクノーは、――第一彼は「獰猛な」兵士たちを毛嫌いしていた――マジノ線に行ってド
イツ人を一人でも殺してやろうなどとは、露程も思っていなかった。しかも、自分には喘息という肉体
的ハンディキャップがある。軍隊の中でそんな自分に何ができるかを考え抜いた結果、たどりついた答
えが通訳だったのである。あるいは、予言の書たる『きびしい冬』において、主人公ルアモーが、フラ
ンス陸軍と交渉する仕事をしていた「イギリス軍婦人部隊」の女子隊員ヘレナ・ウィーズ嬢と「流暢な
英語」で会話をする場面を思い出していたかもしれない。初めて彼女に会ったとき、ルアモーは自分の
ことを「通訳だと思ったでしょう」(21) と言っている。
− 41 −
1939 年のレイモン・クノー ―作家はいかにして作家になるのか―
クノーはフランスの敗戦後、自分には「軍隊的虚栄心」があったことを認めている。しかし、EOR(幹
部候補生)の特別編成部隊に配属されても、あるいは、「伍長」に昇進しても、彼の虚栄心は満たされる
ことはなかった。(クノーが伍長に昇進したのは、1940 年5月 22 日、ドイツのフランス侵攻がエスカレ
ートし、フランスの敗戦がほぼ決定的となった時期だった)。彼の虚栄心を満たす唯一の方法は、「通訳」
になって、東部前線へ赴くことだったのだ。召集後に再開した教会通いと祈りによって「心の平穏」を
取り戻し、「暗い未来」に立ち向かっていくことを決意したクノーは、軍隊の中で自分の為すべきことは
何かを考え続けた。それが言語の専門家としての「通訳」という仕事だった (22)。それは軍隊という社会
における「職業」と言ってもいいだろう。いわば、奇妙な戦争を通してクノーは「職探し」をしていた
のである。
戦争が終わり市民生活に戻っても、クノーの職探しは終わったわけではなかった。動員を解かれた直
後の 1940 年 7 月 22 日、クノーは日記にこう記す。「《神》は私が通訳になることをお許しにはならなか
った。(中略)そして、これから私は仕事さがしを始めなければならない」(p.209)。このとき、クノーの
頭にあったのは、はたして自分は「ささやかな成功」をつかみかけていた戦争前の状態に戻れるのかと
いうことだっただろう。ここで、時計の針を 1939 年 6 月の時点まで巻き戻し、「奇妙な戦争」が始まる
前のクノーがどんな状況におかれていたのかを確認してみよう。
1939 年 6 月――新米の原稿審査員
1939 年の 6 月も終わろうとしていた。この金曜日、セバスチャン・ボタン街のガリマール社内
は騒然としていて、多くの人々が集まっていた (23)。
ガストン・ガリマール伝の作者ピエール・アスリーヌは、この偉大な出版業者の 94 年の長きにわた
る生涯を 10 分割し、その第 6 期の冒頭をこのように書き始めている。ガリマール社恒例のカクテルパー
ティーの風景だ。大破局が目前に迫っていることなど誰も想像もできない、穏やかで平和な祝祭である。
出席者の顔ぶれを眺めてみよう。まずは、ガストン本人に弟のレイモン、息子のクロードというガリマ
ール家の三人。そして、ガリマール社の屋台骨、「原稿審査会」のメンバーとその友人たち。原稿審査会
こそは、家内製手工業的な他の出版社に対して、ガリマール社がシステム化した多角的経営の土台とも
言うべき存在だった。当時、審査会のメンバーはかつてないほど大人数に膨れ上がり、15 人を数えていた。
アンドレ・マルロー、マルセル・アルラン、ジャン・ポーラン、バンジャマン・クレミューなどそうそ
うたる面々が居並ぶその中に、この年 36 歳になったレイモン・クノーの姿を見出すことができる。とこ
ろが、クノーの名前をそこに書き記すとき、アスリーヌは、いくぶんかの驚きをもって、こう注釈を付
け加えざるを得なかった。「彼はもう 6 冊も小説を出していた」と。
このささやかな「驚き」にいささか拘ってみたい。アスリーヌは、なぜクノーが 6 冊もの小説を書い
ている事実に驚かなければならなかったのか。もちろん、クノーの初期作品がこの作家の資質を十分に
保証するものであることは、専門家の間では常識の部類に属する。しかし一方で、彼の世俗的な成功は
1947 年の『文体練習』や 49 年の『君が思えば』以降のことであり、さらに真の意味でクノーの名が世
間に知れ渡るには、59 年の「ザジの登場」まで待たなければならないことも事実である。大部分のフラ
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1939 年のレイモン・クノー ―作家はいかにして作家になるのか―
ンス人にとって、レイモン・クノーとは「戦後の作家」だったのである。したがって、この 39 年 6 月の
時点で、クノーがすでに小説を「6 冊も」発表していた事実を、いかにも意外であるかのように驚いて
みせるアスリーヌを、迂闊だといって責めることはできまい。何しろ、アルランやポーラン、クレミュ
ーと言えば、20 年代、30 年代にガリマール帝国の栄光を支え続けた「重鎮」であったし、クノーはと言
えば前の年に原稿審査員の一員となったばかりの「新米」だったのだから(しかも、一般の審査員とは
別枠の「英米文学担当」にすぎなかった)。つまり、アスリーヌの関心事は、あくまでも「フランス文学
の代名詞」たるガストン・ガリマールとその周辺の作家たちに限られており、30 年代のクノーは彼の視
野にほとんど入ってこなかったのだ。1933 年のデビュー作『はまむぎ』以降、クノーの小説 6 作は、
『樫
と犬』を除いてすべてガリマール社から出版されているにもかかわらず、である。シュルレアリスム運
動に参加したクノーの経歴は、のちにサルトルやボーヴォワールたち実存主義者の羨望を掻きたてるこ
とになるのだが、戦後脚光を浴びるのも何故か 20 年代ばかりである。シュルレアリスム運動との決別後、
30 年代前半のクノーが「文学的活動から若干の距離」(24) を取っていたことは定説となっており、
「6 冊も」
(『きびしい冬』は 1938 年末に書かれているから、実は 7 冊)書いたレイモン・クノーの 30 年代は後方
に押しやられてしまう。要するに、アスリーヌの「驚き」は、決して彼だけのものではなく、立場を異
にする多くの人々の共通の声を代表しているにすぎないのである (25)。あの「ザジの父」たるレイモン・
クノーが、1939 年の時点で、すでに小説を 6 作も書いていた!へえ、そりゃあ意外だなあ、というわけ
である。
アスリーヌのクノー評は 1939 年から長い時間の経過した「後世」の視点だが――「フランス出版の
半世紀」という副題のついたアスリーヌのガリマール伝は 1984 年に出版されている――、実は、1939
年当時のガリマール社もこれと同じような考えだったことを裏書きする事実がある。7 月 21 日、ヴァラ
ンジュヴィルから一時的にパリに戻ったクノーは、セバスチャン・ボタン街のガリマール社を訪れ、営
業販売部長のルイ=ダニエル・イルシュと「長い会話」を交わしている。話題の中心は間もなく刊行さ
れる予定の、クノーの第7作『きびしい冬』の「乞御高評」についてだった。「乞御高評」とは書評を依
頼するために新刊書に添える著者・作品の紹介文のことだ。クノーはすでにこれを書き上げていたが、
イルシュはそれを次のように書き直してほしいというのである。「『きびしい冬』とともに、作家レイモン・
クノーを《スタート》させよう」(p.15)。
イルシュこそは、「本の売れ行き、普及、小売店への配本、ときには本の内容に」常に目を光らせ、ガ
リマール王朝を陰で支え続けた功労者だった (26)。すなわち、イルシュの言葉はガリマール社の公式見解
といってよい。ガリマールの「原稿審査会」は、作家レイモン・クノーの「売り出し」戦略として、この「乞
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御高評」を決定したのである。作家レイモン・クノーをスタートさせる。言い換えれば、30 年代のクノ
ーはまだ作家としてスタートラインにさえ立っていなかったということになる。イルシュは、読者クラ
ブのために「選書」シリーズを出していたリヨンの書店「ラルダンシェ」を引き合いに出し、
「もう少しで、
ラルダンシェが『きびしい冬』をセレクトしそうなんだ。だから・・・」(p.15) と言ってクノーを説得する。
これを聞いてクノーがどう思ったのかは、日記には記されていないが、おそらく心中複雑なものがあっ
たのだろう。「乞御高評」を書き直すことができたのは「ジャニーヌのおかげ」(p.16) と、2 日後の日記
にクノーは記している。
結果から見ると、ガリマール社の販売戦略は成功したと言っていい。『きびしい冬』は 1940 年の「ポ
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1939 年のレイモン・クノー ―作家はいかにして作家になるのか―
ピュリスム小説賞」にノミネートされ、受賞は逃したものの、複数票を獲得した。そしてなによりも、
センスの良さを自認する文学愛好家たちの間で、クノーの「名声」は確かなものとなっていく。ガストン・
ガリマール自身が、クノーを単なる「翻訳家」ではなく、ガリマール社の経営を担う「幹部」として遇
するようになっていくのである(クノーがガリマール社の事務局長に就任するのは、1941 年)。
『きびしい冬』の「ささやかな成功」から始まるこうした経緯を見れば、1938 年にガリマール社の原
稿審査員という肩書きを獲得したことがクノーの文学的、かつ社会的キャリアの上で重要な転機となっ
たことは疑いようもない。ここで見過ごしてはならないのが、ジャン・ポーランの存在である。のちに
フランス文壇の大御所と言われたジャン・ポーランこそは、1925 年にジャック・リヴィエールから「NRF」
主幹の座を受け継いで以降、数々の新人を発掘し世に送り出していた、いわば「ガリマール社原稿審査
会」のボス的存在だった。クノーを原稿審査員会に迎え入れるに際しても、ポーランは「決定的な役割」
を果たしたとされる (27)。クノーより 20 歳程年上で、「優れた批評眼を持ち、作家の過敏な自尊心を傷つ
けないように、褒める技術も持ち合わせていた」(28) ポーランは、文学の世界でキャリアを積み重ねてい
こうとする 30 年代のクノーにとって、「庇護者」であり、「父親」のごとき存在だった。
父と子の神話の例に漏れず、ポーランとクノーの間には葛藤もたびたび見られたが、1934 年に出会っ
て以来、クノーの才能を愛したポーランは、クノーのために数々の便宜を図るようになる。30 年代の 6
冊のクノーの小説のうち、唯一『樫と犬』がガリマール社から出版できなかったことも、ポーランはか
なり気に留めていたようだ。原稿審査員の席が一つ空いていることをクノーに知らせたのも、おそらく、
クノーの経済状況に対するポーランの配慮があったと思われる (29)。クノーは死ぬまで「原稿審査会」の
メンバーであり続ける。
職業作家への道
1939 年当時のクノーは、ガリマール社における地位が如実に示すように、小説家というよりも、翻訳
家、あるいは、英米文学の専門家と看做されていた。さらに、社会的職業という意味で言えば、彼は「作
家」でさえなかった。作家で生計を立てることができなかったのである。もちろん、「専業作家」が稀だ
った当時、どの作家も安定した収入を得るために、二足草蛙を履くのが普通だった。だからこそクノー
も「ガリマール社の人間」となる道を選んだのだし、作家以外の収入源の確保に汲々としていたのである。
クロード・ドゥボンによれば、クノーの経済的不安が軽くなったのは、プレイアッド百科全書の担当を
引き受けた 1954 年末以降のことだという (30)。
「奇妙な戦争」 前にクノーが置かれていたこうした状況を頭に入れた上で、『日記 1939-1940』を注意
深く読んでみると、クノーがいかに生計の手段の獲得に心を砕いているかが分かる。動員される前のヴ
ァランジュヴィルでのヴァカンスの日々。印象派の作品でお馴染みの風光明媚な海岸を散歩したり、海
水浴をしたり、バドミントンに興じたり、レストランで食事をしたりと、一見優雅そうに見える休暇の
間、クノーは必死でガリマール社の仕事をこなし、新たな就職口のための自己研鑽に励んでいる。毎日
のように交わされる手紙のやり取りの相手は、親しい友人を除けば、主にポーラン、イルシュ、そして
ガストン・ガリマールである。目の前の暖炉の上には 80 冊の本の山。これはすべて「ガリマール社原稿
審査会英語担当」として読まなければならない英文の原書だ。そして、「あまり得意ではない」ギリシア
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1939 年のレイモン・クノー ―作家はいかにして作家になるのか―
語、幾何の勉強。これは、ジョラス夫人の学校への就職のためである。そう、この時期クノーは「教員」
になることを考えていた。
ここで、興味深いエピソードがある。『哲学者とならず者』の冒頭部分において、先に引用した「屑み
たいな連中」に囲まれた飲んだくれの生活の描写のすぐ後で、クノーは次のように告白しているのだ。
ある日、連中の一人が私の職業を尋ねたことがあった。私は答えた、教員だと(嘘だった)。な
おも「何の先生だい?」と聞いてくるので、「哲学の」と答えた(これも嘘だった。免状は持っていた
けれども)(31)。
すでに 6 作も世に問うている、いわば「ベテラン作家」のクノーが、職業を尋ねられて「作家」だと
答えなかった理由は、もはや明白だろう。相手は自分の「生活の糧」を尋ねているのだから、作家とし
て生計を立ててない以上、作家という答えは考えられない。では、なぜ「教員」なのか。クノー一流の
諧謔と解することもできるだろうが、われわれの文脈からすれば、この「嘘」の答えは限りなく真実で
ある。なぜなら、動員前にクノーは真剣に「教員」になろうとしていたし、その準備も進めていた。ジ
ョラス夫人とは金銭面での確認までしていることから、ほとんど「内定」していたと言っていいだろう。
ところが、着任するはずだった 9 月からの新学期に狙いを合わせるかのように、戦争が始まったのである。
戦争がなければ、今頃は本当に教壇に立っていたかもしれないのだ。実際、動員解除後、採用の話はお
流れとはならず、約一年遅れで、クノーはヌイイの学校の教員となる (32)。ただしここで、
「ギリシア語の」
と言わないところがクノーらしい。近い未来確実だった「教員」という職業と過去に取得した「哲学の
教員免状」。これもクノーの「過去と未来の等価性」理論の実践だと言ったら言いすぎだろうか。
また、「前線志願」の件を妻に手紙で告白しようとする場面も注目に値する。夫の決意にジャニーヌ
が反対するであろうことは、目に見えている。それでもクノーは彼女に自分の気持を伝えようと決心し、
手紙を書き終える。ところが、同じ日のうちに、ガリマールからの手紙を受け取り、ガリマール社が存
続することを知ったクノーは考えを改めるのである。「ジャニーヌへの手紙を書き直す。もう前線行き
の話は彼女には話さないことにする」(p.45)。「前線に行くこと」と「通訳になること」は不可分である。
前線にはフランス軍とともに作戦にあたっているイギリス軍がいる。通訳という仕事は前線においての
み、存在価値を持つ。後方の 「留守部隊」 には不要な存在なのである。しかるに、通訳になりたいとい
うクノーの願いは、あくまでも戦時下における究極の選択だった。戦争により動員される前の作家活動
が「断絶」されたと感じていたクノーは、ガリマール社において築きあげつつあった自分の地位も水泡
に帰したと認識していたのだった。それどころか、この時期すでにガリマール社自体が出版社として存
続の危機を迎えていたのである。事実、8 月末に出された大統領政令によって、フランス出版界は「検
閲」の嵐が吹き荒れていた (33)。したがって、ガリマール社存続の知らせに、クノーが、かすかではあるが、
一筋の光明を見出したであろうことは想像に難くない。楽観はできない。しかし、もし戦争が終われば
ガリマール社での活動を再開できるかもしれない――クノーがそう思ったとしも不思議ではない。戦争
が続く限り、「前線志願」の決意は変わらない。しかし、愛する妻をわざわざ悲しませる必要はあるだろ
うか。クノーの葛藤が伝わってくるようだ。いずれにしても、一度は妻に話そうとした彼の気持ちを変
えさせるきっかけになったのが彼の小説を出版する会社の存続だったこと、すなわちクノーの世俗的生
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1939 年のレイモン・クノー ―作家はいかにして作家になるのか―
活手段だったことは記憶にとどめておいてよい。
二つの戦争小説とそれを結ぶ戦争体験
「乞御高評」の宣伝文句そのままに、『きびしい冬』の出版後、40 年代のクノーは、毎年のように意欲
的に作品を発表し始める。41 年の『ぐずついた天気』、42 年の『わが友ピエロ』、44 年『ルイユから離れて』、
47 年『文体練習』、48 年『聖グラングラン祭』。小説の合間を縫うように詩集を出すことも忘れない(43
年の『レ・ジョー』、46 年の『運命の瞬間』)。46 年にはジョルジュ・デュ・モーリエの『ピーター・イ
ベットソン』を翻訳する等、ガリマール社「原稿審査会」へのメンバー入りの原動力となった翻訳家と
しての仕事も健在である。まさに「作家レイモン・クノー」の大いなる船出を見るようだ。そして 1951 年、
ついにクノーは『人生の日曜日』を発表する。
『人生の日曜日』こそは、『きびしい冬』に継ぐ「戦争小説」第二弾であった。主人公ヴァランタン・
ブリュは、1939 年のクノーをそのままなぞるかのように、戦争が起こることを予感し、動員されたナン
トでの軍隊生活に馴染めず、千キロも離れた「前線への配属」を希望する。そして、クノーが「奇妙な
戦争」前に前大戦を描いた『きびしい冬』を書いたように、ブリュ二等兵もまた、ナポレオン戦争とい
う「過去の戦争」の探求により、「未来の戦争」、すなわち、第二次世界大戦を予言する「予言者」とな
る (34)。すなわち、ここでは「過去と未来の等価性」というクノーの小説理論が再び実践されているので
ある。過去と未来、虚構と現実が入り交じった、めくるめく混沌の世界を描いたこの小説は、クノー文
学の一つの到達点を示すものである。と同時に、『きびしい冬』を書いた後に戦争に巻き込まれた作家ク
ノーが、自分の人生とその運命に向き合うために、どうしてももう一度書かなければならなかった「戦
争小説」であった。しかし、『人生の日曜日』が書かれるには、10 年もの長い時間が必要だった。
『きびしい冬』と『人生の日曜日』、この二つの戦争小説を繋ぐ媒介として、『日記 1939-1940』があ
る。過去と未来を繋ぐ現在としての日記。『きびしい冬』によってもたされた「ささやかな成功」は、40
年代の「世俗的な成功」へと着実に、大きく膨らんでいく。したがって、クノーが職業作家になってい
く過程の中で、彼の「奇妙な戦争」体験は決定的な意味を持っている。『日記 1939-1940』に見いだすこ
とのできるのは、生活のために職探しに奔走し、先の見えない戦時中の軍隊生活の中で「通訳」になろ
うとする作家の姿である。しかし、「奇妙な戦争」から 10 年もの歳月を経てその体験を『人生の日曜日』
として結実させたことは、クノーが職業作家として確かな地歩を固めつつも「世俗的な成功」や「社会
的名声」とは無関係に、自分の文学に忠実に生きたことを示している。忘れてはならないのは、書かず
さが
にはいられないという作家の性を「奇妙な戦争」を通してクノーが身をもって知り、この時代を生き抜
いたという事実である。1939 年 8 月 16 日、クノーは日記に記している。「私はしばしば書くのが好きで
はないと称してきた。それが、こうして私は書いている。書いている。書いている」(p.28)。
われわれはここに、書き続けることによってしか作家になり得ない、一つの真実の姿を目にすること
ができる。
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1939 年のレイモン・クノー ―作家はいかにして作家になるのか―
[付記] 本文中、引用に使用した『日記 1939-1940』のテクストは、Journal 1939-1940, Gallimard, 1986
からのもので、括弧内にページ数のみを記した。訳文はすべて拙訳による。
註
(1) Raymond Queneau, Entretiens avec Georges Charbonnier, Gallimard, 1962.
(2) Anne Clancier, “Le journal de Raymond Queneau” in Cahiers Raymond Queneau No 2-3, Association
des Amis de Valentin Bru, 1986, p.35.
(3) これに加えて、クノーの日記は複数の仮綴じのノートに分かれており、日付のない部分も多く、
これを時代順に再構成する作業は困難を極めたという。なお、クノー自身が破棄した部分も多
く、1996 年に出版された『日記 1914-1965』も空白の時期を多く含んでいる。Raymond Queneau,
Journaux 1914-1965, Gallimard, 1996.
(4) 沼田憲治、「ル・アーヴルとパリ郊外――作家レイモン・クノーの誕生」(『東京交通短期大学創立
50 周年記念論文集』所収)、東京交通短期大学・東京交通学会、2002.
(5) プレイアッド版クノー年表の土台にもなったアンドレ・ブラヴィエによる詳細な年表には、1939
年はわずか一行の記述しか見当たらない。André Blavier, “Chronologie de Raymond Queneau” in
Europe No 650-651, Europe et Messidor/Temps Actuels, 1983, p.137.
(6) ハンナ・ダイアモンド、『脱出 1940 夏・パリ』、佐藤正和訳、朝日新聞出版、2008. p.37.
(7) 召集を受けたとき、『きびしい冬』が掲載される予定の NRF 誌 9 月号は刊行間近だったが、戦争
の影響で本当に刊行されるか、クノーは幾分疑心暗鬼になっている。クノーの手に NRF 誌 9 月号
が届くのは 10 月になってからだった。
(8) アンドレ・ブラヴィエは、クノーの信仰への回帰にルネ・ゲノンの影響を見て取っている。
Michel Lécureur, Raymond Queneau, Les Belles Lettres/Archimbaud, 2002, p.228.
(9) Ibid, p.230.
(10) Raymond Queneau, “Philosohes et voyous” in Journal 1939-1940, Gallimard, 1986. p.225.
(11) Raymond Queneau, “Chronologie” in Œuvres complètes, t.I, Bib de la Pléiade, Gallimard, 1989. p.
LIX.
(12) 喘息という持病を抱えていたクノーは、健康面での不安を抱えていた。ヴァランジュヴィルでの
ヴァカンスも海水浴と散歩による体力増強を狙った療養を兼ねてのものだった。
(13) 長谷川公昭、『ナチ占領下のパリ』、草思社、1987. p.13.
(14) Simone de Beauvoir, Journal de guerre, septembre 1939-janvier 1941, Gallimard, 1992, p.122.(桜井
哲夫、『占領下パリの思想家たち――収容所と亡命の時代』、平凡社、2007. p.15. からの再引用)
(15)
長谷川公昭、前掲書、p.11.
(16)「私程戦に縁のある男はいない」と自ら言う通り、1939 年 4 月から 1940 年 5 月のパリ陥落直前ま
でという藤田の三度目のフランス滞在は、まるで「奇妙な戦争」を体験するためだけにあったか
ブラ
のようである。藤田嗣治、「巴里籠城日記」(『腕一本・巴里の横顔 藤田嗣治エッセイ選』、近藤
史人編所収)、講談社(講談社文芸文庫)、2005. pp.134-135.
(17) マルク・ブロック、『奇妙な敗北――1940 年の証言』、平野千果子訳、岩波書店、2007. p.83.
− 47 −
1939 年のレイモン・クノー ―作家はいかにして作家になるのか―
(18) 川上勉、
『ヴィシー政府と「国民革命」――ドイツ占領下フランスのナショナル・アイデンティティ』、
藤原書店、2001. p.247.
(19) 川上勉、前掲書、p.90.
(20) Michel Lécureur, 前掲書、p.233.
(21) Raymond Queneau, Un rude hiver, Gallimard, 1939 renouvelé en 1966. p.10.
(22) 嘆願書においては、クノーの要望が「通訳」からときに「英文解読員」に変わることもあった。しかし、
英語力を活かした任務をクノーが求めたことには変わりない。
(23) ピエール・アスリーヌ、『ガストン・ガリマール――フランス出版の半世紀』、天野恒雄訳、みす
ず書房、1986. p.277.
(24) 松島征、「レーモン・クノーにおける詩的言語の革命――シュルレアリスムからパタフィジックを
経てウリポへ至る歩み」(『アヴァンギャルドの世紀』、宇佐見斉編所収)、京都大学学術出版会、
2001. p.110.
(25) ただし、いかにアスリーヌの「驚き」が正当なものだとしても、『はまむぎ』で第一回ドゥー・
マゴ賞を受賞したときのクノーを「恩知らずで何よりも厚かましい」と評するアスリーヌには明
らかに先入観があったことも指摘しておかなければならない。ピエール・アスリーヌ、前掲書、
p.145.
(26) ピエール・アスリーヌ、前掲書、p.132.
(27) Michel Lécureur, 前掲書、p.219.
(28) Michel Lécureur, 前掲書、p.218.
(29) 最初にポーランがクノーに示した条件は、「秘書」として月 1500 フランだったが、結局、「「原稿
審査員英米文学担当」に「格下げ」され、月 500 フランになったという。Michel Lécureur, 前掲書、
p.218.
(30) Claude Debon, “Repères biographiques” in Europe No 888, 2003, p.228.
(31) Raymond Queneau, “Philosohes et voyous” in Journal 1939-1940, Gallimard, 1986. p.225.
(32) ヌイイの学校での 「新しい仕事」 にクノーはあまりやりがいを感じなかったようだ。ただし、
「教員」
という職業に嫌気がさしたのでないことは、新たにアルザスの学校にポストを求めていることか
らも分かる。
(33) ピエール・アスリーヌ、前掲書、p. 278.
(34) ヴァランタンは実際に占い師「サフィール夫人」となり、予言者を「職業」とする。
− 48 −
東京交通短期大学 研究紀要第14号 2008.12
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷
The Japanese Railroad Accident History
and Transition to Safety Stability Transport
川 津
賢
Ken Kawatsu
1.日本の鉄道事故史から近代鉄道事故の推移
鉄道がこの世に姿を現したのは、1825 年イギリスで列車を走行させたのが始まりである。当時は列車
速度、性能も悪く信頼性に欠けるもので公共鉄道として認められるものではなかったのである。その後、
機関車の改良を幾度と重ね速度性能向上と輸送力の増強を図り、1830 年公共鉄道として認められること
になる。日本の鉄道はそれから遅れること約半世紀。鉄道の進出は当時の交通機関として画期的であり、
イギリス技師の指導のもとで鉄道技術や安全対策等は確立されていたのである。
今年で鉄道創業 136 年が経過し、その間起きた事故に着目すると重大事故は 188 件発生。昭和の事故
では桜木町駅電車火災事故、常磐線三河島駅三重衝突事故、山陰線餘部鉄橋列車脱線転落事故、平成で
は信楽高原鉄道列車衝突事故、日比谷線脱線衝突事故、新潟中越地震上越新幹線脱線事故等が記憶にある。
最近では 2005 年福知山線横転脱線事故が最後の重大事故史として記録されている。
過去の事故分析を見ると、創業当時と現在では事故区分が異なるので一概に比較はできないが、事故
の原因を大別すると、動力車乗務員 ( 運転士 ) によるもの、駅取扱い ( 運行管理 )、車両故障、天災 ( 自
然災害 )、列車火災・妨害、踏切、競合脱線及び施設関係に分けられる。鉄道の安全に関わる諸規則は、
過去の重大事故等から教訓や反省に立って構築されてきたと言える。鉄道事故は長期的に減少傾向にあ
るものの、昨年の運転事故は 892 件発生し、踏切傷害、人身傷害事故が全体の約9割弱を占めている。
また、インシデントもここ数年は下げ止まりの傾向にあるが、踏切、人身傷害事故は人為的な妨害行為
によるものなので、安全対策が先送りになってしまい重大事故に繋がる恐れがある。そこで安全の原点
に戻り過去の事故原因と対策等洗い出し、今後のインシデント対策の一助となる事を願うものである。
2.日本の鉄道・重大事故史からの変遷
1)鉄道史からの重大事故と原因
創業から現在迄の 136 年間に発生した重大事故は 188 件である。
年代別・事故名及び原因等は別紙・巻末資料 ( 図表 1) を参照されたい。
注 ) 重大事故とは、死傷者 10 名以上又は脱線車両 10 両以上生じた事故をいう。
2)鉄道史における重大事故件数と年代別推移
− 49 −
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷
重大事故 188 件を年代別に推測すると創業時は列車本数、走行距離も少なく、速度も低速の為事故は
少なかったと言える。時代と共に徐々に走行距離、列車のスピードアップ等で事故は増加の傾向にある。
終戦時、日本の産業、都市施設の大半が破壊されていたが、鉄道は大都市を除けば被害は比較的軽微で
あったと言える。当時は疎開先との連絡、食料の買い出し、海外からの復員、引揚、米軍の輸送も担う
など特殊な需要で鉄道の活躍と比例するかのように事故も頻発している。その後、鉄道を主軸とした国
内の交通産業も復興経済期には事故も減少しつつある。
高度成長時代に入るとモータリゼーションの到来により鉄道輸送の利用は減少を辿る。その中でも
1965 年以降国鉄の赤字は毎年増え続けることとなる。そのような社会環境の中とは思いたくないが重大
事故が微増している。国鉄は累積赤字解消できず分割民営化に至る。当時、明るいニュースとして東海道・
新幹線開業は世界の水準を超えた鉄道の出現である。昨今ではモータリゼーションのマイナス要因であ
る環境汚染、交通渋滞、交通事故が表面化し環境に優しい鉄道が見直されてきている(図表 2)。
図表 2 事故件数の推移
30
25
20
15
10
5
図表 3 重大事故の原因と比率
⑧競合脱線(10 件)5%
⑦施設関係(12 件)6%
⑥踏切(15 件)8%
①動力車乗務員
(70 件)37%
⑤妨害・火災
(15 件)8%
④車両故障
(20 件)11%
③天災(21 件)11%
− 50 −
②駅取扱(22 件)12%
2005
1995
1990
1980
1985
1975
1970
1965
1960
1955
1950
1945
1940
1935
1930
1925
1915
1920
1910
1905
1900
1895
1890
1885
1880
1875
0
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷
3)年代別・重大事故の原因区分と比率
事故原因を区分すると下表のように 8 項目 ( 動力車乗務員、駅扱、天災、車両故障、妨害・火災、踏切、
施設、競合脱線事故 ) となり、各項目事故の比率は ( 図表 3) の如く表示される。
結果 : 人的要因による事故が全体の約 50%を占めている。
年代別・事故発生件数とその原因区分
原因区分
年度
動力車
駅取扱
乗務員
天災
車両
故障
妨害
火災
踏切
施設
関係
競合
脱線
計
1872 ~ 1875
1
1
1876 ~ 1880
1
1
1881 ~ 1885
1
1
1886 ~ 1890
0
1891 ~ 1895
1
1
1896 ~ 1900
1
2
1
1
5
1901 ~ 1905
1
1
1906 ~ 1910
1
1
1
2
1
6
1911 ~ 1915
3
3
1916 ~ 1920
1
2
2
1
1
7
1921 ~ 1925
3
3
1
7
1926 ~ 1930
3
1
1
1
6
1931 ~ 1935
2
1
2
5
1936 ~ 1940
3
1
2
1
7
1941 ~ 1945
5
2
2
1
2
2
1
15
1946 ~ 1950
12
1
2
5
3
2
25
1951 ~ 1955
2
1
1
3
2
1
1
1
12
1956 ~ 1960
3
1
1
2
2
9
1961 ~ 1965
6
4
6
1
17
1966 ~ 1970
6
1
1
1
3
2
14
1971 ~ 1975
6
1
1
1
2
11
1976 ~ 1980
2
1
2
1
1
7
1981 ~ 1985
4
2
6
1986 ~ 1990
5
1
1
7
1991 ~ 1995
1
1
1
1
1
1
6
1996 ~ 2005
3
1
1
2
1
8
計
70
22
20
20
18
15
12
10
188
− 51 −
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷
4)事故史から原因別対策の変遷
(1)動力車乗務員 ( 運転士 ) 事故
乗務員による事故のうち信号冒進の事故対策としては、1962 年発生した常磐三河島駅での事故を契
機に、当時の国鉄は信号冒進による追突、衝突事故防止目的で、此れまでの車内警報装置に「ブレー
キ機能を付加したATS−S形」を設置した。しかし、この方式の盲点でもある乗務員が警報を確認
するとその後の防護機能が働かない事故が発生。そこで弱点を無くすことから自列車速度と停止用の
ブレーキパターンとを連続照査しパターンを上回った速度の場合ブレーキを動作させる「連続照査型
のATS−P形」を拡大導入促進している。私鉄においても運輸省 ( 当時 ) の通達により随時速度照
査機能を持ったATSが導入されている。
CS-ATC の拡大導入により多段式ブレーキ方式から一段ブレーキ方式等改善なされ保安装置による
保安度向上に努めている。
運転保安装置の改良、開発により列車の誤通過防止、駅終端部での過走防護、曲線部での速度超過
防止などに応用され信頼度は向上してきている。
近年も幾多となく信号機の見誤りや取扱ミスで重大事故が多発しているが乗務員ばかりでなくその
装置を扱う側にもさらなる慎重さが求められる。
(2)駅取扱い事故
鉄道の保安装置の機械化、取扱者に対する教育、実務訓練などの充実や、鉄道システムの近代化と
共に激減している。
机上教育は、教本、資料に基づく教育が主体で進められ学習効果と理解力向上に努めてきたが、今
後は視聴覚教育、シミュレーション装置などを使った実践教育が必要となる。駅扱い事故の減少によ
り経験不足や技術の伝承も併せて必要となる。過去の事故事例や事故ビデオ、写真、各種情報を基に
した体系的教育も必要である。電子機械装置の導入により自動化が進み人の手による誤扱い事故が減
少すると共に装置のトラブル事故処理能力の養成や技術力を継承することが重要な継続課題である。
(3)天災 ( 自然災害 ) 事故
日本の特質である地震に対しては、兵庫県南部地震や新潟中部地震によってはじめて新幹線が本線
上で脱線事故に遭遇する。今後は、地震検知装置 ( ユレダス ) の研究が進められている。構造物の耐
震補強対策が更に進み、ネットワーク化された早期検知システムの整備、情報連絡体制の整備の強化、
脱線防止や逸脱防止等対応が高度化している。
強風、降雨、降雪等は各測定計器のデータを基に運転規制している。
突発的な風対策は、更なる研究が望まれる。
(4)車両事故
車体は木製、窓構造、貫通扉構造などに問題があり車体の鋼製化から軽合金車体化を進めてきてい
る。また、日本の地形から曲線通過時の乗り心地対策に振り子車体開発、スピードアップ対応に車両
軽量化、保守の合理化観点から、ボルスタレス台車の拡大使用など改善が図れている。また、スピー
− 52 −
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷
ドアップに反するエネルギー、騒音など地球環境負荷低減車両の導入を積極的に進めている。新造車
両製造コスト低減策として、車両の規格標準化が進められている。
事故の原因で比較的多いブレーキ操作ミスやブレーキ効率低下による事故が多発し、ブレーキシス
テムの改善、改良を余儀なくされた。当時の粘着ブレーキシステムは、空気ブレーキ方式 ( 直通管、
自動 ) の欠点である列車分離の対策や、ブレーキ動作の均一化を図ることで改善してきた。保安装置
の深度から電気指令式 ( アナログ、デジタル式 ) を導入して、ブレーキ関連事故防止に努めてきている。
また、下り急勾配での速度制御に抑速ブレーキ、常用ブレーキ故障時のバックアップとして保安ブレ
ーキの設置が義務付けられた。ブレーキシステムはフエルセーフ思想を踏襲している。
過去においては、車軸折損事故による脱線事故が多発している。これは当時の車軸の材質、品質、
製造工程の問題及び非破壊検査技術の未熟等も要因と考える。非破壊検査も自動化が進んで車軸材の
超音波透過度や傷エコーの判定、評価も自動解析など改革され車軸折損は皆無となっている。
その他鉄道車両主要機器は、電子技術の進化に伴い故障現象が消滅し、保守技術が追従できない事
もあり、モニタリングの普及が余儀なくされている。 昨今では、ブラックボックスであった電子部
品の寿命予測、評価などをモニタにより日常検査に活用している。さらにモニタリングからの車両情
報を定期的に空間情報伝送で地上に送り、自動解析し故障予知と部品取替回帰など保全管理への支援、
省力化が進められている。
(5)妨害・火災事故
桜木町事故、北陸トンネル火災そして日比谷線火災事故を反省に車両は燃えない、燃えにくいを目
指し、客室内装材には A-A 基準に準拠した難燃、または不燃材料を使用している。また、危険物車内
持ち込み禁止等も過去の事故を教訓に現在に至っている。2003 年韓国大邱市の地下鉄火災放火事故を
踏まえて地下駅等火災対策の見直しをするなど進めている。
人為的な妨害行為は、今後どんな事態が発生するか予測も出来ない非常に難しい課題であるが過去
の事例を基に検討課題となる。
(6)踏切事故
踏切事故は、当時も今も変わりなく多発傾向にある。
踏切道は、列車の運行と踏切通行の自動車、通行人とが共同で安全を確保する事が必要である。立
体交差化、全踏切の全廃が理想であるが、費用と時間がかかることから困難である。踏切道で異常を
検知した時の通報設備として、障害物検知装置、踏切支障装置と列車保安設備の連動化を図り信頼性
を高める。踏切道利用者の交通マナーの向上を目指した地域活動もひとつの施策と考える。
(7)施設事故
新幹線トンネル壁コンクリート塊落下事故のように、設置後定期的な点検を積極的に進めている事
業者は数少ないのではないだろうか。土砂崩れ、トンネル崩落等が時々発生しているが、事故が起き
てから一斉調査をするなど事後処理のケースが多くみられる。定期的な構造物検査システムを構築す
る事が必要である。また、自然災害による落石、岩盤崩壊、トンネル・高架橋など老朽化による崩落
− 53 −
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷
事故に対する検査体制の強化、補強方法、防護柵など研究課題として残されている。
ホームの安全対策にプラットホーム上における乗客の扉挟み、引きずり防止、高齢者・視覚障害者
の転落防止等緊急事態発生の際列車防護、非常停止押しボタン通報装置による運転事故削減施策の促
進を図っている。
(8)競合 ( 線路・車両 ) 事故
東海道線・鶴見駅付近での三重衝突事故は、同時期に貨物の競合脱線事故と原因が極似であること
から、従来の車輪の基本踏面形状から N 踏面に改良される。フランジ角度と踏面勾配をゆるくして、
脱線に対する安全度を高めた対策が実施されている。さらに列車のスピートアップを余儀なくされて、
車輪踏面形状に円弧踏面を採用し、更なる安全を確保している。
日比谷線事故を契機に車両の輪重アンバランス、レールと車輪間の摩擦係数の増大、急曲線の出入
り口側緩和曲線における輪重減少・横圧増大が原因にあげられる。事故により推定脱線係数比という
曲線線形の乗りあがり脱線に対する走行安全性の評価指数が出される。 推定脱線係数比 1.2 以下の箇
所では安全確保にガードレールの設置などの対策が進められている。
注)推定脱線係数比とは、曲率半径、カント、緩和曲線長・車両の軸重、静止輪重比などから求め
られる限界脱線係数と脱線係数の比で表わされる指標
3.2007 年度運転事故統計の分析
1)事故別発生件数
発生した運転事故は 892 件である。
それを事故別発生件数に表示する(図表 4)。
図表 4 事故別発生件数
物損
3
424
人身事故
98
道路障害
350
踏切障害
列車火災
0
16
列車脱線
列車衝突
1
2)事故別発生件数の分析 運転事故の発生件数は 892 件で昨年よりは微増であるが、近年は横ばいで推移している。重大事故は
ゼロである。
− 54 −
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷
事故別発生件数では人身事故と踏切障害事故が発生件数の約 90%弱を占めている。
人身事故の原因は、乗客以外の旅客と公衆によるホームからの転落、線路内立ち入り等鉄道側以外に
よるものが 413 件と大半を占めている。社会環境による自殺行為が増加している事も考えられる。踏切
障害事故が 350 件で、事故内容は直前横断、落輪、エンスト、停滞等で全体の約半数を占めている。踏
切事故と人身事故を削減し、死傷者をなくすための施策とし、ホームに非常ボタン警報装置の設置や踏
切保安装置の整備と併せて線路内への立ち入り、踏切道の無理な横断対策が必要となる。踏切事故は旧
態依然として減少していないことは残念である。事業者と踏切利用者の相互理解により協力を得ること
が肝要と考える
3)インシデント発生件名数と比率
インシデント事故は 83 件発生している。
内訳は施設障害 19 件、その他 36 件で全体の 64.7%を占め、ほとんどが外部要因である。外部要因は
事業者側の責任範囲外であることから、その事故による併発事故を恐れて安全を優先することで列車の
遅れ、運休等が生じ迷惑を被るのは、利用者であることを忘れてはならない。運転事故により毎日の些
細な遅れが、鉄道の信頼性を失うことになりかねない。人為的、妨害行為による事故の増加を見ると、
何らかの対策を講ずることが必要となる。事故要因を解析し、早急に安全対策の強化を図ることが利用
者からの信頼回復につながることと思われる。事故防止、処置に係る情報は利用者にも積極的に開示し、
インシデント事故を縮減していくことが必要であると考える(図表 5)。
注 ) インシデントとは、鉄道運転事故が発生する恐れがあると認められる事態である。
2001 年 10 月鉄道事故等報告規則等の改定により新たに報告対象となる。
図表 5 インシデント発生件数と比率
閉そく違反 1 件
1%
信号冒進 3 件
信号違反 2 件 4%
2%
信号違反 2 件
2%
工事違反 3 件
4%
車両脱線 7 件
9%
その他 36 件
43%
施設障害 19 件
23%
危険物漏洩・0%
車両障害 11 件
13%
− 55 −
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷
4.安全・安定輸送の持続的な発展と対策への変遷
1)安全・安定輸送の発展への軌跡
重大事故史にはそれぞれ多くの死傷者によって近代鉄道の安全・安定輸送の根幹が築き上げられたと
言っても過言でない。それぞれの重大事故を決して風化させず、次世代に伝承していく事で鉄道に携わ
る者が常に危険と背中合わせであることを自覚し、安全・安定輸送の使命でもあり鉄道員への教訓でも
ある。
事故史を顧みて安全・安定輸送のシステムは、それぞれの事故発生を契機に同種事故防止の規則、規
程の見直しや整備が行われ、再発防止とシステムの進化に繋がっている。
事業者は安全・安定の方策とし、各分野で様々な設備が構築されると共にヒューマンエラー対策も講
じられてきている。鉄道のシステムが一層進み、これからの運転業務は運転士のハンドル操作から故障
処置までが運転台、床下モニタ装置を活用した監視型になってきている。しかし、完璧な設備や装置で
もトラブルが発生し、その機能が発揮されなくなった時必ず人に頼ることになる。その時、間違った判
断や処置をした場合には、最悪の結果を招くことになる。日頃から自身ばかりでなく周囲の仲間と情報
を共有化し、安全を意識した風土づくりに努力していくことが肝要である。これまでの重大事故件数で
比較的多い事故原因であった、ヒューマンエラー事故に対しては実践教育、総合模擬訓練を積極的に取
り入れ信号運転保安装置を強化装備し、事故防止を積極的に進めている。しかしながら信号の誤認、取
扱ミスによる大きな事故が残念ながらいまだに発生している。
最近の重大事故を顧みると阪神淡路大震災による高架橋の崩落、競合脱線による日比谷線の中目黒駅
構内列車衝突事故、中越地震による上越新幹線の列車脱線事故、JR 西日本福知山線列車脱線事故および
強風による JR 東日本・羽越線列車脱線事故等社会に大きな影響を与えた重大事故や天災による災害が
発生している。
自然災害による事故対策は今後に期待するとして、2005 年 JR 西日本福知山線列車脱線事故は 107 名
の命と 560 名以上の負傷者を出した。この事故を契機に輸送の安全がすべてのサービスに優先すること
を認識し、JR 西日本鉄道では車両や施設・設備の安全性の向上、企業風土の見直し等安全・安定輸送の
確保に向けた取り組みを経営トップと現場が一丸となって安全管理体制の再構築に傾注している。
自然災害事故を除くと何時の時代にも事故には人が介在している。人的要因はメンタル的な不注意、
怠慢、不規律、錯覚、憶測等挙げられるが社員一人一人の士気、モチベーションが基盤にあると考える。
事業者はそのヒューマンエラーによる事故ゼロを目指したバックアップ方策に職場管理、双方向コミュ
ニケーション、人材育成・教育の充実、危機管理体制の構築に取り組んでいる。事故の要因が何であろ
うと起きた事故に社会は厳しく非難する。当事者ばかりでなく他の事業者も他山の石とし、輸送の安全
が全てのサービスに優先することで安全・安定輸送の確保に向けた総合的な不断の取り組みを推進する
ことである。
2)これからの鉄道ネットワーク拡充と安全・安定輸送に向けて
この時代にふさわしい質の高い鉄道ネットワークの構築やサービスの充実に尽力し、利用者が望む安
全、安心な利便性の向上に成果を示すものである。
鉄道車両も利用者が求めるニーズに応え、車両新造のコンセプトは、環境に優しく、快適性、乗り心
− 56 −
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷
地を良くする為の改良、改善、バリアフリー対策など新しい広がりを見せている。鉄道施設にもバリア
フリー化を始めとした駅の利便性向上、新技術を導入した公共事業としての認識に基づき、お客様への
サービス向上、地域住民との融合が求められる時代でもある。改札業務も将来の人材不足への懸念や労
働環境改善が契機となり改札業務の省力化、近代化を図る必要性から磁気乗車券から非接触型 I.C カー
ドへと移行しつつある。ワンタッチで出改札を通過、駅は無人化されホームでは I.T.V カメラ、案内表
示板による監視対応等拡充化されている。しかしながらホームからの転落、死傷事故は後を絶たない。
このような状況のもと利用者と事業者間の相互コミュニケーションが図れているだろうか。ステーシ
ョンエリアのエスカレータ・エレベータ施設・自動改札、非常通報装置等設備と車内暴力・痴漢などの
迷惑行為、発病、移動制約者の介護、誘導等は利用者任せになってはいないだろうか。
鉄道ネットワークはさらに波及拡充され、他社の路線に列車が乗り入れられ行先も複雑化する。また、
他社線の影響による遅延、乗り入れ車両の故障など突然のアクシデントに利用者は、戸惑いを隠せない
でいる。便利になっているシームレス化に対して駅機能の在り方等を見直し、利用客の安全性、利便性
を図ることが求められている。これらの課題は、総合的な見地から公共交通機関として、利用者のニー
ズに応えるべき多くの安全システムを見直す時期にきている。
近年、食品業界の不祥事発覚が続発し、企業風土、体質が問われているが、鉄道業界においても一般
企業と同様に倫理感が問われる社会環境にある。また、これからの鉄道を巡る環境も大きく変わりつつ
あり、少子高齢化、経済不況による鉄道経営の悪化等ややともすれば安全対策が疎かになることが危惧
される。それには、日頃から積極的に事業者が潜在的な危険要因を摘出し、その潜在事故要因に対する
安全システムを構築したことを利用者に説明することで相互の信頼性は維持されていく事に繋がる。こ
うした現状を踏まえながら、鉄道が果たすべき役割は「安全かつ安心で、安定した輸送の確保」を確立
し過去の事故を風化させず、二度と同じ事故を起こさない、起きないように次世代へ継承し、更なる鉄
道の発展を願うものである。
以 上
( 引用・参考文献 )
(社)日本鉄道技術協会(2008 年) 「20 年後の鉄道システム」
久保田博(2005 年)
国土交通省ホームページ
「鉄道事故重大事故の歴史」 グランプリ出版社
鉄道事故に関する情報
− 57 −
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷
添付資料
図表 1 事故名と原因
番号
西暦
年号
1
1874
新橋駅・構内列車脱線事故
ポイント故障
2
1877
東海道線・西ノ宮列車正面衝突事故
時間間隔法と電信連絡ミス
3
1885
東海道線・大森駅構内脱線転覆事故
分岐器破損
4
1895
山陽鉄道・築堤崩壊軍用列車海中転落事故
暴風による天災事故
5
1897
東海道線・工事列車転落事故
ブレーキ率不足
6
1898
九州鉄道・蒸気機関車ボイラー破裂事故
製作工法、材質の不良
7
1899
日本鉄道・脱線転落事故
台風による
8
1899
東海道線・列車脱線事故
突風により軽量の木製車体
9
1900
東海道線・列車脱線事故
2軸貨車競合脱線と推定
10
1901
信越線・67‰勾配区間での旅客死亡事故
蒸気機関車・蒸気管接合部破損
11
1908
函館線・妨害による列車脱線事故
レールに置き石による
12
1909
横須賀線・列車脱線事故
閉塞扱いミスよる
13
東北線・列車脱線事故
強風による
14
東海道線・列車脱線事故
貨車扉が外れ落下乗り上げ
15
奥羽線・トンネル内脱線転覆事故
煤煙による運転士失神
16
上野駅・列車衝突事故
腕木式信号機の誤認
17
1912
東海道線・列車追突事故
速度制御とブレーキ操作の遅れ
18
1913
北陸線・列車衝突事故
ブレーキ操作の遅れによる
19
1914
中央線・列車脱線事故
急勾配箇所での誤扱い
20
1916
北陸線・脱線事故
車両浮き上がり(競合脱線)
21
東北線・列車衝突事故
閉塞扱いミスによる
22
1918
信越線・列車転覆脱線事故
67‰勾配区間での運転扱いミス
23
東海道線・列車衝突事故
列車の位置確認ミスによる
24
山陽線・下関駅構内の大爆発事故
爆弾積載車突然爆発による
25
1919
山陽線・列車分離脱線事故
冷蔵車端梁腐食による折損
26
1921
磐越西線・列車脱線事故
雪まじりの崩壊土砂による
27
1922
北陸線・雪崩事故
約 6000㎥の雪崩落下
28
1923
東北線・列車脱線事故
通過信号機見落とし冒進による
29
参宮線・列車脱線事故
線路作業員確認励行の不徹底
30
列車が海に転落事故
関東大震災による
31
山口線・列車脱線事故
制動制御ミスによる(ブレーキ不貫通)
32
1924
山手線、電車追突事故
ブレーキ操作遅れ
事 故 名
原 因
− 58 −
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷
33
1926
箱根登山鉄道、脱線転落事故
制動制御ミスによる電車
34
山陽線・特急電車脱線転覆事故
濠雨による堤防崩壊による
35
1927
東海道線・列車追突事故
停止信号冒進による
36
1928
北陸線・柳ヶ瀬トンネル内事故
トンネル内に煤煙ガス充満窒息
37
1930
久大線、機関車ボイラー破損事故
ボイラー欠水による
38
東海道線・急行列車脱線転覆事故
分岐の通過速度オーバーによる
39
山手線・電車脱線事故
信号冒進によるブレーキ操作遅れ
40
1931
山陽線・急行列車脱線転覆事故
分岐通過速度オーバーによる
41
1933
根室線・貨物列車脱線転覆事故
元空気圧不足による
42
山陽線・列車追突事故
列車通過を憶測による
43
1934
東海道線・列車脱線事故
台風による
44
1935
磐越東線・列車脱線転覆事故
山崩れ土砂による
45
1936
北陸線・列車火災事故
乗客の危険物持ち込み
46
1937
山陽線・岡山駅列車追突事故
信号扱いミス
47
東海道線・三重衝突事故
列車通過確認ミス
48
鹿児島線・列車火災事故
線路作業員確認励行の不徹底
49
1938
山陽線・脱線事故
盛土の設計ミス
50
1940
西成線・脱線火災事故
分岐の早返し、脱線転覆ガソリン引火
51
米坂線・列車脱線
雪崩による。
52
1941
常磐線・四倉駅列車追突事故
信号機の復位ミス
53
東海道線・列車三重衝突
信号誤認
54
山陽線・列車追突事故
信号冒進
55
肥後線・列車脱線転覆事故
豪雨による信号未確認
56
常磐線・列車追突事故
濃霧による信号未確認
57
1943
鹿児島線・列車脱線事故
異常高温によるレール張り出し
58
常磐線・構内列車追突事故
信号扱いミス
59
山田線・列車脱線転覆事故
雪崩による
60
高野電気鉄道・電車転覆事故
ブレーキ扱いミス
61
山陽線・列車脱線転覆事故
置き石妨害による
62
山陽線・列車追突事故
乗務員の仮眠による
63
1945
高山線・列車脱線転落事故
軌間拡大・車輪異常摩耗
64
飯田線・電車脱線転落事故 落石による
65
山陽線・列車衝突事故
空気コック閉鎖による
66
山陽線・ボイラー破裂事故
溶接個所の剥離
67
肥薩線・トンネル内事故
上り勾配トンネル内空転による
− 59 −
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷
68
八高線・列車衝突事故
雷雨により通信不能による
69
中央線・構内列車脱線事故
乗務員の仮眠による
70
東海道線・ボイラー破裂事故
天井板溶接、ステーねじ不良
71
福知山線・列車火災事故
乗客の危険物持ち込みによる
72
神戸電鉄・電車脱線事故
急勾配でのブレーキ操作ミス
73
東海道線・列車追突事故
制動制御ミスによる
74
津山線・列車脱線事故
車軸折損による
75
近鉄・電車脱線転覆事故
制動制御ミスによる
76
1946
小田急線・列車脱線転覆事故
ブレーキ管のエア漏れ
77
留萌線・列車脱線転覆事故
吹き込んだ雪に列車乗り上げ
78
東海道線・列車追突事故
機関車乗務員の仮眠による
79
中央線電車の乗客転落事故
満員乗客の力で扉は破損転落死
80
東海道線・列車追突事故
機関車乗務員の仮眠による
81
上越線・列車脱線転落事故
信号誤認しブレーキ遅れ
82
信越線・列車脱線転落事故
土砂崩れによる
83
近畿日本鉄道電車・追突事故
後続列車の信号冒進による
84
1947
八高線・列車脱線転覆事故
ブレーキ装置の故障
85
室蘭線・列車衝突事故
信号確認を失念
86
近畿日本鉄道線電車・火災事故
トンネル内で主抵抗器から失火
87
京浜東北線電車追突事故
後続列車運転士の見込み運転 88
山陽線・列車脱線転覆事故
異常高温によるレール通り狂い
89
1948
名古屋鉄道電車・脱線転覆事故
ブレーキ操作遅れによる
90
1949
近畿日本鉄道線電車・火災事故
後部運転台より失火(不詳)
91
近畿日本鉄道電車・追突事故
直通ブレーキ管破損による
92
中央線・三鷹駅構内電車暴走事故
無人電車が暴走(犯罪行為)
93
東北線・列車脱線転覆事故
曲線部レール繋ぎ板撤去妨害
94
京浜線・桜木町駅電車火災事故
架線が断線垂下火災発生
95
1952
信越線・列車脱線転覆事故
降雪による信号機の確認不可
96
小田急電鉄線・列車追突事故
急曲線見通し悪く制動制御遅れ
97
1953
山陽線・列車追突事故
信号機停電による閉塞扱いミス
98
東海道線・列車脱線転覆事故
貨車車輪異常摩耗による
99
山陽線・貨車列車脱線事故
車輪フランジ欠損による
100
1954
常磐線・貨物列車競合脱線事故
車輪フランジ摩耗と車軸スラスト遊間大
101
1955
飯田線・列車脱線転落事故
落石に乗り上げによる
102
東海道線・列車火災事故
米軍トラック(ガソリンとペンキを搭載)
と衝突
− 60 −
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷
103
常磐線・貨物列車脱線転覆事故
貨車車軸折損による
104
1956
南海電鉄線電車・火災事故
ブレーキによる加熱が床下ゴミに引火
105
土幌線・列車衝突事故
留置ブレーキ取扱ミス
106
山陽線・列車追突事故
場内、出発信号の無確認
107
参宮線・六軒駅構内列車衝突事故
乗務員による信号誤認
108
1957
常磐線列車脱線事故
トラックの衝撃による線路曲損
109
三重電鉄・北勢線電車脱線転覆事故
ブレーキ操作遅れによる
110
1958
山陽線・踏切事故
米軍トラックが警報を無視進入
111
1959
阪急電鉄・線踏切事故
踏切警手の遮断機操作遅れ
112
東海道線・列車衝突事故
貨車車軸折損による
113
1961
東海道線・電車追突事故
曲線部で見通しが悪く
114
小田急線・踏切事故
トラックが警報機を無視進入
115
羽越線の踏切事故
トラックが警報鳴動無視進入
116
山陽線・列車追突事故
雪害により通信不能
117
常磐線・東海駅構内の列車追突事故
場内信号機の誤認
118
1962
常磐線・三河島駅構内の列車三重衝突事故
場内信号機の見落とし
119
鹿児島線・列車追突事故
信号工事で自動閉塞式を通信式に変更
による
120
南武線・踏切事故
トラックが停止せずに踏切進入
121
羽越線・列車追突事故
行き違い変更の報告遅れによる
122
1963
近鉄・阿倍野橋駅構内電車追突
出発信号未確認による
123
筑肥線・踏切事故
ダンプカーの不法直前通過
124
鹿児島線・踏切事故
踏切上でトラック停止
125
東海道線・鶴見で列車三重衝突事故
2軸貨車と線路との競合脱線
126
1964
名古屋鉄道・新名古屋駅構内電車追突事故
特急運転士の見込み運転による
127
名古屋鉄道・踏切事故
大型トラックの冒進による
128
水郡線・列車追突事故
場内信号復位を怠った為
129
函館線・踏切事故
自動車と衝突
130
1966
奥羽線・脱線事故
線路と貨車の競合
131
東海道新幹線電車・車軸折損事故
製造過程問題、品質管理の徹底
132
日豊線・貨物列車脱線事故
線路と貨車の競合
133
東北線・貨物列車脱線転覆事故
分岐器過速による速度制御遅れ
134
東武鉄道線の電車追突事故
急曲線での減速遅れによる
135
1967
南海電気鉄道線・踏切事故
トラックと衝突し電車炎上 136
新宿駅構内・貨物列車衝突事故
ATS警報確認後ブレーキ遅れ
137
1968
南海電気鉄道電車・衝突事故
場内信号停止に対する冒進
− 61 −
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷
138
営団地下鉄日比谷線・火災事故
回送車両床下付近より発火
139
東海道線・善所駅構内列車衝突事故
乗務員の仮眠による過速による
140
中央線・御茶ノ水駅追突事故
注意信号でブレーキ操作遅れ
141
1969
京成電鉄線電車・追突事故
信号機故障とATS開放による
142
東武鉄道線の踏切事故
クレーン車の無謀進入 143
1970
東武鉄道線・踏切事故
ダンプカーの無謀な進入
144
1971
東北線の列車追突事故
乗務員の仮眠による
145
富士急行線電車・脱線事故
トラックと衝突による
146
近畿日本鉄道線特急電車・追突事故
ATS誤動作時の処置誤扱い
147
東海道線岐阜駅構内列車追突事故
乗務員と操車掛の連絡不徹底
148
1972
総武線船橋駅電車・追突事故
車警ベルに気をとられて場内信号機の
停止現示未確認による
149
北陸線北陸トンネル内列車・火災事故
電気暖房器の電気短絡過熱
150
1973
東海道線・貨物列車脱線事故
10 年前の鶴見事故と同種の競合
151
関西線平野駅構内電車・脱線事故
注意信号に対して減速遅れ
152
1974
鹿児島線電車・脱線事故 速度制御ミスによる
153
東北線列車・衝突事故
貨物列車の競合脱線による
154
1975
信越線電気機関車・脱線転落事故
67‰勾配区間の保安装置の操作誤りと
ブレーキ扱いの遅れ
155
1976
函館線貨物列車・脱線転覆事故
乗務員の仮眠で力行位置のままで下り
勾配速度超過による
156
1977
上越線電車・脱線事故
落石による
157
1978
営団地下鉄東西線・電車脱線事故
車両の軽量と突風の相互作用
158
1979
信越線篠ノ井駅構内列車・脱線事故
機関士と構内掛の連絡の不徹底
159
京王帝都電鉄線・踏切脱線事故
トラック荷台から落下のショベルカー
と衝突
160
武蔵野線貨物列車・追突事故
機関士の仮眠による
161
1980
京阪電鉄線電車・脱線転覆事故
悪戯の置き石による
162
1981
長崎線特急電車・脱線事故
枕木締結が一部弛緩、急激な気温上昇
によるレールの通り狂い
163
1982
東海道線名古屋駅構内・衝突事故
ブレーキ操作遅れ(仮眠飲酒)
164
1984
阪急電鉄線電車・衝突事故
ATS電源を解放
165
山陽線西明石特急電車・追突事故
ブレーキ操作遅れ(仮眠飲酒)
166
上信電鉄線電車・衝突事故
運転士仮眠し、停車を失念
167
1985
能登線列車・脱線転落事故
土砂崩れによる
168
1986
西武鉄道線電車・追突事故
積雪によるブレーキ効き不足
169
山陰線、余部鉄橋列車・脱線転落事故
強風を予測しきれずに運行
− 62 −
日本の鉄道事故史と安全・安定輸送への変遷
170
1987
名古屋鉄道・踏切事故
立ち往生トラックに衝突
171
近畿日本鉄道東大阪線、生駒トンネル内・火災
事故 高圧ケーブル絶縁不良による 172
1988
中央線東中野駅構内電車・追突事故
ATS装置の誤扱いと推定
173
函館線列車、脱線・転覆事故
下り勾配速度制御、曲線部での制限速
度超過による
174
1989
飯田線電車・衝突事故 運転士の信号誤認 175
阪和線天王寺駅構内電車・衝突事故
ブレーキ操作の誤扱い
176
1991
信楽高原鉄道列車・衝突事故
代用閉塞扱いミスによる
177
1992
山陽線列車・衝突事故
線路内に転落トレーラと衝突
178
関東鉄道列車・暴走事故
ブレーキ故障時の処置誤扱い
179
1993
羽越線列車・脱線事故
貨車台車側梁折損による
180
1994
石勝線特急列車脱線・転覆事故
強風(風速計故障)による
181
1997
北陸線特急電車・脱線事故
コロ軸受の組み立て時のミス
182
中央線、大月駅構内・衝突事故
構内入れ替え信号の誤認による特急
列車と回送電車衝突
183
1999
山陽新幹線トンネル内・壁落下による事故
トンネル天井内壁コンクリートが落下
電車屋根を直撃
184
室蘭線・貨物列車・脱線事故
外壁剥離脱落はせん断破壊
185
2000
営団地下鉄(現東京メトロ)日比谷線で電車、
脱線・衝突事故
輪重アンバランスによる浮き上がり脱
線
186
2004
上越新幹線「とき号」新潟中越地震による脱線
震度7を受け、ロッキング脱線 187
2005
特急 DC 車土佐鉄道宿毛駅・暴走事故
ATS地上子位置不良
188
JR 西日本福知山線快速電車が横転・脱線事故
曲線通過速度の超過
− 63 −
東京交通短期大学 研究紀要第14号 2008.12
学校法人会計の計算書類明瞭化に関する一考察
―独立行政法人会計書類との比較から―
A Detailed Analysis Clarifying the statement of
accounts for Educational Foundation
–Focusing on A comparison with the statement of accounts of
Independent Administrative Corporation –
佐 藤 勝 治
Katsuji Sato
第一章 はじめに
第二章 私立学校(学校法人)の特徴
第三章 独立行政法人の概念
第四章 独立行政法人会計基準(国立大学法人会計基準)
第五章 学校法人会計基準の仕組み
第六章 基本金と資本金との相違
第七章 おわりに〜私立学校法・証券取引法改正に思う〜
第一章 はじめに
会計の概念は、「企業、家庭、組合、地方自治体・国等の経済主体が、経済的情報を測定し、伝達する
こと」(1) である。したがって、これら経済主体の特徴に鑑みて、より相応しい会計基準を基にして、利
害関係者に対して情報公開(ディスクロージャ)する必要がある。
たとえば、経済主体が、国や地方公共団体であれば国民に対して、企業であれば株主に対して、その
顛末を公開する義務が発生する。
その経済主体の中でも学校法人の「学校会計」は、営利目的である株式会社等の財務会計や、国・地
方自治体などの官庁会計などと異なり、非営利目的の独自の会計処理を構築してきた。特に、学校法人
会計基準は、「予算による拘束性が強い」「収支計算を基本とする」(2) など、企業会計とは全く異質で独
自な基準が運用されている。
しかし、その独特な会計基準故、専門家以外の利害関係者が計算書類を一見しただけでは、多岐にわ
たる専門用語の羅列によって、内容を把握することが非常に困難なことも確かである。昨今のディスク
ロージャーの時代、損益計算を重要視する利益追求型の「企業会計原則」に慣れ親しんでいる場合は尚
更である。
− 65 −
学校法人会計の計算書類明瞭化に関する一考察
本稿では、学校会計の代表的事例として「学校法人会計基準」と「独立行政法人会計基準」とくに「国
立大学法人会計基準」の会計趣旨とその仕組みを概観、見つめ直し、実情を比較検討しつつ、今後の学
校法人会計基準における社会的な財務諸表 ( 計算書類 ) の公開時の明瞭性、あるべき姿を考察してみたい。
第二章 私立学校(学校法人)の特徴
(3)
私立学校は、国公立の学校とは異なり、私人の寄附財産等によって設立された学校である。
その設立
理念は、建学の精神として受け継がれ、社会へ貴重な人財を輩出している。
しかし、私立学校にも「公共性」が求められ、公共性を高めるために、民法の財団法人にかわって、
「学
校法人」という特別の法人制度を創設 (3) したのである。昭和24年(私立学校法施行)のことである。
そもそも、公共財である学校法人は非営利事業である。そのため、一部の収益事業を除き、利益を追
求する一般企業のような損益計算は適用されない。(ただし、収益事業においては、一般的に公正妥当な
企業会計に準拠した会計処理をする必要がある)(4)
第三章 独立行政法人の概念
(5)
一方、独立行政法人とは、
「公共的な性格を有し、利益の獲得を目的とせず独立採算性を前提としない」
(6)
ことが特徴である法人である。株式会社の株主のような「利益の獲得を目的として出資する資本主」
の
ことは考慮していない。後述するが、出資財源を支出している資本主は「国」である。
なお、国立大学法人は、従来の国立大学を法人化したものであり、2003 年 7 月に成立した「国立大学
法人法」によって 2004 年度に発足したものである。
第四章 独立行政法人会計基準(国立大学法人会計基準)
(1)趣旨および概念
独立行政法人会計基準では、「企業会計原則に基づくものとし、〜企業会計原則に基づいた決算報告を
(7)
義務付けている」。
国や地方公共団体では、予算枠重視の単式簿記 (8) が採用されていたが、これに変わ
って発生主義による複式簿記による企業会計を導入することとしたのである。
しかし、独立行政法人は、「業務の性質上、そのための事業費のほとんどを、国からの所要の財源措置
に頼らざるを得ない実状がある。」(9) これは、運営費を自己収入だけで賄えない前提 (10) で設立・運営され
ているからである。そのため、「企業会計原則による一方で、国から財源措置された分については、企業
会計原則のほか、国の法律に基づいた会計も必要となる」(11) のである。
(2)国立大学法人会計
さらに、独立行政法人のひとつである国立大学法人における会計基準もそれに準拠しており、「国立
大学法人等の会計は、国立大学法人等の財政状態及び運営状況に関するすべての取引及び事象について、
複式簿記により体系的に記録し、正確な会計帳簿を作成しなければならない」(12) とされている。
「独立行政法人会計基準」を原則とするが、「運営交付金」や国立大学法人の特徴でもある「損益外減
価償却累計額」「国立大学法人等業務実施コスト計算書」(13) など、独自な勘定科目や財務書類も、複式簿
記による一般的な企業会計基準とともに重要な事項である。
− 66 −
学校法人会計の計算書類明瞭化に関する一考察
(3)独立行政法人の中期計画・年度計画と財務諸表
独立行政法人は、「3年から5年の中期計画を作成し、主務大臣に届け、また毎事業年度、年度計画を
定めて主務大臣に届けなければならない」こととなっている。
その計画に沿って事業を遂行した後、次の財務諸表を作成しなければならない。
① 貸借対照表
財政状態を明らかにするため (14)
② 損益計算書
利益又は損失を確定するため (15)
☆ただし、企業会計における損益概念ではなく、収支計画に基づき (16)、あくまでも運営状況を明
らかにするために作成されるものである。(17)
③ 利益の処分または損失の処理に関する書類
当期未処分利益の処分または当期未処理損失の処理の内容を明らかにするため (18)
④ キャシュフロー計算書
法人の資金の増加、減少を表す財務諸表 (19)
⑤ 行政サービス実施コスト計算書(国立大学法人では国立大学法人等業務実施コスト計算書)
納税者である国民に対する説明責任を確保する財務諸表(納税者が負担するコストを集約表示
する書類)(20)
☆行政サービス実施コスト計算書(国立大学法人等業務実施コスト計算書)は、納税者の負担が、
一法人の費用だけにとどまるのではないためであり、したがって、これを明示するための「広
い意味で最終的に国民が負担するコスト」を集約する書類である。(21) したがって、企業会計に
おける財務諸表には存在しない書類である。また、学校法人会計にも存在しない概念である。
強いて言えば、「学校法人部門」費用の各学校(部門)負担分を按分化することで、最終的な部
門別費用総額を算出することに近似している。
⑥ 付属明細書
貸借対照表、損益計算書等の内容を補足するもの (22)
(4)独立行政法人(国立大学法人)会計の資本の定義
独立行政法人(国立大学法人)の資本とは、法人の業務を確実に実施するために与えられた財産的基
礎及びその業務に関連し発生した剰余金から構成されるのもであって、資産から負債を控除した額に相
当するものとされている。(23)
しかし、複式簿記による貸借平均の原則 (24) により、借方の資産総額と貸方の負債・資本総額は一致し
なければならない。よって、負債額の変動によって、資本額が変動することとなってしまう。そのため、
資本の額は、単純に差し引いたものではなく、次のような資本の定義付けをされた額とされているので
ある。
− 67 −
学校法人会計の計算書類明瞭化に関する一考察
【資本の内訳】(25)
(1)資本金とは「国が出資財源とする払込資本に相当するもの」
(2)資本剰余金とは「資本金と利益剰余金以外の資本であって、贈与資本と評価替資本が含
まれるもの」
(3)利益剰余金とは「業務に関連し発生した剰余金であって、稼得資本に相当するもの」
この資本の概念は、後述の学校法人会計には存在しない。出資は、あくまでも私人の寄附財産等によ
るものであるからである。(26)
第五章 学校法人会計基準の仕組み
(1)趣旨および概念
学校法人の会計基準は、私立学校振興助成法第 14 条第1項の規定に基づき定められたものであり、基
本的にすべての学校法人に適用される。また、私立大学等において、日本私立学校振興・共済事業団の
経常的経費補助(私立学校振興助成法第4条第1項および第9条)等の補助を受ける私立学校については、
この会計基準に基づき会計処理等を行わなければならないこととなっている。(27)
学校法人会計基準には、前述のとおり、一般企業における損益計算の概念はなく、損益計算書は作成
されない。会計基準では、貸借対照表とともに、資金収支計算書(内訳表)、消費収支計算書(内訳表)
という独自の計算書を作成しなければならないこととなっている。
しかし、この基準に基づく計算書類や専門用語が、一般社会への受け入れを阻害し、運営状態の把握
を困難にしている遠因になっていると考える。
(2)収支計算の概念
学校法人会計の根幹は収支計算である。
その会計基準で義務づけられている各収支計算書の目的を端的に表すと、資金収支計算においては「支
払資金」の収入、支出のてん末を明らかにすること、一方、消費収支計算は、「消費収入と消費支出」の
内容および均衡状態を明らかにすることである。
(3)資金収支計算
資金収支計算とは、会計基準第6条において
「当該会計年度の諸活動に対応するすべての収入および支出の内容ならびに当該会計年度におけ
る支払資金(現金及びいつでも引き出すことができる預貯金をいう)の収入及び支出のてん末を明
らかにするため、資金収支計算をおこなうものとする」
と規定されている。つまり、収益事業に関する会計処理を除き(会計基準第3条)、教育活動等、諸活
動を行うことで生じる資金収入・支出の内容を明らかにすることが資金収支計算に求められている。
さらに会計基準第7条では、当該会計年度における計算において、次のように規定している。
− 68 −
学校法人会計の計算書類明瞭化に関する一考察
「支払資金の計算について、決算においては、支払資金の収入と前期末の前受金、ならびに期末
において確定している未収入金も収入として算入して計算することとし、資金支出においては、支
払資金の支出と前期末前払金、ならびに期末に確定している未払金も算入して計算することとして
いる。」
いわゆる、企業会計の発生主義的な会計処理である。(28)
これらによって、当該年度の諸活動に対応する取引である限り、前期の収入支出、翌期の収入支出を
含めて計算することとし、そのすべてを取り込んで計算表示することとしている。(29)
なお、日本私立学校振興・共済事業団の「私立大学等における経常的経費補助」の補助事業に要する
経費の算定にあたっては、資金収支計算の予算書から、補助金交付校の実績報告書作成時においては、
決算後の資金収支計算書から算出することとなっている。
(4)消費収支計算の計算方法と目的
一方の消費収支計算は、会計基準第 16 条において、「消費収入と消費支出の概念を規定し、さらに基
本金に組み入れる額を消費収入から控除して消費収支計算を対照して行うもの」としている。この差額
を「消費収入超過額・消費収支超過額」という。収入超過であれば経営が安定し、支出超過であれば、
資産を食い潰して運営していることを意味する。
そもそも、前述のとおり私立学校は、「利益を獲得することを目的としているわけではない」(30) 非営利
法人である。学校(教育現場)として永続的に教育を提供する場である。
したがって、「単年度的には多少の収入超過額や支出超過額が発生したとしても長期的に均衡す
ることが学校法人の維持発展に必要」(31) であり、短期的に支出超過が発生した場合においては、そ
の原因を追求し、消費収入と消費支出のバランスを再考した学校運営を目指せばよいのであり、そ
れだけで一喜一憂することは好ましいことではない。
要は、「収入と支出が長期的には均衡し、教育研究活動に必要な資産が維持されている状況を明
らかにすること」(32) が必要であり、長期的にその環境を持続していることを確認することが出来れ
ばよいのである。
(5)消費収入と消費支出の定義
消費収入とは、帰属収入(学校法人の負債とならない収入、主に学生生徒納付金収入)から、後述の
基本金組み入れ額を控除した金額である。なお、資金収支計算の資金収入とほぼ同額であるが、資金収
支には含まれない(現金取引の発生しない)現物寄付金が含まれることとなる。(33)
消費支出とは、会計基準第 16 条第2項のとおり「消費する資産の取得価額および用役の対価に基づ
いて計算される」ものである。基本的に資金収支計算の支出額と同額であるが、大きな相違項目は、「減
価償却費」「徴収不能額」(34) および「退職給与引当繰入」「資産処分差額」などがあげられる。(35)
これら相違項目については、現金の出入りが伴わないため、資金収支計算では計算されない項目である。
− 69 −
学校法人会計の計算書類明瞭化に関する一考察
(6)基本金の概念と目的
収支計算とともに、学校法人会計をより難解、複雑化している要因として、「基本金」があげられる。
帰属収入から控除する「基本金の概要」の把握が肝要であろう。企業会計や前述の独立行政法人会計には、
この概念がない。
そこで、基本金について、改めて振り返ることとしたい。
基本金とは、会計基準第 29 条において、「学校法人が、その諸活動の計画に基づき必要な資産を継続
的に保持するために維持すべきものとして、その帰属収入のうちから組み入れた額」(36) と規定している。
その組み入れ額の対象とされる基準は (37)、
① 教育研究活動に直接使用する固定資産に止まらず、教育研究活動において直接的でない法人本
部や教職員の施設等も含め、教育研究活動のための付属資産も「諸活動」のために必要な固定
資産であり基本金組み入れ額の対象となること
② 永続的に使用する資産であること
③ 継続的に保持が必要な資産であることであり、それに対応する金額(「要組入額」という)を組
み入れることとしている。(以下、この基準を便宜上「組み入れ対象基準」と記すこととする)
私立学校は、設立時、私人の寄附財産等 (38) をもって学校運営が開始される。寄附財産を、校舎建築や
教育用備品(机、椅子等)の購入等にあて、教育運営を円滑に遂行するための資産を保持する。これら
資産によって、学校が開校(開学)する。この固定資産の価額が、後述の第1号基本金の当初の額である。
その後、学校運営を継続すると、固定資産の取得、計画的な校舎の改築や新築、修繕等、教育活動上
において重要な資産の取得等が生ずる。また、修学の機会均等の観点からも、また、少子化による学生
募集対策の観点からも、家計状態の苦しい家庭の学生に対する修学支援も、学校運営上の重要な要素の
ひとつとなる。
そこで学校法人会計基準では、基本金を目的別に、第1号〜第4号基本金として、帰属収入から消費
支出に充てることなく留保(維持)すべき金額 (39) を要組入額として組み入れる(組み入れさせる)こと
としている。
① 第1号基本金
第1号基本金は、会計基準第30条第1項第1号において、次のように規定している。
「学校法人が設立当初に取得した固定資産で教育の用に供されるものの価額又は新たな学校の設
置もしくは既設の学校の規模の拡大もしくは教育の充実向上のために取得した固定資産の価額」(40)
つまり、土地や建物、機器備品、図書などの資産のうち、基本金への組み入れ対象基準に合致
すれば第1号基本金に必ず組み入れなければならないのである。
ただし、借入金において取得したこれら資産においては、組み入れ対象基準に合致している場
合は、借入金が返済される毎に(順次、自己資産になると考え)基本金に組み入れることとしている。
(返済されていない金額については、未組入額となる)
また、基本金の組み入れ基準に合致していない、流動資産、投資目的の資産、減価償却引当特
− 70 −
学校法人会計の計算書類明瞭化に関する一考察
定預金、退職給与引当特定預金は基本金組み入れ対象資産外となっている。(41)
② 第2号基本金
第2号基本金については、基準では次のように規定されている。
「学校法人が新たな学校の設置または既設の学校の規模拡大もしくは教育の充実向上のために将
来取得する固定資産の取得に充てる金銭その他の資産の額」(42)
これは、「将来において要組入対象資産である第1号基本金対象資産の取得原資となることが計
画されているものであり、いわゆる先行組み入れの計画的、段階的な実行を明らかにすることを
目的としたもの」(43) としている。
将来において多額の資金を要する「第1号基本金要組入資産取得」のために、基本金組入計画
表を作成し、予め資金を積み立てておく必要がある場合に組み入れるものである。
これは、一度期(一会計年度)に多額の第1号基本金要組入額が発生すると、前述の消費収支
計算における均衡状態が崩れる恐れがあるからである。また、財政計画面においても、堅実で、
確実な計画を立て、安定した継続的運営を図ることが重要であるからでもある。
したがって、この基本金で積み立てられた資金によって資産を取得した場合には、当然第1号
基本金へ組み入れられることとなる。
③ 第3号基本金
第3号基本金については、基準では次のように規定されている。
(44)
「基金として継続的に保持し、かつ、運用する金銭その他の資産の額」
とされている。この対象となる資産には「元本を継続的に保持運用することにより生ずる果実
を教育研究活動に使用するために、寄付者の意思又は学校法人独自で設定した奨学基金、研究基金、
海外交流基金等が該当し、これらが第3号基本金引当資産となる」とされている。(45)
前述の例のような、経済的困難による修学資金援助等における支援策を構築するための基金は、
この第3号基本金による学校法人独自の計画的組み入れの分野である。
この第3号基本金も、第2号基本金同様、基本金組入計画表を作成しなければならないことと
なっている。
④ 第4号基本金
第4号基本金は、基準では次のように規定されている。
(46)
「恒常的に保持すべき資金として別に文部科学大臣の定める額」とされている。
恒常的に保持すべき資金は、支払い資金の不時の不足に充てるための運転資金という性格から
みて、随時換金性と元本保証確実性が要求されている。(47)
組み入れる金額については、前年度の消費支出のうち、大まかには「人件費」
「教育研究経費」
「管
− 71 −
学校法人会計の計算書類明瞭化に関する一考察
(48)
理経費」「借入金等利息」の決算額の 12 分の1の額とされている。
⑤ 基本金の取り崩し
基本金の取り崩しについては、取り崩し要件に合致した場合には、資産を他に転用するなどし
て継続的に保持する場合のほかは、取り崩ししなければならない (49) とされている。
たとえば諸活動の廃止、経営合理化により不必要になった固定資産や将来の固定資産取得の必
要性が消滅した第2号基本金組入額などの場合である。
(7)学校法人会計基準財務諸表の特徴
独立行政法人(国立大学法人)会計は、あくまでも企業会計原則を基本とした会計基準である。それは、
納税者(国民)や政府に対して説明責任を果たすべく、情報公開(ディスクロージャー)するための財
務諸表であった。また、単年度の実施計画ではなく、あくまでも複数年の中期計画を求め、その上で毎
事業年度の計画を定めている。
一方、学校法人会計における財務諸表の作成趣旨は、国や地方公共団体から拠出されている補助金の
適正運用の状況把握、私立学校振興・共済事業団および銀行等の金融機関(融資先の経営状況把握)、学
校法人の利害関係者(理事・評議員・教職員関係者、学生および学費負担者)への情報公開(ディスク
ロージャー)などのためである。(50)
そのような性格を有した学校法人会計基準では、あくまでも単年度での予算作成を強制し(拘束され)、
収支計算を主とした次のような、独特な財務諸表を作成することを求めている。
① 資金収支計算書・資金収支内訳表、人件費内訳表
収益事業会計以外の当該会計年度の諸活動に対応するすべての収入・支出の内容、ならびに当該会
計年度における支払資金の収入および支出のてん末を明らかにするため (51)
② 消費収支計算書、消費収支内訳表
消費収入と消費収支の内容および均衡状態を明らかにするため (52)
③ 貸借対照表、固定資産明細書、借入金明細書、基本金明細書
財政状態を明らかにするため (53)
なお、独立行政法人と同様、「基本的に非営利事業で〜収益を目的とした一般事業会社のように利益を
得ることが目的とはなっていないことから、一定の制限のもとに認められる収益事業を除き、企業会計
における損益計算は適用されない」(54) こととなっている。しかし、独立行政法人会計において「運営状
況を明らかにするために作成される」損益計算書は、学校法人会計においては作成されない。
第六章 基本金と資本金との相違
企業会計(財務会計)や前述の独立行政法人会計では、資本概念が明確である。
企業会計であれば、狭義の資本としての自己資本(資本金と剰余金)を示す。(55)「借金も財産の内」と
いう言葉通り、広義の資本としては、負債も「他人資本」として、資本の一部と見なす。(56)
− 72 −
学校法人会計の計算書類明瞭化に関する一考察
しかし、学校法人会計での基本金は、資本金とは異なり、
「学校を継続的に保持するために維持すべき
(57)
ものとして、
(当初の寄附財産額および)帰属収入のうちから組み入れた金額」
としている。複式簿記の
(58)
仕訳上で計上されるのではなく、計算書類作成時において、あくまでも事後的に計上されるものである。
また基本金は、企業会計や独立行政法人会計での概念である「総資産と負債の差額(貸借平均の原則」
から導き出されるものでもない。
この基本金の概念が、一般社会での「資本金」という概念、用語と混同され、収支計算とともに学校
法人会計を、より理解を複雑にしている遠因になっているであろう。
第七章 おわりに〜私立学校法・証券取引法改正に思う〜
【財務諸表・計算書類の比較】
☆ 独立行政法人会計基準 ( 国立大学法人会計基準 ) による財務諸表
① 貸借対照表
② 損益計算書 ③ 利益の処分または損失の処理に関する書類 ④ キャシュフロー計算書 ⑤ 行政サービス実施コスト計算書(国立大学法人では国立大学法人等業務実施コスト計算書)
⑥ 付属明細書
☆ 学校法人会計基準による計算書類
① 資金収支計算書・資金収支内訳表、人件費内訳表
② 消費収支計算書、消費収支内訳表
③ 貸借対照表、固定資産明細書、借入金明細書、基本金明細書
これまで見てきたように、独立行政法人(国立大学法人)会計の会計基準においては、行政サービス
実施コスト計算書を除き、おおよそ企業会計原則に則しているので、一般社会における利害関係者から
は受け入れやすいのではないかと思う。
一方、学校法人会計は、独自の収支計算で財政状態の均衡を求める点、基本金という独特な概念など、
日常的に業務に携わっている者でなければ理解できないものが数多い。学外の利害関係者が、明確に財
政状態、運営状況を把握しえるかどうか、大いに疑問を呈するものである。
私財を寄附し設立するという特殊性を考慮したとしても、なお今日、明確性を求められるのは、補助
金の適正使用の把握等という、単に学校法人の関係者という観点だけではなく、国民(納税者)、特に学
費負担者や学生自身が、学校経営の透明性、持続可能性に対する関心が高まっているからである。さら
に付け加えるならば、信頼のおける、良質で健全な、質の高い学舎で教育を教授されたいというニーズ
が高まりつつあるからである。
また、平成 19 年 9 月 30 日に証券取引法が改正され、学校債が有価証券として指定された。これにと
もない、私立学校法が改正され、学校債(有価証券)発行学校法人においては、金融商品取引法による
(59)
財務状況の開示規制と同程度の開示が求められるよう改められた。
そのなかでは、学校法人において
− 73 −
学校法人会計の計算書類明瞭化に関する一考察
も企業会計と同様の処理を求めており「損益計算書」「キャッシュ・フロー計算書」も財務諸表に盛り込
まれた。さらに、貸借対照表の内容も、学校法人会計によるものとは別に、企業会計原則によって作成
されたものを求めている。これは、学校法人会計基準の計算書類が独自のものであるための措置であろ
う。金融商品という誰もが購入できるものとして位置づけられるものと考えたとき、一般社会において
広く理解を得られ、認知されている会計制度に準拠していなければ商品価値を判断できないからであり、
当然の帰結であろう。
将来は、学校債を発行しない学校法人においても、多くの利害関係者のために企業会計、特に「損益
計算」という、会計において最もポピュラーな概念(財務諸表)の導入、法人全体を万人が容易に理解、
把握しえる方策を、再構築すべき時期に来ているのではないだろうか。
以 上
脚注
(1) 会計学 2002 年,「日本大学 通信教育教材」1p
(2) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」5p
(3) 文部科学省 ホームページ:私立学校法
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/shinkou/07021403/001/001.htm
(4) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」5-6p
(5) 新日本監査法人 2006 年,「よくわかる独立行政法人会計基準 改訂第2版」9p
(6) 新日本監査法人 2006 年,「よくわかる独立行政法人会計基準 改訂第2版」9p
(7)
新日本監査法人 2006 年,「よくわかる独立行政法人会計基準 改訂第2版」3p
(8) 新日本監査法人 2006 年,「よくわかる独立行政法人会計基準 改訂第2版」4p
(9) 新日本監査法人 2006 年,「よくわかる独立行政法人会計基準 改訂第2版」3p
(10) 新日本監査法人 2006 年,「よくわかる独立行政法人会計基準 改訂第2版」3p
(11) 新日本監査法人 2006 年,「よくわかる独立行政法人会計基準 改訂第2版」3p
(12) あずさ監査法人 2004 年,「国立大学法人会計の実務ガイド(第2版)」1p
(13) あずさ監査法人 2004 年,「国立大学法人会計の実務ガイド(第2版)」10p
(14) あずさ監査法人 2004 年,「国立大学法人会計の実務ガイド(第2版)」90p
(15) あずさ監査法人 2004 年,「国立大学法人会計の実務ガイド(第2版)」90p
(16) 新日本監査法人 2006 年,「よくわかる独立行政法人会計基準 改訂第2版」6p
(17) 新日本監査法人 2006 年,「よくわかる独立行政法人会計基準 改訂第2版」418p
(18)あずさ監査法人 2004 年,「国立大学法人会計の実務ガイド(第2版)」92p
(19)あずさ監査法人 2004 年,「国立大学法人会計の実務ガイド(第2版)」91p
(20)あずさ監査法人 2004 年,「国立大学法人会計の実務ガイド(第2版)」93p
(21)あずさ監査法人 2004 年,「国立大学法人会計の実務ガイド(第2版)」93p
(22)あずさ監査法人 2004 年,「国立大学法人会計の実務ガイド(第2版)」94p
(23) あずさ監査法人 2004 年,「国立大学法人会計の実務ガイド(第2版)」31p
− 74 −
学校法人会計の計算書類明瞭化に関する一考察
(24) 山本 繁 2001 年,「簿記技法(改訂版)」29p
(25) あずさ監査法人 2004 年,「国立大学法人会計の実務ガイド(第2版)」31-32p
(26) 文部科学省 ホームページ:私立学校法
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/shinkou/07021403/001/001.htm
(27) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」7p
(28) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」6p
(29) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」35p
(30) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」87p
(31) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」87p
(32) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」87p
(33) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」88p
(34) 徴収不能額は、前年度以前に徴収が決定していた学生の未収入金が、退学・除籍等により徴収で
きなくなった場合に計上するものである。
(35) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」92-93p,95p,97-98p
(36) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」175-176p
(37) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」176p
(38) 文部科学省 ホームページ:私立学校法
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/shinkou/07021403/001/001.htm
(39) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」177p
(40) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」178p
(41) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」181-182p
(42) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」178p
(43) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」189p
(44) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」178p
(45) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」191p
(46) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」178p
(47) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」192p
(48) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」192p
(49) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」195p
(50) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」17-18p
(51) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」19p
(52) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」22p
(53) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」26p
(54) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」5p
(55) 山本 繁 2001 年,「簿記技法(改訂版)」20p
(56) 山本 繁 2001 年,「簿記技法(改訂版)」21p
(57) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」173p
− 75 −
学校法人会計の計算書類明瞭化に関する一考察
(58) あずさ監査法人 2006 年,「学校法人会計の実務ガイド(第 3 版)」177p
(59) 文部科学省高等教育局 私学部私学行政課 2007 年 10 月 3 日 付通達
「私立学校法施行規則の一部を改正する省令」案及び「有価証券発行学校法人の財務諸表の用語、
様式及び作成方法に関する規則」案について
参考資料
日本私立学校振興・共済事業団「私立大学等における経常的経費補助」
補助事業に要する経費申請書類(取扱要領)
平成 19 年度・平成 20 年度版
− 76 −
東京交通短期大学 研究紀要第14号 2008.12
タクシー事業と運賃問題
A cosideration on taxi industry and fare probrem
秋 山 義 継
Yoshitsugu Akiyama
1、はじめに
2002 年の規制緩和で増え過ぎたタクシー台数に歯止めを掛けようと、国土交通省は地域の実情に合
わせて新規参入や増車を規制する方針のようであり、2009 年の通常国会での道路運送法の改正を目指し
ている。過当競争で運転手の収入が減り、労働環境の悪化が心配される。しかし、国がタクシー台数を
調整することが健全な市場競争をゆがめ、行き過ぎた業界保護につながることが指摘される。ここでは、
タクシー業界の実情と運賃問題を中心に再規制のあり方を考察する。
2、タクシー事業と運賃制度
(1)タクシー事業
タクシー事業は、利用者が誰でも安心して乗れるという公共性の高さや、安全性の確保、より良質な
輸送サービスの安定的な供給事業者の観点から、道路運送法(昭和 26 年法律第 183 号)の基づき、参
入規制、運賃等の価格規制等の措置が講じられている。
法律上のタクシー事業は「一般乗用旅客自動車運送事業」といい、「1個の契約により乗車定員 10 人
以下の自動車を貸切って旅客を運送する事業」と定義される。同じ自動車運送事業の中でも路線を定め
て乗合旅客を運送する「一般乗合旅客自動車運送事業」(いわゆる乗合路線バス)や乗車定員 10 人超の
自動車を使用する「一般貸切旅客自動車運送事業」
(いわゆる貸切バス)とは区別して取り扱われる。また、
タクシー事業と近似するハイヤー事業がある。これも法律上はタクシー事業と同じ一般乗用旅客自動車
運送事業であり、基本的にはタクシー事業と同じ取扱いがされているが、ハイヤー事業はタクシー事業
の営業形態である流し営業、無線営業、車庫待ち営業のうち車庫待ち営業のみを行うものであり、かつ
高級車を使用するなどサービスの質が高いものになっている。ハイヤー事業はタクシー事業よりも高い
運賃を設定していることなど、タクシー事業とは異なった取扱いをしている。このような意味から、現
在タクシー事業とハイヤー事業を区分しているのは札幌、千葉、東京、横浜、名古屋、京都、大阪、広島、
沖縄など9地域のみである。
− 77 −
タクシー事業と運賃問題
(2)タクシーの運賃制度
タクシー事業の運賃は、道路運送法第9条に基づき認可を受けなければならない。この場合の認可基
準は、当該運賃が能率的な経営の下において適正な原価を償い、かつ適正な利潤を含むものであること、
他の事業者との間に不当な競争を引き起こすおそれがないことになっている。⑴
タクシー運賃は、車両を特定大型(普通自動車または小型自動車で乗車定員7名以上もの。ただし、
寝台専用車、車椅子専用車及び寝台・車椅子兼用車を除く)、大型(普通自動車で乗車定員6名以下並び
に寝台専用車、車椅子専用車及び寝台・車椅子兼用車7名以上)、中型(特定大型車、大型車及び小型車
以外の自動車)及び小型(小型自動車で長さ 4.6 m未満かつ乗車定員5名以下)の車種に区分している。
①運賃の種類
運賃の種類は距離制運賃と時間制運賃に大別されている。この運賃の適用順位は、原則として距離制
運賃を適用し、これにより難い場合は特約により時間制運賃を適用することになっている。
距離制運賃は、車種ごとに初乗運賃と以後の加算運賃を定め、旅客の乗車地点から降車地点までの実
車走行距離に応じた運賃としている。また、主として初乗距離は 1.5 キロメートルから2キロメートル
までに設定されており、加算距離は1メートル単位とし、300 メートルから 500 メートルまでの間を設
定することとしている。これに加えて時間距離併用制があり、これは走行速度が一定速度(限界速度)
以下の走行状態になった場合の運送に要した時間を加算距離に換算し、距離制メーターに伴算すること
としている。⑵この場合、時間距離伴算運賃の加算距離相当待時間に端数が生じた場合は、5秒単位に切
り上げるものとしている。
この制度はマイカー等の普及に伴う交通渋滞が著しくなり、100 円の収入を上げるのに、あるときは
10 分かかり、またあるときには1時間かかるという状態になり、走行キロと所要時間が全くバランスを
失い、同一距離の所要時間に大きな差が生じたことによる。そのため、単に走行キロのみに算出される
運賃のほか、時間の要素を加えることにより、乗車拒否やサービス低下、交通事故の防止などに効果が
あることが認められる。また、ドライバーの労働条件にも寄与するとされ、昭和 45 年3月から東京地区
に導入され、現在は全国において採用されている。
この他に、距離制運賃の割増の中に以下のものがあり深夜早朝割増、冬季割増、寝台割増などの運賃
設定がある。さらに、距離制運賃の割引として、身体障害者割引及び精神薄弱者割引、タクシークーポ
ン券割引、遠距離割引などがある。
時間制運賃としては、観光地の周遊、冠婚葬祭にかかる運送等距離制運賃により難い運送であって、
営業所等を出発し、旅客の輸送を終了するまでの実拘束時間に応じた運賃としている。この時間制運賃
は 30 分単位に設定することとし、30 分未満の端数が生じた場合は切り上げるとしている。
②料金の種類
料金の種類は、待料金及び迎車回送料金及び時間指定予約料金がある。待料金は、旅客の指定した場
所に到着後旅客の都合により車両を待機させた場合に適用するとされ、待料金の額は加算運賃の額と同
一としている。迎車回送料金は、旅客の要請により乗車地点まで車両を回送する場合に次のいずれかを
適用する。ⅰ.1車両ごと定額。ⅱ.発車地点より実車扱いとし、初乗運賃額を限度とする。
時間指定予約料金は、旅客の指定した時間に車両を配車する場合に適用され、1車両1回ごとの定額
となる。
− 78 −
タクシー事業と運賃問題
③タクシー運賃の決定
タクシー運賃は、すべてについて認可制になっているが、これ以上高くてはいけない上限額以下の一
定の範囲内であれば、原則として細かい審査はなく、自動認可されるシステムである。初乗運賃の上限
額が 710 円の運賃地区であれば、その地域にあるタクシー会社は顧客獲得を狙って 700 円に値下げする
のは機動的にできる。自動認可の下限額を下回る場合の運賃については認可のときに個別に審査される。
これらの認可申請は、国土交通大臣に対して行われる。運賃の認可申請があると、国土交通省はその運
賃地区のについて運賃改定の適否の判定を行い、改定の必要性が認められる場合には審査を行い認可さ
れる。
ここで上限額の水準は、タクシー事業の経営に必要な営業費や借入金の利子、燃料代などの費用を総
計し、それに適性利潤を加えたものであり、すなわち総括原価に見合うように決定される。ここでの総
括原価方式は、個々の費用を積み上げていく原価を算出することから、費用積み上げ方式といわれる。⑶
ただ、ここで積み上げられる費用の部分は、認可申請したタクシー事業者のみの費用を基礎として計算
されるが、この事業者の中に非効率な部分があると、そのまま運賃として通過されることになる。そこで、
このようなことを避けるために、その運賃地区の中で能率的な経営を行っている事業者(標準能率事業者)
の費用をもとに計算する平均原価方式が導入される。また、適性利潤は、株主に 10%の配当が可能であ
図 1.認可制の概要
運賃
審査
自動認定の上限額
自動認可
例 710 円
自動認定の下限額
審査
距離
例 2km
図 2.運賃改定手続きの概要(自動認可の上限額を値上げする場合)
事業者認可申請
一つの運賃ブロック内で申請をした
事業者が一定の規模を超えた場合、
運賃改定手続きを開始
改訂要否の判定
標準能率事業者の実績年度又は翌年
度(推定)の収支率が 100%以下の
場合、運賃改定の必要があるとする
審 査
総括原価方式による
審 査
− 79 −
タクシー事業と運賃問題
るという考え方がとられる。具体的には、タクシー事業に関係する自己資本に 10%(資本利子率)が乗
じられ、そこに法人税などが含められて計算される。
④タクシー運賃とヤードスティック査定
タクシー運賃は認可制であり、上限額の水準は総括原価方式によって決まる。この費用計算において
平均原価方式が使われる。この平均原価方式とは、個々のタクシー事業者の実績額ではなく、同一地域
内の平均値に基づいて原価の算定が行われる。⑷
タクシー事業者の経営状況や地理的条件等をもとに 90 の運賃地区に分け、この運賃地区ごとに運賃
改定が必要であるかどうか、運賃水準をいくらにするかを決める。運賃改定が必要かどうかは、その運
賃地区の中で、能率的な経営を行っていないタクシー事業者を除いて、標準的な経営状態にあると考えら
れる事業者(標準能率事業者)を選択し、この標準能率事業者が赤字になるかどうかによって判定される。
ここで能率的でない事業者というのは、ⅰ.車両数が5両以下の小さい規模である(原価標準基準)。ⅱ.
営業している車両が特に古いこと(サービス標準基準)。ⅲ.従業員1人当たりの収入が全事業者の中で
下から概ね 20%の水準であること(効率性基準)の3つの基準で決められる。運賃改定が必要と判定さ
れると、標準能率事業者の中から中型車、小型車などの車両規模別にそれぞれ 50%を原価計算対象事業
者として選定する。原価計算対象事業者の原価を基礎として平均原価を算出し、これに見合うようにそ
の運賃地区の運賃水準が設定される。これにより、平均原価を下回る経営効率の良いタクシー事業者は、
平均原価と実績額の差の部分を実績額に上乗せした運賃水準にできて優遇されるため、経営効率化への
図 3.平均原価方式(効率の良いタクシー事業者の場合)
⎧
⎨
⎩
⎧
⎪
⎨
⎪
⎩
平均原価
運賃水準の基礎になるもの
図 4.平均原価方式(効率の悪いタクシー事業者の場合)
⎧
⎨
⎩
実績額
実績よりも低
く 評 価 さ れ、
効率化が必要
な部分
査定原価
⎧
⎪
⎨
⎪
⎩
実績額
実績よりも高
く評価される
部分
運賃水準の基礎になるもの
− 80 −
タクシー事業と運賃問題
さらなるインセンティブを与えることになる。一方、平均原価を上回る経営効率の悪いタクシー事業者は、
原価を低く抑えることをしなければならなく、経営効率化をさらに促進する制度になっている。⑸
3、タクシー事業の現状と運賃
タクシー事業はコストの約 80%を人件費が占める労働集約型産業であり、運賃水準の推移はタクシー
運転手の労賃の動きと連動している。タクシー運賃の値上げは、収入の減少と極端な長時間労働にあえ
ぐ運転手の待遇改善につながるかどうかである。
国土交通省が 2007 年夏に秋田、長崎(離島以外)、沖縄本島のタクシー運賃値上げを認可した。運賃
の上限が 10%前後引き上げられた。タクシー運賃は全国 90 地区に分け、地区ごとに上限を決める仕組
みになっている。2006 年以降、これまでに 50 地区が、運転手の待遇改善と燃料費高騰などへの対応を
目的として値上げを申請している。国土交通省は経営状況から値上げは認めざるを得ないとし、2007 年
春には長野県、大分県の申請を認可したが、次に審査した東京都内(23 区と武蔵野、三鷹市)で、内閣
府から待ったがかかった。東京都内の運賃は、物価に与える影響が大きいため、物価安定政策会議の議
論と物価に関する関係閣僚会議の了承が必要であった。政策会議では「値上げを認めても、増収分が待
遇改善に回されないのではないか」などの異論が続出した。また選挙前ということもあり、値上げ案の
閣僚会議への提出も見送られた。先の 2007 年夏の3県の認可は、内閣府の手続きがいらない県であった
ことによる。
表 1.タクシー運賃値上げが申請された主な地区
最初の申請
2006 年 6 月
7月
許可された 値上げ幅 (% )
地区
長野県(長野市周辺除く)
【認可】
9.83
大分県
【認可】
10.71
長野県(長野市周辺)
10.56
8月
東京都(23 区と武蔵野市、三鷹市)【認可へ】
9月
長崎県(離島を除く)
【認可】
10.93
和歌山県(和歌山市周辺)
【認可】
12.45
神奈川県(横浜市、川崎市など) 【認可へ】
東京都(多摩地区)
未定
10 月
11 月
12 月以降
7 〜 8(見通し)
秋田県(全 2 地区)
【認可】
8.29 〜 8.49
沖縄県(本島)
【認可】
12.42
愛知県(名古屋市周辺)
【認可】
8.97
熊本県、山梨県、北海道(札幌市周辺)
三重県、青森県
※調査開始は原則として、最初の申請日の 3 ヵ月後。その後、5 〜6か月かけて結論を出す。
読売新聞 2007. 10. 5
2002 年の改正道路運送法施行で、国による需給調整が廃止され、新規参入や増車が原則自由になった。
全国のタクシー(ハイヤーを含む)台数は、2001 年3月の約 25 万 6300 台から、2007 年3月の約 27 万
3700 台に増加している。地区によっては福祉タクシーなど多様なサービスも登場したが、全体的には供
− 81 −
タクシー事業と運賃問題
給過剰に陥っている。問題は、歩合制中心の賃金制度の影響で、増車による競争激化のしわ寄せが運転
者に集中したことによる。1996 年に 414 万円あった運転手の年収が、2006 年は 329 万円に減っている。
全産業平均の 555 万円との格差は 226 万円までに及んでおり、年間労働時間も全産業より 192 時間長い。
図 5.全国の法人タクシー台数と輸送人員
25
24
23.3
23
22
21
20.9
20
22.7
タクシー台数
(万台)
19.3
輸送人員
(億人)
19
18
1995
97
99
2001
03
05
(国交省調べ。年度)
読売新聞 2007.10.5
図 6.全国のタクシー台数と営業収入の推移
2兆
1522億
27万
3740
営業収入(右目盛り)
2.2
兆円
万台
28
27
26
2.1
25万
9033
2兆
641億
タクシー台数(左目盛り)
25
2001
02
03
04
05
06年度
2.0
読売新聞 2008.7.20
認可に際して、国土交通省は増収分の一定割合を人件費に充当することをタクシー業界に求めた。労
働条件改善の実績を公表させ、改善しない事業者には、個別に是正を指導するという異例の方針も示し
ている。
現在、鉄道やバスの空白を埋めている地方のタクシーは、経営難で廃業が相次いでいる。このことを
考えると、地域の足を守るための運賃値上げはやむを得ないのではないか。その際、運転手の待遇改善
にも配慮が必要である。タクシー運賃は、上限 10%以内なら自由に運賃を設定することができるように
なっている。東京など都市部では、仮に値上げが認可されても追随しない事業者が出ると見られている。
市場機構に委ね、運賃とサービスを競わせることも求められる。
2007 年 12 月から東京地区(23 区、武蔵野、三鷹市、多摩地区、横浜市周辺)の大手タクシー会社の
中型の初乗り運賃が値上げされた。初乗りは 660 円から 710 円へと 50 円の値上げである。加算料金も
− 82 −
タクシー事業と運賃問題
80 円(274 メートルごと)から 90 円(288 メートルごと)にアップした。また、深夜・早朝割増(23
時〜5時)は、3割から2割へ安くなるものの、適用時間が1時間繰り上がり、10 時から2割増となっ
た。同時に小型と中型の区分が普通に統一されるため、小型料金は消滅することになった。今回も原油
価格の高騰が大きな理由で、法人タクシーの燃料であるLPGも約5%上がったこと、それに乗務員の
待遇改善の2つが値上げ申請の理由である。法人タクシーの値上げは 1997 年以来 10 年ぶりである。ま
た、初乗り 650 円、加算料金 80 円(280 メートルごと)で法人より安かった個人タクシーも値上げする
かどうかは各自の判断であるが、大多数は法人と同じ料金にアップするであろう。無料であった迎車料
金も 300 円になる。個人タクシーは乗り心地の良さに加えて、深夜・早朝割増も2割が多く、法人より
安いのが魅力だったが、今後は法人と同じになる。
1997 年の自由化で新規参入した格安タクシーの一部は料金据え置きの会社もある。保有車両が約 200
台のアシストタクシー(中央区、港区、新宿区)は、小型初乗り 640 円(加算 290 メートルごと 80 円)、
中型初乗り 660 円(加算 274 メートルごと 80 円)、深夜割増なし、値上げをしないで小型と中型も現状
のまま運行される。深夜・早朝割増が1割のMKタクシーは値上げをせずに、中型初乗り運賃 660 円(加
算 274 メートルごと 80 円)と今までのままである。
(1)今回のタクシー運賃値上げ
2007 年 12 月 19 日に運賃値上げの認可が公示された。行き過ぎた規制緩和の歪みを是正するための値
上げになる。利用者に負担を求める以上、サービス向上と経営効率化は欠かせない。東京、横浜などの
大半のタクシー運賃が 10 年ぶりに値上げされた。先にも述べたように東京地区は初乗り2キロまでの運
賃の上限が 660 円から 710 円に上がった。距離ごとの加算料金も 80 円から 90 円になった。平均 7.2%
の値上げである。千葉、埼玉、札幌などの 43 地区での運賃値上げである。運転手の待遇改善が主なる理
由である。2002 年にタクシーの参入規制制限が撤廃され、各地で増車や新規参入が相次いだ。その結果、
2005 年度の1台当たりの営業収入は規制緩和前の 2001 年度に比べて 5.2%も減った。2006 年の運転手
の年収は、全産業よりも 226 万円も低い。水揚げを増やそうと焦る運転手の無謀運転に対して利用者の
苦情が増え続けている。これまで以上に運転手に競争激化の弊害がしわ寄せされれば、公共交通機関と
して最も大切な利用者の安全性が損なわれる。値上げはやむを得ないという見方が多い。しかし、値上
げによる客離れを食い止めなければ何の意味のないことになる。確実に増収を図るのには、身障者や高
齢者向けの福祉タクシーなどさまざまなサービスを試み、充実させていかねばならない。
今回の東京地区の値上げ対しては、内閣府がタクシー会社の経営改善の不足分を利用者に転嫁するこ
とになると反対であったが、最終的には内閣府は値上げ率を業者の平均申請率より引き下げた上で、次
のことを条件として値上げを容認した。ⅰ.地区内の業者の平均的なコストを積み上げて運賃水準を決
める総括原価方式の見直し。ⅱ.政府が上限額を決める上限運賃規制の見直し。ⅲ.タクシー会社の経
営改善を促す仕組み作り。等を条件としての値上げ容認であった。これらの条件含めて、国土交通省は
2008 年度中には具体策をまとめる方向である。
タクシー運賃を決める総括原価方式は、人件費や燃料費等などのコストが増えれば値上げが認められ
る。そのため、会社がコスト削減などの企業努力がされない恐れがある。当然に算定の基準となるコス
トが公正妥当なものかどうかの判断が難しいことが問題点として指摘されてきた。この上限運賃規制は、
− 83 −
タクシー事業と運賃問題
不当に高い運賃が請求されないようにする狙いがあったが、高いサービスを提供したいとする会社のサ
ービス多様化を妨げている面もある。また、タクシー業界は歩合制が多く、売上高が減っても運転手の
取り分が削られ、企業への打撃は抑制される。これが経営改善の努力を妨げる要因と指摘される。制度
見直しでは、運転手の賃金のあり方も論議の対象にすべきである。
(2)値上げ後の現状
国土交通省は、2007 年4月以降、経営環境の厳しいタクシー業者を後押しするために、約 50 地域
で料金値上げを認可した。収入が増えれば運転手の待
遇改善に役立つと考えた。しかし、東京地区の業者は
図 7.値上げ後の都内のタクシーの業績
(輸送回数と収入の前年同月比)
2007 年 12 月に運賃を 10 年ぶりに平均 7.2%値上げし
2007年12月
た。ところが、2008 年5月の営業収入(1車あたり)
は前年度同月比 2.9%減と落ち込み、6カ月連続の前年
割れの状態になった。当初は、値上げで遠のいた客足
が半年で戻る予測だったが、今でも回復のメドが立た
ない。
回
数
−8.2
%
08年1月
収
入
−3.1
%
08年 2月
−0.5
−2.1
−5.4
−7.2
※東京乗用旅客自動車協会調査
読売新聞 2008.3.24
(3)国土交通省による再規制案
国土交通省の再規制案は、タクシーが増え過ぎた地域を対象に、新規参入や増車の事前審査を厳しく
して台数を調整するのが柱である。全国をタクシー台数の過剰具合でわけ、過剰が深刻な地域では、事
前審査段階で事実上、新規参入や増車を認めない。独占禁止法に抵触しないことを前提に、タクシー会
社が地域単位で協調して保有台数を減らすように促す制度も導入する方向である。国土交通省は 2008 年
度末まで作業部会で具体的議論をし、2009 年の通常国会に道路運送法の改正案を提出する。
規制緩和の効果は、客の待ち時間の減少や介護タクシーなどの新規サービスなどに表れた。しかし、
再規制となれば、サービス力に優れた事業者の参入などが拒まれる事態も予想され、消費者の利益が置
き去りにされることが危惧される。過当競争でも経営にいきずまる事業者が少なかったのは、経営コス
トに占める割合が高い運転手の人件費が歩合制であったことによる。売上高が減っても賃金に連動して
減るため、経営への打撃は和らぐためである。運転手への待遇改善は事業者が努力すべき問題で、総量
規制で解決することは筋違いある。業界は、総量規制を望んでいるが、元々、タクシー業界は国際競争
もなく、公的規制によって成り立ってきた経緯がある。もし、再規制になれば、市場から当然に退場すべ
き業者が残り、既得権益を受けながら市場から退出すべき業者を保護する状況が生まれることにもなる。
4、おわりに
今回の運賃値上げは、増えすぎたタクシーを放置すれば運転手の生活はさらに苦しくなり、利用者の
安全性も確保できなくなるとの判断であろう。国土交通省が、規制緩和で参入が自由化されたタクシー
業界に対して、規制の再強化に動いている。台数が増え過ぎた地域で、新規参入や増車を制限し、計画
的な減車も検討するとしている。規制緩和の弊害が目立つ以上、ある程度の再規制もやむを得まい。規
− 84 −
タクシー事業と運賃問題
制の再強化は、まず増車を抑え、次に減車を進める2段階で実施する。国土交通省は、第1段階として、
自動車交通局長の通達で、増車を規制する地域を全国の主要都市に広げる措置をとった。
タクシー会社の増車の動きをチェックする「特別監視地域」⑹と、増車を事実上抑え込む「特定特別監
視地域」を大幅に増やした。その上で、2009 年の通常国会での道路運送法改正も視野に、減車を進める
仕組みを考えているようである。
2002 年の参入自由化以降、2006 年度の全国のタクシー台数は 27 万 3740 台で、規制緩和前(2001 年度)
から約1万 5000 台以上増加した。自由化で期待された運賃やサービス競争は起きず、増えたのは車の数
だけであった。そのしわ寄せは運転手に集まったようである。ただし、自由化の成果まですべて無にす
る必要はない。待ち時間の短縮などの効果もあった。極端に減車を進めば、タクシーが拾いにくくなる
などの逆の効果も生じる。法律を改正してまで、一斉に減車する必要があるのか。局長通達の範囲だけ
でも効果があるであろう。過度の行政の介入の典型とされた「需給調整」の復活は避けるべきであろう。
タクシー業界は行政に頼らず、自ら改革をすべきである。新たな需要開拓努力が不可欠である。規制
緩和以降、福祉タクシーや乗合タクシーなど多様なサービスをすることで、利用客を増やしたタクシー
会社もある。最近では、運転手が買い物や病院の順番取りを請け負う便利タクシーも登場している。ま
だまだ工夫の余地はあるので、利用者の目線から新たなサービスを提供していくべきである。
今回の規制の再強化は、賛否両論がある。規制を緩和すれば、タクシー台数が増えることなど、最初
から想定できたはずである。一般の企業では、市場が縮小して新規参入メーカーも増えたから、生産高
をメーカー割り当てにせよというようなことはない。いくら競争が激化しようが、メーカーは自社製品
が消費者から選ばれる経営努力を積み重ねて成長を目指すのが筋である。その取り組みを怠った会社が
市場から淘汰されるのが、自由競争の大原則である。再規制がされなければならないほど、タクシー業
界は経営改善余地がないのかである。新人の運転手でも一定の売上を上げるためには、上得意客をドラ
イバーに送り届ける仕組みを会社自らが整備すべきである。例えばGPS(全地球測位システム)や無
線の活用である。利用客に最も近い場所にいるタクシーを自動的に配車指示するシステムである。この
システムによって利用客はすぐに予想到着時間が分かり、ストレスも減ることであろう。カーナビがつ
いてないような車をわたし、これで勝負ではかわいそうである。先端技術への投資は当然にすべきであり、
経営者は社員が市場で戦うには、どのような武器が必要なのかを考えるべきで、会社全体のシステム整
備に取り組むべきである。
(2008.11.30)
※注
⑴社団法人くらしのリサーチセンター編『新 公共料金読本』p.233 1997 年
⑵小渕洋一『現代の交通経済学第3版』p.103 中央経済社 2005 年5月
⑶秋山義継『現代交通論』p.52 創成社 2006 年4月
⑷高橋愛典『地域交通政策の新展開』p.113 白桃書房 2006 年3月 運賃一斉査定の妥当性について
詳細に述べられている
⑸秋山義継 上掲書 p.58
⑹戸崎肇『交通入門』p.88 昭和堂 2005 年2月
− 85 −
タクシー事業と運賃問題
※ 参考文献・資料
1.秋山義継『現代交通論』創成社 2006 年
2.小渕洋一『現代の交通経済学 第3版』中央経済社 2005 年
3.財団法人 くらしのリサーチセンター編『新 公共料金読本』 1997 年
4.戸崎肇『交通論入門』昭和堂 2005 年
5.高橋愛典『地域交通政策の新展開』白桃書房 2006 年
6.西村弘『脱クルマ社会の交通政策』ミネルヴァ書房 2007 年
7.平井都士夫・柴田悦子編『現代の交通政策を問う』法律文化社 1993 年
8.読売新聞 2008 年8月 27 日 7月 20 日 3月 24 日
2007 年 12 月5日 10 月 20 日 9月3日 7月 12 日
9.日経ビジネス 2008 年 10 月 20 日
※ 補 論
タクシー再規制について
本論でも述べたように規制緩和でタクシーの車両台数が増えすぎたことで、様々な問題を生じさせた。
しかし、過度の規制復活は利用者のためにはならないことは事実である。今回、国土交通省が再規制策
をまとめたようである。台数増加で業界が共倒れしそうな地域では、地域の意向を踏まえ、共同で減少
させる新たな仕組みを作り、次期通常国会に新法を提出して、2010 年に実施する方針である。
最近の景気後退でタクシー客はさらに遠のき、完全歩合制の運転手の収入は減る一方である。収入を
上げようと焦った事故も多く、このままでは利用者の安全性の確保は危ぶまれる。その点では、再規制
で台数を絞るのはやむを得まい。
新たな減車の仕組みは、繊維産業が共同で過剰設備を廃棄した仕組みが参考となっている。まず、問
題が生じている地域を国が「特定地域」に指定し、指定された地域では、業界の労使代表や自治体など
でつくる協議会が、タクシーの需要回復策や運転手の待遇改善策などを盛り込んだ総合計画を作ること
になる。この協議会が必要と判断すれば、問題のある地域のタクシー会社が一斉に減車を申請する。申
請を受けた国土交通省は公正取引委員会の意見も聞き、競争を妨げない範囲で減車を進めることになる。
これまで、増えた車を減らす仕組みはなかったが、共同減車の制度ができることは、業界の正常化に役
立つと思われる。業界は当初、国が減車を強制する仕組みを求めていた。国への依存を高めることは、
規制緩和の流れに逆行するものである。供給過剰の責任は、増車することで客を奪い合ってきた業界に
責任がある。業界が地域や利用者の意見を聞き、公正取引委員会の監視下で競争すべきである。今回の
仕組みは、あくまでも一時的な措置であり、台数が適正化し弊害が消えれば、特定地域の指定も解除され、
また増車競争が復活し、再び増車規制をかけることもありうる。そうならないように、恒久的な対策も
考えるべきである。
地域内で営業するタクシーの台数を定期約な入札制で決め、ある程度増車を制限することは必要であ
る。入札で得た収入でタクシー乗り場の整備をするなどすれば、業界の活性化にもつながる。地域主導
で適正化を図るならば、運賃などの許認可権を国から地方に委譲するなども考えるべきではなかろうか。
(2008.12.24)
− 86 −
東京交通短期大学 研究紀要第14号 2008.12
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
—同社の創立経緯を中心にー
A Study on the Background and Presupposition of
the Foundation of the Japan Railroad Company
安 彦 正 一
Shoichi Abiko
はじめに
Ⅰ、華族による鉄道会社の創設と企画
1)華族の鉄道会社設立動機
2)鉄道組合の渋沢栄一と既設鉄道払い下げ意見
Ⅱ、鉄道会社設立の準備
1)会社設立のための奔走
2)岩倉具視の具体的鉄道案
Ⅲ、鉄道会社の設立
1)発起人による「鉄道会社創立願書」の提出
2)鉄道会社に対する政府の保護政策
Ⅳ、日本鉄道と渋沢栄一の関係
おわりに はじめに
周知のように鉄道は輸送機能を通じて経済社会の発展を促進する役割を担っている。しかし、諸外国
に比較し資本主義化が遅れた我国は「富国強兵」「殖産興業政策」をスローガンに掲げ、欧米から近代的
諸産業を導入移植した。
この頃、欧米諸国では鉄道が陸上交通機関の中心としての位置を占めつつあった。そのため我国でも
新たな交通手段として、イギリスからの技術者と資材の到着を待って鉄道建設が開始されたのである。
ともかくも、明治5年には東京・横浜間が最初の鉄道として開通し、その後、明治 14 年には我が国最大
の私設鉄道である日本鉄道会社が創設された。我が国の鉄道は、創業以来、明治政府による官営での建
設主義を唱えそれを順守してきたが、同社は華族の資本拠出と政府の保護育成の半官半民の特殊な形態
で創設され、日本全国の鉄道を敷設するという意味から日本鉄道会社と命名し、設立当初では「日本鉄
− 87 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
道会社」であったが、後に日本鉄道株式会社となった。(以下、日本鉄道会社とする。)
日本鉄道会社は、後の私設鉄道に大きな影響を与え、営業路線については私設鉄道でも最も長く、明
治 20 年〜 30 年代には官営鉄道を凌駕するまでになった。
日本鉄道会社の研究については、優れた論稿が発表されているが、多くは包括的な官庁史料・社史など
による叙述のものであり、内部資料として「日本鉄道会社沿革史」が刊行されたことにより同社の事情が
明らかにされたことは意味深い。本稿も多くは同史料に依拠したが、併せて、1)その前史の研究については
必ずしも十分に進展しているとは言えない。いわんや渋沢との関係についての論稿は管見したものを見
かけない。
本稿は、まず同社の創設過程についての分析を中心に進め、同社が民営鉄道会社の先駆として、後の
民鉄にどのような影響を及ぼしたのか,また、同社がどのような位置づけを占めたのかにつき考察し、
その際、鉄道の創設に関与した渋沢栄一との関連において捉えることを試みたものである。
Ⅰ、華族による鉄道の創設と企画
1)華族の鉄道会社設立動機
周知のように、維新政府は、「殖産興業」「富国強兵」を合言葉に資本主義発展の前提を整えるために、
近代的産業の移入・育成を積極的に図り近代化を行った。そこでの近代的産業は直接官業の形で作り出
されたところに特徴がみられた。2)なかでも鉄道は封建的体制を打破し、中央集権体制国家を確立する上
でも重要な政治的手段であったことから3)維新政府は明治3年に工部省を設置し曲がりなりにも、明治
5年に東京・横浜間に鉄道を開通させると、その後、大阪・神戸間が、明治 10 年には京都・神戸間を開
通するなど京阪神地区の鉄道は整備されてきたのである。しかし、それにも拘らず政府の計画した幹線
鉄道計画は建設が思うように進まず、停滞気味であった。しかも、維新後の政府財政は負担が厳しいため、
一部の華士族は家禄を拠出し、近代的鉄道事業を起こすことが問題視されたのである。
その機会は、明治5年岩倉具視が特命全権大使として欧州を訪問していた際、ロンドン留学中の蜂須
賀茂韶が相談した「建言書」による勧告であった。
それによると「皇国商売行旅運輸消息ヲ富強ノ礎ヲ建ントスル鉄道蒸気車ノ設最其急タリ固ヨリ其費
ス所巨万面而シテ其功始テ挙ル臣窃ニ惟フニ今日政府ノ歳入猶タ大ナラス而シテ其費ス所百端多カラサ
ルヲ得ス是ノ如之巨万ノ費徒ニ政府ノ力ヲ以テ鉄道蒸気車ノ設ニ従事セントス豈其レ容易ナランヤ是故
ニ臣謂フ願クハ臣等華族有志ノ者之ニ率先シ以テ広ク士族等ノ有力者ニ募リ其家禄家財等ノ余ス所ヲ合
シ以テ一団ノ会社ヲ結ヒ」それにより東京より青森および新潟までの鉄道の敷設を提案すれば「十数年
成功ノ後果シテ其会社ノ利ヲ以テ臣等生産ノ財本ヲ生シ得ルニ至リ」しいては「華士族ノ禄挙テ之ヲ政
府ニ還納セハ則政府亦一大冗費ヲ省キ以テ有用ノ費ニ供スルヲ得ントス」4)と主張したのである
この意見は、多くの華族の間に衝撃をあたえ池田章政ほか十華族が蜂須賀茂韶の「建言書」に賛同し、
政府部内でも鉄道建設の計画が具体性を帯びてきたのである 5)。
明治 6 年3月には華族の発起人 10 名が連署して 6)、鉄道会社設立の許可を太政官に請願するにいたっ
た。そして、翌年には事業方法の具体案を工部省に提出するよう指令があったが、なかなか事業が進展せ
ずして、ともすれば「計画悉く画餅に帰せんとする」状況を呈しながらも、7)華族有志が参加し「東京鉄
− 88 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
道組合」を組織し、東京・青森間の鉄道建設の計画を渋沢栄一に依頼したのである。(当初は前島密であ
った)その間の事情に関して、渋沢は『雨夜譚会談話筆記』に「華族連中は何分資力のある人達であるから、
忽ち奥羽の鉄道計画が成った。それも早く京浜鉄道が敷設せられて、鉄道の必要なり面白味なりが理解
出来て居たからであろう。で早く内々の世話役として前島密氏が依頼を受け、色々方法を講ずる位置に
あったが、其内私が銀行業者になったので、大蔵省で伊達宗城、松平春嶽というような人達と知り合い
であった関係から、更に私に鉄道の世話役を頼んで来た。何分奥羽へ鉄道を敷くには少々の金では出来
そうもない。又其調べも余程確乎たるものでなくてはならぬので、先ず初めには東京・宇都宮間、次い
で福島まで、更に仙台、盛岡と云う風にして調べたいと思う。又之にも高島屋が工事を引受けたいと云
うて居た。私は如何なる方法で資金を集めて経営に任ずるか、又政府が如何なる程度まで援助するか等
に関して心配した。当時株式組織というものが、おぼろげながら知られるようになって居たので、鉄道
はそれによるのがよかろうと云うことになり、明治 7、8 年の頃まで約二年程色々と評議した。」と 8)、
述べている。
ところが、当初の計画である東京・青森間の鉄道は、事業として膨大すぎるとして、計画は縮小され東京・
9)
福島間として建設費を 750 万円に見積もったが、再度東京・宇都宮間に変更した。
2)鉄道組合の渋沢栄一と既設鉄道払い下げ意見
明治8年4月、「第4回鉄道会社会議」が開かれ、出席した井上馨・渋沢栄一は席上で「陸羽鉄道建
設ノ目的ヲ変更シ、新橋・横浜間官設鉄道ノ払下ヲ受クベキ事」10)の方が適宜な方法であるとして、そ
の理由を、第1に、建設費を概算して 750 万円としているが実際には 1000 万円以下の予算では困難で
あること。第2に、陸羽地方経済の発展は期待できるが、鉄道会社の責務のみでなく、政府の政策の中
で経済発展を実施すべきである。仮に鉄道が開通しても利益が出ずそのため株主の期待にも添えないこ
と。第3に、鉄道建設は、宇都宮まで 10 年間もの長き期間をかけることは無策である。これ等の諸点か
ら見ると鉄道事業にとって「其新築ノ目的ヲ翻シ、既ニ政府ニ落成スル所ノ新橋・横浜間ノ鉄道ヲ買下
クルヲ以テ適当ノ方法トナスベシ」11)としたと結論し、一同につたえたのである。
こうした変更の契機は、井上馨の主張に基づくものであることは『世外井上公伝』の中に「協議の結
果出資金ニ百五十万円、予定線東京・宇都宮間を建設ことに決して請願する所があったが、政府はその
許否を容易に決しえなかった。時に公は廟議の大勢を察し、又当時財政困難のため政府は鉄道敷設の業
を拡張する余裕がないのを観て、東京・宇都宮間の敷設計画を棄て、政府の東京・横浜間の既設鉄道を
払下げるのが時宜に適したものであること」12)を察知したために華族に忠告したのであるという。この忠
13)
告により華族は数回の会議を行い京浜・浜の既設鉄道を三百十万円で払下る願書を提出したのである。
提出した「鉄道御払下願書」によると、その理由を「新築ノ事業ハ只官行ヲ奉翹足候外無之、然リト云
トモ臣等ノ起念ニ於テモ、亦以空ニ附スルニ忍ヒサルニ付、更ニ相商量シテ現ニ官ニ於イテ成功シタル
東京横浜間ノ鉄道及附属家屋器械共御払下相願、其代金ハ年賦ニテ上納ヲ御許允被下度候、然ル時ハ臣
等ノ宿志モ其万一ヲ達し候ニ付、今日ヨリ結社シテ其約束ヲ設立シ、追テ年賦金上納ノ後ハ百事成規ニ
遵ヒ、其実業ニ従事仕度奉存候間、仰願クハ微哀御汲量ノ上願意御許允被下度候」というのである。14)
この間における経緯は、華族の意見もさることながら、井上の官僚としての意見が大きく反映され
ていたことは否定できない。渋沢に対しても井上馨の意見が主導的であったことを裏づけた記述がみら
− 89 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
れ、むしろ渋沢は井上の意見に賛同し、相談役に徹していたように思われる。『青淵回顧録』において
「急に最初の計画を変更して、同8年6月に官設鉄道の払下げを受けて、之を経営しようと云う事に相談
が纏った。其際私は、鉄道払下げ、営業の事を万事委託されたので、鉄道払下げ組合というものを組織
し、私は其総代として其衝に当ったのであるが、此の組合に加入した華族は二十一人であったと記憶す
る。」と述べる一方、政府に対して官設鉄道払下げの願書を提出した処が、幸いにも其願いが聴き届けら
れ、翌九年七月三百十万円を以て払下げられる事となった。而も政府に於いては華族の保護をなす意味で、
七箇年年賦で上納する事を聴き届け、完納すると同時に鉄道の一切を引渡す代わりに、其間の上納金に
対しては一箇年七分の利息を附すると云う様な特典をも与えられた」と、15)述べている。ここに渋沢の
相談役としての姿勢が出ている。そして政府でも払下げには異論がなかったように思われる。
明治8年 12 月7日には、政府より京浜間鉄道払下げの許可が下りたのである。16)華族一同は、井上馨、
渋沢栄一、前島密など関係者を含め祝賀会を開催し、代表として渋沢は答辞を述べ、17)再度 10 月 21 日
19)
に上申書案を政府に提出した。18)かくして、上申書並びに鉄道の条件及び政府との約束書を提出した。
明治9年8月5日東京鉄道組合と、政府との間で「新橋横浜間官設鉄道払下げ」に関する条約が締結
された。条約書の冒頭には「工部省所管ノ東京横浜間鉄道ノ全部ヲ華族九条道孝以下弐拾六名ニ譲渡ス
ヘキ約条」として十四条が規定され、その第一条には「東京横浜間ニ亙ル鉄道並土地及ヒ所属ノ諸館屋
諸器械ヲ併セテ政府ヨリ華族弐拾六名ノ組合ニ譲渡スルコトヲ約ス、而シテ其代価ハ三百拾万円ノ金額
ニシテ、内三百万円ハ七ヶ年賦ニ上納スヘク、且此年賦金ハ皆納済ノ年マテ年々増加セシ総額ニ対シ、政
府ヨリ年六朱ノ利足ヲ下付シ、残十万円ハ特別ニ右七ヶ年後無利息十ヶ年賦ニ上納スヘキコトヲ允准セ
リ、
・・・」20)としてそれぞれ華族に割当金が確定された。
表 1 鉄道払下条約に依る華族割当金
(単位:円)
氏 名
蜂須賀茂韶
拠出金額
825,900
毛利 元徳
413,000
徳川 慶勝
273,600
松平 頼聰
池田 慶徳
池田 輝知
池田 茂政
池田 章政
山内 豊範
松平 慶永
松平 茂昭
231,300
188,200
182,900
141,600
132,100
123,900
伊達 宗徳
伊達 宗城
氏 名
拠出金額
123,900
久松 定謨
久松 勝成
前田 利嗣
118,000
井伊 直憲
82,600
大村 純煕
74,000
亀井 兹監
33,500
毛利 元敏
16,500
榊原 政敬
8,300
池田 徳潤
5,900
毛利 元忠
5,500
九條 道孝
5,300
井伊 直安
4,100
前田 利同
10,600
合 計 3,000,000 円
『明治前期財政経済史料集成』第 1 巻 p234 から作成
及び「第一銀行所蔵」
− 90 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
だが政府は鉄道買い下げ代金の年賦を7ヶ年から6ヶ年に短縮、更に利息を6分に減じたい旨の通告
をしてきたので、渋沢は大隈重信宛の書簡にせめて「7ヶ年年賦ニ御聞届被下度候」と頼み込んでいる
が 21)承諾を得られなかった。
これらの事情の中で、政府への上納金を支払うための取り扱いを第一国立銀行に委託し、同行との間
に条款を取り結んだ。22)しかし前に述べたように政府の度重なる条件に対して華族一同は再三会議を開
き討議を重ねたが支払いが困難であるとの結論に至った。それに追い打ちをかけたのは明治9年金禄公
債条例の公布である。23)この条例公布により「鉄道組合華族中禄券制ニ因ル収入減ノ為メ嚮ニ盟約セル
24)
出資担保金額ヲ維持シ難シト為ス者アリ」
、という状況を呈したのである。すなわち、それに該当した
華族の中には鉄道払下げ負担金の支払いが困難であるとしたため「第 22 回会議」は多くの異議を唱える
華族により紛糾したため結論が出なかった。渋沢は、これを回避する方法として禄券に対する対策を協
議するための「特別会議」を提案したのである。25)
いうまでもなく、政府としても金禄公債の価格維持及び華族の家産を保全することは、当時の状況に
おいて憂慮すべき事態であった。
あたかも、当時の大蔵大輔松方正義は、ここに一案を得て、華族の受領した公債証書を合算してそれ
を資本に銀行を創立すれば、第 1 に華族の家産を保護できるし、第 2 に国家の経済の発展にも資する事
が出来ると提案したのである。26)次いで、彼は華族監督部長である岩倉具視にその構想を持ちかけると
ともに勧めた。欧米の巡遊から帰った岩倉は欧米の新知識を吸収してきたとはいえ、さすがに華族が銀
行を営業し従事することには大きな抵抗があったとみえ、当初は断ったといわれる。27)しかし岩倉との
親友でもある肥田兵五郎や島津久光らが松方の説に賛同したので彼は意に動いたのである。28)
したがって、華族の代表である岩倉具視は「是ニ於テ衆華族各自所有ノ金禄公債証書ヲ集合シテ基本
金ト為シ、以テ一大銀行ヲ設立セントノ論」29)として華族に公言したのである。
すなわち、
「銀行創立趣意書」の構想は、金禄公債証書を銀行紙幣に交換すると約 1800 万円になるので、
そのうち 1500 万円を大蔵省に貸し上げて外債償却のための外貨獲得、鉄道敷設等の資金に企て償還され
る公債代金を逐次大蔵省に納付すれば、5 年据え置きの後、6 年目から抽選償還が始まるから、25 年で
鉄道は華族の手に帰すると云う計画で、これにより「外ハ外債ノ患ヲ除キ、内ハ富強ノ基ヲ開キ、自家
永遠ノ恒産ヲ得ルニ至ルヘシ。30)」と自信のほどを示している。かくして、明治 10 年 3 月 21 日許可が下
りここに華族が創設した第十五国立銀行が創立したのである。31)
こうした状況の中、銀行設立後あたかも西南の役が勃発し、戦費支弁のため紙幣増発となり鉄道の敷
設は全く頓挫したのである。32)
ところで、「第 39 回臨時会議」において、33)渋沢は「鉄道払下げ条約取消請願書案」の審議決定をお
こない、34)そして既に払い込んである納金が還付された時には他の事業を興す時の資金とすることにな
35)
った。
明治 10 年 12 月 19 日請願書(東京横浜間鉄道払下条約取消之儀ニ付悃願書)を大蔵卿大隈重信、
工部卿伊藤博文に提出し、翌年 3 月9日に許可された。36)
かくして払下げを期待した官営鉄道の払い下げ案は取りやめとなるに及んだ。同時に鉄道組合も解散
37)
したのである。
− 91 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
Ⅱ、鉄道会社の設立準備
1)会社設立のための奔走
鉄道の敷設は、華族一同が願望するところであったし、銀行創立の一眼目でもあったことについては
すでに述べた。しかし具体的には実現されないまま推移してきたのである
明治 11 年4月政府は起業公債証書額面 1250 万円を発行し、東京前橋間の鉄道敷設の建設費に充当し
1)
ようかとして計画したが中止となった。
とはいえ民間に任すわけにはいかず鉄道敷設の件は頓挫してい
た。しかし華族の人々の間から大久保利和、藤波言忠等から再度東京青森間の鉄道建設案が浮上したの
である。彼らは萬里小路通房、武者小路實世等同族を勧誘し、まず岩倉公に建議し、次いで蜂須賀、伊達、
2)
池田に同意を求めて第 15 国立銀行と協調し資本金の募集にまでこぎ着けたのである。
一方では、林賢徳等も東京高崎間の鉄道敷設を目的として京橋日吉町に東山社を設立し多くの同志を
3)
募っており、
紅林員方が鉄道建設要旨、規則、入社手続き、株主心得、会議規則等を作成し、有志に配
布した。4)多くの賛同者が出たため、彼は時の工部大輔山尾庸三を訪問し意向を尋ねたが「鉄道ヲ築クハ
政府ノ責任ナリ故ニ之ヲ人民ニ許ス可カラス」5)と政府ではその意向がないことを告げられた。林賢徳は
高崎正風から紹介を受け、工部卿伊藤博文にその趣旨を明示し説明したが、難しいとされため、6)さらに
大隈大蔵卿に会い鉄道建設の事業について説諭するが、7)大隈卿は、金禄公債は士族の生活である、それ
8)
を鉄道建設のために使用することになれば士族は何を以て生活するのかと諭され、
それゆえ難しいとの
返答を受けた。林賢徳の期待も虚しく政府内部での主張は翻ることがなく黙々と過ごす中、政府におい
て東京高崎間の鉄道建設の計画があることを知り、林賢徳らは東京府知事に確認するとともに鉄道建設
収支概算書、経費計算書、会社規則など準備し知事に申請した。9)しかし、そのことは無視され、林賢徳
らは鉄道を新設するか、既存鉄道を払下げるかの議論を行い、既存鉄道払下げとの意見となり請願書を
10)
作成し 12 年 7 月林賢徳、大田黒惟信、吉田本一、紅林員方の連署で府知事に申請したのである。
大田黒惟信は既設鉄道の払い下げの必要性を説くために奔走し、まず井上馨参議と会い、既設鉄道の
払い下げの必要性を説いた。それに対し、井上は、
「今高利益が出ている既設鉄道を政府が民間に払い下げ、
利益のない物を政府自から管理するのでは不合理であろう。したがって払下げ云々するより、行うべき
ではない」11)とするのに対して、大田黒惟信は、鉄道は開業以来、その収入を平均すると1ヶ年 16 万円
弱に当たる、いま仮に払下げ価格を 300 万円とし6分利付とすれば、これにより発生する利子は1ヶ年
18 万円となり鉄道の発生する利益と大差ないではないかと12)説明した。こうした具体的な説明に対し「参
議答ヘス」13)ため、再び伊藤参議を訪問した。参議は「士族ノ禄券ヲ鉄道事業に投ス可ラス」として「若
シ一旦天変地災ニ遭遇スル等ノコトアラハ再ヒ之ヲ恢復スルノ道ナケン其時ニ至ラハ士族ノ生計ハ終ニ
如何トモ為ス能ハサルヤ知ルヘシ」14)と。大田黒惟信はさらに、天災に処するには非常時の積立金を用い
て復興にはそれを充当したらいかがと問うが、参議は前の意見を主張するだけであった。15)8月 21 日岩
倉右府に会い、鉄道事業は士族授産の役割を大いに担っているので貫徹してもらいたいと懇願したが、
岩倉は、鉄道の払い下げにより授産に役立てようとする案はいいが、金禄の利子と同じである16)と主張
するだけで具体的解答が得られないため、大田黒惟信は、話題を変えて今日諸物価騰貴し銀行紙幣も暫
時増加の傾向にある。この機会に何か将来的な政策を明示したらいかがか、というに岩倉右府は「未タ
之ヲ首肯スルニ至ラス」17)と、述べており、おそらく岩倉は政府部内において鉄道払い下げについて反
− 92 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
対するものは少ないが、現在様々な問題を抱えていることを、言いたかったに違いないと思われる。18)
ところが、明治 13 年に至り政府は、財政困難を理由に東京高崎間の鉄道建設の中止を通告してきたの
である。林賢徳、大田黒惟信らは「再挙ヲ謀ルノ好機ナリ然レモ金禄ヲ以テ為スルハ業ニ已ニ其機ヲ失
フ若カス他ノ方法ヲ換用センニ」19)と士族の命綱といわれる禄券について配慮した主張をしたのである。
その方法はドイツ人ヒューリント氏の「土地書入兌換証券発行」の方法で、これを模倣した「土地書入
鉄道兌換証券発行建議案」として賛同者を募集し、これを基に東京高崎間の鉄道を再び立ち上げようと
20)
21)
いうのである。
この案は決定したが、まず鉄道創立発起人を誰にするかを優先することになり、
ここ
に安場・高崎・中村・安川の4名は松方内務卿を訪ね鉄道発起の事を述べた。松方は、政府の利子補給
で何とかしたいが国庫金が不足したら郵便税を増加してそれに充当する案を提出したい。22)と前向きな
回答が引き出せたとして安場・高崎・中村・安川の4名は鉄道起工が間もないことを感じとったといわ
れる。そのための準備が急ピッチで進められ、沿道の地方官との「交渉事項案」の作成など、さらには「鉄
道会社条例案」、「当社利益保証法の発行建議書」などを作成し、23)岩倉具視邸を訪問したのである。
2)岩倉具視の具体的鉄道案
では、華族の中で中心であった岩倉具視の鉄道策はどのような案を意図していたのであろうか。安場
保和等が作成した建議書を拝読した岩倉は、次のように述べた。
岩倉によれば、各地方の長官から鉄道敷設の陳情はあったが、尚、時期尚早と思っていたが、「建議ス
ル要点ハ実ニ我国ノ現状ニ適シノ所見ト正ニ暗号ス此レ施スヘキノ機巳ニ到ルト謂フヘシ」24)と、その意
中を告げるとともに、鉄道の事業については「線路ヲ東京ヨリ青森湾ニ達し漸次全国に普及スヘシ」25)と、
広大な構想を示した。この構想こそ岩倉によると「第二ノ維新ヲ以テ自ラ任シ大ニ為ス所アラン」自画
自讃している。26)
このような岩倉の積極的な鉄道政策は、彼の行動にも現われており「創立ニ際シ諸費ノ資ナカル可ラス、
余今参百円ヲ諸氏ニ託ス質實之ヲ使用シ」27)て欲しいとして、寄付をしており、そこにも彼の鉄道建設
にかける熱意と期待を窺うことができよう。
この間にも会社成立のための協議が持たれ、まず、首唱発起人として、岩倉具視、蜂須賀茂韶、林賢
徳、大田黒惟信、肥田浜五郎、西村貞陽小野義眞、萬里小路通房、武者小路實世 安場保和・高崎正風・
28)
中村弘毅・安川繁成、伊達宗城、大久保利和、藤波言忠の 16 名が指名された。
14 年 2 月岩倉は華族等を召集し、鉄道創立の必要性、線路の計画、着手の順序、資金の方法、政府の
保護の要領出願手続きなど具体的大意について演説をした。29)
「演述覚書」によると、会社創立の目的は、「全国一條ノ鉄道ヲ敷設スル」ことにあり「・・・我ガ国
ヲシテ富強ナラシメントセハ鉄道建築ノ起業ヨリ他ニアラサルヘシ」30)というのである。次に演述の内
容の具体的な中身を見ていこう。
1)線路は 1、東京より高崎に達し、途中から青森まで、2、高崎より中山道をとおり敦賀線に接続
し東西京と連絡する。3、中山道線を経由し新潟をして羽州迄 4九州豊前大里より小倉を経由し
て肥前長崎に達し、ここから中央より肥後にいたる。これは一会社を創立して全国を担当する。よ
って会社の名称は日本鉄道会社と称する。
2)着手は、 ①東京より高崎まで
− 93 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
②第1区線中より白河まで
③白河より仙台まで
④仙台より盛岡まで
⑤盛岡より青森まで
この経費概算を約 1900 万円と見込み、努めて外国品は購入しない。
第一の着手は、東京・高崎までとし、その経費概算は 250 万円とし、工事期間は、開拓使で雇用
31)
した御雇外国人クローホルト技師(アメリカ人)
の概測によると、高崎まで 18 か月青森までは 3
ヶ年において落成することを予定したが後に、我が国では未曾有の大工事であるため高崎まで 2 ヶ
年、青森までを 6 ヶ年と予定した。
3)拠金の方法は、発起人は青森までの 1900 万円の 10 分の 1 余、200 万円を 2 ヶ年負担し余りを株
主募集する。もちろん株主は 1 株でも出金すれば発起人であるが、事務的な関係から 5000 円以上
を出金する株主を発起人として姓名を掲載する。その場合出資金の多寡による。
4)政府保護の箇条は。1、発起人、株主とも、出金した日から起算し開業運転まで年 8 分の利子を支
給してもらいたい。2.開業運転後 10 ヶ年間年 8 分より低落した場合、8 分まで支給してもらいたい。
但し 8 分以上の時はもちろん株主の所得になる。3、鉄道に必要な敷地は、政府の分は無償で下付
し、民間の土地については政府が其れなりの代価で買い上げ、それを会社に払い下げてもらいたい。
4、政府から監督として官員を派出してもらいたい。5、政府は鉄道会社条例を速やかに公告して
もらいたい。
5)出願の事は、発起人は、第 1 着手の青森までの経費 10 分の 1 を拠出し、各種の出願を行い、許可
を受けたら政府と約定を行うこと。会社創立の手続きは、政府からの許可を得てから始めること。
そのための書類は、1)願書 2)会社創立規則 3)利益予算 4)起業の理由
を準備し提出する。
以上で明らかなように、岩倉の鉄道構想の詳細な演述は、華族を説得するに十分な内容であり、その
結果「華族諸家ハ各々賛同ノ意ヲ表シ分ニ応シ出金スヘキヲ答フ」32)と報告している。さらに彼は「鉄
道事業タル決シテ軽易ナルニ非ス苟モ全国ノ人心力ヲ一ニシテ相奨励スルニ非スレハ則チ其大成ヲム可
ラサルナリ・・・・我邦富強ノ基礎ヲ今日建ルアラハ実ニ国家人民ノ幸福タル大ナリ」33)と新聞で報道
し一般世論を喚起した。準備段階では再三岩倉邸で打ち合わせがなされ 34)同月 17 日同盟発起人 16 名
は発起人としての承認条件を決定し 35)、3 月末には 648 名の華族に対し「鉄道建築ニ関スル条件承諾書」
を作成し承諾を求めた。36)このように岩倉は政府、華族、国民に積極的に働きかけようと意図していた
ことは十分に察知できる。それにしても彼の動きは日本鉄道会社の設立を早期に進めたことは否定でき
ない。
明治 14 年 4 月には、第 15 国立銀行内に事務所を移転し「仮称日本鉄道会社創立事務所」とした。37)
ここにおいて、同月 16 日発起人総会が行われた。その様子を『沿革史』は「五辻安仲氏ヲ臨時議長
トシ創立規則ヲ議ス、議論紛々殆ト収拾ス可カラス」と 38)記しているように4回の総会が開かれ、その
状況は、まず 18 日に再度開会したが、なお決定することなく、発起人の一人であった肥田濱五郎は意見
相違のため発起人を辞任すると云う事態を呈した。22 日に再度開催されたが決定することなく、23 日に
は、四度目の審議が持たれやっと審議事項が決定されたのである。
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日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
Ⅲ、鉄道会社の設立
1)発起人による「鉄道会社創立願書」の提出
明治 14 年 5 月 21 日池田章政ほか 462 名の発起人は、東京府知事松田道之に「鉄道会社創立願書」を
出願した。1)
「政府曩ニ鉄道ヲ開築シテ其模範ヲ示サレシ、以来国人皆鉄道の便益ヲ覚知シ今日ニ至テハ之ヲ全国ニ
普及シテ以テ農工商業ノ昌盛ヲ添加センコトヲ渇望セリ。因テ章政等今広ク全国ノ有志者ト謀リ鉄道営
業ノー会社ヲ創立シテ、以テ其開築ニ従事センコトヲ計図ス、然レトモ鉄道ノ業タル規模宏大、経費鉅
万其線路ハ数百里ニ延亙シテ公私ノ所有ニ属スル無数ノ土地家屋ヲ貫穿シ、又其工事ハ未曾有ノ偉業ナ
ルカ故ニ未タ後来収益ノ多少ヲ前知スルコト能ハサル等、其他尋常ノ事業ノ比スヘカラサルノ困難頗ル
夥果ナリトス、而ルニ是事業ニ関して政府ヨリ特殊ノ庇護ヲ蒙ルコトナクンハ章政等有志者ト与ニ鞠躬
従事スル雖トモ、会社ノ勢力或ハ及フ能ハサル所ノ者アランコトヲ恐ル、聞ク欧米諸国ニ於ケル鉄道会
社ハ其政府ヨリ特例ノ保護ヲ蒙ル者多シト、伏テ冀フ、吾カ政府ニ於テモ亦タ庇護ヲ加ヘラレンコトヲ、
今章政等ガ政府ノ允准ヲ冀望スルノ条件及ヒ会社ヨリ政府ニ対シテ遵奉スヘキ条件ハ之ヲ別紙ニ列叙ス、
会社創立ノ規則草稿及ヒ出金人名簿亦タ之ヲ添付シテ進ム、以上ノ諸件若幸ニ允栽ヲ蒙ルニ至ラハ先ツ
東京ヨリ青森ニ達スル線路ノ経費ヲ弐千万円ト予算シ、右員額ノ内五百九拾余万円ヲ章政等ニテ之ヲ負
担シ、直チニ東京高崎間ノ線路ニ着手スヘシ、而シテ此ノ線路中ヨリ右折シテ之青森ニ達セシム、又高
崎ノ線路ヲ延長シテ之ヲ大津ニ達シ以テ東西両京ヲ連接セシムヘシ、是等ノ線路攅漸次落成スルニ至ラ
ハ貨物ノ運送行旅来往ニ無上ノ便宜ヲ与ヘ沿道各地ノ生産力ヲ増加スルニ置いて 以外ノ結果ヲ見ルコ
トアラム、然ラハ即チ鉄道ノ開築ハ独リ会社ノ私利ノミナラス蓋シ亦一国ノ公益ナリ、前述ノ願意御允
栽被成下度此段奉懇願候、尤モ御許可之上ハ会社定款、申合規則等ハ追々上申可仕候也、但事務所ノ儀
ハ京橋区木挽町七丁目六番地ニ設立仕候事」と。
一方政府に対し次の「特許条件」をも請願した。2)
1、鉄道線に当たる官有の土地、家屋は、無償で会社に下付すること。
2、鉄道線に当たる民有の土地、家屋は、政府が買い上げ、会社に払下げすること。
3、鉄道の一切の土地は、租税及びその他の諸税は免除すること。
4、会社創立後の株式募集金額は年 8 分を下付し、もし8分に達しないときは政府が不足分を支払う
こと。
5、鉄道線路は5区に区分し区ごとに収益を計算すること。各線区で赤字が発生したら政府が補給す
ること。
以上の条件を政府が許可していただければ、会社は政府の以下の諸条件を順守する。
6、鉄道建築の予算については、政府の許可を得てから作成すると共に、建築の状況についても政府
で検査してもらうことにします。
7、鉄道営業の会計帳簿は、定期あるいは不定期に検査してもよろしいです。
8、会社が創立した後、何年経過しても、その時の時価相場で鉄道を政府で買い上げてもらいます。
9、非常時の際には、会社にそれ相当の償金を支払い、政府は自由に鉄道を使用しても結構です
10、鉄道運賃は、政府の許可を得て決定します。
− 95 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
同時に会社の「創立規則案」が作成された。3)
創立規則案の大要は、第1章から第5章に分け、第1章は、大綱とし1条から 11 条までは、会社の名称、
設置・会社の責任、株主の資格、起工の順序、線路の区別、工費の概算、募集の金額、完成年限の時期、
開業後の決算・利益・配当方法 第2章では、株券・株金徴収、12 条から 20 条までを株式の種類、払
込の期限、株券授受手続き、株券の雛型、株券未払いの者の処分、第3章では、役員の権限、すなわち
役員の種類、資格、責任,任期、選挙等、第4章では、総会・投票、すなわち定例総会、臨時総会の区別、
総会の決議方法、第5章では、諸則、すなわち物品購入、経費、出納報告等としたのである。
こうして会社創立の準備が進む一方、岩倉公は東京・高崎間の建築工事は、政府に依頼すべきことを
大田黒・林の二人に頼み、発起人会で説明した。それによると、「建築工事は測量を含め幾多の難工事で
あるゆえ、着手するにも工事にミスが出た時延期するなど、株主一同に損害を与える場合がある。のみ
ならず会社にも本来の予定から遅れ損失をもたらす」4)、とした上で「第1区ノ建築ハ政府ニ依頼シ其竣
功ヲ全フセンコトヲ望ム」5)とし、その理由を次のように云う「政府ハ曩ニ横浜、神戸等ノ鉄道ヲ開築シ
其模範ヲ示シサルルモ、民間ニ在テハ其之ヲ試ミシ者ナク、建築ノ方法技術 , など実地ニ研磨セシ人ヲ
求ムルニ江湖遽ニ求メ易カラス」6)かといって、社員においても「其人ニ乏シ故ニ第1区ノ建築ヲ政府ニ」7)
依頼したというのがその趣旨であった。その間、社員は勉強し「第2区間ノ建築ハ必ス本社自ラ担当ス
ルコトトセン」8)と自信のほどを示している。
かくして、明治 14 年8月農商務、工部の両卿から鉄道会社発起人池田章政ほか 462 名に仮免状が下
付された。9)
しかし首唱発起人は、政府に対し「本免許状」の下付を直ちにお願いしたが、会社の定款の作成がそ
の条件となり、9月 25 日発起人総会を開催し会社定款の案件を議論した。
この議案に対して多くの質疑がなされ「討論スルコト連日、而シテ猶ホ決セス、十月一日ニ至テ漸ク
議了スルヲ得タリ」10)とその間の事情を報告している。
2)鉄道会社による政府の保護政策
さて、こうして準備が進む中で、提出書類も終わり政府の許可を待つ中で、明治 14 年 11 月工部卿佐々
11)
木高行は、日本鉄道会社に対し「特許状約書」を下付したのである。
同時に、政府から日本鉄道会社
12)
に対し全文 32 条に及ぶ命約も付け加えられた。
政府からの条項は、日本鉄道会社と政府との関係の概要を窺い知る上に参考となるためその要旨を条
文で見ていこう。
第 1 条(日本鉄道会社の業務と営業区間)同社は、東京より高崎を経由して前橋に至りここから分岐し
て白河、仙台、盛岡を経て青森にいたる鉄道を建設し、運輸業を営む会社である事。
第 2 条 〜4条(鉄道建設の土地と税金)鉄道建設の土地は、官有の土地はすべて無償であり、民有の土
地は政府が買い上げ、会社に払下げするとしている。それ故鉄道の利用する土地については一
切の税金が免除されるとしている。
第 5 条(株式募集と配当)株式募集に対しては、区間建設の落成までは一ヶ年8分の利子を支払う。営
業運転が開始されてからは、収入の純益一ヶ年8分に達しないとき、東京から仙台の区間は 10
ヶ年間、仙台より青森は 15 年間政府が不足分を支給する。
− 96 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
第8条(鉄道敷設の計画と許可)鉄道敷地の幅、鉄軌の重量、橋梁の架設、停車場の位置、建築方法な
どの詳細な図面、仕様書は、工部卿の認可を受ける。(変更がある場合も同じ)
諸工事は、日本鉄道会社が願いで、工部省鉄道局が施工する。ただしその方法、位置など鉄道局
と会社とが協議し工部卿の認可を受ける。
第 10 条〜 11 条(工事の完成年)工事は、命令書の下付の月から6カ月以内に着手し、満7ヶ年間に完
成すること。ただし全線が開通しなくとも順次完成した区間から工部卿の認可を受け営業を開
始すること。
第 12 条〜 13 条(政府の監査)政府は、①鉄道監督官に対し、認可した図面、工事仕様書どおり工事が
施工されているか監査を命じることが出来る。さらに線路、機械の巡視を命じ危険個所などが
ある場合会社に対し修理を命じることが出来る。③日本鉄道会社に対しては、会計監査官に命
令し会社の会計監査を命じることができる。日本鉄道会社が、鉄道監督官の命令を遵守しない時、
政府が代わってその事業を執行し、会社は責任としての費用を支弁すること。
第 15 条(鉄道会社の安全対策)日本鉄道会社は、安全のため線路沿いに防護柵を設け、番人として守衛
を警備に当たらせること。
第 16 条〜 17 条(鉄道会社の営業報告義務)旅客・荷物の運賃・料金、列車の速度・運行回数は、工部
卿の許可を得て決定すること。会社は、毎月の旅客数及び荷物運送量を翌月に工部卿に報告の事。
その際、一期ごとに報告書を作成し2か月以内に工部卿に提出する事
第 18 条(鉄道敷設内の架設)政府は鉄道敷地内の線路に沿って電線を架設するので、会社はその設備を
利用し架柱から鉄道用の電信を架設すること。
第 19 条〜 20 条(鉄道運送の無賃)郵便信書を配送する、配送人は無賃で乗車させる。郵便信書が繁忙
のときは駅逓総監督が必要と認めるときに限り 2 両以下の列車を定期列車として運行させる事。
2 両以上になる時には料金の半分を会社が受領すること
第 21 条〜 22・23 条(鉄道職員と公務の無賃)鉄道の事務のため往復する職員は無賃乗車を許可する。
ただし所属する役所と会社の間で取り決めされた乗車証を所持している者。
公務で乗車の陸海軍の軍人は、軍所属の馬、軍用品の輸送は全て半価で輸送できる。
警察官も同様であるが、公務であることの証明書を所持していること。会社は政府の命令によ
り檻車を通常の列車とともに無料で輸送する。その場合の警護官吏人は無賃とする。檻車は官
費で製作し、会社が保管する。
第 24 条〜 25 条(鉄道の非常時運送)非常時の際、動乱の時、会社は政府の命令に対し、政府に鉄道を
自由に利用できるようにする義務があること。凶作により穀物の価格が騰貴するとき、政府は
命令により指定した穀物に限り運賃を半価にすること。
第 26 条
(政府の本線優先)政府が本線から枝線を、又本線を横断する、さらに沿線に道路側溝運河など
を設置するとき会社はこれを拒めない。
第 27 条〜 28 条(特許条約の期間と修理負担)この特許条約の期限は、明治 15 年 1 月より 99 ヶ年とする。
但し満 50 ヶ年を経過した後は政府において何時でも鉄道の付属物を買い上げる権利があるもの
とする。日本鉄道会社が発行した株券は、時価での価格で買い上げる。
買い上げの場合、5 ヶ年間前に修理がないように完全にして引き渡すこと。修理を怠たり、方法
− 97 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
が不備の時、政府が修理して会社に費用を請求すること
第 31 条〜 32 条(条約違反と負担義務)日本鉄道会社は、本特許条約書の条件及び会社創立定款に違反
もしくは遵守を怠たり鉄道の公益を妨害した時、政府は会社の株主か第三者を特別委員に任命
し、会社を管理させるか、または条約の期限に関わらず鉄道の営業を他の人に継続して行わせる。
その場合の責任は会社が負担を負うものとする。会社と政府との間に意見が相違した場合は、
工部卿が判定し決定するものとする。
上記に見るように、政府と日本鉄道会社との間で結ばれた条項は、政府は同社に対し様々の保護を与
える半面、同社も政府の義務を果たすとされ、日本鉄道会社は、政府の手厚い保護と、強い指導性のも
とにおかれた。すなわち、政府と同社の関係は、持ちつもたれつの性格が如実に出ており、その意味では、
純然たる私鉄会社とは言えないところにこの会社の特殊性があったといえよう。13)
15)
同時に日本鉄道会社の定款も認可され、14)ここにおいて、やっと日本鉄道会社は創立したのである。
それにしても政府によって推し進められた東京・横浜間の鉄道のみならず、ここに初めて民間による
最大の鉄道会社が設立されたのである。同社の定款によると、16)同社は「日本鉄道会社」と称し事務所
を東京府に設置し、資本金は、2000 万円とし、これを 40 万株に分け1株 50 円としている。初代社長には、
吉井友美が就任した。また本社組織であるが、役員は理事委員 12 名以上 18 名以下(社長 1名、副社
長 1名、検査委員 3名 幹事、幹事補、若干の技師長)で構成された。
理事委員の任命は、総会において 100 株以上を所有する株主の中から記名投票の選挙で決定される。
このような体制の中で、鉄道の建設は東京より青森とし、その後政府の許可を得て順次地方にひろげて
いくものとしている。
そのために東京・青森の建設資金を募集し、当初の工事は東京・前橋間を敷設することになったので
ある。
Ⅳ、日本鉄道会社と渋沢の関係
鉄道の創設期での渋沢栄一の役割については述べてきたが、日本鉄道会社ではどのような役割をして
いたのであろうか。
周知のように、渋沢は、多くの我が国企業に関与しており、名実とともに創成期の企業のすべては、
彼が何らかの関係をもって関与していた。鉄道企業についても『渋沢栄一事業別年譜』17)を一読しただ
けでも、両毛鉄道、水戸鉄道、総武鉄道、日光鉄道、常磐炭鉱鉄道、北海道炭鉱鉄道、参宮鉄道、磐城
鉄道、京都鉄道、掛川鉄道、陸羽電気鉄道、群馬電気鉄道、九州鉄道、上武鉄道、・・・略・・・のみな
らず台湾鉄道、京北鉄道など海外の鉄道会社にも関与している。18)
では、渋沢が日本鉄道に関与したのはどのような事情に基づくものであったのであろうか。
彼は同社が設立されてから2年後すなわち、日本鉄道との関係は明治 17 年 10 月 24 日の臨時株主総
会において理事委員に選出されてからのことである。その経過を日本鉄道会社の「第6回報告書」は、
「理
事委員改選、十月二十四日臨時総会ヲ開キ理事委員十二名ヲ選挙セリ、即チ当選人名左サノ如シ」19)と
あり、12 人の理事の中に渋沢栄一が選出された事を記載している。
− 98 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
では、同社はなぜ創立母体である十五銀行系以外の重役から、20)渋沢に白羽の矢を立てたのであろうか。
その点、後日上梓した山田栄太郎氏 21)の詳細な記述が「竜門雑誌第 481 号」に記述されているので
参考に供しておこう。
同氏はまず「その辺は更に文献の徴すべきものがないから、確かなことは知るに由なけれども」、とこ
とわりつつ、まず日本鉄道の概要と歴代社長の事業を興味深く次のように記載している。
「察するに政府と会社、役員と役員、との間の協調和合の事に存じ、又増資金融の労に任ぜられたも
のならんと思はる。日本鉄道会社の創立は明治 14 年 11 月 11 日にして、其鉄道布設の工事漸く進むに
及んで、明治天皇陛下の御臨席あり、上野高崎間六十三哩の鉄道に宮廷列車を往復せさせ給ひ、夜に入
り上野式場に還御の上、玉音朗々勅語を賜いて、親しく開業式を挙げさせられたるは十七年六月二五日
の事に係り、其当時の資本金はと問へば金五百九十六万五千七百円と云う端数勘定を公称し、而かも其
内約三百八十二万円を払込みたるに過ぎず、万事が草創の有様にして、私設鉄道の嚆矢なれば、他に見
習うべき模範とてもなく、殊に線路の建設も汽車の運転も皆政府の鉄道局に依頼して行って居つた次第
で、加えるに利子補給の保護会社として、大蔵省の煩瑣厳密な監査の下に置かれて在つたから溜つたも
のではない、それに官僚全盛時代なる当時の事と来ているから、会社の経営施設の難しさは、蓋し意量
の及ぶ所でなかったろうと思われる。況や当時の重役連は種々の異分子を交へて居つて、動もすれば天
狗の鼻突き合とも云う風情なきにあらず、こんな工合で会社と云うはほんの名称のみ、全く一個のお役
所であって、」22) と、日本鉄道会社の設立期について述べるとともに、こうした会社の体質であるため
「第一世社長吉井友美氏は元老院議官兼工部大輔の高官から天下り、而かも創始三ヶ年を限りて引受け
ようという条件付きであったらしいが、今や車駕親臨といふ晴れの開業式も済み、又上野前橋間第一区
線の全通も了したと同時に、是迄政府の鉄道少監として会社線路の補修と汽車の運転とを担当して居つ
た毛利重輔氏が、新たに入社して技師長となったものであるから、それらを好機に約束通りの三年を済
したと云うので、悠然と会社を辞して元の官場へ転任して去った。其後釜へは奈良原繁氏が亦官場から
天下りて、第二世社長に任じたが、此時代こそ最も六ケ敷時代で、前途には第二区線乃第五区線其他各
支線の建設工事を控え(実際同社長時代に六八哩から五百九十哩に延長した)資本株金の増募(亦実際
五百九十六万円から千八百万円にまで繰越し数回の増資を行った)其他金融事項を初め(会社のバラン
スシートは亦実際六百六十四万円から二千百五十万円に成った)と会社内外の多事多端であったことは
推測に難くない」こうした会社の事情から「渋沢子爵が奈良原内閣組織の初めから重役として入社し、
会社の重きに任じられた事情も自ら明なるものあるが如く察せられるではないか」23)と推測している点
は注目されたい。そして、歴代の社長の仕事で「斯くて奈良原社長は、上野青森間の鉄道が悉皆全通し、
全部鉄道局の依託より離れて、全く会社の独立自営に帰したるを機会に、明治二十五年三月を以て退任し、
副社長小野義真氏が第三世社長として代り任し、在職六年間に増資を反覆して、株金千八百万円の巨額
に上らせ、海岸線の建設、両毛線の買収以下大に積極施設を試みたる末、三十一年三月の総辞職で退任し、
毛利重輔氏の暫定内閣(半年間)を経て、曽我内閣に遷り、以て三十九年十一月の国有買収に終わった」
24)
と、日本鉄道の結末を述べるとともに、渋沢については「此の間重役の顔触れは幾変遷したか分らぬ
ほどであるに拘らず、独り渋沢子爵のみは任期二ヶ年毎に再選重任で一貫し、三十七年十月二十八日自
家の都合で、世間総ての会社関係より隠退せられた時まで最も熱心に同鉄道の事に尽力せられたのであ
る」と高く評価するのである。25)そして、彼がこのように長い期間就任していた事情を「此の二十有余
− 99 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
年一日の如く、俗に謂う相手変われど主易らづで、四十幾回の考課状に毎つも子爵の連署を見ざるはな
いと云う事実は、決して漫然看過してはならぬと思う。此の事実の裏面の奥の底には必ずや相当の事由
を伏蔵するに相違ない。子爵が物の堪忍に強くして、寛仁衆を容ル詰る天稟の徳性が然らしむる所とは
云え、会社側相手側に於いて子爵を絶対に必要としたる実際の事相に因由するならんと思わる」と、26)
述べている。そこには、渋沢の長い財界人としての経験と、十分に蓄積された経営者としての広範な企
業活動をしていた点を評価し、同社が渋沢の経営手腕を必要としていたことは十分に推測できる。
さて、前に述べたように渋沢が株主総会で選出された年には、すでに同社の体制は、初代社長吉井友
美が辞職し、社長は2代目奈良原繁が、副社長は北川亥之作、検査委員は大田黒惟信、林賢徳が就任し
ていた。この間我が国は不況のどん底に沈めた紙幣整理のデフレ圧迫が一巡し、政府の鉄道保護助長政
27)
策の刺激などを受けつつ明治 11 年から 23 年には第1次私鉄の勃興期を迎えることになった。
こうした企業熱は、株式投機を助長するとともに、それはまづ鉄道事業に集中したのである。その状
況を『稿本日本金融史論』は次のように記載している。
「企業熱はまづ鉄道事業に勃発し始めた。また内地雑居は早晩許さざるべからざるべしとの予想によっ
て、・・・・・企業の外国人に奪われざるの間に企業せざるべからずとの覚悟もあって、何等か事業あっ
て六十七万以上の利益の挙ぐべき見込あるものは相競うてこれが計画を為すの時期となって、数年来世
人が企業せんとして企業せざりし鉄道事業は始めて企業の運に向かい、企業すべき事業は鉄道の一業に
限るもののごとく。・・・・漸クと投機的傾向となってしまい、未だその布設の許可を得ず株金は固より
払込まざるに早くも権利売買行われ両毛鉄道の如き印刷費として払込みたる五十銭に対して十円二十円
の取引あるに至り、世上の流通資本を挙げて一にこれを鉄道事業に注入し終わらんとするかの趣きがあ
った」と。28)日本鉄道会社は、明治 17 年 8 月には、上野・前橋間を開通するとともに更には、大宮・宇
都宮間を延長し、24 年 9 月には東京・青森間を全通し、その間赤羽・品川間、秋葉原貨物線を全通し、
25 年には、水戸鉄道を買収すると文字通り日本最大の私有鉄道になっていくのである。こうして鉄道の
発達は、我が国経済の開発に本格的に関与することになったのはまさに明治 20 年代以降からである。
終わりに
以上、日本鉄道会社の成立前史から創立までについて述べてきたが、そこでは、同社が明治期の経済
発展に照応しながら、鉄道企業として主体性を維持しつつ、相互に関連しながら、或いは離合集散の中で、
一つの企業体として意思決定を行いつつ発展してきた過程であった。まず同社の成立については、三つ
の主体が関係していたことが明らかである。第一は、政府官僚との関係である。すなわち井上馨、松方
正義を中心にした政府官僚グループである。その第二は、岩倉具視を中心にした華族との関係である。
第三は、実業人の関係である。主に渋沢栄一が中心となる。このことは、同社の設立の主体が半官半民
の会社であったことを如実に示すもので同社の特質ともなった点にある。いうなれば持ちつ持たれつの
関係を構築したことに他ならない。その点は、同社は政府から多くの恩恵と保護受けており、同社が私
鉄会社として最大になった要因はここに見出すことができよう。
それゆえ、同社の初代社長は、政府からの「天下り」であった点を見ても明らかであろう。
とはいえ、半官半民の特殊会社であるからこそ同社が私鉄会社の先駆として鉄道事業を拡大していった
− 100 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
といえるであろう。
中でも、実業人である渋沢栄一を同社の理事として登用したことは、株式会社のノウハウを持つ、渋
沢の長年の会社経営手腕は、同社で生かされたのではないかと思うのである。
その意味からすれば、日本鉄道会社の発展の背後には三者の協力が会社の構造の中にうまく浸透して
いった点があったといえるであろう。
注
Ⅰ
1)日本鉄道会社の研究については、優れた論稿が発表されている。とりあえず、中西健一「鉄道資
本の形成」(経済年報9)1959 年、同著『日本私有鉄道史研究』日本評論社 昭和 51 年、星野誉
夫「日本鉄道会社と第十五銀行」(武蔵野大学論集 17,19、1970-1971)、宇田正『近代日本と鉄道
史の展開』日本経済評論社 1978 年
増田廣実「野蒜築港と日本鉄道」(「鉄道史学」第 12 号 1993,12)
2)
楫 西 光 速・ 加 藤 俊 彦・ 大 島 清・ 大 内 力「 日 本 資 本 主 義 の 成 立 』 東 大 出 版 会 1956 年 7 月 p.375-382
3)日本国有鉄道編『日本国有鉄道百年史』通史編 交通協力会 昭和 49 年 p.13
4)岩倉公伝刊行会『岩倉公実記』下巻 保存刊行会 昭和 2 年 pp.480-482 および三井銀行編纂
会『三井銀行 80 年史』の p.622 を参照せよ
5)
『
前掲書』p.540
6)次の 10 名の華族である(徳川慶勝、松平慶永、池田慶徳、毛利元徳、池田茂政、亀井茲監、山内豊範、
細川護久、池田章政、伊達宗城)『日本鉄道株式会社沿革史』p.4
7)
「
太陽」臨時増刊『交通発達史』明治 39 年 p.111
8)
『
雨夜譚会談話筆記』上巻 pp.127-129
9)竜門社編『渋沢栄一伝記資料』第8巻 伝記資料刊行会 昭和 23 年 p.380
10)
『
鉄道会社会議要件録』第1巻 第一銀行所蔵 pp.125-132
11)
『
鉄道会社会議要件禄』第 1 巻 第一銀行所蔵文書
12)井上公伝記編纂会『世外井上公伝』昭和8年 11 月 内外書籍株式会社刊 第3巻 p.542-543
13)
『
前掲書』第3巻 pp.542-543 および鉄道省『日本鉄道史』上巻 同省刊 大正 3 年 p.342 以
下
14)
「
工部省記録 第 5 巻」鉄道省所蔵文書
15)龍門社編『青淵回顧録』上巻 青淵回顧録会 昭和 2 年 p.580
16)
「
工部省記録 第 5 巻」鉄道省所蔵文書
17)竜門社編『渋沢栄一伝記資料』第8巻 p.380
18)
『
鉄道会社会議要件録』第 1 巻 第一銀行所蔵文書
19)
「
東京・横浜間鉄道御払下請願御許可相成候ニ付、更ニ上申仕候書付並政府ト約束書」 第一銀行
所蔵文書
− 101 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
20)
『
工部省記録 第 3 巻』鉄道省所蔵文書
21)
「
渋沢栄一書簡」大隈重信宛、明治 8 年 11 月 8 日 大隈侯爵家所蔵
22)
「
東京鉄道組合会議要件録」第2巻 第一銀行所蔵 pp.25-31
23)大蔵省『明治前期財政経済史料集成』第8巻 pp.405-407 「金禄公債証書発行条例」明治9年8
月5日 「家禄賞典録ノ儀、永世一代或ハ年限等ヲ以て給与有之候処、其制限ヲ改メ、来明治 10
年ヨリ別紙条例ノ通公債証書ヲ以テ一時ニ下賜候条此旨布告候事」と掲出された。
24)
『
鉄道組合会議要件録』第3巻 第一銀行所蔵文書
25)
『
鉄道組合会議要件録』第3巻 第一銀行所蔵文書 同書によると、会議は紛糾し多くの意見が出
され「禄券ヲ用ヒテ年賦上納金ニ充テンコトヲ望ム者ノ他、担保金額ヲ維持シ難シト為ス論三派
アリテ十名ニ上ル。依テ其者ノ為メニ禄券放擲セス之ヲ我ニ存シテ其上納金ヲ弁資スルノ方策ヲ
総理代人ニ於テ立案アランコトヲ求ルニ動議アリ」という状況であった。
26)
『
公爵松方正義伝』乾巻 pp.475-476
27)
『
三井銀行 80 年史』p.541
28)
『
同 上』p.542
29)
『
第十五銀行沿革史稿』明治時代 pp.55 〜 56
30)加藤俊彦編『国立銀行の研究』(「第十五国立銀行」を所収)参照せよ。
31)加藤俊彦編『前掲書』pp.160-161
32)高橋亀吉『日本近代経済形成史』第3巻 東洋経済新報社 1973・12 pp.761-763
33)
『
鉄道会社会議要件録』第3巻 明治 10 年 12 月 13 日 第一銀行所蔵
34)
「
鉄道回章留」渋沢子爵家所蔵 p.543
35)
『
工部省記録 第 5 巻』鉄道省所蔵文書
36)
「
鉄道回章留」渋沢子爵家所蔵 p.543
37)
「
同 上」渋沢子爵家所蔵 p.544
Ⅱ
1)
『
日本鉄道株式会社沿革史』p.18 同章は『沿革史』の史料に多く依拠しているが、同書の記述は
星野誉夫氏の解説によると、誰が叙述したか明らかでないという。したがって若干の正確性の面
で問題がある点は否めない。
2)
『
日本鉄道株式会社沿革史』p.18
3)
『
日本鉄道株式会社沿革史』p.19
4)5)『日本鉄道株式会社沿革史』p.21
6)7)8)「同 上」p.22
9)
「
同 上」p.23
10)11)12)「同 上」p.24
13)
「
同 上」p.25
14)
「
同 上」pp.25-26
15)16)17)「同 上」p.28
18)
「
同 上」pp.30-34
− 102 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
19)「同 上」p.32
20)21)22)23)「同 上」pp.30-35
24)
『
日本鉄道株式会社沿革史』p.34
25)
「
同 上」p.34
26)
「
同 上」p.35
27)こうした岩倉の説明に対し、4 名は「感激」をしたと報じている。「同上」p35
28)
『
日本鉄道株式会社沿革史』p.38
29)
「
同 上」pp.39-40
30)
『
日本鉄道株式会社沿革史』pp.36-42
31)土木学会編『明治以後本邦土木と外人』によると、鉄道の建設に多くのお雇い外国人を招聘した。
J U. Crowford (1842-1924 ) もそうであり、アメリカの鉄道技師として来日し、東京ー高崎間お
よび盛岡、青森に達する路線の調査を踏査した。pp.111-119
32) 33)「同 上」p.55
34)「同 上」p.56、
3 月 3 日行われた会議において、「5000 円以上の株式を引き受ける者」を以っ
て発起人とした。
35)
「
同 上」p.57「同所において5条の発起人の規約」を承認した。
36)
「
同 上」p.591、第1、第 15 国立銀行所有の公債証書は漸次鉄道会社に差し入れる事 2、第
15 国立銀行の有金から金 50 万円余を同社に差し入れること。 3、各自が所有している同行の
株式に対し出金高を鉄道株差し入れ、該株2株分すなわち金 100 円を本年 12 月より 16 年6月ま
で4カ度に差し入れることとした。
37)
「
同 上」pp.59-60
38)
「
同 上」pp.61-62
Ⅲ
1)
「
回議録」 明治 14 年4月 東京府所蔵文書
2)
『
日本鉄道株式会社沿革史』pp.64-66
3)
「
同 上」pp.66-67
4)
「
同 上」p.67
5)6)7)8)「同 上」p.68
9)
「
同 上」p.70「同書によると、農商務卿、河野敏鎌と工部卿代理、工部大輔 吉井友美の2名の
連署で仮免許状が下付された。
10)
「
同 上」p.73「同社では、本免許状の下付を政府に求めたが、政府では「定款」の提出がなけれ
ば下付出来ないと強硬な主張を崩さなかった。
11)竜門社編『渋沢栄一伝記資料』第8巻 p.565
12)
「
同 上」pp.570-572 工部卿 佐々木高行より「政府ノ名ヲ以テ条項ヲ命約ス」と記載されている。
13)中西健一『日本私有鉄道史研究』日本評論社 同書によると、
「日本の純粋な私鉄は阪堺鉄道であ
り」「純然たる民間事業として日本最初の私設鉄道といわれる」としている。pp.22-23
14)竜門社編「同上」第8巻 pp.565-571 「定款」の前文には「大日本政府ノ允許ヲ得テ、全国ノ公
− 103 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
益及ヒ株主ノ利益ヲ謀リ鉄道会社ヲ創立スル為メ、其発起人協議ノ上決定スル」と記載している。
15)鉄道省編『日本鉄道史』上編 p.406
16)同会社の「定款」の内容については『日本鉄道株式会社沿革史』を参照せよ。
17)
『
渋沢栄一事業年譜』(竜門社編『渋沢栄一伝記資料』第 58 巻 所収)
18)
『
渋沢栄一伝記資料 第 8 巻』を参照せよ。
19)
「
日本鉄道会社実際報告」(第6回 明治 17 年 12 月)竜門社編『渋沢栄一伝記資料』第8巻 p.557 所収
20)同社は第 15 国立銀行が中心となり運営されたため、同行の人材が多く関係していた。
21)星野誉夫氏の解読によると、山田英太郎は 1862 年に生まれ、1898 年日本鉄道の改革に参加し、
曽我祐準社長のもとで幹事庶務課長に就任し、1906 年には同社常務取締役を経て、鉄道国有化の
後は、清算人の一人として日本鉄道の歴史について最も詳しい事情を知る人であると記載してい
る。
22)
「
竜門雑誌第 481 号」昭和3年 10 月 25 日 pp.348-351
23)
「
同 稿」p.349
24)
「
同 稿」p.350
25)
「
同 稿」p.350
26)
「
前掲稿」p.349
27)高橋亀吉『前掲書』第3巻、p.91 および 「井上勝の回想録」によると、私鉄の第1次勃興の激
しかった事情を、鉄道局長である井上勝は、後に次のように述懐している。「私設ノ鉄道ハ如何ニ
ト云ウニ、日本鉄道会社ノ発起ニ後ルコト二、三年ニシテ、前田候等ノ発起ニ係ル北陸鉄道会社
ナルモノ現ワレ、政府モ頗ル援助スル所アリシカ結局不成立ニ終リタリ。之ニ次イデ起コリシモ
ノハ山陽鉄道、九州鉄道ナリ。其設立ハ明治十八年、九年頃ニシテ、当時ハ既ニ民間ニ於イテモ稍々
鉄道ノ利益ヲ会得スルニ至リシト雖、猶ヲ未ダ真箇ノ独立起業ノ域ニ達セズ。何レモ政府ノ保護
ヲ後援トシテ創起セラレシモノナリ。越ヘテ東海道鉄道省ニ竣工セントスルノ此ヨリ、頓ニ起業
家ノ数ヲ倍増シ、甲武、水戸、両毛、関西、大坂、南海、京都,阪鶴其他数十ノ会社各所ニ興起
シテ、線路占領ニ悩殺セラレ、議会亦鉄道法案ヲ協賛シテ、各線一時ニ着手ヲ計画シ、北海道モ
亦官線私鉄紛起シタリ。是ニ於イテ虚勢エ年々鉄道ノ外何物モ無カラントスルノ形勢トナリ。」
28)滝沢直七『稿本日本金融史論』pp.226-227
その他の参考文献
1)青木槐三『人物国鉄百年』中央宣興株式会社 昭和 44 年9月
2)野田・原田・青木・老川『日本の鉄道―成立と展開―』日本経済評論社 1986・5 月
3)
富永祐冶『交通における資本主義の発展』岩波書店 昭和 28 年1月
4)実業の世界編『明治大正史−産業編8』実業の世界社 昭和4年 12 月
5)
廣岡冶哉編『近代日本交通史』法政大学出版会 1987・4月
6)
西川・山本編『産業化の時代』上巻 岩波書店 1990・2月
7)
日本経営史講座『日本の企業と国家』日本経済新聞社 昭和 51 年 10 月
− 104 −
日本鉄道会社創立の前提とその背景(1)
8)鉄道院編『本邦鉄道の社会及経済に及ぼせる影響』大正5年 上・中・下
9)石井満『日本鉄道創設史話』法政大学出版会 昭和 27 年
10)田中時彦『明治維新の政局と鉄道建設』吉川弘文館 昭和 38 年
11)山田直匡『お雇い外国人④―交通』鹿島出版会 昭和 43 年 8 月
12)和久田康雄『日本の私鉄』岩波新書 1981・6 月
13)野田一夫『日本会社史』文藝春秋社 昭和 41 年 6 月
14)井上勝銅像を再建する会『井上勝伝』日本交通協会刊 昭和 34 年 10 月
15)永田博編『明治の汽車』交通日本社 昭和 39 年 9 月
16)原田勝正『日本の国鉄』岩波新書 1984・2 月
17)東洋経済編『金融六十年史』東洋経済新報社
18)永田正臣『明治期経済団体の研究』日刊労働通信社 昭和 46 年 6 月
19)平賀義典『東京株式取引所 50 年史』同社刊 昭和 3 年 6 月
追
本稿作成に当たっては、東京交通短期大学の図書館資料を利用させていただいた。記して感謝を申し
上げたい。
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東京交通短期大学 研究紀要第14号 2008.12
明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
The Contribution of YATOI to the Western Paper Industry
in the early years of Meiji
安 彦 正 一
Shoichi Abiko
はじめに
Ⅰ、紙業概要と製紙の歴史
Ⅱ、 製紙業の移植と抄紙会社
1、百武安兵衛と製紙事業の立ち上げ
2、イギリス商人 K、R・マッケンジーとの接触
3 蓬莱社への引継ぎとお雇い外国人マクフアーレン
4、製紙製糖工場の創設準備
Ⅲ、 浅野家・有恒社の場合
1、抄紙機械の到着とその処理
2、有恒社の開業とお雇い外国人のジョン・ローゼルス採用
3、工場規則の制定と紙製造機械使用書の作成
Ⅳ、 製紙会社お雇い外国人の帰郷
おわりに
はじめに
本稿の課題は、日本の「在来産業」である伝統的和紙の展開を通じて、わが国の近代化以降に定着した「洋
紙産業」1)に注目し、そこでの導入・受容を果たした「お雇い外国人」の歴史的意義を考察することにある。
周知のごとく、日本人は、古くから紙を愛し生活の中にうまく取り入れ、独自の「和紙」はその意味
で長く用いられて来た。しかしそれは「在来産業」としての域を脱してはおらず小経営としての位置づ
けであった。すなわち依然として「前期的資本」を中心にし「産業資本」への転化などの意識は希薄で
あった。
だが日本の急速な近代化の推進は欧米の近代的技術、生産設備の移植を必要とした。いうなれば製紙
業においてもW・W・ロストウが指摘するように 2)
「離陸」を経て工場制による近代的産業部門に移行す
る必要があった。そこにはマックス・ウェーバーのいう、「資本主義の精神」の行動様式を身につけた人
間類型(エートス)すなわち「近代的人間類型」の出現をもとより期待したのであるが、わが国では商
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
人階級の意識が薄かったといえる。3)その意味で近代化は諸外国に学びその先駆として、その担い手であ
る、お雇い外国人があらゆる分野で技術指導を担当したのである。そのような中で、彼らが期待される
状況のなかで活動が出来たかどうかは、各分野によって違いはあれ少なからず数年の歳月が必要である
ことは明白である。しかも日本へ来日の動機はそれぞれの個人的事情があり判断は困難である。しかし
彼等の仕事振りは、本稿の事例で取上げる蓬莱社、浅野家・有恒社の洋紙産業の場合はおおむね職務に
誠実、且つ熱心であり、積極的な活動みられた。
次ぎに製紙業と「お雇い外国人」を扱った研究動向であるが、何れも概説的な研究が多く管見すれ
ば体系的に触れたものは少ない。4)だが「お雇い外国人」の個別研究は近年多くの研究書が現れており、
1921 年に吉野作造が日本人として初めてお雇い外国人に関するメモを残して以来、1950 年代までこの
問題に関する研究はほとんどなされなかった。1968 年から 1970 年にかけて鹿島出版会の援助の下に
17巻にわたる『お雇い外国人』が発刊され、各分野でのお雇い外国人の日本近代化に果した業績と役
割が明らかにされた。欧米での研究においては 19 世紀日本におけるお雇い外国人を総合的に捉えた研究
がなされた。明治政府のお雇い外国人雇用政策についての様々な分析の中から外国人顧問(お雇い外国人)
の役割に関する見解の研究もなされた。その他、明治時代に 4000 人に達していたというお雇い外国人の
国籍別の研究(主にイギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、オランダ、ロシア)や個人別研究、そし
て科学、化学法学、語学、文学、英学、医学、教育、軍事、警察、音楽、産業等の分野別の研究もなさ
れた。その中にあって会社・企業におけるお雇い外国人の総合的研究はなかなか進んでいないのが現状
である。5)本稿はそうした先行研究を踏まえつつ、3社の事例を取上げ、近代日本洋紙業の創業期を対象
に考察した。しかし、史料的な制約から充分な検証が行われていないが、さらなる研究を深化する予定
である。
Ⅰ、日本の紙業概要と製紙の歴史
私たちは、日常生活の中で新聞や雑誌、ハガキ、コピー洋紙、ティッシュペーパーなど「紙」に触れ
ない時はない。日本人は、古くから紙を愛し生活の中にうまく取り入れてきた。
ではこのような「紙」はどのように製造され、日本の和紙はともかく洋紙はどのようにもたらされた
のであろうか。紙の推移を簡単に概観しておく。
今日における文字の繁文褥礼的な文明の中において、製紙業史の発達に対する関心は、印刷業史に比
較してその関心は一般に低かったことは意外であろう。一般に薄い物を見ると「紙のようだ」といわれ
るが、それがさらに薄くなると紙と見分けがつかない物がある。
しかし今日製紙技術が進歩し、紙は「植物繊維を抽出してこれを水の媒介により、薄く平らに搦みあ
わせて造ったもの」と定義されている。6)
ところで、紙はいつ頃から作られたのであろうか。一般に西暦 105 年ごろ、中国の宦官ツァイ・ルゥ
ンにより作られたといわれるが、初めは筆記材料として用いられ,西暦 770 年に初めて紙に上に印刷さ
れた経句「称徳女帝の祈祷書」として日本の文書として百万部作られた.リンネルのぼろと、古い綱が
初期製紙業の材料として喜ばれた繊維質で、中国から中央アジア、ペルシャと西に広がり,西暦 751 年
サマァカンドに到着した。まさに中国で発明されてから既に数千年を経過しておりサマァカンドからバ
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
クダット、ダマスカス、北アフリカ海岸へと広まっていった。こうして 12 世紀にスペインへ、13 世紀
にはイタリアへと到着した。7)
では世界各地の製紙手工業の状況はどうであったのか。
フランスの製紙工業は、1326 年に始まり、1411 年にはドイツ、スイスの両国で製紙作業場が操業さ
れていた。イギリスの最初の作業場は、1495 年ロンドンの絹織物商がハートフォドシャーに設けたが数
年操業したのみで、エリザベス 1 世冶世になって、トマス・グレシャム卿と帰化したドイツ人金細工師
ジョン・スピィールマンの二人により製紙手工業が定着したのである。1690 年にノ—ルウエイー人が最
初の作業場で操業をはじめた時には、すでにヨーロッパでは製紙作業場で網の目のように覆われていた
といわれる。8)
その技術はスペイン人からメキシコへ、またイギリス人から 1690 年ペンシルヴェイニアに導入され
たことによりその工程は地球上に定着した。
ところで、原料となるぼろ原料の浸溶は、数世紀の間縮絨場用いられた。それは水力および風力によ
る打圧機でおこなわれ、その後 17 世紀末よりオランダで発明された「オランダ式機械」ないし「ぼろ打
ち機」で同機は古い方法に取って代わりローラーが打圧部に変わり短時間で難なくぼろ原料が浸溶され
てパルプとなった。
18 世紀から 19 世紀の初頭にかけて新聞印刷の興隆と書物に対する需要の増大は、新しい「オランダ
式機械」を使用している製紙工場に深刻な原料不足を招いた。というのも、リンネルや綿のぼろの供給
が伸びず、それらぼろや原綿は粗質の紙に用いたが、1799 年にはアメリカの一製紙業者が「ぼろを貯めよ」
との勧告を透した筆記紙を生産するまでに至った。9)
1719 年フランスのレオミュールが、すずめ蜂は木から紙の巣を作りうるとの発表されると多くの研究
者は各種の植物性繊維を使って実験を進めた。例えば、シャッファは 1765 年から 1771 年にかけて著書
を刊行したがそれに使用した紙質はじゃがいもや、木製屋根板などの原料から作られた見本が含まれて
いた。またマッシアス・ク—プスは、1800 年に「藁のみにより製造された」最初の紙に印刷された、す
なわち、木のみで製造された紙に印刷された出版物を「藁製紙工場」から刊行したのであった。同工場
で生産された紙は大量に販売されず、会社は倒産したのである。とはいえ彼の名は近代製紙工業の創始
者としての名に値する功績であった。10)
1840 年にはドイツ人F・G・ケラーが材木粉砕機の特許を取得し、1852 年ヴェルターが実用化し発
展の道を開いた。大幅に改良を加えた「ケラー=ヴェルター機」は 1860 年代末までアメリカにおいて広
く採用され、1937 年には年間紙消費高は、世界最高の数字を出した。原料の変化と、製紙洋式の大幅な
改正はディキンソンにより連続式製紙機を完成し、製紙機械は永久的な物としてディキンソン型の機械
は 1817 年からアメリカで紙を作り始めたのである。いずれにせよ 1800 − 1900 年にかけて製紙工業は、
大きな革命が起こったことは疑いない事実であろう。11)
ところで日本の場合、紙の起源は明らかでない。推古天皇 18 年(1340 余年前)高麗の貢僧曇徴が日本
に来て製紙術を伝えたといわれており、それを聖徳太子が工夫改良をくわえられたと伝えられている。12)
しかし、その製法は粗悪にして紙質も弱かったといわれる。平安朝には紙業は大いに発達し、麻紙、斐紙、
檀紙など伊勢、尾張,三河、をはじめとし 40 余国から産し、美濃からは色紙を多く出した。13)
徳川時代に入ると、学問が興り紙の需要は全国的に増加し紙業は隆盛を極めた。特に、美濃,土佐、石見、
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
駿河などは実用向きの紙を主として生産した。しかし技術に至っては進歩がなく、製紙設備については
旧態依然の物が多かった。14)
ところが明治維新以後は、紙の需要が急速に高まり近代的な機械、新しい設備のもとに「洋紙」が製紙
業の中心になるのである。それと共に製紙機械も改良されたものが発明され印刷も高速となってきた。15)
それ以後も改良が進み今日に至っている。では、わが国の場合製紙産業はどのような過程で誰がその
先駆になったのであろうか。
Ⅱ、製紙業の移植と抄紙会社の設立
1、百武安兵衛による製紙事業の立ち上げ
我国の製紙工業の発達は『日本紙業総覧』によると第 5 期に区分している。16)その区分によると、創
業期時代は、
「明治5年〜9年までが第1期」、 「第2期は 13 年〜 27 年」までと区分し対象にしている。
本稿では創業時代第1期を中心に分析する。
ところで、わが国の紙に対する需要は、明治維新以後急速に高まった。というのも維新以後は、各種
法整備の準備にともなう書類の作成、新紙幣の発行、切手,印紙などの必要に迫られたが、在来からの
和紙生産地に注文するか、或いはアメリカその他の国に注文し製造していた。そのため我国でも洋紙の
製造は焦眉の課題でもあった。
まず、当時の製紙事業の状況を、百武安兵衛 17)が立ち上げんとした事例をここでは見ていこう。
明治3年伊藤博文は、欧米の貨幣制度、銀行制度、その他財政上の諸件取調べの為欧米に派遣を命ぜ
られたのである。彼は福地源一郎,等の書記官を抜擢して随行せしめ、この機会に産業界を視察し、以
って我国の産業の発達に資せんと考えたのである。それを通商司に委嘱したところ大阪方の代表として
平野屋安兵衛を推薦してきた。彼は、大阪実業界の代表として伊藤博文一行の欧米派遣に随行できるこ
とになり準備もままに横浜港を出航し渡米の途に上ったのである。その際平野屋は平野屋安兵衛として
随行することは公儀に憚ることになるため、旧姓、百武を名乗って船出することになった。一行はサン
フランシスコに到着し,ボストン,ワシントンなどを視察した。それにしてもアメリカの産業の発達は、
大工場組織の中に機械による大量生産であった。いわんや工場のエンジンの響き、多量労働者など、ど
こを見てもみる者にとって幻惑そのものであったし、百武安兵衛をしてこのような状況を驚嘆せしめた
ことは充分に想像できる。それゆえ、もしこれらの機械を我国に持ちかえったら産業の発展、否国益に
寄与できるであろうと考えた事は推測できるであろう。それらの機械は何れも高価であるが、原料から
純白にし、しかも非常に有用な紙が大量に製造されるのであるからこの製紙機械こそ、高価であるが必
要であるとの認識で購入することに決定した。その際、機械を日本に輸送してもらうことを約束して、
百武は、受け入れの準備のため伊藤博文一行より先んじて帰朝し、明治4年3月大阪に帰着した。
彼は直ちに通商司にたいし製紙機械、すなわち会社創立の許可を願い出たのである。18)直ちに許可を受
け、その為の手続き、これも大阪府営業の関係などは監督官庁である大阪府の指揮を仰ぐことになった。
明治4年5月大阪府で許可となり、下記の目論見書を為替会社に届けた。19)
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
楮紙製造結社之義口上覚
一、去午年十月中東京江罷登居候処大蔵御省ヨリ為御召出今般伊藤大蔵少輔米
国ヘ御航海ニ付大阪会社為惣名代御供洋行仕候様突然ト御仰付御同社江御打合申上候間合無之上意
ニ隨ヒ御請奉申上候処彼国へ渡海ノ上ハ皇国ノ御為筋ト可相成専心ヲ用帰国之上可申上様御仰付同
十一月二日横浜乗船洋行仕種種注意及見聞候処惣而何品ニ不寄製造之儀ハ機械ニテ其便利紙上ニ難
盡何機械ヲ見テモ一廉ノ国益可相成ト存候得共其代金下品ハ壱萬金ヨリシテ高キニ至リ候ヘバ壱拾
萬金ヨリシテ高キニ至リ候ヘバ数壱拾萬金ノ価モ有之○○萬里ノ波涛ヲ凌ギ洋行仕候ニ機械高価ノ
故ヲ以テ結社不行届恐レ目前ノ得ヲ打捨候モ残念ト存種種熟考仕候処楮紙製造ノ機械ハ国用第一之
品ニテ同行ノ内ニモ思惑相立候人モ御座候得共穴勝我等方江相メ来ル八、九月頃ニハ舶来可致之約
定ニテ去ル三月帰国仕別紙一印ノ通リ東京通商司御役所ヘ奉申上候処大蔵省ヨリ御附札ヲ以テ御聞
届相成候ニ付歸阪之上東京大蔵本省御添翰持添ニ印写通リ御届奉申上候処元来右機械御取立被成度
御思召モ被為在都合ノ事ニ候乍去外国人ヨリ機械舶来之節速ニ代金渡方相成候テハ御国体ニ相○リ
候事ニ付早々結社致不都合無之御国益ニ相成様盡力可仕旨御懇ニ御仰申付ニ付同盟商社ヲ結ビ早々
取掛申度依而積り左之通リ
一、機械 地所代、建家代、仕草其外諸雑費凡積、 金四萬円
右七厘日歩ニテ貳拾八円
一 製造紙代日ニ金百五拾円 此内利子引キ残リ金百貳拾貳円
右ヲ以元仕込草買増候トモ出金高ニ割戻シ候供其時ニ御相談ノ積リ、漉立候西洋紙ハ外国人へ売渡
候積リ
和紙ハ国内江手広ク売出ス積リ
右之通凡入用ニ有之就テハ会社為惣名代洋行仕候ニ付何卒御会社ニテ此度結社度志念ニ御座候ニ付
未ダ他ニハ不申語候自然思召モ無○外ニテ結社ノ申語候仕度候間可然御評議被成下結社ノ有無御決
答被下度奉願上候機械ヲ以製造方等之儀者書取兼候間委細口上ヲ以可申上候 以上
明治四辛末年第五月 百武安兵衛
為替会社惣御頭取 御中
開 商社惣御頭取 御中
この目論見書にもとづいて大阪の実業家 10 名が出資者 20)となり洋法製紙の具体的準備に入った。そ
の過程について見ておこう。
次ぎに提出されたのは見積書でそれは史料によって見ると以下のようである 21)。
見積書
洋法楮製商社
楮紙製造 1箇月の見積もり
一、 1、元金四万両(その内訳、金壱万両は、地所および建上ヶ仕入れ草代、
金三万両、外諸ニ雑用は機械代)
〆金四万両也
但し壱ヶ月ニ付壱歩五朱利息見積り、此利代六百両也
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
一、 ボロ壱萬二千貫目 但シ一日ニ付仕込高目方四百貫 見積リ壱貫目ニ付凡代金壱朱替壱ヶ月分、
代金七百五拾両
一、 石炭 四萬五千斤 但シ一日ニ付千五百斤宛入用壱萬斤ニ付凡代三十五両
替ト見積壱ヶ月分、 代金百五拾七両二歩也
一、 石灰 七百五十貫目 但シ一日ニ付二十五貫目宛入用拾貫目ニ付凡代壱両替ト見積壱ヶ月分、
代金七十五両
一、 油 二石壱斗 但シ一日ニ付七升宛入用壱斗ニ付凡代三両替ト見積壱ヶ月分、 代金六十三両
一、 明礬 四百五拾斤 但シ一日ニ付拾五斤入用百斤ニ付凡代貳両替ト見積 壱ヶ月分、 代金九両
一、 漉立紙色附ヶ薬 但シ一日ニ付凡代金参両宛入用見積リ壱ヶ月 代金九十両
一、外国人 貳人 但シ壱ヶ月雇入壱人ニ付凡貳百両替見積
代金四百両
一、通辯壱人並居附雇人手代五人 但シ月給凡見積リ
代金百二十五両
一、 人足 四百五拾人 但シ一日ニ付拾五人宛雇入壱人ニ付弁当込凡代壱歩壱朱替ト見積壱ヶ月分、
代金百四拾両貳歩貳壱朱
一、 諸道具損料並ニ繕ヒ普請ノ外日々諸雑費壱ヶ月分凡見込
代金五百八拾九両参歩貳朱
〆金参千両 但シ壱ヶ月分元仕草代並ニ前書諸入用〆迄
一、 製造紙 百八拾萬枚 但シ一日ニ付元仕草代目方四百貫ヲ以
紙数六萬枚出来一枚ニ付目方凡五匁ト見積リ六萬枚付総目方参百貫目程此代百五十両壱ヶ月分、
代金四千五百両
一、壱ヵ年十二ヶ月之内凡四ヶ月程休日有之見積リ丸八ヶ月程製造之積リ御座候
右之通荒増勘定相認御座候得共初而之機械ニ御座候間前題見込通リ先見積り書上ケ奉申上候 以上
末 六月
このように製紙会社の創業準備は進行したが、アメリカの洋行で約束した肝心の製紙機械は約定日で
ある明治4年7、8月にいたっても一向に到着する気配がなかった。そうなると、百武が製紙会社創業
のため奔走した意味は無くなることは目に見えている。では実際どのような状況であったのであろうか。
もとの状況は史料的にも明らかでなく『紙業総覧』も口傳による説明で記載している。22)それによると、
百武の注文した機械は、明治4年アメリカから到着し大阪府が代わって受領したが、購入資金が思うよ
うに集まらず、また製紙事業を経営する者もおらず、だからといって大阪府自らが製紙事業を経営する
訳にも行かず機械は長く雨ざらしのまま放置されたという。この点を『同上書』は、この通説をアメリ
カから機械が到着したと言うのはあきらかに「誤説」であると結論している。
2、イギリス商人ケーアール・マッケンジーとの接触
では、その真意はどうであったのであろうか。問題の機械は、アメリカから結局は到着しない為、彼
をして大いに落胆し、また大阪府及び関係者に迷惑をかける事になることを忍びつつ、かといって、百
− 112 −
明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
武は製紙事業に対する情熱と夢は捨てきれず、当時大阪府の第3号地に在留していたお雇い外国人でイ
ギリス商人ケーアール・マッケンジーが諸機械を販売するエーイゼントであることを知り、製紙機械の
買取を交渉した。その結果、百武は意を新たに失敗の轍を踏まないように慎重に事を進めた。
まず、資金の関係から大阪府とマッケンジーの間で機械買取の契約を締結するための願書を大阪府に
提出した。23)
その中で、アメリカでの不手際を詫びると共に「外国人に対シ愚昧ノ私共粗漏ノ約定仕リ後日奉掛御
苦労候」とし、
「恐入候得共…・政府右紙、漉器械買取之約定被成」と、お願いすると共に機械代金を「貳
萬五千円ト見積リ四ヶ一、」すなわち六千二百五拾円を手付金として支払い、残金壱萬弐千五百円は期日
までに支払いするよう大阪府庁にお願いしている。
大阪府では、百武の意見を取り入れ、「本邦製紙史上最も意義ある条約」24)をケーアール・マッケンジ
ー氏と締結したと、記述している。
マッケンジーは条約内容に基づき、直ちにイギリスのエデインバラ市の近郊にあるアンフアーストン
会社に製紙機械を一台注文した。
さて同条文は、第 12 条まであり双方の具体的内容が網羅されている。
この条文は、後に出る浅野家の有恒社と、外国人との締結内容と似通っているためその項で詳細をした
い。25)
しかし、その後百武および高木五兵衛は資金的に困難となり,一方製紙事業者である開商社の人々も、
製紙事業に投資することにためらいを感じ始めた。
おそらく、当初の準備段階で機械の高価なこと、購入しても経営的に採算が合うかどうかなどの問題
が絡み、製紙事業を開始するに当って内に内部で状勢が変化したものと推察される。
かといって開商社を離れ両名で事業を営むにも資金調達の方途はなく、親戚関係にある 高木五兵衛、
百武安兵衛、中川七郎兵衛は協議の末、当時商亊会社として台頭著しかった蓬來社へ機械を譲渡す運動
を展開することになった。
ところで、蓬莱社は、後藤象次郎が内外の通商上の利益を獲得する目的を以って、明治3年頃大阪の
富豪、鴻池善右衛門、高木久三郎、嶋田八郎右衛門等を中心に蜂須賀、上杉等華族に出資をお願いし設
立した、いうなれば商亊会社であった。26)その名義人には百武安兵衛のアメリカ行きを推薦した吹田久
則が就任していた。同社は当時でも珍しい建築で本社を東京の汐留におき、大阪には支社を配置してい
た。27)
さて百武から製紙機械の譲渡の交渉を受けた,同社であるが、肝心の機械が到着しないまま、製紙事
業と言う採算の取れる事業かどうか、もわからない事業を始めるのであるから同社では経営分析を行い
充分なる時間を掛けることになった。そうこうする間、平野屋一家の財政的な状況は窮乏してきたので
ある。
いわんや親戚筋にある高木五兵衛については財産差押さえの事件が起きたのである。続いて分家の百
武も同時に差押を受け、印判を封ぜられ、その使用を禁止されるにいたった。
そうこうしているうち、製紙機械の到着が切迫して来たので、大阪府では百武に対し機械が到着次第
速やかに引き取るように通達してきた。
しかし前述したように差押を受けた百武はどうすることも出来ず、ここに至って中川七郎兵衛が百武
− 113 −
明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
に代わって蓬來社で製紙機械を引取ってくれる様懇願した。彼のアメリカ行きを推薦した吹田久則は蓬
來社の支配人試補であった関係もあり同社の中で奔走した結果、明治6年 10 月に蓬莱社が同機械を引取
ることになったのである。
以上、百武の製紙事業についての活動を中心に概観してきたが、いうなれば百武安兵衛は製紙事業の
計画を立て、その事業に対する情熱を勘案すれば本邦洋法製紙事業のパイオニアと言っても過言ではな
いであろう。28)
その後 百武安兵衛が破産したあとイギリスから注文してあった機械は、明治6年 10 月をもって蓬
來社の所有となった。
3、蓬莱社への引継ぎとお雇い外国人マクフアーレン
では、百武安兵衛の製紙事業が挫折した後を引継いだ蓬來社は、どのように製紙事業を事業として進
めたのであろうか、その過程を見ていこう。
蓬莱社は、まづ大阪府県知事渡辺昇に機械代金納付方法につき願書を提出すると共に、製紙事業及び
製紙教師として御雇い外国人の雇用を要請した。29)
大阪府としても、従来から密接な関係にある蓬來社に充分な援助を申し出、まず機械代金の納付は、
大阪府が半額を即納とし、残金の1万2千5百円は近く到来する機械を担保として月5朱の利息、5ヵ
年賦償還という条件で大阪府勧業課より借用する条件を付した。30)こうした大阪府の好条件にもかかわ
らず蓬莱社の財政は度々苦境に陥り何度か条件を変更したのである。
ところで、蓬莱社は、明治6年3月に会社の事業として製糖事業を計画し、讃岐国高松の商人島田八
郎右衛門を中心に大阪府の居留地に住むイギリス商人イ・シ・キルビと砂糖製造機買い付けの契約を締
結したのである。その機械は二台で一台は砂糖黍から砂糖汁を搾り取り、白下地砂糖を作り出す能力を
有する機械であり、もう一台は前の機械によって作り出された白下地砂糖或いは黒砂糖を精製眞白砂糖
を作り出す機械である。31)このように同社では先に製糖の機械をイギリスに注文し、今回またイギリス
からの機械で製紙事業を始めるというのであり共に同社にとって両事業は本邦最初の事業であるためそ
の経営に至っては慎重に検討された。しかもイギリスの機械でイギリス人の教師を雇用するわけである
から事業経営には実務に精通し、しかも英語に堪能な事業家を担当させねばならない。そこで蓬來社は
人選を行ったが、士族で若い頃旧幕府の開成所に入り、英書を学んだことがある島田組名代大阪商人と
して敏腕で名が聞こえていた眞島襄一郎を招聘する事に決定した。32)
早速東京において、明治6年 11 月蓬來社と眞島との間において雇用契約が結ばれた。33)契約内容は
13 条に及ぶもので,重要なものを見ていくと、第1条には「砂糖並びに諸紙ヲ製造スルノ事務ヲ眞島襄
一郎ニ委任スヘシ」と総てを任されている内容である。その身分は「製造局之雇入西洋人並総局員ヲ号
令指揮スルノ権ヲ有シ」とあり製造局長の肩書きである。雇用期間は「2ヵ年間トシ」給料は「1 ヶ月
ニ金百円」にするとあるが、製造して利益が出た場合には「月給之二割ヨリ少カラス五割ヨリ多カラサ
ル金高ヲ六ヶ月ヲ歴ル毎ニ増月金ヲ渡ス」という成果主義を採用している。
こうして全権を任された真島は、創業の準備の為、まず工場の敷地の選定に入った。物色の結果、大
阪中之島の官有地旧熊本藩邸の跡地が、共に製紙,製糖の事業にむいている好条件の立地であった。と
いうのも前面は河に面し、用水が豊富でしかも水陸交通が便利であるなど理想的な場所でもあった。
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
同社は直ちに大阪府に同地の払い下げを出願した。34)
払い下げられた土地は以下のような記述が見られる。
1、地坪 1679坪3合5夕
代金 104円95銭9厘 坪6銭2厘5毛
2、建家 505坪
代金 63円12銭5厘 坪12銭5厘
3、土蔵3棟 17坪5合 代金 21円87銭5厘 坪12銭5厘
4、建具 箱物共一式
代金 15円
合計代金 204円95銭9厘
こうして敷地も決まり後は機械の到着をまつばかりとなった。
だが機械の到着ついての日時の記録は見当たらず明らかでない。しかし『紙業総覧』では次のよう
な記述を取り上げ推測している。35)すなわち、マッケンジーと大阪府との間で締結した機械買取の契約
第9条に「……・・英吉利国ニテ此業ニ上達人一員ヲ精選シ機械ト共ニ神戸港へ渡来雇入候様取計フヘ
シ…・」とあり、この条項どおりならば、機械は製紙雇教師と神戸港に到着しているはずである。今そ
の行程をもう一度確認してみよう。日本からのイギリスへの製紙機械は 60 吋のものでアンフアーストン
会社のもので明治 6 年 10 月に完成し、同月 20 日にP・N・O組蒸気船に積まれイギリスを出航し、イ
ンド洋経由、上海に到着し、そこで太平洋飛脚船に積み換えられ明治 7 年 1 月 3 日には神戸港に入航し
ていることになる。だがその史料は未見であるが、もし予定どおりであるならば、明治 7 年 1 月 3 日こ
そイギリスから日本に始めて洋法製紙機械が到着した文化的意義ある日と言えるであろう。
なお、後に述べる浅野家の有恒社についてもこの前後にアンフアーストン会社から同一の鋳型に依っ
て製造された機械が到着した。36)
同時に製紙の方法及び技術を指導するお雇い外国人として、イギリス人のW、マクフアーレン (W.
Mcfarlane) が神戸港に到着した。
同月 20 日に蓬莱社名代の眞島とマクフアーレンとの間に雇用契約が締結された。契約の条文を原文
のまま掲載しておこう。37)
第一条、ウィリアム・マクフアーレンハ当日ヨリ蓬莱社諸紙製造職トシテ其職 業ニ就イテ一切蓬莱
社社長或ハ其名代人之命令ニ応シ其自分之勤務ト注意トヲ
諸紙製造並ニ其所長同人ニ託サルヘキ其筋之一切事業ニ専一ス可シ、且同氏売買之事ニ付使用スル時
ハ正直確実ニ取扱フ可ク猶絲屑、爛布、木皮等ヲ以テ諸紙製造種々之方法惣テ日本人ニ伝習ス可シ
則此条約ハ本日ヨリ始リ九ヶ月間ノ極ニシテ即本年十月二十日ニ終ル可シ。
第二条、ウィリアム・マクフアーレンハ此条約期限中ハ蓬來社長又ハ其名代人ノ許可ヲ不得シテ其職
務ヲ離ル可カラス、他人之為ニ職業ヲ為ス可カラス、如何ナル場合ニ於テモ其雇ヒ人之商業ニ付テ
一切妨障ヲ為事マ無ル可シ。
第三条、蓬來社社長或ハ其名代人ウィリアム・マクフアーレン条約期限勤メ済之上ウィリアム・マク
フアーレン帰国之旅費則製造場ヨリウィリアム・マクフアーレン本国郷地迄之旅費相当之渡方ヲ為
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
可シウィリアム・マクフアーレン条約期限未満之中双方之熟談ヲ以テ帰国スル事アルトキハ別ニ英
国帰着ノ道中日数間其各週極メ給金之半高而巳ヲ請取ル事ヲ得ヘ。
第四条、ウィリアム・マクフアーレン若シ職業働キ中ニ非常之怪我アリテ薬用療治ヲ要スル事アルト
キハ蓬來社惣テ其入費ヲ払フ可シ、其怠リ又ハ過酒ヨリ起ル所之怪我アルトキハ固ヨリ此例ニ非ス。
第五条、蓬莱社社長或ハ其名代人ウィリアム・マクフアーレン之良善誠衷之勤方ニ於テ前書期限中一
週日即五十七時間半職務時間之極メトシテ英金貨七ポンド宛(或ハ其割合ヲ以テ日本貨幣ヲ渡スヘ
シ)之給金ヲウィリアム・マクフアーレンニ渡ス可シ
但職務定メ時間ニ超ユル事アルヲ勘定スルトキニハウィリアム・マクフアーレン惣テ一日分之極
メトシテ勘定スル事ヲ得ヘシ若同氏発病シテ職業ヲ勤ムルコト能ハサルトキハ医家ノ診断書ヲ以
テ之ヲ証シタル上蓬來社其帰国之旅費ヲ給シテ英国ニ送リ返スコト勝手タルヘシ若シウィリア
ム・マクフアーレン重病ニシテ帰国コトヲモ得サルトキハ蓬來社条約之給金ヲ渡ス事ヲ罷メ其雇
入期限満ツル日迄ヲ限リ適当之医療ヲ与ヘ取讀キヲ給ス
第六条、ウィリアム・マクフアーレン若シ其業ニ精妙巧熟ナラス職務不適当ナルカ或ハ職務に怠慢ナ
ルカ又ハ不規則ナルカ或ハ指令ニ注意セサルカ或ハ飲酒ニ長スルカ或は許可ヲ得スシテ外出スルカ
惣シテ此条約面ヲ破ルコトアルトキハ蓬來社社長或ハ其名代人其損亡ヲ精算シテウィリアム・マク
フアーレンノ給金ヲ引去ルカ或ハ三ヶ月前ニ云渡シテ辞勤セシムルカ或ハ三ヶ月分ノ給金ヲ渡シテ
惣テノ条約ヲ廃シ即尅謝絶スル共勝手タルヘシ
明治7年3月19日即洋暦1874年3月19日証據之為各調印スルモノナリ
William Mc Farlane
蓬莱社名代商人 眞島襄一郎
印
In Presence R Holme
在坐証人
印
藤井左平太和
上記に見るように、一般にお雇い外国人は契約書に記載されたように厳格な条件のもとに過ごしたの
である。38)
契約書は和英両文で記載され二通まで迄認め、それぞれが一通ずつ所持することになった。
4、製紙製糖工場の創設準備
さて、こうして事業の技術的な面に付いてはイギリスからの技術者による技術指導を仰ぐことで解決
したが、機械の取り扱いに付いては、広東省出身の張法壽なる者が機械の取り扱いに熟達しているので
製紙製糖両者の機械方職人として採用することにした。正式の契約は遅れたが、雇用期間は一ヵ年、前
六ヶ月間は一ヵ月洋銀 30 ドル、後六ヶ月間は 40 ドルの月給を支払う条件で締結した。39)張法壽は、神
戸港に陸揚げし、そのまま雨ざらしなっている製紙機械の点検整備をするなど積極的に行動し、さらには
40)
勤務についてもマクフアーレンより精勤であったため、後に眞島襄一郎から表彰を受けたほどである。
次ぎに工場の建築が問題とされた。すなわち紙漉機械・砂糖機械組み立て場所の設計である。その為
エーリング・ボーゲルなる者を工場建築の監督として,又、工場設計図の製作及びその工作普請の為に
雇用することになった。設計図製作中は月 50 ドル、建築に取掛かったら月 200 ドルを支払うと言う契
約内容であった。このように準備が進んだが先に雇用したマクフアーレンはホテルに投宿している為、
蓬來社の経費が嵩み民家を借用する事になり1月 24 日からそこに宿泊することになった。
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
その間にも2月 26 日には製紙原料である楮草、麻皮の原料を商人と値段書の交渉などを進め、また
敷地の問題などが案件として残った。
既に述べたように、土地については官有地の払い下げを受けていたが、将来的な展望から隣接する旧
熊本藩邸の空き地を機械建設場に充当する為地主と交渉し。代価 400 円で契約した。これにより製紙・
製糖工場の敷地は 2600 有余坪の敷地となり、敷地内の北には砂糖機械を据えつけ、南の建物を壊しそこ
に砂糖製造場を建築することにした。
一方製紙機械は、既述したように神戸港に陸揚げされたままであったが、張法壽に手入れをさせ旧熊
本藩邸の敷地に運搬させたのである。
こうしてボーゲルの設計図を基に建築が開始することになり大阪府に建築届が提出された。41)
西洋形紙漉場建築御届
一、 北大第18区玉江町二丁目元熊本藩邸内弊社持地之内ニ而別紙絵図面之とり通西洋形ニ而紙漉場
建築仕度奉存候尤今十日ヨリ本年九月五日迄日数百五十日間ニ落成可仕候間御聞済被成下候様奉
願候勿論屋敷内之儀ニ付道路妨ニハ相成不申此段御届仕候
蓬莱社名代
玉江町二丁目同社製造所ニ出張
明治七年四月十日 眞島襄一郎
大阪府県知事 渡辺昇殿
として西洋形紙漉機械建築所の略図が添付された。建坪 184 坪、建物 高さ 22 尺、そしてそれぞれ
煙突1基を取り付けた。
さてこうして建築は進んだが、既に述べたように蓬莱社の財政は厳しいものがあり、工場の建築が進
む過程において同社の財政は窮乏し、ついには製紙機械を除いて、砂糖機械及び建物を担保に大阪府に
資金を借り受けると言う状況にまで至ったのである。大阪府としても本邦初めての事業であるので、こ
の事業の完成を期す為 10000 万円の借款申し込みに対し、月一歩の利息、明治8年 12 月の返済として
融資したのである。蓬莱社の財政的な窮状についての詳細は明らかでないが、大阪府に対する製紙機械
の代金の支払いは何度か滞り、そのため真島は大阪府の勧業課に何度か呼び出され叱責を受けたことも
暫しあったといわれ、また製造所の支払い、お雇い外国人の給料の支払い等にも窮する状況を呈したと
言われる。42)
こうした状況にもかかわらず、眞島の仕事振りは「敢然と立って工事の進捗をはかり、時には煉瓦の
積み方に不正あるを発見し矯正せしめ、また重大な機械据付場所の煉瓦の積み方に手抜きがあるのを見
出して、直ちに修理せしむるなど新築工事の過程においては幾多の事件が頻発し、特に当時としては極
く稀な洋風建築であるためその工事監督が困難で、また財政窮迫に付き纏われたのであるから、眞島の
努力は全く血涙を以って色彩るに充分であった」と伝えている。43)
こうした努力が実って9月 27 日には製造局職員一同で上棟式を挙行したのである。さらには製紙機
械の組み立て、人員問題などがあり、実際の機械運転開始は明治 8 年 2 月となり、マクフアーレンは技
術指導教師として中心となった。
製紙機械は、古切れ断切機械、塵取り機械、晒並コナシ機械、紙漉機械、此れに大小ポンプよりなり、
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
これを動かすのに蒸気管 30 馬力を使用した。原料は古切れ、襤褸及び普通の稲藁を用いた。また漂白剤
等の薬品も輸入され紙の種類によって各薬品を用いた。こうした結果製造せられた紙の種類は、新聞用紙、
帳簿紙、製本用紙、色紙、書簡巻紙、包紙等であった。44)
ではどのくらいの量を製造したのであろうか。
明治初期に始められた製造・販売量を掲載すると次ぎのようであった。(表 1)
9年ごろまで3社が稼動していたが、在庫が増える一方で洋紙の販売は、まだまだ需要が少なかった。
洋紙の激増は、明治 10 年の西南戦争の勃発による新聞社の発行部数増加や新しく雑誌を創刊するものが
出てきたのである。したがって、これ以後、洋紙の製造量は順調に伸びていくのである。
ちなみに、蓬莱社では創業を始めた明治 8 年については史料的に不明であるが , 翌 9 年には、総製造高(1
年間 26 万 7255 ポンド)この紙数は大小合計で約、1758 万 8238 枚、代価、約 3406 円 87 銭 5 厘であっ
た。45)
とにもかくにも何とか創業の緒についたのであるが、蓬莱社の財政の厳しいのは変わらず、ここにお
いて明治 9 年 4 月紙漉機械・砂糖機械の各一式、工場の債権・債務など一切を眞島襄一郎に譲渡したの
である。46)
そして同社も社名を大阪紙砂糖製造会社とし、その代表には眞島襄一郎が就任したのである。同工場
は眞島が経営を担当したが、財界の不況などの影響を受けるとともに、明治 9 年には京都に梅津製紙所、
神戸には神戸製紙所などのライバル会社が創設され眞島は、明治 15 年 8 月 15 万円にて住友に工場一切
を売却するに至った。
Ⅲ、 浅野家・有恒社の場合
次に有恒社の事例を見ていこう。同社は先の蓬莱社の後に創業した製紙会社である。有恒社は、旧広
島藩主の浅野家の用達をしていた杉井幾三郎という人物が、大蔵省お雇い外国人トーマス・ウォートル
スと交際していたことに始まる。47)
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
杉井は、ウォートルスから西洋での機械製紙の話しを聞かされ、その事を浅野家家令中野静衛に伝え
たところ、中野は主君長勲候に言上したところ主君長勲候は、将来洋紙の需要が起るであろう事を思い
「皇国の為に率先して新事業を起こすは、華族の義務である。十万両位の金で出来ることならば、之れを
調査計画せよ」との命であった。48)そのため浅野家では再度ウォートルスを招聘し意見を聞いた。ウォ
ートルスは「洋紙は襤褸の如き廃物を以て、化学の効力と機械の作用とで造られ、大いに人力を減じて、
均一多量の品を製し価も低廉になる。貴国には未だ洋紙の需要が多からざるも、他日文明の進むに従い、
必ず外国から多量に輸入せねばならぬ事になる。故に今日において之を計画しておけば、早晩必ず私利
公益両つながら、之を完ふするを得べし」と説き進めた。
こうした説得に長勲候は、当時工部省の官吏であった洋学者古河拙三に相談をし、独力で経営する事
を決し , 洋式製紙工場の建設を東京府庁に出願した。49)
府知事の大久保一翁も賛意を表し認可となった。
さて、当時は総て洋紙事業がどのような内容であるかをわかる人物はいない為、長勲候は工場の敷地、
工場の建築、諸機械その他用品の購入、組立て据えつけ、監督など、一切業務をウォートルスに一任す
るため英国領事館において契約した。50)
お雇い外国人トーマス・ウォートルスは、建築関係を専門にイギリスから日本政府のお雇い外国人と
して来日していたため、工場の建築 ・ 設計関係には精通していたが機械のことに関してはわからない為、
本国から実弟のアルベット・ウォートルスを呼び寄せ助手として手伝わせた。51)
他には機械の組立て据えつけの助手に浅野家の岡田薬三郎を月給 30 円で雇い入れた。52)
こうして工場建設が開始されたが、煉瓦の使用に対しては熟練の職工がおらず、建物の外壁の煉瓦積
みも、積んでは崩し、崩しては積み上げるなど何回もやり直しが繰り返されウォートルス意のままにな
らなかった。いうまでもなく、未だこの時期においてはレンガ造りの建物は物珍しい時代でありそれを
扱う職人も数少なかった事は事実である。こうして不熟練の職工をうまく使い指導しながら、明治 7 年
の春に竣工した。53)
1、抄紙機械の到着とその処理
明治 5 年ウォートルスがイギリスに注文していた抄紙機械が、明治 7 年 1 月に到着した。
既に述べたように蓬莱社では既に到着しており、イギリスのアンフアーストン会社の製作による物で
共の同一の鋳型で製作されたもので、一つが有恒社、もう一つは蓬莱社の物である。横浜ギルマン商会
は未決済分としてウォートルスに陸揚げ代を請求している。54)
Yokohama 31ST
T.Waters Esqre , Yedo
Drs.to the undersigned
For Landing and Sorting
75 ㌦
267 Packages M achinery
EX. "Glenvoy" c London
Received Payment
Gilman and Co
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
Edgar-Abbott
史料に見るように 75㌦の請求をしてきたのである。
さて、もう少し抄紙機械についてみておこう。
機械は、金網幅 60 寸 長さ 31 尺
第 1 プレス・フエルト、長さ 25 尺
第2プレス・フエルト、長さ 18 尺
ドライヤー 直系 3 尺のもの 5 個
カレンダー 1 基 ロール数 7 本 ダンデイロール 長さ 5 尺 6 分 円周 1 尺 7 寸 6 分
ビーター 鉄製 2 台、ポンプ 6 寸
このような巨大な機械が横浜港に陸揚げされたのは初めてといわれ、その為の手続き、仕訳、通関手
続きなどで工場取引まで約 3 週間かかったと言われる。
ただこの機械の購入に関してはウォートルスに一任してあったが機械の代金が二万七千㌦となってお
り、さすがにこの支払いには躊躇したらしい。というのも金額が高価な上到着後、果たして予想どおり
紙が漉けるか、どうかの心配であった。その点ウォートルスも心得ており、機械代金の支払いは次のよ
うな方法をとった。55)
記
1、2 万 7000㌦
右器械御買入代之内左之通トマス・ウォートルスヘ相渡ス内 ( 即金 )
9000㌦
此 9540 円
洋銀 1㌦に付 63 銭6厘替
2、明治 6 年 12 月 15 日
3500㌦
此 36 13 円 75 銭
洋銀 1㌦に付 6 1銭9厘5毛替
3、明治7年 2 月24日
4500㌦
此 4646 円 25 銭
洋銀 1㌦に付 6 1銭9厘5毛替
〆 17000㌦
此 17800 円
差引残り 10000㌦支払い
こうした支払いは、英国領事とも打ち合わせており、その代金はイギリスより機械積み出した後分割
払いにしそれを領事が一時保管の責任を持ち、なお保管中の利息は浅野家に交付する旨をイギリスの製
作会社に通知し、組立てが完成し完全に紙が漉けたのを見てから、本国へ送金するという事であった。
ところで残金の、10000㌦はアルベット・ウォートルスに次のような証書が渡された。56)
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
一、金一万弗 紙漉機械代価弗払い残り
右器械検査之上当月ヨリ十二ヶ月之内一ヶ月ニ付百歩ノ一之利子差加ヘ無相違相払可申候也
明治 7 年一月十二日
中 野 静 衛 印
梶 川 屯 印
アルベット・ウォートルス君
なおこの機械代金は日本円に換算すると合計 42000 円也と記載している。
2、有恒社の開業とお雇い外国人のジョン・ローゼルス (J. Rogers) 採用
同社は明治 7 年 5 月にいよいよ家屋の建設、機械の据えつけが終わり、イギリス製の機械の試運転を
開始することになった。浅野家は東京府に次のような届を提出した。57)
蠣殻町三丁目拾番地於邸内紙漉機械取構候ニ付煉瓦石ヲ以烟出シ築立之儀兼而致事出願候処近日ヨリ
紙製造試ミ候ニ付同所ヨリ烟出シ申候此段御届仕候也
華族 正ニ位 浅 野 長 勲
明治 7 年 6 月
東京府知事 大久保一翁殿
こうして有恒社の洋式機械による製紙事業は開始されたのである。既に述べたように本邦では、蓬莱
社(中之島製紙)と有恒社はまさに洋紙製造業の嚆矢でもあった。
同社のスタッフは社長に中野静衛を他に浅野家の梶川屯、小野直三郎 , 久保元三郎、西川佐太郎、永
田兼三を事務職に、当時未だ 20 歳未満であった久保順太郎を原質部へ、神田萬次郎は抄紙部の徒弟に採
用した。58)
さらにイギリスから製紙技師を 1 名いれる必要があった。すなわち当時としては後進性にある我国に
あって、欧米のお雇い教師より、技術指導を受けなければ近代化はのみならず仕事も進まなかったのが
実情であった。59)
此れにより浅野家では外務省と東京府に、「外人教師雇い入れ」願書を提出したのである。60)
今般於私邸内紙製造試度ニ付築地英ホテル十七番地居留之英人ジョン・ローゼルス為教師別紙之通条
約為取結相雇申度奉存候不苦候ハバ早々御裁許可被下候此段奉願候也
華族 正ニ位 浅 野 長 勲
明治 7 年3月
東京府知事 大久保一翁殿
では、イギリスからきたお雇い外国人とジョン・ローゼルスと有恒社の間にどのような内容の条約が
双方で結ばれたのであろうか。ここではイギリス人製紙工雇入条約を英文で書かれた物を掲載しておこ
う。61)
Articles of Agreement between Nakano Shidzue, Okada Chuzo, Nagata Kenzo and Kjikawa Tamuro of
Tokio on the one Part and Thomas James Waters British Subject of Tokio Japan on the other; Entered
into this day of ………Eighteen hundred and Seventy-five
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
1st, We Nakano and Company agree to hire John Rogers practical paper maker ,now living at Tokio,to
teach us the working of and use of certain paper machinery now erected at Hamacho Tokio for the
term of six months from the first day of March Eighteen hundred and Seventy-five, and for such
services duly by the said John Rogers we agree to pay Thomas James Waters the sum of Two
hundred and fifty dollars(Say $250) per month.
2nd, We the said Nakano and Company will provide the said paper maker with an unfurnished house
during the term of this agreement ,but he will find himself in servants provisions etc
3rd, At the expiration of this term of agreement we Nakano and company will give John Rogers a
secondclass passage by steamer back to England.
4th, If during the term of this agreement any political trouble will occur so as to render the carrying
out of this agreement impossible Nakano & Company will have the right to cancel this agreement
on payment of three months salary & passage back to England, but if such cancelling take place
when lessthan three months remain to complete the term of this agreement ,
Thomas James Waters will only receive pay for such balance of John Rogers time as many remain
unexpired & his passange back to England.
5th, Shoud tha said paper maker neglect his duty prove incompetent or misbehave himself Nakano
&Company have the power to cancel this agreement and only pay for the services of the said
paper maker up to the date of his dismissal & will allow no passage money for the return voyage
to England.
6th, In case of John Rogers for more than two months so that he unable to his work ,Nakano &
Company will have the right to cancel this agreement on paying Thomas James Waters the salary
due to John Rogers up date of cancelling & passage to England. In case of John Rogers death,
Thomas James Waters will have the body removed.
7th, If the paper maker absents himself from duty without permisson Nakano & Company may deduct
from his salary for all such time absent except Sundays. We the undersigned agree to the above
seven clauses and hereunto set our hands & seals in witness thereof this…day of……1875
条約に見るようにローゼルスには約定日から給料は 3 ヶ月合わせて 600 円となっており、4 ヶ月目か
らは条約どおり 200 円となっている。こうした高給扱いされる反面、第5条には、工場で本人に過失が
あった場合には雇用期間中であっても解雇となり、給料はゆうに及ばず本国に帰る旅費も支給しないと
いうものである。いずれにせよ、ローゼルスに限らず明治初期のお雇い外国人は、破格の高給で迎えら
れたのである。62)
さて、こうして、ローゼルスが来日し、まず製紙機械により、紙が漉けるかどうか、の試運転を行っ
た結果、予定どおり紙が漉け上々であった。したがって残りの機械代金1万㌦を支払い、さきに英国領
事に保管してある内払い金と合わせてイギリスに送金されたのである。63)
こうしてお雇い外国人としての勤務が始まり、まずは採用した職工の技術指導であった。
ところで、この時雇用した職工の殆どは素人で、以前からの紙漉職人であっても工場に配置された新
式の機械は初めてで何もわからず、何れも暗中模索で仕事をする有様であった。こうした状況に対して
− 122 −
明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
ローゼルスは、機械の運転、器具の名称など丁寧に指導するとともに、また、何といっても外国人と日
本人の間には言葉の問題が大きく立ち憚るため、意思疎通を図る手段として通訳を介することにより、
双方の理解を開こうとしたのである。こうしてローゼルスなどのお雇い外国人技師の努力も一通りでは
なかった。また会社側の努力もさる事ながら、彼らが会社側の人たちに協力していずれも職務に精励し
たことにより事業が成り立ったのである。いずれにせよ、彼らは日夜工場内を狂奔しつつ常に誠意を以
って本邦洋紙産業の発展の為に尽くした。
こうして焦眉の急を要する製紙事業も、歩を進め開業1年、工場の整備などに着手したのである。
3、工場規則の制定と紙製造機械使用書の作成
有恒社の社長中野静衛は工場の創業が一段落すると「紙製造器械場規則」「紙製造蒸気機間使用書」と
いう工場規則を作成したのである。煩雑をいとわず記載しておく。64)
紙製造器械場規則
一、 教師之指図無違背伝習専一ト可致者勿論失敬有之間敷候事
一、 諸係並働人午前七時ヨリ午後5時迄日日精勤可致候事
一、 石炭焚方並器械方1人者午前六時出頭之事
一、 器械其外諸道具産物等手荒ニ取扱又者戯レ間敷儀一切致間敷事
一、 当場所にオイテ喧嘩争論並雑談且戯レ歌相唄い候儀ハ堅ク禁止之事
一、 銘々受持之場所ヲ離レ他之持場所江猥ニ往来致間敷事
一、 昼食一度弁当相配ラセ候ニ付銘々其儘持場ニオイテ相食シ可申事
一、 器械者工合調子専一ニ付教師之指図ニ非ズシテ猥ニ当ルベカラズ候事
一、 場所ニヲイテ莨一切禁止之事
一、 無印鑑之者柵内不入候事
一、 器械見物人等社長之免許ナクシテ一切入レ申間敷事
一、 午前七時相図致候得者相始メ午後5時相図ニテ職業相止メ銘々受持場所取片付掃除致シ翌日之差
支無之様可致置候事
一、 諸係銘々受持之場所働人並日雇人足引払後火之元並戸締等篤ト検査之上退出之事
一、 日曜日休暇之事
一、器械働人病気等ニテ懈怠候得給料日割ヲ以引去リ可申出出頭時刻相過遅参候得者其日半日之給料
引去リ可申午後出頭候得者其日無給之事
右之条々可相守者也
六月 社長
上記に見るように、いうなれば「就業規則」が苦心の末作成された。この規則は、力作とされ勧業寮、
内務省などの参考に供したいとの話しが出だと云われるほど上々の規則が出来あがったのである。65)
同時に「紙製造蒸気機関使用書」も作成された。此れは工場従業員に対する機械扱い方が詳細な条文
で機器の一般的な取り扱いが記載されており、さらに個々の取り扱いには「蒸気钁使用法」が作成され
た。66)
まず「紙製造蒸気機関使用書」よると「機械ヲ運転スル前ニハ洩ナク…・・茶匙ニ一杯ノ油ヲ移スベシ」
(第
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
クラント
パッキン
1条)「蒸気蓋ヲ明ケルトキハ……徐々ニ之ヲ開キ」(第2条)「内核ヲ洩レテ蒸気ノ吹発ノ時新タニ填メ
ヲ取替」(第5条)「此機関ニ……熱ヲ得時ハ直ニ運転ヲ止メ熱ヲ冷シ」(第6条)と、機械の整備、管理、
安全 ・ 事故等について書かれている。
次ぎに専門的な個々の機器ついて記載された「蒸気钁使用法」は、「蒸気計ハ45斤ノ度……最モ至極
ノ度トス」(第1条)「60度ノ気力ヲ得ル時ハ火ヲ引落ス」(第2条)「蒸気钁ノ水ノ分量ハ………測水
器ニ「2インチ」上ニ登ルカ、下2インチ内降ラム様能ク注意スベシ」(第3条)「若シ誤テ水ノ測水器
ニ現ラレヌ程ニ降ル時ハ火ヲ引落トスコト最肝要トス」(第4条)「石炭ヲ用ユル時1年凡ソ湯垢ヲ掃除
スベシ」
(第7条)
「蒸気蓋ノ能ク寄着スルヤ否ヤ検査スベシ」
(第8条)など、こと詳細に記載されている。
では、機械を扱う機器場の人員は果たしてどのくらい居たのであろうか。
表 2、工場内機器場人員
紙切器械
紙取片付
1ヶ月1両3歩
子供2人
器械取扱
4両2歩
大人1人
日雇い2両2歩
女3人
1ヶ月5両 大人2人
7両2歩
大人1人
火焚
5両2歩
大人1人
ボロ蒸方
4両 大人1人
2 階種研器械
5両 大人2人
4両 大人2人
紙揃
タァーフル
紙漉き方
器械方
シリンドル
種運送日雇い人足
ボロ切器械
ボロより
是迄器械組建致候者之内
鍛冶切者
5両 大人1人
日雇い2両3歩
女8人
10 両 1人
上記の人数のほか人足を日雇いで雇用した。67)
かくして上記の職工達で操業が開始されたが、その状況はどのようであったのであろうか。『洋紙業を
築いた人々』は次ぎのように記載している。「開始当座は殆ど損紙ばかりで満足な紙は全然出来なかった。
然るにローゼルス指揮の下にぜいいんは日夜よく練習を続けるうちに稍々見るべき成績に達したかと思
えば、忽ち機械に損所を生じるなど、その困難は実に容易でなかった。」と 68)
加えて、製紙業にとって最も重要な問題は、製品作りに必要な工場用水の欠乏が課題であった ローゼルスは、少量の水量では原質の漂白不可能であること、サイズも原質に投じることは出来ない
事などを説明した。その為当初の紙は無漂白、無サイズの襤褸紙のみが漉かれたため、多くの製品は倉
庫に入れておくことになった。
さて、焦眉の課題である豊富な用水の確保のため直ちに掘り抜き井戸を掘ったが出てきた「水」は赤
色で、製紙には使用できず結局 , 工場の外に 600 坪以上の貯水池を設置し、隅田川が満潮の時これを引
き入れることになった。69)
用水の問題は解決したが巨額な出費が嵩んでしまった。いずれにせよ、用水の確保により、原資を漂
白する事、サイズを加える事などをローゼルスは指導したのである。、 こうした状況の中で、機械の故障が少なくなってきたので、フル回転となり、また職工も仕事に習熟
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
してきたため、筆記用紙、上等印刷用紙などの抄造に着手したのである。
Ⅳ、 製紙会社お雇い外国人の帰郷
すでに前項において、ローゼルスの有恒社での役割について記述したが、多くのお雇い外国人がそう
であるように雇いを延長する場合も書類の提出を義務ずズけたのである。ローゼルスの任期は1年間で
あったが、その後さらに6ヶ月雇用を延長することになった。
その場合「外国人雇入方心得条々」によると「契約書」は以下のような様式が書式として定められて
いた。70)
第四百二号
東京府華族 浅 野 長 勲
英国人 ジョン・ローゼルス
紙製造教師
住所
給料一ヶ月二百五拾円
期限明治八年三月一日ヨリ向六ヶ月
但雇差止候節ハ此免状返納之事
明治八年三月九日 外務省 印
ローゼルスは、同社において製紙技術者として指導するのみならず多くの面で優秀な技量を持ち、博
学であった。従業員にも親切に指導し、彼自身皆から慕われた。次ぎのような記述がある。「数ある外人
技師中でも此のローゼルスほど優秀な技量といろいろな学識を持っていた者は珍しかった。徒弟に対し
ては如何にも厳格であったが、その反面頗る親切でよくその面倒を見た。」と書かれている点を見るとそ
の人柄がわかるであろう。同社では久保順太郎、神田萬次郎、小野直三郎等を中心に、彼を製紙教師と
仰ぎ、ローゼルス会と称する組織を作りいつまでもその徳を追慕したといわれる。71)
かくして、ローゼルスが任期を果たしイギリスへ帰国したのは、明治8年 8 月 31 日であった。この
ように明治 10 年代末期においては雇用外国人の技術指導も大きく後退したのである。それは日本人技術
者の進出という形勢逆転のかたちで実現されるのである。72)しかし、この事実を以って直ちに欧米生産
技術の従属からの解消および技術面における自立の達成と見ることは早計であろう。
依然として、各種機械の生産部門においては、著しい後進性が見られ外国技術への依存が強く残った
のである。
然るに、紙の需要は少なく倉庫に在庫紙が溜まる一方であったが、明治9年大蔵省紙幣寮から、証券
印紙類の原紙製造を依頼され、翌 10 年には西南戦争により、新聞の印刷など印刷の需要が増加するに伴
い、倉庫にあった洋紙は底をついたのである。73)その間には政府の抄紙部が有恒社の工場を借り受け機
械で漉くテストを試みている。74)
このように、当時としてすでに小規模ながら有恒社が政府に注目されていたことは、洋紙業がまだ諸
についたばかりで見るべき工場が少なかったからであると思われる。その為政府が地主に交付するため
− 125 −
明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
に発行した地券の印刷用紙は、有恒社のみならず、各製紙工場に活気を与えたのである。
その後、王子製紙の工場新設、四日市製紙、富士製紙などが開業し、我国の洋紙産業も創業第二期を
迎えるのである。75)
おわりに
本稿では、創業期における、洋紙産業について蓬莱社と浅野家・有恒社の二つの事例を題材とし、そ
こでのお雇い外国人の役割について考察した。
いうまでもなく、わが国の製紙業は、「在来産業」としての和紙を専門に製造し発展してきた。しかし
多くの和紙を中心にした「在来産業」は伝統的な手法により商人による少規模経営にとどまらざるをえ
なかった。
しかし、日本の近代化は「殖産興業」を合言葉に欧米の近代的技術を受け入れその手法も近代的な機
械による大量生産の、いうならば近代的洋紙生産であつた。こうした近代化の主導者はイギリスからの
「お雇い外国人」がその任に当たり、また近代的な抄紙機械もイギリス製を使用した。しかも、雇い技術
者は言葉、文化の違いがあれ、それを乗り越え日本人に伝授した。また受け入れる日本人も彼等に協力
し真剣に励んだ。そのことは、わが国の技術的取得はわりと短期間にマスターできたと見るべきであろう。
産業別ではバラツキはあるがこのような過程を見てくると、お雇い外国人の「洋紙産業」における功績
は成功したと見るべきであり、またその歴史的意義は高く評価すべきであるといえる。
近代資本主義が発展する中で、製紙産業も従来型の「在来産業」も縮小したとはいえ衰退することな
く「和紙」の美しさが再び見直されつつあるといわれている。だとすれば、和紙、洋紙とも、両社の主
力製品として製造販売されたのである。しかし、その経営はともに小規模の域を脱することなく蓬莱社
および浅野家・有恒社以後に設立された多くの製紙会社により、社名変更或いは合併など紆余曲折を経
過することになるのである。とはいえ、中でも渋沢栄一の創立による抄紙会社(後の王子製紙)は急速
に発展し、製紙産業の中心企業となるのである。
注
1)成田潔英編『紙業提要』丸善出版、昭和 27 年 同書によると「洋紙は巻取・平板に区別され原
料の差違、紙質の配合と薬品、染料などの調和により紙が出来るが、大別すると和紙と洋紙に区
分できる。洋紙は新聞紙、印刷用紙、筆記用紙、模造紙などである」したがって、本稿は「洋紙」
の区分による分類を指す。p.2-3
2)W.W. Rostow, The Stage of Economic Growth, (1960 by the Cambridge University Press Bentley.
House, 200Euston Road, London,)
同書においてロストウは「離陸の開始は通常或いは特殊な強い刺激にその原因を見出すことが出
来る。その刺激は政治的革命になることもある」と述べ、日本においては 1868 年の明治維新を指し、
そこではその後充分な力をもった一つないし、それ以上の製造部門が高い成長率をもって発展す
ると指摘する。pp.53-57
3)大塚久雄『近代化の人間的基礎』 筑摩書房 昭和 43 年 p.176
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
4)ユネスコ東アジアセンター編『資料御雇外国人』小学館 昭和 40 年及び
『ザ・ヤトイ』 思文閣出版 1987 年 同書にはお雇い外国人との関連した論稿が多く掲載されて
いる。
5)鹿島研究所出版会『お雇い外国人』全 17 巻 鹿島出版会 1968 − 1976 年 同書は、お雇い外
国人が活躍したすべての分野を網羅している。参照されたい
6)成田潔英編『前掲書』p.1
7)S.Lilley, Men Machines and History, 1965, Lawrence & Wisrart Ltd., London、および、平田寛編
『歴史を動かした発明』 岩波書店 1983 年 pp.14-16
8)成田潔英編『前掲書』pp.3-11
9)Dard Hunter,Papermaking: the history and technique of an ancient craft (2nd edn .,London 1947)
10)A.H. Shorter Mills and Paper Makers in England,1495-1800 (Paper Publications Society,
Hilversum Netherlands, 1957
11)W.H.Chaloner: People Industries (the courtesy of Frank Cass & Company Ltd 1963)
12)南種康博『日本工業史』昭和 17 年 9 pp.34-38
13)寿岳文章『和紙風土記』筑摩書房 1987 年
14)小野晃嗣『日本産業発達史研究』日本経済評論社 昭和 43 年 p.213
15)小野晃嗣『前掲書』p.3
16)王子製紙株式会社販売部編『紙業総覧』同社刊行、昭和 12 年 同書は日本の紙業の発達につい
て大きく 5 期に区分している。
明治 5 年から 9 年までを創業第 1 期とし、10 年から 27 年を創業第 2 期としている。本稿は明治
5 年から 9 年までの、創業第 1 期を対象としている。『紙業総覧』の紙業年表を参照されたい。
17)百武安兵衛は、大阪十人両替店の 1 人で平野屋五兵衛の分家である。本家平野家は旧幕府時代大
阪十人両替商の旧家で大阪金融界の頭目として幕府の御用を賜っていた。したがって、強い勢力
を持ち、帯刀が許されると共に町人費の免除を受けていた。この金融組織は十人両替商の下に多
くの小両替商が組織されそれぞれ北浜組、梶木町組など 22 組に分かれ所属した。十人両替商の各々
は各組に行司を立て相互に連絡し、手形流通、金融を円滑にならしめていた。この組織は、銀目
廃止の明治元年 5 月まで存続し、平野屋は東久太郎町組の行司として勢力を振るった。王子製紙
KK 編『紙業総覧』pp.478-479
18)会社創立の許可は「製紙器械取立之儀ニ付御免許奉願候書付」というもので「アメリカでの様
子を事細かに詳細し日本でも製紙器械は必要であるを強調しそれは会社を創立して行うべきであ
る」と述べている。王子製紙 KK 編『前掲書』pp.480-481
19)
「
楮紙製造結社之義口上覚」為替会社 ・ 開商社宛 明治四年
20)出資者は以下の人物である。高木五兵衛、大眉五兵衛、越後屋勘十郎、金山彦小五郎、松坂屋新三郎、
木田宗太郎、伊賀屋惣七、庄田屋友助之次、百武安兵衛、中川七郎兵衛の 10 人である。彼らは
「洋法楮製商社」なるものを創設し、社長に高木五兵衛、執事に百武安兵衛を決定した。王子製紙
KK 編『前掲書』p.481
21)王子製紙KK編『前掲書』pp.484-485
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
22)王子製紙KK編『前掲書』pp.484-485
23)大阪府では産業保護と将来の発展を見越して許可したのである「百武安兵衛、から大阪府宛之願
書」明治五年、同社史料。
24)王子製紙KK編『前掲書』p.486
25)当時お雇い外国人と契約する場合は、それらの契約書は雛型がありそれに準じて作成された。内
閣記録局編『法規分類大全』第 1 編外交門4、外人雇使の部および、梅渓昇『お雇い外国人』概
説1 鹿島出版会 昭和 43 年を参照されたい。
26)宮本又次『鴻池善右衛門』吉川弘文館 昭和 33 年 pp.249-250
27)吹田久則は百武と同様に金融関係に携わっていたといわれ、百武が資金的に窮乏している時なに
かと補助をしたといわれる
28)王子製紙KK編『紙業総覧』p.489 同書では「最初の計画者という名誉のみを残して、未だ自己
の物としての現実の製紙機械を見ずに、遂に他に委ねなければならない事情に逢着した事は、機
械注文の沿革を追想し悲惨に思う」と記述している。
29)蓬莱社「機械代金納付方之義・大阪府宛」同社史料 30)王子製紙KK編『紙業総覧』p.489「大阪府・機械代金納付年賦償還之義」蓬莱社
31)この機械は 2 台あり次の能力を有していた。
1台は、12 時間に目方 3 万 5600 ポンドの砂糖黍から、2 万 4370 ポンドの砂糖汁を搾り 2960 ポ
ンドの白砂糖を製造する。代価は洋銀 50500㌦
1 台は、前の 1 台によって製造された白地砂糖又は黒砂糖の 15 トンを、同様に 12 時間以内に 5
歩より 6 歩までの精製眞白砂糖を製造する。代価は洋銀 8000㌦である。
32)蓬莱社名代商人の眞島襄一郎は当時 23 歳の若者であり、如何に彼が非凡の人間であり、しかも
当時如何に優秀な人材が少なかったかがわかる
33)かれは同社の総てを任されたのである
34)同社資料による
35)
『
紙業総覧』、同書によると機械の到着を推測しており、また明治 7 年 1 月3日文化史上最も重要
な日であると位置付ける。p.493
36)王子製紙KK編『前掲書』p.494
37)王子製紙KK編『前掲書』pp.494-495。当時洋紙製造業の技師に付いてはイギリス人技師を招聘
した。また機械に付いては英 ・ 独・米からである。
38)内閣記録局編『法規分類大全』第 1 編外交門4、外人雇使の部参照
39)王子製紙KK編『前掲書』p.495
40)王子製紙KK編『前掲書』p.496
41)
『
前掲書』、同書には設計書及び、図面が描かれている。p.497 42)王子製紙KK編『前掲書』p.502『前掲書』同書によると「蓬莱社は各種の事業を展開したが多く
失敗であって財政的窮迫が進んだといわれる。後藤象次郎も創設に参加した経緯もあり挽回すべ
く、明治 7 年 12 月に、蓬莱社の事業として高島炭坑を 50 万円で払い下げを受けた。この事業も
また失敗した。pp.497-498
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
43)
『
前掲書』p.498、成田潔英編『洋紙業を築いた人々』pp.111-114
44)王子製紙KK編『前掲書』p.502
45)大阪紙商組合編『大阪紙商のあゆみ』同組合編 昭和 57 年、pp.28-29 および同社「蓬莱社洋紙
生産高」
46)蓬莱社は経営が行き詰まり、明治 9 年 4 月紙漉機械 1 式、砂糖機械 1 式、を住友に売却すること
になった。
47)杉井幾三郎は、旧領尾道の出身で神奈川、江戸で鉄砲商を営んでいた関係もあり居留地の外国人
とも親交があった。p.453
48)
『
前掲書』p.453 浅野長勲は 1842 年安芸の国広島に生まれ朝廷に政権を奉還すべき運動を行う
など維新の樹立に奔走した。その後国家社会に有益な仕事として着目したのが西洋紙製造である。
当時は日本に製造工場もなく、世間でもこれに注目するものが無いのを見て長勲は私費を投じて
工場を創設し、世の先駆者として範を示した。彼は参百諸侯最後の大名として 1937 年 96 歳で死
去した。成田潔英編『洋紙業を築いた人々』pp.111-114
49)王子製紙KK編『前掲書』p.454
50)王子製紙KK編『前掲書』p.454
51)王子製紙KK編『前掲書』p.454
52)王子製紙KK編『前掲書』p.454
53)王子製紙KK編『前掲書』 同書によると、その建物は、煉瓦造り、平屋、 約 63 坪、2、同ニ回
建て、約 52 坪、3、土蔵、二階、18 坪 3、石炭蔵(木製)18 坪 4、石炭蔵(木製)15 坪であ
った。p.454
54)王子製紙KK編『前掲書』p.455
55)王子製紙KK編『前掲書』p.457
56)王子製紙KK編『前掲書』p.458
57)王子製紙KK編『前掲書』p.459
58)王子製紙KK編『同上』p.460
59)梅渓昇『お雇い外国人』概説1 鹿島出版会 昭和 43 年 大隈重信は言う「新日本の建設に当
たって、何からどのように手をつけていいかわからないというのが実情であった。そこで彼らは
近代化政策を推進するに当たって、既に幕末、幕府などが行っていたように、多くの外国人を招聘、
雇用せざるを得なかった」、と指摘する。p.50
60)成田潔英編『洋紙業を築いた人々』pp.116-117 同書によるとお雇い外国人の J. ローゼルスはイ
ギリススコットランド・グラスゴーの生まれでわが国における洋式機械による洋紙製造の先駆を
なした際、当時大蔵省お雇い建築技師であつた T. ウォートルの斡旋で、製紙技師として来朝した
人物である 明治8年3月から同年8月まで紙製造師として浅野長勲に雇用された。
61)王子製紙KK編『前掲書』pp.461-462
62)大崎清重編輯『明治官員録』1880 年 1 月、彦根正三編輯『改正官員録』1880 年 11 月、によると
一般地方「教員ノ等級ハ十等官相当ニ達スルヲ得ルト雖モ、其俸給ニ於テハ月俸二十円ヲ超ユル
モニ甚ダマレニ、多クハ五・六及十円トス、最モ薄給ナルモニハ一円内外ノモノアリ」(「関口元
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明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
老院議官地方巡察復命摘要」1938)民間の工場職工と比較しても相当な高給であった p.96
63)王子製紙KK編『前掲書』p.463 本書にはこの支払いと合わせた元利合計 10783㌦ 75 セント支払っ
た領収書が存在する。
Yedo
August、26th 1874
Received from mess Nagata Kajikawa and Co.the sum of Ten Thusand Seven hundred and Eighty
three dollars 75 cents being the balance due on paper
mill contract of
$27.000
Balance
$ 10.000
Interst
783.75
$10783.75
Tho J Waters.
64)王子製紙KK編『前掲書』p.465
65)王子製紙KK編『前掲書』p.465
66)王子製紙KK編『前掲書』p.466
67)王子製紙KK編『前掲書』p.467
68)成田潔英編『洋紙業を築いた人々』pp.118-119
69)成田潔英編『前掲書』p.119
70)お雇い外国人を実際に雇用するに際し、先ず人選が問題となる。すでに以前から来日しその実績
が国内で判明している者を雇い継ぐ場合は容易である。しかし新たに特定の目的で雇用する場合
は困難であった . そのため種々の不都合が起る場合があったので、明治政府は 1870 年に、外務省
達として「外国人雇入方心得」を各省、府、藩、県、に布告している。梅渓昇『お雇い外国人』
概説1 pp.101-131
71)成田潔英編『洋紙業を築いた人々』同書によると有恒社在職当時のローゼルスは 32 歳のイギリ
ス紳士であった。pp.120-121
72)石塚裕道稿「殖産興業政策の展開」、pp.100-101 所収)楫西光速編『日本経済史大系—近代上—』
東京大学出版会 1965 年
73)洋紙業界では、西南戦争を発展期へのステップと捉えており、洋紙市場に新聞という一分野が確
立しただけでなく、新聞の普及よる文化の進展が洋紙の需要を喚起した。
・有恒社では、浅野家の
定紋を漉き込んだ襖紙まで売れてしまうという景気であった。大阪紙商組合編『大阪紙商のあゆ
み』同組合編 昭和 57 年、pp.28-29
74)大蔵省『印刷局沿革史』「当時未だ抄紙機械の設け無きを以て、試験の為有恒社の長網抄紙機械及
び職工を借り入れ、機械紙を抄造せしも未だ充分の成績を得ず隅々伊太利より亀印石版用抄造の
依頼あり因て更に抄造に着手し、幾多の困難をえて、遂に良紙を製するを得たり」と p.132
75)有沢広巳監修『日本産業百年史』日本経済新聞社 昭和 42 年 pp.171-174
参考文献
前川新一『和紙文化史年表』思文閣出版 1998 年
佐伯勝太郎『本邦紙業管見』( 稿本 ) 製紙技術協会 1995 年
− 130 −
明治初年における洋紙産業に見るお雇い外国人の貢献
同編纂会『紙の文化事典』朝倉書店 2006 年 原啓二『紙のはなし』 日本規格協会 2002 年
中外商業新報社『日本経済 60 年史』 中外商業新報社 昭和 11 年
マックス・ウエーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
邦訳 大塚久雄 岩波書店 1989 年
三好信浩『明治のエンジニア教育』 中央公論社 昭和 58 年
森川英正『技術者—日本近代化の担い手—』 日本経済新聞社 昭和 50 年
楫西光速『日本産業資本成立史論』 御茶ノ水出版、 1965 年
大林雄也『大日本産業事蹟 1』平凡社 1987 年
(追)
本稿作成に当たっては紙業博物館の、辻本直彦学芸委員に色々便宜を図っていただいた。記して謝意
を申し上げたい。
− 131 −
東京交通短期大学 研究紀要第14号 2008.12
「チョウダイスル」と共起する名詞
—文学作品における用例とWWWの用例を中心に—
The relation among choudaisuru and some nouns:
with focusing on examples in Japanese literature and some websites.
秋 山 智 美
Satomi Akiyama
ディスクリプタ : チョウダイスル、チョウダイ、謙譲語、共起率、WWW調査、青空文庫
1.はじめに
「チョウダイスル」も「イタダク」も授受の意味(「もらう」)を持つ謙譲語動詞である。この「チョウ
ダイスル」は謙譲語「イタダク」と同義で用いられる場合、どのような名詞とともに用いられるかは辞
書類の記述とは若干違う。本稿では、そのような「チョウダイスル」と共起する名詞の性質を考察したい。
2.調査方法
青空文庫の小説 ・ 物語類をランダムに 380 作品を選出した。それらテキストファイルから「チョウダイ」
の使用数と抜き出した「チョウダイ」を辞書類の記述をもとに文脈から意味分類した。次に、「チョウダ
イスル」の性質をみるため、WWWを用いてその検索数から共起率からどのような名詞類と結びつくか
を調査した。
なお、「チョウダイ」は、「ちょうだい」、「頂戴」など平仮名表記も漢字表記もまとめて一つのものと
して扱うこととする。参考として今回扱う青空文庫の作家数と作品数を表1、表 2 に示す。
表 1 作家数
時代
男性
女性
表 2 作品数
計
時代
男性
明治
41(93%)
3( 7%)
44(100%)
明治
101
(97%)
大正
32(89%)
4(11%)
36(100%)
大正
55(93%)
昭和
70(92%)
6( 8%)
76(100%)
昭和
180(97%)
平成
13(93%)
1( 7%)
14(100%)
平成
30(97%)
計
156(92%)
計
366(96%)
14( 8%) 170(100%)
− 133 −
女性
計
3( 3%) 104(100%)
4( 7%)
59(100%)
6( 3%) 186(100%)
1( 3%)
31
(100%)
14( 4%) 380(100%)
「チョウダイスル」と共起する名詞
3.「〜チョウダイ」の意味推移
3-1.「〜チョウダイ」についての辞書記述
8 冊の辞書記述の語釈を確認した。
敬意などを表して物など
高く捧げること
( 出版年 )
補助動詞表現
辞書名
「 ・・・
して下さい。」
ものをさいそくする語。
「
下さい」
・・・
「もらう」
・
「食べる」
・
「飲む」
の謙譲語。
ありがたくいただくこと
表 3 「〜チョウダイ」についての辞書記述の確認
それら記述をまとめると表 3 のよう
になる。表 3 の○は意味記述、例文
がそれぞれあることを、△は意味記
述と例文のうち、どちらか一方しか
ないことを示す。「もらう」と「食べ
る」、「飲む」の謙譲語として「チョ
ウダイスル」があるが、今回は一つ
として意味分類している。これは、
新総合国語辞典 (1979) 第一版
○
○
例解新国語辞典 (1991) 第三版
○
○
岩波国語辞典 (2000) 第六版
○
△
△
△
日本国語大辞典 (2001) 第二版
○
○
○
○
現代国語辞典 (2003) 第二版
○
明鏡国語辞典 (2005) 第一版
○
○
△
新明解国語辞典 (2005) 第六版
○
○
○
○
広辞苑 (2007) 第六版
○
○
○
○
○
実際の用例調査において文脈だけで
○
は「チョウダイスル」が「食べる」
の意か「もらう」の意か判断が難し
い場合が多いためである。
3-2.「〜チョウダイ」の例
② も の を さ い そ く す る 語。
下さい。
・・・
③補助動詞表現
して下さい。
・・・
明治
22
1
20
6
49
大正
2
0
12
1
15
昭和
8
0
10
0
18
平成
1
0
0
1
2
計
33
1
42
8
84
年代
①もらうの謙譲語。
ありがたくいただくこと。
表 4 作品年代別「チョウダイ」の意味分類
④
そ
の
他
計
表 3 の辞書記述の意味を参考にして青空文庫
中の用例を分類したものが表 4 である。「①も
らうことの謙譲語。ありがたくいただくこと」
の意味としてヲ格などを伴う「チョウダイスル」
の形式で使用される例を分類している。「②も
のをさいそくする語。・・・ 下さい。」で使用され
る例はヲ格を伴い文末詞「ネ」や「ヨ」ととも
に用いられる例を「③補助動詞表現 ・・・ して下
さい。」は動詞とともに用いられ文末詞「ネ」
や「ヨ」を含むものの例を分類している。
今回、使用例数の少ない「敬意などを表して
物などを高く捧げること」、
「俳諧の運座などで、
他人の句をよいと思うときにいう語」の二つの
意味のほか、「お縄をちょうだいする」と「お
こぼれをちょうだいする」、「お目玉をちょうだいする」の三つの慣用句表現で用いられるものは「④そ
の他」に分類することとする。
− 134 −
「チョウダイスル」と共起する名詞
3-3.調査と結果
表 4 の分類をもとに動詞として使用される「チョウダイ」形をそれぞれ意味別にその使用推移を示し
たものが以下の図 1 である。全体としてみると、明治と昭和−平成に「チョウダイスル」形で①もらう
の謙譲語としての意味では 45%、④の「補助動詞表現「・・・ てください。」」といった意味で使用される
割合が 41 〜 50%と全体の半数を示している。時代を通して「チョウダイ」は意味変化がないことがわかる。
図 1 「チョウダイ」の意味分類の時代別推移
大正(n=15)
20
22
明治(n=49)
12
2
昭和−平成
(n=20)
1
11
9
0%
7
10%
20%
30%
40%
50%
60%
①もらうの謙譲語。ありがたくいただくこと
70%
80%
90%
100%
③その他
②補助動詞表現「∼てください」
4.「チョウダイ」の周辺−「チョウダイスル」と結びつく名詞
以下、表 5 では、青空文庫 ( 明治から平成の作品 ) からヲ格に名詞をとる 「チョウダイスル」につい
てみていく。「チョウダイスル」と結びつく名詞を示している。全体で「チョウダイスル」と結びつく名
詞は、33 例あった。
表 5 文学作品で「チョウダイスル」と結びつく名詞
金 品 (10) 金(2)
・銀時計・お時計・三百円・お金・マンション・オノレエル・宝物・お薬代・屏風
飲食物 ・ 嗜好品( 8) 旨[うま]いもの・御馳走・御飯・茶・花・お杯・おかんこ・此の M・C・C(煙草)
書簡 ・ 書物 ( 6) 書物・御本・お手紙・追捕の官符・招待券なるもの・この墨
褒美 ・ 抵当 ( 5) 従五位・賞め言葉・お志・あだ名・古馬にならないやつ
薬 ( 2) お薬・薬
その他 ( 2) 無名詞・これ
4-1.結果
「チョウダイスル」形と結びつく名詞は、特に金品に関わる名詞とよく結びつくようである。また、飲
食物や嗜好品に関する名詞ともよく共起することがわかる。「モラウ」の謙譲語としての「チョウダイス
ル」の用例は、今回扱ったデータの中にそもそも 33 例と少ないため、結果が正しいか判断に迷う。した
がって、次の 5.の調査ではWWWの用例を調べる。WWWを用いる理由としては、まず、WWWは個
− 135 −
「チョウダイスル」と共起する名詞
人のブログやサイトなどが多く、言語資源として利用できるためである。つまり、WWWは、青空文庫
よりもまとまった数の用例を得ることが可能となる点が大きい。また、青空文庫では明治時代の作品な
ど比較的古い用例が多かったのに対し、WWWでは不特定多数のブログやサイトから現代語の用例を見
込めるためである。
5.「チョウダイスル」についてWWWからの調査
5-1.「チョウダイスル」と結びつく名詞—共起率をてがかりにして—
WWWで「チョウダイスル」について調査した。 このWWW調査においては、検索エンジンに Yahoo!
(*1)
JAPAN(ヤフー ・ ジャパン)を用いた。検索する活用形には動詞のテ形「ちょうだいして」、動詞のタ形「ち
ょうだいした」、動詞の終止形 ・ 連体形「ちょうだいする」のそれぞれを検索した。なお、動詞「チョウ
ダイスル」の検索には平仮名表記「ちょうだいする」、漢字表記「頂戴する」おのおの一つのものとして
扱うこととする。 また、扱う名詞については動詞同様に漢字表記と平仮名表記、また漢字 ・ 平仮名の混
合表記それぞれがある。しかし、名詞と動詞の共起を考えるさいには、名詞は代表表記を用いることと
する。代表表記とは、たとえば「オイノチ」に、平仮名表記「おいのち」と漢字表記「御命」、漢字 ・ 平
仮名の混合表記「お命」の三つの表記があった場合、名詞のみで検索し、検索ヒット数が多いものを代
表表記として扱った。
(*2)
まず、それぞれの活用形ごとに結びつく名詞を 100 例ずつ調査した。 そこから 2 例以上出現する名詞
を表中に抜き出した。次に、それら名詞+「ヲチョウダイスル」 の活用形の検索ヒット数を「名詞+ヲ格」
で検索してヒットした数で割った数× 10,000 で結果の変数を示す。詳細は、荻野 (2006)、荻野 (2007)
が詳しい。
今回、動詞「イタダク」についても「チョウダイスル」と同じ名詞で共起率を示した。この「イタダク」
との比較には「チョウダイスル」と同じ謙譲動詞の意味を持ち、「もらう」、「食べる」、「飲む」といった
意味で用いられるといった点で類似する動詞と考えるからである。「イタダク」も「チョウダイスル」と
同様にテ形、タ形、終止形 ・ 連体形それぞれを検索した。漢字表記「頂く」、「戴く」もおのおの一つの
ものとして扱う。検索数、共起率いずれも「イタダク」は ( ) で示す。表 6 は出現数の多い名詞につい
て出現頻度を共起率で示したものである。「チョウダイスル」と同じ意味で謙譲動詞として使用される「イ
(* 1) 規模の大きな検索サイトといえば Google(グーグル)と Yahoo! JAPAN(ヤフージャパン)が有名であるこ
とは周知である。筆者も検索には Google を使っていたが、共起率を求める際に名詞「給料を」を検索したが、
そこでヒット数が整合しないことがあった。分母の「名詞 + 格助詞を」の数は本来なら、分子にすえおく「名
詞 + 格助詞を + 動詞の活用形」よりも大きくなるはずであるが、小さくなる結果となった。これでは共起率を
だすと 10,000 を超えた数になり、比較できない。これについて田野村(2008)によると Google には不整合な
結果になることがあるという。検索サイトについての詳細は田野村(2008)を参照したい。本稿では、今のと
ころ Google と Yahoo! JAPAN 両検索サイトのうち、安定した結果を得られる Yahoo! JAPAN を使うこととした。
(* 2)100 例を調べたうち、表記について同じ名詞でも複数の表記があるものが 4 例みられた。これらについては、
それぞれの名詞のみの検索数をみてもっとも使用数の多いものをその名詞の代表表記として扱っている。()
内は検索ヒット数を示す。
・ おいのち (2,770)・御命 (30,200)・○お命 (64,400)
・ おなわ (4,290)・御縄 (4,000)・○お縄 (308,000)
・ おなみだ (1,470)・御涙 (6,440)・○お涙 (442,000)
・ ごいけん (10,900)・御意見 (1,350,000)・○ご意見 (29,000,000)
− 136 −
「チョウダイスル」と共起する名詞
タダク」も併せて調査する。「もらう」や「食べる」、「飲む」の謙譲語として「チョウダイスル」と「イ
タダク」があれば同じ名詞と同じ頻度で結びつくのではないだろうか。もし同じ名詞でも共起する頻度
が同じではないならば、それはどのような名詞のときであろうか。表の名詞の並び順は動詞「チョウダ
イスル」を中心に共起率が高いものを示している。
表 6 「チョウダイスル」と共起する名詞—「イタダク」との比較
出現数の
多い名詞
名詞を
テ形
名詞を
タ形
名詞を
終止形
計
名詞を
共起率
(万分率)
お涙
29
(6)
7
(2)
81
(7)
117
(15)
1,350
866.67
(111.11)
お縄
808
(31)
700
(6)
1,036
(30)
2,544
(67)
49,200
517.07
(13.62)
3,050
694,637
978,707
(11,095) (8,775,300) (10,957,545)
19,400,000
504.49
(5648.22)
47,600
250.84
(32.56)
7,410,000
225.17
(1461.65)
6,540
(7,018)
503,000
130.02
(139.52)
お時間
お命
281,020
(2,171,150)
54
(52)
32
(20)
1,108
(83)
お言葉
76,178
480,150
51,068
367,860
39,605
235,070
おこぼれ
4,101
(3,024)
1,114
(1,091)
1,325
(2,903)
1,194
(155)
166,851
1,083,080
お休み
115,090
823
(4,360,300) (203,487)
4,715
120,628
(835,981) (5,399,768)
15,700,000
76.83
(3439.34)
ご意見
82,200
91,900
(538,996) (414,995)
39,460
213,560
(479,642) (1,433,633)
27,900,000
76.55
(513.85)
8,210,000
69.76
(0.00)
263,000,000
30.60
(457.90)
123,000,000
28.67
(200.21)
お声
52,295
(306,362)
978
(47,796)
3,003
(88,567)
56,276
(442,725)
時間
298,630
2,442,410
9,142
112,872
765,720
9,487,600
804,692
12,042,882
意見
134,400
153,400
(909,550) (763,520)
64,890
352,690
(789,540) (2,462,610)
料金
49,052
(278,432)
344
(1,451)
33,650
(697,350)
83,046
(977,233)
39,500,000
21.02
(247.40)
…円
169,053
(336,565)
582
(44,551)
11,035
(146,876)
180,670
(527,992)
110,000,000
16.42
(48.00)
お叱り
877
(24,616)
797
(21,322)
1,640
(32,218)
3,314
(78,156)
2,030,000
16.33
(385.00)
…料
36,223
(198,128)
81
(2,181)
104
(506,690)
36,408
(706,999)
24,000,000
15.17
(294.58)
782
19,028
(581,637) (1,689,025)
14,500,000
13.12
(1164.84)
お問い合わせ
17,722
524
(703,945) (403,443)
− 137 −
「チョウダイスル」と共起する名詞
…代
15,400
(22,222)
35
(1,147)
メール
60,502
65,202
(1,672,100)(1,960,700)
お電話
1,916
2,175
(206,491) (172,610)
お題
979
(46,966)
741
(15,501)
依頼
10,210
6,289
(451,190) (648,849)
名刺
1,100
2,740
(55,509) (117,158)
コメント
お金
寄付
お知恵
59,591
(1,633,000)
4,328
(284,460)
72,221
823
(43,165)
16,258
(66,534)
16,700,000
9.74
(39.84)
23,733
149,437
(906,900) (4,539,700)
173,000,000
8.64
(262.41)
894
(244,653)
4,985
(623,754)
7,070,000
7.05
(882.26)
87
(1,131)
1,807
(63,598)
2,590,000
6.98
(245.55)
718
17,217
(182,551) (1,282,590)
24,800,000
6.94
(517.17)
7,730,000
6.16
(286.13)
369,000,000
4.80
(114.04)
918
(48,513)
45,241
4,758
(221,180)
177,053
359
(28,710)
30,360
(321,470)
35,047
(634,640)
75,200,000
4.66
(84.39)
521
799
(26,566) (105,929)
119
(23,498)
1,439
(155,993)
5,810,000
2.48
(268.49)
30
(619)
480
(2,247)
2,110,000
2.27
(10.65)
54
(1,064)
396
(564)
お話
1,883
2,371
(330,790) (555,400)
5,428
1,174
(161,256) (1,047,446)
52,100,000
1.04
(201.05)
質問
3,197
2,818
(390,845) (455,989)
7,885
1,870
(313,767) (1,160,601)
110,000,000
0.72
(105.51)
13,500,000
0.56
(117.27)
35,700,000
0.44
(6.65)
お花
利益
345
(53,356)
224
3,178
329
(64,886)
47
1,449
86
(40,072)
1,283
19,102
760
(158,314)
1,554
23,729
酒
414
(108,968)
452
(71,048)
374
(158,434)
1,240
(338,450)
49,300,000
0.25
(68.65)
薬
114
(80,143)
42
(7,666)
52
(6,151)
208
(93,960)
33,300,000
0.06
(28.22)
力
97
(49,645)
42
(55,399)
69
(29,999)
208
(135,043)
216,000,000
0.01
(6.25)
1,086
2,031
(110,806) (210,260)
780
(86,739)
3,897
(407,805)
21,300,000
0.00
(191.46)
323
(959)
2,494
(7,316)
10,800,000
0.00
(6.77)
手紙
お名前
1,248
(3,649)
923
(2,708)
− 138 −
「チョウダイスル」と共起する名詞
5-2.結果
表 6 の名詞は「チョウダイスル」と「イタダク」で「チョウダイスル」の方が「イタダク」よりも共
起率が高い名詞である。斜体で示す名詞は慣用的表現の名詞である。「お涙」866.67、
「お縄」は 517.07、
「お命」250.84、「おこぼれ」130.02 といったように「チョウダイスル」は慣用句、慣用句に順ずる表現
(古い言い回し)としての表現で「イタダク」よりも共起率が高いことがわかる。「チョウダイスル」と
「イタダク」では「もらう」の謙譲語として使われる場合には「イタダク」の共起率が「チョウダイスル」
の共起率よりも高い。
これは、同じ「もらう」の意味での謙譲語でも「イタダク」の方が「チョウダイスル」よりも名詞類
と共起していることを示しているといえる。
「お時間」に対する共起率は「チョウダイスル」は 504.49 で「イ
タダク」は 5648.22 で「チョウダイスル」の約 11 倍の共起率である。また、「チョウダイスル」は、表
5 の青空文庫の調査と比較すると金銭に関わる名詞よりも「お時間」504.49 といった抽象的なものの名
詞や「お言葉」225.17 や「ご意見」76.55 といった名詞とよく共起していることがわかる。これらは授
受の意「もらう」の謙譲語として現代の社会での受け手側の価値観をそのまま反映しているといってよ
いと考える。
「チョウダイスル」と「酒」0.25 の共起率を示す。「チョウダイスル」、
「イタダク」いずれにもこれら「酒」
といった名詞と結びつく場合、「もらう」以外の意味(「食べる」や「飲む」「酒」の場合、「飲む」の意)
を含む。これらも「イタダク」の方が「チョウダイスル」よりも若干、共起率が高い。これは飲食の挨
拶語「いただきます」の影響であろう。しかし、「酒」といった名詞類は他の名詞と比べるといずれも共
起率では低い。ここから三つのことがわかる。以下、①〜③に示す。
①「チョウダイスル」、「イタダク」は現代では「もらう」の意味で使用され、結びつく名詞は具体的
なものよりは抽象的な「時間」や「お言葉」といった名詞と結びつく。
②同じ授受の意を持つ謙譲動詞でも「イタダク」の方が「チョウダイスル」よりもよく用いられる。
③「チョウダイスル」は慣用的な表現での名詞との結びつきが高い。
6.おわりに
授受動詞「もらう」と同じく授受の意味を示し、謙譲語として使用される「チョウダイスル」を調べた。
本稿は「チョウダイスル」について二つの面から調査を行った。まず、
「チョウダイ」形の意味を調査し、
どのような意味で使用されることが多いかを調査し、結果として、使用される意味の上で「チョウダイ」
は時代ごとの推移はあまりみられないことがわかった。これは、「チョウダイ」自体、女性や子どもがよ
く使う口語表現「・・・ してチョウダイ」や「・・・ をチョウダイ」といった要求を示すことばとして定着し、
また授受表現としても使用されるような変化の少ない語であるためと考えられる。次に、謙譲語の意を
含み、人から物を授けられる意で重複する「チョウダイスル」と「イタダク」は同じく、活用の上でも
同じ名詞と同じ共起率で結びつくのかを調査した。結果、「チョウダイスル」は、「イタダク」よりも名
詞類と共起率が低いことがわかった。慣用表現では高い共起率を示してている。これは、
「チョウダイスル」
はやや古い言い回しとして現代では実際に使用されにくくなっている結果ではないかと考える。また、
「漢
語 + スル」で表記されるように「チョウダイスル」はややかたい表現であるのに対し、「イタダク」は平
− 139 −
「チョウダイスル」と共起する名詞
仮名表記が多用されるように「チョウダイスル」よりはやわらかい表現で示すことができることも影響
しているだろう。
また、授受の意で謙譲語の「イタダク」と同義の「チョウダイスル」が用いられる場合には抽象的な
「時間」や「お言葉」といった名詞とよく結びつく。授受の意を併せ持つ謙譲動詞は、そのまま現在の社
(*3)
会における恩恵と感じるものを示している。今後も「チョウダイスル」や「イタダク」
は、抽象的な名詞
類と共起することが多くなっていくことが予想される。ただ、「チョウダイスル」に関しては慣用表現と
して名詞と共起する場合、(「おこぼれをちょうだいする」など)昨今 , 慣用句自体があまり使われなく
(*4)
なっている現状を考えると、動詞「チョウダイスル」もあまり動詞として使われなくなっていくことが
予想される。
参考文献
[01]市川孝 ・ 見坊豪紀 ・ 金田弘 ・ 進藤咲子 ・ 西尾寅弥 (1992)『現代国語辞典』第二版 三省堂
[02]旺文社編 (1979)『新総合国語辞典』第一版 旺文社
[03]荻野綱男 (2006)「検索エンジン Google の使い方とWWWコーパスによる日本語研究」
城生佰太郎博士還暦記念論文集編修委員会 ( 編 )『実験音声学と一般言語学』東京堂出版
[04]荻野綱男 (2007)「コーパスとしてのWWW検索の活用」『月刊言語』vol.36-No7
[05]川本信幹 (2002)「日本語力現状レポート—進行する慣用句衰退現象」『日本語学』vol.21-No10
[06]北原保雄編 (2005)『明鏡国語辞典』第一版 大修館書店
[07]金田一秀穂 (2006)『日本語コロケーション辞典』第一版 学習研究社
[08]三省堂編修所編 (2003)『大活字ことばの林 現代国語辞典』第一版 三省堂
[09]小学館国語辞典編集部 ・ 日本国語大辞典編集委員会編 (2001)『日本国語大辞典』第二版 vol.12 小学館
[10]田野村忠温 (2008)「日本語研究の観点からのサーチエンジンの比較評価 : Yahoo! と Google の比較を
中心に」『計量国語学』Vol.26-No.5
[11]新村出(2007)『広辞苑』第六版 岩波書店
[12]西尾実 ・ 岩淵悦太郎 ・ 水谷静夫編 (2000)『岩波国語辞典』第六版 岩波書店
[13]野口英司 (2005)『インターネット図書館 青空文庫』はる書房
[14]林四郎 ・ 野元菊雄 ・ 南不二男 ・ 国松昭編 (1991)『例解新国語辞典』第三版 三省堂
[15]姫野昌子 (2004)『日本語表現活用辞典』第一版 研究社
[16]山田忠雄 ・ 柴田武 ・ 酒井憲二 ・ 倉持保男 ・ 山田明雄編 (2005)『新明解国語辞典』第六版 三省堂
[17]L.Wall,R.L.Schewartz・ 近藤嘉雪訳 (1997)『Perl プログラミング』Softbank 株式会社
[18]『CD-ROM 版 新潮文庫の 100 冊』(2000) 新潮社 ・NEC インターチャネル
(* 3) 本稿ではふれなかったが、物や恩恵を授受する意味で用いられる動詞「イタダク」について「チョウダイスル」
と同様に調査している。それらは稿を改めて述べる。
(* 4) 川本 (2002) は、「…慣用句の衰退現象は、文化庁の調査の結果を上回るレベルで進行しているようである。」と
述べている。
− 140 −
「チョウダイスル」と共起する名詞
資料
詳細は、野口 (2005) による。扱った青空文庫の作品の詳細は、以下の通りである。
同は同一の作家を示し、
なお、太字は女性作家を示す。◯
( )は同一作家の作品数を示す。
作品名については割愛する。
(明治作品 :102 / 作家数 :44(3))
同森林太郎)
同 7)
森鷗外(◯
(30(◯
)夏目漱石(13)幸田露伴(10)三遊亭圓朝(7)黒岩涙香(3)小泉八雲(3)
宮崎湖処子(1)矢崎嵯峨の舎(1)泉鏡花(1)広津柳浪(1)斎藤緑雨(1)徳冨蘆花(1)山田美妙(1)二葉
亭四迷(1)若松賤子(1)饗庭篁村(1)内田魯庵(1)尾崎紅葉(1)斉藤緑雨(1)山田美妙(1)巌谷小波(1)
江見水蔭(1)木下尚江(1)若山牧水(1)川上眉山(1)木村小舟(1)岩野泡鳴(1)石川啄木(1)與謝野寛(1)
押川春浪(1)伊藤左千夫(1)樋口一葉(1)寺田寅彦(1)清水紫琴(1)白柳秀湖(1)三島霜川(1)三宅花圃(1)
田澤稲舟(1)水上滝太郎(1)長塚節(1)田山花袋(1)近松秋江(1)国木田独歩(1)高山樗牛(1)
(大正作品 : 59 / 作家数 :36(4))
森鷗外(19)夏目漱石(4)幸田露伴(2)平出修(2)芥川龍之介(1)伊藤野枝(1)有島武郎(1)岸田國士(1)
木内高音(1)海野十三(1)加能作次郎(1)木下杢太郎(1)菊池寛(1)葛西善蔵(1)小山内薫(1)上司小剣(1)
中戸川吉二(1)宮沢賢治(1)島崎藤村(1)葉山嘉樹(1)南部修太郎(1)久米正雄(1)里村欣三(1)田村
俊子(1)水野仙子(1)山村暮鳥(1)宮原晃一郎(1)十一谷義三郎(1)素木しづ(1)島田清次郎(1)下村
千秋(1)野口雨情(1)松本泰(1)斎藤茂吉(1)大杉栄(1)村山槐多(1)
(昭和作品 :186 / 作家数 :76(6))
同オン ・ ワタナベ)
同 1)
蘭郁二郎(22)新美南吉(23)渡辺温(◯
(18(◯
)原民喜(18)織田作之助(14)大阪圭
吉(7)久坂葉子(6)北條民雄(4)田中英光(3)酒井嘉七(2)森本薫(2)金史良(2)岡本綺堂(1)九鬼周
造(1)宮本百合子(1)梶井基次郎(1)吉行エイスケ(1)池宮城積宝(1)楠山正雄(1)嘉村礒多(1)池谷
同丘 丘十郎)
同
信三郎(1)小野浩(1)片岡鉄兵(1)折口信夫(1)小熊秀雄(1)海野十三(◯
(1 ◯
(1))国枝史
郎(1)小栗虫太郎(1)岡本かの子(1)泉鏡花(1)横光利一(1)谷譲次(1)中里介山(1)邦枝完二(1)太
同 黒木舜平)
同 1)
宰治(◯
(2(◯
)森田草平(1)牧野信一(1)林不忘(1)田畑修一郎(1)佐々木味津三(1)黒
島伝治(1)徳田秋声(1)寺島柾史(1)小林多喜二(1)武田麟太郎(1)直木三十五(1)佐藤垢石(1)水野
葉舟(1)佐左木俊郎(1)甲賀三郎(1)牧逸馬(1)田中貢太郎(1)中島敦(1)山下利三郎(1)相馬泰三(1)
林芙美子(1)島木健作(1)鈴木三重吉(1)竹久夢二(1)浜尾四郎(1)平林初之輔(1)下村湖人(1)細井
和喜蔵(1)薄田泣菫(1)松永延造(1)小酒井不木(1)永崎貢(1)鷹野つぎ(1)橋本五郎(1)西尾正(1)
本庄陸男(1)矢田津世子(1)堀辰雄(1)須川邦彦(1)小舟勝二(1)冬佳影(1)
(平成作品 : 31 / 作家数 :14(1))
植松眞人(10)藤下真潮(5)早見秋(3)山本洋(2)西府章(2)冬佳影(1)市川陽(1)鶴岡雄二(1)小葉武史(1)
徳永真一(1)水谷まさる(1)畑仲哲雄(1)辻潤(1)山本勝治(1)
− 141 −
〈研究ノート〉
東京交通短期大学 研究紀要第14号 2008.12
最近の就職活動に関する一考察
An Analysis of College Students
Employment Procurement Activities
桑 原 賢 二
Kenji Kuwahara
目 次
はじめに
第 1 章 団塊世代と現在の就職活動
第 2 章 2008 年度「働くことの意識」調査・その 1
第 3 章 現在の就職試験
第 4 章 2008 年度「働くことの意識」調査・その 2
おわりに
はじめに
私は、団塊世代の「60 歳」、学生は平成生まれになってしまいました。平成生まれの学生の、ご両親
はというと、若いお母さんでは 30 歳前半なんて世の中になってしまいました。お父さんも 30 代〜 40
代です、ですから私たち(団塊世代)の就職活動とは異なってもしかたのないことでしょう。ここに最
近の就職活動をレーポートするとともに、今後の就職活動にもスポットを当ててみます。
第 1 章 団塊世代と現在の就職活動
私たちの就職活動(昭和 40 年後半)の情報源獲得の手段は、「公衆電話」と「往復はがき」でした。
大学の就職室の掲示板にはB 5 サイズ程の「求人票」が掲示されていました。学生はその求人票が命と
なります。自分のノートの隅に求人票を写し、それから就職活動が始まります。現在では、当たり前の
ように中高年がメールしています。携帯電話人口も小学生から始まり、お年寄り専用の文字が大きな携
帯までさまざまで、多種多様な携帯電話が出現しています。しかし、私の時代は公衆電話でした。町の
大半の店には、赤やピンクの公衆電話がありました。電話ボックスも今とは異なり家の近所にありました。
十円玉をポケットに入れて、サンダルを履いて、メモを持って何度となく就職活動に公衆電話を利用し
ました。都心から地方に電話する時は、電話代が安くなる午後 8 時以降に電話をかけ節約したものです。
そして次の作戦は、往復はがきとなります。資料請求・会社説明会等の問い合わせ・さまざまな依頼文
の内容に往復はがきを使用しました。最初は使い方も・書き方も判らず、返信用と往信用もうっかり間
違えそうになりました。又、返信用の表に、自分の住所・宛名を忘れずに書くエチケットも先輩・両親
− 145 −
最近の就職活動に関する一考察
に教わりました。最初は返信用の自分の宛名に「様」と書いてしまい、両親にえらく笑われたものです。
相手の会社も今とは違いのんびりしていて「人情」みたいなものがありました。電話の内容によっては、
願書の締め切りなど、少しは待ってくれたものです。こちらの不備も大抵は笑って許してくれました。
ところが最近の就職活動はどうでしょう、感情など全くありません。就職活動手段も 180 度変化してし
まいました。まず公衆電話を使用して就職活動している学生は皆無です。次に現在の学生は、往復はが
きの存在すら知りません。使用した経験のある学生は、99%いませんでした。ゼミの学生に先日も公衆
電話と往復はがきの話をしましたが、リアクションは散々で、クスッと鼻で笑われてしまいました。今
の就職活動は、パソコンと携帯電話が主流で、学生はマイ・パソコンで志望の会社へエントリー、そし
て携帯電話で合否の連絡と団塊世代の私たちには信じられない時代になりました。
第 2 章 2008 年度「働くことの意識」調査・その 1
ここに就職活動の情報源が、どのような手段で行われているかのアンケートがあります。社会経済生
産本部と日本経済青年協議会は、2008 年度入社の新入社員を対象にした「働くことの意識」調査の結果。
調査結果から、就職活動の情報源として企業のホームページの利用率が過去最高になりました。現在の
学生は、就職先を選択する際に利用した情報源として、最も回答の多かったものは「企業のホームページ」
(87.7%)でした。昭和 44 年から続くこの調査結果全体で、企業ホームページの利用率が過去最高でした。
インターネット関連の情報源としては「インターネットの就職関連サイト」(80.6%)も 3 位と上位に食
い込み、昨年 1 位の「会社説明会」(83.3%)は 2 位、
「企業が用意した採用パンフレット」(77.3%)、
「学
校への求人」(53.6%)、「民間情報会社が発行する就職情報誌など」(46.6%)、「一般書籍(会社四季報や
企業研究など)」(37.4%)が続きます。調査対象の中で、4 年制大学卒の新入社員は、企業ホームページ
を利用したとの回答が 93.6%、就職関連サイトは 96.4%と、9 割を超える高い率で就職活動にインター
ネットを利用していることが分かりました。調査結果は平成 20 年 3 月 5 日から 4 月 30 日までの、2008
年度新社会人研修村に参加した新入社員 3833 人が回答した別のアンケートでは。回答者の最終学歴は 4
年制大学(58.7%)、普通高等学校(11.3%)、大学院(9.4%)専修・専門学校(8.0%)、短期大学(4.3%)、
職業高等学校(3.2%)、工業専門学校(2.4%)、各種学校(0.9%)となりました。
大学には求人票が掲示していない訳ではありませんが、上記のアンケートで判るように、学生はマイ・
パソコンで就職活動をスタートしています。相手先の企業も昔とは異なり、どの企業も学生の要望に応
える為にインターネット求人票が主流になりました。ですから学生は自分の部屋で昼でも夜でも企業検
索が出来、いつでもエントリーできるようなシステムになりました。又、殆どの企業は、試験結果の途
中連絡、合否の連絡等は携帯電話になりました。さすがに内定通知書は書面になりますが、たいていの
連絡手段は携帯電話になりました。さらに「ややこしい」のは非通知でかかってきますので、学生には
非通知電話対策も同時に案内することにしています。なんでも最近の学生は、関係なさそうな電話は受
信しないよう設定する傾向があります。教員も携帯電話の操作が出来ないようでは、これからは学生の
サポートも出来ない現状です。
第 3 章 現在の就職試験
入社試験の内容は団塊族とほとんど変わりないようです。まず「書類選考」があり、次が「筆記試験」
− 146 −
最近の就職活動に関する一考察
最後は「面接試験」となります。今の学生は取り組み方を「軽く」考えていますから、提出書類等の内
容は不備が目立ちます。さらに字が汚いので大変苦労しています。私どもの学校は「運輸科」ですが、
運輸の「輸」がかけない学生が毎年数名おります。先日も車掌職が第一希望の学生の「車掌職希望」が
「車しょう職希望」と「しょう」が漢字で書けていませんでした。難しいことなんかありません、真面目
にきちんと書けば「書類選考」は容易に通過します、なんでも最初が肝心である。又、「履歴書」を書け
ない学生が多いのには驚きます。履歴書の見本を見ながら書けばいいものを、チョット内容が異なると、
もうアウトとなります。少し考えるということが出来ません。要は依頼心ばかりなのである。そして最
初の一歩がなかなか出せない学生が多いです。スタートでつまずく学生の特徴は卒業式までに一回も履
歴書も書けず、もちろん一度もエントリーもできずに卒業することとなります。しかし、学生ばかりに
責任がある訳ではないようです。保護者の皆さんの対応にも問題を感じています。先日も就職担当者が
一堂に集合しての講演会がありました。パネラーでマイクをもった、某大学の就職担当者が強く発言し
ていました。初めの一歩が出せない原因には、ご両親の就職活動に対する消極的な態度と、親と子供と
の距離が問題ですと断言していました。まず、現在の親の就職感は大変希薄で、内定を取らなくても、
「契約」「アルバイト」「派遣社員」と、なんとかなる。正規社員にならなくても「良」という就職感から、
就職なんかどうにかなるで、まるで他人ごとのように無関心になってしまいました。私達、団塊世代の
就職感はこんなものではありませんでした。茶の間の親と子供の就職に対する会話は真剣でした。
「就職」
は「義務」でした、なんでも毎日顔を合わせる度に、就職活動の進捗状況を報告したものです。就職活
動の学生がいる家庭では、内定獲得まで息を殺して頑張ったものです。又、企業側にも責任があります。
正社員を雇用するという、団塊世代とは異なり、現在はさまざまな形態の非正規社員でも構わないとい
うシステムに変わり、その為に就職活動が軽く取扱いされ、なんとかなるさとなってしまいました。
今度は企業側の代表のパネラーにマイクがかわりまして、こんな発言が印象に残りました。企業側か
ら見て欲しい人材の要件はこんな人材像となります。コミュニケーション能力と真面目な取り組み方が
出来る学生が一番。これは団塊時代だろうが現在だろうがまず基本です。いつの時代でも欲しい人材は、
人物重視で気配り・心配りができる学生が望まれています。コミュニケーション能力では、特に自分の
言葉で話が出来る学生が好感度が高くなります。最近の面接時の特徴で、学生に質問すると、全員が面
接マニュアル本に書いてあるまま、同じ回答が返ってくると言うことです。せっかく書類選考そして筆
記試験を通過した意味がありません。面接官はだいたい 2 分間面接すると相手の人柄がわかると言われ
ています。このように参考書の模範回答ばかりでは顰蹙をかいます。学生同士では会話が続きますが見
知らぬ人とは会話がストップしては困ります。話をしながら育った経験よりも、音楽や絵(マンガ)で
育った学生が多いので止むを得ませんが、その点を克服できれば内定が獲得できるでしょう。その為に
はまず自己分析し、自分の意見をはっきり言えることです。次にあまりにも部活に参加する学生が最近
少ないということです。企業側では学校と自宅の往復だけの学生よりも、部活活動に取り組んで少しで
も実績が残った学生が、部活をしない学生より好感度が高いということです。学生の時は好きな学生同
士で机を並べていればよかったですが、社会人となると決してそんな訳にはいきません。上司を選ぶ事
など出来ません、嫌いな人とでも、社会人となれば同じデスクで働くことになります。社会人のルール・
マナーを克服出来る学生は部活体験がある学生です。部活で様々な授業以外の学生生活に積極的に取り
組んでいた学生は、このような時に前向きに進むことが出来ます。ですから人事担当者は学生時代に頑
− 147 −
最近の就職活動に関する一考察
張ったことは何かありますかと必ず質問することでしょう。3 月に卒業し 4 月に社会人となりますが、
部活経験がない学生は 2 〜 3 ヶ月で離職するケースが多くなっているということです。一方最近の部活
ですが、気に入った仲間としか関わりたくないという同好会的な傾向が強く、学生のコミュニケーショ
ン能力が低下するのは仕方ないといっていました。好きな人とは付き合いますが、嫌いな人とは交わら
ないでは社会人失格でしょう。面接時に聞いたことのない「○○同好会」では好感度がもっと悪くなる
こととなるのは明らかである。
第 4 章 2008 年度「働くことの意識」調査・その 2
もう一つ興味あるアンケートがありました。初めて就職する際、あなたはどんなことを重視していた
か覚えているだろうかというアンケートがありました。若い頃は会社のイメージや社風などを重視して
いても、実際に働いていくうちに考えが変わっていくようです。入社前と入社後で、働く上で重視して
いることは実際には働いているうちに考えが変わってくるようです。学校を卒業して初めての就職。入
社する際に重視していたことは「大企業」や「会社のイメージ」だった学生もいるはず。しかし実際に
働けば考えは変わるもの。現在は「休みがとりやすい」「自分のキャリアが生かせる」といった人もいる
だろう。
入社前に重視したことの質問には、「勤務地」と答えた人が最も多く 48.0%、次いで「給与」(34.8%)、
「勤務時間」(23.9%)、「自分のやりたい事が出来る」(20.9%)であることがわかりました。一方、現在
働く上で重視していることの質問には、
「給与」が 52.1%でトップ、以下「勤務地」(44.1%)、
「勤務時間」
(42.6%)、「休日・休暇の取れる日数」(32.8%)となり、いずれも「勤務地」「給与」「勤務時間」がトッ
プ 3 に入ったものの、働いてからは「給与」と「勤務時間」を重視する傾向があるようだ。又、初めて
就職する際には「会社の知名度・イメージ」は 10.2%だったが、現在は 1.9%だった。
インターネットによる調査で、1 万 4886 人(男性 46%、女性 54%)が回答しました。年代は 20 代 15
%、30 代 29%、40 代 29%、50 代 17%、現在の職業形態は正社員(管理職除く)31.5%、パート・アル
バイト 11.9%、会社・法人の役員・管理職 7.1%、会社・法人の経営者、自営業 4.9%、公務員4. 1%など。
勤務年数は「5 年以上〜 10 年未満」
(20.3%)、
「10 年以上 ~20 年未満」
(33.2%)が過半数を占めていました。
「売り手市場」だった大学生の就職活動に「氷河期再来」の危機が迫っている。「現金 50 万円を渡され、
内定がなかったことにされた」と各大学の就職部には卒業を控えた 4 年生から、内定取り消しの報告が
寄せられている。首都圏だけでも、日大、亜細亜大、大東文化、明星大・・・。いずれも今のところ件
数は少ないようですが、売り手市場だった近年では見られない光景になってしまいました。氷河期到来
の予感を感じ始めたのは、米国で金融機関の破綻が相次いだ 9 月上旬以降からです。文科、厚労両省に
よると、大学卒の就職率は、氷河期がピークを迎えた平成 12 年 3 月卒業の 91.1%を底に反転。戦後最長
といわれる景気拡大を背景に、平成 20 年 4 月の卒業生は就職率 96.9%を記録する売り手市場となってい
ました。しかし、今回の金融危機で、今後は採用数が圧縮されるのは必至。実際に学生の報告から、「企
業に採用人数を聞いたら『減る』と言っているところもあった」ということがわかりました。世界のト
ヨタですら業績を下方修正・社員 7100 人カットとなれば、業種で差はあれ、就職が厳しくなるのは確実
でしょう。
− 148 −
最近の就職活動に関する一考察
おわりに
最後に今後の就職活動になりますが、まず「先手必勝」となるでしょう。自己分析・企業研究を早期
に実施した学生が、内定獲得 1 号となるでしょう。自分の長所・短所が言えず、希望する会社の概要(社
長名・資本金・社員数等)がわからないようでは、何をやっても無理です。プロポーズと同じで、好き
な彼女をゲットするためには、なんでも彼女のことを知ろうとするでしょう。それには「自分の力で一
歩前進が出来る人」、親や友達さらに学校の就職担当者に言われなくても、自分の力で発進できる学生が
強いです。外野が騒いでも、本人が一番にやる気がなければ無駄となります。人に言われて動き出す学
生は、忍耐力がありません。ですから、落ち癖がつくともうギブアップとなり、内定獲得できないのは、
世の中・親・先生・学校の所為にして逃げ出す学生になってしまいます。自分を変えないと成功出来な
い事が分からなければ、内定獲得まで時間がかかるでしょう。楽しく苦労なく内定獲得できたら、全員
が合格でしょう。基礎学力を真面目に勉強し、社会・経済等あらゆる分野に興味を覚え、人とのコミュ
ニケーションが苦でない学生が好感度が高いです。先日学校に人事担当者の人が来て、「○○会社・会社
説明会」を実施したところ。人事担当者が次の 3 つが出来る人を、弊社では希望しますと話していまし
た。その内容は、
「時間」そして「身だしなみ」
「言葉使い」の 3 つとなります。採用試験で評価する際に、
この 3 つは大事な要素です。時間に遅れる人は、信頼が薄く責任感がないとのことです。身だしなみは
毎日の日常生活のスタイルとなります。ピアス・茶髪の学生が内定獲得なんて、聞いたことがありません。
言葉使いは、社会人としてのチームプレイが出来るかの確認です。会社のスタッフに可愛がられる人が、
これからは一番大事な内定獲得のポイントになります。そして、誰とでも同じ目線で取り組んでいける人。
どんな時でも等間隔で誰とでもお付き合いができる人が望まれています。就職活動は団塊族時代でも氷
河期再来の時代でも、取り組み方のスタイルは変わりありません。ゴールに向かって早くスタートが切
れる人、継続して目的地まで運転できる人、ニュートラルからローそしてセカンド次にサードそして最
後にトップにギヤーチェンジ出来る人が就職活動のゴールに結びつくことになる。
− 149 −
東京交通短期大学 研究紀要第14号 2008.12
簿記の歴史―その概略について、講義の一こま―
The Outline in the History of Book-Keeping
佐 藤 良 之
Yoshiyuki Satou
1.はじめに
2.簿記の発達、伝播
3.江戸時代
4.明治にはいって
1.はじめに
簿記は簿記論であって、寡聞にしては存じ上げないが簿記学とはいわない。研究の領域では簿記史と
いう辺りでしょうか。これも、かのルカ・パチョウリの以前の簿記書でも発見されなければ新たにとい
うことはどうでしょうか。簿記は人口に膾灸されているというか、実務において広く有用な技法という
ことで定着しており、簿記理論の新たな構築ということは有り得るのだろうかなどと思います。これが、
会計学と異なるところです。簿記会計と一括りにする場合もありますが、とかく簿記は実務に有用な技
法という辺りが私の感想です。
役に立つ勉強のベースといえます。これを元に、会計が、財務諸表論なり、経営分析なりの学問が成
り立っている、そのベースとなるものということができるでしょう。
その代わり、汎用性には大きなものがあります。営利、非営利を問わず、凡そ経済の営みのあるところ、
会計があり、それを記録、整理する術が簿記であります。簿記の技法が直接的でないにしろ、援用され
ているといっても過言でないでしょう。
いってみれば、社会科学の経営の分野の基礎的学習項目と言えるでしょう。
税理士や会計士、或いは会社の経理の担当者にとっては、実務の技法そのものであり会社の財務担当
者や経営者にとって、簿記によって作成された、各種の財務諸表は作成できなくても理解できなくては
なりませんし、それを作っている技法が簿記でありますから、作成出来ずとも、素養として知るにこし
たことはありません。
さて、実際の簿記の学習項目、はじめのところでは、簿記の意義とか、目的、簿記の諸概念に入る前に、
簿記の歴史について、その概略をみておくことも有益と考えますので一こまをとってお話しております。
− 151 −
簿記の歴史―その概略について、講義の一こま―
2.簿記の発達、伝播
かのドイツの文豪ゲーテは、その著作である『ウイルヘルム.マイスターの修業時代』の中で、複式
簿記こそ人間の精神が産んだ最も素晴しいものの一つ、と讃えている。これは、よく引き合いに出され
ることがあります。何故、文学作品のなかで、などと疑問に思われる人がおられるかも知れませんが。
その部分を、岩波文庫本からみてみると、次のような記述があります。
「商売をやっていくのに、広い視野を与えてくれるのは、複式簿記による整理だ。整理されていれ
ばいつでも全体が見渡される。細かしいことでまごまごする必要はなくなる。複式簿記が商人に
あたえてくれる利益は計り知れないほどだ。人間の精神が産んだ最高の発明の一つだね。立派な
経営者は誰でも、経営に複式簿記を取り入れるべきなんだ」
『ウィルヘルム.マイスターの修行時代』山崎章甫訳、岩波文庫上巻 55 頁
中世、ルネッサンス期、資本主義が勃興しようとしていた時代、経済の営みを支える経営管理上の技
法として重きをおかれていくようになる。これは、地中海貿易で、商業の発展した、イタリアの諸都市
で商業活動の記録や計算の方法として、実務上の要請から、徐々に体系化というか、整序されていった
と考えられる。この時代、イタリア人は商業活動の展開に優れ、今日の商取引に関する基である、為替
手形、商業の取引の法典である商法や保険制度等を形作ってもいるのである。勿論こうしたものが考え
られていったのは、背景として、交易の発展、紙の発明と普及、財産権の確立、貨幣経済の浸透による
統一的計算尺度の必要性等があってのことでもあった。
さて、文献や、事実としての記録はその時代の証明であるが、簿記については現在のところ次のよう
に説明されている。現存する世界最古の簿記書、簿記に関する記述は、1494 年にイタリアのヴェネチア
で出版された、『ズンマ』、(『算術、幾何及び比例総覧』)という数学の書物中の記述にある。著者は僧侶
であり、数学者であった、イタリア人、ルカ・パチョーリである。彼は、その書物の中で、簿記に関す
る記述を行っている。彼は、イタリア、トスカーナ地方の生まれで、フランチェス教団の僧侶であり、
優れた数学者でもあった。事実、彼はイタリア各地の大学の教壇にも立った。彼の複式簿記に関する記
述は、商取引の方法から、複式簿記的記録の方法を作り出し、商取引に照らし改良していったのではな
いだろうか。彼の著作は、そうした時代の産物でもあったのだろう。
もっと早くに、他の簿記に関する著作があったのかも知れない。又、なかったのかもしれない。あっても、
消失してしまったのかもしれない。それゆえ、
“現存する最古の簿記書”といわれて紹介される所以である。
時代はその後、コロンブスのアメリカ大陸の発見、ヴァスコ・ダ・ガマの希望峰経由のインド航路の
発見等があり、イタリアの商業活動の隆盛は、北のヨーロッパ諸国に移っていった。パチョーリの簿記
書はその後も再版され、16 世紀の中頃には、オランダ、フランス、ドイツ、イギリスにおいても翻訳さ
れていった。
オランダの東インド会社の設立は 1602 年であるが、単発の一航海の決済から、会社という組織をと
うしての商業活動の展開になっていくのである。継続性、永続性が求められ、商業活動の結果を記録、
計算する簿記の技法は、その恰好たるツールとして、発達、普及していったと考えられる。
18 世紀にはいって、イギリスで資本主義の発達が始まっていく。この世紀の後半から 19 世紀の前半
にかけ、産業革命による産業資本主義が台頭していく。
− 152 −
簿記の歴史―その概略について、講義の一こま―
例えば、鉄鋼業にみる通り、大規模企業による大量生産方式の採用は、そこに、大きな固定設備と資
本の需要、調達が求められる。固定資産の重要性は、期間損益計算を会計思考の上から要請される。ここに、
近代会計が成立していく過程が理解できるのである。後で、学習する減価償却という会計処理、考え方
もその表れの一端である。
3.江戸時代
この項の後で紹介する明治にはいっての複式簿記の導入、或いは西洋式簿記書の刊行の前の我が国の
江戸時代はどうだったのであろうか。これは私の推論の域を出ないが、次のようにも考えられる。
江戸時代の大福帳等は単式簿記によるものであり、複式簿記は明治にはいって紹介導入、普及してい
った、と。
しかしながら、江戸時代、各地の豪商といわれる商人は、その地域で、或いは北前船により、遠く陸奥、
蝦夷へと広範囲に商圏を拡げて、経済活動を行っていった。そして、彼等豪商の経済力は、時に大名を
凌ぐ程にもなっていったという。
したがって、その商いは大きく、それを何らかの方法で把握していくことが求められたと想像するに
如くはない。何故ならば、資本を投下して、そのままということは無尽蔵の資金ではあるまいし、有り
得ない。何らかの方法で、記録、整理、計算していったのであろう。然るのちに、その、時々に、その
年度に、それら収支を計っていったに違いないのではないだろうか。つまり、今日にみる、損益法的な
考え方が、或いは有高計算的な財産法的考え方があったのではないか、それに準ずる方法をとったので
はないだろうかと考えられる。
この辺りのことは、簿記の記述では明確でなく、西洋式の導入は明治 6 年の二つの刊行物、諭吉の『帳
合の法』とシャンドの『銀行簿記精法』から始めている。
ポルトガル人の種子島への上陸、鉄砲の伝来、宣教師の布教、長崎の出島を通してのオランダとの交
易等から考えてヨーロッパの文物、知識等の流入を阻むものはなかったのではあるまいか。そうした中
で今から 500 年近く前のフランシスコ、ザビエル等宣教師達は西洋の、学術、科学的知識等を紹介して
くれたということは出来ないだろうか。
これらの帳簿等の記録とその伝播は、明治に入っての、先の福沢、シャンドの書物のように刊行され
広く読まれた訳でなく、明治の初めの商業講習所のような機関が設けられた訳でなく、又、学校制度の
中で、商業教育の一環としてキャリキュラムに組み込まれた訳ではないので、統一的ではなく、広がら
なかったのであろう。
4.明治にはいって
さて、我が国への複式簿記の紹介には、明治 6 年の福沢諭吉の『帳合之法』がある。
これは、アメリカの商業高校の簿記の教科書を翻訳したものである。
原書名は、Bryant & Stratton's Common School Book-keeping である。帳合いとは簿記の英語である
Book-Keeping を直訳した訳で、後に、ノートに綴るというか、帳簿記録を略し、簿記なる訳語になって
− 153 −
簿記の歴史―その概略について、講義の一こま―
いったのだろう。貸借平均の原理等と簿記の原理原則なるものを思い起こすと、帳合なるものも成る程
と思われる。
もう一つは、同じ年に刊行された、Alexander Allan Shannd の『銀行簿記精法』である。彼は、スコ
ットランド生まれで、慶応二年 22 才の歳に我が国に初来日している。我が国の政府は銀行制度を作る為、
彼をその後招聘した、彼は、紙幣寮付属書記官として雇われ、やがて、この書物を刊行したのである。
前者はその後学校での簿記教育に、後者は銀行実務にへと浸透していったのである。
(平成 20 年9月 30 日稿)
東京のミニ短大だが学生の
真面目なること鉄路の如し
簿記論の実務の傍ら教鞭を
とることも早二十三年になりし
かのゲーテ偉大なるかな発明と
簿記を称えしウイルムマイスター
商売の整理の技法簿記の術
体得するが理解の早道
簿記の術複式簿記ゆえ至言なり
仕訳に始まり仕訳に終わる
パソコンの市販のソフト流布しても
複式簿記なる仕訳の思考
頭にてわかりしものも簿記にては
演算解けねばわからぬことなり
ファイナンスファンドなどというけれど
底にありしは簿記の術なり
− 154 −
執筆者紹介
(専任教員)
(非常勤教員)
本学学長・教授
田中宏司
本学客員教授
秋山義継
本学副学長・教授
松岡弘樹
本学講師
安彦正一
本学学科長・教授
沼田憲治
本学講師
佐藤良之
本学教授
川津 賢
本学特別教養講座講師
秋山智美
本学助教
佐藤勝治
本学助教
桑原賢二
(敬称略)
編集後記
本学の第 9 代学長で名誉教授である廣岡治哉先生が平成 19 年 11 月 17 日にご逝去され
ました。別項で田中学長が追悼文を寄稿されておりますが、先生のご逝去を悼み、本号を
廣岡先生の追悼号といたしました。先生は、平成 12 年に学長として赴任されて以来、平
成 15 年にご退任されるまで、数々の改革を精力的に行い、現在の本学の基盤を築かれま
した。我々教職員一同、本学における先生のご功績を讃えて感謝を申し上げるとともに、
心よりご冥福をお祈りする次第です。
本号には、上記 10 名の先生方にご寄稿いただきました。ご執筆いただきました先生方
には、厚く御礼申し上げます。
次号は、2009 年 9 月を締め切りとして発刊を予定しております。交通・観光をはじめ
とした本学の研究発表の場として、さらなる紙面の充実を図る所存でおります。多くの先
生方からのご寄稿をお待ち申し上げております。
東京交通学会紀要編集委員 松岡弘樹
東京交通短期大学研究紀要(第 14 号)
印 刷
2008 年 12 月 20 日
発行日
2008 年 12 月 20 日
編 集
発行人
松 岡 弘 樹
印刷所
東京都新宿区西新宿4− 26 − 15
株式会社 パンメデア
☎(03)3299 − 1990
発行所
東京都豊島区池袋本町2−9−1
☎(03)3941 − 4704
東 京 交 通 学 会
MEMOIRS
№ 14
〈CONTENTS〉
Deplorable Affair of Corporations and Essence of Compliance……… Hiroji Tanaka
A General Analysis of the Enforcement of Company Low
and the Issues of Its Implementation… ……………………… Hiroki Matsuoka
Raymond Queneau en 1939
–Comment un écrivain devient-il un écrivain?–…………………… Kenji Numata
The Japanese Railroad Accident History
and Transition to Safety Stability Transport……………………… Ken Kawatsu
A Detailed Analysis Clarifying the statement of
accounts for Educational Foundation
–Focusing on A comparison with the statement of accounts of
Independent Administrative Corporation–… ………………… Katsuji Sato
A cosideration on taxi industry and fare probrem… ……… Yoshitsugu Akiyama
A Study on the Background and Presupposition of
the Foundation of the Japan Railroad Company………………… Shoichi Abiko
The Contribution of YATOI to the Western Paper Industry
in the early years of Meiji…………………………………………… Shoichi Abiko
The relation among choudaisuru and some nouns:
with focusing on examples in Japanese literature and
some websites…………………………………………………… Satomi Akiyama
An Analysis of College Students
Employment Procurement Activities……………………………Kenji Kuwahara
The Outline in the History of Book-Keeping……………………… Yoshiyuki Satou
Tokyo College of Transport Studies