日 米 友 好 の 礎 を 築 い た 人 ─ 友好記念館便り ルーニー会長のリポートより ジョン万次郎ニュース No.11 2015.5.10 歴史にのこる万次郎の功績 ホイットフィールド・万次郎友好記念館来訪者は2009年5月9 当面の最大の課題は友好記念館の裏のキャリッジハウスと呼 日の開館から昨年末までの5年間に、 総計3,701人となりました。 ばれる建物の改修工事です。 ホイットフィールド船長が住んでい 昨年だけで604人でした。 来館者のほぼ7割が日本人です。 運営 た頃に馬車置き場や工作室に使われていた建物です。 これを改 にあたっているホイットフィールド・万次郎友好協会が依然とし 修して事務室や集会室などを作り、文化センターとして記念館 て資金難で常勤職員が雇えないため、 記念館が公開されるのは の活動に役立てようというものです。地元の工業高校生の無料 原則として週末だけという状態が続いています。 奉仕や業者からの資材寄付がありますが、 なお30万ドルの資金 記念館ではボランティアが来訪者の案内にあたるほか、地元 が必要です。 の中高校教師に日本語や日本文化を教える講座を開いていま 幸い、友好記念館の活動を評価したマサチューセッツ州政府 す。 日野原先生の音頭取りでフェアヘーブンの数カ所に植えら から5万ドル、 また地元のフェアヘーブン町役場から2万ドルの れた桜 の 木もすっかり根 付 いて、今 年 の 5月には 3 回 目の 援助が出ることになりました。 また市民の篤志家から2万ドルの 日本は寛永16(1639)年から鎖国政策をつづけていま O-HANAMIが開かれます。 また毎年10月に姉妹都市の土佐清 寄付がありました。 残りの21万ドルの資金を作るため、 募金活動 したが、 19世紀に入る頃からにわかに諸外国からの折衝 水市と交互に開いている 「万次郎祭り」 は今年はフェアヘーブン に努力しているところです。 日本の皆様のあたたかいご支援を が頻繁となり、欧米の文化や情報が少しずつ日本国内に で開かれます。 お願いいたします。 広まっていくようになりました。 そのような状況の中で、 ジョン万次郎と吉田松陰の共通点 -憂国の想い- 万次郎(文政10年、1827)や吉田松陰(文政13年、1830) が誕生します。万次郎と松陰とはわずか3歳の違いです から、生地や育った場所は違っていても、時代の大きな 変革期を共に生きた人たちといえるでしょう。 さて、私の父・日野原善輔は明治10(1877)年3月12 日、 山口県萩市で下級士族の4男として生まれました。萩 といえば長州藩36万石の城下町、 吉田松陰の主宰した松 下村塾は、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、山形有朋など 明治維新を牽引した立役者を輩出したことで有名です。 父にとっても、松陰は幼いときから郷土の英雄として祖 父母や両親からその人物像やエピソードは繰り返し聞 かされてきたようで、私も何度か父から「松陰先生」につ 2015年度万次郎ツアーのお知らせ 万次郎スピリットを考える講演会 2015年10月2日 (金)~10月7日 (水) の日程でボストンと万次郎が 日 時:2015年7月17日 (金) 12名以上参加実施) を企画しております。今回は万次郎研究家の北 会 場:LPC教育サービスセンター 暮らした街フェアーヘーブンの街を訪ねるツアー(費用30万程度、 13:30~16:00 代淳二さんが、皆様と同行し、現地の友好協会の皆様と交流を深め、万次郎の当地に 残した足跡を訪ねます。詳細をお知りになりたい方は、 事務局にお問い合わせください。 テーマ: 「ジョン万次郎と吉田松陰」 講 師:北代淳二氏他 参加費:無料 〈編集後記〉 事務局報告 2014年度収支計算書(2014.4.1~2015.3.31) 科 目 (単位:円) 金 額 【収入の部】 180,000 寄付金収入 1,092 雑収入 収入合計(A) 【支出の部】 贈による桜の植樹式が行われ た、Cooke Memorial Parkの桜 が開花し、地元の方々の目を楽 しませたとのことです。米国大 181,092 統領に万次郎の生き方が影響 を与えたとの本紙内容は皆様 334,480 事業費 今年も2年前に当協会の寄 も興味深くお読み下さったのではないでしょうか。文中で紹介されて (334,480) いるご子息の中濱東一郎氏もまた、森鴎外と同期に東大医学部を 管理費 1,249,535 優秀な成績で卒業されたのち、明治期の医療制度確立に貢献をさ 支出合計(B) 1,584,015 (友好記念館支援事業) 当期収支差額(A) - (B) ▲ 1,402,923 いての話を聞いたことがあります。 父は14歳のときに山口市で女性宣教師の影響を受け てクリスチャンになりましたが、 それを父の母は許さず、 父は勘当となって神戸に行きミッションスクールの関 西学院神学部で学び、のちにプロテスタントの牧師にな りました。そして、1901(明治34)年から3年間、さらに 1911(明治44)年から2年間、あわせて5年間を米国に留 祖先のお墓参りに萩を訪れた日野原理事長 (2010年初夏) 学し、英文学と神学を学びました。森鴎外のドイツ留学 が1884 (明治17) 年、 夏目漱石の英国留学が1900 (明治33) 年ですから、 日本は当時の先進国であった欧米から何もか も学び吸収することに熱心な時代だったといえましょう。 父が1936 (昭和11) 年5月、 広島放送局で話した 「吉田松陰先生を語る」 という原稿が残されています。 そこには、 松陰 先生は全国を旅し、 実地に見聞に努め、 24歳の時には浦賀に来航した米国艦隊も見に行っていると記されています。 松陰が万次郎について直接何かを知っていたかどうかわかりませんが、 密航を企ててまで外国に行きたかった松陰 と、偶然にしても誰よりも詳しく実地に米国の事情を手にした万次郎には、国のあり方を問う愛国者としての共通の 思いがあったのではないでしょうか。 そして、 幼いときから松陰について耳にしてきた私の父にもそれに相通じる思いがあったのではないかと思ったり もするのです。 れたなど素晴らしい人物だったとのことです。 このことも万次郎の残 した功績のひつとつといえるでしょう。 一般財団法人ライフ・プランニング・センター内「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」協力の会 〒102-0093 東京都千代田区平河町2-7-5 砂防会館5階 TEL: 03-3265-1907 FAX: 03-3265-1909 「ホィットフィールド・万次郎友好記念館」協力の会 理事長 日野原 重明 of America to the court of Japan”であると言うことを得 万次郎の新しい写真を発見 ホイットフィールド船長と記念撮影か 理事 北代 淳二 万次郎が恩人のホイットフィールド船長と一緒に写したと見られる写真がアメリカで発 見され、 大きな話題になっています。 万次郎の第2の故郷米国マサチューセッツ州フェアヘーブンの隣町ニューベッドフォー ドの図書館で、 このほど所蔵する古い写真の整理中に偶然見つかったものです。 席上、大統領は、因縁浅からぬ石井子爵のワシントン再訪 るものにて、……ペルリーが日本へ派遣された時も、彼が を愉快に思うと述べた後、日米外交に重要な関係を有す 居りたるが為に此一行は友誼に満てる歓迎を受けたので る二人のアメリカ人が同席していると前置きし、一人はマ あります」。 ( 東一郎の翻訳) シュー・ペリー提督の孫「ペリー・ベルモント」で、いま一人 まさに、万次郎に対する最高の賛辞そのものでしょう。な は大統領自身であり、自分の曽祖父ウォレン・デラノが所 お、 クーリッジは、名門デラノ家の末裔で、 ジョン・ハウラン 有する捕鯨船ジョン・ハウランド号が万次郎を救出してマ ド号の船主の一人、 ウォレン・デラノ船長の縁者であること サチューセッツ州に連れて来たことを披露するなど懇切な も付け加えておきます。 スピーチをされました。 写真の右側にはホイットフィールド船長らしい白髪で口ひげをはやした男が座り、 その 主賓の石井大使による「中濱博士より贈られた太刀の そばに万次郎と見られる三つ揃いの背広を着て帽子を手にした男が、高い椅子に浅く 贈呈」演説も、堂々として素晴らしいのです。石井個人とい の親書(6月8日)の中で、石井子爵がワシントンに来た時、 坐っています。 うよりは外務省で事前に入念に準備された原稿だったの 貴方が東京にお住まいのことを知り、有名なご尊父につい です(詳細は割愛)。 て話し合いをしたこと、自分も祖父(正しくは曽祖父)から 古写真で画質が悪い上に説明資料が何も残っていないので、推測の域を出ませんが、 既存の写真と比べると、顔の特徴から左側の男はほぼ万次郎と見て間違いなく、 また白髪 ニューベッドフォード公共図書館提供 の男はホイットフィールド船長と思われると、 船長の子孫が認めています。 万次郎が日本へ帰ってからホイットフィールド船長と再会したのは一度だけで、1870(明治3)年10月のことでした。 この時万 次郎は明治政府が派遣した普仏戦争視察団の一員に選ばれ、 アメリカ経由で渡欧しました。 そしてニューヨークで船を待つ間を 利用してフェアヘーブンを訪ね、船長一家との念願の再会を果したのです。万次郎がゴールドラッシュに加わるため、船長のもと を離れた1849年から実に21年ぶりのことでした。万次郎は43歳、船長は65歳になっていました。写真はこの時の記念に撮られ たものと見られます。 万次郎とホイットフィールド船長が145年ぶりにそろって姿を現したことになりますが、 重要な歴史資料写真として公認されるた めには、 さらに専門家の鑑定と検証が必要でしょう。 「3人の大統領」とジョン万次郎 このことが契機となって、翌月に発信された東一郎宛て 太刀受納の辞は、ホイットフィールド船長の3代目、 トー 万次郎少年の話を聞かされたこと、など親しみを込めて書 マスが行い、 「 ……両国民は互いに信義と好意との確証と いています。中濱家、デラノ家との個人的な日米友好の歴 してこの式典を賛美するでしょう」 と述べています。 史的な絆を大切にしようとする気持ちが伝わってくる手紙 万次郎が「架け橋」 となった、見事な日米親善友好の一 幕でした。 式典の終了直後、現役の第28代トーマス・ウッドロウ・ でした。 東一郎は、アメリカ大使館経由でこの手紙を受け取って すぐ外務省へ行き、内田康哉外務大臣に報告しています。 ウィルソン大統領(1856~1924)が、石井大使に送った 翌昭和9年7月には(グルー)駐日アメリカ大使にも面会し 親書(1918年7月9日付)の中で、 「 中濱万次郎の物語につ てから、ルーズベルト大統領に返事(書留)を発送していま いては特に感興を覚えたり。日米間に於ける此種の連鎖 す。民間レベルですが、 アメリカ大統領ともごく細い糸で繋 は永く悦びを以て私の記憶に残るならん」 と熱っぽく記し がっている模様がうかがえます。 ています。 さらに、東一郎の没後になりますが、昭和15(1940)年 との交友関係は、万次郎存命中 石井自身も、後年、 この式典を振り返って、自分が「万次 6月に、ホ船長の4代目、 ウィラード・デラノ・ホイットフィー 中浜万次郎の会 塚本 宏 の明治29年秋、石井が朝鮮の 郎の紀行を外交に利用して日米親善の一助たらしめんと ルドが来日した際、万次郎の3代目、清夫妻主催の盛大な 仁川領事時代から始まり、 トッ の望み」が完全に達せられて満足し、ウィルソンの手紙を 歓迎晩さん会が帝国ホテルで行われました(7月8日)。 グ 幕末に、アメリカ社会を初めて体験した日本人がジョン プクラスの 外 交 官と著 名 な 医 中濱家の貴重な記念物として、中濱博士に寄贈した時、初 ルー大使夫妻も出席して、百年続いた両家の友情を讃え 師と専門は違うものの、同じ 「日 めて愉快なる義務を済ますことが出来た、 と述懐していま る挨拶をしています。万次郎のアメリカの恩人に対する感 本 倶 楽 部 」の会 員 同 士で昵 懇 す(「外交随想」)。 謝の気持ちに基づいた、民間草の根交流が続いていたこ 万次郎だったことはよく知られています。 しかし、土佐出身の一介の漂流民に過ぎなかった万次 郎を戦前、3人のアメリカ大統領が開国に大きな貢献をし たと高く評価していたことをご存知ない方も多いのではな いでしょうか。 の仲でした。 大正6(1917)年暮、日本倶 楽部で催された石井大使の米 三人目の大統領は、前述の二人より我々になじみの深 中濱東一郎 とは感動的でもあります。 い第 3 2 代フランクリン・デラノ・ルーズベルト( 188 2~ 官民一体の努力も虚しく、日米開戦となり昭和20年の 1945)です。 もちろんアメリカ人からも“FDR”と親しんで呼 破局を迎えたことは大変残念でなりません。 この戦前の貴 もちろん、 「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」のあ 国赴任の送別晩餐会の席上、石井の方から万次郎の恩人 ばれている人気の大統領であることは言うまでもありませ 重な体験をよく知っていただき、ぜひ教訓として将来に生 る町フェアヘーブンに滞在した期間中(意外に短く3年2か ホイットフィールド船長の郷里、フェアヘーブンへ感謝の ん。 この方も、実はデラノ家の末裔で、彼の実母、サラ・アン かしてゆくことを念願しております。 月でしたが)に本人が大統領に会えるはずもありません。 贈物をしてはどうかと、勧奨的な依頼がなされたのです。 は前述のデラノ船長の孫に当たります。 最後に、当「協会の会」 ・北代淳二理事から伺いました 一方、アメリカに帰化した第一号のジョセフ・ヒコ(浜田 東一郎は即座に快諾して、当時の外務省とも折衝の上、翌 ここで、再度、石井の登場となります。時代は下って昭和 彦蔵)が、別の3人の大統領(第14代~第16代のF.ピア 1918年の独立記念日に合わせてフェアヘーブンで、石井 8(1933)年5月に、石井特命全権大使は倫敦経済会議の は、中濱家の「家宝」 として今も大切に保存されているとの ス、J.ブキャナン、A.リンカーン) と実際に面接しているのと 大使出席のもと 「日本刀」の献呈式典を催すことになりま 予備交渉のため、 ワシントンDCに出張し、就任早々のルー ことです。然るべき場所で一般公開され 、是非一度、実物 は対照的です。 した。 ズベルトに会っています。石井ら一行を歓迎する午餐会の を拝見したいと思うのは私だけでしょうか。 実は、万次郎が評価されたというのは、彼の没後20年を 式典当日(1918年7月4日)、 フェアヘーブン、ニューベッ 経た後のことですが、そこには日米親善外交にとって貴重 ドフォード両町は住民あげての祝賀ムードに包まれ、町中 な裏面史があったのです。 に日米両国の国旗が翻り、参加者は1万人を数え、まさに 日本外交の長老、陸奥宗光、小村寿太郎の後継者と目さ れる石井菊次郎子爵(1866~1945)のことを知る人も、 マサチューセッツ州の「州祭」の観を呈したと言います。 式典で「歓迎の辞」を演説したのは、当時のマ州・副知 今日では少ないはずです。彼は、外務大臣、駐米大使など 事ジョン・カルヴィン・クーリッジ(1872~1933) で後の第 の経験者で、第一次大戦後の国際連盟・日本代表としても 30代大統領でした。その触りの箇所だけを紹介すると次 活躍されました。最高の親米家でありながら、不幸にして の通りです。 1945年5月25日の東京大空襲でなくなった悲劇の外交 官でしたが、万次郎とは深い縁で結ばれています。 石井子爵と万次郎の長男、中濱東一郎(1857~1937) 彼が、日本人の国民性である「孝行」を成し遂げる決心 をしたことは教訓とすべきだと述べたあと、 「 彼の帰国は日 本朝廷に対する米国の第一の大使“the first ambassador が、 ウィルソン、ルーズベルト両大統領からの「2通の親書」 土佐清水訪問万次郎ツアーが開催されました 昨年の10月24日 (金) から26日 (日) にかけて、皆様にご参加頂き 「土佐清水訪問万次郎ツアー」 が行われ ました。 まず 「新老人の会」高知支部フォーラムでの1000人を集めた日野原理事長の講演会に参加し、続 いて行われた日米の戦前からの民間交流として米国に37支部、 日本では高知で28番目となる、高知日米 協会の発足懇親会に参加しました。翌日はチャーターバスにて土佐清水に移動。 この日はジョン万祭りと 同時開催された 「市制60周年のつどい」 で土佐清水は大いに盛り上がっておりました。市制式典では、 中濱京さん、駐大阪・神戸米 国領事やフェアーヘブンからジェラルド・ルーニー氏も来席されました。私たちツアーに加えて全国から駆けつけたジョン万ツアーの 参加者50名も、 ジョン万群像広場で繰り広げられた仮装コンテストやかるた取り大会などのイベントを楽しみました。3日目には午 前中に土佐清水で万次郎生家などを見学後、高知に移動し高知龍馬空港で解散となりました。
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