クラリネットで吹く「ラヴ・ウォークト・イン」

 ギターの爪弾きにこたえるかのようにベースがリズムをきざんだ後、クラリネットが甘くうた
いはじめた。受話器を手にきき耳をたてた彼女は、一瞬、虚をつかれ、半年ちかい時間的空白を
忘れて、彼の声を待った。 「ジェリー・マリガンが、バリトン・サックスではなく、クラリネットを吹いてレコーディン
グするのは、とても珍しいんだよ。それにしても、マリガンはミュージシャンだね。ほら、こん
なに、無理なく、柔らかにうたっている・・・」 彼女の部屋で静かにひびいていた、その音楽を、目を細め、陶然とききいっていた彼の横顔が、
昨日のことのように思い出され、彼女は、もうちょっとで涙ぐみそうになった。 「『ラヴ・ウォークト・イン』という、ガーシュウィンの曲なんだけれど、この時代のアメリ
カの歌には、独特の品位があっていいな」 彼は、カセットテープにダビングしてきたマリガンの吹く「ラヴ・ウォークト・イン」をきき
ながら、ほとんどひとりごとのように、そんなこともいった。 「わたしも好きよ、この曲」 「それは、よかった」 そんなやりとりがあってから、彼は、電話をしてくるときにはいつも、まず、ジェリー・マリ
ガンがクラリネットで吹く「ラヴ・ウォークト・イン」をしばらくきかせてから、おもむろには
なしだすようになった。 デザイナーの彼は、アシスタントを三人ほどおいて、仕事をしていた。ぼくの仕事は神経の集
中をしいられる仕事だから、といって、彼は、彼女のみならず、他人に電話をかけられることを
嫌っていた。彼女としても、自分の存在を彼のアシスタントに気づかれたくなかったので、彼の
事務所に彼女から電話をすることはなかった。まして、彼が直接電話にでるかどうかわからない
のに、彼の家に電話をかけられるはずもなかった。 職業柄、彼の仕事は、夜遅くまでかかることが多かった。したがって、彼からの電話は、しば
しば、深夜ちかくになってからかかってきた。 件の音楽がきこえた後、彼は、いつだって、「もしもし」も、「どうしてる?」もなしで、い
きなり、「ああ、疲れた」、といった。彼の「ああ、疲れた」には、そのことばをきいているひ
とを想定しないところで呟かれたような気配があった。結局、最後まで、どのようにあいづちを
うったらいいのか、彼女にはわからなかった。それで、やむをえず、彼女は黙っているよりなか
った。 しばらく間があってから、彼は、ぼそぼそと、その日にあったことのあれこれをはなしだすの
が常であった。「ラヴ・ウォークト・イン」のトラックだけがリピートになっていたようで、そ
の音楽は、彼のはなしの背後でいつまでも途絶えずにきこえていた。 「はなしていたら、すこし元気になってきたよ。これから、いってもいい?」、ということも
あれば、「今夜は帰るよ、それじゃ、また」、といって、そっけなく電話を切ることもあった。
ほんとうに勝手なんだから、と呟きながら、丸めた雑誌で電話機に一撃をくわえている彼女のこ
となど、彼にわかるはずもなかった。 「おぼえていないんでしょう?今日はわたしのお誕生日よ。ワインを冷やしてあるんだけれど、
どう?」 「そうだったっけ、すっかり忘れていたよ。そういえば、前に一度きいたことがあるね、きみ
の誕生日がルイ・アームストロングと同じ七月四日だということは」、と彼は、あっさりといっ
てのけ、誕生日を忘れていたことをわびる様子もなかった。ルイ・アームストロングの誕生日は
ちゃんとおぼえているくせに、わたしの誕生日を忘れるなんて、どういうこと?普通の女であれ
ば、口を尖らしたあげく、口論のひとつもあって不思議はなかったが、彼女は、ほんとうに冷た
いんだから、といって笑うだけであった。 実は、彼女は、大奮発して、彼の好物である極上のキャビアも仕入れてきて冷蔵庫にいれてあ
った。しかし、キャビアで彼を釣っているように思われるのが嫌で、そのことについては彼にい
わなかった。彼女のほうから彼を誘ったのは、そのときが最初で最後であった。しかし、彼は、
彼女が思い切ってくちにした誘いのことばにもかかわらず、なにくわぬ口調で、
「今夜は帰るよ、
それじゃ、また」、といって、電話を切った。 彼は、誘われようと誘われまいと、自分がきたいときには、彼女の都合などおかまいなしにや
ってきた。彼について彼女のしっていることといえば、ごくわずかしかなかった。それでも、彼
女は、そのことを気にしていなかった。はなしたいと思えばはなすであろうし、はなしたくない
ことを質問ぜめにしてききだしてもなんの意味もない、と彼女は思っていた。問わず語りにはな
す彼のはなしから、ぼんやりと浮かびあがる彼という男とその周辺のことはわかっていたが、そ
れ以上のことをしりたいとも思わなかった。 そういう時期がしばらくつづいた。 「この頃、やけにつきあいが悪いな。会社がひけてから、なにか別の仕事でもしているの?」 勤め先の仲間と飲みにでかけることもなく、仕事が終わるとそそくさと帰ってしまう彼女に、
さりげなく、そう尋ねた同僚がいた。 「しりたい?理由を?」 彼女は、いかにも秘密めかして、そう尋ねかえした。相手が大きくうなずいたのをみて、彼女
は、こういった。 「あなたの考えているとおりの理由よ」 「・・・・・」 「みそこなわないで、わたしにだって、みんなに隠している恋人のひとりやふたりいるのよ」 そのようなことがあってから、多分、彼女のはなしたことがみんなに伝わったのであろう、だ
れも彼女を誘わなくなった。そして、誘われないのをいいことに、自分の部屋に直行した彼女は、
いつかかってくるかもわからない彼からの電話をひたすら待った。 普通のひとであれば、いつかかってくるかもわからない電話を漫然と待つという日課を、退屈
と思ったり、徒労と感じたりしたにちがいなかった。しかし、彼女は、ほとんど嬉々として、と
いいたくなるような様子で、そのような日課を日々くりかえしていた。もともと、彼女には、人
間嫌いというわけではなかったが、大勢のひとたちと騒ぐより、ひとりで本を読んだり、レコー
ドをきいたりしてすごすことのほうを好む傾向があった。 おそらく、ひとは、大きくわけて、ふたつのタイプにわかれる。攻めのタイプのひとと、守り
のタイプのひととである。彼女は守りの典型的なタイプであった。彼とのつきあいにしても、強
引としかいいようのない彼の行動におしきられたかたちで、はじまった。 「このテープ、きみの部屋でききたいんだけれど」 まだしりあって間もない頃の、だしぬけの、そのことばに、彼女は驚いたものの、大袈裟に反
応するのも子供っぽいと思い、軽い口調で、こういった。 「なかみはどんな音楽なの?」 「それは、きいてみれば、わかるよ」 そうやって、彼女は、ジェリー・マリガンの「ラヴ・ウォークト・イン」をはじめてきいた。 「考えていたよりいい装置できいているんだね」 などといいながら、彼は、アンプのスイッチをいれ、自分でテープをセットした。そして、し
ばらく、「ラヴ・ウォークト・イン」に耳をすませていた。テープがつぎのナンバーに移って、
ジェリー・マリガンがバリトン・サックスで吹く「フィールス・グッド」になった。彼女は、彼
の真意をはかりかね、どのように対応したものかとまどっていた。 「もうすこし飲む?」 彼は首をふって、手をさしのべた。彼女がわれにかえったとき、カーテンの隙間から朝日がさ
しこんでいた。 「今夜、また電話する」 それだけいって、彼は帰っていった。しかし、彼から電話があったのは、それから三日ほどた
ってからであった。彼は電話をかけるといった約束の不履行をわびるでもなく、 「どう、でてこない?」 と誘った。時計の針はすでに十二時にちかづきつつあった。 「この時間、こっちからはタクシーが拾いにくいんだけれど、そっちからなら拾えるだろう?」 まことに勝手な彼のいいぐさであった。しかし、彼女は、すぐいくわ、といって電話を切り、
みていて切なくなるほどあわてて外出の準備をし、部屋をとびだしていった。 彼女は自分が彼という男が好きなのかどうかわからないでいた。ただ、彼に会って彼のはなし
てくれるのをきくのが、彼女は大好きであった。彼のはなしをきいているとき、彼女は、しばし
ば、彼に較べたら、他の男はみんな半分死んでいる、と思ったりもした。彼はこれといったこと
を彼女にはなしたわけではなかった。彼が彼女にはなしたのは、仕事先で耳にした面白いはなし
とか、読んだ本のはなしとか、そういった類の、およそ生活臭のないはなしばかりであった。ロ
ーンのはなしも、息子の入学のはなしも、彼からはついに一度もきいたことがなかった。 そして、半年ほど前のある日をさかいにして、彼からの電話がとだえた。特に彼との間になに
かがあったということでもなかった。いつものように、 「また、明日、電話する」 といって帰って、それっきりになった。それからしばらくして、彼女は留守番電話をとりつけ
た。 彼女が、今、きいているのは、その留守番電話に残された彼の声であり、ジェリー・マリガン
がクラリネットで吹く「ラヴ・ウォークト・イン」であった。半年もかけて鎮静化につとめてき
た彼への思いが、ひさしぶりに彼の声をきいたことで、一気に燃えあがろうとしていた。 彼女は受話器を耳におしあて、留守番電話に残された彼の声をきいた。ジェリー・マリガンの
「ラヴ・ウォークト・イン」をバックに、彼は、あいかわらずの口調ではなしていた。 その電話はまちがいなく彼からのものであった。しかし、はなしの内容が、彼女には、よくわ
からなかった。 「そそっかしいわね。きっと、電話番号をまちがえたんだわ」 そういいながら、彼女は笑ったつもりであったが、頬に涙がひかっていた。 「ラヴ・ウォークト・イン」 inジェリー・マリガン・ウィズ・ストリングス」(日本フォノグ
ラム/ライムライト32JD133) ※ 「ジャズ小説」 第14回「ラヴ・ウォークト・イン」