真正性の価値づけと市場のハイブリッド化

真正性の価値づけと市場のハイブリッド化
―テロワール・ワインと有機農産物を事例に―
須田 文明、 森崎 美穂子
1.はじめに
現代資本主義、非物質的ないし無形遺産的intangible蓄積体制と我々が呼ぶレジームにおいては、情
動労働や非物質的な価値、事物の真正性が蓄積の源泉となることがしばしばである。本稿では事物の真
正性をめぐる「価値づけvaluation 」(Dewey,1939)と、事物の真正性をめぐる試験装置を特に検討する
ことになろう。非物質的=無形遺産的蓄積体制において真正性が重要な位置を占めている、という理由
の他に、事物の真正性をめぐる試験の問題がフランスの社会諸科学全体の「プラグマティックな転換」
(Bessy, Chateauraynaud, 2013,p.432)を伴っていたからである。フランスにおいて、それはBessy, Chatea
uraynaudの「手がかりprise」やHennionやTeilの「テイストgoût」等として検討されてきた。我々として
は価値づけを、共通表象ないしコンヴァンシオンと同義語として扱うことになろう。近年こうしたアク
ターネットワーク理論やコンヴァンシオン経済学に刺激されて、英語圏でもvaluation studiesというかた
ちで、事物や証券取引所でのエスノグラフィーなど多様な事例をもとに、価値づけに関するプラグマテ
ィズム・アプローチが隆盛を見せている。事物がいかに価値づけられ、その真正性が試験されるか、本
稿ではJ.デューイから始まり、コンヴァンシオン経済学、とりわけ価値の経済学(economie de la grand
eur)、価値づけのエスのグラフィー、アクターネットワーク理論(Callon, Henionら)などを通じて、見て
いくことにしよう。ここではワインや有機農産物という事物を事例にすることになろう。
ワインのようなテロワール産品は芸術作品と同様、真正性についての根本的な逆説を有している(須
田2013;Boltanski, Chiapello,1999=2013)。財やサービスが真正であるためには、その特異性を市場領
域外からくみ出さなければならず、純然たる使用価値であるような(つまり商品でないかのような)、
オリジナルなものを参照しなければならない。ところがこれらの財やサービスが市場で販売され、利潤
をもたらすためには、ある種の「コード化」を免れない。こうしたコード化による商品化を通じた真正
性への需要の内生化は、熱中と失望の急速な循環を促すことになる。これはすでに有機農業について、
しばしば指摘されてきたことでもある。つまり真正な市場財は、市場で流通するためには、市場関係以
前の状態を参照して提示されなければならないが、他方で、「ニセモノ」と区別されるためには、生産
仕様が厳格に規定され、トレーサビリティシステム等を通じて、コントロールされなければならない。
さらに深刻なことに、真正を「売り込む」ことによって、真正なる財や、生産者の提供するサービス、
感情が、利潤を目的としたものではなく、生(ナマ)の自然発生的表出なのか、それとも、真正な財を
商品化するための熟慮の結果なのかを知ることがきわめて困難となる。テロワール産品の真正性は、た
んに標準品との差別化するための熟慮の結果ではないのか、を知ることが困難となるのである。要する
にテロワール産品による真正性の需要の回収は、当該産品とその生産者に関して新たな不安を惹起する。
それは真正であるのか、それとも「ニセモノ」であるのか。テロワール産品は、その特異性を引き出す
ためには、真正性と「ニセモノ」との間に境界線を作らなければならないことになる。ところがこの境
界線は絶えず移動せざるを得ない。テロワール産品は自らの商品化を通じて、真正性の需要を回収する
と同時に、他方ではこうした真正性を絶えず修正しなければならないことになるからである。このため
に、真正性への需要も「素朴」なものではありえず、こうした産品の消費者もまた、真正性を売り込む
生産者のたんなる犠牲者なのでもなく、生産者も消費者も、絶えず真正性の構築に反省的にコミットす
ることになる。
2.真正性の価値づけ
(1)価値づけへのプラグマティズムのアプローチ
ある財やサービスが真正である、と判断するためには、かかるものとしてこれらを「価値づける」こ
とを前提としている。真正性という「価値」は他の様々な通約不可能な諸価値と同様、市場でさえ「比
較され」、取引されるが、やはりそのほかの諸価値と同様、市場価格のみに還元されるものではない(市
場的価値を除いては)。こうした「価値づけ」のテーマが、英語圏での valuation studies というかたち
で、コンヴァンシオン経済学やアクターネットワーク理論と共鳴しつつ隆盛を見せている。この問題を
最初に検討したのは、アメリカのプラグマティズムであった。J.デューイの『価値づけの理論』Theory of
Valuation (1939)は価値づけは価格設定 pricing に還元できないとする。以下、引用しておこう(Stark, 2011
も参照)。
「『価値づける』という動詞の用法に限って注目してみると、われわれは日常会話が二重の語法を示し
ていることに気づく。というのも、辞書を一瞥すると、日常的会話で『価値形成 valuing』や『価値づ
け value』という言葉は貴重である、大事にする(また、尊敬する honoring、崇める regarding highly、
のような多様なほとんどよく似た諸活動)という意味での尊ぶ prizing と、価値を付与する、価値を割
与えるという意味での評価=鑑定 appraising とを示すために動詞的に用いられるからである。これは一
つの格付け rating の活動、例えば、財やサービスを金銭の用語で評価=鑑定することで明らかなように、
比較を含む一つの行為である」(デューイ、『価値づけの理論』岩田浩訳 p.90.訳語を一部、変えた)。
ここでデューイは、価値づけは市場価格付けに加えて、尊ぶこと prizing、や評価=鑑定 appraising を
通じても起こりえることを指摘している(Stark,2011,p.323)。さらにデューイは、評価=鑑定 appraisal と
尊ぶこと prizing を区別し、以下のように述べる。
「その二重の意味は、価値づけに関する基本的な争点の一つがそこに含意されているが故に、有意義で
ある。というのも尊ぶ prizing においては、明確な個人的関係を有する何らかのもの、すなわち、特に
個人的な関係に関するするあらゆる作用のように、情動的と呼ばれる一面的性質を有する何らかのもの
に力点が置かれるからである。」(同 p.90-91)。「しかしながら、評価=鑑定としての価値づけは、
主として諸対象の関係的性質に関わるので、それゆえ個人的=情動的なことが『尊敬する』から識別さ
れた『見積もる』の中に見いだされる知性的な面が同じ一般的語法の最高位に位置づけられるのである。
同じ動詞が二つの意味で用いられるということは、現在それによって諸学派が分たれている問題を示唆
している。その二つの意味関係のうちのどちらが、その含蓄において基本であるのか。二つの作用は別
個のものなのか、あるいは補完的なのか」(p.91)。
価値づけに伴う、情動的な作用と、知性的なそれという二つの作用は、
「別個のものなのであろうか、
補完的なものなのだろうか」。Stark は、こうしたデューイの考察が、けっして時代遅れのアプローチ
なのではなく、現代のインターネット社会経済的背景において、消費者によるオンライン格付け(『い
いね!』)やランキングが今や、prizing と appraising についての新しいデータベースを供給する、とし
ている。こうした valumeters (Latour, Lepinay, 2009, p.16)は新しい測定と度量衡を必要とし、これらは量
化可能であるが、個人的価値のこれらの度量衡は貨幣タームで表現される必要はない。Prizing と
appraising は価格へのオルタナティブな度量衡をなしている。
さて、やはり Stark (2011)によれば、驚き surprise と賞賛 praise とが関連づけられる。ここでは、単に
評価=鑑定されるだけではく、驚きの感情をインスパイアし、ユーザーを想像力の世界へと誘う、ある
財の能力が検討されることになる。Stark (2011)は、Beckert を引用し、財のパフォーマンスの三つの次
元を区別し、財の「物理的」パフォーマンスは、それが物理的世界で行うことに関し、「地位上の」パ
フォーマンスは、財がその所有者をして、社会的世界において差異化されることを可能とする。物理的
パフォーマンスが物理的世界でのいくつかの変容を遂行する能力と関係し、地位上のパフォーマンスが
象徴的意味の社会的世界における変容を遂行する能力に関わる一方で、財の想像的パフォーマンスは、
当該の財の所有者自身の想像力における意識変容に関連する。こうした想像的財は、その保有者に対し
て、無形の intangible 価値もしくは美学的理念と接触させる、「超越的なるものへの架け橋」をなし、
、、、、、
「今、ここでを超越する」能力と関連づけられる。とりわけこうした財の象徴的意味は階級構造の再生
産に不可欠でもある。財の象徴的意味に基づいた価値は、今日の現代経済における資本蓄積にとって、
価値の主導的源泉をなしている。
さらに Stark (2011)は、Hutter を引用し、価値づけが「認知的と情動的、知性的と感情的な」複数の
領域へと転換されることを示し、財の、「感嘆 surprise」を生み出す能力を指摘する。
価値とは何なのであろうか。Munieza (2011)は、価値を巡る議論に絶えずつきまとう、主観的、客観
的という二項対立を退け、価値の概念を「価値づけ」という活動へと代替させる。デューイはその価値
づけ論(1933 年)の以前に、実在論と観念論との論争に、真正面からではなく、側面から flanking movement
関与する。
「結論は、価値が主観的であるということではなく、価値が実践的である、ということである。価値
の判断が要求されるような状況は精神的なものではなく、ましてや空想的なものでもない。それは存在
論的であるが、その財や価値が(まず第一に)行動において達成されるべき何事かにあるような何事か
として存在し、(第二に)その価値が、理念としてとともに、存在としても、何をなすべきかについて
の判断に依存しているような何事かとして存在している。価値は『客観的である』が、価値が客観的で
あるのは、活動的もしくは実践的な状況においてそうなのであって、こうした状況からはなれてではな
い。こうした見方の可能性を否定することは、すべての道具と機械の客観性を、それを構成している物
理的成分へと縮減することであり、特徴的な「田畑 plow」の性格を単に主観的として扱うことである」
(Dewey, 1915, p.516)(Muniesa,2011,p.4)。
さらに引用しよう。「文字通りに言えば、価値のようなモノは存在しない。ユニークさを持つ、価値
の、経験された、しかし定義不可能な品質をもっているモノは存在する。複数形における価値であろう
と、単数形のそれであろうと、価値はそれぞれ品質を有する、ある事物ないし事象、状況のための簡便
な省略である。モノを価値と呼ぶことは、野球において、投球をストライクと呼んだり、ヒット、ファ
ウルと呼ぶことのようなものである」(Dewey, 1923, p.617)。ここにおいても、それ自体にある何かとし
ての価値よりも、価値づけの活動や実践を強調することが、デューイの、当時の『観念論』と『実在論』
との論争を排除するための横やりの運動 flank movement のやり方であり(Munieza, 2012)、価値の二極
化を拒絶し、ある種の遂行として価値を理解し、価値づけは行動として解明される。価値づけは遂行パ
フォーマンス(ドラマトゥルギー的意味での)の形態の一つなのである。
ここで Muniesa はある種のパフォーマンスとして価値づけを理解する(Stark, 2011)。Munieza は価値
(名詞、特徴)から、価値づけ(過程、実践的活動)へとシフトすることで、デューイの上述のリスト
(price,prize,praise,)が動詞であることを想起させてくれるのである。
( 2 ) 価 値 づ け valuation と 価 格 付 け pricing
Valuation Studies の潮流の中で、価値づけと価格付けとの関連はどのようになっているのであろうか。
Aspers, Beckert (2011)によりながら検討しておこう。
市場とはヒエラルキー(企業組織)やネットワークと並ぶコーディネーション形態の一つであり、そ
こでの特徴は競争の存在により特徴付けられる。競争とは、共有し得ない目標を目指して争う二人以上
のアクターの存在を前提とする。市場的相互行為において競争が登場するためには、こうしたアクター
たちが財を相互に、その相対的価値を評価し価値の観点からこれを比較することができなければならな
い。市場的秩序が存在することは、価値と価格の不確実性が縮減されていることを意味するが、財の価
値について品質判断の困難が常に存在する。それは財について異なった価値が併存する以上、当然のこ
となのである。例えば財は経済的価値のほか、倫理的価値、美学的価値に訴えることができる。異なっ
た価値尺度が競合的に存在し、事物を格付けする。モノの評価はそれぞれの尺度に基づいて測定され、
比較される。事物の評価が崩壊するのは、これらの異なった尺度の使用に由来する。財の価値づけの間
での対立が見られるのである。ある尺度から別の尺度へとは翻訳不可能なのである。しかし、現実的に
は、こうした翻訳がなされている、美術品が美学的尺度から価値づけされようと市場価格を持ち、質的
に異なった事物が貨幣による価格という共通尺度により通約されるのである。
Aspers, Beckert (2011)の議論を続けよう。重農学派や古典派経済学(労働価値説)とは異なり、財は
内在的価値を持たないという直感が限界効用理論に基づいた新古典派経済学に道を開いた。これは、経
済価値を評価する際の客観的測定を放棄する代わりに、価値の根本的な主観化をもたらした。限界効用
理論は選好を外生的と考え、市場における相互行為を、選好の生成、再形成するような要素とは考えて
いなかった。つまり市場参加者はそれぞれ、財の束について固定された選好をもって市場に参加し、彼
らに入手可能なそれぞれの予算を通じた購入へと制限されている。その代わり新古典派経済学は、相対
価格の変化に対して需要がいかに変化するかの問題、製品への需要における変化とともに価格がいかに
変化するかに関心を持ち、価値をもっぱら市場交換領域に根付かせることとなった。こうして新古典派
理論からは選好形成の問題が排除される。ところが選好を外生化することが可能なのは、新古典派が自
らを、「既存の」選好に基づいて、いかに市場均衡が生じるかを説明することに自らを限定している限
りのことである。選好の起源について沈黙し、「すべてのアクターたちは完全に定義された効用関数を
持っているという状況から出発することは、市場の問題がすでに、部分的に解決されていることを想定
している」(Jagd,2007,p.84)。こうした新古典派経済学の限界はこの学派に内在的にであれ、外在的にで
あれ克服されつつある。例えばスノッブ効果は、他者の消費パターンに由来する需要の変化に言及し、
選好が他者の選好から独立しているという想定を破棄する。近年の経済学は選好のブラックボックスを
開けつつある。アクターたちが状況へと自らの選好を適応させるような状況で、選好の内生的変化が観
察される(Lichtenstein, Slovic, 2006)。例えば、アクターたちが、目標が達成不可能であると思われるや、
もはやその目標は欲求されないとされる(Elster, 1983)。
なるほど、購買に関する多くの意思決定はルーティンとしてなされている。しかし、いかにして価値
が決定されるかを考えると、市場における価値判断をなすための生産者と消費者との間に複雑な社会メ
カニズムが存在することがわかる。買い手が「市場での財について明確な主観的価値を形成する」こと
ができる場合にのみ、つまり彼らが財の価値の間で区別することができる場合にのみ、また売り手が、
自らの財の価値を示すことができる場合にのみ、不確実性が縮減され、買うための性向が起こる(Kocak,
2003, pp.5-6)。コンヴァンシオン学派の言うように、市場的コーディネーションは財の品質についての
共有された理解を前提としている。市場秩序の問題と評価の問題との結合は、買い手でも生産者との間
でも明らかになる。需要サイドでは、消費者は市場で提供される財を比較し、そのほかの財と関連させ
て、この財の望ましさについて判断しなければならない。供給サイドでは、生産者は、市場手供給され
る別の財に比較して、自らの財の価値を証明しなければならない。
自らの経済的価値を構成している製品の象徴的品質は、製品の格付け実践を通じて構築されなければ
ならない。消費財市場では意味作用システムは消費者や生産者の実践、市場媒介者を通じて、またこれ
らの間の相互作用を通じて生産され、再生産される(Callon et al. 2002)。社会的実践における財の評価の
過程導出的 process-driven 性格は選好の外部性と対立するのである。商品の潜在的購入者は、財の選択
に当たって、どのようにして価値判断に至るのであおるか。例えば、弁護士のサービスが価値あること
についての完全なる情報なしに、いかに弁護士を決定すべきか(Karpik, 2010)。こうした問題は財の「個
人化」(Callon,2002, p.267)を要求する。問題は何が品質として格付けするかである。多くの経済社会学
が市場価値の構築の不可欠の一部として財の格付け過程を研究しており、ネットワーク、格付け、市場
デバイス、判断デバイスといった概念が、いかにして市場アクターたちが市場で取引される財の品質に
ついての判断に至るかを研究する。
市場でアクターたちが出会う不確実性の一つは、財の格付けにおける偶有性による。格付けは、交換
される製品の品質についての共有された認知的、規範的理解の展開と関連する。こうした品質の共有さ
れた理解は、市場での相互作用過程を通じて登場し、これがコンヴァンシオンの形成に至る。対立する
「価値の秩序」が同時に制度化されることができ、アクターたちに対して、それらの間で交渉するよう
にさせる。これことが評価過程のダイナミズムの重要な源泉である。
製品の品質の確立した基準は、しばしば組織的活動の帰結である。市場における価値評価の研究は、
そのアイデンティティ、市場におけるその製品ポジショニングを通じて、組織が決定的役割を演じるこ
とを示している。組織が評価過程で役割を演じるのは、市場デバイスの設計を通じてだけでなく、市場
で支配的なデバイスの所与のレジームの下での製品ポジショニングを通じてでもある。企業は、顧客を
製品に接続=愛着させようとし、他の競争相手の製品から顧客を引きはがそうとする。この接続=愛着
attachment と、引きはがし detachment が競争の中心にある(Callon, 2002, p.207)。
Stark (2009)は、評価における確立したルーティンおよびスクリプトからの逸脱、確立した判断デバイ
スの使用からの逸脱を強調する。彼は、価値はコンヴァンシオンに追随することから生じるのではない
と論じる。価値はルーティンとデバイスからの「逸脱」から生じる。企業家についてのシュンペーター
的概念に近く、ルーティンと決別し新しい結合が確立される。価値は「複数の評価原則を働かせ、その
相互作用から生じる摩擦を活用するさいの能力」(p.15)から生じる。企業は、様々な価値評価(一つの組
織的セッティングの中に同時に存在し、「生産的摩擦」を生じる)の間での相互作用を通じて価値ある
ものを発見するのである。
アクターの間での解釈学的同意への不協和音を強調することで、Stark は(市場デバイスを通じた、こ
うした不確実性を縮減する必要性を強調する)経済社会学の多くと対立する。Stark (2009)は、デューイ
の概念、すなわちルーティンが崩壊し、アクターたちが困難な複雑な状況に直面したような状況での特
別な行動様式として「探求 inquiry」概念から出発する。このような状況では、アクターたちは、問題
の理解を発見しそれへの可能な解決策を試行錯誤の過程を通じて発見するような社会的実践を通じて
のみ、こうした状況に対応できる。評価は行動の中で起こるのである。
価値は価格とは異なるが、市場は経済的価値を価格の形で確立する。それぞれの市場は、特定の事物
が、その美しさの故に、倫理の故に、どのように貨幣で評価されるべきかについての考えを持っている。
しかしこれらの価値は、貨幣に応じて並べられると唯一の尺度をあてがわれる。市場価格は経済価値と
同一ではない。市場価格は市場過程における製品の経済価値の様々な評価の帰結である。市場価格は、
故人がその製品に当てる経済価値とは異なるかもしれない。しかし市場価格は同時に、市場の、支配的
制度的ルールの、ネットワークの、コンヴァンシオンの帰結である。
(3)テイストとしての価値づけフレーム
財やサービスの価値づけが認知的、知性的側面と、他方での情動的、感情的側面を含む「活動」であ
ることが J.デューイによりすでに明らかにされているとしても、その財の価値を測定するさいの方法や
道具、財をめぐる身体的知覚はどのように価値づけに関与するのであろうか。またデューイにおいて
(Dewey,1918,さらに Bessy, Chauvin, 2013 も参照)財やサービスを価値づける際に対象となるのが諸価値
であり、これは品質と呼ぶことも可能である。すなわちデューイによれば、価値は、豊かな、経験的観
察可能な事実であり、この事実は価格や、美学的評価、評判、ステータスといった多様な形をとること
ができ、一般的に、特定の状況の下で特定の効果を伴う、イベントや状況、事物、組織、人物に付与さ
れた「品質」として定義することができる。こうしてこのプラグマティズム・アプローチは価値そのも
のよりも価値づけ「活動」に注意を向け、市場での経済的、象徴的価値の構築においてどのようなアク
ターが決定的であるかを観察することを可能とさせる。あらゆる市場の形成には、価値づけ活動と、そ
れを導くフレーミング、すなわち価値づけフレームとしてのコンヴァンシオンが関与している。Hennion
はワインの試飲状況を事例にして、
「テイスト」という概念を提示することで、価値づけに身体や状況、
測定道具、そして事物そのものがどのように関連しているかを明らかにしているので紹介しておこう。
エニオン(Hennion, 2005)らのフランスにおける「テイストのプラグマティズム社会学」は、テイストは単なる事実認
定的 constatif ではなく、行為遂行的 performatif であるとする。つまりテイストは単に事物の性格を記述するだけ
ではなく、やり方、訓練、テイスティングが依拠すべき道具や手法の蓄積を通じて、絶えずテイストは更新される
のである。以下、フランス流の「テイストのプラグマティズム社会学」についての議論を取り上げることにしよう。
経済学は市場的アクターの行為と調整を相互に調整することで、市場が機能するさいに、事物とその
品質に関する共通の目印ないし共通表象(コンヴァンシオン)(それは端的には価格――Stark とともに、
必ずしも市場価格とは限らないが価格として識別される――に体現される)が果たす役割を明らかにし
てきた。しかし価格や(品質に関する)共通表象のみが市場的アクターの間のコーディネーションを可能
としているのであろうか。財やサービスの品質評価において、身体感覚を関与させる格付け=価値づけ
もまた、適切なエビデンスを提供することで市場的コーディネーションを可能とさせる。この場合身体
感覚はいわばセンサーとして品質の格付け、価値づけに参画するのである。
それにしても嗜好=風味とは不思議な概念である。英語の taste やフランス語の gout という単語は、
事物の持つ風味や味を示すと同時にヒト・エージェンシーがある事物に対して有する嗜好や好みを示し
ている。事物とヒト・エージェンシーとの相互作用を考察するのに、嗜好=風味を取り上げるのが適切
な理由もここにある。こうした観点からテイストを考察しているのが A.エニオンや G.テーユといった
フランス鉱山大学イノベーション社会学センターCSI グループに近い研究者たちである。本稿でも彼ら
の議論を大いに参照することにしよう。
テイストを考察するに当たり、エニオン(Hennion, 2005)がまず批判の俎上にのせるのがブルデューに
よる先行研究である。『ディスタンクシオン』に示されているように、ブルデューはテイスト実践を、
隠された社会的規定要因へと還元し、ワインや美術などについての様々な愛好家を、アタッチメントの
受動的主体としてしか考えない。つまりテイストの対象たる事物は記号でしかなく、嗜好する主体は社
会的地位を再生産しているだけであり、テイストとは文化による支配の隠れ蓑でしかないことになる。
エニオンはこうしたブルデューの見解に対して、嗜好が何よりもまず反省的な活動であることを強調
する。テイストは、既存秩序の再生産のみならず、遂行的な性格を有している。愛好家は情動に満ちた
アタッチメントを通じて、能動的かつ生産的に、事物や作品、テイストを変容させ、新しい感覚を創出
することができる。しかし上述のように、テイスト実践をロマン主義的に理解してはならない。テイス
トは集合的に枠組みづけられ、デバイスを装備された状況の中で遂行されるからである。また事物や作
品は、これらの事物に向けられる「まなざし」そのものを同時に作り上げるのであり、事物とその評価
枠組みとが同時的に産出されることになる。こうした集合的評価枠組みが事物とその価値を生産すると
同時に、事物の市場への流通や使用方法などを規定する。
こうしてエニオンは、嗜好することとは、自らの社会的アイデンティティを示すことでもなく、事物
に予め含まれている隠された特性を自らのコンピテンスにより「解読」することでもなく、すぐれて「遂
行的な」実践であることを強調する。つまり事物のテイストは予め事物に挿入されている所与なのでは
なく、テイスターの遂行的パフォーマンスから生じる。つまりテイストの記述にしてからが愛好家のノ
ウハウに属し、テイスターのこのパフォーマンスは技術や身体トレーニングに依存するのである。しか
し強調されるべきことは、こうしたテイスターの反省的活動は高度に枠組みづけられていることである。
例えばある領域が一般性を得るに従って、ガイドブックや批評が生じ、それぞれの領域が特殊なボキャ
ブラリを生み出す。上述のようにワイン批評などではこうした特殊な表現(甘いフルーツの香り、トリ
ュフの香り等)を通じて、テイストは身体感覚のなかに記憶される一方で、他者とも共有されるのであ
る。
エニオンによればこうしたテイストを構成する 4 つの要素があり、テイストは事物と身体とのロマン
主義的な直接的突き合わせではなく、テイストが動員する 4 つの基礎的要素により生産される。このよ
うな要素とは、事物と集団、デバイス(それが構成している状況や布置)、身体である。これらの要素
がテイストの生産において登場し、そこで一貫性を与えられることになる。テイストとは単に事物との
直面であるだけなのでもなく、また集合的表象であるだけなのでもなく、これらの要素に複合的に基づ
いているが故にいっそう強固なのである。この 4 つの要素とテイストとの関係を示せば以下の図のよう
になる。
図1 テイストの 4 つの構成要素
集団
デバイス
テイスト=
価値づけ
身体
事物
以下、それぞれの構成要素について、行論との関係からワインを事例に説明しておこう(Hennion, 2005
を参照)。
①事物
上でも指摘しておいたように、事物は所与ではなく、その「効果」を内包していない。また事物は、
それへのアタッチメントと独立して記述できるかのような、所与の自然なのでもない。むしろ事物とは
試験にかけられるべき実体なのであり、テイスト実践の中で生みだされるのである。この意味で事物の
二重の意味が威力を発揮し、それは試験(テスト)の「対象」であると同時に、テイストを物質的に支
える、まさに「モノ」なのである。こうした事物は複数の実体の複合であり、例えば音楽的事物の場合、
それは演奏者のみならず楽器やホール、CD 等からなる複合体である。またワインであればあれこれの
銘柄の、あるいは品種名のワインそのものである。
②集団(集合的表象)
一個の主体だけで事物に直面している限りではテイストは存在しない。テイストとは常に他者のテイ
ストの模倣であり、他者による評価の蓄積がテイストをなし、それは常に共同的精緻化の軌跡の途上に
ある。またテイストを表現し、産出するのに不可欠な集合的に精緻化された評価のボキャブラリもこう
した集団により生み出され、共有されることになる。テイストが存在するためには、集合的に産出され
たボキャブラリの使用により、言語表現化されなければならない。本稿の主題をなすワイン批評やガイ
ドブックがまさにこれである。ここにおいて我々は、マルティチュード派が論じているような「脳の協
働」が生み出す「コモンズ」とテイストが、きわめて近い概念であることに気づくことになる(Negri, A.
Hardt,M. 2000., Lazzarato, M. 2004)。
③デバイス(状況ないし布置)
繰り返しになるが、テイストは主体と事物との純化された突き合わせではなく、テイスト実践を遂行
するためには道具と規則が必要であり、具体的な状況の中で実践されることになる。テイストはそれを
登場させるデバイスやそれ自身のプレゼンテーション技術に依拠しているのである。媒介の連鎖を通じ
て遂行されるテイストは、高度に装置化され、道具化され、状況に位置づけられた集合的活動なのであ
る。ワインの場合では、コンクールなどの制度化された試飲状況がこうしたデバイスをなしていよう。
④身体
モースにせよブルデューにせよ、規範による身体の社会的構築を強調するが、エニオン(Hennion,
2005)は単に社会が身体を重層的に決定し、その痕跡を身体に刻印するだけではなく、訓練され、官能
的となった身体が事物を登場させる、とするのである。またこうした官能的身体の生産が、事物の効果
を他の身体と共有することを可能にさせるのである。こうして嗜好する身体と嗜好される事物とが、テ
イスト実践において対称的に生産されるのである。ワイン批評家や愛好家の訓練された身体感覚が事物
としてのワインを評価すると同時に、学習を通じた訓練により、こうした身体感覚が更新されるのであ
る。
こうしてテイストなり、別のところで Hennion の言うアタッチメント、さらに Callon の「配置
agencement」は、事物と集団、設備や条件といった試験デバイス、身体の関与という 4 つの要素からな
る。これらのいかなる要素も「所与」ではなく、不確実に産出され「刺激」や「驚嘆」をもたらす。こ
れらの要素は、生産を通じて発見され自らを明らかにし、それは試飲される事物であり、愛好家集団で
あり、試験に関与する身体自身、動員される技術や道具であり、それぞれの要素がお互いに定義されあ
うのである。アタッチメントの諸要素は、すでにそこにあるのではなく、状況において反省的に、問題
含みに登場し再定義される。それはパフォーマンス、試飲、悦び、驚嘆の対象である。ところがこうし
た驚きや悦びは、常に注意深く設計された試験枠組みが必要なのである。こうした手続きなしには事物
はとらえられず、事物は所与でなく、登場する。こうして価値づけのあらゆる過程は「モノの試験」を
中心に展開する。モノをテストすることはその特徴を際立たせ、これを安定させ、言葉に置き換え、場
合によっては数字に置き換える。こうして主観性と客観性という二項対立が廃棄され、モノの中でと同
時に、それが作り出すモノを感じ取る我々の能力の中で、安定性と変容の継続的共同生産と関連する。
こうして Hennion (2015)とともに、価値づけ研究は三つの方法論的要請を共有している。すなわち、
①評価を、「すでにそこにある」現実の受動的な記述としてではなく、活動としてとらえる。装置や道
具、コンピテンス、関与する論争に積極的注意を向ける。
②品質はたとえ非決定であろうと、裁量的ではないことを受け入れること。道具と手続きは何らかの現
実的なるものを表明するに至ることを受け入れること。モノの品質が存在することを承認すること(た
とえそれが非決定性に対して開かれ、複数形で示されようと)。
状況的、反省的、倫理的コンピテンスをアクターたちに承認すること。
要するに、これらの三つの方法論的要請は、強い度合いの「エージェンシー」をモノに承認すること
であり(Callon, 1986)、所与ではないものとして、モノを複数性において、常に作られつつある世界の中
でモノを考えることである。
Bessy, Chateauraynaud, (2013)は、Hennion のアタッチメントについて以下のようにまとめている。「事
物とニュアンス、ノウハウ、基準、技術、共通の歴史、抵抗された進化」を構成する過去の経験に由来
し、アタッチメントは、媒介全体(愛好家はモノそのものの存在を毎回再獲得しなければならない。と
いうのも彼は受動的ではなく、モノそのものの存在を共同構築するのである)により形成される。つま
りテイストは、開かれた試験として登場するのである。またアタッチメントは実践共同体の制定に参画
し、愛好家と事物のキャリアがこの方向に収斂する。愛好家たちはそこで共有された言語(手がかり)を
交わし、彼らの感じ取られた同意を表明し、事物の特性の彼らのアプローチ(テイスト、価値、誘発性)
を表明し、新しい品質(パフォーマンスの究極段階である被曝という形で体験される)に我が身をとら
われたままになる。この意味でアタッチメントは、保守的な力(コンピテンスと品質)と同時に、差異
の生産によるイノベーティブな力をなしている。この意味で Bessy らにしろ、Hennion にしろ、彼らは
「分散認知」(Hutchins, 1995)にきわめて近いところにいることになる。ネットワーク上に分散された知
識は、認知的人工物や道具、チーム、組織規範に具現化されている。しかし Hutchins において決定的
に欠如しているのが、知覚的作業、身体のコミットメントなのである。身体のコミットメントこそが注
意と警戒を確保させ、イノベーションを生み出すからである。それに対し Hennion が想起させるのは、
実践家を作り上げるためには、その身体を通じなければならず、永続的調節過程において彼が体験する
モノを通じなければならないことである。「愛好家の反省性」について研究することで、Hennion はテ
イストのプラグマティズムの途上で、いっそう遠くまで進むことができる。というのもテイストは単な
る質的変数なのではく、それは人と事物との間で結ばれる結合について語らせるからである。テイスト
はまさに、モノへの注目、交換過程、停止能力 faculte d’arret を示す。実践的経験によって、またその
ために、真正性の考え方に、個人や集団が与える意味への道を再び見いだす。ワインや、ワインについ
ての話し方、他者との感覚の共有の仕方について検討することは反省性の最初の段階である。Hennion
にあっては、評価は積極的でも、受動的でもない中間的な様式に基づき、ローカルでミクロな出来事を
通じた存在物の到来との出会いに基づいている。こうした出来事は、状況の中で、主体=客体の分割を
超越する。テイストはまた、強い意味で「反省的活動」をなす。領域や実践が一般性や歴史性を獲得す
るに応じて、身体を通じて直になされた批評的作業に由来する共有された手がかりを生み出すことで、
言語化とずれ decentrement を関与させる間主観的判断をなす。愛好家の構築においてはコレクション
(Latour)が主要な役割を演じる。例えば図書館という物理的空間は、作品への関係の歴史の軌跡を含み、
同時に、知覚と判断を精緻化するための装置の役割を果たす。Hennion において装置は、いったん制定
されるや固定されるものではなく、経験に対して開かれている。つまりテイストとは状況に置かれたモ
メントの機会として受け取られ、他者によっても導入され得る。他者の介入は驚嘆を差異を創出する。
新しい経験と継続的発見(愛好家のキャリアに伴う)への開放を考慮することが重要である。上述のテ
イストする身体、事物のテイスト、愛好される事物のレパートリー、愛好する集団が同時に産出される。
(4)真正性の価値づけと試験装置
1)価値づけと「手がかり」
Bessy 及び Chateauraynaud (2013)は財の真正性の格付けとその試験に関心を寄せ、「手がかり prise」概念を
通じて、Boltanski, Thevenot と並んで、フランスの社会科学のプラグマティックな転換に一石を投じた。それはベ
ルクソン、メルロー=ポンティ、Simondon、ドゥルーズ、James,Gibson といった哲学者に依拠しつつ、人々の同
意や非同意の形成において事物の地位はいかなるものであるかを解明しようとした。Bessy らは、先行研究とし
て Appadurai 編著になる人類学的研究をあげて、事物の流通の差異化された様式と、社会的文化的環境にお
けるその使用との分析についてコメントしている。Appadurai は多様な『価値レジーム』のみならず、(広大な市
場の中で商品流通に随伴する)知識の断片化と関連した真正性と真正化の政治の複数制を強調している。彼
はオリジナリティと度量衡に基づいた真正化の過程を検討し、これは「おいしいもの」や人に価値を与えるモノの
認証や保証手続きに縮減できない、物質的特徴を検討する。彼は現代美術世界における美術界の専門家と
画廊、生産者、学術的権威、消費者の間の競争と協力を明らかにしている。同編著で Kopytoff は事物のキャリ
アと様々な状態のキャリアについての研究を行っている。こうした状態を通じて事物が商品形態をとるようになる
のである。というのも、別のモノとのその交換可能な特徴が社会的に妥当となるからである。やはり同編著の
Spooner が、中東の絨毯を真正にさせているものについて明らかにしている。この著者は、真正性の概念は定
義の上で問題を提起し、それは「品質」と混同されてはならないという。大事なことは単なる客観的基準(年代や、
手作業であるかどうか、それ自身構築された基準)だけにではなく、専門家の仕事(それを通じて真正の事物の
選抜と区別がなされる)とに依拠する「真正性の標準」の進化であるという。この研究は西洋社会を惹きつける魅
力=他者を明らかにし、オリジナルなトルコの絨毯が、翻ってその生産者に影響を与え、(真正性の当初の探
求を生み出す)地方的象徴化を抑制し、西洋の愛好家に対して、フラストレーションと、トルコの生産者には、自
らの美学的表現の放棄をもたらし、かくしてエスニシティと文化の商品化が見られるという。
Bessy 及び Chateauraynaud は、「手がかり prise」概念により、事物の真正性の試験とこの事物の市場流通に
ついて解明している。これは、これまで見てきたテイストという概念に置き換えることができる。彼らによれば、手
かがりとは、アクターたちの合意に基づいた慣行的な目印と、事物の「襞」(彼らがドゥルーズのバロック論から引
き継いだ概念)との間の突き合わせから登場し、つまり単に感覚装置=器官や知覚、身体状態のみならず、道
具も媒介させるじかの接触から登場するのである。要するに一方での共通表象及びそれを抱く集団、すなわち
ここでの文脈で言えばコモンと、他方での事物の「襞」とを結びつけるものとして、「手がかり」を考えるのである。
彼らは真正性のレジームについて二つのバラエティを区別した。一つは、証拠による真正化(指標の突き合わ
せ)と、存在による真正化(感覚的経験)との区別に関わり、こうした区別は状況において観察される、専門家の
直感や嗅覚に準拠することを可能とさせる。こうした手がかりは以下のような 4 つの形態を統合している。すなわ
ち①言語によるカテゴリ化や格付けの装置、②事物によりトレースされるネットワーク、③感覚的経験、④物質の
道具的試験である。こうして、ある手がかりが成功するのは、共通表象と身体感覚、道具による測定、これらが
調整されているときなのである。ここでは、専門家やアクターたちが事物の真正性の判断を行う際に依拠する手
がかりを論じることにしよう(Chateauraynaud, 2004a,b も参照)。
① 共 通 表 象 (コモ ン)と事 物 のネットワー ク
格付けの試験装置は、まずはコード化やカテゴリ化、フレーミングのように、言語によって事物を客観化ないし
定義する表象空間にかかわる。例えば分類規則やコード規則を掌握している専門家は、他のパートナーたちと
記述言語を共有している。ここでは事物の真正性は述語の働きと関連づけられ、特異性を内生化させることが
できる記述上の慣行に従うことで、当事者たちは、あらゆる事物を記述することができる。こうして、あらゆる専門
知のプロセスは、相対的に安定した記述言語に基づいている。なお一方で、記述言語の内容や格付けをめぐ
る合意は物質的試験や感覚的経験にも依存しているのであり、他方で格付けは、事物の物理的ないし感覚的
試験の結果を、共通表象の中に統合するのである。この共通表象こそが、ネグリらのコモンのことなのである。
ところで、こうした真正性の試験装置は言語によるカテゴリ化だけに由来するものではない。この試験によって、
専門家やアクターは当該の事物をネットワークやコレクション、博物館といった集合体と照合させて、事物の起
源を再追跡したりすることで、事物の真正性を試験することができる。この場合、事物は多くのアクターや資源
(専門家の必要とする知識を分散的に貯蔵している)を関与させる。アクターネットワーク理論におけるのと同様、
こうしたネットワークは単に人々のみから形成されるわけではなく、証言の連鎖は、事物に関わるインスクリプショ
ンやトレース、装置や制度にまで拡大される。こうした事物の配置、アレンジメントはデバイスとして状況を構成し
ている。我々のプラグマティックなコモンズには、脳の他に、事物とその配置状況、試験装置、評価原則が住ん
でいることになる。
こうした格付のテストを経ることによって、事物はその特性を客観化され、真正性を証明されることで、有機ラ
ベルやテロワール・ワインのように、市場空間で流通することになり、アカロフのレモンのようなアポリアが回避さ
れることになる。
② 事 物 そのものと身 体
実験室などでは事物は道具によりテストされ、こうした物質的試験は身体的経験を超えている。この場合、感
覚的世界への準拠は、もはや専門家の身体によって直接的になされるのではなく、道具を媒介にするのである。
物質は道具によって表明され、今度は道具の忠実性が試験されることになる。しかし、いかに精密な道具も論
争を閉じることはできないし、疑いを消去することもできない。技術的媒介の連鎖は、事物の記述において矛盾
を生み出し、対立するテーゼを同時に補強してしまう。物質的試験が真正さを証明できるのは、この証明がモノ
の襞と身体的知覚、顕著な経験とを収束させることができる限りのことなのである。
他方で、試飲に見られるような身体による事物の知覚という試験は証明のヒエラルキーにおいて低く見られて
おり、上述の道具によるテストが高い価値を与えられている。感覚の関与は合意を確立するための十分な安定
性を持たないかもしれない。しかし事物は、専門知を確立するために供される道具に対して、不十分にしか手
がかりを与えない。多くの道具は感覚的試験を排除せず、むしろこの感覚的試験を再定義し、感覚的定義は証
明様式として機能し続けるのである。例えば、レントゲン写真の良い解釈において、個人的経験に基づく洞察
力が機能し続けるのである。つまり事物や真正性、その判断の質に直接的に関与させられるのが、主体の経験
なのである。実験室のエスノグラフィーが示しているように、最先端の科学分野においてさえ、萌芽的知識は人
や事物に粘着しているのである(須田 2008)。こうして感覚的試験は「主観的」だとして排除されるべきではない。
触覚のような感覚的試験は、相互性に基づいている。つまり私が事物にふれるとき、私は事物から生じる感覚を
私自身の状態として受け取るのであり、客観的世界の特性が身体に刻印される emprise のである。ここでは身
体は「センサー」なのである。センサーとしての身体の特異性を示すために、ここでは、洪水警戒センサーを例
に引こう。この物理的センサーは、河川の水位が一定以上に上がると洪水警報サイレンを鳴らすという仕組みを
なしている。このセンサーは、人間があらかじめフォーマット化しておいた警告を発するに過ぎない。これにたい
し、身体センサーは、状況の異常を非意図的に感知することができるのである。
③ 感 覚 的 自 明 性 と格 付 け
上述のように、事物についてのある命題の妥当性や真正性は、感覚的自明性 tangibilite により保証され、これ
がテイストをなしている。こうした自明性は、感覚的世界で働く知覚能力と、最新の設備を備えた道具的証明方
法との間の連続性を示している。こうして集合的表象と感覚的世界における知覚との間で共通の手がかりテイス
ト 、 さ ら に は コ モ ン が 精 緻 化 さ れ 、 真 正 性 に つ い て の 合 意 を 支 え る の で あ る (Chateauraynaud, 2004b,
pp.168-170)。なお、こうした自明性を産出するのは身体を通じた知覚的作業だけに限られない。顕著な出来事
(米国における 9.11 のような)やスキャンダル、経験により産出されるショックがある。こうしたショックが起こっただ
けで、大多数のアクターにその痕跡を刻印し、今後起こる一連の試験において基準となるような前例を作り出す
のである。つまり、あらがいがたい事実と証拠が新しいエヴィデンスをなし、共通感覚を変容させることにより、事
物をめぐる論争が終結するのである。アクターは、自らの身体的知覚や特異な経験と、共通表象との間を連結
させようとし、上述のようなテイストが事物のための試験装置を精緻化し、これが両者を繋ぐ媒介となる。
こうして、ある命題をめぐる論争は、それが「触知への帰還 retour tangible」を促す限りで、つまり世界への手が
かりの修正をもたらす限りで、創造的な機能を持っているのであり、論争は共通感覚の修正作業を可視化させ、
テイストを集合的に産出するのである。また上述の「手がかり」=テイストが事物と市場をつなぎ、企業による外
部性=コモンを捕捉するミクロ・マクロ・ループの鍵となる一環をなすのは、手がかりが、こうした共通の計算空
間の中での集団学習を可能とし、新しい目印の創出を可能とする共通の手がかりとなることができるからである。
学習効果にとって不可欠なこうした装置は、集合的表象ないし共通の目印と、物質の襞への身体感覚との間で
の移行を可能とする媒介的装置なのである。この装置、とりわけ事物を市場で流通させるための市場的媒介装
置については、3章で改めて詳述することにしよう。
専門家やアクターが、すでに構築されている流通空間ないし市場へと事物を流通させるのか、それとも新たな
流通空間を構築するかのは、彼がこの事物をどのように判断するかによる。ここで重要なのが、事物を捉える専
門家の「コツ」なのであり、事物の「手がかり」を明らかにさせること、つまり物質的特徴の知覚から一般化可能な
表現へと移行する技芸なのである。こうして彼は、事物の襞との感覚的接触によって、コモンの中での議論や集
団学習を経て、共通知識を豊富にさせることができる。手がかり=テイストこそが、物質性から言語への移行(逆
も真なり)を具体化するのである。
感覚的能力のコミットメントにおいて専門家は事物によって導かれるままなのではなく、既存の共通表象や目
印を受け容れるだけではない。こうした感覚的能力のコミットメントと、既存の安定化した表象や目印の動員との
間での、評価活動の最中での行き来が真正性を登場させる。こうして必ずしもすべての真正性がアプリオリに所
与として与えられているわけではなく、専門知を実践する中で徐々に構成されるのである。テイストは、事物によ
り、またこの事物が促す感覚により導かれることで、既存のコモンから脱却し、評価の新しい目印を獲得するの
である。
こうした事態はまさしくコモンでの学習のダイナミズムを示しており、それは Bessy (2003)が示すように、サイモ
ンの分析に見られる。サイモンの分析のオリジナリティは、新しい目印の探求及びその創出過程の中に、直感と
感情の役割を導入したことである。事物の特徴を瞬時に同定する能力が、専門家の基礎的手法の一つとして
の直感の源泉をなしているのである。サイモンが教育における感情の役割について述べているように(感情の
ない認知 cold cognition と感情により支えられる認知 hot cognition)、感情は注意を動員させることで、感覚的能
力を注意深くコミットさせ、専門家に対して、(彼にとってあまりなじみのない)事物へと彼の専門知を移動させる
ことを可能とさせ、ある特定領域へと専門化し、固着した彼のコンピテンスを緩和させ、新たなテイストを獲得さ
せるのである。上述の図で感情が図示されていたのも、このような意味においてであり、感情は事物の真正性
の評価において重要な影響力を有していよう。
なお、別のところで Bessy, Chauvin (2013)は、真正性の概念の通常の使用法として以下の 4 つをあげている。
①認証もしくは真正化のテストの結果としての真正性がある。ここには、上述で展開されたような証拠
のバリアントが見られる。つまりある事実が、実際に証明されたという意味で、それは真正である、と
いうことがあろう。例えば「Glozelの考古学的遺跡で発掘された事物。Glozelの古代遺跡の真正性が決
定的確立された」など。
②プロトタイプな形態への関係としての真正性。この使用は漸進性graduariteを許容する。別のモノよ
りもより真正的な候補がある、目指されるカテゴリの中核により近い真正的な候補。別のモノよりもよ
り真正にパリ風のカフェがあり、別のモノよりもより真正なボルドーワインがある。つまりそれらは、
「パリ風のカフェ」、「ボルドーワイン」という概念の下にあるものの典型的な特徴をいっそう体現し
ているものである。しかしここでは、カテゴリへの関係が、品質の評価をコミットさせるのであって、
単に推論だけではない。いかにして、品質の評価が、推論に使用される基準や、パラメーターを産出す
ることができるか、知覚の生態学理論を通じて、襞と目印の間の相互作用(その中で適切な手がかりが
形成される)を考えることで、解決しようとしたのがこの問題である。
③計算や、慣行的秩序、マスクを中断させる形態としての真正性。その否定的な形態でしばしばこの事
例にアクセスする。行為や表現、パロールの背後に、計算や利害があり、それは登場にしかすぎない。
そこにもまた漸進性graduariteがある。ある存在は、それが他者とのその関係における計算やコンヴァ
ンシオンに対して場所を残しておく、その割合に応じて、多かれ少なかれ真正的である。
④存在の言語的な表現としての真正性。そこにあること、歪曲なしに代表なしにコミットされた完全に
いること。
(5)価値づけフレーミングとしてのコンヴァンシオン
Bessy, Chauvin (2013)は市場の構築と維持、拡大には第三者としての媒介者が不可欠であるとする。
彼らが市場を形成する価値づけ活動を行い、具体的には売買仲介、サービス提供、マッチング、コンサ
ルタント、評価活動を担っているからである。こうした第三者の役割は、伝統的な新古典派経済学にお
いては「競り人」へと付与されているのである。媒介者は経済的パートナーたちを接触させるためのプ
ラットフォームであるだけでなく、(市場構築と、市場を活性化させるか地付けダイナミズムに関与す
る)活動的実体である。Bessy, Chauvin (2013)は財を計算可能とさせる際の媒介者の役割、需要と供給
をつきあわせる際の役割のみならず、市場で財や人々、組織を秩序づける認知的カテゴリーや価値への
媒介者の影響を考察している。このように市場はアプリオリに所与なのではなく、「第三者」により構
築される。第三者とは、ある程度安定的であり得るし、制度化されており、品質の一般的コンヴァンシ
オン(シテ)と、ローカルなコンヴァンシオンとの間を仲介することもできる、価値づけ活動としての品
質のコンヴァンシオンは、認知的人工物(媒介者が日常的仕事において使用する分類手法や広告、試験
手法)を検討する。これらの人工物は彼らの活動を導く際に認知的であると同時に規範的でもあるので
ある。
財やサービスの品質に関するすべての価値づけはフレームないしコンヴァンシオンに基づいている。
伝統的に売買プラットフォームとして考えられてきた取引媒介者は、価値づけフレームコンヴァンシオ
ンに何らかの影響を及ぼし得る。例えば Velthuis (2005)は、財の品質のラディカルな不確実性をその特
徴とするような現代美術市場(1950 年代以降、美術市場で創出され、使用されてきた)における価値づけ
フレームに基づいた三つの価格コンヴァンシオンを指摘する。すなわち「名誉価格」(戦後の画廊での
流通が、少数の鑑定家に限られている)、「スーパースター・価格」は、1980 年代のニューヨークでの
ブームを特徴付け、そこでの価格は高騰していた。最後の「慎重な価格」コンヴァンシオンでは、1990
年代後半における、より注意深い商業シーンであり、そこでは画廊が真の「会社」となった。これらの
価格タイプは、美術市場の歴史的展開の意味を形作る認知的道具であるだけではく、規範的デバイスを
なし、アート・ディーラーたちに対して、自らの実践を正当化させ、競争相手と比較することを可能と
する。
Bessy, Chauvin (2013)は、もう一つのタイプの媒介者として評価、格付けを専門とするそれをあげて
いる。例えばロバート・パーカーのワイン批評活動は、強力な評価者が、ワイン市場で、「自らの意図
に反して」新たなコンヴァンシオン、カテゴリー化を形成することを理解させてくれる。たとえ彼が慎
重に、ワインの格付けのイノベーティブなフォーマット(50-100 点という点数による品質尺度)を創出し、
普及させたとしても、彼はまた、インフォーマルで意図せざる価格付けカテゴリーを形成した。彼が消
費者に与える情報の観点からする「展望」アドバイスについて議論して、彼は点数をつけ判断を行う。
これがいったん採用され、解釈されると、新しいカテゴリー化を生み出し、
「パーカー化された Parkerized」
ワインの論争へと放り込まれることになる。この場合の意図せざる効果は、生産者の戦略が、パーカー
の点数において高得点を得られるよう、その製造実践を改善することになる。例えば新しいオーク材を
使用したワイン樽によるバニラ風味の作成などがそれである1)。
3.テイストと価値づけと市場のハイブリッド化 (1)テイスティングセッション
上述のように我々は、テイストの四つの構成要素を確認し、事物のテイスト(風味)とヒト・エージ
ェンシー(消費者)のテイスト(嗜好)との相互作用を見てきたところである。今や我々はこうした二
重の意味でのテイストがどのように市場的コーディネーションにおける目印となるかについて、食品部
門の製品開発における各種の官能試験ないしテイスティング・セッション(以下 TS と略)を事例に見
ておくことにしよう。ここではやはりアクター・ネットワーク理論に依拠したメアデルら(Meadel,
Rabeharisoa, 2001)による議論を紹介することにしよう。そもそも TS とは、原料の調達から製造、流通、
消費といった製品のライフサイクル全体において生産のプロフェッショナルたちを関与させる集合的
な過程であり、このライフサイクルの各段階で行われる各種の TS こそが当該製品の市場の構築におい
て重要な要素をなしている。
メアデルらが検討するのは多様な形をとった TS であり、それはまずアドホックな形をとっている。
こうした TS において、企業は取引相手に呼びかけてセッションを不定期に開催する。そこでは量販店
側のテイスターが消費者の代表をなし、テイスティングの結果は商取引の際の重要な論点を提供する。
これに対し企業内のパネルのような厳密に規定された TS があり、ここでは、テイスターは専門家であ
り、彼らは訓練され、標準化されたボキャブラリを駆使して、集合的に新しいテイストを開拓するので
ある。この他にも「素人」の消費者パネラーによる TS も頻繁に開催されている。
上述のように、テイスト実践が崇高なる主体と事物との純粋な突き合わせでなかったのと同様に、
TS は高度に装置化され、枠組みづけられている。例えばメアデルたちはオレンジジュースのデスクリ
プター(記述語)を作成するセッションを取り上げている。そこではテイスターは消費者の代表であり、
フルーツジュースの 4 つの基本的テイスト(甘さ、塩辛さ、酸味、苦味)と基本的フレーバー(オレン
ジのテルペン・フレーバー)を認識し、官能するように訓練される。この意味でテイスターは「過剰に
装備されている over-equipped」(p.237)といえる。つまり通常の人以上にテイストの仕方を学び、自らの
視覚的、味覚的印象を他者と自分自身に対して表象する能力を獲得するように訓練されているからであ
る。しかし同時にテイスターは「過小にしか装備されていない under-equipped」(ibid)。というのも、彼
らがテイストするのは匿名の液体なのであり、通常の市場であれば依拠することのできるパッケージや
ブランド、価格も明示化されておらず、自らの身体感覚しか頼るものがないからである。このセッショ
ンにおいては、テイスターは純粋な技術的陳述(成分の専門家が扱うような)でもなく、単に個人的な
意見(好きか嫌いか)を述べるのでもない。彼らは自らの身体をセンサーとして使用することで、視覚
的格付けから、匂い、味について順番に試験することになる。
なお TS とは事物(製品)とテイスターとの親密さ(「アタッチメント」ないし「手がかり」)の確
立と、この親密さの刷新の機会でもある(須田 2008)。メアデルたちはこうした親密さの基礎には三つ
のメカニズムがあるとする。すなわち製品との接触に官能的な身体の生産、事物の印象を言葉で表現す
ること、さらにこの印象を集合的に試験することである。以下、メアデルたちによりながらこの三点に
ついて説明しておこう(Meadel, Rabeharisoa, 2001, pp.242-243)。
①官能的身体の生産
TS は事物とテイスターとの媒介として身体感覚を関与させ、製品を身体に刻印させ、記憶するよう
に身体を官能的にさせる。TS ごとに官能的身体が更新されるのである。企業内部での TS セッション
の繰り返しは、社員に対して製品の微妙な変化に対して注意深くなる能力を鍛えることになる。製品が
社員の身体に刻印されることで、彼らに対して、製品の特性を継続的に安定化させ、原料における微妙
な変化に対しても敏感にさせる。例えば先のオレンジジュースの TS では、その年の夏がかなり暑かっ
たために、原料の糖度が上がったような場合、これを感覚的に理解することを可能とさせる。また他社
の類似製品と自社製品を差別化させるためにも、こうした官能的になった身体を通じた TS が威力を発
揮することになる。つまり単に製品の成分を示すために身体を使用することではなく、製品との接触に
おいて身体が経験していることを記述するための身体を製造することが重要なのである。
②言葉による印象の表現
事物の印象をできるだけ正確に表現する単語を探すことが、官能的身体の生産と同時進行する。例え
ばメアデルたちのオレンジジュースの TS の場合、112 のデスクリプターが産出されている。オレンジ
ジュースのような単純な製品についてさえ 100 を越える記述語が TS 参加者から産出されていること自
体に示されるように、身体と言語とが、親密な「手がかり holds」(p.243)を変容させ、更新させること
ができることを示しているのである。また印象を言語化することによって、個人的な印象を人々の間で
共有することができるようになり、これを表現する単語を流通させることができる。例えばある TS 参
加者は、このように産出された記述語リストの中に「舌を刺すような酸っぱさ」という表現を見いだす
かもしれない。この参加者はこの感覚を学ぶことで自らの「手がかり」を更新させることであろう。ま
たこのオレンジジュースの場合では、エンジニアは現在のタンクにあるオレンジが「酸っぱすぎる」か
ら、これを保留しておき、後により甘いオレンジが収穫されたときにこれと混合しよう、と提案するか
もしれない。このように言語化は印象を表現するだけでなく、この印象を共有し、事物を流通させる場
合にも、重要な役割を演じることになる。
③印象の集合的試験と「平均的テイスト」の生産
TS はすぐれて集合的な試験であり、各人の個人的身体の境界線を相互に浸透的にさせる。そこでは
他のメンバーにより表明される印象が各人により追体験されるようになっており、そのメンバーの「間
身体性」に基づいているといえるような集団が創出されることになる(メルロー=ポンティや廣松渉に
よる先行研究がこうした議論を深化させてくれよう)。TS では、同僚のパネリストにより提起された
特定の単語を通じて、テイスターが、それまで自分にとって曖昧であった印象について正確な表現を学
ぶこともある。他方では、他のテイスターが表明する単語に対して、自分自身の印象の特異性を実感す
るかもしれない。
こうして得られた、メンバー間でのテイストの印象の突き合わせにより、多様な印象が収斂すること
で、各パネリストが当該の製品に与え、他の製品からこれを区別させるような平均的スコアを示す「製
品プロフィール」、「平均のテイスト」を構築させてくれる。こうして TS から立ち上がる平均的なテ
イストないし製品プロフィールをめぐって製品開発がなされることになる。こうした平均的テイストが
目印として、各経済主体の期待と行為を調整し、市場的コーディネーションを可能とするのである。
(2)ワインにおける真正性の価値づけ
このように四つの要素から構成されたテイストは、ワイン部門では批評やガイドブックの中に蓄積さ
れることになる。ちなみにサンテミリオン特級(1989 年)のいくつかの記述を示せば以下のようである。
・Chateau Franc-Mayne. Grand cru:価格 110 フラン。まだ引き締まった、凝縮した香り、木イチゴ、ブ
ルーベリー、香辛料のアロマ。エレガントでまろやかな舌触り、骨格のしっかりした、繊細なタンニン、
長期熟成に適した、良いワイン。
・Chateau Coudert-Pelletan:価格 64 フラン。なめし革、ジビエ、クレオソート(ブナの木のタール)、
干しスモモ、煮た果物の強い香り。口の中に広がる厚み、バランスがとれた、繊細なタンニン。2~3
年の熟成の必要。
ここに示されているのは、専門家や愛好家により共有されている試飲評価の語彙が「平均的」テイス
トを各人の身体に根付かせ、各人により客観化させ、相互に共有させることを可能にしていることであ
る。この場合ワイン批評は、身体感覚と共通表象とを連結することで、反省的で遂行的なテイスト実践
の手がかりとなっているのである。ここでガイドブックは、特異な産品とその評価を再現可能な方法で
結合するための装置をなしていることが理解されるであろう。こうして、消費者は食事に供されるワイ
ンについて「木イチゴ」の香りを認識することができるのである。またテイストが、単に事物と人間身
体との突き合わせのみから生じるのでもなければ、逆にブランドイメージのみを反映したものでもなく、
こうした四つの要素から構成されていることから、産品とその嗜好的評価との結合が安定化されること
になるだろう。
①試飲によるテキストの生産
こうしたワイン批評ないしガイドブックの中へとテキスト化される「平均的な」テイストは、ブライ
ンド試飲ないし銘柄を明示した試飲という特別な状況において産出されることになる2)。そもそもワ
インの試飲という行為は、両大戦間期までは、主としてワインの仲買人やワイン商、生産者のための職
業的技術であった。ワインの原産地についての規制や醸造学上の分析規則がなかったために、試飲がワ
インの真正性と衛生を保証するための管理手続きなのであった。
さてブラインド試飲と、ボトルの銘柄を明らかにした試飲のそれぞれの試飲方法には一長一短がある。
完全なブラインド試飲では、評価は試飲者の即興に委ねられてしまい、製品の特異性を十分に評価する
ことができない。それに対して、セミ・ブラインドでの試飲は、銘柄は明らかにはしないものの、例え
ばフランスではそれぞれの AOC ごとに、あるいは米国であればそれぞれの品種に応じて、比較可能な
ボトルを集めた試飲がなされる。こうしてそれぞれのカテゴリについて共有された基準に照らして、当
該のワインの特異性を判断することができる。他方、銘柄を明らかにした試飲では、まずブランドイメ
ージが持つ効果により、予断を持ってしまうという弱点がある。しかし、ワインの特異性を十分に評価
することができるという利点も有している。さらに、製品の一般的評価も可能となる。つまり今、試飲
者が評価しているワインの特異性は、それ以前の試飲の一連の記憶に照らして、またワイン批評により
確立された特徴に照らして、標本の誤差によるのか、それともその特異性を示しているのかを評価する
ことが可能となるのである。多くの試飲者や愛好家は、製品を客観的に判断するために、二つの試飲方
法をことあるごとに繰り返している。
試飲者の嗜好は多様であるために、ワイン批評やガイドブックでの試飲は評価委員会に組織されてい
る(パーカーをのぞいて)。つまり「21 人の主観性の総計は客観性の始まりである」(RVF,no.407,pⅣ)
というわけだ。例えば Hachette ではのべ 600 人の試飲者によるブラインド試飲が行われ、その内訳は
醸造学者 31%、研究者もしくは大学教授が 39%、公的機関代表 4%、肩書きなし 26%(うち何人かはワ
イン雑誌のジャーナリストであろう)となっている。RVF では有名レストランのソムリエ 8 人、醸造
学者 2 人、生産者 6 人、ワイン卸商 3 人などとなっている。こうして Hachette では、様々な AOC で訓
練された匿名審査員による採点という制度化された手続きによりワインが選択されるが、パーカーのガ
イドブックでは彼のカリスマ的権威により選択が正当化されている。ちなみに RVF およびパーカーで
の試飲はブラインドではない。
このような試飲評価委員会で産出されるテキストは、試飲者のそれぞれのテイストの集計であり、
「平
均」である。試飲者が一人であれば、その試飲は、彼に特有な嗜好ないし美学を反映するであろうが、
試飲者を増加させることで、一つのワインについて、より深くその特異性を引き出すことができるので
ある。
こうしてワイン批評は、それぞれのワインの特異性を記述しており、産品とその評価との結合を再現
させる際の基準を示してくれる。またワイン批評に示された試飲結果は試飲者の間での意見の相違をそ
のまま掲載する場合でも、各試飲者のコメントを接合し、蓄積させることで、このワインの特異性を示
してくれる。例えば RVF の記述は以下のようである。
・「官能的記述:色はまだ進化の途上にあり、暗褐色。匂いの評価は試飲者により異なり、タバコや
トリュフの香りの繊細さを指摘する試飲者もある一方、それほどはっきりしない(ボール紙やコーヒー)
とする者もある。味についても同様で、ある者は豊かで、精気に満ち、均衡した、後味の長い味と評価
する一方、ひからびた肉のような、複雑さに乏しい味と評価する者もいる。」「結論:おそらく標本の
違いに由来するのであろうが、嗅覚評価についての意見の相違にもかかわらず、良いメルロー品種のワ
インである。貯蔵により味が増す。採点 10 点中 8.35 点」(RVF, no.407, p.2)。
・「官能的記述:赤褐色の濃い色。クリームコーヒーのような匂い。骨格のある味、木やトリュフの
味わい。長続きする味」。「結論:まだこなれていないタンニンのために地味。このワインは何人かの
試飲者が評価するそのたくましさのために好まれるが、別の者はこれがもっと繊細で、まろやかであっ
たらな、と感じている。採点 10 点中 7.75 点」(RVF, no.407, p.4)。
こうしてワイン批評とは、ローカルに産出された判断の集計手続きのことなのである。つまり批評家
のそれぞれのテイストを、他者のテイストと接合し、さらにこうして産出された言明は、読者の判断へ
と接合されることになる。このようにしてワイン批評に集計され共通表象となった意見と、自分自身の
テイストを接合することで、つまり自分のテイストを集合的判断と比較することで、ワイン愛好家は自
らのテイストやコンピテンスを疑問視し、反省的に進化させるという学習が可能となるのである。他方
でワイン批評自身もまた、新たに明らかにされた特異性についての記述を蓄積することで進化すること
ができる。
具体的な状況の要因が価値づけにおいて、またそれに基づいたコーディネーションにおいて大きな影
響力を持つとすれば、いわば「実験室」に近いような試飲状況で産出されるワイン批評などの「判断デ
バイス」にどのような価値があるというのであろうか。それはひとえに「平均的テイスト」の産出に関
わる。このことを示すのに、Morrot は興味深い実験結果を紹介している。それによれば、被験者の醸
造学科の学生たちの多くは、ある白ワインについて「リンゴの香り」という記述語を与えたが、同じ白
ワインを無香料の溶液により赤く染めた場合、これを「イチゴの香り」という記述を与えたのである。
ここでは視覚情報が嗅覚の決定に関与していること、刺激とその知覚の間に直接的な関係がないことが
わかる。また有名なワインの銘柄を予め与えられると、その試飲は好意的な判断を導きがちであること
が知られており、主体がワインについて抱く期待が、官能的知覚に影響を及ぼすことがわかる。
さらに Morrot たちが明らかにしたソムリエによる試飲のプロセスを示しておくのも有益であろう。
まず試飲者たちはそれぞれ、いくつかの数のプロトタイプなワインを記憶しているのだという。これが
それぞれのカテゴリのイメージの典型となる。あるワインを試飲する際に、試飲者はこれを、すでに記
憶されているカテゴリの一つに配置させる(カテゴリ化)。試飲者が自分自身のプロトタイプのイメー
ジを参照するのになれているほど(職業的に試飲を行っているソムリエなど)、試飲者は、視覚と嗅覚、
味覚に関する記述語を容易に選択することができる。試飲者が使う記述語は、それぞれのカテゴリに関
連しており、芋づる式に、そこから引き出されるのだという。このように、カテゴリ化が我々の知覚に
先行し、知覚の構築に貢献する以上、ブランドイメージが、農産品や食品の評価にも決定的な役割を与
えることが容易に理解されよう。
以上の議論から、特異性を持った産品を市場で売買するために前提となる、産品とその評価との結合
を安定化させる条件とはどのようなものであろうか。
真正性は非物質的集合的資産の事物の中心をなしている。それは「資源としてのアイデンティティ」
の一部をなし、基準集団の永続性を支える、物質的、象徴的な支えをなしている(Barrey,Teil,2011)。
我々が事物の真正性を取り扱うのは、「プラグマティック」と呼ばれる立場からであり、事物を相互
作用の帰結とするのである。事物のフォーマット化(Callon)の問題は科学の間での論争だけでなく、社
会経済アクターの間での問題も引き起こす。ここではワインのテロワールや有機農産物の認証について、
事物が自律した「所与」であるという考え方は、アクターたちによって疑問視される。Teil(2013)は、
品質もしくは事物の真正性の評価の問題を指摘する。つまり客観的で確実な証拠を提供すると承認され
てきた試験がうまく機能しないのである。そこでは集団に住まう事物の二つの存在様式が見られるので
ある。
②テロワール・ワインの真正性
真正性は自然文化遺産のみにかかわらず、本稿で検討する農産品にもかかわる。例えば、AOC ワイ
ンのようなテロワール・ワインの場合、原産地呼称に関する規則が真正なる生産をコピーから保護する。
テロワールワインの真正性を確保してきたのは、AOC によって、生産者に対して、(そのワインの
真正な品質の維持に取り組ませるに違いない)制約と義務を設定している。つまりブドウ畑の立地のみ
ならず、地方的な慣行になじんだノウハウに従ったブドウ生産、ワイン醸造方法である。しかしこうし
た真正性の結果を得るための特定の実践だけでは十分ではなく、結果そのものであるテロワール・ワイ
ンの試験、とりわけ官能試験(試飲)がその真正性を登場させる。官能試験は、AOC 産品の認可にと
ってきわめて重要なポイントであり、臭覚及び味覚、視覚、触覚の感覚を通じて解釈される。AOC 生
産者の産品のすべてが AOC として市場出荷されるわけではない。試飲の際には、あらかじめ決められ
たブラインド化などの透明性のある手続きを通じて、生産者の産品を、手続きに則って標本採取し、こ
れを試飲評価委員会が AOC として認定する。この試飲評価委員会の構成員は INAO により規定され、
以下のようなアクターからなる。
・技師(ワイン部門で働くための認定技術を有する)
・「産品の記憶の保持者」(職能団体により認定されたオペレータもしくは引退者)
・産品の使用者(レストラン、食品流通業者、消費者団体、検査機関により推薦された人)
当然のことながらワインのテイストは、その置かれた状況(食事とともに供されるのか、それとも試
飲のためにのみ供されるのか)、背景において異なるし、試飲者の好みにも応じて異なる。従って試飲
は背景から脱却した、極度に規格化された試飲試験という状況下でなされることになる。
③試験の挫折
しかし AOC 認定試飲委員会においても、客観的で、確実な証拠を提供すると考えられている装置が
うまく機能せず、あるいは適用できないことがある。特定のワイン生産者にとって、こうした装置は不
適切で受け入れがたいと思われるフォーマットを押しつけると考えられている。テロワール・ワインは
特異性を付与された事物であり、とりわけ試飲による格付けの論争の的となっている。個人の主観的バ
リエーション、背景的バリエーションの効果を正確に捉えることはできず、ワインのテイストは、客観
的科学を逃れる。官能分析試験では、それぞれの試飲者はワインのテイストを完全には説明できないが、
あらかじめ決められたいくつかの基準の有無、その度合いについて示すことができる。これらの度合い
とは例えばワインの酸味、アルコール度数、フルーティな香り、色彩などである。これらの度合いの客
観的な基準に従って、ワインの特性を明示的で階層化可能にさせることができるが、基準について終わ
りのあるアプリオリなリストへと、ワインの品質を封じ込めることはできず、官能分析はワインの品質
を客観的に示すことはできない。
テロワールが土壌及び気象、農学、醸造学などに関わり、これらの多様な要素の結合であるが、科学
は、ワインの特異性の中にその効果をたどれるような、そのような諸要素の全体を特定できていない。
収穫年のバリエーションのほうが地理的バリエーションよりも大きく作用し、テロワール内部でのバリ
エーションのほうが、異なったテロワールの間でのバリエーションよりも大きいのである(Barrey, Teil,
2011)。官能分析科学もテロワールを証明しようとしてきた。事物により運ばれ、主体により受け取ら
れるや、神経と脳により処理され、その官能的イメージを提供するような刺激の変容過程として知覚は
解釈される。ところが刺激とイメージの間で、こうしたシグナルは心理学的、社会的文化的な影響を被
ることになり、こうして官能分析の試験装置はブラインド試飲に依拠することになる。しかし著名なプ
ロでさえ、ブラインド試飲において通常ワインとテロワール・ワインを区別することができないことが
しばしばである。ブラインド試飲の採用にもかかわらず、異なった試飲者により産出される同一ワイン
イメージは多様であり、これを縮減することができない。テロワールが実在していようがいまいが、テ
ロワールのテイストは神経生理学によっては認識され得ないことになる(Teil, 2011)。こうして官能分析
試験でもワインのテイストの差異をテロワールと関連づけることができないのである。
④テロワールの二つの解釈と二つの試験
2000 年代初頭から、ワインの認定試飲審査の妥当性が疑問視されるような事態が見られるように
なった。また 1990 年代末から、多くのワイン生産者は、その同僚たちを、テロワールよりも米国の買
い手の嗜好に、ワインを近づけようとしているとして批判するようになっていた。ワインのテロワール
を重視したワインが、その「味覚」や「外見」、「特異性の欠如」を理由に、試飲審査で AOC 認定を
受けられないような事例が散見されるようになっていたのである。逆に、これらのワイン生産者にとっ
ては、これこそがテロワールの真の表出なのであった。このような動向に対して、テロワールを再発見
するために、醸造学的技術の転換(酵母無添加や酸化防腐剤の無使用)に取り組む醸造家や、テロワー
ルを尊重した農業実践の依拠、有機農業やバイオダイナミック農法、適性ブドウ栽培 viticulture raisonnee
等に依拠した生産者は、ワインの真正性の試験としての試飲審査に疑問を提示するようになったのであ
る。
ここには二つのテロワールの存在様式ないしオントロジー(Teil, 2013)、テロワールに関する二つのテ
イストおよびその試験が存在することが示唆されている。一方ではモノとしてのテロワール事物が存在
し、これは予め仕様書の中に定義され、安定化された客観的な特徴を持つ自律した存在であり、外から
観察可能な事物である。他方ではテロワールのテイストないし真正性を所与として扱うのではなく、ア
クター全体により実施される、様々な評価の集合的で、分散された活動全体の結果として、産出される
べき表現としてテロワールを扱うようなアプローチもある(Barrey, Teil, 2011; Teil, 2011)。このようにラ
トゥール流の言い方を用いれば(後述)、「モノ」としてのテロワールと、「作られつつある」テロワ
ールという二つのオントロジーがあることになる。すなわち。Teil ら(2009)は B.ラトゥールに言及して、
ワインについて説明している。ラトゥールは確立した科学的知識としての冷却した科学的事物について
語る際に、モノは「モノ」ではなく、モノになるのである、としている。つまり科学者による科学的知
識の生産過程が、この過程から切り離しがたい事物を、自律したモノへと変換させるという意味で、
「作
られつつある科学」について語るのである。その意味で、テロワールという事物もつねに「作られつつ
ある」事物なのである。例えば、偉大なるヴィンテージもののワインは絶えず、批評家や生産者、有名
料理人との同盟の戦略によっても再格付けされ、特異化される。もちろんそれは、国際レベルでの新興
ブルジョワ層の登場とも不可分なのである(Karpik, 2007)。またモノや家畜といった事物へのユニークな
愛着がこうした事物を特異化することはよく見られる事例であり、有機農産物や地域特産品、地方在来
種の活用などでも、こうした別様のオントロジーが見られることであろう。
二つのテロワール概念がこうした論争から登場する。テロワール・ワインを淘汰する審査員と多くの
生産者は、テロワールを、あらかじめ確立された地理的で技術的な制約全体の結果として考える。こう
した全体が「レシピ」に似た実践全体の良好な実践を行うテロワールの品質をもたらし、決定するので
ある。このレシピを執行する際のブドウ農家の間違いは修正できるし、されなければならない。逆に、
その反対者たちにとっては、別様のやり方に訴えさせるよう義務づける。すなわち(テロワールの表出
を妨げる)実践のよりドラスティックな制限である。こうした変化が事物としての「テロワール」の存
在様式を変容させる。それはもはや事前に決定された原因 cause ではなく、それはもはや製造手続きの
機械的な帰結ではない。テロワールは作られつつあり、可能な限りでの探求の帰結である。真正のテロ
ワールはアプリオリな基準により明示化されることもできないし、適合性の判断の対象ともならない。
しかしそれは単なる欠如ではなく、テロワールを混沌状況に置くものでもない。その存在は事後的に、
批評的に判断されるような「生産」で有り、それは試験や判断、プロトコル、試飲機会、テロワールの
解釈の間での比較を増殖させることで、その多くの顕現と表出側面を通じてテロワールをとらえるので
ある(Teil,2013)。
(3)有機農産物における真正性の価値づけ
1980 年代に 17 の NPO が有機農業を承認し、公的な表示による保護を要求した。1981 年には「合成
化学産品を使用していない」農業の承認を取り付けている。有機農業を促進する団体と民間商標は有機
の解釈について認定することができるようになった。最初に認定されたのは Nature & Progres であった。
その後、仕様書の乱立へと有機農業運動がばらばらになることを回避するために単一のフランスのラベ
ルへの要求がなされ、農薬と化学肥料の無使用という点で合意が形成され、1991 年に有機農業 AB ラ
ベルが制定された。その結果、14 あった民間表示と仕様書は 2 つの表示 Nature & Progres とバイオダイ
ナミック系の Demeter のみになり、残りはすべて AB ラベルとなった。しかしこれらの団体や多くの生
産者がラベルの規制において、オルタナティブな社会経済的次元が含まれていないと指摘している。
学問研究レベルでも、こうした点に関して多くの研究がなされている。例えばカリフォルニアでは、
有機農業と慣行的農業との接近が示され、有機農業の「慣行化」が指摘されている。つまり有機農業と
いう非常に収益性の高い市場セグメントへの参入障壁がなく、慣行的生産者がこの有機生産方法に参入
し、膨大な投資と生産合理化を実施し、彼らの規模の経済により、価格低下圧力が生じ、彼らはさらな
る規模拡大を達成した。当初から存在していた小規模生産者は駆逐されることになった。有機産品のコ
モディティ化が進んだのである。
フランスでも 1991 年の AB ラベルの制定以来、論争が沸騰した。1995 年には Nature & Progres によ
るこの表示のボイコットが起こった。Nature & Progres は、いったんこうした仕様書が明示化されるや、
有機農業の定義が自らの手を離れてしまうと懸念した。有機であることはあらかじめ定義された技術的
制約の遵守にあるのではなく、別様の農業の考え方にある。こうして有機的品質の概念に二つの解釈が
あることがわかる。
2010 年にはフランスの AB ラベルは欧州の、より制約の弱い有機農業の仕様書に代えられることに
なる。その結果、先に見えるのは、カリフォルニア同様、自然産品しか用いない生産力主義的有機農業
と、化学合成品なしの施設型有機農業である。こうした動向を予測して、Demeter と Nature & Progres
はその仕様書と憲章、指導原則を修正した。こうして Bio-Coherence という商標が制定されることにな
った。これは AB ラベルよりも要請が強く、社会経済的基準を統合しようとした。ところが客観的なテ
スト可能な社会経済的基準を作るのに困難があったため、これらの基準は農業者が遵守すべきコミット
メントとして憲章に統合された。また農業者のコントロールは、通常の AB ラベルのように外部第三者
機関ではなく、協会メンバーによる参加型の経営評価がなされている。
こうして、有機農業という事物の真正性について、二つの存在様式とその試験が存在することになる
(Teil,2013)。最初のものたちにとっては、有機的品質は、ラベルの制約により定義される。生産者が
これを適用する委譲、彼は有機を主張でき、かかるものとして彼の産品を販売できる。欧州委員会も真
小唄観念である。国ごとの、異なったラベルを均質化し、国の補完性原則を除去した。市場が理想的に
機能するために、有機的品質は、一義的概念でなければならない。従って、有機を保護するラベルは、
すべての国で同一でなければならないというのだ。
有機的品質概念のこうした「パッケージ」は、それが流通し、国際的商業の長いネットワークで承認
されることができることを可能とする。それは、需要を拡大し、毎日、新しい消費者(オルタナティブ
な農業の必要性という考えに同意する)にたいして、有機ラベルを、こうした行動の記号としてとらえ
させるように促す(こうした別様の農業の実施と定義についての考察に自らを投入することなく)。そ
れはまた、新しい流通業者や生産者の発展を促す。有機農業は、彼らの産品の別の品質に適応しさえす
れば、新しいクライアントと市場に達することができる。
他方のオルタナティブとしての有機を考える人々にとっては、有機農産物は、化学肥料の代わりに自
然な農薬を使用することに制限されることなく、あるいは化学肥料の代わりに有機肥料を使用すること
に制限されない。大事なのは、作物をエコシステム全体の中で扱うことで有り、作物を土壌のバクテリ
アとの、その生産者、経済、輸送、流通、社会的諸関係などとの相互作用のより広範な全体の中に置き
換えることである。有機の品質は「全体的品質」で有り、製品の細かな特徴ではない。こうしたコミッ
トメントによる保証は、経済的、社会的な次元を含むことを可能とする。こうした二つの認証様式は異
なった二つの手続きによりコントロールされる。一方での有機の基準は、適合性のコントロールの対象
となり、他方での農業者によるコミットメントは、内部での批判的議論により評価される。
4.対立した二つの行為レジーム:終わりにかえて 上述の二つの状況は、事物の存在様式をめぐるアクターたちの間での論争を登場させる(Teil,2013)。
こうした様式は、多くの農学者や経済学者にとって、また公権力(その記号が保護するものを「証明す
る」ことができることを欲する)にとって、生産者(長い流通ネットワークで自らの製品の品質を高付
加価値化させたいと願う)にとって、また消費者(自分が買った品質について安心していたい、また自
分が表示に対して、この品質の解釈と保証を委任する)にとって「客観化されて」いなければならない。
別のアクターたちは、別様の様式の必要性を訴える。そこでは品質は所与のものではなく、「作られつ
つある生産」、もしくは「解釈」である。特定のクライアント、生産者はテロワールを求め、有機農業
者、生産者、消費者はオルタナティブな農業の発展にコミットする。もし論争が絶えないとしても、そ
れは、有機の存在様式、テイスト、テロワールの存在様式が哲学的問題のみ関与するのではなく、証明
や判断評価の道具、当該の事物を再現する可能性にも関わるからである。
(これら有機、やテロワール、
ワインの品質の存在様式証明の二つのレジームに伴う)試験のレジームは、全く異なっており、論理的
に両立不可能である。それは、経済的な全く異なったレジームの登場にも貢献し、二つの流通様式の中
でこれらの事物が流通することになる。
テーユは上述の二つのレジームの試験装置について詳述する。そのために「客観化された」、定義さ
れた事物をめぐって交わされる相互作用について語るために、「還元されたレジーム」と、別のものに
ついては「還元されざるレジーム」がという概念使われる。「レジーム」という単語は設備や道具、手
続き、集合的行為を方向付ける推論という考え方を採用する。還元された、もしくは還元されざるレジ
ームは、
(しばしばそれを対立させるアクターたちによって差別化された)事物の種別的な存在様式(レ
ジームが設定する)に伴う、方向付けられた行動レジームである。試験のレジームとは逆に、行動レジ
ームは、必ずしも相互に排除的ではない。行動レジームは売り場の中で相互に侵入し、生産者の価格表、
買い手の推論の上で接近している。
(1)「還元された」レジーム
還元されたレジームにおいて、事物は基準全体により捕捉される。品質表示は、事物の特殊な品質を
定義する。AOC表示や多くの国におけるABラベルの承認は、欧州及びフランスにおいても、またこれら
の表示を承認する輸入や消費者の行政においても、これらの『品質』を評価=高付加価値化することを
可能にする。市場調整装置は、これらの表示に対して、それが、「真の情報」を運ぶことを要請する。
このことは、彼らの観点からは、表示された事物の「中に」アプリオリに種別化された要素全体を再び
見いだすことができることを示している。こうして、質的情報は、ポパーの言う意味で検証可能でなけ
ればならない。つまり、品質表示は、制約の仕様書やテスト可能な基準と結合されている。流通する財
の限定と期待されるその質の明示化が『質的計算qualcul』(Cochoy, 2002, Callon, Muniesa, 2003)を可能
とし、その改善もしくは最適化と同時に、経済関係の調節を考えることを可能にする。
消費者(高品質の産品を買いたいが、自分たちが購入する産品を自分で知り、評価するという重い課
題に自らを投じることをいやがる)は、品質のこうした探求を記号に委任する。自らの産品を差別化し
たい生産者たちは、これらの仕様書を、多くの実践、品質を決定する特性として使用する。もちろん彼
らは、ブドウのワインへの加工のエージェントであるが、彼らの逐一の行動は、彼らにとって、同定可
能で切断可能である。つまり彼らは、仕様書を「適用している」のである。彼らが獲得する決められた
品質は、限定されており、その他の特別な品質と結合され得る。すなわち経済的収益性、環境保全など。
(2)「還元されざる」レジーム
この別のレジームにおいて、テロワールや有機の品質は解釈もしくは実現全体(独立した諸変数、ブ
ドウ農家の実践、気象、ブドウ、伝統などに応じては、もはや容易には分割され得ない)である。彼ら
の判断は集合的批評手続きに属する。産品の品質はもはやテスト可能ではなく、事後的に集合的に評価
される。批評は、Gell(2010)が、事物の「好奇心interet」と呼ぶものを分析する。それは原因causeと
しての事物の中にはあらず、能力としての人の中にもない。この好奇心は、関与される人々と関与させ
る事物との間での相互作用を作り出す可能性を示している(この相互作用を二つの要素のうちの一方に
還元することはできずに)。関与させる事物は関与させられる人の関心=関与を作り出し、この関与さ
せられる人は、事物の関与を登場させる。好奇心は本質的に相互作用的で、ダイナミックであり、それ
は、遂行されるためには、絶えず復活され、喚起され、再訪問されなければならない。好奇心は、安定
化された力としての原因causeのようには維持されず、逆に、存在物もしくは事物の永続的変容を通じ
て維持される。関与させる産品はその品質に関する持続的な相互作用を維持するが、それは、品質も、
その領有の諸要素も決して固定されることはない。事物の安定化は、関与させるその無能力さの兆候で
ある。常に類似して、順応した事物はもはや関与させることなく、退屈なものとなり、忘却の中に落ち
込むことになる。
「還元されざる」事物が服している事後的な評価は、テストではない。つまりこの評価は、あらかじ
め決められた品質を検証せず、常に不完全で、状況に位置づけられた品質、常に価値の明示化と同時に
判断として事物を打ち立てる。事物に対して、その複数の存在を付与するのが、部分的に比較可能な経
験としての批評的混合である。お互いに経験を持ち合う、こうした批評的議論は、散在した「個人的」
経験を超えることを可能とする。アプリオリには事物の定義が存在しないために、その市場的流通を、
「価値単位」を対価とした「なにがしかのモノ」の移転として説明することは不可能となる。経済活動
全体は、生産者や消費者、批評家、流通業者により維持される品質についての検討の批評的活動により
分散される。品質表示は、特別な評価プロトコルを持った製品の判断の複数の要素となる。こうして製
品は、生産者、そのドメーヌ、彼らのプロジェクト、過去の経験についての判断と情報の曖昧な全体と
して流通する。ワインの品質はとらえがたくなる。しかしアカロフの直感とは異なり、品質の非決定性
は、市場の確立を妨げず、その不可能な客観化が市場に対して特別な機能を付与する。このレジームの
「消費者」は、あらかじめ決定された「テイスト」を持っておらず、自らの「好奇心」を強調する。「ま
ずい」ワインでさえ、この「拒絶」の故にこそ消費者を魅了することができるかもしれない。製品の変
化する「テイスト」も、試飲者も、暫定的で部分的な安定化でいかなく批評的作業に必要な製品と判断
との間のローカルな比較を可能とする。
(3)シテと価値づけ
テロワール・ワインについては、価値の経済(economie de la grandeur)のシテの文法により、還元さ
れたレジームの市場的、工業的次元が明らかにされてきた。しかし、還元されざるレジーム、それが導
入する事物の絶えざる再編に関しては、テヴノにより提起された行動の「正当化されざる」二つのレジ
ームが重要である。すなわち親密性のレジームで、これは存在物との、ある種の愛着(肉体化された)
であり、他方でプラン行動(アクターの自律性と行動への投影)がある(Thevenot, 2006)。さらにAuray
は、この二つのレジームに「探索」のレジームを付け加える。集合的事物としてのテロワールや有機は、
親密性のレジームへの閉鎖を逃れる。探索のレジームは、事物のアプリオリな非決定性をもたらし、こ
れは、還元されざるレジームを本質的に示しているように思われる。
有機農業も、工業的シテへの、家内的、もしくは「インスピレーション=家内的」シテの対立として
解釈されてきた。これらの研究は、狭い有機農業者ネットワークの中での品質のコンヴァンシオンの複
数性のコンフリクトに満ちた維持を示している。こうしたネットワークでは、強いインターパーソナル
な知識が支配しており、このことは、製品の品質の問題を棚上げし、市場を機能させることを可能とす
る。しかしSylvanderによれば、こうした仕様書の複数性はまもなく、『交換を単純化する』農業省のA
Bラベルにより頓挫した。1991年のABラベルの制定は、それ以前に存在していた民間の仕様書13のうち1
1の消失をもたらした。有機農業者は、工業的組織化とその拡大されたネットワークによるその鎮圧か
ら彼らの格付けを守ろうとした。
こうした論争は品質表示の間の競争の問題だけだったわけではない。対立したアクターたちは、クラ
イアントと結合し、対抗的ブドウ農家は、ラベルに対抗した。というのもラベルが事物の品質について
の探求を中止させるからである(品質を明示化し、限定することで)。彼らは「モノへの別の見方」を
擁護し、それは多くの点で、偉大さの経済の「インスピレーション」のシテの要求につながる。「存在
物がその中で、インスピレーションに応じて、状態の変化を受け入れるように準備していなければなら
ないようなこの世界は、あまり安定しておらず、それほど装備されていない。別の世界では、測定やル
ール、貨幣、ヒエラルキー、法律などのような等価性を支え、装備するすべてのモノがそこでは除去さ
れている。その低いレベルの装備を与えられて、この世界は、客観化しがたい内部的試験の存在に耐え
なければならない。このことは、インスピレーションを受けた価値を、他者の意見から免れさせ、他者
の蔑視に無関心にさせる。しかしこのことはその脆弱性も作り出す」(Boltanski, Thevenot, 1991,p.200)。
「還元されざるレジーム」におけるように、インスピレーションのシテの事物も関係も安定化されて
いない。これらは、逆に、絶えず再来し、再解釈され、再生産される。そこでの評価もヒエラルキーも
常にローカルで暫定的である。逆に、還元されざるレジームは、この個人化された、内部化された世界
には似ていない。それは「わずかばかりしか設備されていない」わけではない。このレジームは工業的、
もしくは市場的シテ(「客観的科学」が産出する装備を広範に採用する)と同一の装備には訴えない。
この還元されざるレジームは自律したモノを安定化させる度量衡の装置に依拠せず、(批評がその事物
のための好奇心を評価し、更新させる)批評的議論に依拠する。その情熱は事前に決められた品質を持
った「事物=モノ」とはともに生きられず、それは、孤独で、特異なる情熱にも関連しない。ワインへ
の愛は、巨大な集団(産品の品質の評価において、インスピレーションやコミットメント、各人の好奇
心を産出する)の中で共有され、議論される。
こうした批評的、集団的手続きは、分散された、しかし共通の事物を登場させ、特異性の解釈からも
インスピレーションのシテの解釈からも遠ざかる。なるほどこうした批評的手続きは特性、それぞれの
ワイン農家の特殊な解釈、飲み手のそれぞれの判断に依拠するが、人々、状況、これらの経験の中で動
員された道具、プロトコルに対してもたらされたこれらの経験のそれぞれの分析、比較、関連づけは、
批評活動に対して、ヘテロな個人的経験の蓄積を克服させることを可能とし、関連づけられた様々な個
人的経験へと分散された集合的な事物とする。
還元されざるレジームは、アクターたちの貢献を含む特別な存在様式に従って事物を制定する。だか
ら、市場的、工業的シテがそうしているようには、アクターの間で課題を割り振る(事物を作る人、事
物を使用する人)ことはできない。あるいは生産と消費、技術的事物と使用者とを区別することもない。
芸術や高級ワインといった事物の使用と生産は、その評価において混交する。家内的シテ以上に、還元
されざるレジームは、インスピレーションのシテに似ている。このシテは、(複数の、分散された事物
を制定する)批評のこうした種別的形態によって「豊かになる」。テロワールや有機に関する論争はこ
の場合、還元されざるレジームと市場的シテ、工業的シテとの間の対立を指摘するように思われる。二
つのレジームと同様、これらはその証明と評価の道具で対立しているだけではなく、これらは、それが
承認する価値の尺度で対立している。これらは、事物に対して特別な存在を付与し、一方では安定した
モノ、他方では、部分的で暫定的な生産を付与する。市場的流通を改善する道具としての、品質表示は
そこでは、二つの場合において決定的に異なった使用法を持つ。テロワールや有機の場合、論争のそれ
ぞれの立場は、別の使用法が自分自身の存在にとって脅威をなすと判断する。しかし二つのレジームは
論理的に切断されているが、この二つのレジームは常に断絶し、差別化されているわけではない。
有機を巡る議論は、有機の還元された、および還元されざるレジームを登場させるが、この二つは、
テロワールほどには、それほど厳しい、ラディカルな対立にはない。逆にそれは、共存しているように
見える。一方の定義は他方の方向付けられた発展枠組みとして役立つ。しかしテロワールにとって、認
可試飲が真正なテロワールの追求したワインを拒絶し始めて以降、二つのレジームの共存的補完性がコ
ンフリクトに満ちた競争に変わる。テロワールに関する現在の論争は、差異と対立をラディカルにする。
すなわち、差別化された二つの立場はシテの整合的な原理に近いように思われる。
複数性は集合的行為とその相互作用にとって障害ではない。それは、その素材を形成しさえする。本
稿のケースは以下を示す。つまりこうした複数性は、かなり厳格化された対立を出現させることができ
ること、この厳格化はアクターや証明や試験だけでなく事物の存在様式にも関わるのである。品質、テ
ロワールのワインもしくは有機に関わるアクターたちをますます深刻に分割させる議論は、テイスト、
テロワール、有機(あらかじめ決められたモノもしくは、逆に、常に作られつつある生産としてとらえ
られる)の間でのラディカルな対立を登場させる。こうした二つの事物の存在様式と(それに伴う)行
動レジームは、しばしば混合している。二つが差別化され、開放されたコンフリクトに至るまで対立す
ることもあり得る。公正さのレジームにおいて見られる価値とシテに応じて構造された論争を出現させ
る。
注
1)パーカーは次のように述べて、試飲評価委員会によるワイン評価を批判する。「合議主義 collégealité では、パーソナリティをも
ったワインを評価することはできない。きわめて特徴的で特異なワインは合議的な試飲では確認できないのである。というのも委員
会のメンバーは、他の委員と対立した意見を述べることを躊躇するからである」(Guide de Parker, 1997,ただし Garcia-Parpet, 2003,
p.185 からの引用)。おそらくパーカーの批判は半分は当たっていよう。RVF の元記者とのインタビューでは次のような証言がある。
「RVF で働きたい人は、RVF の試飲評価委員会と向かい合わなければなりません。第一のスターは M. ベターヌで、次いで B. ビ
ュルシーがいます。さらに試飲評価委員会がありますが、これは著名なプロからなり、均質的な意見の持ち主たちです。こうした試
飲者たちが RVF のテイストを決めているのです。彼らと大きく意見が異なることは認められません。そんな人が RVF で働きたいと
やって来たとしましょう。この人はまずワインを評価し、我々も評価します。もし同じ判断が得られなければ、この人とはうまくいかな
いことがすぐにわかるのです」(Fernandez, 2004, p.91)。
2) ここでは、言葉によるテイストの表現としてワイン批評を取り上げたが、音楽的事物のテイストの言葉による表現についてもまた、
同様のアプローチが可能となるであろう(岡田 2009)。例えば岡田は次のように述べる。「音楽とは矛盾に満ちた存在であって、最
も感じることが容易な要素ほど、語るのはとても難しい。さまざまな比喩を駆使して、間接的に示す以外にない。そして逆に誤解の
余地なく言葉に置き換えられる部分ほど、それを聞いて明確に把握するには経験と知識がいる。専門的な耳が必要になってくる
のである」(p.86)。さらに彼は、生田久美子の「わざ言語」(生田 2007)について論じている。これは特定の身体感覚を呼び覚ます
ことを目的とした特殊な比喩であり、例えば日本舞踊の伝承では、師匠たちは「指先に全神経を集中させて」といった指示ではな
く、「指先を目玉にしたら」というような表現を用いるのだそうである。岡田は生田の議論を解釈して次のように述べている。「『わざ
言語』とは、身体の共振を作り出す言葉である。それまでばらばらだった自分の気分(感情)・動作・身体感覚の間の関係。あるい
は自分と他者との間の身体波長のようなものの関係。それが、一つの言葉を与えられたとたん、生き生きと共鳴し始める。そういう
作用を持つのが、わざ言語ではないか」(pp.64-65)。ワイン批評で使用される「木イチゴの香り」も、このような「わざ言語」なのであ
ろう。本稿は、社会学や認知科学におけるこのような議論を、市場的コーディネーションをめぐる社会経済学理論の刷新のために
積極的に活用しようとして、最初の一歩を踏み出したにすぎない。
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