日本の算数数学授業研究小史 「授業研究は何故始まり、どのように広まったのか」 そ れ は 19 世 紀 後 半 、 一 斉 指 導 法 を 学 ぶ た め の 参 観 に 始 ま っ た 。 1.個別指導から一斉指導へ:授業の仕方を学ぶ 明 治 新 政 府 が は じ ま る 1868 年 ま で の 約 260 年 間 の 江 戸 時 代 、 鎖 国 政 策 、 身 分 制 の 中 、 一 般 庶 民 の 識 字 教 育 ( 含 む Numeracy) は 全 国 に 自 律 的に広がった寺子屋で行われた。鎖国社会の中で商業が盛んになり、身 分制は漸次崩壊し、江戸末期には個人の知識、能力を尊重した人材登用 がなされるようになっていた。保護者が自主的に子どもを通わせた寺子 屋 の 普 及 に よ り 、 江 戸 末 期 の 識 字 率 は 男 子 43% 、 女 子 10% で あ り 、 日 本 は す で に 世 界 有 数 の 教 育 国 で あ っ た 。そ の 指 導 法 は 個 別 指 導 で あ っ た 。 明 治 政 府 は 1872 年 に 学 制 を 発 布 し 、 同 時 に 東 京 に 師 範 学 校 ( 現 在 の 筑波大学)を設立した。西洋の学問の普及をめざした政府は、西洋の学 問を教える外国人教師を招聘した。外国人教師は、当時西洋でもめずら し か っ た 一 斉 指 導 を 、師 範 学 校 に 導 入 し た( 図 1 )。そ れ ぞ れ の 学 力 に 応 じて課題を個別に出す個別指導しか知らなかった日本人教師・生徒は、 そこで外国人教師から内容を学ぶと同時に、外国人教師の立ち居振る舞 いを観察し、一斉指導の方法を学んで教師となっていった。 外国人教師が師範学校で作成した教科書には、例えば図2のように先 生 の 発 問 に 対 し て 、手 を 上 げ て 答 え る 生 徒 の 様 子 が 描 か れ 、 「生徒は何人 でしょう」という問いが記されていた。外国人教師は、算数の中で、同 時 に 指 導 法 を 教 え る 教 科 書 を 執 筆 し た の で あ る 。師 範 学 校 の 一 斉 指 導 は 、 東京から全国に設立される師範学校に広まった。新政府の財政難により 1880 年 頃 に は 、 東 京 を 除 く 師 範 学 校 は 潰 れ て し ま う 。 江戸・鎖国時代:寺子屋の個別指導 1868 年 明治新政府 王 政 、開 国 、西 欧 化 政 策 1872 年 学 制 発 布 ・ 師 範 学 校 設 立 教室でどう教えるの? ペ ス タ ロ ッ チ:実 物 教 授 法 一斉指導ってどうするの? 図1.寺子屋から学校へのカリキュラム・指導法の転換 木の高さは? 生徒は何人? 江戸時代の教科書「塵功記」の挿絵 1873 年 小 学 算 術 書 の 挿 絵 図 2 .「 必 要 な N u m e r a c y を 必 要 に 応 じ て 随 意 に 学 べ る 教 科 書 」 か ら 「指導法も同時に学べるように工夫された教科書」へ し か し 、 そ の 10 年 間 で 、 一 斉 指 導 は 、 師 範 学 校 の 卒 業 生 に よ っ て 、 そ し て 掛 け 軸 ( 図 1 ) や 教 科 書 (図 2 )に よ っ て 全 国 に 普 及 し て い っ た 。 2.東京師範学校附属小学校を通した授業研究習慣の普及 1 8 8 0 年 代 に は 、海 外 留 学 組 の 帰 国 に よ っ て 、指 導 法 の 研 究 ・ 普 及 は 新 しい段階を迎えた。派遣前には師範学校の教員であった留学者等は、帰 国後、師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)の教員として 迎えられ、ペスタロッチ主義の指導法を記した図書を刊行した。その図 書には、すでに教材の解説、授業参観の仕方、反省会のあり方などが記 されていた。彼等は、文部省の求めに応じ、日本各地でその指導法を実 演行脚することになった。新しい指導法や指導内容の提案のために授業 を公開し、検討しあう官製授業研究会のはじまりである。 図3は、現在も続く全国教員研修会の模様を示している。 3.授業研究による自ら学ぶ指導法の開発・普及 豊かになると、小学校は誰もが行き、卒業すべき学校となる。特に、 1920 年 ご ろ に は Dewey 等 の 教 育 理 念 等 に 沿 う 新 し い 指 導 法 が 、 在 野 の 教師から提案される時代を迎えた。その時代、例えば図4のように、生 徒が自ら問題を作り、誰の問題を解くかを互いに話し合い、選んだ問題 を 解 く こ と に よ り 学 習 を 深 め る 指 導 法 が 提 案 さ れ た 。こ の よ う な 提 案 が 、 今日、構成主義的な指導法の典型として世界的に評価される問題解決型 の指導法を生まれる背景となった。 第二次世界大戦後には、教職員組合が発足し、授業研究は白熱した討 議を伴うものとなった。他方で、研究授業が、不毛なイデオロギ対立の 場として利用されることもあった。そのような対立を超えて、問題を解 く中で、既習の限界を知り、新たな知見を生み出す指導法である問題解 決型の指導法が広く支持されるようになったのは、研究授業で子どもの 育った姿を示すことが課せられ、参観教師が自ら学ぶ子どもの姿に感動 したからであった。 100 人 の 教 師 が 参 観 す る 研 究 授 業 1200 人 の 教 師 が 講 堂 ス テ ージ上で行われる授業と 授業検討会を参観する。 図3.明治以来続く筑波大学附属小学校全国教員研修大会(8 千人参加) 子どもが廊下で自作問題を個 別に小黒板に板書する様子 板書した問題を発表するた めに教室内で掲示する様子 図 4 . 1920 年 ご ろ の 奈 良 女 子 大 学 附 属 小 学 校 の 作 問 指 導 研 究
© Copyright 2024 Paperzz