◎ 我が国の鉄道の歴史 (我国最初の蒸気機関車・英国製) 明治 5 年(1872 年) 新橋 ∼ 横浜間を 1067mm の狭軌としたのは明治政府の重鎮 大 熊重信侯で、イギリス顧問団のアドバイスによるモノで 狭軌は植民地ゲ−ジと呼ばれて いるモノで標準軌道は 1435mm です。 この狭軌の採用は後にも問題になり、後 年 後藤新平翁や政府要人も度々問題提起 し標準軌道にすることを提案しており、陸 軍も兵站の観点から標準軌道を提案してお りましたが、予算の関係で国鉄は全て狭軌 のままで、新幹線が標準軌道になりました。 機関車と車両は全てイギリス製を輸入 し、鉄路や信号の施設も全てイギリス製で技術指導者も施設・運用全てがイギリス人の技 術者が担当しました。 その後に出来た北海道の官営幌内鉄道は アメリカ方式を採用、有名な義経号、弁慶 号は西部劇を彷彿させる型ですが、これは アメリカ製を輸入したからです。 また九州ではドイツ製を輸入して開業し ております。 鉄道技術の国産化は明治政府にとって急 務であり、大阪に汽車製造会社、名古屋に 日本車輌製造会社を設立させ、積極的な展開を謀り、 (最初の新橋駅) 最初は海外より輸入した車両のコピ−しながら技術を磨き、技官を海外留学させ、自主 設計の学術的、技術的な地盤を固め、明治 26 年には、日本初の国産機関車を製造した。 しかし完全国産化できるのは大正に入ってからで独自の設計から全ての部品に至るまで 国産第一号は貨物用の 9600 形(愛称キュ−ロク)、旅客用 8620 形(愛称ハチロク)です。 ただし、全てが国産化されましたが、根本的な設計思想はドイツ系を踏襲し、大径動輪 をゆっくり駆動するプロイセン流の手法を採用しております。 明治 5 年(1872 年)10 月 14 日新橋∼横浜(桜木町)開通 29km ですが、当初は陸蒸気 が走ると火事になる、祟りがある、悪魔がやって来ると等の反対が多く、さらに通過する 予定地の品川近辺には薩摩屋敷をはじめ多くの大名屋敷があり、やむを得ず品川付近は築 堤を海上に築き約 10km は海上を走行するという設計になりました。 新橋∼横浜(桜木 町)間は途中駅がなくノンストップで所要時間 53 分ですから、まさに夢の超特急です。 新橋∼横浜間 営業開始 運賃片道 上等 1 円 12 銭 5 厘 中等 75 銭 下等 37 銭 5 厘 (当時の貨幣価値 円 明治政府、官(公務員)1 等から 15 等あり、給料、1 等太政大臣 800 15 等 12 円現在の換算は, 1 円≒ 1 万円位ですから、庶民には一寸高価すぎる贅沢品で、 現在の飛行機的な感覚でしょう. 明治 7 年 6 月 11 日 運賃改正 上等 1 円、 中等 60 銭、下等 30 銭 -3-
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