最後の映画スターといわれた高倉健が昨年11月10日に亡くなった

最後の映画スターといわれた高倉健が昨年11月10日に亡くなった。アメリカでは今
でも映画のビッグスターは滅多にテレビには姿を現さない。しかし、わが国において
はもうかなり前からテレビに出ない映画スターなど貴重な存在となった。そのひとり
というより、ほとんど唯一といってもよいのが高倉健だった。以前に遺作となった
「あなたへ」(12年)の撮影現場を取材したNHKのドキュメンタリー番組をたまた
ま見ていたら、もう故人となった名傍役の大滝秀治と健さんが映画で絡む場面に出く
わした。その短いワン・シーンで、大滝が台詞をいい、健さんがそれを受ける。降旗
康男監督が「カット」と声をかけて撮影が終わる。「お疲れ様でした」と大滝はその
場を去る。ところが、健さんは固まったようにその場に立ちすくんで動かない。ス
タッフが心配して「どうかされましたか」と声をかけると、健さんは「いや、今の大
滝さんの芝居に胸を打たれました」と涙ぐむ。80歳のスターが自分より年長の老優の
名演に感動して動くことができない。そういう少年のような感性がすごいと思わせた。
かれの代表作は何だろう。大方の意見は山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」(77年)だろう。この映画の冒頭で出所
した健さんが小さな飲食店に入り、ビールにドンブリ、うどん、服役中に早く食べたいと夢見た好物のメニューを一遍に注文
し、机に並べられたそれらを一心に掻き込む印象的なシーンがある。健さんは実においしそうにそれを頬ばるのだが、山田監
督は健さんがこの撮影のために絶食していたことをあとで知って深く感銘を受けたそうだ。逝去の第一報を報じたA紙は「幸せ
の黄色いハンカチ」を代表作として挙げ、同作でキネマ旬報賞の男優賞、毎日映画コンクールの主演男優賞を受賞したと報じ
たのに対して、ライバル紙のY紙は同じように「幸せの黄色いハンカチ」を挙げながら日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受
賞したと全く違う方向から報じていた。これは明らかに映画賞としては古い伝統と権威のあるふたつの賞に言及したA紙(おま
けに毎日映画コンクールは他紙の主催)のほうに分がある。しかし、よく考えるとY紙の記事は確信犯であり、系列局が日本ア
カデミー賞の授賞式を放送していることに思い至った。
しかし、やっぱり、健さんといえば「網走番外地」であり任侠映画である。東映入社後、しばらくメが出ないで準主役級の
スターとしてお茶を濁していた健さんが、映画の斜陽と時を同じくして衰退する時代劇と入れ代わるように登場した任侠映画
で脚光を浴びるようになった。それまで東映のエースだった中村錦之助や大川橋蔵が新路線に馴染めず退社するのを尻目に、
健さんは鶴田浩二や若山富三郎と並んで一躍東映のエースとなり、着流しやくざもので一世を風靡した。とくに、奇才石井輝
男監督の「網走番外地」シリーズでは、主人公のキャラが健さんとみごとに合致して水を得た魚の如くスクリーン狭しと暴れ
回った。この映画にはいわくがあって、もともと大物俳優Mが東映に持ち込んだ企画から始まり、紆余曲折の末に物語のベー
スは当初の企画どおり、タイトルは59年に日活が映画化したマイナー作品から頂き、主演もMを外して高倉健で行こうと変更
されたらしい。これが当たった。プロデューサーだった岡田茂の動物的な勘が演技の巧さでは右に出る者がいないといわれた
一代の名優Mでは逆に娯楽作品としてはヒットしないだろうと踏み、健さんを起用したのである。アウトローにもアウトロー
なりの「正義」があるとするスタンスが「網走番外地」や任侠もののバックボーンであった。
作家の橋本治が東京大学の学生時代、駒場祭のポスターに健さんをイメージしたイラストと合わせて書いた伝説の名コピー
「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが 泣いている 男東大どこへ行く」を持ち出すまでもなく、全共闘学生の心の支
えともなったのである。それを踏まえて三島由紀夫が「左翼から高倉健を奪い返せ」と宣言したのは有名な話である。しか
も、三島が凄絶な最期を遂げた自衛隊市ヶ谷駐屯地に向かう車の中で楯の会の若者たちとともに合唱したのが「唐獅子牡丹」
であったことはよく知られている。池部良と健さんが男同士の相合い傘で敵陣に殴り込みに行く任侠映画史上の名場面(「昭
和残侠伝唐獅子牡丹」66年)を思い出さずにはおかない。しかし、反社会的勢
力に対する世間の目が厳しくなって、そうした勢力を肯定的に描くことが許さ
れなくなった。したがって、やくざ映画も変質を余儀なくされた。深作欣二の
秀作「仁義なき戦い」シリーズは、着流しものに存在した義理と人情のような
きれいごとではなく、裏切りと謀略が渦巻く組織の真実を暴いて飽きさせな
かった。義理と人情を排した本音の世界が実録ものの真骨頂であり、弱い者に
は徹底的に居丈高だが強い者にはまったく意気地がない山守組長(金子信雄)
のどうしようもない「くされ外道」ぶりなど、登場するキャラのおもしろさが
「仁義なき戦い」に深みを与えた。さすがに、やくざ礼賛で一世を風靡した鶴
田浩二や高倉健に正反対の実録路線をやらせるわけにいかない。皮肉にも健さ
んの居場所は無くなる。これがまた、健さんにとっては大いなる飛躍をする上でのプラスの転換期となったのである。
ところで、実は私が健さんの映画で一番好きな作品はほかでもない「新幹線大爆破」(75年東映、写真下)である。この映
画はデッドリミットもの、パニックもののサスペンスの秀作でキネマ旬報ベストテンに入賞し、当時の東映の岡田茂社長をし
て「うちの映画がキネ旬ベストテンに入るとは!」と皮肉を言わしめた(キネ旬ベストテンは芸術性偏重との不満が興行側に
ある。)。東京から大阪に向かう新幹線に爆弾を仕組み、停車したが最後爆発するという仕掛けをネタに巨額の身代金を要求
する話である。健さんは表向きは寡黙な町工場の親爺さん、実は犯行グループの首謀者というアンチ・ヒーローを好演した。
高倉健ほどスクリーンのイメージと実際の人となりが一致する人も珍しいだろう。これは私の想像だが、かれは私生活にお
いても高倉健を演じ続けていたのではないか。だから、その息抜きのために、私生活の大部分を明かさず孤独を愛して単独行
動を好んだのではないか、と私は推測する。周囲に内緒で姿を消すことが多くて、これまでも何度か海外の病院に長期入院し
たとか、重病説、死亡説などの怪情報がマスコミを賑わせてきた。慎んで哀悼の意を表したい。 (2015年2月1日)