とよはしきこり隊 会長 山本 晴彦

河口から見た
豊川見聞録
と
よ
が
わ
山本 晴彦
とよはしきこり隊 会長 古より東三河の地が「穂の国」と呼ばれてい
たのは豊川がもたらしたものに他ならない。
まったく想像もつかない。
先人は賢く川を利用してきたが、けっして良
藩政の時代には川を介して物資の輸送がさ
いことばかりではなかった。時に牙をむき洪水
かんに行われており、上流からは木材、米が、
と満潮が重なると、それはひどいものでさなが
下流からは海産物などが上流へと運ばれたと
ら水上都市と化す。
いう。筏流しの木材業者と後発の水運業者の間
水の脅威は海からもやってきた。昭和 28 年の
で利用を巡って争いが絶えず、吉田藩(中心地
台風 13 号、昭和 34 年の伊勢湾台風による被害
は今の愛知県豊橋市)が調停のために動いたと
は、水の恩恵とは裏腹に恐ろしいものであった。
藩の記録にある。そんな中、藩はわが故郷(豊
現在豊橋市内だけで 30 数基の排水機が稼働
橋市前芝)に燈 明台(今でいう灯台)を造り航
していて、低地は地震、津波への不安も最近ま
行の安全に努め、この地にも廻船問屋が現れ宿
た叫ばれはじめている。
とうみょうだい
屋5軒を数え、さながら港町のにぎわいであっ
たとか。
(冊子「みなと塾」から引用)
昭和 40 年代になると、臨海部の遠浅の海は
工業整備特別地区の指定で埋め立てられて工
幕末にこの土地における三河海苔の創始者
業地帯へと変貌してゆくことになる。いっぽう
杢野甚七翁の尽力で海苔養殖に成功し、産業に
豊川のほうは農業用水、水道用水、工業用水と
なった。一方忘れてはならないのは一大観光地
して豊川用水事業が提唱され、三河湾をとりま
であったこと。河口の干潟はアサリ、小魚のゆ
く繁栄の基礎に川がありと誰もが認めるとこ
りかごで南信州、奥三河一円の小学生が遠足で
ろではある。しかし、上流のことを忘れた開発
訪れた遠い時代の懐かしい思い出話を聞いた。
はやがてはその鉾先が人間に向けられること
そこは海水浴場でもあり、そんな時代が昭和
を、賛否両論のある設楽ダムを巡る議論におい
30 年代まで続くわけであるが、今となっては
ても忘れないようにしたい。
前芝燈明台(写真提供:豊橋観光コンベンション協会)
間伐作業を行う「とよはしきこり隊」
もくのじんしち
したら
すい滴
●
3