パート4 今日のオーストラリア オーストラリアは世界でも最古の陸塊のひとつです。 面積では世界第六位の国です。 38 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 今日のオーストラリア このセクションでは、何がオーストラリアを特別な国にしているかについて学び、オーストラリアの文化、イノベーショ ン、国としてのアイデンティティについて詳しく知ることが出来ます。今日の世界において、オーストラリアは活力溢れ るビジネスと貿易のパートナーであり、尊敬を受ける世界市民でもあります。私たちはこの国の絶え間ない成長と永 続に対する、新移民の方々の貢献を尊重します。 土地 オーストラリアは多くの意味で独特であると言えます。オーストラリアは世界の七大陸のうち、一国が占有する唯一の 大陸であり、その人口密度は1平方キロあたりわずか2名と世界最低となっています。 オーストラリアは世界でも最古の陸塊のひとつであり、面積では世界第六位の国です。 また居住者のいる大陸として は最も乾燥しているため、オーストラリアのほとんどの地域において水は大変貴重な資源です。 土地の大部分は痩せ地であり、農業に適している地域はわずか6パーセントのみです。乾いた内陸部の地域は「アウ トバック」 と呼ばれ、 こうした僻地で暮らし働く人々は多大な尊敬を受けています。彼らの多くはオーストラリアの民 話の一部となっています。 オーストラリアは広大な国であるため、その気候も大陸内の地域によって異なります。オーストラリア北部には熱帯 地域があり、中央部は砂漠となっています。 南部へ下ると、気温は山岳では雪も見られる涼しい冬から夏の熱波までと変動することもあります。 6つの州と本土にあるふたつのテリトリーに加え、オーストラリア政府はさらに、 アシュモア・カルティエ諸島、 クリスマ ス島、 ココス(キーリング)諸島、 ジャービスベイ・テリトリー、サンゴ海(コーラルシー)諸島、オーストラリア南極地域 内にあるハード島とマクドナルド諸島、 ノーフォーク島を領域として管理しています。 パート 4 – 今日のオーストラリア 39 世界遺産指定地 オーストラリア大陸の11パーセント以上は保護下にある先住民の土地、保留地、 もしくは国際基準に則って保護管理 が行われている国立公園となっています。オーストラリアでは17カ所の遺跡が、国連教育科学文化機関(UNESCO)の 世界遺産リストに載っています。 40 南オーストラリアとクイーンズランドにあるオ ーストラリアの哺乳類化石地域 ニューサウスウエールズとクイーンズランド のゴンドワナ(Gondwana)多雨林群 ノーザンテリトリーのカカドゥ(Kakadu)国立 公園 クイーンズランド南部海岸沖のフレーザー島 クイーンズランドのグレートバリアリーフ ニューサウスウエールズ海岸沖のロード・ハ ウ島 シドニー西部のグレーター・ブルー・マウン テンズ地域 オーストラリア南極地域のハード島とマクド ナルド諸島 タスマニアから南にあるマッコーリー島 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 西オーストラリアのパーヌルル(Purnululu)国 立公園 シドニーオペラハウス クイーンズランドの湿潤熱帯地域 メルボルンの王立展示館とカールトン庭園 タスマニア原生地域 ニューサウスウエールズのウィランドラ湖群 (Willandra Lakes)地域 こうした世界遺産やその他の名 所を訪れて、オーストラリアでの 体験を深めることをお薦めしま す。砂漠、海岸、山、そして熱帯雨 林等での散策を楽しむ場所が多 くあります。歩数を重ねるほど、 こ の広大で活気溢れる国に対する 帰属感が深まるはずです。 西オーストラリアのシャーク湾 ノーザンテリトリーのウルル-カタ・ジュタ (Uluru - Kata Tjuta)国立公園 パート 4 – 今日のオーストラリア 41 広大な国 オーストラリアの広大さはイノベーションと発明の母で もあります。 アウトバックの人々はかつて、最寄りの医師の診療を受 けるためには数日も旅しなければならない時代もあり、 ブッシュ(奥地)に暮らす子供達の多くは家が遠すぎて 全日制の学校に通うこともできませんでした。 アウトバックに住む家族は孤独を堪え難く感じていまし た。大規模な牧場の面積は数千キロ平方メートルにも 及んでおり、そこに住む女性や子供達は何ヶ月もの間 家族以外の人に会わないこともありました。電話もなく 人々は極めて孤独で、精神的にも不安定な状態でした。 こうした問題を偉大なオーストラリア人達は、創意とイ ノベーションを通じて解決していきました。 ペダル式無線 1929年、 アデレード出身のアルフレッド・トレガ (Alfred Traegar)ーは最初のペダル式無線を設計し、利 用者は足でペダルを踏むことにより送受信兼用の無線 を使うことが出来ました。 この発明により孤独な牧場の 人々、僻地の宣教所、 アボリジニのコミュニティの全員 が恩恵を受けました。 こうして孤独な生活を送る女性達 が電波に乗って友情を育むことが出来るようになった のです。 スクール・オブ・ジ・エアー 1950年代まで、僻地で暮らす子供達は寄宿制の学校に 入学するか、郵便を利用しての通信教育を受けるかの どちらかしか方法はありませんでした。 南オーストラリアのロイヤルフライングドクターサービ スの副会長であったアデレード・ミエスケは、 フライン グドクター用の無線は家庭にいる子供達と教師が会話 をするのにも役立つことに気付きました。 アリススプリ ング(Alice Springs)のサービスは、 このような送受信に よる授業の放送を1948年に開始しました。 スクール・オ ブ・ジ・エアーが正式に発足したのはそれから数年後の ことです。オーストラリアのスクール・オブ・ジ・エアーは また、他の国々がこれに類似するプログラムを開始す るための援助も提供してきました。 かつてのペダル式無線は、現在では高周波の受信機に 取って代わられましたが、ロイヤルフライングドクター サービスおよびスクール・オブ・ジ・エアーは、今もなお 僻地のコミュニティで暮らすオーストラリア人達のため に役立っています。 ペダル式無線は、ロイヤルフライングドクターサービス およびスクール・オブ・ジ・エアーというオーストラリア ならではの二つの偉大な制度の確立にも役立ちまし た。 ロイヤルフライングドクターサービス ジョン・フリン牧師(Reverend John Flynn)は、僻地のコミ ュニティで人々とともに暮らし働きました。彼は、医師を アウトバックの患者のもとに空路にてできる限り早急 に連れてくるための構想を巡らしていました。政府、 カ ンタス航空(Qantas)、慈善寄付の援助を得、ロイヤルフ ライングドクターサービスは1928年に開始しましたが、 僻地の中にはまだサービスに連絡することが出来ない 人々もいたのです。ペダル式無線の導入により、僻地の 牧場の人々も早急に医師を呼ぶことが出来るようにな りました。 42 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 ニューサウスウエールズのスクール・オブ・ジ・エアーで学ぶ子供達 オーストラリアのアイデンティティ オーストラリアのアイデンティティは、 この国独特の伝統、 文化そして国民の積極的な気質によって形作られてきました。 スポーツとレクリエーション オーストラリア人の多くはスポーツを愛し、国際的なレ ベルで素晴らしい成果を収めた選手達も多く生まれて います。 私たちは「スポーツに秀でた(そしてスポーツ精神に則 った)」国としての評判を誇りとしています。オーストラリ アのスポーツ選手は、多大な努力、 フェアプレー、チー ムワークといった価値感を代表する大使として称賛を 受けています。 歴史を通じ、 スポーツはオーストラリアの人々の気質を 形作るとともに団結を促してきました。かつての入植の 時代には人々は厳しい現実からの一時的な逃避手段と してスポーツにいそしんでいました。戦争中において さえも、オーストラリア防衛軍の軍人達は戦場でのスト レスを解消させるためにスポーツの競技試合を開いて いました。 スポーツはまた、競技者と見物者両方の一体感を培 い、オーストラリア社会に参加し、それにとって大切な ものの一部であるという満足感を与えてくれます。 オーストラリア人の多くはチームスポーツに参加しま す。最も人気のあるスポーツとしてはクリケット、バスケ ットボール、ネットボール、ホッケー、各種フットボール 等があります。 五回にわたりオリンピックで金メダルに輝いたイアン・ソープ (Ian Thorpe) 水泳、テニス、陸上、 ゴルフ、サイクリング等も人気のあ るレクリエーション活動です。 またこれらはオーストラ リア人が国際競技の場でも卓越した成績を収めている 競技でもあります。その他人気のある身体的な活動に は、 ブッシュウォーキング、サーフィン、 スキーなどがあ ります。 オーストラリア人はまた、 フットボール(サッカー) 、 ラグ ビーリーグ、 ラグビーユニオン、 オーストラリアンルール・ フットボールをプレーしたり観戦することを好みます。 「 オージールールズ」はオーストラリア独自のゲームです。 オーストラリアはクリケット競技での国際的成功を特に 誇りとしています。オーストラリアと英国のクリケットチ ームの間では、19世紀後半以来のライバル意識が根付 いています。 国全体で夢中になる」 とされるメルボルンカップは世界 でも賞金額が最も高く、最も参加のしがいがある競馬 レースです。第一回目のメルボルンカップは1861年に 開かれました。以来11月の第一火曜日であるメルボル ンカップデーは1877年以降ビクトリア州で祝日となっ ています。 オーストラリア代表女性フットボールチームのメンバー パート 4 – 今日のオーストラリア 43 サー・ドナルド・ブラッドマン(Sir Donald Bradman) (1908 – 2001年) サー・ドナルド・ブラッドマンは史上に残る偉大なクリケットのバッツマンであり、 オース トラリアにおけるスポーツの英雄です。 ニューサウスウエールズのボウラルで(Bowral)育ったドナルド・ブラッドマンは、1928年 にオーストラリアのクリケット代表チームで初めてプレーしました。 彼は痩せた体つきながら、驚くべきほど足が速い選手でした。1930年、彼にとって初の イギリス遠征では、バッティング記録のほとんどすべてを破り、21歳になるまでには既 にオーストラリアの英雄的存在となっていました。 ブラッドマンにとって最後となった1948年のツアーにおいて、対イギリス戦では一度 も負けなかったことから、チームは「無敵」(The Invincibles)と呼ばれるようになりました。 「ザ・ドン」(The Don)のあだ名で親しまれているサー・ドナルド・ブラッドマンは、史上最高のバッツマンとして知られ ています。彼のテストバッティングの平均は99.94でした。 芸術 オーストラリアには、国の先住民族の伝統的文化や様 々な移住者がもたらす豊かな文化等を含む、活気溢れ るアートシーンがあります。映画、 アート、演劇、音楽、 ダ ンス等オーストラリアのビジュアルアーツとパフォーミ ングアーツは国内外で高い評価を得ています。 文学 オーストラリアには、先住民の民話を起源とし、18世紀 後期に訪れた囚人達の口承文学へと続く立派な文学 史があります。 オーストラリアの早期の作品は、 ブッシュや厳しい環境 における生活について書かれたものがほとんどでし た。ヘンリー・ローソン(Henry Lawson)やマイルス・フラ ンクリン(Miles Franklin)等の作家は、 ブッシュやオース トラリアの生活様式についての詩や小説を執筆しまし た。 オーストラリアの小説家であるパトリック・ホワイト (Patrick White)は、1973年にノーベル文学賞を受賞しま した。その他現代を代表するオーストラリア人の作家に は、ピーター・キャリー(Peter Carey)、 コリーン・マッカラ ー(Colleen McCullough)、ティム・ウイントン (Tim Winton)等が挙げられます。 44 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 ジュディス・ライト (Judith Wright) (1915 – 2000年) ジュディス・ライトは卓越 した詩人であり、 自然保護 論者、 アボリジニの権利 運動家でもありました。 ライトはオーストラリアで 最も愛されている詩人の 一人です。彼女はその詩 で、オーストラリアやその 人々に対する自らの愛情 を表現しました。彼女は、 エンサイクロペディア・ブリタニカ文学賞、女王陛下の ゴールドメダル(詩部門)を初めとする数々の賞を受賞 しました。 また彼女はオーストラリア自然保護委員会と アボリジニ条約委員会の委員でもありました。 ジュディス・ライトは、詩人としての才能、そしてオースト ラリアの文学界と、社会・環境面における改革の推進者 として人々の記憶に残っています。 演劇および映画 オーストラリアの演劇、映画、 そして映画人は国内外で高 い評価を得おり、 て広く愛されています。 ケイト・ブランシ ェット(Cate Blanchett)、 ジェフリー・ラッシュ (Geoffrey Rush)といったオーストラリア人の俳優やピー ター・ウエアー(Peter Weir)等の映画作家は映画における 功績がたたえられ、国際的な賞を数々受賞しています。 芸術 最も広く知られるオーストラリアの芸術作品は、伝統的 な先住民の絵画およびトム・ロバーツ(Tom Roberts)、 フ レデリック・マッカビン(Frederick McCubbin)、 アーサー・ ストリートン(Arthur Streeton)等に代表される19世紀の 画家によるブッシュの風景を描いたものです。20世紀半 ばにはラッセル・ドライスデール(Russell Drysdale)、 シド ニー・ノーラン(Sidney Nolan)が大胆な色使いでアウト バックの厳しさを描きました。 より最近では、 ブレット・ウ ィットリー(Brett Whiteley)がその独特で鮮やかなスタイ ルで国際的な名声を得ました。 音楽とダンス オーストラリア人はあらゆる分野の音楽を受け入れ、素 晴らしい成果を収めてきており、 クラッシック、 カントリ ー、ロックミュージックといった分野への貢献によって も国際的に認められています。聴いてすぐにわかる純 粋なオーストラリアの音はアボリジニの古代の楽器で あるディジェリドゥーの音です。 オーストラリアのダンスは、サー・ロバート・ヘルプマン (Sir Robert Helpmann)、 メリル・タンカード(Meryl Tankard) 、 スティーブン・ペイジ(Stephen Page)等の偉大なダンサ ーと振付家の功績により見事に開花しました。 科学での功績と発明 オーストラリア人は、科学的功績と、医学、技術、農業、 工業、製造業といった分野での革新に輝かしい記録を 有しています。 科学や医学上の発見では10名のオーストラリア人がノ ーベル賞を受賞しています。 科学に貢献した人々には、オーストラリアン・オブ・ザ・ イヤー賞も授与されています。2005年、同賞は火傷 の被害者のためのスプレー式皮膚を開発したフィオ ナ・ウッド教授(Professor Fiona Wood)の手に渡りまし た。2006年には子宮頸癌のワクチンを開発したイアン・ フレイザー教授が(Professor Ian Frazer)、2007年には環 境科学者の第一人者であるティム・フラネリー教授が (Professor Tim Flannery)それぞれ同賞を受賞していま す。 指揮者で最近オーストラリア市民権を授与されたヴラディーミル・ヴ ェルビツキー(Vladimir Verbitsky)と西オーストラリア交響楽団 フレッド・ホロウズ教授 Professor Fred Hollows (1929 – 1993年) フレッド・ホロウズ教授は 情熱溢れる眼科医で、 オー ストラリアおよび開発途 上国の数々において百万 人以上の視力回復に貢献 しました。 フレッド・ホロウズはニュ ージーランドで生まれま した。1965年にオースト ラリアに移り、後にシドニ ー病院の眼科長となりま した。 同氏は全ての人々の平等を固く信じ、最初のアボリジ ニ向け医療サービスを設立しました。現在ではオースト ラリア全国で60カ所が開業しています。 1980年までにはフレッドは世界中を旅して、途上国で 眼の健康に関するプログラムの開始に努めてきまし た。彼は1989年4月にオーストラリア市民となっていま す。 ホロウズ教授の慈善事業は妻のギャビーとフレッド・ホ ロウズ・ファンデーション(Fred Hollows Foundation)を通 じて続けられています。 ウッド教授(Professor Wood)とフレイザー教授 (Professor Frazer)は共に英国からオーストラリアに移住 してきました。 フレイザー教授(Professor Frazer)の共同 発明者は中国から移住し、後にオーストラリア市民とな った故ジャン・チョウ博士(Dr Jian Zhou)です。 パート 4 – 今日のオーストラリア 45 オーストラリアン・オブ・ザ・イヤー 1960年以降、オーストラリアン・オブ・ザ・イヤー賞は、優秀なオーストラリア人の業績と貢献を讃えてきました。同賞 には誰でも、 どのような身分のオーストラリア人でもノミネートすることが出来ます。オーストラリアンズ・オブ・ザ・イ ヤー賞の受賞者は、卓越した業績を残し、 この国に奉仕した人々です。 2009 年 マイケル・ドッドソン教授AM (Professor Michael Dodson AM) 先住民リーダー 2008 年 リー・カーナガン OAM (Lee Kernaghan OAM) 歌手、音楽家、 「 Pass the Hat Around」ツアー創始者 2007 年 ティム・フラネリー教授 (Professor Tim Flannery) 科学者、作家、自然保護論者 2006 年 イアン・フレイザー教授 (Professor Ian Frazer) 臨床免疫学者 2005 年 フィオナ・ウッドAM (Professor Fiona Wood AM) 形成外科医および火傷専門家 2004 年 スティーブ・ウォー (Steve Waugh) テストクリケット・キャプテン、人道活動家 2003 年 フィオナ・スタンレー教授 AC (Professor Fiona Stanley AC) 小児科医、伝染病学者 2002 年 パトリック・ラフター (Patrick Rafter) USオープン・テニス優勝者、 「Cherish the Children Foundation」創設者 2001 年 ピーター・コスグローブ陸軍中将AC MC (Lt General Peter Cosgrove AC MC) オーストラリア陸軍司令官2000-2002年 2000 年 サー・グスタフ・ノッサルAC CBE FAA FRS (Sir Gustav Nossal AC CBE FAA FRS) 研究生物学者 1999 年 マーク・テイラー (Mark Taylor) テストクリケット・キャプテン 46 1995 年 アーサー・ボイドAC OBE (Arthur Boyd AC OBE) 芸術家 1994 年 イアン・キエナン OAM (Ian Kiernan OAM) 「Clean Up Australia」運動創始者 1992 年 マンダウイ・ユヌピング (Mandawuy Yunupingu) 先住民リーダー 1991 年 ピーター・ホリングワース大司教 AO OBE (Archbishop Peter Hollingworth AO OBE) 社会正義提唱者 1990 年 フレッド・ホロウズ教授 AC (Professor Fred Hollows AC) 眼科医 1989 年 アラン・ボーダー AO (Allan Border AO) テストクリケット・キャプテン 1988 年 ケイ・コティー AO (Kay Cottee AO) 単独ヨットウーマンとしての記録達成者 1987 年 ジョン・ファーナム (John Farnham) 歌手、音楽家 1986 年 デイック・スミス (Dick Smith) 冒険家、慈善家 1985 年 ポール・ホーガン AM (Paul Hogan AM) 俳優 1984 年 ロイス・オドナヒュー CBE AM (Lowitja O’Donoghue CBE AM) 先住民リーダー 1983 年 ロバート・デ・カステラ MBE (Robert de Castella MBE) マラソン走者世界チャンピオン 1998 年 キャシー・フリーマン (Cathy Freeman) 国際競技とオリンピックで優勝した陸上選 手、先住民大使 1982 年 サー・エドワード・ウイリアムス KCMG KBE (Sir Edward Williams KCMG KBE) オーストラリア王立委員会委員長 薬物調査委員会 1997 年 ピーター・ドハーティー教授 (Professor Peter Doherty) ノーベル医学賞 1981 年 サー・ジョン・クロフォード AC CBE (Sir John Crawford AC CBE) オーストラリアにおける戦後成長の設計者 1996 年 ジョン・ユー医師 AM (Doctor John Yu AM) 小児科医 1980 年 マニング・クラーク AC (Manning Clark AC) 歴史学者 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 彼らの功績は、 この偉大な国に貢献するために私たちには何ができるのかについて考えさせてくれます。現在同賞 には、ヤングオーストラリアン・オブ・ザ・イヤー、 シニアオーストラリアン・オブ・ザ・イヤー、オーストラリアズ・ローカ ルヒーローの部門が含まれています。 1979 年* ネビル・ボナー上院議員 AO (Senator Neville Bonner AO) 初のアボリジニ上院議員 1979 年* ハリー・バトラー CBE (Harry Butler CBE) 自然保護論者および植物学者 1978 年* アラン・ボンド (Alan Bond) 企業家 1978 年* ギャラウイー・ユヌピング AM (Galarrwuy Yunupingu AM) 先住民リーダー 1969 年 リチャード・ガーディナー・ケイシー閣下バ ー ウィック・ウビクトリア・ウェストミンスター 市 子爵 KG GCMG CH (Rt Hon Richard Gardiner Casey Baron of Berwick, Victoria and of the City of Westminister KG GCMG CH) オーストラリア総督1965-69年 1968 年 ライオネル・ローズ MBE (Lionel Rose MBE) ボクシング世界チャンピオン 1967 年 ザ・シーカーズ (The Seekers) 音楽グループ 1977 年* サー・マレー・ティレル KCVO CBE (Sir Murray Tyrrell KCVO CBE) 総督付秘書官 1966 年 サー・ジャック・ブラバム OBE (Sir Jack Brabham OBE) モーターレーシング世界チャンピオン 1977 年* デイム・レイ・ロー DBE (Dame Raigh Roe DBE) 地方女性協会リーダー 1965 年 サー・ロバート・ヘルプマン CBE (Sir Robert Helpmann CBE) 俳優、 ダンサー、 プロデューサー、振付家 1976 年 サー・エドワード・’ウェアリー’・ダンロップ AC CMG OBE (Sir Edward ‘Weary’ Dunlop AC CMG OBE) 軍外科医 1975 年* サー・ジョン・コンフォース AC CBE (Sir John Cornforth AC CBE) ノーベル化学賞 1975 年* アラン・ストレットン少将 AO CBE (Major General Alan Stretton AO CBE) サイクロン・トレーシー通過後のダーウイン 救済活動指揮官 1974 年 サー・バーナード・ハインツ AC (Sir Bernard Heinze AC) 指揮者および音楽家 1973 年 パトリック・ホワイト (Patrick White) ノーベル文学賞 1972 年 シェーン・グールド MBE (Shane Gould MBE) オリンピック水泳チャンピオン 1971 年 イボンヌ・グーラゴング・コーリー AO MBE (Evonne Goolagong Cawley AO MBE) ウインブルドンおよびフレンチオープン優勝 者のテニス選手 1970 年 ノーマン・ギルロイ枢機卿 KBE (His Eminence Cardinal Sir Norman Gilroy KBE) オーストラリア出生者として初めての枢機卿 1964 年 ドーン・フレーザー MBE (Dawn Fraser MBE) オリンピック優勝の水泳選手 1963 年 サー・ジョン・エクルス AC (Sir John Eccles AC) ノーベル医学賞受賞者 1962 年 アレキサンダー・ 「ジョック」 ・スタロック MBE (Alexander ‘Jock’ Sturrock MBE) アメリカ杯チャレンジャーのスキッパー 1961 年 デイム・ジョーン・サザランド OM AC DBE (Dame Joan Sutherland OM AC DBE) ソプラノ歌手 1960 年 サー・マクファーレン・バーネット OM AK KBE (Sir MacFarlane Burnet OM AK KBE) ノーベル医学賞受賞者 *1975年と1979年の間には、キャンベラ・オーストラリ アデーカウンシルもオーストラリアン・オブ・ザ・イヤ ーを表彰していました。 受賞者氏名の後に続く敬称接尾辞は、受賞時の時点で 最新のものでした。 パート 4 – 今日のオーストラリア 47 オーストラリアの通貨 オーストラリアの通貨には、国にとって重要な人々や象徴が描かれています。通貨に描かれるために選ばれた著名な オーストラリア人達は社会改革、科学、政治、軍事業績、芸術の分野などにおける先駆者であり、偉大な才能を開花さ せた人々です。 旧・新国会議事堂 48 エリザベス女王二世 (Queen Elizabeth II) (1926年生) $5紙幣にはキャンベラの旧国会議事堂と新国会議事 堂が描かれています。 エリザベス女王二世はオーストラリアの国家元首です。 彼女はオーストラリアおよび英国の女王であり、英国に 住んでいます。彼女は長年にわたり人気の高い在位期間 を通じて、強力かつ安定した存在であり続けてきました。 デイム・メアリー・ギルモア (Dame Mary Gilmore) (1865 – 1962年) AB「バンジョー」パターソン (AB ‘Banjo’ Paterson) (1864 – 1941年) デイム・メアリー・ギルモアは作家、 ジャーナリスト、詩 人、そして社会改革の運動家でした。彼女はその執筆作 品と女性や先住民のオーストラリア人、貧しい人々の代 弁者として有名です。 アンドリュー・バートン・パターソンは詩人、作詞家、そ してジャーナリストでした。彼は「バンジョー」パターソ ンの名前で曲を書き、オーストラリアでは最も有名なフ ォークソングでもある 「ワルチングマチルダ」の作者と して知られています。 ジョン・フリン牧師 (Reverend John Flynn) (1880 – 1951年) メアリー・レイビー (Mary Reibey) (1777 – 1855年) ジョン・フリン牧師は、世界初の空路を利用した医療サ ービスであるオーストラリアのロイヤルフライングドク ターサービスの創設者です。オーストラリアの僻地に医 療サービスを運んで多くの命を救ったたことで人々に 覚えられています。 メアリー・レイビーはニューサウスウエールズ植民地に おける女性事業者の草分け的存在でした。10代の時に オーストラリアに囚人の入植者として訪れた後、 コミュ ニティで尊敬を集めるリーダーとなりました。 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 エディス・カーワン (Edith Cowan) (1861 – 1932年) デイビッド・ユナイポン (David Unaipon) (1872 – 1967年) エディス・カーワンは、 ソーシャルワーカー、政治家、 フェ ミニストでした。 またオーストラリアの議会では初の女 性議員となりました。 デイビット・ユナイポンは、作家、パブリックスピーカー、 そして発明家でした。彼は科学と文学での功績とアボ リジニの人々の生活水準の向上に貢献したことで有名 です。 サー・ジョン・モナシュ (Sir John Monash) (1865 – 1931年) デイム・ネリー・メルバ (Dame Nellie Melba) (1861 – 1931年) サー・ジョン・モナシュはエンジニアおよび行政官であ るとともに、偉大な軍人でもありました。そのリーダー シップと知性そして雄弁さで名を残しました。 デイム・ネリー・メルバは世界的に著名なソプラノ歌手 であり、世界中で「歌の女王」の名で親しまれてきました。 彼女は世界的名声を得たオーストラリア初の歌手です。 パート 4 – 今日のオーストラリア 49 国民の休日と祝賀 オーストラリアの国定休日はユダヤ・キリスト教の伝統を反映すると共に、 ヨーロッパ人の入植時代以降にオースト ラリアのアイデンティティを形作った画期的な出来事を祝います。 毎年日にちの決まった休日 年によって日にちが変わる祝祭日 ニューイヤーズデー 1月1日 レーバーデーもしくはエイトアワーデー 新年の始まりを祝います。 一日8時間労働を獲得した(世界初)オーストラリアの 労働者を祝う日です。 オーストラリアデー 1月26日 オーストラリア人であることの意義を祝福し、1788年に 第一船団がシドニー湾に到着した日を記念します。 イースター アンザックデー 4月25日 クイーンズバースデー 第一次世界大戦中のオーストラリアとニュージーランド 連合軍(ANZAC)によるガリポリ上陸を記念する日です。 加えて戦争で兵役を務めて命を落とした全てのオース トラリア人を称える日でもあります。 オーストラリアの国家元首であるエリザベス女王二世 の誕生を祝う日です。西オーストラリア州を除く全ての 州とテリトリーで、6月の第二月曜日に女王の誕生を祝 います。 クリスマスデー 12月25日 その他の休日 イエス・キリストの誕生を祝うキリスト教の祝祭日であ り、贈り物の交換をする日です。 ボクシングデー 12月26日 クリスマスのお祝いの一環です。 イエス・キリストの死と復活を記念する日です。 他にも州、テリトリー、都市によって定められている休日 があります。例えばオーストラリア首都特別地域ではキ ャンベラデー、南オーストラリア州ではボランティアー ズデー、西オーストラリア州ではファウンデーションデ ーが設けられています。 2005年、 シドニーハーバーでのニューイヤーズイブの花火 50 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 オーストラリアの人々 オーストラリアには約2,200万人の人口があり、世界で も最も多様な社会のひとつです。先住民であるオースト ラリア人は総人口の2.5パーセントを占めています。オ ーストラリアの居住者の4分の1以上は海外で出生して おり、移住者の出身国は200カ国以上に及んでいます。 人口の多様性によりオーストラリアには様々な種類の 言語、信念、伝統、文化がもたらされています。 オーストラリアと英国の正式なつながりは長年の間で 希薄になってきましたが、英国の影響はオーストラリア の制度において残されており、価値観の多くや、 もちろ ん共通の言語である英語でも残されています。家庭や コミュニティで使用されている言語は200以上(多くの 異なる先住民の言語を含む)に上る一方、英語は国と してのアイデンティティを形作る重要な要素となってい ます。 オーストラリアの経済 オーストラリアには、競争力の高い安定した経済があ り、活気あふれる技能の高い労働力は尊重されていま す。 オーストラリア人は世界でも最高水準の生活を謳歌 しています。 市場 オーストラリアの安定した現代的な金融制度と厳格な 税金および商取引規制により、事業活動には確実性 がもたらされています。ツーリズム、教育、金融サービ ス等のサービス産業は、オーストラリアの国民総生産 (GDP)のうち約70パーセントを占めています。 国内経済の安定性のおかげでオーストラリアは魅力的 な投資先となっており、その証券市場はアジア太平洋 地域では日本に次いで第二位の規模です。 貿易 オーストラリアの最大の貿易相手国は、 日本、中国、米 国、韓国、ニュージーランド、英国であり、オーストラリア は小麦、羊毛、鉄鉱石、鉱物、金の主要輸出国となって います。オーストラリアはまた、液化ガスと石炭の形態 でエネルギーも輸出しています。オーストラリアの経済 は開放的であり、貿易は国の経済的繁栄において常に 重要な部分であり続けてきました。オーストラリアの近 年の輸出額は2千億ドルに及んでいます。 鉱業 オーストラリアは石炭、銅、液化天然ガス、鉱物砂等の 天然資源が豊かです。 これらの資源は特にアジアの発 展途上経済で高い需要があります。 ディック・スミス(Dick Smith) (1944生) ディック・スミスはオースト ラリアの事業家、 冒険家で あり、慈善家でもあります。 ディック・スミスは家電事 業でまずその富を築き、 その富をオーストラリア を前進させるために費や してきました。彼はオース トラリア産のみを取り扱 う食品会社を立ち上げ、 オーストラリア所有の会社を今後もオーストラリア人経 営の下で継続できるように数百万ドルもの投資を行っ てきました。 彼は1986年にオーストラリアン・オブ・ザ・イヤー賞に 推薦され、技術進歩と環境保護に対する功績を認めら れて受賞しました。彼は熱気球でオーストラリア横断と タスマン海横断を果たした最初の人物でもあり、その 冒険精神と事業での成功、 さらにオーストラリアに対す る深い愛情で知られています。 オーストラリア最大の輸出セクターは鉱物および燃料です パート 4 – 今日のオーストラリア 51 世界市民としてのオー ストラリア オーストラリアは善良な国際市民としてのその役割を 誇りとしており、 自国ほど恵まれていない国々に援助を 提供することでその役割を果たしています。 オーストラリアの国際援助および人道 的努力 オーストラリア政府による国際援助プログラムは、開発 途上国が貧困を減らし、維持可能な開発を達成するた めの援助を行います。オーストラリアは人々や政府に手 を貸すことで、近隣地域と世界において援助を提供し ています。 オーストラリアの人々は、国内外で災害が発生した時に 大いなる寛大さを示します。 また、長期にわたって苦難 している国々にも定期的に寄付を行っており、援助プラ グラムに対するその取組みは、オーストラリアのこうし た特徴を反映しています。 1971年、オーストラリアは経済協力開発機構(OECD) の正式メンバーとなりました。OECDの目標は、30の加 入国とその他の途上国における経済、社会および雇用 状況の改善です。同時にOECDは世界貿易の拡大も目 標としています。 オーストラリアはアジア太平洋地域での密接な協力を 強く支持しています。オーストラリアはアジア太平洋経 済協力会議(APEC)、東アジア首脳会議(EAS)、ASEAN地 域フォーラム(ARF)、太平洋諸島フォーラム(PIF) の活発 なメンバー国です。 キャサリン・ハムリン医師 AC (Dr Catherine Hamlin AC) (1924生) 婦人科医のキャサリン・ハ ムリン医師は、エチオピア の若い女性達を苦悩から 救ったことで有名です。 1959年以降、キャサリン・ ハムリンはエチオピアの アディスアベバにて 「産科 フィスチュラ」 として知られ る、分娩による傷害を持つ 女性達を助けてきました。 この問題を持つ女性達は、身体の機能を管理すること ができずに、そのため社会から見放されていました。 キャサリンとその夫はアディスアベバ・フィスチュラ病 院を開設しました。ふたりの努力により、何千人もの女 性達が自分たちの村に戻り、健康で満足な生活ができ るようになったのです。 2004年インド洋津波発生後のインドネシアにおけるオーストラリア の救済活動 国際フォーラムの場におけるオーストラ リアの積極的参加 オーストラリアは1945年の設立時から国際連合(UN) の活発なメンバー国であり続けてきました。1951年の 国連難民条約の下で難民と認定される人々に対し、オ ーストラリアは保護を提供します。オーストラリアはま た、UNの平和維持活動や途上国への人道的および緊 急対応にも貢献しており、国連科学教育機関にも積極 的に参加しています。 52 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 1995年、キャサリン・ハムリン医師は、オーストラリア では最高の栄誉である 「Companion of the Order of Australia」を授与されました。彼女は今もエチオピアの 女性達のために働き続けています。 今日のオーストラリアは、広大かつ成長を続ける国であ り、 スポーツ、芸術、科学の分野での功績を誇りとして います。私たちは国民の生活の質を高く評価するととも に、 より一層の向上を目指しています。 国際救済活動や開発援助を通じ、オーストラリアはスポ ーツの分野を超えて国際社会にフェアプレーの精神を 伝えています。 オーストラリアのノーベル賞受賞者 オーストラリアは、科学および医学の研究において高い評価を得ています。 これらの分野では10名のオーストラリア 人がノーベル賞を受賞しています。 ウィリアム・ブラッグ教授 (Professor William Bragg) (1862 – 1942年)とローレンス・ブラッグ (Lawrence Bragg) (1890- 1971年)物理学者 ウィリアム・ブラッグ (父)とローレンス・ブラッグ(息子)は、 「X線技術による結晶の構造分析における功績」のために 1915年のノーベル物理学賞を共同受賞しました。 サー・ハワード・ウォルター・フローリー (Sir Howard Walter Florey) (1898 – 1968年)病理学者 南オーストラリアのアデレード生まれの ハワード・フローリーは、1945年に「ペニシリンと各種伝染病への治療効果 の発見」 でノーベル生理学・医学賞を(共同)受賞しました。 サー・フランク・マクファーレン・バーネット (Sir Frank Macfarlane Burnet) (1899 – 1985年) 医学者、生物学者 ビクトリアで生まれたフランク・バーネットは「免疫寛容現象についての考察で」 ノーベル生理学・医学賞を(共同)受 賞しました。 サー・ジョン・カリュー・エックルズ (Sir John Carew Eccles) (1903 – 1997年)生理学者 メルボルン生まれのジョン・エックルズは、 「神経細胞膜の末梢および中枢部における興奮と抑制に関するイオン機 構の発見」 で1963年ノーベル生理学・医学賞を(共同)受賞しました。 ジョン・ウォーカップ・コンフォース教授 (Professor John Warcup Cornforth) (1917 – 2007年)科学者 シドニー生まれのジョン・コンフォースは、 「酵素による触媒反応の立体化学に関する研究」 で1975年ノーベル化学 賞を(共同)受賞しました。 ピーター・チャールズ・ドハーティー教授 (Professor Peter Doherty) (1940年生)免疫学者 クイーンズランド生まれのピーター・ドハーティー教授は、 「細胞性免疫の特異性に関する研究」 で1996年ノーベル 生理学・医学賞を(共同)受賞しました。 バリー・マーシャル教授 (Professor Barry Marshall) (1951年生)胃腸科医およびロビン・ウォレン医師 (Doctor Robin Warren) (1937年生)病理学者 バリー・マーシャルとロビン・ウォレンは、 「ヘリコバクター・ピロリの発見と胃炎と十二指腸潰瘍における役割」の発 見で2005年ノーベル生理学・医学賞を共同受賞しました。 エリザベス・ヘレン・ブラックバーン教授 (Professor Elizabeth Helen Blackburn) (1948年生)生物学者 エリザベス・ブラックバーンはホバートに生まれ、 「テロメア構造と酵素テロメラーゼが染色体を保護する方法につ いての発見」 で2009年ノーベル生理学・医学賞を(共同)受賞しました。 オーストラリアからはノーベル文学賞受賞者も1名生まれています。 パトリック・ホワイト (Patrick White) (1912 – 1990年)小説家および戯曲家 ロンドンでオーストラリア人の両親のもとに生まれたパトリック・ホワイトは、1973年に「新大陸に文学をもたらした 叙事詩と心理的文学」によりノーベル文学賞を受賞しました。 パート 4 – 今日のオーストラリア 53 パート5 オーストラリアの道のり オーストラリアの先住民文化は世界でも最古の継続的文化です。 54 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 オーストラリアの道のり 本セクションのオーストラリアの歴史概要は、歴史を完 全に網羅するものでは決してありませんが、 この国とそ の文化を形作った出来事について紹介します。数千年 もの間先住民の人々がこの土地に住まい、土地を守っ てきました。1788年の第一船団の上陸により、先住民 の世界は永遠に変わりました。過去200年の間、オース トラリアは多文化主義と和解に向けての道のりにおい て平等と人権に関する多くの教訓を学んできました。私 たちが成し遂げた改革は、あなたが今参加しようとして いるオーストラリア社会は、誰もが社会に受入れられ、 尊重されていると感じる社会であることを意味します。 先住のオーストラリア人 オーストラリア先住民の文化は世界でも最古の継続的 文化です。オーストラリアの先住民族は4万年から6万 年の間この地に住んできました。 アボリジニとトレス海峡諸島の人々の文化は異なるも のであり、それぞれ独自の言語や伝統があります。 歴史的にアボリジニの人々はオーストラリア本土とタス マニアの出身です。 トレス海峡諸島民はクイーンズラン ド北端とパプアニューギニアの間にある諸島の出身で あり、文化面ではパプアニューギニアその他の太平洋 諸島の人々と類似している点が多くあります。 言語 英国による入植開始前はアボリジニとトレス海峡諸島 の人々によって700以上の言語と方言が使用されてい ました。今日でも約145の言語が使用されていますが、 文字言語はありませんでした。先住民文化の口述歴史 は、先住民と土地の説話を伝えているため、非常に重要 なものです。例えばビクトリア州のポートフィリップベイ で(Port Phillip Bay)の洪水の話などは、一万年前に発生 した実際の出来事について語られています。 ドリーミングと先住民アート 私たちが英語で言うところの「Dreaming」には、先住 民の部族毎に異なった名前が用いられています。 「ザ・ ドリーミング (The Dreaming)」 または「ドリームタイム (Dreamtime)」は、先住民の暮らしを導くような知識、信 念、慣習を包括するシステムであり、人々に守らなけれ ばならない生活様式と行動規範を教えるものです。 こ の規則に従わない人々には懲罰が課されます。 カカドゥのアボリジニアート ザ・ドリーミングの物語は、親や長老たちから子供達へ と語られました。 こうした物語によって子供達は、 自分 たちの土地がいかに形作られそこに人が宿るようにな ったかを学びました。物語はまた、食べ物を見つける方 法等貴重な実用的レッスンをも子供達に教えました。 先住民の音楽、歌、踊りはザ・ドリーミングと毎日の暮ら しについての話を語っています。先住民の人々が歌や 踊りに興ずる時は、 自分たちの先祖への深遠なまでの つながりを感じます。 アボリジニアート元来の形態は、岩面の彫刻や絵画と 地面に描かれた模様でした。中には3万年も前の作品 もあります。オーストラリア中央部の人々は、ザ・ドリー ミングの土地や説話を表す、点と円による絵を描きまし た。オーストラリア北部の部族は人間、動物、精霊の姿 を絵にしていました。 ザ・ドリーミングは今日でも先住民族にとって重要であ り続けています。 パート 5 –オーストラリアの道のり 55 オーストラリアの最初のヨーロ ッパ人 初期のヨーロッパ人による探検 17世紀、 ヨーロッパの探検家達は南にある未知の大地、 「テラ・アウストラリス・インコグニタ」 と呼ばれる場所 を見つけました。1606年、オランダ人のウィレム・ヤン ツが(Willem Janszoon)オーストラリア北端のケープヨ ーク半島(Cape York Peninsula)の西側に上陸しました。 これとほぼ時を同じくしてルイス・バエス・デ・トレス (Luis Vaez deTorres)率いる船が 海峡を通って大陸北部 へ航海しました。 1600年代のその後、オランダの海員達が西オーストラ リア海岸を探索し、その土地を「ニューホーランド」 と名 付けました。 1642年、 アベル・タスマン(Abel Tasman)が新大陸 (今の タスマニア)の海岸を発見し、 「バン・ディーメンズ・ラン ド」 と名づけました。 タスマンはさらに数千マイルに渡 るオーストラリアの海岸の地図を作製しました。 タスマ ンの不完全なニューホーランドの地図から、彼はオー ストラリアがパプアニューギニアと北部で地続きになっ ていると信じていたことが伺えます。 囚人の移送 オーストラリアは、最初のヨーロッパ人入植者のほとん どが囚人であった点で独特であるといえます。米国が 独立した後、英国はもはや囚人を米国に送ることは出 来なくなり、英国の刑務所は混雑を極めるようになりま した。囚人数が増えすぎると、英国政府は囚人のために 新たな場所を見つける必要がありました。1786年、英 国は囚人を新植民地であるニューサウスウエールズへ 送ることを決定しました。 これは「移送(transportation) 」 と呼ばれました。 最初の植民地 植民地ニューサウスウエールズの最初の総督はアーサ ー・フィリップ船長(Captain Arthur Phillip)でした。彼は 11隻の第一船団を英国から地球の裏側に無事に航海 させました。彼が囚人の食事や健康にも十分な注意を 配ったおかげで、航海中の死亡者数も非常に少数です んだのです。 フィリップ船長は、1788年1月26日に第一船団を率いて シドニー湾に上陸しました。私たちが毎年、オーストラ リアデーとして祝うのはこの日を記念してのことです。 ウイリアム・デンピアーは(William Dampier)、オースト ラリアの地に足を踏み入れた最初の英国人です。1684 年、彼は北西部海岸に上陸しました。その土地は乾いて 埃っぽかったので、貿易や入植には不向きであると考 えました。 キャプテン・ジェームズ・クック (Captain James Cook) オーストラリアの東海岸は1770年にジェームズ・クック が「エンデバー号」にて上陸するまでは、 ヨーロッパ人 による探検は行われていませんでした。 クックはイギリ ス政府の要請によって南太平洋発見の航海に出てい たのです。彼は東海岸の地図を作り、現在のシドニー南 部にあたるボタニー湾(Botany Bay)に上陸しました。 ジ ェームズ・クックはこの地を「ニューサウスウエールズ」 と名付け、キング・ジョージ三世(King George III)のため に土地の権利を主張しました。 1788年に英国からの航海後、 シドニー湾に上陸した第一船団 入植初期 入植の初期は非常に厳しい時代でした。 フィリップ総督 は、人が飢餓で亡くなることのないようにと、 自分と軍 士官も含む植民地の全員への配給を同じものにしまし た。植民地がこうした初期の厳しい数年間を乗り越えら れたのは、彼の良識と決断力に負うところがあります。 入植初期の重労働は囚人の強制労働によって行われま した。囚人はしっかり働かなかったり、逃げ出したり、酔 っ払ったりするとむちを打たれ、重大な犯罪を犯すと 遠隔の入植地へ送られたり、絞首刑に処されたりしまし た。刑期を果たした囚人達は自由の身となり、一般社会 に参加して仕事を見つけ、家庭を築きました。 アベル・タスマンによるニューホーランドの地図、1644年 56 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 新たな機会 賢明なる総督 オーストラリアにおける最初のヨーロッパ系人口は、イ ギリス人、 スコットランド人、 ウェールズ人、 アイルランド 人で構成されていました。 スコットランド人、 ウェールズ 人、 アイルランド人は、過去イギリス人との戦争を繰り 返していましたが、オーストラリアではこれら四つのグ ループは親しく生活と労働を共にしました。 フィリップ総督と並び、 ラクラン・マッコーリー総督 (Governor Lachlan Macquarie)もオーストラリア早期の 歴史において重要な位置を占めています。彼は1810年 から1821年までニューサウスウエールズ植民地の総督 を務めました。彼は植民地を流刑地ではなく自由な入 植地として発展させ、農耕の方法を改善し、新しい道路 や公共設備を建設し、オーストラリアの開拓を推奨しま した。 囚人と元囚人たちはこの植民地で新しい機会を見つけ 始めました。軍士官も自分の時間を使って商売をして金 儲けをし、囚人や元囚人を雇ってその手伝いをさせまし た。 まもなく、手伝いをしていた元囚人たちの中には、 商人として自分の商売を始める者も出てきました。 その 他の元囚人は農家、職人、店や飲み屋の店主として良い 暮らしを手に入れました。 こういった商売人の中には元 囚人の女性たちも多く、彼女たちは多くの面でイギリス の女性よりも自由な生活をすることができました。 マッコーリーはまた教育に資金を費やし、元囚人達の 権利を尊重し、一部の元囚人には裁判官や公務員とし ての職をも与えました。 マッコーリー総督は植民地の改善に貢献したとして歴 史上讃えられています。ニューサウスウエールズ州のマ ッコーリー大学は彼にちなんで名付けられています。 囚人としての伝統 キャロライン・チザム (Caroline Chisholm) (1808 – 1877年) キャロライン・チザムは、 社会改革者の第一人者 で、入植初期の独身女性 の生活改善に尽くしまし た。 キャロラインは陸軍士官 であった夫と五人の子供 とともに1838年にオース トラリアにやってきまし た。彼女はシドニーの道 ばたで暮らしていた移住 者の女性達に手を差し伸べ、数年の間に植民地一帯に 16軒の女性用ホステルを開きました。 キャロラインは、植民地への輸送船に乗った人々の生 活改善に力を尽くしました。彼女はまた、依存と貧困の サイクルを断ち切るために貧窮者向けローン計画も始 めました。 今日オーストラリアには、キャロライン・チザムにちな んで名付けられた学校が多くあります。彼女は「移民の 友」 として知られ、人々が新たな生活を始めるのを助け るため不断の努力をしたことで知られています。 マッコーリー総督在任後、総督の地位は一人の人物に はあまりにも強力なものであるとして、1823年に次期 総督に助言を与えるためのニューサウスウエールズ立 法審議会が設立されました。立法審議会はその後囚人 に適切な刑罰を受けさせ、快適過ぎる暮らしをさせな いように植民地の改正を試みました。 しかし、ニューサ ウスウエールズや19世紀前半にオーストラリア全土で 生まれたその他の植民地で暮らす囚人の有利な状況 を全て断つことはできませんでした。 総計16万名以上の囚人がオーストラリアに移送されま した。英国は1840年にニューサウスウエールズへの囚 人の移送を、 また1852年と1868年にはそれぞれタスマ ニアと西オーストラリアへの移送を中止しました。 囚人の子供達は常に自由の身であったため、元囚人と 自由入植者の隔たりは徐々に消え失せました。1850年 以降、植民地は自治を行い、立派な社会の建設を望ん でいました。入植者たちは囚人の歴史を恥ずかしく思う ようになり、それについて話をしませんでしたが、およ そ一世紀が過ぎた後で、 こうした恥ずかしい思いに変 化が見られ、オーストラリアは流刑地としての始まりに 誇りをもつようになり、今では多くの人が囚人の祖先を 見つけて喜ぶようになっています。 こうした容認の精神において、オーストラリア人は人の 家系や過去の行いについてはあまり気にかけない国民 となりました。私たちには人々を今のありのままの姿で 判断し、公平に扱う‘fair go’という精神があります。 パート 5 –オーストラリアの道のり 57 ヨーロッパ人入植後の先住民 ヨーロッパ人入植の開始時には75万から140万人のア ボリジニやトレス海峡諸島の人々がいたと推測されて います。 この数字には、約250の個々の民族と700以上 の言語グループが含まれていました。 入植開始当時、英国政府はアボリジニ人との条約は結 びませんでした。先住民には独自の経済と古代から続 く土地との関係がありましたが、 ヨーロッパにはこうし たシステムや信念が存在しなかったので、英国政府は これを認識することができませんでした。 アボリジの人 々は英国人のように穀物の収穫をしたり一カ所に定住 することがなかったため、英国政府はアボリジには土 地を所有するという意識がないと想定したのです。そこ で英国政府は自由に土地を占有できると考えました。 致命的な影響 初期の総督たちはアボリジニの人々に害を与えないよ うにと言われていましたが、英国の入植者達はアボリ ジニの土地に侵入し、多くのアボリジニが殺害されまし た。入植者達はこうした罪を犯しても通常は罰せられる ことはありませんでした。 中にはアボリジニの人々とヨーロッパの入植者達が平 和的に共存しているところもありました。入植者の中に は羊や牛の放牧場でアボリジニの人々を雇う人もいま した。マッコーリー総督は、農業用にアボリジニの人々 に独自の土地を提供し、 アボリジニの子供達のための 学校を設立しました。 しかし入植者と同じ様式の生活を 望むアボリジニはほとんどいませんでした。彼らは自分 たちの文化的伝統を失いたくなかったのす。 土地を巡っての紛争で何人の先住民が殺されたかは わかりませんが、何十万人ものアボリジニが命を落と したことは知られています。最大の死因はヨーロッパ人 がこの国に持ち込んだ疫病でした。 アボリジニの死亡 者数は壊滅的な規模であり、ビクトリアでは1830年代 に1万人だったアボリジニの人口が1853年にはわずか 1907人にまで減少しました。 歴史的出来事 内陸部の探検 ニューサウスウエールズにおいて、初期の入植者達は 極度の苦境に直面しました。オーストラリアには肥沃な 土地はほとんどありません。 アボリジニの人々はこのよ うな環境に適応して生活する術を身につけていました が、彼らも干ばつの時期には多大な被害を受けました。 シドニー入植者が内陸部を探検するにあたって最初に 直面した大きな障壁は、西へ50キロメートルいったとこ ろにある山脈、 ブルーマウンテンズでした。1813年、 ブ ラックスランド(Blaxland)、 ウェントワース(Wentworth)、 ローソン(Lawson)という 3人の男性が、 この山脈地帯の 横断にようやく成功しました。 ブルーマウンテンズを横 切る道路や鉄道は今でもこのルートを使っています。 山脈を越えると、羊や牛の放牧に適する広々とした良好 な土地が広がっていましたが、 まもなく探険家たちは乾 燥した砂漠地帯にぶつかりました。水が見つからず、生 き残るための食べ物を十分に運ぶこともできませんで した。 ドイツ生まれの探険家ルドウィヒ・ライカートは (Ludwig Leichhardt)1848年、大陸東西横断中に行方不 明になりました。 1860年、バーク(Burke)とウィルズは(Wills)大陸南北縦断 をめざしてメルボルンを出発しました。彼らは大人数で の探検隊を率いていましたが、それでも縦断の道のり は大変厳しいものでした。彼らはアボリジニのヤンドゥ ルワンダ族(Yandruwandha)の人々から助けを受けまし たが、2人の探検家はともに帰路途中に死亡しました。 バークとウィルズは冒険を完了することはできませんで したが、彼らの話はこの土地の苛酷さを表す悲劇的な 例として、芸術や文学によって今でも伝わっています。 バークとウィルズのオーストラリア縦断の旅、1860年 58 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 入植者と開拓者 たとえ良好な土地に恵まれたとしても、開拓者たちの 暮らしは厳しいものでした。干ばつや洪水の後、農夫達 は一からやり直さざる終えないことがしばしばありまし た。1838年までには羊毛はオーストラリアの主要輸出 業となりましたが、かんばつの場合や海外の羊毛価格 が下落すると、入植者達は生活の糧を失うことにもなり かねませんでした。人は苦しいながらも自らを励まし何 とか生活を続けます。 「オージーバトラー(Aussie battler) 」 とはそうした苦難を乗り越える人のことを言います。オ ージーバトラーは、オーストラリア人の闘争精神と回復 力を象徴しています。開拓者は男女共にこうした至難の 時期を生き抜いた勇気をもって尊敬の対象となってい ます。女性は夫が留守の間や死別後、商売や農場のや りくりをせざるをえなかったこともよくありました。 当時政府の軍隊は、金採掘許可料を徴収する際に、 金鉱夫達に対して非常に厳しい姿勢をとっていまし た。1854年11月11日、バララット(Ballarat)のベーカリー ヒルに(Bakery Hill)1万人が基本的民主権の採用を求め て集い、彼らは高価な採掘許可料を支払うことなしに 採掘できるようになることを求めました。 また、ビクトリ ア議会で人々の代表者に投票できるようになることも 求めました。 少人数の集団がユリーカ金鉱跡地に砦柵を建てて抗 議活動を指導し、南十字星のついた旗を揚げました。 政府官吏たちは1854年12月3日の朝、砦柵を攻撃する ために兵士を送り込み、金鉱夫たちはまもなく取り押さ えられ、約30名が死亡しました。 オーストラリアのメイトシップの精神が生まれたのは 初期の苛酷な時代のことでした。 この精神はアウトバッ クを旅し、羊の毛を刈る仕事や家畜を牧場や市場へ追 う仕事に従事した男性労働者の間で強く培われるよう になりました。 また入植者たちも困っている時にはお互 いに助け合っていました。 この伝統は今でもオーストラ リアにおける根強い伝統であり、毎年起きるブッシュフ ァイヤー(山火事) と戦うために何千もの人がボランテ ィア活動をするのもこの一例です。 ゴールドラッシュ 1851年初期のNSWでの金の発見は、 「国を一変させた 発見」 と言われています。その後間もなく、金は新しく独 立した植民地であるビクトリアでも発見されました。 1852年の末までにはオーストラリア各地と世界各地から 金を探しに9万もの人々がビクトリアにやってきました。 ユリーカの旗 反乱のリーダー達は国家に対する大逆罪で起訴されま したが、彼らを有罪とする陪審員はいませんでした。王 立調査委員会は政府のあやまちを認め、鉱夫達の要求 の多くが認められました。政治代表者を選ぶという彼ら の望みもかなえられ、一年未満の内に反乱のリーダー であったピーター・レイラー(Peter Lalor)がビクトリア議 会の議員になりました。 時の経過とともにユリーカの反乱は、抗議そして私たち の信じる 「Fair go」を表す象徴となりました。 金は1851年にニューサウスウエールズとビクトリアの植民地で発見 されました ユリーカ(Eureka)の反乱は、オーストラリアの歴史で 民主主義を象徴する一大事件として覚えられていま す。1854年、バララット (Ballarat) 金鉱で金鉱夫たちが 政府官吏の厳しい金鉱運営方法に反対して大規模な 抗議行動を行いました。 ゴールドラッシュはオーストラリアに多くの意味での変 化をもたらしました。 ゴールドラッシュの時代、オースト ラリアの人口は1851年の4万3000人から1870年には 170万人に増加しました。 このように増加する人口をつ なぐため、鉄道や電信施設が1850年代に初めて建設さ れました。 大規模な金鉱床が南オーストラリアを除く全ての植民 地で発見されました。経済は繁栄し、金が主要輸出品と して羊毛に取って代わりました。1890年頃までにはお そらくオーストラリアは世界でも最高の生活水準を達 成していたといっても過言ではないでしょう。 パート 5 –オーストラリアの道のり 59 スクオターと農夫 入植の初期から、 「スクオター (squatters)」 と呼ばれる無 断定住者が農業用の広大な土地に住み着いていまし た。彼らはたいていの場合、土地にお金を払う必要は なかったのですが、 スクオター達は土地を自分のもの と見なしていました。第一次ゴールドラッシュ終了後に は、 スクオター達から土地を取り返すための大きな紛 争が発生しました。 1860年代、政府はスクオターの土地を労働者とその家 族が農耕を行うために売却することを計画しました。 ス クオター達、特に恵まれた位置に住む者たちは、 リース を請求することでできる限りの土地を自分のものにし ておこうとしました。 新しい農家は困難な環境に直面し、鉄道ができるまで は市場からも離れていました。都会で高賃金を稼ぐ機 会に比べ、報酬の少ない過酷な農業生活は常に魅力の ないものでした。 1860年代以降は、オーストラリアのアウトバックへラク ダを輸送手段として用いた「ラクダ列車」を営むために イラン、エジプト、 トルコから移住者がやってきました。 彼らは同じような服装をして、共通の宗教であるイス ラム教を信仰していたことから、インド人のラクダ乗り とともにまとめて 「アフガン」 と呼ばれることもありまし た。 これらのラクダ乗りは「内陸部の開拓者」 と見なされ ていました。 またクイーンズランドの砂糖・バナナ栽培 業では約4000人のインド人と6000人の太平洋諸島人 が働いていました。 1880年以降は、 レバノンから労働者がオーストラリア に訪れました。 レバノン人の多くは繊維・服飾産業に従 事していました。オーストラリアの地方ではレバノン人 の家族が生地屋のほとんどを所有するようになり、 この 伝統は今日でも続いています。 しかし南オーストラリアでは農業が栄え、労働力削減を 目的とする農業機器の発明というオーストラリアの伝 統はここで始まりました。切り株を飛び越える鋤である スタンプ・ジャンプ・プラウ (1870年代)はこうして発明さ れた創意工夫に富む機器の例です。 1800年代の移住 1800年代初頭には、イギリス人、 スコットランド人、 ウエ ールズ人、 アイルランド人が植民地の主要グループでし た。 これらのグループの伝統が、新たに誕生した国の基 盤となりました。オーストラリアの余暇の過ごし方、文化 的活動、宗教上の実践は英国のそれと同じです。 しかし 少数ながらもヨーロッパやアジアからの移民の集団も 存在していました。1800年代のヨーロッパからの移住 者には、イタリア人、ギリシャ人、ポーランド人、マルタ 人、ロシア人の他、 ワイン製造に携わるフランス人入植 者もいました。 これらのほとんどは職と富を求める若い 男性か船を見捨てた元船乗りでした。 中国人のオーストラリア移住は1842年以降に開始しま した。金の発見後中国系移民の数が増加し、採金地で は人種間の緊張が高まりました。 こうした緊張が1854 年ベンディゴで (Bendigo) の暴動を初めとする反中国 人の暴動へとつながりました。 こうした人種間の緊張の 結果、1855年にはビクトリアで、1861年にはニューサウ スウエールズにて初めて移民制限が設けられました。 1850年代のゴールドラッシュ以降、ほとんどの中国人 は母国へ帰りました。 この地に残った中国人の中には、 水の乏しい地域で求められていた青果類を扱う市場向 け菜園業者になった人もいました。 60 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 オーストラリアのアウトバックの「アフガン」 ラクダ乗り アボリジニ保留地 アボリジニの人々と入植者の間における土地をめぐる 初期の紛争後、 アボリジニの人々は社会の端に追いや られて生活をしていました。 アウトバックの羊や牛を扱 う牧場で極わずかな賃金で働く人もいました。植民地 の政府は、 アボリジニの人々が生活できる保留地を設 けましたが、そうした保留地ではアボリジニ達が伝統 的な生活をすることは認められず、彼らは望んでいたよ うな狩猟の生活をすることはできませんでした。 1800年代後半、植民地の政府はアボリジニの権利を剥 奪しました。 アボリジニの人々は住む場所を決められ、 誰と結婚することができるかも定められ、、子供を奪わ れることもありました。 こうした子供達は「白人の」家庭 や公営の孤児院に送られたのです。 こうした行為は今 では行われていませんが、 アボリジニの人々と多くのオ ーストラリア人にとって今でも深い悲しみの原因となっ ています。 参政権 「婦人参政権論者(Suffragettes)」は、選挙での投票権 を求めて運動を行った世界中の女性達を表す用語で す。1880年代と1890年代には、それぞれの植民地に少 なくとも参政権を求める団体がひとつは存在していま した。婦人参政権論者達は何千人もの署名を集め、嘆 願書を植民地の議会に提出しました。 1895年に南オーストラリアの女性達が選挙権および被 選挙権を獲得しました。西オーストラリアでは1899年 に女性の選挙権が認められました。 1902年、オーストラリアは、女性に国会での投票権と被 選挙権を与えた最初の国家になりました。先住民の女性 (および男性)には1962年になるまで選挙権は与えら れませんでした。 1923年、エディス・コーワンは(Edith Cowan)西オースト ラリア議会選挙で当選し、女性初の議員となりました。 国会では1943年にイニッド・ライオンズが(Enid Lyons) 当選して初の女性議員が誕生しました。 連邦 各植民地は別々に発展を遂げてきましたが、19世紀 後期までには国として共通の帰属意識が強くなりまし た。 この気持ちは「アドバンス・オーストラリア・フェア (Advance Australia Fair)」の歌詞の中で表現されていま す。 この歌はピーター・ドッズ・マコーミック (Peter Dodds McCormick)によって作られ、1878年にシ ドニーで初めて歌われました。今ではオーストラリアの 国歌となっています。 19世紀末に向けて、植民地を統合する試みが2度なさ れました。1889年、サー・ヘンリー・パークス (Sir Henry Parkes)は新しく強固な国の形成を訴え、1890 年にはオーストラリア連邦の構想を話し合うため、オー ストラレージア連邦会合が開催されました。 その後しばらくしてから連邦に向けての動きが1893年 に再燃しました。 まず有権者が次の憲法制定会議への 参加者を選びました。その後有権者が2回にわたるレフ ァレンダムで、同会議が草案した憲法を受け入れるか どうかの投票を行いました。国民の意思に基づいて新 国家を築いたこの出来事もオーストラリアがどれほど 進歩的であったかを示しています。 キャサリン・スペンス (Catherine Spence)(1825 – 1910年) キャサリン・スペンスは、 作家、伝道師、 フェミニス ト、婦人参政権論者でし た。 キャサリン・スペンスはス コットランドからオースト ラリアに移住しました。彼 女はオーストラリアの生 活についての小説を執 筆して受賞歴を持つ他、 教科書の制作も行いまし た。 彼女は家のない子供達を援助する団体の設立に貢献 し、新しい幼稚園や公立の女子中・高等学校にも援助 を行いました。 彼女は初の女性議会立候補者であり、多数の票を獲得 しましたが当選にはいたりませんでした。1891年には 南オーストラリア女性参政権連盟の副会長になりまし た。 キャサリン・スペンスは、たとえ束縛が課されていた時 代であっても女性が達成することのできる偉業の象徴 となっています。 1901年のブリスベンでの連邦設立日 パート 5 –オーストラリアの道のり 61 英国政府はオーストラリア人の自治を認め、 1901年1月 1日、 シドニーのセンテニアル公園において最初のオー ストラリア政府が大勢の人々の前で宣誓の上、就任しま した。新国家の首相はニューサウスウェールズで連邦化 運動を指導したエドムンド・バートン(Edmund Barton)で した。 オーストラリアは国家となりましたが、 まだ大英帝国の 一員で、1931年までは防衛や外務に関する完全な権限 を得ませんでした。国家としての意識は強くなったもの の、英国に属しているという感覚はまだ根強く残ってい ました。 労働党が発展していく中で、 その他すべての政党が合 併し、1910年に自由党を結成しました。 この政党は多 くの名称をもち、第一次世界大戦と第二次世界大戦の 間は国民主義者党、連合オーストラリア党となりまし た。1944年には今日私たちが知るところの自由党が成立 しました。 これは、 ロバート・メンジース(Robert Menzies) により、労働党以外の多くの政党が参加する会合が開か れた後のことでした。サー・ロバート・メンジースは、 そ の後オーストラリアで最長の在任期間を務めた首相と なりました。 第一次大戦後、農家の生活向上を目指してカントリー 党が結成されました。現在国民党として知られる同党 は、通常自由党との連立政党として行動します。 1901年移民制限法 1901年12月に移民制限法が通過し、 「白豪」主義が法律 となりました。 この法律により移民がオーストラリアで 労働することに制限が置かれ、 さらに「非白人」の移住 が制限されました。 非ヨーロッパ出身者には、 ヨーロッパの言語で50語の書 き取り試験の受験が義務付けられました。中国商工会議 所、弁護士のウイリアム・ア・ケットお(William Ah Ket)よ び中国系事業者のリーダー達が公に抗議を行いました が、法改正にはいたりませんでした。 サー・エドムンド・バートン 政党の誕生 1880年代までには、オーストラリアの労働者達は強力 な労働組合を結成していました。不況やかんばつ等の 困難な時期には、 こうした組合は賃金や労働状況に抗 議してストライキを実施しました。労働者達はその後政 治に関心を向け、1891年に労働党を結成しました。 労働党はまず労働者の賃金と労働条件の回復という作 業にとりかかりました。中産階級の人々は労働者よりも 豊かな暮らしをしていましたが、労働者の状況は理解し ており、賃金の設定と、 ストライキの防止を目的とした 公式な委員会が設立されました。1907年、連邦仲裁裁 判所は労働者と妻と子供3人が「つつましく」 も快適な 生活ができるようなレベルに最低賃金を設定しました。 62 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 連邦として成立したばかりのオーストラリアには、中国、 インド、太平洋諸島や中近東の出身者にかわり、 ヨーロ ッパ南部からの移民がやってきましたが、文化的には 彼らは既にオーストラリアの社会的なアイデンティティ の一部なっていました。 第一次世界大戦、1914 – 1918年 入植者とアボリジニの人々との小規模な紛争を除いて は、オーストラリアは大変平和的な国です。内戦や革命 も起きたことはありません。初期の入植者達は大英帝 国に対して極めて忠実でした。 しかし、 アジアの端にあるヨーロッパの辺境植民地とし て、入植者たちは特に日本が列強国の一つとなってか らは危険を感じるようになりました。オーストラリアは 自国の防衛のために大英帝国とその艦隊に依存してい ました。オーストラリアは大英帝国の威力を維持し、 自 国を守るために両世界大戦で戦いました。 オーストラリアの兵士たちは1915年ドイツの同盟国ト ルコを攻撃し、第一次世界大戦に参戦しました。オース トラリアとニュージーランドの兵隊はガリポリ半島の特 定部分を攻撃するように指示されました。 彼らは間違った地点で上陸させられ、敵の砲火を受け ながらほぼ直角の崖を登らなければなりませんでし た。多くの若者の命が失われましたが、彼らはなんとか 崖の上まで登り、塹壕を掘りました。オーストラリアでは 国民がアンザックの精神に多大な誇りを抱くようにな りました。 ガリポリ上陸の日(4月25日)は国の祝日で、オーストラリ ア・ニュージーランド連合軍にちなんでアンザックデー と呼ばれています。 ガリポリから撤退した後、 オーストラリア軍はフランス の西部前線で戦いました。彼らがディガー(digger-掘る 人)という名前を得たのはここで兵士達が塹壕を掘り、 こ れを修復することに膨大な時間を費やしたことからで す。 ジョン・モナッシュ司令官に(General John Monash) 率いられたオーストラリアのディガー達は、 ドイツに対 する最後の戦闘で偉大な勝利を収めました。 女性も含むオーストラリアの軍人達は中近東にも派兵 され、 スエズ運河の防衛と連合軍によるシナイ半島の 占領に参加しました。 シンプソンとそのロバ - ジョ ン・シンプソン・カークパトリック John Simpson Kirkpatrick (1892 – 1915年) ジョン・シンプソン・カーク パトリックは兵士であり、 オーストラリアの英雄的 存在です。 彼は一等兵ジョン・シンプ ソンとしてガリポリにて担 架で負傷兵を搬送する任 務についていましたが、丘 や谷で担架を運ぶのは大 変困難でした。陸軍の命令に背いて、彼はダフィ(Duffy) ーという名のロバを使って負傷兵を安全に搬送しまし た。 毎朝毎夜、何時間にも渡り、彼とロバは自らの命を危険 にさらしながら、戦場と浜辺の軍事施設の間を往復し ました。 一等兵ジョン・シンプソンは1915年4月15日にガリポリ に到着し、わずか4週間後に敵の機関銃に撃たれて死 亡しました。軍事施設の兵士達は、 ダフィ(Duffy)ーがも はや若き主人がそばにいないのにも関わらず負傷した 兵士を浜辺へと運んでくる姿を悲しみにくれたまま、無 言で見守りました。 第一次世界大戦中のガリポリ半島 パート 5 –オーストラリアの道のり 63 アンザック伝承物語 アンザックの伝統は1915年4月25日にオーストラリア・ニュージーランド連合軍(アンザック)がトルコのガリポリ半島 に上陸した時に生まれました。 この上陸は8ヵ月に及んだ軍事作戦の始まりでした。 この作戦は、けがや病気による8700名の死者を含め、約25000 人の死傷者を出しました。 ガリポリ半島軍事作戦に参加した人たちの勇気と精神が伝承物語を形作り、 「アンザック」 という言葉がオーストラリアとニュージーランドの語彙の一部となりました。 1916年、上陸後1年を記念する行事がオーストラリア、ニュージーランド、英国、及びエジプト駐留軍によって行われ、 この年に4月25日が「アンザックデー」 と名づけられました。 1920年代までには、 アンザックデー記念式典がオーストラリア各地で行われるようになり、各州はアンザックデーを 休日にしました。 この戦争とその後の戦争で死亡した若い男女に祈りを捧げるために州都には大規模な戦争記念館 が、そして国中の市町村では記念碑が建てられいます。 アンザックデーは、今日では戦争、紛争、平和維持活動に従事した人々に敬意を表する日です。軍人の祝典ではあり ません。勝利を祝うわけでもありません。 というのもガリポリの作戦は失敗に終わりました。 この日は、逆境に立った 時の仲間意識、忍耐力、ユーモアといった、普通の男女の優れた特性を尊ぶものです。今日、 アンザックデーは、オー ストラリア国内外で記念されています。第二次世界大戦やその他の戦争、紛争におけるオーストラリアの退役軍人が 連合軍の国々の退役軍人と肩を並べ、 アンザックデーのパレードに誇り高げに参加しています。 ガリポリでの夜明けの礼拝 64 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 大恐慌、1929 – 1932年 大恐慌はオーストラリアの人々にとって極度に困難な時代でした。大恐慌はニューヨーク証券取引所での大暴落と 同時に発生しましたが、その発生には他の原因もありました。 これらの原因には、輸出価格と輸出売上高の下落、海 外融資や政府支出の減少、建設事業の縮小等です。1932年中頃までにはオーストラリア人の32パーセントが失業し ていました。 大恐慌のオーストラリアへの影響は計り知れないほど でした。職と安定した所得を失った多くの人々は自分の 家を失いました。 こうした人々は暖房も衛生設備もない 一時しのぎのシェルターでの生活を余儀なくされまし た。家庭を捨てた一家の主もいれば、酒に溺れる人も いました。労働者階級の子供達は学校教育を13から14 歳で終え、多くの女性は子供や家の面倒を見ながら、単 純労働をしていました。 大恐慌にいたるまでの間、オーストラリア政府は主だっ た失業者対策は講じていませんでした。慈善団体と一 部の民間団体を除き、貧しい人々は雇用策や公共事業 策に頼らざるを得ませんでした。 経済は1932年に上向きに転じましたが、多くの家庭が 被った被害は修復不可能なほどでした。大恐慌の間に おけるオーストラリアの慈善事業やボランティアの果た した重要な役割が重要視されました。 大恐慌中のスープキッチン サー・チャールズ・キングスフォード・スミス (Sir Charles Kingsford Smith) (1897 – 1935年) サー・チャールズ・キングスフォード・スミスは勇敢なパイロット、先駆者的飛行家であ り、オーストラリアの英雄となりました。 第一次世界大戦において、チャールズ・キングスフォード・スミスはガリポリで戦い、英 国の王立飛行部隊に参加しました。 彼の最大の偉業は、1928年にカリフォルニアからクイーンズランドまで太平洋横断を 初めて成し遂げたことです。彼の飛行機であるサザンクロス号がオーストラリアに到着 した時、25000人の観衆が英雄「スミシー」 (彼のあだ名)に歓声を上げました。1932年 には航空分野への功績のため、彼にはナイト爵が授けられました。 彼は1935年、英国からオーストラリアへ向う飛行中の事故で行方不明となり、悲劇の最期を迎えました。 サー・チャールズ・キングスフォード・スミスは世界でも最も偉大な飛行家と呼ばれており、大恐慌のまっただ中にお いて、人々が尊敬する真なるオーストラリアの英雄として覚えられています。 パート 5 –オーストラリアの道のり 65 第二次世界大戦、1939 - 1945年 第二次世界大戦にてオーストラリア人は連合国のため に北アフリカの砂漠や、敵の脅威にさらされているそ の他の地域で戦いました。北アフリカでは、 トブルクと いう町でドイツ軍とイタリア軍の長期にわたる包囲攻 撃にもちこたえました。彼らは袋小路に追い詰められて 食べ物をあさったため、敵はオーストラリア兵を「トブ ルクのネズミ(Rats of Tobruk)」 と呼びましたが、 こうした 戦いの中でひどい条件にも関わらず生き抜いたことか ら、 自分たちでもこの名を使うようになりました。 この包 囲攻撃により、 これらの兵士が第一次世界大戦のディ ガーの戦闘精神をもっていることが証明されました。兵 士たち自身も、偉大な伝統に恥じない戦いが求められ ていることを自覚していたのです。 この戦争の記憶の中でオーストラリア人の心にもっと も鋭く残っているものの一つが、 日本軍がこれらの兵士 に与えた残酷な扱いです。オーストラリア人は士官と兵 士の区別なくお互いを助け合うために最善を尽くしま したが、多くのオーストラリア人が命を落としました。 リメンブランスデー アンザックデーに加え、 リメンブランスデーもオーストラ リア人が参戦した兵士を思い、戦死者を追悼する日で す。毎年11月11日の午前11時に、 オーストラリアの人々 は戦争や紛争で亡くなったり、苦しんだりした男女や、軍 に務めた人たちすべての犠牲を思い、黙祷を捧げます。 この日には赤いケシの花をつける習慣があります。 日本による太平洋戦争開始した後、オーストラリア兵は 帰国しました。 しかしこれらの兵隊が戻る前には、パプ アとニューギニアの防衛が必要でした。 この大任を任 せられたのは正規兵と、あまり訓練を受けていない若 い徴集兵たちでした。彼らはココダ山道として知られる 急な泥の山道に沿ったジャングルで敵と戦いました。オ ーストラリア兵は日本の進撃を止め、 ココダ山道はガリ ポリのアンザック湾と同様に巡礼地となりました。 ココダ山道にてパプア人の荷運び人に付添われた負傷兵 日本が1942年にシンガポールのイギリス基地を占拠 した時には15000名のオーストラリア兵も捕虜となり、 タイ-ビルマ鉄道で働かされることとなりました。第二次 世界大戦中に何千人ものオーストラリアと英国の捕虜 が亡くなったのは日本の占有下でのタイ-ビルマ鉄道 建設の時期でした。 66 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 赤いケシの花は、第一次世界大戦以降、追悼の象徴として使われて います オーストラリア防衛軍は、最近では東チモール、イラク、 スーダン、 アフガニスタンの紛争問題に携わり、 アフリ カ、中近東、 アジア太平洋地域等世界各地の国連平和 維持活動にも参加してきました。 サー・エドワード・ウェアリー・ダンロ ップ (Sir Edward ‘Weary’ Dunlop) (1907 – 1993年) 収容所に入れられたのは短期間でしたが、彼らはこの 土地と人々について学び、戦争後多くが移住者としてオ ーストラリアに戻ってきました。 サー・エドワード・ 「ウェア リー」 ・ダンロップは、勇敢 かつ思いやり溢れる外科 医で、オーストラリアにお ける戦争の英雄です。 第二次世界大戦中、 ウェ アリーは陸軍外科医でし た。彼は同胞とともに日本 軍に捕えられ、 タイ-ビル マ鉄道の建設で働くため にビルマに送られました。 これは長時間に渡る重労働でした。 指揮官として、 ウェアリーは部下を守るために主張を行 い、外科医としては部下の治療に長時間を費やしまし た。収容所で拷問を受けることもありましたが、それで も部下のために尽くし続けました。 彼は、その医療に対する功績から1969年にナイト爵を 授かりました。彼が亡くなると、10000名の人々が「鉄道 の外科医」 と呼ばれた英雄の国葬のためにメルボルン の通りに参列しました。 1900年代初頭の移民 第一次世界大戦と第二次世界大戦の間は、オーストラ リア入国への制限条件は依然として残っていました。 し かし、移住者の数、特に南ヨーロッパ出身の男性の数は 増加していました。彼らは技術、教育そして自らの文化 価値を持ち込み、オーストラリアの地方産業の発展に 寄与し、道路や鉄道の建設に携わりました。熟練したイ タリア系の石工は、公共の建築物や住宅の建設に多大 な貢献をしました。 1930年末にはヨーロッパからユダヤ系の難民が訪れ 始めました。彼らはナチドイツの脅威から逃れてきたの です。ユダヤ人達はドイツ、オーストリア、チェコスロバ キア、ハンガリー、ポーランドの出身でした。その多くは 高度な教育を受けており、移住後はオーストラリアの文 化的生活にも大いに貢献した才能ある難民でした。 オーストラリアに到着したヨーロッパ系移民 戦後の難民 大戦後オーストラリアは人口を増加させるためにヨー ロッパのその他の国から移住者を迎えました。何百万 人もの人々がナチドイツを逃れてきたり、 ソビエトロシ アに占有されてしまった母国に帰ることができない状 態でした。約17万名の難民が新たな人生を始めるため にオーストラリアに迎え入れられました。 オーストラリアにはまた、深刻な労働力不足という問 題があり、政府は人口増加が国の将来に不可欠である と考えました。45歳未満の健康な成人の移住者は10ポ ンドでオーストラリアに入国でき、その子供は無料でし た。ただし依然として出身国は英国とヨーロッパの国々 に制限されていました。 国を復興させるため、オーストラリア政府はスノーウィ ー河の急流をビクトリア州東海岸に流れ出る前に利用 するという大胆な計画を立てました。 これは内陸の灌 漑用に利用するとともに水力発電にも用いるため、河 の流れを変えるというものであり、完成までに25年を要 した大規模な計画となりました。同計画における労働 者の70パーセントは移民でした。 第二次世界大戦中には1万7千人のイタリア人兵士が 捕えられ、オーストラリアの捕虜収容所に入れられまし た。彼らは公平な処遇を受けました。 パート 5 –オーストラリアの道のり 67 スノーウィーマウンテンズ水力発電計画 スノーウィーマウンテンズ計画はオーストラリアの独立、多文化、資源豊富な国としてのアイデンティティにとって重 要な象徴となっています。 同計画はオーストラリアで最大のエンジニア計画です。 また世界でも最大規模の水力発電計画のひとつでもありま す。 同計画はニューサウスウエールズ州とビクトリア州内陸部の農業にとって必要不可欠な水を提供しています。 またそ の発電所はニューサウスウエールズ州における全電力の最高10パーセントを発電しています。 スノーウィーマウンテンズ計画のうち地上で目にすることができるのは、わずか2パーセントです。同計画は16の大 型ダム、7軒の発電所、ポンプ場、225キロメートルのトンネル、パイプライン、水道管で構成されています。 1949年に着手された計画の完成は1974年でした。30カ国以上から10万人以上の人が同計画の労働に携わり、 これ ら労働者の70パーセントは移住者でした。同計画完成後、ほとんどのヨーロッパ系の労働者はオーストラリアに残っ て生活を続け、オーストラリアの多文化社会に貴重な貢献を行ってきました。 スノーウィーマウンテンズ計画は、ニューサウスウエールズのコジオスコ(Kosciuszko)国立公園に位置しています。同 計画の環境への影響は綿密に観察されています。計画の実施によりスノーウィー河は以前の流水量のわずか1パー セントしか運んでいないところも出てきました。 環境を考慮し、ビクトリア州とニューサウスウエールズ州は川の流量を28パーセントまで復活させることで合意して います。 スノーウィーマウンテンズ計画の労働者 68 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 先住民の取扱い 1940年代と1950年代には、オーストラリア政府はアボ リジニ政策を同化政策に変更しました。 これはつまり先 住民は非先住民と同様の生活を強いられたということ ですが、 この政策は失敗に終わりました。 アボリジニの 人々は自らの伝統的文化を失いたくなかったのです。 1960年代に政策は統合政策に変わりました。オースト ラリアのほとんどの男性は1850年代に選挙権を獲得し ましたが、連邦の選挙権は1962年になるまで先住民の オーストラリア人全員には行き渡りませんでした。統合 政策によりアボリジニの人々には市民権が渡されまし たが、それでもやはり非先住民のオーストラリア人の文 化に適応することが求められました。 1967年、90パーセントのオーストラリア人が、 アボリジ ニの人々を国勢調査で数えるべきであるという案に「イ エス」 と投票し、 さらなる変化が起きました。 このレファ レンダムは歴史的な出来事です。 これは大多数のオー ストラリア人は先住民が社会参加し、 自分たちと同じ権 利を与えられることを望んでいたことを示しています。 こうしたオーストラリア人の態度の軟化と当時の強力 なアボリジニの抗議により、1970年代の先住民による 自決政策への道が開かれました。オーストラリア政府 は、先住民のオーストラリア人は自らの政治的、経済 的、社会的文化的発展において発言権を持つべきであ るという点を認識し、 これに同意しました。 移住 – 段階的な変化 1950年代と1960年代には、 アジア人のコミュニティ、教 会、 ソーシャルグループが一体となって 「白豪」主義の 撤廃に向けて抗議を行いました。 1958年、政府は聴き取り試験を廃止し、1966年にオー ストラリアは、一部の非ヨーロッパ系と技能を有するア ジア系の移民に門戸を開きました。やがてはオースト ラリア中で人々は移民受入計画に全ての国を含めるこ との価値を認識するようになりました。 「白豪主義」は 1973年に廃止され、オーストラリアは多文化主義への 道を踏み出しました。 大部分はベトナムからの人々でしたが、中国やインドか らの移民も大挙して訪れるようになりました。 1975年以降、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを初めとする 戦争で荒廃した国や、中近東やアフリカからの難民の 受け入れも行ってきました。今日、移民は世界中からや ってきています。 オーストラリアはあらゆる国からの出身者を受け入れ る国として、現代世界でもっとも成功した例の一つとな りました。1945年以降、650万人がオーストラリアに移 り住みました。オーストラリア人の4分の1以上は海外出 生者です。 移民たちはオーストラリアに来ることを選び、そして一 連の共通する価値を共有することを選びました。彼らは オーストラリアの暮らしというタペストリーをさらに豊 かにしています。 受け入れ 現在オーストラリアは、法という枠組みの中において自 分の信念を表現し、 自分の文化的伝統に従う権利が尊 重され、擁護されている多文化社会です。 今日オーストラリアは、人種に関わらず誰もが社会の一 員であると感じることのできる、積極的な受入政策を実 施しています。同政策はオーストラリア文化のあらゆる 局面にて浸透しています。幼児から大学までの教育カ リキュラムに取組まれており、職場やサービス産業でも 実施されています。 差別なく平等な扱いを受けるという全ての個人の権利 は、オーストラリア人権委員会と、各州およびテリトリー の反差別機関によって擁護されています。人種差別は 公然と非難され、法律上犯罪となっています。 オーストラリアは調和と受け入れの多文化社会へと成 長しました。移民、先住民、そしてオーストラリアで生ま れたその他の人々が平和的に自らの目標を自由に追う ことのできる国です。 これまでの対立や憤りを過去のも のとして区切りをつけることができる場所です。 1973年、オーストラリア政府は移住に関する人種要件 を完全に撤廃しました。ベトナム戦争後の1975年、オー ストラリアは記録的な数のアジア人の難民と移民を受 け入れました。 パート 5 –オーストラリアの道のり 69 ビクター・チャン医師 (Dr Victor Chang)(1936 – 1991年) ビクター・チャン医師は、オーストラリアでも最高の心臓外科医のひとりでした。 ビクター・ピーター・チャン・ヤム・ヒムは1936年に中国で生まれ、15歳の時にオースト ラリアに移住しました。 彼はシドニーのセントビンセント病院(St. Vincent’s Hospital)で勤め、1984年にオース トラリア初の心臓移植専門のセンターを開設しました。1986年、ビクター・チャンは、オ ーストラリア最高の栄誉である Companion of the Order of Australiaを授与しまし た。 ビクターは臓器提供者の少なさを憂慮して人工心臓の設計を始め、1991年に悲劇的な 死を遂げた時は完成を間近に控えていました。 彼を記念して新たな研究センターが開設されました。同医師は、その専門知識、楽天的 な性格、イノベーションで、人々の記憶に残っています。 アルバート・ナマジラ (Albert Namatjira) (1902 – 1959年) エディ・マボ (Eddie Mabo)(1936 – 1992年) アルバート・ナマジラはオ ーストラリアの偉大な芸 術家の一人で、今日も継 続している絵画の学校を 設立しました。 エディ・マボは活動家であ り先住民の土地権に関す る代弁者でした。 アレンテ族のアルバート は、若い頃から絵画に対 する天賦の才能を開花さ せていました。 正式な教育はほとんど受 けていないにも関わらず、 オーストラリアの田舎風景を描いた彼の水彩画は大変 人気が高く、全て飛ぶように売れました。 彼と彼の妻は、オーストラリアで市民となることが認め られた最初のアボリジニでした。つまり、投票もできれ ば、酒場に入ることもでき、 また好きなところに家を建 てることも認められていました。ただアルバートのオー ストラリア市民権により、他のアボリジニの人たちには そうした権利がないという事実が浮き彫りになりまし た。 こうして非先住民オーストラリア人は人種差別的法律 不当さを知り、 よって彼の人生はアボリジニの人々のた めの変革に貢献したのです。 70 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 エディ・コイキ・マボ (Eddie Koiki Mabo)は、 マボ一族の伝統的土地 であるマレー島(Murray Island)に生まれました。 幼い時から、彼はどの木々 と岩が一族の土地の境界 線を形作っているかを正 確に教わりました。 その後何年も経ってから、エディは自分の土地がオース トラリアの法では王国の土地と見なされており、一族に は属していないことを知りました。彼はその怒りを行動 に移し、マレー島(Murray Island)の人々を代表して初 めての試みとして訴訟を起こしました。 幾年も経った後の1992年、エディの訴訟は最高裁で勝 訴しました。マボ判決は、 もし先住民がその土地との歴 史的かつ継承的なつながりを証明できれば、他に所有 権の主張が行われていない限りはその先住民がその 土地の所有権を主張できるとするものでした。同決定 により広大な土地がこれまで元の所有者に返還されて きました。 エディ・マボは、 その勇気と先住民のオーストラリア人の ために土地所有権を獲得したことで記憶されています。 先住民 – 変化の20年間 土地所有権を巡るアボリジニ人の抗議運動は、 ノーザ ンテリトリー内ウェーヴ・ヒル(Wave Hill)牧場における グルンジ族のストライキにより(Gurindji Strike)1960年 代に注目を集めるようになりました。ビンセント・リンギ アリ(Vincent Lingiari)率いるアボリジニの牧夫たちが牧 場での仕事を放棄したのです。 この抵抗は、賃金と労働 条件に関してのものでしたが、土地所有権の要求へと 発展しました。彼らの行動がエディ・マボを初めとする 先住民の土地所有権に向けての闘いに道を開いたの です。 今日、先住民達がオーストラリアのアイデンティティに対 して行う貴重な貢献は認識され、祝福されています。 ア ボリジニとトレス海峡諸島の人々は司法制度、政治、芸 術、 スポーツを含むオーストラリアの労働市場全域に渡 り、指導的な職に就いています。マービンプログラムと 呼ばれるデジタルアニメーションでのアボリジニによる イノベーションは、いくつもの賞を受賞し、二十カ国以 上の国で教育・事業機関において使用されています。 1976年アボリジニ土地所有権(ノーザンテリトリー)法 では、 アボリジニの人々にはアウトバックの莫大な地域 が与えられています。1990年代初頭、最高裁判所のマ ボ判決および1993年先住権原法により、先住民は自分 たち独自の伝統的な法と習慣を基にして土地への要求 権を持つことを認めています。現在オーストラリア大陸 の10パーセント以上において、先住権原承認が行われ ています。 ここでは伝統的社会の様相が未だ残されて います。先住民の文化は繁栄を続け、一般のコミュニテ ィからも広く賞賛されているのです。 1997年5月 「Bringing them home」 という名の報告書が 国会に提出されました。同報告書は多数のアボリジニ とトレス海峡諸島民の子供達を家族から隔離した方針 についての調査の結果をまとめたものでした。 こうした 子供達は「盗まれた世代」 として知られるようになりまし た。報告書の結果、何千人ものオーストラリア人が1998 年の第1回「ソーリーデー(Sorry Day) 」の行進に参加し、 先住のオーストラリア人たちへの支持を表明しました。 盗まれた世代への謝罪、2008年 2008年2月13日、オーストラリア首相が、国会において 盗まれた世代に対して公式な謝罪を行いました。彼は オーストラリア人を代表してスピーチを行いました。彼 は先住民のオーストラリア人に対する過去の取り扱い、 特に先住民の子供達がその親から引き離されたことに 対して謝罪を述べました。 このスピーチはテレビおよびラジオで中継されました。 何千人ものオーストラリア人が公共の場や職場で集い、 この「ソーリー」 スピーチに耳を傾けました。演説では公 式に過去になわれた不公正を挙げてそれに対する謝 罪が行われました。 これは先住民にとっての治癒に向け て、 そしてこうした不公正を二度と繰り返さないための 大切な一歩でした。 ソーリースピーチは、 オーストラリア 人全員にとっての大切な前進の一歩だったのです。 シドニー上空に描かれた「Sorry」の空中文字 まとめ ここでは、オーストラリアの歩んできた道をごく簡単に 紹介してきました。 この新たな知識によってあなたの環 境への新たな意識が生まれるかもしれません。あるい は古い建造物の建築日を確認しては、それを歴史に当 てはめて見るようになるかもしれません。11月11日にケ シの花を受け取ったら、 これからはそれが亡くなった男 女の兵士への哀悼であることを思い出すでしょう。先住 のオーストラリア人に出会ったら、彼らを導く古代の文 化を感じ取るでしょう。地元での資料を活用したり、旅 行を通じたりして、 さらに知識を深めて下さい。知れば 知るほど、気がつくことも多くなってきます。 平和で民主的なこの国に完全参加するため、私たちは あなたのオーストラリア市民権取得を歓迎します。 パート 5 –オーストラリアの道のり 71 試験対象外セクションの用語集 大使 国やアクティビティを代表したり、促進したりする人物 委員会 会社の経営方針等、意思決定を行う目的等のために選ばれた人々の集団 寄宿学校 学生が学校で生活し、学期中には家に帰らない学校 ブッシュ 自然の状態に保たれたオーストラリアの田舎 牛の放牧場 牛肉生産用として、牛が飼われている大規模な農場 憲章 権利と責任についての公式声明書 族 同じ領域に住む、血縁もしくは結婚により関係を持つ人々の集団 共通の土台 興味を共有する分野 徴集兵 防衛軍への加入を選択したわけではないが戦時中に加入を余儀なくされた兵士 王国の土地 政府に属する土地 カリキュラム 学習のコース 貧窮 お金を持たないか、稼ぐ手段を持たないこと ディジェリドゥー didgeridoo 中が空洞となった丸太でできたアボリジニのオーストラリア人の楽器 フェアゴー 誰もが成功できるための正当または公平なチャンス フェアプレー グループの努力に参加すること、皆の利益のためにルールに従うこと、優れたチームワーク 亡くなった男女の兵士 戦争や戦闘で殺された男女の兵士 構築する 建てるまたは作ること 国民総生産 一年間に一国で生産された全ての商品およびサービスの価値 熱波 連日で続く極めて暑い天気 国家に対する大逆罪 政府を転覆させようとする重大な犯罪行為 72 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 象徴的な先住民絵画 先住民特有で代表的なアート 陸塊 一定の土地 画期的な出来事 歴史上大切な出来事 先住権原 オーストラリアの法制度で決定された、先住民が土地と水に対して有する伝統的権利 口述歴史 人々がその記憶を語る過去の出来事 開拓者 初期の入植者、入植初期の功労者 政治代表 議会における政治家による代表 保留地 アボリジニ居住地として政府により設けられた土地 刑期 犯罪者が刑罰として務める時間の長さ 賃金の設定 従業員がその労働の対価としていくら支払われるかを決めること 社会改革 社会の改善を、革命ではなく徐々に行うこと 国葬 国に重要な貢献を行った市民に敬意を表して、政府が費用を支払う葬儀 砦柵 木製のくいや柵でできた防御用の囲い込み 牧夫 畜牛の面倒を見るために雇われた男達 ストライキ 雇用者の決定に抗議する等の理由で従業員が労働を停止すること 参政権 公選挙で投票する権利 宣誓就任 正式な儀式において公官庁に受入れられること 提出 議会において討議または承認のために正式にさしだされること。 (文例:報告書が提出された) 社会的階級 社会階級、 または出身、仕事、地位 試験対象外セクションの用語集 73 詳細情報 オーストラリア市民権 オーストラリア市民になる方法についてのさらなる詳細情報は、オーストラリア市民権ウエブサイト www.citizenship.gov.auをご覧下さい。 オーストラリア オーストラリアについての詳細情報は、最寄りの図書館で入手できます。以下のウエブサイトににも詳しい情報が掲 載されています: • オーストラリア概要 www.dfat.gov.au/aib • 文化・レクリエーションポータル www.cultureandrecreation.gov.au オーストラリア政府の政策とサービス オーストラリア政府の政策とサービスについての詳細情報は、www.australia.gov.auで入手することができます。 連邦下院もしくは上院議員 あなたの州もしくはテリトリーにおける地元の連邦下院もしくは上院の議員も、オーストラリア政府の政策とサービ スに関する各種情報を提供しています。 下院議員と上院議員の一覧はwww.aph.gov.auで閲覧することができます。 オーストラリア政府の組織 本書に記載されているオーストラリア政府の組織に関する詳細情報は、以下のウエブサイトで入手することができま す: • オーストラリア防衛軍 Australian Defence Force 74 www.defence.gov.au • オーストラリア選挙委員会 Australian Electoral Commission www.aec.gov.au • オーストラリア連邦警察 Australian Federal Police www.afp.gov.au • オーストラリア人権委員会 Australian Human Rights Commission www.humanrights.gov.au • オーストラリアスポーツ委員会 Australian Sports Commission www.ausport.gov.au • オーストラリア国税庁 Australian Taxation Office www.ato.gov.au • オーストラリア戦争記念館 Australian War Memorial www.awm.gov.au • オーストラリア準備銀行 Reserve Bank of Australia www.rba.gov.au オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 非政府系組織 本書に記載されている非政府系組織に関する詳細情報は、以下のウエブサイトで入手することができます: • ブラッドマン・ファウンデーション・オーストラリア Bradman Foundation Australia www.bradman.com.au • ハムリン・フィスチュラ・インターナショナル Hamlin Fistula International www.fistulatrust.org • ロイヤルフライングドクターサービス・オブ・オーストラリア Royal Flying Doctor Service of Australia www.flyingdoctor.net • スクール・オブ・ジ・エアー School of the Air www.schoolair-p.schools.nsw.edu.au • スノーウィーマウンテンズ水力発電局 Snowy Mountains Hydro-Electric Authority www.snowyhydro.com.au • フレッド・ホロウズ・ファンデーション The Fred Hollows Foundation www.hollows.org.au • UNESCO世界遺産センター UNESCO World Heritage Centre whc.unesco.org • 国際連合 United Nations www.un.org • ビクター・チャン心臓研究所 Victor Chang Cardiac Research Institute www.victorchang.edu.au • ボランティアリング・オーストラリア Volunteering Australia www.volunteeringaustralia.org その他 以下の話題についての詳細情報は、次のウエブサイトをご覧下さい: • オーストラリア憲法 www.aph.gov.au/senate/general/constitution • オーストラリアン・オブ・ザ・イヤー www.australianoftheyear.org.au • ‘Bringing them home’報告書 www.humanrights.gov.au/social_justice/bth_ report/index.html • 連邦の公園や保留地 www.environment.gov.au/parks/index.html • 著名なオーストラリア人: The Australian Dictionary of Biography Online Edition http://adbonline.anu.edu.au/adbonline.htm • 国会に現在提出中の法案一覧 www.aph.gov.au/bills/index.htm • 国会 www.aph.gov.au • 国会教育サービス www.peo.gov.au • 国民の祝日 www.australia.gov.au/topics/australian-factsandfigures/public-holidays • 盗まれた世代への謝罪 www.abc.net.au/news/events/apology/text.htm 詳細情報 75 謝辞 以下の画像はオーストラリア国立公文書館により提供されました: 42頁 – NSW、牧羊場の子供たち – スクール・オブ・ジ・エア、1962年撮影 (ref: A1200:L42511) 51頁 – 著名人 – ディック・スミス (Dick Smith)、民間航空局議長、1991年(ref: A6135:K23/5/91/1) 56頁 – タスマンによるオーストラリアの地図、1644年 (ref: A1200:L13381) 59頁 – オーストラリアにおけるゴールドラッシュの歴史的写真、1851年(ref: A1200:L84868) 60頁 – オーストラリア内陸部で働く 「アフガン」 とラクダ達 (ref: A6180:25/5/78/62) 67頁 – 著名人 -サー・エドワード・ 「ウェアリー」 ・ダンロップ (Sir Edward ‘Weary’ Dunlop)、 同人オフィスにて、1986年 1986 (ref: A6180:1/9/86/12) 67頁 – 移民 -オーストラリアでの移民の到着 – ケアンズにてフレミニア号に乗ったイタリア系のサトウキビ刈 入れ業者、1955年 (ref: A12111:1/1955/4/97) 以下の画像はオーストラリア国立図書館により提供されました: 18頁 – 2003年2月15日、キャンベラ、 シビックのガレマプレースにて行われた反戦抗議集会にて演説を聴きに集まっ た参加者達、撮影者:グレッグ・パワー (ref: nla.pic-vn3063592) 44頁 – ジュディス・ライト(Judith Wright)の肖像、1940年代発表 (ref: nla.pic-an29529596) 52頁 – 2004年12月30日、津波発生後のインドネシア、 アチェにて救済活動中のオーストラリア防衛軍職員に挨拶す るインドネシアの女性達、 ダン・ハント撮影(ref: nla.pic-vn3510861) 56頁 – 1788年1月27日のシドニー湾の第一船団、 ジョン・アルコット(John Allcot)(1888-1973年)作 (ref: nla.pic-an7891482) 57頁 – キャロライン・チザム(Caroline Chisholm)の肖像、 トーマス・フェアランド(Thomas Fairland)(1804-1852年)発 表(ref: nla.pic-an9193363) 58頁 – バーク(Burke)とウィルズ(Wills)のクーパーズクリークへの帰還、ニコラス・シェバリエ(Nicholas Chevalier) (1828-1902年)作、1868年発表(ref: nla.pic-an2265463) 61頁 – キャサリン・ヘレン・スペンス (Catherine Helen Spence) の肖像、1980年代発表(ref: nla.pic-an14617296) 63頁 – ガリポリでのジョン・シンプソン・カークパトリック(John Simpson Kirkpatrick)とそのロバ、1915年 (ref: nla.pic-an24601465) 65頁 – サー・チャールズ・エドワード・キングスフォード・スミス(Sir Charles Edward Kingsford Smith)の肖像、1919か ら1927年の間に発表(ref: nla.pic-vn3302805) 70頁 – ノーザンテリトリーのハーマンズバーグ・ミッションでのアルバート・ナマジラ(Albert Namatjira) の肖像、 アー ザー・グルームにより1946年または1947年に発表(ref: nla.pic-an23165034) 14枚の世界遺産指定地の画像は、 オーストラリア環境・水・遺産・芸術省および以下の方々より提 供されました: 40頁 – オーストラリアの哺乳類化石遺跡の写真、 コリン・トッターデル(Colin Totterdell)撮影 40頁 – ブルーマウンテンズ国立公園の写真、マーク・モーヘル(Mark Mohell)撮影 40頁 – フレーザー島の写真、 シャノン・ミューア(Shannon Muir)撮影 76 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆 40頁 – オーストラリア、 ゴンドワナ多雨林群の写真、ポール・カンドラン(Paul Candlin)撮影 40頁 – カカドゥ国立公園の写真、サリー・グリーナウエイ(Sally Greenaway)撮影 40頁 – ロード・ハウ島の写真、 メリンダ・ブロウワー(Melinda Brouwer)撮影 40頁 – マッコーリー島の写真、 メリンダ・ブロウワー(Melinda Brouwer)撮影 41頁 – パーヌルル国立公園の写真、ロッド・ハートビグセン(Rod Hartvigsen)撮影 41頁 – 王立展示館とカールトン庭園の写真、 ミッシェル・マクオーレイ(Michelle McAulay)撮影 41頁 – シャークベイの写真、ケリー・マレン(Kelly Mullen)撮影 41頁 – タスマニア原生地域の写真、ニコラ・ブライデン(Nicola Bryden)撮影 41頁 – ウルル‐カタ・ジュタ国立公園の写真、 アンドリュー・ハッチンソン(Andrew Hutchinson)撮影 41頁 – クイーンズランドの湿潤熱帯地域の写真、 コリン・トッターデル(Colin Totterdell)撮影 41頁 – ウィランドラ湖群地域の写真、マーク・モーヘル(Mark Mohell)撮影 以下の画像は iStockphotoにより提供されました: 表紙 – ワトル、©iStockphoto.com/Ressy (ref: 3322510) 14頁 – オーストラリア産ブラックオパール、©iStockphoto.com/Alicat (ref: 8323912) 22頁 – 国会議事堂、©iStockphoto.com/Tim Starkey (ref: 2256743) 22頁 – 小槌と本、©iStockphoto.com/Dem10 (ref: 2397687) 27頁 – 財政グラフと硬貨、©iStockphoto.com/Robyn Mackenzie (ref: 2335549) 27頁 – ものを書いている医師、©iStockphoto.com/Carlos Arranz (ref: 6498434) 38頁 – ボンダイビーチ、©iStockphoto.com/Edd Westmacott (ref: 3048786) 38頁 – キングスキャニオン、©iStockphoto.com/Francois Marclay (ref: 5733853) 51頁 – 鉄鉱石採掘場でのリクレーマー、©iStockphoto.com/Christian Uhrig (ref: 9819736) 54頁 – ディジェリドゥー、©iStockphoto.com/Adam Booth (ref: 834207) 55頁 – アボリジニのロックアート -サラトガ魚、©iStockphoto.com/Alpen Gluehen (ref: 2761924) その他全ての画像は以下の組織/方々により提供されました: 8頁 – ネジレオアザミアで覆われた地から生えるスポテッドガム、NSWのマラマラング国立公園、 ダリオ・ポスタイ(Dario Postai)撮影 20頁 – 投票箱に投票を入れる人の写真、ビクトリア選挙委員会提供 24頁 – 1 900年オーストラリア連邦憲法:公文書原本、ACT、キャンベラの議会サービス省、議事堂美術コレクション、 ギフトコレクション提供 27頁 – 並んで座っている子供達の写真、ゲティイメージス提供、 メル・イエーツ(Mel Yates) 撮影 28頁 – オーストラリア最高裁判所提供の最高裁写真 40頁 – オーストラリア南極局提供のハード島のビッグベンの写真、© Commonwealth of Australia、L. E. ラージ(L. E. Large)撮影 (ref:1892A2) 謝辞 77 40頁 – グレートバリアリーフ海洋公園局提供のグレートバリアリーフの写真 41頁 – シドニー市提供のシドニーオペラハウスの写真、パトリック・ビンガム-ホール(Patrick Bingham-Hall)撮影 謝辞 43頁 – オーストラリアスポーツ委員会提供、オーストラリア代表女性フットボール(サッカー)チーム(マチルダス)の メンバー 44頁 – ブラッドマン・クリケット博物館提供、サー・ドナルド・ブラッドマン (Sir Donald Bradman) の写真。1931-32年 オーストラリアンシーズン中に撮影された、オーストラリアのテストキャップを着用したサー・ドナルド・ブラッ ドマンの写真 45頁 – フレッド・ホロウズ・ファンデーション提供、 フレッド・ホロウズ教授(Professor Fred Hollows)の写真、 フランク・ ビオリ撮影 50頁 – シドニー市提供、 シドニーハーバー上の大晦日の花火 52頁 – ハムリン・フィスチュラ救済基金提供、キャサリン・ハムリン医師AC(Dr Catherine Hamlin AC)の写真 61頁 – 1901年連邦設立日に、 ブリスベンにおいて群衆を前にして演説するラミントン伯爵の画像、 クイーンズランド 州立図書館提供、H.W.モスビー(H.W. Mobsby)撮影(ref: 47417) 65頁 – ニューサウスウエールズ州立図書館 (ミッチェルライブラリー) 提供、 スープキッチンの写真。 NSWのベルモアノース 公立学校の学童達がスープとパンの無料配給に並ぶ模様。 1934年8月2日、 サム・フッド(Sam Hood)撮影 (ref: H&A 4368) 66頁 – オーストラリア戦争記念館提供、 ココダ山道の写真(ref: 014028) 66頁 – オーストラリア戦争記念館の赤いケシの花、 トリー・ブリムス(Torie Brims)撮影 70頁 – ビクター・チャン心臓研究所提供、ビクター・チャン医師(Dr Victor Chang)の写真 70頁 – バーニタ(Bernit)およびゲイル・マボ(Gail Mabo)の許可に基づき複製されたエディ・マボ(Eddie Mabo)の写真 78 オーストラリア市民権: 私たちの共通の絆
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