画家の留学 青山義雄氏にうかがう1920年代フランス滞在の一齣

「画家の留学─青山義雄氏にうかがう1920年代フランス滞在の一齣」
『アート・フォーラム 21』 第9巻、2004年冬、84-89頁
との評価を与えていた。
画 家 の留 学
青 山義雄 氏 にうかがう
倭衛 に会 いに来 て、留 守 だったので青 山 氏 が対 応 した。
国際指名手 配 同然 の大 杉 は、マルセイユ上 陸 の際 も 逮
捕 寸 前 。変 名 を使 っており、青 山 氏 とのあ いだには、
﹂
あ あ 、分 かった。
﹁
お、お、お、俺 が誰 か 分 かるか。﹂﹁
L
頃鍵 繰 鳳嚇数 鯛 裂 嘲 馨
一
詈 ユ
年 、帰 国してす ぐ 、関東 大 震 災のおり に殺 された。あ
は青 山 氏 だと い つ。周 知 のとお り 、大 杉 は 一九 二 三
Γ 数
一九二〇年代フフンス滞在の 一前
稲 賀 繁美
階に住み込 みだった。
︶の建物の 一
σ①
ヨ]C∞ ごの くΦ
︻
゛
城壁]があ ったが、一三二年 に
営”
当時 はまだ ♂諄腱o
o
”[
LQ円ユ 大 通 り]になったのを
爆 破 されて、そ れが σo
万三三年直卍粍野絲舞澪“
滞 在 した頂 点 をな す 時 期 だろう 。日本 ではす でに戦
記憶 している。日本 人会 には読 売 新 聞 の松 尾 邦 之 助
昆虫 記﹄は大杉栄の遺志をついだもの。森 有 正 が名 訳
﹃
だらしのな
や椎名 其 二がいた。アナーキスト松 尾 は、﹁
い男﹂として青 山 氏 の記 憶 に残 る。椎 名 のファーブ ル
後 の好 景気 は終 わり 、不況 と倒 産 の季 節 を 迎え る傍
ら、朝 日新 聞 では島 崎 藤 村 のコ トランゼこ の連 載 が
﹂
の洋 行 ブームは 二 三
二 一年 はじめまで続 いていた。ヽ
年 以 降 、統 計 的 にも 明 らかに失 速 す る。その要 因 と
しては、一三二年 九 月 一日に勃 発 した関 東 大 震 災 の影
獄
行
き一
監
大
栄
の
杉
躊
﹁
﹁
﹂
耐
辞
跡
れ
﹂
牌
卿
諄
一
た
響 が大 き いだろう 。清 岡卓 行 のマ ョ 三の花 が言 った﹄
は二四年 末 にパリに発った岡鹿 之助 から筆 を起 こす が、
本稿 ではその三年前 に焦 点 を絞 り 、人々の交 流を点 描
したい。といっても、その全 貌 を描 く ことはもとより 不
可能 。論 旨 を繋 ぎ とめるため、ち ょ つどこの時 期 にパ
た画家の視
リに住″付き、その最後の生き証人となっ
れたので、青 山氏 は面会 のため会 いに行 った。ほかにフ
そ
そ う か、阿 部 君 か。﹂﹁
お、お、お、俺 は阿 部 だ。﹂﹁
以 下、青 山 氏 がZ フン ﹁
点 をお借 り す ることとしよう ︵
資
﹂などといつ珍 間答があった、とい 。大 杉が、メ
ス語で発音 された語は原 綴 を優 先 し、訳 語 を添え る︶。 う だ。
サとア監 獄に入れら
ーデーで演説をして逮捕 され、ラ・
一九 二 一年 二月 二十 五 日、青 山義 雄 2 八九 四︱
一九 九 六︶はクライ スト丸 で横 浜 を発 ち、欧 州 へと向
詩︱︱ 愛 娘 、魔 子への思いを綴 る︱ ︱ を持 ち出 したの
にあ り﹂には書 いてないが、大 杉 がパリで獄 中 で書 いた
美 は乱 調
にニキロほどの場 所]だった。瀬 戸内 晴 美 の﹃
が なかったため
かった マルセイユ経由 でパリについたのは、四月 十 五 日。 ランス語で監 囚 に対 応 でき る日本 人 い
。
実 際 には南
だとい つ。3 8コ”
一
o暉ム 気 象 台]の近 く [
二十 七歳 だった。リヨン駅には日本水 彩 画 研 究所 当 時
水池 秀 太 の出 迎え があった。六月 ころであった
の恩 師 、ヽ
か、青 山 氏 は勧 められて、巴 里 日本 人会 の書 記 を 勤
ポルト 々 イ
2[
図 1︶。﹁o諄Φ 〓巴︼
めること と な った ︵
解 '
張 るよう になって、嫌 な世の中になっていた、といつ。
国 す る。一
戻ってみると、日本 は陸 海 軍 人がう るさく 威
氏 はその後 十 四年 間 パリに生 活 し、 一九 三 五年 に帰
った。岩 田某 、獅 子 文 六 なども当 時 パリにいた。青 山
7・
]で対 応 した。電 報 も東 京 発 ではなく 福 島 経 由 だ
ソムナール街]の日本 人会事務室
日の2c∽8目″
①”翼Q[
の震 災 のおり には、Oc円〓C r詳F[
カルチ子 ラタン]の
は優 にいた。長 谷 川 [
潔]は来 なかった。鍋 井 克 之 も い
が藤 田の妻 ・
フェルナンドといつしょに来 ていた。一一
百人
日に会 った。藤 田 [
嗣治]や川島 理 一郎 、それに小柳 正
坂 田 一男が来 た。カフ子 ド ・
今 のロスタと で木 曜
リラ [
調だった]。さらに同じ年 に、高畠 達 四郎 、中村 義 夫 、
青 山氏が来客にはもう 何 度 となく 繰り 返 してきた 口
はよく会 った。大 阪 の人。これは天才 だった [
︱︱ とは
祐 三がパリに到 着 したのは 一九 二四年 一月。佐 伯 に
歳 だ。硲 はむつかしい男 で、結 局 のち に別 れた。佐 伯
す る 一方 、パリの現実 と 日本 とのあ いだに﹁
厚 いガラス
らも う たま らな いね災 十 一月 五 日︶と嫌 悪 を 露 わ に
をしてみせる小 出 は、いわゆる﹁
パリ通の、キザな事 った
むべき 日本 の留 学 生﹂がず いぶん居 る、と辛 辣 な観 察
絵 をかいて勉 強 と研 究 とを、怠 らず 励 んでゐる、憐 れ
日]。﹁
先 生 に、ほめても らってト ク意 にな って、ま づい
し、一
二十 分 ほどで目 眩 がしたと漏 ら す [
十 一月 十 八
イヤな情 け な いガラクタはめったに、無 い﹂と こき 下 ろ
の展覧 会 のことを﹁
中 でこれ程
まづ今 迄 まで見 たも のヽ
︽日蓮 樹︾で特 選]。当 時 はちょ つど日本 人の画家 がふ
た立 派 な 人 だつた 〓 九 一九 年 、第 一回 帝 展 出 品 の
宅 安 五郎 、相 馬 其 一がいた。安 宅 は文 展 に出 品してい
抜 き 書 き してみよう 。︱︱ ︽
パリに来 た同 船 には、安
いささか蛇 足を加え れば、数 年前 、小松 清 とヴエト
ィスには正宗 の肖 像があ るはず だ。中 川紀 元のほう が
︵
先 に着 たはずだが、覚え ていない ⋮︰毅
宗 は言葉 ができ ず 不 器 用 で、青 山 が通 訳 だった。了ア
といつこと]。正宗 徳 三郎 はマアイスに会 っているが、正
慢 話 にしてみせた。そして、帰 国 後 の小 出 は、な お 一
に資 金 を蕩 尽 し、小 切 手 も事 故 で紛 失 したことを 自
のなかで、小 出は正 味 五カ月と 一週間 の見 物 と買 い物
の蛙の虚勢 などとは無 縁 な、醒めた理知 が光 っている。
七 日︶、と石濱 純 太郎 宛 に書 いている。そ ヽ
には井 の中
﹂
た。鍋井 と小出 では比 較 にならなかった [
小 出 が別 格 、 の壁﹂のあるのが﹁
気 にならない人 間 は幸 せだよ六 十 月
格は削 絲 厭
董 高 軒 げ肢 襲 ﹄ 峯 製 鋼
倭衛 、硲伊 之 助 、小 松 清 、ナガヽ
ン了 シュラ [
十 治 郎?占、
ナムとの関係 を調査 中だったカナダ ・
アルバータ大 学 の
層自 信 をもつて、粘 着性 あ る油 絵 の具 を駆 使 し、実 質
滞 欧 時 代 を頂 点 に凋落 を遂 げ る油 絵 画 家 が多 い。そ
みんな 同じ船 だった [
九 月 のこと。クライスト丸 の次 の
ビン・
ンン教授 から、友 人が発掘 したZフンス内 務 省 の
ヽ
え つつあ る時期 だった。次 に来 たのが、坂 本 繁 二郎 、林
航 海 で渡 欧]。硲 は金 持 ちのボンボンで、奥 さんのアデ
て革命家 、グエン・
アイクオクと接 触 をもっていたことも
る。同船 で渡 欧した小松清 がヴェトナムの愛 国者 にし
∽算︹
ヨ 9o、口”N
8 ”→ι などの行 状 が報 告 さ れてい
長 瀬晩 花 の 一行 がマルセイユに到 着 。途 中 の航 海 を 含
“
側鍛
の 一黒 ¨ 一 一中 一一¨ 一 讐 ﹃ 中
竹
、
リアはニースにいるが、これはたまらない女 だった。小 出
秘密資 料 に、日本人の名前 があるが、誰 だかわかるか、 感 の追 求 に、﹁
集 中 安 打 災 鍋 井 克 之 ︶を量 産 す るがご
楢 重 も 同じころに来 て、林 と 一緒 にドイツに行 っている。 とのお尋 ねがあ つた。見 ると、機 密 書 類 には、^ユヨ 、 とく 、打 ちこんでゆけた希 有 な画家 だった
”
。
林 はインドにも 半 年 。林 倭衛 の死に水 は自 分 がとつた
あって、小松とクラマールに同居していた坂 本繁 二郎 、
む紀 行 文 は黒 田 の執 筆 にな り 、東 京 ・
大 阪 の時 事 新
一
[一九 五 〇]。豪 傑 だった。小 出 は、わしはもう パリは
硲 伊 之助 らの動 向 は、Z フンス官 憲 によって密 偵 の対
報 紙 上で三 二年 一月 一日より 一年 間 にわたり 連 載 さ
ぃは
あかん。大 阪 人には住みづらい。金 にう るさい[
大阪 人
が?/ パリ人 が?]とこぼしていた。小 出 は話 のおもし
象 となっていたわけだ ︵
バユゴ ”は児島 虎 次郎 で当 時 帰
れ、挿 絵 も 添 え て後 に﹃
欧 洲 藝 術 巡 礼 紀 行﹄として刊
囀噸
ろい人だつた。いつしよにやったスケッチが 室目山 氏の日本
国 中︶。また小出楢 重 はその随 筆 からも、頭 の回転 の
自宅にあるはずだ。坂本は﹁
の]
方寸﹄
時代から大田正
雄︵
後出︶
とは知り合いだつたらしい。﹁
おお木下君﹂
と
行 された ︵
図 2、3、4、5︶。洋 画 家 です でに洋 行 の
ドートンヌには、藤 田嗣治 が審 査 員 に推 挙
秋 のサロン・
の国画 創 作 協 会 の面 々の先 導 役 を 演 じたらしい。も つ
記録 係 として抜 擢 されたも のらしく、同 じ京 都 出 身
経験 もあ り 、フフンス語 にも 心 得のある黒 田重 太 郎 が、
されているが、小 出 は中 村 義 夫 と連 れ立 って訪 れたこ
日本 人会で声をあげる。坂本はよい人だつた。戦後に、 早 さと才 気 焼 発 ぶり が紡 彿 とす るが、会 話 でも その
青 山氏の長崎での講 習のさい、久留米 に訪 ねて会った オ 能を遺憾なく発揮 していたらしい この 一九 二 一年
。
のが最後 になった 〓 九 五 〇]。斎 藤 与 里は文章が難
解だった。硲の家で会ったことがある。青木も坂本も午
ざ5
ビッソンより︶
セーヌ河岸Xオテル・
図2 小野竹橋︿
十字館より︺
﹁欧洲墓術巡礼紀行費 一九二三︶
とも我 の強 い画 家 仲 間 の道 中とあ って、騒動 にも事 欠
〓
梅
洋
ドミエーの旧家﹀
図3 黒田重太郎︿
十字館より]
﹁欧州藝術巡礼紀行宍 一九二三︶
史家 たみ
高
騨
棘
鰤
島 喜 久 雄 、またこれは米 国 経 由 で、医 学 博 士 、大 田
一鞍
田が悪 態 をつく 一方 、土 田は土 田で、絵 の所 在 を確 か
美術 評論家の木 下杢太 郎 らも到着 。
正 雄 こと、詩 人 ・
かない。土 田はといえば、辺 り構 わず 賛嘆 の声 を上げ 、 嚇
絵 画 鑑 賞 に夢 中 になって動 かなく なってしまう 、と黒
めると、鑑賞 の暇 もなく さっさと次 の目 的 地を 目指 し
も青 山 氏が焼 いた。おりからイタリア美 術 研 究 でベレ
の世話
﹂
つたが、,
は日本 人客 の常宿 だったらしく 、﹁
︶﹂
レカヽ
主 に泊 ま
ヽ
ンュルビス広場のオテル・
ふたりは、サン・
ヽ
︵
7︶
て歩 き始 めるせっかちな黒 田を、家 族 への手 紙 ではやい
黒
﹂
の黒 田 ご 一行 にも 会 った様 子。︱︱ ︽
青 山 氏 はヽ
ンソンに師事 した矢代幸 雄 も滞 欧 中。英文 による名 著
て見 せている。
田重 太 郎 は、 一度 目の滞 仏は戦争 中で、アフリカ回り
思都でも パリでも会 った。日本 で
でパリに来 たはずだ。一
は、日展 や文 展 の審 査 員 として。筆 まめなひとだ。鍋
に岸 田が驚 いたそう だ。銀 時 計 の秀 才 だけ のことはあ
ヴィンチ研 究の児島 は、天才 肌 だがなま け も の
る。ダ ・
で、組 織 だったことができ な い。 一九 五 二年 には亡 く
青 山 氏 は]Zフンスに滞 在 していたため、葬 儀
なって、[
﹂
ろ、坂 崎
に立 ち会 え なかった。坂 崎 坦 とはほぼ同 じ ン
のほう が少 しはやくパリに来 た。これは好 人物 だった。
週刊朝 日﹄に挿 絵 をやらせてくれた⋮ ⋮じ
後年 ﹃
方 寸宍 一九 一〇 年 刊 行 ︶に
青 山 氏 は満 十 六 歳 で﹃
木 下杢 太 郎 の文 章 を見 たといつ。荻 原 守 衛 や青 木 繁
験 をすっぽかして落 第 し、森 林 太 郎 にあ やかって木 下
る、腰の低 い、いい人だった。本 の下 で本 を読 んでいて試
画の約束 駄爾争 のことだろう 。杢 太 郎は、はにかみのあ
絵
停 車 場 にて﹄の評 価 を めぐ るいわゅる﹁
山脇 信 徳 の﹃
の追 悼 文 があ った。大 田からは石 川啄 木 の話 を 聞 いた。
ボッティチェルリ﹄三巻 がメディチ協 会 より 刊
﹃
サンドロ。
邪 宗 門﹄の挿 絵 は杢 太 郎 啄 木 を 病 院 に入 れ
。
行 されるのは、震 災後 の 一九 二五年 のこと。かれらは 白 秋 の﹃
う そっき で
たといっ。啄 木 は﹁
ベルリンで会っているが、その人間関係 はどう だったのか。 るのに大 田が世話 を焼 い
困る﹂といっていた。武者 小 路 とのけ んかの話 も 開 いた。
これら美 術 史 家 諸 氏 の人脈 を青 山 氏 に尋 ねてみた。
克 之]と黒 田が 二科 会 を代 表 して、俊 敏 で、お金
井[
をも らって、展 覧 会 に絵 をいれるのいれぬの、と立 ち 回
木 下杢 太郎]と矢代幸雄 はウマが会 わ
太 田クン[
︱︱ ︽
岸 田國士にZフンス語を習い始めたが、物覚え のよいの
一高 時代から晩年まで、風貌 が全 然 変 わらなかった。
なかった。ボッティチェルリ研究の矢 代は努力家 、秀才 。
新 ?出が児 島 善 三
つていた。本 当 の″
豪 傑悪党 ′
。本 郷 [
′
郎 とつかみあ いの喧 嘩 をして、仲 介 に入 った辻 善 之 助
がケガをしたことも あった。青 木 繁 と坂 本 は午 歳 。黒
“
4で
一
彎
漱
漱訓一
静覇
♯銘申
t弓ち
﹁サ“
即
神
稗
彙却
■
・
・
︲
燿婦苺ヽ一,●■でヽ■ヽ■●¨
口
杢 太 郎 と筆 名 を名 乗 った話 も 出 た 一九 三 五年 、青
。
山 氏 が 一時 帰 国 の際 に、太 田の仙 台 時 代 に児 島 と 三
人 で会 った。小 宮 豊 隆 も呼 ぼう とな ったが、大 雪 のた
め遠 慮 した、とい殖。ついでながら、斎 藤 茂 吉 、小宮 豊
隆 、阿 部 能 成 らがあ いついでパリを訪 れたのは 一九 二
五年 。留 守 中 に斎 藤 茂 吉 が小 宮 を訪 ねてき て、伝 言
が残 してあ つたのを覚 え ている 斎 藤 茂 吉 は戦後
。
国画
会 の展 覧 を見 に来 てくれて、﹁
まあ青 山サン、スンがフ
クブリデスタナー﹂とのご挨 拶 があ つたそう な 青 山氏
。
による大 杉 栄 、小 出 楢 重 や斎 藤 茂 吉 らの声 帯 模 写 は
、
どう やら十 八番 だった様 子で、来 客 にはしばしば
披露
したのだろヽ
つ。照 子夫 人 [
斎藤 茂 吉の妻︺とパリで出会
ったこともある。森 鴎外の遺児 たちのお世話もし
ていて、
ひとり ひとり の人 物 評 もう かがつたが、今 はこれを略
す 。そう い えば、″
スーパーバアチャン″
を自 称 していた
斎 藤 照 子 さんも 先 日亡 くなったと聞 いた ゴビ砂 漠 の
。
旅 行 中に病 気 で倒 れて⋮ ⋮、と青 山 氏 の話 題は最 近
︲
謂 洲科 牌 靱 ン
酬妻 靭 野 ユ
一
の訃報に及んだ。
.
確掲榊 剋一交家
一﹄ 制 曲 疇 ﹁ 動 は経 ﹄ は 寝樹
度
す。﹁
滞欧州 記 士
ム術 と自 然穴 一九 二五︶からもその
精 力 的 な活 動 ぶり と、繁 忙 な 日程 が知 られる 翌年
。
の二三年にはサロン・
ドートンヌに二科 会 による日本 部
が設 置されるが、その準備 交 渉 も 石 井が全 権 を委 任
されていた。パリで個展 開催 にも漕 ぎ着 けるが、レオン
スペ ネ デイツト F ωO
こ に執 筆 を依 頼 した展 覧
●o8”
会 序 文 が、ほとんどそ のま ま が不ジ ツト 00 Oじ の
コN
﹁
画家 名事 典﹄の石井 の項 目の記 載 になっているあ たり
憶力 はよい人 だった。弟 の鶴 三は兄が大 嫌 いで、日本 に
帰 って会 ってみたら、エラクき むづかしかつた。朝 日 [
新
聞]の小 川正 隆 とヽ
﹂
のあ いだ話 をしていたら、なんでも
鶴 三に柏 亭 の思 い出 を 話 させたら、コキオFンがあ ま
り にひどいので、そこまで酷 評 す るか、と驚 いて見 せる
と、﹁
いや、これで十 分 に手 を く わえ てあ り ま す ﹂との
お応 え 。梅 原 龍 三郎 は﹁
鶴 三はたいしたも のだ、あ れ
ぐ らいハッキリしているとモノゴトが簡 単 だ﹂といつていた
。
戦後 、鶴 三の家 にドロボウが入ったことがあ るが、彼 は
一鰤
硼 螂
ボ
唖
鶏
黙って見 ていた、といつ。泥 棒 のほう があ わてて、一
早履
を忘 れて逃 げて行 ったそう な ⋮⋮じ
家 たち
は 一九 一二年 で、 三 ハ年 末 に甲ンア経 由 で帰 国 した
。
がって青 山 氏は、山 本鼎 にZ フンスでは会 っていない 山
。
本 を巡 る思い出 は、以 下いささか画 壇 ゴ ンップ に脱 線
友 があ り 、後 には農 民 芸 術 運 動 でも 知 られる 渡 欧
。
にも、石井のちゃつかり した処 世術 が窺 われる 以 下、
留
。
青山氏の石井評。︱︱ ︽石井柏亭 は絵はおもしろくな
いが、話 はおも しろい。たいへんな常 識 家 だ ひど いど
。
もりのくせに社交家 で、平気 でしやべり 、どんどんパリ
でも人脈を作 っていった。通 訳に頼 らず 、なんでも自 分
でやる人で立派 だが、常 識で絵 を描 く から、困 る 記
。
謂洲
勢
情
帥
備
”封嬌郭
群鰐電
ざ7
山 本 鼎 は、島 崎 藤 村 と交 友 があ ったが、
す る。︱︱ ︽
彼 には春 陽 会 を抜 け て〓 九 三 五年 脱 退]日展 審 査
員のころに会 った。春 陽会 C 九 二二年 結成︶は伏魔 殿。
者 〃で実 権 を
山 本は苦 労 人で陰 でぐつぐつ。辻 永 が笙 心
光 風会 の出店 ではない﹂と青 山 氏がガミガ
握っていた。﹁
青
ミ文 句 を 言 った。晩 年 、山 本 鼎 はこれを 回 想 して﹁
山は好 き だねえ ﹂と漏 らした︾由 。
宇 野 浩 二や鍋 井 克 之 と交 友 のあ った永 瀬 義 郎 は、
一九 一人年 、山本 鼎の日本創作 版 画協 会 に合 流 す る
二十
が、そのパリ遊 学 は、ややおく れて 一九 二九 年 。一
水瀬 は、気 の若 い、
人歳 の時 。青 山 氏 の記 憶 によれば、ヽ
パタイ
ラ・
いいじいち ゃんだった。早 川 雪州 主 演 の映 画 ﹃
ユ買 一九 三 四︶に出 演 したのが自 慢 であ る。原作 はク
ロード ・
ファレール、監 督 は日本 通 を自 称 す るが、実 は
ボワイ
ンヤルル・
まったく無 知 なファルカンンュ。主 演 は、ヽ
エ、アナベルほか。撮 影 のとき に日本 人 エキストラを集
水瀬 は
めたのは、ほかな らぬ青 山氏 だった、とのこと。ヽ
水瀬
東 郷 役 のはず だが、フィルムの画 面 には現れず 。ヽ
笠﹂の鑑橋 に立 つだけの役 で、台 詞 は
自身 は、戦 艦 ヨ 一
水瀬 には、そ
なかったと証 言 している。真 偽 やいかに。ヽ
放 浪 貴 族﹄そのまま に、無 一文 で放 浪
の晩 年 の著 書 ﹃
す る楽 天性 があって、いつもニコ 百していた、といつ。
ンュ
ヽ
ヽ
Zフンス人、ヽ
永 瀬 の友 人 の長 谷 川 潔 はす でに [
ヽ
図 6 マティスを訪 れた青山義雄 2 九五三︶
より]
︹
神奈川近代美術館 冨円山義雄展買 一九 八八︶
義 者 だった。詣 っているのが見 て取 れた。だが 一九 二 一
画]は 日本
画]や室 内 [
ろの五 〇号 の静 物 [
﹂
︱ 二 二年 ヽ
にも 送 っているが、これは傑 作 だ。後 年 のハダカより も
小 品 のほう が良 い。楽 しんで描 いている。後 年 は有 名
ゴッホ
ファン・
し
ろの息 子 [
ンェのとヽ
病に取 り付 かれた。ガヽ
を見 取 ったガシェ医 師 の息 子]は 日本 人 を 優 過 し た。
郎]などもよく 遊 びにいった。詰
[
財 閥 二世]安 田 冨星 一
ガヽ
ンェの息 子 は]作 品 の写 真 も 撮
め襟 の洋 服 だった。[
らせずケチとの陰 口も あ ったが、今 では印 象 派 美 術 館
﹀
に入っている作 品をルーヴルに寄 贈 している。
青 山 氏 は 一九 二五年 に日本 人 会 を やめた。その旨
岩波版
を記 した手 紙 を木 下杢 太 郎 あ てに書 いている [
妻 か ね、と
﹃
杢 太 郎 宛 書 簡 集﹄四 二九]。︱ ︱ ︽病 気 [
も ども肺 結 核 による略 血]でカーニュに療 養 していたと
発見 ″
され、一
二十 点 の作 品 が三 〇 〇 〇
きにマティスに″
れが 〓 九 二 八 年]ベルリンで個 展
﹂
Z フンで買 われ、ヽ
[
ノンベルト画 廊]に展 示 された。マティスには 二六年 に
ュに会 いに来 いと言 われ、その後 マティスかる福 島
力上 一
繁 太 郎 に紹 介 された。力上 〓には長 典 善 郎 も 来 た。
戦後 になって日本 の景 気 が 回復 してか ら、フジカワ画
て展 示 された。上 方 定 一は、昔 の絵 の方 が天7の絵 よ
廊 が ス ルリンで展 覧 した作 品 を]買 い、新 旧 作 あ わせ
いが、正 直
立 て替 え たことがあ った。中 川 は金 にし? ﹂
りよい﹂、といって十 二点 を鎌倉 の近 代 美 術 館 に購 入 し
のあ た り のこと、佐 藤 敬 は無 責 任 にし
や 不 明 だ が∵ ﹂
マティスはルノワールを たく さん買 っていた。 一九 五 三
あ とはコ物 体 の]後 ろにま わる絵 を描 け ﹂といわれた。
一〇 一
ジェリコのS︼
8 ュ色 価]と奥 行 き を 学 べ、と の教 え 。
アン
にしろ﹂と言 われた。マアィスから習 ったのは、フラ ・
君 には色 彩 があ る、君 の色 彩 を 大 切
︽
マティスには﹁
︾
れ、と言われた。彼 と会 ったのは 三度 だけだ。
てくれた。ただし、金 がないので支 払 いは年 賦 にしてく
潔 ]と 三 人 で食 事
者 だ。死 ぬ前 に萩 原 大 使 と長 谷 川 [
^
日本 人 たちを警 戒 していて´
8一
”9 ■な態 度 。猜 疑 心
ゃべるので困 る、とのこと。
脈絡や
リーヌと]結婚 していて、大 金 持 ち。こち らは神 経質 で、 を して、家 ま でタクシーで送 った こと が あ る。[
が強かった。戦後手 紙を出したが、住 所 が違 ってい三 戻
レオナール・
フジタは、おっちょこちょいでご都 合 主
︽
まま採 録しておきたい。
研
彙 の 墓 饂 滅魏
ってき た。仏 日の財 産 往 還 や新 円の導 入 などで、その
財 産 も 紙 く ず となり 、戦 後 苦 労 していた。中 川 一政
がZ フンスに来 たとき 、ルドンの画 集 を長 谷 川から渡
してもらったが、代金 を払ったか否 かでもめ、青 山氏 が
った [
アトリエには 一九 五 三年 に 一緒 に撮 った写真 ︵
図
ったかたちでS AS [
?]でイタリア経由 でZフンスに戻
年 講 和 条 約 の締 結 以 前 に、マティスから招 待 しても ら
う に思 われる。そう した青 山 氏 の回想 を基 にしてま と
記 憶 力 ととも に、いく つか定 型 の 受け 答 え も あ ったよ
った。質 問 に答 え る青 山 氏 の回 想 の口調 には、抜 群 の
められた記 録 のう ち 、も つと も 整 理 の行 き 届 いたか た
6︶が、マントルピースのうえ に飾ってあった]。その後 二
度 日本 には一
戻った。そう い えば 一九 二 一年 のカーニュの
ち で公 刊 され たのは、﹃
青 山 義 雄 ﹄展 2 九 八 八 ︶のた
で、取 り こぼしたも のも 少 な く な い。ただ、かつての友
当 時 の当 方 の知 識 不 足 ゆえ 、当 然 う か がう べき 質 問
ルノワールのところの価い
装 舞は]
会 に行らた。了アィスはエ めに調 査 された、橋 秀 文 氏 のも の︵
同 展 年 譜 ︶だろう 。
ジプトの王様 の役 。一
ンャン・
ルノワールは派手好 きだつた。 それに数 年 先 立 つ当 方 の筆 録 は、足 掛 け 二 日の滞 在 の
川島 [
理 一郎]や梅 原 [
龍 三郎]も 了アイスに会 っている な かで綴 つた備 忘 録 に過 ぎ ず 、も とより 遺 漏 も 多 い
。
が、そのあ たり のことは良 く覚え ていない。カー一
〓には
モジリアニ、スーテイン[
もう 一名 の名 前 、メモでき ず]
人 たち の品 定 めな どには、歯 に衣 を着 せぬ寸 評 にも 、
て捨 て難 く 、﹁
︶﹂
に復 元 す る次 第 であ る。
旧 友 たち への愛 情 があ ふれ ていた。そ こには生 き 証 人
ンソンに行 った。ドニに絵 を見 ても らつたこともあ る セ
。
ーヌ街 を歩 いているのを 見 たことも あ る。ヽ
ンヤンゼリゼ
あるいは橋 氏 など、公表 のために配慮 して割愛 された
の三 人も来て、フジタの話 も出た。モーリス・
ドニとい え
ば、パリに [一九 二 一年]ついた翌 々日にアカデミー・
ラ
劇 場の天上画が当 時 は有 名 だった。 一九 五 四年 にはマ
ティスが心臓 麻 痺 でなくなった。葬儀にジャンi クトー
箇 所 もあ ったかもしれない。一
言及された特 定 の個 人 や
これら回想の内容 には、時に辛 辣 な評 言 もみあれ、
ならではの卓 抜 な性 格 描 写 や、見 事 な声 帯 模 写 も あ っ
が来 たのをお世話 した記憶 がある⋮ ⋮ ︵
以 下略す︶。
︾
とは言え まい。だが青 山 氏 生 誕 から来 年 です でに百
そのが
﹂
遺 族にとって、同意し難 い判 断 も含 まれていない
付記¨
以 上 は、筆 者 が、 一九 八 五年 四月 六 日、一
Tス
十 年を迎える今 、むしろそう した現場での評価 の彩 も 、
ていたが、機会 を見ぬまま、今 日を迎えてしまった。事
青 山氏からは、本 インタヴユーの内 容 公表 の許 可を得
言尺と昇華されるべき時機ではないか、と思う 。生 前 の
恩讐 の彼方 に過ぎ去 って、す べては貴 重 な同 時 代 の証
の海 を見 下ろす高 台 にあつた、青 山 氏 の自 宅 兼 アトリ
エにてう かがつた話 を文章 に起 こしたもの。当 日の会 話
は、テープ録音 はしておらず 、当 日のメモから、あ らた
めて復 元 した。青 山 氏 は当 時 九 十 一歳 。毎 週 のよう
に日本からの来 客 が訪 れる繁忙 のさなか、日本向 けの
識者のご指摘 に侯ちたい。
油 彩 の制 作 に勤 しんでおられた。たいへんな未 来 志 向
実 関係 の不 明 に関しては、あ く ま で発 表 者 に責 任 の
で、明 日は何 をす る、今 年 の夏 にはどヽ
に行 く、といつ 帰す ることをヽ
﹂
﹂
ヽ
に確 認し、関係各 位 のご理 解 に感 謝
﹂
た今 後の話 題に夢 中 になっておられ、過 去 を振 り 返 る したい なお、当 日のメモは、二
〇 〇 二年 七 月 二十 七
。
ことには、さして執 着 されなかった。だがこの前 後 から、 日に再発見し、整 理したもの 遺
。 漏 、誤謬 などあ れば、
青山氏に戦前 のフフンス滞在 の様 子をう かがおう とす
る記者や研究者の来客 も、頻繁 となり つつあ る様 子だ
注
︵
1︶
︱︱ 蛭川譲 戻 りに死す︱︱ 評 伝 ¨
椎名 共 二﹂藤 原古 店、 一九 九
六年。また松 尾 邦 之助 ヲ ランス放 浪 記﹄鮮 普 一
易、 一九 四 七 年 に
は巴里I
E本人会の書記 ﹁A﹂に関する悪 口が見 える■ tI ︶.
︵
2︶
︱︱ ﹁
阿部﹂とで,偽名 を使っていた大 杉と青 山 とり ﹂
のとき のト
ンチヽ
/″ /な会話 は、橋秀文氏 による年 評 にも採 録 。神 奈 川近 代
1
美術館 コH山義雄展﹄図録、 一九 人八年参 1
1.
1
︵
3︶
︱︱ 以 下は、 一九 人 五年 四月 六 H、一
T スの青 山 義 雄 氏 の自 宅
兼アトリエにて採 録 ゥ
︵
︱︱ ビン ヽ
ンン﹁
4︶
小松清 ベトナム独立への兄 米てぬ夢﹂、高 杉忠 明
松井敬訳﹃
世 界〓 一
〇〇〇 年 四月 号 二 一
七 五︱ 二人五 百 、五 月
π 二六 四︱ 二人 三真。ほかに林俊 /クロード ピ ンョワ﹃
口
ヒユー了 一
ストの肖像 小松清﹄白 亜書房 、 一九九九年 りまた社会 的背景と
しては、渡 辺 一民 ﹃
Zフンスの誘惑 近氏 日本精神史 試論﹂岩 波古
店、 一九九 五年。有効 な補助線としては、読 み物として楽 しめる、
し九 九 年 など。
出 口裕 弘 ﹃
辰野隆 日仏の円 形劇 場﹄新 洲 社 、 一ノ
5︶
︵
︱︱ 匠秀 夫 ︵
編二小 出 楢 重 の手 紙﹄形 文 社 、 一九 九 四年 、に1
1
1
1
欧期の手 紙復 刻あり。
︱
6︶
︱︱ ﹃
欧 洲 藝術 巡礼 紀 行﹄ら紀 行 文 は黒 ︱
︵
︱筆 、挿 絵 は= Ⅲ■ 大
郎・
土 田麦感 小 野竹橋 野長瀬晩花 、大阪時事新 報 社 、 一九 1
1
三年 [
森仁史氏より購 入■早確奈津 子氏に謝意 を表す︺ぃ
︵
7︶
︱︱ 田中 日佐夫 ︵
編ヽ土 田麦 処のヨーロッパからの普簡 〓正 ∴し 、
﹃
美 学美術 史論集﹄成 城大 学大 学院 文 学 研 究= 、 一九 八L年 し
月、八八年 十 一月。またアヽ
ンリエットとの恋 に関しては、柏木加 代
かきつばた 土 田友倦の受 と芸術﹄大 阪大 学 出 版会 、一一
子﹃
〇〇
三年 。
︵
8︶
︱︱ 青 山義 雄 ﹁
古 い手 紙〓図 普﹄岩 波 普 店、 一九 八 四年 十 一月
にヽ
あ あたりに関する国想あり 。﹁
木 下杢 太 郎 宛 書 簡 集﹂岩 波 書
店、書簡番 号 三七 一、に青 山 氏 より の問 題 の古 簡 がみえ る。 一
ドートヽ
九 二三年のサロン・
/ス人選作の件 に言及あり 。
︵
9︶
︱︱ 記 録としては、山本 鼎 ﹃
ブルタ上 三日記﹄、小 崎 軍 司 ︵
価 ︶、
信渋 路、 一九 七 八年 が残る。また、藤 沢道 郎 ﹁
島 崎 藤 村 の7フン
ス行きL比較文学 研究叢書 島 崎藤 村﹄朝 日出 版社 、 一九 L 人
年 、および今 橋 映 子 ﹃
共都憧 = 日本 人のパリ﹂柏 普 一
助、 一九 九
二年。
0
︱︱ 永瀬義 郎 ﹃
︵
放 浪 貴族﹄国 際 PHP研究 所 、 一九 し 七 年 にも
1︶
本件への言及あり。
1 ︱︱ 猿 渡 紀 代 子 ﹃
し
︵
長 谷 川 潔 の世 界﹄有 隣 堂 、上 ・
中 下、 一九 ノ
1︶
七︱ 九 八年参 照.
2
・
︵
︲︲ 一
ぎ oo5″
は、物体の立体感の再 現を
3 8 8●ヨ2.
Eo o.
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︲︶
重視するアカデミー● アッサン教 室での基 本 的な教 え。一
立体 表 現
に不得意な東洋 画家への定番 の指南 だろうか。
* なお閉伸あ 展覧会 日録 は無 数 といつてよいが、とくに東 京 国 立近
代美 術館 ﹃
近氏 日本美 術史におけるパリと日本﹄一九 七 五年 、同山
県 立美 術館 コ 九 二〇年 代 パリの日本 人 画家〓 九 九 四年 をあ
げておく ゥ
δ9