アジア諸地域における仏教の多様性と その現代的可能性の総合的研究

文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業
2010 年度~2014 年度
龍谷大学アジア仏教文化研究センター
Research Center for Buddhist Cultures in Asia
アジア諸地域における仏教の多様性と
その現代的可能性の総合的研究
2010 年度
研究報告書
2011
目次
1. プロジェクトの総括と展望
桂
2.
紹隆(アジア仏教文化研究センター長・龍谷大学文学部教授) .......... 1
各ユニットの総括と展望
ユニット1(南アジア地域班)
若原雄昭(ユニットリーダー・龍谷大学理工学部教授) ................... 12
ユニット2(中央アジア地域班)
入澤
崇(ユニットリーダー・龍谷大学文学部教授) ..................... 19
ユニット3(東アジア地域班)
佐藤智水(ユニットリーダー・龍谷大学文学部教授) ..................... 35
3.
研究会の概要
研究総会
第 1 回研究総会....................................................... 42
第2回研究総会....................................................... 44
全体研究会
第1回全体研究会
「多様化した仏教の現代的自律性について―オウム事件から何を学ぶのか」
佐々木閑(花園大学教授) ......................................... 45
第2回全体研究会
「中国における崇仏と排仏―なぜ、仏教は排斥されるのか」
木村宣彰(大谷大学名誉教授・前学長) ............................. 48
シンポジウム
第1回国内シンポジウム「アジア仏教の現在Ⅰ」 ......................... 50
第1回国際シンポジウム
「平等を求めて―南アジアのマイノリティとマジョリティ―」 ......... 54
第2回国内シンポジウム「中央アジアにおける仏教と異文化の交流」 ....... 57
ユニット研究会
ユニット1(南アジア地域班)研究会
第1回研究会
(コンカーラトナラク・プラポンサック/ジクメー・ツルティム) ... 60
第2回研究会(胡海燕・ヒニューバー) ............................... 63
第3回研究会(ホルスト・ラシッチ) ................................. 65
第4回研究会(若原雄昭・岡本健資/佐藤智水・志賀美和子) ........... 67
第5回研究会(ジョン・テイバー) ................................... 70
第6回研究会(嵩満也/中村尚司) ................................... 72
第7回研究会(ヘルムート・クラッサー) ............................. 74
第8回研究会(アン・マクドナルド/アルベルト・トデスキーニ) ....... 76
第9回研究会(シェーン・クラーク) ................................. 78
ユニット2(中央アジア地域班)研究会
第1回研究会(入澤
崇/三谷真澄/橘堂晃一) ....................... 80
第2回研究会(村岡倫) ............................................. 83
第3回研究会(ダワ・ツェリン) ..................................... 85
第4回研究会(オマラ・ハーン・マスーディ/樊
錦詩/岡田至弘) ..... 88
ユニット3(東アジア地域班)研究会
第1回研究会(佐藤智水) ........................................... 91
第2回研究会(長谷川岳史) ......................................... 94
第3回研究会(末木文美士) ......................................... 97
第4回研究会(中川
第5回研究会(寧
修/下間一頼/山下
立/赤松徹真) ............ 100
欣) ............................................ 103
第 1 回中国仏教石刻研究会 .......................................... 106
第2回中国仏教石刻研究会 .......................................... 107
第3回中国仏教石刻研究会 .......................................... 108
第4回中国仏教石刻研究会 .......................................... 109
第5回中国仏教石刻研究会 .......................................... 110
第6回中国仏教石刻研究会 .......................................... 111
その他
ブータン国ケサン王女殿下記念講演会
「仏教国ブータン王国の国民総幸福度(GNH)政策
―仏教思想の理念が国民総幸福度政策にどの様に活かされたのか」 .. 112
4.
ワーキングペーパー
「中國における觀音信仰の展開の一樣相
―『觀世音十大願經』と「觀世音佛」」
倉本尚徳(アジア仏教文化研究センター博士研究員) .................... 117
「トルファン研究所所蔵ウイグル語写本調査報告」
橘堂晃一(アジア仏教文化研究センター博士研究員) .................... 133
「韓国仏教の現状・調査報告」
藤
能成(龍谷大学文学部教授) ...................................... 137
「龍谷大学と旅順博物館の非漢字資料―その意義と保存状況」
三谷真澄(龍谷大学国際文化学准教授) ................................ 159
「大谷光瑞師のトルコにおける動向調査―ブルサ特別展に参加して」
三谷真澄(龍谷大学国際文化学准教授) ................................ 173
「東南アジア大陸部地域における「タイ仏教」―現代アジア仏教理解にむけて」
林
行夫(京都大学地域研究統合情報センター教授) .................... 179
「バングラデシュ仏教の現状・調査報告」
岡本健資(龍谷大学文学部講師) ...................................... 189
「「ダルマ」に関する最新の研究成果」
桂
紹隆(龍谷大学文学部教授) ...................................... 199
「アショーカのダルマ」
岡本健資(龍谷大学文学部講師) ...................................... 213
「モンゴル国最古の仏教寺院
村岡
エルデニゾー研究の現状とその意義」
倫(龍谷大学文学部教授) ...................................... 225
プロジェクトの総括と展望
アジア仏教文化研究センター・センター長
桂 紹隆
はじめに
本プロジェクトの意図、研究体制、研究活動、研究成果について、簡単に述べた上で、
本年度全体的な総括を行う。
1. プロジェクトの概要
中国・インドを初めとするアジア諸国が国際社会において果たす役割は近年ますます増
大しています。アジア地域の特色として、ヒンドゥー教・イスラーム教・キリスト教・仏
教・儒教・道教など有力な宗教が並存する宗教的多元性が挙げられます。宗教間対立はし
ばしばこの地域の社会の分裂と抗争の要因と見なされますが、歴史を遡ると複数の宗教の
地域的共存の事実が見いだされます。
一方、アジア各国に多様に展開した仏教の中心には、異なる価値観を認めたうえで集団
として共存しようという行動原理があります。
本プロジェクトは、様々な形の宗教的非寛容に由来する現代アジアの、ひいては地球全
体の抱える諸問題の解決のために、アジア各地に展開した仏教の歴史と現実を多角的・総
合的に解明することにより、仏教の持つ現代的意義とその可能性を追求します。
本プロジェクトは仏教伝播の地理的・歴史的実態に即し、3 つのユニットを設けます。ユ
ニット 1(南アジア地域班)は、宗教的多元社会であるインド圏と東南アジアの仏教の現
状と歴史的背景を明らかにします。ユニット 2(中央アジア地域班)は、中央アジア・チ
ベット・モンゴルで仏教が果たしてきた役割と未解明の歴史を明らかにします。ユニット
3(東アジア地域班)は、東アジア各地で展開した仏教の歴史的特質と現代的課題を探りま
す。
1
2.研究体制
ユニット 1 - 南アジア地域班
サブユニット 1
桂 紹隆
龍谷大学 文学部・教授
(センター長)
若原 雄昭
龍谷大学 理工学部・教授
(ユニットリーダー)
岡本 健資
龍谷大学 文学部・講師
サブユニット 2
長崎 暢子
龍谷大学 人間科学宗教総合研究センター・研究フェロー
志賀 美和子
人間文化研究機構 地域研究推進センター・研究員
吉田 修
広島大学 大学院社会科学研究科・教授
サブユニット 3
中村 尚司
龍谷大学 人間科学宗教総合研究センター・研究フェロー
嵩 満也
龍谷大学 国際文化学部・教授
林 行夫
京都大学 地域研究統合情報センター・教授
2
ユニット 2 - 中央アジア地域班
サブユニット 1
宮治 昭
龍谷大学 文学部・教授
入澤 崇
龍谷大学 文学部・教授
(ユニットリーダー)
サブユニット 2
村岡 倫
龍谷大学 文学部・教授
岡田 至弘
龍谷大学 理工学部・教授
サブユニット 3
能仁 正顕
龍谷大学 文学部・教授
三谷 真澄
龍谷大学 国際文化学部・准教授
ユニット 3 - 東アジア地域班
サブユニット 1
佐藤 智水
龍谷大学 文学部・教授
(ユニットリーダー)
木田 知生
龍谷大学 文学部・教授
(副センター長)
長谷川 岳史
龍谷大学 経営学部・准教授
市川 良文
龍谷大学 文学部・講師
サブユニット 2
藤 能成
龍谷大学 文学部・教授
赤松 徹真
龍谷大学 文学部・教授
淺田 正博
龍谷大学 文学部・教授
中川 修
龍谷大学 文学部・教授
3
博士研究員・リサーチアシスタント
橘堂 晃一
博士研究員
倉本 尚徳
博士研究員
井上 綾瀬
リサーチアシスタント
上枝 いづみ
リサーチアシスタント
赤羽 奈津子
リサーチアシスタント
なお、次の 4 件の公募研究が進行中であり、平成 23 年秋までにそれぞれの研究成果を公
表する。テーマと要旨は次の通りである。
■「日本文化史における近代仏教の意義」
近藤俊太郎(龍谷大学・非常勤講師)
近代日本の仏教は、仏教の本来性に基礎付けられた新たな文化創造とは反対の役割、つ
まりは天皇制国家への従属および既存の雑居性・閉鎖性・排他性を特質とした文化への埋
没・肯定に終始した。敗戦まで繰り返された仏教の熱狂的な戦争協力はそのような事態を
象徴的に表現しているといえよう。本研究は、そのような近代の仏教が日本文化史におい
て果たした役割を分析・検討し、同時にそこで仏教の本来性回復を阻害してきた要因とは
何であったかを解明せんとするものである。
■「インド東部・オリッサ州の仏教徒コミューニティについて
―ヒンドゥーとの関わりを中心として」
ダシュ・ショバ・ラニ(大谷大学・非常勤講師)
本研究では、12 世紀以降のオリッサの歴史を記録する年代記『マーダラー・パンジ』に
対する文献学的研究を通じ、オリッサの仏教徒の歴史を解明する。さらに、オリッサ仏教
徒協会に登録されている 5 つの地域において現地調査を行ない、彼らについての基本情報、
例えば、人口、職業、年中行事などととみに彼らの生活実践を観察記録する。とりわけ、
ヒンドゥー社会の中での位置を明らかにするために、彼らがカースト制度の中に存在する
か否か、もし存在するならば、それはどのような位置づけになっているかを公文書の分析
や聞き取り調査を通じて検討する。彼らの存在がまだ十分に知られていないという現状に
鑑み、彼らの過去と現状の全体像記述することを目指す。
■「次世代育成を目指す仏教施設の役割・意味・ネットワーク調査研究」
榎木美樹(独立行政法人国際協力機構インド事務所・企画調査員)
1956 年の集団改宗挙行以降、インドにおける仏教徒運動は、当事者による仏教への改宗
といった短期的かつ直接的な行動が注目されるが、一方で、改宗後の信仰維持や仏教徒の
再生産のサイクルといった中・長期的な問題については不明な点が多い。本研究は、次世
4
代育成に取り組む青少年育成施設の実態とそこを利用する人々の動機や属性を調査するこ
とで、仏教的青少年育成施設としての禅塾の役割・意味・ネットワークを検証し、中・長
期的な視点で活動するインド仏教徒の視座とそのコミュニティの実態に迫るものである。
カルナータカ州ビジャープル市に立地する禅塾を事例とし、仏教徒コミュニティおよび仏
教への関心を示すコミュニティの実態を明らかにする。
■「仏教と日本文化―日本文化のもつ仏道的価値とその現代的意義」
岩本明美(鈴木大拙館(仮称)アカデミックディレクター/主任研究員)
本研究の目的は、日本文化・芸術のもつ仏道的価値について吟味し、ひいては仏教(特
に禅)が日本文化の形成に果たした役割を明らかにすることである。日本文化の原点に禅
があることを最初に指摘したのは、鈴木大拙である。この大拙の思想の強い影響のもとに、
現在アメリカの仏教僧院やセンターの中には、書道・華道・茶道・弓道・禅画・尺八など
を日常的修行として積極的に取り入れているところもある。本研究では、大拙の仏教文化
論のみならず、アメリカにおける日本文化の実践法や現代仏教芸術論をも参照しつつ、さ
らに仏教教理や修行道をも踏まえ、日本文化と仏教との関係について考究する。
3.研究活動と研究成果
(1)国際シンポジウム
2011 年 1 月 22(土)~23(日)に、龍谷大学大宮キャンパス清和館 3 階大ホールにおい
て、龍谷大学現代インド研究センターと共催で、国際シンポジウム「平等を求めて―南ア
ジアのマイノリティとマジョリティ―
Voices for Equity: Minority and Majority in South
Asia」を開催した。研究成果は、セッション 1 の研究報告とディスカッションの和訳をプ
ロシーィングス『現代インドにおけるダリット/仏教徒コミュニティの現状』としてホー
ムページに公開し、刊行した。プログラムは下記のとおりである。
22 January (Saturday)
Welcoming Address: Dosho WAKAHARA (President of Ryukoku University)
Opening Address: Akio TANABE (Convener of NIHU Program on Contemporary India Area
Studies, Kyoto University)
Introduction for the Symposium: Nobuko NAGASAKI (Director of the Center for the Study of
Contemporary India: Ryukoku University)
Session 1 : Dalit / Buddhist Communities in Contemporary India
Chaired by Shoryu KATSURA (Director of the Research Center for Buddhist Cultures in
Asia: Ryukoku University) andTimothy FITZGERALD (University of Stirling, U.K.)
Discussants:Aya IKEGAME(National Museum of Ethnology) and Chisui SATOH (Ryukoku
University)
1. Valerian RODRIGUES (Jawaharlal Nehru University, India),
5
“Ambedkar on Modernity and Religion”
2. Kenta FUNAHASHI (Kyoto University),
“Negotiating with ‘Caste’: A Case of Buddhist-Dalits in Contemporary Uttar Pradesh”
3. Miki ENOKI (Japan International Corporation Agency),
“Role and Network of Buddhist Institution in Bijapur, Karnataka: Renaissance of Indian Buddhist”
4. Kenji ADACHI (Shikoku Medical College),
“Acupuncture and Moxibustion at an Indian Village: Special Reference to Free Medical Camps
Conducted by Local Buddhists”
5. Shiv Shankar DAS (Jawaharlal Nehru University, India),
23 January (Sunday)
Session 2 : Religious Minorities and Majorities in South Asia
Chaired by Yusho WAKAHARA (Ryukoku University) and Nobuko NAGASAKI
Discussants: Maqsooda SHIOTANIM (Kashmir University, India) and Toshie AWAYA (Tokyo
University for Foreign Studies)
6. Harun-or-RASHID (University of Dhaka, Bangladesh),
“Religion Islam in Social and Political Transformation: The Bangladesh Perspective”
7. Masahiko TOGAWA (Hiroshima University),
“Hindu Muslim Relations in a Saintly Cult in Bangladesh: Religious Minority and Coexistence”
8. Gnanasigamony ALOYSIUS (Independent Writer, India),
“Identity & Politics among the Scheduled Castes in Contemporary India"
9. John ZAVOS (University of Manchester, U.K.),
“Negotiating Minority/Majority Religious Identity:Exploring the Social Location of
aTransnational Religious Organisation in Britain and India”
Session 3 : Minority and Majority Making in Indian Politics
Chaired by Mitsuya DAKE (Ryukoku University)and Hisashi NAKAMURA (Ryukoku University)
Discussants: Hiroyuki KOTANI (Tokyo Metropolitan University) and Pauline KENT (Ryukoku
University)
10. Timothy FITZGERALD,
“Religion, Politics, and Bahujan Samaj Discourse”
11. Sukhadeo THORAT (read by NidhiSadanaSabharwal),
“Minorities and Social Exclusion in Asia: Reflection on Problems and Solution in a Comparative
Framework”
12. NidhiSadana SABHARWAL (Indian Institute of Dalit Studies, India),
“Dalit Women and Political Space: Status and Issues related to their Participation”
13. Osamu YOSHIDA (Hiroshima University),
“Majority and Minority in Politics of Regionalism in Orissa”
14. Norio KONDO (Institute of Developing Economies),
“Communal Riots and States: A Comparative Study of Gujarat and Uttar Pradesh”
6
General Discussion
Chaired by Hisashi NAKAMURA and Nobuko NAGASAKI
Discussion led by Akio TANABE, Hiroyuki KOTANI and Timothy FITZGERALD
Closing Address: Tesshin AKAMATSU (Dean, Faculty of Letters, Ryukoku University)
(2)国内シンポジウム
2010 年 10 月 9(土)に、龍谷大学大宮学舎清和館 3 階ホールにおいて、第1回
龍谷
大学アジア仏教文化研究センター設立記念シンポジウム「アジア仏教の現在Ⅰ」を開催し
た。(参加人数:120 名)研究成果は、プロシーディングス『アジア仏教の現在Ⅰ』とし
てホームページに公開し、刊行した。報告者・報告題目は次の通りである.
報告Ⅰ:中村尚司(龍谷大学人間・科学・宗教綜合研究センター研究フェロー)
「東南アジア上座仏教の現状と課題」
報告Ⅱ:スダン・シャキャ(東北大学・日本学術振興会外国人特別研究員)
「ネパール仏教の現状と課題」
報告Ⅲ:藤
能成(龍谷大学文学部教授)
「韓国仏教の現状と課題」
パネルディスカッション:「アジア仏教の現在」
ファシリテーター:入澤
崇(龍谷大学文学部教授)
パネリスト:中村尚司,スダン・シャキャ,藤
コメンテーター:林
能成
行夫(京都大学地域研究統合情報センター・センター長教授),
三谷真澄(龍谷大学国際文化学部准教授),淺田正博(龍谷大学文学部教授)
2011 年 2 月 26 日(土)龍谷大学大宮学舎西黌2階大会議室において、第 2 回国内シン
ポジウム「中央アジアにおける仏教と異宗教の交流」を開催した。研究成果は、プロシー
ディングスの形で来年度ホームページに公開し、刊行する。報告者・報告題目は次の通り
である。
報告Ⅰ:宮治昭(龍谷大学文学部教授・龍谷ミュージアム館長)
「中央アジアの仏教信仰と美術―涅槃図と兜率天の弥勒菩薩を中心に―」
報告Ⅱ:橘堂晃一(龍谷大学アジア仏教文化研究センター博士研究員)
「西ウイグル国の仏教―弥勒信仰を中心に―」
報告Ⅲ:吉田豊(京都大学文学研究科教授)
「マニ教絵画の世界」
(3)研究総会
2010 年 6 月 5 日(土)龍谷大学大宮学舎清風館 3 階 301 室において第 1 回研究総会を開
催した。桂がプロジェクトの趣旨を説明し,各ユニットリーダーから本年度の研究計画が
発表された。その後、岡田至弘氏(龍谷大学理工学部教授)により「地図情報の活用事例
時空間−OpenTimeMap」が報告され,アジア仏教歴史文化資料地図の作成が提案された。
2011 年 2 月 22 日(火)龍谷大学大宮学舎清風館 3 階 301 室において第 2 回研究総会を
7
開催した。桂が活動報告を行った後、各ユニットリーダーからユニット毎の活動報告がな
された。
(4)全体研究会
2010 年 6 月 8 日(火)龍谷大学大宮学舎本館講堂において、第 1 回全体研究会を開催し
た。花園大学教授、佐々木閑氏に「多様化した仏教の現代的自律性について−オウム事件
から何を学ぶのか−」という題で報告していただいた。(参加者 110 人)報告のあと、若
原・入澤・佐藤各ユニットリーダーがコメントした。
2011 年 1 月 13 日(木)龍谷大学大宮学舎本館講堂において、第2回全体研究会を開催
した。大谷大学名誉教授・前学長、木村宣彰氏に「中国における崇仏と排仏―なぜ、仏教
は排斥されるのかー」という題で報告していただいた。報告のあと、若原・入澤・佐藤各
ユニットリーダーがコメントした。
以上二つの報告の記録は、一冊の報告書にして印刷・公開した。
(5)各ユニット研究会
各ユニット毎に独自の研究会を開催した。ユニット 1 は合計 9 回、ユニット 2 は合計 4
回、ユニット 3 は合計 5 回の研究会を行っているが、その詳細は、ユニット毎の研究報告
に委ねる。
(6)その他
2011 年 2 月 14 日、龍谷大学大宮学舎東黌 103 号室において、ブータン国ケサン王女
*
の講演会「仏教国ブータン王国の国民総幸福度(GNH)政策-仏教思想の理念が国民総幸
福度政策にどの様に活かされたのかー」を人間・科学・宗教・オープン・リサーチ・セン
ターと共催した。(参加者 450 人)
10 編をホームページ上にのせ、本研究報告書の巻末に掲載した。
*
ワーキングペーパー
*
ニューズレターを発行した。
*
ミュージアム図録『釈尊と親鸞』法蔵館(2011 年 4 月刊行予定)への寄稿
ユニット 1
桂
紹隆
第1部第2章第2節「釈尊の思想」
第1部第3章第2節「大乗仏教」
若原雄昭
第1部第1章第1節「仏教以前」
嵩
第2部第4章第3節「世界に広がる親鸞の教え」
満也
岡本健資
第1部第1章第3節「仏伝テキストの形成」
ユニット2
入澤
崇
第1部第3章第1節「仏教の拡大と僧団」(岩田朋子と共著)
第1部第3章第3節「北伝仏教」
第1部第2章コラム「釈尊のことば」(岩田朋子と共著)
8
第1部第3章コラム「ベゼクリク石窟の誓願図
―壁画復元事業への取り組み」
(岡田至弘と共著)
能仁正顕
第1部第4章第1節「様々な仏と浄土」
第1部第4章第2節「浄土三部経の成立」
三谷真澄
第1部第2章第2節「教えの継承」
第1部第2章第3節「経典の成立と展開」
ユニット3
佐藤智水
第1部第3章コラム「碑文・造像銘からみた中国仏教」
淺田正博
第2部第1章第2節「親鸞聖人が学んだ比叡山における念仏の伝承」
赤松徹真
第2部第2章第1節「親鸞の生涯と足跡」
第2部第3章第2節「本願寺教団の成立と発展」
中川
修
長谷川岳史
第2部第1章第1節「仏教伝来と初期阿弥陀信仰」
第1部第1章コラム「浄土教の源流」
4.総括
プロジェクトの初年度の目的は、参加者全員が問題意識を共有することであるが、研究
総会(2回)、全体研究会(2回)、国内シンポジウム(2回)、国際シンポジウム(1回)
を開催し、少しずつその目的は達成されつつある。全体研究会の報告書、国内シンポジウ
ムと国際シンポジウムのプロシーディングスもそれぞれ一冊発行して、成果報告とした。
いずれもホームページ上にも公開している。2月に開催した国内シンポジウムのプロシーデ
ィングスは来年度刊行予定である。
各ユニットの研究も端緒についたばかりであるが、海外調査も予定通り遂行され、ユニ
ット毎の研究会も活発に開催された。海外調査報告を中心とするワーキングペーパー10編
をホームページ上に公開し、本報告書にも収録した。ここに収められていない各ユニット
の研究成果は、来年度に学術論文として結実することを期待している。
簡単なニューズレターを刊行したが、来年度からは年2回程度発行したいと考えている。
本年4月に開館する龍谷ミュージアムとは本プロジェクト参加者の大部分が深く関与し
ている。従って、上に列挙したように、図録にも多く者が寄稿している。今後とも、ミュ
ージアム展示を通して、本プロジェクトの研究成果を発信していく予定である。
9
10
11
ユニット1(南アジア地域班)研究実績
ユニットリーダー
若原雄昭
1.
本年度の研究目標
①
仏教を含むインド伝統思想全般における「ダルマ(法)」概念の変遷を跡付け、植民地時
代を経て現代に至るまで、社会的・政治的危機に際して常に顧みられ、新仏教徒の指導者
アンベードカルが特に重視した、ダルマの意味を探求する。
②
アンベードカルは、反英独立運動のなかで、ガーンディー指導下に再生を図ったヒン
ドゥ思想と社会に対抗して、不可触民の抵抗運動を基盤に仏教への改宗という形で独自の
インド社会の再生を考えた。この二人の対立を軸に、アジアの思想と社会の現代世界にお
ける意味と可能性を考える。本年は特に 1920 年代におけるアンベードカルの反カースト運
動を研究する。
③
2009 年インド連邦下院総選挙結果と被抑圧民の政治参加状況の研究を行う。
④
タミル・ナードゥ州農村における社会変動(1967 年以降)に関する調査を実施する。
⑤
バングラデシュを中心としたベンガル仏教徒に関する基礎的情報(沿革・分布・人口・
組織等)の収集と整理を行う。
⑥
現代スリランカ社会、および現代タイ社会における上座部仏教教団・仏教徒社会の諸
相と実践の動態を調査・研究する。
2.
研究実績
「本年度の研究目標」記載の各項目①~⑥について、以下に本年度の研究実績を記す。
2.1
項目①
「仏教を含むインド伝統思想全般における「ダルマ(法)」概念の変遷を跡付けるととも
に、新仏教徒の指導者アンベードカルが特に重視したダルマの意味を探求する。」という
点について。
桂は、最新の研究成果を含む「ダルマ(法)」研究に関する情報の蓄積につとめる一方
で、小林久泰氏(東京教育大学研究員)の協力のもとに、近年の国際的なダルマ研究を要
約し紹介するワーキングペーパー「「ダルマ」に関する最新の研究成果(1)」を作成、
既に Web 公開済みである。また、桂は、構想調書で平成 24 年度に実施予定の「インド認識
論・論理学・言語哲学」研究に関する複数のユニット 1 研究会(第 2 回フライブルグ大学
孔子学徳方院長 Haiyan Hu-von Hinüber 博士報告会;第 3 回オーストリア科学アカデミー専
12
任研究員・ウィーン大学講師 Horst Lasic 博士報告会;第 5 回ニューメキシコ大学教授 John
Taber 博士報告会;第 7 回オーストリア科学アカデミー/アジア文化思想史研究所所長・ウ
ィーン大学チベット学仏教学科講師 Helmut Krasser 博士報告会;第 8 回オーストリア科学ア
カデミー/アジア文化思想史研究所研究員 Anne MacDonald 博士・ヴァージニア大学宗教学
科博士課程修了 Alberto Todeschini 博士報告会;第 9 回マクマスター大学社会科学部宗教学
科准教授 Shayne Clarke 博士報告会)を、本年度に前倒しの形で実施し、計画年度において
速やかに成果が出る準備状況を整えた。
若原は、アンベードカルの主著 The Buddha and his Dhamma に見られる仏教理解を批判的
に検討することを通して彼のダルマ観を考察するワーキングペーパーを準備している。
岡本は、インドにおいて多様性を受け入れつつ統一帝国を維持し、その統治理念の中心
に「ダルマ」を掲げたアショーカ王をテーマとするワーキングペーパー「アショーカのダ
ルマ」を作成し Web 公開した。
2.2
項目②
「1920 年代におけるアンベードカルの反カースト運動の研究」について。
長崎は第 4 回ユニット 1 研究会において、若原・岡本による報告「インド・バングラデ
シュの仏教徒コミュニティ調査報告」ならびに佐藤智水(BARC ユニット 3 長)
・志賀が行
った「南インドのダリット/仏教徒の生活実態調査報告」に対するコメンテーターをつと
め、現代インドにおいてアンベードカル仏教を旗印に活動する二つの組織についての報告
を分析し、詳細なコメントを提示した。また、第 6 回ユニット 1 研究会において、南アジ
アを中心として構築されつつある仏教徒間のネットワークを報告した中村の「スリランカ
調査報告/世界仏教徒大会に出席して」においても、同様にコメンテーターとして出席し、
アンベードカル仏教との関わりについてディスカッションを行った。
志賀は、2010 年 10 月に、佐藤智水ならびに榎木美樹(BARC 公募研究員・JICA インド
事務所企画調査員)とともに、インド・カルナータカ州にて改宗仏教徒の生活実態および
政治社会活動に関する調査を実施した。その報告は、第 4 回ユニット 1 研究会において、
佐藤智水とともになされた「南インドのダリット/仏教徒の生活実態調査報告」に該当す
る。また、志賀は、同研究会において、インド・ウッタルプラデーシュ州でアンベードカ
ルをシンボルの一つとして位置づける政党「大衆社会党」
(Bahujan Samaj Party:BSP)につ
いて報告した若原・岡本による「インド・バングラデシュの仏教徒コミュニティ調査報告」
に対するコメンテーターもつとめ、BSP 関連施設において行われる仏教教育の教材に、仏
教思想というよりも、アンベードカルの思想が色濃く見出せる点を指摘した。
2.3
項目③
「2009 年インド連邦下院総選挙結果と被抑圧民の政治参加状況の研究を行う。」という
点について。
インドにおける被抑圧民の政治参加状況に関連して、若原・岡本は、榎木美樹とともに、
T. Fitzgerald(英・スターリング大学助教授)ならびに S. S. Das(インド・ジャワハルラル・
ネルー大学院生)の協力を得て、インド・ウッタルプラデーシュ(=UP)州における仏教
徒コミュニティの現状に関する調査を実施。首都デリー及び UP 州ラクノウ市を中心に、同
13
州でダリット/改宗仏教徒を支持基盤として政権を獲得した BSP の関連機関・施設
(Gautama Buddha University、International Buddhist Research Institute、Babasaheb Bimrao
Ambedkar University 等)を視察し、当該施設責任者及び BSP 幹部数名との面談・意見聴取
を行った。今回は同州における改宗仏教徒の政治参加とそのコミュナルな背景の一端を垣
間見るに留まったが、今後の本格的研究に必要なネットワーク構築のため確実な足掛りが
得られた。その詳細は第 4 回ユニット 1 研究会の若原・岡本による報告「インド・バング
ラデシュの仏教徒コミュニティ調査報告」で報告された。
志賀は、アンベードカル主導のマハーラーシュトラ州におけるダリット解放運動とは異
なった独自の性格を有する南インドのタミル・ナードゥ州における解放運動につき、関連
資料の収集を行うとともに、2009 年に実施された第 15 回インド連邦下院選挙のタミル・ナ
ードゥ州における結果を分析し、本選挙で初めてダリット政党が独立候補者を擁立し当選
を果たしたことに着目し、ダリット政党が現代インド政治において存在感を強めていると
解釈した。ダリットの躍進を可能にした政治社会的条件の変化については、次年度におい
ても引き続き検討する。
2.4
項目④
「タミル・ナードゥ州農村における社会変動(1967 年以降)に関する調査」については、
本年度において中村によって行われたスリランカ調査がこれと関連を持つ。中村は今回、
世界仏教徒大会への参加を目的としてスリランカ出張を行い、その詳細を第 6 回ユニット 1
研究会にて報告した。現地スリランカにおいては複数の現地研究者と交流し、平成 23 年度
(次年度)の研究計画に含まれる「タミル・ナードゥ州の農村からスリランカへの出稼ぎ
労働の動態の研究」を視野に入れつつ行動した。次年度は、今回の研究出張による成果を
含め、当該地域における社会変動との関わりを分析することになっている。とはいえ、今
年度の成果としては未達成の箇所を多く含んでいる。
2.5
項目⑤
「バングラデシュを中心としたベンガル仏教徒に関する基礎的情報(沿革・分布・人口・
組織等)の収集と整理」については、若原・岡本の二度にわたる調査(その内容は第 4 回
ユニット 1 研究会及び岡本によるワーキングペーパー「バングラデシュ仏教の現状・調査
報告」にて報告済み。)によって一定の成果が得られた。例えば、インド西ベンガル州 Kolkata
においては、市内及び近郊にあるベンガル仏教徒の主要寺院六ヵ寺を訪問し、当該地域の
仏教徒の実態に関する基礎資料収集を行った。この際、インド国内におけるベンガル仏教
寺院および仏教徒のデータを掲載する最新資料(2010 年発行)を入手できた。また、その
後に移動したバングラデシュでは、東南部(Chittagong, Cox's Bazar)における宗教事情に関
する調査を、ダッカ大学 Dilip K. Barua 博士ならびにチッタゴン大学 Gyana Ratna 博士の協
力のもとに行った。この際、同国仏教徒の本拠地である Chittagong および周辺地域における
仏教徒人口・寺院数他の基礎的調査の具体的プランを、Chittagong 大学スタッフと協議した。
2.6
項目⑥
「現代スリランカ社会・現代タイ社会における上座部仏教教団・仏教徒社会の諸相と実
14
践の動態の調査・研究」について。
まず、第 1 回ユニット 1 研究会として「タイ仏教の現在」と題して、タイ国マハーニカ
ーイ派ダンマカーイ寺院総住職補佐 Kongkarattanaruk Phrapongsak 博士による報告会を開催
し、現代タイ仏教の布教や教育活動あるいはイスラーム教徒との軋轢などの実態について
の詳細な報告をいただき、中村がコメンテーターとして参加し、ディスカッションを行っ
た。
また、既述の通り、中村はスリランカへの研究出張を行い、現地研究者との交流を行い
情報の収集を行った(詳細は第 6 回ユニット 1 研究会にて報告された。)。
嵩はタイへの研究出張を行い、バンコク郊外で 11 月 19 日~25 日に亘り開催された国際
エンゲージドブディズムネットワーク(International Network of Engaged Buddhists: INEB)に
出席、タイ各地で活動するエンゲージドブッディストと交流し、タイ国内の社会活動と伝
統的仏教教団との関わりについて調査するとともに、ミャンマー、マレーシア、インドネ
シア、ラオスさらにインドの仏教徒グループのリーダーと交流を持つことができた(嵩の
調査は、中村と同じく第 6 回ユニット 1 研究会にて「タイ調査報告/国際エンゲージドブ
ディズムネットワーク(INEB)に出席して」と題して報告済み。)。今回は、中村・嵩に
よって、タイを含めた東南アジア諸国及びインド・スリランカで社会活動を行う仏教徒グ
ループと各地域における伝統的仏教教団との関わりについて調査・研究をするための足が
かりをつくることが出来た。引き続き収集した資料の分析を行うと共に、構築しつつある
ネットワークを通じて研究を進めていく。
林は BARC 設立記念国内シンポジウム 「アジア仏教の現在Ⅰ」にパネリストとして参加
して詳細な報告を行うとともに、これまで行ってきたタイ上座部仏教に対する社会学的研
究の成果の一端をワーキングペーパー「東南アジア大陸部地域における「タイ仏教」―現
代アジア仏教の理解にむけて―」として Web 公開した。
3.ユニット1研究会リスト
第 1 回ユニット1(南アジア地域班)研究会
■報告者・報告題目
報告 1:タイ仏教の現在
報告者:コンカーラッタナラック・プラポンサック(Dr. Kongkarattanaruk Phrapongsak タイ
国マハーニカーイ派ダンマカーイ寺院総住職補佐・長老/沼田研究奨励金受給者・仏教文
化研究所外国人客員研究員)
報告 2:Tibet's Journey in Exile
報告者:ジクメー・ツルティム (Jigmey Tsultrim 中央チベット政庁チベット博物館館長/
沼田研究奨励金受給者・仏教文化研究所外国人客員研究員)
■開催場所:西黌大会議室
■開催日時:7 月 22 日(木)(16:00-19:00)
【コメンテーター】中村尚司/芳村博実(龍谷大学文学部教授)
15
第2回ユニット1(南アジア地域班)研究会
■報告題目:Faxian(法顯)'s Perception of India
■報告者:胡海燕・ヒニューバー(Dr. Haiyan Hu-von Hinüber フライブルグ大学孔子学徳方
院長/沼田研究奨励金受給者・仏教文化研究所外国人客員研究員)
■開催場所:西黌大会議室
■開催日時:9 月 7 日(火)15:00~17:30
【コメンテーター】桂
紹隆
第3回ユニット1(南アジア地域班)研究会
■報告題目:Meditations on the Retrieval of Lost Texts: With Special Reference to the Sāṃkhya
Section of Pramāṇa-samuccaya Chapter 2
■報告者:ホルスト・ラシック(Dr. Horst Lasic オーストリア科学アカデミー専任研究員・
ウィーン大学講師/沼田研究奨励金受給者・仏教文化研究所外国人客員研究員)
■開催場所:西黌大会議室
■開催日時:9 月 24 日(金) 17:00~19:00
【コメンテーター】桂
紹隆
第4回ユニット1(南アジア地域班)研究会
共催:龍谷大学現代インド研究センター(南アジア調査報告会)
■報告題目 1:インド・バングラデシュの仏教徒コミュニティ調査報告
■報告者: 若原雄昭/岡本健資
■報告題目 2:南インドのダリット/仏教徒の生活実態調査報告
■報告者: 佐藤智水(龍谷大学文学部教授・龍谷大学仏教文化研究所長・BARC ユニット
3 リーダー)/志賀美和子
■開催場所:
清風館 301
■開催日時:12 月 7 日(火)16:45~18:45
【コメンテーター】長崎暢子/佐藤智水/志賀美和子
第5回ユニット1(南アジア地域班)研究会
共催:龍谷大学現代インド研究センター
■報告題目:Dharmakīrti and the Mīmāṃsakas in Conflict: Pramāṇavārttika (svavrtti) I.311-340
■報告者:ジョン・テイバー(John Taber, ニューメキシコ大学教授)
■開催場所:西黌大会議室
■開催日時:1 月 14 日(金)17:00~19:00
【コメンテーター】桂
紹隆
第6回ユニット1(南アジア地域班)研究会
■報告題目 1:タイ調査報告/国際エンゲージドブディズムネットワーク(INEB)に出席して
■報告者:嵩
満也
■報告 2:スリランカ調査報告/世界仏教徒大会に出席して
16
■報告者:中村尚司
■開催場所:清風館 301
■開催日時:1 月 27 日(木)16:30~19:00
【コメンテーター】佐藤智水/長崎暢子
第7回ユニット1(南アジア地域班)研究会
■報告題目:How to teach a Buddhist monk to refute the outsiders? Text-critical remarks on some
works by Bhāviveka
■報告者:ヘルムート・クラッサー(Dr. Helmut Krasser, オーストリア科学アカデミー/ア
ジア文化思想史研究所所長・ウィーン大学チベット学仏教学科講師)
■開催場所:西黌大会議室
■開催日時:1 月 28 日(金)17:00~19:00
【コメンテーター】桂
紹隆
第8回ユニット1(南アジア地域班)研究会
■報告題目 1:Differentiating Dignāga: A Question of Identity in the Prasannapadā
■報告者:アン・マクドナルド(Dr. Anne MacDonald オーストリア科学アカデミー/アジ
ア文化・思想史研究所研究員/沼田研究奨励金受給者・仏教文化研究所外国人客員研究員)
■報告題目 2:Three Yogācāra Texts on the Ideal Debater: Yogācārabhūmi, Abhidharmasamuccaya
and Abhidharma-samuccayabhāṣya
■報告者:アルベルト・トデスキーニ(Dr. Alberto Todeschini ヴァージニア大学宗教学科博
士課程修了/沼田研究奨励金受給者・仏教文化研究所外国人客員研究員)
■開催場所:清風館 301
■開催日時:2 月 18 日(金)16:00~19:00
【コメンテーター】桂
紹隆
第9回ユニット1(南アジア地域班)研究会
■報告題目:The Good Monk and His Wife are Seldom Parted: Reflections on Married Monks in
Indian Buddhism
■報告者:シェイン・クラーク(Dr. Shayne Clarke, マクマスター大学社会科学部宗教学科
准教授)
■開催場所:清風館 301
■開催日時:2 月 23 日(水)10:00~12:00
【ファシリテーター】桂
紹隆
【コメンテーター】井上綾瀬(BARC リサーチアシスタント)
17
18
ユニット2(中央アジア地域班)研究実績
ユニットリーダー
入澤
崇
1. 本年度の研究目標
ユニット 2 は下記の 3 つのサブユニットから成り、中央アジア・チベット・モンゴルの
仏教を研究対象とし、仏教学・歴史学・美術史学・情報工学が協力し合って最先端の学際
的な研究をすすめる。当該地域に展開した仏教文化の跡を辿るとともに、仏教のもつ多様
性と重層性のメカニズムを解明していく。とりわけ文化の接触、交流、融合といった点に
注目し、現代社会における仏教の可能性について有効な提言をなすことを目的とする。
サブユニット 1(宮治・入澤)では、大英博物館、ギメ美術館、ベルリン国立アジア美
術館、敦煌研究院、アフガニスタン考古学研究所などの協力を得て、ガンダーラ・中央ア
ジアに伝播した仏教文化を特に「仏教と異文化との交流」という観点から考察する。ガン
ダーラで仏像を中心とした新たなる仏教文化が生成した背景には、インド、ギリシア、ロ
ーマ、イランといった諸文化との混淆があり、ガンダーラ仏教文化を受け継いだ中央アジ
アでは仏教が異文化を包摂する様相が顕著にみてとれる。異文化が接触したとき、
「文明の
衝突」ではないあり様がいかにして可能であったか、そのメカニズムを解明していく。同
時にこれまでほとんどふれられることのなかった仏教西伝の跡を追い、西アジアへの仏教
伝播の可能性を追求する。
サブユニット 2(村岡・岡田)では、モンゴル科学アカデミー歴史研究所、ウランバー
トル国際遊牧文化研究所などの協力を得て、近年見直しを迫られているモンゴル帝国に焦
点をあて、モンゴル帝国が被支配地域の文化を温存して発展を遂げていった様相を明らか
にする。併せて、モンゴル帝国の世界認識を示す、龍谷大学所蔵「混一疆理歴代国都之図」
に秘められた地理情報を情報工学の助力を得て引き出し、モンゴル帝国がいかなる世界観
を有していたかを具体的に解明していく。地図は人間の世界認識を示すものであるが、須
弥山を中心とする仏教的世界観と近代へと引き継がれることになる科学的世界観との相克
をも射程圏に入れる。龍谷大学に所蔵されている古地図は多くの情報を有しており、とり
わけアジアがどのように認識されていたかに関わる問題はプロジェクト全体に波及する。
サブユニット 3(能仁・三谷)では、チベット及びその周辺地域で保持されている仏教
信仰と、イスラーム化の中で途絶えてしまった中央アジアの仏教文化の諸相を文献学の立
場から解明していく。前者については、中国蔵学中心との協力のもとに、現代に至るまで
信仰の拠り所となっている高僧の化身(転生活仏)などについて調査研究を行なう。後者
については、主として中央アジア出土文献の解読研究を進め、旅順博物館、大英図書館、
ベルリン・トルファン研究所、イスタンブル大学図書館などの研究機関が所蔵する仏典写
19
本資料を調査し、写本研究の立場から仏教の多様性にアプローチしていく。
2.
平成 22 年度の研究実績とその概要
①ガンダーラを基軸として展開した仏教の拡がりを解明するための基礎調査を行なう。出
土文物については大英博物館・ギメ美術館所蔵のガンダーラ美術、遺跡調査については
トルコ・ヴァン湖周辺の石窟、及びモンゴルのエルデニゾー寺院を対象とする(サブユ
ニット 1、2)
②大谷探検隊が中央アジアからもたらした仏典写本は主に旅順博物館と龍谷大学に所蔵さ
れるが、そのうち旅順博物館所蔵の中央アジア出土漢字仏典の調査を行なう。また、古
典籍デジタルアーカイブ化を進める(サブユニット 3)
③龍谷大学所蔵のアジア諸地域の古地図および、GIS 研究基盤としての広域 GIS システム
の調査を行ない、年度内に可能にするとともに、研究進展に対応して収集される地図資
料の集積化に努める(サブユニット 2)
④大谷探検隊の調査・研究の一環として、大谷光瑞のトルコでの活動をテーマとした国際
学術会議に協力する(サブユニット 2)。
①
について
ガンダーラ美術の調査研究は宮治が行なった。仏教の多様化は仏像の出現によって加速
する。仏像を取り巻く菩薩像、神像さらには供養者像に注目するならば、ガンダーラ仏教
美術の世界はまさしく仏教の多様性を探るのに格好の研究資料となる。中央アジア仏教美
術は主としてガンダーラ仏教美術を苗床とするので、ガンダーラ美術の基礎的研究が必要
である。ガンダーラ仏教美術から中央アジア仏教美術への展開については、宮治があらま
しを「中央アジアの仏教美術」(『新アジア仏教史 05 中央アジア
文明・文化の交差点』
所収、2010 年)で示した。なお、宮治は国内シンポジウム「中央アジアにおける仏教と異
宗教との交流」
(2011 年 2 月 26 日)の中で「中央アジアの仏教信仰と美術―涅槃図と兜率
天の弥勒菩薩を中心に―」と題し発表を行なった。大英博物館・ギメ美術館所蔵のガンダ
ーラ美術についてはリサーチアシスタントの上枝いづみが近くワーキングペーパーにて
研究報告を行なう。大谷探検隊がガンダーラよりもたらした仏教文物資料は現在旅順博物
館に所蔵されているが、これについても宮治・入澤は本格的調査に向けて準備を進めてい
る。
文物調査と並んで遺跡調査も仏教の多様性をうかがうための基礎的作業となる。中央ア
ジアの仏教遺跡調査は 19 世紀末期から本格化するが、1902 年に始まった大谷探検隊の調
査はわが国の仏教研究において新たな地平を切り拓くものであった。仏教を研究するうえ
での遺跡調査の意義については入澤が第 1 回ユニット 2 研究会で「大谷探検隊とオーレ
ル・スタイン」と題し発表を行なった。本年度の遺跡調査はモンゴル帝国時代のものを中
心とした。モンゴル勢力がイラン・トルコに進出してうちたてた王国をイルハン王国とい
うがイスラーム化したモンゴル勢力として名高い。近年イルハン王国時代の遺跡が発見さ
れ始めているが、イスラーム建築とは異なる遺跡が多い。イルハンのモンゴル勢力がイス
ラーム化する以前は大部分が仏教徒であることから、未知の遺跡は仏教寺院址の可能性を
20
秘める。モンゴル仏教はチベット仏教、中央アジア仏教、中国仏教のアマルガムであり、
仏教の多様性を研究するうえで重要な研究対象となる。入澤はトルコ東部ヴァン湖に面し
たアフラットに残る石窟を調査した。アフラットには 800 以上の石窟が存在しており、1960
年代よりトルコのガジ大学チームによって調査が進められている。近年、石窟はイルハン
時代の仏教石窟ではなかとの見解がガジ大学より提示され、入澤が基礎的な検証を行なっ
た。調査の概要及びアフラット石窟研究の意義については近く公表する予定である。
モンゴルのエルデニゾー寺院については村岡(サブユニット 2)が調査を行なった。モ
ンゴルに現存する最古の仏教寺院であるエルデニゾーはわが国では大谷探検隊が早くに注
目し、第二次大谷探検隊の野村栄三郎が調査を行なっている。野村の調査記録は彼が採拓
した碑文資料とともに極めて貴重で、村岡の調査は大谷探検隊の偉業を受け継ぐものであ
る。成果の一端は第 2 回ユニット 2 研究会にて公表された。村岡が発表の中でふれたよう
に、モンゴル帝国の首都カラコルムに関する 1254 年の記録によれば、偶像崇拝の寺院が
12、イスラームのモスクが 2、キリスト教会が 1 ほど存在していたという。偶像崇拝の寺
院はその多くは仏教寺院とみなすことができる。複数の宗教が共存する状況はイスラーム
化する以前の中央アジアと同じである。様々な宗教の共生を可能にした背景を探るという
試みは、本研究プロジェクトに大きく貢献するものとなるであろう。
②
について
旅順博物館所蔵の中央アジア出土漢字仏典の調査については三谷(サブユニット 3)が
行ない、その成果の一端を第 1 回ユニット 2 研究会で公表した。三谷はすでに旅順博物館
所蔵の非漢字資料の調査に乗り出しているが、今回の発表では漢字仏典に関する旅順博物
館との研究成果のうち、浄土教テキスト 85 点を取り上げた。中央アジアにおける浄土教研
究に一石を投ずるものである。トルファンで書写された生の漢字仏典を分析・研究するこ
とによってトルファンにおける中国仏教の受容の実態が明らかとなっていく。報告は今後
行なわれる非漢字仏典(胡語仏典)の調査研究に大きな期待を抱かせた。三谷の研究課題
は、仏教内部で複数の仏教が接触するとき、そこでいかなる変容が生じるのか、また仏教
文化の多様性はトルファン社会にいかなる影響を与えたのかという問題にまで発展する。
調査した仏典資料については、古典籍デジタルアーカイブ研究センターにおいてデジタル
化が順調に進められている。
③
について
地図に関しては岡田が超高精細古地図画像集積による歴史地理情報システムの開発を
すすめており、龍谷大学所蔵の混一疆理歴代国都之図、世界大相図、五天竺之図、大清万
年一統地理全図、および 20 世紀初頭の陸地測量部地形図・東亜輿地図、島原本光寺混一疆
理図、天理大明図などのデジタル地図画像の作成を行なった。併せて、GIS 研究基盤とし
ての広域 GIS システムの調査を行ない、歴史地理情報システムとして必要な要件定義を終
えた。超高精細古地図画像として集積した、混一疆理歴代国都之図および本光寺図、天理
大明図の 3 図を対象とした実験システムの運用を始めている(別紙参照)。
④
について
21
トルコでは 2010 年が「日本年」に当たり、トルコと日本との交流に関する記念イベント
が数多く行なわれた。その一環として、大谷光瑞に関する特別展がブルサとイスタンブル
の 2 か所で開催された。大谷光瑞が晩年、トルコの産業育成に大きな貢献を果たしたから
である。ブルサでの展示は主に三谷が関与し、イスタンブルの展示は主に入澤が協力した。
本プロジェクトが目標に掲げる「現代における仏教の可能性」を追求するにあたり、晩年
の大谷光瑞の行動は見直すに値する。停滞するイスラーム圏にあって仏教者が身を挺して
「産業育成」にあたったということは、単なる偉人伝のひとこまに終わらせてはならない。
光瑞が目指したアジア社会の経済的安定と人材育成は現代においても喫緊の課題である。
ブルサではブルサ市博物館で「ブルサにおける初のトルコ・日本産業提携:ギョクチェ
ン家と大谷光瑞」(16 Sep 2010-29 Dec.2010)が行われ、オープニング記念シンポジウムに
三谷がコメンテーターとして参加した(ワーキングペーパー
三谷真澄「大谷光瑞師のト
ルコにおける動向調査―ブルサ特別展に参加して」)。イスタンブルでは国立イスタンブ
ル研究所で特別展「三日月と太陽 イスタンブルの 3 人の日本人
山田寅次郎
伊東忠太
大谷光瑞」(16 Oct. 2010 – 20 Feb.2011)が行なわれた。開幕イベントで行なった入澤のレ
クチャー「大谷探検隊とシルクロード」はトルコで大谷探検隊を知らせる初の試みとなり、
日本年記念出版物『Kont Otani Kozui ve Türkiye 大谷光瑞と土耳古』に掲載された。
以上のように、本年度は当初予定していた研究目標をほぼ完遂できたといえる。さらに
以下のような活動も行なった。内容はいずれも第1回目の全体集会で予告していたもので
ある。
文化財保存の観点からのアプローチ
ユニット 2 では構想調書に記したように、文献資料のデジタル復元や美術考古資料の画
像データベースの活用も考慮に入れている。いわば文化財科学の分野との連携である。と
りわけ文化財保存学との連携は不可欠であり、そこから貴重な提言が期待できる。2010 年
7 月に大英図書館と龍谷大学との間で、国際敦煌プロジェクト(IDP)における「中央アジ
ア資料デジタル化に係る共同プロジェクト」の覚書が締結され、IDP-Japan=龍谷大学古典
籍デジタルアーカイブ研究センターの契約が継続された。それにあわせて、国際シンポジ
ウムが行われ、岡田が全体のコーディネーターをつとめた。シンポジウムの一部門を BARC
ユニット 2 の第 1 回研究会(「大谷探検隊と IDP」)とし、三谷、入澤、そしてポストドク
ターの橘堂晃一が発表を行なった。
また、これも構想調書にうたわれているように、ユニット 2 は敦煌研究院やアフガニス
タン考古局などとも連携する。第 4 回ユニット 2 研究会はオマラ・ハーン・マスーディ(ア
フガニスタン国立博物館館長)氏と樊錦詩(中国敦煌研究院院長)氏の参加を得て、「文
化財がつなぐ仏教アジア」と題し、2010 年 12 月 21 日に開催した(新聞記事参照)。ユニ
ット 2 からは岡田が発表を行ない、宮治がコメンテーターをつとめた。アフガニスタン国
立博物館、敦煌研究院、そして龍谷大学の文化財保存の取り組みが紹介されたが、このよ
うな試みは初めてのことで極めて貴重な研究会となった。アフガン側は敦煌の情報を知ら
ず、敦煌側はアフガンの情報を知らない。ユニット 2 がはからずもネットワーキングの役
割を果たしたことになり、今後も中央アジア仏教研究のハブとしての機能を高めていきた
22
い。
チベットの活仏研究
平成 25 年度に予定していたチベットの活仏に関する研究を本年度に繰り上げて行なっ
た。能仁がダワ・ツェリン(中国蔵学中心宗教研究所副研究員)氏と共同研究を行ない、
その成果は第 3 回ユニット 2 研究会で公表された。チベット仏教を特色づける活仏は、そ
の成立・変遷の過程はこれまで必ずしも明らかでなかったが、ダワ氏による発表「チベッ
トにおける活仏の位階制度について」で、有益な知見が得られた。活仏は宗教面のみなら
ず、政治面にも大きな影響力をもつために、今後プロジェクトで「政治と仏教」が俎上に
のぼる際には本研究が大きく貢献することになろう。中国蔵学中心との協力体制構築もユ
ニット 2 の目標のひとつであったが、その礎ができたことを喜びたい。
京都新聞
2010 年 12 月 25 日
23
京都新聞
2010 年 12 月 26 日
24
3.
入澤
ユニット 2 個人報告書
崇(ユニットリーダー/サブユニット1)
仏教と異文化との交渉に関する研究
仏教西伝に関する研究
1)トルコ・ヴァン湖周辺の石窟調査
2)トルコ日本年における大谷探検隊の展観・出版
3)『国際敦煌プロジェクト
研究シンポジウム』「大谷探検隊とIDP」部会=第 1
回ユニット2研究会ファシリテーター及び研究発表
4)第 2 回ユニット 2 研究会コメンテーター
5)第 4 回ユニット 2 研究会ファシリテーター
6)第 1 回全体研究会コメンテーター、第 1 回国内シンポジウム「アジア仏教の現在」
ファシリテーター、第 2 回全体研究会コメンテーター
1)
トルコ東部ヴァン湖の西湖岸に位置するアフラットで石窟調査を行なった。アフ
ラットは 11 世紀から 12 世紀にかけてのセルジューク・トルコ時代に最も栄え、
かつてはバルフ、サマルカンドと並ぶイスラーム三大都市のひとつ。13 世紀半ば
モンゴルのイルハン王国がアナトリア地方を治める基地としたため、アフラット
周辺にはイルハン時代の遺跡が多くのこる。中でも石窟の多さは目をひき(800
以上)、トルコ・ガジ大学チームは石窟の多くは仏教石窟である可能性が高いと
いう。これまでトルコへの仏教伝播の事実は報告されていないだけに注目される。
今回、ガジ大学が把握している地域以外のところでも石窟を確認した。調査の概
要及びアフラット石窟研究の意義については近く公表したい。詳しい調査の必要
性は認められるも、調査を今後遂行するにあたってはガジ大学との連携、トルコ
政府の承認など難問が山積する。
2)
2010 年のトルコは「日本年」に当たり、トルコと日本との交流に関する記念イベ
ントが数多く行なわれた。その一環として、大谷光瑞に関する特別展がブルサと
イスタンブルの二か所で開催された。ブルサは三谷真澄氏が関与し、イスタンブ
ルの展示は入澤が協力した。Istanbul Research Institute での特別展『三日月と太陽
イスタンブルの 3 人の日本人
山田寅次郎
伊東忠太
大谷光瑞』
(16 Oct. 2010 –
20 Feb.2011)がそれである。開幕イベントで行なったレクチャー「大谷探検隊と
シルクロード」はトルコで大谷探検隊を知らせる初の試みとなり、日本年記念出
版物『Kont Otani Kozui ve Türkiye 大谷光瑞と土耳古』に掲載された。
3)
25
2010 年 7 月 13 日に開催された国際敦煌プロジェクト(IDP)シンポジウムの部会
「大谷探検隊と IDP」のファシリテーター及び、「大谷探検隊とオーレル・スタ
イン」と題する研究発表を行なった。大英図書館に本部をおく国際敦煌プロジェ
クトは中央アジア出土文物を保存する博物館、美術館、図書館、大学をネットで
つなぎ、資料公開を目指すとともに、保存科学、歴史学、考古学、美術史などの
複数の学問ジャンルから出土文物にアプローチがなされ、多彩な研究活動が展開
されている。ユニット2の活動に大きな刺激を与えるものであり、今後とも密接
な関係を維持していきたい。
4)
2010 年 12 月 9 日に開催された第 2 回ユニット 2 研究会において村岡倫氏が行な
った発表「モンゴル国最古のチベット仏教寺院エルデニゾー研究の現状とその意
義」のコメンテーターをつとめた。
5)
2010 年 12 月 21 日(火)に行われた第 4 回ユニット 2 研究会「文化財がつなぐ仏
教アジア」のファシリテーターをつとめた。西のアフガニスタンと東の敦煌。両
地域にみられる仏教文物は仏教の多様性をまぎれもなく示しており、ユニット2
の研究活動に大きく関わる。今回の研究会では、アフガニスタンからオマラ・ハ
ーン・マスーディ(アフガニスタン国立博物館館長)氏、敦煌からは樊錦詩(中
国敦煌研究院院長)氏をお招きして、特に文化財保存の問題を取り上げた。ユニ
ット2からは岡田至弘が報告を行ない、宮治昭がコメンテーターをつとめた。
6)
2010 年 6 月 8 日に開催された第 1 回全体研究会において佐々木閑氏が行なった「多
様化した仏教の現代的自律性についてーオウム事件から何を学ぶか」に対するコ
メンテーターをつとめた。2010 年 10 月 9 日に開催された国内ンポジウム「アジ
ア仏教の現在Ⅰ」でファシリテーターをつとめた。2011 年 1 月 13 日に開催され
た第 2 回全体研究会において木村宣彰氏が行なった「中国における崇仏と排仏―
なぜ、仏教は排斥されるのか―」に対するコメンテーターをつとめた。
以上が、2010 年度の研究概要である。仏教西伝研究に関してはトルコで新たな知見が得
られ、仏教と異文化との交渉に関してはアフガニスタンの文化財から多くのことを学んだ。
親日国のトルコでの活動は、イスラーム圏に仏教研究を伝える絶好の機会となった。イス
ラーム圏でも仏教文化に関心を抱くものはかなりおり、とりわけシルクロードを導入とし
て仏教に目を向けさせる手法は有効と感じた。21 世紀における仏教の可能性を追求するに
あたり、「仏教とイスラーム」という問題設定は今後大きな意味をもってくるであろう。
その意味で本年度のトルコでの調査研究は得難いものとなった。シンポジウム、全体研究
会、ユニット2研究会を通して多くの新視点が得られたが、それを次年度以降の活動に反
映させていきたい。
26
宮治
昭(サブユニット1)
中央アジアの仏教美術の生成と変容
仏教美術における異文化受容の様相に関する研究
1)大英博物館・ギメ美術館所蔵のガンダーラ美術の作例調査研究
2)第 2 回国内シンポジウム「中央アジアにおける仏教と異宗教の交流」における研究
発表、およびそれに関連した研究発表
3)第 4 回ユニット 2 研究会「文化財がつなぐ仏教アジア」コメンテーター
1)
ガンダーラを機軸として展開した仏教の拡がりを解明するための基礎作業とし
て、2010 年は大英博物館、ギメ美術館所蔵のガンダーラ美術の作例を対象に、
BARC ユニット2の研究目的の 1 つである仏教美術における異文化受容の様相の
追究に沿って、主に弥勒信仰の作例を中心として分析、研究をすすめた。研究成
果は2)と関連して 2 月 26 日(土)に開催される国内シンポジウムでの発表内
容に反映される他、以下が挙げられる。
宮治
昭「ガンダーラ美術研究の現状」『国華』1385 号(2011 年 3 月)
なお研究成果として、2010 年度に大英博物館、ギメ美術館の作例を調査した
BARC リサーチアシスタントの上枝いづみ氏より、BARC ワーキングペーパーに
研究報告が投稿される予定である。
2)
2011 年 2 月 26 日(土)に開催される国内シンポジウム「中央アジアにおける仏
教と異宗教の交流」では、宮治により、ガンダーラ美術の作例を取り上げながら
「中央アジアの仏教信仰と美術―涅槃図と兜率天の弥勒菩薩を中心に―」と題し
て研究報告を行う。
この他、橘堂晃一(龍谷大学アジア仏教文化研究センター博士研究員)氏により
「西ウイグル国の仏教
-弥勒信仰を中心に-」と題して、吉田豊(京都大学文
学研究科教授)氏より「マニ教絵画の世界」と題して報告が行われる。これら多
角的な報告から中央アジアにおける仏教美術の異文化受容の様相を明らかにする。
これに関連した研究成果として以下があげられる。
拙稿「中央アジアの仏教美術―弥勒信仰と美術・生死輪と宇宙的仏陀像・シル
クロードの守護神たち―」『新アジア仏教史 05 中央アジア
文明・文化の交差
点』所収、佼成出版社、2010 年 10 月
拙稿「西域の仏教美術―涅槃の美術を中心に―」『西域の響き』所収、自照出
版、2011 年 3 月予定
3)
2010 年 12 月 21 日(火)に行われた第 4 回ユニット 2 研究会「文化財がつなぐ仏
27
教アジア」にコメンテーターとして参加した。本研究会は、中央アジアの文化財
保存と情報発信に携わる代表者である、オマラ・ハーン・マスーディ(アフガニ
スタン国立博物館館長)氏、樊錦詩(中国敦煌研究院院長)氏、岡田至弘(龍谷
大学理工学部教授)の報告が一堂に会し、各方面の最先端の努力が紹介された貴
重な機会であった。3 者の報告に対し、龍谷ミュージアムでの取り組みを紹介し
ながら、中央アジアの文物が訴えている事柄に対して学術的な研究を続けると共
に,多くの人と共有できる形にしていく努力は続けられなくてはならないと総括
した。
以上が、2010 年度の研究概要である。以上を通じてガンダーラ美術を基軸として様々な
文化が混合し、新たに各地域において仏教文化を形成したあり方を再認識する機会に恵ま
れた。ガンダーラを基軸として展開した仏教の広がりを解明するための基礎作業は来年度
も継続される。また、ミュージアムでの活動に連携して、仏教文化財を保存し伝える今後
の可能性も明らかとなった。
村岡
倫(サブユニット2)
1)モンゴル国最古のチベット仏教寺院エルデニゾーの調査・研究
2)ドルノゴビ県ブレーニー・オボー遺跡の契丹文字碑文の発見
3)モンゴル国の仏教やその他の宗教事情の現地調査
1)
今年度は、2010 年 8 月 17 日から 24 日の日程でモンゴル国での現地調に赴いた。
モンゴル国側の協力機関である国際遊牧文化・文明研究所オチル氏、モンゴル国
科学アカデミー歴史研究所のオユンジャルガル氏との調整で、実質、首都ウラン
バートルを離れての野外調査は、18 日から 22 日までの日程しか取れず、今年は、
ハルホリン市のエルデニゾーへ直接行くことはできなかった。
しかし、エルデニゾー現地での調査自体は、報告者自身、これまでにも何度か
行っているので、今回は、それを踏まえた上での、ウランバートルに在住するエ
ルデニゾー研究者との研究交流を主な目的とし、モンゴル国科学アカデミー歴史
研究所のハタンバータル氏(『エルデニゾー史』というモンゴル語の著書がある)、
ウランバートル市ガンダン寺教育文化研究所所長ソニンバヤル・ラマの二人と会
見することができた。2 人とは、エルデニゾーの歴史と現状について意見交換し、
今後の研究課題について、いくつかの重要な示唆を得た。さらに、来年度以降の
調査・研究での協力を確認した。
2)
今年度の野外調査における最大の目的は、モンゴル国東南部、中国との国境近
くにあるドルノゴビ県サインシャンド市郊外のブレーニー・オボー遺跡の調査で
28
あった。オボーはモンゴル古来の宗教施設であり、その遺跡は漢文碑文を伴って
いるということで調査の対象とした。調査の結果、碑文は漢文ではなく、契丹文
字の碑文であり、清寧 4 年(1058)の日付が確認できた。契丹国は、モンゴル帝
国の前に、モンゴル高原を支配していた遊牧国家である。
契丹文字は、小字と大字の 2 種あるが、この碑文の文字は大字と考えられる。
契丹文字は、現存する史料が少なく、いまだ完全には解読されていない。その中
で、新たな史料の発見は大きな意義を持っていると言える。また、日付が確認さ
れたということは、この碑は、契丹人の墓誌である可能性もあり、ブレーニー・
オボーはその人物の墓を再利用したものである可能性も浮上してくる。契丹国は、
熱心な仏教国であったことが知られており、墓陵であれば、その信仰形態を知る
上でもたいへん重要な遺跡であると言えよう。
碑文の内容は、未解読の文字ということもあり、今のところ残念ながら日付以
上のことは分からないが、今後は、契丹文字研究者との連携をはかり、その内容
を解析したい。ブレーニー・オボー遺跡の調査は、発掘も含めて考えなければな
らず、考古学者との協力も必要であり、長期的な課題としたい。
なお、この契丹文字碑文の調査に関しては、近く、朝日新聞が文化面の記事と
して取り上げる予定である。
3)
その他、上記サインシャンド市内の博物館において、館員から、展示物の説明、
ならびに、当地の仏教の歴史や現状、あるいは古くから遊牧民が信仰するシャー
マニズムの歴史等の説明を受けた。
ウランバートル市でも、上記ソニンバヤル・ラマから、エルデニゾーに関する
ことだけではなく、モンゴル国におけるチベット仏教の研究状況、仏教教育に関
わる話を伺った。ソニンバヤル・ラマが所属するガンダン寺と並んで有名なウラ
ンバートル市内のチベット仏教寺院、チョイジン・ラマ寺院も参観し、現状調査
等を行った。
29
岡田至弘(サブユニット2)
30
能仁正顕(サブユニット 3)
チベット仏教の展開と現状に関する研究
1)活仏に関する小研究会の実施
2)第 3 回ユニット 2 研究会のコメンテーター
1)
10 月 5 日、第 1 回小研究会を開催した。ダワ・ツェリン(中国蔵学研究中心宗教
研究所副研究員・龍谷大学仏教文化研究所客員研究員・沼田奨学金受給者)、李学
竹(中国蔵学研究中心宗教研究所副研究員)および能仁の 3 名で行なった。活仏は
菩薩の化身とされる。例えば、親鸞や恵信尼が観音の化身とされるが、チベット仏
教の「活仏」の概念と彼らの存在がどのように共通し、また異なるのかについて議
論し、活仏の概念について検討した。
10 月 12 日、第 2 回小研究会を開催した。同メンバーが活仏の教義的背景につい
て議論した。インド仏教における「不住涅槃」「大悲闡提」「仏身論」の概念をめ
ぐって議論した。
12 月 7 日、第 3 回小研究会を開催した。12 月 16 日の研究発表に向け、タイトル・
項目・内容について、日本語への翻訳やチベットの表記、あるいは個々の内容につ
いて検討を行なった。
2)
2010 年 12 月 16 日に開催された第 3 回ユニット 2 研究会においてコメンテーター
をつとめた。発表者はダワ・ツェリン氏、発表題目は「チベットにおける活仏の位
階制度について」。チベットの活仏はすでに 800 年の歴史をもつが、活仏の位階制
度の実像については、文献資料が少なく、先行研究もほとんどないためその実態は
未だ明らかではない。ダワ氏は、活仏と位階制度の歴史的変遷、位階の変動を中心
に報告を行ない、現在の活仏をめぐる位階制度に至るまでには、歴史、外交、政治、
経済的な背景が複雑に関連していることを示した。この報告は多種多様な活仏が活
動し機能している状況を再認識させるとともに、従来の教理や哲学的な関心からの
活仏理解に対して新たな視座を提供するものとなった。
三谷真澄(サブユニット3)
1)大谷光瑞のトルコでの活動をテーマとした国際会議に協力
2)大谷探検隊将来品の旅順博物館所蔵の漢文仏典調査を行う
3)古典籍デジタルアーカイブ研究センターと連携して、旅順博物館所蔵非漢字資料の
デジタルアーカイブ化を進める。
4)IDP 会議、スダン先生の報告、ブータン国王女講演
31
1)
2010 年は、外務省の「トルコにおける日本年」にあたり、2 つの大谷光瑞師にか
かわる特別展が開催された。これまで外国で光瑞師がとりあげられるケースはな
く、海外初の展覧会となった。三谷は両方の企画に参画し展示品の学術情報提供
を行った。特に、ブルサ市博物館で開催された「ブルサにおける初のトルコ・日
本産業提携:ギョクチェン家と大谷光瑞」特別展については、開幕諸行事にも参
加し、9 月 16 日に同館で開催された学術シンポジウムのコメンテーターとして発
言した。この間、ブルサ市だけでなく、イスタンブル市内を含むトルコにおける
光瑞師の活動について調査し、関係者との交流を通じ多くの示唆を得た。
2)
について
2006 年に出版した『旅順博物館所蔵トルファン出土漢文仏典断片選影』以降に
判明した情報や、同時期・同地域を調査したドイツ隊の収集品の一部であるト
ルコ・イスタンブル大学図書館所蔵の漢文仏典写本の同定調査を行った。また、
12 月 24 日には、故百済康義教授と共に暫定目録を作成されたセルトカヤ教授と
面談し、図録出版についての同意を得、2011 年度中の刊行を目指して進めるこ
とになった。
3)
について
すでに 2009 年以来、古典籍デジタルアーカイブ研究センターと連携して、旅順
博物館所蔵資料の非漢字資料をデジタル撮影し、ガラスに夾入され写本資料の
紙色自体を再現するため、デジタル処理作業を開始している。また、2010 年よ
りウイグル、ソグド、ブラーフミーなど各文字の担当者に依頼して、資料の同
定調査に着手している。2011 年度には、研究成果報告を公開する予定で準備を
進めている。
4)
について
・IDP 会議における発表・・・2010 年 7 月に、大英図書館と龍谷大学との間で、
国際敦煌プロジェクト International Dunhuang Project(IDP)における「中央ア
ジア資料デジタル化に係る共同プロジェクト」の覚書が締結され、IDP-Japan
の契約が継続された。併せて、国際シンポジウムが開催され、7 月 13 日に、
三谷は「龍谷大学と旅順博物館の非漢字資料-その意義と保存状況」と題する
発表を行った。これまでの漢字資料の研究成果と現在進行中の非漢字資料に関
する共同研究の中間報告を行った。
・ BARC 会議のコメンテーター・・・10 月 9 日に開催された「アジア仏教の
現在Ⅰ」パネルディスカッションにおいて、スダン・シャキャ氏が行った「ネ
パール仏教の現状と課題」に対するコメンテーターとして参加した。現在の
ネパールは、インド由来の伝統的仏教のほか、チベット仏教、上座仏教の 3
つの仏教が共存している。その中で、信者レベルでの信仰形態について種々
32
議論された。
・ブータン王女講演会コーディネーター・・・当初の年次計画では盛り込まれ
ていなかった、ブータン王女の講演会を共催した。これは、京都大学総合地球
環境学研究所・京都府・京都市など 7 団体が主催する「KYOTO 地球環境の殿
堂」第 2 回表彰者として招待された第 4 代ブータン国王・ジグミ・センゲ・ワ
ンチュック氏の名代として出席された、アシ・ケサン・チョデン・ワンチュッ
ク王女殿下による記念講演会である。講題は、「仏教国ブータン王国の国民総
幸福度(GNH)政策―仏教思想の理念が国民総幸福度政策にどの様に活かされ
たのか ―」であり、ユニット 2 関連事業として、三谷がトークセッションコ
ーディネーターをつとめ、桂センター長や、鍋島直樹・人間科学宗教総合研究
センター長にコメントや質問を依頼し、全体の統括を行った。GNH 政策を実
行するための 4 つの柱、9 つの領域、72 の指標について紹介され、仏教国ブー
タンの取り組みが仏教の教義に根ざしたものであることが再確認された。
以上が、2010 年度の研究概要であるが、概ね、当初予定していた学術研究は順調に遂行
され、旅順博物館など世界に分蔵される中央アジア出土文献資料の同定調査を進めること
ができただけでなく、IDP 会議や BARC 会議、ブータン王女の講演会などを通して、アジ
ア各地に展開している仏教のあり方を知る機会に恵まれ、今後の方向性をも占う有意義な
1 年であったと総括できる。
4.ユニット2研究会リスト
第1回
ユニット 2(中央アジア地域班)研究会
『国際敦煌プロジェクト
研究シンポジウム』
「大谷探検隊と IDP」部会
■報告者・報告題目:
三谷真澄「龍谷大学と旅順博物館の非漢字資料-その意義と保存状況」
橘堂晃一「契丹大蔵経とウイグル仏教」
入澤
崇「オーレル・スタインと大谷探検隊」
■開催場所:龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■開催日時:2010 年 7 月 13 日(火)9:10~12:30「大谷探検隊と IDP」部会
(IDP 日程:12 日(月)13:00~16:20,13 日(火)9:10~12:30,13:00~17:00)
■参加人数:120 人
第2回
ユニット 2(中央アジア地域班)研究会
■報告題目:モンゴル国最古のチベット仏教寺院エルデニゾー研究の現状とその意義
■報告者
:村岡
倫(龍谷大学文学部教授)
■開催場所:龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■開催日時:2010 年 12 月 9 日(木)16:45~18:15
■参加人数:13 人
33
【コメンテーター】入澤
第3回
崇(龍谷大学文学部教授)
ユニット 2(中央アジア地域班)研究会
■報告題目:チベットにおける活仏の位階制度について
■報告者
:ダワ・ツェリン(中国蔵学研究中心宗教研究所副研究員、龍谷大学仏教文化
研究所客員研究員・沼田奨学金受給者)
■開催場所:龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■開催日時:2010 年 12 月 16 日(木)15:00~16:30
■参加人数:71 人
【コメンテーター】能仁
第4回
正顕(龍谷大学文学部教授)
ユニット 2(中央アジア地域班)研究会
『文化財がつなぐ仏教アジア』
■報告者・報告題目:
1. オマラ・ハーン・マスーディ(アフガニスタン国立博物館館長)
「アフガニスタンの文化財」
2. 樊錦詩(中国敦煌研究院院長)
「敦煌の文化財」
3. 岡田至弘(龍谷大学理工学部教授)
「科学技術で甦る仏教世界」
■開催場所:龍谷大学大宮学舎清和館 3F ホール
■開催日時:2010 年 12 月 21 日(火)13:15~16:30
■参加人数:97 人
【ファシリテーター】入澤
【コメンテーター】宮治
崇(龍谷大学文学部教授)
昭(龍谷大学文学部教授)
34
ユニット3(東アジア地域班)研究実績
ユニットリーダー
佐藤智水
1. 本年度の研究目標
本年度共通研究テーマ「変革期における仏教」
① インドから伝播した仏教が「形尽神不滅」「因果応報」「悉有仏性」「法身」等の新
思潮によって人々に与えた衝撃とその反応から、中国人の初期仏教理解のズレを読み
解いていく(サブユニット 1)
② 身分差別・貧困・苛政・天命観等によって発想を縛られていた人々に、人間としての
目覚めを促す解放思想として仏教が浸透していく様態を明らかにし、それが7世紀以
降どのように変化していったかを探る(サブユニット 1)
③ 三国~統一新羅時代の仏教教団の動向を探り、思想・信仰と社会との関係を研究する
(サブユニット 2)
④ 律令体制下における僧尼令の成立過程や内容に関する資料を収集整理し、その機能等
について問題点の整理を行う(サブユニット 2)
⑤ 中世以降の日本仏教の基調となる一乗思想の受容を最澄の事績を通して考察する(サ
ブユニット 2)
⑥ 平安時代末期から鎌倉時代にかけて成立した、いわゆる「鎌倉仏教」について、政治
権力との関係及び社会との交渉を考察する(サブユニット 2)
⑦ 近世・近代における仏教の社会的定着の過程を分析・検討し、その社会的機能を解明
する(サブユニット 2)
2.本年度研究業績
サブユニット 1(中国)では、中国古代・中世(漢魏南北朝隋唐時代)において、民衆
のエネルギーによって独創的展開を見せた中国仏教の諸相を明らかにするため、以下の報
告を行った。
第 1 回 ユニット 3 研究会において、佐藤智水は「中国中世仏教の展開にみる社会史的意
義-任継愈主編『中国仏教史』に対する一見解-」と題して報告を行った。佐藤は自身の
フィールドワークを通じて、竺道生が先導した「悉有仏性」が身分制の枠を越え、民衆に
極めて大きな影響を与えたことを指摘した。また「悉有仏性」
「因果応報」などの思想を通
して、民衆が自己に許された範囲で自らを解放し、それぞれの歴史時代において主体的に
活動していた様子を、山西省太谷県塔寺石窟の例を取り上げて報告した。なお、本報告の
コメンテーターは、中川修・長谷川岳史が務めた。
35
第 2 回 ユニット 3 研究会において、長谷川岳史は「中国における仏身観の展開とその多
様性」と題して報告を行った。長谷川は中国における仏身観研究において、鳩摩羅什以前
の仏身観の検討が不十分であることを指摘し、中国における仏身観の展開の起点として「老
子化胡」説と「形尽神不滅」論に着目して、隋代の諸師の多様な仏身観を整理した。中国
における仏教思想については、インドにおける思想的展開の影響下でそれを受容してきた
と理解される傾向がある。長谷川は、インドから伝播した仏教の中国側の需要に基づく受
容のあり方を読み解き、中国仏教思想史、あるいは日本仏教思想史の再構築の可能性につ
いて言及した。なお、本報告のコメンテーターは、佐藤智水が務めた。
以上の報告は、「形尽神不滅」「因果応報」「悉有仏性」「法身」などの思想を通して、
中国初期仏教受容と民衆への浸透の様相を明らかにするものであり、本年度研究目標①②
に該当する。中国仏教の独創性・多様性を考察する上で始点となる研究である。
また、佐藤智水・長谷川岳史・市川良文は、2011 年 2 月 26 日から 3 月 8 日にかけて中
国山東省において仏教石刻資料の調査を行った。この調査によって得られた成果の一部は、
ワーキングペーパーとして報告を行う予定であり、また後述の中国仏教石刻研究会の基礎
資料として利用される。
サブユニット 2(朝鮮・日本)では、朝鮮および日本における仏教の果たした多様な役
割と現代的可能性を明らかにするため、以下のような報告を行った。
藤能成は、2010 年 8 月 22 日から 9 月 3 日にかけて韓国仏教の現状に関する現地調査を
行った。そしてその調査内容に関して、龍谷大学アジア仏教文化研究センター設立記念シ
ンポジウム「アジア仏教の現在Ⅰ」において、「韓国仏教の現状と課題」と題して発表を
行った。藤は古代から現代に至る韓国の宗教政策の変遷を概観し、多様な宗教が混在する
現代韓国における仏教教団のあり方や布教状況などについて報告した。調査結果および発
表内容に関しては、藤がワーキングペーパーとして公開している。
また、藤は「仏智疑惑を超える道-元暁と親鸞の場合」(
『印度學佛教學研究』59(1)、
2010 年 12 月)において、元暁と親鸞の説く仏智疑惑を克服する道を比較して、その共通
性を指摘し、仏智とは人間をあるべき生き方へと導く普遍的な働きであることを指摘した。
これは、新羅浄土教の先駆者である元暁と、鎌倉仏教の第一人者である親鸞の思想を対比
することによって、仏教の普遍性を指摘するものであった。
藤の報告は、朝鮮の新羅時代と日本の鎌倉時代の仏教思想の展開を明らかにするもので
あり、本年度研究目標③⑥に該当する。また、
「現代における韓国仏教の問題点とその可能
性について検討する」という、ユニット 3 平成 26 年度研究目標とも関連する報告であった。
第 3 回 ユニット 3 研究会において、末木文美士氏(国際日本文化研究センター教授)は
「天台本覚思想論」と題して報告を行った。末木氏は本学思想研究史を振り返り、研究者
によって「本覚思想」の捉え方が様々であることから、本覚思想は必ずしも同一視できな
い違うタイプの思想動向の中にあるのではないかと指摘した。そこで末木氏は、日本中世
の禅と密教の関係を指摘し、天台・禅・密教という広い視野からの本覚思想研究を試み、
今後の天台本覚思想研究の方向性を提示した。なお、本報告のコメンテーターは、淺田正
博が務めた。
末木氏の報告はこれまでの天台本覚思想研究を振り返り、本覚思想の諸相を明らかにす
36
るものであり、本年度研究目標⑤に該当する。また、末木氏の示した広範な視野に基づく
天台本覚思想研究は、ユニット 3 の次年度以降の継続テーマである、日本天台における「一
乗真実」確立の過程を分析・考察するための基盤となるものである。
第 4 回ユニット 3 研究会において、「日本における神仏習合の歴史的検証」と題した討
論会が行われた。ここでは、
「歴史学・仏教学・美術史学的観点から東アジア各地で展開し
た仏教の歴史的特質と現代的課題を探る」というユニット 3 全体研究目標と関連し、神仏
習合の歴史的検証について各研究分担者が報告を行った。中川修が古代、下間一頼氏(龍
谷大学仏教文化研究所客員研究員)が中世、山下立氏(滋賀県立安土城考古博物館学芸員)
が美術、そして赤松徹真が近現代を担当した。
本研究会は、奈良時代から平安・鎌倉、そして近現代に至る「神仏習合」の展開に注目
し、朝鮮半島や中国の事例と比較しながらその独自性を明らかにし、日本の宗教の特色で
ある重層性を指摘するものであり、本年度研究目標④⑥⑦に該当する。また、
「仏教の宗教
的寛容性と日本社会への定着について考察する」というユニット 3 全体研究目標とも合致
し、日本仏教の多様性を指摘するものであった。
以上、本年度の研究目標はおおむね達成され、次年度以降の継続テーマとなるものに関
しては基礎的作業が完了した。更に以下に示すとおり、次年度以降の研究目標に関連する
活動を行った。
第 5 回 ユニット 3 研究会において、寧欣氏(北京師範大学歴史学院教授)は「唐代城市
寺院の社会功能及びその延伸」と題して報告を行った。唐代以降の寺院が単なる信仰のみ
ならず、都市構造の中でどのような役割を担っていたのかという点を明らかにした本報告
は、ユニット 3 平成 24 年度の研究テーマである「地域社会と仏教」と密接に関連し、僧と
住民の関係、あるいは寺院の果たした役割や地域社会のネットワークを解明する上で重要
な意義を持つ。なお、本報告のコメンテーターは、木田知生が務めた。
またユニット 3 では、研究の教育への還元および研究者育成の一環として、大学院生と
学部生を対象とした「中国仏教石刻研究会」を定期的に開催している。本研究会は、特に
仏教が中国の地域社会に普及し始めた重要な時期である、中国北朝時代の造像碑や僧尼の
墓誌など仏教関係の石刻文を中心に取り扱い釈読を行っている。釈読を通して、中国にお
ける民衆仏教の展開を解明し、身分・民族を越えた人々の多様な仏教信仰のあり方を明ら
かにすることが本研究会の目的である。これは、ユニット 3 平成 23 年度の研究テーマであ
る「国家と仏教」と関係し、君主・仏教・民衆の関係の推移を明らかにする上で基礎的な
作業であり、次年度以降も継続して開催する。
37
3.ユニット3研究会リスト
第 1 回 ユニット 3 研究会
■報告題目:中国中世仏教の展開にみる社会史的意義
-任継愈主編『中国仏教史』に対する一見解-
■報告者
:佐藤智水(龍谷大学文学部教授)
■開催場所 :龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■開催日時 :2010 年 7 月 22 日(木) 13:15-14:45
■参加人数 :29 人
【コメンテーター】中川修(龍谷大学文学部教授)
長谷川岳史(龍谷大学経営学部准教授)
第 2 回 ユニット 3 研究会
■報告題目:中国における仏身観の展開とその多様性
■報告者
:長谷川岳史(龍谷大学経営学部准教授)
■開催場所:龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■開催日時:2010 年 10 月 7 日(木) 16:45-18:15
■参加人数:37 人
【コメンテーター】佐藤智水(龍谷大学文学部教授)
第 3 回 ユニット 3 研究会
■報告題目:天台本覚思想論
■報告者
:末木文美士(国際日本文化研究センター教授)
■開催場所:龍谷大学大宮学舎清和館 3 階ホール
■開催日時:2010 年 10 月 15 日(金) 15:00~16:30
■参加人数:160 人
【コメンテーター】淺田正博(龍谷大学文学部教授)
第 4 回 ユニット 3 研究会
■報告題目:日本における神仏習合の歴史的検証
■報告者
:中川修(龍谷大学文学部教授)<古代>
下間一頼(龍谷大学仏教文化研究所客員研究員)<中世>
山下立(滋賀県立安土城考古博物館学芸員)<美術>
赤松徹真(龍谷大学文学部教授)<近現代>
■開催場所:龍谷大学大宮学舎清和館 3 階ホール
■開催日時:2010 年 10 月 20 日(水)9:00~10:30
■参加人数:72 人
第 5 回 ユニット 3 研究会
■報告題目:唐代城市寺院の社会功能及びその延伸
38
■報告者 :寧欣(北京師範大学歴史学院教授)
■開催日時:2010 年 11 月 19 日(金) 15:00~16:30
■開催場所:龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
■参加人数:51 人
【コメンテーター】木田知生(龍谷大学文学部教授)
中国仏教石刻研究会
第1回
報告題目:□洪徳造釈迦如来像記
※□は欠字
■報告者:桐原孝見(龍谷大学文学研究科修士課程)
吉岡慈文(龍谷大学文学部史学科仏教史学専攻 4 回生)
■開催場所:龍谷大学大宮学舎仏教史学合同研究室
■開催日時:2010 年 7 月 3 日(土)14:00~17:00
■参加人数:13 人
第2回
報告題目:北魏永安二年大覚寺元尼墓誌銘并序
■報告者:赤羽奈津子(龍谷大学文学研究科博士後期課程)
■開催場所:龍谷大学大宮学舎仏教史学合同研究室
■開催日時:2010 年 8 月 7 日(土)14:00~17:00
■参加人数:9 人
第3回
報告題目:大魏故昭玄沙門大統令法師墓誌銘
■報告者:倉本尚徳(アジア仏教文化研究センター博士研究員)
■開催場所:龍谷大学大宮学舎仏教史学合同研究室
■開催日時:2010 年 9 月 20 日(月)14:00~17:00
■参加人数:6 人
第4回
報告題目:劉未等造像碑
■報告者:桐原孝見(龍谷大学文学研究科修士課程)
■開催場所:龍谷大学大宮学舎仏教史学合同研究室
■開催日時:2010 年 12 月 18 日(土)14:00~17:00
■参加人数:11 人
第5回
報告題目:僧暈等造像記/張道智造像記
■報告者:桐原孝見(龍谷大学文学研究科修士課程)
佐藤智水(龍谷大学文学部教授)
■開催場所:龍谷大学大宮学舎南黌 102 教室
■開催日時:2011 年 1 月 10 日(月)14:00~17:00
■参加人数:11 人
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第6回
報告題目:馬鳴寺根法師碑
■報告者:高橋亮介(龍谷大学文学研究科博士後期課程)
■開催場所:龍谷大学大宮学舎仏教史学合同研究室
■開催日時:2011 年 2 月 5 日(土)14:00~17:00
■参加人数:9 人
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41
I
研究総会
第1回
研究総会
開催日時
2010 年 6 月 5 日(土)14:00~18:00
開催場所
龍谷大学大宮学舎清風館 3 階 301 室
参加人数
24 人
【研究総会の概要】
本プロジェクト第 1 回の研究総会は,桂紹隆センター長(龍谷大学文学部教授)のプロ
ジェクトの趣旨説明にはじまり,各ユニットリーダーから本年度の研究計画が発表された。
その後に行われた岡田至弘氏(龍谷大学理工学部教授)による報告「地図情報の活用事例
時空間-OpenTimeMap 」では,アジア仏教歴史文化資料地図の作成が提案され,意見交
換がなされた。以下はその概要である。
【報告と議論の概要】
近年,地図アーカイブ(電子国土画像,Google Map,Google Earth)など GIS システムが
様々な分野で活用されている。しかし従来の活用とその公開にはアクセシビリティに問題
がある。また地図が画像として扱われてこなかったという側面もある。そこでデジタルア
ーカイブを研究・教育に活用する方法の一環として平面地図に時間軸を取り入れた
TimeMap が紹介された。
TimeMap はシドニー大学など複数機関によって開発された。これを利用することにより,
Cultural Atlas あるいは Historical Atlas に時間軸を取り入れた地図をヴィジュアル化するこ
とが可能となる。会場では,実際に作成された韓国,中国,モンゴルの TimeMap も併せて
紹介された。
しかし,シドニー大学の TimeMap にはアクセシビリティになお問題が残る。そこで
SIMILE の TimeMap と Google Earth を利用したアジア仏教歴史文化資料地図の作成が提案
された。現在進行中の混一疆理歴代国都之図プロジェクトも同様に時間軸とテキストデー
タを組み込んだものを構想しており,将来的には Web 公開を計画していることが報告され
た。
以上の岡田氏の報告に対し,次のような意見交換がなされた。まず,本プロジェトにか
かわるアジア仏教歴史文化資料地図を作成する場合に,写真やテキストなどの研究成果や
第一次資料をどのように組み込めばよいのか,という質問がなされた。
これに対し岡田氏は,様々な資料を倉庫に組み込み,いかにグループ作業をしていくか,
テキストを共有していくかが大事であり,表面的には仏教文化に関する歴史地図が出てく
るような形が望ましく,龍谷大学の持っている古地図の活用も考えている,と述べた。
42
また,テキストを共有する必要があると
はどういう意味か,専門的な情報を誰がど
う入力することができるのか,という質問
に対しては,一般的なテキスト(年表など)
と具体的なテキスト(旅行記など)の両方
を考えている。入力については,入力者の
専門性などを考慮して,資料の内容を吟味
し整理して行う。これまでの TimeMap は特
殊なものが多かったので,これからは Web
公開が大前提となる。その場合セキュリテ
ィが問題となる。簡単なエディターを Web で公開し,登録制で入力していくような形も考
えられる,と述べた。
その他,中国であれば地方志などで,すでにデータベース化されているものもあるので,
その活用も考えられる,という意見もあった。
この岡田氏の報告を契機として,本プロジェクトでは,龍谷大学古典籍デジタルアーカ
イブ研究センターの協力の下に,時空間情報処理システムによる文化資料アーカイブの研
究を進めていく。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
43
第2回
研究総会
開催日時
2011 年 2 月 23 日(火)14:00~17:00
開催場所
龍谷大学大宮学舎清風館 3 階 301 室
参加人数
23 人
【研究総会の概要】
本プロジェクト第 2 回の研究総会は,長谷川岳史事務局長(龍谷大学経営学部教授)の
開会挨拶にはじまり,桂紹隆センター長(龍谷大学文学部教授)から本年度プロジェクト
の活動報告がなされた。引きつづいて,各ユニットリーダーからそれぞれのユニットの本
年度の活動について報告があり,各報告に対して質疑応答がなされ,本年度の活動の成果
と来年度以降の課題が明確にされた。そして最後に,木田知生副センター長(龍谷大学文
学部教授)の閉会挨拶で締めくくられた。各報告の詳細については,研究報告書を參照い
ただきたい。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
44
Ⅱ
全体研究会
第1回
全体研究会
報告題目
多様化した仏教の現代的自律性について-オウム事件から何を学ぶのか-
開催日時
2010 年 6 月 8 日(火)17:00~19:00
開催場所
龍谷大学大宮学舎本館講堂
報告者
佐々木閑(花園大学教授)
参加人数
110 人
【ファシリテーター】桂紹隆(龍谷大学文学部教授)
【コメンテーター】
若原雄昭(龍谷大学理工学部教授)
入澤
崇(龍谷大学文学部教授)
佐藤智水(龍谷大学文学部教授)
【報告のポイント】
現在,世界各地にひろまった仏教は,多様な様相を呈している。報告者の佐々木閑氏は,
こうした多様化した仏教の根本要因について,仏教僧団の分裂を意味する「破僧」の定義
が変化していく過程に着目する。そのうえで仏教の多様化の最末端といえる日本のオウム
真理教の教団運営の問題点を取り上げ,仏教の現代的自律性についても課題を提起した。
【報告の概要】
インド仏教史上,仏教僧団の分裂を意味する「破僧」には,『十誦律』巻三十七にみられ
るように,仏説に反する見解を主張して独自の集団を形成する「破法輪(cakrabheda)」と,
『摩訶僧祇律』巻三十二にみられる,一つの僧団内で別個に布薩などの僧団行事を行う「破
羯磨 (karmabheda)」という二つの定義が存在した。律文献の比較分析からは,前者がより
古い定義で,それが後に後者の定義に変更されていったことがわかる。この事実は,僧団
和合を勧めるアショーカ王碑文(分裂法勅)からも確認されることから,この大きな変化
はアショーカ王時代に起きた可能性が高いと,佐々木氏は言う。
また,佐々木氏は,この「破僧」の定義の変化に関して以下のような仮説を立てる。
かつて仏教僧団の間に争いが起こると,「破法輪」の定義に基づいて互いに「破僧集団」と
非難しあっていた。しかし破僧の定義を「破羯磨」へ変更することで,集団行事にさえ参
加していれば,異なる教義を主張するものが同じ僧団で居住していても支障はない,とい
う通念を持つに至った。要するに教義を一本化せずに和合することが可能となる構造が新
たにできあがった。この仮説の妥当性は,『ディーパヴァンサ』などの歴史書や『婆沙論』
によって,補強することができる。
破僧定義の緩和は,「教えの単一性」というタガで締められていた仏教世界に,よりゆる
やかな「儀礼通過」というタガをはめることになった。このタガの変容こそが,部派仏教
の展開や大乗仏教の発生という,仏教の多様化の要因となっていった。つまり,組織の多
様化とは,旧来のタガが,より緩い別のタガに取って代わられることによって生じる分裂
現象である。多様化の実相をつかむためには,タガの変化を見る必要がある,と佐々木氏
は分析する。
この分析を受けて,佐々木氏は,現代にも続く仏教の多様化の一例として,オウム真理
教の事例を取り上げた。オウム真理教の教理自体を非仏教的と批判することはできない。
なぜならば教えの違いはタガにならないからである。しかし,その出家制度をみると,出
家時に全財産を提出させ,家族とも絶縁させた事例がある。現在の多様化した日本仏教に
おいても,かろうじて共通していたタガとは「出家者は,布施(いただいたもの)によっ
て生きる」という姿勢で社会と関係するという生活態度であった。オウム真理教はこのタ
ガをはずし,組織としての新たなタガを何も用意しなかったことで,社会と軋轢を起こし
ていった。
以上,本報告は,その実相を総体的に捉えることが困難となっている仏教の多様化の要
因が,「破僧」定義の転換と,それにともなう「タガ」の変化の過程にあることを立証して
いる。
また,仏教の多様化の一端にオウム真理教を位置づけ,旧来のタガに変わる新たなタガの
不在が引き起こす事態としてオウム事件を分析したことにより,事件が顕在化するまで静
観し,未だこの事件に対する評価が不十分と言わざるを得ない日本仏教の自律性の脆弱さ
を露呈させた。
このような状況の反省から現代における出家の定義や仏教と社会との関係のあり方を構
築し直すことが,多様化した仏教の現代的自律性を考える上で喫緊の課題である。
【議論の概要】
若原雄昭氏は,インド仏教においては,今回の考察に用いられた律資料などには,ニカ
ーヤというものを超えた多様性を容認するという意識はみられるのかという質問を行った。
これに対し佐々木氏は,大乗思想はニカーヤの分類を超えた多様性とみられると述べた。
さらに若原氏は,その出家の在り方が歪んでいたにしろ,オウム真理教は出家なき日本仏
教に出家を突き付けてみせた点で衝撃的であったと述べた。佐々木氏はその出家を持ち込
んだ点に若い人が惹き付けられたことは考慮すべきものであり,オウム真理教の出家の方
法が間違ったものだと入信した人たちが気付かなかったことは本人たちのみの責任ではな
く,我々も十分斟酌すべき問題と述べた。
46
入澤崇氏は,アショーカ時代に破僧の定
義が変容した背景について,インド世界と
非インド世界の接触,相互間の葛藤も関係
があるのではないかという指摘を行った。
さらに,佐藤智水氏は,オウム事件が 1980
年代半ばから 90 年代はじめという社会の比
較的安定した時期に起こったことに対し,
中国南北朝期における類似の事例を挙げつ
つ,社会の転覆・破壊を志向する宗教集団
が,なぜ安定した社会背景のもとに出現するのかという新たな問いを提起した。そして,
地域的・時代的社会状況との関連についても視野に入れる必要性が喚起された。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第2回
全体研究会
報告題目
「中国における崇仏と排仏―なぜ,仏教は排斥されるのか―」
開催日時
2011 年 1 月 13 日(木) 17:00~18:30
開催場所
龍谷大学大宮学舎本館講堂
報告者
木村宣彰(大谷大学名誉教授・前学長)
参加人数
74 人
【ファシリテーター】桂紹隆(龍谷大学文学部教授)
【コメンテーター】
若原雄昭(龍谷大学理工学部教授)
入澤
崇(龍谷大学文学部教授)
佐藤智水(龍谷大学文学部教授)
【報告のポイント】
文化13年(1816)頃,武陽隠士なる人物によって記された『世事見聞録』には,当時の
寺社の様子や僧の豪奢な生活が描写され,「今の世にては神仏はもはや国賊である」と痛
烈な批判が記されている。一方,塚本善隆氏は「今日の仏教の研究は隆盛である。しかも、
これは明治初年の廃仏毀釈のおかげであると思う」と述べている。
武陽隠士から見ると好き放題していた仏教が,半世紀後の明治初年には排仏されるとい
うのは,如何なる意味を持っているのか。木村宣彰氏は,中国における崇仏・排仏の推移
について魏晋南北朝時代を中心に解説し,現代仏教が担うべき課題を提起した。
【報告の概要】
中国では仏教伝来以降,大きな排仏はなかった。それは,未だ仏教の影響力が大きくな
く,黄老思想と同様に不死長生の信仰と理解されていたためであると木村氏は述べる。習
鑿歯「与釈道安書」(『弘明集』巻12)は,東晋明帝の崇仏の様子を伝えているが,これ
は中国仏教史における一つの転換点であり,何らかの契機があったと考えなければならな
い。
その原因として,木村氏は永嘉の乱以降の五胡の侵入を挙げた。このような状況から,
東晋では外来の宗教である仏教に対する関心が高まり,とりわけ因果応報という思想は王
侯貴族に大きな衝撃を与えた。
やがて避役・免税のための出家者が現れ,真の沙門とは言えない者が多くなると,沙門
を選別する「沙汰」の問題が起こる。同時期の北方では,法顕が戒律によって教団のあり
方を律しようとしており,中国全土で同様の問題が発生していた様子が想起される。
一方,北方の後趙の石勒・石虎は,神異僧である仏図澄を崇敬していた。その後,前秦
苻堅・後秦姚興は大軍を動員して釈道安・鳩摩羅什を求めた。一見,石勒・石虎や苻堅,
姚興は崇仏者のように見えるが,それは神異僧の力によって国の繁栄を図ることが目的で
あった。木村氏は,北涼の沮渠蒙遜が『涅槃経』を求めてインドに行きたいと言った曇無
讖を暗殺した例を挙げ,これが果たして真の崇仏と言えるのか疑問であると指摘する。
このように,北方では「役に立たなければ切り捨てる」という論理で排仏が実行された
48
が,その契機となるのは南方の「沙汰」の問題に見られるような僧個人の資質,「人間」
の問題である。この風潮は,やがて「三武一宗の法難」を発生させるに至った。
こうした仏教の抱える問題については,顔之推『顔氏家訓』帰心篇に指摘がある。中で
も,僧尼の修行が粗雑で純粋さに欠けている点,金銀を贅沢に使って,租税や労役を避け,
国益に反している点は,『世事見聞録』にも見え,現代にも通じる問題である。この問題
に対して信念を持って説くことが,仏教に対する信仰を喚起する契機となると木村氏は提
言した。
今日,政治や外交における様々な問題が噴出しているが,その根本には「人間の劣化」
が影響していると木村氏は言う。人間が立派にならなければ,国の有様も立派にならない。
空海は「物の興廃は人に由る」と記しており,その人を育てるのは偏に仏法であると言う。
こうした点を考慮すれば,「仏教」によって「人を育てる」仏教系の大学が担う使命は大
きいと木村氏は提言した。
以上,本報告は北朝・南朝の状況を対比することによって,中国における崇仏・排仏の
諸相を描き出し,そこから「人を育てる」という現代仏教,とりわけ仏教系大学の果たす
べき役割について提起するものであった。
【議論の概要】
佐藤智水氏は,桓玄が仏教教団の堕落を述べている箇所で「避役は百里に鍾り,逋逃は
寺廟に盈つ」という記載から,当時の仏教教団が社会矛盾を引き受ける一つの窓口になっ
ていた可能性を指摘した。また,翻って現代において,困ったときに寺院に駆け込む人が
どれくらいいるかということを考えると,現代の問題としても考える余地があるのではな
いかと提起した。
若原雄昭氏は,中国の仏教において,国家仏教と民衆レベルと攘災招福の仏教,そして
そのどちらでもない,本来の人間の内面を問うような仏教の理解というものがどのような
形で展開し,受け継がれていたのかという根本的な疑問が喚起されると述べた。
入澤崇氏は,破仏王プシャミトラと崇仏王アショーカが『雑阿含経』や『阿育王経』な
どではセットで出てくる例や,エフタルの破仏の例を挙げ,崇仏と破仏は背中合わせにな
っていると指摘した。我々は護国仏教と破仏を別に考えがちであるが,仏教者の方が破仏
を述べることによって仏法興隆を願おうとしたと考えると,護国と背中合わせの破仏とい
う可能性を想起させられる報告であったと述べた。
以上のような指摘を受けて,木村氏は改めて排仏の後に仏教が興隆するという点を強調
した。木村氏は,現在,我々は緩やかな排仏の中におり,それをどう打破していくかとい
うことが大きな課題ではないかと述べた。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
49
Ⅲ
シンポジウム
第1回
国内シンポジウム 「アジア仏教の現在Ⅰ」
■報告者・報告題目
中村尚司(龍谷大学人間・科学・宗教綜合研究センター研究フェロー)
「東南アジア上座仏教の現状と課題」
スダン・シャキャ(東北大学・日本学術振興会外国人特別研究員)
「ネパール仏教の現状と課題」
藤
能成(龍谷大学文学部教授)
「韓国仏教の現状と課題」
■パネルディスカッション:「アジア仏教の現在」
ファシリテーター:入澤
崇(龍谷大学文学部教授)
パネリスト:中村尚司,スダン・シャキャ,藤
林
能成
行夫(京都大学地域研究統合情報センター・センター長〈教授〉
)
三谷真澄(龍谷大学国際文化学部准教授)
淺田正博(龍谷大学文学部教授)
■開催場所:龍谷大学大宮学舎清和館 3 階ホール
■開催日時:2010 年 10 月 9(土)13:00~17:10
■参加人数:120 名
【報告のポイント】
アジア各地の仏教の現状と課題を探るため,
「アジア仏教の現在Ⅰ」と題して本センター
の設立記念シンポジウムを開催した。シンポジウムは,中村尚司,スダン・シャキャ,藤
能成の三氏により,東南アジア,ネパール,韓国の仏教の現状と課題に関する報告があり,
その内容をうけて,入澤崇氏をファシリテーターとして,
「政治と仏教」
,
「民衆と仏教」,
「仏
教界の社会活動」という 3 点を主なテーマとしてパネルディスカッションが行われた。
【報告の概要】
中村尚司氏は,現在大きな転換期を迎えているスリランカや東南アジアの上座仏教の現
状とその課題について報告を行った。スリランカと東南アジア諸国は伝統的に上座仏教を
介して相互に交流してきた経緯を持つ。ところが近年,スリランカでは僧侶が政界へ進出
し,タミル人の分離独立運動に対して民族主義を鼓吹する。旧来の戒律の枠にとどまらな
い彼らの社会活動は,旧仏教の代表であるブッダゴーサの戒律体系に対する批判を生みだ
した。またタイにおいても,第 2 次世界大戦前からブッダダーサ師を先頭に社会活動が推
し進められ,ベトナム戦争を契機として活動が拡大した。現在ではタイ仏教はエンゲージ
50
ド・ブッディズムの世界的センターとなっている。ただし多様な階層が僧侶となるため,
仏教の形骸化という課題も併せ持つ。ビルマ(ミャンマー)でも出家者は政治活動に参加
しないことが伝統であったが,軍事政権による民衆抑圧と仏教弾圧に対し布施の受取を拒
否する「覆鉢」という抵抗に打って出た。現在でも托鉢が寺院経済を実質的に支えている
ため,この政治行動の持つ意味は非常に大きい。ビルマの仏教僧たちは現在でも絶望的な
闘争を継続している。最後に中村氏は,現代のアジア仏教が抱える様々な問題を考える上
で指針となるのは,国際エンゲージド仏教ネットワーク(INEB)のジョナサン・ワッツが
提言する「積極的な非統合(Positive Disintegration)」であるとし,それを体現していたアシ
ョーカ王の政治理念に注目したいと語る。「仏教」という枠組みを超えて多様な信仰と対話
していく姿勢こそが,仏教の教えを現代に生かしていく道であるとの提言がなされた。
スダン・シャキャ氏は,2006 年に長らく続いていた王政が廃止されたネパールの仏教の
現状に関して報告を行った。氏によると,ネパールはヒンドゥー教徒が全宗教人口の 8 割
を占めるのに対し,仏教徒は 1 割であり,その仏教には,新興のテーラヴァーダ仏教(上座
仏教)と,チベット系仏教と,ネパール伝統仏教の 3 種類が存在する。テーラヴァーダ仏教(上
座仏教)は複雑な宗教儀礼が存在せず,種族・民族・カーストを問わず誰でも僧になれるな
ど開放的で,民衆から広く支持を受け,チベット系仏教もカトマンドゥ盆地を中心にネワ
ール人の間にも浸透し年々信徒が増加している一方,ネパール伝統仏教はインド伝来の大
乗仏教と密教の伝統を最もよく受け継ぐが,僧になれる資格はヴァジュラチャールヤの家
系に生まれた者に限定され,檀信徒も世襲であり信者は年々減少しているということであ
る。今後のネパール伝統仏教の課題として,伝統を守る一方,専門的知識を有する人材の
育成など新しいあり方を模索する必要があるとの指摘がなされた。
藤能成氏は,2010 年 8 月 22 日から 9 月 3 日にかけての韓国仏教の現状に関する仏教関係
者への聞き取りを主とする現地調査の報告を行った。最初に,韓国仏教は,プロテスタン
トやカトリック(韓国において両者は別々の宗教という認識が強い)
,儒教とならび韓国の
四大宗教の一つであるが,朝鮮時代以降,山中仏教としてかろうじて命脈を保ち,また,
日本仏教の影響による僧の妻帯をめぐる問題を起因とした争いなどにより長らく停滞して
おり,韓国仏教の現代化がなされたのは 1990 年代に入ってからであると,韓国仏教の歴史
を概観した。そして,韓国仏教最大宗派の曹渓宗では,韓国仏教の弱点である都市におけ
る布教活動が積極的に推進され,社会福祉事業団も 1995 年に設立され,2000 年には政府か
らの援助を受けたテンプルステイが始まり,年間 20 万人が利用するという現状が報告され
た。また,韓国仏教には日本のような檀家制度はなく,在家信者は寺院よりも僧侶個人と
の結びつきが強いが,大寺院では信徒組織も整備され,ボランティア活動が盛んであるこ
とも指摘された。近年は高学歴,富裕層の信徒が増加傾向にあるが,学歴偏重の価値観が
支配する韓国において,仏教には実際に人々の生きる力,安らぎを与える役割が期待され
ており,瞑想,相談業務などの専門的能力を身につけた在家信者や僧侶の育成,教育機関
の整備が大きな課題であると指摘した。
51
【議論の概要】
入澤崇氏をファシリテーターとして,報告者とパネリスト(林行夫,三谷真澄,淺田正
博の 3 氏)を中心に議論が交わされた。
まず林行夫氏は,中村尚志氏の報告に対して社会学の観点から補足を行った。出家主義
が上座仏教の特徴であり,多様な階層の人々が出家することになることでスピリチュアリ
ティーは失われる傾向にあるが,僧俗の周流が地方仏教を醸成する力となっていると林氏
は指摘する。さらに 19 世紀以降国家仏教が形成されるが,その影響を受けながらも地方の
特色を持つにいたる。いわゆる社会参加型仏教の淵源は,上座仏教社会が本来的にもって
いる構造である。またグローバリゼーションの中でスリランカでは韓国,台湾の仏教界の
支援を得て女性出家運動が興るが,仏教社会に与えたインパクトはほとんどなかった。こ
のような宗教における国際的なクロスカップリングは,実践基盤を持っている地域にどう
展開していくかが重要なポイントとなると指摘した。
三谷真澄氏は,スダン・シャキャ氏の報告に対して,多様なネパール仏教が今後進んで
いく方向に注目しているとの感想を述べて,信者の立場から 3 種類の仏教はどう位置づけ
られ,機能しているのか,と質問した。これに対しシャキャ氏は,宗教と民族との密接な
繋がりを示した上で,新たに流入したテーラヴァーダは開かれた仏教であるが,チベット
仏教は言語の問題もあり門戸はやや狭く,僧が世襲制であるネパール伝統仏教はある意味
で閉鎖的であると述べる。しかし,ネパール人はネパールは釈尊の生誕地であるという誇
りを持っており,3 つの仏教に対して区別することはあまりない。また王制の廃止とともに
民族意識が高くなってきている。若者たちは宗教行事にそのアイデンティティを求める傾
向があると答えた。
淺田氏は藤氏の報告に対して,アジア仏教が日本仏教と同じ問題点を抱えている事,政
治と仏教(王法と仏教)との関係の重要性を述べて,僧侶妻帯,先祖供養,方便(現世利
益)についての韓国仏教徒の捉え方と,仏教と福祉活動に関して質問した。これに対して
藤氏は,韓国では僧侶の妻帯が社会的に許容されていないこと,葬儀と仏教との結びつき
が希薄であり,儒教が死後の世界観に大きな影響を与えていること,現世利益については,
ヴィパッシャナ瞑想を進める寺院もあるが,
「仏様に御願いすれば物事がうまくいく」
という感覚が常識的にあること,福祉活動
を通じて仏教の布教活動が盛んであること
などを述べた。この後,フロアーからの質
問を中心に「政治と仏教」,「民衆と仏教」,
「仏教界の社会活動」という 3 つのテーマ
について議論が交わされた。
以上,3 氏の報告により,シンポジウムの
52
主眼であるアジア仏教の現状と抱えている課題を認識し,議論を通じて当研究センターの
今後の活動指針を得ることができた。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
53
第 1 回国際シンポジウム「平等を求めて
~南アジアのマイノリティとマジョリティ~」 セッション 1「現代インドにおけるダリット/仏教徒コミュニティの現状」
■報告者・報告題目
ヴァレリアン・ロドリゲス(ジャワーハルラール・ネルー大学)
「近代性と宗教におけるアンベードカル」 舟橋健太(京都大学) 「「カースト」と生きる ~ウッタル・プラデーシュ州における仏教徒ダリトの事例から~」 榎木美樹(独立行政法人 国際協力機構)
「次世代育成を目指す仏教施設の役割・ネットワーク調査
~インド仏教徒のルネッサンス~」
足立賢二(四国医療専門学校)
「南インドでのはり・きゅう治療と「改宗仏教徒」
~無料医療奉仕活動 Free medical camp の分析から~」
シヴ・シャンカル・ダース(ジャワーハルラール・ネルー大学)
「ウッタル・プラデーシュ州のアンベードカル仏教(1951~2001 年)
人口統計的および社会経済的発展の分析」
■パネルディスカッション
ファシリテーター:桂紹隆(龍谷大学) ティモシー・フィッツジェラルド(スターリング大学) パネリスト:佐藤智水(龍谷大学) 池亀彩(国立民族学博物館) グニャーニャ・アロイシャス(近現代インド研究者) ヴァレリアン・ロドリゲス 舟橋健太 榎木美樹 足立賢二
シヴ・シャンカル・ダース
■開催場所:龍谷大学大宮学舎清和館 3 階ホール ■開催日時:2011 年 1 月 22 日(土)13:30~17:15
■参加人数:80 名
【報告のポイント】
1956 年,B.R.アンベードカルによって率いられたダリット(不可触民)の仏教徒改宗運動
は,既にインドで廃れていた仏教が復興するきっかけとなった。アンベードカルの死後,
半世紀を経た今,1 千万人から一億人の仏教徒が存在するといわれている。ナーグプルを中
心として仏教寺院の再開,布教活動,福祉活動など多様な活動を展開している。アンベー
ドカルの仏教理解が及ぼした影響と仏教徒コミュニティの現状とその課題について報告と
議論がなされた。
54
【報告の概要】
まずアンベードカルの思想面から,ロドリゲス氏が報告した。アンベードカルが仏教に
改宗することで,インドの世俗的な近代化プロジェクトに大きな打撃を与えたとする見方
に対し,氏はアンベードカルが宗教のある特定の理解の前景に横たわる近代化プロジェク
トについて賛同していたとみる。アンベードカルは人間の理性,科学そして意思疎通の方
法が生み出したものとしての近代化は,宗教に根ざすことによってのみ持続し得ると考え
た。この考え方は,西洋世界の主な思想家と一線を画すものであり,インドにおける近代
思想家たち(オーロビンド,イクバル,ガーンディー)への親近性と捉えられることにも
なった。しかしアンベードカルは,ガーンディーのように宗教を近代性と対立させること
はせず,その二つは対話できる関係のものであるとの見方を示した。
舟橋氏は,ウッタル・プラデーシュ州西部における現地調査で得られた仏教徒ダリトの
宗教・儀礼実践に関する事例とかれら自身の語りを検討することにより,いかにかれらが
親族や姻族と交渉しているか,すなわち,いかに「カースト」なるものとともに生きてい
るか,という問題について報告した。舟橋氏の調査結果によると,仏教徒ダリトたちは,
仏教徒としてのアイデンティティを強く主張している。仏教は,インド発祥の宗教であり,
また世界宗教でもある。ゆえに,仏教徒ダリトたちは,ヒンドゥー世界とのつながりでは
なく,インドとのつながり(さらには世界とのつながり)を主張しうることになる。また
重要な点として,仏教徒ダリトたちは,ブッダと 15 世紀頃の詩聖人であるラヴィダースを
ともに,ひとつに両者が平等主義者である点から信奉の念を抱いている。仏教徒ダリトは,
この両者を信奉することにより,仏教徒であることとチャマールであることとの両面をと
もに含みつつ,ヒンドゥー教徒のチャマールたちとの交渉を行いえている。それは「平等」
に対する強い信念に由来するものである。
足立氏は,自身が参加している仏教徒コミュニティが推進する医療活動について次のよ
うに報告した。現在,世界各地で多くのはり・きゅうによる国際協力活動が実施されてい
る。南インドでは現地の仏教指導者がはり・きゅうを活用した無償医療奉仕活動を 2002 年
から企画・運営しており,日本のはり・きゅう師らが当該活動に参加している。当該活動
は現地仏教徒が支援し,受診者の大部分が「改宗仏教徒」である。従って,当該活動を分
析することで,現地でのはり・きゅう施術の意義,現地仏教徒の布教活動と組織化,そし
て「改宗仏教徒」の受診行動を把握できる。足立氏はこれを3つの異なる視点,すなわち
①受診者の受診行動,②現地仏教徒への影響,③はり・きゅう師の参加動機から無償医療
奉仕活動を分析した。その結果として (1) 受診者は健康状態を自分で決め,症状に対処す
る優先順位を自ら設定し,治療方法を自ら選んでいる可能性が高いこと。 (2) 一連の医療
奉仕活動は,現地仏教徒の着実な組織化に貢献していたこと。(3) 日本のはり・きゅう師が
「理想の医療専門職」として自らを規定できる活動に魅力を感じていたことが提示された。
榎木氏は,フィールドワークを通じて,カルナータカ州における改宗活動とその実態に
ついて報告した。1956 年の集団改宗挙行以降,インドにおける仏教徒運動は,当事者によ
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る仏教への改宗といった短期的かつ直接的な行動が注目されるが,一方で,改宗後の信仰
維持や仏教徒の再生産のサイクルといった中・長期的な問題については不明な点が多い。
次世代育成に取り組む青少年育成施設の実態とそこを利用する人々の動機や属性を調査す
ることで,仏教的青少年育成施設としての禅塾の役割・意味・ネットワークを検証し,中・
長期的な視点で活動するインド仏教徒の視座とそのコミュニティの実態を調査した。榎木
氏は,カルナータカ州ビジャプル市に立地する禅塾に注目し,仏教徒コミュニティおよび
仏教への関心を示すコミュニティの実態を明らかにした。
ダース氏は,大衆社会党の政策について,統計資料を用いて次のように報告した。ウッ
タル・プラデーシュ州のアンベードカル仏教徒は,いわゆる「アウトカースト」の改宗や
その他の二次的な理由により,この 50 年間(1951~2001)で,他のあらゆる宗教コミュニ
ティを凌ぐ比類ない増加率を見せている。彼らの社会経済状態は,他の宗教コミュニティ
と同等とは言えないものの,指定カースト/「アウトカースト」に比べると,識字率,男
女人口比,耕作者の割合という点において,若干優れている。1990 年代の 10 年間で,政治
の分野においても彼らの影響力は大きくなり,その後も発展し続けている。全体として,
アンベードカル仏教徒は,ウッタル・プラデーシュ州の大衆社会党の政治的言説において,
強い訴求力と重要性を有する。結論としてダース氏は,現代の大衆社会党政策は単にダリ
ット政策と見ることはできないのであって,実際的に仏教徒によって主導されていると述
べた。
【議論の概要】
佐藤智水氏は,1980 年に見聞したインドにおけるダリットの仏教改宗運動について,仏
教徒自身は非常に貧しく肩身の狭い思いをしていたが,誇りを持って力強く生活している
姿に感銘を受け,仏教は本来的に人に活力を与える力を持っていることを再認識すること
ができたと述べたうえで,各報告に対する質疑を行った。最後に,将来,仏教復興運動の
活動とコミュニティが,誰に,どう引き継がれていくのか,という点に注目したいと締め
くくった。
【文責】アジア仏教文化研究センター
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第2回国内シンポジウム「中央アジアにおける仏教と異宗教の交流」
■報告者・報告題目:
宮治
昭(龍谷大学文学部教授・龍谷ミュージアム館長)
「中央アジアの仏教信仰と美術―涅槃図と兜率天の弥勒菩薩を中心に―」
橘堂晃一(龍谷大学アジア仏教文化研究センター博士研究員)
「西ウイグル国の仏教―弥勒信仰を中心に―」
吉田
豊(京都大学文学研究科教授)
「マニ教絵画の世界」
■ディスカッション:「中央アジアにおける仏教と異宗教の交流」
【ファシリテーター】入澤
崇(龍谷大学文学部教授・龍谷ミュージアム副館長)
【コーディネーター】三谷真澄(龍谷大学国際文化学部准教授)
■開催場所:龍谷大学大宮学舎西黌2階大会議室
■開催日時:2011年2月26日(土)13:00~17:00
■参加人数:70 人
【報告のポイント】
現代社会において果たして「文明の衝突」を回避する有効な手立ては可能であろうか。
かつて中央アジアでは,仏教を中心としてマニ教やネストリウス派キリスト教をはじめと
する多くの宗教が行き交い,共存していた。美術資料や文書資料には仏教と異宗教の融合
の跡まで辿れる。本シンポジウムでは,仏教と異宗教の融合の諸相,さらには仏教の周辺
にあった異宗教の様相に焦点をあて,文明間に対立を生み出さない方策を考える機会とな
った。併せて,仏教が異宗教と交流・融合を果たすことで,仏教内部に多様性を生み出し
ていたことが確認された。
【報告の概要】
宮治昭氏は,「中央アジアの仏教信仰と美術―涅槃図と兜率天の弥勒菩薩を中心に―」
と題し,様々な文化が融合し新たな信仰形態を生んだ例として,「涅槃図」と「兜率天の
弥勒菩薩図」を取り上げ,その生成と伝播をインドからバーミヤーン,キジル,敦煌石窟
まで作例を示しつつ報告した。インドでは生々しく表わされることのなかった涅槃の場面
は1世紀ごろガンダーラで成立する。背景にはギリシア・ローマの葬送美術の影響も認めら
れる。インドでは釈尊滅後の信仰が舎利・仏塔信仰に移るのに対し,中央アジアでは両者
が併存しつつも弥勒信仰とその美術が顕著となる。弥勒菩薩はガンダーラ以降,王者風に
交脚椅坐の姿で表され,その形姿はクシャーン王侯像に影響されるとみられる。キジル石
窟では中心柱窟の回廊を右繞して「分舎利」や「第一結集」の壁画をみながら,舎利の供
養と仏法の護持を確認し,回廊を出ると,主室前壁の入口上方に描かれた「兜率天上の弥
勒菩薩」に目が移る構成となっている。バーミヤーンでは涅槃図と兜率天の弥勒菩薩が組
合わされ,兜率天にいる弥勒菩薩のもとへ再生を願う弥勒上生信仰と結びつき,中央アジ
ア色の強い仏教美術を生みだした。
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橘堂晃一氏は,「西ウイグル国の仏教―弥勒信仰を中心に―」と題して,西ウイグル国
の仏教信仰形態の変遷を弥勒信仰から辿り報告を行った。マニ教を信奉していたとみられ
るウイグル人は840年,東部天山山脈に移動したのを契機とし,固有の仏教文化を持ってい
た周辺オアシスと接触する。やがて彼ら自身が様々な仏教文化を形成した。ベゼクリク石
窟誓願図にみられる宝石類により荘厳されたブッダの表現はマニ教の影響との指摘がある。
史料から,ウイグル人は彼らが崇拝の対象としていた「天」を通じ「仏」という存在を理
解していたことが確認できる。そして彼らの信仰を集めたのは弥勒であった。トカラ仏教
から自然と受容されたという背景に加え,ブッダの場合と同様「兜率天」が彼らの信仰の
基盤である「天」と同一視された可能性がある。ウイグル語経典からは,彼らの弥勒信仰
に下生信仰と上生信仰の両者がみられる。史料を総合すると,下生信仰はトカラ仏教から,
上生信仰は中国仏教から影響を受けたものとみられる。後代になるにつれ上生信仰を示す
文献が多くみられる点は,中国仏教にシフトしていくウイグル仏教の姿を反映している。
その要因には法相宗のトルファン地域への波及の他,ウイグル語写本から当地において願
兜率天往生者としての玄奘が崇敬を集めていたという背景も重要である。
吉田豊氏は,「マニ教絵画の世界」と題して,昨年初めて発表されたマニ教「宇宙図」
を含む,日本に所蔵されるマニ教絵画とその重要性について報告した。これまで「六道図」
の1種と考えられていた大和文華館所蔵の絹絵が,実はマニ教の個人の終末論を描いた画で
あることが,報告者によって明らかにされたことを契機に,栖雲寺蔵マニ教のイエス像に
加え,日本で個人蔵を含め7点のマニ教画が新たに見つかった。その全てが元朝期ないし,
その前後する時期に寧波を中心とする中国江南地方で制作されたものと考えられる。この
地域にマニ教徒が存在していたことは,マルコ・ポーロの『東方見聞録』や中国の編纂史
料から知られている。吉田氏は,これらの絵画資料を現存するマニ教経典に記述される世
界と比較して,絵画に描かれた内容を読み解こうとする。例えば,大和文華館所蔵の絹絵
では,死後の裁きの場面に雲に乗る女性像が認められる。吉田氏はこれをダエーナー女神
とみる。マニ教では,信者が生前に行った善行が,女神の姿を取って迎えに来ると考えら
れていた。またマニ教の世界観を示す「宇宙図」は,天界,十天,八地,太陽と月,光の
流れ(船),大地にそびえたつ須弥山,黄道十二宮,空中に据えられた裁判官,闇の国の
表現により構成されており,これらの図像的特徴は,現存するマニ教文献が伝えるマニの
宇宙生成論の記述に見事に一致する。またマニ教の世界観には仏教の世界観との交流をう
かがわせる点もあって貴重である。今後この作例と比較して,これまでトルファンで発見
されていたマニ教画,その他の断片についても再解釈する必要がでてきた。
【議論の概要】
パネルディスカッションでは,入澤崇氏をファシリテーターとして報告者を中心に議論
が交わされた。
まず宮治昭氏は自身の報告に関し,弥勒信仰とインドの理想的な王,転輪聖王との結び
つきがみられる点を補足した。入澤氏は,弥勒下生と転輪聖王との結びつきは,仏教伝播
の過程における中央アジアの王権との関わりを見るうえで重要な視点であり,一方で,弥
勒には民衆レベルでの救世主待望とも関連すると述べたうえで,ブッダの伝記を記す文献
58
の中でのブッダと弥勒に関する記述,
なかでもブッダが下生する際に後継者
として弥勒に冠を授けるという伝承は
中央アジアの図像において見いだせる
のか質問を行った。対して宮治氏は以
下のように述べた。チベットにはその
場面はみられるが中央アジアではみら
れない。しかしながら,ガンダーラに
おいて弥勒は行者風に表現されるのに
対し,中央アジアでは兜率天上の弥勒
が冠をつけて表現されていく点は,こ
の伝説を反映したものかと思われる。
次に橘堂氏は,ウイグルの弥勒信仰において上生信仰が盛んになる要因として玄奘への
思慕もあった可能性について史料をあげて補足した。現在,橘堂氏が分析を進めているウ
イグル語の法相宗唯識文献の内容は玄奘の足跡あるいは功績に関する注釈書である。この
点からもウイグル人にとって玄奘は特別な存在であったことが窺える。
入澤氏は,ウイグル人の持っていた「天」という信仰の上に仏教が受容されていった可
能性の指摘は重要であると述べ,ウイグル土着の信仰と仏教の結びつきについてその他の
事例はあるのか質問を行った。橘堂氏は,インドにも天中天という表現があることは興味
深いものの,ウイグルの「天」と仏教の天との類似についてはもう少し検討したいと述べ
た。宮治氏は,美術史上,インドと違い中央アジアではドーム式建築が多く,その頂上に
弥勒が表現されているように,天に対する信仰を想起させる表現が多用されると補足した。
吉田氏は,仏教とマニ教の関わりについて補足した。敦煌で発見される引路菩薩という
尊格の図像は,雲に乗る点など上述のダエーナー像との類似点が注目される。さらに魂を
引導するという役割も含めて両者間に影響関係が考えられる。引路菩薩は仏教文献では確
認されず,早くから外来文化の影響が問題となっていた。今回マニ教画に引路菩薩に酷似
する図像が発見され,ダエーナーがゾロアスター教に起源をもつことを考慮すれば,影響
はマニ教から仏教に及んだと考えてよいだろうと指摘した。これまでマニ教が中国で仏教
に影響されたと想定される傾向にあったが,マニ教が仏教に与えた可能性も視野にいれる
必要があると提言をなした。
入澤氏は,マニ教から仏教への影響について,仏教経典にみられる「摩尼光仏」という
言葉はマニをブッダとみなすものかと質問を行った。吉田氏は,漢文マニ教文献のなかで
「仏」という言葉は預言者を指すとみられるため,「摩尼光仏」は「マニという預言者」
という意味ではないかと応え,中国では預言者を指す際に「仏」と呼んだ可能性について
問題提起をなした。
以上により,中央アジアにおいて仏教と土着の宗教,文化との融合が新たな仏教信仰と
美術を生成し発展した様相が明らかとなった。これは同時に現代における異なる世界観・
価値観の共存へ向けて新たな視座を提示するものとなった。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
59
Ⅳ
研究会
ユニット1(南アジア地域班)
第1回
ユニット 1(南アジア地域班)研究会
報告題目
タイ仏教の現在・インド仏教の現在
開催日時
2010 年 7 月 22 日(木)16:00~19:15
開催場所
龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
報告者
コンカーラトナラク・プラポンサック (K. Phrapongsak,タイ国マハー・ニ
カーヤ派タンマガーイ寺院総住職補佐,長老) ジクメー・ツルティム
(Jigmey Tsultrim,中央チベット政庁(インド,ダラムサラ)チベット博物
館館長)
参加人数
61 人
【コメンテーター】中村尚司(龍谷大学人間科学宗教総合研究センター研究フェロー)
芳村博実(龍谷大学文学部教授)
【報告のポイント】
アジア仏教の現状確認の一環として,当該地域の仏教事情に詳しい二名の研究者より,
それぞれタイ仏教とインド仏教の一部を構成するインド在住チベット人の仏教に焦点をあ
てた報告がなされた。プラポンサック師は,「タイ仏教の現在」と題して,現在のタイ仏教
の教団構成や,出家比丘が世俗社会と一線を画しているというタイ仏教の特色について報
告し,変革期にあるタイ仏教の課題について述べた。ジクメー氏は,「インド仏教の現在」
と題して,インドに暮らすチベット人の歴史に焦点を当て,伝統文化継承への取り組みと
ともに現代的な教育が実施されている状況を報告した。
【報告の概要】
プラポンサック師の報告によると,スコータイ王朝時代にタイへ伝来した仏教は,現在
マハー・ニカーヤ派とタンマユット・ニカーヤ派から構成されている。タイ仏教の特色は,
出家比丘が世俗社会と一線を画している点にある。比丘達は,パーリ語や仏教教義に関す
る教育を段階的に受け,伝統的な上座仏教を受け継いでいる。プラポンサック師によれば,
タイでも出家者が減少しつつあり,近年は毎年 10 万人を目標とする短期出家の催しなどを
全国的な規模で行って,まず多くの一般の人々に出家体験をして貰い,その結果として恒
久的な出家者の数を増やすことを試みている,ということであった。
次に,タイ南部 3 県では多数派を占めるイスラーム教徒の内の過激なグループによって
少数派の仏教徒が殺害されるという事件が相次いでおり,マハー・ニカーヤ派とタンマユ
ット・ニカーヤ派が協力して,托鉢式などで集めた物資をタイ南部に送り,仏教徒を援助
60
しているという衝撃的な事実が報告された。
最後にプラポンサック師は,世俗との関わりを避けてきたきらいのあるタイ仏教である
が,今は変革期にあり,社会や政治に対して仏教側から問題解決に向けた働きかけをしな
ければならない,と述べて報告を終えた。
ジクメー・ツルティム氏の報告は,過去 50 年インドに暮らすチベット人の歴史に焦点を
当てたものであった。1959 年にダライラマ 14 世がインドへ政治亡命すると,続々とチベッ
ト人がインドへ向けて故郷を離れた。その結果インドに住むチベット人のアイデンティテ
ィ保存に向けての活動が始まった。現在,インド在住チベット人に伝統的な文化や習慣の
伝達と現代的な教育を行うために,チベット政庁は教育を重視した政策をとっている。
CTSA (Central Tibetan Schools Administration)は,チベット人の学生のために学校を用意して
文化の継承に努めている,と報告された。
最後にジクメー氏は,現代にはチベット人に活動拠点を提供し,古代にはチベット文化
を築く礎を提供したインドへの感謝を述べ,チベット政庁創立 50 周年を記念して作成され
た映像と音楽を紹介し,中国・インド両国との関係について今後も模索を続けていく,と
述べて報告を終えた。
以上の報告により,アジアにおける仏教教団・仏教徒社会の現状認識を深めると同時に,
タイ仏教徒とインド在住チベット人仏教徒が直面する様々な課題を克服していこうとする
姿勢に接し,特に独自の宗教と文化の継承という点において問題意識を共有することがで
きた。
【議論の概要】
プラポンサック師の報告に対して,中村尚司氏より,歴史学的研究の課題として,ラオ
スやスリランカとの関係から見ると,タイでは,スコータイ王朝時代以前から仏教活動が
存在したと考えられるため,タイ仏教の歴史をより俯瞰的にみる研究が今後求められる,
との指摘がなされた。また,タイ仏教徒自身が内包する現代的課題として,現在,対話を
欠く政治グループの存在や,民衆の生活向上等,様々な問題をはらむ社会に対し,仏教寺
院や仏教徒が貢献を行うべきか,行うとすればどのような貢献なのか,という点が質問さ
れた。さらに,ジクメー氏の報告に対して,インドと中国の狭間でチベット仏教徒が苦難
の道を歩んできたことに同じ仏教徒として共感する一方,私たち日本の仏教も変わるべき
時期に来ているだろう,と指摘した。
61
プラポンサック師は,特に中村氏の指摘
したタイ仏教の抱える現代的課題に関して,
伝統的にタイの仏教教団は政治と関係を持
ってこなかったので,関係を持った場合に
発生する問題点を知るために,奈良時代や
平安時代の日本仏教を研究し,参考にした
い,と答えた。ジクメー氏の報告に対して,
芳村博実氏は,チベット語で「ありがとう」
に相当する「トゥジチェ」は深いご恩を感
じるという意味の表現であり,そのような仏教精神にあふれる言葉でインドへの感謝が聴
けて有意義であったという感想を述べた。
ジクメー氏は,日本人は本を読んで勉強するが,体験を通して学ぶことが少ない傾向が
あるため,もっと現地の実際を知って欲しいと答えた。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
62
第2回
ユニット 1(南アジア地域班)研究会
報告題目
Faxian’s(法顯)Perception of India
開催日時
2010 年 9 月 7 日(火)15:00~17:30
開催場所
龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
報告者
胡海燕・ヒニューバー(フライブルグ大学孔子学徳方院長)
参加人数
28 人
【コメンテーター】桂 紹隆(龍谷大学文学部教授)
【報告のポイント】
399 年から 413 年にかけて,完全な戒律を求めてインドへ求法の旅に出た法顯(342~423)
が記した旅行記である『佛國記』(414 年)は,5 世紀初頭の西域・インドの仏教・文化に
関する貴重な資料である。これまで,フランス語(1836 年)や英語(1848 年)などに訳さ
れ,西洋の東洋学者の研究の基礎となってきた。胡海燕・ヒニューバー氏は,これに近年
の研究を加え,『佛國記』に記される難語や表現を新たな視点で検討した。
【報告の概要】
胡海燕・ヒニューバー氏は,『佛國記』のこれまでの研究を振り返り,翻訳や資料の取り
扱い方の問題点として,以下の 3 点を提示した。
第一に,中国では,『佛國記』は,記された直後から,西域からインド,スリランカ,ジ
ャワなどの地理や文化を知る貴重な資料となっていたが,当時の中国人がどれだけ正しく
『佛國記』を読めていたか不明であること。
第二に,19 世紀のヨーロッパにおいて,第一級の研究者達が『佛國記』の翻訳作業を行
ったが,彼らのインドに関する知識は必ずしも十分では無かったこと。
第三に,近年は『佛國記』に関する研究が文献学以外の方面にもあるが,それらが文献
学に還元されていないこと。
また,近年の過去 30 年の研究蓄積は,①『佛國記』の新しいエディションと翻訳,②『佛
國記』に基づく地理歴史学,③法顯が中国へ持ち帰った経典の伝播の研究,④『佛國記』
に基づくインドや中央アジアの仏教の歴史に関する研究,⑤南アジアの美術史と『佛國記』
の研究,⑥法顯が旅路中に心身の危険に晒されている状況に関する心理的な研究,⑦これ
までの研究の検討,と分類できると紹介し,これらの多岐にわたる研究と,『佛國記』自身
に含まれる難語の検討を行った。
難語に関しては,特に「傍梯」,「中国」,「辺地」,「鉄券」,「信風」といった用語に関し
て,現代のインド文化学,言語学,考古学,美術史学の新知見を取り入れた新解釈を提示
した。例えば,「傍梯」は,従来「岸壁に穴を掘って石段のようにした道」だと考えられて
きたが,バールフトの浮彫り彫刻にある岩山を登るレリーフや,困難な道を表すサンスク
リット語の表現であるシャンクー・パダなどの例を分析し,「岩に杭のようなものを打ち付
63
けて登って行く道,あるいは,岩に打ち込
んだ杭の上に板を渡して通る道」であると
説明する。このように胡海燕・ヒニューバ
ー氏は,多くの研究蓄積のある『佛國記』
の表現内容を,多角的な手法で再検討する
手法を用いている。
以上,本報告は,現在の多様化した仏教
研究のあり方が,個別的な専門研究に細分
化・矮小化してしまう危険性を示唆し,多
角的な視野を用いることによって再検討されるべき課題が多くあることを指摘するもので
あった。
【議論の概要】
桂紹隆氏は,文献や美術資料,考古学資料など各々の専門分野のみからの調査・研究に
なってしまいがちなところに改めて多角的な見方を持つことが如何に重要であるか確認で
きたとし,研究が行き詰まっている分野であっても他の研究成果を鑑みることで新たな発
見が見込まれると述べた。
北村高氏は,「傍梯」は,インドやサンスクリット語にその内容を求める方向性もあると
思うが,むしろ,中国の「蜀の桟道」のイメージに近いのではないかと指摘し,法顯の表
現という点からすると,今後,中国の情景や漢語の方向からも検討する必要があるのでは
ないかと提言した。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
64
第3回
ユニット 1(南アジア地域班)研究会
報告題目
Meditations on the retrieval of lost texts
開催日時
2010 年 9 月 24 日(金) 17:00~19:00
開催場所
龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
報告者
ホルスト・ラシッチ(オーストリア科学アカデミー専任研究員,ウィーン大
学講師)
参加人数
20 人
【コメンテーター】桂 紹隆(龍谷大学文学部教授)
【報告のポイント】
ホルスト・ラシッチ氏は,ディグナーガの『プラマーナ・サムッチャヤ自注』第 2 章を,
チベット語訳とジネーンドラブッディの注釈書などに引用される断片に基づき,サンスク
リット語に復元する作業を行っている。本研究会では,失われたテキストを再構成するた
めの方法論的問題を具体的な事例にもとづいて報告した。また,再構成する際に,様々な
過去の仏教世界で起こった事象を考慮しなければならないことを指摘し,多様化したテキ
ストの伝播過程について説明した。
【報告の概要】
ホルスト・ラシッチ氏は,「失われたサンスクリット語テキストの再構成とはどういう作
業であるべきか」という点を主要な問題意識としている。本報告では,まず,エルンスト・
シュタインケルナー氏の,現存する十分なサンスクリット語資料からのサンスクリット語
テキストの「再構成」と,チベット語訳からサンスクリット語への「再翻訳」との違いや,
後者が本来のテキストの代用物とされるに足る確実性をもつことが困難である点,
「再翻訳」
は「再構成」が不可能な部分に対する充填物にすぎないことなどを強調する見解を紹介し
た。それについて,「オリジナルな言語的資料」の評価や確定が不確実である点,また,諸
文献の伝播の過程の中での様々な変化を考慮すると,
「言語的資料」である文献は歴史の「あ
る時期」の証拠ではあっても,シュタインケルナー氏が想定するような本来的なものでは
ない可能性もあることを指摘した。
以上を踏まえ,失われたサンスクリット語文献の「再構成」について,『プラマーナ・サ
ムッチャヤ自注』第 2 章の研究を通して得られた見解を示した。『プラマーナ・サムッチャ
ヤ』の二種のチベット語訳について,サンスクリット語テキストの同一箇所に対する翻訳
であり,同一の意味内容を表現しているはずであるのに,実際には内容が異なる場合が多
数あることを報告した。さらに,ジネーンドラブッディの注釈やその他のサンスクリット
語資料から回収された当該個所の「本来のテキスト」が,いずれか一方の,もしくは両方
のチベット語訳と異なる場合があることも指摘した。その理由として,(1)両チベット語
訳の伝承過程で起こった誤り,(2)二つの翻訳集団によるサンスクリット語テキストの解
65
釈の相異,(3)サンスクリット語写本にお
ける書写上の誤り,またはチベット翻訳者
側の誤読,(4)異なるサンスクリット語写
本間の異読の存在,の 4 点の可能性を挙げ
た。特に(4)については興味深い実例を紹
介した。
また,『プラマーナ・サムッチャヤ自注』
第 2 章のある部分の両チベット語訳からの
サンスクリット・テキスト再構成を実例と
して,以下のような彼の方法論を紹介した。まず,当該部分の両チベット語訳の各々の解
釈に即して,利用可能なサンスクリット語資料を用い,両チベット語訳のサンスクリット
語への「再翻訳」を提示する。「再翻訳」された両サンスクリット語テキストには未だ異同
があるが,さらに様々な可能性を考慮して,異同が生じた原因を推測する。(実例の場合,
両チベット語訳から想定される当該部分のサンスクリット・テキストの間には,わずか一
音節の有無という相異しかなかったと考えることが可能であることを示した。)最終的に,
最も原テキストに近いと考えられる還元テキストを提示する。
ホルスト・ラシッチ氏が考える「再構成」とは原テキストに関する一連の仮定であり,
サンスクリット写本やチベット語訳の伝承過程で混入した誤り,同一のテキストに対する
翻訳者たちの異なった解釈など,さらには,ヘルムート・クラッサー氏が示し,ラシッチ
氏が「クラスルーム・モデル」と呼ぶ,テキストや写本の作成の特殊な事情など,さまざ
まな仮定が考慮される。また,入手可能なサンスクリット写本さえ,ある時点での特定の
伝承過程におけるテキスト形態の証拠と見なされるべきである。氏は,「再構成」や「批判
的校訂」などが原テキストへの一つの接近方法以上のものではないことを警告した。
以上,本報告は『プラマーナ・サムッチャヤ自注』の再構成という視点から,仏教文献
がその伝承過程で多岐に変化した可能性を提示することにより,仏教の多様性を解明する
一手段を提起するものであった。
【議論の概要】
桂紹隆氏は,
『プラマーナ・サムッチャヤ自注』第 3 章の再構成に取り組んでいる立場か
ら,本発表の方法論的提案が大変有意義であると評価した。一方,京都大学のディワーカ
ル・アーチャーリヤ博士は,インドにおけるテキスト伝承の実態に触れて,従来比較的長
い期間口承伝承によってのみ伝えられたとされているヴェーダ文献でさえも,早くから筆
写による伝承が存在し,それ故に誤ったテキスト伝承をもたらしたことを証明しうる事例
があるという興味深い指摘を行った。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第4回
ユニット 1(南アジア地域班)研究会
報告題目
① インド・バングラデシュの仏教徒コミュニティ調査報告
②
ダリト/仏教コミュニティの現状-2010 年南インド調査報告
開催日時
2010 年 12 月 7 日(火)16:45~19:30
開催場所
龍谷大学
報告者
① 若原雄昭(龍谷大学理工学部教授)岡本健資(龍谷大学文学部講師)
大宮学舎
清風館 3 階
共同研究室 301
② 佐藤智水(龍谷大学文学部教授)志賀美和子(人間文化研究機構地域研
究推進センター研究員)
参加人数
48 人
【コメンテーター】長崎暢子(龍谷大学人間文化科学宗教総合研究センター研究フェロー)
佐藤智水(龍谷大学文学部教授)
志賀美和子(人間文化研究機構地域研究推進センター研究員)
【報告のポイント】
人口の点でインド最大の州であるウッタルプラデーシュは,2001 年統計で一億六千万人
を超え,一州でもって世界の殆どの国の総人口を上回ることで有名である。しかし,現在,
同州の知事が仏教を掲げる政党の党首であることはあまり知られていない。若原・岡本両
氏は,同州の政党幹部や政党が支援する施設の関係者,当該地域の仏教研究者・仏教僧へ
の取材結果を報告した。また,バングラデシュに隣接するインド・ウェストベンガル州に
おける調査については,ベンガル仏教徒の主要仏教寺院六ヶ寺の取材を通して得られた当
該地域の仏教徒・仏教寺院に関する基礎情報を報告した。次に,佐藤・志賀両氏からは,
南インドに位置するカルナータカ州ビジャプール・グルバルガ,アーンドラプラデーシュ
州ハイデラバードでの仏教徒の活動の詳細を報告した。その特徴は,不可触民と呼ばれる
人々が,仏教に帰依することで,アイデンティティ,自尊心,団結心などを獲得している
という点にあった。仏教が教育力を向上させる場合もあり,「仏教が持つ可能性を探る」と
いうプロジェクト全体の目標に関わる点でも重要な調査であり,継続が期待される報告内
容であった。
【報告の概要】
「インド・バングラデシュの仏教徒コミュニティ調査報告」では,まず,ウッタルプラ
デーシュ州で勢力伸長著しい Bahujan Samaj Party(BSP)と関連施設の調査報告が行われた。
ウッタルプラデーシュ州は,インド最大の州であり,ダリトの支持をうける BSP が 2006 年
に州の政権党となった。現在,ウッタルプラデーシュ州では,政治と宗教が密接に関係す
るような演出が州政府によって行われ,セキュラリズムを奉ずるインドにおいて一見する
と異質な状況がある。若原氏は,こうした興味深い様相を呈するウッタルプラデーシュ州
における今後の研究の方向性の決定と協力体制構築についての報告を行った。
67
次に,ウエストベンガル州の仏教徒に関しては,その多くがダージリン地方のチベット
仏教徒であり,上座部仏教徒は平野部に限られ,そのほとんどがバングラデシュのチッタ
ゴン地方からの移住者であることが報告された。また,今年度の調査はコルカタ市及び周
辺のベンガル仏教徒コミュニティ予備調査であり,コルカタ大学の研究者とベンガル仏教
僧の協力を得て,ベンガル仏教寺院六ヶ寺の訪問,聞き取り調査の実施と 2010 年に出版さ
れたインドのベンガル仏教徒ならびに寺院に関するデータが掲載された最新資料を入手し
たことが報告された。
「ダリト/仏教コミュニティの現状-2010 年南インド調査報告-」では,ビジャプールにお
けるダリトの生活実態,仏教改宗運動の実態,仏教改宗(回帰)の意味についての調査が,
佐藤・志賀両氏によって報告された。なお,調査に際しては,Bodhidhamma 氏(インド青
年仏教徒連盟会長)の協力を得た取材であったことが付言された。調査結果として,仏教
は,不可触民に肯定的アイデンティティと団結のシンボルを付与していること,アンベー
ドカルも普遍的価値を保ちその運動の中核に位置することが報告された。また,不可触民
は仏教を通して自尊心,自信,団結の獲得,経済的地位や学歴の向上を実現していること
が明らかにされた。しかし,仏教徒としての団結が認められる一方,不可触民内での格差
拡大や差別の残存,就業機会の不平等などの存在が報告された。また,他コミュニティと
の関係についても不明な点があり,今後の研究課題として提示された。
以上,両報告では,初年度の調査ということもあり,現地研究機関との協力体制構築や
研究の方向性の決定,それらを通して見えてきた課題が説明された。同じインドという国
内においても仏教徒の活動や信仰には多様性が認められ,現代の様々なインド仏教徒の実
態を垣間見る報告であった。
【議論の概要】
若原・岡本両氏の報告に関して,
志賀氏が,BSP の仏教理解の内容,
仏教教育の内容について質問し
た。若原・岡本両氏は,仏教の理
解や教育に関しては,今後,調査
を通して入手した資料や教材の
分析をアンベードカルの著作と
合わせて行うと述べた。また,BSP
関連施設における仏教教育の一
部には,四諦八正道などの基本理
念が含まれていることを明らか
にしたが,伝統的仏教思想から逸脱する内容の検討も必要であると指摘した。
また,特にウッタルプラデーシュ州の医師や裁判官などの一般的に社会的地位が高いと
68
される人々が,アンベードカルの思想を政治的に用いるために仏教徒になる事例は看過で
きない点であり,南インドにみられる自尊心や団結力の獲得を主な目的とする仏教徒運動
との相違に言及し,双方の今後のあり方についても研究の余地があることを指摘した。
佐藤氏は,ダリトの僧侶の話として,BSP に対する熱狂的な支持者と期待半分落胆半分
な複雑な気持ちを持つ人がいることを指摘した。しかし,政治に興味を持つ地方の青年が
BSP によって育ってきていることも事実であり,今後の動きに注目する必要があると述べ
た。
長崎氏は,国家と宗教が深く関係している南アジアの歴史をふまえ,仏教の多様性とそ
の現代的可能性を探るために宗教多元社会のインド国内を調査することは必要であり,今
後,このような調査が有機的に連携していくことが重要だと総括した。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第5回
ユニット 1(南アジア地域班)研究会
報告題目
Dharmakīrti and the Mīmāṃsakas in Conflict: Pramāṇavārttika (svavrtti) I.311-340
開催日時
2011 年 1 月 14 日(金)17:00~19:00
開催場所
龍谷大学
報告者
ジョン・テイバー(ニューメキシコ大学哲学科教授)
参加人数
23 人
大宮学舎
西黌 2 階
大会議室
【コメンテーター】桂紹隆(龍谷大学文学部教授)
若原雄昭(龍谷大学理工学部教授)
【報告のポイント】
テイバー氏は,ダルマキールティがその著『プラマーナヴァールッティカ』第一章にお
いて展開するミーマーンサー批判部分,及び,それに対応すると思われるミーマーンサー
側の記述に関して,ダルマキールティの批判の妥当性や説得性という観点から論じた。
【報告の概要】
ミーマーンサーの学説体系は,ヴェーダ聖典の特定のパッセージの解釈のために確立さ
れた諸規則と諸手続きの一体系である。彼らミーマーンサー学徒たちは,ヴェーダの大半
の語は日常的に使用されるサンスクリット語と同じであるという仮定から出発し,文法学
的分析,語源学,文脈の吟味,語の他の出現事例と並行的パッセージの比較対照,そして,
ヴェーダの諸パッセージが結び付けられるところの諸祭式に関する知識にもとづいて,未
知の不明瞭なヴェーダの語と文の意味について知ることが出来ると考えている。ヴェーダ
の意味を知る際に,少なくともシャバラやクマーリラにおいては,ダルマキールティが批
判するような永遠の非人為性に頼ることは見られない。彼らの方法は現代のヴェーダ研究
者がとる「客観的」方法と全く別とはいえない。
ダルマキールティはプラシッディ(聖典中で確実になる語義)やヴァーキヤシェーシャ
(文脈から想定される言外の意味)の適用を恣意的なものとしか見ない。また,ダルマキ
ールティは,ミーマーンサーが普通の人々の一般的語法を信用しないことを指摘するが,
一般的語法とは誰にでも同意されているものであり見解や判断の場合には問題にならない
ことを見落としている。また,ミーマーンサーにおける比喩的意味や語源学的意味による
解釈が果たす広範囲の役割を軽視している。さらに,ヴェーダ中の語の多義性に関しては,
ミーマーンサーが有する多様な解決手段を正当に評価していない。また,ダルマキールテ
ィが考えているのとは異なり,ミーマーンサーでは個人的カリスマや超常的能力に基づい
て特定の人物が権威化されることはない。また,ミーマーンサーを始めとするバラモン教
諸学派にとっての「祭式規定」の性質についての論点に不案内のようである。
ダルマキールティのミーマーンサーに関する批判はミーマーンサーの核心部分に対する
ものとなっていない。ダルマキールティが問題にするヴェーダの意味の理解可能性につい
70
ては,今日の我々がそうしているように,ミーマーンサーにとっては理解可能だといわね
ばならない。このようにダルマキールティの批判はミーマーンサーに対する真に有効な批
判とはなっていない。ミーマーンサーの真価は認められておらず,その最も深い論点は扱
われていない。
ダルマキールティの批判は建設的な議論というよりは論争のための論争というべきであ
る。これは古典インド哲学に一般的に見られる傾向であるが,ダルマキールティもその一
例といわねばならない。
以上,本報告では,ダルマキールティによる批判を,仏教徒側からだけではなく,ミー
マーンサー学説の正当な評価に立って捉えなおすことにより,ダルマキールティの批判に
対する批判を可能にし,インド古典哲学に存在する多様な立場とそれら各々に対する正当
な評価の重要性を再認識することが出来た。
【議論の概要】
桂氏が,ヴェーダをもっとも重視す
るミーマーンサー学派と人間の解脱を
最重視するダルマキールティを始めと
する仏教徒にとっては,そもそも彼ら
の学問の目的に基本的な相異があるの
ではないか,と問うと,テイバー氏は,
ミーマーンサーも理想的な解脱を認め
ているが,それはダルマ(義務)の遵
奉によって得られるとされると答えた。
また,さらに若原氏は,ダルマキー
ルティにとっての実質的な論点は,ミーマーンサーの解釈学によって確立されるヴェーダ
聖典の内的整合性やヴェーダの伝承の正統性にあるのではなくて,通常の知覚によって認
識されえない外的対象と聖典との関係にあり,これについてはダルマキールティの議論に
も説得性があると思うがどうか,とたずねた。これに対し,テイバー氏は,「もし超感官的
な事柄を知覚出来ないならば」ということがヴェーダの問題とすることであり,これはミ
ーマーンサーにとっても困難な問題であるから,これに対してどのような回答があるかを
問題とした。我々は,たとえ超感官的なものに達することはできなくてもヴェーダの意味
する答えを知ることが出来る,実際我々は皆そうしている,我々はある意味で皆ミーマー
ンサカであると,締めくくった。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第6回
報告題目
ユニット 1(南アジア地域班)研究会
① タイ調査報告-国際エンゲージド・ブッディズム・ネットワーク(INEB)
に出席して② スリランカ調査報告-世界仏教徒大会に出席して
開催日時
2011 年 1 月 27 日(木)16:00~19:00
開催場所
龍谷大学大宮学舎清風館 3 階共同研究室 301
報告者
① 嵩満也(龍谷大学国際文化学部教授)
② 中村尚司(龍谷大学人間科学宗教総合研究センター・研究フェロー)
参加人数
9人
【コメンテーター】佐藤智水(龍谷大学文学部教授)
長崎暢子(龍谷大学人間科学宗教総合研究センター研究フェロー)
【報告のポイント】
嵩・中村両氏より,地域,宗派などによって異なる経典を使う仏教徒の交流活動につい
て報告がなされた。嵩氏は,国際エンゲージド・ブッディズム・ネットワーク会議に出席
し,特に東南アジア諸国の仏教徒が各々の事情をかかえながらも,今後連携を強めていこ
うとする活動の実態を説明した。中村氏は,世界仏教徒会議スリランカ大会に出席したこ
と,さらにスリランカの仏教徒や市民の社会活動の実態を報告した。
【報告の概要】
まず,タイで行われた国際エンゲージド・ブッディズム・ネットワーク会議(INEB)へ
出席した嵩氏が,会議の様子や会議の参加者への聞き取り調査の内容を公表した。会議で
は,タイ,ミャンマー,ラオス,マレーシア,インドネシア,インド,台湾,日本の活動
報告,次年度の活動方針が話し合われたことが報告された。聞き取り調査は,ミャンマー,
マレーシア,インドからの参加者に行われたが,国によって仏教徒がかかえる問題や,仏
教徒と社会との関係が異なっている現状が存在することが判明した。しかし,東南アジア
の仏教徒は,
「仏教」という結びつきで INEB のような組織を通してネットワークを作りつ
つある。韓国仏教や台湾仏教が積極的に東南アジアの仏教とのネットワークを構築してい
るのに比べ,日本の仏教教団の存在感は薄いと報告が締めくくられた。
次に,中村氏よりスリランカで行われた第 25 回世界仏教徒会議スリランカ大会の内容や
スリランカ市民の現状報告がなされた。今回の大会のテーマは,「仏陀の教えによる社会的
和解」であり,全日本仏教会もこれに参加したこと,様々な宗派や団体をこえた世界の仏
教徒との交流があったことが紹介された。会議では,執行役員に中国人やスリランカ人が
選出され,次回の大会は韓国であることが決定し,世界各地の仏教徒が連携しつつあるこ
とも報告された。加えて,中村氏は,社会活動を担っている宗教団体や市民団体と交流し
たことを報告した。
72
【議論の概要】
嵩氏に対して佐藤氏は,聞き取り調査の報告に関連してプーナで仏教活動を行っている
ローカミトラという人物について質問した。嵩氏は,アンベードカルの思想の継承を掲げ
る Jambudvipa Trust という組織とローカミトラ氏の関係を紹介した。中村氏に対して長崎氏
は,仏教徒同士のネットワークについて,各々の社会や仏教徒の歴史などをふまえ多様な
方向からつながりを深めていくべきだとコメントし議論を締めくくった。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第7回
ユニット 1(南アジア地域班)研究会
報告題目
How to teach a Buddhist monk to refute the outsiders? Text-critical remarks on
some works by Bhāviveka
開催日時
2011 年 1 月 28 日(金)17:00~19:00
開催場所
龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
報告者
ヘルムート・クラッサー(オーストリア科学アカデミー/アジア文化・思想
史研究所所長,ウィーン大学チベット学仏教学科講師)
参加人数
28 人
【コメンテーター】桂紹隆(龍谷大学文学部教授)
【報告のポイント】
六世紀ごろに活躍したインド仏教中期中観派の学匠バーヴィヴェーカ(清弁)に帰せら
れている三つの論典を取り上げ,それらのテキストに見られる仏教以外の思想に対するバ
ーヴィヴェーカの反応に焦点を当てた報告であった。六派哲学などの異教徒に対して,仏
教徒であるバーヴィヴェーカがどのような態度をとったのかということを,そのテキスト
が実際にどのようにして記されたのか,またチベット訳の問題をも射程にいれて,文献を
読み解いた。
【報告の概要】
クラッサー氏は,中論に対するバーヴィヴェーカの注釈『般若灯論』,彼の自著『中観心
論頌』,及びその注釈書『思択炎』を使用し,主としてチベット語訳を用い,
『中観心論頌』
のみ梵本が残っている場合はそれを提示して検討を加えた。
まず『般若灯論』の特徴的な表現に注目し,六派哲学
の一派であるミーマーンサー学派などを批判しているこ
とを指摘した。先行研究をもとに『般若灯論』において
その表現が用いられている箇所を網羅的に挙げ,それに
対するアヴァローキタヴラタによる注釈の記述を交えて
紹介した。
氏はバーヴィヴェーカと異教徒とが対論しているトピックのひとつである「如来の一切
智者性」などを取り上げ,「如来は他の人と変わらない人間であるので一切智者ではない」
という説が今回取り上げたテキストに共通して見られることを指摘し,その一々の記事を
確認し,細かな点を比較した。
さらに「bstan bcos byed pa(論書作者)」
「slob dpon(ācārya,師)」という語が,著者自身
を指すことばとして『思択炎』に用いられていることに注意を促した。後者に関して,著
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者が自分のことを「先生」と呼ぶというこの不自然な現象が起こっているのは,書記のよ
うな者が先生であるバーヴィヴェーカのことばを筆録していたからであり,つまり,先生
が「わたしは云々」と言ったことを,書記が「先生は云々」というように記したからでは
ないか,ということを提案した。このように,テキストが実際にどのように造られていっ
たのかを思い描くことは,テキストを読み解く際のヒントとなる可能性があるということ
を述べた。
以上,本報告では,2010 年度ユニット 1(南アジア地域班)第 3 回研究会におけるホル
スト・ラシッチ氏の発表にも通じるテキストの多様な伝播過程の一端が考察された。
【議論の概要】
桂紹隆氏は,クラッサー氏の創造的でかつ堅実な研究姿勢を高く評価し,また,テキス
トが造られた現場について考えるということに賛意を表した。また,フロアから,当該の
三つのテキストの著者問題に関する見解を質し,それを解決するひとつの方向性を示唆す
る報告として発表者の見解を評価する声が上がった。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
75
第8回
ユニット 1(南アジア地域班)研究会
報告題目
① Differentiating Dignāga: A Question of Identity in the Prasannapadā
② Three
Yogācāra
Texts
on
the
Ideal
Debater:
Yogācārabhūmi,
Abhidharmasamuccaya and Abhidharma-samuccayabhāṣya
開催日時
2011 年 2 月 18 日(金)16:00~19:00
開催場所
龍谷大学大宮学舎清風館 3 階共同研究室 301
報告者
① アン・マクドナルド(オーストリア科学アカデミー/アジア文化・思想
史研究所研究員)
② アルベルト・トデスキーニ(ヴァージニア大学宗教学科博士課程修了)
参加人数
16 人
【コメンテーター】桂紹隆(龍谷大学文学部教授)
【報告のポイント】
アン・マクドナルド氏は,チャンドラキールティ(月称)による『中論』注釈書の『プ
ラサンナパダー(明らかなことば)
』を取り上げ,そこに見られるインド論理学に関する記
述を考察対象とした。その論理学説は従来,仏教論理学の大成者であるディグナーガ(陳
那)のものであると思われてきたが,有力な証拠を基にした緻密な論証によってそれがデ
ィグナーガの説ではないことを証明し,同時にそれがニヤーヤ学派の説であることを明ら
かにした。
アルベルト・トデスキーニ氏は,『瑜伽師地論(ヨーガーチャーラブーミ)』などの記述
をもとに,インド人,特に仏教徒が使用していた議論の進め方,方法について述べた。
【報告の概要】
龍樹の流れを汲むインド中観派を研究対象としているマクドナルド氏は,7 世紀前半に活
躍したチャンドラキールティの研究者である。今回,マクドナルド氏が考察対象としたの
は『プラサンナパダー』第一章に見られる「存在物は生じたものではない」という月称の
主張に対する「ある者」からの批判である。従来,その「ある者」がチャンドラキールテ
ィを批判する際に「知識の対象の理解は知識手段に依拠している」という文言を用いてい
ることから,同様の主張を表明しているディグナーガが「ある者」と考えられてきた。こ
れまで,マーク・シデリッツ氏のみが当該箇所の一部がニヤーヤ学派のものであるという
主張をしていた。シデリッツ氏が指摘したニヤーヤ学派の文献をマクドナルド氏が調査し
た際に,ウドヨータカラの『ニヤーヤヴァールティカ』に当該箇所と同様の議論が存在す
ることを見いだした。
マクドナルド氏が指摘するように『プラサンナパダー』と『ニヤーヤヴァールティカ』
の議論はかなりの部分で一致し, 前者の著者であるチャンドラキールティがニヤーヤ学派
の説を意識してそれを引用していたということは明白である。また,ヴァーツャーヤナの
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『ニヤーヤバーシャ』にも同様の議論が見られることも併せて指摘し,「ある者」が仏教内
部のディグナーガではなく,ニヤーヤ学派であることを論証した。
トデスキーニ氏は,『瑜伽師地論』
『阿毘達磨集論』『阿毘達磨雑集論』を使用し,インド
の仏教徒のスピーチ,論証,及び討論の実践に関連する問題を考察した。また,パーリ語
資料である『論事』やニカーヤの資料も合わせて用いた。理想的な討論者の特性として,
自分自身及び相手の学説に対する知識,言具円満,無畏,平静,丁寧,辨才があげられる。
こうした特性をそなえた人は,論争の勝敗に関して有利な立場にある一方,仏教徒が討論
者として持つべきだと考えていた性質の多くを反映するようなやり方で振る舞うのである。
トデスキーニ氏は,議論の背景を明らかにするために八正道の正語や,対話・論争・討論・
教理的議論に対する仏教徒の一般的な態度にも言及した。
以上のふたつの報告では,古代インド仏教徒が異教徒や他学派と関わり議論する様子が
改めて明らかにされたが,現代アジアにおいて仏教徒が論理的に他宗教や異宗派との対話
をするための参考にもなる機会であった。
【議論の概要】
桂氏は,マクドナルド氏の主張に大筋で賛同していたが,当該箇所の中に見られる「ニ
シュチャヤ(決定,niṣcaya)」ということばがディグナーガにとって重要なタームであると
いうことを指摘し,依然として「ある者」がディグナーガである可能性があるということ
を提示した。他にもフロアからは発表者の研究の進展を期待する声が聞かれ,特に,『プラ
サンナパダー』第一章のテキスト校訂と翻訳を出版することに期待が寄せられていた。ま
た,トデスキーニ氏に対して,桂氏は,研究の進んでいない分野であるが,重要な研究で
あり興味深いため,これからの研究に期待すると締めくくった。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第9回
報告題目
ユニット 1(南アジア地域班)研究会
The Good Monk and His Wife are Seldom Parted
-Reflections on Married Monks in Indian Buddhism-
開催日時
2011 年 2 月 23 日(水)10:00~12:00
開催場所
龍谷大学大宮学舎清風館 3 階共同研究室 301
報告者
シェーン・クラーク(マクマスター大学社会科学部宗教学科准教授)
参加人数
18 人
【コメンテーター】井上綾瀬(龍谷大学アジア仏教文化研究センター・ユニット 1
RA)
【報告のポイント】
本報告では,結婚や離婚についてのインドの慣習,律文献に見られる出家前は夫婦であ
った比丘と比丘尼の出家後の生活,彼等の仏教教団内での子育ての方法が報告された。ま
た,中央アジア出土の文献に見られる比丘の生活や僧団運営と律文献との対応も紹介され
た。
【報告の概要】
クラーク氏は,まず,古代インドの仏教教団に見ら
れる社会史に注目していることを述べ,インドの僧団
に家族が存在し得たか,例えば,夫婦が一緒に出家す
ることがあったのか,そうならば子供をどうするのか,
子供を産んだ比丘尼は教団内に残れたのか,教団内で
の子供の保育はどのようなものだったのか,という疑
問を提示した。そして,その答えを律文献の中から探
した。
まず,古代インドで離婚がどのように行われていたか,妻の立場がどのようなものであ
ったかを『マヌ法典』や『アルタシャーストラ』の例をとりあげ説明した。さらに,仏教
文献における「妻」に関する分類を『根本説一切有部毘奈耶』を例に紹介した。
さらに,律文献では,比丘が出家する際には離婚は必要ではなく,両親の同意さえあれ
ば出家出来たこと,比丘尼が出家する際には両親の同意に加え夫の許可が必要であったこ
とが確認された。そのため,出家生活に入る為に離婚は必要でなかったことが紹介された。
さらに,出家前に夫婦であった比丘と比丘尼が一緒に昼食をとるという因縁譚をもつ比丘
尼波逸提法第六条供給無病比丘水扇戒から,出家後も仲睦まじい様子をみせる比丘・比丘
尼を紹介し,これらの様子はインドでは普段の比丘達の生活の様子であったとした。また,
捨堕法第四条使非親尼浣故衣戒に記されるウダーイン比丘とグプター比丘尼の夫婦の因縁
譚から,教団内で性交渉を介さずに妊娠した子供は,律の規定上,生み育てることが可能
であったことが確認された。
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また,3 世紀の中央アジアの情報であるが,僧院で妻帯する比丘や,家庭を築きながら比
丘として活動し得た事例を紹介し,もし,このような生活を営んでいたなら,そのような
比丘は,家庭を営みつつパートタイムで修行する信心深い仏教の専門家にほかならないと
指摘した。
以上,本報告では,古代インド社会での結婚や離婚に関する規則,律文献に見られる出
家前には夫婦であった比丘と比丘尼が出家後にどのような生活を送っていたかの紹介があ
った。また,クラーク氏は,仏教哲学や教説の研究と共に,比丘の実生活についても研究
することが仏教を多角的にみるために必要だと締めくくった。
【議論の概要】
井上氏は,比丘尼波逸提法第六条供給無病比丘水扇戒や捨堕法第四条使非親尼浣故衣戒
は,比丘の生活として通常の状態か,例外なのか,さらに,離婚をせずに出家してもそれ
は結婚したままと言えるのか,と質問した。これに対し,クラーク氏は,律文献は教団内
で使われたため記述以上のことは言えないとしながらも,古代インド社会においての離婚
は妻を「売ること」「不動産として運用すること」のいずれかを意味するとし,それに当て
はまらない比丘と比丘尼の場合は「結婚したまま」だと答えた。
また,フロアから,佐々木閑氏(花園大学文学部教授)が,本報告の比丘・比丘尼の生
活実態には同意できるが,
「中央アジアの比丘」の様子を因縁譚と律文献の内容に対応させ,
「インド内部の比丘」の生活が乱れていたと考えることが妥当かと質問した。クラーク氏
は,捨堕法第四条使非親尼浣故衣戒では,性交渉を介さずに子供が出来たので波羅夷第一
条婬戒には該当せず,律文献内での整合性に乱れが無いことに同意し,
「中央アジアの比丘」
の様子と律文献の関わりについては結びつきを示す資料が少ないと述べた。しかし,イン
ド内部において比丘達の生活が乱れていなかった証拠もないと指摘した。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
79
ユニット2(中央アジア地域班)
第1回
ユニット 2(中央アジア地域班)研究会
『国際敦煌プロジェクト
開催日時
研究シンポジウム』
「大谷探検隊と IDP」部会
2010 年 7 月 13 日(火)9:10~12:30「大谷探検隊と IDP」部会 (IDP 日程:
12 日(月)13:00~16:20,13 日(火)9:10~12:30,13:00~17:00)
開催場所
龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
報告者
三谷真澄「龍谷大学と旅順博物館の非漢字資料-その意義と保存状況」
橘堂晃一「契丹大蔵経とウイグル仏教」
入澤
参加人数
崇「オーレル・スタインと大谷探検隊」
120 人
【報告のポイント】
1994 年,大英図書館を中心に国際協力を通した中央アジア出土文物の保存及び情報発信
を目的として国際敦煌プロジェクト(略称 IDP)が設立された。2004 年より龍谷大学古典
籍デジタルアーカイブ研究センターが日本代表の IDP-Japan となり研究が進められている。
中央アジア出土の歴史遺産は仏教に関連するものが多く,仏教関連文物からは仏教の多様
性がうかがえ,IDP はこれを世界に向けて発信していく活動を続けている。IDP のサイトに
は仏教に焦点をあてた教育プログラムも用意されている。このプログラムは,中央アジア
世界で民族・文化の違いを乗り越えて広まった仏教に現代社会が抱える様々な問題を解決
する糸口が見えるのではないかとの問題意識から生まれた。これは龍谷大学アジア仏教文
化研究センターのユニット 2(中央アジア)の構想と軌を一にするものである。
7 月 12 日,本学大宮学舎において,今後5年間にわたり IDP と本学との間で共同研究を継
続することが確認された。これに併せて本研究センターのユニット 2 研究会も兼ねて開催
された本研究シンポジウムでは,岡田至弘氏(本学理工学部教授)が開会の辞としてこれ
までの活動を総括し,スーザン・ウィットフィールド氏(IDP プロジェクトディレクター)
によりプロジェクトの概要が報告されたのをはじめとして,IDP の現在の活動,研究・公開
を進める上での資料の保存・修復方法の検討,IDP 公開データベースに基づく研究成果が報
告された。
本研究センターからは,岡田氏の総括をはじめ,三谷真澄氏,橘堂晃一氏,入澤崇氏が
「大谷探検隊と IDP」の部会を設け,ユニット 2 の研究発表を行った。以下にその概要を報
告する。
【報告の概要】
三谷氏は,「龍谷大学と旅順博物館の非漢字資料-その意義と保存状況」と題して大谷探
検隊将来中央アジア出土文献について,龍谷大学と旅順博物館所蔵の文物を中心にこれま
80
での保管状況とその調査研究の現状を報告
した。2002 年より開始された旅順博物館と
の漢字資料の共同研究において,大谷探検
隊将来本のなかには他に類例のみない「菩
薩懺悔文」が含まれる点,新たに浄土教テ
キストが 85 点確認された点が改めて報告さ
れた。非漢字資料については,共同研究に
より新たに発見された未整理の資料も含め
て,保管方法が一致していることから龍谷
大学所蔵資料と旅順博物館所蔵資料が少なくともある時点では一括して整理されていたこ
とが明らかであることが報告された。これらは古典籍デジタルアーカイブ研究センターの
協力を得て,文書の原初の紙色の再現を考慮しつつデジタル処理が行われ,成果公開に向
けた解読作業が行われている。
橘堂氏は,「契丹大蔵経とウイグル仏教」と題して,契丹大蔵経が遠くトルファンからも
発見され,そこにウイグル人が利用した痕跡のある写本が相当数あることを報告した。さ
らにウイグル人が書写した漢字の分析を通して,契丹大蔵経に独特の鋭利な刀法による文
字が,ウイグル人の書写と類似している点等から,契丹大蔵経のウイグル人に与えた影響
が指摘された。最後に,契丹仏教が 10 世紀~12 世紀の東アジア仏教の一大センターであっ
たという再評価をとおして,この観点には,今後さらに西方との関連を含めて考察してい
く必要があることを提示した。報告後,大阪大学・森安孝夫氏から出されたウイグル仏教
はどのような影響を契丹(遼)に与えたのかという質問に対して,橘堂氏はウイグル人の
サンスクリット語の素養が契丹で求められていた可能性を挙げた。
入澤氏は,「オーレル・スタインと大谷探検隊」と題して,まず,オーレル・スタインが
中央アジアへ出向く以前に既に仏教に関心を持っていたことを,彼のインド仏跡調査(1899
年)の記録から明らかにした。そして,スタインの影響をうけた大谷探検隊のリーダー大
谷光瑞はアジアで最初の王立地理学協会会員であり,世界認識への欲求が彼を探検に駆り
立てたことを当時の資料より浮き彫りにしてみせた。さらに光瑞の地理学への情熱には,
仏教的世界観と西洋から齎された科学的世界観との間の相克があり,仏教者としての世界
認識が大谷探検隊の底流にあったと指摘。最後に,仏教が大きく動いたかつての文明の道
の解明は,今後さらに検討されるべきとの提言がなされた。
この他,イムレ・ガランボス氏(IDP)により,第二次大谷探検隊についてイギリス外交文
書を利用した新知見,および和田秀寿氏(龍谷ミュージアム)からは,二楽荘を中心とす
る大谷光瑞の宗門活動の意図が報告された。
以上,本報告は,ユニット 2 の研究目的の一つである中央アジア出土文献の調査・解読
81
研究についての中間報告となるものであり,中央アジア出土文献の調査状況及び,20 世紀
初頭の大谷探検隊の動向について新たな一面を提示するものとなった。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第2回
ユニット 2(中央アジア地域班)研究会
報告題目
モンゴル国最古のチベット仏教寺院エルデニゾー研究の現状とその意義
開催日時
2010 年 12 月 9 日(木)16:45~18:15
開催場所
龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
報告者
村岡
参加人数
13 人
倫(龍谷大学文学部教授)
【コメンテーター】入澤
崇(龍谷大学文学部教授)
【報告のポイント】
モンゴル帝国時代の旧都カラコルム跡に隣接する,モンゴル現存最古の仏教寺院エルデ
ニゾーについては寺院を含むオルホン渓谷が世界遺産に登録されて以来,注目を集めてい
るが,本格的な考古学調査・専門的研究はその緒についたばかりである。村岡倫氏はその
学術調査に積極的に参加している第一人者である。報告において村岡氏は,エルデニゾー
の歴史を俯瞰した上で,モンゴル時代史研究におけるエルデニゾーのフィールドワークの
重要性を訴えた。それを端的に示す事例として,かつてカラコルム内に立てられ,後代エ
ルデニゾーの伽藍に再利用された碑文の復元・解読を通じて,仏教・儒教・道教・キリス
ト教・イスラーム教が共生していた宗教多元都市としてのカラコルムの姿の一端を提示し
た。
【報告の概要】
エルデニゾーは108の白塔に囲まれ10を超え
る伽藍群で構成される,モンゴルで今も信仰を
集めるチベット仏教寺院である。
寺院の創建は,1585年にハルハのアバダイ=
カアンが,カラコルム跡にあった小さな寺でダ
ライ=ラマ信仰を始めたことに由来する。これ
はクビライの子孫であるアバタイ=カアンが
自身の王権強化のためにチベット仏教ゲルク
派の高僧ソナムギャツォと会見したことに刺
激された動きであった。その後もエルデニゾーは旧都カラコルムの廃材を利用した増築を
重ねて現在にいたっている。
近年,日本・モンゴル共同で行われている「ビチェース(碑文)・プロジェクト」と称
する国際研究をはじめ,ドイツ隊による考古学調査もカラコルム地域を対象に行われてい
る。こうした状況をうけて,モンゴル時代史に再考を迫る史料が次々に発見されている。
その一例として2007年に発見された断碑が紹介された。碑は,その内容から伝説の伏羲,
神農,黄帝を三皇として祭る「三皇廟碑」の一部である。モンゴル時代,神農は医の神で
あることから,三皇に「医の聖人」としての新たな地位が付与されて国家祭祀となってい
たが,本碑はカラコルムにおいてもその祭祀が行われていたことを示す重要資料となる。
同碑には,建碑された年代の手掛かりも残されていた。モンゴル帝国第4代カアン,モン
83
ケの後裔に与えられた郯王・并王という王号が同碑にみえる。郯王はチェチェクトゥが133
1年に,并王はコンコ=テムルが1325年に与えられた王号である。それゆえ碑は1331年から
コンコ・テムルの没年である1335年の間に立てられたことがわかる。
エルデニゾーからは,三皇廟碑文の他に,孔子廟碑も見つかっており,カラコルムにお
ける祠廟祭祀の実態を明らかにする資料として期待されている。
最後に村岡氏は,エルデニゾー研究における今後の課題として以下の4点を挙げた。
① 日本による学術的援助の継続。
② 「勅賜興元閣碑文」の解読研究。「興元閣」とはモンケ=カアンによって建造された
仏教寺院が1340年代に改修された際の名で,古くからカラコルムから「興元閣」碑の
いくつかの断片が発見されていたが,近年の碑文解読と考古学調査から,これまでカ
アンの宮殿と考えられてきたカラコルム遺跡の大型建物跡が興元閣である可能性が
高まった。一方で宮殿の位置についても考え直す必要がでてきた。研究者たちの間で
は,宮殿跡はエルデニゾーの下にあるのではないかと推測する。
③ モンゴル帝国の首都カラコルムの宗教都市としての位置づけ。1254年のカラコルムの
記録には,偶像崇拝の寺院が12,イスラームのモスクが2,キリスト教会が1,存在し
ていたとある。偶像崇拝の寺院とは,道観や孔子廟も含まれていると思われるが,多
くは仏教寺院とみられる。これら様々な宗教の共生を可能にした背景について考察す
る必要がある。
④ 100年前にエルデニゾーを調査した大谷探検隊の記録の再検討。当時の調査記録が殆
どない現状において貴重な史料であり,大谷探検隊が採取した拓碑も含めてさらなる
調査が必要である。
以上,本報告は現在のモンゴル帝国史調査の最前線を紹介するとともに,モンゴル帝国
支配下の仏教と諸宗教の諸相について新たな一側面を提示するものであった。
【議論の概要】
入澤崇氏は,大谷探検隊の調査記録にエルデニゾーの調査が,その主眼と記されている
ことを挙げ,彼らの目的を継承するためにも,探検隊がエルデニゾーの情報をどこから得
たのか,その情報源を中心として再検証する必要性を述べた。さらに当地の仏教に関して
国家祭祀の詳細はどの程度明らかとなるのかという質問を行った。これに対し村岡氏は,
『元史』の記述にカラコルムで仏事を行わせた例があると答えた。
次いで佐藤智水氏により,モンゴル文と漢文が両面に記載された場合,一般的にどちら
を正面とみるか,そしてエルデニゾーの作例はどう捉えるか質問がなされた。村岡氏は,
一般的にはモンゴル文が正面とみられるが,漢文が正面といわれる例も紹介した。
宮治昭氏は,ドイツ隊により報告されている仏像の作例に関して,一部様式が古いと考
えられるものが見受けられると述べ,カラコルム遺跡では,モンゴル帝国時代より前の建
造物などの報告はされていないか質問を行った。村岡氏は,エルデニゾー城壁部分では確
実にウイグル時代の層が認められること,カラコルム全体においてもウイグル時代になん
らかの建造物がありモンゴル時代に再利用がなされたものもあるとみられると述べた。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
84
第3回
ユニット 2(中央アジア地域班)研究会
報告題目
チベットにおける活仏の位階制度について
開催日時
2010 年 12 月 16 日(木)15:00~16:30
開催場所
龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
報告者
ダワ・ツェリン(中国蔵学研究中心宗教研究所副研究員,龍谷大学仏教文化
研究所客員研究員・沼田奨学金受給者)
参加人数
71 人
【コメンテーター】能仁
正顕(龍谷大学文学部教授)
【報告のポイント】
活仏とは,一般にはチベット社会において菩薩の化身とみなされ,輪廻転生によってその
身分が引き継がれる転生者を指す。今日,活仏はチベット仏教における特殊な存在として
よく知られているが,すでに800年の歴史をもつ活仏の位階制度の実像については,文献史
料が希少であり,先行研究も少ないためその実態は未だ明らかではない。ダワ・ツェリン
氏は,活仏と位階制度の歴史的変遷,位階の変動を中心に報告を行い,現在の活仏を巡る
位階制度に至るまでには,歴史,外交,政治,経済的な背景が複雑に関連していることを
示した。
【報告の概要】
活仏の位階はチベットの伝統的な位階制度と密接に関わるが,宗派の政教的地位,教理
への造詣,宗派の影響,寺院の大きさ等に深く関係する点で世俗の位階制度と異なってい
る。政教一致のチベット社会では,活仏の地位は政教儀礼を通じて表される。例えば,座
席の順序,座席の高さ(座布団の枚数による),帽子や天蓋の使用,御輿に乗る資格,布
施の額などによって位階が象徴される。
以上のように活仏の位階制度の概念を規定したうえで,ダワ氏は位階制度の歴史的経過
と変遷を詳細に説明した。13世紀初頭,チベット仏教内部ではすでに位階制度が出来つつ
あり,その後,第5代ダライラマの時代には『チベット地方政府の式典における座席の規定』
が定められ,儀礼時の活仏の席次が明確化した。この史料より,当時と比較すれば現在の
地位に高低の差異がある活仏も存在することがわかる。以降,第7世,第12世ダライラマ時
代を経て,チベット政府内の官吏は,僧俗問わず全て統一した等級のなかで規定される方
向に進んでいった。
当時の史料から,第5世ダライラマは自身を首席として,7段階の席次を設定し,座席の
高さや座布団の生地および座席の前に置くものまで規定したことがわかる。座席の順序が
乱れ,争いが起こったためと記されるが,恐らく自政権を確立したことで当時の宗教界の
秩序を整合し自政権の宗教的権威を樹立する狙いがあった。また,自身に次ぐ座席に対立
候補であるサキャ派のサキャ法王とカギュ派のゼトゥン寺住職を置いて,彼らの宗教的権
威にも配慮した点にダライラマ5世の卓越した政治手腕が認められる。
活仏制度も成熟期に入った清朝初期,清朝が公認する活仏は二種に大別出来る。第一に
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四大活仏(ダライラマ,パンチェンラマ,チャンジャフトクト,ジェプツンタンバ)であ
り,第二に清朝皇帝と歴代ダライラマ,及びパンチェンラマから与えられた「フトクト」
という称号を持つ活仏である。
前者は,パンチェンラマ以下の三者の地位を格上げし,それぞれ地域管轄を持たせるこ
とにより,ダライラマのモンゴルとチベットへの絶大な影響力を分散させようとした清朝
の政治的意図がみてとれる。後者は,モンゴル語で「長寿」を意味する。清朝以来モンゴ
ルやチベットの活仏の政教官職となり,フトクトの資格を持つ活仏はチベットにおいて摂
政を務めることが出来た。フトクトの認証には,必ず清朝政府の許可を得なければならな
い。実際には北京駐在,チベット,甘粛・青海の諸地域にそれぞれ複数のフトクトが存在
し,それぞれの職務に大きな差がある。
現在の中国では,活仏の等級について5種,3種,6種に分類する見解がある。チベット自
治区档案館の資料によると,カシャ政府は活仏の位階を,大,中,小に大別している。こ
れはラサ三大寺の活仏が政府会議に出席する際の混乱を避ける狙いがある。
一方で宗派も独自の階位を立てた。デプン,セラ,ガンデンのラサのゲルク派三大寺では,
ツォチェン(大講堂),ザツァン(学堂),カンチァン(僧房)活仏の三階位が立てられ
ることが知られている。ツォチェン活仏は寺所属の僧侶全員が集まる大講堂のなかに決ま
った席がある。彼らはカシャ政府に登録される必要があり,就任式には政府代表が派遣さ
れる。ザツァン活仏は大講堂に決まった席はなく,政府に承認される必要はない。カンチ
ァン活仏は僧房内で尊敬をうけるが,大講堂,学堂内では普通の僧侶と変わらない。この
位階はそのまま政治的,経済的な権力に反映している。
このように現実に活仏には様々な階級がみられる。活仏の地位は政治,宗教事件により
変動する事例も報告されている。しかしながら特定の活仏の地位は定まっており,全体的
にみても変動は少ないとみられる。
以上,本報告は,チベット社会において様々な位置づけ,背景を持った多種多様の活仏
が活動し機能している状況を再認識させると共に,従来の教理や哲学的な関心からの活仏
理解に対して新たな視座を提供するものであった。
【議論の概要】
能仁正顕氏は,それぞれの寺院で
様々な位階の活仏が存在する状況
について,現在は彼ら全てを転生と
いえるのか,つまり活仏の地位は転
生を通じてか,修行の階梯として与
えられる例もあるのか質問を行っ
た。
対してツェリン氏は以下のよう
に述べた。知る限り,2007年に中国
政府は『活仏管理規定』を発表して
おり,現在はこの規定に基づき位が
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与えられている。大活仏は中央政府の許可をうけるが,中活仏は自治区,縣単位で認定さ
れる場合もある。活仏はその寺院によりさらに位置づけが異なる。地方の小寺では,自ら
認定した活仏も存在している。彼らは中央政府から非合法と位置付けられている。現在チ
ベットでは寺院管理委員会が存在し,青海省ではこの主任が活仏として住職に当たる位階
に就任する例が多い。政治的地位の高い活仏の位も存在し,結婚している例もある。つま
り職業としての活仏の存在も認められる。また活仏のなかには医者になるものもある。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第4回
ユニット2(中央アジア地域班)研究会「文化財でつなぐ中央アジア」
開催日時
2010 年 12 月 21 日(木)13:15~16:30
開催場所
龍谷大学大宮学舎清和館 3Fホール
報告者
オマラ・ハーン・マスーディ(アフガニスタン国立博物館館長)
「アフガニスタンの文化財」
樊錦詩(中国敦煌研究院院長)
「敦煌の文化財」
岡田至弘(龍谷大学理工学部教授)
「科学技術で甦る仏教世界」
参加人数
97 人
【ファシリテーター】入澤
崇(龍谷大学文学部教授)
【コメンテーター】
昭(龍谷大学文学部教授)
宮治
【報告のポイント】
中央アジアにおいて仏教は残念ながら廃れた。だが現在数多く残された仏教遺跡・仏教
文化財は,かつてこの地域で仏教が影響力を持っていたことを如実に物語っており,さら
に東西文化交流の様相を具体的に示してもいる。仏教の多様性をみるうえで中央アジアは
格好の舞台であり,この地に展開した仏教の様相を詳しく知り,伝えていくことは仏教の
可能性を考察するうえでも重要であると考える。しかしながら,中央アジアでの文化財保
護事業は容易でない。西のアフガニスタンでは多くの文化財が消失・流出の危機に瀕し,
東の敦煌石窟でも保存上の問題が憂慮されている。本研究会では,その両地域での文化財
保存に携わる代表者として,アフガニスタン国立博物館館長のオマラ・ハーン・マスーデ
ィ氏,中国敦煌研究院院長の樊錦詩氏により保存の現状と課題について報告が行なわれた。
そして,失われた文化財のデジタル復元や保存,文化財情報の発信を行う龍谷大学古典籍
デジタルアーカイブセンター・センター長,龍谷大学理工学部教授の岡田至弘氏よりデジ
タル保存の現状と学術研究の展開について報告が行われ,仏教文化財をとりまく現状と今
後の可能性が明確化された。
【報告の概要】:
マスーディ氏は,
「アフガニスタンの文化財」と題して,30 年にわたる内戦がアフガニス
タンの文化と文化財に与えた多大な影響と,博物館職員たちの文化財保存への取り組みに
ついて記録写真資料と共に報告した。10 万点を超える先史時代からの文化財を有していた
アフガニスタン国立博物館は 1992 年から 94 年の間に甚大な爆撃被害を受け,収蔵品の 7
割も略奪された。博物館の要といえる目録や資料も,僅かなものを残して消失した。実は
タリバン政権がカーブルを占拠する直前,館員たちは仏像を含む重要な収蔵品を市内に移
し,電気もないなか,新しい目録作成を行っていた。彼らの努力のもと,本格的な修復作
業は 2003 年から続けられ,現在は日本の援助による陳列ケースも装備され展示の再開に動
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いている。現在,盗掘により紛失した美術
品も徐々に博物館に戻されつつあり,粉々
になった美術品も現地職員と国際支援によ
り修復が進められている。さらに近年では
現地での発掘も再開し,アフガニスタンの
地下にはさらなる遺跡が存在していること
が明らかになっている。今後も保存と調査
が進められていかなければならない。
樊氏は,「敦煌の文化財」と題し,敦煌の文化財を写真で紹介したうえで,敦煌研究院の
敦煌学研究のこれまでの総括と今後の展望を報告した。周知の如く 1900 年を契機に敦煌莫
高窟にて発見されたいわゆる敦煌文献は世界的な注目を集めこれらの文献研究や関連する
美術・考古学的研究は敦煌学として発展した。樊氏は敦煌研究院の拡大に即してその活動
を,1940 年からの草創期,1950 年からの発展期,1980 年代からの黄金期として区分した。
人員も不足していた初期から保存のための対策を模索し,壁画については模写も続け,窟
前遺跡を中心に発掘作業も行った。これらの活動は全て学術刊行書,図版として刊行され,
1981 年からは雑誌『敦煌研究』を刊行し,様々な研究者の情報提供の場となっている。現
在は集大成となる敦煌石窟全集も企画されている。ここ数年は情報資料としてデータベー
スの構築を行い,敦煌文化財について国際間での資料提供につとめている。今後も敦煌文
化財を保存するための作業が継続されるとともに,この情報資料から新たな研究分野が開
拓されることが望まれる。
岡田氏は,「科学技術で甦る仏教世界」と題し,単純なデジタル保存,保管にとどまらず
実物をいかに忠実に再現するか,また仏教世界とデジタル保存をつなぐ文化財の内容その
ものの解析検討も行う古典籍デジタルアーカイブセンターの取り組みを紹介した。まず,
文化財の現物計測は保管場所において短時間で行うことが求められるなか,デジタルアー
カイブセンターでは,中央アジアのキジル石窟壁画,ベゼクリク石窟壁画復元をとおして,
通常の計測のみでは伝わらない表面のざらつき,凹凸といった質感,顔料の特定に関して
も測定した。この表面の質感を測定した技術は,大谷探検隊将来舎利容器の三次元復元の
際にも,通常計測した三次元モデルに対して表面の微細なモデルをマッピングするなど応
用されている。こうした技術により作成された三次元のデータは自由にどの角度からも,
また現物を破壊せずに観察することが出来る。デジタル復元されたベゼクリク石窟寺院の
内部および,西本願寺障壁画は 2011 年開館の龍谷ミュージアムで展示される予定である。
このようにデジタル技術を用いた復元ないし保存事業は実物をリアルに把握することに貢
献し,より多面的な研究に寄与する。
【議論の概要】
以上の報告に対して,宮治昭氏は以下のように述べた。文化財を守り伝えている各方面
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の最先端の努力が紹介されたことは貴重な機会である。我々はこの文化財と如何に向き合
うかが問われている。文物が訴えている事柄に対して学術的な研究を行うとともに,多く
の人と共有できる形にしていく努力は続けられなくてはならない。文化財が伝える情報を
人類の遺産として共同して考えていく姿勢が必要である。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
90
ユニット3(東アジア地域班)
第1回
報告題目
ユニット 3(東アジア地域班)研究会
中国中世仏教の展開にみる社会史的意義-任継愈主編『中国仏教史』に対す
る一見解-
開催日時
2010 年 7 月 22 日(木) 13:15~14:45
開催場所
龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
報告者
佐藤智水(龍谷大学文学部教授)
参加人数
29 人
【コメンテーター】中川
修(龍谷大学文学部教授)
長谷川岳史(龍谷大学経営学部准教授)
【報告のポイント】
現在の中国知識人・庶民の仏教観に多大な影響を与えた任継愈主編『中国仏教史』は,
唯物史観に基づいて叙述された,数少ない優れた中国仏教通史である。しかし,切り口が
明確な首尾一貫した見方(手法)は,時に,社会と宗教の歴史的経緯の一面的理解に留ま
る危険性がある。これに対して,佐藤智水氏は自身のフィールドワークを通じて,仏教を
媒介として民衆の力量が成長していることを指摘し,現代にも繋がる仏教の課題を提示し
た。
【報告の概要】
佐藤氏は報告の導入として,山西省太谷
県塔寺石窟についてスライド資料を用いて
解説した。塔寺石窟は北魏太和 16 年(492)
の紀年造像銘を有する,晋中・晋南地域(山
西省の中~南部)における現存最古の仏教
遺跡である。供養者は庶人である白氏を中
心とする集団である。また,供養者に多く
の女性が含まれていることは注目される。
これは仏教が広く社会に浸透し,民衆の間
に仏教に対する期待が広がっていたことを示している。
次に佐藤氏は,任継愈主編『中国仏教史』について,現在の中国知識人・庶民の仏教観
に多大な影響を与えた数少ない中国仏教通史であると評価した。ただし「仏教信奉者は騙
された被害者」とし,現代の目線である封建支配階級と被支配階級という二元的な手法で
過去を分析するのは,民衆の有する力量の成長を歴史的に全く評価しないことになる危険
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性があると,佐藤氏は提言する。
身分制が社会の根底にある南北朝時代において,『梁高僧伝』などに登場する僧は,出自
が定かでない,あるいは当時の身分制の中ではとるにたらない家柄であることが多い。つ
まり,当時の身分制では表舞台に登場し得ない人材が仏教発展を担ったという点が,この
時代の仏教の特徴である。この点を具体的に明らかにすることも,当該時代の仏教を見る
のに欠かせない観点であると佐藤氏は言う。
このような観点から見ると,竺道生が先導した「悉有仏性」は,身分制の枠を越え,自
らの行為が自らの運命を転換するという発想を提示することで,民衆に極めて大きな影響
を与えたと佐藤氏は評価する。「悉有仏性」「因果応報」などの思想を通して,民衆は自己
に許された範囲で自らを解放し,それぞれの歴史時代において主体的に活動していた。
冒頭で述べた塔寺石窟は,以上のような仏教を通した民衆の成長を示す一例である。塔
寺石窟の造営には,多くの女性が参画している。南北朝時代は比較的女性が精力的に活動
した時期であるが,塔寺石窟のような事例は儒教的倫理世界ではあまり取り上げられない。
このような民衆に対する仏教の影響力を評価せずに,中国仏教の総体を語ることはできな
い。これを評価しなければ,仏教の可能性を見ないという態度に繋がる。それを回避する
ためには,「被害者」と見なされていた民衆が,それぞれの歴史過程で主体的に生きていた
有様を提示し,仏教を通して人間としての解放を願いつつ,少しずつ成長する姿を丁寧に
叙述する必要があると,佐藤氏は述べる。
このように,「悉有仏性」という思想が民衆に受容された背景には,身分制など,その時
代の抱えている根源的な矛盾・課題が存在しており,仏教者はこの課題の解決に取り組ん
できた。現代の仏教者は,こうした民衆の要求,あるいは現代の根源的課題に敏感でなけ
ればならないと,佐藤氏は現代仏教の課題を示した。
以上,本報告は中国における社会と宗教の歴史的経緯について,仏教を通した民衆の成
長の有様を示すことで,
「右肩下がり」と評価される現代仏教復活の可能性を提起するもの
であった。
【議論の概要】
中川修氏は,身分制を克服するものとして登場する仏教が,北朝・南朝における礼秩序
とどのように関わるのか,あるいはどのような形態で日本へ伝わったのかという疑問が喚
起されると述べた。また,任氏の見解に見られる中国仏教史のあり方や,佐藤氏による,
時代の根底にある仏教の認識を考察するという視点は,今後の日本仏教史研究のあり方を
考える上で重要であると述べた。
長谷川岳史氏は,竺道生が先導した「悉有仏性」の伏線には,『牟子理惑論』などで初期
中国仏教の思想的特徴として述べられ,慧遠にも継承されている「神不滅」「応報」という
中国独自の柱があり,応報の受け皿としての「神」が,『涅槃経』の伝来によって「仏性」
ととらえられたと考えられるという見解を述べた。また,
「一切衆生
92
悉有仏性」という思
想が,民衆に伝達されるプロセスに関する質問がなされた。前者に対し佐藤氏は,そのよ
うな理解も可能であるが,慧遠の「神不滅」は「現世の身分のまま来世へ行く」という考
え方であり,身分制から脱却する段階に至っておらず,「悉有仏性」とは落差があると述べ
た。また,後者については,伝達の詳細なプロセス解明は今後の課題であるが,北魏時代
に入ると仏像建立に際して比較的簡単に官の許可が得られ,上位身分の人でなくとも仏像
が作れるようになり,そこに刻まれた願文から,民衆が自分も成道できると考えるように
なった様子が看取できると回答した。
宮治昭氏は,塔寺石窟の供養者である白氏は亀茲の白氏と関連するのか,また石窟造営
に出家僧が関わっていたのかという質問を行った。前者に対して佐藤氏は,山西省では甘
粛省など西方から移住してきた集団が仏教を信奉していた痕跡が確認できるため,白氏も
漢族ではない可能性があると回答した。後者に対しては,供養者名に「比丘」の名が確認
できるため,民衆が出家僧に相談する形で造営が行われた可能性を示唆した。
小田義久氏は,二十余年前に龍谷大学において任継愈氏の講演が行われた当時の状況を
紹介し,『中国仏教史』は中国仏教の概説書として非常に明快なものであるという評価を述
べた。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第2回
ユニット 3(東アジア地域班)研究会
報告題目
中国における仏身観の展開とその多様性
開催日時
2010 年 10 月 7 日(木) 16:45~18:15
開催場所
龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
報告者
長谷川岳史(龍谷大学経営学部准教授)
参加人数
37 人
【コメンテーター】佐藤智水(龍谷大学文学部教授)
【報告のポイント】
中国における仏教思想については,インドにおける思想的展開の影響下で,それを受容し
てきたと理解される傾向がある。しかし,中国側はインドから伝来したすべての思想を受
容したわけではなく,そこにはある種の需要と供給の関係があると言わねばならない。こ
の点について,長谷川岳史氏は中国における仏身観の展開を題材とし,特に従来の二身説
と新しく将来された三身説を整合する動きが活発になる 6 世紀後半から 7 世紀前半におけ
る諸師の思想を,初期中国仏教からの思想的展開の中に位置づけた。
【報告の概要】
長谷川氏は,中国における仏身観研究において,鳩摩羅什以前の仏身観の検討が不十分で
あることを指摘し,中国における仏身観の展開の起点として「老子化胡」説と「形尽神不
滅」論に着目する。初期中国仏教は,仏教徒にとって本意ではなかったものの,黄老信仰
や老荘思想に包括され,老子を仏陀の本源とし,仏陀を老子の化身と理解する「老子化胡」
説により,その存在が意義づけされていた。ここで生じた仏陀(釈尊)=化身という見方
はこの後も継承されていく。一方で中国に衝撃を与えた「形尽神不滅」論は仏教の特色と
され,中国仏教は「老子化胡」説と「形尽神不滅」論との整合の問題を抱えることになる。
鳩摩羅什のもたらした二身説は,この整合の問題に対して,真身(法身)=神不滅,化身
(応身)=形尽という,老子を排除した形での解答を与えるものであった。ただし,この
ことによって二身の解釈が多様化していったものと考えられ,一律的な二身説が構築され
たとは考えにくいと長谷川氏は述べる。
そして,三身説の登場によってこの事態は更に混乱する。それは,伝来した三身説が一
律でなかったからである。従って,ここでは単なる二身説から三身説への移行ではなく,
これまで多種多様に説かれてきた仏身観を体系的に位置づける試みが急速に展開する。そ
こで隋代の諸師は,真・応二身の枠を構築し,そのもとに異なる三身説を整理していった。
つまり,中国における二身説の確立と三身説の確立は同時で同意義であったと,長谷川氏
は隋代における諸師の多様な仏身観を整理した。
一方,個別の仏,特に阿弥陀仏(無量寿仏)に対する関心は,無仏感に起因する現在仏
の存在の確認と,凡夫としての僧自らの成仏への入口探しによるものである。慧遠・智顗・
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吉蔵が,阿弥陀仏を応身とし,その土を応土として,自らの仏身観の最下位に置く理由は,
現在の自らの位置確認の意味も含んでいる。そして,この背景には釈尊入滅という事実確
認に基づく末法観があり,同時に未来仏の出現を期待する弥勒に対する関心も並行すると
長谷川氏は述べる。
往々に,中国仏教は情報源がインドにあり,その受容先という感覚で論じられ,「経典が
伝わった」ことが,「内容が広まった」ことと同義に述べられることがある。しかし,実際
は中国側に受容する動機があり,その需要のもとに受容されたと考えるべきである。そし
て,その需要の柱を見つけることが中国仏教思想研究の発展につながり,更には日本仏教
の再構築のための一つの契機になると,長谷川氏は提言した。
以上,本報告は中国における仏身観の展開を通して,インドから伝播した仏教の中国側
の需要に基づく受容のあり方を読み解き,そこから導き出される中国仏教思想史,あるい
は日本仏教思想史の再構築の可能性について言及するものであった。
【議論の概要】
佐藤智水氏は,二身説と三身説の確立が
同時並行的に行われていったという点は,
中国における仏身観の特徴であると述べた。
また,最初に「老子化胡」を提言したのは
仏家であり,その後に道家が仏家を非難す
るためにこの説を利用するようになったの
ではないかと指摘した。そして,初期中国
仏教においては仏陀を「能仁」と表現し,
「仁
の極みなり」と表現することがある点も補
足した。
大局的に見ると中国思想は,具体的なことを積み重ねて大きなことを考える点に特徴があ
り,抽象的な概念に弱いと言われてきた。しかし,5~7 世紀,諸師が身命を賭して取り組
んだ「仏とは何か」という問題を解決するためのエネルギーがどこから出てきたのかとい
う点は,中国思想史においても極めて興味深いテーマであると佐藤氏は述べた。
また,5~7 世紀の民衆にとって,
「人格性を追求する」という仏教の教えは魅力なものであ
った。これと比較すると,現代人は「人格性の追求」とは別のところに価値を見出してい
るのかもしれないと,佐藤氏は現代仏教の課題を提起した。
倉本尚徳氏は,造像銘における「法身」は,用語的に玄学と密接な関係を有しているが,
この点をどのように理解するのか,また仏の利他の発動としての感応思想と三身説の関係
を,どのように理解すればよいのかという質問を行った。前者について長谷川氏は,当然
玄学方面からの分析も必要であるが,仏教用語と玄学用語を明確に分類することが可能か
という問題もあるため今後の課題としたいと答えた。後者について長谷川氏は,一例とし
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て,唐代の『成唯識論』の仏身観を例に挙げた。自性身(法身)が理体としてあり,仏陀
たる自受用身が四つの智慧をもって自性身を所縁としており,この智慧を自受用身が働か
せるという形で仏は姿を現す。その智慧の中には,姿を現す智慧と説法の内容を選択する
智慧とがある。利他の発動の起点は,「凡夫・二乗・地前の菩薩」と「地上の菩薩」におい
て区別があると,長谷川氏は回答した。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第3回
ユニット 3(東アジア地域班)研究会
報告題目
天台本覚思想論
開催日時
2010 年 10 月 15 日(金) 15:00~16:30
開催場所
龍谷大学大宮学舎清和館 3 階ホール
報告者
末木文美士(国際日本文化研究センター教授)
参加人数
160 人
【コメンテーター】淺田正博(龍谷大学文学部教授)
【報告のポイント】
現在,本覚思想研究は新展開を迎えているが,末木文美士氏は研究者によって「本覚思
想」の捉え方が様々であることから,本覚思想は必ずしも同一視できない違うタイプの思
想動向の中にあるのではないかと提起した。本覚思想の展開について,田村芳朗氏による
相即論の四段階の分類に対して,末木氏は更にそれに続く「心を悟る」という段階を想定
し,そこに禅の影響を見出した。また,日本中世の禅と密教の関係を指摘し,天台・禅・
密教という広い視野からの本覚思想研究を試みた。
【報告の概要】
末木氏は報告の導入として,本覚思想の研究史を振り返った。まず第 1 期(明治末~昭
和 10 年頃まで)は,島地大等氏の諸研究によって本覚思想の重要性が認識された時期であ
る。島地氏の研究を受けた第 2 期(昭和 10~20 年代)には,硲慈弘氏により,本覚思想文
献について詳細な検討がなされる一方,浅井要麟氏は日蓮と関連させながら,本覚思想に
対して批判的な文献研究を進めた。こうした研究を受け,第 3 期(昭和 30 年代~昭和終わ
り頃)に入ると本覚思想研究は広がりを見せ,様々な宗派において研究が進められた。浄
土系では佐藤哲英氏・石田瑞麿氏,曹洞宗では山内舜雄氏,日蓮系では田村芳朗氏が本覚
思想研究を発展させた。一方,黒田俊雄氏は,歴史学の立場から顕密体制の中核思想とし
て本覚思想を位置づけた。黒田氏が本覚思想を歴史の中に位置づけようとしたのに対し,
第 4 期(平成以降)において,袴谷憲昭氏は仏教思想として本覚思想をどう評価するかと
いう大きな問題を提起した。そして現在,本覚思想は海外の研究者にも注目され,その研
究は新展開を迎えている。しかし,末木氏は研究者によって「本覚思想」の捉え方が様々
であることから,本覚思想は必ずしも同一視できない違うタイプの思想動向の中にあるの
ではないかと提起し,自身の本覚思想論について述べた。
まず,末木氏は田村芳朗・松本史朗両氏の述べる相即論の二類型について整理した。前
者は基本的相即論(空)
・内在的相即論(悉有仏性)・顕現的相即論(理顕本)・顕在的相即
論(事常住)の四段階,後者は仏性内在論・仏性顕在論の二段階に分類する。それに対し
て末木氏は,顕在的相即論や仏性顕在論の段階では修行の必要がないとされるが,その次
の段階として「心を悟る」という実践的な段階が想定できると述べ,田村氏の顕在的相即
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論を「本覚思想A」,それに続く「心を悟る」という実践的な要素が現れる段階を「本覚思
想B」と規定した。
その上で,末木氏は『漢光類聚』の中の四重興廃における本門(煩悩即煩悩・菩提即菩
提)を本覚思想Aと捉えた。天台では,更に観門(非煩悩・非菩提)が加わり,これが本
覚思想Bに相当する。つまり,煩悩・菩提を越えた絶対的な心の認識が成立する段階であ
る。このようなB段階を主張する研究者は何人かいるが,末木氏は自身の考えとして特に
禅の影響があったと述べる。
中国の禅にも本覚思想A・Bに分類できる思想がある。懶瓉和尚「楽道歌」や馬祖の「是
心是仏」「平常心是道」という,無事禅が悟りの姿であるという思想は本覚思想Aの段階に
相当する。その一方で,宗密『禅源諸詮集都序』の中に見られる,禅の三宗の最高の立場
である「直顕心性宗」,教の三種の最高の立場である「顕示真心即性教」のように,心の本
性を悟るという本覚思想Bに相当する考え方がある。
このように,末木氏は天台本覚思想と禅の関係を考察した上で,日本中世の禅の見直し
について提起した。従来,中世の禅は「ひたすら座禅をする」というイメージで捉えられ
ていたが,実際は様々な思想,特に密教と密接な関係を持ちながら発展している。それは,
光宗『渓嵐拾葉集』「禅家教家同異事」などの例に垣間見られるが,天台・禅・密教という
三者の関係についてはなお検討の余地があると末木氏は指摘した。
以上,本報告は天台本覚思想の展開について,研究動向を精査した上で「心を悟る」と
いう本覚思想Bの段階を設定し,天台本覚思想と禅の関係,更には禅と密教との関係を指
摘することで,今後の本覚思想研究の方向性を提示するものであった。
【議論の概要】
淺田正博氏より,本覚思想Bという段階を
設定する場合,文献学派との関係をどのよう
に理解すればよいのかという質問がなされ
た。末木氏は,中世における本覚思想的な発
想は観心の方向に進んでいき,文献学という
よりは主観的な方向に進んでいくものであ
ると述べた。その一方で,中世においても文
献に基づいて講義が行われており,近世以後
の文献学的な手法を意識したものとは異な
るものの,中世にも文献重視の流れはあった。こうした文献学の流れと本覚思想の展開を
どのように理解していくのかという点は,今後解明すべき点であると末木氏は回答した。
また,フロアーからは天台・禅・密教の関係について質問がなされた。末木氏は,ポイ
ントとなるのは本覚思想と密教の関係であるが,手掛かりとなる『渓嵐拾葉集』における
密教の影響,あるいは天台本覚思想・禅・密教の関係についてはなお検討の余地があると
98
回答した。
更に,天台の回峰行や止観と本覚思想の関係をどのように理解すればよいかという質問
がなされ,現在の天台に本覚思想がどのような影響を与えているのかという視点からも議
論が行われた。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第4回
ユニット 3(東アジア地域班)研究会
報告題目
日本における神仏習合の歴史的検証
開催日時
2010 年 10 月 20 日(水)9:00~10:30
開催場所
龍谷大学大宮学舎清和館 3 階ホール
報告者
中川修(龍谷大学文学部教授)<古代>
下間一頼(龍谷大学仏教文化研究所客員研究員)<中世>
山下立(滋賀県立安土城考古博物館学芸員)<美術>
赤松徹真(龍谷大学文学部教授)<近現代>
参加人数
72 人
【報告のポイント】
日本における仏教の受容は,在来の神祇信仰との関係によって多様な歴史的展開をたど
り,日本の社会・文化の中で「神仏習合」を形成した。特に注視すべきことは,神仏習合
の展開が人間の平等性・尊厳性・普遍精神等を培うことに関係し,社会・文化の形成をも
たらすものであった点である。
本シンポジウムは,「歴史学・仏教学・美術史学的観点から東アジア各地で展開した仏教
の歴史的特質と現代的課題を探る」というユニット 3 の研究目標と関連し,神仏習合の歴
史的検証について各研究分担者が報告を行うものである。本研究センターからは,中川修
氏,赤松徹真氏がそれぞれ「古代」と「近現代」を担当し,報告を行った。
【報告の概要】
中川氏は「神仏習合研究の方法」と題して,神仏習合研究の枠組みと現代の研究課題に
ついて報告を行った。辻善之助氏は神仏習合の成立過程について,奈良時代後半から十世
紀以降まで,
「神明は仏法を擁護する」→「神明は仏法によりて苦悩を脱する」→「神明は
仏法によりて悟りを開く」→「神は仏となる」と展開し,最終的に神仏同体論に到達した
という「辻のシェーマ」を確立し,神仏習合研究はこの見取り図の枠内で述べられてきた。
一方,津田左右吉氏は「仏による神の包摂」,三枝博音氏・鳥井博郎氏は「神の仏への従属」
と神仏習合を理解する。このような見解が戦後の神仏習合研究の前提となったが,これは
釈尊の本義とはかけ離れた「魔術的な仏教解釈」とされ,唯物史観の影響もあって歴史的
評価は高くなかった。辻氏の見解の前提となるのは,鷲尾順敬氏・喜田貞吉氏による神仏
関係の論争であり,鷲尾氏は仏教徒としての信仰の立場から,喜田氏は近代歴史学の立場
から神仏関係について述べている。辻氏は仏教信仰と歴史学の狭間で苦悩し,その結果と
して「辻のシェーマ」を形成した。以上の経緯を踏まえ,研究者側の仏教認識を明確化し,
釈尊の教えの中で神仏習合は成立するのか,どのような仏教理解の上で成立するのかとい
う点を考慮し,日本古代史上における神仏関係の展開を考察していく必要があると,中川
氏は提言した。
100
赤松氏は,
「神仏習合の動向―人間の根源的・普遍的課題を顕現する仏教の課題」と題し
て,戦前・戦後の神仏関係の展開と仏教の現代的な可能性について報告を行った。明治以
前の神仏習合という幅広い宗教意識は,明治新政府の方針の中で神仏分離へと展開し,臣
民の道徳としての「敬神崇祖」が歴史的に定着していく。当時の社会ではあらゆる事柄が
「日本国家」に収斂し,やがて「天皇」を中心とする組織・秩序・価値観を形成し,
「日本」
という一元的な価値観,
「国体」を神聖視する考え方が現れた。戦後,政教分離によって戦
前には非宗教とされた神社信仰が宗教と認識され,戦後の宗教意識調査の中では神仏両方
を重要視するという考え方が 70%を占める。日本人は宗教に対して節操がないといわれる
が,それは換言すれば宗教に対する重層性を表し,日本の宗教の特色といえる。現在,戦
前の排他的神道に対する反省や,日本の伝統文化の見直しの中で神仏習合論が再生されつ
つある。ただし仏教の根源的な普遍性を理解し,更にはその動向を歴史的に考察する必要
があると,赤松氏は提言した。
この他,下間一頼氏は神仏習合外来説の再考により,単に史料を提示するのではなく日
本社会において如何に信仰されていたのかという視点を忘れてはいけないと指摘した。ま
た,山下立氏は写真資料を用いて神像の成立と展開を提示し,造形作品を単に造形の問題
に収斂するのではなく,それを通して信仰のありようを考察する必要があると提言した。
以上,本シンポジウムは「仏教の宗教的寛容性と日本社会への定着について考察する」
というユニット 3 サブユニット 2 の研究目標とも合致し,「神仏習合」を通して現代におけ
る仏教史研究の可能性を提示するものであった
【議論の概要】
報告終了後,報告者による討論が行われた。
下間氏は,中国において成立した神仏関係の
論理が日本に入ってくる場合,受容側の問題
が重要である点を再度強調した。山下氏は,
仏教史的な展開と美術史的展開が未だ上手
く関連付けられていないという問題を提起
した。中川氏は,奈良時代以降の仏教の展開
を見ると,天台宗の仏性論などを用いて神仏
習合の論理を説明しようとしている点を指
摘し,中国の仏教界における神仏関係論の展開も注視する必要があると指摘した。赤松氏
は,国際化する世界の中で日本・日本人の誇りへと収斂する伝統文化の中に神仏習合が連
結する場合,一元化されない多様性の中で考えるべきであり,神仏習合や明治以前の文化・
伝統の見直しが必要であることを指摘した。
討論の後,シンポジウム全体に対する質疑応答が行われた。藤能成氏は,比叡山の日吉
神社における例を挙げ,神官より僧侶の方が上位であるという社会的位置づけがあり,「神
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明が仏に従属する」という観念が生まれたのではないかという質問を行った。中川氏は,
比叡山では 9 世紀後半にも年分度者が認められたが,その背景には「神を仏教が救う」と
いう論理があり,こうした歴史的事実を意識して考えなければならないと回答した。
藤原正信氏は,辻のシェーマの中の「神明は仏法により苦悩を脱する」という理解にお
ける「苦悩」とは何なのか,また現代仏教のありようの中で神仏習合・神仏分離の研究を
どのように行うべきかという質問を行った。前者に対して赤松氏は,神に対する願いは直
ちに解決されるものではなく,その解決方法として仏法があると述べ,そこにどういう論
理が発生するのかという点は今後の課題であると回答した。後者に対して中川氏は,当時
の人々の神明・仏法理解については検討の必要があるが,仏教の本来的なあり方から見る
視点は必要であると述べた。また,その視点こそが仏教の普遍性であり,研究課題である
と回答した。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第5回
ユニット 3(東アジア地域班)研究会
報告題目
唐代城市寺院の社会功能及びその延伸
開催日時
2010 年 11 月 19 日(金) 15:00~16:30
開催場所
龍谷大学大宮学舎西黌 2 階大会議室
報告者
寧欣(北京師範大学歴史学院教授)
参加人数
51 人
【コメンテーター】木田知生(龍谷大学文学部教授)
【報告のポイント】
仏教寺院の社会的機能については早くより学界において注目されており,中国中世期に
おける寺院の都市社会発展への寄与というものは決して軽視できるものではない。寧欣氏
は唐・宋代の寺院が,市民社会の形成過程において,公共空間の発展に果たした役割と貢
献について述べ,寺院と地域社会の関係の一端を明らかにした。
【報告の概要】
寧欣氏は報告の導入として,唐代長安城の都市規格と構造について解説した。唐代長安
の寺院の特徴は,数が多い点,分布が広い点,敷地面積が広い点,特例的に大通りに面し
て居を構えることができた点,増加傾向にあった点である。こうした立地条件も,寺院が
公共空間としての機能を有するようになった一因と考えられる。
次に,寧欣氏は唐代寺院の公共空間としての機能とその形式について述べた。唐代長安
の寺院は憩いと休養の場であり,文化交流の場としての機能も有していた。寺院では講座
が開かれており,文人たちが寺院に集って様々な結社を作って交流した。
また,唐代長安の正規の劇場は寺院の中にのみ見られた。まだ一般向けの娯楽にはなっ
ていなかったが,この時点ですでに娯楽提供の場として発展していたといえる。一方,上
元県(いまの南京)にあった瓦官寺では大規模な法要が営まれて多くの人々が参集し,紹
興の宝林寺などでは劇が盛大に上演されており,地方の有力寺院も劇場としての機能を有
していたと推測される。これらの寺院は交通の要衝に位置し,大食・日本・新羅等の商人
が訪れ,商業活動の中心地でもあった。
寺院が行った各種の宗教行事もまた,文化的娯楽の重要な構成要素となった。このよう
な宗教行事の様子は,円仁『入唐求法巡礼行記』や韓愈「華山女」の詩などに描かれてい
る。一部の研究者は,唐代寺院の劇場と宋代の瓦舎・勾欄との関係について論じているが,
少なくとも市民社会の形成過程において,仏教寺院がそれを推進する役割を果たしていた
ということは確かであると寧欣氏は述べる。
こうした行事は徐々に宗教性を失い,商業的な性質を帯びた行事も催されるようになり,
更には人々が自分の居宅を喜捨して寺院としたことにより,都市公共空間はますます広が
っていった。粗悪な偽造貨幣が流通し,悪銭を両替する政策が打ち出された際,その両替
103
場所として寺院や道観が選ばれたことも,
公共空間としての寺院の機能を示してい
る。
次に,寧欣氏は宋代の寺院の機能につ
いて解説した。宋代以降の寺院は,旅舎・
倉庫・公園・金銭の貸し借りなどの社会
的機能を有し,これは都市にとって非常
に重要なものであった。北宋開封の大相
国寺は皇室と関係の深い寺院であり,先
述のような機能によって開封を市場経済と物資流通の中心地へとなさしめた。
この後,形成された寺院の廟会とそれを基礎として発展した廟会経済は,中国社会の一
つの特色となった。例えば,明清期の北京の廟会では一つの廟会に参加した寺廟が十数カ
所,多い時は数十カ所あった。これらの廟会の様子は『水滸伝』『紅楼夢』『拍案驚奇』な
どにも描かれている。寧欣氏はスライドを交えながら,現在も行われている各地の様々な
特色ある廟会の様子を紹介した。
最後に,寧欣氏は唐代の坊市から宋代の街市へと至る変化は,都市構造に重要な変革を
もたらし,寺院はその変化の中で終始開放的な位置にありながら,都市の発展を促進して
いったと述べ,中国中世の都市の発展において寺院が果たした役割について整理した。
以上,本報告は唐から宋へ都市形態が変容する中で,寺院が果たした公共空間としての
機能を通して,寺院を支える地域社会のあり方を明らかにするものであった。
【議論の概要】
木田知生氏より以下の 4 点の質問がなされた。
1 点目は,中国の廟会と通ずる点もある現代日本の縁日についてである。寧欣氏は,日本
の縁日は直接中国宋代の廟会の伝統を継承しているように感じられ,京都の東寺や北野天
満宮の縁日はその代表例であると述べた。縁日は「社会的活動の場を都市に提供する」「都
市住民の生活を豊かにする」「都市の風情に活気を与える」等の機能を有している。廟会・
縁日は寺院が主導して直接的に参加している社会的・経済的活動であり,寺院と住民の関
係を更に良いものにしていると寧欣氏は回答した。
2 点目は唐宋変革の問題についてである。寧欣氏は,唐宋変革という問題は内藤湖南氏の
提示以来,伝統的かつ新しい問題であると述べ,唐宋間は体制や制度,社会生活に及ぶま
でかなり大きな変革を伴ったと回答した。
3 点目は,五代時代の研究についてである。寧欣氏は,唐・五代・宋というのは確実につ
ながりを持つ時代であると評価した。唐の長安は閉鎖的に作られているが,北宋の開封は
かなり開放的に作られている。例えば,南宋時代の杭州は城外に向かって都市が建設され,
それは五代呉越の都市プランを継承したものと考えられる。このような基本的な構造は,
104
その後の時代でも継承されていると寧欣氏は答えた。
4 点目は,坊市の変化についてである。寧欣氏は,唐代の坊市から宋代の街市への変化は,
都市の問題を考える上で非常に重要な問題であると述べた。坊市は人々の活動を時間的に
制限したが,都市人口増加・外来人口増加によって徐々に都市の実情に適合しなくなった。
五代以降になると,都市は個々の状況に応じて建設されるようになった。北宋時代,街市
制度が確立すると,都市の商業,特にサービス業・娯楽業が活発化し,都市市民・外来人
口に対する規制が緩くなり,多くの農村人口が都市に集中した。そこで市民階級が形成さ
れ,都市全体の社会的重点が市民階級に移っていく。このような現象は中国の都市化にお
ける特徴的な変化であると寧欣氏は回答した。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第1回
中国仏教石刻研究会[ユニット 3(東アジア地域班)]
報告題目
□洪徳造釈迦如来像記
開催日時
2010 年 7 月 3 日(土)14:00~17:00
開催場所
龍谷大学大宮学舎仏教史学合同研究室
報告者
桐原孝見(龍谷大学文学研究科修士課程) 吉岡慈文(龍谷大学文学部史学
科仏教史学専攻 4 回生)
参加人数
13 人
【中国仏教石刻研究会について】
ユニット 3 では,研究の教育への還元および研究者育成の一環として,大学院生と学部
生を対象とした中国仏教石刻研究会を定期的に開催している。本研究会は,中国の造像碑
や僧尼の墓誌などの仏教関係の石刻文の釈読を行い,特に,仏教が中国の地域社会に普及
し始めた重要な時期である北朝時代のものを中心に取り扱っている。中国における民衆仏
教の展開を解明し,身分・民族を越えた人々の多様な仏教信仰のあり方を明らかにしてい
くことが,本研究会の目的である。
【報告の概要】
「□洪徳造釈迦如来像記」※□は欠字
出土地は不明。北周建徳 2 年(573)の紀年を持つ造像記である。「□洪徳が亡弟 洪智の
ために釈迦如来像を建立した」という点は読み取ることが可能であるが,銘文は欠字が多
いため,内容を正確に理解することは困難である。
また,供養者は線刻で描かれ,傍らに供養者名が刻まれている。そのほとんどが「党氏」
「雷
氏」「昨和氏」「屈男氏」など羌族の姓を有しており,描かれた人物の服装も漢民族のもの
とは異なっている。一方,供養者として,官職を有する男性以外に女性や幼い子供の姿が
描かれている点も特徴的である。
この造像碑から,北周における,女性や子供を含んだ羌族の佛教信仰の様相の一端を窺
い知ることができる。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
106
第2回
中国仏教石刻研究会[ユニット 3(東アジア地域班)]
報告題目
北魏永安二年大覚寺元尼墓誌銘并序
開催日時
2010 年 8 月 7 日(土)14:00~17:00
開催場所
龍谷大学大宮学舎仏教史学合同研究室
報告者
赤羽奈津子(龍谷大学文学研究科博士後期課程)
参加人数
9人
【報告の概要】
「北魏永安二年大覚寺元尼墓誌銘并序」
この墓誌は,洛陽で発見され,誌石は陝西博物館,拓本は中国国家図書館などに所蔵さ
れており,北魏永安 2 年(529)の紀年を有する。墓主の純陀は,北魏景穆皇帝の孫であり,
任城王雲の第五女である。当初,彼女は穆氏に嫁ぎ,後に邢巒に再嫁したが子供ができず
邢巒の前妻の子である邢遜を養育した。邢巒の死後は,洛陽大覚寺において尼となり,外
孫である西河王悰のもとに身を寄せ,永安 2 年 10 月 13 日に 55 歳で亡くなった。この際,
邢巒と別葬するように遺言していることから,この墓誌は「降嫁した公主」
「再婚した女性」
「尼となった女性」の埋葬の例として貴重な資料となる。
この墓誌から,夫の死後は尼となり,婚家を離れて親類のもとに身を寄せるという,北
魏における女性の一生,特に子供ができなかった女性の一生を窺い知ることができる。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
107
第3回
中国仏教石刻研究会[ユニット 3(東アジア地域班)]
報告題目
大魏故昭玄沙門大統令法師墓誌銘
開催日時
2010 年 9 月 20 日(月)14:00~17:00
開催場所
龍谷大学大宮学舎仏教史学合同研究室
報告者
倉本尚徳(龍谷大学アジア仏教文化研究センター博士研究員)
参加人数
6人
【報告の概要】
「大魏故昭玄沙門大統令法師墓誌銘」
この墓誌は,洛陽で発見され,誌石は西安碑林に所蔵されており,北魏永熙 3 年(534)
の紀年を有する。墓主の僧令法師は,幼い頃に出家し,北魏孝文帝の頃より宮中に出入り
した。宣武帝・孝明帝の時代には嵩山の閑居寺主に任命され,更に沙門都維那となり,孝
荘帝の時代には僧官のトップである沙門統に転任した。
僧令法師は,沙門都維那や沙門統のような官職を得たが,それを辞退して世俗を離れた
いと考えていた。孝武帝の時代になってようやく官を辞することを許されて隠居し,永熙 3
年に 81 歳で遷化し,2 月 3 日に洛陽邙山に葬られた。
僧令法師の一生を通して,高い僧官の位を得ながらも官を辞して世俗を離れたいという
願望が一貫して表現されており,世俗的には高い地位にあったことを標榜しながらも,同
時に世俗から離れた隠逸的な立場を尊重していたことも強調する必要があるという,僧官
就任者の微妙な立場を窺い知ることができる。この墓誌は国家権力と結びついた北魏仏教
のあり方を理解するための一助となる。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第4回
中国仏教石刻研究会[ユニット 3(東アジア地域班)]
■報告題目:劉未等造像碑
■報告者
:桐原孝見(龍谷大学文学研究科修士課程)
■開催場所:龍谷大学大宮学舎仏教史学合同研究室
■開催日時:2010年12月18日(土)14:00~17:00
■参加人数:11人
【報告の概要】
「劉未等造像碑」
この造像碑は,北魏景明3年(502)の紀年を有している。元々は,河北省房山石佛寺に
あったとされるが,現在はスウェーデンのストックホルムアジア美術館に展示されている。
弥勒像の背面に願文・供養者名が刻まれ,劉未・劉堆・劉寄・劉黑の四兄弟が「国家皇帝」
「七世父母眷属」「村舎大小」のために造像したことが分かる。劉未等四兄弟の他にも,
劉姓の供養者及びその妻子の名が確認できる。また「家祖劉黄兄弟」の名も確認でき,「武
跡景照皇帝」の時に国寵を蒙ったと記されている。この「武跡景照皇帝」については,前
燕の武宣皇帝(慕容廆)・景昭皇帝(慕容儁)等が想定されるものの,詳細は不明である。
この造像碑は,国家の恩寵を感じ,「国家皇帝」のために造像するという,国家と民衆
の関係の一側面を示している。北魏時代における,国家・仏教・民衆の関係を理解するた
めの一助となる資料である。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第5回
中国仏教石刻研究会[ユニット 3(東アジア地域班)]
■報告題目:僧暈等造像記・張道智造像記
■報告者
:桐原孝見(龍谷大学文学研究科修士課程)
佐藤智水(龍谷大学文学部教授)
■開催場所:龍谷大学大宮学舎南黌102教室
■開催日時:2011年1月10日(月)14:00~17:00
■参加人数:11人
【報告の概要】
「僧暈等造像記」
この造像記は,正方形に近い碑石の中央に円形の穴が開けられ,その周囲を囲むように
銘文が刻まれるという特殊な形状をしている。中央の穴の用途は不明であるが,銘文中に
「七寶瓶」という語が確認されることから,この穴に「七寶瓶」あるいは仏舎利を入れて
土中に埋めていた可能性がある。これは「太和五年石函銘」などにも見られる事例である。
銘文によると,太和16年(492),僧暈が「七帝」のために弥勒像と菩薩像を建立し,景
明2年(501)に鋳鐫の作業が終わり,正始2年(505)にこの造像記が作られたという。
この「七帝」という語は,太和15年(491)に行われた廟制改革,太和16年に行われた爵
制改革と関連すると考えられる。特に,太和15年の廟制改革においては,七廟に誰をあて
るのかという議論があった。銘文中に見られる「七帝」は,この時に決定された「七廟」
を反映したものと推測される。
この造像記から,廟制を中心とする祭祀と仏像造像を対応させ,王朝の体制改革に敏感
に対応し,国体の変化に合わせようとする仏教側の様子を看取することができる。国家・
仏教・民衆の関係を考察するための重要な事例である。
「張道智造像記」
この造像記は,北魏正始元年(504)の紀年を有している。銘文によると,張道智という
人物が,自身が所有する土地を五楼村永福寺の寺主に寄進したことが分かる。また,この
碑石を寺院に安置し,斎会のたび,僧たちが施主のために礼拝することを求めるという内
容も読み取ることができる。
この造像記は,「土地を寄進する」という内容を含むため,均田制の問題との関連が示
唆され,地域的な考察の必要性が喚起される。ただし,現存するのは拓本のみであり,碑
石の所在地は不明である。また,張道智や五楼村永福寺についても詳細が判然としない。
また,銘文が刻まれた面の拓本しか確認できないため,背面に何が刻まれていたかという
点も不明である。
一方で,銘文に記された「建立した碑石を寺院に安置し,僧たちが施主のために礼拝す
ることを求める」という点は,寺院と地域住民との関係の一端を表しており,寺院を支え
る地域社会のあり方を示す貴重な資料である。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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第6回
中国仏教石刻研究会[ユニット 3(東アジア地域班)]
報告題目
馬鳴寺根法師碑
開催日時
2011 年 2 月 5 日(土)14:00~17:00
開催場所
龍谷大学大宮学舎仏教史学合同研究室
報告者
高橋亮介(龍谷大学文学研究科博士後期課程)
参加人数
9人
【報告の概要】
この碑文は,北魏正光4年(523)の紀年を有し,碑石は山東省東営市広饒県に現存する。
碑文中には仏教用語が散見され,作者は『法華経』『十地経論』などの知識を有していた
と推測される。また,根法師を「鳩摩羅什」「竺僧朗」と比較する語が確認できるが,泰
山の「竺僧朗」の名が見られる例は珍しく,山東地域の特徴であるといえる。
銘文によると,根法師は弁論に優れた僧であり,八関斎の会には出家・在家問わず多く
の人々が集まり,談論風の法話を行っていた。修禅をよくし,布教活動にも熱心であり,
多くの弟子を有していたが,正光4年2月3日,馬鳴寺において55歳で亡くなった。
この碑文から,当時の山東地域における八関斎の様子や仏教布教の状況を窺うことがで
き,北魏時代の一地方における民間仏教行事のあり方を知ることができる。
また「馬鳴寺」という寺名は,有名なアシュバゴーシャに由来するのであろうが,6世紀
前半に馬鳴を信奉して寺の名としたと思われる。ただ広饒県に建立された寺に,なぜ「馬
鳴寺」という名が付けられたかという点については検討の必要がある。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
111
Ⅴ
その他の講演会
ブータン王国ケサン王女殿下記念講演会
主催:龍谷大学アジア仏教文化研究センター(BARC)
龍谷大学人間・科学・宗教オープン・リサーチ・センター(CHSR)
共催:京都環境文化学術フォーラム
■講題:仏教国ブータン王国の国民総幸福度(GNH)政策
―仏教思想の理念が国民総幸福度政策にどの様に活かされたのか ―
The Program for Gross National Happiness in the Buddhist Kingdom of Bhutan―
The Buddhist Values Expressed in the Gross National Happiness Index
■講師:アシ・ケサン・チョデン・ワンチュック王女殿下
Her Royal Highness Princess Kezang Choden Wangchuck
■ケサン王女殿下を交えての本学仏教研究者とのトークセッション
登壇者:
ブータン王国・・・
ケサン王女殿下
ヴェツォプ・ナムギャル駐日ブータン大使(インド常駐)
カルマ・ツェテーム GHN 委員会次官
龍谷大学・・・
桂
紹隆(BARC センター長・宗教部長・文学部教授)
鍋島直樹(CHSR センター長・法学部教授)
三谷真澄(コーディネーター・国際文化学部准教授・BARC ユニット 2 研究員)
■開催場所:大宮学舎東黌103教室
■開催日時:2011年2月14日(月)10:30~12:00
■参加人数:500 人
■開会の辞
最初に若原道昭学長より,開会の挨拶があり,併せて今回の講演会開催の経緯と趣旨説
明がなされた。第4代ジグメ・センゲ・ワンチュック前国王(1955-,1974戴冠)が,京都府・
京都市・京都大学総合地球環境学研究所など7団体によって,第2回「KYOTO地球環境の殿
堂」の1人に選ばれ,ケサン・チョデン・ワンチュック王女が,父王の名代として来日され
たものである。前日の表彰式,基調講演に引き続いて,龍谷大学で講演会が実現したこと
が紹介された。
■講演会
112
続いて,ケサン王女によって,
「仏教国ブータン王国のGNH政策」について,英語同時通
訳による講演が行われた。GNHは,1970年代に第4代国王によってはじめて提唱され,現在,
GNH政策は,4本の柱(経済発展・環境の保護・文化の推進・良き統治)と9つの領域(精
神面の幸福・人々の健康・教育・文化の多様性・地域の活力・環境の多様性と活力・時間
の使い方とバランス・生活水準/所得・良き統治)を中心として,国家的な取り組みがな
されていることが紹介された。
■トークセッション
トークセッションでは,三谷真澄氏のコーディネートによって,仏教の観点からアプロ
ーチがなされた。
ブータンは,チベット仏教文化圏に属し,大乗仏教を国教とする唯一の独立国であり,
世界有数の「信仰密度」の高い仏教国と言ってよい。近年は,ブータンを扱うテレビ番組
増え,『タイム』誌で毎年発表される「世界で最も影響力のある 100 人」の 2006 年リスト
(Leaders & Revolutionaries)の中にも,第 4 代国王が入っている。今回,「KYOTO 地球環
境の殿堂」の表彰によって知名度はますます高まっている。最近,ブータン王国の GNH 政
策は,政治学,経済学,人類学,環境学,幸福学などさまざまな分野から注目されている。
以下,登壇者よりコメントと質問がなされた。
桂紹隆氏はまずブータン国王が「京都地球環境の殿堂」の表彰を受けたことに対して祝
辞を述べた後,日本とブータンとを比較して次のように述べた。1945年の敗戦後,日本は
戦争によって荒廃した国土の復興と国民の生活の向上を願って,我々はひたすら経済的発
展を目指してきた。GNHの4本柱のうち3つの課題については,ある程度の成果を上げてき
たといえる。
しかし,GNH の第 3 の柱である「文化・伝統の保護/精神的価値の保護」に関しては,
戦後日本は実質的にはなんら積極的な政策を展開してきたとは言えない。その背景には,
日本国憲法で厳格な「政教分離」の原則のもとに一切の「宗教教育」が禁止されているこ
とがあると思われる。その結果,「精神的価値」の保護の中心的役割を担うはずの「家庭」
や「家族」の崩壊が,日本がいま直面しているもっとも重要な問題である。その意味で,
ブータン王国の GNH 政策から日本が学ぶべきことがあると確信している。
さらに桂氏は次のような質問を行った。ブータン王国は仏教を国教としているというこ
とで,その「文化・伝統/精神的価値」の中心は仏教であろうと想像される。仏教王国ブ
ータンの学校教育の現場で,伝統的な精神的価値,すなわち仏教精神を子供達に伝えるた
めに,どのような「宗教教育」が行われているのであろうか。
対して,ヴェツォプ大使,カルマGNH委員会次官により以下の回答がなされた。ブー
タンにおいて,仏教は国教であり,学校では,特に仏教教育ということは行っていない。
それらは,幼少期から家族や地域が担うものである。政教分離を基本としているが,母語
であるゾンカ語の教材や授業等で仏教に触れることはある。一方で,他者への親切,先生
113
への尊敬といった価値観では,仏教の影響が大きい。また,朝の礼拝,ストレス解消に効
果のある「冥想」の時間を全校で取り入れている。
経済的発展と環境保全とのバランスが重要である,それは仏教用語で言うところの middle
path(中道)である。
以上をうけて,三谷氏は次のようにトークセッションを総括した。ブータンの GNH 政策
は,縁起や中道といった仏教精神が基盤にある。日本仏教は大乗仏教が主流であり,ブー
タン仏教も広い意味では大乗仏教に入る。経済発展は,自分や自分の家族,自分の地域,
自分の国のためといった,利己的な側面が強いが,環境保全は,自分以外の他者,他の国,
地球全体のことを考えなければならない。そういう意味で,利他的側面がある。大乗仏教
では,自利(自らのメリット)と利他(他者へのメリット)とが一体であることを説くが,
こういった点も共通ではないか。
今後,伝統を重んじつつ,経済発展と環境保全の両立,立憲議会制民主主義という国家
体制,仏教王国としてのアイデンティを保っていくという,今までどの国も成し遂げたこ
とのない壮大な実験をしている国として,敬意を以て静かに見つめていきたいと思う。
■閉会の辞
最後に,赤松徹真文学部長(文学部教授・BARC ユニット 3 研究員)が,ケサン王女はじ
めブータン王国政府一行に謝辞を述べ,講演会全体の総括をなしつつ,今後の BARC 研究
プロジェクトの課題と展望を提示して終了した。
【文責】龍谷大学アジア仏教文化研究センター
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116
龍谷大学アジア仏教文化研究センター
ワーキングペーパー
No.10-01 (2011 年 1 月 31 日)
中國における觀音信仰の展開の一樣相
―『觀世音十大願經』と「觀世音佛」―
倉本
尚徳
(龍谷大学アジア仏教文化研究センター博士研究員)
目
次
はじめに
一、觀音の成佛を説く主な經典
二、石刻資料・敦煌文獻にみる「觀世音佛」
三、觀世音十大願の石刻
おわりに
【キーワード】:觀世音佛・北朝・石刻・觀音十大願・弘猛慧海經・遺敎經
117
はじめに
觀世音菩薩は、『法華經』普門品などに説かれるように、現世の苦難から人々を救う菩
薩として、釋迦佛や阿彌陀佛に劣らず人々に篤く信仰されてきた。普門品においては、觀
音が大威神力を有する大慈悲の菩薩であることを強調するものの、觀音の來歴は説かれて
おらず、佛敎を受容して閒もない中國の南北朝時代の人々にとって、觀音と佛との關係を
いかに位置づけて理解するか、あるいは、觀音の過去世がいかなるものであり、未來世に
おいて成佛するのか、ということは、大きな關心事であったと考えられる。從來の研究に
おいては、觀音の成佛について、少し言及される程度で專論はないと言ってもよい状況に
ある。本稿では、觀音菩薩の來歴や成佛にかかわる經典の説相について概觀し、敦煌文獻
や南北朝・隋代の石刻資料を利用して、「觀世音佛」にかかわる信仰の樣態を明らかにし
てみたい。なお本稿は筆者の既發表の論稿を基に、具體的に資料を呈示して大幅に補足・
加筆したものである(1) 。
一、觀音の成佛を説く主な經典
中國の南北朝時代には、多くの觀音に關する經典が翻譯あるいは撰述されたが、現在
は失われてしまったものも數多い。觀音の來歴や來世における成佛について言及している
ものはそのうち一部分である。その主たる經典を以下掲げ、それぞれ内容について概觀し
てみよう(2)。
A『悲華經』大施品、授記品
曇無讖譯
【概要】往昔、刪提嵐という名の世界において轉輪聖王無諍念が世を治め、その大臣
寶海の子の寶藏が、出家して無上道を成じ、寶藏如來となった。王の第一太子は不眴とい
い、第二太子は尼摩といった。
王は寶海梵志の勸めもあり、先に供養した善根を無上菩提に廻向し、五十一の大願を發
した。寶藏如來は王が安樂という名の世界で將來成佛し、無量壽如來と號するであろうと
授記する。次に第一太子不眴が佛前に進み出て所願を述べ、佛は太子の名を觀世音と改め、
無量壽如來般涅槃の後、成佛して遍出一切光明功德山王如來と號すると授記し、第二太子
尼摩を得大勢と改め、第三太子を文殊師利と名づけ、乃至第八太子を普賢と名づけて授記
118
し、第九王子を阿閦と名づけて、當方妙樂世界に成佛して阿閦如來と號するであろうと授
記する。最後に寶海梵志は五濁惡世の衆生が顧みられないのを案じて、五百の大誓願を起
こして惡世に成佛せんと願い、當來娑婆世界に成佛して釋迦如來と號すべきと授記される。
B『觀世音菩薩授記經』曇無竭譯
【概要】佛は華德藏菩薩の問いに應じ如幻三昧を説き、この如幻三昧を得た西方安樂
世界の觀世音・得大勢二菩薩が此の土に來詣すると述べる。次いでこの二菩薩が如幻三昧
を獲得したゆえんを述べる。この二菩薩は、過去世において金光師子遊戲如來の國土であ
る無量德聚安樂示現世界に住した。この世界に比するならば、西方安樂世界は一毛端の水
滴の如くである。この無量德聚安樂示現世界に威德王がおり、佛を供養し、無量法印を授
かった。威德王が三昧に入ると、蓮華より寶意・寶上という二童子が化生し、その三人は
ともに佛のもとを訪れ、二童子は佛のもと弘誓願を述べ菩提心を發した。
このときの威德王が釋迦であり、二童子が觀世音・得大勢二菩薩である。阿彌陀佛も
必ず當に入滅の時あって、其の滅後、觀世音菩薩が正覺を成じ普光功德山王如來となり、
その後は、得大勢が成佛し、善住功德寶王如來となる。
C『觀世音三昧經』一卷
中國撰述
この經は、經録では『法經録』卷二・衆經疑惑部にその名が初出する。守屋孝藏氏舊
藏本を底本とし、北八二八〇、北八二八一、S四三三八などと校勘し、現代語譯されたも
のが、牧田諦亮『六朝古逸觀世音應驗記の研究』(平樂寺書店、一九七〇年)に收録されて
いる。
【概要】觀世音菩薩は釋迦より前に成佛しており、「正法明如來」と號した。その時に
彼の佛のもとで苦行の弟子であったのが釋迦である。正法明如來は、觀世音大菩薩と號し
て今この世に現れた(3)。
D『觀世音十大願經』(『弘猛慧海經』または『弘猛海慧經』)一卷
中國撰述
この經は現在失われており、後代の經疏の引用によってその梗概が知られるのみであ
る。元來、樣々な經名で呼ばれていたようであり、『法經録』卷二・衆經疑惑部が經録に
おける初出で、「觀世音十大願經一卷」とある。『彦琮録』卷四には、同じく「觀世音十大
願經一卷」と見えるが、その原注に「一名大悲觀世音經、竝有一卷論、名爲無畏、亦是人
119
造」とあり、この經が『大悲觀世音經』とも呼ばれ、その論として『無畏』一卷があり、
これも僞撰であると述べている。しかし、この『無畏』は『開元釋敎録』卷十八別錄中僞
妄亂眞錄第七に「觀音無畏論一卷。隋日有人僞造釋高王觀世音經」[T55:678a]とある『觀
音無畏論』のことと推測され、『觀世音十大願經』ではなく『高王觀世音經』の論と考え
るべきである。『開元釋敎録』卷十八には、「觀世音十大願經一卷」と記し、原注に「仁壽
錄云、一名大悲觀世音經。具題云、大悲觀世音弘猛慧海十大願品第七百」とあり、「弘猛
慧海」の名が見える。吉藏や慧沼など、この經を引用する僧によっては、經名を『弘猛海
慧經』とするものもあるが、後述する八會寺石刻には、「弘猛慧海經觀音願」と題してい
る。
抄出された經文は若干異なる部分も見られるが(4)、おおよそ同じ内容を述べている。こ
こでは、それらを總合して概要を示そう。
【概要】昔、この閻浮提において普首(あるいは善首)という王がいた。彼には五百人の
王子がおり、その第一王子を善光と言った。善光は空王觀世音佛に會い、十大願を發した。
善光は、來世において成佛すれば觀世音と名のると誓い、衆生が病苦にあい、三度觀世音
の名を唱えても救われない者がいるならば、上妙色身(または正覺)をとらず、衆生を救濟
しつくすまでは成佛しないという願を發した。それゆえに觀世音菩薩はひとえにこの世界
に縁があるという。
以上のAからDまでの經典のうち、Dはその全内容を窺うことができないので不明だ
が、AからCまで、すべて前世における觀音と釋迦とのかかわりに言及している。ABは
翻譯經典であり、將來、西方淨土の阿彌陀佛(無量壽佛)を繼いで佛となる補處の菩薩とし
ての位置づけである。ともに、觀音の來歴を説いてはいるが、觀音については西方淨土の
阿彌陀佛との結びつきが強く描かれる。それに對し、CDは中國撰述であり、Cは觀音が
既に過去世に成佛していたと説き、Dは過去世において、空王觀世音佛のもとで、衆生を
救濟しようとする誓願を發していたのが觀世音菩薩であるとする。つまり、翻譯經典では
十分に説明されなかった、觀音の有する現世のこの世界における人々を救濟する大いなる
力の來歴に關して、觀音を西方淨土の補處の菩薩とする翻譯經典の説とは異なる根據づけ
を行ったのがCとDであると考えられる。特に、Dは、我々の住する世界である閻浮提に
おいて觀世音菩薩として衆生を救濟する根據を、觀音が閻浮提においてかつて發した本願
によるものとして説明し、現世の、この世界とのつながりをより強調している。觀世音菩
120
薩が成佛した時の名もまた「觀世音」と號すとするのも、上記の四經典の中でこの『觀世
音十大願經』のみである。以下では、觀世音が佛として實際に信仰されていたことを示す
資料を、敦煌文獻と石刻について見てみよう。
二、石刻資料・敦煌文獻にみる「觀世音佛」
觀音が佛として信仰されて
いたことを端的に示すのが敦煌
文獻S七九五『觀世音佛名』一
卷である(圖一)。卷初は缺損し
ているが、ジャイルズ目録では
六世紀のものとする。
最初の二紙は『現在十方千五百
佛名竝雜佛同號』(S二一八〇)
の東方五十三佛(前半部缺損)・
南方三十八佛
方六佛
西方十五佛
北
上方廿七佛にほぼ一致
する佛名を書寫している(5)。割
圖一
註 に は 、「 𨚫 八 十 劫 生 死 之
S.0795『觀世音佛名』部分
罪」などと滅罪について記し
ている。つづいて、「觀世音佛」を一行五佛で末尾まで二五三〇(ジャイルズ目録による)
整然と書寫し、尾題に「觀世音佛名一卷」と記す。「觀世音佛」に對する熱烈な信仰をう
かがうことができる。
「觀世音佛」と表記する資料は北朝時代の石刻にもしばしばみられる。具體的な資料
を提示すると次頁以下の表のようになる。表を參照すると、早くも①南齊の建武二年(四
九五)の造像銘に「敬造觀世音成佛像一軀」とあり、像形も菩薩形ではなく、佛形である
ことから、觀世音の成佛に對する信仰が、五世紀には既に存在したことがわかる。
ただし、③⑥など、菩薩形でありながら「觀世音佛」と記すものもあり、すべての造
像者が菩薩と佛の違いを明確に認識していたとは考えられない。
121
表
南北朝期「觀世音佛」石刻
A、造像記
王
年
月日
像形
朝 題名
銘文
關係地
状
主な載録書
齊建武二年歳次乙亥荊州道
人釋法明、奉為七世父母師
徒善友、敬造觀世音成佛像
一軀※。願生〻之處、永離
成都商
三途八難之苦、面都諸佛、
業街出
彌勒三會、願同初首、有識
土
南 造像
群生、咸契斯□、發果菩
1990(四
三尊
2001.10.9、世
齊 記
提、廣度一切。
川省)
坐佛
美全 297
?
瓊 13、大村 224
法明
① 495
文物
龍門石
窟 1519
② 523 0323
陽景
正光四年三月廿三日清信男
窟(火焼
北 元造
佛弟子陽景元供養觀世音佛
洞)(河
魏 像記
時。
南省)
一尊
立菩
③ 524 1217
④ 529 0311
⑤ 535 0411
胡絆
正光五年十二月十七日胡絆
薩
北 妻造
妻造官世音佛一區。居加大
(持
松原 167c、圖
魏 像記
小見世安隠、故記之耳。
?
華)
典 474
大魏永安二年三月十一日父
龍門石
張歡
張歡□爲亡女苟汝、造觀世
窟 0883
拓 5120、京
北 □造
音佛?一區。因縁眷屬□使
窟(河南
NAN0339X、瓊
魏 像記
妄者生天、赴□□成佛。
省)
?
13、大村 230
東 務聖
夫靈眞玄廓、妙絶難測。(中
原在少
一尊
拓 6029、京
魏 寺造
略)息榮遷、脩和、行慈仁
林寺緊
坐佛
NAN0373A.B;京
122
像碑
孝、世習精懿、志慕幽寂、
那羅殿
NAN0374X;京
妙真遐願、刊石建像、釋迦
内(河南
NAN0378X、萃
文佛、觀音、文殊、仰述亡
省)
30、瓊 17、大
村 252 附圖 556
考平康舊願。復於像側、隱
出无量壽佛、福洽法界、考
妣等神、捨茲質形、悉稟淨
境、同曉薩雲、覺道成佛。
大魏天平二年歲次乙卯四月
十一日比丘洪寶銘(以上碑左
側)
「阿彌陀佛主董元□」
「文殊師利佛主張義容」
「觀世音佛主劉道亮」
他
に佛名多数あり(以上碑陰)
⑥ 557 0608
靈壽
天保八年六月八日靈壽縣人
縣人
閻常、閻神和、閻仟神等、
閻常
爲亡父見存内親、敬造雙觀
靈壽縣
二菩
北 等造
世音佛一區。普爲一切小辟
(河北
薩竝
松原 406、圖典
齊 像記
村。
省)
立
505、珍圖 460
?
山右 2
上坎觀世音佛主
⑦ 575 0317
釋迦佛主
多寶佛主
上坎伽葉主
上
坎阿難主
上坎□□菩薩主
化主
上坎右□菩薩主
伽葉主
鄭季
阿難主
茂等
首列)
61 人
夫法□元□、□□尺寸、理
北 造像
絶百非、化周感去。然化主
山西
齊 記
鄭季茂、邑主鄭
省?
菩薩主(以上碑陰
123
㑺六十一
人等□葩姫住之侑祖稱相□
深知三界循還□怨□□共造
石像一區。□王□□、衆相
昞着、覩者除愆※、況復敬
禮、奉茲妙善、仰咨
皇帝
福潤、郡僚□□□□現在眷
屬普□此益。
「釋迦佛・・/・・/像
主・・」「彌勒成佛時/像
主楊始□」(以上正面 or 背
面)「彌勒下生佛/像主趙□
□」「日月燈明佛/像主蘇
伯能」(以上正面 or 背面)
「觀世音佛/像主趙□」
「藥師瑠璃光佛/像主徐智
□」(以上側面 1)「太子成
無
北 線刻
佛白/馬舐足□/像主□
紀
齊 佛碑
海」「太子思惟像主車□
? 座
和」(以上側面 2)
⑧ 年
?
?
珍圖 151
?
?
匋 14
比丘
無
明儁
比丘明儁敬造觀世音佛一
紀
造像
軀。仰爲師僧父母一切衆生
⑨ 年
? 記
成無二道。
B、摩崖佛名
泰安縣
般若波羅蜜經主冠軍將軍梁
徂來山
北 椿刻
父縣令王(子椿)
映佛巖
像な
京 NAN0666X、
齊 經
武平元年/僧齊大衆造/普
(山東
し
萃 34
王子
⑩ 570
124
憘/維那慧遊/彌勒佛/阿
省)
彌陀佛/觀世音佛/大空王
佛/中正胡賓/武平元年
式佛/維衛佛/式佛/□葉
佛/□樓奈佛/□那含牟尼
佛/迦葉佛/釋迦牟尼佛/
洪頂
彌勒佛/阿彌陀佛/觀世音
東平市
無
山摩
佛/大勢至佛/
洪頂山
紀
北 崖佛
釋迦牟尼佛/具足千万光相
摩崖(山
像な
齊 名
佛/安樂佛
東省)
し
⑪ 年
文物 2006.12
焦德森『北朝摩
滕州市
崖刻經研究』續
陶山摩
天馬図書有限公
無
陶山
紀
北 摩崖
阿彌陀佛/觀世音佛/般若
崖(山
像な
司 2003、59 頁
⑫ 年
齊 佛名
波羅蜜
東省)
し
圖⑳
C、像が佛形で銘に觀音
像を造るとあるもの
1983 年
北 馮貳
⑬ 532
1114 魏 郎
大魏太昌元年十一月十四日
山東省
清信士陽信縣人馮貳郎、爲
博興縣
父母、造觀世音像一軀。幷
崇德村
及居家眷屬現世安隱、无諸
龍華寺
患苦、常与佛會、願同斯
遺址出
三尊
1984.5.25、中
福。
土
立佛
美全 121
文物
興和三年二月三日高陵村張
⑭ 541
高陵
相女爲□□□生、忘兒□□
北京故
東 村張
欣廿阿□□□、見在兄姉欣
宮博物
二佛
圖典 490、中美
姉□□□觀音像軀、□
院藏
並坐
全 141
203 魏 相女
125
七・・・、見存□福。
山東の摩崖佛名の三件⑩⑪⑫においては、いずれも「阿彌陀佛」の隣に「觀世音佛」
が刻まれており、阿彌陀佛を繼いで成佛する補處の菩薩として觀音を位置づける『觀世音
菩薩授記經』などをふまえた表現と考えられる。
北響堂山石窟大業洞には、隋代
のものと思われる、「南无維衞
佛」から「南无釋迦牟尼佛」とい
う過去七佛への歸命を表す刻字と
「南无觀世音菩薩」という刻字
(圖二)、その下の段に「南无弥勒
佛」の刻字(圖三)があり、それぞ
れに對應する佛像も造られている
(圖四)。ここからは、三世佛の系
圖四
北響堂山石窟大業洞の七佛・観音・弥勒像
列において、釋迦を繼ぐものとして觀
音を位置づけようとする意圖を見出す
ことが出來る。
圖三
北響堂山石窟大業洞
圖二
弥勒佛名
北響堂山石窟大業洞七
佛・觀世音菩薩名
126
三、觀世音十大願の石刻
○渉縣木井寺の武平四年(五七三)銘刻經碑
?
この碑の碑陰額には篆書で「石 垂敎/經之碑」と刻まれる。碑陽一行目に「佛垂般涅
槃略説敎戒經一卷」と記し、その下に、愛法の梵志が自らの皮膚を紙、身骨を筆とし、血
を墨として書き記したという『大智度論』卷十六の一節「如法[應修]行、非法不應受、今
世亦後世、行[法者安隱]」[T25:178c]を刻む([
]内は現在缺損)。碑陽の第二行目から西面
(右側)、北面(碑陰)、東面(左側)の一行目までにかけて『遺敎經』(『佛垂般涅槃略説敎誡
經』)全卷を刻み、續けて、觀世音十大願が刻まれ、最後に紀年題記が刻まれる。この碑
については、馬忠理氏が簡潔に紹介しているが、重要な偈の部分の録文は省略されている。
そこで、その偈の部分と願文が刻まれた碑の東面のみ録文を示そう。
【東面】(北面からのつづき。『遺敎經』〈石刻では「佛説垂敎經」〉の末尾の箇所。/は改
行を示す。)
等且止、勿得復語、時將欲過、我欲滅度、是我最後之所敎誨。
佛説垂敎經一卷
大
悲觀世音願知一切法/
大悲觀世音願乘般若舩
大悲觀世音願得智慧風
大悲觀世音願得善方便
大悲觀世音
大悲觀世音願得戒足導
大悲觀世音願登涅槃山
大悲觀世音
願度一切衆/
大悲觀世音願使越苦海
願會无爲舍/
大悲觀世音願同法性身
大齊武平四秊歳次癸巳八月甲午十五日戊申龍花寺比丘法玉、
劉貳同妻馮令興、/
王靈援邑人等、敬造石經碑一區、仰爲
皇帝一切衆生同登正覺。邑人張遵業、邑人王
零慧、邑人・・・/
馬忠理氏はこの十大願の部分の録文を示さず、その出典を『法華經』普門品とするが
(『山東摩崖刻經研究』續、二六六頁の表による)、これは、『觀世音十大願經』の觀音十
大願であり、明確な紀年を有するものとしては、張總氏によって既に指摘されている次で
とりあげる隋代の曲陽八會寺刻經(6)より遡る、最も早いものである。
127
○八會寺刻經龕
河北省曲陽縣の八會寺刻經龕は、圖五を參照すれば分かるように、現在石屋によって
圍まれ保護され、平行四邊形状の東西南北四方の壁に二十ほどの經の節文(偈が多い)を刻
んでおり、隋代の紀年題記も殘されている。その南壁に、東側から順に「弘猛慧海經觀音
願」と題する觀世音十大願と『遺敎經』(『佛垂般涅槃略説敎誡經』)とをとなりあわせて
刻んでいる。以下、八會寺石龕の南壁東側の録文を示そう。
圖五
八會寺刻経龕と石屋平面圖
【南壁龕左側面】
龕主定州城内
賈凡母蘇爲七
世先亡現在眷
屬法界衆生供
養
佛垂般涅槃
[略]説敎戒經
[釋迦]牟尼佛初轉法輪(以下略)
([
]内現在缺損)
【南壁東端】
弘猛慧海經觀音願
□悲觀世音願知一切灋
大□觀世音願乘波若舩
大悲觀世音願得智慧風
大悲觀世音願得善方便
大悲觀世音願度一切衆
大悲觀世音願使越苦𣴴
大悲觀世音願得戒足導
大悲觀世音願登涅槃山
大悲觀世音願會无爲舍
大悲觀世音願同法性身
128
ちなみに房山雷音洞の『遺敎經』のとなりには『高王觀世音經』が刻まれている。以上
の事例からは、釋迦の最後の敎えを説くとする『遺敎經』と觀音とを關連づけようとする
意圖を見出すことが出來る。
おわりに
南北朝期においては、觀音信仰の盛行とともに、觀音の來歴や佛との關係についても
人々の興味關心が高まったと考えられるが、敦煌文獻や石刻からは、觀音を佛として崇拜
する信仰の廣汎な存在が推察される。觀音の成佛を説く經典としては、觀音に西方淨土の
阿彌陀(無量壽)佛の補處の菩薩としての地位を與える『悲華經』や『觀世音授記經』など
の翻譯經典がある。しかしそれらでは滿足できず、より現世のこの世界での救濟者として
の觀音の地位を重視して、『觀世音三昧經』や『觀世音十大願經』などの僞經が撰述され
たと考えられる。特に『觀世音十大願經』では、閻浮提において「空王觀世音佛」がいま
し、彼の佛のもと、觀世音は、三度稱名して救濟されない衆生がいるならば正覺を成じな
いとし、將來成佛の際に、また「觀世音」と號するという誓いをたてている。本稿によっ
て北朝の刻經碑に『弘猛慧海經』の觀音願があり、それが『遺敎經』の後に刻まれていた
ことが明らかになった。このことは、他の隋代の八會寺刻經龕や、既に指摘した北響堂山
大業洞の佛名題記の配列を考え合わせると、釋迦のあとを承けたこの世の救濟者として觀
音を位置づけ、それが觀音の本願によるものであることを強調したものであると言えよう。
【後記】
本論の三に關する現地調査については、龍谷大學佐藤智水氏を中心とする調査團に筆
者も參加させていただいて行ったものである。ただし、録文の文責は筆者にある。調査に
おいては、河北省文物保護中心、渉縣文化敎育體育局、渉縣文物保管所、曲陽縣文物保管
所の協力を得た。ここに篤く御禮申し上げたい。
【書名略稱】
大村
京
大村西崖『支那美術史彫塑篇』佛書刊行會圖像部、一九一五年。
京都大學人文科學研究所所藏石刻拓本資料
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/imgsrv/takuhon/
129
管理番號。
瓊
陸增祥『八瓊室金石補正』(『石刻史料新編』一.六~八)。
山右
胡聘之『山右石刻叢編』(『石刻史料新編』一.二〇~二一)。
萃
王昶『金石萃編』(『石刻史料新編』一.一〇)。
圖典
金申『中國歴代紀年佛像圖典』文物出版社、一九九四年。
世美全
曾布川寬・ 岡田健(責任編集)『世界美術大全集』東洋編3
三國・南北朝
小學館、二〇〇〇年。
拓
北京圖書館金石組(編)『北京圖書館藏中國歴代石刻拓本匯編』中州古籍出版
社、一九八九年。
中美全
中國美術全集編輯委員會(編)『中國美術全集』彫塑篇三、人民美術出版社、一
九八八年。
珍圖
金申(編著)『海外及港臺藏歴代佛像珍品紀年圖鑑』山西人民出版社、二〇〇七
年。
匋
端方『匋齋藏石記』(石刻史料新編一・一一)
文物
『文物』文物出版社。
松原
松原三郞『中國佛敎彫刻史論』吉川弘文館、一九九五年
頼非
頼非『山東北朝佛教摩崖刻經調査與研究』科学出版社、二〇〇七年
圖版NO.
【主要參考文獻】
桐谷征一「僞經高王觀世音經のテキストと信仰」『法華文化研究』一六、一九九〇年。
小林太市郞「晉唐の觀音」『佛敎藝術』一〇、一九五〇年。
佐藤泰舜「六朝時代の觀音信仰」『寧樂』一三、一九三〇年。
牧田諦亮『六朝古逸觀世音應驗記の研究』平樂寺書店、一九七〇年。
山口正晃「『現在十方千五百佛名竝雜佛同號』小考――「佛名經類」の發展過程と關連し
て」『敦煌寫本研究年報』二、二〇〇八年。
李利安『觀音信仰的淵源與傳播』宗敎文化出版社、二〇〇八年。
李玉珉「南北朝觀世音造像考」(邢義田主編『中世紀以前地區文化、宗敎與藝術──中央
研究院第三屆國際漢學會議論文集』中央研究院歴史語言研究所、二〇〇二年)。
劉建華「河北曲陽八會寺隋代刻經龕」『文物』一九九五年第五期。
馬忠理「邯鄲鼓山、滏山石窟北齊佛敎刻經」(焦德森主編『北朝摩崖刻經研究』續、天馬
圖書有限公司、二〇〇三年。)
130
───「邯鄲北朝摩崖佛經時代考」(焦德森主編『北朝摩崖刻經研究』三、内蒙古人民出
版社、二〇〇六年。)
于君方「「僞經」與觀音信仰」『中華佛學學報』一九九五年第八期。
張總『説不盡的觀世音──引經・据典・圖説』上海辭書出版社、二〇〇二年。
張總「石刻佛經中的新發現與新解讀」(榮新江・李孝聰主編『中外關係史――新史料與新
問題』科學出版社、二〇〇四年。 )
Chün-fang Yü. Kuan-yin: The Chinese Transformation of Avalokiteśvara. New York,
Columbia University Press, 2001.
Lionel Giles. Descriptive Catalogue of the Chinese Manuscripts from Tunhuang in the
British Museum. The Trustees of the British Museum, London, 1957.
【圖版典據】
圖一:黄永武主編『敦煌宝蔵』第六卷
新文豐出版、一九八一年。
圖二:張林堂主編『響堂山石窟碑刻題記總録』貳
外文出版社、二〇〇七年。
圖三:同上。
圖四:筆者撮影。
圖五:『文物』1995-5、80 頁。
注
(1)拙稿「北朝時代における「觀世音佛」信仰」『印度學佛敎學研究』五八-一、二〇〇九
年。
(2)ちなみに表によれば『觀世音成佛經』という經もあったことがわかるが、遺憾ながら
既に亡佚して内容をうかがうことができない。
(3)以下、經文を抄出しておく。「佛告阿難、(中略)觀世音菩薩於我前成佛、號曰正法明如
來・應供・正遍知・明行足・善逝・世閒解・調御丈夫・天人師・佛・世尊。我於彼時、
爲彼佛下作苦行弟子、受持斯經七日七夜・・・」「阿難稽首過去佛、於先滅度、今以出、
號觀世音大菩薩」。
(4)參考のため、以下、この經を引用した諸師による記述を紹介しておく。
○吉藏『法華玄論』卷十「弘猛海惠經明、觀音過去世値空王觀世音佛發願。願未來名
觀世音」[T34:449ab]。
131
○吉藏『法華義疏』卷十二 「問、觀音云何於此土有縁。答、『弘猛海慧經』云、昔此
閻浮提有王、名善首、有五百子。第一子名善光、値空王觀音佛、發十大願。初願得
一切法、次願得波若船、三願値智慧風、四願得善方便、五願度一切人、六願使超苦
海、七願得戒足、八願登涅槃山、九願會無爲舍、十願同法性身。皆以大悲觀音爲首
也。觀世音發願、願我未來作佛、字觀世音、三稱我名、不往救者、不取妙色身。持
此願者淸淨莊嚴一室、以於此土行菩薩道故、此土有縁」[T34:628c]。
○栖復『法華經玄贊要集』卷十「又約願立名者、准『雄猛慧海經』説、云何觀音菩薩
於此土偏有縁。答、昔閻浮提有王、名曰普首、有五百王子。其第一者名曰善光、値
空王觀世音佛、發十大願。一者願知一切法、二願乘般若船、三願値智慧風、四願得
善方便、五願度一切人、六願越於苦海、七願得戒持、八願登涅槃山、九願證無爲
毳、十願同法性身也。又願、願我來世、亦名觀世音、衆生病苦、三稱我名、若不往
救者、誓願不取上妙色身。所以偏於此土有縁也」[Z1:53:405d~406a]。
○同卷三五「往昔南閻浮提有王、名曰普首。有五百王子、其第一名曰善光、値空王觀
音佛。遂發十種大願。一者願知一切法、二者願乘般若舡、三者願値智慧風、四者願
得善方便、五者願度一切人、六者願超於苦海、七者願得持戒具、八者願登菩提山、
九者願證無爲善、十者願同法性身。又願我未來世中、亦名觀世音菩薩、衆生有苦、
三稱我名、若不往救者、誓願不取上妙色身。又願衆生度盡、我則成佛。偏於此界有
縁。故名觀世音菩薩也」[Z1:54.448cd]。
○慧沼『十一面神呪心經義疏』卷一「弘猛海慧經曰、昔此閻浮提有王、名曰善首、有
五百王子。第一太子名善光、値空王觀世音佛、乃發十願。一大悲觀世音願知一切
法、二大悲觀世音願乘波若船、三大悲觀世音願得智慧風、四大悲觀世音願得善方
便、五大悲觀世音願度一切人、六大悲觀世音願超生死海、七大悲觀世音願得戒定
道、八大悲觀世音願登涅槃山、九大悲觀世音願會無爲舍、十大悲觀世音願同法性
身。是觀世音發願、願我未來作佛、字觀世音、三昧稱我名、不往來度者、不取妙色
身。若行此願、淸淨莊嚴一室、以於此土行菩薩道故、知未成佛菩薩也。若從多者、
爲已成佛。亦爲化有情故、更示成佛耳」[T39:1006c-1007a]。
(5)『觀世音佛名』では「次禮上方卅三佛」とあるが、實際書かれているのは二十六佛で
ある。
(6)張總「石刻佛經中的新發現與新解讀」(榮新江・李孝聰主編『中外關係史―新史料與新
問題』科學出版社、二〇〇四年)。
132
龍谷大学アジア仏教文化研究センター
ワーキングペーパー
No. 10-02(2011 年 1 月 31 日)
トルファン研究所所蔵ウイグル語写本調査報告
橘堂
晃一
(龍谷大学アジア仏教文化研究センター博士研究員)
【キーワード】:ウイグル語写本・トルファン研究所・唯識文献
133
8 月下旬から 9 月上旬にかけてのベルリンの気温は,35 度以上の猛暑日が続いたサウ
ナのような京都に比べると,15 度前後と予想を超えて低かったが,寒いというほどのこ
ともなく,秋の気配を感じさせる心地よい気候であった。今回の訪問先であるトルファン
研究所は,ベルリン・ブランデンブルグ科学アカデミー (Berlin-Brandenburgische
Akademie der Wissenschaften) の研究部門の一つである。科学アカデミーは,ブランデン
ブルグ門のほど近く,イェーガー通りに面している。通りを一つ隔てた広場にはフランス
教会 (Kirche der französischen Gemeinde Berlins) がある。かつてこの教会にボーソブル
神父 (Isaac de Beausobres : 1659-1738) がいた。
彼はここでマニ教の研究に従事し,ユグノー・
コミュニティーを擁護すべく『マニ教とマニ教
徒の批判研究史』 (Histoire Critique de
Manichée et du Manichéisme, Amsterdam, 1734)
を著した。彼が「マニ教研究の父」と呼ばれる
所以である。1997 年にはここで第 4 回マニ教
国際学会が開催されている。まさにマニ教資料
を数多く所蔵するトルファン研究所の所在地と
してふさわしい場所といえる。
トルファン研究所は,科学アカデミー2 階の一角に研究員の研究室と文書保管庫とを構
えている。建物内にはパタノスタ(Paternoster:数珠)と呼ばれる自動昇降装置とでもい
うべき箱が絶えず稼動している。この装置はその名の通り,ドアの無い箱がいくつもワイ
ヤーロープに取り付けられていてゆっくりと昇降するという代物である。実際に入り口の
前に立つと,床下から箱がゴトゴトと音を立てながらゆっくりと上がってくる。初めて乗
るのは結構勇気がいるもので,もし箱と天井に挟まれたら…,降りそこなったら…,など
と余計な心配をしてしまった(もちろん戻って来ます)。旧東ドイツ時代の名残であるそ
うだ。そういえばベルリン市内の信号機にも東ドイツ時代デザイン(アンぺルマン)が利
用されているのをよくみかけた。なんでもかんでも西の方が良いということではなく,東
時代のものも積極的に残していこうとしているのだそうだ。
トルファン研究所の名称は,中国新疆ウイグル自治区のトルファン盆地に由来する。
134
20 世紀初頭,グリュンウェーデル (A. Grünwedel) とルコック(A. von Le Coq) を隊長と
して都合 4 度に渡って派遣された探検隊は,新疆の西域北道沿いのオアシスにおいて多
くの遺跡を発掘した。とりわけ最大級の成果を挙げたのがトルファン盆地であった。龍谷
大学の大宮図書館のエントランスの両脇で我々を出迎えてくれる誓願図も,もとを質せば
トルファンのベゼクリク千仏洞でルコックが採取した壁画をもとに復元したものである。
彼らが発掘した成果は,壁画のみならず多種多様な文書も含まれる。ルコックによれ
ば,17 種類の文字と 24 種類の言語に分類できるというが,近年はさらにその数を増して
いる。その内容を宗教文献に限っていえば,仏教,道教,儒教,マニ教,ネストリウス派
キリスト教と多様である。いうまでもなく仏教文献がそのほとんどを占めている。現在,
漢文文献はベルリン国立図書館 (Staatsbibliothek zu Berlin) に保管されている。龍谷大学
西域文化研究会とトルファン研究所とは,1965 年よりこれら漢文仏教文献のカタログ化
について共同研究を継続している。その成果は 3 冊のカタログに結実している(4 冊目は
準備中)。またそこで得られた経験は,旅順博物館に所蔵される大谷探検隊がトルファン
から将来した漢文文献の整理にも大いに活かされた。
さて,このたび報告者がトルファン研究所を訪問したのは,ウイグル語文献を閲覧す
るためであった。9 世紀にモンゴルの故地を追いやられ,天山山脈の東麓に逃れてきたチ
ュルク系ウイグル族の一派が西ウイグル国を建国した。その後,その国はカラ・キタイや
モンゴル帝国に帰属しつつ 15 世紀まで存続する。彼らの社会生活や信仰を伝えてくれる
のがウイグル語文献である。当初はマニ教を信奉していた彼らだが,やがてトルファンで
マジョリティーであった仏教へと改宗していく。仏教と一口にいっても,ウイグル語で書
かれた仏教文献はその内容からスタイルにいたるまでバラエティに富んでいる。そのなか
で報告者が注目しているのが,Lehrtext すなわち「教義書」と分類されるウイグル語文
献の一群である。これまで何人かの研究者が解読を試みてきたが,誰も成功していない。
インターネットで公開されているデジタル画像をもとに行った事前調査により,これらの
文献が法相宗にかかわる唯識文献であることを突き止めた。その総数も当初の予想を超え
て,小さなものまで含めると,約 200 断片に及ぶ。今回の調査では,デジタル画像から
は文字が不鮮明で読めない断片を中心に解読作業を進めた。さすがに生の資料から得られ
る情報量はデジタル画像とは比べ物にならないほど豊かで,研究を大いに進展させること
135
ができたと同時に,新たな関連資料を見出すことができた。わずか 5 日で約 130 件の資
料を閲覧したのだが,通常 1 日に 10 件ほどが閲覧申請できる目安だそうである。規定に
倍する件数の閲覧を許可してくださった研究所の研究員・スタッフ,とくに手間のかかる
写本の出し入れをしてくださったジモーネ・クリスティアーヌ・ラシュマン博士そして笠
井幸代博士にこの場を借りて感謝の意を申し述べておきたい。
ちょうど同じ期間,大阪大学大学院教授・森安孝夫博士もトルファン研究所を訪問さ
れていた。博士は「ウイグル語手紙文書集成」を執筆中と伺った。ウイグル語手紙文書は
仏典と異なり,文書の保存状態も悪く,文字も判読しづらいものがほとんどである。丁寧
に書写された読みやすいウイグル語仏典を次から次へとチェックしていくだけの報告者と
違って,一件の文書に十分な時間を取って,真摯に,そして粘り強く解読に取り組んでお
られる姿が印象的であった。また実物をみながら,紙の色や紙質そして手紙文書の書式に
ついて解説してくださったことも得難い経験となった。
滞在のちょうど中間日には,研究所が報告者に発表する機会を与えてくださった。
Collegium Turfanicum という不定期的に開かれる研究会であるが,その 52 回目であった。
今回は Sino-Uigurica (1)
というテーマで,ウイグル人によって書写された漢文の礼懺文
について紹介した。ウイグル語の資料だけがウイグル仏教を物語るものではない。すでに
知られているところではサンスクリット,チベット語,ソグド語などもウイグル仏教の研
究に不可欠である。ウイグルは後期になると中国仏教の強い影響を受けるようになった。
そこで紹介した漢字資料もそのことを物語っている。報告に対しては,ペーター・ツィー
メ博士から多くの有益な指摘をいただいた。
今回の訪問は短期間ではあったが,ウイグル語の仏典資料を通して中央アジアの仏教
の多様性を再認識するとともに,それらが同時代の中国仏教の在り方をも反映していると
いう事実から,ウイグル仏教資料としてだけではなく,中国とくに敦煌地域の仏教事情を
反映した資料としての価値も持っていることを強く印象づけられる調査となった。この度
の調査で得られた知見とヒントを,東アジア仏教のダイナミズムを把握していくための一
つの方向性として,今後の調査・研究に活かしていきたいと考えている。
136
龍谷大学アジア仏教文化研究センター
ワーキングペーパー
No.10-03 (2011 年 1 月 31 日)
韓国仏教の現状・調査報告
藤
能成(龍谷大学文学部教授)
目
次
1
調査の概要
2
韓国仏教の現状
3
⑴
仏教の歴史
⑵
統計資料
⑶
韓国仏教の現状
⑷
韓国仏教が抱える問題
⑸
今後の方向性
調査を終えての所感
【キーワード】:韓国・現代・仏教・布教・現況
137
1
調査の概要
①期日:2010 年 8 月 22 日(日)~9 月 3 日(金)
②調査者:藤
能成(龍谷大学文学部教授)
③調査目的:現代韓国社会における仏教の現状について把握する。
④調査方法:仏教関係者への聞き取り<聞取り対象者は韓国の知人の紹介による>
⑤調査日程
8 月 22 日(日)
<ソウル・インチョン国際空港に到着>
8 月 23 日(月)
午前:⑴東国大学校印度哲学科鄭承碩教授に面会
午後:⑵仏教放送局
朴相弼製作局長に面会(ヤン・キョンイン氏同伴)
午後:⑶ラジオ放送収録見学、東国大学校印度哲学科金浩星教授に面会
*個人で「日本仏教史研究所」を設立、日本仏教の良い点を広める活動を行う。
8 月 24 日(火)
午前:⑷江南区の奉恩寺を訪問(江南はソウルの高級住宅地、信徒は数十万
名)
*百中日<安居の最終日>の行事、多くの信徒参集:カン・ミンス氏より案内)
午後:⑸曹渓宗社会福祉財団を訪問、面会
午後:⑹有料老人福祉施設ノブレス・タワー社長
ハン・ムンヒ氏に面会
*施設内に、キリスト、天主教、仏教、儒教の礼拝堂を備える。
8 月 25 日(水)
午後:⑺曹渓宗布教院常任研究員
コ・ミョンソク氏に面会
*曹渓宗の布教に関する専門家、今後の布教の方向について積極的に提言する。
午後:⑻曹渓宗テンプルステイ事務局を訪問、面会
*テンプルステイは 2002 年ワールドカップに始まる、誰でも修行・文化体験が
できる制度、現在 67 ヶ寺が受け入れ、年間 20 万人(内外国人2万人、日本人
が最も多い)が利用。*観音 33 ヶ寺聖地巡礼、日本人年間 11,800 名が参拝。
138
8 月 26 日(木)
午前:⑼ 中央僧伽大学校布教社会学科
金応喆教授 に面会(ウォンウク師同
伴)
*曹渓宗の布教方策について緻密に現状を分析し、多くの提案を行っている。
午前:⑽本願布教院西願寺訪問:釈暁鸞師に面会。
*本願布教院西願寺・前住職、親鸞に傾倒し真宗で得度、韓国で本願念仏を広め
てきた。
午後:⑾般若寺住職ウォンウク師に面会(金貞淑氏が同伴)
*長年、仏教放送に出演、随筆家。韓国現代仏教の歴史について聞く。
8 月 27 日(金)
午後:⑿高麗大学病院付設法堂(仏教室)にジヒョン師を訪ねる。
*自ら仏教放送の番組を持つ。高麗大学病院に法堂を開設し運営する。高麗大学
病院にはキリスト教、天主教、仏教の礼拝室がある。大きな病院にはすべて葬儀
場がある。
午後:⒀ 本願布教院西願寺 住職・ 釈西真師 に面会、および仏教センター訪
問。
*現在、仏教文化センターを運営し、ビパシャナ瞑想を基盤とした修行法・生き
方「ライフ・ケア・システム」を指導している。
8 月 28 日(土)
午後:⒁ソウル大学校宗教学科
尹元澈教授に面会(金貞淑氏が同伴)
*韓国現代仏教の動向に詳しい。
8 月 30 日(月)
釜山へ移動(400 キロメートル、KTX 鉄道で 2 時間 40 分)
8 月 31 日(月)釜山
午前:⒂東亜大学校哲学科・康東均教授に面会
*釜山で念仏信行会慈光院を運営、浄土真宗との交流を進めてきた。韓国現代仏
教界、僧侶界について詳しい。
午後:⒃安国禅院訪問、釈修仏師、および信徒会会長・副会長に面会。
*信徒対象の看話禅道場で全国的に注目される。大規模な現代的ビルディング。
139
600 人~700 人/日(特定期間には一日に 1000 人/日)が修禅に通う。
9 月 1 日(火)釜山
午前:⒄弘法寺訪問、深山師に面会。
*一人の仏教信徒の莫大な寄進により建立された浄土信仰寺院で、広大な敷地を
持つ。地下鉄駅との間にシャトルバスを運行、一日に 600 人程の参拝があ
る。高さ 20 メートルの金銅の大仏を建立中<10 月 10 日に開眼式>)*韓国
では仏教教団と政府が協力して阿弥陀如来 48 ヶ寺霊場を選定中、来春発足予
定、当寺も入る模様。
9 月 2 日(水)釜山
⒅真宗研究学会に参加、康東均教授より、現代韓国の仏教の歴史・状況、お
よび朝鮮時代の浄土教家・箕城快善に関する講演を聴講。
9 月 3 日(木)釜山
午前:⒆梵魚寺訪問、弘禅師<花園大学に留学>に面会。(安東繕氏が案内)
*釜山の中心的寺院、釜山市民の精神的支柱となっている。
午後:⒇安国仏教大学を訪問
*安国禅院が設立した、一般信徒対象の仏教
大学(文化センター:1年または 2 年過程)韓国で唯一、独立した校舎を備
え注目を集める。
<夕刻、金海国際空港より飛行機にて帰国>
2
韓国仏教の現状
⑴
仏教の歴史
朝鮮時代、500 年間に亘り崇儒抑仏政策が続き、ソウル都城内の寺院は廃寺に、僧侶
は都城に入ることを禁止され、賤民身分とされた。仏教は臨済禅(禅・教の二宗)に統
合され、山中の寺院により維持継承された。民衆は仏教教理に触れることなく、祈福信
140
仰を主とした。
朝鮮の開国後 1895 年、日本人僧侶・佐野前励(日蓮宗)の進言により、僧侶の都城
出入が 270 年ぶりに許可される。1910 年頃、日本人僧侶・武田範之は韓国仏教・円宗
を日本仏教に統合しようと画策したが失敗する。1910 年、日本は韓国を併合、仏教は
保護されたが、植民地時代を通じて 500 ヶ寺の日本寺院が建立された(本願寺派は 132
ヶ寺)。日本仏教の影響で僧侶の妻帯が進む。1945 年時点で、独身僧は 100 名に満た
なかったとも言われる
1945 年、植民地支配から解放。韓国戦争(1950~1953)を経て、1954 年、李承晩
大統領が 8 回にわたり「妻帯僧は僧侶でない」という諭旨発表したため、独身僧と妻帯
僧とで、寺院争奪の争いが起こる。誰が独身僧で誰が妻帯僧なのか、区別がつかなくな
る。無規範状況が長く続き、双方が暴力団等を僧侶に引き入れ、力ずくで相手を負かそ
うとする暴力事態が始まった。
寺院の争奪戦が続く 1980 年、全斗煥大統領が各寺院に戒厳軍を派遣、偽僧侶ややく
ざ出身との嫌疑があるという理由で僧侶を中心とする仏教関係者 55 名を連行する事件
が起こった。このことが全国の僧侶に与えた精神的衝撃は計り知れず、長く尾を引いた。
その後 1985 年頃始まる民衆仏教運動は失敗。
1992 年以降、曹渓宗宗務院長選挙において、当時の宗務院長の 3 選を阻止する勢力
が立ち上がったのを契機に、教団の正常化が進められた。その後、暴力事態も鎮まり、
曹渓宗は教団としての組織を整え、社会活動を進める体制ができ上がった。韓国仏教の
現代化は、1990 年代になってやっと始まったと見ることができる。
⑵
統計資料
①
宗教人口(韓国統計庁「韓国宗教人口統計」2005 年:総人口 47,041,434
人)
85 年(全人口比)
95 年(全人口比)
2005 年(全人口
比)
総宗教人口
仏
教
改新教(プロテスタン
42.6%
50.7%
53.1%
19.9%
23.2%
22.8%
16.1%
19.7%
18.3%
141
ト)
天主教(カトリック)
4.6%
6.6%
10.9%
教
1.2%
0.5%
0.2%
円 仏 教
0.2%
0.2%
0.3%
儒
*天主教が 10 年間に 77.4%の伸びを示しているのが注目される。
②
仏教教団数(2005 年の統計資料による)
168 教団(把握 103、未把握 63)
1)大韓仏教曹渓宗
寺院数
2444、教職者数 13,576、信徒数 2,000 万人
2)韓国仏教太古宗
寺院数
3121、教職者数
3)大韓仏教天台宗
寺院数
165、教職者数
8,378、
信徒数 483 万人
400、信徒数
未報告
*4 位の勢力は、創価学会だと見られる。
③
宗教系マスコミの数(2005 年)
仏教
改新教
天主教
その他
放
ラジオ
7
22
5
4
送
CATV
2
3
1
インターネット TV
4
1
新聞
24
82
3
6
月刊誌
59
130
21
14
その他雑誌
28
84
13
6
合計
124
322
43
31
定期刊行物
区分
④
1
宗教系専門大学以上の数(2005 年)
仏教
改新教
天主教
円仏教
その他
計
一般大学
4
49
12
2
2
69
大学院大学
2
20
27
短期大学
2
サイバー大学
1
1
1
各種学校
計
24
2
1
3
6
31
3
99
14
142
6
3
128
⑶
韓国仏教の現状
韓国の四大宗教は仏教、プロテスタント、カトリック、儒教である。朝鮮時代の抑
仏政策を受け、また日帝時代に日本仏教の影響を強く受けてきたため、独自の運営体
制を築くのに時間がかかった。特に僧侶の妻帯の問題は大きく影を落としてきた。尹
元澈教授によれば韓国仏教は、1992 年以降、初めて地を足に付けた歩みを始めるこ
とができたという。プロテスタントが優勢で、それも実に排他的保守主義的聖職者が
多い韓国において、仏教は苦闘してきた。朝鮮時代以降、山中仏教としてかろうじて
命脈を保ってきたため、都市における伝道や社会事業等を推進する力が弱かったので
ある。近年注目されるのは、カトリックの急成長である。その聖職者は人望の厚い人
物が多く、良心的なイメージを築いてきた。信徒の葬儀について手厚いお世話を受け
られるのも高い評価に繋がっているという。
曹渓宗の『韓国仏教の未来を準備する』(曹渓宗華厳会、2006 年)によれば、以
後の教団の進むべき方向性として①都市寺刹の強化、②都市布教に専念する僧侶の育
成、③拠点寺刹がないために布教が困難な地域における、信徒組織の活性化、④都市
布教についての信行(修行)・布教プログラムの開発、⑤福祉と文化を活用した布教
の推進の五項目を提案している。
その 5 年後であるこの夏、私が韓国を訪問してみると、信徒については、信徒層の
若さ、男性信徒の多さを初めとして、自身の信仰に対する誇りの高さ、充実した信徒
組織、活発な寺院活動、仏教を学び修行しようとする意識の高さ、寺院や福祉施設で
のボランティア活動への関心の高さ等が感じられた。
曹渓宗としても、都市布教に力を入れ、社会福祉事業をも具体的に推進し、仏教文
化体験を通したイメージアップ、信徒教育の充実等が、具体的な成果を挙げており、
1996 年の5箇条の提案が実現しつつあることを感じさせた。
曹渓宗では、都市布教においては、旧来の伝統的法会(陰暦1日、15 日、祈祷中
心?)に加えて、職業人が参加できる定期法会(土・日に開催、講義を行うなど、職
業を持つ、学歴の高い参加者を意識した内容)を行うことを推進しており、実際にそ
のような寺院が増えている。また仏教レクリエーション協会を作るなど、児童・生徒
等の子ども達への布教も推進している(この点は、キリスト教の日曜学校との対抗関
係がある)
143
信徒教育については、信徒基本教育(全 12 回)の受講者が年間 3 万人、その後、
仏教大学(1~2年課程、週1~2 回)へ進む信徒が 5000 名、卒業者が 3000 名に
上る。仏教大学で学ぶ信徒は 50 歳代が中心で、男性も約半数を占める。卒業した信
徒が次に求めるのは、修行の実践であり、実際、釜山の安国禅院では、1 日に 600~
700 名が参禅に訪れる。
社会福祉事業としては、曹渓宗社会福祉事業団が 1995 年に設立され、現在 150 以
上の施設を運営している。その多くは国からの委託事業であるが、社会福祉事業を通
して、仏教の精神を伝え、社会における仏教の位置を高める効果が上がりつつある。
仏教文化は、もともと仏教教団が持っていた財産であるが、より本質・本物を求め
るようになった現代人の志向によって高く評価されるようになった。そのような仏教
文化体験を通して、仏教の布教が進められている。
2002 年ワールドカップに始まるテンプルステイは政府からの援助を受けており、
全国 67 の寺刹で年間20万人が利用している。内、外国人は2万人、日本人、アメ
リカ人、中国人が多い。韓国社会でも自然・静寂・内省等の本質的なものを求める要
求があり、多くの雑誌に紹介されるなど、宗教を超えていた関心の高まりがみられる。
33 観音聖地巡礼は日本人のために開設され、11,800 人/年が参加した。来年からは、
48 阿弥陀聖地巡礼が開設されるが、これも政府の支援により推進されている。
釈迦生誕日(陰暦 4 月 8 日)の提灯行列は盛大でソウルでも数 10 万名が参加する。
日本のねぶた祭りのように趣向を凝らした出し物、外国からの観光客も多い。
また健康食への関心から寺院の食事を提供する高級レストランも関心を集めている。
仏教徒はもともと低学歴で迷信的な傾向を持っていたが、近年の趨勢は高学歴・富
裕層へと移りつつあり、一般庶民からは仏教への敷居が高くなりつつあるという。
韓国の仏教は今後、内容的に充実していく方向で進んでいると見て良いだろう。し
かし、宗教人口としては、増加の兆しは見られず、現状維持の方向性で進んでいる。
社会全体の傾向として、大学入試一辺倒の価値観が支配しており、そのために、寺院
等の宗教施設に通う余裕がなくなっているという。子弟の教育のためには、親が犠牲
になるのは普通であり、教育費の負担が大きいため、女性の生涯出産率の低下は著し
く、高齢社会へ突入する日は遠くない。また経済成長の陰で、経済格差が広がってお
り自殺率も高水準である。このような社会の中で、仏教には、実際に人々の生きる力、
心の安らぎを与える役割が期待されている。
144
そのために、専門的な能力を身に付けた在家信者(布教使)や僧侶の養成を目指し
ているという(相談業務・瞑想・法会の運営等)。
韓国仏教の特徴
韓国では僧侶と信徒との立場が明確に区別されていて、信徒は僧
侶との付合いを好むようである。僧侶は信徒よりも仏に近い存在と考えられ、信徒は
僧侶にリーダ―シップを期待している。日本のような檀家制度はなく、信徒はどの寺
院にも自由に登録できるが、寺院よりも僧侶個人との結びつきが強く、僧侶が他の寺
へ移動すれば信徒もついていくことが多い。お金持ちの信徒は、僧侶や寺に多額の寄
付をするため、短期間に立派な寺が立ちあがることも珍しくない。また大きな寺では
信徒組織もしっかりしており、ソウル・報恩寺の信徒役員は 2 年任期制で、毎日、朝
9 時から夕方 5 時まで寺の信徒事務室に詰めて、寺院の運営を担っている。寺院や福
祉施設ではボランティア活動が盛んで、喜んでボランティアに参加する人が多い。福
祉施設の運営でも、ボランティアの役割が大きい。
⑷
韓国仏教が抱える問題
ア)コ・ミョンソク研究員(曹渓宗布教院)の指摘
1、儀礼・儀式の読経が漢文で行われていること。
対策:信徒達が意味を理解できるように漢文を現代語に翻訳して行う必要が
ある。現在、翻訳事業が進められている。
2、社会的実践の不足
対策:慈悲行・菩薩行等の社会的実践を推進する。
3、都市寺刹での定期法会が低調であること。
対策:職業人のために都市寺刹における土日の定期法会を推進する。従来、
法会は主婦を対象として、陰暦で行われてきた。
4、僧侶の減少と世俗化
対策:僧侶となる出家者の数が減っており、僧侶の平均年齢も高まっている。
また僧侶の世俗化も進んでいる。
5、「現世利益(祈福)」に関心を持つ信徒が多いこと。
対策:信徒の関心を「現世利益」から「修行・瞑想」へと誘導し、
本当の心の平和・安らぎが得られるように導く。
145
イ)キム・ウンチョル(金応喆)教授の指摘(中央僧伽大学校)
金応喆教授は、1980 年代以降、30 年間に亘り、韓国社会において仏教界が委縮
してきた原因を次のように分析する。
1、教育機関の未整備(キリスト教 10:仏教1)
教育機関における宗教教育は、教団の伸長に貢献するものと思われる。仏教
教団が運営する大学・高校等の数は、キリスト教の 10 分の1程度に過ぎない。
2、大学における社会福祉学科の未整備(キリスト教 60:仏教5)
社会福祉への取り組みを通して、教団の社会的認知度や評価を高めることが
できる。
その面で、キリスト教系の大学のほとんどに社会福祉学科があり、そこで学
んだ人材が、韓国社会における社会福祉分野を開拓し、拡充させてきた。仏
教教団は大学の数も少なく、社会福祉分野への進出が遅れた。
3、信徒の組織化の遅れ(他の宗教よりも遅れた)
信徒の組織化は、信徒自身の意識の向上や、信徒会活動の活性化、寺院経営
基盤の安定に寄与するものと思われる。
4、政界へ仏教徒の輩出が低調であったこと(延世大学、李花女子大はキリスト
教系)
政界への人材輩出が、国の宗教政策に与える影響は大きい。そのような面で、
仏教系の大学が少なく、政界への人材輩出も低調であった。
⑸
今後の方向性
曹渓宗布教院のコ・ミョンソク研究員は、今後、曹渓宗における布教活動の方向
性として以下の7項目を挙げる。
①修行と文化布教の活性化
仏教を知識として学んだ後、信徒は実際の修行の実践を志向するという。そのよ
うな信徒のために、修行の実践ができる指導体制が必要である。
また、仏教の伝統の中で培われてきた文化を体験することを通して、仏教の伝道
が進められる。ここでの文化としては、テンプルステイ、太鼓等の仏教音楽、寺院
の精進料理等が挙げられる。
②在家信徒としての専門的人材育成
146
韓国の仏教界では、信徒の奉仕活動が活発である。そのような信徒の活力を、
仏教の伝道に生かしていく。僧侶の活動を支援する在家信徒の役割が期待される。
例えば布教、法会指導者、相談専門員等である。特に幼児・児童、青少年の法会
活動における、活躍が期待される。
③瞑想による生活布教
信徒が実際に寺院に集うことができなくても、寺院で瞑想の方法を学べば、それ
を自身の生活の中で実践できる。
④実質的な信徒の養成
仏教信徒は、キリスト教信徒に較べて、実質的な信仰生活の実践に欠ける面が否
めない。一般的なキリスト教徒であれば、週に1~2回は教会に通うが、仏教徒の
場合、1 年に1回程度の寺院参拝でも、自身を仏教徒だと考えている人も多い。仏
教徒も、実質的に仏教を学び、信仰生活を送り、寺院にも少なくとも月に1回ない
しは数回程度は通うことが期待される。曹渓宗ではこのような状況を踏まえて信徒
教育に力を入れており、入初教育(お参りの仕方等、最も基本的な知識)、次に1
年課程の仏教入門講座(年 12 回、基本教育)を受け、またその後1年または2年
課程の仏教大学へと進む信徒も多い。仏教大学の入学者は 5,000 名、卒業者は年間
3000 人にも上る。
⑤都市布教の活性化
韓国の仏教寺院は、伝統的に山の中の自然豊かな場所を中心に維持されてきたた
め、都市には寺院が少なく、また都市の寺院は経営が難しい。しかし、人口が集中
する都市にこそ寺院が必要であり、職場を持つ人々に仏教に接する機会を与えて行
かなければならない。
⑥幼児・青少年布教活性化のための体制の整備
キリスト教の活発な幼児・青少年布教に対抗して、仏教でも幼児・青少年布教を
積極的に進める必要がある。幼児・青少年期に触れた宗教が、一生の宗教となるこ
とが多いからである。
⑦曹渓宗としてのアイデンティティの確立と定着
曹渓宗は、六祖慧能の祖師禅の法系を組んでおり、看話禅を行う宗派であるが、
一般信徒の間では、そのことへの共通認識が定着していない。多くの信徒が、曹渓
宗の教義を理解し、修行の実践に励むようになることが期待される。そのためには、
147
看話禅を如何に大衆化するかという方法論の問題も解決しなければならない。
また、曹渓宗の教義を基盤とした応用仏教に関する研究も進める必要であり、今
後、相談(カウンセリング)、瞑想、修行、法会の運営等の実施についての研究が
進められることが期待される。
3
調査を終えての所感
私が、7 年間暮らした韓国を離れたのは 1992 年 12 月、今から 18 年前のことであ
る。私は 1986 年 2 月から 1992 年 12 月まで約 7 年間、韓国で暮らした。最初の 2
年半は東国大学校印度哲学科への留学生として、1988 年 9 月からの 4 年半は大邱大
学校日語日文学科講師としてであった。留学生の頃はソウル市内の寺院に住み込み、
頭を丸め僧服を着て大学へ通ったため、韓国僧侶達との交際も多く、僧侶の視点から
の韓国仏教に接することができた。後の 4 年半は大学の教員として過ごしたが、大邱
の宗教文化研究所研究員、嶺南哲学会会員という立場を頂き、多くの大学関係者や宗
教関係者達との出会いに恵まれた。
日本に帰国してからも韓国を訪問する機会はたびたびあったが、主に知人を訪ねる
のが主であり、調査目的で韓国を訪問するのは今回初めてであった。ソウルに行くの
も久しぶりであった。激動の時代にある韓国では「5 年ひと昔」と言ってもよいのか
も知れない。日本出国前は非常に不安があり、実際にソウルのインチョン空港に降り
立った時も、空港の内部や、電話の掛け方、バスや地下鉄の乗り方、ソウルの地理、
宿所までの交通等、全てが霞に包まれているようで、果たしてこの調査が成果を挙げ
ることができるのか非常に心配になり、暗澹たる気分となった。
しかし、到着の翌日には昔韓国で過ごした感が戻ってきて韓国語が話しやすくなり、
ソウルの地理も分かってきた。結果として知人の紹介を糸口として、多くの関係者か
ら話を聞くことができた。もともと知人の間柄の場合、その人を良く知っていても、
韓国仏教の現状について話を切り出す機会は余りないものである。また韓国は年功序
列の社会であり、目上の人から話を聞くのは一般的に難しい(目下の人には余り丁寧
には話さない傾向がある)。だから、知人であってもどの程度情報が得られるか心配
したが、私が調査を目的に来たことを知って、誰もが親切・丁寧に質問に答えてくれ、
感激した。
しかし、一国の宗教状況を把握しようとするならば、単に個人レベルでの見聞に留
148
まってはいけない。社会における多様な宗教活動や行動に広く目を向ける必要がある。
だから韓国の仏教関係者であっても、社会全体のレベルでの仏教の状況について、マ
クロの視点から捉えている人は多くはない。だから、韓国社会全体の動きとしての仏
教の状況を摑むためには、個人の経験のレベルを超えて、ある程度客観的な資料や調
査結果を土台とする必要がある。また、同時に現在の韓国仏教の状況を知るためには、
近・現代の歴史がどのように動いてきたのかについても、確認する必要がある。現実
とはこれまでの歴史の積み重ねの結果であるからである。ただ韓国は、日本にくらべ
て国土が狭く、人口も日本の約 3 分の1程度であるため、全体的な状況も(日本に比
べて)把握しやすいように感じる。
今回、訪問・面談した人々の中で、特にマクロの視点から韓国仏教の状況を説明し
てくださったのは、曹渓宗布教院研究員
会学科
コ・ミョンソク氏、中央僧伽大学校布教社
キム・ウンチョル教授、ソウル大学校宗教学科
ユン・ウォンチョル教授、
東亜大学校哲学科カン・ドンキュン教授の四方であった。
コ・ミョンソク氏は鄭承碩教授が「韓国仏教の現状を知ろうとするならば、この人
に聞けばすべて事足りる」と太鼓判を押した人であった。ウォンウク師が「是非紹介
したい」と、お会いする前日の晩にやっと連絡がついてお会いできたのが、キム・ウ
ンチョル教授であり、奇しくもコ・ミョンソク教授からいただいた「現代韓国におけ
る仏教の動向についての調査報告書」を執筆した方であった。友人が紹介してくれた
ユン・ウォンチョル教授は仏教学が専門であるが、韓国社会の動向についても深く研
究しておられ、朝鮮時代末期から現代に至るまで、特に現代については 1960 年代か
ら 90 年代に至る時代を 10 年間隔で区切って、仏教の社会的な位置の変化について
的確な説明をお聞かせくださった。今回、報告できなかったが康・東均(カン・ドン
キュン)教授は元・僧侶という経歴をお持ちで、日本への留学経験もあって、開化的
な考えを持った方である。韓国仏教界、特に僧侶のあり方の問題について、現代歴史
を辿りながら鋭くご指摘くださった。
調査を振り返ってみると、日本人が、韓国仏教の現状について、これだけ多くの関
係者に韓国語でインタビューできたのは、多分これまでになかったものと想像する。
今回、多くの方から話を聞くことができた私には、韓国仏教の現状について日本に紹
介する役割があると感じる。日本の仏教は韓国の仏教に学ぶべき点が非常に多いと思
う。今、韓国の仏教徒達は自信感と誇りに溢れ、韓国仏教には希望があり、元気で活
149
気があるからである。
本報告書で今回、ご紹介できなかった方々からお聞きした内容については、追って
報告する予定である。
韓国仏教の現在(2010 年 8 月 23 日~9 月 3 日・撮影:藤
仏教放送局ラジオ収録風景
ソウル・奉恩寺
能成)
奉恩寺山門と薦度斎参拝の行列
百中日薦度斎
奉恩寺百中日薦度斎
150
奉恩寺境内から見える高層ビル
奉恩寺百中日薦度斎
奉恩寺大雄殿の内部
奉恩寺入試合格祈願百日祈祷の案内
曹渓宗本山・曹渓寺山門
曹渓寺大雄殿
151
斎壇
曹渓寺・参拝する信徒
曹渓寺・法座の様子
曹渓宗布教院布教研究室
曹渓寺前の仏教書店
曹渓寺前の精進料理店
ユン・ウォンチョル教授
152
有料老人ホーム仏教室
老人ホーム全景
同・カトリック室
有料老人ホーム・儒教室
同・プロテスタント室
153
高麗大学校付属病院仏教室・入口
同・ジヒョン師
同・カトリック室
同・仏教室
キム・ウンチョル教授と筆者
本願布教院西願寺・仏教文化センター受付
154
釜山までのKTX(新幹線)
列車内雑誌にテンプルステイの紹介記
事
安国禅院入口
安国禅院住持・修仏師
安国禅院法堂
同・信徒会会長・副会長
155
安国仏教大学
弘法寺法堂と阿弥陀如来座像
弘法寺法堂
弘法寺住持・深山師
釜山市街の僧衣店
梵魚寺・大雄殿
梵魚寺・弘禅師
156
梵魚寺僧侶の生活棟
梵魚寺・鐘楼
157
158
龍谷大学アジア仏教文化研究センター
ワーキングペーパー
No. 10-04(2011 年 1 月 31 日)
龍谷大学と旅順博物館の非漢字資料
ーその意義と保存状況―
三谷真澄
(龍谷大学国際文化学部准教授)
目次
はじめに
1
大谷探検隊の収集資料
2
龍谷大学と旅順博物館
3
漢字資料の共同研究
4
非漢字資料の共同研究
おわりに
【キーワード】:旅順博物館
大谷探検隊
159
文献資料
トルファン IDP
はじめに
故百濟康義氏は、資料が海外流出する「三種の経緯」として、
1. 19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて、スウェーデン・イギリス・フランス・ドイ
ツ・日本・フィンランド・ロシアなどの国から派遣された規模さまざまの調査探検
隊が、かの地で遺跡を発掘し資料を収集して自国に持ち帰ったもの。
2.探検隊派遣国に持ち帰られた資料が、その後の不十分な管理保管・二次にわたる
世界大戦での混乱などの諸般の事情により、その一部が所属機関から離れ、あるい
は個人蔵となり、あるいは他国へ再び流出移転した、更なる分散のもの。
3.二度の世界大戦後の混乱期に、一部の中国人ならびにその関係者が、自国に残っ
ていた同種資料を国外に搬出し売却したなどの事情によって流出したもの。(贋作
も含む)(百濟康義「イスタンブール大学所蔵の東トルキスタン出土文献−特にその
出所について−」『東方学』84, 1992, p.1(148))
を挙げておられる。2の場合、イスタンブル大学図書館所蔵資料のように、「各国探検隊
が、かの地で遺跡を発掘し資料を収集して自国に持ち帰る途上で、他国に保管されるに至
ったもの。」という場合もあったであろう。
1)大谷探検隊の収集資料
旅順博物館に所蔵される仏典断片は、大谷探検隊が収集したものである。大谷探検隊は、
後に西本願寺第 22 代宗主となった大谷光瑞師によって派遣されたもので、1902 年から
1914 年まで三次にわたって行われた中央アジア探検であると考えられている。それは、
日本唯一の組織的な中央アジア探検であるとともに、世界で唯一の仏教者の仏教者による
仏教者のための総合的探検であったと言える。また、大谷探検隊は、時間的にも領域的に
も狭広二つの意味が考えられる。
狭義の大谷探検隊・・・新疆・西域地域の探検(1902-1914)
広義の大谷探検隊・・・インド、チベット、南洋などアジア全域を含む調査(18991923)1
1
大谷光瑞師が宗主継職後初めて出した「直諭」1903 年 3 月 25 日によると、明治 32(1899)年からすでに
各国歴訪は始まっている。また、光瑞師の命によりチベット入りした多田等観が帰国した 1923 年ま
160
一般に大谷探検隊は、中央アジア、シルクロード探検として知られているが、そればかり
でなく、広く仏教が伝播した地域がその調査対象となっている。ただ、全体として大きな
成果を挙げているのは新疆・西域探検であったのは確かである。
大谷探検隊が収集した資料は、日本の他、中国、韓国に分散して保管されているが、そ
の状況について、早く藤枝晃氏が、以下のようにまとめられている2。
国外にあるもの
・A群・・・中国に保管されているもの
A-1 群・・・旅順博物館所蔵コレクション
A-2 群・・・中国国家図書館所蔵コレクション
・B群・・・韓国に保管されているもの
B群・・・ソウル国立中央博物館所蔵コレクション
国内にあるもの
・C群・・・日本の国立博物館に保管されているもの
C-1 群・・・東京国立博物館所蔵コレクション
C-2 群・・・京都国立博物館所蔵コレクション
・D群・・・龍谷大学に保管されているもの
D-1 群・・・大谷家寄贈分(木箱二個内のコレクション)
D-2 群・・・探検隊将来敦煌写経若干巻
(西域文化資料 501-537)
D-3 群・・・橘瑞超氏寄贈敦煌写経六巻
D-4 群・・・吉川小一郎氏寄贈分(写真原板、流沙残闕)
D-5 群・・・堀賢雄、渡辺哲信の日記(『新西域記』未収分)3
・E群・・・個人・機関の手にあるもの4
2
3
4
でととらえることができる。
「去る明治三十二年冬より、宇内宗教の現状を視察せんと欧洲の各国を歴訪し、遂に法顕玄奘の旧跡
を慕ひ、許多の艱苦を凌ぎつゝ陸路印度に赴き仏祖の霊蹟を探り聊得る所あり、昔時の隆盛を追想し
今日の荒廃を目撃し、感慨の至りに堪えざりき、・・・」(『鏡如上人年譜』p.27)
藤枝晃「大谷コレクションの現状」『仏教東漸—祇園精舎から飛鳥まで』(龍谷大学 350 周年記念学術
企画出版編集委員会)1991, pp.223-230。
これ以後、野村栄三郎師将来仏頭(1996 年)、青木文教師将来チベット文化資料(2000,2002 年)、堀賢雄
師将来資料(2002 年)、藤谷晃道師将来資料(2004 年)などが、寄贈および購入されて収蔵された。
その他、臺信祐爾氏によれば、出光美術館、MOA 美術館、シルクロード研究所、天理大学付属図書館、
東京大学東洋文化研究所、根津美術館に所蔵されているとされる。臺信祐爾「龍谷大学コレクション
を除く日本国内に現存する大谷探検隊将来遺品について」『西本願寺仏教伝播の道踏査100年展 絲
綢路の至宝』(佐川美術館,2002)p.21。
161
2)龍谷大学と旅順博物館
A-1 群が、私たちが目的とした資料である。1917 年に創立した旅順博物館は、60,000
点を越える文物を所蔵しているが、そのうち「新疆出土文物」及び「外国文物」の中のイ
ンド収集資料が、大谷探検隊の収集品に他ならない。
1992 年3月に、龍谷大学の上山大峻、小田義久、木田知生の三教授が、旅順博物館関
係者と大連市内で面会した。しかし、旅順博物館訪問は許可されず、研究の行く末は不透
明であった。
それから毎年、訪問を続けられ、ようやく閲覧する機会も多くなってきた。それでも多
数の写本断片が貼付された「藍冊」と呼ばれるファイルを数冊閲覧するのがやっとであっ
た。1999 年当時としては、珍しかったデジタルカメラで撮影したデータをもとに、コン
ピュータで、仏典名やテキストの検索同定作業のデモンストレーションも行い、少しずつ
ではあるが、我々の意図や研究方法等も理解してもらうようになっていった。しかし、当
時の劉廣堂館長も龍谷大学側の熱意は理解されたものの、全点にわたる写真撮影や同定研
究ができようとは、想像すらできなかった。
3)漢字資料の共同研究
そのような中、幸いなことに文部科学省科学研究費補助金の交付を受けることができ、
文物を管理している国家文物局の研究許可がおり、奇しくも 2002 年、大谷探検隊派遣
100 周年に当たる年度から、本格的な調査研究が開始されたのである。
新疆出土文物は、陶器・泥塑・陶塑・木器・貨幣・宗教絵画・紡績品・文書・その他に
分類され、計 1,714 件に及ぶ。大谷探検隊が収集対象とした仏典を中心とする文書資料は、
漢字資料と非漢字資料に大別され、前者は 97 件約 26,000 点、後者は 33 件 433 点が蔵さ
れている。漢字資料については、2002 年度より 2005 年度にかけ、同館所蔵の漢文仏典写
本及び版本の共同研究を行った。2005 年には、大連市において「旅順博物館所蔵新疆出
土仏経国際学術研討会」が開催され、その成果を論集として刊行した。また、2006 年に
は『旅順博物館蔵トルファン出土漢文仏典断片選影』(法蔵館)が刊行され、これまでほ
とんど知られていなかった資料 1429 点を公開することができた。
書写年代を基準として漢字資料断片を整理したもので、『トルファン出土仏典の研究—
高昌残影釈録』(法蔵館,2005 年)と同様の問題意識から出版されたものである。この中
162
で注目すべきは、仏典写本としては最古の紀年を有する「元康六年(296)」書写の『諸仏
要集経』(『西域考古図譜』掲載写本)と同一写本の離片が14点発見されたことである。
また、他に類例のない「承陽三年(427)」書写の紀年を有する「菩薩懺悔文」が発見さ
れたことも重要である。
さらに、大谷光瑞師が最も希求した仏典であったであろう、浄土教者写本の中から最古
級の〈無量寿経〉、つまり、大正新脩大蔵経(大正蔵)に平行テキストのない初期〈無量
寿経〉が確認されたことも特筆すべきものである。探検隊が収集した写本群は、日本で橘
瑞超らによって整理調査され、同定できた写本については、法華経(10 冊)、涅槃経・般
若経類(合計で 3 冊)、浄土経論は「浄土一」(1 冊)として藍色のファイル(藍冊)に貼
付されている。しかし、「浄土一」と表記された藍冊に貼付された浄土経論は 81 点のみで
あり、今回の研究によって加えられた 85 点を加えても全点に占める割合は1パーセント
にも満たない5。このように点数としては寡少であったが、それこそが地理学・考古学上
の発見を旨とする探検隊員でなく、浄土真宗の僧侶・仏教者として彼らが求めたものであ
った。1912 年に刊行された『二楽叢書』6の第1号が、浄土経論の釈文からなっているこ
とはその証左であろう。
計 166 点の浄土教関連経論写本断片の図版と録文を中心とする研究成果は、2010 年、
旅順博物館・龍谷大学西域研究会共編『旅順博物館所蔵漢文浄土教写本集成』(西域研究
叢書 5)として刊行された。
4)非漢字資料の共同研究
⑴保管状況
5
6
「藍冊」を含む総断片データ数 27,620 点のうち既同定分 15,405 点をもとに、主要な経論の割合を算出
したものが以下のリストである。法華経や涅槃経が多く、浄土経論が非常に少ないことが窺える。な
お点数については、今後の研究により変動する可能性もあるため、概数にとどめる。
・法華経・・・・・約4,020 点(約26% )
・涅槃経・・・・・約2,820 点(約18% )
・般若経類・・・・約1,920 点(約12% )
・大般若経・・・・約780 点(約5% )
・金光明経・・・・約650 点(約4% )
・大智度論・・・・約490 点(約3% )
・浄土経論・・・・166 点(約1% )
第二次、第三次探検に参加し、写本整理にもかかわった橘瑞超は、「摩尼ノ妙珠豈ニ径寸ヲ以テ優劣ヲ
論ゼンヤ半偈既ニ捨身ノ要アリ妙典字々尽ク法舎利ニ非ラザルナシ」(『二楽叢書』第一号序文、1912)
と記している。どんなに小さな断片であっても、単なる反故や紙屑ではなく、それは「宝」であり、
釈尊の遺骨にも匹敵する「法舎利」と受けとったのである。極小断片を収集し持ち帰った理由は、考
古学的発見への野心や学術的関心からではなかったであろう。
163
非漢字資料については、「20.1550」から「20.1582」と整理番号が付けられた 33 件に含
まれる 433 点は、表裏に文字面をもつ文書断片を二枚のガラス板で挟み込み、黒色粘着テ
ープで周囲に貼って固定した資料の点数であり、一つの整理番号に最大 56 枚ものガラス
が含まれている。さらに、ガラス1枚あたり 19 片の極小断片が挟入されたものもあり、
断片の総点数は不明である。これとは別に、本学との共同研究によって新たに発見された
未整理の非漢字資料があり、「20.1520」として一括して保管されている。
一方、龍谷大学所蔵資料は、保管方法も、ガラスに貼付された赤い楕円ラベルの形状や
記入された文字の書体も同一である。旅順博物館とその収集経緯が同一であるばかりでな
く、これによって少なくとも、両者はある時点では一括して整理されたものが、種々の経
緯を経て分蔵されるに至ったことは疑い得ない。上海無憂園でサンスクリット文献を整理
したのは、ロシアのニコライ・ミロノフ(Nikolaï D. Mironov)であったが、彼が調査結果を
報告したのが 1927 年であり、いつの時点でこのような保管方法を知り、整理されたのか
は不明である。また、どのような経緯で分かれたのかも含め調査の課題となっている。
一方、龍谷大学所蔵の文献資料は、故百済康義氏の調査では、約 7,000 点で、非漢字資
料が約 5,000 面とされている。文字は、ブラーフミー文字(梵字)、チベット文字、カロ
ーシュティー文字、ルーン文字、マニ文字、ソグド文字、シリア文字、ウイグル文字、モ
ンゴル文字、アラビア文字、漢字、西夏文字、パスパ文字の13種が確認されている。ま
た、言語は、サンスクリット語(古典梵語)、プラークリット語(中期インド俗方言)、中
世ペルシア語、コータン語、パルティア語、ソグド語、クチャ語(トカラ語B)、シリア
語、古典中国語(漢語)、チベット語、突厥語(テュルク語)、ウイグル語、西夏語、モン
ゴル語(蒙古語)、アラビア語の15種の言語にわたる。
このうち、ガラスに挟まれたブラーフミー文字の写本資料が9点あり、これが旅順博物
館所蔵資料と同一の由来を持つものである。ガラスに挟入して文書を保管する方法は、ド
イツトルファン研究所やトルコイスタンブル大学図書館及び龍谷大学大宮図書館に所蔵さ
れている同類資料でも採用されている。しかも、黒色粘着テープが周囲に巻かれている点
も共通である。
ドイツトルファン研究所では、大英博物館がすでに行っていた、表裏に文字面のある文
書資料の保管方法にならったと説明され、同じくドイツトルファン隊収集資料の一部であ
ることが確認されているイスタンブル大学所蔵資料は、セルトカヤ教授によると、ドイツ
方式を踏襲して、後にその方法を採用したとのことである。
164
2010 年 3 月 29 日に龍谷大学で開催された「旅順博物館所蔵仏教写本国際研討会」にお
いて、京都大学文学研究科教授吉田豊氏より、上海の博物館に、ソグド語資料が保管され
ているという情報が提供され、ミロノフの調査にかからなかった資料がさらに分散してい
る可能性もある。
⑵研究状況
2009 年度に、古典籍デジタルアーカイブ研究センター長・岡田至弘教授の協力を得て、
旅順博物館所蔵の非漢字資料の一部をスキャナを利用して撮影し、同定研究の目的に限っ
て利用している。しかし、未だ公開できる状況にはなく、現在、青みのかかったガラス面
の色彩を含む写真データをデジタル処理し、文書そのものの紙色を再現することを目指し
ている。
ブラーフミー文字のものが圧倒的に多く、サンスクリット語、アグニ語、その他、ソグ
ド語、ウイグル語、チベット語などが確認されている。解読研究については、現在、ソグ
ド語資料については吉田豊氏に、ウイグル語資料については弘前大学教授松井太氏に依頼
して、解読研究が行われ、成果公開に向けた準備が進められている。また、資料の大半を
占めるブラーフミー文字資料も、現在、鋭意解読調査を進めているところである。
共同研究を進めている旅順博物館側との協議において、最終年度までの研究成果の公開
は認められておらず、本発表では中間発表にもなりえないことはお詫びするほかないが、
来年度には、研究成果を公開することをお約束したい。
おわりに
龍谷大学名誉教授上山大峻氏が、2002 年前期に行われた大谷探検隊派遣 100 周年記念
事業の総括として、「これらの文物は、世界各国に分散していると一般に言われている。
しかしそれは、分散しているのではなく、その文物が、それにかかわる世界中の人々を結
びつけているのだ。」という言葉を想起したい。小さな断片が中国と日本の研究者とを結
びつけたのだといえよう。
中国と日本とが、かつての歴史上の問題を超えて、文物を通して交流でき、さらに、そ
の関係を核として、中央アジア出土写本を研究する世界各国の研究者と学問的交流を広げ
ていくことになれば、これにまさる喜びはない。
また、これまで撮影された文献資料の画像データは、旅順博物館に全て納入しており、
165
中国側の許可が得られれば、IDP レベルでの WEB 公開可能な画質と解像度とが保証され
ていることも付言しておきたい。
参考
トルファン出土写本
1)大谷コレクション・・・日本、大谷探検隊
龍谷大学
『西域文化研究』、『大谷文書
集成壱、弐、参』
2)ベルリンコレクション・・・ドイツ、トルファン探検隊(グリュンウェーデル、ル・
コック)Berliner Turfantexte
2a)西独コレクション・・・ドイツ、マインツ、マールブルグ→ベルリン
2b)出口コレクション・・・日本、ラフマティ氏旧蔵→出口常順師所蔵
130 点
『高昌残影』(2005 年)
2c)イスタンブル大学コレクション・・・トルコ、ラフマティ氏所蔵
3)マネルヘイムコレクション・・・フィンランド、マネルヘイム氏
2000 点
4)スタインコレクション・・・イギリス、スタイン第三次探検
5)サンクトペテルブルグコレクション・・・ロシア、科学アカデミー東洋学研究所
6)中国の二つのコレクション・・・中国、黄文弼発掘品、新疆博物館発掘品(アスター
ナ)
7)王樹枏旧蔵品・・・日本、中村不折氏蔵、上野淳一氏蔵など
8)旅順博物館の大谷コレクション・・・中国、52 冊の藍冊ほか計 2 万 6000 点の漢文断
片と 433 件の非漢字断片
9)西厳寺橘文書・・・日本、181 点
龍谷大学所蔵中央アジア出土品
・文字資料
漢字によるもの・・・宗教典籍
世俗文書
漢字以外の文字によるもの・・・非漢字資料(胡語資料)
・美術考古資料
龍谷大学所蔵中央アジア出土文字資料の概要
166
13種の文字・15種の言語(約 7,000 点、非漢字資料約 5,000 面)
参考:ドイツ隊収集資料・・・24種の文字・17種の言語
文字・・・ブラーフミー文字(梵字)、チベット文字、カローシュティー文字、ルー
ン文字、マニ文字、ソグド文字、シリア文字、ウイグル文字、モンゴル
文字、アラビア文字、漢字、西夏文字、パスパ文字
言語・・・サンスクリット語(古典梵語)、プラークリット語(中期インド俗方言)、
中世ペルシア語、コータン語、パルティア語、ソグド語、クチャ語(ト
カラ語B)、シリア語、古典中国語(漢語)、チベット語、突厥語(テュ
ルク語)、ウイグル語、西夏語、モンゴル語(蒙古語)、アラビア語
西域文化資料中の文字資料概観(龍谷大学所蔵)
Ⅰ.
501-543・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「巻子本」
Ⅱ. 1001-5840(途中空番)6101-6434(以下空番)
Ⅲ. 6001-6070(以下空番)・・・・・・・・・・・・・「胡語文献」
Ⅳ. 7001-7552(以下空番)・・・・・・・・・・・・・「胡漢両語文献」
Ⅴ. 8001-8147(以下空番)・・・・・・・・・・・・・『西域考古図譜』所収
Ⅵ.9001-9166(以下空番)・・・・・・・・・・・・・・『流沙残闕』
Ⅶ.1001-10668(以下空番)・・・・・・・・・・・・・・別置「極小断片」
Ⅷ.11001-11163(以下空番)・・・・・・・・・・・・・「橘資料」
非漢字資料
Ⅰ群
541-543
Ⅱ群
1097-1198,1313-1375,1414-1415,1539-1545,1547-1550,1558-1697,
1701-2354,2407-2596,2605-2826,2918-2923,4166-4170,4536-4667,4678-4679,46834734,4862,5020,5180-5364,5366,5437,5469,5471-5767,5785
Ⅲ群
6001-6070,6101-6434
Ⅳ群
7001-7552
Ⅴ群
8122-8131
Ⅵ群
9001-9010,9012-9052,9054-9065,9068-9105,9107-9125, 9128-9129,
9131-9146,9158-9161,9164,9166
167
Ⅶ群
10001-10137,10139-10153,10155-10200,10358,10566,10603
Ⅷ群
11051-11110,11121-11134,11151,11162-11163
百濟康義「大谷探検隊収集西域文化資料とその関連資料(1資
料の所在)」『仏教文化研究所紀要』35, 1996, pp.42-43
参考文献
目録類
・関東庁博物館(編)『館報』第一号,1920 年
・関東庁博物館(編)『博物館陳列品図録』,関東庁博物館,1925 年
・関東庁博物館(編)『博物館陳列品図録』,関東庁博物館,1929 年
・関東庁博物館(編)『関東庁博物館考古図録』,関東庁博物館,1933 年
・旅順博物館(編)『旅順博物館考古図録』,旅順博物館,1935 年
・〔森
・森
修〕『旅順博物館陳列品図録』,旅順博物館,1937 年
修『旅順博物館陳列品解説』,旅順博物館,1937 年
・関東局(編)『旅順博物館図録』,座右宝刊行会,1943 年
・杉村勇造ほか『旅順博物館図録』,座右宝刊行会,1953 年
・井ノ口泰淳・臼田淳三・中田篤郎共編『関東庁博物館所蔵・大谷探検隊将来文書目
録』二巻,西域出土仏典研究班刊,1989 年
・小田義久・中田篤郎編『大谷光瑞氏寄託経巻目録・旅順博物館』二巻,1989 年
・京都文化博物館(編)『旅順博物館所蔵品展―幻の西域コレクション―』,京都文化博
物館,1992 年
・佐川美術館(編)『絲綢路の至宝
旅順博物館仏教芸術名品展』,佐川美術館,2002 年
・旅順博物館(編)『旅順博物館』,文物出版社,2004 年
・青森県立美術館『旅順博物館展
西域仏教文化の精華』(旅順博物館展実行委員会,旅
順博物館・龍谷大学西域研究会監修)2007 年
研究論文ほか
・上山大峻・三谷真澄「旅順博物蔵大谷探検隊将来資料について」『龍谷大学国際社会
文化研究所紀要』3,2000 年
・王
宇「中国の大谷コレクション—旅順博物館におけるその整理と研究状況」『シルク
168
ロードと大谷探検隊』(『季刊・文化遺産』第 11 号春・夏号)財団法人島根県
並河萬里写真財団,2001 年
・王
宇「對旅順博物館藏大谷探險隊収集品及其整理研究的」『中国北方仏教文化研究
における新視座』,永田文昌堂,2004 年
・王
宇・房学恵著著,柴田幹夫訳「旅順博物館所蔵ガンダーラ仏像について」『東洋史
苑』60・61 合併号,2003
・王珍仁・孫慧珍著,木田知生訳「旅順博物館所蔵新疆出土漢文文書の概要」『東洋史
苑』45,1995 年
・王振芬/王若著・中田裕子訳「旅順博物館蔵「建中五年孔目司帖」における新解釈」
『龍谷史壇』131, pp.13-27,2010 年予定
・王振芬/孫恵珍著・田村俊郎訳「大谷探検隊将来品において新発見された景教の特徴
をもつ地蔵麻布画についての考察—高昌ウイグル国時期の景教と仏教の関係
—」『龍谷大学仏教文化研究所紀要』48, pp.178-191, 2009 年
・小田義久「旅順博物館所蔵の西域出土文物について」『龍谷大学論集』449,1997 年
・小田義久「旅順博物館所蔵の新疆出土文物について」『龍谷大学仏教文化研究所所
報』24 号,2000 年
・金培錕著,秋山進午訳「旅順博物館蔵新疆出土の幾つかの仏教絵画」『仏教芸術』
184,1989 年
・片山章雄「旅順博物館所蔵の大谷探検隊将来吐魯番出土物価文書」『西北出土文献研
究』4,2007 年
・片山章雄「大谷文書・旅順博物館文書中の吐魯番出土霊芝雲型文書の一例 」『西北出
土文献研究』7,2009 年
・橘堂晃一「二樂莊における大谷探検隊将来仏典断片の整理と研究―旅順博物館所蔵の
所謂「ブルー・ノート」の場合」『東洋史苑』60・61 合併号,2003 年
・橘堂晃一「旅順博物館蔵「大谷探検隊将来資料」とその周辺」『東洋史苑』66 号,2006
年
・清野謙次『大谷氏及び橘氏将来の中央亜細亜発掘のミイラに就いて』,岡書院,1930 年
・尚
林・方廣錩・榮新江「大谷収集品・敦煌寫經諸家著録存佚調査表」『中國所藏
「大谷収集品」概況—特別以敦煌寫經爲中心—』〔附表〕(龍谷大学仏教文化研
究所),1991 年
169
・白須淨真「大谷探検隊将来資料と旅順博物館と大連図書館―2000 年 9 月の調査報告
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・白須淨眞「大連図書館日本文献館所蔵「旅順博物館二十年史」の紹介」『立志館大學
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・関尾史郎「トルファン出土「菩薩懺悔文承陽三年題記」について」『西北出土文献研
究』第4号,2007年
・三谷真澄「旅順博物館所蔵『賢愚経』漢文写本について」『印度学仏教学研究』52-2,
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・三谷真澄・磯邊友美「旅順博物館蔵大谷探検隊収集漢文資料について−トルファン出
土陀羅尼仏典を中心として−」『龍谷大学仏教文化研究所紀要』45,2007年
・三谷真澄「旅順博物館所蔵の浄土教写本について」(『国際文化研究』(龍谷大学国際
文化学会)第12号, pp.29-44, 2008年
・三谷真澄「旅順博物館所蔵の漢文無量寿経写本」『宗教研究』83-4, pp.409-410, 2010年
・森
修「旅順博物館の思い出」『古代文化』38-11,1986 年
・李際寧「旅順博物館旧蔵大谷光瑞本敦煌遺書について」『草創期の敦煌学』(羅・王両
先生東渡 90 周年記念日中共同ワークショップの記録)知泉書館,2002 年
・「旅順博物館所蔵中央アジア出土文物,解明がすすむ大谷探検隊将来資料」『龍谷』
34 ,1996 年
研究論集
・龍谷大学仏教文化研究所・西域研究会篇『旅順博物館蔵新疆出土文物研究文集』(龍
谷大学西域研究叢書
2),1993 年(非売品)
・旅順博物館・龍谷大学共編『旅順博物館蔵トルファン出土漢文仏典研究論文集』西域
研究会(龍谷大学西域研究叢書4),2006 年(非売品)
・書法叢刊編輯部編『書法叢刊』「旅順博物館蔵品専輯」2006年第6期(総第94期),文
物出版社,2006年
・ 郭富純・王振芬『旅順博物館蔵西域文書研究』万巻出版公司,2007 年
・ IRISAWA Takashi: “The Way of Buddha”2003:The 100th Anniversary of the Otani Mission
and the 50th of the Research Society for Central Asian Cultures (Cultures of the Silk
Road and Modern Science vol.1) Toho Shuppan(東方出版), 269 頁(MITANI
170
Mazumi: “On the Fragments of Buddhist Canon in Chinese Character of the
Collection of the Lushun Museum”pp.115-122
・旅順博物館・龍谷大学西域研究会共編『旅順博物館所蔵漢文浄土教写本集成』(西域
研究叢書 5)2010 年
図録
・蒋 忠新編『旅順博物館所蔵梵文法華経断簡
写真版及びロ-マ字版』(旅順博物館・
創価学会発行),1997 年
・旅順博物館・龍谷大学共編『旅順博物館所蔵トルファン出土漢文仏典断片選影』法蔵
館,2006 年
171
172
龍谷大学アジア仏教文化研究センター
ワーキングペーパー
No. 10-05(2011 年 1 月 31 日)
大谷光瑞師のトルコにおける動向調査
-ブルサ特別展に参加して―
三谷真澄(龍谷大学国際文化学部准教授)
【キーワード】:トルコ・ブルサ・大谷光瑞・ギョクチェン・特別展
173
出張の概要
出張日程:2010 年 9 月 10 日(金)~
9 月 18 日(土)
[6泊9日]
出張目的:トルコにおいて「ブルサにおける初のトルコ・日本産業提携:ギョクチェン家
と大谷光瑞」特別展のシンポジウムに出席し、関連調査を行うため
出張先: ブルサ市博物館
(Bursa Kent Museum)
Eski Adliye Binasi,Bursa,Turkey
カッパドキア遺跡・ギョレメ野外博物館等見学
イスタンブル市内の宗教施設見学
Kappadokia,Turkey
Istanbul,Turkey
出張内容:
今回の出張の目的は、「ブルサにおける初のトルコ・日本産業提携:ギョクチェン家
と大谷光瑞」特別展開幕に際して開催された学術会議に参加することであった。トル
コ側は、ギョクチェングループ会社代表のシュキューフェ・ギョクチェン氏はじめ、
ブルサ市の国立ウルダー大学からユスフ・オウズオウル氏、ネスリハン・トゥルキュ
ン・ドストオウル氏、イスタンブル市の国立ボアジチ大学からセルチュク・エセンベ
ル氏、ジラルデッリ青木美由紀氏が発表された。日本の上山大峻氏(龍谷大学元学長)、
鈴木董氏(東京大学)の発表をうけ、大谷光瑞師が 1920 年代末に現地で共同経営した絹
織物産業の意義について研究交流を行った。出張者は、ヌルハン・アタソイ氏(イスタ
ンブル大学元文学部長)とともにコメンテータとして参加し、同会議の総括を行った。
この他、シルクロードの要衝であったカッパドキアを訪問し、諸宗教興亡の跡を確
認した。また、大谷光瑞師の研究者であるエルダル・キュチュッキュヤルチュン氏(ボ
アジチ大学)とイスタンブル市内で面談し、市内の主要宗教建築を見学して、トルコの
歴史的経緯に対する知見を深めると共に、今後の研究体制について検討した。
出張日程(詳細)
9月 10 日(金)
関西国際空港を出発。
9月 11 日(土)
ドバイ経由でイスタンブル空港到着、航空機を乗り継ぎカイセリへ移動。
9月 12 日(日)
174
カッパドキア遺跡・地下都市・ギョレメ野外博物館見学。
9月 13 日(月)
カイセリを経てイスタンブルへ移動。トプカプ宮殿や、ブルーモスク・アヤソフィア
等のイスラーム教やキリスト教関連の宗教施設を見学。
9月 14 日(火)
イスタンブルからブルサへ移動。
「ブルサにおける初のトルコ・日本産業提携:ギョクチェン家と大谷光瑞」特別展の展
示確認、及び記念シンポジウム関係者との打合せ。
9月 15 日(水)
ブルサ市博物館で開催される「ブルサにおける初のトルコ・日本産業提携:ギョクチ
ェン家と大谷光瑞」特別展オープニング記念講演会、関連諸行事、及び博物館内で開催
されたレセプションに参加。
9月 16 日(木)
ブルサ市博物館内の「ブルサにおける初のトルコ・日本産業提携:ギョクチェン家と
大谷光瑞」特別展記念シンポジウムに参加。コメンテータとして全体の報告を総括。
ブルサ市当局が要人を招待して開催されたレセプションに参加。
9月 17 日(金)
ブルサを出発、イスタンブルへ移動。市内で、エルダル・キュチュッキュヤルチュン
氏と面談、今後の共同研究について協議。
イスタンブル空港を出発。
9月 18 日(土)
ドバイ経由で関西国際空港到着。
講演会・プログラム
9 月 15 日(水)
講演会(1)
10:00
会場
ブルサ市立博物館(Bursa Kent Müzesi)
日本人向け
「ブルサにおける初の日本トルコ産業提携:ギョクチェン家と大谷光瑞」展の
開催
ヤマンラール水野美奈子
175
(龍谷大学国際文化学部・日本トルコ交流協会)
10:30
「大谷光瑞の生涯とブルサ」
上山大峻(龍谷大学名誉教授、元学長)
11:00
「トルコの歴史とブルサ」
鈴木
11:30
董(東京大学東洋文化研究所教授)
「ブルサの史跡と美術」
ジラルデッリ青木美由紀(ボスポラス大学)
講演会(2)
14:00
トルコ人向け
「日本の歴史と近代化」
鈴木
14:30
「日本の宗教と大谷光瑞」
嵩
15:00
董(東京大学)
満也(龍谷大学国際文化学部)
「日本の絹の文化」
白井
シンポジウム
プログラム
9 月 16 日(木)
9:30 - 16:00
会場
9:30-9:40
進(龍村美術織物研究所顧問)
ブルサ市立博物館 (Bursa Kent Müzesi)
開会挨拶
ヤマンラール水野美奈子
(龍谷大学国際文化学部教授・日本トルコ交流協会)
9:40-10:10
「ギョクチェン家と日本」
シュキューフェ・ギョクチェン
(ギョクチェン・グループ会社代表)
10:10-10:40
「大谷光瑞とブルサ」
上山大峻(龍谷大学名誉教授、元学長)
10:40-11:10
「1920-1930 年代の日土関係とアジアへの視点」
セルチュク・エセンベル(ボアジチ大学教授)
11:10-11:40
「ブルサにおける蚕産業の歴史的背景」
ユスフ・オウズオウル(ウルダー大学)
176
休憩
13:00-13:30
「二人のジェントゥルマンの出会い:メムドゥフ・ベイと大谷光瑞」
鈴木
13:30-14:00
董(東京大学東洋文化研究所教授、日本トルコ交流協会副代表)
「ブルサ市史におけるトルコ・日本織物工場」
ネスリハン・トゥルキュン・ドストオウル(ウルダー大学)
14:00-14:30
「ブルサにおける初のトルコ・日本産業提携:日土織物・染色会社」
ジラルデッリ・青木美由紀(ボアジチ大学)
休憩
15:00-15:50
討論会
コメンテーター:ヌルハン・アタソイ(イスタンブル大学元文学部長)
三谷真澄(龍谷大学国際文化学部准教授)
15:50-16:00
閉会挨拶
出張の総括
今回の出張の第一の目的は、中央アジアへの探検隊を派遣した大谷光瑞師の動向調査に
関連するものである。
特別展「ブルサにおける最初のトルコ・日本産業提携:ギョクチェン家と大谷光瑞展」
が開催に至った経緯は、国際社会文化研究所指定研究「イスタンブル旧総領事館と日本の
文明開化思潮」(2007 年~2009 年、研究代表者
国際文化学部
ヤマンラール水野美奈
子)の一環として、2008 年3月にイスタンブル市のボアジチ大学でワークショップが開
催されたことに触れなければならない。
その折、1920 年代後半から 1930 年代前半にかけて大谷光瑞師が共同経営を行ってい
たとされる「日土織物会社」の状況調査を行うため、ブルサ市に赴いた。その結果、共同
経営者であったメムドゥフ・ベイの後継者であるギョクチェン家が、現在もブルサ市の中
枢企業として活動し、光瑞師からの日本土産品や工場経営に関する同時代資料を多数保管
していることが判明した。その成果の一部を展覧会として開催することになり、2009 年
6 月に外務省の「トルコにおける日本年」認定参加事業に登録されたものである。
ギョクチェン家の全面的協力で開催された展覧会であり、トルコにおける大谷光瑞師の
動向に関しても、調査が大きく進むことになった。
今回の出張の第2の目的は、イスタンブル大学図書館所蔵資料に関するものである。同
177
館には、大谷探検隊(1902-1914)と同時期に同地域を調査したドイツ・トルファン隊収集
の仏教写本・版本の一部が保管されており、1987 年に本学百濟康義教授とイスタンブル
大学オスマン・セルトカヤ教授によって暫定目録が作成されている。ただし一部の研究者
に配布されただけで未刊となっており、図版とともに出版公開したいという意向を双方共
に確認している。
同大学所蔵の当該資料は、「大中規模のもの 112 片、極小断片(切手大)を 10 数片数え
ることができる。中には表裏両面に文字が書かれたものがあるので、文字面の数で言うと、
わずかでも文字の痕跡を認めることができる紙片を含めれば 200 面近くなる。そのうち漢
字面は 100 面を越え、ウイグル字面(漢字あるいはブラーフミー字混じりの含める)約
60、ブラーフミー字面約 20 が続き、加えて近世のアラブ文字のものが1点認められる。
制作年代は、近世アラブ文字のもの1点を除けば、5世紀から 14・15 世紀ものまであっ
て多種多彩であり、写経もあれば木版印刷本もある。」(百濟康義「イスタンブール大学所
蔵の東トルキスタン出土文献−特にその出所について−」『東方学』84, 1992, p.5)とされて
いる。
この資料を出版公開するため、仏教文化研究所「西域文化研究会」客員研究員で、
International Dunhuang Project(IDP)のホームページのトルコ語訳を担当されているエ
ルダル・キュチュッキュヤルチュン氏と会談し、今後の調査研究や出版に向けての協議を
行った。
178
龍谷大学アジア仏教文化研究センター
ワーキングペーパー
No. 10-06(2011 年 1 月 31 日)
東南アジア大陸部地域における「タイ仏教」
―現代アジア仏教の理解にむけて―
林
行夫
(京都大学地域研究統合情報センター教授)
【キーワード】:
東南アジア大陸部・上座仏教・制度と実践・現代仏教
179
01
はじめに
始祖の教えと信仰を基礎にする宗教は、その担い手である個人とともに、個人を越える
社会や地域のなかで育まれてきた。19 世紀以降のアジアでは、押し寄せる西欧文明の流
れのなかで国民国家が築かれ、直接・間接的に宗教の「あり方」はその影響を受けてきた。
とりわけ近代的な法制度を整える過程で、宗教は世俗社会との関わりを様々なかたちでも
つことになった。
非西欧世界であるアジア、アフリカ地域を植民地化しつつあった西欧は、自らの文明の
温床であるキリスト教でない宗教にたいしては未開社会の信仰とみなすか、そうでなけれ
ばその教義教説をキリスト教に照らしつつ、思想や哲学として合理的に理解しようとして
きた。すなわち、非西欧世界と接した西欧は、比較言語学、比較宗教学や仏教学をうみだ
した。そして、その視座や学問の手法は、アジアの仏教の「あり方」を、とりわけ制度と
しての学術や研究の局面で規定することになる。
同時に、宗教は個人の生活のなかで継承されてきた局面をもつ。今日人口に膾炙しつつ
ある「実践宗教」「生活宗教」といわれるものは、その行いの「根」をそれぞれの個人の
日々の暮らしの要請や人々が生きるなかで関わりをもつ他者と共有し刻印する感覚や経験
知といわれるものに依拠していることも事実である。現代のアジアの仏教を考察する場合、
文字化され、情報として表明される宗教の制度の局面のみをみていると、アジアそのもの
が西欧世界とのせめぎあいのなかで生じてきた歴史的事実やその複雑にねじれた時空間の
なかで、しかし着実に地域に根ざして豊かに育まれてきた「生きた仏教」の姿を覆ってし
まうことが多い。小論は、東南アジア上座仏教徒社会で生きられている仏教をいかに対象
化するかについての研究ノートである。
02
東南アジア仏教徒社会の構図
東南アジア大陸部地域で圧倒的多数を占める上座仏教徒とその社会を俯瞰すると、タイ
国の特異性がきわだつ。この地域には、現在、西南中国の云南省と接するミャンマー、タ
イ、ラオス、そしてカンボジアが近代的な国民国家として並び立つが、歴史的にはいずれ
の国もほぼ同時期(11 世紀から 14 世紀かけて)に、当時の地方王権が上座仏教(パーリ
仏教)を受容したことが共通するものの、他の隣接諸国と異なって、タイ国のみが 19 世
紀から今日に至る過程で西欧列強に植民地化されなかったばかりか、内戦や社会主義体制
も経験しなかった。1932 年に絶対王制から現在の立憲君主制となったが、国王が仏教に
180
帰依し仏教を擁護する関係は古来より途絶せぬまま今日まで保持してきている。
こうした歴史的経緯もあって、第二次世界大戦後に本格化する上座仏教徒社会の実証的
研究はタイ国を中心に進展した。1970 年代から冷戦体制が終息する 1990 年代初頭にい
たるまで、他の隣接諸国での調査研究が不可能となったことも、タイ国への研究の集中を
後押ししている。また、タイ国の仏教を同地域における仏教徒社会の伝統を保持する唯一
の国であり、他の上座仏教徒社会を比較研究する際に同国の仏教研究を範とする風儀をう
むのも当然のことでもあった。
西南中国の云南省とカンボジアでは、当時の宗教禁止政策によって仏教が排斥され実践
が途絶した。とりわけポル・ポトの民主カンプチア政権(1976-1978)下のカンボジアは
激烈な断絶を経験した。ラオスでは長引く内戦とその後の社会主義体制で、仏教は儀礼が
縮小され制度的な変節を加えられた。大躍進(1958-1960)と文化大革命(1962-1966)
を経た中国では、1978 年の「民族解放政策」以降、云南省の上座仏教徒社会が復興しは
じめる。冷戦体制終息後のカンボジアでは、紆余曲折を経て 1979 年に戒壇を復活し、ポ
ル・ポト時代に壊滅的打撃を受ける前の状態にまで恢復していく。カンボジアは 1993 年
に立憲君主制となり、同年の憲法において、仏教の国教化を明記した。1975 年に独立を
達成したラオスは、1991 年公布の初の憲法で信仰の自由を明記、従来の槌と鎌に代えて
タート・ルアン仏寺を国章とし、1998 年には仏教連合協会による「サンガ統治法」が発
布された。
国民の七割から九割の人口が仏教徒であるこれらの国々で、現行の憲法が仏教を国教と
明記するのはカンボジアのみであるが、過去四半世紀余りの動きからも明らかなように、
タイ国の周辺国では、一様に国をあげての仏教興隆が進められてきた。ミャンマーは英国
の植民地となった経験をもつが、ミャンマーの仏教は英国にとって近代的な仏教学の素材
であった。19 世紀半ば以降東南アジア大陸部地域を植民地として二分しつつあった英国
とフランスは、いずれも既存の王権を顴骨奪胎したが、その王制を支えていた仏教を保全
している。すでに英国はパーリ仏典を豊富に保蔵していたミャンマーを、フランスはカン
ボジアのアンコールワットを自らのものとしていた。いずれも、仏教の基盤を仏典や純粋
な教義にみいだそうとし、西欧人が了解可能な思想、哲学としての仏教伝統を自らの植民
地に啓蒙する役割を果たすことになった。
タイ国を除く他の上座仏教徒社会は、外部の帝国主義とイデオロギーが仏教を形象化し
てきた経験とともに、衰亡の淵から仏教を根強く持続させてきた内なる力の所在を教える。
181
03
制度としての「タイ仏教」
タイ国は、王制とともに独立を守った。しかし、西欧植民地勢力との動きとまったく無
関係であったわけではない。王として即位する前に 27 年間僧籍にあったラーマ 4 世は、
西欧からの宣教師と対峙しつつ自国の仏教の刷新をめざした。その方法はパーリ原典に回
帰することであった。自ら王族を主メンバーとして今日のタマユット派を創成し、続く 5
世王(チュラーロンコーン)の時代に今日のタイ仏教の制度基盤を築くことになる。
ミャンマーのミンドン王が大理石三蔵を完成させた同じ 1886 年、迫る植民地勢力にたい
し国内統治の中央集権化を推進していたラーマ 5 世は地方を初めて巡幸し、「パーリ語を
読めぬ僧侶、無知蒙昧なる実践」と遭遇する。そのことから「臣民」を「国民」へ転換す
る国語教育と徴税制度の確立に着手した。全国に存在していた寺院を「学校」としたので
ある。東南アジア仏教徒社会で初の「サンガ統治法」(1902)は、寺院と僧侶の登録義務
や戒壇設置の規則を定めた。さらに国家が推奨する学習カリキュラムや国事の仏教年中行
事も定め、今日のタイ仏教制度の骨格をつくった。さらに、5 世王はタイ文字で翻字した
初の三蔵経典を編纂して各国に配布し、英語版ジャータカ 30 話集(1904)も編纂させた。
こうした改革は、日本を範とする世俗教育制度の整備とともに進められ仏教を国家に内属
する宗教としてナショナリズムを喧伝した。植民地化の脅威を前にした当時のタイでは、
西欧世界と国内の地方という二つの「異文化」と遭遇した名君が国家主導の仏教を基礎づ
けたのである。
こうした制度的な整備は、国家が国内外にむけて表明される「タイ仏教」を創成するこ
とになった。しかし、タイ国に住んでいる人々の仏教を一元化したわけではない。このこ
とをサンガ(出家者集団)組織のありかたと実践からみておこう。
出家するとは、上座仏教の律や作法にしたがってサンガ(出家者の集り)に参加するこ
とであるが、タイ国で出家する場合は、1902 年以来、国家への届けが必要となった。す
なわち、ラーマ 5 世の在位中に初めて制定されたその年の「サンガ統治法」により、出
家者は国家が国民として扱い、国家が一元化したサンガ組織(タイ・サンガ)に参加する
ことになっているからである。そのタイ・サンガにはふたつの派(nikai)がふくまれる。
前述した後のラーマ 4 世が確立したタマユットと、それ以前から存在していた数多くの
在来派である。後者は一括して「マハーニカーイ」と呼ばれているが、王族を構成員とし
て創始されたタマユットと異なり、サンガ統制法の成立以前は、地方・民族ごとにサンガ
182
をなしていた師弟関係を軸とする集まりである。しかし、タマユットは後発ゆえに寺院数、
出家者数は僅かなものの、王族主導で 19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて今日のタイ・
サンガを組織化し牽引した。三衣の着衣法や経典の発音が異なるほかは区別しにくいが、
タマユットはサンガ組織内では独立した命令系統をもち、今日においても運営について強
い発言権をもつ。すなわち、その出自において、在来派のマハーニカーイはタマユットの
ような系譜と同質性をもたない。タマユットが国内で唯一無二の王宮を故郷とするのにた
いして、在来派は首都をふくめた広大な地方に無数の淵源をもつ。タマユット主導で築か
れた制度規定に従っているとはいえ、在来派をその名称のように一括りして捉えることは
できないということである。ちなみに、2008 年版国家仏教庁統計では、タマユットは寺
院数 2,265、僧侶 27,253、見習僧 10,125 名であるのにたいし、マハーニカーイは寺院数
32,979、僧侶 230,910、見習僧 59,956 名と圧倒している。
付言すべきこととして、タイ国では国家が管轄する「仏教サンガ」には、主流である上
座仏教を担う「タイ・サンガ khana song thai」のほかに、1962 年改訂のサンガ統制法
で初めて登場する「その他の仏教サンガ」に括られる二つの大乗仏教系サンガがある。
「華人サンガ khana song cin nikai」と「ヴェトナムサンガ khana song annam nikai」
である。ともに独立して活動しているが、機構上は「タイ・サンガ」の法王とタイ国の省
庁関連部局(2002 年までは教育省宗務局、2003 年以降は国家仏教庁)が管轄する。両方
のサンガから有力な僧侶を僧官(役職僧=後述)として任命し、タイ人僧官に準じた欽賜
名を与えてその統制下においている。2008 年版国家仏教庁統計では華人サンガの寺院は
13、ベトナムサンガは 14 とわずかであるが、堂などをふくめると全国で 650 ほどの施設
がある。
04
現代仏教の動態と「行い」の仏教
先に、東南アジア大陸部地域はもとより、タイ国で初の近代的な法制度としてのサンガ
統治法を制定することになったラーマ 5 世が初めて国内地方を巡行した際に遭遇した仏
教徒の「無知蒙昧」をあげた。出家者はキンマ(ベテル)をかんで口を真っ赤にし、儀礼
で必要とされる司祭の他はおよそ用なしの存在という印象譚は、ほぼ同じ時期に偽僧侶と
してタイをふくむインドシナを行脚した日本人(岩本千綱)とまったく同質のものである。
地方農村出身で、後にタマユットの高僧となった出家者の自伝にさえ、往時の地方の出家
者のあり方を唾棄すべきものとして描いている。さらに、筆者が 1981 年から 2 年余りに
183
わたり初めて当地に留学したおりにも、都市出身の大学生が同様の批判を当時の地方農村
の出家者にたいしてぶつけることを再三聞いた。共通点をあげると、パーリ語が読めない、
理解していない、ベテルや煙草をたしなむ、儀礼しかやらない、といったことがあげられ
る。後に東北部の一農村に住んで村人の宗教世界に学ぶうち、筆者は人類学の流儀ではあ
るが、地方農村の人々にはその暮らしの作法に従った、多様にして豊かな仏教実践が築か
れていることを実見することになった。この埋めがたい溝に橋を渡すことが、自身の研究
の大きな課題となって今日に至っている。ここでは、二、三の手がかりをあげておきたい。
第一に、ラーマ 5 世も現代の大学生も「あるべき仏教」と比較していることである。目
前にある仏教を正面から理解しようとしているわけではない。さらに、その仏教を担う仏
教徒を、経済的に貧しく教育を受けていない無知なる信徒とみなしていることである。そ
して、そうした見方は、実はわたしたちの知性を形作ってきた近代の識字文化や教養的知
識のありかたと密接にかかわっているように思われることである。
このことは、ある程度まで歴史的にトレースできる。ラーマ 5 世の時代に初めて制定
されたサンガ法の全国への適用は、地域の仏教の所在を逆に浮かびあがらせたのである。
明治開国以来の日本がそうであるように、後発の近代国家は、軍事力と経済力をもつ外国
を模範とし、その国がむけるまなざしを内在化していく。国家の制度となった仏教は、地
方の寺院施設や教育面で僧侶の仏教を平準化する仕組みを整える。それは世俗教育整備と
連動して官庁が制度的に統轄し、寺院を近代的な意味での教育福祉機関とする路線へとつ
ながっていく。
事実、今日のタイのサンガは、出家者に世俗教育課程を提供することに制度的な位置づ
けを与えられている。都市の主要寺院では、パーリ教学や仏教教育のほか国語や世界史さ
らに近年ではコンピューターなどの実務教科も導入する。地方でも中学、高校レベルの出
家者のための学校を設ける。修了すれば世俗教育の中等・高等学校卒資格から大卒資格認
定試験まで受けることができるので、地方農村出身者には、世俗教育を受けて還俗後の資
格や学歴を取得するために出家する者が多いのである。
1970 年代以降、タイ国で調査研究をした研究者は、瞑想実践を中心とする際だった活
動とその組織(タマカーイ)や、菜食主義で出家主義の仏教を厳格に刷新しようとする信
徒の集まり(サンティアソーク)、政府の開発政策や社会福祉政策に呼応する高僧とその
信徒集団を、市場経済の荒波のなかで激変するタイ社会に突出して出現した新たなタイ仏
教の展開として描くようになった。同時に、しかしそれらとは対極的に、同じタイ社会の
184
変容という文脈でありながら、聖なる呪具呪符の作り手として高名な僧侶への信仰や、そ
うした信徒から多額の布施を得て仏教をビジネス化する僧侶の活動を合わせ鏡のようにし
て描くようになった。とりわけ、1990 年代にかけてサンガへの批判や高僧の醜聞が続き、
メディアは「逸脱した」実践を痛烈に批判するようになった。
論調は、そのような状況を生んだ原因を制度としてのサンガに求める動きをうみだした。
醜聞が続出するのはサンガの監督不行届が原因とする批判である。こうした一連の流れは、
1998 年にバンコクで僧俗の識者、活動家を集めて開催された討議集会の主題「仏教の危
機の時代」に収斂する。タイ仏教は過去になかった最大の危機的状況にあるという認識で
ある。
さらに、21 世紀にはいって比丘尼出家を求める動きが顕われた。
上座仏教では比丘尼と沙彌尼を認めない。もっとも、女性が仏教から排除されているわ
けではない。托鉢に応じる食施をはじめ、僧侶や寺院を日常的に支えるのは女性である。
新月と満月で月に二度めぐってくる仏日(僧侶が持戒を悔い改める「布薩日」)には、圧
倒的に多数の女性が五戒ないし八戒を受けてお籠りや瞑想修行に参加する。熱心な女性は、
白衣を着て八戒を日常的に遵守する在家女性修行者(メーチー)となる。王妃プロジェク
トとして 1969 年に「メーチー協会」が設立されている(登録会員はおよそ 4 千人)が、
協会とは関係なく誰もが自発的にメーチーになれる。制度上は在家者であるメーチーは、
表向きには聖職者ともみなされるので、選挙権の行使は事実上望まれてはいない。比丘や
沙彌と僧坊を同じくすることはできないが、住職の許可を得て寺院の一画で生活したり、
托鉢に同行できる。すでに 1920 年代後半、在家でありながら実践では男性の「生臭坊
主」よりはるかに敬虔な女性が、どうして得度できないのかという批判と議論は男性の側
からもあった。だが、当時のサンガは、タイ人僧侶が女性を得度させることを明示的に禁
じたのみであった。
ところが 2001 年 5 月に沙彌尼が出現する。かつてタイで実現できず、台湾で大乗仏教
の比丘尼となった実母の意志を継いだチャッスマーン・カビーラシンは、大学教員にして
仏教研究者でもあったが大学を辞し、1998 年に比丘尼制度を復興させたスリランカに渡
り、沙彌尼として得度して帰国した。タイ側の一人のメーチーもこれに続いた。主に知識
人の支援とともに「伝統」を堅持しようとする僧侶や在家者の批判にも晒されたが、
2002 年 2 月 10 日、ナコンパトム県ソンタムカンラヤニー寺でスリランカから招いた比
丘尼を授戒師として二人目のタイ人メーチーを沙彌尼として得度させた。これはタイ史初
185
の沙彌尼誕生としてメディアが大きくとりあげた。だが得度式はスリランカの作法に則り
八人の比丘尼が司式したもので、他に台湾、インドネシアからの比丘尼、二人のチベット
人僧侶、六人のタイ人僧、知識人のスラック・シワラク氏が参加したものの、タイサンガ
に所属することにはならないとして当時の宗務局とサンガは黙認したにとどまった。
メディアや研究者が「大事件」として捉えたこのできごとが、女性信徒にとってどのよ
うなエンパワーメントたりえたのか、地方農村の女性たちにこのことについてどう思うか
などと訊ね歩いてみたところ、たちどころに理解できないような返答があった。それは、
自分がすることではないという語りであった。同時に、比丘尼になることは善いことであ
ろう、だが自分は比丘尼にならなければならないという理由がない、なりたいという気持
ちもない。「わたしたちの仏教があるから」ということである。
実際に、メディアが報じる「逸脱のタイ仏教」、研究者が描く「新仏教運動」は、筆者
がでかけた先の地方在住者はもちろん、首都で就業している地方出身者さえも、ほとんど
知らない(正確には関心のない)出来事であった。しかも、日々の食施を欠かさない敬虔
な女性ほどそうした反応をする。一連の騒動のような報道が続いた 2004 年、東北地方は
ウドンタニー県の丘陵部で多数の信徒を集める瞑想の師を訪ねた。その地域では誰もが知
る高侶なのだが、全国はもちろん隣接県でもまったく知られていない僧侶である。タイ国
では、こういうかたちで傑出した僧侶が地方に分布する。多くがマハーニカーイである。
その師は、こうした一連の観察をどう理解されるでしょうかとたずねる筆者を、「エアコ
ンのきいた部屋でコーヒーを飲みながら語られている仏教と自分とは何の関わりもない」
と一蹴した。
女性からこの高僧の反応を、地方在住者の無知蒙昧と説明することは容易い。しかし、
この人々にとっては、自らが実践する日々の行いのなかにそれぞれの人の仏教が生まれる
ということを教えているのではないかと思われた。そのことを言語にしていくことも、筆
者の課題である。
国家や制度が表明する仏教と、日々の暮らしの中で醸成されてきた仏教は、同じタイ仏
教の名の下、制度傘下にある。しかし、次元の異なる歴史をもつ両者を区別して捉えるこ
とは重要である。現代のタイ国に生起する多様な仏教の展開を理解するためには、法制度
をはじめとするマクロな動きとそれに関連する表象を既存の分析枠組で捉える方法も重要
ではあるが、地域に刻印された当事者の活動の内実に近づくには、それぞれの地域の歴史
的な背景や文脈をおさえなければ起こっている現実を歪曲ないし極小化して描いてしまう
186
ことになる。こうした認識は、日本同様にグローバルな経済合理性や消費主義が国家全体
を席巻する現状においてこそ、東南アジアをふくむアジアの仏教の動態を適切に理解する
ための構えとなるように思われる。
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188
龍谷大学アジア仏教文化研究センター
ワーキングペーパー
No. 10-07(2011 年 2 月 9 日)
バングラデシュ仏教の現状・調査報告
岡本
健資
(龍谷大学文学部講師)
目 次
1 調査の概要
2 バングラデシュ北部における調査と協力体制
2 バングラデシュ南東部における調査と協力体制
3 バングラデシュ南東部の寺院調査
(1) ランクート・モナスタリ
(2) ラマパラ・ヴィハーラ
(3) アッガ・メーダ・キャウン
(4) バハルチャラ・ブディスト・モナスタリ
(5) チッタゴン・ブディスト・モナスタリ
3 調査を終えての所感
【キーワード】:バングラデシュ・チッタゴン・コックスバザール・ビルマ・イスラ
ム
189
1
調査の概要
①期日:2010 年 8 月 11 日(日)~8 月 22 日(日)
②調査者:若原雄昭(龍谷大学理工学部教授)・岡本健資(龍谷大学文学部講師)
③調査目的:バングラデシュにおける仏教徒コミュニティ現状調査と調査協力体制の構築。
④調査方法:現地における宗教研究者との協議・仏教関係者への聴取<聴取対象は、
ダッカ大学パーリ学仏教学科教授 Dillip Kumar Barua 博士との協議に基づき選定>
⑤調査日程
8 月 11 日(水)Dhaka
<Hazrat Shahjalal International Airport (元 Zia International Airport)に到着>
8 月 12 日(木)Dhaka
Dhaka 大学 Department of Pali and Buddhism の学科長 Dillip Kumar Barua 博
午前①
士と午後開催の学術交流セミナーの打ち合わせ。
Dhaka 大学 Department of Pali and Buddhism 主催で Special Seminar 2010 に
午後②
出席し、若原と岡本が研究発表。質疑応答やセミナー後の集まりにおいて、
Bangladesh National Museum の Researcher である Niru Shamsun Nahar 博士などの研究
者と交流。
8 月 13 日(金)Dhaka→Rajshahi
午前
D. K. Barua 博士・Nahar 博士と調査スケジュールの打ち合わせ。
午後
バングラ北部の都市 Rajshahi へ車移動。
8 月 14 日(土)Rajshahi
午前
Rajshahi にある国立大学 University of Rajshahi に属する博物館 Varendra
Research Museum に到着。博物館を観覧後、所蔵された仏教関連資料リストを閲覧。
午後③
Varendra Research Museum の Director である Md. Zakaria 氏と面会。博物館
が保存する歴史資料の閲覧に関し協力要請。
8 月 15 日(日)Rajshahi→Puthia→Dhaka
午前
前日に続き、同博物館所蔵の仏教関連リストや学術報告書を閲覧し入手。
午後
ダッカへの帰途、Puthia のヒンドゥー寺院群を観覧。Nahar 博士より創建当
190
時の信仰形態や、現在の保存状況について説明を受ける。その後、Dhaka へ。
8 月 16 日(月)Dhaka
午前・午後
D. K. Barua 教授とともに、17 日より開始する Chittagong 地区周辺寺
院調査準備と打ち合わせ。
8 月 17 日(火)Dhaka→Chittagong
午前・午後
午後④
Dhaka から Chittagong へ車移動。
Chittagong 大学 Department of Oriental Languages の学科長 Gyana Ratna 博士
より Chittagong 周辺寺院に関する聞き取り調査。
8 月 18 日(水)Chittagong→Cox's Bazar
午前
Chittagong からさらに南へ移動し、Burma(=Myanmar)国境付近の海岸都
市 Cox's Bazar へ到着。
午後⑤
Cox's Bazar 周辺寺院 Rangkut Monastery 訪問。
午後⑥
同じく Cox's Bazar 周辺寺院 Lamapara Vihara 訪問。
8 月 19 日(木)Cox's Bazar→Chittagong
午前⑦
Cox's Bazar 周辺寺院 Aggamedha Kyaung(4つの寺院から成る複合寺院)
訪問。住職は U. Wanna 比丘(ビルマ出身 36 才)。所属は Sudharma Nikaya(?)。
午前⑧
Cox's Bazar 周辺寺院 Baharchara Buddhist Monastery 訪問。住職は Gyana
Lankara 比丘(Ramu のラカイン族出身 52 才)。
午後
Chittagong へ移動。
8 月 20 日(金)Chittagong→Dhaka
午前⑨
バングラデシュにおける仏教二大宗派の一つ Mahasthavira 派の根拠地とさ
れる寺院 Chittagong Buddhist Monastery 訪問。住職は Chittagong 大学教授でもある
Jinabodhi Bhikkhu 博士。同氏を取材。
午後
Dhaka へ移動。
8 月 21 日(土)Dhaka
午前⑩
Dhaka 大図書館責任者 M. Nasiruddin Munshi 博士の許可を得て、館内の貴
重書を閲覧し、所蔵資料のカタログを入手。
191
午後⑪
バングラデシュにおける仏教二大宗派の一つ Sangharaja 派の根拠地である
Dhaka 市郊外にある Dharmarajika 寺院訪問。現状について取材。
8 月 22 日(金)Dhaka→帰国
午前⑫
Dhaka 大学副学長 Harun-or-Rashid 博士と懇談。バングラにおけるムスリ
ムと政治の関係についての取材。※同氏は政治と宗教の関係を論じた業績を多数著し
ている政治学者。
〈帰国のため、深夜 Hazrat Shahjalal International Airport より関空へ向けて出発。〉
2
バングラデシュ北部における調査と協力体制
バングラデシュの首都ダッカへ到着すると、翌日は、ダッカ大学のパーリ学仏教学科
の学科長ディリップ・クマル・バルア(Dillip Kumar Barua)博士の協力を得て、現地研
究者との学術交流のため、同学科主催の特別セミナーに参加し研究発表する機会を持つこ
とができた。この際、現地の研究者たち(バングラデシュ国立博物館の研究者 N. S. Nahar
博士等)からバングラデシュ仏教に関する情報を得ることができた。次いで、古い時代に
おけるバングラデシュ北部における仏教伝播に関する情報を得るため、ダッカ大学 D. P.
バルア博士と国立博物館 N. S. ナハル博士の協力を得て、パーラ朝を中心とした多数の文
物を収蔵していることで知られる、バングラデシュ北部の博物館ヴァレンドラ研究博物館
(Varendra Research Museum)を来訪する機会を得た。バルア・ナハル両博士の同行によ
って、博物館長 Md. Zakaria 氏の許可がおり、この博物館所蔵の貴重な仏教・イスラム
教の考古資料を閲覧することができた。また、これらの資料とともに、美術史学を専門と
し、ご自身もイスラム教徒であるナハル博士の解説を通して、イスラム勢力が当該地域へ
進出した当時の様子を知ることができ、異宗教同士の邂逅によって生じた現象の一端を垣
間見ることができた。古来、文化的にインドからの影響が強く残るバングラデシュ北部地
域は、イスラム化も早期に進んだ地域であり、同地域における仏教を調査するにあたって
は、絶えず、ヒンドゥー・イスラム両宗教の動向を見据えて調査をする必要がある。既に、
当該地域における調査に関してはダッカ大パーリ学仏教学科スタッフの協力が得られるこ
とが確認されており、上記のナハル博士も今年 4 月より数ヶ月間、龍谷大学への招聘が決
定している。今後、バングラデシュ北部地域における仏教徒調査の協力体制は比較的充実
したものとなるはずである。
192
3
バングラデシュ南東部における調査と協力体制
バングラデシュの仏教を研究するならチッタゴンへ行く必要がある。2009 年の予備調
査の際、ダッカ大学で会見した複数の仏教研究者がそう語っていた。バングラデシュの国
土の大半は、インド亜大陸の東部に位置し、ガンジス河口のデルタ地帯を覆う。この点で、
同国は南アジア地域に分類される。しかし、バングラデシュの南東部は、ベンガル湾を囲
う海岸線沿いに長く南へ延びてビルマと国境を接し、地勢的に東南アジア地域との繋がり
が深い。
チッタゴン(Chittagong)はバングラデシュの南東部に位置し、ダッカからは車で 6 時
間ほどかかる。当該地域における調査と協力体制構築のため、8 月 16 日にダッカ大学の
バルア博士とチッタゴン行きに関する日程調整を行い、翌 17 日にチッタゴンへ移動した。
総人口の 9 割以上がイスラム教徒であるバングラデシュにあって、チッタゴンには仏教徒
が非常に多く、その受け皿としての仏教寺院も数多く存在する。バングラデシュ仏教の現
状を知るために、まずはチッタゴン地域での仏
教寺院や出家者、仏教徒の総数を知る必要があ
る。国勢調査などのデータ収集を目的として、
バルア博士の旧友であるチッタゴン大学の東洋
言語学科長ギャン・ラトナ(Gyana Ratna)博
士(図中の向かって右の人物。左は D. K. バル
ア博士)を訪ねた。
ギャン・ラトナ博士は、バルア博士と同じくかつて愛知学院大学に在籍し、故・前田
恵学教授に師事、博士論文も日本語で記述した親日家の研究者である。ギャン・ラトナ博
士によれば、少なくともチッタゴン周辺の仏教寺院や仏教徒に関する統計データは存在せ
ず、バングラデシュ全体に関しても詳細なデータは存在しないかもしれないとのことだっ
た。我々が来る前に、金融系企業の社員も博士のもとに来訪し、そのようなデータの有無
を質問していったという。彼らはおそらくダッカにも問い合わせを行ったであろうから、
やはりギャン・ラトナ博士が語るとおり、バングラデシュにおける仏教徒に関する詳細な
統計データは存在していない可能性が高い。従って、そのような統計データの作成は、当
該国の仏教徒の現状を把握する上での重要かつ初めての試みとなる。統計データに関して
は、インド西ベンガル州における仏教徒の現状についてのデータを記した文献(Directory
193
of Theravada Buddhist Temples in Eastern India)が我々の手元にあった。今回のバングラデ
シュ調査に先立ち、インド西ベンガル州コルカタ調査を行った際に、若原が同書の著者ブ
ラフマンダ・プラタプ・バルア(Brahmanda Pratap Barua)氏ならびに出版者スジト・ク
マル・バルア(Sujit Kumar Barua)氏に面会して直接入手したもので、2010 年に全イン
ド・ベンガル仏教徒連盟(All India Federation of Bengali Buddhists)から出版されたばかり
の、最新のベンガル仏教徒ならびに寺院事情の詳細なデータを記した書籍である。この書
籍をサンプルとして、チッタゴン周辺寺院や仏教徒に対する調査協力について、ギャン・
ラトナ博士と打ち合わせを行った。結果、チッタゴン周辺の山岳地帯(CHT=Chittagong
Hill Tracts)を含めると寺院数は相当数有るため、市内から少しずつ始めることなら可能
であるとの回答を得た。今後は、アンケート票に掲載する調査項目を決定し、徐々に調査
を行うことになる。データが集まってくれば、仏教寺院の支持者の現状や、他宗教との関
係の実際が明らかになるであろう。
4
バングラデシュ南東部の寺院調査
コックスバザール(Cox’s Bazar)は、チッタゴンの南に位置するリゾート地であり、文
化圏としてはチッタゴンと類似する。南北に細長く伸びたこの同地域は、西にはベンガル
湾を望む砂浜の海岸線が長さ数キロに渡って伸びており、バングラデシュ人たちは世界最
大の砂浜だと称している。反対に位置する東側には、ビルマとの国境線が走っており、チ
ッタゴンよりもさらに東南アジア地域の影響が濃い。今回の調査ではそのことを思い知る
ことになった。
(1) ランクート・モナスタリ
チッタゴン周辺地域に位置づけられるコックスバザールでの仏教寺院を取材するため
に、まず、ランクート・モナスタリ(Rangkut Monastery)を来
訪することにした。同寺院はバングラデシュにおける二大宗派
の一つサンガラージャ(Sangharaja)派に属しており、ギャ
ン・ラトナ博士の戒師であるプラッギャヴァンサ長老
(Pragyavamsa Thera)が住職をつとめる。創建に関しては紀元
前 308 年にアショーカが創建したとされる。1932 年に盗難に
遭うまでこの寺院に存在していた碑にそう記してあったためで
194
あるという。しかし、残念ながら、その碑は現在見ることができない。プラッギャヴァン
サ長老は現在 61 歳で、かつては十二頭陀を行じていたとされ(図は頭陀を行った当時の
同長老)、尊敬を集める比丘である。同寺院で彼と同居する出家者たちの内訳は比丘が 8
名、沙弥 4 名であり、約 100 家族が彼らを支えている。この寺院の他、周囲に仏教寺院が
10 ヵ寺以上点在するという。ムガール時代にさかのぼるという墓地も存在し、歴史のあ
る寺院であることに相違ない。長老に本プロジェクトの説明を行うと、協力を快諾してく
れた。今後、同地の調査を行う上で貴重な協力を得られそうである。
(2) ラマパラ・ヴィハーラ
コックスバザールには、ビルマ風の建築様式を持
つ寺院が多数存在する。ラムー(Ramu)という地
にあるラカイン(Rakhine)族の寺院であるこのラ
マパラ・ヴィハーラ(Lamapara Vihara)もその一つ
であり、ビルマからの影響が強い地域だとが判る。
堂内では老比丘が独りで信者(10 人ほど)の人生
相談を受けながら呪符を授けていた。残念ながら、この老比丘からの聴取
はできなかったが、堂内にいた信者の約半数は、その装束からイスラム教
徒だと判断できた。さらに、外でも老比丘との会見の順番を待つイスラム
教徒が履物を脱ぎ待機していたが、その表情は真剣なものであった。聴取
ができなかったため、創建年・創建者、構成僧侶数、信者数ともに不明で
あるが、イスラム教国における異宗教の共存という観点から、興味深い素
材を提供する寺院であり、今後詳細な調査を要する。
(3) アッガ・メーダ・キャウン
アッガ・メーダーウィ(Agga Medawi)比丘が
1799 年に創建したマハー・ティンダウグリー
(Maha Thindawgree=Mahasindagri(?))という寺
院は、同じ敷地内にある 3 ヵ寺とともに、計 4 ヵ
寺からなるアッガ・メーダ・キャウン
195
(Aggamedha Kyaung)という名の複合寺院を構成する。現在、この寺院で生活するウァ
ンナ(W. Uanna)比丘から話を聞くことができた。ウァンナ比丘は 2004 年に同寺に着任
したビルマ出身の 36 歳の比丘である。合計で比丘が 3 名と沙弥 1 名がいると言うので、4
名の出家者からなる複合寺院ということになる。彼らを支える信者は約 100 家族で、僧も
信者もすべてラカイン族であるという。所属の宗派を尋ねると、スダルマ・ニカーヤ
(Sudharma Nikaya(?))という名がかえってきた。初耳であったが、おそらくはビルマの
宗派だと推測される。いずれかの本山から派遣されたのではなく単立である由。また、ウ
ァンナ比丘は英語ばかりかベンガル語も通じず、ビルマ語やラカイン族の言語だけを話し
ていた。そのため、バルア博士もうまく通訳できず、偶然に寺院の仕事の手伝いをしに訪
れていた付近の大学生が、我々の英語を現地語に翻訳してくれたおかげでウァンナ比丘と
の対話が可能となった。今後、チッタゴンやコックスバザール地域の寺院調査にあたって
は現地語(ビルマ語・ラカイン語・マルマ語など)を解するスタッフが不可欠であるとい
う教訓を得た。
(4) バハルチャラ・ブディスト・モナスタリ
コックスバザールではもう 1 ヵ寺バハルチャラ・ブデ
ィスト・モナスタリ(Baharchara Buddhist Monastery)を
訪 れ た 。 こ こ で も 住 職 の ギ ャ ン ・ ラ ン カ ラ ( Gyana
Lankara)比丘と会見できた。同氏はコックスバザール
の北にあるラムー(Ramu)出身のラカイン族で 52 歳、
受戒もこの寺院においてである。同寺に属す出家者は、彼の他に沙弥 3 名である。彼らを
支えるのはバルア族仏教徒が 30 家族、ラカイン族仏教徒が 30 家族の計 60 家族。寺院は
6 年前(2004 年)に再建されたそうだが、創建は 117 年前(1893 年)だという。受戒堂
(戒壇院)には、Cox's Bazar という地名にその名を残す植民地時代のイギリス人統治者
コックス(Cox)自身が寄進したという仏像が安置されていた。
(5) チッタゴン・ブディスト・モナスタリ
バングラデシュ二大宗派であるサンガラージャ(Sangharaja)派とマハースタヴィラ
(Mahasthavira)派の内、マハースタヴィラ派の根拠地とされる寺院がチッタゴンにある
と聞き、取材する。クリシュナ・ナジル・チャウドリ(Krisna Nazir Chawdhury)氏によ
196
って 1889 年に創建されたチッタゴン・ブディ
ス ト ・ モ ナ ス タ リ ( Chittagong Buddhist
Monastery)というこの寺院は、現在、55 歳の
ジナボーディ博士(Dr. Jinabodhi Bhikkhu)が
住職を勤めている。同氏(図中の左から三番目
の人物)はチッタゴン大学東洋言語学科教授で
あり、現在もバングラデシュ政府と関係する職に就いているという。また、イスラム教徒
との対立について尋ねると「良い関係を保っており、問題は無い」と答えてくれた。しか
し、それは住職が持つ肩書と無関係ではないかもしれない。宗教活動の点では、1998 年
以 降 に 、 ジ ナ ボ ー デ ィ 博 士 自 身 が 創 立 し た Buddhist Research and Publication CentreBangladesh という組織を通して、出版物とともに人員をバングラデシュ北部地域に送る一
方、チッタゴン周辺の山岳地帯に四つの学校(高校、孤児院が各 1 校、小学校が 2 校)を
開設したという。以上のように、伝道活動も精力的に行っているこの寺院の構成員は、比
丘が 15 名と沙弥が 12 名で、彼らを支える信者は 250 家族である。我々が訪れている間も、
外にある在家者向けの礼拝堂は常に信者で溢れていた。
5
調査を終えての所感
「アジア諸地域における仏教の多様性とその現代的可能性の総合的研究」のユニット1
(南アジア地域班)の中にあって、ベンガル仏教徒調査は、サブユニット3に位置づけら
れる。同サブユニットでは、今年度の目標の一つとして、「ベンガル仏教徒に関する基礎
的情報の収集」を目標として掲げていた。既に本報告にて言及したとおり、インド国内の
ベンガル仏教徒の動向に関しては、その基礎情報としての価値を有する研究書(Directory
of Theravada Buddhist Temples in Eastern India)が入手できたこと、そして、若原の報告に
記載されるインド・コルカタにおけるベンガル仏教徒の主要寺院調査によって、今年度の
目標の半分以上は達成されたと言って良い。残された課題はバングラデシュ国内の仏教徒
調査である。この点については、チッタゴン大学ギャン・ラトナ博士の指摘により、バン
グラデシュにおける仏教徒に関する詳細な調査が行われた形跡の無いことが判明した。と
はいえ、今後、ダッカ大学とともに、南東部に影響力を持つチッタゴン大学とも調査協力
体制が構築できたことは成果であろう。
バングラデシュ国内では、小規模ではあるが、北部地域において 1900 年代後半になっ
197
てアーディヴァーシーたち(=もともと住んでいた人々)が新たに仏教へ改宗しはじめた
ことが確認され、今後もダッカ大学と協力しての北部調査が必要となる。南東部調査には、
チッタゴン大学の協力が得られるため、今回の調査で経験した言語的な問題などは解消で
きるであろう。また、今回の調査でイスラム教徒との間に軋轢があると答えた出家者もい
たが、より多くの寺院を巡って基礎情報の収集を行う必要があったため、当該地域に見ら
れる宗教的非寛容の詳細について確認する時間がなかった。今後は、そのような問題を確
認するとともに、異宗教が同一地域において共存、多元的共生のための姿勢や工夫を聴取
する必要がある。
198
龍谷大学アジア仏教文化研究センター
ワーキングペーパー
No. 10-08(2011 年 3 月 8 日)
「ダルマ」に関する最新の研究成果(1)
桂
紹隆
(龍谷大学文学部教授)
【キーワード】ダルマ、ダルマシャーストラ、仏教、ジャイナ教、インド哲学、イン
ド医学、叙事詩
199
アジア仏教文化研究センターのユニット1は、南アジア諸国に置ける仏教文化の多様
性とその現代的意味の追求を研究課題とし、そのサブユニット1は主としてインド亜大陸
における伝統的な仏教思想を研究対象としている。2010 年度には、仏教の発祥地である
インドにおいて宗教の相違を超えて最も重要かつ共通の理念である「ダルマ」の研究に取
り組んで来た。「ダルマ」に関する最新の研究成果として、Yale 大学の Phyllis granoff が
編集する Journal of Indian Philosophy のダルマ特集号(32 巻 5-6 号, 2004 年)があげられ
る。ダルマ研究者として知られるテキサス大学の Patrick Olivelle が責任編集者となり、世
界の主要なインド学者、仏教学者が「ダルマ」に関して書いた論文を集めたものである。
全 460 ページの大部なものである。ここには「ダルマ」研究の最新かつ最高の研究成果が
集められていると言っても過言ではない。したがって、サブユニット1(伝統思想班)の
研究遂行に資するために、東京学芸大学研究員の小林久泰氏に個々の論文の概要をまとめ
てもらった。同特集号には、Olivelle の短いイントロダクションを別にして、全部で 17 編
の論考がおさめられているが、そのうち 10 編の概要をここに提示する。残りの7編の概
要は来年度の課題とする。(桂
紹隆)
要約一覧
(1) Paul Horsch(チューリッヒ大学) “From Creation Myth to World Law: The Early History
of Dharma”(創造神話から世界秩序へ:初期のダルマの歴史)”Vom Schöpfungsmythos zum
Weltgesetz” (Asiatische Studien: Zeitschrift der Schweizerischen Gesellschaft für Asiankunde, vol.
21, Francke: 1967, pp. 31–61)の Jarrod L. Whitaker による英訳。JIPh pp. 423-448
(2) Rupert Gethin(ブリストル大学教授)”He Who Sees Dhamma Sees Dhammas: Dhamma in
Early Buddhism”(ダンマを見る者は諸々のダンマを見る:初期仏教におけるダンマ)JIPh
pp. 513-542
(3) Collett Cox(ワシントン大学教授)”From Category to Ontology: The Changing Role of
dharma in Sarvāstivāda Abhidharma”(範疇論から存在論へ:説一切有部におけるダルマの
役割の変遷)JIPh pp. 543-597
(4) Olle Qvarnström(ルンド大学教授)”Dharma in Jainism – A Preliminary Survey”(ジャイ
ナ教におけるダルマ:予備的考察)JIPh pp. 599-610
200
(5) John Brockington(エディンバラ大学教授)”The Concept of Dharma in the Rāmāyaṇa”
(ラーマーヤナにおけるダルマの概念)JIPh pp. 655-670
(6) Johannes Bronkhorst(ローザンヌ大学教授)”Some Uses of Dharma in Classical Indian
Philosophy”(古典インド哲学におけるダルマの用例)JIPh pp. 733-750
(7) Francis X. Clooney, S.J.(ハーヴァード大学教授)”Pragmatism and Anti-Essentialism in the
Construction of Dharma in Mīmāṃsāsūtras 7.1.1-12”(ミーマーンサー・スートラ 7.1.1-12 に
見られるダルマの構築における実用主義と反本質主義)JIPh pp. 751-768
(8) Sheldon Pollock(コロンビア大学教授)”The Meaning of dharma and the Relationship of
the Two Mīmāṃsās: Appayya Dīkṣita’s ‘Discourse on the Refutation of a Unified Knowledge
System of Pūrvamīmāṃsā and Uttaramīmāṃsā’”(ダルマの意味と二つのミーマーンサー学派
間の関係:アッパヤ・ディークシタ著「プールヴァ・ミーマーンサーとウッタラ・ミーマ
ーンサーの統一的な知識体系を否定する小論」)JIPh pp. 769-811
(9) Donald R. Davis, Jr.(ウィスコンシン大学マディソン校准教授)”Dharma in Practice:
Ācāra and Authority in Medieval Dharmaśāstra”(実践的なダルマ:中世ダルマ文献における
アーチャーラと権威)JIPPh pp. 813-830
(10) Dominik Wujastyk(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン大学教授)”Medicine and
Dharma”(医学とダルマ)JIPh pp. 831-842
論文要約
(1) Paul Horsch (Translated by Jarrod L. Whitaker) “From Creation Myth to World Law: The Early
History of Dharma” Journal of Indian Philosophy 32, pp. 423-448, 2004. (Originally published as
‘Vom Schöpfungsmythos zum Weltgesetz’, in Asiatische Studien: Zeitschrift der Schweizerischen
Gesellschaft für Asiankunde, vol. 21 (Francke: 1967): 31–61.)
本稿で Horsch はヴェーダの時代から仏教に至るまでのダルマという概念の歴史を概観
している。Horsch の論点は以下の七点に要約される。
1. dhárman という概念の起源は、天と地を分けて持ち(vi-dhṛ)支える(dhṛ)という創造
神話にある。それにより、秩序や「支え」が混沌とした原始の画一から生まれた。
2. 従って、dhárman の元々の意味は、「支柱」(prop, Halt)「支え」(support, Stütze)であ
る。それは「保つ」「維持する」というニュアンスを持つ、より古い文章に相応する。ま
201
た、それは宇宙論的、儀礼的、倫理、社会的レベルで採用される。
3. 初期には、超自然的な独立した力としての dhárman は、神話の上での、特定の神々が
備える「支え」(support)という働きであった。それが宇宙の「維持」(maintenance)、安
定、恒常性という普遍的原理となる。このことは具体的な神話上の観念が抽象的な概念
「法則」(law)へと意味的に発展したことの説明となる。
4. このような意味の移行、拡張は、主に倫理、社会的な範囲で起こるが、それは動作名
詞である dhárman が抽象概念である dhármaḥ へと変化したことに伴う。そしてその移行は
Atharvaveda に最初に見られる。
5. ブラーフマナの時代以来、自然法や倫理上の法律を含む世界の法則が、徐々に、異な
るカーストや人生の段階の多様な「権利」や「義務」へと細分化されていく。そしてそれ
が膨大な量の Dharmaśāstra、正義やモラルを扱ったヒンドゥーの文献へと受け継がれてい
った。
6. 仏教では、「世界の法則」としてのダルマは最高の原理へとその地位を高める。現在科
学で自然界の永遠の法則の知識が自然を支配するためのものとなっているのと同じように、
ダルマの知識、すなわち、世界の出来事や人間存在の法則に従うことについての知識は解
脱のための前提条件である。従って、ダルマは救済の法を含んでいる。
7. 抽象的な世界法則は、世界の作り手、支配者である神や絶対的な世界の基盤の位置を
占める。そしてそれは複数の存在の具体的要素に分析される。このような仏教独自なダル
マという語の使用にも前置きとなるバラモン教の段階と並行したバラモン教の議論とがあ
った。
(2) Rupert Gethin “He Who Sees Dhamma Sees Dhammas: Dhamma in Early Buddhism” Journal
of Indian Philosophy 32, pp. 513-542, 2004.
本稿において、Gethin は初期仏教、特に、ニカーヤ、アーガマ、初期アビダルマ文献に
見られるダルマの概念を考察している。特に Mahāsatipaṭṭhāna Sutta に見られる「[修行者
は]諸々のダルマを諸々のダルマとして見つつ住する」(dhammesu dhammānupassī
viharati)という表現の中の複数形で用いられるダルマが意味するものが五蘊や十二処な
どの「心理的、物質的な基本的性質」(basic qualities, both mental and physical)であること
を明らかにしている。
202
まず Gethin は仏教におけるダルマに関する様々な先行研究のうち、以下の3つを解説
を行っている。
・Magdelene & Wilhelm Geiger, Pāli Dhamma vornehmlich inder kanonischen Literatur, 1920.
・Stcherbatsky, The Central Conception of Buddhism and the Meaning of the Word ‘dharma’,
1923.
・ John Ross Carter, Dhamma: Western Academic and Sinhalese Buddhist Interpretations, 1978.
そしてこれらの先行研究に基づいて、ダルマの基本的な意味が次の6つであるとする。
(1)「教え」(‘teaching’)
(2)「善い行い」(‘good conduct or behaviour’)
(3)「真理」(‘truth’)
(4)「性質」(‘nature’)
(5)「自然法」(‘natural law’)
(6)「心理的、物質的な状態やもの」(‘mental or physical state or thing’)
Gethin は上記の意味で用いられるダルマの用例が実際に文献に跡づけられるか、それぞれ
ニカーヤ文献に照らし合わせる作業を行い、現在の研究者によく見られる(5)の意味で
のダルマ理解について疑念を提示している。すなわち、Gethin は(5)の意味でのダルマ
理解について、そのように理解することは可能であるが、必ずそう理解しなければならな
い具体的な文例が見あたらないことを指摘している。
さらに Gethin は、(6)の意味で用いられているダルマが複数形で提示されていること
に着目しつつ、複数形のダルマが具体的に何を指し示すのか不明瞭であることを指摘して
いる。この六番目の意味はどのようにして生まれたのかという問題意識のもと、Gethin は、
ブッダの「教え」という意味からこのような複数形でのダルマの意味が派生したとする
Gombrich の説を批判している。Gethin の論点をまとめると、次のようになろう。仏教以
前に元々、「基本的本質」という意味でダルマが用いられる土壌がインドにあり、それは
ヴェーダ聖典などに見られる dharman の用例に跡づけられる。このことを Gethin は、ニ
ヤーヤ学派やヴァイシェーシカ学派における「属性」という意味でのダルマ理解がヴェー
ダやブラーフマナ文献に遡るとする Halbfass らの分析を参考に、その分析が初期仏教に
も当てはまるとして正当化している。
203
(3) Collett Cox “From Category to Ontology: The Changing Role of dharma in Sarvāstivāda
Abhidharma” Journal of Indian Philosophy 32, pp. 543-597, 2004.
冒頭において Cox は、dharma という語が様々な意味を持つため、それを理解すること、
翻訳することがいかに困難であるかを指摘しつつ、本稿における自身の問題意識が次の二
点にあることを示している。それは、まず、(1)アビダルマ、特に説一切有部の文献で
どのようにダルマという語が使用されているか、そして、(2)ダルマとそれを説明する
ために用いられる bhāva, svabhāva, dravya, svalakṣaṇa という語の関係がどのようなもので
あるか、ということである。
1
dharma という語の基本的意味は何か(A fundamental sense of the term dharma?)
本章で Cox は、ダルマの意味やその起源に関する先行研究を紹介している。それを簡潔
にまとめると次のようになろう。
(1)Bronkhorst 説:仏陀の説いた「教え」(teaching)からその重要な部分を抽出した
「要素」(element)がダルマであるとする。
(2)平川説:個別的「要素」(factor)という仏教徒のダルマ理解は非仏教徒のものと異
なるが、真理(truth)が持続する性質を持つという点では関連しているとする。
(3)Horner 説:事物の本性(natural state or condition)、法則(law)、その正しいあり方
などという意味があるので、ダルマは真理(truth)、仏教教義をも意味するとする。
(4)Halbfass 説:「保持する」(upholding)というダルマの語源的意味はヴェーダにおけ
る「開放の存在論」(ontology of openness)と関連しているとする。
(5)桜部説:「保持する」(upholding)というダルマの語源的意味から、基準、美徳、
真理、仏教教義という意味が導かれるとする。ダルマは、個別的なものや本質を示すより
も、むしろ複合的な因果のネットワークを構成するものとして考えられるべきであること
を強調する。
(6)Gethin 説:単数形で用いられる dharma と複数形で用いられる dharma の用例を検討
し、パーリの文献の中で用いられるダルマの意味から説一切有部などで用いられるダルマ
の意味に直接移行し得ないと指摘。特に、パーリ文献でのダルマの意味は静的なものでは
なく、むしろ動的なものであることを指摘している。
(7)Warder 説:ヴェーダ聖典とニカーヤに見られるダルマという語の用例を比較検討し、
両者に見られるダルマという語が、何か恒常的な状態を意味するのではなく、世界を一定
不変に維持する動的な力を意味する点で共通していることを明らかにしている。
204
2
それぞれの伝統間の文脈(The inter-traditional context)
本章で Cox は、異なる学派間で共通の術語が採用されていることから、仏教内部だけで
ダルマの意味を解明することの危険性を説いている。その例として Cox は、文法学派パ
タンジャリの「実体」(dravya)という語の使用が、サーンキャ学派、ヴァイシェーシカ
学派、ジャイナ教、仏教における使用と類似している点を指摘している。これは、すなわ
ち、「実体」という語そのものに「個別的な対象」と「属性の集合体」という二つの意味
が含意されているという共通の土壌が既に成立していることを示唆している。
3
ダルマ分析の目的(The purpose of “dharmic” analysis)
本章で Cox は、初期仏教と説一切有部における「ダルマの識別」(dharmapravicaya)とい
う概念を検討することで、そこに二つの救済論的な意図が見られることを指摘している。
ひとつは、価値評価型の分析(“evaluative” analysis)によって、これは解脱にとって有益
なものであり、これはそうではないと弁別することであり、もうひとつは、叙述型の分析
(“descriptive” analysis)によって、日常経験の隠された真実のあり方を明らかにし、煩悩
の対象となるものを退けることである。
4
カテゴリー化としてのダルマ分析(“Dharmic” analysis as categorization)
本章で Cox は、仏教においてダルマがどのように分類されてきたかをまとめている。特
に、説一切有部が「五位」という新たな分類を導入し、その分類がこれまでの分類とどの
ように対応するかを説明している。
無為というカテゴリー(The category of the unconditioned)
5
本章で Cox は、五位の分類において新たに追加されたカテゴリーの一つ、無為を検
討することで、説一切有部におけるダルマ理解の解明を試みている。特に無為のダルマの
一つ、虚空についての Mahāvibhāṣā に見られる議論をもとに、生産的活動を行わない無為
のダルマであっても、増上縁、[無力]能作因、所縁縁として機能し、何かしらのハタラ
キを持ち得ることを明らかにしている。またこのような説一切有部のダルマ理解が先行研
究に見られる動的なものとしてのダルマ理解と矛盾しないことを指摘している。
6
svabhāva と包摂という方法(Svabhāva and the method of inclusion)
本章で Cox は、ダルマを特定化し、分類するための基準となる自性(svabhāva)とその分
類の方法である包摂(saṃgraha)について詳細な解説を与えている。また自性が各々の個
別的ダルマとカテゴリーとしてのダルマ群の両方に適用されることに触れ、このような適
用の曖昧さは、自性が別々のカテゴリーを区別する基準を示すものとして理解される限り
205
で、問題とならないことを指摘している。
7
bhāva との関連における svabhāva(Svabhāva in relation to bhāva)
本章で Cox は、svabhāva という概念をさらに理解するため、bhāva という語の用例を
Kathāvatthu をはじめとするいくつかの文献に求め、その意味が「本質」(nature)という
抽象的なものと「存在形態」(mode of existence)という存在論的なものの二つに集約され
ることを指摘している。そして、元来は見た目上、同じ意味で用いられてきた svabhāva
と bhāva という語が、時代を経るに従って、前者が説一切有部に見られる「自性」を意味
するようになり、後者がダルマが変化する「存在形態」という専門的な意味を獲得したと
結論している。
8
実体的存在の目印としての dravya(Dravya as the marker of real existence)
本章で Cox は、dravya という概念をもとに存在論的観点からダルマの解明を試みている。
存在には、実体的存在(dravya)、暫定的存在(prajñapti)、相対的存在(āpekṣika)の三種
があるが、ダルマはそのうち実体的存在とみなされる。また、アビダルマにおいて実体と
して存在するとは、何らかの因果効力を持つことであるとし、因果効力を発揮するものと
してのダルマを三世実有論と関連させながら解説している。
9
svalakṣaṇa と認識論的移行(Svalakṣaṇa and the epistemological shift)
本章で Cox は、svalakṣaṇa という概念をもとに認識論的観点からダルマの解明を試みてい
る。特にサンガバドラの「認識を生み出す対象であることが存在の真実の特質である」と
いう存在の定義を検討することを通じて、アビダルマの分析哲学が自性(svabhāva)に基
づくそれまでのカテゴリーを基礎に置く抽象的な存在論から、相(lakṣaṇa)に基づく認
識論的な存在論へと移行していった様子を解説している。
(4) Olle Qvarnström “Dharma in Jainism – A Preliminary Survey” Journal of Indian Philosophy 32,
pp. 599-610, 2004.
Qvarnström は、冒頭で、サンスクリットで文献が著されるようになったジャイナ教の
最初期には、ダルマがほぼ「教義」(teaching)を指示していたこと、一方で、「運動の原
理」(dharma)、「停止の原理」(adharma)というジャイナ教独自の存在論に基づくダルマ
理解も後期聖典期(200-300 CE)には定着していたことを指摘している。
続いて、Qvarnström は、ジャイナ教に見られるダルマという語の様々な用例のうち、
206
特に相互に関連性が見られる3つの用例を選び、その解説を行う。それは以下の3つであ
る。
(1)善い行い(virtuous behaviour)としてのダルマ
(2)本質に合致した行い(behaviour in accordance with intrinsic nature)としてのダルマ
(3)宇宙的秩序(cosmic order)としてのダルマ
これらのうち、(1)は、在家者と出家者それぞれの宗教的、社会的行いに関する倫理
(ethics)と言える。次に(2)は恒常な人格主体であるジーヴァの概念と関連したもの
である。この2つのダルマ理解は、次第に統合していき、ジャイナ教独特の、人の本質と
調和した行いとしての正しい行い(samyakcāritra)の定義を形成していく。
なお、この定義に基づいて、ダルマは二種と理解される。ひとつは活動(avtivity)を
特質とする行い(pravṛttidharma)であり、もうひとつは非活動(non-activity)と特質とす
る行い(nivṛttidharma)である。前者は徳(puṇya)や享楽(bhoga)を結果するものであ
り、後者は解脱を結果するものである。
Qvarnström は、最終的に、(2)のダルマ理解がさらに発展していき、あらゆる活動を
決定する(3)の宇宙的な秩序としてのダルマ理解が生まれたと示唆的に解説している。
(5) John Brockington “The Concept of Dharma in the Rāmāyaṇa”
Journal of Indian Philosophy
32, pp. 655-670, 2004.
本稿において、Brockington はラーマーヤナに見られるダルマの概念を検討することに
より、ダルマの意味の特殊なニュアンスが、数世紀にも渡る伝承の過程でいかに変化して
きたかを考察している。
近年の研究において、James Fitzgerald は、マハーバーラタの中で、行為(action)の概
念と結びついた古いダルマの意味がより新しいもの、すなわち、ヨーガ起源の自己浄化の
ための倫理に移行していっていることを指摘している。これに対して、本稿で
Brockington は、まず、ラーマーヤナにおいては、全体的に古いパターンのダルマ、すな
わち行為の概念と結びついたダルマが見られ、不殺生(ahiṃsā)などのより新しい価値観
についての言及がほぼないことを指摘している。
また、Brockington は、ラーマーヤナにあらわれる大部分のダルマが礼節や道義を示す
一方、そこには、王の義務(rājadharma)と同じく、カースト、家族や個人的義務、およ
び、必然性の要素(element of necessity)に対する強調も見られるということも明らかに
207
している。
Brockington は、ラーマーヤナにおけるダルマの意味の変化を次のように三つの段階に
分けて分析している。
まず、ラーマーヤナの第一拡張期では、英雄的なストーリーが顕著であり、宗教的な基
調は、プラーナのものよりもヴェーダのものに近い。そこで見られるダルマは、多くの場
合、現在の地位を維持していくというクシャトリヤ的な観点からのものであった。
続く第二拡張期では、英雄的なものから美的なものへと移行していくが、それと同時に、
ある程度、宗教的問題にも重点が置かれるようになる。そして徐々にダルマが倫理的振る
舞いという点から理解されるようになる。
さらに第三拡張期には、ラーマの行いそのものがダルマを代表するものとして描かれる
ようになる。しかし、この最終的な段階に至っても、第一の重点は行為(action)に置か
れている。この理由を Brockington は、ダルマの理解は単なる抽象的で非個人的なもので
はなく、内的な葛藤が常に最小限、ほのめかされているからであると考察している。
(6)
Johannes Bronkhorst “Some Uses of Dharma in Classical Indian Philosophy” Journal of
Indian Philosophy 32, pp. 733-750, 2004.
Bronkhorst は本稿において仏教的な意味でダルマという語が用いられるようになった仕
方とヴァイシェーシカ学派に見られるようなバラモン的なダルマの概念の発展を解説して
いる。
まずはじめに、アビダルマに見られるような仏教的な意味でのダルマという語が用いら
れるようになった過程を Bronkhorst は次のようにまとめている。すなわち、受け継がれ
てきたブッダの「教え」が秩序立てて整理され、そのように集められた「項目」があらゆ
る「存在の究極的な構成要素」としての地位へと昇華させられた、と。また Bronkhorst
は、説一切有部に見られるような、ダルマを究極的な存在とする考え方を仏教における無
我の思想に跡づけられると論じる。すなわち、人格主体など存在せず、究極的に存在する
のはその構成要素であるダルマであるという発想である。さらに Bronkhorst は、このよ
うな存在の構成要素としてのダルマ理解は、一方で、その存在の構成要素を否定していく
という後の仏教の哲学的発展にも大いに寄与してきたことを指摘している。
次に、Bronkhorst はヴァイシェーシカ学派に見られるダルマの概念を詳細に検討してい
く。Vaiśeṣikasūtra が「ダルマを教示しよう」(athāto dharmaṃ vyākhyāsyāmaḥ)という一文
208
から始まることからも分かるように、ヴァイシェーシカ学派の教義においてダルマは非常
に根本的な役割を担う。ヴァイシェーシカ学派においてダルマは基本的にアートマンの属
性のひとつとして扱われる。しかし、その一方でそのようなアートマンの属性としてのダ
ルマとは違う意味で用いられる場合もある。例えば、Padārthadharmasaṅgraha において、
解脱をもたらす真理の知(tattvajñāna)の原因として扱われるダルマがそれである。そこ
でダルマは「主宰神の教令によって明らかにされるもの」(īśvaracodanābhivyakta)として
扱われている。Bronkhorst は、この Padārthadharmasaṅgraha におけるダルマの用例が、ミ
ーマーンサー学派のダルマの用例(Mīmāṃsāsūtra 1.1.2: codanālakṣaṇo 'rtho dharmaḥ)と極
めて類似している点に着目し、両学派におけるダルマの用例を検討していく。その結果、
初期には英語の‘virtue, merit, appropriateness’などに対応するような一般的意味で用いられ
てきたダルマが、時代を経るにつれ、それぞれの学派における存在論的関心から異なる意
味へと転換していったと Bronkhorst は最終的に分析している。
(7) Francis X. Clooney, S.J.
“Pragmatism and Anti-Essentialism in the Construction of Dharma in
Mīmāṃsāsūtras 7.1.1-12” Journal of Indian Philosophy 32, pp. 751-768, 2004.
本稿において、Clooney は、祭式における供物の代替(atideśa)を扱ったミーマーンサ
ー・スートラ 7.1.1-12 を検討することでミーマーンサー学派にとっての dharma の概念を
考察している。
Clooney は、ミーマーンサー・スートラ 7.1 における議論を次のようにまとめる。諸々
のもの(things)、行為(actions)、人(persons)が、それぞれ適切に配置されたとき、そ
れらは本来の供犠(archetypal sacrifice)の成就に寄与し、そうすることで、それらはダル
マの地位を得る。また、そのようなダルマは他の供犠に変換することが可能である。ただ
し、それは、変換される供犠も教令的なことばの力(codanā, injunctive verbal force)によ
って生み出される場合に限り、単に本来の供犠と類似しているという考えによる場合には
そうではない。この妥当性は、祭式行為を引き起こすヴェーダの指示によって生み出され、
他の種類の知識や、さらにはヴェーダに見られる供犠の実践例からの推定によっては生み
出されない。
このような分析を経て、Clooney は、ミーマーンサー学派におけるダルマが、何らかの
知られるべきものではなく、むしろ、ヴェーダにおいて聞かれ、思慮深く実行されるべき
法規(enactment)であると指摘する。
209
しかし、このような「知られるべきものではない」というダルマ理解は、
‘codanālakṣaṇārtho dharmaḥ’というミーマーンサー・スートラ 1.1.2 におけるダルマの概念
とどのように整合するのか。この問題意識のもと、さらに議論を進め、最終的に Clooney
は、バーッタ派において、ダルマがある種の知られるべき本質(knowable essence)とし
て再構築されていったのではないかと推測している。
(8) Sheldon Pollock “The Meaning of dharma and the Relationship of the Two Mīmāṃsās:
Appayya Dīkṣita’s ‘Discourse on the Refutation of a Unified Knowledge System of Pūrvamīmāṃsā
and Uttaramīmāṃsā’” Journal of Indian Philosophy 32, pp. 769-811, 2004.
本稿で Pollock は、16世紀後半に活躍したヴェーダーンタ学派の思想家 Appaya
Dīkṣita の著作 Pūrvottaramīmāṃsāvādanakṣatramālā 全体のサンスクリットテキスト及びその
英訳を提示している。
ミーマーンサー学派とヴェーダーンタ学派はともにヴェーダ聖典を権威とし、その解釈
学を出発点としてそれぞれの学問体系を構築した。前者は前期ミーマーンサー
(pūrvamīmāṃsā)、後者は後期ミーマーンサー(uttaramīmāṃsā)とも呼ばれる。Pollack
は、「前期」から「後期」への移行を Brahmasūtra に対する Rāmānuja 注などをもとに、
dharma への関心(athāto dharmajijñāsā)から brahma への関心(athāto brahmajijñāsā)への
移行と分析する。では、dharma と brahma とはどのような関係にあるのか。そのような問
題意識から、Pollack は Appaya Dīkṣita の記述にその解決の糸口を求めている。
Pūrvottaramīmāṃsāvādanakṣatramālā において Appaya Dīkṣita は、ミーマーンサー学派の
根本教典 Mīmāṃsāsūtra の冒頭の dharma という語で示すものに brahma が含まれるのか、
それとも祭式行為(karma)だけが含まれるのかを問題とし、dharma の考察と brahma の
考察は同じものではないことを論証している。Appaya Dīkṣita によれば、Mīmāṃsāsūtra 冒
頭における dharma とは、その果報が恒常ではなく限定的なものであり、その点で brahma
とは全く異なるものである。
(9) Donald R. Davis, Jr. “Dharma in Practice: Ācāra and Authority in Medieval Dharmaśāstra”
Journal of Indian Philosophy 32, pp. 813-830, 2004.
本稿において、Davis, Jr.はダルマ文献に見られる dharma の概念とその源泉とされる
ācāra の概念を検討し、その関係性について考察している。特に、Lariviere (1997; 1998)や
210
Wezler (1999)などの従来の研究において、ācāra という語が「習慣」(custom)という曖昧
なことばで訳されてきたことを問題視し、ācāra がそもそもどのようなものであるのか、
その解明を目指している。
Davis, Jr.はまず、中世ダルマ文献に見られる際だった特徴のひとつが dharma の権威に
関する同語反復的な性格にあることを指摘する。すなわち、dharma が、権威を持った
人々によって制定、普及されるのと同時に、彼らの権威は dharma に従っていること、
dharma を知っていることで保証されるというものである。
Davis, Jr.はさらに、ācāra という語がどのように言い換えられているかを検討し、それ
ぞれの語の意味を分析している。
・「慣習」グループ
samaya(慣習、convention)
āgama(伝統、tradition)
vyavahāra(日常活動、daily business)
lokasaṃgraha(世間の人によって受け入れられていること、accepted by people)
・「dharma の実践」グループ
śīla(傾向性、character)
anuṣṭhāna(実行、performance)
このような分析を通じて、Davis, Jr.は、中世ダルマ文献に見られる ācāra という語が単に
「習慣」という意味だけではなく、「dharma の実践」という意味で用いられていることを
証明している。
最終的に、Davis, Jr.は、dharma と ācāra が互いに一方がもう一方の源泉を循環的に構成
していることを確認しつつ、dharma やその権威を ācāra との関係なしに理解することの危
険性を指摘している。
(10) Dominik Wujastyk
“Medicine and Dharma” Journal of Indian Philosophy 32, pp. 831-842,
2004.
本稿で Wujastyk は、インドの医学文献に基づき、人間が善く生きるために欠かせない
ものである、宗教的・道徳的規範であるダルマと医学の関係を考察している。
病気の治療と宗教的儀式のどちらが優先されるのか。この問題に対して Wujastyk は、
Carakasaṃhitā に見られる「健康はダルマ、アルタ、カーマとモークシャの究極的な根源
211
である」という記述を例に、病気の治療が宗教的儀式に優先されるべきとされている点を
指摘している。
さらに Wujastyk は、薬として動物の肉が使用される例を示しつつ、健康維持のために
は肉食すらも古い時代には当然のこととして認められていたことを指摘している。また
Wujastyk は、古代インドの菜食主義化が進む中、そのことに異論を唱える者たちもあら
われ、Cakrapāṇi Datta に至ると、医師ではなく、患者の個人的責任において肉を使用した
薬の服用が許されるようになるという歴史的な変遷も明らかにしている。
最終的に Wujastyk は、近代以前のインドにおける医学の伝統において、ダルマの達成
が医学の直接的な目的とされておらず、健康の達成こそがその第一の目的とされているこ
とを明らかにしている。そしてそのような考え方が、健康がなければ他の人生の目的も達
成することが不可能であるという理由に基づいていることを指摘している。
212
龍谷大学アジア仏教文化研究センター
ワーキングペーパー
No. 10-09(2011 年 3 月 8 日)
アショーカのダルマ
岡本
健資(龍谷大学文学部講師)
目
次
1.
はじめに
2.
アショーカと現代インド
3.
アショーカの事績を伝える資料
4.
アショーカ法勅と『実利論』
5.
アショーカ法勅と仏教
6.
カウティリヤ『実利論』
7.
アショーカ法勅に見られるダルマ(法)
7.1
「人々」が行うダルマの実践
7.2
「王」が行うダルマの実践
8.
アショーカ法勅におけるダルマ(法)は仏教のものか
9.
アショーカ法勅のダルマ(法)の思想背景
10.
まとめ
【キーワード】アショーカ、ダルマ、法勅、政治
213
1. はじめに
南アジア地域を対象領域とする、BARC ユニット①は、インドの知的伝統において古来
重要視されてきた「ダルマ(法)」概念に対する研究を行っている。このワーキングペー
パーは、インドにおいて多様性を受け入れつつ統一帝国を維持しその統治理念の中心に
「ダルマ」を掲げたアショーカ王に注目し、従来の研究に沿って、アショーカの「ダル
マ」について概観する。
2.
アショーカと現代インド
インド共和国の国旗(右図)は、その中心に法輪を配置
するが、これは古代インドの王アショーカに因んだものと
される。この法輪に関し、B. アンベードカル氏は、1954
年 12 月、ラングーンでの演説でインド仏教の復活に関わ
る自らの業績を示しつつ、「…独立インドの国旗にはアシ
ョーカの法輪が描かれており…これらはいずれも、わたしの業績である。」[山崎 1979a:
128]と述べている。しかし、国旗や国章にアショーカ王のシンボルが選ばれたことについ
ては、アンベードカルの業績というよりは、政教分離を望むネルーによる選択だったとす
る指摘がある7。いずれにしても、現在、インドの国内外において、アショーカは同国を
象徴する王として認識され続けている。
3.
アショーカの事績を伝える資料
アショーカ(在位期間は紀元前 268-232 年(?)
)は、マウリヤ朝の第 3 代の王である。
彼は自らの政策や事績を、領内外の摩崖(岩塊の一面を削ったもの)、石柱、石版や洞院
の壁に刻ませた。それらの刻文は、カローシュティー文字、ブラーフミー文字、ギリシア
文字などを用いてインド語、アラム語、ギリシア語で記されており、dhaMma-lipi あるい
は-dipi、すなわち「ダルマ(法)の文」として銘刻されるため、「法勅」と呼ばれる。彼
が「ダルマ(法)による統治を行った」とされるのは、宣言自体が「法勅」
(dhaMmalipi)である上に、刻文中に「法」(ダルマ:dhaMma)の語が頻出するためであ
る。
彼の事績については、「法勅」のほかに、仏教徒が編纂した文献にも記述されている。
7
河野肇訳『インドの歴史』(ケンブリッジ版世界各国史), 東京: 創土社, 2006 年, pp. 332-333.
214
パルティアの僧である安法欽が 306 年に訳した『阿育王伝』、僧伽婆羅が 512 年に訳した
『阿育王経』、これらと一致した内容を記すサンスクリット語文献 ACokAvadAna、上述の
資料群とはやや異なる伝承を記すスリランカ上座部の史書 DIpavaMsa や MahAvaMsa など
である。本稿では、主に「法勅」の記述を用いる。
4.
アショーカ法勅と『実利論』
アショーカの祖父にあたるマウリヤ朝の創始者チャンドラグプタ(Candragupta)は、
バラモン出身のカウティリヤ(KauTilya)の助言により行政機構を組織した[塚本 1973:
197]。その政策の内容はカウティリヤ作『実利論』(ArthaCAstra)によって知られる。ア
ショーカもその行政組織を受け継いだと考えられる。というのは、アショーカ法勅に『実
利論』中の政策に関わる語句が散見できるからである[塚本 1973: 197-8]。その一方で、ア
ショーカ法勅の中に「ダルマ」という語が頻出することから[塚本 1973: 198]、「ダルマ」
が彼の政策に深く関係していることが判る。ここで問題となるのは、アショーカ法勅に記
された政策が『実利論』から逸脱したものか否かである。この問題について、塚本啓祥氏
は、アショーカ法勅の内容を『実利論』の記述と対照し、法勅に記載された政策の大部分
が『実利論』の中に源泉を見ることができると結論づけている[塚本 1973: 243]。
5.
アショーカ法勅と仏教
アショーカは仏教に傾倒していたとされるが、それの理由は、彼の刻ませた法勅の中に、
仏教に言及するものが複数存在するためである。例えば、「マガダの喜見王(=アショー
カ)は、僧伽に敬礼して、病なく安穏にわたらせられるかを問う。諸の大徳よ、諸師は
仏・法・僧に対する私の尊敬と信仰が如何に〔大きいか〕知っている。」[MRE. III][塚本
1976: 121]という文が見られ、さらに、ルンミンデーイー法勅には、「天愛喜見王は、灌頂
20 年に、自らここに来て崇敬した。ここでブッダ・シャカムニが誕生されたからである。
…ルンビニー村は租税を免ぜられ、また、〔生産の〕8 分の 1 のみを支払うものとせられ
る。」[塚本 1976: 139]という記述も見られる。また、ブッダの教えとして七種の経典名が
記される法勅が存在する[MRE. III][塚本 1976: 61-4, 121]。七種の経典は、現存経典との比
定がなされ、法勅中の記述と類似する点が指摘されている[塚本 1973: 245-275]。
6.
カウティリヤ『実利論』
215
アショーカ法勅に、『実利論』を源泉とする要素と仏教に類似する要素が見いだせるこ
とは既に述べた。しかし、それは、彼の法勅がバラモン教と仏教との折衷であることを意
味しない。『実利論』はバラモンの手になる政治に関する論書であるが、『マヌ法典』のよ
うなヒンドゥー法典類とはやや性格の異なる文献だからである。『実利論』は王の「実利」
(artha)、すなわち「領土の獲得とその守護」のための方策を論じた文献であり、仏教の
思想とも合致しないが、正統バラモン教の思想を充分に反映したものとも言い難い。また、
その中に見いだされる征服と統治は、軍事力と策略を駆使したものであり、仏教の望む
「理法による統治」ではない。しかし、『マヌ法典』に見られるような王権神格化の議論
もまた、殆どなされないのである[山崎 1994: 109]。それでは、次に、アショーカ法勅に見
られる「ダルマ」の記述内容について見ることにする。
7.
アショーカ法勅に見られるダルマ(法)
石柱法勅の第 II 章[PE. II]には「ダルマは善(sAdhu)である」と記載され、さまざまな
実践が勧められている。また、その善なるダルマの果報については、現世(iha)におけ
る目的の達成、あるいは、現世の目的が達成できない場合でも「天(svarga)に達する」
など、来世(paratra)における無限の福徳(puNya)を得ることができる、とされる。具
体的には以下の記述を見ることができる[RE. IX, XI, XIII; PE. I, VII; MRE. Kandahar I][山崎
1979b: 306]。
(a) ダ ル マ は 善 で あ る 。 そ の ダ ル マ と は 罪 業 の 少 な い こ と 、 善 事 の 多 い こ と
(bahukalyANa)、慈愍(dayA)、施与(dAna)、真実(satya)、清浄(Caucaka)である
[PE. II]。
(b) ダルマの敢行とダルマの遵行とは、慈愍、施与、真実、清浄、柔和(mArdava)、
善良(sAdhava)である[PE. VII]。
(c) 克己(saMyama)、本性の清浄(bhAvaCuddhi)、感謝の念(kRtajJatA)、堅固なる誠
信(dRDhabhaktitA)がなければ、いかに大きな施与をなしても下賤(nIca)である[RE.
VII]。[山崎 1979b: 307-309]
(d) ダルマの祈願のみが、現世・来世にわたる大果(mahAphala)をもたらす[RE. IX,
X, XII]。人々は病気、結婚、出産、旅行の出発などに、種々に祈願(maGgala)する。
これらの祈願をやめるわけにはいかないが、いずれも小果(alpaphala)か、あるいは
果報があるかは疑わしく、せいぜい現世のみに関係するにすぎない[RE. IX]。この世
216
の名声(yaCas)も栄誉(kIrti)も、ダルマに従ったものでなければ大利(mahArtha)
をもたらさない[RE. X]。[山崎 1979b: 306-7]
7.1
「人々」が行うダルマの実践
アショーカ法勅の記すダルマは多岐にわたるが、なかでも「王がなすべきダルマの実
践」と「人々がなすべきダルマの実践」とに注目できる。ここでは、特に山崎元一氏の著
作『古代インドの王権と宗教: 王とバラモン』に沿って、人々によるダルマの実践につい
て、法勅が記すところを概観しよう。
(1)生類の不殺生・不傷害
その範囲は人間のみならず、あらゆる生類(jIva, prANa, bhUta)に及ぶ。それらを殺し
たり、傷つけたりしてはならない(anAlambha, avihiMsA, akSati)とされ、それが食用
の屠殺、飼育用の去勢、宗教用の犠牲のいずれでも、動物を殺傷することをさけるべ
きであるとする[RE. I, III, IV, IX, XI, XIII]。
(2)正しい人間関係
人々は社会の一員として、次のような細目に記される実践に努めるべきとする。
(a) 父母への従順(mAtApitRSu CuCrUSA)[RE. III, IV, XI, XIII; PE. VII; Kandahar I, II, III;
Taxila; MRE. s.-v.] 。
(b) 朋友(mitra)・知己(saMstuta)・同僚(sahAya)・親族(jJAtika)に対する施与
(dAna)・礼譲(saMpratipatti)および正しい取扱い(samyakpratipatti)[RE. III, IV, XI,
XIII; Kandahar II; MRE. s.-v.]。
(c) 沙 門 ( CramaNa )・ バ ラ モ ン ( brAhmaNa ) に 対 す る 施 与 ( dAna ) お よ び 礼 譲
(saMpratipatti)[RE. III, IV, IX, XI, XIII; PE. VII; Kandahar III]。
(d) 長 老 ( vRddha, sthavira )・ 恩 師 ( guru )・ 年 長 者 ( vayomahallaka )、 目 上 の 者
(agrabhUta)に対する尊敬(apaciti)・従順(CuCrUSA)および礼節(anupratipatti)[RE.
IV, IX, XIII; PE. VII; Kandahar I, II, III; Taxila; MRE. s.-v.]。
(e) 奴隷(dAsa)・被傭人(bhRtaka)・貧者(kRpaNa)・窮人(varAka)に対する正しい
取 扱 い ( samyakpratipatti ) お よ び 礼 譲 ( saMpratipatti ) [RE. IX, XI, XIII; PE. VII;
kandahar II, III]。
(3)自制と他者尊重
217
人は、自分の行う善事(kalyANa)のみを常に見て、自分の悪事(pApa)を見ることが
ない。自省は難しいが、人は常に狂暴(cANDa)、残忍(naiSThurya)、憤怒(krodha)、
高慢(mAna)、嫉妬(IrSyA)などが罪業に導くものであることを念頭におき、罪業に
陥ることのないよう努めるべきであるとする[PE. III]。
また、すべての宗派(pASaNDa)に属する者たちが、すべての場所に安住すること
が理想であるが、そのためには、各宗派に属する者たちにとって、言葉を慎み、我執
を離れ、他派の立場を尊重し、互いに和合することが必要である。こうした行為によ
って、自己の宗派を増進させ、他派をも助長することになる。一方的な自派の賞揚
(pUjA)、他派に対する攻撃(garhA)は、自派を損ない、他派を害することになる
[RE. VII, XII; Kandahar II]。
以上、「人々がなすべきダルマの実践」を見てきた。次に、「王がなすべきダルマの実
践」を見ることにしよう。
7.2
「王」が行うダルマの実践
ここでは、アショーカ法勅にとってのダルマに対する理解を容易にするために、さら
に具体的事例を「王が行うダルマの実践」を通して見ていく。以下には、(1)王に課せ
られたこと、と(2)王の実践という範疇において眺めることにする8。
(1)王に課せられたこと
(a) 生類の守護と利益
この世に住む一切の生類の現世・来世における利益・安楽を増進させること。これこ
そが、王が生類に負う「債務の返還(AnRNya)」とされる[RE VI; SE. I, II]。王の努力
は、特に来世における彼らの不幸をできるだけ少なくすることに向けられる[RE. X]。
(b) 人民守護
王と人民との関係は父子の関係に等しい。王は自分の子に対するのと同じように、未
帰順の住民を含むすべての人々に対しても、父のごとく彼らを慈しみ、彼らの現世・
来世におけるあらゆる利益・安楽を得ることを願う[SE. I, II]。
(c) ダルマの教誡
8
山崎元一氏の研究[山崎 1994]を常に参照した。
218
人々に利益・安楽を獲得させるための最良の方法は、ダルマの実践とその果報を知ら
しめること、すなわちダルマの教誡(dharmAnuCAsana)である[RE. IV]。人民がダル
マの実践に努め、ダルマを増長せしめ損壊させないなら、彼らの利益・安楽は約束さ
れ、王にとっても真の名声・栄誉が得られることになる[RE. IV, X]。ダルマによる勝
利(dharmavijaya)こそが最上の勝利である[RE. XIII]。
(2)王の実践
(a) 政務に精励すること
いかなるとき、いかなる場所であっても、それ(緊急の事柄)を王に奏聞させる[RE.
VI]。
(b) 不殺生・不傷害
多 数 の 人 間 を 殺 傷 す る 武 力 征 服 政 策 を 放 棄 す る [RE. XIII] 。 宮 中 の 大 膳 寮
(mahAnasa)における生類の屠殺を二羽の孔雀と一頭の鹿のみとし、将来はこれらの
屠殺もやめる[RE. I]。生類の屠殺を伴う行事を禁じ[RE. I]、…森林焼払の禁止など、
生類保護のための種々の方法を用いる[PE. II, V]。
(c) 法巡行(dharmayAtra)
地方を巡行し、沙門、バラモン、長老などを引見、彼らの金銭その他の施与をなし、
各地の民衆とも引見してダルマの教誡と試問を行う[RE. VIII; PE. VI]。
(d) 一切の宗派に対する崇敬
出家者と在家者と一切の宗派(sarvapASaNDAH)の本質増長(sAravRddhi)を願い、そ
れらを、布施(dAna)と崇敬(pUjA)とをもって尊敬する[RE. XII; PE. VI]。また、一
切の宗派に自ら親しみ近づく[PE. VI]。
(e) 見世物
人 民 教 化 の 手 段 と し て 、 天 宮 ( vimAna ) の 光 景 、 象 ( hasti )、 多 く の 火 蘊
(agniskandha)および天上のもろもろの形相(divyarUpa)を見せしめる[RE. IV]。
(f) 社会事業
領内外の地に人間(manuSya)・獣畜(paCu)のための二種の療院(cikitsA)を建設す
る[RE. II]。人畜のための薬草・樹根・果実を、それらの存在しない地に運び栽培さ
せる[RE. II]。人畜のために路傍に樹木を植えさせ、一定の距離ごとに井泉を掘らせ、
休息所・給水所を設置させる[RE. II; PE. VII]。
(g) 裁判の公平と刑罰の軽減
219
官吏に命じて裁判の公平と刑罰の軽減に常に配慮させる[RE. V, XIII; SE. I; RE. IV]。
死刑確定者には三日間の猶予(yautaka)を与える[PE. IV, V]。
(h) 忍耐と寛容
他者(林住族や未帰順の辺境民を含む)から害を加えられることがあっても、できる
限りそれを忍び、彼らを慰撫する[RE. XIII; SE. II]。
(j) 二種の方法を用いたダルマの普及
人々をダルマに導くため、①不殺生などさまざまな「ダルマの規制
(dharmaniyama)」と、②ダルマの「静観(nidhyAti)」という二手段を用いる[PE. VII]。
(k) 官吏を教育し、彼らを通じてダルマを普及させる[SE. I, II; PE. I, et passim]
(l) ダルマを領内ならびに周辺諸国にも宣布する[RE. II, V, XIII]。
8.
アショーカ法勅におけるダルマ(法)は仏教のものか
仏教徒はブッダの教え(仏法)を指して「ダルマ」と呼ぶことがある。また、ルンミ
ンデーイー法勅の記述などから推測して、アショーカが仏教に傾倒していた可能性は高い。
実際、アショーカ法勅の「ダルマ」を、仏法と同一視する研究者もいる。しかし、ダルマ
は「生活規定・規範・法律・法則・宗教・慣習・制度・義務・正義」など広狭様々な意味
を持つ語である。アショーカ法勅で、「ダルマ」がブッダの教法の意味で用いられている、
と判断できるのは以下の三カ所のみである[山崎 1979b: 319]。すなわち、①「仏・法・僧」
(buddha-dharma-saGgha)・②「正法」(saddharma)・③「法門」(dharmaparyAya)[MRE. III
(カルカッタ・バイラート法勅)]である。それ以外の事例において、アショーカが官吏
や人々に遵守を呼びかけている「ダルマ」は、仏教という一宗派を超えた普遍的社会倫理
に基づくものだと推測される。それは、アショーカが採用した統治のための理念でもある。
アショーカが「ダルマ」の基本として重視したものは、不殺生・父母に対する従順をはじ
とする徳目であり、これらは、身分、階級、宗教、民族などの枠を超えて人々に遵守され
るべき「社会倫理」に他ならない。そして、これらは「古くからの慣行」(purANI prakRti)
と呼ばれるものである9 [MRE. II] [山崎 1979b: 319]。
9
「更に、天愛はかように詔する。父母には従順であるべきである。恩師にも(gurusu)またかように
あるべきである。生類には〔憐れみの〕堅固さがあるべきである。真諦を語るべきである(saccaM
vataviyaM)。それら法の美徳を行ずべきである(se ime dhaMmaguNA pavattitaviyA)。これと同じく、弟子
はその軌範師を尊崇すべきである(aMtevAsinA Acariye apacAyitaviye)。また、親族に対して適当に行ずべ
きである。これは〔法の〕古えよりの慣習にして(esA porANA pakitI)、またこれは長寿に導くものであ
る。」(ブラフマギリ小磨崖法勅)[塚本 1973: 199]※和訳は筆者により一部改変。
220
9.
アショーカ法勅のダルマ(法)の思想背景
アショーカのダルマの「背景」として、バラモン教(ヒンドゥー教)のダルマだとす
る主張や、不殺生を強調する点などがジャイナ教的だとする意見、さらに、カウティリヤ
の『実利論』に多少手を施したものだとする説もある。しかし、研究者の多くは、法勅の
内容について仏教との関連を指摘する。
Bhandarkar 氏は、法勅のダルマが単純であり、すべての宗教に共通した普遍的道徳律と
言える点、Asinava(Asrava)思想などにジャイナ教の影響がみられる点、神々との共住や
不殺生規定などにバラモンや政治論者の著述と共通する点が見いだされることを認める。
しかし、仏教のダルマには「出家者向け」と「在家者向け」のものがあることに着目し、
いくつかの点10に仏教との一致を見いだし、そのような仏教思想がダルマの政治の基本思
想と密接に関係したとする[山崎 1979b: 320-2]。
山崎元一氏は、アショーカのダルマについて、仏教思想の影響が見えると指摘されて
いるものは、バラモン教や『実利論』、ジャイナ教の思想、あるいは、古代インドの伝統
の中にも見いだされるものであり、徳目の中に仏教独自のものがほとんどない、とする。
また、苦・無常といった基本思想への言及すら見いだせないのは、Bhandarkar 氏の言う
「在家者向け」の教法をもとにしていたとしても不自然である、と指摘する。さらに、法
勅にはバラモンおよび仏教以外の諸宗派への攻撃はなく、仏教を諸宗派の一つとして扱い、
諸宗派の発展と宗派間和合を求めている。思想背景に仏教が存在していたとしても、アシ
ョーカは、「ダルマ」がいずれの宗派の教理・信条とも矛盾せず、いずれか一つの宗派の
教義そのものでもないことを表明している、と主張した[山崎 1979b: 322-3]。さらに、同
氏は、法勅が「古代インドの王権論の基本」とされる 12 の項目11すべてを踏襲しており、
Bhandarkar 氏の指摘するアショーカのダルマと仏教との一致点は以下の四つ。①法勅の徳目が、仏
教在家者の律を記す『シンガーローヴァーダ・スッタ』に見られる実践的道徳と近似する。②ダルマ宣
伝のための天宮・象・火蘊等の見世物は、『ヴィマーナヴァットゥ』に描かれた天界の光景と関係する。
③植樹・井泉設置などの公共事業は、仏教の善行者が生天するという思想と関係する。④ダルマの政治
により領内外の全生類の利益・安楽を求める理想(ダルマによる勝利)は、『ラッカナ・スッタ』『チャ
ッカヴァッティー・シーハナーダ・スッタ』における転輪王思想と関係する。
11
①王は俗界の最高権力者、国家の中心であり、王の資質と行動の如何によって国家の命運も決まる。
②王にはダルマに依拠した統治が求められる。③王の最も重要な義務は人民を保護し秩序を維持するこ
とにある。④王には家父長的慈愛が求められる。⑤王には自己の義務を遂行するために「ダンダ(武力、
刑罰権)」が与えられている。⑥王には義務遂行に対する報酬ないし「取り分」として徴税権が与えられ
ている。⑦保護怠慢や不法統治は王の側の義務不履行とみなされ、不法な王の追放や殺害も是認される。
⑧王にはその地位に相応しい威厳、能力、行動力が求められる。クシャトリヤ出自が望ましいが絶対条
件ではない。⑨王を超自然的な力の所有者、吉祥な存在とみる俗信が存在する。⑩王は古来の伝統を重
視しなければならない。征服に当たっても旧秩序の破壊を避け、敵王の帰順で満足すべきである。⑪王
10
221
法勅に見られるダルマによる政治は、正統派・非正統派いずれもが抱いていた共通の王権
思想に立脚していると言いうる、と結ぶ[山崎 1994: 221-243]。
10.
まとめ
アショーカは法勅の中で、武力征服・殺生を放棄した(cf. 上記 7.2「王」が行うダル
マの実践)が、軍備の撤廃や、死刑の廃止を行ったわけではなかった。とはいえ、彼のダ
ルマは、ダンダ(武力・懲罰)を用いない統治を理想とするものであり、ヒンドゥー法典
や『実利論』が説くような、ダンダを巧みに行使した統治ではなかったと言える。
アショーカ法勅の研究に従事した歴史学者 D. R. Bhandarkar 氏は、1925 年に出版した著
書 ACoka の中で、「ダルマの政治は、インド文化における物質的進歩と精神的進歩との均
衡を崩し、前者を後者に従属させた。またインド人のナショナリズムと政治的な偉大さを
失わしめ、コスモポリタニズムとヒューマニテリアニズムをもたらした。ダルマの政治は
インドにとって精神的には栄光あるものであったが、政治的には不幸であった。すなわち、
当時までに全インドはアーリヤ化されており、共通語(プラークリット語=パーリ語)も
存在したのであるから、アショーカが転輪聖王の理想を抱かず祖父以来の領土拡張策・中
央集権化策を進めていたならば、民族的統一帝国建設の目的は達成されていたはずである。
しかし現実には、カリンガ戦争後の政策転換によって、インド人の心から戦闘精神、政治
的・物質的欲望追求の精神は失せ、世界帝国建設へのインド人の夢は払拭されてしまっ
た。」と評した[Bhandarkar, ACoka, 218-227][山崎 1979b: 329]。
アショーカのダルマと、これにもとづく統治は、仏教思想の影響を受けた普遍的社会
倫理と非ダンダ(武力・懲罰)を掲げた政治であったと言われる。しかし、その評価は上
記のようにさまざまである。彼に対して、「為政者としての立場と自己の信仰を区別して
いた人物」あるいは「本当の意味での secularism の遂行者」という評価を与える研究者も
いる。多様性を擁する国インドの象徴とされるアショーカとそのダルマへの評価は、今後
も検討を要する課題である。
◆略号
といえども輪廻転生する存在であり、善政(ダルマに基づく政治)という功徳を積み天国に生まれるこ
とを願い、悪政(非ダルマ)を行い地獄に堕ちることを怖れる。⑫王権は官僚と軍隊の支えがあっては
じめて有効に機能する[山崎 1994: 222]。
222
山崎 1979a: 山崎元一『インド社会と新仏教: アンベードカルの人と思想』東京: 刀水書
房.
山崎 1979b:山崎元一『アショーカ王伝説の研究』東京: 春秋社.
山崎 1994: 山崎元一『古代インドの王権と宗教: 王とバラモン』東京: 刀水書房.
塚本 1973: 塚本啓祥『アショーカ王』京都: 平楽寺書店.
塚本 1976: 塚本啓祥『アショーカ王碑文』東京: 第三文明者.
RE: Rock Edict(摩崖法勅)
MRE: Minor Rock Edict(小摩崖法勅)
PE: Pillar Edict(石柱法勅)
223
224
龍谷大学アジア仏教文化研究センター
ワーキングペーパー
No. 10-10(2011 年 3 月 10 日)
モンゴル国最古のチベット仏教寺院
エルデニゾー研究の現状とその意義
村岡
目
倫(龍谷大学文学部教授)
次
1
モンゴルとチベット仏教の邂逅からエルデニゾーの誕生まで
2
ビチェース=プロジェクトによる研究
3
これまでの研究の一例(カラコルム三皇廟碑)
4 エルデニゾー碑文研究の今後の課題
5 その他のエルデニゾーあるいはカラコルム研究の課題
【キーワード】エルデニゾー寺院・エルデニゾー碑文・カラコルム(ハラホリン)・モ
ンゴル・チベット仏教・第二次大谷探検隊
225
1 .モンゴルとチベット仏教の邂逅からエルデニゾーの誕生まで
(1)モンゴル帝国とチベット仏教
1253 年、後にモンゴル帝国第 5 代カアンとなるクビライが、チベット仏教サキャ派の
パクパ(パスパ)との会見を果たした。クビライは、1260 年に即位すると、パクパを国
師、ついで帝師とし、東アジア仏教界のトップに据えた。一方、パクパは、クビライを仏
教思想における理想の王、「金転輪聖王」と位置づけた。中国全土を支配し、元朝をたて
たクビライは、それによって、カアンという遊牧君主としての王権だけでなく、東アジア
全域での自らの王権を裏付けようとしたのである。
(2)アルタン=カアンとダライ=ラマ
1368 年の元朝の中国放棄、北走後、モンゴルは衰退したが、16 世紀には再びクビライ
の子孫たちが大きな勢力を持つようになった。その中の最有力者であり、モンゴル中興の
祖と言われたのがダヤン=カアンであった。その孫で、内モンゴルに勢力を持ったアルタ
ン=カアンは、1578 年、青海地方において、チベット仏教ゲルク派の高僧ソナムギャツ
ォと会見した。その際、アルタン=カアンはソナムギャツォにダライ=ラマ(3 世)の称
号を与え、現在に至るまでのダライ=ラマ制度が始まった。
逆に、ソナムギャツォはアルタン=カアンを「金転輪聖王」と位置づけた。ダヤン=カ
アンの死後、本来はモンゴルの最高権力者を意味する「カアン」という称号は有名無実と
なり、カアンを名乗る者が乱立し、かつてのクビライや歴代の元朝皇帝やアルタンの祖父
ダヤン=カアンのように、カアンであることが、モンゴルの最高権力者であることを意味
しなくなっていた。
そこで、アルタンは、かつてクビライがパクパから得た「金転輪聖王」の地位を、自
らもチベット仏教の高僧から得ることによって、その王権を裏付けようとしたのである。
その意味では、アルタンにとって、ソナムギャツォとの会見は、クビライとパクパの会見
の再演であった。一方、ソナムギャツォは、モンゴルの有力者と結びつくことによる、チ
ベット仏教の復興をはかり、さらにはゲルク派の権威を高めようとしたのである。こうし
て、チベット仏教におけるゲルク派の地位、そして、ダライ=ラマの権威は高まっていっ
た(以上、中村淳「チベットとモンゴルの邂逅─遙かなる後世へのめばえ─」『岩波講座
世界歴史 11 中央ユーラシアの統合』岩波書店、1997 年、pp.121-146 参照)。
226
(3)アバダイ=カアンのダライ= ラマ信仰
1585 年、アルタン=カアンと
対抗するハルハ(現モンゴル国の
地域)のアバダイ=カアンが、モ
ンゴル帝国時代の旧都カラコルム
(1235 年に建設。現在のハラホ
リン)跡にあった小さな寺でダラ
イ= ラマ信仰を始めた。1586 年、
内モンゴルのフフホトを訪れ、ダ
ライ=ラマ 3 世と接見し、仏像と
職人達を招聘した。1587 年、
仏像を請来し、チベットから招
エルデニゾー寺院(寺院の後方がカラコルム遺跡)
いた赤帽派のロドインヤンボーという僧をおいた。その後も廃墟となっていたカラコルム
にあった廃材を再利用して増築を重ねた。これがエルデニゾー寺院となるのである。
2 .ビチェース=プロジェクトによる研究
上記のように、エルデニゾー寺院は、
モンゴル帝国の旧都カラコルムの廃材を
利用して建設されているので、寺院内に
は、カラコルムにあった多くの碑文が、
あるいは完全な形で、あるいは断片の形
で現存している。過去にも何度か調査さ
れているが、最もよく知られているのは、
19 世紀末のロシアのラドロフ隊による
調査で、その調査報告書は、1892 年に
『 モ ン ゴ ル 古 代 遺 蹟 地 図 』
(W.W.Radloff,Atlas der Alterthümer
der Monglei,Ⅰ-Ⅳ)、として刊行され
ており、エルデニゾー内にある碑文の拓
227
影が数多く載せられ、また、清朝末期の李文田が『和林金石録』(羅振玉校訂『石刻史料
新編』第 2 輯第 15 冊所収)を記し、ここにも多くのエルデニゾー碑文が移録されている。
しかし、その後、ほとんど学術的な調査がされずにきていたが、平成 8 年度から 10 年
度にかけて、大阪大学教授・森安孝夫氏を代表に、文部省科学研究費補助金を受けて、日
本・モンゴル共同で行なわれた国際学術研究「突厥・ウイグル・モンゴル帝国時代の碑文
及び遺蹟に関する歴史学・文献学的調査」(略称「ビチェース=プロジェクト」。「ビチェ
ース」とはモンゴル語で「碑文」という意味)は、モンゴル国における各時代の碑文・遺
跡の調査を目的としたものであるが、その一環として、エルデニゾー碑文の再調査も行わ
れた。
期間終了後も、私も含めた日本側の何人かのモンゴル研究者たちは、モンゴル国の研
究機関との協力関係を継続し、平成 16 年には、新たな研究協定を締結し、「ビチェース
=プロジェクトⅡ」と称し、エルデニゾー寺院に現存する碑文、あるいは広くモンゴル高
原に残るモンゴル時代およびその前後の諸言語による碑文の研究を行っている。上記科研
以後、現在に至るまで、次のような科研費を受けて、調査・研究が進められてきた。
A:平成 12~13 年度科学研究費補助金・基盤研究(B)(1)「碑刻等史料の総合的分析
によるモンゴル帝国・元朝の政治・経済システムの基礎的研究」(代表:松田孝
一)
B:平成 16・17 年度文部科学省科学研究費補助金・特定領域研究「中世考古学の総
合的研究―学融合を目指した新領域創生―」(領域代表:前川要)公募研究「中世北
東アジア考古遺蹟データベースの作成を基盤とする考古学・歴史学の融合」(代
表:村岡倫)
C:平成 17 年度~19 年度日本学術振興会科学研究費補助金基盤研究(B)「内陸ア
ジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究」(代
表:松田孝一)
D:平成 20 年度~22 年度日本学術振興会科学研究費補助金基盤研究(B)「中国社
会へのモンゴル帝国による重層的支配の研究
元朝史料学の新展開をめざして」
(代表:村岡倫)
また、主な成果は次の通りである。
松川節・松井太 1999:「嶺北右丞郎中総管収粮記」森安孝夫・オチル(編)『モン
ゴル国現存遺蹟・碑文調査研究報告』(『内陸アジア言語の研究』別冊,中央ユ
228
ーラシア学研究会)pp.245-251。
中村淳 2007:「1339 年立石の漢文碑文「剏建三霊侯廟記」について─元代カラコ
ルムにおける祠廟祭祀─」『C科研ニューズレター01』,pp.15-24。
宇野伸吉・村岡倫・松田孝一 1999:「元朝後期カラコルム城市ハーンカー建設記念
ペルシア語碑文の研究」『内陸アジア言語の研究』14,pp.1-64+plateⅠ-Ⅳ。
磯貝健一・矢島洋一 2007:「ヒジュラ暦 742 年カラコルムのペルシア語碑文」『内
陸アジア言語の研究』22,pp.119-156。
松井太 2007:「和寧郡忠愍公廟碑」『C科研ニューズレター01』,pp.25-35。
村岡倫・谷口綾 2008:「カラコルム三皇廟残碑とモンケ・カアンの後裔たち」『C
科研報告書』pp.137-189。
3 .これまでの研究の一例(カラコルム三皇廟碑より)
(1)2007 年新発見の三皇廟碑断片より(村岡・谷口 2008 参照)
デルデニゾー内で 2007 年に発見された碑
文の 2 断片が、「三皇廟碑」の一部であるこ
とがわかった。三皇廟とは、伝説の伏羲・神
農・黄帝を三皇として祀る祠廟である。三皇
廟の制度は、元朝の元貞元年(1295)に国
家の祭制に加えられ、14 世紀初頭から中葉
にかけて整備された。神農は医の神とされ、
これによって、三皇は「医の聖人」という新
たな地位を付与され、三皇廟は、府・州・県
でも祀るべき対象となり、元代独自の国家祭
祀となった。2007 年発見の碑文断片によっ
ても、三皇廟に医学関係者が関与しているこ
□内に「郯王」「并王」が見える
とがわかっている。
さらに、碑文には、クビライの兄で、モンゴル帝国第 4 代カアンであったモンケ(在
位 1251~1259)の後裔に与えられた郯王・并王という王号が見える。郯王は、モンケの
曽孫チェチェクトゥが至順 2 年(1331)に与えられた王号であり、并王も、同じくモン
229
ケの曽孫コンコ=テムルが泰定 2 年(1325)に与えられた王号である。後に、コンコ=テ
ムルは政争に巻き込まれ、後至元元年(1335)に自害し、チェチェクトゥも至元 5 年
(1339)に謀殺されている。郯王・并王ともにその王号を名乗ったのは彼らだけであり、
これによって、この碑は、チェチェクトゥが郯王となった 1331 年から、コンコ=テムル
が他界する 1335 年までのものであることがわかる。
(2)既知の三皇廟碑断片に見える「徹徹都」
この 2007 年新発見の三皇廟碑断片のほか、すでに、前述のラドロフ『モンゴル古代遺
蹟地図』、李文田『和林金石録』には、他の 2 片の三皇廟碑断片を掲載している。それに
よれば、元朝の泰定年間(1324~1327)の末、三皇廟に不具合が生じ、修繕の申請がな
され、「徹徹都」という人物の許可を得たことで改修の運びになったという。従来、この
「徹徹都」はどのような人物か不明であったが、2007 年発見の三皇廟碑断片によって、
モンケの後裔、郯王チェチェクトゥであることが判明した。
(3)1999 年発見の三皇廟碑断片
1999 年 9 月、モンゴル側の調査によって、エルデニゾーで新たな碑文が 3 点発見、拓
本採取の後、翌 2000 年 1 月に日本側に提供された。その 3 点のうち 1 点が、その内容か
ら、これもまた、ラドロフ『モンゴル古代遺蹟地図』、李文田『和林金石録』に未収録の
新たな三皇廟碑の断片であることが判明した。この碑の篆額を担当したのが夏侯尚玄とい
う人物で、危素撰『危太樸文続集』巻 8 にその伝記があり、その「夏侯尚玄伝」は、モ
ンケの後裔たちに関して詳細な情報を残していることが明らかとなった。
(4)「カラコルム三皇廟碑」の意義
モンケの後裔たちの動向
エルデニゾーの三皇廟碑の各断片と「夏侯尚玄伝」は、『元史』の欠を補う重要な史料
であり、それらによって、14 世紀以降におけるモンケの後裔たちの動向が跡づけられ、
モンケ一族のカラコルム城市への影響力が明確になる。
カラコルムにおける祭祀
これら三皇廟碑によって、14 世紀半ば、遙かカラコルムの地においても、中国本土と
同じように、三皇廟が建造・改修され、維持され続けていたことが明らかとなった。
三皇廟には、医者の養成所である「医学」が設けられるのが常であった。とすると、
カラコルムにも「医学」があったことになる。
また、中国本土では、三皇廟の制度化に先立ち、各地の地方官には孔子廟や社稷の祭
230
祀の実施と祠廟の経営に義務づけられていた。1999 年には、三皇廟碑文と共に 2 点の孔
子廟碑が発見されている。エルデニゾー碑文の中には、社稷が設けられたことを記すもの
もあり、三皇廟・孔子廟・社稷の祭祀は、元朝では、中国本土のみならず、モンゴル高原
でも行われていたことが分かる。その他、「三霊侯廟記」という碑文も現存し、諸史料と
の比較検討を進めることで、カラコルムにおける祠廟祭祀の実態をより明確に示すことが
今後の重要な課題である。カラコルムには漢人たちも数多く居住しており、これらの祭祀
の実行は、モンゴルにとっても彼らと共生する上で重要だったであろう。
4 .エルデニゾー碑文研究の今後の課題
(1)日本の無償援助による博物館の建設
現在、日本の無償援助による博物館が建設中。2011 年秋に開館予定である。碑文保護
のために博物館内へ搬入する予定。そして展示へと計画が進んでいる。今後も発見される
可能性のある碑文の研究に向けてモンゴルとの協力は重要である。それに対して、「ビチ
ェース=プロジェクト」も、新たな科研費を申請し、学術的な援助を進める努力を期して
いる。大谷大学教授・松川節氏代表の日本学術振興会科学研究費(基盤A)「世界遺産エ
ルデニゾー僧院に関する総合的研究──過去の復元から未来への保存へ──」との協力、そ
して、エルデニゾーは、アジアの重要な仏教文化の遺産である故に、わが龍谷大学アジア
仏教文化研究センターの果たすべき役割も大きいと考える。そのような観点から、私は、
2010 年 8 月 17 日から 24 日まで、モンゴル国の国際遊牧文化・文明研究所の協力を得て、
現地調査を行い、さらに、モンゴル国科学アカデミー歴史研究所やガンダン寺教育文化研
究所の研究者たちとの意見交換を行っ
た。その際に挙げられた今後の課題を
以下に記しておきたい。
(2)アルタン=ソボラガ(黄金の仏
塔)内の摩耗碑文の復元
エルデニゾーの詳細な縁起が刻まれ
ていると思われるが、摩耗が激しく、
ほとんど解読できない。現在、レザー
解析による科学的分析進んでおり、そ
↓がアルタン=ソボラガ内の摩耗碑文
231
れによって内容が明らかとなることが期待できる。
(3)「勅賜興元閣碑文」の研究
興元閣というのは、第 4 代モンケ・カアンが、1256 年に建造した仏教寺院である太閤
寺を 1340 年代になって改修した際にその名が付けられたものである。それを記念して立
石されたのが「興元閣碑」であった。主な研究は下記の通りである。
松川節 2006:「新発現の漢モ対訳『勅賜興元閣碑』碑片」『村岡科研報告書』
pp.74-81。
〃
2008a:「『勅賜興元閣碑』の再構」『松田B科研報告書』、pp.201-207。
〃
2008b:「『勅賜興元閣碑』モンゴル文面訳注」『内陸アジア言語の研究』23
号、中央ユーラシア研究会、pp.35-54。
白石典之・D.ツェヴェーンドルジ 2007:「和林興元閣新考」『資料学研究』4,
pp.1-14。
(4)興元閣と万安宮をめぐる問題
「興元閣碑」は、『至正集』巻 45 に「勅賜興元閣碑」として、全文が記されているが、
碑文は完全な形で残っておらず、古くから、エルデニゾー内やカラコルム遺跡の各所より、
「興元閣碑」の断片が数個発見されていた。「興元閣碑」は漢文とモンゴル文を両面に載
せるバイリンガル碑文で、モンゴル文もいくつかの断片が見つかっている。
近年、これまで、カラコル
ム遺跡西南隅の大型建物跡は、
カアンの宮殿である万安宮と考
えられてきた(227 頁の図参
照)が、実は興元閣であること
が明らかとなってきた。建物の
遺跡内から大小多くの仏像が出
土すること、建物前にある亀趺
(碑文の台座)は、その大きさ、
あるいは近くから興元閣碑の断
カラコルムの亀趺 その上に興元閣碑 そしてその背後には
片が発見されていること、それ
らから判断される。「興元閣
かつて壮麗な仏教寺院・興元閣が建っていた
碑」によると、興元閣は 90 メ
232
ートルに及ぶ塔を伴う壮麗な仏閣であったという。そのような観点から、さらに詳細な発
掘調査が重要であろう。
また、そうなると、改めてカラコルムの宮殿はどこにあったのかが重要な課題となる
が、多くの研究者は、エルデニゾーの下に埋まっている可能性が高いと考えている。エル
デニゾーの城壁の簡単な調査によると、その下には、モンゴル時代、さらにウイグル時代
にまでさかのぼる跡が見られるという。今後の考古学的調査の成果が期待される。
5 .その他のエルデニゾーあるいはカラコルム研究の課題
(1)モンゴルと仏教の深交
4 で示した課題のほか、龍谷大学アジア仏教文化研究センターとして、あるいは私個人
として、進めるべき研究課題を以下に示したい。1254 年に訪れたフランス王の使節ルブ
ルクは、カラコルムには偶像崇拝の寺院が 12、イスラームのモスクが 2、キリスト教会
が 1、存在していたと報告している。偶像崇拝の寺院とは、道観や廟も含むが、その多く
は仏教寺院であったと思われる。モンゴル帝国第 3 代グユクの時代(1246~1248)、カラ
コルムには、すでに臨済宗の海雲印簡や曹洞宗の雪庭福裕が住持した太平興国禅寺が存在
し、モンケ時代の 1256 年には太閤寺(後の興元閣)が建立され、チベット仏教カルマ派
のカルマ=パクシによって大経堂も建立されていた。これらに関しては下記のような研究
がある。
中村淳・松川節 1993:「新発現の蒙漢合璧少林寺聖旨碑」『内陸アジア言語の研究』
8、pp.1-92。
中村淳 1994:「モンゴル時代の「道仏論争」の実像─クビライの中国支配への道─」
『東洋学報』75-3・4、pp.33-63。
〃
2008:「2 通のモンケ聖旨碑から─カラコルムにおける宗教の様態─」『内陸ア
ジア言語の研究』23、pp.55-92。
福島重 2008:「雪庭福裕の伝について」『禅学研究』86、pp.18-53。
モンゴル帝国の首都であったカラコルムは、宗教都市としても位置づけられる。特に
仏教の持つ意味は大きく、これらのさらなる研究は今後の重要な課題である。
(2)大谷探検隊のエルデニゾー調査
第二次大谷探検隊の橘瑞超・野村栄三郎が、1908 年にエルデニゾーの調査を行ってい
233
る。
詳細は下記の著作参照。
野村栄三郎「蒙古新疆旅行日記」上原芳太郎編『新西域記』下巻、有光社、1937 年、
pp.439-555。
橘瑞超『使命記 蒙古の部』渋谷文泉閣、2001 年。
左の写真は、両名が記す寺
院内の図から考えられる、彼ら
が宿舎として割り当て割れた建
物跡である。彼らの記録による
と、当時、寺院内には多くの建
物、施設があり、各地から訪れ
る僧侶や参拝者の宿泊や宗教活
動などの便宜をはかっていよう
だ。
そのほか、両名の日記は、100 年前のエルデニゾーの状況が詳しく記されている。当時
のエルデニゾーに関する史料がほとんどない現状においては貴重な史料と言える。大谷探
検隊の意志を受け継ぐ意味でも、今後、龍谷大学アジア仏教文化研究センターが、エルデ
ニゾー研究に果たすべき役割は大きいと言えよう。
234