私に関わるすべてのことを

私に関わるすべてのことを
旧約単篇
詩篇の福音
私に関わるすべてのことを
詩篇 138:7,8
旧約聖書の詩篇は、ダビデやソロモンの歌った詩を中心に、あるいは誰も
が知っていたようなダビデの苦悩や経験に譬えて歌った詩とか、宮廷オーケ
ストラや合唱団を指揮した音楽家や詩人の作品をも含めて、150 篇にまとめ
られています。昔の人たちはこれを五つの章に分けましたが、これは多分、
巻物にして使いやすいようにしたのでしょう。第 138 章と言ってもいいので
すが、これは昔の中国で詩の作品を数えるのに、詩一篇とか詩三百篇を残し
た、と言うのに倣って中国語訳の方で、例えば第 138 篇(第一百三十八編)
と言った、その篇を流用したものです。
この詩は 90 篇から 106 篇までを含む第 4 巻に入っていて「ダビデに……」
という表題がついています。「ダビデ風に」の意味にとる人と、「ダビデ自
身の作」と受け止める人と両方あります。例えば第 3 節などに、サウルに追
われて地の面を転々とした流浪時代のダビデの経験が表れているわけです。
詩人は自分がその行き詰まりのどん底で受けた神の憐れみと護りの手を思い
起こして、自分の体験の中から神への感謝を新たにして、神を讃えているの
です。
作者は自分の苦しい体験が何であったかを語りませんが、それだけに、す
べての人の共感を引き起こすと言いますか、行き詰まりと失敗の中から主の
手で引き起こしていただいた人、立ち直った人の心の琴線に触れて、共鳴を
起こさずにはおきません。
例えば 3 節に「あなたはわたしが呼ばわった日にわたしに答え、わが魂の
力を増し加えられました。」とあります。
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6 節には「主は高くいらせられるが低い者をかえりみられる。しかし高ぶ
る者を遠くから知られる。」―これなどは低くされた者の幸にと言います
か、一度その経験をすれば、「私などは低くて無価値」とか「無意味」など
とは言えない位の神聖な確信に溢れさせる言葉です。自惚れた自信じゃなく
て、主の顧みの中に含まれていることを知った時の畏れに満ちた謙虚な自信
とでも言いますか。
7 節は「たといわたしが悩みのなかを歩いても、あなたはわたしを生かし、
み手を伸ばしてわが敵の怒りを防ぎ、あなたの右の手はわたしを救われます。」
―これは主の右の手で支えていただいた人の正味の告白でしょう。「右の
手」というのは、強大な力を表す比喩です。
今朝は主として最後の 8 節だけに目をとめます。「主はわたしのために、
みこころをなしとげられる。」―これなんかは見方によっては狂信とうつ
るかもしれません。少なくとも、あまりにも自分の思いが先行した祈りでは
ないか……どうもこれは古代ギリシャ訳の訳し方に少しく振り回されて、正
鵠を射そこなったというか、ポイントを外しているのかもしれません。「私
のために」と訳したところ、原文の
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は「私の周りを」という言葉です
から、意味は多分「私に関わることを全部」「私について定めておられるこ
とを全部」成し遂げて下さる、という確信を言うのでしょう。それが必ずし
も全部よいことづくめ、ありがたづくめでなくても、主がお定めになってい
ることは、必ず果たして実現して下さる。繁栄であれ、健康であれ、死であ
れ、安心して委ねられる。私のことを全部知って、行く先々まで定めておら
れるのだから……。それが「主はわたしのために、みこころをなしとげられ
る。」の真意でしょう。新改訳は少し言い方を変えて「主は私にかかわるす
べてのことを、成し遂げてくださいます。」と訳しています。表題はここか
らとりました。これの方が多分原文
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の意味をよく訳出してい
ると思います。
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主のお言葉の中に、やはりこれとよく似た、引っかかる言葉があります。
「必ず成ると心に疑わないで信じるなら、その通りに成るであろう」という
お言葉……これはマタイにもありますが、マルコ 11:23 の方を読んでみます。
22 節末尾のカギカッコで始まるイエスのお言葉から
「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出し
て、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで
信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、な
んでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、
そのとおりになるであろう。……」
これも取りようによっては、自分の願望と意志が至上で、神に命令してい
い気になっているような、信仰というより不信仰を生みはしないか……。若
い時から疑問を持ったものです。それで、人に尋ねて食い下がってみました
ら、それは「もしそれが神のみ心ならば成る」ということで、神の意志でな
ければ、単なる肉の我がままを聞いて頂ける保証はない―と言われるので
すが、それではイエス様の言葉は殆ど意味を失うのではないか……とまた分
からなくなりました。第一、自分が今真剣にお願いしていることが、単なる
我がままのお願いなのか、それとも真剣に祈れば必ず応えられるような、信
仰が試されるような重大事なのか? 自分でもよく判断がつきません。
もしそうなら、どうして「必ず成ると心に信じて祈る」ことなどできまし
ょう。いつでも肩すかしを食ってもいい余裕を見せながら、信じているよう
な顔をして祈ることになりましょうか。
祈りのことで、私の嫌いな譬え話があります。アメリカなどでは受けるの
でしょうが、宣教師の方がよく使われる話です。米国の田舎の教会で、干ば
つの年に雨乞いの祈り会を丘の上でしたというのです。その時、傘を手に持
ってきたのは牧師一人であった。これなんかはアメリカン・ユーモアがあっ
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て、それだけでハハハと笑って済ますものなのでしょうが、ちょうど私はそ
ういうことを真剣に思い悩んでいた時でしたので、「あなたの話は、会場か
らの帰り、必ず雨が降ると決めて、自分の意志を神に押し付けているわけで、
これは信仰の話ではなく、不信仰の話ではないですか。」と言いましたら、
とても不愉快そうな顔をされて、その後その方とは気まずくなりました。
考えてみますと、私の考え方も少し無理があって、その牧師はすぐその日
に雨が降る可能性を考えて傘を持っていたのに、他の人たちはその可能性も
考えていなかったと見れば、それほど腹を立てることもなかったのでしょう。
数学的・統計的にドライに考えてみると、苦境に立って祈って助かる経験
というものは、例えば生と死を考えてみても、第 1 回目の死の危険と不安、
第 1 回目の祈り、主の右手で支えられる。138 篇式に言うと、「私が呼ばわ
った日に、私に答え、わが魂の力を増しくわえられた。」。第 2 回の絶望、
行き詰まり、第 2 回目の祈り、主の右手が同じように支えて下さる……、第
n − 1 回目の絶望、祈り、不思議と支えられる。そして第 n 回目の不安、死の
危機、必死で祈るが遂に魂を取り去られ地上の出番は終わる。そういうプロ
セスをとるものでしょう。
問題はこれをどう見るかです。理屈だけでいけば多分、何度か偶然の積み
重ねで危機を脱したが、結局はダメで、神を信じたり祈ったりすること自体
が滑稽で無意味である、ということになります。
これに対して、信仰の立場と言うのは詩篇の言葉で言うなら「主は私にか
かわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」私は主が定めて下さっ
た出番の間は、必ずお定めになった役目を果たせる。絶望的で全く道はない
ように思われる時でも、道は開かれて、人のために神のために仕えてお役に
たてる。ただ、その終わりは主のお心の中にあって、その時が来れば地上の
出番と務めから解放して下さる。けれども、その時が来るまでは不可能をも
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可能にして下さる。それが「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げて
くださいます。」ということの意味です。
こういう信仰は何処から来るのか。一つには 3 節にあるように、そういう
体験の積み重ね、第 1 回目の勝利から第 n − 1 回目の勝利までの間に強めら
れて行くのでしょうが、その一番基礎になるのは、それだけ確かな神様を知
ったか? ということでしょう。そしてこれは、イエス・キリストによるこの
私の罪の処分と、この私に賜った命―それを受けて喜んだ経験に発する。
家内はあまり聖書を読まないので、あまり自慢にはなりませんが、「聖書
読みの聖書知らず」ということはありますが、「聖書読まずの聖書知り」と
いうのがあるのかどうか分かりませんが、時々そんなによく読んでないのに、
なかなかよく知っているなぁと思うことがあります。
家内はヘブライ的表現だとか旧約の詩人の表現のことは全く知りません。
大阪弁的によくこんなことを言います。聖書の信仰の精神をいつの間にかわ
きまえているというのでしょうか……「神様が死なすまでは、人間、死ぬ時
が来るまで死ねへんねん。その時が来たら役目は終わって、しまいになるけ
ど、その時までは絶対死ねへん」。その間は自分の務めを無理にでも果たさ
せられるということです。
我々、この箇所にありますように「主は私のために、私に関わることを全
部成し遂げて下さる。」という信仰を持って、来年もまた主に使えて自分の
務めを果たしたいと思います。
(1986/12/28)
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