スポーツの社会学

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《特集
スポーツと社会、スポーツと国家》
スポーツの社会学
―輸入スポーツと伝統スポーツをめぐって―
井上 俊
近代社会とスポーツ
現在私たちが楽しんでいるスポーツの多くは、野球にせよサッカー
にせよテニスにせよ、明治時代以降に西洋から入ってきたものであ
り、いわば輸入文化である。これらのスポーツは、スポーツ史のう
えでは一括して「近代スポーツ」と呼ばれている。その起源をさか
のぼればさまざまであっても、近代、とりわけ19世紀以降に、ルー
ルが整備され、現在のような形態になったものが多いからである。
「近代スポーツの母国」といわれるのは英国である。ルールの整備
や競技団体の組織化だけでなく、世界中に植民地を持つ大英帝国の
威光を背景にスポーツを世界各地に広く普及させたという歴史もあ
る。もちろん、すべての近代スポーツが英国で発展したわけではな
い。たとえば野球は明らかに米国で発展したスポーツであるし、バ
レーボールやバスケットボールも19世紀の末に米国のYMCAで創
案された新しいスポーツである。しかし、これらはどちらかといえ
ば例外的なケースであり、大半の近代スポーツは英国で発展し、そ
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こから世界に広まったのである。
近代スポーツの発展に貢献したイベントとして、誰もが思いつく
のは近代オリンピックであろう。これは、よく知られているように、
スポーツを重視する英国のエリート教育制度に共鳴したフランス
人、ピエール・ド・クーベルタンの提唱によって1896年にはじまっ
た。しかし初期のオリンピックは、たいしたイベントではなかった。
IOC(国際オリンピック委員会)の記録によれば、第1回アテネ大
会の参加国は14、参加選手は241人にすぎない。200を超える国と
地域から10,000人以上の選手が参加する現今のオリンピックとは
比較にならない。
当時の世界的イベントといえば、1851年のロンドン万博を嚆矢と
する万国博覧会が代表的なもので、オリンピックはその人気におい
ても規模においてもとうてい万博に太刀打ちできるようなイベント
ではなかった。事実、オリンピックの第2回大会(パリ、1900年)
と第3回大会(セントルイス、1904年)は、ともに万国博覧会に相
乗りさせてもらい、万博の運動会のような形で開催されたのである。
近代オリンピックの基礎が固まり、本格的な発展がはじまるの
は、第4回ロンドン大会(1908年)からである。今回も英仏博覧会
と共催であったが、22カ国から2,000人を超える選手が参加し、盛
会だった。また、これまでの個人参加に代って国別のエントリー方
式が定着した。以後、オリンピックとナショナリズムのつながりが
強まり、それがオリンピック発展の一つの要因となるとともに、ス
ポーツを通しての国際理解・国際親善というインターナショナルな
理想も強化され、オリンピックの有力な理念となっていく。
近代スポーツの顕著な特色の一つは、ノルベルト・エリアスらの
研究が明らかにしてきたように、暴力性の抑制であり、競技者の安
全性への配慮である。たとえば近代オリンピックがモデルとした古
代オリンピア競技の人気種目パンクラチオンは、ほとんど何でもあ
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りの格闘技で、流血や負傷が絶えず、競技者は命がけで闘ったとい
うが、近代スポーツのレスリングやボクシングでは細かく反則のル
ールが定められ、暴力的要素が抑制されて、競技者の安全性が高め
られている。競技のルールはまた、平等な条件のもとでの実力競争
を保証するように構成されている。この意味で近代スポーツは、近
代社会そのものの理想に合致している。近代社会は暴力による強制
や支配を否定する。また、出自に左右されない能力主義を標榜し、
公正なルールのもとでの平等な能力競争を尊重する。スポーツは、
そうした近代社会の理想を反映する。しかも、特別なルールに守ら
れたスポーツの世界では、現実の社会では十分に達成されがたい理
想も実現されやすい。その意味で、スポーツは近代社会の価値観を
単に反映するだけでなく、それが実現される姿を象徴的に示す活動
でもある。
輸入文化と伝統文化
日本では、すでにふれたように、近代スポーツは明治以降の「輸
入文化」として広まった。その紹介と普及に大きな役割を果たした
のは、当時の新聞メディアである。スポーツを扱った新聞記事は、
明治の半ば以降、1895(明治28)年頃からしだいに増えてくる。そ
の多くは外国人相手のスポーツ試合の報告であり、とりわけ日本側
の勝利の報告であった。たとえば、
「一高対外人クラブ、ベースボー
ル試合」が「わが学生の大勝利」に帰したという記事がある(
『東京
朝日新聞』1896 [明治29] 年6月7日)。横浜公園において9回まで
戦われた試合は23対9のスコアで一高の大勝となり、観衆の「喝采
の声止まざりし」というのである。
ほかにも「横浜港で国際水泳、百ヤード、溝口が名誉の先着」
(同、
1898年8月15日)
、「慶応初めて克つ、対横浜外人蹴球試合」
(同、
1908年11月16日)など、この種の記事は途切れることなく掲載さ
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れ続ける。もちろん実際には負けた試合のほうが多かったに違いな
いが、その報道はほとんどみられない。やはり、外来文化であるス
ポーツにおいて「本家」の西洋人に勝つというところにニューズ・
バリューがあったのであろう。
また、とりわけ明治中期以降の新聞や雑誌には、外来の近代ス
ポーツ(「西洋伝来の運動」)と伝統的な武術・武芸(「撃剣・柔術・
弓術などの日本固有の武技」)とを対置し、どちらが「身体および精
神の養成に効あるか」について論じる記事などもときおりみられる
(たとえば『運動界』4巻3号、1900年4月)。ここでは、同じ輸入
文化における勝敗ではなく、輸入文化と伝統文化との体育的・教育
的効果の優劣が問題とされている。
いわゆる伝統スポーツをめぐる近年の出来事に目を転じるなら、
学校教育における武道の必修化ということが記憶に新しい。2006
年の「教育基本法」の改正によって「伝統と文化の尊重」が謳われ
たことに基づき、
「我が国固有の文化」である武道を通して伝統的な
考え方や作法を学ばせるという趣旨で、2014年4月から中学校の
保健体育の授業で武道が実施されることになった。この必修化をめ
ぐっては、武道を教えることができる教員の不足、生徒の安全確保
などが、現場でもまたメディアでもしばしば話題になったが、もっ
と基本的なところで、そもそも武道は果たして「伝統文化」なのか
という問題もある。
武芸・武術の「近代化」
今日私たちが「武道」と呼んでいるものの形成に重要な役割を果
たしたのは、講道館柔道の創始者、嘉納治五郎(1860−1938年)で
ある。1882(明治15)年に、まだ22歳の若者であった嘉納が下宿
先の寺の書院に小さな道場を開き、これを講道館と名づけた頃、伝
統的な武芸・武術は文明開化の潮流のなかで衰退しつつあり、とう
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ぜん世間のイメージも「時代遅れ」とか「粗暴」、あるいは「見世物」
(武術家が生活に困って「撃剣会」などの興行をおこなったことか
ら)など、芳しいものではなかった。講道館で教える武術の名称に
ついて、通常なら「柔術」か「やわら」とすべきところをあえて「柔
道」とした理由の一つは、世間の悪いイメージを避けるためであっ
たと嘉納はのちに述べている。
「柔術」や「やわら」という伝統的な、
そして当時の一般的な名前ではダメだ、
「せめて名称でも新たにしな
くては門人も得られまい」というのである。
柔術にかえて柔道と称した理由はほかにもある。嘉納によれば、
「術」という言葉はむしろ「応用面を意味する」ので、応用に対す
る原理、つまり「根本となる道」を示すという意味で「柔道」とし
たという。さらにもう一つの理由として、嘉納は、講道館柔道も「先
師から教えられた技術」に基づくものだから、まったく新規な名称
は避け、伝統的な柔術の流派においてもときに使用されていた「柔
道」を採用したと述べている。いわば先師とその背後にある武術の
伝統に敬意を表しているわけである。
嘉納ははじめ天神真楊流の柔術を習い、次いで起倒流を学んだ
が、これら二つの流派の折衷にとどまることなく、ほかの諸流派に
ついても熱心に研究し検討を進めた。1889(明治22)年、講道館開
設7年後の講演のなかで、嘉納は「柔道とは耳新しい言葉」であろ
うが、要するに旧来の柔術諸派について比較検討し、
「取るべきもの
は取り、捨てるべきものは捨て、学理に照らして考究いたしまして、
今日の社会に最も適当するように組立てた」ものだと述べている。
いわば彼は、伝統武芸である柔術を文明開化の社会に合うように
「近
代化」することを図ったのであり、講道館柔道が広く世に受け入れ
られ、成功した最大の理由もそこにあったといえよう。
嘉納によるこの「近代化」の試みは多岐にわたり、また多年にわ
たるので、簡単に要約することはむずかしいが、たとえば(1)従
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来の柔術各派のさまざまな技を比較検討し理論的に体系化したこ
と、
(2)危険技の禁止を含めて試合のルールと審判規程を確立したこ
と、
(3)修行者のモチベーションを高めるために段級制を導入・整備
したこと、
(4)柔道修行の体育および徳育上の価値を強調し、柔道が
近代社会にふさわしい身体文化であると主張したこと、
(5)早くから
柔道の国際化を志向し、海外への紹介・普及に努めたこと、
(6)講演
や著作、雑誌の発行などを通じて、講道館柔道を説明し広めるため
の言論活動に力を入れたこと、などをあげることができよう。
その言論活動のなかで嘉納は、柔道の新しさ(近代社会への適合
性)とともに、その歴史性(伝統文化との連続性)を説くことも忘
れなかった。嘉納は東大出身のエリートであり、言論活動はいわば
お手のものである。さらに、学習院教授、旧制第五高等学校や第一
高等学校の校長、そして東京高等師範学校の校長などを歴任した彼
のキャリアは、日本の高等教育機関に(ひいてはそこから巣立つエ
リート層に)柔道を普及させ認知させるうえで大いに役立った。
嘉納はまた、外来の近代スポーツにも積極的に関与した。1889
年秋から約1年4カ月にわたる外遊経験もあり、1909年にはアジア
初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となって、オリンピック
への選手派遣の母体となる大日本体育協会を設立(1911年)、翌年
のオリンピック第5回ストックホルム大会に日本として初めて2名
の選手(マラソンの金栗四三と短距離の三島弥彦)を派遣し、みず
からも役員として参加した。近代スポーツに関連するそうした嘉納
の経験が、柔術の近代化や柔道の普及・国際化などの活動にも生か
されたことはいうまでもない。
「スポーツの武道化」への潮流
このようにして講道館柔道が発展していくにつれて、剣術(撃剣)
や弓術など、ほかの武術も、柔道を一種のモデル・ケースとしなが
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ら、それぞれの事情に応じて「近代化」を図り、剣術は「剣道」へ、
弓術は「弓道」へと転換していく。もともと剣術・柔術・弓術を中
心に槍術・薙刀・居合術・棒術などをも含む武術の統括団体として
は、1895(明治28)年に設立された大日本武徳会があったが、この
武徳会も1919年、設立以来の剣術・柔術・弓術などの名称を剣道・
柔道・弓道などに改め、また付属の武術専門学校の校名も武道専門
学校へと変更した。いわば武術の「近代化」
、武術から武道への転換
が社会的に定着したことを象徴する出来事であった。
こうした経緯を考慮すれば、「武道」は伝統文化というより、明
治後期以降に形成された比較的新しい「近代文化」というべきであ
ろう。たしかに武術・武芸の歴史は古いが、それらが外来の近代ス
ポーツなどの影響も受けながら「近代化」され、近代社会・近代国
家にふさわしい形に再構成されたものが「武道」である。この意味
での武道の発展は1910年代の後半くらいからはじまるが、とりわけ
1930年代に「躍進」を遂げたといわれる。この時期、さまざまな武
道イベントが企画され、大衆的な人気も高まっていく。
この「躍進」は、しかし、武道が当時の国粋主義や軍国主義の潮
流に強く引き寄せられていくことと引き換えのものでもあった。
1931(昭和6)年の満洲事変から翌年の満洲国建国、そして国際連
盟脱退(1933年)
、さらに1937年からの日中戦争、1941年からの太
平洋戦争へと進んでいく時代の情勢のなかで、武道は「日本主義」
思想や「皇国史観」などと結びつき、
「国民総動員」のための国家の
イデオロギー装置の一部に組み込まれていく。1930年代後半から40
年代初頭になると、吉川英治の『宮本武蔵』や富田常雄の『姿三四
郎』などの武道小説が人気を博し、武道とそのイデオロギーの大衆
化はさらに進展した。
武道のイデオロギー化が進むと、武道とスポーツとの関係にも変
化が生じる。一般的にいって、両者は相互に影響を与え合いながら
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共存してきたのだが、1930年代に入ると、「スポーツの武道化」を
求める流れが強くなる。たとえば当時の著名な体育指導者、大谷武
一は「米英から輸入されたもの」であるスポーツには「自由主義、
個人主義に依拠する享楽思想が深く浸透」しているから、それを「ス
ポーツから駆逐する」必要があり、そのためには「武道を行ずる態
度」をもってスポーツをしなければならないと論じた。これは決し
て大谷だけの主張ではなく、むしろ当時の体育・スポーツ言説の主
流であった。個別のスポーツに関しては、飛田穂洲らの「武士道野
球」
「修養の野球」
「精神の野球」といった主張がよく知られており、
それは実際に甲子園大会のあり方などに反映された。
「スポーツの武道化」言説の基本になっているのは「和魂洋才」
のレトリックである。この時期スポーツは、武道に対してイデオロ
ギー上の旗色は悪くなるが、だからといって決して衰えたわけでは
ない。水泳をはじめ三段跳び(南部忠平)や馬術(西竹一)など日
本選手の活躍が目立ったロサンゼルス・オリンピック(1932年)、
そして「前畑がんばれ!」のベルリン・オリンピック(1936年)の
影響などもあって、スポーツはむしろますます盛んになり、世間の
人気も高かったから、スポーツそのものを否定するわけにはいかな
い。そこで、外来のスポーツ(洋才)に古来の日本精神(和魂)を
注入する役割を武道が担わされることになる。もともと武道は伝統
武術の近代化という一種の和魂洋才によって形成されたものであっ
たのに、その「洋才」的側面はここでは忘却されてしまう。伝統と
の連続性と非連続性とをともに主張するという、嘉納治五郎の議論
にみられたような両面性も影を潜め、伝統とのつながりだけが強調
され、
「伝統的な日本精神を具現する固有の民族文化」という武道イ
メージが強化され、普及していく。そして、このイメージが現代の
私たちの武道観にも強い影響を残しているように思われる。
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逆転――武道のスポーツ化
しかし、1945年の敗戦によって武道は苦境に立たされる。戦後日
本の占領と管理を統括した GHQ によって、武道は軍国主義イデオ
ロギーへの関与や戦争体制への協力をとがめられ、大日本武徳会の
解散、学校武道の禁止など、さまざまの制約を課される。1942年か
ら政府の統制下に組み入れられていた大日本武徳会は、民間団体へ
の改組、戦時下の重点振興種目としていた銃剣道・射撃道の廃止、
道場の神棚の撤去(国家神道の否定)などによって生き残りを図っ
たが、うまくいかず、ついに解散に追い込まれ(1946年)、さらに
翌47年には1,300人以上の武徳会関係者が公職追放となった。学校
武道についても、GHQ の意向を受けた文部省通達によって、1930
年代から必修化されていた武道授業は廃止され、正課外の武道の部
活動なども禁止、さらに学生・生徒以外の一般人が学校またはその
付属施設を用いて武道を実施することも禁じられた。
他方スポーツは GHQ による「民主化政策」の一環として奨励さ
れたので、武道としては、その組織、ルール、イデオロギーなどに
おいて民主化とスポーツ化を図る以外に生き残る道はなかった。こ
うして、これまでの「スポーツの武道化」にかわって今や「武道の
スポーツ化」が課題となる。
「スポーツ化」への具体的な対応はさまざまであった。たとえば剣
しない
道は、「 撓 競技」という新しい形式(従来の竹刀よりも柔らかい袋
竹刀を用い、ルールも単純化・スポーツ化したもの)を考案し、こ
れを突破口として復活を図った。柔道は戦前からの国際化の実績を
生かして GHQ 関係者に働きかけ、進駐軍人・軍属に柔道を手ほど
きする活動などもおこなった。学校柔道に関しては、文部省を通じ
て解禁の要望を伝え、そもそも嘉納治五郎が柔術から柔道への転換
を実現したとき「すでにその本質はスポーツ的に規定され」ていた
のであり、
「いわゆる軍国主義的色彩は、戦時中強制的に付着された
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もの」にすぎないと主張した。これを受けて、1950年5月、当時の
文部大臣・天野貞祐もダグラス・マッカーサー総司令官あてに要望
書を送り、同年9月、GHQ の許可が下りて、学校柔道は他の武道
に先がけて復活する。
その後、サンフランシスコ平和条約の発効による占領終了、GHQ
の廃止(1951年4月)などもあり、武道はしだいに生き残りの段階
を脱し、財団法人日本武道館の発足(1962年)、柔道のオリンピッ
ク種目採用(1964年)など、新たな発展の段階に入っていくが、そ
こにいたるまで約20年を要した。
せっかく武道を必修化したのであれば、スポーツと武道との関係
におけるこうした転変、歴史的・社会的状況の変化に翻弄された一
種の悲喜劇についても、授業のなかで触れてほしいと思う。
学際的探究のフィールド
現代ではスポーツ(武道をふくめて)はきわめて大きな社会現象
となっている。オリンピックやサッカー・ワールドカップなどを頂
点とする大規模なスポーツ・イベントの人気、それらに絡む莫大な
金と利権、開催地をめぐる贈収賄、競技の結果や運営の成否に賭け
られる国家や民族の威信、競技者や関係者の社会的成功、さらにそ
うした状況が誘発するドーピング、セクハラ、パワハラ、体罰など
など、メディアやネットを賑わす話題も多い。一方、阪神・淡路大
震災や東日本大震災との関連では、人びとを勇気づける「スポーツ
の力」が注目された。マス・メディアによって強調されすぎたきら
いはあるが、スポーツにそういう力があることは事実であろう。ス
ポーツはしばしば劇的な展開やスリリングな要素を含み、人びとも
メディアも、そこにさまざまな物語を読み込むことができ、またそ
こからさまざまなメッセージを受け取ることができる。むろんそれ
は、ひとつまちがえば、極端なナショナリズムや排外主義への大衆
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動員などにも結びつきうる危険な力でもある。
大規模なスポーツ・イベントにかぎらず、学校や地域の運動会、
市民マラソン、スポーツジムやフィットネスクラブの普及など、身
近な日常生活のレベルにもスポーツは広く浸透している。また、勝
敗や業績を重視する近代競技スポーツに対して、誰もが楽しめる穏
やかな「ソフトスポーツ」や「ニュースポーツ」の開発、フォーク
スポーツの再評価などの動きもみられる。つまり、現代のスポーツ
現象は、その問題点もふくめて、社会学的研究の対象としてますま
す興味深いものになってきたのである。
スポーツの社会学的研究の推進を目的に「日本スポーツ社会学
会」が設立されたのは1991年であった。今年でちょうど四半世紀と
なり、学会の活動を振り返る『25周年記念誌』の編集なども進めら
れているが、この25年だけをみても、メディア化とグローバル化と
いう相互に関連する過程の進展によってスポーツ現象はますます広
範化しかつ複雑化しており、したがって研究の対象としては、より
学際的な探究を要請するフィールドとなってきている。本誌『学際』
によってスポーツが取り上げられるゆえんでもあろう。
〈参考文献〉
有山輝雄(1997)『甲子園野球と日本人』吉川弘文館。
井上俊(2004)『武道の誕生』吉川弘文館。
入江克己(1986)『日本ファシズム下の体育思想』不昧堂出版。
エリアス・N, ダニング・E 著、大平章 訳(1995)
『スポーツと文明化』法
政大学出版局。
北村尚浩(2013)「武道必修化の課題と展望」『スポーツ社会学研究』21巻
1号、日本スポーツ社会学会。
清水諭編(2004)『オリンピック・スタディーズ』せりか書房。
松原隆一郎(2013)『武道は教育でありうるか』イースト・プレス。
(いのうえ
しゅん
大阪大学名誉教授)
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