法廷における経済学――反トラスト法、専門家証言

法廷における経済学――反トラスト法、専門家証言――
荒 井 弘 毅*
1.はじめに
立法論・政策論も判例評釈も重要な法律研究分野ではあるものの、訴訟実務は多くの法律
家が最も重点を置く分野の一つである。本研究は、この「訴訟」における経済学の使い方に
関して、法と経済学の観点から概観する。このための切り口として、多くの法分野の中で比
較的経済学と関連が深いと思われる経済法の分野から研究を進めた。
なお、本研究では、原則として民事訴訟を取り扱う。米国でも、談合・カルテル等刑事事
件では経済的議論はほとんど用いられておらず、日本でも、刑事と民事とでは用語や訴訟の
進め方も異なっており、ここではまず民事訴訟を対象とした。
以下では、2.として米国の反トラスト法訴訟での経済学の使われ方を、特に象徴的な事例
としてマイクロソフト訴訟を例にとって分析の研究の端緒とした。次に、3.で米国の法廷に
おける専門家証言の議論として、ダウバート基準と連邦証拠規則 702 条に触れ、反トラスト
の分野で経済学者の証言に関する議論を取り挙げる。こうした論点を踏まえた上で、4.で日
本の訴訟における経済学の取扱いを省みて、要件事実論と事実認定論を中心とする法的判断
の基本構造や経験則の適用の中で、専門的知見としての経済学が訴訟の中で使われてこなか
った理由を検討する。その上で、5.で我が国訴訟の中で経済学が活用される際の必要条件・
十分条件を考えて、6.で訴訟で経済学が活用されることから派生する経済学への効果につい
て論じる。これに加えて、7.で経済学が訴訟で活用されることについて、簡単な 2 分野(法廷、
経済理論)、2 財(法的考え方、経済学的考え方)、2 生産要素(法的訓練、経済学的教育)モデル
を用いて、そのインプリケーションを考え、最後に、今後の研究の課題と道筋を示す。
2.米国の反トラスト法訴訟での経済学の使われ方
(1)マイクロソフト訴訟と経済学者
訴訟における経済学が活用された例を米国マイクロソフト反トラスト訴訟を例にとって
説明を始める。米国と日本の司法システムの違いを超えて、経済学が法廷で使われる様子が
迫力を持って伝わる事例である。
1998 年 5 月、連邦司法省はマイクロソフト社をシャーマン法第 1 条及び第 2 条違反とし
てコロンビア特別区連邦地裁に提訴した。この超大型の反トラスト法訴訟は、1999 年地裁
事実認定、2000 年地裁法的結論・救済措置、連邦最高裁への上告・棄却、2001 年コロンビ
ア特別区連邦高裁判決、2002 年司法省との救済措置和解、2003 年地裁の和解の認容と推移
した1。この訴訟の中での興味深いことの一つに、司法省側・マイクロソフト側もともに著
名な経済学者が証人として証言し、厳しい反対尋問が繰り広げられたことであった。
*
大阪大学社会経済研究所助教授
1
主な資料は次のウェッブサイト参照。http://www.usdoj.gov/atr/cases/ms_index.htm 及び
http://www.microsoft.com/presspass/legalnews.asp
(2)司法省側主張
司法省側は、フレデリック・ワレンボルトン博士とフランクリン・フィッシャー教授の二
人のエコノミストの証言を提出した。
ワレンボルトン博士は、3 点から議論を進めた。第一に、マイクロソフトが関連市場にお
いて独占力を有している点、第二に、マイクロソフトは、自社のOSの独占を揺るがす可能
性を持った競争者のインターネット閲覧ソフトのビジネスの機会を実質的に妨害した点、第
三に、マイクロソフトの行為は、効率性の観点からも正当化されない点である。
フィッシャー教授は、①独占力はどのように画定されるか、②ネットワーク効果の役割は
何か、③反競争的行為とは何か及び④独占の拡張と維持の 4 つの経済学的側面を提示し、そ
れによりマイクロソフトの行為の経済学的分析を行った。
(3)マイクロソフト側による反対尋問
本訴訟は、審理の迅速化を図る観点から、証人の証言は文書で提出され(ウェッブサイト
でも公表され)、法廷での陳述はそれを基にした反対尋問から始まることとされた。司法省
側証人に対するマイクロソフト側反対尋問がまず行われた。
ワレンボルトン博士に対する反対尋問においては、リナックス(Linux)の競合性、AOL
によるネットスケープの買収、AT&Tとマイクロソフトの交渉などが取り上げられ、マイ
クロソフトの独占力の有無に関する証言について、業界の実態の認識の信憑性が問題とされ
た。
フィッシャー教授に対する反対尋問においては、コンピュータ業界・ソフトウェアの実態
に関する知識の有無などが取り上げられた。さらに、司法省側からの質問に応えて、ウィン
ドウズの略奪的価格設定・独占力維持確保の考え方の説明がなされた。
また、フィッシャー教授は、6 月の再尋問において、将来の競争者の考え方は独占力を否
定することにはならないこと、多額の開発投資の回収計画の不存在性を主張した。
(4)マイクロソフト側主張
マイクロソフト側は、リチャード・シュマレンジー教授の証言を提出した。
シュマレンジー教授は、次の 9 点を主張した。
第一に、消費者は、マイクロソフトの採った活発な競争の結果、利益を得た。
第二に、マイクロソフトは、原告の主張するPCのOS市場又はその他のいかなる関連市
場においても独占力を有していない。
第三に、原告の反競争的行為の理論に基づくとしても、マイクロソフトがPCのOS市場
で独占であるという主張は本筋から外れている。
第四に、マイクロソフトのネットスケープ配布妨害は事実上存在しない。
第五に、マイクロソフトは反競争的な抱き合わせを行っていない。
第六に、マイクロソフトは略奪を行っていない。
第七に、マイクロソフトのインターネット閲覧ソフトウェアが成功したことは、ネットス
ケープの自ら又はサンの Java との融合による、ソフトウェアの革新を何ら妨げるものでは
ない。
第八に、AOLによるネットスケープの買収とAOLとサンの提携は、フィッシャー教授
とワレンボルトン博士の主張したマイクロソフトの企図しているという略奪戦略が合理的
に成功する余地のないことを示すものである。
第九に、原告の提案する救済は、消費者と競争を害するものとなる。
(5)司法省側による反対尋問
シュマレンジー教授に対する反対尋問においては、証言の中での調査の信憑性(マイクロ
ソフトからの依頼による偏ったやり方の調査である疑問)、独占についての考え方を記した
1982 年・87 年の自らの論文と証言との矛盾、ネットスケープに対する認識などが取り上げ
られた。
(6)事実認定の概要
連邦地裁のジャクソン判事は、マイクロソフトの独占を認める事実認定を公表した2。そ
の基本メッセージは、マイクロソフトはパーソナルコンピュータOS市場を独占しており、
その独占力を不正に利用して競争を阻害したというものであった。次の 8 つの点からこれを
詳細に認定している。①独占力の認定、②市場シェア、③参入障壁、④明らかなウィンドウ
ズの代替品、⑤価格戦略・侵害防止・長期的脅威の排除・技術革新、⑥ミドルウェアの脅威、
⑦ブラウザの脅威、⑧参入障壁適用の消費者への影響
3.米国の法廷における専門家証言について
(1)ダウバート基準
米国の証拠法則は、訴訟の専門家である判事が自由心証主義で判断を下す日本と異なり、
陪審制が採用されていることもあり、信頼性・関連性・伝聞証拠排除など、手続的な証拠適
格性を厳格に運用する傾向にある。こうした米国証拠法則の議論の中での専門家の証言が法
廷で証拠として認容される判断基準について、通称ダウバート判決と呼ばれる連邦最高裁判
決がある3。
1993 年に、ベンデクティンという つわりを和らげる薬の薬害訴訟で、専門家の証言に関
し、証拠として採用されるためには、次の 4 つの要件を含む、連邦規則 702 条によるべきで
あると判示された。
①その理論又は技術がテストできるか、テストされたか
②それが同分野の者からレビューされ公表されてきたか
③その知られている又は潜在的な、誤りの割合(誤差率)及びその検討がなされたときに基準
が存在して維持されているかどうか
④関連する科学分野において幅広く受け入れられているかどうか
この判決で、それまでの自称専門家による大げさな証言を排除する一方で、関連分野にお
いて信頼できるものとして一般に受容されているかどうかという厳格すぎる基準をも律し
た、効果的な整理がなされた。
2
http://usvms.gpo.gov/findings_index.html 参照。
3
Daubert v. Merrell Dow Pharmaceuticals, Inc., 509 U.S. 579 (1993)
(2)その後の展開、連邦証拠規則 702 条
その後も専門家の証言に関し、GE 対ジョイナー事件(1997 年)4では、第一審裁判官の裁量
が大幅に認められ、クムホ・タイヤ対カーミカエル事件(1999 年)5では、上記判示が科学理
論上の知識だけを対象としているか、技術等の経験まで含むものであるかが争点となり、上
の原則は科学者だけでない技術者その他専門家の証言にも適用されると判示されている。
また、連邦証拠規則 702 条はこうした流れを踏まえて、2000 年 12 月から改定され、すべ
ての専門家の証言は、(1)十分な事実又は証拠に基づいたものであること、(2)信頼できる法
則及び手法によってなされたものであること、及び(3)法則と手法が事件の事実に信頼できる
ように適用されていることを示すことが必要とされるようになった(信頼性、関連性、適合
性)6。
(3)反トラスト訴訟での留意点
こうした専門家の証言の有効性に関しては、これまでにも反トラスト訴訟に関しては経済
学者の証言の取扱いをめぐって一つの論点となっていたが、近年の連邦最高裁判決での法の
進展の評価が反トラスト法関係の経済学者でも議論となっており、米国法曹協会反トラスト
部会機関誌や米国経済学会の総説誌でも特集が組まれている7。
そこでは、例えば、①ダウバートの原則により高集中度が市場力をもたらすという推定は
攻撃され得る対象となってきていること、②ダウバートの原則の下での専門家の選択と業務
を行う際の注意点、ダウバートの原則を活用した被告側代理人からの専門家への攻撃し得る
ポイント、③ダウバート原則は新しい経済学の発展と訴訟への活用を阻害しているかについ
て更なる適合性を目指した彫琢が進んでいること、そして、④ダウバート原則の下でのポス
トシカゴ経済学の位置付けとして有用な企業行動についての見方は提供しているが説明力
が高くない点から適合性に問題があり訴訟への応用にはまだ時間がかかるとされている点
が議論されている8。
4.日本の訴訟における経済学の取扱い
(1)経済学活用の少なさ
日本の訴訟で経済学が使われることは多くない。ある経済的行為を経済実態の中で判断す
る経済法(独占禁止法)の訴訟において多くないだけでなく、損害賠償請求訴訟における損害
額の算定等で慰謝料額が低額であった原因、名誉毀損行為の予防ないし抑止の観点について
検討されるときにも経済学が用いられることはほとんどない9。
4
General Electric Co. v. Joiner, 522 U.S. 136 (1997)
5
Kumho Tire Co., Ltd., et al. V. Carmichael, et al. 526 U.S. 137 (1999)
6
例えば、http://www.law.cornell.edu/rules/fre/overview.html 中の Rule 702 参照
7
Antitrust Magazine, Volume 17, Issue 2 及び The Journal of Economic Perspectives, vol.
13 no.2 参照
8
米国法曹協会反トラスト部会エコノミスト委員会ニューズレター2001 年第 1 号参照<
http://www.abanet.org/antitrust/committees/economics/v1n1.pdf>
9
司法研修所「損害賠償請求訴訟における損害額の算定」判例タイムズ No.1070 特集損害賠
(2)経済法訴訟における経済学的概念を用いた法的判断
経済法の訴訟において経済学的論点が争点となり、法律上の判断が下された事例は多くな
い。例えば、独占禁止法の基本的概念である「競争の実質的制限」については、「競争の実
質的制限とは、競争自体が減少して、特定の事業者または事業者集団が、その意思で、ある
程度自由に、価格、品質、数量、その他各般の条件を左右することによって、市場を支配す
ることができる形態が現れているか、または少なくとも現れようとする程度に至っている状
態をいう」とされたことがある10。この説明では「競争自体が減少」することが、競争者数
が減ることか、競争の頻度が減ることか、競争的な提示の内容が減ることか、不明であるほ
か、「各般の条件を左右することによって、市場を支配」することが、ある者が市場から最
大の利潤を得られる状態と見ることができるだけで、その中長期の厚生分析や、実際に競争
者が競争的行動を採るときの既存業者の最適行動の検討はなされていない。
また、例えば、垂直的取引制限に関して、メーカーによる小売業者に対する中古品取扱い
禁止行為の公正競争阻害性について、審査官側は(再販売価格維持行為と同時になされるこ
とにより、)この制限でブランド内競争が減殺されて新品の価格が維持され、また、有力メ
ーカーが行うことにより中古品取扱い市場自体が制限されるとし、被審人側は、立証不足、
一般的に中古品と新品とは競合していない、こうした制限は著作権法上認められている、か
つ、投下コストの回収ができなくなると主張した。これらに対する審判官の判断としては、
新品と中古品との競合関係を販売業者の認識等の証拠から認め、一般的な中古品市場競争の
制限まで認定して、再販売価格維持行為の実効的な実施に寄与したとしたが、他方こうした
制限が独立の違反行為となるには中古品市場の状況、販売業者への影響、一般消費者の購買
行動が必要との指摘もしている11。ここでは、証拠を基にした経済学的な議論がなされてい
る。
(3)日本の訴訟における専門的知見の取扱い
これまで訴訟で用いられてきた経済学以外の専門的知見には次のものがある。知的財産権
関係、医療関係、建築関係(建築瑕疵・請負代金請求等)、コンピュータ関係、商品先物・証
券取引関係で専門的な知見を必要とする訴訟運営について取組がなされている。そして、専
門部(東京高裁・大阪高裁知的財産権関係、東京地裁医療集中部)、裁判所調査官(工業所有権
関係の東京・大阪地裁)、鑑定、調査の嘱託、専門委員制度、審理モデルの策定等様々な形
で訴訟運営の改善が検討されている(山下、岩口、渡部(2001))。これらは、訴訟遂行者(判事、
双方代理人)に、事実関係についての専門的知識がないところを補い、争点の整理に役立た
せることが目的とされている。
(4)訴訟における法的判断の基本構造と経済学的考え方
償請求訴訟における損害額の算定参照
10
東宝スバル事件判決(東京高等裁判所、1951 年 9 月 19 日、高民裁 4 巻 14 号 497 ページ)
11
ソニーコンピュータエンタテインメントに対する件(公正取引委員会審決、2001 年 8 月 2
日、平成 10 年(判)第 1 号)
訴訟における法的な考え方の枠組として、ある事実が、任意のできごとについて予め定義
した幾つかの概念に含まれるかどうかを整理・分類する要件事実論12と、ある事実があった
かどうかを定める事実認定論がある13。また、事実認定の中では経験則と称する経験に基づ
く推論といった考え方が用いられている。
上記(3)の専門的知見の活用は、この事実認定部分で用いられているものであり、個別事案
の勝敗に直接影響してくるものである。他方、(2)で用いられている経済学的考え方は、いず
れも要件事実部分で用いられており、判断基準の検討の際に使われている。法律上の構成要
件が抽象的であり経済学的考え方が用いられる余地があるためかもしれない。
(5)経済学的概念を訴訟で使うことの難しさ
法的判断と経済学的概念に関し、各々の典型的な考え方の枠組を提示して、その相性なり
を一般的に推測することはできるが、そこでは対照標準を用いた実験は難しく、少ない実例
からの当てはめをすることになりかねない14。ここでは経済法の訴訟の簡略な経緯を紹介し
たい。
1947 年制定された独占禁止法は、長く公正取引委員会により消極的に運用されていたが、
オイルショック後 1977 年強化改正され運用も積極化され、その後貿易摩擦期を経て今日ま
で変わらず執行充実化が図られている。独占禁止法の行政措置や関連の訴訟は、公正取引委
員会中心主義が採られており、判審決は多くなかった。そうした中で、経済学的主張が論点
とされ、その判断が判審決の理由中に明示されたものは少なく、それが争点について新奇な
主張を避ける傾向にある双方当事者にとって経済学的主張をしにくくさせており、それがま
た判審決における経済学的概念の明示を少なくする要因となっていたという循環が起きて
いた。この判審決が少なかったことによって、構成要件の判断基準や経験則が確立しにくか
った面もあり、このことが今日でも経済学的考え方が主として要件事実部分で用いられるこ
とにもつながっている。
(6)考えられる分析方法
法的な判断は、その前提となる証拠や事実関係が事件ごとに千差万別であり、そこに共通
12
「要件事実は、ある法律効果の発生要件に該当する具体的事実であり、この事実が何であ
るかを理解しないで、当事者が民事訴訟において主張する各種の法律効果の発生の有無を判
断することは不可能である。」とされている。司法研修所『増補 民事訴訟における要件事
実第一巻』法曹会 1986 年 1 ページ
13
法律上の事実推定として法的価値判断に基づく事実の創造であり(伊藤滋夫『事実認定の
基礎』有斐閣 1996 年 255 ページ)、事実的因果関係の証明については「高度の蓋然性」が必
要とされている(ルンバール事件最高裁判決、昭和 50 年 10 月 24 日、民集 29 巻 9 号 1417
ページ)。
14
例えば、日本法は大陸法系であり、(経済学が活用されている)英米法とはシステム的に異
なっているとか、訴訟は過去の歴史的事実を確定するもので、仮定に基づく経済学とは相容
れない等、様々なイメージでの議論ができ、それぞれにもっともらしい実例を挙げることが
できる。
する一般的な命題として理由付けの法律判断と称されるものであっても、コントロールした
状況を設定し、分析対象とすることは難しい。しかしながら、「他の専門的知見を必要とす
る分野の訴訟での専門的知見の活用の度合いと比較して、経済法の訴訟において経済学的考
え方が議論されることが少ないのは、訴訟中の要件事実論に際して新奇な主張の採用が難し
いからである。」という命題に関しては、例えば、判審決文中の「経済学」「生理学」等の
用語の使用頻度・場所の分析、引用論文等の分析、上告後の法律審で事実認定以外の部分が
審理される割合の比較検討等の方法が考えられる。
5.経済学活用の必要条件・十分条件
(1)経済学的考え方の活用のための条件
要件事実を補完するものとしての(又は精密な事実認定の方策としての)経済学的考え方は、
訴訟上の法的判断の根本の部分に関係してくるものである。実際にこれまで活用が少なかっ
たことからも、法律家にとって経済学的考え方の理解・活用は容易ではなく、またエコノミ
ストにとっても訴訟への専門的知識保有者としての参入の手法・目的の検討が必要である。
訴訟における経済学的考え方活用への需要側(法律家)と供給側(エコノミスト)の条件を考え
る。
(2)法律家の見方
需要側の法律家にとって、訴訟の中で経済学を活用するための十分条件としては、実際に
訴訟における主張・立証の中で経済学的考え方を理解し、それが有用なツールであると認識
できていることが、まず前提となる。さらに、経済学活用が必要条件となるためには、現実
の主張立証活動・実際の法廷の中で経済学的考え方が主要な争点となり、それを理解して適
宜適切に用いることができないと不利になる局面がしばしば生じてくることポイントであ
る。
(3)エコノミストの対応
訴訟で経済学が使われてくるには、需要側の要因だけでなく、供給側のエコノミストが訴
訟に提供できる経済学の枠組を開発し、使える状態で準備ができていることが十分条件とな
る。さらに、道具だけがあっても、その使い手が訴訟に関与せねばならない状況がないと、
その道具を有効に適用することができない。すなわち、エコノミストが訴訟に関係するイン
センティブを有していることが必要条件として重要となっている。
(4)適応と競争
経済学的考え方を活用していない訴訟の現状は、これまで多くの主体による司法システム
の経緯の中で適応と淘汰により築かれてきたものであり、法的思考の統一性・首尾一貫性に
基づく社会の安定化・信頼関係の維持発展に寄与してきた。ここに経済学的考え方を組み入
れていくことは、既に固まっている訴訟様式に新しい考え方を導入して、競争を創り出して、
よりよい訴訟における判断を目指そうとするものである。
6.訴訟で経済学が活用されることの経済学への効果
(1)産業組織論の流れ
産業組織論は、この 25 年以上にわたり大きく発展してきた。それ以前の実証中心的な流
れは、理論的な経済学を中心とするものに変わっている。この理論面での発展で産業組織論
は大きく得るものがあった。他方、 実証研究は理論の流れとは異なって進んできた。した
がって、数十年前には実証分析が理論の枠組を作っていたが、その後の理論の進展は実証分
析のペースを遙かに上回るものであった。このため、今日、産業組織論は、特別な状況の下
でのみ適用される理論であるとして「現実世界」の要素に対しての十分な対応が無いと批判
されることがある。
(2)こうした流れの要因
これは、経済学者による、独占禁止法執行の実務に適用することができないような理論の
発展にも責任があるのかもしれない。そして政策当局者や実務家による発展する理論面への
配慮不足といった要素もあるのかもしれない。また、独占禁止法執行・競争政策に関連する
問題に関する調査で公式に利用可能なデータは、一般的に極めて限られたものであり、現実
に即した研究が難しかったからでもあった。例えば、市場シェア又は価格(実際の取引価格)
に関するデータは、ほとんどの産業で公式なものとして容易には利用可能なものではなかっ
た。
(3)訴訟で経済学が活用される効果
今後、訴訟の中で経済学が活用されていくとしても、訴訟資料の公開性の問題もあるので
具体的事件の議論が経済学の学問的進展に直結するものではない。抽象的には、訴訟の中で
の主張を固めるために行う検討が、経済学上の新たな論点を提供し、その問題の解決が発展
の契機となるとは言えるが、実際には、訴訟の中で経済学が使われることによって経済理論
が現実から遊離したものとならない「かすがい」となっていくことが、経済学の立場から見
た訴訟で経済学が活用されることの重要な意味となるであろう。
(4)具体的な事例と理論展開
この実例は、2.で述べてきたマイクロソフト訴訟でも実現している。例えば、ネットワー
ク効果に対して経済学的視点による、その原因、効果、対策等について議論がなされた。そ
こでは、ワレンボルトン博士は、あるものの使用者にとっての価値がその総使用者の数が増
えるほど増えるようなものと定義し、FAXや短・長距離電話を事例に挙げている。フィッ
シャー教授は、ある製品の顧客にとっての魅力が他社によりその製品が使われていることで
増すような現象としている。シュマレンジー教授は、ネットワーク効果がワレンボルトン博
士の定義するものとしても、その対象の首位の者との切り替え費用に依存するもので、互換
なインターフェイスを備えることによりネットワーク効果は生じないとしている。これらに
対して、地裁の事実認定は、ポジティブ・ネットワーク効果として、製品の魅力がそれを用
いている人の数が増えることによって増加する現象であると認定しており、この認定に基づ
いて、実際にたくさんの人がウィンドウズを使っていることが消費者に魅力になっていると
した。こうした議論は、近年の規制の経済学・ネットワークの経済の分析の発展の中でも有
効に活用されている。
なお、このように、理論的な観点と同時に極めて実際的な見地から分析を提供できるのは、
公判でも反対尋問で批判されている場面もあったが、ここで証言台に立った各エコノミスト
がコンサルタント等として、実際にビジネスに携わっており、いわゆる象牙の塔の学者では
ないことも一つの要因かもしれない点は指摘できる15。
7.経済学が訴訟で活用されることについて
(1)モデル
簡単な 2 分野、2 財、2 生産要素モデルを用いて、そのインプリケーションを考えてみた
い。モデルを用いるのは、仮定の当てはまりと導き出される分析のもっともらしさが、今後
の検討に有益なものとなることを期待するためである。
国際貿易で用いられるヘクシャー=オリーン・モデルを利用して、2 国の代わりに、2 分
野(法廷、経済学界)、2 財として 2 つの技術能力(法的考え方、経済学的考え方)、2 生産要素
については 2 種類の技術能力を生み出すもの(法的訓練、経済学的教育)を考える。
仮定としては、次の 5 点が必要とされる。①両分野での生産要素は固定されていて、その
賦存比率が異なるものであること。②それぞれの技術能力の生産は完全競争下で、かつ、規
模に関して収穫不変であること。③技術能力の需要は、ホモセティックであること(所得弾
力性が 1 で、所得水準にかかわらず同じ比率で受容されること)。④両分野の移動性は、技
術能力は移動可能だが、それを生み出すものは分野間の移動はできないこと。そして、⑤モ
デルは静学的であり、分野間不均衡の持続等は起こらないこと。
(2)モデル分析のインプリケーション
ストルパー=サミュエルソンの定理により、「生産要素賦存量一定の下、経済学的考え方
(法的考え方)の相対価格が上昇すると、経済学的教育への支払いはそれ以上に上昇し、法的
訓練への支払いは下落する」ことが示される。
また、同様にして、リプチンスキーの定理や要素価格均等化定理からも興味深いインプリ
ケーションを導くことができるが、ヘクシャー=オリーンの定理からは「経済学的教育(法
的訓練)が相対的に豊富な経済学界(法廷)は、経済学的考え方(法的考え方)を輸出する」こと
を示すことができる。
これらは、直感的に見ても、エコノミストは経済学的考え方を法廷において活用させるよ
うなインセンティブを有しており、それは、そうすることによって自らの得るところが大き
くなるということである。経済学モデルを用いて得たインプリケーションらしいものとなっ
ている(逆の意味からは法的考え方も同じなのであるが)。
(3)実証分析
国際経済学の分野では、これら定理は様々な角度から実証分析が行われているが、法と経
15
ワレンボルトン博士は MiCRA(マイクロエコノミック・コンサルティング・アンド・リサ
ーチ・アソシエイツ)の主宰であり、フィッシャー教授もチャールズ・リバー・アソシエイ
ツの会長である(http://www.cra.com/)。また、シュマレンジー教授もナショナル・エコノミ
ック・リサーチ・アソシエイションの会長である(http://www.nara.com/)。
済学の観点から、法廷における経済学活用についてこれまでなされた分析は多くない。判決
の予見可能性をゲーム理論を用いた研究(松村、松島(1999))の手法を活用するなどして、経
済学が活用される訴訟や経済学者が専門家として関与した訴訟の詳細な分析と、その事件
数・関与者数と法律家・エコノミストの人数比の推移等幾つか実証的研究の手法も考えられ
る。
8.おわりに
本研究では、日本の法廷における経済学の活用のされ方について概観し、その用いられ方
の原理・法則について考えた。訴訟上の因果関係の立証については、一転の疑義も許されな
い自然科学的証明ではないという見方があるが、科学者は、おおむね、現在の理論の中で、
もっともよく現象を説明するものを「正しい理論」としてきたのであって、せいぜい誤差率
の範囲を含んだ上での当座の正しい理論という考え方が自然科学的な概念である。経済学が
範を取っている自然科学の考え方の最良の部分は、現実を合理的に理解しようとする姿勢と、
経験的な証拠と論理性を重んじるという広い意味での科学の方法である。そして、この点は、
訴訟において求められているものとも符合するものであり、経済学の合理的考え方を適切に
活用することによって、よりよい訴訟判断ができていくことが期待される。また、そのため
に、更に様々な角度から、訴訟における経済学の使われ方を分析することが今後の課題であ
る。
References
<Websites>
http://usvms.gpo.gov/findings_index.html
http://www.abanet.org/antitrust/committees/economics/v1n1.pdf
http://www.law.cornell.edu/rules/fre/overview.html
http://www.microsoft.com/presspass/legalnews.asp
http://www.usdoj.gov/atr/cases/ms_index.htm
<Cases>
Daubert v. Merrell Dow Pharmaceuticals, Inc., 509 U.S. 579 (1993)
General Electric Co. v. Joiner, 522 U.S. 136 (1997)
Kumho Tire Co., Ltd., et al. V. Carmichael, et al. 526 U.S. 137 (1999)
東宝スバル事件判決(東京高等裁判所、1951 年 9 月 19 日、高民裁 4 巻 14 号 497 ページ)
ソニーコンピュータエンタテインメントに対する件(公正取引委員会審決、
2001 年8 月2 日、
平成 10 年(判)第 1 号)
ルンバール事件判決(最高裁判所、昭和 50 年 10 月 24 日、民集 29 巻 9 号 1417 ページ)
<Journals>
“Working with Economic Experts,” Antitrust Magazine, Volume 17, Issue 2, Spring 2003
“Symposia; Economists as Expert Witnesses,” The Journal of Economic Perspectives, vol.
13 no.2, Spring 1999
司法研修所「損害賠償請求訴訟における損害額の算定」判例タイムズ社『判例タイムズ』
No.1070 特集損害賠償請求訴訟における損害額の算定,(2001.11.15)
松村敏弘、松島法明「訴訟確率と判決の予見可能性」大蔵省財政金融研究所『フィナンシャ
ルレビュー』March 1999
山下寛、岩口未佳、渡部五郎「紛争類型別審理モデルについて」判例タイムズ社『判例タイ
ムズ』No.1072, (2001.12.15)
<書籍等>
司法研修所『増補 民事訴訟における要件事実第一巻』法曹会 1986 年
伊藤滋夫『事実認定の基礎』有斐閣 1996 年