観光学研究 第 5号 年 3月 200 6 57 『観光財としての美術館と文化』 萬 崎 規 子 はじめに 世界中の人々は、グローバル化・情報化社会が進展するなかで暮らしている。特に先進国では経 済的に豊かな生活を営んでいる。しかし、現代社会を冷静に 析すると経済的レベルは向上し、物 や情報は簡単に入手できることが、返って人間が人間らしく生きられない環境をつくりだしてし まったようである。 人間の生活を取り囲むものは各国において異なるのは当然である。しかし、人間の本質という部 においては人類共通であると える。したがって、その根底を支配するものは世界共通なのでは ないだろうか。 人間は美しい物を見たとき美しいと感じ、すばらしい音楽を聴いたときには涙を流すほど感激す るものである。このような享受能力を身につけることが、人間が人間らしく、心豊かな人生を送る ために必要なのではないだろうか。このような感情を維持するために、芸術はわれわれに大きな貢 献をしていると思われる。 本論文を通して、価値の一元化がすすむ社会の中で、大英博物館とルーブル美術館の成立過程を 検討することによって芸術と人間との関係をあきらかにしてみたいと思う。 コレクションのはじまり 古代におけるコレクションは、戦勝者が凱旋記念として持ち帰ったものであった。また戦士たち は、その報償として財宝や美術品を権力者から贈呈されたのである。 現在、イタリアは世界でも屈指の美術品の宝庫であり、芸術の都である。これは、彼らが古代か らヨーロッパ中の国々と 流(支配)することで、芸術に対する真贋を見 ける能力を養い深い教 養を身につけるに至った結果ではないだろうか。古代ローマにおいては、戦利品は社会の支配層が 自らの宮殿や 園を飾るものとして活用したのである。こうしたコレクションの中には、個人の美 術館と呼ぶにふさわしいものもあったと伝えられている。 中世における美術品の運命は、教会という権力下で不自由なものであった。元来キリスト教にお いては偶像崇拝が禁止されていたので、ギリシア・ローマ時代の芸術は神に反するものとして、疎 東洋大学国際地域学部;Fa c ul t yofRe gi onalDe ve l opme ntSt udi e s ,Toy oUni v e r s i t y 観光学研究 第 5号 200 年 3月 6 5 8 まれたのである。したがって、ギリシア・ローマ時代に賛美されていた人間の本来の姿を表現する 芸術は、人々に許れなかったのである。 そこで、中世における芸術は全てキリスト教の布教のための聖書を題材にしたものに限られてい たのである。教会は地域社会の中心としての大きな役割を果たし、単に宗教美術のコレクションさ れる場所というだけではなく、古代ローマのカラカラ浴場などのような場所でもあった。教会の 命は広く一般の人々にキリスト教を広めることにあった。しかし、聖書を読むことのできない大衆 にキリスト教の教えを説くことは困難な仕事であった。そこでキリストの教えを寓意に満ちた絵画 として表現することで布教の目的を果たそうとしたのである。このため教会には天井や床・壁など に絵画がところ狭しと描かれているのである。 古代ギリシア・ローマの神殿と同じようにキリスト教の教会においては宝物庫を持ち、金銀財宝・ 美術品などを陳列・保管していたのである。この時代は私有財産、特に財宝や美術品等のコレクショ ンは神の教えに反することと えられていた。したがって、多くの富裕層はその信仰の篤さを示す ものとして、教会に儀式用の聖杯や司教たちのために司祭服を寄進したのである。他方、財をなし た商人たちは、国外から入手したあらゆる珍品を奉納することになったのてある。このようにして 教会の宝物庫には世界中の金銀・財宝・珍品・美術品が集積されていったのである。イタリアのロー マにあるヴァチカンのコレクションを一見したことのある人々は、前述のことは周知のことと思う が、これは中世における教会の権力と威信を示唆するものである。ヴァチカンは言うまでもなくカ トリックの 本山である。したがってそこには世界中の信徒から寄進や奉納が絶えることがなかっ たと えられる。このようにしてヴァチカン・コレクションは教会の宝物庫からはじまったのであ る。 一方、中世以後のヨーロッパでは、王候・貴族のプライベート・コレクションが見られるように なった。彼らは、教会や教皇のように権力や富をもちあわせていなかったので、できる限りお金の かからないものを収集したのである。彼らが競って集めたものは、自然科学 野のもの、あるいは 珍奇な機械類であった。このような型のコレクションは、特に北ヨーロッパの小君主たちの間でさ かんにおこなわれていたようである。 このようにコレクションという行為を通して王候貴族たちは、 ギリシア・ローマの美術・工芸や彫刻と遭遇したのである。これが、ルネサンス運動の契機となり、 人文主義的思想へと発展していったのである。彼らは人間中心の芸術に憧れ、回帰を望むようになっ たのである。このようにして人文主義は、これまでのコレクションを体系化させるために大きな貢 献をし、後に新しい美術館の概念を生み出すことになったのである。 大英博物館とルーブル美術館 周知のように大英博物館は、長い歴 の中で大きな変貌を遂げてきた。そして、増々その歴 的 な存在意義をたかめていったのである。新しい大英博物館その 物自体には大きな変化はみあたら ない。しかし、内部の変貌はまさに2 世紀にふさわしいものとなった。このように内部が大改造さ 1 萬崎:『観光財としての美術館と文化』 れた大英博物館の 59 草期にみられるイギリス人の文化に対する思想を以下において 察してみたい と思う。 大英博物館は周知のように、当時医者として、また科学研究家として有名なハンス・スローン の動植物や鉱物の標本・或いは古貴物等の遺品が英国王ジョージ二世に寄贈されたことに始まると 言われている。 大英博物館の 始者ハンス・スローンは、1 年にスコットランド人の 66 0 のもとに 7人兄弟の末っ 子として生まれ、その 親は北アイルランドの貴族のロード・クランジボーイの管財人を務めてい たと言われている。ハンスは幼少のころから知識欲や物事に対する好奇心の旺盛な子供であった。 彼は、1 6歳の時に大病をして、一時は命も危ぶまれたのである。しかし、この病気療養の時期に 彼は将来の職業に対する自らの適性を確信することとなったのである。22歳になった彼は、ロンド ンで薬剤医師になるための勉強をしたが、ここでの学習だけでは十 でないと え、フランスに渡 り、正規開業医となるため医学を修め、学位を取得したのである。そして2 4歳になると、ロンドン に帰り開業医となった。 1 7世紀末のロンドンでは、ドクターと呼ばれる人はほんの少数であったので、彼はまもなく有名 になり、2 7歳にして、医学 の特別研究員となった。 その後、ハンスは、1687年西インド諸島のジャマイカ 督の侍医として随行することになり、彼 はそこで植物・生物などの蒐集をし、いくつかの島で学術的調査も行った。 それから帰国後、彼は王立学士院の幹事となり、名門 クライスツ・ホスピタルの医師に任ぜら れた。また、西インド諸島での学術調査の成果を著書にして刊行し、国内外から絶賛されることに なったのである。 当時ハンスの別邸は、「ミュージアム・アンド・ライブラリー」と呼ばれるほど、博物資料、書籍 等が収められていた。それだけではなく、古美術のコレクションも数万点に及んでいたといわれて いる。 ハンス・スローンは遺書の中で多くの歳月をかさねて蒐集した物をすべて国家に寄贈するとした 、 ためたのである。 (ただし、二人の娘に、それぞれ一万ポンドずつの年金を国家より申し受くべきこ 、 とが条件として付け加えられていた。) 1 753年、ハンス・スローンの遺書に示された案件は国王ジョージ 2世が承認するところとなった。 そして12 月には大英博物館設立準備のために会議が開かれ、順調に博物館設立にすべり出したかの ように見えた。 ところが1 8世紀のイギリスは度重なる戦争のため国家財政は 窮していた。したがって、大英博 物館の 設が国家予算ではまかなえなかったので富くじを発行しその売り上げを設立費用に充当し たのである。 こうして設立された大英博物館は、 設当時から現在に至るまで入館料は無料でかつ多くの善良 な市民による寄贈から成り立っているのが特色である。 他方ルーブル宮殿は、119 年頃、カペー朝のフィリップ 2世(オーギュスト)国王が、イギリス 0 観光学研究 第 5号 200 年 3月 6 6 0 王リチャード 1世の攻勢を憂慮し、ルーブルと呼ばれた地域に要塞を 設したことに始まる。もと もと戦闘目的に 設されたルーブル城ではあったが、12 95年、フィリップ 4世がそこに王室の財宝 を収蔵したのである。 百年戦争が終わり、シャルル 8世の時代からフランスは文化的に大きく変貌していくのである。 特に、中央集権によって高まりつつあった国内の不満のはけ口をイタリア侵攻に求めたのである。 しかし、この遠征は全て失敗に終ったのであるが、イタリア・ルネサンス運動に感動したフランソ ワ 1世が、ルーブルを王宮にするため、また宿泊できるよう城を修理したのである。これによって、 パリとルーブルの運命は一変することとなった。 彼はこの戦争でイタリアを強く意識するようになり、新たな芸術の都、パリをつくろうと フランソワ 1世は、実際ルーブル美術館の えた。 といわれるにふさわしい人物であった。当時王のコレ クションは、フォンテーヌブロー宮に収められていた。そこには、レオナルド・ダ・ヴィチ、ラファ エロ、ティツアーノらの絵画が展示されていた。 アンリ 4世は、フランス歴代の王の中で大衆にもっとも愛された国王の 1人である。彼は宗教戦 争で中断されたルーブル宮殿の改修工事を再開した。そしてルーブル宮の面積・中 の拡張を行っ たのである。彼はフランソワ 1世にならって王権を強化し、パリを調和のおれた芸術の都に発展さ せたのである。 1 608年以降、アンリ 4世は多くの芸術家や職人たちをグランド・ギャラリーに住まわせ、彼らが すぐれた作品をつくれるようにとりはからった。しかし、アンリ 4世は、1 610年フランソワ・ラヴァ イヤックによって暗殺されたのである。 アンリ 4世の えた宮殿・中 の拡張工事は太陽王(ルイ14 世)の時代に実現されたのである。 ルイ14世は大コレクターであった。しかし、ルイ1 3世の枢機 であるリシュリューや、その後継者 となったマザラン(イタリア人)も、まさるともおとらぬ高価なコレクションを残こしていた。こ れらは遺贈されたり購入されたりして、現在は国家のものとなっている。 1 747年には、ルーブル美術館の クションを 生にあたりもっとも重要な出来事があった。それは、王室コレ 開展示せよとの要求により、1750 年秋にリュクサンプール宮で王家のコレクションが 開展示されたのである。 ルイ16 世の時代フランスでは経済が急速に発展し、彼がいただくアンシャン・レジームは、社会 の劇的な変化に対応できず、革命によって崩壊するのである。 このフランス革命(1789年)によって、歴代の王が所有していたコレクションは、国有化され、 国家の下で管理されることとなるのである。また一般大衆を搾取してきた貴族・教会・僧侶からも 多くの美術品が強制的に拠出させられ新政府の所有するところとなった。 前述のようにルーブル美術館のコレクションは着実に進められていった。そして最後の仕上げを したのが皇帝ナポレオンであった。彼はアンリ 4世の計画をさらに壮大なものにした。それは彼が 戦利品として手に入れた多くの美術品を収蔵する場所を必要としたためであった。 このようにして 生したルーブル美術館はフランスの帝国主義がもたらした所産であった。 、 。 萬崎:『観光財としての美術館と文化』 61 前述のように、ルーブル美術館は王家の至宝が革命によって国家の所管するところとなり、国民 に一般開放されたのである。それに対して、大英博物館はひとりの市民のコレクションが基礎とな り一般市民に 開されることとなったのである。このように両者は全く異なった歴 的過程を経て 今日に至っている。 このような知的財産は、本来国家といったイデオロギー的存在がその指導的役割を果たすのでは なく、一般市民による中立的な運営が望ましいと えられる。 したがって、大英博物館のように個人の寄付や善意によって成立するのが将来の博物館や美術館 のあり方や運営にとって、良い結果をもたらすのではないだろうか。また国家権力から開放された これらの運営が本来の文化財としての美術館の望ましち姿と言えよう。 メセナと文化 われわれが現在 用している「文化」という言葉は、西欧語(c )の翻訳で、明治以降日本 ul t ur e 語として定着した言葉である。文化という言葉は本来自然に対立する概念である。したがって人間 が自然を耕作して新しい価値を 造することが文化の本来の意味である。 例えば、バブル経済はなやかなりし頃、 「メセナ」 という言葉が流行した。これは要するに「芸術・ 文化の保護・後援に尽力する団体・組織」といった意味に解されたものであるが、金あまりの日本 の企業が社会貢献の 1つとして行ったのは事実である。しかし、バブル経済が崩壊すると、こうし た活動を中止するというのでは、単なる企業の宣伝広告のようなもので、メセナの本質的な姿勢で はないといえよう。 ところで、芸術・文化が社会や個人に与える影響は計り知れないものがある。これらがもつ社会 的効用は即効性はなく、長い年月(歴 )の中で発揮され、浸透していくものである。 日本におけるメセナは、企業という利潤追求を目的とする組織がそのイメージ向上のためのひと つの戦略として行ったもののように映る。企業という資本主義の象徴のような団体がメセナの中心 を担っていることはまか不思儀な現象といえる。その証拠に、日本におけるメセナはバブル期にお ける一過性のものとして姿を消してしまったのである。 本来メセナは、周知のように芸術文化の擁護・支援のことであり、その支援者が誰であるかを問 う必要はない。しかし、企業イメージの向上や個人の自己満足のために行われているとすれば、そ のメセナのあり方は 慮しなければならない。 したがって、バブル崩壊によって、その支援が出来ないというのであれば、当時のメセナ自体が 問題なのである。 残念ながらわが国の文化水準は、西欧と比較すると決して高いとは言いがたい。小泉内閣によっ て、防衛庁が防衛省に格上げされそうな気配である。しかし、文化庁が文化省へ昇格するといった 議論は話題にもならないのである。このことは日本の美術館 生の歴 にも顕著にあらわれている。 また日本の指導者たちの文化に対する蘊蓄のなさが、日本が文化国家としての地位を築けない大き 観光学研究 第 5号 200 年 3月 6 6 2 な原因であると えられる。 芸術の社会的有用性 1 9世紀の中頃イギリスは産業革命によって世界の工場となり、経済的な繁栄を手に入れた。他方 経済的に豊かな社会の中で労働者階級は 困にあえいでいた。人々は想像を絶する低賃金と長い労 動時間に苦しみ、その生活は悲惨なものであった。 ラスキンは、金銭至上主義が社会を支配し勤勉で真面目な人々が社会の片隅に追いやられ、陽の 当たらない存在と化していることに耐えられなかったのである。彼はこの労働者たちの窮状を打開 するための方法を経済学の中に見い出そうとしたのである。そして、従来のアダム・スミスや J .S ・ ミルなどの伝統的な経済学者たちの理論には大きな欠陥があると確信したのである。 彼らの提唱した経済学は人間が経済活動することは、すなわち金銭を獲得することであり、生産 や生活はそのための手段にすぎないとしたのである。ラスキンは、このような金銭至上主義を最優 先している え方に異議を唱なえたのである。金銭を絶対的な基準として人間や企業を評価するこ とが、人間の生命や美しい自然、歴 的文化財の破壊をもたらし、しいては人間の品位や気高さ、 そして人間らしい心を奪い去る原因であるとしたのである。 これは当時の社会の基礎をゆるがすものであり、社会に対する大きな挑戦であった。彼は金銭の 価値を最優先した経済学の え方から人間のいのちや生活を最高のものとする経済学への転換を提 唱したのである。 ラスキンは現在ではあたりまえのことであるが、社会にとってもっとも重視されなければならな いものは人々の生命とくらしであるとしたのである。経済がどれほど繁栄していても、人々が日々 のくらしやいのちを大切にできないような社会は真実の意味でのゆたかさを享受できる社会とは言 えないとしたのである。 日本で最初にラスキンの思想を取り入れた経済学者は河上肇であるが彼の著書にはラスキン自身 の えを強調している文章の訳語が挿入されている。それによると、彼のいうライフは日常のくら しから始まり、人間の生命活動のすべてのことを指す言葉として用いている。ライフを〝いのちを 成長させる" ことと理解し、〝人のいのちを成長させることができるように財やサービスや環境を社 会が提供する"ことを〝ゆたかさ"であるとしたのである。したがって、いのちを成長させる営み があってこそ豊かさが生まれるというのである。 〝ゆたかさ" というのは自然の美のなかに人間の生 命力が発現し躍動している状態であって、人間が自然や社会の中でいきがいをもって暮らせるとい うことなのである。 彼の提唱する価値の概念は、財を金銭的な評価値であるとともに、全人格的な存在としての人間 の成長・発達に貢献するという意味にとらえた。それはある財が人間の成長・発達にどれだけ貢献 したのかという尺度としてとらえている。すなわち財の 一般的に、財の 用価値をさしているといえよう。 用価値あるいは利用価値というとき、その財がどれだけ人間の欲望を満たした 萬崎:『観光財としての美術館と文化』 63 かという意味に用いられる。けれどもラスキンは、財の価値は人間の生命力の発揮や進歩にどれだ け貢献したかという意味で価値という言葉を 用したのである。 また、その価値は、固有価値と有効価値とからなっているとした。固有価値とは〝栄養がある" とか〝美味しい"とかいうパンの性質を財の固有価値とした。そして人間が生命力を高めるには、 この固有価値を活用して自 の栄養にしたり楽しんだりする能力が発達する必要があるとした。こ の能力をラスキンは財の固有価値の享受能力と呼んだのである。 重要なことは、財が価値あるものとなるためには、財の利用可能な性質を利用する人間の享受能 力が必要ということである。ではここでいう財を 用し得る能力をどのようにして身につけるのか ということが問題となる。 そこで金銭的評価優先の社会通念をもう一度、 えなおす時期が到来しているのではないだろう か。 芸術作品として 造されたものには美や真実が宿り、こうした作品を観賞することによってわれ われは、生きるための力や喜びを見い出すのである。この芸術作品がもつ固有の性質は他の消費財 とは異なり誰かがそれを享受したからといって他の消費者がそれを利用できなくなるわけではな い。 したがって、芸術作品を権力者や富有者が私的に所有し観賞の機会を独占することは、社会全体 からすると大きな損失といえる。また芸術作品を観賞する能力を引出したり、高めることは、ラス キンの言う享受能力を上昇させることにつながるのである。芸術作品は国民 1人 1人に開放された すぐれた知的財産として権力や財力に左右されない中立な組織によって運営されることが望ましい といえる。 結 び 現代文明は、高性能な電機器をもたらし、生活の利 性を一般大衆のものにした。しかし反面に おいてあまりはげしい変化に人々はとまどい心の平穏を保てなくなっている。地域や職場での人間 関係は、ますます希薄になり、血のかよったコミニケーションは困難なものとなっている。バブル が崩壊し、産業の大規模な再編成が急速に進行する中で大量の失業者が生まれ、また、社会の不確 実性が国民 1人 1人を不安にさせているのである。 従来の経済に対する え方は、個々人の所得を倍増させることによって、より多くの消費財を入 手することに重きが置かれた。これはよりたくさんの金銭を稼ぐ力のあるものが「ゆたかさ」を実 現し、「幸福」な人生を送ることができるとしたのである。果して、より高価なあるいはより多くの 消費財を手に入れることイコールゆたかで幸福な人生なのであろうか。より多くの消費財を手に入 れるための金銭を追求するだけの人生は寂しいのではないだろうか。ゆたかで幸福な人生とは金銭 や消費財の獲得ではなく、人間的価値を追求し、個性的でやりがいのある仕事に就き自己実現でき ることではないだろうか。「何のための豊かさなのか」という言葉が意味するように、人々は現代社 観光学研究 第 5号 200 年 3月 6 6 4 会の漠とした不安の中であえいでいるように思われる。猛スピードで変化する社会の中で、弧独に さいなまされているというのが現実なのである。いまこそ、われわれは新しい価値を として本当にゆたかな社会を構築することが必要である。 参 文献 1.岩渕潤子 『美術館の 生』 中 新書 2.出品保夫 『物語大英博物館』 中 新書 3.加藤淳平 『文化の戦略』 中 新書 4.小島英 『ルーブル・美と権力の物語』 丸善ライブラリー 5. 原隆一郎 『豊かさの文化経済学』 丸善ライブラリー 6.池上 惇 『文化経済学のすすめ』 丸善ライブラリー 7.川成 洋 『世界の博物館』 丸善ライブラリー 8.水之江有一 『ヨーロッパ文化の源流』 丸善ライブラリー 9.岩渕潤子 『美術館は眠むらない』 朝日新聞社 .川上 稔 『 「非労働時間」の生活 』 リブロポート 10 .小林章夫 『大英帝国のパトロンたち』 講談社選書メチエ 11 .杉山忠平 『明治啓蒙期の経済思想』 法政大学出版局 12 .金田民夫 『美術のヨーロッパ』 13 元社 .クリストファー・ヒバート、遠藤利国訳 『メディチ家の盛衰上・下』 東洋書林 14 .狐野利久 『比較文化入門』 北星堂 15 造し、人間
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