日本経済の停滞と大学教育

日本経済の停滞と大学教育
第1章
第1節
報告者:菊地 祐介
教育と経済
はじめに
バブル崩壊から 10 年。日本はいまだ経済不況から抜け出せず、いまだかつてないほどの
停滞
の時代にある。そんな中、日本の経済を担い、支えていく人材を養成し、送り出
す日本の教育は本来の機能を果たしているのであろうか。とりわけ高等教育においては高
度成長以後、急速に拡大し、現在も 19〜22 歳人口のほぼ半数が高等教育を享受する時代に
なった。そして、高等教育が拡大した高度成長以降、たくさんの高等教育機関の卒業者が、
もはや企業、あるいは社会の中核となり活動しているはずである。にもかかわらず、経済
不況を脱出できないのはなぜか。本報告は、その要因を高等教育としての大学に求め、問
題を明らかにし、改善策を導き出すことを目的とするものである。
第2節
教育による経済発展
教育と経済。両者はそもそもどのような関係にあり、相互に作用しているのだろうか。
これまで多くの人々によってその関係を明らかにする試みがなされてきた。アメリカの経
済学者 T.W.シュルツは、発展途上国の経済開発問題を重視し、農業および教育投資を軸と
する開発論を展開してノーベル賞を受賞した。彼は、労働単位当たりの生産性が上昇して
きたというとき、実証的にみてこの労働単位あたりの人的投資・教育投資額は着実に増加
しており、この教育投資に裏付けられた人的能力の差が各国の経済発展の差異の大きな要
(1)
教育による人的能力の向上が経済発展をもたらすという見方である。
因である、とする。
後に多くの経済学者が、国家の経済発展の重要な要素として人的能力の役割を指摘して
いるが、この点をさらに実証的に考察したのは F.ハービンソンや C.A.マイヤーズである。
彼らは、発展途上国から先進諸国にいたる各国の工業発展の要因分析を通じて人的資源、
人的能力の経済的役割を追求した。彼らはその際、指標として、国民1人当たりの国民総
生産額、農業実働人口比、人口 1 万人あたりの教員数、人口1万人あたりの技術者・科学
者数、人口1万人あたりの医師・歯科医師数、学校教育段階別就学率、理科系学科在学者
比率、文科系学科在学者比率、対国民所得公共教育支出比率、5 歳から 14 歳層人口比率を
とりあげている。これらの指標の数値を、低開発国、部分的開発国、中進国、先進国の4
つの国家群について比較してみると、理科系・文科系在学者比率と公教育支出比率に関す
る数値では、必ずしも直線的勾配は見られなかったが、GNP、各専門職業者数、就学率に関
する数値は先進諸国ほど高くなり、農業人口、若年人口比率に関する数値は低開発国ほど
(2)
高くなった。
このように、教育によって人間の能力が向上し、経済発展へとつながるという理論は、
c-1
古くは古典派経済学においても取り扱われた。すなわち、A.スミスや D.リカード、J.S.ミ
ル、A.マーシャルなどである。これら、人的投資理論によって、教育と経済の関係を「教
育(の発展・普及・拡大)→経済発展」という因果関係と解釈することができるだろう。
第 3 節 経済発展による教育の発展
しかし、両者の関係はそれだけではない。なぜなら、経済が発展すれば企業の収益は拡
大し、その利益は個人に還元され、個人の所得は上昇する。すなわちそれは、家庭の所得
上昇を意味し、経済発展が子供の進学行動を後押しする結果をもたらすのである。また、
経済発展による企業収益の上昇が法人税の税収を、個人の所得上昇が所得税の税収を拡大
することになる。そして直接税に限らず、所得が上昇した個人・家庭の消費行動が促進さ
れることによって消費税をはじめとする間接税の税収を拡大させる。つまり、国・自治体
の財政も潤うことになり、補助金等の教育に対する支出拡大にもつながるのである。前節
にあげた「教育→経済発展」という因果関係の解釈とともに、「経済発展→教育」という因
果関係も解釈することができるのである。
このように、教育と経済の関係は、
「教育→経済」・「経済→教育」という2つの方向の因
果関係として捉えることができる。しかし、本論文においては、「教育→経済」という解釈
のもとに論を進めていく。なぜなら、本論文の目的は教育機関としての大学による主体的
な改革案、および社会とのつながり、とりわけ日本経済の停滞を打破する大学教育のあり
方を提示することにあり、経済の発展を頼りにする受動的な
するからである。
c-2
大学像探し
は避けようと
第2章
経済とその成長メカニズム
第 1 節 経済とは何か
「教育→経済」という教育による経済発展のために、まず必要なことと考えられるのは、
そもそも経済とは何か、ということと、経済成長はどのようにしてもたらされるか、とい
うことを明らかにすることである。本章においては、経済というものを基本的な構造から
考えるとともに、経済成長を測るもの、およびそのメカニズムを明らかにする。
人間は日々の生活において、さまざまな物を消費してその営みを維持してきた。しかし
物は消費するだけではなくなってしまうものであり、文化的な存在である人間にとって自
然のまま消費できるものは少ない。そこで人間は生産(労働)するのである。すなわち、
自然に働きかけて資源を得て、さらにそれを人間にとって役立つもの(財)へ加工する。
そしてその際、生産力を高めるために迂回生産することもある。つまり、目先の効果より
も、将来のより大きな効果を考えて道具や機械などの労働手段をつくりだし、それを使用
して生産するのである。さらに、バラバラに活動したのでは効率が悪いため、人間は協力
(協業)し、仕事を分担(分業)する。このため、企業のような組織がつくられ、社会全
体では人々がそれぞれ専門の職業について仕事を分担し、生活を支えあっているのである
(=E.デュルケムのいう「社会的分業」)。つまり、経済とは財やサービスの生産・分配・
流通・消費に関するすべてのはたらきをいうのである。(3)
第 2 節 経済成長とは何か
では先に述べた「経済」の成長とはいかなるものなのであろうか。
今日の世界経済は、国民経済のもとに経済活動を行っている。すなわち、経済主体であ
る家計・企業・政府が、財とサービス、労働力、貨幣の流れによって結びつき、ひとつの
まとまりとして経済活動を行っているのである。この国民経済の規模は、国内総生産(GDP)
ないし国民総生産(GNP)の大きさで示される(4)。そしてこの国民経済の規模の拡大(=GDP
の増加)こそが経済成長を意味し、GDP の増加率が経済成長率を意味するのである。(5)ここ
で重要なのは、経済成長を測る GDP にしろ GNP にしろ、個人の所得の総計である、という
(6)
ことである。
第3節
経済成長のメカニズム
それでは、先に述べた経済成長とはどのようにしてもたらされるのであろうか。そのメ
カニズムをあきらかにするために経済学、とりわけ教育経済学の見地から考えてみたい。
経済学者の案浦崇氏は、「『経済学が追求すべき最高の目標は経済成長であり、経済成長
を測る基本的な尺度は1人あたり実質国民所得である。』ということを議論の前提に立てて
経済成長の動きを観察すると、理論上、図1ような一つの成長メカニズムが基本的に考え
られる」とする。(7)案浦氏によると、教育・訓練によってもたらされた人間能力の地位は、
c-3
図1の矢印のように経済成長をもたらす源泉になっている。また案浦氏は、人間能力が基
本的なところにおいて「動態的メカニズム」と「受動的メカiニズム」を操作しているとい
う。
図1
案浦崇氏の「成長メカニズムの動態的図式」
人 間 能 力 ( 教 育 ・ 訓 練 )
│
│
人 口
資 源
↓
技 術 進 歩
能
動
労働力
実質生産成長
的
要
実
因
質
社会的間接資本
消 費 性 向
社 会 制 度
産 業 体 制
物的資本
人的資本
(
↓
主 体 的 適 応 力
)
(
生
産
≒ 実質所得成長
性
受
動
成
長
的
要
因
)
= 経済成長
前者の「動態的メカニズム」とは「経済成長を積極的に推し進めていくもので、特に生
産の3要素あるいは4要素といわれている土地(資源)
、労働、資本、および技術進歩が主
たるもの」としている。第一の要素、土地(資源)というものは固定されたものと捉えら
れることがあるが、新資源の獲得を技術進歩の一項目とみなせば「可変的なもの」となる。
ここで能動的・受動的両要因を整理すると、能動的要因の系列と受動的要因の系列に整
理することができる。能動的要因の働きかけが、まず生産性を突き上げ、それが受動的な
要因に支えられて瞬間的な均衡点を見出すが、受動的要因がそれに適応していく過程で、
さらに新しい能動的要因の軌道を可能にしていくという形で実質生産性の向上がもたらさ
れる。この実質生産性向上と人口増加が実質生産成長を規定する。そして実質生産成長に
より、実質国民所得の継続的な成長が可能になる。
ここで注目すべきは、この基本的なところにおいて能動的なメカニズムを支えている要
因である。つまりそれは生産活動の主体である人間能力であり、人的投資(資本)理論あ
るいはマンパワー理論の基本的な着眼点はここにあるのである。
c-4
第3章
第1節
投資としての大学教育
人的資本(人的投資)という考え方
これまでに述べたように「教育→経済」という視点に立ち、かつ前章第3節の経済成長
のメカニズムを考えると、経済成長を成し遂げるためには、教育による人間能力(すなわ
ち職務遂行能力)の向上が不可欠であるということができるだろう。このことによって、
教育が経済成長を達成するための社会的な投資であると考えることができる。また、今日
の業績主義(8)の時代においては、個人の職務遂行能力を向上させることにより就職、さら
には賃金(所得)の上昇が可能になることから、個人にとっても投資と考えることができ
る。このように、教育を人間の生産能力(職務遂行能力)を向上させる投資活動とみなす
考え方が人的資本(人的投資)理論である。またそれは、人間は将来何らかの利益を期待
して、教育などを通して自分自身に投資すると考え、経済的な理論として発展してきた。
人的資本とは、その投資が個人のうちに蓄積されたものをさす。このような人的資本を蓄
積することによって、人間は生産面での能力だけでなく、生活上での能力も拡大すること
(9)
もともと人的資本理論は 1960 年頃に経済成長や個人の所得分布に対する関心
ができる。
を背景に、経済発展と、教育との関係の分析を契機として発展した。つまり、巨視的な観
点から、教育を社会的な投資としてとらえたのである。(10)しかしその後は、個人的な投資
としてとらえる理論として発展し、大きくその対象を広げた。
このような人的資本理論の立場から、教育と職業の関連を説明すると、教育や訓練に投
資することによって、それを受けた人間は、知識・技術・態度・倫理等の職務遂行能力を
形成し、向上させ、それによって生産性が上がる、ということになる。生産性があがれば、
教育を受けた個人としては、所得の増加を得ることができ、国全体としては経済成長がお
きる。こうして、人的投資は、国にとっても個人にとってもきわめて望ましいことになる。
これらを図2のようにあらわすと、第2章においてとりあげた案浦氏の「能動的メカニズ
ム」の部分と近似的な、かつシンプルな図になる。
図2
人的資本理論によるメカニズム
教育
職務遂行能力
生産性
所得
訓練
の形成・向上
の向上
増加
第2節
経
済
成
長
投資とは何か
それでは、人的資本理論における大学教育への投資とは、いかなるものなのであろうか。
それには大きく二つのものがあげられよう。すなわち、大学入学、および卒業までの在学
のための経済的(金銭的)費用と、4年制大学なら4年という時間である。
c-5
前者の費用とは具体的に、大学への入学金や授業料等の学校納付金(学生納付金とも呼
ばれる)
、課外活動費、書籍・文房具等の購入のための修学費、および通学費がある。また、
実家(自宅)から大学へ通うことのできない学生は、一人暮らしをしなければならず、そ
のための住居費(家賃)や光熱費、食費などの生活費がそれに加えられる。
では、後者の時間とは一体どういうことであろうか。単純に、「4年制大学ならば4年間
という時間を費やした」ということもできよう。しかし、人的資本理論においては、4年
間ならば4年という時間の間に得られたであろう所得に注目する。すなわち、大学進学と
いう選択をしたことによって、就職という選択によって得られたであろう所得を
た とみなす考え方で、放棄所得、あるいは機会費用
(11)
放棄し
と呼ばれるものである。もしも個
人が、高校卒業後、大学に進学しないで4年間働くと、高卒労働者として所得を得ること
ができる。高卒の年間賃金は、300 万円弱であるから、学費等の直接的な費用の倍以上にも
なりうる。進学という選択をしたことによって、他の機会が犠牲になることをひとつの費
用として捉えるという意味で、放棄所得(機会費用)も大学進学に要する費用の重要な部
分となる。
第3節
大学教育投資による収益
では、こうした投資による収益とは、いかなるものをさすのであろうか。先に述べた投
資とは、大学進学という選択に限ったものであるということを踏まえて考えると、収益は
大学教育によるものとなる。したがって、高校進学では得られなかった経済的な利益をさ
し、それは大卒労働者と高卒労働者の生涯賃金の差によって表すことができる。また賃金
がモノやサービスの生産への貢献を表すものとすれば、大学教育を受けたことによる賃金
差が、大学教育によって得られた人的資本としての生産能力といえる。
図3 高卒と大卒の賃金
1200
800
高卒
大卒
600
400
200
年齢
c-6
60
55
〜
50
〜
45
〜
40
〜
35
〜
30
〜
25
〜
22
〜
〜
20
〜
0
18
年収(万円)
1000
金子元久氏は、図3のように、大卒と高卒の賃金を年齢別にあらわしている。両者の差
は年齢の低い層ではあまり大きくならないが、年齢が高くなるにつれて開き、50 歳くらい
で最も大きくなることがわかる。そして、大卒、高卒それぞれの生涯賃金は、大卒が約 2
億 8000 万円、高卒は 2 億 2000 万円となる。(12)したがって、大卒のほうが約 6000 万円高い
ことになる。
しかし、ここで先の節において取り上げた「投資」を考えなくてはならない。すなわち、
大卒は大学進学のための投資として約 300 万円の授業料を払っている。(13)また、授業料だ
けではなく、先の節においてとりあげた放棄所得(機会費用)としての約 1100 万円も投資
となる。これらの投資を踏まえた大学教育の経済的利益は、大学を 22 歳で卒業して働き始
めてからの大卒と高卒の賃金差、約 7200 万円から授業料と放棄所得を差し引くことによっ
てあらわされ、それは約 5700 万円ということになる。
このような経済的利益のほとんどの部分は、大学教育、正確にはそれによって得られる
知識・技能等の生産性倍増効果によるものである、というのが人的資本理論の考え方であ
る。なぜなら、教育(大学教育)は個人の生産能力を増大させる、というのが人的資本理
論の基本的な立場であるからである。
第4節
大学教育投資の収益率
このように、大卒と高卒の生涯賃金差により、大学教育投資の経済的利益をあらわすこ
とができる。しかし、これだけでは不十分といえよう。なぜなら、大卒と高卒の賃金格差
が生じるのは、年齢が高くなってからにすぎず、大学を卒業することによる利益は、大学
教育への投資を行ってから、時間がたってからしか得ることができないからである。つま
り、生涯賃金差から投資額を差し引くという計算では、現在と将来の金額を同等として扱
っているにすぎず、長期的な投資と収益の比較には、時間という要素を踏まえて考えるこ
とが必要になるのである。
そこで人的資本理論においては、教育への投資に対する「収益率」という考え方を使う。
これは、教育への投資を、銀行などの金融機関への定期預金、投資信託へ預金と基本的に
同じように考え、預金や投資信託の利子率にあたるものを、教育への投資の「収益率」あ
るいは「内部(私的)収益率」として表す考え方である。このような「収益率」
「内部収益
率」は、教育への投資の、いわば利回りにあたるものと考えてよい。
先の金子氏は、収益率を現代日本の大学教育について計算している。それによると、男
(14)
長期の預金の金利
子の4年制大学については、約 6 パーセントの水準にある、という。
は年率2パーセント弱であるから、教育に対する投資は、銀行への預金よりも有利な投資
ということになる。しかし、歴史的に見ると、わが国での大学教育投資に対する収益率は
低下傾向にある。金子氏によれば 1960 年代までは 11 パーセント程度の高水準にあった、
という。それが現在では約 6 パーセントである。また、梅谷俊一郎氏によると、4年制大
学の場合、1954 年には 13.4 パーセントと高水準であったが、10 年後には 8.7 パーセント、
c-7
図4 荒井氏の内部収益率
成長考慮前収益率
成長考慮後収益率
収益率(%)
25
20
15
10
5
85
19
83
19
81
19
79
19
77
19
75
19
73
19
71
19
69
19
67
19
19
65
0
年
1973 年には 8.1 パーセントにまで低下した(15)という。そして、荒井一博氏は、経済成長
を考慮せず、費用・賃金構造不変の仮定による「成長考慮前収益率」と、「成長考慮後収益
率」を 1965 年から 1985 年の各年において計算している。
(図4)(16)図を見ればわかるよう
に、「成長考慮前収益率」は 1965 年から 1985 年まで、一貫して微減している。また、「成
長考慮後収益率」は 1965 年以来増加し、1970 年に最大の 19.45 パーセントに達しているも
のの、その後 1977 年まで減少し、以後ほぼ横ばいという状況である。
「成長考慮後収益率」
は 1965 年以来増加し、1970 年に最大の 19.45 パーセントに達しているものの、その後 1977
年まで減少し、以後ほぼ横ばいという状況である。
図5 実質成長率(GDP・GNP)の推移(『国民経済年報』『経済白書』より)
GDP
GNP
12
実質成長率(%)
10
8
6
4
2
0
-2
1960
1970
1977
1979
1981
1983
1985
1987
1989
1991
1993
1995
1997
年度
このように見てくると、日本の高等(大学)教育は、経済成長を測る個人の所得に対す
c-8
る貢献の度合いを弱めていると見ることができる。また、1960 年から 1997 年までのわが国
の実質経済成長率(GDP の前年比・GNP の前年比)を図 5 にあらわした。これを見ると、1970
年までの高成長が続いた後、1990 年まで約 2 パーセントから 6 パーセントの範囲で増減を
繰り返し、以後減少、低水準にあり、1997 年にはマイナス成長を記録していることがわか
る。そしてこれらを 3 つの時代に区分することができよう。すなわち、1960 年から 1970 年
まで、成長率約 10 パーセントの高成長時代、1971 年から 1990 年まで、成長率 4 パーセン
トをはさんで約 2 パーセントから 6 パーセントの間で増減を繰り返す停滞の時代、そして
1991 年以後、成長率 2 パーセントをはさんで推移し、成長率が増加しても 4 パーセントに
届かず、マイナス成長も記録するという衰退の時代、の3つである。したがって、この「高
→停→低」という実質経済成長率の推移と、大学教育投資の収益率の推移が、基本的には
近似的な推移を示しているということができよう。
このように、「教育→経済」という立場にたち、人的資本理論の観点から教育を投資とし
て考え、経済成長を測る個人の所得に着目して教育と経済の関係をみていくと、両者には
相関関係があるという見方をすることができよう。そして、日本経済の停滞・衰退の要因
を、大学教育に求めることも可能であるといえよう。
c-9
第4章
大衆化の中の大学
第 1 節 収益率低下の要因
収益率低下の背景にあるもの。つまり、高卒と大卒の賃金格差縮小の背景にあるものと
は、高等教育の大衆化である。1954 年以降の日本における大学、および短期大学への進学
率を図 6 にあらわした。この図を見て明らかなように、わが国の 4 年制大学(学部)
、短期
大学(本科)への進学率(浪人も含む)は、1960 年代中盤を境として急速に上昇した。こ
れはほぼ日本経済の高度経済成長の時期に一致する。しかし、1975 年前後、すなわちオイ
ルショックの時期を境として停滞に転じた。大学への進学率の場合でいえば、40 パーセン
ト近い水準に達していたのが、1980 年代から 90 年代初頭にかけて 30 パーセント台中盤に
まで、むしろ低下している。しかし、こうした傾向も新しい転機をむかえた。すなわち、
1990 年前後に、4 年制大学、短期大学ともに再び上昇しはじめたのである。そして 2000 年
には、4 年制大学進学率は約 40 パーセント、短期大学進学率は約 10 パーセントという水準
にあり、4 年制大学、短期大学をあわせた進学率は 49.1 パーセントを記録している。アメ
リカの高等教育研究者である M.トロウは、エリート型の高等教育から、大衆型の高等教育
(17)
日本はその境界を 1960 年代においてま
の境界を進学率 15 パーセントに求めているが、
たたく間に越えてしまったことになる。そして仮に定員が一定であった場合、18 歳人口の
減少を勘案すると、2009 年には合格率 100 パーセントという全入時代がやってくるといわ
れるほどである。したがって、わが国はまさに高等教育大衆化の時代にあるということが
できるだろう。
図6 大学・短大への進学率の推移(文部省『学校基本調査報告書』より)
大学・短期大学合計
大学(学部)
短期大学(本科)
60
進学率(%)
50
40
30
20
10
0
54
57
60
63
66
69
72
75
78
年
c-10
81
84
87
90
93
96
99
このような状況において、大卒者と高卒者の賃金はどうなるか。このことは、大卒労働
者の需要と供給の面から説明することができる。すなわち、より多くの者が大学教育を受
けると、大卒労働者の供給は増加する。しかし、大卒労働者に対する需要が一定であれば、
大卒労働者の供給増加は大卒者の賃金を下げることになるのである。しかしながら、収益
率低下の要因を、大学教育の大衆化に求め、需要と供給のバランスということだけで問題
を解決してよいのだろうか。たしかに、先に述べた要因が大きく作用しているということ
は否定しがたい。しかし、大衆化の社会的過程をみていくと、大学教育の大衆化が示唆す
るものを導き出すことができる。すなわち、大学進学という選択をした動機にかかわる部
分である。
第 2 節 教育投資から消費へ
まず、1 家族あたりの子供の数が、1950 年代に急速に減少したことにより、子供 1 人あ
たりの投資が増加しえた、ということがある。そしてさらには、1960 年代から 1970 年代前
半の高度経済成長における、急速な家庭所得の上昇である。この時期、家庭所得の上昇が
実質価格で、年率 10 パーセントに近いきわめて大きな伸びを示したので、前年の生活水準
を続けるとすれば、年収の 1 割近くがこれまでにない支出に使われる。子供を大学に進学
させるためにその増分を当てるとすれば、家計の教育費用を負担する能力は飛躍的に上昇
した。
また、一人一人の個人を単位としてみた行動の変化が、社会全体ではさらに増幅される
メカニズムもはたらいていたと思われる。すなわち、個人の選択のいわば構造が均質的だ
った、ということである。戦前の日本あるいはヨーロッパ諸国では、人口に緩やかではあ
れ、階層が存在し、中間階級では教育をてことした社会的地位の獲得が視野に入っていて
も、それ以外の階層ではそうした機会自体が現実的な選択と必ずしも捉えられない。しか
し戦後日本の民主化による旧中間層の崩壊は、そうした社会的視野を一気に開かせた。所
得の面で見ても、戦後日本では、戦前の地主あるいは年金所得者といった高所得階級を没
落させた一方で、農業従事者の相対的地位を上昇させ、さらに高度成長期には、低所得層
の所得を上昇させた。こうした中で、家計の行動は均質化したのである。こうした社会で
は、個々の家計の選択の変化は、社会全体でみればなだれをうった大きな変化として現れ
る。テレビなどの消費財が、きわめて急速に家庭に普及したのは、そうした過程に根ざす
ものであったと見ることができる。進学に対する選択も、個々の家庭については慎重な選
択の結果であったとしても、全体としてみれば、きわめて急速な需要の拡大という現象と
なって現れる。(18)
そうした過程を経て進学率が高くなれば、それ自体が社会的事実となり、個々の家計の
選択の要素となる。個人的な選択は分析的には主体的な選択ではあるが、個々の家計にと
っては、大学教育によって得られる情報は不完全であるし、将来それがどう変化するかも
確信がもてるわけではない。個々の家計にとってのそうした情報の不完全さを補うひとつ
c-11
の方法は、他の家計の行動を見ることである。それによって不完全な情報によるリスクを
小さくすることができる。進学の選択をする人が多くなれば、そうした回路を通じて、進
学意欲は広がりを見せるのである。
このように、大学の大衆化が上述のような社会的過程をともなったために、個々の家庭
や子供にとっての大学進学が、あたかも社会から強制されたもののように感じられても不
思議ではない。こうした状況の中では、大学進学の量的拡大は、主体的な選択の空洞化を
ともなわざるをえなかったとみることができる。しかもそれは、拡大を意図した政策によ
るものではない。高度経済成長による家計所得水準の上昇と、社会的地位上昇への要求に
よって、一気に家計の高等教育機会に対する需要が拡大し、それを私立大学の拡大で収容
するという形で拡大が進んだのである。こうした成長の過程は、日本の高等教育システム
にいまだに抜きがたい、重要な特質を残した。大学進学希望者の増加は、必然的に選抜性
の高い大学への入学をさらに難しくし、大学間の序列構造を先鋭化せざるをえなかった。
歴史の古い大学が序列をよじのぼり、それに新しい大学が加わる、というかたちで大学の
序列構造が先鋭化したのである。そして序列の上位校への入学をめぐる競争はますます激
化し、序列構造を明確にした。さらに 1970 年代後半の共通一次試験によって、序列構造は
偏差値という形で一層明確になった。他方で、大卒の就職先自体は拡大したが、労働条件
のよい大規模企業への就職は限られており、そうした企業はより選抜性の高い大学の卒業
生を採用しようとする。大学間の序列構造と、企業間の序列構造が対応した結果、選抜性
の高い大学への入学をめぐる競争は先鋭化する。その結果、入学試験で高い得点をとるこ
とが自己目的化し、序列構造の中で自己の位置を上げ、それで可能な最も選抜性の高い大
学へ入学することが自己目的化するのである。
また、家計の所得上昇と、受け皿となる大学の定員増加は、大学教育の非経済的な利益
にも影響を与える。すなわち、現在から将来にいたるまでの経済的豊かさにより、大学・
企業の序列構造に身を投じなくとも生活することが可能な人たちにとってみれば、大学の
大衆化によって形成された
文化
を楽しむ(消費する)ことや、大学で学ぶことができ
る知識や教養、技術などを、自己の生産能力向上とは無関係に享受することが可能になる
のである。このことは、とりわけ最近のフリーター、無業者の増加(図 7)や大卒者の離職
率の水準(図 8)
、大卒者の就職率が低下している状況(図 9)(19)からも読み取ることがで
きる。特に図 7 の無業者比率は興味深いと思われる。1990 年から 1994 年にかけては、高卒
求人倍率が上昇しているものの、1984 年から 1989 年、1995 年から 1999 年の高卒求人倍率
は(若干後者が上回っているものの)ほぼ同水準である。しかしながら無業者比率は、大
卒、短大卒ともに 1995 年から 1999 年における比率が 1.5 から 2 倍以上上回っている。と
りわけ 1999 年においては、求人倍率の上昇にもかかわらず無業者比率が大卒、短大ともに
大きく上昇している。したがって、学卒者の無業者比率の増加は、特に最近において顕著
な動向であり、かつ今後も拡大しつつある傾向とみることができる。
c-12
図7 大卒・短大卒無業者比率、高卒求人倍率の推移
短大卒無業者比率
高卒求人倍率
4
3
2
1
0
30
20
10
0
高卒求人倍率
無業者比率
(%)
大卒無業者比率
1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999
年
離職率(%)
図8 新規学卒就職者の離職率(在職期間3年以内)
45
40
35
30
25
20
15
10
5
0
大卒
短大等卒
1987
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
1996
卒業年
図9 新規学卒者の就職率の推移
100
90
80
就職率(%)
70
60
大卒
短大卒
50
40
30
20
10
0
1950 1954 1958 1962 1966 1970 1974 1978 1982 1986 1990 1994 1998
年
c-13
このように、日本の大学が大衆化するまでにいたる社会的過程を考えてみると、人的資
本理論が考える投資という側面だけで大学教育をとらえることが困難になる。投資として
考えるためには、大学教育において習得した知識、能力、技術などを自己の生産能力(将
来の職務遂行能力)として、人的資本としての資本を蓄積し、生産活動へと結びつけてい
なければならない。あくまで大学教育は、卒業後(知識、能力、技術等の習得の後)
、何ら
かの職に就き、大学教育によって向上したであろう生産能力を活かすという目的のための
手段にすぎない。しかし、上述した大衆化にいたる社会的過程によって、主体的な選択が
欠如してしまったり、(序列が上の)大学に入学すること自体が目的化してしまっては、4
年制大学なら 4 年という期間の中で、人的資本としての資本の蓄積が十分に行われるもの
なのか疑問である。また、先の大卒無業者、フリーターの増加や、就職率の低下、離職率
の増加を考えてみると、とりわけ最近における、自発的に職業に就かない大卒者の増加や、
就職してからそれほどの期間を経ずに、自発的に職から離れる大卒者が 3 割近く存在して
いる状況を考えると、大学教育と将来の職業を分けて考えている若者が増加している、あ
るいは将来の職業に対して関心を持たない若者が増えてきている、ということができるだ
ろう。
第 1 章にてとりあげたアメリカの経済学者 T.W.シュルツは、教育という活動を、
「投資的
な側面」と「消費的な側面」に分類している。(20)ここでいう教育の「投資的な側面」とは、
教育を投資者の生産能力向上のための選択として捉える見方であり、
「消費的な側面」とは、
教育を、ある種の知的欲求、あるいは余暇欲求のためのサービスと捉える見方である。つ
まり、教育をサービスとして考えると、投資としての教育サービスと、消費としての教育
サービスに分類できる、という見方である。また、経済学者の正村公宏氏は、大学の大衆
化という現象は、大卒の人材に対する需要が増加したからではなく、教育サービスに対す
(21)
という。
る大衆的な需要によるものである、
すなわち、成熟した産業社会においては、たくさんの人々が経済的豊かさを手に入れる
ことができる。その豊かさが、大学進学という選択行動を、将来における経済的利益のた
めの投資という側面のみならず、知的欲求、余暇欲求、趣味、娯楽といった消費という側
面として捉えることを可能にさせているのである。このことは、先ほどの図 6 を見ても明
らかであろう。わが国が高度成長を成し遂げた時代と、進学率が大きく上昇している時期
とが、見事にリンクしていることからもわかるだろう。また、進学率が上昇していった 1960
年代後半以降、大学教育投資の収益率は時間とともに低下していることがわかるであろう。
このように、大学進学、そして大学で享受することができる教育を、投資としてではな
く、個人にとってそれ自体が目的の消費として考え、進学を選択した場合、第 3 章の図 2
は成り立たなくなる。また、そのような状況においては、大学教育が人的資本としての生
産能力向上に貢献したとしても、適材適所は望めないことになる。したがって、大卒と高
卒の賃金格差縮小による大学教育投資の収益率の低下を、大卒労働者の需要と供給の面か
らのみ説明するのは早急であるといえる。
c-14
第3節
投資者と消費者が混在する大学
上述のように考えてみると、日本の大学には大学教育への投資者と、大学教育の消費者
が混在しているということがいえる。人的資本理論が考える投資としての大学教育、およ
びそのための大学進学という選択者と、人的資本理論が想定していない消費としての大学
教育、大学進学の選択者である。日本の大学全体に混在しているということは、ここの大
学、さらには、ひとつひとつの授業が行われるクラス、教室に投資者と消費者が混在して
いることになる。
このような状況において、そこで行われる教育はいったいどうなってしまうのか。ある
者は学問としての領域を越えて、実社会での応用分野を求めたり、最新の動向を学びたい
と思うかもしれない。またある者は、自身の知的好奇心あるいは教養を深め、それによる
満足感を得るため、実社会とは関係なく、学問としてより突っ込んだ内容を求めるかもし
れない。さらには、教育が行われる時間(授業)そのものを退屈なものと感じ、学ぶこと
から背を向けるものもいるかもしれない。このようなさまざまな目的や、学ぶことに対す
る動機付けの異なる学生に対して、一人の教員が一度に教育を行わなければならないので
ある。そして、このような状況で行われる教育は、その理念、内容、方法等を明確にした
状態で存在することができず、非常にあいまいなものとならざるを得ない。したがって、
教育する側(大学・教員)、学ぶ側(学生)、両者が共にそれぞれの立場から納得のいく、
満足する結果を生み出すことは難しく、両者がお互いの最大公約数で妥協しなければなら
ない。つまり、教育機関としての効率性が大きく失われてしまっているのである。
c-15
第5章
経済成長のための大学
第 1 節 誰のための大学か
投資者と消費者が混在する日本の大学。そしてそこであいまいにならざるを得ない教育
理念や教育内容、教育方法等。それにより失われる教育、あるいは学習の効率性。大学が
これらを再構築し、回復するためにはどのような改革・改善が必要となるのであろうか。
そのためにはまず、投資者と消費者が混在する状況を打破しなければならない。大学に
投資者と消費者が混在していることが、最終的に大学における教育・学習の効率性を低下
させているからである。したがって、大学が、自身の大学は投資者のための大学なのか、
それとも消費者のための大学なのか、明確に分化し、それを強く打ち出した実質的な改革
をしていく必要があるだろう。そしてこれによって、投資者のための大学なのか、消費者
のための大学なのか明確な役割分化が生まれ、投資者、消費者それぞれにとって的確な進
路選択が可能になるだろう。また、大学はそれとあわせて、明確な教育理念を再構築する
必要がある。そして、それに基づく明確な教育内容、教育方法等を構築し、教育の質的な
改革を進めることも重要である。これらのことを、日本の各大学が行っていけば、それぞ
れの大学は独自の個性や特徴を生み出していくことができる。また、これにより個々の投
資者、消費者に、自身の将来の職業を含めた目標や、趣味・趣向・価値観といったものと
照らし合わせた主体的な進学選択や、大学(学部)の選択を可能にするであろう。
また、大学を企業とのつながりにおいて考える視点も重要であろう。すなわち、このよ
うな大学の改革が、経済界からの要請というかたちをとる場合や、大学や、そこで行われ
ている教育に対して、経済界から不満が出たり注文を付けられたりした場合、大学側とし
てみれば、改革していくうえで必要なコストをかわりに負担するわけでもなく、まして日
常的に投資しているわけでもない企業に言われる筋合いはない、投資した上で不満なり注
文なりをつけてくれ、と言いたくなるところであろう。しかし上述のような、投資者と消
費者が混在する大学に、企業は投資することなどできるだろうか。個々の企業に限らず、
その集合・集団としての業界団体等が大学に投資したとしても、日本の大学における投資
者と消費者が混在する状況では、大学の卒業者が、特定の企業あるいは特定の業界に就職
する(正確には就職を希望する)保障はなく、投資としての収益はそれほど期待できない。
したがって、企業・業界内部の大学出身者による、個人的な母校への寄付金ならともかく、
企業・業界団体等による大学への巨額な投資は不可能である。逆に、日本の各大学が、明
確な役割分化を遂げ、それぞれ固有な教育理念・内容・方法等を生み出すことができれば、
企業・業界団体等の経済界が、特定の大学もしくは学部に、求める人材の獲得という収益
に裏付けられた投資をすることが大いに考えられるであろう。そして生産活動を行う企業
にとって、大学という教育機関が現在よりもさらに重要な存在となり、企業自体も入社後
の社内教育(OJT)にかける時間や手間を省くことができる。また、大学にとっても、企業・
業界団体等から投資を受けることができるとともに、産学連携によるより高度な研究・開
c-16
発・教育等が可能になるはずである。
このように、投資者・消費者、誰のための大学か、ということを明確にしていくことに
よって、投資者・消費者である個人はそれぞれにとっての利益(金銭的利益・非金銭的利
益)を得ることができる。また、大学としても上述のような多様化への道を選ぶことによ
って、教育機関としての効率的な役割を果たすことができ、個人・企業・国といった大学
を取り囲むものすべてから投資を受けることが可能になる。そして、経済成長という視点
から見ても、生産能力をさらに効率よく向上させることができるであろう個人、そういっ
た人材を効果的に活用することができるであろう企業、両者にとって大変有効な手段とな
ると思われる。
第2節 日本の高等教育を支配しているもの
本報告はこれまで、教育と経済(職業)の関係を、両者が教育によって習得できる知識・
技術等を媒介に関連しているという人的資本理論の観点からとらえてきた。しかし、教育
と経済(職業)の関連を説明する理論はそれだけではない。すなわち、人的資本理論とは
反対の、教育と職業のスキルといったものを媒介とした、直接的、実質的なつながりを前
提としない理論である。
教育と職業の関連が、知識や技術を媒介にしたものではないということを強調する社会
学的な理論に、葛藤理論(Conflict theory)がある。葛藤理論では、教育は直接職務遂行
能力の形成に有用であるというより、社会集団に利用されているという点が強調され、社
会は相争う諸集団(身分集団)からなると考える。葛藤理論によれば、集団に属するもの
を選ぶ社会的選抜は、特定の身分集団が自己にふさわしいものを選ぶのであって、技術的
な要件によるのではない。身分集団は、特定の教養・文化をもっている。これを身につけ
た者や、身分集団に対して従属を表明した者を選ぶとする。こうした状況では、相争う身
分集団は、自分たちの相対的威信を維持あるいはさらに上昇させるために、ますます選抜
に要求される学歴を上げようとする。こうして学歴獲得をめぐって諸身分集団が争う状況
が生まれ、葛藤とはこうした諸身分集団の相克を指す。
また、雇い主が採用の際に、応募してきた労働者を、採用・不採用にふるい分けるため
に学歴を用いることをはじめて明確に、経済学的な理論仮説として打ち出されたものがス
クリーニング(ふるい分け)仮説である。この説においては、雇い主は、多大なコストや
時間などの犠牲により、労働者の職務遂行能力を正確に判断できないという点に着目する。
そしてこのような場合、潜在的な職務遂行能力と関連が深いとみなされるのが学歴なので
ある。学歴はいうまでもなくその人が受けた教育水準を示す。とくに、教育段階が上がる
につれて学力試験を受けることから、学歴はその人の一般的な学力水準を示すと考えられ
る。そしてこの学力水準と一般的な職務遂行能力や潜在的な職務遂行能力は関連が強いと
みなされる。このため雇い主は、学歴を採用する判断基準として用いると考える。また、
雇い主が応募者の学歴を知るためには、特別な費用は要しない。こうして学歴が、人々を
c-17
ふるい分けるスクリーニング装置となる、と考えるのである。
このスクリーニング仮説と同様に、雇い主は労働者の職務遂行能力を正確に判断できな
いという想定のもと、労働者の潜在的な職務遂行能力の代理指標として、学歴を選抜の手
段として用いると考えるもうひとつの理論がシグナリング理論である。シグナリング理論
は、雇い主だけでなく、応募する労働者の行動にも着目する。すなわち、雇い主が学歴を
採用基準として用いるのに対抗して、労働者もとにかく学歴を獲得して、自分は能力が高
いということを示すことが必要になってくる。そこで労働者は、自己の潜在的な職務遂行
能力を示すための信号(シグナル)として学歴を用いる(シグナリング)のである。また
シグナリング理論は、雇い主が学歴をふるい分けとして用いることが経済合理性にかなっ
ている、とも考えている。
これら教育と職業の直接的、実質的な関連を前提としていない理論によると、先の第1
節で述べたような改革・改善を大学が行っても、結局は学歴という職務遂行能力の代理指
標しか意味を持たず、大学における教育・学習の効率性は経済の成長のために関係を持た
ないという結論をもたらしそうである。また、いずれの理論も、教育が選抜の手段として、
単なるふるい分けや事故の潜在的な職務遂行能力を示す止めに用いられるため、人的資本
理論が想定したように、教育に投資することが生産性の向上に直結するという考えを否定
する理論である。たしかに今日の日本の高等教育システムには、第4章において述べたと
おり、偏差値という大学間の明確な序列構造が、企業間の序列構造と対応する形で存在し
ており、選抜のための学歴の存在を否定することは難しい。
しかし、教育(学歴)を選抜のための手段として考える上述の理論は、行動の主体が、
十分な情報を持たない不確実な状況を前提に行動していることを意味する情報の不完全性
に着目した理論・仮説であるということを忘れてはならない。すなわち、大学生の就職活
動で言うならば、採用する側である企業(買い手)が、採用される側(売り手)について、
完全な知識や情報を有しておらず、かといって、一人一人の学生の能力を判定することが
できない、という状況である。そのため、偏差値で明確となった学歴(学校歴)という大
学間の序列を参考に学生の能力を判定する、正確には予測することしかできない、という
ことであるといえよう。しかし、学歴(学校歴)を用いない選抜は、余程のコストをかけ
なければ不可能であるが、企業の採用(人材の獲得)を効率的・効果的にすることができ
る可能性が存在する。つまりそれは、第 1 節において述べた大学間の明確な役割分化とい
う改革である。これによって企業は、それぞれの大学がどんな大学なのか。しいていえば
そこにはどんな学生がいるのか、現在より的確に把握した学歴(学校歴)を大きな参考に
採用することがき、採用活動自体もより効果的・効率的なものとすることができる。
このように、大学の効率性に着目した各大学における改革により、大学自体はもちろん、
企業等の社会とのつながりを今よりも充実したものにすることができるだろう。そして、
経済成長を図っていくうえでの、大学の存在をより重要なものに変えていくことができる
であろう。それぞれの大学は、どのような学生を求め、どのような学生生活を学生に対し
c-18
て提供することができるのか。これらのことを明確にすることにより、それぞれの大学独
自の教育理念・教育内容・教育方法を再構築していかねばならない。まさに、大学の多様
化ということが、大学の効率性を向上させるうえで、つまりは経済成長を図るうえで重要
になってくるのである。また、このことは、偏差値という一元的な尺度から多元的な尺度
を創りだしていくためにも大変重要であると思われる。18 歳人口の減少を考えると、受験
生獲得のための競争激化など、今後の大学を取り巻く環境は厳しいものとならざるを得な
い。しかしながら、入学試験科目数を減らすなどの安易で単純な手段で難局を切り抜ける
のではなく、大学としての存在意義を十分に踏まえた改革により、教育上、経営上の問題
を解決していかねばならない。
そして何より、大学進学を選択する者が、大学に入学・卒業することで自分はどうなり
たいのか、大学で何をしたいのか、そしてそれはどの大学において可能であるのか、大学
を選択するにあたって、しっかりと考えなくてはならない。なぜなら、投資者と消費者が
混在する大学を生み出した要因は、学生の選択行動にも求められるからである。したがっ
て、仮に大学が改革によって変わることができたとしても、選択者がなんら変わらなけれ
ば、先述の問題が解決されるとは考えられない。今こそ、大学と国民が足並みをそろえて、
新しい日本の大学を創造する時なのではなかろうか。
第3節
おわりに
私は上述のように、教育と経済の関係を述べるとともに、日本経済の停滞を打破すべく、
経済成長のための大学改革案を書き綴ってきた。そして、大学が変わることと、大学進学
の選択者(学生)自身が変わることの重要性を指摘した。しかし無責任なことに、大学進
学を選択した私自身、明確な将来的展望のもとに選択したとはいえない。また、本報告が
求めるような明確な目標(将来の職としての目標)のもとに選択したとはいえない。この
点でいえば私は、本論文がいうところの「消費者」ということができるだろう。したがっ
て私は、大学教育(学生時代)を「消費」として選択する生き方を否定する権利を持たな
いのは勿論、そのような気もさらさらない。また、職業的能力(生産能力)を向上させる
「投資」としての選択としてではなく、大学教育そのものを目的とした選択者をむしろ肯
定している人間である。最後にこのことを弁解しておかねばならない。
長いわりにはクオリティーの低いこの報告を最後までお読み頂き、誠に有難うございま
した。
【注釈】
(1)T.W.シュルツ『教育の経済価値』(清水義弘監訳)日本経済新聞社,1964 年
(2)F.ハービンソン C.A.マイヤーズ『経済成長と人間能力の開発』(川田寿・桑田宗彦訳)
ダイヤモンド社,1964 年
(3)「経済」には「経世済民」(世を治め、民を救う)という意味と「倹約」という意味が
あるが、ここでは便宜上、ギリシャ語の oikosnomos(家政)に由来する economy(経
c-19
済)の意味を用いた。
(4)近年では、様々な国籍の人々がおなじ国で入り混じって働き、所得を得るため、GDP
のほうが一国の経済状態をより適切にあらわすものとして一般化している。
(5)GDP は所得額の総計なので、物価上昇率を差し引いて実質経済成長率を得る。
(6)このことは本論文「第 3 章」において重要なファクターとして取り上げるため、この
章でその詳細に触れることは避ける。
(7)案浦崇『教育の経済学』学文社,1998 年
(8)ここでいう業績主義とは、あくまで属性主義(家柄や身分による固定的な階層構造を
つくるイデオロギー)に対するイデオロギーである。
(9)このように人的資本をとらえると、その対象は必ずしも学校教育に限られるわけでは
ない。たとえば現代社会において、生産能力を支えるもうひとつのものが企業内訓練
である。また、生産のうえでも生活のうえでも、栄養や医療を通じての投資は不可欠
である。
(10)そのような意味で「人的投資」、「教育投資」とも呼ばれる。
(11)経済学において用いられる用語で、経済的な機会を利用しないときに、あるいは利
用することを放棄したときに、享受できなくなる利益(額)をさす。
(12)金子元久・小林雅之『教育の政治経済学』放送大学振興会,2001 年
金子氏は 1996 年のデータより作成した。また、従業員 10 人以上の規模の事業所に働
く給与所得者の平均で、60 歳まで勤務したものとして計算している。このような大学
教育投資の収益としての生涯賃金を計算する際、学者によって数値に差が生まれるが、
それは学者によって仮定や計算方法が若干異なることに起因する。したがって、後で
取り上げる「収益率」も学者の仮定、計算方法により異なる数値が表されることがし
ばしばある。しかしながら本論文では、具体的な数値に重きをおくのではなく、その
一般的傾向を重視するため、その解説等は割愛させていただく。ちなみに、金子氏も
含めた教育社会学者や教育経済学者、労働経済学者のデータは、低年齢層では両者の
差はあまりなく、20歳代後半から 30 歳代前半にかけて大卒が高卒の賃金を逆転し、
50 歳代で両者の差が最大となり、生涯賃金自体も大卒が高卒を上回る、という見解で
ほぼ一致している。
(13)私立大学文系の平均授業料の4年分として計算した。
(14)先の(12)においても述べたが、収益率の計算結果は、学者により計算方法やその
仮定が異なるため、数字にも誤差が生まれてくる。しかしながら、後にも述べるよう
に、本論文が注目するその傾向はほぼ一致している。ちなみに金子氏の計算方法を数
式を使って表すと次のようになる。
まず、将来の費用(利益)を一定の利子率rで現在の価値になおしたものを、現在価
値(Net Present Value ‑ NPV)という。大学教育について、その費用の現在価値を C
と表す。
C は、
C=(Tⅰ+W2ⅰ)/(1+r)ⅰ
ただし、ⅰ=0,3
同様に、利益の現在価値を B と表せば、
B=(W3ⅰ−W2ⅰ)/(1+r)ⅰ
ただし、ⅰ=4,n
式の中の T は授業料、W2 は高卒の賃金、W3 は大卒の賃金、ⅰは現在からの年数、nは
定年までの年数を表す。ここで費用と利益がちょうど同等になるような、すなわちB
=Cとなるような割引率の水準rが収益率(内部収益率)となる。そして繰りかえし
法(rにさまざまな値をあてはめ、BとCが等しくなるような値を見つけ出す)によ
ってrを計算する。
(15)梅谷俊一郎「教育投資の経済学」『季刊労働法』別冊第 2 号,1978 年
c-20
(16)案浦崇 前掲書
(17)M.トロウ『高学歴社会の大学』(天野郁夫・喜多村和之訳)東京大学出版会,1979
年
(18)こうした需要の拡大を背景として、私立大学からの拡張の要求が強くなったことを
受け、大学の増設に関して消極的だった文部省は 1961 年、既成大学の定員増、および
大学の新設を認める条件を大幅に緩和した。これによって大学の新設が相次ぎ、既存
の大学の定員定員も拡張された。しかも多くの大学は、定員を大きく上回って学生を
入学させた。
(いわゆる「水増し入学」)こうした文部省の政策的変化と、私立大学の
行動の両者の結果として、大学の収容力は飛躍的に拡大した。
(19)もちろん最近の就職率の低下は、不況による企業の採用意欲の減退、それによる採
用者数の減少によるところもある。しかし、就職先がないために就職できないのでは
なく、自ら就職を選ばない学卒者が増えてきており、このことは上述したフリーター
の増加によっても説明することができよう。
(20)T.W.シュルツ 前掲書
(21)正村公宏『私の現代教育論』NHK ブックス,1979 年
【参考文献】
T.W.シュルツ『教育の経済価値』(清水義弘監訳)日本経済新聞社,1964 年
F.ハービンソン C.A.マイヤーズ『経済成長と人間能力の開発』
(川田寿・桑田宗彦訳)ダイヤモンド社,1964 年
金子元久・小林雅之『教育の政治経済学』放送大学振興会,2001 年
沼口博 『学校教育と経済発展』学文社,1995 年
案浦崇『教育の経済学』学文社,1998 年
J.S.ミル『経済学原理』(戸田正雄訳)春秋社,1955 年
G.S.ベッカー『人的資本』(佐野陽子訳)東洋経済新報社,1976 年
荒井一博『教育の経済学』有斐閣,1995 年
金子元久『近未来の大学像』玉川大学出版部,1995 年
森正直『教育・学術の文化経済学』芙蓉書房出版,2000 年
正村公宏『私の現代教育論』NHK ブックス,1979 年
労働経済研究所『季刊労働法』別冊第二号,1978 年
M.トロウ『高学歴社会の大学』(天野郁夫・喜多村和之訳)東京大学出版会,1979 年
村上泰亮『産業社会の病理』中央公論社,1975 年
矢野真和『高等教育の経済分析と政策』玉川大学出版部,1996 年
【参考資料】
経済企画庁『経済白書』
経済企画庁『国民経済年報』
厚生労働省『労働白書』
文部科学省『学校基本調査報告書』
c-21