るうてる 箱崎群教会共同体版 -月報 メッセージと証し- (通算 352 号)2010年 12 月号 発 行 日本福音ルーテル箱崎教会 代表者 牧師 和田 憲明 〒812-0053 福岡市東区箱崎3-32-3 TEL(092)641-5440 FAX(092)641-5480 メールアドレス [email protected] HP 恵泉幼稚園・箱崎教会 www.keisenyouchien.jp 奈多愛育園 nata.aiikuen.net/top.php 神にできないことは何一つない。マリアは言った。「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。 (『聖書』ルカによる福音書1章37-38節) LET IT BE (みこころのままに) 和田 憲明 「LET IT BE」(by ザ・ビートルズ)は、今から 40 年前(1970 年)に一世風靡した歌ですが、今もなお聴 くことも多いナツメロの一つでしょう。彼らのシングルとしては日本で最も売り上げの高かった曲です。 しかしこの時、そのヒットソングとは裏腹に、ポール・マッカートニーと兄貴分のジョン・レノンとのす れ違いが原因ともいわれ、ビートルズの解散もささやかれていました。危機を感じたポールは、「ゲット・ バック」(彼らの最後のアルバムのタイトルにもなった)と、原点に立ち返るよう仲間に呼びかけます。そして 新曲は讃美歌のような曲を作りたい、という祈る思いで書いたのがこの曲です。歌詞に登場する「マリア」 とは熱心なカトリック信者だったポールの実母のことですが、すでに彼が思春期の時に天に召されています。 けれどもそのマリアがポールの夢に現われて語りかけるのです。「When I find myself in times of trouble Mother Mary comes to me Speaking words of wisdom Let it be・・・」と。恥かしながら意訳すると、「目 の前に大きな壁が立ちはだかったとき、母マリアがぼくにあらわれて、み言葉をささやく、みこころのまま に・・・」です。日本語の歌詞カードの「LET IT BE」の部分は、 「あるがまま」 「なすがまま」などと、成り行 きに任せるような意味合いで翻訳されることが多いのですが、あえて神さまの「みこころのままに」と、ま た「叡智の言葉」などと翻訳されるところを、「み言葉」としました。それは、冒頭のマリアの受胎告知の み言葉を思い起こすからです。 「お言葉どおり、この身になりますように」が英語訳聖書の「Let it be to me according to your word.」 (NKJV 訳)のように「LET IT BE」と翻訳されるものも少なくありません。イエスの母マリアは受胎告知とい う、一方的な神さまからのメッセージを聞きます。当時マリアはまだ 15、6 歳だといわれます。神さまに 対する反抗や疑念がわくのも当然でしょう。しかし、 「マリアは十分に疑った上で、 『お言葉どおり、この身 になりますように』と告白しているのです。信仰とは、最後にはエイヤッと決断して飛び込むようなところ があるものです。考えてもわからない世界だからです。そこから先は決断しかありません。 」(『クリスマスの 風景―現代人のためのメッセージ』(賀来周一著、キリスト新聞社 P68)のとおり、マリアは与えられた現実から 神さまに想いを馳せ、祈り、ついに「LET IT BE」と応えるに至りました。これは苦難とも思われる出来事 に直面した当人の信仰でしかはかれない、神さまとの対話にみられるものかもしれません――。 翻って「LET IT BE」のメロディーについて。私もギターで弾いてみるとわかる のですが、ポールの作曲のイメージどおり、コード進行には讃美歌の「♪~アーメ ン」(Key の F ⇒C)が何度か組み入れられていることに気がつきます。そして全 体の曲調もどこか懐かしく響く、有名曲にみられる王道のコード進行の形です (「翼をください」、 「負けないで」、 「涙そうそう」そして「G 線上のアリア」などなど・・・)。 今、時を経て 2 つの「LET IT BE」 。私たちプロテスタント教会は、イエスの母マリア自体を崇拝するので はなくマリアの信仰告白に心を留めますが、こうして「LET IT BE」の歌を聖書のみ言葉と重ね合わせてみ ても、意義深く歌えるから不思議です(「LET IT BE」の歌の続きは箱崎教会・恵泉幼稚園の HP 検索 で)。 西南学院大学チャペルメッセージ (11 月 24 日 「ノ ロ イ ハ ナ イ」(お話の 1/2 抄) 『聖書』ルカによる福音書 13 章 1-5 節 13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラ トがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたこ とをイエスに告げた。 13:2 イエスはお答えになった。 「そのガリラヤ人た ちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリ ラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 13:3 決してそうではない。言っておくが、あなた がたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八 人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々より も、罪深い者だったと思うのか。 13:5 決してそうではない。言っておくが、あなた がたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 <占い、スピリチュアル、パワースポット・・・そしてカルト> 今朝、テレビか何かで占いを見てきた人はいません か?私の携帯には、いつものように「今日のあなたの 運勢」星座ランキングが送られてきます。テレビや雑 誌、インターネットやパソコンにも、この類のものか ら情報が発信され、多くの人の心をとらえます。スピ リチュアルなテレビ番組やグッズに惹かれ、パワース ポットも大流行。私は東区の箱崎から来たのですが、 近所の有名な縁日でも「あなたのオーラ見ます(無 料)」の出店にけっこう人が入っていました。このよ うなことに感心が有る人の思いを軽んじたり、退ける たりするつもりは決してありません。しかしこういっ たことに振り回されたり、悩まされている人はいません か。 とくにカルトの問題は深刻で、その勧誘の手口は実に巧妙です。定義として、「救世主」を名乗る教祖が おり、熱狂的信者の閉鎖的集団という性格が強いのですが、マインドコントロールによる信者獲得、教祖へ の絶対服従などで、様々な社会問題、家庭問題を引き起こします。これだけですと組織の仕組みとその結果 を記しているだけですが、脱会後の後遺症の深刻さには全く触れていません。カルトに入会すると、若い貴 重な時間を浪費してしまうこと以上に、脱会後にさまざまな後遺症に苦しみます。カルトの怖さは、社会的 な諸事件だけではなくて、カルト体験をしたあとの精神的な痛みにあります。脱会しても未だ組織を裏切っ てしまったという思い、後ろめたさ、一生を掛けるつもりであったものを失ってしまったという喪失体験、 それにもまして、カルト入信のために失った家族や友人との絆、辞めたあとに不幸が訪れてくるのではない かとの恐怖感――地獄に行く、一生廃人になる、死ぬかもしれないなどです・・・。 そこに、今日の聖書は語りかけるのです。背景には当時のユダヤ社会の因果応報的な民衆の態度が記され ています。昔から親の因果が子に報い、などと言われてきました。古今東西、現代においてもこの考え方は 私たちの身の回りにあふれています。 <事件や事故に際して> イエス様に詰め寄った人々は、最近起きた 2 つのニュースについて話しています。整理すると1つ目は事 件、ピラトの殺伐行為です。祭儀のためエルサレム神殿に来たガリラヤ人が、惨殺された事件。2 つ目は事 故、ピラトが水源地と用水槽を近くに持つエルサレムを要塞化するために建造した水路橋の塔で、この倒壊 により18名もの犠牲者を出したことについてです。集まってきた人は下敷きになった人々が何か悪いこと をしたから、あのような悲惨な目に遭っているのだろうと考えたようです。イエス様は、「ほかのどの人々 よりも、罪深い者だったと思うのか。 」 (13 章 2 節)と答えた。 「まさか、彼らが罪深かった、自分たちは違う、 と思っているんじゃないだろうね?」と反語のニュアンスも読み取れます。そして「決してそうではない。 言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と 13 章 3 節、5 節で短い文中に 2 回も語られます。別の聖書の NTD 訳は「決してそうではない!」びっくりマーク付きの強い否定です。つづ いてイエス様は「悔い改め」を説きます。悔い改めとは、別の日本語で表せば「回心」です。読んで字のご とく、神さまから背を向けていた自分に気づき、180 度神さまの方へ向き直るという意味があります。考え 方、生き方が修正されるのです。 なぜ痛ましい事件や事故が起こるのか、そこに直接今日の聖書は答えていないようです。人はこの小さな 頭、自分の物差しで計り、因果応報的な原因と結果を結びつければみな解決がはかれると思いがちです。し かし、もうそのようなことに煩わされなくいい、安心しなさいと語りかけているように聞こえます。「決し てそうではない!」あなたのせいではない、と。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅び」て しまうだろう(「滅びる」の原語のギリシャ語/アポルミーの未完了形)、と響く憐れみ深いイエス様の声が聞こ えますか。 <しかし、「ノ ロ イ ハ ナ イ」?・・・!> もし皆さんがこのような問題で苛まれた時、この母校の大学や関連のある教会を訪ねたら良いでしょう。 先生方、教会の信徒さんや牧師さんがあなたの話を聞いてくださり、そこで共に神さまに向き合い祈ってく ださるに違いありません。そこからきっと、もう一度やり直 す力が備えられるはずです。 そうそう、最後に一言。どこかで今日のみ言葉を思い出し てくださればと思い、付けたお話の題「ノ ロ イ ハ ナ イ」 とは、今日のイエス様にあっては、「呪いはない」というこ とです。祈りましょう・・・。 司馬遼太郎の世界 山本 光 このるうてる箱崎・聖ペテロ版の原稿を書いているのは 11 月第 3 週である。NHK の大河ドラマ「龍馬伝」 を毎週楽しみにしておられる方も多いと思う。 あと 2 回で終わってしまうのはとても寂しいが、年末にかけては日露戦争を舞台にした「坂の上の雲」第 2 シリーズが放映される。 「龍馬伝」 、 「坂の上の雲」と司馬作品が取り上げられるのはなぜなのだろう。時代の大きな転換点を一生懸 命生きた昔の日本人から、勇気と力をもらい、この難しい時代に元気を奮い立てて乗り切ってほしいという 制作者の意図なのかと思う。 司馬遼太郎は「21 世紀に生きる君たちへ」という短い文を残している。 要約すると、昔も今も空気や光、土などの自然があり、人や他の動植物はそれに依存して生きている。この 自然という不変のものを基準に置いて人間を考えてみると、人間は自然によって生かされてきた。歴史のな かの人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分達の上にあるものとして慎んできた。“人間は自分で生 きているのではなく、大きな存在によって生かされている”と中世の人々はへりくだって考えてきた。この 素直な態度こそ 21 世紀への希望であり、その気持ちをもって広めてほしい。 そうすることで、自然の一部である人間どおしについても尊敬しあうようになるに違いない。また、君たち は“自分に厳しく、相手にやさしく”という自己を確立しなくてはならない。人間は助け合って、社会をつ くって生きている。自然物の一部である人間は、孤立して生きていけるようには作られていない。このため 助け合うことが道徳になっている。この助け合うという気持ちや行動のもとは「いたわり」という感情であ る。「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」ということを私たちは訓練して身につけなければ ならない。友だちがころんだとき、「痛かったろうな」と感じる気持ちを自分のなかでつくっていけば、人 類がなかよしで暮らせる時代になるにちがいない。また鎌倉武士のような「たのもしい人格」を身につけて ほしいといったような内容である。 幼稚園の HP(ホームページ)を 9 月にリニューアルした。恵泉幼稚園の名前の下に和田先生と相談して「祝 福に満たされたこころ育む幼稚園」というキャッチコピーを入れた。 最近は4歳までにこれができるようになります、5 歳までにはさらにこれもできるようになります、といっ た具体的な目標・成果をおもてに出して宣伝する幼稚園がほとんどである。そのなかで、恵泉幼稚園はキリ スト教保育を通して、目には見えないけれど心を育てていく保育をしますと改めて宣言したのである。 風邪で休んだお友だちのことを思いお祈りすること、また自分が休んだときにお友だちから祈られているこ とを覚えて早く治ろうと思う気持ち、このような 気持ちをそだてていくことが「平和をつくり出すこどもたちを育てる」そして「21 世紀を生きる子どもた ちの根っこを育てる」ことになると信じている。 立花隆は「未来をつくる君たちへ」という本のなかで 不確定な未来社会では、学校の勉強はそれほど重要でないといっている。学校で教えることは全部正解がわ かっていることばかりだからだ。現実の社会では、すべての面で正しい答えがわからない。社会に出て必要 な能力というのは、正解がわからない問題にぶつかったときでも自分なりに答えを見つけて行動する能力だ。 その社会に自分が出ていくための自分づくりをしていく必要があるといっている。 自分で考え自分ですすむべき方向を決められる大人になるために、幼児期に心を育てていくことの大切さを いま改めて考えさせられている。 私たち大人も、マスコミやさまざまな情報に流されることなく、自分自身で考え行動しなければいけない。 いかなる時も主の声に従い、謙虚な心を忘れずにどのような場面にあっても「私はこう考えます。」と胸を はって言えるような人間になりたいと私はいつも思っている。 昭和初期、遙か遠い日本の幼児教育のために一生を捧げようと決心されたア メリカの女性宣教師ヘレン・シャーク、ヘレン・ハーダーお二人の先生方も 司馬遼太郎が描こうとした激動の時代の人たち同様、強い志を持ったすごい 人たちだったんだなぁとホールの2枚の写真の前に立ってつくづく思う。 来秋、恵泉幼稚園は創立80年を迎える。 あらたな時代へ第 2 の船出である。 みこころのままに LET IT BE / The Beatles 「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカによる福音書 1 章 38 節) When I find myself in times of trouble 目の前に大きな壁が立ちはだかったとき Mother Mary comes to me マリアがぼくにあらわれて Speaking words of wisdom み言葉をささやく Let it be みこころのままに And in my hour of darkness 目の前が暗闇につつまれたとき She is standing right in front of me 彼女は光とともにぼくの前にあらわれて Speaking words of wisdom み言葉をささやく Let it be みこころのままに Let it be, let it be みこころのままに、みこころのままに Let it be, let it be みこころのままに、みこころのままに Whisper words of wisdom み言葉をつぶやくのです Let it be みこころのままに And when the broken-hearted people Living in the world agree 世界中に生きる打ちひしがれた人々が 心をひとつにしたとき There will be an answer 答えはかならず見つかる Let it be みこころのままに For though they may be parted 離ればなれになったとしても There is still a chance that they will see いつかめぐり合えるだろう There will be an answer 答えはかならず見つかる Let it be みこころのままに Let it be, let it be みこころのままに、みこころのままに Let it be, let it be みこころのままに、みこころのままに There will be an answer 答えはかならず見つかる Let it be みこころのままに Let it be, let it be みこころのままに、みこころのままに Let it be, let it be みこころのままに、みこころのままに Whisper words of wisdom み言葉をつぶやくのです Let it be みこころのままに And when the night is cloudy そして、雲のかかった夜だったとしても There is still a light that shined on me ぼくを照らす一筋の光が Shine until tomorrow 明日へとみちびく Let it be みこころのままに I wake up to the sound of music 美しい調べに目を覚ましたとき Mother Mary comes to me マリアがぼくにあらわれて Speaking words of wisdom み言葉をささやく Let it be みこころのままに Let it be, let it be みこころのままに、みこころのままに Let it be, let it be みこころのままに、みこころのままに There will be an answer 答えはかならず見つかる Let it be みこころのままに Let it be, let it be みこころのままに、みこころのままに Let it be, let it be みこころのままに、みこころのままに Whisper words of wisdom み言葉をつぶやくのです Let it be みこころのままに
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