研 究 紀 要 - 学校法人 東京聖徳学園

ISSN 2187-6843
研 究 紀 要
聖
徳
大
学
聖徳大学短期大学部
(2012)
第 23 号
第 45 号
目 次
〈研究論文〉
昔話絵本の絵が幼児の理解および作話に及ぼす影響
藪中 征代
Proactive Coping が心理的健康状態に及ぼす影響についての検討
宇佐美 尋子
1-8
9-14
-大学生を対象として-
高齢期女性の生活を決定する要因
川口 一美
15-22
近年の生活保護の動向
大倉 正臣
23-30
児童期における知能と学力の変動パターンの検討
都築 忠義
相良 順子
宮本 友弘
家近 早苗
松山 武士
佐藤 幸雄
31-37
日中独居要介護者の家族のニーズと訪問看護による援助の課題
春日 広美
石垣 和子
39-46
フランスにおけるダンス指導者国家資格制度
市瀬 陽子
47-53
ドコロカについての一考察
佐藤 直人
55-60
14 世紀末における there の文法上の機能
藤原 保明
61-67
K.マンスフィールドの「船の旅」小論
腹部 千代子
69-76
中村 裕
77-83
櫻木 真智子
85-88
-それまでの準備と老後の生活の関係-
-国語と算数に着目して-
-その概要と社会的背景-
-情景描写とフェネラの内面世界-
1960 年代ネパールにおける教育制度改革の背景と特徴
- NNEPC および ARNEC の教育制度構想における国民概念を比較して-
ミラー式足型計測法の年少児への適用
-その問題点と結果-
〈研究ノート〉
被災地におけるソーシャルワーカーの支援に関する課題
須田 仁
89-95
-社会福祉士の活動を通じて-
タイ伝統芸術舞踊の舞踊技法に関する研究
中野 真紀子
97-102
-上肢・下肢以外の身体部位に関する舞踊技法用語を中心に-
〈調査研究〉
学生支援員の活動実態と活動へのサポート上の課題
河村 久
腰川 一惠
103-109
定期健康診断において貧血・貧血傾向と判定された
女子学生の食事摂取状況について
川野 直子
桂 きみよ
田島 悦子
濱田 朋美
所 敏治
111-119

Contents
[Articles]
The effects of Japanese folk tales on the comprehension and
story-making of pre-school children
1-8
YABUNAKA, Masayo
The effects of proactive coping strategies on psychological well-being
USAMI, Hiroko
The factors dominating the life of elderly woman
KAWAGUCHI, Kazumi
The trend of the public assistant act in recent years
OHKURA, Masaomi
Research on intelligence and academic achievement in childhood
TSUZUKI, Tadayoshi, SAGARA, Junko, MIYAMOTO, Tomohiro,
IECHIKA, Sanae, MATSUYAMA, Takeshi and SATOU, Yukio
The needs of the families with relatives requiring home-care during
the working hours of their family-members and the challenges of
assistance involved in home nursing
31-37
47-53
ICHISE, Yoko
SATOW, Naoto
On the grammatical function of there in the late 14th century
23-30
KASUGA, Hiromi and ISHIGAKI, Kazuko
On dokoroka 'let alone'
15-22
39-46
The state diploma system of dance teaching in France:
Its outline and social context
9-14
FUJIWARA, Yasuaki
55-60
61-67

On K. Mansfield's "The Voyage"
FUKUBE, Chiyoko
The backgrounds and characteristics of the reform of
education system in Nepal in 1960's :
69-76
77-83
Comparing the educational plans of NNEPC and ARNEC
NAKAMURA, Yutaka
The form of plantae in early childhood including three-year-old children
SACRAGI, Machiko
85-88
[Notes and Discussions]
Issues of the social support workers in disaster-striken areas
SUDA, Hitoshi
A study of the techniques of Thai traditional art dancing:
97-102
Mainly on the terms of dancing techniques concerning the body parts
except arms and lower limbs
89-95
NAKANO, Makiko
[Research Studies]
A survey of the actual conditions and the problems of activities
of student school supporters
KAWAMURA, Hisashi and KOSHIKAWA, Kazue
A survey of the dietary of female students with anemia or anemic tendencies diagnosed by
the periodical health examination
103-109
KAWANO, Naoko, KATSURA, Kimiyo, TAJIMA, Etsuko,
HAMADA, Tomomi and TOKORO, Toshiharu
111-119
聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 1-8(2012)
昔話絵本の絵が幼児の理解および作話に及ぼす影響
藪中 征代
The effects of Japanese folk tales on the comprehension and story-making of pre-school children
YABUNAKA, Masayo
要 旨
本研究は,同一の物語を表現した絵本『ももたろう』の絵に注目し,視覚的情報としての絵の違いが,幼児の
物語の理解および作話にどのように影響するかを検討した。提示した絵は,写実的に詳細に描かれている絵(復
刻版絵本条件)と線や形中心の抽象的に描かれている絵(マンガ版絵本条件)の2種類である。5歳児 34 名を復
刻版絵本条件 18 名とマンガ版絵本条件 16 名に分け,それぞれ3枚の絵カードを見せ,理解課題と作話課題を実
施した。理解課題は,3枚の絵カードに何が描かれているか質問した。作話課題は,3枚の絵カードで話を作る
ことを求めた。理解課題については,⑴復刻版絵本条件の方がマンガ版絵本条件に比べて,幼児の「事実」の発
話が有意に多い,⑵「感想」はマンガ版絵本条件からは発話されなかった,ことが示唆された。作話課題につい
ては,⑶幼児が作話したエピソード数は,復刻版絵本条件の方がマンガ版絵本条件に比べて有意に多い,⑷復刻版
絵本条件の方がマンガ版絵本条件よりも内容語を有意に多く産出した,ことを示唆する結果を得た。これらの結
果より,写実的で詳細な絵からの方が情報量が多く,5歳児の発話をうながし,想像力を促進させることが明ら
かとなった。また,絵が線や形中心の抽象的な絵からは,幼児の発話は多く引き出すことができず,登場人物に
対するイメージの広がりも認められず,幼児の想像力の妨げになった可能性が示唆された。
問題と目的
思考に影響を及ぼすという側面があげられる。玉瀬(1990)は,
絵本がもつ意味とはどのようなことであろうか。この問いは,
幼稚園年長児(N=48名)を対象に,文章と絵の提示方法の違
子どもの成長にとって絵本とはどのような意味をもっているか
いが物語内容の記憶に及ぼす影響を検討した。幼児は,物語を
という問題と読み手の大人と聞き手の子どもの両者にとって,
文章のみで提示される群,絵のみで提示される群,文章と絵を
絵本がどのような意味をもつかという問題である。この問題を
提示される群のいずれかに分類され,各群で物語を提示された
検討していく方法として,絵本そのものに焦点を絞って考察す
後,物語再生テストを行った。その結果,文章+絵群,絵のみ
る方法と絵本と人との関係を見る方法とがある(松居,2002)
。
群ともに文章のみ群に比べて,より物語を再生することができ,
本研究では,絵本がもつ意味について,聞き手側である幼児が
絵が物語の記憶の助けとなるということが明らかとなった。佐
どのように評価するかという視点に立って検討していく。
藤(1980)は幼児の物語理解において,挿絵がある条件の方が
近年の絵本を取り巻く状況は,読者層が子どもから大人まで
挿絵なしの条件よりも,理解が促進されるという結果を示した。
広がり,絵本について関心が集まっている。家庭では,乳児か
このことから視覚的手がかりである挿絵は物語の構造に関する
ら親子の絵本を介した体験,保育所や幼稚園では,集団の場に
枠組みを聞き手に与え,物語理解を促進させる役割を果たして
おける絵本とのかかわりがあり,絵本は欠かせないものとなっ
いると考えられる。一方で,丸野・高木(1979)は,幼児に物
ている。このことは,幼稚園教育要領の領域「言葉」における
語を読み聞かせる際に各場面を描いた絵画情報を順序に即して
内容の取扱いにも記され,絵本が幼児期の子どもの発達におい
提示したが,顕著な効果をとらえることはできなかったとして
て重要な役割を担っていることがわかる。すなわち,
「絵本や
いる。このように佐藤(1980)と丸野・高木(1979)では異なっ
物語などで,その内容と自分の経験とを結びつけたり,想像を
た結果が得られた。この結果の違いは,与える視覚的手がかり
巡らせたりするなど,楽しみを十分味わうことによって,次第
としての絵によって,理解や産出の促進に異なった効果がある
に豊かなイメージをもち,言葉に対する感覚が養われるように
ことを予想させる。
すること」(文部科学省,2008)である。
ところで,絵本の絵のもつ意味は幼児の思考に影響を及ぼす
ところで,家庭や保育現場における絵本を介した活動が,子
だけではない。佐々木(1980)は,
「すぐれた絵本の絵は,子ど
どもの発達にどのような意味をもつかについては,色々な角度
もたちの経験や認識力をよく踏まえ,彼らの表象や想像をいき
から検討されている。その一つとして,絵本の絵が子どもの
いきと引き出すように描かれ,すぐれた文章は,子どもたちの
聖徳大学大学院教職研究科・准教授
― 1 ―
藪中 征代
研究論文 昔話絵本の絵が幼児の理解および作話に及ぼす影響
想像力を強く刺激する」と述べている。また,内田(1986)
は,
「幼
生々しい感じがする等の絵に対するリアル性を高くとらえ,色
児期からの想像による創造の営みは,子ども自身の精神生活を
使いがきれいだ,絵が好きだなどの絵に対する好みも高くとら
豊かにし,将来的にその一部は科学,芸術,技術のようなもの
えていることが示された。同一タイトルの昔話絵本であっても
として具象化されていく」と,絵本と想像力の関係の重要性を
視覚的情報である絵が異なれば,聞き手が受けとるイメージが
指摘している。しかし,絵本の絵が子どもの想像力に影響を及
異なり,それによってテーマにも影響を及ぼすことが明らかと
ぼすという点については,佐々木(1980)に代表される主観的
なった。特に,詳細版絵本では絵の違いが大いに影響を及ぼし
意見は多く見受けられるが,実証的研究は少ない。そこで本研
ており,絵から受けるリアルさにおいて顕著にこの傾向が認め
究では,絵本の絵と想像力の関連について検討していくことと
られた。
した。
視覚的情報の違いによる物語理解や作話の効果について,幼
一方,幼児の物語構成に関する認知心理学的研究は数多くな
児を対象とした研究は少ないが,中澤ら(2005)の絵の表現形
され,以下のような知見が示されている。まとまりのある一貫
式についての研究を以下に紹介する。同一タイトルの絵本『三
した物語を作るためには,①発端部-展開部-解決部といった
匹のくま』の絵に注目し,絵の違いが幼児の物語理解・想像力
物語展開構造に関する一般的な知識(エピソード構造,物語ス
に及ぼす影響について検討したものである。かわいいイメージ
キーマ)や,特定のテーマに関する豊富な既有知識(経験)をも
の絵の『三匹のくま』と,そうでない『三匹のくま』のいずれ
っていること,②複数の事象間の因果関係を推論でき,それを
かを5歳児に読み聞かせたところ,
後者の『三匹のくま』の方で,
表現する統語能力をもっていること,③物語の目標構造や欠如
物語理解が促進され,想像が広げられることが明らかとなった。
―補充の枠組みを理解・保持し,作話過程をモニタリングでき
この研究では,5歳児はかわいいイメージの絵を好むこと,絵
ること,が重要であり,これらは5歳半ごろを境に可能になる
の表現形式(かわいいイメージの絵とそうでない絵)がイメー
(Trabasso et al.,1981; 内 田,1982,1983,1985,1986,1989;
ジ形成に影響し,かわいいイメージの絵は幼児の想像力を抑制
秋田・大村,1987)。これらの知見から,物語を創作すること
すること,が明らかにされた。すなわち,絵が幼児の理解をう
は5歳半ごろから可能となることより,本研究では年長クラス
ながす重要な要因であること,さらに,絵は想像力にも影響を
の幼児を対象とする。
及ぼすことが示された。このことから,絵の印象が異なること
昔から人間は,人生を生きる意味や自分を取り巻く世界の意
によって,聞き手である幼児は,それぞれ異なる思考を巡らせ
味を考えて探り,そこから得られた知恵を昔話という物語の形
ることが示唆された。
をとって語り伝えてきた。その人間の知恵が,現在では大きく
以上述べてきたように,絵本の絵が異なることで,幼児の想
変貌しているように感じる。現在,1年間に2000冊余りの絵本
像性の働き方には違いが生じると予想される。中澤ら(2005)
が出版されている(出版ニュース社,2002)が,取り扱う内容
の研究では,絵本の絵が幼児の物語理解と想像性に影響を及
も多様化している。その中には,同一タイトルの作品であって
ぼすことは明らかにされているものの,読書材は『三匹のく
も,教育的配慮から絵や文章,モチーフの微妙な改作によって
ま』に限定されている。そこで,日本の昔話絵本を読書材にし
話が省略されたり,テーマが変質したりしている作品が多い
(藪
て,どのような絵が幼児の想像性を育むかを検討する必要があ
中・福沢,2005a)。また,日本の昔話絵本の多くは,絵がマン
るだろう。また,作話課題は,同一の文章に揃え読み聞かせた
ガ調で描写されており(以下マンガ版絵本と記す),子どもの
後,
その続きを創作するというものであった。
藪中・福沢
(2005a)
好みもマンガ調に偏っている傾向がある(中澤・中道・大澤・
の研究では,文章と絵のイメージが一致することが物語の理解
針谷,2005)。したがって,このような昔話絵本の絵の違いは,
を促進させるという結果が示されている。その点から考えれば,
幼児の物語理解や想像力にどのような影響を及ぼすか明らかに
まずは,絵本の絵のみを使用した作話課題について検討するこ
することは,幼児の読みを考えていく上で大変有益であると考
とが重要であろう。
える。
そこで本研究では,日本の昔話絵本の一つである『ももたろ
ここで同一タイトルの昔話絵本を読書材として,視覚的
う』を取り上げる。
『ももたろう』を読書材とした理由は次の
情報の違いについての研究を紹介する。藪中・福沢(2005a,
点からである。『ももたろう』の話は,日本の昔話の中でも最
2005b)は,同一タイトルのマンガ版(絵がマンガ調で描かれて
もポピュラーなものである。小さい子どもが親元を離れて冒険
いる)と詳細版(絵がリアルに詳細に描かれている)の昔話絵本
の旅に出るという話の内容は,児童文学の一つのパターンでも
『ももたろう』を読書材として,成人および児童が,文章や絵,
あることから,『ももたろう』の話には,国や時代を超えた普
テーマに対してどのような理解やイメージをもつかということ
遍性があると考えられよう。そして,この絵本は,多くの幼稚
を検討した。その結果,詳細版絵本の方がマンガ版絵本に比べ,
園や保育所,家庭で読み聞かされている。したがって,幼児に
知識を多く得ることができ,絵に対して本物のように感じる,
とってなじみが深く,この物語の内容をまったく知らないとい
― 2 ―
藪中 征代
研究論文 昔話絵本の絵が幼児の理解および作話に及ぼす影響
う幼児が少ないと考えられよう。そのために,物語の内容を理
解できたか否かという違いによって,想像性の喚起が左右され
る可能性は低いと考えられる。したがって,異なるタイプの絵
を用いた作話の場合,もしも幼児の想像性の反応が異なったと
すれば,それは絵がもたらした影響であるととらえることがで
きるであろう。
以上をふまえ,本研究では年長児クラスの幼児を対象に,同
一の物語を表現した絵本『ももたろう』を読書材として,視覚
的情報としての絵の違いが物語の理解および作話に及ぼす影響
について明らかにすることを目的とした。
図1 A絵本
方 法
図2 B絵本
調査参加者
埼玉県内のS幼稚園年長児34名(男児17名,女児17名)を対
象とした。平均年齢は5歳8ヵ月である。調査参加者を新・講
談社の絵本の絵カードを見せる復刻版絵本条件とデラックス版
マンガ日本昔話絵本の絵カードを見せるマンガ版絵本条件に分
けた。2条件は月齢と言語能力について統制を行った。言語能
力に関しては,田中ビネー知能検査の下位検査「語彙」の評定
点で等質であることを確認した(F(1, 32)=0.90, n.s.)。さらに,
調査参加者については幼稚園教諭から聞き取りを行い,標準的
図3 C絵本
図4 D絵本
な発達であると判断した。各条件の人数の内訳は,復刻版絵本
条件18名(男児8名,女児10名;平均年齢5歳8ヵ月),マン
ガ版絵本条件16名(男児9名,女児7名;平均年齢5歳8ヵ月)
である。
読書材
現在,出版されている『ももたろう』の絵本は,64種類ある。
この64種類の絵本の絵を分析すると,様々なタイプの絵がある
が,大きくは次の2つのタイプに分類できる。アニメやマンガ
図5 E絵本
調で抽象的に描かれ,色調は原色を多く使っている絵と写実的
図6 F絵本
に詳細に描かれ,色調は落ち着いた本物に近い色使いをしてい
る絵の2つである。絵の印象が異なる64冊の『ももたろう』の
1998」
(図5)
,F絵本「いもとようこ/作,岩崎書店,2001」(図
絵本の中から,①写実的に詳細に描かれ,色調は落ち着いた本
6)であった。
物に近い色使いをしている絵,②アニメやマンガ調で抽象的に
10名の大学院生が選定した絵本は,
A絵本
(図1)
とD絵本(図
描かれ,色調は原色を多く使っている絵の絵本をそれぞれ3冊
4)
となった。
それぞれの絵本の特徴は以下に示すとおりである。
ずつ選定した。絵の印象が異なると思われる6冊の『ももたろ
A絵本:
『新・講談社の絵本 桃太郎』(2001)千葉幹夫/文,
斉藤五百枝/画,講談社
う』の絵本を大学院生10名に提示し,まったく異なる印象の絵
の絵本を2冊選定することを求めた。その際,それぞれの絵本
この絵本は,写実的で細部にわたり詳細に描かれ,色調は落
の絵の特徴を自由記述で求めた。
ち着いており,ほぼ本物に近い色使いであり,登場人物もリア
6冊の絵本は,A絵本「千葉幹夫/文,斉藤五百枝/画,講談
ルに描かれている。復刻版絵本とは,2001年に復刊された新講
社,2001」(図1),B絵本「小沢俊夫/再話,赤羽末吉/画,福
談社絵本であり,1937年発刊当時の一流の日本画家にその絵を
音館書店,1995」
(図2),C絵本「松居直/文,赤羽末吉/画,
依頼し,出来上がった日本画の絵本である(以下復刻版絵本と
福音館書店,1965」(図3),D絵本「山口俊子/構成,講談社,
記す)
。これらの作品は,1937年から200冊以上刊行された絵本
1984」(図4),E絵本「柳川茂/文,宮尾岳/イラスト,永岡書店,
の中から,21世紀に残したい昔話絵本として復刊希望の多かっ
― 3 ―
藪中 征代
研究論文 昔話絵本の絵が幼児の理解および作話に及ぼす影響
た絵本である。これらのことから,A絵本を復刻版絵本条件と
特徴づけられる。テレビで放映されていた「まんが日本昔話」
した。
を絵本版にしたものであることから,D絵本をマンガ版絵本条
D絵本:
『デラックス版まんが日本昔ばなし絵本 桃太郎』
件とした。
上記の絵本の中から,①桃太郎誕生場面,②桃太郎が3匹の
(1984) 山口俊子/構成,講談社
この絵本は,登場人物は線や形で簡略化され,かわいい印象
動物(いぬ,さる,きじ)と鬼が島へ鬼退治に行く場面,③鬼
を与える抽象的に描かれ,色調は明るくメルヘン的な絵として
が島での鬼退治の場面の3場面を絵カードにした(図7,図8
場面1
場面1
場面2
場面3
場面2
3場面
図7 復刻版絵本の絵カード
― 4 ―
図8 マンガ版絵本の絵カード
藪中 征代
研究論文 昔話絵本の絵が幼児の理解および作話に及ぼす影響
参照)
。3つの場面については事前に大学院生8名のインタビ
Table1 場面ごとの事実と感想のエピソード数の平均値(標準偏差)
ューにより抽出した。
場面
課題
①理解課題
3枚の絵カード(図7,図8参照)を最初に1場面2秒程度
提示し,その後,何が描かれているかを質問した。また,「こ
のお話はどんなお話か知っていますか」と質問し,調査参加者
復刻版絵本(n=18)
事実
感想
マンガ版絵本(n=16)
事実
感想
1
  5.28(1.49)   3.56(1.38)   5.44(1.55)
0
2
  5.33(2.52)   1.94(1.98)   4.00(1.90)
0
3
  4.17(2.31)   3.44(1.50)   1.88(1.26)
0
全体
14.78(3.83)   8.94(3.44) 11.31(3.00)
0
全員が知っている話であることを確認した。
②作話課題
者の評定を採用した。
「この絵はどんなお話だと思いますか。お話を作ってみてく
Table1に場面ごとの事実と感想のエピソード数の平均値を
ださい」と自由に創作することを求めた。調査参加者が話を始
示した。
めるのを躊躇しているときには,「思ったように作っていいよ」
絵の違いによる幼児の発話内容の差異を明らかにするため
などと声をかけ,リラックスして課題ができるように配慮した。
に,事実と感想に分けて分析を行った。まず,事実について
発話が途切れたときは,「それでは?」「次は?」とうながし,
絵の違いによる影響を検討した結果,復刻版絵本の方がマン
それでも言語反応が見られない場合は「とばそうか?」と尋ね,
ガ版絵本より事実の発話が有意に多いことが明らかとなった
承諾を得た後,次の場面に進んだ。課題実施時には,調査者は
(t=11.62, df=32, p<.001)。また,場面ごとの絵の違いによる幼
常に肯定的なうなずきを入れ,調査参加者が自信をもって課題
児の事実発話内容の違いを検討した。その結果,場面1(t=-
に取組めるように心がけた。
0.31, df=32,n.s.)
,場面2(t=1.73, df=32,n.s.)では,有意な差は
見られなかったが,場面3において復刻版絵本の方がマンガ版
手続き
絵本より事実発話が有意に多いことが明らかとなった(t=2.29,
調査場所は,調査参加者の所属する幼稚園の使用されていな
df=32, p<.001)
。感想についてはTable1に示したとおり,マ
い一室であった。課題を実施する前に,調査者は調査参加者に
ンガ版絵本からは発話は全く認められなかった。
名前を聞くなどし,ラポールを形成した。課題は,理解課題,
これらの結果より,復刻版絵本の方がマンガ版絵本より,幼
作話課題の順に行った。調査参加者の発話は,すべてICレコ
児の「事実」の発話が有意に多いことが明らかとなった。復刻
ーダーに録音し,補助的にビデオにも記録した。その後,発話
版絵本は,絵が詳細に描かれており,絵からの情報が多く得ら
データを基に逐語録を作成した。
れることにより,幼児の「事実」発話が多くなったと考えられ
る。また,復刻版絵本は絵が詳細に描かれ,絵からの情報量が
評価方法
マンガ版に比べると多いことにより,登場人物に対するイメー
①理解課題
ジが喚起され,「感想」の発話もみられたのであろう。それに
「この絵は何が描かれていますか」という質問に対する幼児
対してマンガ版絵本では,絵が線と形中心で簡略に描かれ,絵
の発話内容を,事実(幼児の発話内容が絵に描かれている内容
から得られる情報が少なく,どのように言語化していいかわか
である場合)と感想(幼児の発話内容が絵から想像した内容で
らないために,幼児の「感想」の発話がなかったと考えられる。
ある場合)に分けて分類し,幼児の発話のエピソード数を求めた。
対象幼児にとっては,言語化することが難しい絵であるといえ
②作話課題
よう。
幼児が創作した話を意味内容のまとまりで区切ったエピソー
b)事実発話の誤答
ド数を求めた。1エピソードにつき1点を与えた。この内容に
幼児の「事実」発話においての誤答をした人数をTable2に
ついて,事実と感想の2種類に分類した。また,エピソードを
示した。誤答について絵の違いによる影響を検討した結果,復
品詞に分類し,品詞別語彙数を算出した。
刻版絵本に比べマンガ版絵本の方に誤答が有意に多く認めら
れた(χ2⑴=54.70, p<.01)
。誤答の内容をみると,
「まないた」
結果と考察
を「だい・いた」
「ほうちょう」を「ナイフ」と誤答した幼児は,
,
1.理解課題
提示されたモノの名前を知らないためであると考える。「いぬ」
a)エピソード数
を「ねこ,きつね」
,
「ももたろう」を「にんげん・男の子」,
「き
得点化を調査者ともう1名の評定者が独立に行ったところ,
じ」を「とり・つる・にわとり」と誤答したのはマンガ版絵本
理解課題の評定一致率は89%であった。不一致の場合は,調査
条件の幼児の方が多い。この時の幼児の発話は「よくわからな
― 5 ―
藪中 征代
研究論文 昔話絵本の絵が幼児の理解および作話に及ぼす影響
い」といいながら,「ねこみたい」「きつねみたい」と発話して
であり,イメージの広がりもあまり認められないと考えられる。
いる。また,本調査では,「ももたろう」の話を知っている幼
b)作話内容のエピソード数
児を対象としたが,
「ももたろう」を「にんげん・男の子」と
Table4に幼児が創作したお話の内容について「事実」と「感
誤答した幼児がマンガ版絵本の方に多くみられた。これについ
想」に分類し,そのエピソード数の平均値を示した。創作した
ては,どちらの絵からも何らかのイメージは喚起されたものと
お話の「事実」と「感想」のエピソード数に及ぼす絵の違いを
わかる。しかし,マンガ版絵本では,絵が抽象的であるために
検討した。その結果,
「事実」と「感想」のどちらにおいても,
そのものを特定することが難しかったと考える。なぜなら,マ
マンガ版絵本より復刻版絵本の方がエピソード数が有意に多い
ンガ版絵本の絵は線と形を中心とした抽象画で,その線も単純
ことが明らかとなった(事実:t=10.10, df=32, p<.001;感想:
化され,描かれている動物やももたろうが明確に特定できにく
。
t=5.39, df=32, p<.001)
かったために,絵を見ても「よくわからない」という否定的な
これらの結果より,復刻版絵本は絵が詳細に描かれており,
発話がみられ,それが誤答につながったと考えられよう。
絵からの情報が多いが,マンガ版絵本では,絵が簡略化され,
情報量が少ないために作話のエピソード数も少なくなるという
2.作話課題
ことが示唆された。
a)場面ごとのエピソード数
c)場面ごとの語彙数
得点化を調査者ともう1名の評定者が独立に行ったところ,
Table5に場面ごとの作話した話の総語彙数の平均値を示し
作話課題の評定一致率は90%であった。不一致の場合は,調査
た。ここでは,幼児が創作した話の総語彙数に及ぼす絵の違い
者の評定を採用した。
を検討した。その結果,語彙数においては,どの場面において
Table3に場面ごとの創作した話のエピソード数の平均値を
も復刻版絵本もマンガ版絵本も有意な差はみられなかった(場
示した。創作した話のエピソード数は,復刻版絵本の方がマ
面1:t=0.97, df=32,n.s. ; 場面2:t=0.63, df=32,n.s. ; 場面3
ンガ版絵本に比べて,有意に多かった(t=10.12, df=32, p<.001)
。
:t=1.30, df=32,n.s. ; 全体:t=0.37, df=32,n.s.)
。
次に,絵の違いによる場面ごとのエピソード数の差異について
d)品詞別総語彙数
検討した結果,場面1(t=8.49, df=32, p<.001),場面2(t=7.13,
幼児のエピソードを品詞に分類し,品詞別語彙数を算出した
df=32, p<.001),場面3(t=9.78, df=32, p<.001)ともに,復刻版
結果をTable6に示した。どちらの絵本においても名詞が一番
絵本の方が有意にエピソード数が多かった。これらの結果から,
多く,続いて動詞の順であった。品詞別の語彙数に及ぼす絵の
幼児の創作した話のエピソード数は,どの場面においても復刻
違いを検討するために,t検定を行った。その結果,名詞,形
版絵本の方が有意に多いことが明らかとなった。簡略化された
容詞において,復刻版絵本の方がマンガ版絵本に比べて有意に
抽象的なマンガ版絵本からは幼児の発話は引き出すことが困難
多かった(名詞:t=2.43, df=32, p<.05;形容詞:t=4.81, df=32,
Table2 「事実」発話を誤答した人数
復刻版絵本より有意に語彙数が多かった(副詞:t=-2.60, df=32,
正答
まないた
ほうちょう
きじ
ももたろう
さる
いぬ
おに
合計
誤答
だい・いた
p<.01)。また,副詞,接続語においては,マンガ版絵本の方が,
誤答数
復刻版絵本
(n=18)
ナイフ
とり・つる・にわとり
にんげん・男の子・
おにいさん
動物
おおかみ・ねこ・きつね
おじさん・悪者
0
15
6
16
1
4
名詞,動詞はどちらの条件も全員が使用しており,形容詞を使
用した幼児は,復刻版絵本16名,マンガ版絵本6名であり,復
15
2
10
20
71
0
次に,絵の違いによる品詞の使用人数を検討した。その結果,
3
7
4
。
p<.05;接続語:t=-2.49, df=32, p<.05)
マンガ版絵本
(n=16)
Table4 作話内容のエピソード数の平均値(標準偏差)
事実
8
感想
Table3 創作した話のエピソード数の平均値(標準偏差)
復刻版絵本(n=18)
マンガ版絵本(n=16)
22.89(5.39)
11.56(6.85)
23.56(6.66)
4.88(1.41)
Table5 場面ごと語彙数の平均値(標準偏差)
場面
復刻版絵本(n=18)
マンガ版絵本(n=16)
場面
復刻版絵本(n=18)
マンガ版絵本(n=16)
2
14.50(4.12)
5.19(3.41)
2
28.56(15.97)
24.44(18.71)
1
3
計
16.39(3.93)
15.56(3.42)
46.44(9.75)
6.44(2.71)
4.81(2.93)
1
3
16.44(7.16)
計
― 6 ―
36.83(10.21)
27.78(16.29)
81.50(45.91)
30.69(24.69)
20.00(18.58)
75.13(55.41)
藪中 征代
研究論文 昔話絵本の絵が幼児の理解および作話に及ぼす影響
刻版絵本の方が有意に形容詞を使った幼児が多かった(χ2⑴
絵本では,詳細に絵が描かれており,絵に情報が多く示されて
=9.80, p<.01)。形容動詞を使用した幼児は,復刻版絵本16名,
いることから,内容語が多くなったと考えられる。機能語は絵
マンガ版絵本3名で,復刻版絵本の方が有意に形容動詞を使っ
からの情報に直接関係していないために,本調査では多く使用
た幼児が多かった(χ ⑴=16.92, p<.001)。副詞を使用した幼児
されなかったのであろう。
2
は,復刻版絵本で11名,マンガ版絵本で13名であり,人数の差
はみられなかった(χ2⑴=1.66,n.s.)。ここで使用された副詞は,
総合的考察
「まず」
「すぐ」
「よく」であった。また,代名詞を使用した幼
本研究の目的は,5歳児を対象にして,絵の印象が異なる絵
児は,復刻版絵本で7名,マンガ絵本で8名であり,人数の差
本『ももたろう』を用いて,視覚的情報としての絵の表現の違
はみられなかった(χ2⑴=0.42,n.s.)。擬声・擬音語を使用した
いが物語の理解および作話に及ぼす影響について明らかにする
幼児は,復刻版絵本で6名,マンガ版絵本で6名であり,人数
ことであった。
の差はみられなかった(χ ⑴=0.06,n.s.)。接続語を使用した幼
理解課題,作話課題のどちらにおいてもマンガ版絵本を用い
児は,復刻版絵本で7名,マンガ版絵本で16名であり,マンガ
た時よりも,復刻版絵本を用いた時に,5歳児は多くのことば
版絵本の方が接続語を使用した幼児が有意に多かった(χ ⑴=
を発し,想像力を促進させることが本研究より明らかとなった。
14.45,n.s.)。復刻版絵本で使用された接続語は,
「それで」
「で」
「そ
この結果は,中澤ら(2005)の研究結果を支持するものであった。
したら」であった。これに比べて,マンガ版絵本では,全員の
また,抽象的な絵からは感想の発話は得られなかったが,詳細
幼児が接続語を使用していたが,その内容は「えーと」
「んーと」
で写実的な絵からは,感想の発話が抽象的な絵に比べて多くみ
と言いよどみ語がほとんどで,絵が抽象的であるために,言語
られた。このことは,絵が詳細に描かれていることにより,登
化に努力を要しており,発話をうながすのが難しかったと考え
場人物に対するイメージが促進され,感想の発話が多くなった
られる。
と考えられる。
e)内容語と機能語の分類
線や形を中心とした抽象的な絵からは,幼児の発話を多く引
ここでは内容語(content words)と機能語(function words)
き出すことが難しく,言語化することが困難なために感想の発
に分類して考える(Fries,1952)。内容語とは,語彙的意味を
話は一切なかったのであろう。また,幼児の事実の誤答もマン
もつ語(内容を表す語彙)のことであり,機能語とは,語彙的
ガ版絵本に多かった。これらのことから,抽象的な絵は,登場
意味はほとんどもたず,文法的な働きをもつ語(文法構造のた
人物に対するイメージの広がりもあまり認められず,幼児の想
めの語彙)のことである。幼児のエピソードを内容語と機能語
像力の妨げになったのではないかと考えられる。
に分類し,それぞれの総語彙数を算出した結果をTable7に示
本研究では,今まで検討されてこなかった絵の描き方が対照
した。内容語は復刻版絵本の方がマンガ版絵本に比べ,有意に
的な絵本を与えられた時の幼児の反応について実証的に検討し
多かった(t=2.85, df=32, p<.05)。機能語はマンガ版絵本の方が
たものである。また,経験的に語られることが多かった絵本の
復刻版絵本に比べ有意に多い(t=-2.41, df=32, p<.05)
。復刻版
絵が幼児の理解や作話に対する影響について,特に日本画で写
2
2
実的に描写された絵本の絵を読書材にして本研究において実証
することができたことは,本研究の新しさであり大いに意味が
Table6 品詞別総語彙数の平均値(標準偏差)
品詞
名詞
動詞
形容詞
形容動詞
副詞
代名詞
擬声・擬音語
接続語
あると考える。同じ昔話絵本でも絵の違いが幼児の発話に影響
復刻版絵本(n=18)
マンガ版絵本(n=16)
29.94(12.19)
25.00(19.91)
選択することが求められるであろう。たとえば,同じ内容の昔
2.39(1.79)
0.19(0.40)
をねらいとしているのであれば,抽象的な絵ではなく,詳細に
51.89(21.43)
5.11(2.81)
1.28(1.49)
0.56(0.86)
0.44(0.70)
1.56(3.35)
34.38(20.47)
を及ぼすことから,幼児に与える絵本の絵にも注目し,慎重に
2.06(3.41)
話絵本を幼児に読み聞かせする場合,幼児の想像性を育むこと
3.44(3.16)
写実的に描かれた絵本を選択することが適切であろう。このよ
1.31(1.96)
うに絵の印象が異なることによってその絵本によって育まれる
0.94(1.65)
幼児の心情・意欲・態度が異なることを認識し,保育のねらい
7.81(10.06)
に即した適切な絵本を選択することが,保育者に望まれること
である。
Table7 内容語と機能語別語彙数の平均値(標準偏差)
内容語
機能語
復刻版絵本(n=18)
マンガ版絵本(n=16)
2.11(3.56)
9.13(11.76)
91.06(33.97)
66.00(44.83)
― 7 ―
藪中 征代
研究論文 昔話絵本の絵が幼児の理解および作話に及ぼす影響
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付記
調査にご協力いただきました幼稚園の園児の皆様と先生方に
厚く御礼申し上げます。本論文は,日本教材学会第18回研究発
表大会にて発表した研究に,再分析を行ったものです。
― 8 ―
聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 9-14(2012)
Proactive Copingが心理的健康状態に及ぼす影響についての検討
-大学生を対象として-
宇佐美 尋子
The effects of proactive coping strategies on psychological well-being
USAMI, Hiroko
要 旨
近年,人間の潜在的能力や強み,健康面に焦点を当て肯定的感情を探求するポジティブ心理学的アプローチが
注目されている。心理学的ストレスモデルに基づくコーピング概念についても,ストレスから生じるネガティブ
な側面への対処努力に焦点を当てるだけではなく,ストレッサー生起予防のための対処努力や,環境を挑戦や成
長の機会として捉えた際の対処努力といったポジティブな側面に焦点を当てた新しい観点で捉えることの必要性
が指摘され,新たなコーピング理論として Proactive Coping Theory が提唱されている。
そこで本研究では,Proactive Coping を測定する尺度の因子構造の確認,及び Proactive Coping が心理的スト
レス反応に及ぼす影響についての検討を,大学生を対象として行った。その結果,Proactive Coping が,緊張感
や憂うつ感という深化した心理的ストレス反応を低減する効果をもつことが示された。
1.はじめに
による「コントロール(積極)-逃避(回避)
」
,3コーピングの
1)
心理学的ストレスモデル では,個人を取り巻く「環境から
使用において他者が関わるかどうかによる「社会-孤立」,に
の要請」に対する「認知的評定」においてネガティブな評定が
大別される4)。理論的基準によるコーピングの分類には批判も
なされた場合,生起したストレッサーに対して「コーピング」
あるが5),臨床場面では,コーピングの修正や変容の促進,コ
が検討され,コーピングを介して「心理的ストレス反応」と
ーピングの実行効果を明らかにする際にコーピングの分類が役
してネガティブな感情反応が生起するとされる。このモデル
立つとされる6)。コーピングの効果は,ストレッサーや情動状
において,心理的ストレス反応の生起の有無や程度を規定す
態を処理するために実行されたコーピングによって問題が解決
る重要な概念としてコーピングが位置づけられる。Lazarus &
され,心理的ストレス反応としてネガティブな感情反応が生起
Folkman によると,コーピングは「個人の資源に負荷を与え,
しない状態になることである1)。そのため,コーピング採択や
その資源を超えると評定された外的ないし内的要請を処理する
その有効性は,直面するストレッサーによって異なるとされる
ために行う認知的・行動的努力であり,その努力は常に変化す
が7)8),問題を周囲に相談したり,具体的な解決に取り組む積
るものである」と定義され,1コーピングは状況によって変化
極的コーピングの促しによって心理的ストレス反応の低減をは
する動的なプロセスである,2コーピングは意識的な努力であ
かる臨床的介入の効果が先行研究において実証されている9)。
る,3コーピングとコーピングの結果は別である,という特徴
さらに,“コーピングに先行して存在し,コーピングに影響
1)
2)3)
をもつとされる
を及ぼし,その結果ストレスの効果を媒介していく要因”と
。
これまでのコーピング研究では,コーピングの種類やコーピ
してコーピング資源がある 1)。これは,自尊心や積極的な信
ングの効果が検討されてきた。コーピングの種類としては,コ
念,有能感などの個人に内在する内的資源と,ソーシャルサポ
ーピングが処理しようとしている“焦点”と,どのように処理
ートや仕事のコントロールなどの外在する外的資源に大別され
しようとしているかという“手段”の2つの観点による分類が
る10)11)。先行研究では,自尊心や積極的な信念の高さが,具体
試みられてきた。“焦点”の分類では,1問題焦点型コーピング:
的行動をとる問題焦点型コーピングの採択の促進や,逃避や自
ストレスフルな状況において生じている問題を解決しようとす
己避難といった情動焦点型コーピングの採択の抑制と関連して
る具体的な努力,2情動焦点型コーピング:ストレスフルな状
いること,ソーシャルサポート期待量の高さが積極的コーピン
況で喚起された不快な情動状態の調整を目的とする対処,に大
グの採択につながることなどが実証されており,コーピング資
1)
別される 。“手段”の分類では,1観察可能な行動の有無に
源は,コーピングの採択を規定する重要な要因といえる12)13)14)。
よる「認知-行動」,2ストレスフルな状況に対する関わり方
以上のように,心理学的ストレスモデルにおける,ネガティ
聖徳大学心理・福祉学部社会福祉学科・助教
― 9 ―
宇佐美 尋子
研究論文 Proactive Coping の心理的健康状態への影響
ブな評定がされたストレッサー及びそれに起因するストレス反
のサポート模索(Instrumental support seeking)
」
「感情面での
応に対するコーピングの機能についての検討はこれまで多く蓄
サポート模索(Emotional support seeking)
」
「回避的コーピン
積されてきた。
グ(Avoidance coping)
」の7側面からプロアクティブコーピ
近年,人間の潜在的能力や強み,健康面に焦点を当て,楽観
ングを多面的に測定できる構造となっている。
や未来志向といった肯定的感情や幸福感,エンゲージメントを
このように,プロアクティブコーピングに関する研究はポジ
15)16)
が注目され,従来
ティブ心理学的アプローチの発展とともにすすんでいる。しか
のコーピング概念も,ポジティブな視点を含んだ概念へと拡充
し,日本においては,従来のコーピングに関する実証研究は多
できることが指摘されている。つまり,ストレスから生じるネ
く蓄積されているものの,プロアクティブコーピングに関する
ガティブな側面への対処努力に焦点を当てるだけではなく,ス
実証研究は非常に少ないことが指摘できる。
トレッサー生起予防のための対処努力や,ストレスフル環境を
そこで本研究では,プロアクティブコーピングが心理的健康
挑戦や成長の機会として捉えた際の対処努力といったポジティ
状態に及ぼす影響について検討することを目的とする。まず,
ブな側面に焦点を当てた新しい観点でコーピングを捉えること
検討1において,プロアクティブコーピングを測定する尺度の
の必要性である。
因子構造の確認を行い,検討2において,プロアクティブコー
探求するポジティブ心理学的アプローチ
ポジティブ心理学の観点から提唱された新しいコーピング理
ピングが心理的ストレス反応に及ぼす影響について検討を行う。
17)
論としてProactive Coping Theoryがあげられる。Schwarzer
は,「時間的な見通し」と「ストレッサー生起の確信度」の2
2.検討 1
軸から4種類のコーピングを捉え,Proactive Coping Theory
⑴目的
を説明している。4種類のコーピングは,①Reactive coping:
プロアクティブコーピングが心理的健康状態に及ぼす影響に
既に生起しネガティブな評定がされたストレッサーへの対処で
ついて検討するにあたり,
The Proactive Coping Inventory
(以
あり,従来のコーピングに該当する,②Anticipatory coping:
下PCIと表記)日本語版20)を参考にプロアクティブコーピング
近い将来避けられないストレッサーへの対処であり,コーピン
を測定する尺度の因子構造の確認を行う。
グ資源の開拓を含む,③Proactive coping:生起確信のあるス
トレッサーに対する挑戦的で目標志向的な対処であり,ゴール
⑵方法
マネジメントを含む,④Preventive coping:生起が不確かな
調査時期・調査対象
ストレッサーに対する予防的な対処であり,リスクマネジメ
2012年2月から2012年5月にかけて大学生484名に調査を実
ントを含む,である。この分類やGreenglass
18)
の知見を踏まえ
施し,分析項目に1問以上無効な回答のあるもの22名を除外し
ると,従来のコーピングと新たなコーピング(以下プロアクテ
た462名(男性147名,女性315名)を分析対象とした。有効回答
ィブコーピングと表記)の相違点として,1従来のコーピング
率は95.5%であった。調査対象者には,調査実施の際に回答方
は,既に生起したストレッサーへの対処努力であるが,プロア
法や分析処理方法,プライバシーの保護に関する説明を十分行
クティブコーピングは,ストレッサーが生起する以前から将来
い調査協力を得た。
を見通した対処努力であり,挑戦や成長を促す資源を開拓する
調査票
努力が含まれること,2従来のコーピングは,環境からの要請
PCI日本語版20)を使用した。本尺度は,
「能動的コーピング(14
に対して脅威や害というネガティブな評定をした際のリスクマ
項目)
」
「内省的コーピング(11項目)
」
「計画的コーピング(4
ネジメントが主であるが,プロアクティブコーピングは,環
項目)
」
「予防的コーピング(10項目)
」
「行動面でのサポート模
境からの要請を挑戦や成長の機会として捉えたゴールマネジ
索(8項目)
」
「感情面でのサポート模索(5項目)
」
「回避的コ
メントを含むこと,3従来のコーピングは,環境からの要請
ーピング(3項目)
」の7下位尺度による合計55項目から構成
に対するネガティブな評定によって引き起こされるが,プロ
される。本研究では,日常における出来事や様々な状況に対す
アクティブコーピングは,環境を挑戦的で刺激的な状況とし
る反応の事実を確認するため,項目は全て過去の行動事実を確
て捉える点でよりポジティブな動機によって引き起こされる
認する形式とし,
「全くあてはまらない」から「全くその通り」
こと,の3点があげられる。Proactive Coping Theory を踏ま
の4件法によって回答を求めた。
19)
え,Greenglassら
は,プロアクティブコーピングを測定する
尺度「The Proactive Coping Inventory(PCI)」を開発してい
⑶結果と考察
る。これは,「能動的コーピング(Proactive coping)」「内省的
因子構造を検討するため因子分析(最尤法・斜交プロマック
コーピング(Reflective coping)」
「計画的コーピング(Strategic
ス回転)を行った。分析には,統計ソフトSPSS(Version18.0)
」「予防的コーピング(Preventive coping)」「行動面で
coping)
を用いた(以下の分析も同様である)
。
― 10 ―
宇佐美 尋子
研究論文 Proactive Coping の心理的健康状態への影響
表1.プロアクティブコーピング尺度の因子分析結果
分類
因子負荷量
項目内容
F1
必ず問題について注意深く考えてから,行動を起こした。*1
行動を起こす前に,状況を変えるための計画的方法を練った。
実際に取り組む前に,問題に対するあらゆる結果を考えた。*1
予防的
コーピング
衝動的に行動するより,問題解決に向けての様々な方法を考えた。*1
心の中で,色々違った結果に対処するための様々なシナリオを考えた。*1
危険な状況を避けるために先を読んだ。
問題に取り組むために,現実的な対処法を考えた。*1
不幸な出来事に備えてきた。
適切なアプローチを見つけるまで,様々な角度から物事を検証した。*1
一番良い結果が得られるよう,計画を練った。
難しい問題に取り組む結果になる前から,その問題を解決している自分を想像した。
内省的
コーピング
難しい問題に取り組む前に,成功することを想像した。
難しい問題を解決している自分を想像した。
仕事に応募する時,その仕事をしているところを想像した。*2
夢を思い描き,成し遂げるように努力した。*2
能動的
コーピング
問題にぶつかったら,解決に向けて主導権をとった。
自分で主導権をとった。
不幸な目に散々あっても,たいてい自分の欲しい物を手に入れてきた。
それは無理だよといわれても,やってみせた。
予防的
(生活面)
コーピング
年をとってお金に困らないよう,今からお金をうまく運用している。
計画的
コーピング
難しい問題を,取り組みやすい小さな課題に分けていった。
回避的
コーピング
お金は,全部使ってしまうより,困った時のために貯金してきた。
将来,不幸な出来事があっても家族が困らないようにしてある。
問題を小さな問題に分けて,それを一つずつ実行した。
問題が難しすぎると分かれば,問題に取り組む用意ができるまでしばらくそっとしておいた。
問題があると,たいてはしばらくの間何もしないでおいた。
物事を流れにまかせるようにした。*2
問題があると,一晩寝てから考えた。
固有値
因子間相関
F2
F3
F4
F5
F6
.80
.74
.70
.68
.64
.61
.58
.57
.55
.49
-.13
.03
.17
-.14
.16
.03
-.11
.00
.11
.10
-.14
-.03
.06
-.08
-.01
.04
.10
.03
.09
.06
.09
-.07
-.01
-.01
-.03
.03
.00
-.04
.01
.05
-.16
.08
-.10
.19
-.03
-.11
.20
-.06
.04
.06
-.13
.01
.11
-.08
.10
.05
.05
.03
.03
-.07
.47
.58
.53
.55
.45
.32
.50
.27
.48
.47
.08
-.14
.14
.14
-.04
.83
.81
.70
.35
.33
-.07
.07
-.05
-.04
.10
.01
.04
-.07
.00
.06
-.05
.04
-.01
.10
.19
.05
.03
.01
-.04
-.15
.64
.63
.55
.27
.38
.14
.01
-.06
-.07
-.05
-.02
-.04
.15
.86
.79
.42
.39
.00
-.01
-.01
.06
-.02
-.07
.05
-.01
-.02
-.04
.13
-.11
.80
.59
.13
.28
-.07
.23
.05
-.02
-.06
.13
-.02
-.02
.08
1.04
.43
.34
-.06
.14
.02
.01
.08
.08
.99
.33
.20
-.02
.04
.04
.01
-.04
.03
.01
-.01
.95
.78
.08
.03
.83
.66
.20
-.06
-.21
-.03
-.09
.10
-.18
.12
-.05
-.04
.12
.07
.06
.00
-.04
.05
.05
-.16
.03
.14
.65
.64
.58
.49
.39
.53
.54
.19
6.27
27.82
4.32
3.69
3.34
2.92
F1
F2
F3
F4
F5
F6
.60
1.00
.36
.23
F1
1.00
F3
.50
F2
F4
F5
F6
.67
-.45
.63
1.00
.57
.50
-.38
.14
1.00
-.45
-.14
.25
1.00
-.42
共通性
1.00
*1:PCIにおいて「内省的コーピング」に該当する項目
*2:PCIにおいて「能動的コーピング」に該当する項目
因子負荷量の低い項目,複数の因子にまたがっている項目,
あげられる。目の前の出来事や問題に対して,行動し結果を得
及び共通性の低い項目を除外し因子分析を行った結果を表1
る前に予防的に準備する努力と,遠い将来のために貯蓄したり
に示した。第1因子は,行動し結果を得る前に予防的に準備
家族を守るための備えをする努力は,概念として区分されるこ
する対処努力を測定する「予防的コーピング(α=.88)
」
,第2
とが示唆された。その他は,概ね原尺度に基づく因子の構造が
因子は,問題に取り組む前にシミュレーションをする対処努
示された。α係数も十分な値であり,確認的因子分析の結果も
力を測定する「内省的コーピング(α=.80)」,第3因子は,目
GFI=.88,AGFI=.85,RMSEA=.06と許容できる適合度であった。
標達成のための挑戦的な対処努力を測定する「能動的コーピ
また,資源を開拓する努力に該当する「サポート模索」は,
ング(α=.70)」,第4因子は,家庭生活上の問題生起を予防す
2下位尺度間の相関が高く19),因子分析によって1つの因子と
るための対処努力を測定する「予防的(生活面)コーピング(α
しての抽出が認められたことから,上記の下位尺度と区分して
=.62)」,第5因子は,目標志向的な計画的対処努力を測定す
因子分析を行い,結果を表2に示した。第1因子は,助言や情
る「計画的コーピング(α=.85)」,第6因子は,後回しにする
報を獲得するための援助希求に関する対処努力を測定する「行
ことで状況から逃れる対処努力を測定する「回避的コーピング
動面でのサポート模索(α=.75)
」
,第2因子は,感情をコント
(α=.66)」が抽出された。原尺度との違いとして,生活面に
ロールするための援助希求に関する対処努力を測定する「感情
関する予防的コーピングが1つの因子として抽出されたことが
面でのサポート模索(α=.74)」が抽出され,原尺度に基づく
― 11 ―
宇佐美 尋子
研究論文 Proactive Coping の心理的健康状態への影響
表2.プロアクティブコーピング(サポート模索)尺度の因子分析結果
分類
行動面での
サポート模索
感情面での
サポート摸索
項目内容
F1
問題解決に他人からのアドバイスを役立てた。
他人から得た情報を問題への対処に役立てた。
他人に話すことで,問題に関する違った視点を得た。
友人からの助言をあおぐため,自分が抱えているストレスについて話した。
本当に困った時,誰が頼りになるかわかっている。
だいたいの場合,問題解決には誰に助けを求めたらいいかわかっている。*3
話して気分が良くなる相手に電話した。
自分を大事に思ってくれる人を思い出した。
固有値
因子負荷量
.79
.72
.66
.45
-.07
.02
.11
.23
38.02
因子間相関
F1
F2
F1
1.00
.57
F2
-.03
.00
.02
.19
共通性
.87
.80
.47
.32
9.07
.60
.52
.44
.33
.69
.65
.29
.24
F2
1.00
*3:PCIにおいて「行動面でのサポート模索」に該当する項目
因子の構造が示された。α係数も十分な値であり,確認的因子
緊張感→抑うつ気分」22)の各段階を把握可能な尺度である。
分析の結果もGFI=.97,AGFI=.94,RMSEA=.06と許容できる
⑶結果と考察
適合度であった。
プロアクティブコーピングが心理的健康状態に及ぼす影響を
3.検討2
検討するため,心理的ストレス反応下位尺度得点及び合計得点
⑴目的
を基準変数,プロアクティブコーピング下位尺度得点を説明変
プロアクティブコーピングが心理的健康状態に及ぼす影響に
数として一括投入法による重回帰分析を行った。各尺度間相関
ついて,大学生を対象に検討する。
の結果を表3に,重回帰分析の結果を表4に示した。
能動的コーピングと内省的コーピングは,緊張感(β=-.38,
⑵方法
p<.001;β=-.12,p<.05)
,憂うつ感(β=-.24,p<.001;β=
調査時期・調査対象
-.12,p<.05)
,反応全体(β=-.23,p<.001;β=-.13,p<.05)へ
検討1の調査対象のうち,2012年5月の調査実施時に就職活
の有意な効果が認められた。計画的コーピングは,疲労感(β
動を行っていた大学生395名を分析対象とした。コーピングの
=-.20,p<.01)
,イライラ感(β=-.17,p<.05)
,憂うつ感(β
採択やその有効性は,直面するストレッサーによって異なると
=-.19,p<.01)
,反応全体(β=-.20,p<.01)への有意な効果
される7)8)。そこで本研究では,就職活動を行っているという
が認められた。予防的(生活面)コーピングは,疲労感(β=
共通の状況下にある大学生を抽出し分析対象とすることで,環
-.13,p<.05 )
,憂うつ感(β=-.13,p<.05)
,反応全体(β=-.11,
境の統制をはかることとした。
p<.05)への有意な効果が認められた。行動面でのサポート模
調査票
索は,緊張感(β=-.15,p<.05)への有意な効果が認められた。
プロアクティブコーピングの測定には,検討1で因子構造を
確認した尺度を使用した。心理的健康状態の測定には,JSS
21)
感情面でのサポート模索は,疲労感(β=-.17,p<.05)
,憂う
つ感(β=-.29,p<.001)
,反応全体(β=-.17,p<.01)への有意
の心理的ストレス反応尺度を大学生用に改訂したものから「循
な効果が認められた。回避的コーピングは,すべての心理的
環器系の不調」
(5項目)を除いた32項目を使用した。本研究
ストレス反応への有意な効果(疲労感β=.14,p<.05 ;イライ
で対象としている若年齢層では循環器系の不調の自覚がほとん
ラ感β=.24,p<.001;緊張感β=.18,p<.01;憂うつ感β=.15,
ど認められないため「循環器系の不調」の項目を除いた「疲労
p<.01;反応全体β=.23,p<.01)が認められた。
感」
「イライラ感」「緊張感」「憂うつ感」の4下位尺度を使用し
以上の結果より,次の3点が明らかになった。1つめは,
「予
た。心理的ストレス反応尺度の回答は,「まったくあてはまら
防的コーピングは,心理的ストレス反応に影響を及ぼさない」
ない」から「よくあてはまる」の5件法によって回答を求めた。
ということである。目の前の出来事や問題に対して,行動を起
尚,本尺度は,心理的ストレス反応の軽度な状態を反映してい
こす前や結果を得る前に予防的に準備しておく対処努力は,環
る疲労感から,心理的ストレス反応の潜在的な高さを反映して
境に対するネガティブな評定や感情反応が生起する以前に行わ
いる憂うつ感までの深化過程,すなわち「疲労→過敏→怒り・
れるため,心理的ストレス反応というネガティブな心理的健康
― 12 ―
宇佐美 尋子
研究論文 Proactive Coping の心理的健康状態への影響
表3.各尺度間相関
疲労感
能動的コーピング
内省的コーピング
計画的コーピング
予防的コーピング
予防的(生活面)コーピング
行動面でのサポート模索
感情面でのサポート模索
回避的コーピング
イライラ感
-.25***
緊張感
-.12*
-.24***
-.50***
-.21***
-.31***
-.35***
-.27***
-.21***
-.26***
-.26***
-.22***
-.21***
-.09
-.17**
-.18**
-.09
-.28***
-.24***
-.11*
.20**
-.27***
.29***
心理的ストレス反応
(全体)
憂うつ感
.27***
-.43***
-.42***
-.38***
-.38***
-.35***
-.37***
-.21***
-.28***
-.24***
-.23***
-.22***
-.23***
-.44***
-.35***
.22***
.31***
*p<.05,**p<.01,***p<.001
表4.プロアクティブコーピングと心理的ストレス反応の関連
基準変数
疲労感
β
能動的コーピング
-.09
計画的コーピング
-.20**
内省的コーピング
説明変数
予防的コーピング
-.10
.02
-.08
-.13*
感情面でのサポート模索
回避的コーピング
F
R
調整済みR2乗
β
緊張感
β
.03
-.04
予防的(生活面)コーピング
行動面でのサポート模索
イライラ感
β
心理的
ストレス反応
(全体)
β
-.38***
-.24***
-.23***
-.08
-.19**
-.20**
-.12*
-.17*
憂うつ感
.06
-.12*
.09
-.13*
.03
-.01
-.09
-.13*
-.11*
-.17*
-.04
-.04
-.29***
-.17**
7.92***
5.87***
-.01
.14*
.45
.01
-.15*
.24***
.40
.17
.13
.18**
.01
.15**
-.04
.23**
16.77***
20.11***
18.71***
.32
.37
.35
.59
.62
.61
*p<.05,**p<.01,***p<.001
状態への直接的な影響がみられなかったと考えることができる。
や害としてネガティブに捉えているか,目標志向的に挑戦や成
予防的な準備によって安心感を得ることでのポジティブな心理
長の機会としてポジティブに捉えているかという認知の違いを
的状態への影響が予想されることから,今後,肯定的感情やエ
把握することは難しいと思われる。また,生起した問題に対す
ンゲージメントなどポジティブな心理的状態との関連を検討す
る対処を尋ねていることから,計画的コーピングは従来のコー
る必要性が示唆されたといえよう。
ピングとの区別が明確になっていない可能性も指摘できる。そ
2つめは,「予防的コーピングと回避的コーピングを除いた
のため,緊張感への影響がプロアクティブコーピングの特徴で
プロアクティブコーピングは,緊張感や憂うつ感という深化し
ある可能性も考えられる。緊張感は,先のことに対する警戒や
た心理的ストレス反応を低減する効果をもつ」ということであ
不安からくる状態であり,事前的な対処努力であるプロアクテ
る。特に,能動的コーピング,内省的コーピング,行動面での
ィブコーピングの効果が表れやすい心理的状態なのかもしれな
サポート模索は,緊張感を低減する効果があることが示された。
い。しかし,この言及には従来のコーピングとの比較といった
本研究では,ストレッサーの生起が想定される就職活動を行っ
更なる検討が必要であろう。
ている大学生を分析対象としており,就職活動中に様々な場面
3つめは,「回避的コーピングは,心理的ストレス反応の増
を想像して準備をし,シミュレーションをすることや,周囲の
加に影響する」ということである。回避的コーピングは他のプ
人から情報やアドバイスを得ることが,緊張状態を軽減するこ
ロアクティブコーピングと負の相関関係にあることが先行研究
とが実証されたといえる。一方で,計画的コーピングは緊張感
において示されており19),心理的ストレス反応に対しても,他
への効果のみ示されなかった。計画的コーピングは,目標志向
のプロアクティブコーピングと逆の機能をもつといえる。回避
的な対処努力ではあるものの,質問項目内容から,環境を脅威
的コーピングは後回しにすることで状況から逃れ,開放的な行
― 13 ―
宇佐美 尋子
研究論文 Proactive Coping の心理的健康状態への影響
動が増加するが19),目標達成のための努力を諦めて行わないこ
  4)
Latack,J.C.,& Havlovic,S.J. 1992 Coping with Job stress: a
conceptual evaluation framework for coping measures. Journal of
Organizational behavior,13,479-508.
とにより,ネガティブな感情反応の増加につながると考えられ
る。
  5)Cohen,F. 1987 Measurement of coping. In S.V.Kasl & C.L.Cooper
(Eds.),Stress and health: Issues in research methodology. New
York: John Wiley & Sons,pp.283-305.
  6)
小杉正太郎 1998 コーピングの操作による行動理論的職場カウン
セリングの試み 産業ストレス研究,5,91-98.
4.総合的考察
本研究では,プロアクティブコーピングを測定する尺度の因
子構造の確認,及びプロアクティブコーピングが心理的健康状
態に及ぼす影響についての検討を,就職活動中の大学生を対象
に行った。
その結果,プロアクティブコーピング(予防的コーピングと
回避的コーピングを除く)が,憂うつ感という深化した心理的
ストレス反応を低減する効果をもつことが認められた。また,
能動的コーピング,内省的コーピング,行動面でのサポート模
索といった,問題が生起する前に,様々な場面をシミュレーシ
ョンしたり,周囲の人から具体的な情報やアドバイスを得て準
備したり,挑戦的に取り組もうとする対処努力が,緊張感を低
減する効果をもつことも認められた。ストレッサー生起後のネ
ガティブな側面への対処努力に焦点を当てた従来のコーピング
研究に加え,ストレッサーが生起する以前の対処努力や環境か
らの要請を挑戦や成長の機会としてポジティブに評定した際の
対処努力に焦点を当てたプロアクティブコーピング研究によっ
て,ストレッサー生起の事前予防や,心理的健康状態の改善に
つながる有効な知見が得られることが示されたといえる。
尚,本研究では,プロアクティブコーピングを多面的に把握
し,各コーピングの心理的ストレス反応への直接的な影響を検
討した。今後,プロアクティブコーピング間の関連を踏まえた
検討を行うことで,プロアクティブコーピングの構造や効果に
ついてのより詳細な把握が可能になるだろう。また,プロアク
ティブコーピングは,環境に対するネガティブな評定や感情反
応が生起する以前の対処努力が含まれることから,肯定的感情
やエンゲージメントなどのポジティブな心理的状態への影響も
予想される。今後,ポジティブな心理的状態との関連を検討す
る必要性が指摘できる。
引用文献
  1)
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New York: Springer.
  7)
Folkman,S.,& Lazarus,R.S. 1988 Coping as a mediator of
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  8)
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学研究,38,193-201.
  9)
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際―調査票を用いた職場カウンセリングと効果の検討― 産業スト
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Moos,R.H.,& Billings,A.G. 1982 Conceptualizing and measuring
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11)
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Terry,D.J. 1991 Coping resources and situational appraisals
12)
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14)
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17)
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Greenglass,E.,Schwarzer,R.,Jakubiec,D.,Fiksenbaum,L.,
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20)
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質問紙表The Proactive Coping Inventory: 日本語版
http://www.psych.yorku.ca/greenglass/pdf/japanesepci.pdf
  2)
小杉正太郎 1996 Lazarus,R. S. のコーピング定義の変遷とコー
ピング測定の諸問題 産業ストレス研究,3,124-126.
小杉正太郎 2000 ストレススケールの一斉実施による職場メンタ
21)
ルヘルス活動の実際-心理学的アプローチによる職場メンタルヘル
ス活動- 産業ストレス研究,7,141-150.
  3)
島津明人 1998 職場ストレスに関するコーピング方略の検討 産
業ストレス研究,5,64-71.
島津明人・小杉正太郎 1998 職場不適応発生過程の検討 心理学
22)
研究,69,198-205.
― 14 ―
聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 15-22(2012)
高齢期女性の生活を決定する要因
-それまでの準備と老後の生活の関係-
川口 一美
The factors dominating the life of elderly woman
KAWAGUCHI, Kazumi
要 旨
高齢社会の現在,老後の人生をどう過ごすかが大きな問題となっている。とりわけ女性は(会社員)男性と異
なり定年退職という区切りがなく,また老後とそれ以前の生活を明確に分けるものもない。家庭内や地域の関係は,
老後の生活になったからといえ変化しない。
多くの男性は定年を経て老後の生活に入るので,定年という区切りが老後の始まりとなるが,女性は,女性を
取り巻く生活環境によって,老後が左右される。専業主婦であっても,仕事を持っていた女性であっても定年,
老後の生活という区切りを持たない。男性よりもいくつかの可能性や種類があるはずなのに,どのように老後を
迎え,老後を生きているのかがあまり見えてこない状況である。
女性に関する調査においては,女性の生き方,生きがいの調査が多く,結婚,出産等家庭を作り上げるプロセ
スの生活デザインに関するものが多い。一方女性の老後の生き方に関する調査はほとんどないに等しい。また,
高齢期に関しても,年金,就労,社会問題と高齢者女性を取り巻く社会問題を取り上げる論文は多数あるが,高
齢者女性の生活を網羅するものは少ない。
本稿では,女性の老後に焦点を当て,今後来る高齢化最後の上り坂(高齢化の進展の速い 2015 年まで)と高齢
者の数が増える(高齢化率の高さ)2050 年頃までの超高齢社会の中で,女性が老後に対し何を準備したら良いか
を考えていきたい。
はじめに
だと思う。しかしそれでも,男性は定年後の生活の適応に,努
現代社会において,高齢者や高齢社会が注目されるようにな
力を要する場合が少なくない。また,現在の女性は定年まで働
って久しい。その中で,老後は人々の関心事となった。「退職
き,老後を迎える数が男性に比べ圧倒的に少ないこともあり定
後をどう過ごすか」というセミナー,老後の過ごし方のHow
年後について語られているものが少ない。
to本が飛ぶように売れ,自分の人生最後の時期をいかに有意義
これまで同様女性の社会進出が今後もよりいっそう続けば,
に,自分らしく過ごすかを私たちは考えるようになった。
今と同様の女性の働き方,老後のあり方だけではなくなるはず
高齢化の波が速いスピードでもたらされているからなのか,
だ。よって,現在,老後の生活にスムーズに移行している女性
老後について,
「今後どうしたいか」を考える機会は多くなった。
を取り上げ,
「なぜ女性は老後へのソフトランディングができ
しかし,
「何を準備しなければいけないか(いけなかったのか)
」
るのか」を考察し,今後の老後に対する準備の方向性,課題を
について私たちはあまり考えていない。老後はそれまでの生活
考えていきたい。
の延長線上にあるもので,ある日突然もたらされるものではな
い。よって,それまでの蓄積によりある程度その後の生活は左
1.現代の高齢社会
右される。
1)
これまでの老後と現代の老後
よって,実際の老後を生きる人々の生活を明らかにすること
「老後」という言葉で何をイメージするであろうか。現代社
で,先達の抱えている問題を浮き彫りにし,また,現在の高齢
会は寿命が延びたことで,この「老後」の時間がこれまでと比
者の生きる知恵を知ることで,今後高齢者になる私たちの「何
較にならないくらい長くなる。
をすべきか」のヒントになるのではないかと考えた。
「高齢者=老後」や「高齢者=祖父母」のような枠にはまっ
とりわけ女性を本稿で取り上げる理由は,男性は定年前の就
たとらえ方では,これからの高齢社会の老後は表せない。例え
業が老後に大きく影響する。定年前に会社等でセミナーや定年
ば,近藤誠氏は『高齢期の生活スタイル等に関する計量分析』
前教育等を行っているところも増え,女性よりサポートが充実
の中で,「我が国においては,1970年頃までは,高齢者の生活
しているように見える。その点については,参考にできる部分
保障や介護等の問題の多くは,家庭ないし家族の問題として捉
聖徳大学心理・福祉学部社会福祉学科・准教授
― 15 ―
川口 一美
研究論文 高齢期女性の生活を決定する要因
えていた。それはとりもなおさず,人々が老後は子ども達と同
なっているといえるのではないか。その外的な要因は,以下の
居して暮らすという生活様式を当然のこととして受け止めて
通りと考える。①老後=私的扶養ではなくなったこと。②老後
いたことの反映である」 と述べている。また,「老後=生きが
=祖父母ではなくなっていること。③老後=定年後
(隠居生活)
い」のようなとらえ方についても,生きがい・生き方について
ではなくなっていること。④老後=年金暮らしでは十分でない
考えるのは,高齢者だけの問題ではない。現在の高齢者でもな
こと。
く,問題に直面していない者にとっては,生きがいについても
まず,①の老後=私的扶養ではなくなったこと。これについ
老後についてもまだ先のことと思うかもしれない。だが,高齢
ては,かなり前から分かっていることで,現在の同居・別居
者ではない今の生活の状態が積み重ねられ,やがて高齢者にな
の割合はほぼ半々といわれている4。戦後同居の数が減り続け
り,高齢者問題と結びついてゆくのだ。老後の生きがいについ
その代わり別居(高齢者夫婦のみ,核家族)の数が増えてきた。
て,本間容子・岡田みゆきの両氏は,『高齢者の生きがい』の
今後この状態はますます進むため,私的扶養は難しい。今の老
中で,
「急に高齢者になってから,趣味や生きがい,自分らし
後は今日の老いや介護を家庭外に放り出している。だが,その
1
2
い生活を見つけようと思っても出来るものではない」 と述べ
分介護保険が平成12年からスタートし,定着したことで,介護
ており,高齢者になってから,急に高齢者を取り巻く問題に対
については社会化が進んでいる。またそれを高齢者も子どもた
応するというのは難しい。急に何かをして,補えるほど高齢者
ちも受け入れており,「介護が必要になったら,誰にして欲し
問題は簡単なものではない。だが,若い頃からの準備で高齢者
いか」について,以前のように「子ども」にそれを求めるので
問題を回避できる可能性は高い。
はなく,
「自分の伴侶」をトップに挙げ,その次は,
「専門家・
退職後20年,私たちは高齢者として生きる。これは,この寿
公的機関」としている。
命が延びた現在誰もが直面しうる今日的な課題だといえよう。
次に②の老後=祖父母でなくなっていることについては,こ
現代は成人でも余暇時間が増え,それをいかに使うかが問題
の少子高齢社会によってもたらされたものの結果であるといえ
になっている。
「成人の余暇は,労働に備えての休息,気晴ら
る。先に①で子どもが面倒を見る老親扶養の形が現在の日本で
3
し,レクリエーションの要素が高い。」だが,高齢者の余暇は,
は減りつつあることは述べたが,面倒を見る子ども自体が少な
生活的な意識がそれに加わる(仕事や社会参加,自分の楽しみ)
。
いことも関係している点を述べたい。
これは,その高齢者の持つ自己の目標,生きがいとするものに
現在の女性が生涯に産む子どもの数は,約1.3人といわれて
よって方向づけられる。
いる。これは結婚をする初婚年齢が上がったことに加え,非婚・
未婚・晩婚等ライフスタイルの変化によるものであろう。よっ
2)
老後を取り巻く環境の変化
て孫の面倒を見る,子ども(嫁・婿)と同居すること自体も減
「老後」について厚生労働省政策統括官付政策評価官室が行
ってきている。
った「平成18年度高齢期における社会保障に関する意識等調査
だが一方で平成23年度に行った「高齢者女性の現在の生活と
報告書」がある。その中では,「老後はいくつからか」という
老後」に関するインタビューの中で,同居をしている高齢者に
問いに対し,「65歳から」(28.5%)と「70歳から」(32.8%)と2
話を伺う5と,
「自分の面倒を見てくれたものたちにいずれは(残
つの年齢を上げる人たちがいた。
った財産を)残したい」と考えていた。親の持ち家に同居する
また同調査で「老後の生活」で思い浮かべることとして挙げ
という選択は,現在でも親と子の間で暗黙の約束があるようだ。
ているのは,
「年金を受給する」が54.3%と最も高く,次いで,
「身
体の自由がきかなくなった生活」が26.3%,「仕事からの引退,
仕事を人に任せるようになった生活」が24.0%,「子どもが独
立した後の生活」が21.2%となっている。性別ごとで見ると,
「年
金を受給する」というのは男女とも最も多いが,女性は「身体
の自由がきかなくなった生活」を2番目に挙げている。男性の
場合は,
「仕事を引退し,他者に任せるようになった生活」を
挙げている。
上記のことから考えると,「老後」については現在のその人
の状況とその老後に対するイメージによって差があるというこ
とが分かる。
上記の報告書からも分かる通り現在の高齢者を見ると,様々
な点で「老後」をこれまでの高齢者と同じように考えられなく
1近藤誠『高齢期の生活スタイル等に関する計量分析』NUPRI研究報告
シリーズNO.4 p1
2本間容子・岡田みゆき『高齢者の生きがい』北海道教育大学釧路校研
究紀要第37号2005年p69
3瀬戸ヨシエ『老後の生きがい』平安女学院短期大学紀要第6号1975p115
4厚生労働総計協会『国民福祉の動向・厚生の指標 増刊第58巻第10号
2011/2012』p24によれば,昭和55年では,7割が同居であったが,平
成11年では,同居は42.2%であった。子と同居していないものは54.1%
(夫婦のみ37.2%,単独16.9%)であった。
平成16年からは,同居している高齢者を子と同居していないものが追
い抜き逆転している。
5平成23年度4月から12月に実施した15名の高齢者女性を対象としたイ
ンタビュー。その中で家族と関係の話をした際,同居をしている女性
から伺った。ただし,持ち家・同居でなくても自分の世話をしてくれ
る子どもには何らかの財産があれば残したいと思っていることも分
かった。
― 16 ―
川口 一美
研究論文 高齢期女性の生活を決定する要因
図1 世帯主の年齢階級別貯蓄の分布状況の推移
30歳未満
平成14年 3.6
世帯割合
平成19年 2.7
30∼39歳
15.5
40∼49歳
19.1
14.3
平成23年
50∼59歳
24.6
18.5
14.0
60歳以上
37.3
22.3
18.2
42.2
18.7
47.0
2.1
貯蓄額の割合
平成14年
6.7
12.8
26.5
53.2
0.8
平成19年
5.4
12.0
5.0
12.2
22.0
60.2
0.4
平成23年
17.9
64.6
0.4
0
10
20
30
40
50
60
70
80
90
100
(%)
出典:総務省家計調査(平成 23 年度)
子どもが親を扶養し,介護を提供する。親側は,子に住宅を提
団塊の世代の就業選択は,経済上の理由が全体の65%,生き
供する。暗黙の契約でこの物々交換が成り立っている。子ども
がい,社会参加,頼まれたから,時間に余裕があるから等。逆
側が収入が少なく,家を持たないようなケースでは,このよう
に働かない理由は,家事に専念したい,本人の健康,趣味,社
な物々交換がまだ成り立っている。
会活動に専念したい,介護をするため。だが,就業については,
③の老後=定年後(隠居生活)でなくなっていることについ
頼まれたから,時間に余裕があるからというのが年々増えてい
ていえば,近年の老後は,社会の第一線からの離脱(リタイア)
る。
を意味しない。
定年後も働く理由は,年金以外の預金が少ない,退職金が少
定年が早まり,その後も再雇用等で勤める機会も増え,また,
ない,収入がないからなど。
生きがいとして生涯現役,そこまでいかなくても働けるうちは
働かない理由として,年金がある,収入の見込みや資産があ
働きたいとする人も多い。特に自営の高齢者は定年がなく,自
るため,となっている。
分の一生の仕事として仕事を続け,働き続ける人が多い。
④老後=年金暮らしでは十分でないこと。
その背景には,自分の意欲,生きがい,やりがいを満たすた
公的な年金があっても年金だけで食べていくのは難しい側面
めと,実際の生活のための所得を得るためという2つの要素が
もあるからだ。ある高齢者7はいう。
「慎ましく生活すれば年金
ある。
で食べていけると思うかもしれないけど,病気もするかもしれ
生活のための所得を得るという点では,預貯金の有無が生活
ないし,これから先何年生きるか分からないから」とできる限
のために働くことを決めている面もある。だがこれまでの生活
りはお金を稼ぎたいという。
の中でどれくらい貯蓄をすることができたのだろう。子どもの
公的な年金は今後減ってくる。巷では年金破綻,年金未納の
教育費,家の購入費,親の介護,自分の生活費,これからの生
問題等不安な要素は多い。
活費これらを捻出した上での貯蓄だ。その人のそれまでの仕事
またかつてのような「親の面倒は子どもが見る」という考え
によって,今後も差が開いていく要素であるといえよう。
は変化し親に金銭的な援助をすることも少なくなっている。情
6
例えば,平成23年度総務省の「家計調査」 によれば,二人
以上の世帯について,世帯主の年齢階級別割合を見ると,60歳
以上の世帯が最も多く,平成23年は全体の47%を占める。これ
らの世帯の貯蓄額割合は,貯蓄全体の64%を占める。
(図1参照)
6平成23年度総務省家計調査(貯蓄・負債編平成23年度平均)平成24年5
月p26
7平成23年度4月~12月に高齢者女性15名を対象としたインタビュー時,
仕事をしている女性に対しなぜ仕事を続けるのかを聞いた際の内容。
― 17 ―
川口 一美
研究論文 高齢期女性の生活を決定する要因
緒的つながりを重要視し,お互いの生活をするという価値観か
は気にせず,生活させてやりたい。そうでなくても日々(子ど
らもそれは見て取れる。
もは)忙しいみたいだから。やれ墓参りだ,お盆だって大変じ
ゃない。もし子どもがいなければ,夫婦の墓はそれで終わりで
2.高齢社会のもたらしたもの
(高齢社会の抱える問題)
しょ?」9
1)
高齢者の役割の変化
子どもがいても墓,家を継いでくれたらと期待せず,むしろ
現在の高齢社会は高齢者の持つ意味合いを変化させた。家族
子の生活や今後の重荷にならぬよう散骨や共同墓地など他の手
は様々な形を持つようになった。「個別」,
「個性」といった「個」
のかからない方法を視野に入れている。手は煩わせず,心だけ
をクローズアップした現代の価値観は,高齢者の持つ意味や働
はつながっていて,思い出してくれたらという気持ちが見える。
きを大きく変えた。
上記のような考えは,槇村久子氏の『家族形態及びライフス
これまでは,高齢者,例えば祖父母の持つ時代・社会の中の
タイルと墓・墓地についての意識』の中でも取り上げられてお
役割として文化,伝統,歴史の伝承を担うものとされていた。
り,近年の死後の墓や墓地に対する考え方について,「判断の
また,同居・別居にかかわらず高齢者と接することにより学
基準が過去のご先祖に向かうのではなく,未来の子孫に向かっ
ばせるという意味を持つものとして見られていた(老い,知恵,
ている。
」10と述べている。これは,子どもの(今後の)生活を
死など)。
大切にすることに重点を置いているといえるのではないか。
しかし現在は,高齢者の持つ意味や働きはこれまで以上に増
えた。
(高齢者の)生活関係がクローズアップされ,これまで
3)
老後の構成要素
の役割の,高齢者=祖父母だけでなく,夫婦,親子,友人,ご
定年後を「第2の人生」といったりする。自分の人生を好き
近所などの関係・意味が注目されるようになった。
なようにデザインできる再出発の期間。言葉だけを見れば,新
とりわけ女性は,家の中で家事をすることや孫の面倒を見る
たな旅立ちという明るい,前向きなスタートのように感じられ
という機能だけにとどまらない,社会の資源として見られるよ
る。しかし,それを実行するためには,老後の20年を生きるた
うになった。
めの,準備が求められる。自立も家事も生活に必要なスキルだ。
自分の人生や生活を,できる限り自分らしく過ごすためにも,
2)
高齢者の選択肢
様々な情報(ご近所,地域の情報から公的なサービスの情報ま
これまでの高齢者に対する価値観,生活様式が高齢社会の中
で)を知ることが必要だ。
では当てはまりにくくなっている昨今,高齢者の生活や老後の
今の高齢者女性は,日常生活に必要なスキルがあるため,こ
ライフスタイルを整えていこうとするならば,日常生活(就業,
の部分について不都合を感じることは少ないかもしれない。こ
趣味,家事など)家族の他の成員との関係,老後の設計などが
れは,一般的に女性の方が,それまでの人生の中で,生活上の
重要になってくる。しかも高齢者になった時に考えるのではな
役割の変化や就業の役割の喪失,労働環境や働き方の変化,生
く,生きていく過程の中で選択し,道筋を作っていく作業とい
活の場の変化を多く経験する。変化する状況に適応するだけの
えるだろう。
耐性を日々の生活で身につけ,その上に老後の生活が構築され
例えば,もし結婚し子どもを産み,高齢者になった時,これ
ているからである。
からの高齢者は,孫の世話を引き受けるか長い老後を自分のた
女性は,若いうちから仕事と家庭もしくは仕事と子育て(介
めに使うかの選択ができる。ただ,この時期を自分のために使
護)などのいくつもの「二重負担」をしいられながら生活,仕
うのであれば,自分のことは自分で考え,(様々な社会資源を
事をしている。仕事をずっと続けた女性であれ,途中でやめた
使いながら生活をする)
「自立」が不可欠である。そのためには,
女性であれ,様々なキャリアパターンにかかわらず,自立した
(日常生活をできるだけの)身体,(自立して生活していこうと
日常生活を送るスキルを身につけているのである。
いう)精神,経済的準備が必要になる。
よって高齢女性の生活能力についていえば,配偶者の有無は
また,老後やその後(自分の死後)についても考え方は以前
関係ない。また,特に一人暮らしの高齢者女性の生活能力が劣
と比べると異なってきている。「週に1回子どもが孫を連れ
っていることもない。
てきて,家族で食事をするの。めんどくさくていやなんだけど,
子どもも心配なんだろうし,親孝行のつもりなんだと思うわ。
(いつも食べている食事と作ってもらう食事は味が違うから)
無理しなくても良いんだけど,良い関係を維持するには,こう
いう努力(をすること)は必要なんだと思う。」8「自分が死んだ
ら(夫はすでに他界しているので)子どもには自分たちのこと
8平成23年度インタビュー:4月に実施した内容。「家族との関係」を聞
いた際,別居している家族(息子家族)との関わりについて話してくだ
さった内容。
9 平成23年度インタビュー
10槇村久子『家族形態及びライフスタイルと墓・墓地についての意識』
造園雑誌第55号⑷1992年p313
― 18 ―
川口 一美
研究論文 高齢期女性の生活を決定する要因
だが,今後ますます女性の社会進出が進み,男性と同じよう
男性(の老後)より注目されていない。目に見える形での配慮
に肩を並べ,定年まで働く男性の就業スタイルに近い女性が増
がなされていないのは,これまで,女性が生活の中で地域社会
えてくる。その暁には,現在の男性同様そのような生活上のス
に作り上げたネットワークを活用し,老後を(無事に)送って
キル(生活能力)を後から身につけることが必要になるかもし
いたからである。
れない。
だが,今後ますます高齢社会が進み,高齢女性たちは増え続
ける。加えて,社会の中の関係性の希薄化が叫ばれる中,現在
3.高齢社会と性差及び女性の中での差
と同じような状態やネットワークを紡ぐことができるのだろう
1)
高齢者の現状
か。
平成23年の敬老の日に合わせて,総務省が発表した高齢者人
これから先に高齢者になる高齢者予備軍(私たちを含めた)
口の推移(9月15日現在)によると,65歳以上の人口は2980万
の老後を考えた時に,このままの状態を続けて自分らしい生活
人(前年比24万人増)だった。日本の総人口(1億2788万人)に占
が送れるのだろうか。女性は女性用の準備や心構えを持って,
める割合は,23.3%(同0.2ポイント増)で,いずれも過去最高
この時期を迎えた方が,有意義に自分らしい時間を過ごせるの
を更新した。
ではないだろうか。
男女別に見ると,男性が1273万人(同9万人増)で,男性人
私たちは自分の老後の準備を中高年になる前から行い,また
口の20.5%(同0.2ポイント増)を占めた。女性は1707万人(同15
老後について様々な学習をする(自分の生活をデザインする)
万人増)で,女性人口の26%(同0.2ポイント増)を占めている。
ことで,自分らしい老後の生活を送ることができるのではない
年代別では,70歳以上は68万人増の2197万人(男性900万人,
か。
女性1297万人),80歳以上は38万人増の866万人(男性298万人
これは自分の生活を早い時期から計画的に考え,老後のため
女性568万人)だった。
に生きるわけではないが,生活する時に老後の自分をも意識す
一方2010年の65歳以上の高齢者就業率は,前年比0.2ポイン
ることで,自発的に老後の環境作り(準備)をすることに他な
ト減の19.4%で,過去最低の2006年に並んだが,年齢を限定し
らない。
て,65歳~69歳のみを見ると,0.2ポイントの増で,36.4%だっ
全国社会福祉協議会の2001年の「全国ボランティア活動者実
た。これについては,65歳を過ぎても仕事を持つ人が増え,男
態調査」によれば,現在女性ボランティアは無職主婦が多く,
女とも近年の就業率が穏やかに上昇している。
男性ボランティアは定年退職後の人が多い。
上記の推計から分かる通り,高齢者は日本社会の中で,社会
ボランティアは主婦と定年退職者,中高年がボランティアを
構造を揺るがす影響力を持ち,それに伴う様々な問題が私たち
することで,老年期への移行がスムーズに行く可能性がある。
の生活に関係してくる。
平成23年度に行ったインタビューで,高齢者女性に「老後に
本稿で高齢者の中でも,女性を限定して取り上げる理由は以
ついて準備をしたか」について質問した際,
「意識して準備を
下の通りである。
してこなかった」という人が目についた。しかし,意識をして
①女性は老後とそれ以前の区別がつきにくい。(男性は,多
いないだけで,例えばボランティア活動を通して,また,地域
くの場合定年退職という区切りが存在していて,それが老
の関係の中から,高齢者や周りの問題を抱えた人と接すること
後の始まりの目安になる)
で,自分の中での心構えや学びを得ていた。つまり活動や交流
②女性は地域や社会などの関係が定年後も持続する。(男性
を通して,自分の老後を意識し自分の老後やこれからの生活が
の場合,職場の関係がなくなり,地域との関係を1から構
具体化できる。例えば「自分が病気になったらどうしようか」
築する場合も多い)
とか「一人になったらどうしよう」等,本人が意識している,
③女性の社会進出が進み,働く女性が増えたが,どんなキャ
リア選択をしても,男性のようなプログラムがなくても老
していないにかかわらず,これも立派な老後に対する準備とい
えるのではないか。
後の生活に対応(ソフトランディング)している。もしく
は問題を抱えたとしても男性とは異なる問題を抱えている
2)
女性の老後研究
のではないか。
女性の生きがいや女性の老後また,高齢者の生きがい等に関
④社会の中で高齢者(女性)が今後も増えていく。
する研究は時代背景からしても数多く存在する。女性の生きが
女性の方が寿命が長く,中高年の年齢層では,男性が少な
いについては,自分の人生設計(結婚や就職,出産など)や現
い。人口の男女比は70歳代でおおむね,1対2,80歳代では
役世代の生き方など老後以前のものが多い。
おおむね1対3となる。
女性の老後や高齢者の生きがい等についての研究は,生きが
これらの理由がありながら,現時点で女性の老後については,
い,満足度を測るものや余暇活動と生きがいに関するものなど
― 19 ―
川口 一美
研究論文 高齢期女性の生活を決定する要因
が多く,実際の生活状況を把握するもの,年金,経済の分野や
中で培った幅広い交友関係を持っている。昼は誰もいない家庭
健康等に関する調査が多い。
でも,一人暮らしと同じ孤立を引き起こす可能性があるからこ
ここから見えてくるのは,高齢者と生きがいを,老後にどう
そ,昼間の関わり(家族外)のネットワーク等が意味を持つ。
結びつけるか(高齢者の生活の中に生きがいを見つける)とい
また,
老後の生活に至るもしくは移行するまでの時間は,元々
うものが多い。
の(老後に至るまでの)就業状態や役割分担により異なる。そ
また老後をその時期で切り,その期間だけで調査を行ってい
の高齢者に仕事・役割がある場合は,全く仕事をしていない高
るものがほとんどだ。中長期的な視点で,長期スパン,生活全
齢者と同様の状況になるまで,タイムラグがある。とりわけ女
体を網羅するような調査はほとんどないに等しい。
性はこれまで行っていた家庭内の仕事がなくなることはほとん
本稿では高齢者になってからそれらを行うのではなく,より
どなく,その女性本人がその仕事をできない状況もしくはしな
積極的に(それ以前に)自ら準備をしていこうというより能動
くて良い状況になるまで続くのである。
的な視点に立った準備ができないかを考えるものである。それ
男性は定年前の就業が大きく影響する。定年後の生活の適応
までのライフイベントには,男性であれ,女性であれ事前に準
に努力を要する場合が少なくない。女性については,先に述べ
備をし(例えば就職のために事前に準備をしたり,結婚のため
た通り,就業の形は老後の生活にはさほど影響しない。だが,
に資金を貯めたりする),より計画的にその時を過ごす。老後
女性の定年後や老後について語られている調査研究は少ない。
に対してもそのようなスタンスがあっても良いのではないだろ
なぜなら定年まで働き,老後を迎える数が男性に比べ圧倒的に
うか。特に女性は先にも挙げた通り,男性より老後に関して明
少ないからだ。
確な定年などといった区切りがない。だからこそ逆にいえば,
しかし今後女性も定年まで勤める人が増えることが予想され
(本人が気づくと気づかざるとにかかわらず)思い立った時が
る。これまでの男性の退職時に行っている退職前準備教育のよ
スタートラインになるとも考えられるのだ。
うなモデルが使えるとは限らない。なぜなら,女性は,家事,
ただ,準備をするにあたり私たちは老後について知り,学ぶ
母親を定年前に行っており,いくつかの自分の仕事を卒業する
必要がある。人生の老後の時期に向けて,老後を見いだす学習
という行為をこれまでに経験している。よって,定年によって
するを生涯学習の中の一つの要素としても良いのではないだろ
全く生活が変わるということが少ないのではないか。
うか。学校等では学べない,人生に必要なことを長いスパンで
また,上記のような経過を経て退職する女性ばかりではない
期間や時期を区切らず計画的に考えていく,このようなスタン
ため,女性特有のモデルを様々なスタイルで具体的に示す必要
スが必要なのではないだろうか。
があるだろう。
なぜなら,この高齢社会の中では,老後は私たちが成人する
ただ,老後の意識という点では,長いスパンでの人生設計,
期間と同じような時間数を過ごすことになるからである。
人生ビジョンをイメージさせるような定年後のプランを早くか
ら教育していくこと,これが大切なのではないか。
3)
女性のワークライフバランスとネットワーク
今の女性が男性よりも秀でている地域との関わりについても,
女性は男性より家庭において,日常生活において積極的で,
今後も女性は,今以上に関わるように意識する必要がある。定
活動的で,いきいきしている。定年後の男性を「濡れ落ち葉」
年前から作られている地域との関係が定年後にも活用できるよ
と表した時代すらあった。女性については,そんな言葉は聞か
うに,どんなライフプランの人であっても地域と関係が持てる
れず,(老後を)いきいきと過ごし,男性より,満足度が高い
ような仕組みが必要なのだろう。
ように見える。男女ともそうだと思うが,生きがいがあり満足
社会的サポートを受ける側と与える側の二項選択ではなく,
度の高い高齢者は,家族や家族外のサポート(ソーシャルサポ
健康で自立した高齢者はサポートをする側となり,(自分の
ート)などもうまく活用している。要は,サポートなどを活用
今後についてもその中で考え学び,
)受けるより与えることで,
するために情報を収集し,活用する力があるといえる。
老後の準備が促進されるのではないだろうか。
社会的な孤立やネットワークの有無という観点から見ると,
社会的に孤立した人は,身体的にも精神的にも衰え,孤立死(孤
4.これまでの調査で見えてきたもの
独死)予備軍となっていく。良好な社会的ネットワークがその
この研究の調査は,2年にわたり2つの方法で行った。平成
人の生活の中に構築されていれば,本人の人生や生活に良い影
22年度には,A県B市在住の中高年女性100人を対象に,平成22
響を及ぼす。
年7月~8月にかけて,老後の準備についてどのようなことを
例えば,生活行動範囲が広がったり,外出頻度が増す,社会
しているかを知るため,アンケート調査を実施11した。この調
との接点,関わりが増えたりする。よって,高齢者の多くは,
査は,50歳以上の女性を対象とし,主に,現在の生活の実態を
社会的に孤立しているわけではない。女性はそれまでの生活の
把握し,今後のためにどのような準備をしているか(したか)
― 20 ―
川口 一美
研究論文 高齢期女性の生活を決定する要因
を聞いた調査である。その中では老後を意識させるきっかけと
味合いと生きがい,やりがい,仲間作り(ネットワーク作り),
なっていたのは「定年」「他との関係」「年金」であった。
自分の今後を(意識するかどうかにかかわらず)考える機会と
老後の準備については,「特にこれといってしていない」と
なっている。
いう女性が多かった。
女性の場合,高齢期に入ってから準備を始めるという要素で
平成23年度には,平成22年度にアンケートを実施した女性の
12
はないが,老後の準備として家族,友人,地域と良い関係を築
うち直接(個別に)インタビュー を受けても良いという方15名
き生活しやすくしている。よって,結果これからも今住んでい
を対象に,老後についてお話を伺った。このインタビューの目
るところに住み続けたいと思えるようになってくる。
的は,平成22年度の調査で,高齢者女性に関して得られた結果
また,老後の経済についてもこれまでの生活の中で貯蓄をし,
をより深く掘り下げることだった。
年金,就業,私的年金などできる限りの老後に関する準備をし
例えば健康に配慮しているということが分かったが具体的に
ていた。
どんな配慮をいつ頃からしているのか,またなぜその配慮が必
よって,女性の場合は,高齢期にとりわけ何かをするより,
要だと思ったのかなどを伺った。その際は,(高齢者女性を対
それまでの女性の生活に密接する事柄のサポートを手厚くする
象にしているのだが,平成22年度の調査で現在を老後と認識し
方が,老後が充実するのではないかと考えられる。
ている方が少なく老後は先のことととらえていたので)現在の
女性の老後に関する準備は,男性と異なり,これまでの経験
生活と老後についてのインタビューを行った。
や,生活の中のライフイベントが直結している。また,それら
質問項目としては,(同居・別居にかかわらず)家族との関
を自分で乗り越え,解決,やりくりしたことが老後の糧となっ
係(接触頻度)や家族以外との関係,老後に向けて意識して行
ているようだ。
っていることを聞いた。
つまり,男性に現在行われているような老後直前の教育と女
この調査では同時に,これまでの人生を簡単な年表にし大ま
性が求めているものは異なるといえよう。
かなライフヒストリーを作成した。そこからライフイベントと
ただ,今後は女性の社会進出やライフスタイルの変化,多様
なるようなこと(就職・退職,結婚や出産,家族の死など)の
化に伴い,男性の準備教育のような,時期ごとの教育,サポー
前後の状況について話を聞いた。
トは必要になるであろう。
そこでは,やはり老後に向け特にこれといって準備はしてい
ないが,貯蓄や身体の健康(健康維持)については,これまで
謝辞
ずっと意識していたことが見て取れた。また地域の人間関係に
今回の4年にわたる研究に協力してくださった中高年女性の
ついては,自ら元気に外に出ていくよう心がけ(それを維持し
皆様には,心より感謝申し上げます。
ようとしていた。)それまでに(その地に住んでからずっと)培
った人間関係で,日々の生活が現在に引き続き変わらず行われ
付記
た。
本研究は,JSPS科研費20730346の助成を受けたものです。
5.高齢期女性の生き方
参考文献
平成20年から女性の老後について考えてきたが,老後の生活
を直接左右する要因は,健康や就業の有無のみならず,老後の
意識やその人の周りにある家族や地域のネットワークによると
いえる。
健康についても病気がないことを目指すのではなく,
(実際
に抱えている)病気ともつきあいながら,健康の維持の意識を
持っている。例えばそれが,食生活,日常生活での心がけ,努
力などの行動としてあらわれる。つまりどんな状態であれ,自
分で生活をしていけるという状態を作ることが重要である。
仕事については,ボランティアも含め,収入を得るという意
11川口一美 中高年女性の生活実態に関する研究 聖徳大学研究紀要第
21号2010年pp4-5
12川口一美 中高年女性の老後に関する一考察 聖徳大学生涯学習研究
所紀要10 2011年pp53-60
― 21 ―
近藤誠「高齢期の生活スタイル等に関する計量分析」NUPRI研究報
告 シリーズNO.4 1996.3
本田容子・岡野みゆき「高齢者の生きがい」北海道教育大学釧路校研究
紀要第37号2005
原岡一馬「高齢化に伴う知的低下の予防と生き方-2002年度調査結果か
ら-」久留米大学心理学研究第3号2004
瀬戸ヨシエ「老後の生きがい-特に女性の立場より-」平安女学院短期
大学紀要第6号1975
小野寺理佳「祖父母が営む世代関係をどうとらえる-「個別化選好」と
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研究論文 高齢期女性の生活を決定する要因
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2011
平成23年度家計調査(貯蓄・負債編平成23年平均) 総務省
― 22 ―
聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 23-30(2012)
近年の生活保護の動向
大倉 正臣
The trend of the public assistant act in recent years
OHKURA, Masaomi
要 旨
平成 24 年3月の生活保護被保護世帯数は 1,528,381世帯であり,平成 22 年の1か月平均の被保護世帯数に比べ
118,332世帯増加(増加率 8.4%)し過去最高となった。
世帯類型別では高齢者世帯が 43.2%,母子世帯が 7.4%,傷病者世帯が 20.6%,障害者世帯が 11.3%,「その他の
世帯」が 17.1%であり,高齢者世帯,傷病者世帯及び障害者世帯を合わせた非稼働世帯の占める割合が 75.2%となり,
被保護世帯の大部分を占めている。
しかし,これを近年の保護開始世帯数で考察すると様子が異なる。平成 22 年被保護開始世帯数は,
「その他の世帯」
が 35.5%,傷病者世帯が 26.3%,高齢者世帯が 24.4%,母子世帯が 8.6%,障害者世帯が 5.2%の順となり,「その
他の世帯」と傷病者世帯の割合が高まる。
全体の被保護世帯数が増加した要因は,我が国の経済格差が拡大し貧困者が増大していることであるが,保護
の開始世帯数と廃止世帯数との差が年々累積し保護の開始世帯数の半数以上を占めていることも大きい。
一方この動向を保護開始理由別に見ると「世帯主の傷病」と「貯金等の減少・喪失」が各世帯共通の主な理由
である。
「世帯主の傷病」がその主な理由となる原因は賃金の低い非正社員等を排除する被用者医療保険制度にあ
り,それらの者が加入する国民健康保険の保険料の滞納が 20.6%になるなど病気になっても受診できない人が増
えている。
また,保護開始理由別に見たもう一つの特徴の「その他の世帯」を増加させているのは 40 歳以上の高年齢層で
あり,年齢階級が高くなるほど被保護人員が増加する。保護開始理由で多いのが「貯金等の減少・喪失」と「定年・
失業」であり,その離職理由で一番多いのが「人員整理・勧奨退職のため」である。働く世代の高年齢層の貧困
化が「その他の世帯」の主な増加要因となっている。
1 はじめに
なる。平成22年被保護開始世帯数の割合は,「その他の世帯」
平成24年6月13日厚生労働省発表の福祉行政報告例によると
が35.5%,傷病者世帯が26.3%,高齢者世帯が24.4%,母子世
平成24年3月の生活保護被保護実人員は2,108,096人,被保護世
帯が8.6%,障害者世帯が5.2%の順となる。ここでは,
「その他
帯数は1,528,381世帯である。被保護実人員は,平成22年の1か
の世帯」と傷病者世帯の占める割合が大きく,近年の被保護世
月平均の被保護実人員1,952,063人に比べ156,033人の増加(増加
帯数の増加の主な要因は傷病者世帯と「その他の世帯」の増加
率8.0%)であり,また,被保護世帯数は,同1,410,049世帯に比
であったと言ってよい。
べ118,332世帯増加(増加率8.4%)し,被保護実人員及び被保護
保護の開始理由の中ですべての世帯類型に共通に多いのが
「世帯主の傷病」と「貯金等の減少・喪失」であり,また,「そ
世帯数ともに過去最高であった。
被保護世帯数を世帯類型別にみると高齢者世帯が660,726世
の他の世帯」に特徴的な保護開始理由が「定年・失業」と「そ
帯(9.5%増),母子世帯が112,728世帯(3.6%増),障害者世帯が
の他の働きによる収入の減少」である。
172,805世帯(9.8%増),傷病者世帯が315,292世帯(2.3%増)
,
「そ
そこで,本論文は,これらの保護開始理由の背後にあって,
の他の世帯」が260,945世帯(14.8%増)であり,
「その他の世帯」
その増加要因となっている医療保険制度や雇用の現状との関連
の増加が著しかった。
性を考察することによって,近年の被保護世帯の増加要因を明
世帯類型別被保護世帯の割合で見ると高齢者世帯が43.2%,
らかにしようとするものである。
母子世帯が7.4%,傷病者世帯が20.6%,障害者世帯が11.3%,
「そ
の他の世帯」が17.1%であり,高齢者世帯,傷病者世帯及び障
2 被保護世帯数の全体的状況
害者世帯を合わせた非稼働世帯の占める割合が75.2%となり,
表1は,近年10年間の世帯類型別被保護世帯数の推移を表し
被保護世帯の大部分を占めている。
たものである。平成22年の月平均の被保護世帯総数は平成11年
しかし,これを近年の保護開始世帯数で考察すると様子が異
に比べ約2倍になっているが,すべての世帯類型で増加してい
聖徳大学心理・福祉学部社会福祉学科・教授
― 23 ―
大倉 正臣
研究論文 近年の生活保護の動向
表1 世帯類型別被保護世帯数の年次推移
総数
年度
被保護
世帯数
平成11年度
13
15
指数
100.0
315,933
100.0
939,733
133.7
435,804
137.9
297,665
157.5
803,993
1,039,570
21
1,270,588
22
指数
703,072
17
19
高齢者世帯
被保護
世帯数
1,102,945
1,405,281
114.4
147.9
156.9
180.7
199.9
370,049
451,962
563,061
603,540
117.1
143.1
178.2
191.0
母子世帯
被保護
世帯数
傷病者世帯
指数
被保護
世帯数
指数
58,435
100.0
207,742
100.0
82,216
140.7
241,489
116.2
68,460
90,531
92,910
99,592
108,794
117.2
155.0
159.0
170.4
186.2
222,035
272,547
269,080
289,166
308,150
106.9
障害者世帯
被保護
世帯数
70,778
100.0
95,283
143.6
81,519
131.2
117,271
139.2
146,790
129.5
128.3
指数
115.2
132,007
100.0
84,941
169.3
111,282
221.7
61,930
107,259
207.4
171,978
222.4
指数
50,184
165.7
186.5
157,390
その他世帯
被保護
世帯数
227,407
123.4
213.7
342.7
453.1
厚生労働省平成22年被保護者全国一斉調査より作成
るのが一つの特徴である。これを母子世帯と「その他の世帯」
二つの側面があります。第一に,豊かな人の所得がさらに上が
を合わせた稼働世帯と高齢者世帯,傷病者世帯及び障害者世帯
り,
貧しい人がますます貧しくなるという側面です。第二に,豊
を合わせた非稼働世帯に分けて比較してみると,稼働世帯は3
かな人と貧しい人の数が相対的に増加するという側面です。」1
倍増加しているのに対し非稼働世帯は2倍弱であり稼働世帯の
と,国民の間の経済格差の拡大によって貧困者が増大している
増加が著しいことが第2の特徴である。また,稼働世帯の中で
ことを述べている。
も「その他の世帯」の増加が4.5倍と著しいことが第3の特徴
この主張を受けるように岩田正美も「… 日本では高度経済
と言ってよい。
成長以降,多くの人々にとって貧困はもはや解決したものとな
この状況を世帯類型別の割合で眺めてみると,平成11年に
り,… 貧困調査もほとんどなされなくなった。… その意味
稼働世帯が被保護世帯全体の中で占める割合は15.4%,非稼働
で,格差社会論の延長線上に貧困を見つめる眼差しが生まれて
世帯のそれは84.5%であったが,平成22年は稼働世帯の占める
きたことは日本において長く封印されてきた貧困という問題を,
割合が23.9%と高まり,反対に非稼働世帯は76.0%へ低下した。
本格的に『再発見』していく契機として歓迎すべきことであ
これを,各世帯類型別に見ると「その他の世帯」が7.1%から
2
る。」
としている。
16.2%へと大きく増加したが,同じ稼働世帯である母子世帯は
また,中野麻美は,「問題は現代社会が直面しているのはた
8.3%から7.7%へ減少している。また,非稼働世帯の高齢者世
だの「格差」ではなく,深刻な「貧困化」を伴うものであり,
帯は44.9%から42.9%へ,傷病者世帯は29.5%から21.9%へ低下
それがきわめて不合理な差別を含んでいることにある。富める
したが,障害者世帯は10.1%から11.2%へ増加している。
者の他方の極に… いくら働いても自立して生きられない低賃
金や,生活できる水準の収入を得るために死ぬほど働かなけれ
3 被保護世帯数増加の全体的要因
ばならない長時間労働の拡大である。」3と,労働問題の視点か
平成22年の被保護世帯総数は平成11年のそれに比べ702,209
ら経済格差と貧困を論じている。
世帯増加しているが,その主な要因は,我が国の貧困者が増大
次の表2は,平成8年から平成20年の間の経済格差の拡大と
していること,保護の開始世帯数と廃止世帯数の差が年々累積
貧困世帯の増大の関係を一覧表にしたものである。
されていることである。
ジニ係数は,格差や不平等を計測する際に使われる数字で,
人々が完全平等の状態にある時がゼロ,反対に完全な不平等の
1)
貧困者の増大
状態にある時が1になり,数字が1に近づくほど格差が大きい
我が国において貧困者が増大していることを指摘したのは橘
木俊詔であった。橘木は平成10年に「日本の経済格差」を著し,
表2 当初所得と世帯保護率の推移
日本はかってのような一億総中流の時代ではなく国民の間に経
ジニ係数
済格差が起きていることを指摘し多くの論争を生んだだけでな
低所得世帯
く,時の総理大臣小泉純一郎をして「格差はどこの社会にもあ
り,格差が出ることは悪いことではない」と格差が拡大してい
ることを認めさせた。
橘木は平成18年に「格差社会―何が問題なのか」を著し,各
種のデータを使って格差の現状を検証し「貧富の格差が増す際,
世帯保護率
平成8年 平成11年 平成14年 平成17年 平成20年
0.376
15.6%
14.0%
0.408
18.9%
15.7%
0.419
23.2%
18.9%
0.435
28.2%
22.1%
0.454
28.4%
24.0%
・低所得世帯は,年間所得100万円未満の世帯である
・世帯保護率は,被保護世帯数を,国民生活基礎調査の総世帯数で除した
ものである
・資料 厚生労働省所得再分配調査
厚生労働省被保護者全国一斉調査より作成
― 24 ―
大倉 正臣
研究論文 近年の生活保護の動向
ことを表すものである。それによると,収入から税と社会保険
表3 保護の開始世帯数と廃止世帯数
年度
料を差し引き,これに社会保障給付金を加える前の当初所得の
ジニ係数は,平成8年の調査では0.3764であったが年々拡大し,
平成5年
を示している。
146,428
132,073
得世帯が全世帯に占める割合を表したものである。生活保護の
189,912
17
218,247
7,298
14,355
146,790
36,151
138,044
178,491
39,756
481,531
187,359
149,866
67,471
166,653
337,225
累積差
43,122
165,485
238,447
21
差
126,860
232,956
20
最低基準額の例として33歳男,29歳女,4歳子の標準3人世帯
134,158
11
14
表の「低所得世帯」は,1人世帯で年収100万円未満の低所
の約64%は1人世帯であり,1人世帯の収入を基本として低所
廃止世帯数
8
平成20年の調査では0.4539となり経済格差が拡大していること
が用いられることが多いが,稼働世帯である「その他の世帯」
開始世帯数
71,794
326,413
614,468
764,334
・厚生労働省被保護者全国一斉調査より作成
・累積差は,表の年度間の3年分を集計している
得世帯を考えたものである。
100万円は生活保護の1級地―1の単身世帯の平均的生活扶
それは労働者の年齢やその企業で働く年数によって賃金が上昇
助基準額(基準額は被保護者の年齢によって異なるので生産年
するものであるので,多くの労働者の賃金が平均的に上昇して
齢人口に当てはまる12歳から69歳までの4段階の基準額を合計
いくが,成果主義賃金は有能な人に高い賃金を支給するもので
しそれを4で割った数字を平均とした)991,000円とほぼ同じで
あるからその成果を生み出せない労働者が貧困化することにな
あり,その割合が経済格差の拡大に比例して増加していること
る。5
が分かる。その結果世帯保護率も上昇し,平成8年の14.0%か
ら平成20年には24.0%となり,我が国において貧困者が増大し,
2)
保護の開始世帯数と廃止世帯数の差
それが被保護世帯増大の主要な要因となっていることを示して
表3は,保護の開始世帯数と廃止世帯数の差を一覧表にした
いる。
ものである。ある年度の保護の開始世帯数が廃止世帯数より大
我が国の貧困率が国際的にも高くなっていることは,阿部彩
きければその差が次年度の被保護世帯数をその分増加させ,反
が2008年に著した「子どもの貧困」の中で指摘している。それ
対に小さければ減少させる。開始世帯数の方が大きい年度も小
は,2006年7月の経済協力開発機構(OECD)が「対日経済審
さい年度もあるが,平成5年から常に開始世帯数の方が多く,
査報告書」の中で,日本の相対的貧困率が15.3%でOECD諸国
その差が年々積み上がり平成21年の累積差は764,334世帯とな
の中でアメリカに次いで第2位であると報告しているというも
り平成22年の被保護世帯数1,410,049世帯数の54.2%を占めてい
のであった。その後,厚生労働省も2009年10月に,OECDと同
る。年々増加する被保護世帯数の半分以上が保護の開始世帯数
様の計算方法で我が国の相対的貧困率を算出したところ2007年
と廃止世帯数の差によって生み出されていることになる。
の調査で15.7%になっていることを発表した。
表4は,平成22年の世帯類型別の各被保護世帯の保護の廃止
OECDで用いられている相対的貧困率とは,収入から税や社
理由を多い順に整理したものである。これによると,母子世帯
会保険料を差し引き社会保障給付金を加えた「手取りの世帯所
を別にすれば,いずれも廃止理由の3番目までに「死亡」が入
得」を世帯人数で調整し,その中央値(上から数えても,下か
っており,高齢者世帯,傷病者世帯,障害者世帯ではいずれも
ら数えても真ん中)の50%のラインを貧困基準とする方法であ
表4 世帯類型別保護廃止理由
る。4
死 亡
二つ目が非正社員の拡大であり,ここ10年間に正社員が約
400万人減り,非正社員が約630万人増え約3分の1が非正社員
になっていることを挙げている。正社員と非正社員の間には賃
金格差があり,非正社員の賃金は正社員のそれの6~7割と言
われている。
三つ目として賃金決定方式に成果主義賃金が導入されたこと
を挙げている。これまでの賃金決定方式は年功序列賃金であり,
失 踪
働きによる収入の増加・取得
社会保障給付金の増加
親類・縁者等の引取り
働き手の転入
世帯主の傷病治癒
①
③
②
①
①
②
③
・○の中の数字は,各世帯の保護廃止理由の多い順番
・厚生労働省平成22年度被保護者全国一斉調査より作成
― 25 ―
③
②
②
③
①
その他の世帯
くなっていることを挙げている。
障害者世帯
けて失業者が増大したこと,また,それとともに失業期間が長
傷病者世帯
保護廃止理由
近まで15年以上の長期にわたって不景気が続き,その影響を受
母子世帯
は,長期不況と失業者の増大で,日本経済は1990年ころから最
高齢者世帯
平成22年度
橘木は,貧困者が増加している要因を三つ挙げている。一つ
③
②
①
大倉 正臣
研究論文 近年の生活保護の動向
1番目になっている。これらの事実は,非稼働世帯の場合,収
一覧表にしたものである。この順位は,平成22年度のものであ
入の増加が期待できないことから生存中に保護廃止に至ること
るが,この10年間,順位に少し変更はあるものの基本的に変わ
が少なく,結局死亡によって保護が廃止されることになり保護
っていない。ただ,「その他の世帯」については,平成20年度
期間が長期化し,保護の廃止数が保護の開始数を下回る主な理
までは「世帯主の傷病」が第3順位に入っていたが,平成21,
由となっている。
22年度は「その他の働きによる収入の減少」と入れ替り第4順
稼働世帯である「その他の世帯」の保護の廃止理由の3番目
位となっている。
が死亡であることはやや意外な感じがするが,統計上の高齢者
この表で見ると,各世帯類型に共通の主な保護開始理由は,
世帯は「65歳以上の者のみで構成するか,又はこれに18歳未満
「世帯主の傷病」と「貯金等の減少・喪失」であり,また,各
の未婚の者が加わった世帯」(国民生活基礎調査の定義)であ
世帯類型がそれぞれ個別的保護開始理由をもっていることが分
るため,世帯主が65歳以上であっても世帯員に18歳以上の者
かる。高齢者世帯では「老齢による収入の減」であり,母子世
などが同居している場合は「その他の世帯」になるからである。
帯では「働いていた者の離別等」であり,障害者世帯では「仕
実際にも「その他の世帯」の15%程度が65歳以上の世帯主である。
送りの減少・喪失」であり,
「その他の世帯」では「定年・失業」
と「その他の働きによる収入の減少」である。
4 保護開始世帯数から見た生活保護の動向
傷病者世帯は,
高齢者世帯,
母子世帯,
障害者世帯を除いて「世
1)
世帯類型別保護開始世帯数
帯主が入院しているか在宅患者加算を受けている世帯,又は世
次の表5は,世帯類型別保護開始世帯数の推移を一覧にした
帯主が傷病のため働けない者である… 世帯」
(被保護者全国
ものである。保護開始世帯数を基に近年の生活保護の動向を眺
一斉調査)
であるから,
その主な保護開始理由が
「世帯主の傷病」
めると,被保護世帯全体の動向と異なり,被保護世帯の実数で
であることは当然であるが,他の世帯類型においても「世帯主
みても,被保護世帯数全体に占める割合でみても傷病者世帯と
の傷病」が保護開始の主な理由の一つになっていることは,そ
れが被保護世帯数の増加をもたらす主な要因であることを意味
「その他の世帯」の占める位置が高くなっている。
全体では高齢者世帯が実数でもその割合でも一番大きく,次
する。現在,被保護世帯全体の最大の保護開始理由であり,平
いで傷病者世帯であるが,開始世帯数で見ると,傷病者世帯と
成22年は全体の26.5%となっている。
「その他の世帯」が大きく,高齢者世帯は3番目となる。また,
傷病者世帯と「その他の世帯」との間では,平成19年までは実
3)
「世帯主の傷病」の増加要因
数についてもその割合についても傷病者世帯の方が圧倒的に多
「世帯主の傷病」が貧困をもたらす理由は二つ考えることが
かったが,平成20,21年ではその立場が逆転し「その他の世帯」
できる。一つは,傷病により働くことができないために収入の
の方が大きくなっている。
減少が生ずる場合であり,二つ目は,傷病により医療費の出費
これらのことから導かれる特徴として,近年における被保護
が嵩み貧困に陥る場合である。このような貧困に陥るのを避け
世帯数増加の中心が傷病者世帯であったこと,「その他の世帯」
るために用意されているのが医療保険制度である。
が急速にその増加傾向を高めていることの二つを挙げることが
医療保険制度には,主に大企業の従業員を対象とする健康保
できる。
険や中小企業の従業員を主な対象とする全国保険協会健康保険
(協会けんぽ)等の被用者医療保険制度と自営業者,農民等被
2)
世帯類型別保護開始理由
用者医療保険制度等に加入していない者を主な対象とする国民
表6は,世帯類型別被保護世帯の保護開始理由の上位三者を
健康保険制度がある。被用者医療保険には加入資格があり,例
表5 世帯類型別保護開始世帯数の推移
年度
平成11年度
13
総数
傷病者世帯
障害者世帯
その他の世帯
世帯数
構成比
世帯数
構成比
世帯数
構成比
世帯数
構成比
世帯数
構成比
14,753
100
3,635
24.6
1,422
9.6
7,183
48.7
497
3.4
2,020
13.7
14,951
100
19,440
19
13,885
100
22
24,088
100
21
母子世帯
構成比
15
17
高齢者世帯
世帯数
15,662
25,227
100
100
100
3,391
4,615
3,600
3,552
5,609
5,873
22.7
23.7
23.0
25.6
22.2
24.4
1,343
1,690
1,435
1,312
1,934
2,070
9.6
8.7
9.2
9.4
7.7
8.6
・厚生労働省平成22年被保護者全国一斉調査より作成
― 26 ―
8,171
9,127
6,928
5,754
7,482
6,339
54.6
46.9
572
789
44.2
799
29.7
1,120
41.2
26.3
821
1,249
3.8
4.1
5.1
5.9
4.4
5.2
1,480
3,219
2,900
2,479
9,082
8,557
  9.9
16.6
18.5
17.8
36.0
35.5
大倉 正臣
研究論文 近年の生活保護の動向
表6 世帯類型別保護開始理由
ホームレスの支援活動に携わっている湯浅誠は「路上で暮
②
貯金等の減少・喪失
働いていた者の離別
定年・失業
①
①
②
仕送りの減少・喪失
①
②
③
その他の世 帯
その他の働きによる収入の減少
急迫保護で医療扶助単給
③
障害者世帯
③
傷病者世帯
世帯主の傷病
母子世帯
保護開始理由
高齢者世帯
平成22年度
③
の73.2%は健康保険に加入していない(2007年)
」と述べている。
統計上,保護開始の理由として「急迫保護で医療扶助単給」が
加わったのは平成15年からであるが,平均すると傷病世帯の保
護開始理由の22.9%を占め「世帯主の傷病」に次ぐ受給要因と
①
②
らす野宿者は言うまでもなく,いわゆる「ネットカフェ難民」
なっている。これらの人々は,傷病になり治療を受けようとす
るならば生活保護の医療扶助を利用する他にない人々である。
③
①
そのような状態になることに対し自己責任を問題とする人
②
上,53.8%が無職,世帯主が雇われている世帯の61.5%が年収
もいるが,湯浅誠は「その背景には,加入者の49.4%が60歳以
200万円未満という中で,国民健康保険料と,それが所得に占
・厚生労働省平成22年被保護者全国一斉調査より作成
・収入の減少は,高齢者世帯の場合は「老齢による収入の減」
,
「その他の
世帯」の場合は「その他の働きによる収入の減少」である
める保険料負担率が上がり続けているという事情がある(2005
え,被用者であったとしてもパートタイマー等は加入できない
り,所得に応じた「応能割」部分を減らし,世帯当たりや世帯
場合が多い。
人員当たり一律の「応益割」部分を増やし… それは,低所得
加入資格は,①1日又は1週間の労働時間が正社員の概ね4
者の負担を重くし,逆に高所得層の負担を軽くすることになっ
分の3以上で,かつ,②1カ月当たりの労働日数が正社員の概
た。」7 と述べ国民健康保険料の滞納が起こる制度的問題点を
ね4分の3以上であること。また,2カ月以内の雇用期間を定
指摘している。
めて雇用される者は,上記①及び②の要件を満たしても被保険
聖徳大学が所在する松戸市の平成22年度の40歳以上の年収
者となることができない。これらの要件からもれる者は概ね非
100万円の1人世帯の社会保険料は,国民健康保険料が年額
正社員であるが,現在我が国の非正社員は全社員の3分の1に
45,440円(月額3,787円)
,介護保険料が13,220円(月額1,101円),
上っており,これらの者は市町村の運営する国民健康保険に加
国民年金保険料が月額14,420円である。年収を月額にすると
入することになっている。
83,330円であり,ここから上記3種の社会保険料を差し引くと
被用者医療保険制度には,傷病によって収入が減少・喪失し
64,022円,さらに,住まいに必要なアパート代を差し引くとほ
た場合の生活費を保障するものとして,給与が支給されない場
とんど生活費が残らないことになる。
合に1年6カ月を限度として標準報酬日額の3分の2に相当す
国民健康保険料や国民年金保険料については低所得者を対象
る金額が支給される傷病手当金がある。しかし,パートタイマ
とする保険料の軽減制度や猶予制度があるが,これらの制度を
ー等の低所得者や自営業者等が加入する国民健康保険において
活用するには県市民税等の申告や国民年金保険料の納付猶予申
は傷病手当金は任意給付であり,この制度を実施している市町
請が必要であり,これらの制度があることをどれだけの人が知
村はない。従って,これらの者が傷病によって働けなくなった
っているであろうか。このような収入・所得状況の下では生活
場合の生活を保障する制度がないことになり,生活保護受給の
することに一杯で,社会保険料の納付まで手が回らない実態が
大きな要因となる。
浮かび上がってくる。
年)。」6 とその社会的,制度的問題について述べている。
また,金沢誠一は国民健康保険料が「厚生労働省の誘導によ
医療保険の関係でより重要な問題は,国民健康保険に加入し
ていても社会保険料負担が重く,それを納められない多くの
4)
「その他の世帯」の増加要因
人々がいることである。平成22年度の国民健康保険料の滞納世
平成21,22年において,保護開始世帯数が一番大きかったの
帯は,約436万世帯,20.6%であり,5世帯に1世帯が滞納し
が「その他の世帯」であったことはすでに述べたが,表7は両
ていることになる。そして,保険料を1年以上滞納すると正規
年における「その他の世帯」の保護開始時の年齢階級の割合を
保険証の返還となり,病気や怪我をしても治療を受けることが
表したものである。これによると年齢が高くなるにつれて保護
困難になって,生活保護の医療扶助受給へと進むことになる。
開始世帯数が高まる傾向が読みとれるが,特に55~59歳,60~
平成22年の医療扶助受給世帯数は1,210,389世帯で,生活扶助受
65歳の高年齢層でその割合が高まっている。65歳以上の割合が
給世帯数1,254,992世帯との比率は約96.4%であり多くの被保護
低くなるのは65歳以上の1人世帯は,統計上「その他の世帯」
世帯が医療扶助を併給し,「世帯主の傷病」が生活保護受給の
から離れ高齢者世帯にカウントされるからである。
主な要因になっていることを示している。
表7が示すのは,被保護「その他の世帯」数を増加させてい
― 27 ―
大倉 正臣
研究論文 近年の生活保護の動向
表7 「その他の世帯」の保護開始年齢階級
単位;%
年度(平成)
~24歳
25~29歳
30~34歳
35~39歳
40~44歳
45~49歳
50~59歳
55~59歳
60~64歳
65歳~
22
1.4
2.0
3.7
8,0
10.4
13.7
10.7
19.1
27.9
  1.3
21
1.3
2.2
3.2
5.6
  9.8
  8.5
10.3
20.8
22.7
15.7
・厚生労働省平成22年被保護者全国一斉調査より作成
るのは高年齢層であり,働く世代の高年齢層が貧困化している
すだけの所得に余裕のない状態です」8 と述べているが,シー
という現実である。「その他の世帯」の保護開始理由の1番目
ボーム・ラウントリーは1975年刊行の「貧乏研究」の中で,貧
の「貯金等の減少・喪失」,2番目の「定年・失業」,3番目の
困の定義として第一次貧困と第二次貧困を示した。
「その他の働きによる収入の減少」は,すべて働く高年齢層の
この貧困の定義について,川上昌子は「第一次貧困とは,そ
貧困化と関係の深いものである。中でも2番目の「定年・失業」
,
の収入が単なる肉体的能率を保持するために必要な最低限度に
3番目の「その他の働きによる収入の減少」は,働く高年齢層
も足らぬ家庭であり,第二次貧困とは,その総収入の一部が他
に関係する特徴的な保護開始理由と言って良い。
の支出に振り向けられない限り単なる肉体的能率を保持するに
足る家庭である。」9と紹介しているが,この定義を応用すると,
イ 「貯金等の減少・喪失」
貯蓄ゼロの世帯は,すでに貧困の状態にある第一次貧困か,臨
「貯金等の減少・喪失」はいずれの世帯類型においても保護
時の出費があると貧困世帯に陥ってしまう第二次貧困に近い状
開始の主な理由の一つになっている。それは,生活保護法第4
態にある世帯と考えることもできる。
条の保護の補足性の原理が,生活に困窮する者が保護を受ける
前提としてその者の資産・能力の活用を求めており,貯金の取
ロ 「定年・失業」
り崩しは資産の活用の最も中心的なものであることと関係があ
「その他の世帯」の保護開始理由の2番目が「定年・失業」
る。
であるが,定年は一般的に60歳であり,「その他の世帯」の保
一般に人々は自分の生活を守るために貯金を行い,収入が減
護開始年齢が60歳から64歳までの年齢階級が最も高くなってい
少したり支出が増加したときに貯金を取り崩して生活を維持す
ることと符合する。
る。そして,それが底をついたときに,場合によっては借金し,
総務省統計局平成22年労働力調査によると,近3年の完全失
場合によって生活保護を申請することになるが,生活保護法は
業者の前職の離職理由の中で一番多いのが「人員整理・勧奨退
そのことを保護開始の前提条件としている。
職のため」,2番目が「定年又は雇用契約の終了」,3番目が
しかし,近年の経済格差の拡大と貧困者の増加の中で貯金ゼ
「より良い条件の仕事を探すため」
,4番目が「会社倒産・事業
ロ世帯が増加していることが問題になっている。国民生活基礎
所閉鎖のため」
,5番目が「事業不振や先行き不安のため」で,
調査は3年毎に貯蓄についての調査を行っているが,それによ
その多くが定年と失業に関係するものであり,「定年・失業」
ると我が国の全世帯の中で貯蓄ゼロの世帯は平成13年の調査で
による収入の減少・喪失が生活保護開始の主な要因の一つにな
は8.2%であったが,22年の調査では10.0%に増加している。世
っていることが分かる。
帯数にすると約486万世帯となり,生活保護受給世帯の3倍余
また,完全失業者は平成19年の257万人を底に上昇し,20年
の世帯が貯蓄ゼロの生活をしていることになる。
が265万人,21年が336万人,22年が334万人となり,21,22年
国民生活基礎調査による貯蓄ゼロ世帯数は,年齢階級が高年
の失業者数が非常に多くなっていることが分かる。これを年齢
齢階級になるほど増加する。また,貯蓄ゼロ世帯を世帯構造別
階層別に見ると1位が25~34歳,2位が55歳以上,3位が35歳
に比較すると単独世帯における貯金ゼロ世帯は約16%,核家族
~44歳,4位が45歳~54歳,5位が15歳~24歳でこの3年間そ
世帯におけるそれは約8.5%,三世代世帯で約6.8%となり,世
の順位に変動はない。ここでは,25歳から44歳までの若・中年
帯構造が小さいほど貯蓄ゼロ世帯が増加する。これらの事実
層と55歳以上の高年齢層の完全失業者が多いことを示している。
は「その他の世帯」の年齢階級別被保護世帯数が世帯主の年齢
若・中年層が多くなっていることについて大沢真知子は2008
が高くなるほど多くなることに符合し,また,「その他の世帯」
年と2009年の年齢階層別雇用保険の受給者数から「すべての年
の被保護世帯数の約3分の2が1人世帯であり,「貯金等の減
齢階層で初回受給者数が増加している。その中でも特に,30~
少・喪失」に大きな影響を受ける世帯であることが分かる。
40歳の増加率は他の年齢層に比べて高く,最近の企業の雇用調
橘木俊詔は,
「貯蓄がゼロということは,所得だけでは生活
整が高年齢層ではなく,若・中年層を中心としておこなわれ
がまかないきれずに,保有していた貯蓄を食いつぶしてしまっ
ていることがうかがえる。」10とその原因を分析している。また,
ている状態です。あるいは,生活するのに精一杯で貯蓄にまわ
総務省統計局平成22年労働力調査によると「完全失業者の仕事
― 28 ―
大倉 正臣
研究論文 近年の生活保護の動向
につけない理由」の中で「希望する種類・内容の仕事がない」
雇用形態別の賃金を比較すると,平均賃金は男性の場合,正
が一番多いのが25~34歳の年齢階級の39.0%であり,この年齢
社員が338.5万円,非正社員が228.8万円で正社員,非正社員の
層が「より良い条件の仕事を探すため」離職し,完全失業者数
間に109.7万円の賃金格差があり,女性の場合は正社員が244.0
を押し上げていることが推察される。
万円,非正社員が170.9万円で73.1万円の格差となり,男性の格
しかし,
「定年・失業」が生活保護開始理由と強く関係する
差の方が大きい。これを年齢階級別に見ると正社員,非正社員
のは,どの程度再就職できるかということである。高年齢層に
ともに50~54歳の年齢階級で最も賃金が高くなり,正社員非正
なるほど再就職が困難になることは良く知られているが,総務
社員間の賃金格差もこの年齢階級で一番大きくなるが,その後
省統計局平成22年労働力調査の「完全失業者の仕事につけない
は高年齢階級になるほど賃金も格差も低下する。
理由別割合」を見ると「求人の年齢と自分の年齢が合わない」
この雇用形態別の賃金格差を企業規模別に見ると男女平均で
が35~44歳では12.7%であるが,45~54歳では26.9%と高くな
大企業の場合147.3万円,中企業で110.4万円,小企業で85.7万円
り,さらに55歳以上になると40.8%となって,高年齢層になる
の格差となり,企業規模が小さいほど正社員と非正社員間の賃
ほど再就職が厳しくなることが分かる。これに「条件にこだわ
金格差は小さくなる。しかし,「その他の世帯」の世帯主が多
らないが仕事がない」を加えると58.0%となり,高年齢層にな
く雇用されているのは小企業の非正社員であると推察され,そ
ってからの「定年・失業」が困窮化をもたらし生活保護に結び
の平均賃金は183.4万円で,二人以上の世帯の場合生活保護受
つきやすい状況になることを窺い知ることができる。
給となる可能性が高くなる。
「その他の世帯」の中で「臨時・日雇」の割合も高いが,短
ハ 「その他の働きによる収入の減少」
時間労働者の企業規模別の1時間当たりの賃金は表8のとおり
「その他の世帯」の保護開始理由で3番目に多いのが「その
である。1時間当たりの賃金は中企業で一番高く,次いで小企
他の働きによる収入の減少」である。保護開始理由の2番目の
業,一番安いのが大企業である。
「定年・失業」のところで完全失業について説明したが,完全
非正社員,短時間労働者であっても年間をとおしてフルタイ
失業者は「3か月未満」,「3か月以上6か月未満」,「6か月以
ムで稼働すれば生活保護基準額を上回る賃金を得ることができ
上1年未満」及び「1年以上」に分けて統計がとられる。そし
る。しかし,非正社員は1年間の雇用がすべて保障されている
て,「1年未満」の失業者は一度失業するものの1年以内に再
わけではないし,短時間労働者も何時仕事があるか分からない
就職ができたことを意味する。
状態での生活となる。このような就労が貧困をもたらす状況に
しかし,高年齢になるほど再就職は困難になり,総務省統計
ついて,古くC・ブースが1886~1901年にかけて刊行した「ロ
局平成22年労働力調査によると,55歳以上の男性の完全失業者
ンドン民衆の生活と労働」で「貧困階層の70%近くが,就労は
が探している仕事の形態は,非正規雇用が52.6%となっており
規則的だが賃金が低いことや… 賃率は低くないものの就労自
半数以上の人たちが非正規雇用での仕事を探している。実際
体が不規則・不安定であることによって貧困に陥っている」11
にも年齢階級別にみた非正規雇用の割合は55歳以上が49.5%で
と述べている。
一番高く,次いで15~34歳の31.9%,最も低いのが35~54歳の
28.9%で高年齢層の非正規雇用の割合が高くなっている。
5 おわりに
以上のような背景との関係で「その他の世帯」の非正規雇用
近年の生活保護の動向については,非正社員の拡大と若者を
数について,調査項目「雇用」の中の「期間の定めがある常用」
中心とするワーキングプアの増加との関連で被保護世帯と「そ
と「臨時・日雇」を合計したものを非正規雇用として整理する
の他の世帯」の増加が語られる場合が多いように思われる。
と,一部例外があるものの年齢階級が高くなるほど非正規雇用
しかし,その動向をマクロ的に眺めると被保護世帯数や,中
数が多くなる。このことも「その他の世帯」の中で高年齢階級
になるほど被保護世帯数が増加する要因となることを示すもの
表8 短時間労働者の企業規模,性別1時間当たり賃金
男性
である。
厚生労働省平成22年賃金構造基本統計調査によると男性の平
均賃金は,大企業が382.9万円,中企業が316.7万円,小企業が
285.3万円で企業規模による格差があり,大企業と小企業の賃
女性
1時間
1時間
企業規模 当たり 対前年 企業規模間 当たり 対前年 企業規模間
増減率 賃金格差
増減率 賃金格差
賃金
賃金
(円)
(%) (大企業=100)
(円)
(%) (大企業=100)
大 企 業 1,043
-0.5
100
  970
0.0
100
万円,中企業で227.3万円,小企業で206.8万円である。男女間
中 企 業 1,115
-1.2
107
1,000
0.3
103
にも賃金格差があり,その格差は大企業で128.3万円,中企業
小 企 業 1,096
0.3
105
  970
1.7
100
で89.4万円,小企業で78.5万円となり男性の賃金の方が高い。
出所 厚生労働省平成22年賃金構造基本統計調査
金格差は97.6万円である。また女性の平均賃金は大企業で254.6
― 29 ―
大倉 正臣
研究論文 近年の生活保護の動向
でも「その他の世帯」数の増加の要因は,1990年代に始まる経
引用文献
済格差の拡大の中で生じている貧困が一番大きなものであるが,
それ以外に保護の開始世帯数と廃止世帯数との差が年々積み上
がり被保護世帯増加数の半数以上を占めていることについて言
及した。
  1)橘木俊詔「格差社会」岩波新書2006年15頁
  2)岩田正美「現代の貧困」ちくま新書2008年008頁
  3)中野麻美「労働ダンピング」岩波新書2007年ⅵ頁
  4)阿部彩「子どもの貧困」岩波新書2010年ⅱ頁
  5)橘木俊詔「格差社会」岩波新書2006年15頁以下
また,マクロ的動向とは別に近年の保護の開始理由別に増加
  6)湯浅誠「反貧困」岩波新書 2008年26頁
要因を考察すると,その最も主要なものが「世帯主の傷病」で
  7)金沢誠一「公的扶助論」高管出版2004年44頁
あることが分かった。世帯主の傷病が保護開始理由となる主な
原因が我が国の医療保険制度にあることについて説明したが,
このことについて,例えば,ジャーナリスト本田良一が「ルポ
生活保護―貧困をなくす新たな取り組み」12の中で一部触れて
いる。
さらに,近年の生活保護の動向の特徴の一つが「その他の世
帯」の増加であるが,その増加要因の主なものの一つが,貧困
化する働く世代の増加であることを指摘した。現在,若者のワ
ーキングプアが問題となっており,それがやがて生活保護の動
向に表れてくると思われるが,近年の完全失業者の離職理由で
最も多いのが「人員整理・勧奨退職のため」と比較的高年齢の
労働者を対象としたものであり,また,それらの人々の再就職
は厳しいことから,働く世代の高年齢層が貧困化していること
を統計的に説明した。
生活保護の被保護世帯,被保護人員が増加し,また,赤字国
債の発行額が税収を上回る財政状況の中で,平成25年度予算の
概算要求基準は「社会保障分野も聖域視せず,生活保護の見直
しをはじめ,最大限の効率化を図る」ことを明記した。他方に
おいて,一度は中止と決まった八ツ場ダム,整備新幹線,外郭
環状道路の建設が決定されている。
駒村康平は,最低所得保障の「整合性」と「包括性」を問題
とする。「整合性」とは所得保障の各給付水準は生活保護の最
低生活保護基準と矛盾がないことであり,「包括性」とは,さ
まざまなリスクや困難を抱える人々を重層的な所得保障体系に
13
よって対象ごとにもれなくカバーすることであると言う。
現在の国の財政運営の在り方や低所得者が病気になっても必
要な医療が受けられない状態,最低賃金保障額が生活保護の最
低基準額を下回る都道府県があるなどという状態は,福祉国家
としての「整合性」,「包括性」に欠けると言ってよいであろう。
― 30 ―
  8)橘木俊詔「格差社会」岩波新書2006年19頁
  9)川上昌子「新版・公的扶助昌論」光生館2010年6頁
10)大沢真知子「日本型ワーキングプアの本質」岩波新書2010年124頁
11)宇都栄子「川上昌子編『新版・公的扶助論』」光生館2010年18頁
12)本田良一「ルポ生活保護」中公新書 2010年 139頁以下
13)駒村康平「最低所得保障」岩波書店2010年3頁
聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 31-37(2012)
児童期における知能と学力の変動パターンの検討
-国語と算数に着目して-
都築 忠義*1 相良 順子*2 宮本 友弘*3 家近 早苗*4 松山 武士*5 佐藤 幸雄*6
Research on intelligence and academic achievement in childhood
TSUZUKI, Tadayoshi, SAGARA, Junko, MIYAMOTO, Tomohiro, IECHIKA, Sanae,
MATSUYAMA, Takeshi and SATOU, Yukio
要 旨
小学校児童が6年間に示す知能偏差値と学力偏差値の変動を分析した。平成 X 年から平成 X +4年の5年間に
入学し6年まで在籍した児童の内,1年生から6年生の間に実施された知能検査と学力検査結果が全て整ってい
る 194 名(男子 88 名,女子 106 名)を分析対象とした。知能検査は毎年実施される教研式新学年別知能検査,学
力検査は同様に教研式標準学力検査で分析対象教科は国語と算数である。いずれの検査結果も偏差値を使用した。
知能偏差値は学年の進行に伴い偏差値は上昇していた。次に1年次の偏差値を5段階に分けた。6年次と1年
次の偏差値の差が +10 以上を上昇大群と -10 以上を下降大群とした。上昇大群は学年とともに漸次上昇していたが,
下降大群は1年生から2年生にかけ低下していた。
国語偏差値では,学年間を検討すると1年から3年までは横ばい,3年から4年にかけてと,5年から6年に
かけて再び有意に上昇していた。性差を見ると6年間一貫して女児の方が有意に高い傾向があった。算数偏差値
では,5年生までは上昇するが,6年次では国語と異なり有意に下降していた。学年間では1年から4年までは
横ばい,4年から5年までは有意に上昇していた。性差では男子が6年は4年より有意に高かったが,女子には
差がなかった。
学力偏差値を知能偏差値と同様に5段階に分けて変動パターンを検討すると,国語偏差値,算数偏差値はともに,
上昇大群は学年とともに上昇するが,下降大群は1から2年次にかけて著しく低下していた。また5から6年次
では両群の2科目の偏差値はいずれも低下していた。
知能と学力との関係では,学年ごとではいずれも有意な正の相関がみられた。中でも国語,算数ともに 3 年生
以降は知能との相関が強まっていた。国語の偏差値は算数のそれよりも変動幅が小さいとの結果であった。
今後の課題として,知能・学力の学年間の伸滞の個人差の検討や,オーバーアチーバー,アンダーアチーバー
の観点からの変動を検討することも課題である。
【問題と目的】
なアセスメントは欠かせない。正確なアセスメントに基づいて
本研究は,児童期の知能や学力の変動パターンを作成し,根
初めて将来の学力や人間関係を予測が可能となり,またアセス
拠に基づいた児童期の子ども学力向上支援策の構築を最終的な
メントに基づいた支援法を構築して初めて,子どもに対し根拠
目標としている。
に基づいた支援が可能となろう。このようにして得られる支援
近年,日本の子どもの学力の低下,または両極化が指摘され,
法(個別支援計画;IEP)は,特別な支援を要する子どもだけで
学力低下の対策として文部科学省は学習指導要領の随時,見直
はなく,いわゆる健常児に対しても必要で有効となろう。
し・改訂を行い,子どもの学力向上を図ろうとしている。
医学領域でEBM(根拠に基づく医療)の重要性が指摘されて
「学力の向上」を研究目的とすれば,学力とは何かの定義が
いる(村上,2007)
。本研究もEBMを参考に,教育心理学的根
必要となるが「狭い基礎学力」,「PISA型学力」,「リテラシー」
拠に基づいたIEPの作成を目的としている。
論等,学力論は混乱している(寺西,2007)。また学力を規定
元来,子どもの長期的な支援計画を作成するには,長期にわ
する個人的要因の一つである知能も,村上(2007)によれば定
たる予測モデルが必要となる。現在の知能,学力,パーソナリ
義は多岐にわたる。今回の本研究における「学力」,「知能」は
ティが過去においてはどのような状態であったのか,またどの
操作的に捉え,特定の検査により測定された学業成績を「学力」
ような影響を受けて現在に至っているのかを把握することが必
とし,特定の知能検査結果を「知能」とした。
要であろう。変動パターンが明らかになればその変動パターン
他方,適切な支援を行うには,現在の子どもの状態(学力や
に個々の子どもを当て嵌めて初めて,現在の児童の発達方向が
知能の程度,パーソナリティ,対人関係など)についての正確
予測でき,具体的な支援法が採用できることになる。これらを
*1:聖徳大学児童学部児童学科・教授/*2:聖徳大学児童学部児童学科・教授/*3:聖徳大学大学院教職研究科・准教授
*4:聖徳大学児童学部児童学科・准教授/*5:聖徳大学大学院教職研究科・教授/*6:聖徳大学児童学部児童学科・准教授
― 31 ―
都築 忠義 相良 順子 宮本 友弘 家近 早苗 松山 武士 佐藤 幸雄
研究論文 児童の知能と学力の変動
意図した長期的な変動パターン・モデルを作成するためには,
動はなかったが,知能偏差値は学年の上昇につれ知能偏差値は
長期にわたる縦断的研究が必要・不可欠である。
有意に上昇する,との結果を得ている。
知能の縦断的研究は知能指数の恒常性について多くの研究が
本研究で調査対象とした学校は私立小学校であり公立小学校
なされてきた。日本の研究では,石川(1949,1957,1958)
,狩野・
と次の点で異なっている。首都圏に位置する私立大学附属小学
吉川(1952),村山・多田(1960),小林(1962,1963),三宅(1968)
,
校であり殆どの子どもは中学受験を目指している。男女共学で
中島(1964),白井・吉村・杉浦の一連の研究(1978~1982)
,水越・
あるが中学校以上は女子のみの学校となるため男子は全てと,
山崎・卯野・水谷・日野林・嶋田・土屋・藤田(1980),内野・
女子も半数以上が私立中学校受験を目指している。また中島
堤・橋本・小泉・佐野(1981,1982),蘭・大坪(1984)
,近年
(1964)
,白井ら(1978)も対象児童は附属小学校であるが中学
では松崎(2009)がある。知能の縦断的研究は,対象児の年齢
受験の有無などが不明であること,35年から50年近くも前のデ
が1歳未満から成人まで,追跡期間も1年から10年,使用した
ータでもある。松崎のデータ(2009)は近年であることや,検
知能検査は発達検査,鈴木ビネー,WISC,教研式学年別検査
査も我々の資料と同じ教研式を用いているので最も参考となる
など,多岐にわたっているため,結果が異なることが多い。本
が,地方都市で対象児数が59人と少ないこと,中学受験児は少
報告では対象児童が小学校1年生から6年生までを対象とする
ないと思われる点で異なっている。
ことから,この児童期に関連する研究例を挙げる。学業成績の
研究対象校では創立以来,知能検査と学力検査を毎年実施し
変動に関する研究例は,知能ほど多くはない。
ている。担任教諭は各個別には両検査結果を踏まえ,児童を支
対象が小学生についての代表的研究に中島(1964)
,白井ら
援してきたと思われるが,今回,更に蓄積されたデータを分析
し変動パターンが明らかになれば,根拠に基づいたより効果的
(1978~1982),蘭・大坪(1984)がある。
中島(1964)は私立の大学附属小学校1年生から中学3年生
な支援法を探ることが可能となる,と考えられる。
まで9年間を対象とした。主として田中B式を使用して追跡し
これまでの先行研究から知能,学力は6年間で変動し学年が
て,知能偏差値は練習効果を含めて小学校1年より小学校3年
進むにつれ上昇していくことが明らかになっている。そこで本
まで上昇し,小学校4,5年でやや低下するかその水準を維持
研究の目的は,研究対象校の児童も,他の研究結果と同様の変
し,その後中学3年まで上昇する,との結果を得ている。
動パターンを示すのか,異なるとすればどのように異なってい
白井ら(1978~1982)は,私立大学の付属の幼稚園年長から
るかを,明らかにすることを目的とする。
小学校6年間の知能の変動をWISCと田中ビネーの結果から検
討し,年齢とともに知能指数は上昇するとの結果を得ている。
【方法】
蘭・大坪(1984)は公立小学校1年~6年までを教研式学年
・調査対象児
別知能検査を使用し追跡している。1年次,4年次,6年次に
研究対象児は平成X年度~平成X+4年度の入学児452名(男
検査した結果を分析した。知能偏差値は上昇群と下降群に分け
子215名,女子237名)で,このうち,6年間のデータが欠落な
られ,4年次がその臨界期にあたるとし発達段階の変化が5年
く揃っている194名(男子88名,女子106名)を分析対象とした。
生で生ずる,としている。
更に蘭・大坪(1984)は,知能偏差値の変動とともに学力偏
・調査指標
差値も知能偏差値と同じような変動パターンを得て,学力の上
知能の指標
昇に伴いIQは上昇するが,IQの上昇が学力の上昇を伴うもの
研究対象校が毎年4月に実施してきた「教研式新学年別知能
ではない,としている。結論として学力はIQの上昇,下降に
検査サポート」の結果を使用した。得点は,全国基準による偏
大きく影響することを示唆している。
差値(平均50,標準偏差10)に換算される。
水越ら(1980)は,市立小学校児童における学業成績の変動
学力の指標
と安定性を研究している。彼らの調査では,国語,社会,算数,
研究対象校が毎年2月に実施してきた「教研式標準学力検査
理科,音楽,図工,体育の7教科の5段階評定から相関を算出
NRT」の結果を使用した。入学後,2年生までは国語,算数
し,各学年間ではr=.90以上,小学校1年~6年ではr=.75の
の2教科,3年生以降は社会,理科を加えて4教科が実施され
高い相関を得て,成績は極めて安定していると結論している。
るが,本研究では,6年間の経年変化を追跡するため,国語と
知能と学力の関係については松崎(2009)の研究を挙げるこ
算数の結果のみを分析対象とした。なお,各教科の得点は,知
とができる。彼は,公立小学校の児童59名を対象とし教研式学
能と同様に,全国基準による偏差値(平均50,標準偏差10)に
力診断検査と教研式学年別知能検査を使用し結果を分析してい
換算される。
る。学力偏差値は,性差や学年による差はないが,学年ごとの
相関はr=.58~.82の間であった,また学力偏差値に有意な変
― 32 ―
都築 忠義 相良 順子 宮本 友弘 家近 早苗 松山 武士 佐藤 幸雄
表1 男女別の各学年時における知能偏差値の平均値(M)
と
標準偏差(SD)
1年
2年
3年
4年
5年
6年
男子
M
54.05
56.06
56.85
61.33
58.84
64.76
n=88
SD
9.86
9.77
9.95
12.88
10.38
11.92
女子
M
55.25
56.92
57.90
61.96
59.26
65.52
n=106 SD
10.06
8.02
8.80
10.54
9.95
10.35
研究論文 児童の知能と学力の変動
表2 知能における1年次の評定段階別の6年次偏差値と
1年次偏差値の差
6年次偏差値と1年次偏差値の差
1年次の評定
(偏差値)
【結果】
-10以下
(下降大群)
-9~0
1~9
10以上
(上昇大群)
1(34以下)
0
1
1
4
2(35~44)
0
1
9
14
3(45~54)
1
2
15
43
4(55~64)
2
12
24
34
5(65以上)
1
7
10
13
1 知能の分析
⑴全体的な傾向の分析
80
表1は,男女別に各学年時の知能偏差値の平均値と標準偏差
偏差値︵平均︶
を示したものである。性別×学年による2要因の分散分析を行
った結果,学年の主効果のみが有意であった(F(5,960)=83.38,
p<.01)
。多重比較(Bonferroni法,5%水準,以下同)を行った
ところ,連続する学年間では,2年次と3年次の間以外は有意
60
50
40
差が認められた。図1に示す通り,1年~2年次,3年~4年
30
次で有意に上昇,4年~5年次で有意に下降,5年~6年次で
有意に上昇した。6年次は4年次よりも有意に高く,もっとも
高い得点であった。
70
1年
2年
3年
下降大群
4年
5年
上昇大群
6年
図2 知能における各変動群の偏差値の変化
に,各学年次の平均偏差値をプロットした(図2)
。上昇大群は,
⑵6年間の変化大と変化小の子どもの変動パターン
学年進行に伴いほぼ漸次的に上昇する傾向にあった。下降大群
知能偏差値について,6年次と1年次の差を算出し,-10以
は,1年から2年にかけ著しく下落し,それ以降はほぼ横ばい
下,-9~0,1~9,10以上の4群に分けた。このうち,偏
であった。
差値の5段階評定(1:34以下,2:35~44,3:45~54,4:
55~64,5:65以上)において,段階を移動する可能性の高い,
2 学力の分析
-10以下(偏差値が10以上減少)を下降大群,10以上(偏差値が
⑴全体的な傾向の分析
10以上増加)を上昇大群とした。表2は,1年次の知能偏差値
表3は,男女別に各学年次の国語偏差値,算数偏差値の平均
の5段階評定別に,各群の人数を示したものである。1年次の
値と標準偏差を示したものである。各得点について性別×学年
評定が1~3では約6割,4~5では約4割の子どもが上昇大
による2要因の分散分析を行った。
群であった。一方,下降大群は4名にすぎなかったが,1年次
国語偏差値については,性別の主効果が有意傾向を示し(F
の評定は3以上であった。
(1,192)=3.38, .05<p<.10)
,6年間一貫して女子の方が男子より
上昇大群と下降大群の6年間の変動パターンをみるため
も有意に高い傾向であった。また,学年の主効果も有意であっ
た(F(5,960)=18.66, p<.01)
。多重比較の結果,連続する学年間
70
では,3年次と4年次,及び,5年次と6年次の間に有意差が
認められた。図3に示す通り,1年次から3年次までは横ばい,
偏差値︵平均︶
65
3年次から4年次で有意に上昇,4年次から5年次は変化なし,
5年次から6年次で有意に上昇し,6年次がもっとも高い得点
60
であった。
55
50
算数偏差値については,性別×学年の交互作用が有意であっ
た(F(5,960)=2.96, p<.05)
。そこで,学年ごとに性別の単純主
1年
2年
3年
男子
図1 男女別の知能偏差値の変化
4年
女子
5年
6年
効果を検定したところ,いずれの学年においても有意ではなか
った。また,性別ごとに学年の単純主効果を検定したところ,
男子(F(5,960)
=28.38, p<.01)
,女子(F(5,960)
=12.18, p<.01)と
― 33 ―
都築 忠義 相良 順子 宮本 友弘 家近 早苗 松山 武士 佐藤 幸雄
研究論文 児童の知能と学力の変動
表3 男女別の各学年時における国語偏差値,算数偏差値の平均値(M)と標準偏差(SD)
国語
算数
1年
2年
3年
4年
5年
6年
男子
M
55.58
55.65
54.81
57.31
58.06
59.20
n=88
SD
8.12
9.58
10.18
10.45
8.87
9.49
女子
M
58.07
58.48
57.60
58.96
59.11
60.78
n=106
SD
7.19
8.14
8.18
9.41
8.16
7.86
男子
M
56.99
55.85
57.76
58.32
63.08
60.70
n=88
SD
7.88
8.25
9.45
10.51
12.11
7.92
女子
M
57.91
56.69
57.66
58.88
61.76
58.72
n=106
SD
8.01
8.52
9.25
9.34
11.70
8.73
下降大群,10以上(偏差値が10以上増加)を上昇大群とした1
70
年次偏差値の5段階評定別に各群の人数を集計し(表4,表5),
偏差値︵平均︶
65
また,上昇大群,下降大群の平均偏差値を学年ごとにプロット
した(図5,図6)
。
60
まず,国語をみると,表4に示す通り,1年次の評定が1~
3では半数程度の者が上昇大群であったが,4では1割を切り,
55
50
5では皆無であった。一方,下降大群は6名にすぎなかったが,
1年
2年
3年
男子
4年
女子
5年
1年次の評定は3以上であった。上昇大群と下降大群の変動パ
6年
ターンをみると(図5),上昇大群は学年進行とともに漸次的
に上昇する傾向にあった。下降大群は1年次から2年次にかけ
図3 男女別の国語偏差値の変化
70
偏差値︵平均︶
表4 国語における1年次の評定段階別の6年次偏差値と
1年次偏差値の差
65
(偏差値)
55
50
6年次偏差値と1年次偏差値の差
1年次の評定
60
1年
2年
3年
男子
4年
女子
5年
6年
図4 男女別の算数偏差値の変化
-10以下
(下降大群)
-9~0
1~9
10以上
(上昇大群)
1(34以下)
0
1
0
1
2(35~44)
0
2
6
7
3(45~54)
2
11
11
15
4(55~64)
3
39
60
10
5(65以上)
1
8
17
0
もに有意であった。多重比較の結果,図4に示す通り,男女と
70
もに,1年次から4年次までは横ばい,4年次から5年次で有
意に上昇,5年次から6年次で有意に下降し,5年次がもっと
偏差値︵平均︶
も高い得点であった。しかしながら,男子では6年次は4年次
よりも有意に高い得点であったが,女子では6年次と4年次の
間に有意差は認められなかった。
⑵6年間の変化大と小の子どもの変動パターン
50
40
30
知能の分析と同様に,国語,算数の各偏差値について,6年
次と1年次の差を算出し,-10以下,-9~0,1~9,+10以上
の4群に分けた。このうち,10以下(偏差値が10以上減少)を
60
1年
2年
3年
下降大群
4年
図5 国語における各変動群の偏差値の変化
― 34 ―
5年
上昇大群
6年
都築 忠義 相良 順子 宮本 友弘 家近 早苗 松山 武士 佐藤 幸雄
表6 各学年時における知能偏差と国語偏差値,算数偏差値の
相関(n=194)
表5 算数における1年次の評定段階別の6年次偏差値と
1年次偏差値の差
6年次偏差値と1年次偏差値の差
1年次の評定
(偏差値)
-10以下
-9~0
(下降大群)
1~9
10以上
(上昇大群)
0
0
0
3
2(35~44)
1
3
4
4
3(45~54)
3
8
13
10
4(55~64)
6
29
78
5
5(65以上)
2
16
9
0
1年
2年
3年
4年
5年
6年
国語と知能
.517**
.491**
.691**
.721**
.733**
.721**
算数と知能
.470**
.430**
.670**
.692**
.765**
.720**
**p<.01
0.9
0.8
相関係数
1(34以下)
70
0.7
0.6
0.5
偏差値︵平均︶
0.4
60
0.3
50
40
30
研究論文 児童の知能と学力の変動
1年
2年
3年
国語と知能
4年
5年
算数と知能
6年
図7 知能偏差値と国語偏差値,算数偏差値との相関の変化
1年
2年
3年
下降大群
4年
5年
上昇大群
知能の変動パターン
6年
知能偏差値は,5年次で多少下がっているものの,1年生か
ら6年生までの間に男女とも約2割ほど上昇していた。松崎
図6 算数における各変動群の偏差値の変化
(2009)も某公立小学校で本研究と同じ教研式知能検査を実施
著しく下降し,それ以降はほぼ横ばいであった。
し,学年が上がるにつれて知能偏差値が上昇した結果を報告し
つぎに,算数をみると,表5に示す通り,1年次の評定が1
ている。知能偏差値の上昇は,毎年同じ検査を受けることの学
では全員,2~3では約3割の者が上昇大群であった。評定が
習効果が生じていることが考えられる。しかし本研究での,5
4では1割未満で,5では皆無であった。下降大群は12名にす
年次で4年次より偏差値の有意な低下したとの結果は,松崎
ぎなかったが,1年次の評定は2以上であった。上昇大群と下
(2009)の結果とは異なっていて,上昇を学習効果だけでは説
降大群の変動パターンをみると(図6),上昇大群は5年次ま
明できないであろう。5年次での低下は本研究の対象校の特徴
では学年進行とともに漸次的に上昇する傾向にあった。下降大
とも思われる。
群は1年次から2年次にかけ著しく下落し,それ以降はほぼ横
知能偏差値が1年次と6年次とで10以上差がある子どもが,
ばい,5年次から6年次かけ再び著しく下落した。
6年間の変化が図2に示されている。多くの子どもの知能偏差
値が上昇する中で,10以上下降した4名の平均は,1年生から
3 知能と学力の関連性
6年生まで徐々に下がり,5年生,6年になると知能偏差値は
知能と国語,算数の各偏差値相互の関連性をみるために,相
40台までに下がる。他方,上昇群は徐々に上昇している。注目
関係数(Pearsonの積率相関係数)を学年ごとに算出した(表6)
。
すべき点は,上昇群と下降群は1年次では下降群の平均知能偏
いずれにおいても有意な正の相関が見られた。図7に示す通り,
差値が高い点である。知能検査は,毎年4月に行われる。本研
国語,算数ともに,3年以降,知能との相関は強まるようであ
究の対象児は入学試験の学習を経験していることから,知能偏
った。
差値下降大群の者は入学前の受験勉強の効果が影響したとも考
えられる。いずれにしても1年次での知能偏差値はその後の変
【考察】
動が大きいということを示すものであろう。
本研究の目的は,小学校1年生から6年生までの時間の経過
の中で,知能と学力がどう変化するかを検討するものであった。
学力の変動パターン
まず,知能と学力それぞれの6年間の全体的な変動パターンと,
国語の学力偏差値では6年間を通して男子より女子が高いこ
偏差値の上昇と下降が著しい群の子どもの変動について,次に
とが明らかになった。平成21年の全国学力調査によると,国語
知能と学力との関係について考察する。
において男子より女子の成績が高いことが報告されている(大
― 35 ―
都築 忠義 相良 順子 宮本 友弘 家近 早苗 松山 武士 佐藤 幸雄
研究論文 児童の知能と学力の変動
阪大学, 2011)
。算数の学力偏差値では,男女差は見られず,
-30,算数偏差値は-23と下降しており,この子どもは,国語の
5年次が他の学年より有意に高かった。これは,対象となった
学力偏差値の下降大群の1人でもあるので,知能偏差値の下降
小学校では,中学受験のために学習塾に通い始める子どもが毎
大群の変動パターンと国語の下降大群のパターンの類似は,特
年4年生の6割から5年生で8割強となることから,進学塾で
殊なパターンを示す子どもの影響があることが考えられる。ま
の学習により特に算数の学力が高まったことが考えられる。
た知能偏差値の低下した子どもに関しては,学力よりも行動特
次に,1年次と6年次との間の偏差値の変動が10以上上昇し
徴,知的側面の特徴という面での問題も考えられ,今後,個別
た子どもと,下降した子どもに注目し,その学力偏差値の経年
に詳しく見ていく必要があるだろう。
変化を検討した。その結果,国語では下降大群では,1年次か
ら2年次の間に有意に下降し,上昇大群では上昇していた。こ
【今後の課題】
の学力テストは学年の終わりころに実施されるために2年次に
本研究では,私立小学校の縦断的データから,知能偏差値と
学力の差がつくことを示している。一方,算数においては,下
学力偏差値の推移を明らかにし,学力が大きく伸びる子どもと
降大群では学年が上がるにつれ学力は徐々に下がる傾向にあり,
下降する子どもの経年変化の特徴を見ることができた。今後
4年生になると1年次との学力の差が有意に開いていた。算数
は,知能及び学力の学年間の伸びを細かく検討し,伸びの大き
については,次第に理解できない部分が徐々に積み重なってき
い,あるいは停滞する学年があるのかどうか検討する必要があ
て,3年生の終わりが限界であることを示唆しているともいえ
る。また,知能と学力の差に注目し,オーバーアチーバーとア
る。教育現場では,9歳,10歳の小学校4年生あたりに,それ
ンダーアチーバーの観点から学力の経年変化を検討することも
以降飛躍する子どもとそうでない子どもと分かれやすい時期と
課題である。さらに,学力の伸びの大きい子ども,そうでない
言われている(渡辺, 2011)。本研究では,男子の国語の偏差値
子どもの学習意欲や性格特性などを細かく検討し,特に,学力
において3年次から4年次にかけて有意に偏差値が上がってい
の伸び悩む子どもの早期の対処に関する知見を積み重ねること
た。しかし,国語に顕著に表れているように,学力下降群の者
が必要であろう。
は男女とも1年次から2年次にかけて下降しており,その点か
らいえば,1年生と2年生の間に何かの分岐点があるようだ。
本研究は,科研費(課題番号23653209)の助成を受けた。
実際,国語が1年次と6年次で偏差値が10以上下降した者6名
中5名は1年次から2年次への下降が最も大きかった。1年か
[引用および参考文献]
ら2年では学習する漢字の数が急に増加するという要因が考え
られる。加えて,1年生から2年生の頃は,ピアジェによれば,
自己中心性の強い幼児期から具体的操作期の児童期の思考へ変
化する時期である。この変化がスムーズにいかない子どもがい
蘭 千壽・大坪 秀夫 1984 児童の知能・学力と性格・行動の教師評
定に関する縦断的研究 日本教育心理学会発表論文集,26,452-453.
出石 隆・鏑木 光朗・玉鉾 良三・米谷 数子・中原 吉晴・能崎 克己・
竹内 昭・亀田 富子 1961 中学校・高等学校を通じての学業成
績の変化について 高校教育研究,12,1-17.
る可能性が示唆される。
出石 隆・鏑木 光朗・玉鉾 良三・米谷 数子・中原 吉晴・能崎 克己・
竹内 昭・亀田 富子 1962 小・中・高校を通じての学業成績の
変化について(続) 高校教育研究,13,1-28.
知能偏差値と学力偏差値との関係
藤田 惠璽 1978 小中学校における学業成績の学年間相関 日本教育
心理学会発表論文集,20,702-703.
知能偏差値と学力偏差値の相関は,3年次以降高まることが
明らかとなった。1,2年次の知能と学力とは3年次以降ほど
高い相関はみられなかった。1,2年次の知能偏差値から学力
を推測することは,3年生以降ほど容易ではないことがわかる。
低学年の学力には知能検査で測られるもの以外の,例えば家庭
環境(例えば,学校の勉強を親が援助することが多い)などの
要因が数多く関係していることが予想される。
知能偏差値が1年生と6年生の間で10以上上昇した群と10以
上下降した群と学力の変化パターンを比較してみると,国語偏
差値の上昇大群と下降大群の経年変化パターンが知能偏差値の
それと似ている。すなわち,1年次では下降群の偏差値と上昇
群の偏差値はあまり変わらず,むしろ下降群の方が高いほどで,
2年次以降,上昇群は上昇し,下降群は下がっていく。しかし,
知能の下降した4名中1名が1年から2年の間に国語偏差値が
― 36 ―
寺西 和子 2007 現代学力観の検討――「リテラシー」と「PISA型学力」
の位相 千里金襴大学紀要 生活科学部・人間科学部,4,85-93.
石川 七五三二 1957 知能偏差値の恒常性に関する実験的研究 山梨
大学学芸学部研究報告,8,186-190.
石川 七五三二 1958 知能偏差値の恒常性に関する分析的研究 山梨
大学学芸学部研究報告,9,201-207.
倉智 佐一・北尾 倫彦・松岡 由紀子 1970 学力と知能の関連に関
する研究(第2報)大阪教育大学紀要,19,109-120. 金子 劭栄・倉石 精一 1967 京大SX知能検査報告⑺ ―学業成績と
の関係 日本教育心理学会発表論文集,9,164-165.
狩野 広之・吉川 英子 1952 精神的能力の発達に関する逐年的研究
労働科学,28,73-80.
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小林 治夫 1963 知能指数の変化に関する研究 幼児の教育,63,4553.
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― 37 ―
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聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 39-46(2012)
日中独居要介護者の家族のニーズと訪問看護による援助の課題
春日 広美*1 石垣 和子*2
The needs of the families with relatives requiring home-care during the working hours of
their family-members and the challenges of assistance involved in home nursing
KASUGA, Hiromi and ISHIGAKI, Kazuko
要 旨
本研究の目的は,日中独居要介護者の家族のニーズと,家族に対する訪問看護師の援助の課題を検討すること
である。日中独居要介護者の家族および訪問看護ステーションに,郵送による自記式調査票を用いた調査を行った。
回収率は,家族 50.6%(N=44),訪問看護ステーション 22.7%(N=59)であった。
家族の 88.6%は就業のために,一日平均 8.7 時間,家を留守にしていた。家族の心配・困ったことは,【訪問サー
ビスへの不安】
【不在中の要介護者の身体状態】【経済的理由での退職困難】などであった。訪問看護へ期待する
ことは,介護方法の相談,要介護者の身体状態の報告,家族の心の面の相談などであった。
一方,訪問看護ステーションの調査では,全利用者の 15.0%,一事業所あたり平均 9.3 名の日中独居要介護者が
いた。要介護3以上が 45.5% を占め,複数の医療処置がある者,侵襲的人工呼吸療法を受ける者もいた。看護師
は要介護者がひとりの時に異常事態が起きない配慮をし,何らかの事態が生じた際には即座の対応を行い,家族
との信頼関係を構築・維持する援助を行っていると考えていた。しかし同時に家族とのコミュニケーション不足
を感じていた。
家族に見えないところでの看護師の努力と家族のニーズにはずれがあった。すなわち,両者には相互理解の欲
求があるにもかかわらず,コミュニケーションが不足しており,また,看護師のケアが家族に「見えない」とい
う状況が,訪問サービスへの不安につながる原因のひとつと考えた。家族に看護師の活動が「見える」ような,
コミュニケーションの工夫と充実が必要であるという,訪問看護活動の課題が得られた。
Ⅰ.緒言
宅療養の状況に対する国民全体の意識の変化がともなっている
医療費の削減を背景とした在宅療養の推進と,急速な家族構
とは言い難い。
造の変化は,家族による在宅介護に複雑な影響を及ぼしている。
医療システムの変化と平行して,少子高齢化による家族構造
少子高齢社会にあっても,将来にわたって国民皆保険制度を
の急速な変化がある。かつての日本の家族内における病者・高
堅持することは,国民すべてが取り組まなければならない課
齢者介護のシステムは弱体化した。核家族化,女性の社会進
題である。医療費負担の伸びを抑制する一連の医療改革の中
出,非婚化の流れ1,長期化する不況などの多くの要素は,家
で,1989年の高齢者保健福祉推進10ヵ年戦略(ゴールドプラン)
族内にフルタイムで介護のできる者を失わせた。三世帯同居の
以降,在宅医療および在宅ケアは急速に推進されてきた。入院
高齢者世帯であっても,いわゆる専業主婦のような介護者が常
医療費の逓減制が強化され,病院はいずれも長期入院を防止し,
に家庭にいるとは限らない。また,特に注目するべき家族構造
入院期間を短縮する課題に取り組むことになった。2006年の診
の変化は,2011年現在,65歳以上の者は42.2%が「子と同居」
療報酬の改正では,急性期治療は病院で,慢性期療養は在宅で
しているが,その内訳では,
「未婚の子と同居」が25.6%であ
という方針が明確化され,在宅医療に対する診療報酬の点数は
り,独居者の16.8%よりも多く,また,1986年当時は17.6%で
手厚くなった。在宅療養を積極的に受け入れる「在宅療養支援
あったことと比べると,大きな変化となっている2。これらの
診療所」が創設され,特に在宅での看取りに対しては大幅に点
「子ども」の多くは生産世代であり,家庭内で親の介護を行い
数がつけられた。一方,国民の寿命の延び,医療の発展と連動
ながら,自身の仕事をする者も少なくない。介護休暇の取得率
してきた疾病構造の変化は,慢性疾患を患う多くの高齢者を生
0.06%という風潮,また取得できても,介護が必要となった日
み出す結果となった。しかし病気による重い障害をかかえても,
から93日までという規定の期間では,脳血管障害の要介護者の
急性期を脱すれば,もはや病院は患者がいる場所ではなくなっ
ように,10年超の介護期間も珍しくはない慢性疾患では現実的
た。これらの変化は急速に推移したため,現在の入院治療,在
な対策ではない。
*1:聖徳大学看護学部設置準備室・准教授/*2:石川県立医療保健大学・学長
― 39 ―
春日 広美 石垣 和子
研究論文 日中独居要介護者の家族のニーズと訪問看護による援助の課題
家族が仕事に出ている間,要介護状態にある者が家にひとり
時間,独居状態となる要介護者。「日中」とは表記するが,本
となる状況を,現代社会においては「日中独居」と通称してい
研究では夜間に独居となる場合も含む。また,要介護者の年齢
る。日中独居要介護者がどのくらい存在するのかについて,詳
の制限はない。
細な調査はない。
「日中独居者」については,平成18年の西東
京市の調査で,75歳以上の全市民の13.6%が日中独居であると
3
いう報告があった 。日中独居要介護者の健康に関する懸念に
は,いくつかの事例報告
456
Ⅳ.研究方法
日中独居要介護者の家族の介護生活とニーズ(A調査)と,日
がある。しかし,集団における調
中独居という状態を考慮した訪問看護活動(B調査)の,2種類
査はない。要介護者をひとり家に残して出掛ける家族は,要介
の調査を別個の地域で行った。いずれも都市部近郊で,A調査
護者が「ひとりの時に何かあったら」と不安に思うだろう。そ
はK県,B調査はS県である。別個の地域で行った理由は,家
して不安の解決のために自分が離職することを選択する者もい
族へのアクセスの仲介者となる訪問看護ステーションに,二重
るであろう。平成19年の総務省調査によると,家族の介護・看
の調査の負担をかけないため,その負担ゆえの回収率の低下を
護のために過去1年間に離職・転職した人は,14万1800人であ
防ぐためである。都市部で行った理由は,産業構造の地域特性
7
り,平成14年の同調査と比較すると,約1.5倍増加した 。特に
から,自宅外で就業する家族が多いと見込まれたためである。
家族の離職は世帯全体の経済状況の悪化を招いたり,自身の将
来のキャリアにも影響する。家族に関する実態調査は過去には
1.データ収集方法
なく,この状況での特有の家族のニーズは把握されていない。
両調査とも対象者の抽出には,全国の医療・福祉関連施設・
介護の社会化を謳って導入された介護保険では,このような
事 業 所 の 情 報 を 紹 介 す るWAMNET(Welfare And Medical
要介護者に対して,ひとりとなる時間を極力少なくするケアプ
Service Network System:独立行政法人福祉医療機構が運営
ランが立案され,様々な居宅サービスが導入される。軽度な要
する福祉・保健・医療の総合情報サイト)を利用した。
介護者へは訪問介護サービスが援助の中心となるが,中・重度
1)日中独居要介護者の家族の介護生活とニーズの調査(A調
査)
な要介護状態,重篤な疾病,医療処置があるケースなどでは,
身体的に不安定であることから,訪問看護サービスが援助の中
WAMNETに登録されているK県内の訪問看護ステーション
心となる。しかし日中独居という状況を考慮した訪問看護活動
361ヶ所に,郵送で調査協力を依頼した。依頼内容は,当該事
については,過去の調査報告もなく,個々の看護師が意識して
業所の利用者で,中・重度な要介護状態にある日中独居要介護
行っている活動内容やケア提供上の問題も明確ではない。
者の家族へ,無記名自記式のアンケート調査票の配布をお願い
家族構造の変化,高齢社会の拡大が更に進むと目されるわが
するものである。依頼に対し,同封したはがきで協力の意思を
国の社会を鑑み,将来的に,仕事をしながらの介護は当たり前
回答したステーションに,必要部数の調査票を郵送した。家族
のものであり,介護とキャリアアップは両立できる社会にする
からの調査票は郵送で回収した。
ことが重要と考える。つまり,要介護者が自宅で長時間ひとり
2)日中独居という状態を考慮した訪問看護活動の調査(B調
査)
であっても,たとえ不安定な身体状態であっても,家族が納得
して職業生活を継続できる社会が構築されることである。今回
WAMNETに登録されているS県内の訪問看護ステーショ
は基礎調査として,家族の介護生活の実態と,日中独居という
ン260ヶ所の管理者に,研究への協力を依頼する文書とともに,
状態を考慮した訪問看護師の活動を調査し,看護の視点での援
無記名自記式の調査票を郵送,回収した。
助活動の課題を明確にする。さらに,家族に必要な支援を広い
なおWAMNETは,訪問看護サービス事業所の登録と,実際
視野で検討する。
の訪問看護サービス提供の事実が一致していない現状があるこ
とを考慮する必要があった。そのため登録事業所すべてを,イ
Ⅱ.研究目的
ンターネットの検索エンジンで情報を確認して,研究協力の依
1.日中独居要介護者の家族の介護生活,ニーズを把握する。
頼書を郵送した。それでも,現在は訪問看護サービス提供の実
2.日中独居という状態を考慮した訪問看護活動を把握する。
態はないことを,返送はがきなどで回答したステーションもあ
3.上記1.2.により,日中独居要介護者と家族に対する訪問
った。
看護活動の課題,このような要介護者と家族への支援の方向
2.調査期間
性を検討する。
2009年3月~6月。
Ⅲ.用語の定義
日中独居要介護者:同居家族の就業などによって,自宅で長
― 40 ―
春日 広美 石垣 和子
研究論文 日中独居要介護者の家族のニーズと訪問看護による援助の課題
3.調査票の質問内容
テーションからの返送はがきにのみ,ステーション名の記述
各質問の〔 〕内は選択肢の例を表す。
を依頼した。家族へ配布する調査票を再郵送するためである。
A調査
また,研究終了後は,調査票は裁断処分をすることとした。
1)年齢,2)性別,3)日中の活動〔仕事,社会活動,その他〕
(複
本研究は調査当時に研究者が所属していた東京慈恵会医科
数回答),4)留守にする時間(数値を記入),5)要介護者の年
大学の倫理委員会の承認を得て実施した。
齢,6)性別,7)対象者との関係〔妻または夫,父親または母
親など6肢〕,8)介護を行っている期間,9)介護保険認定の
Ⅵ.結果
有無と要介護度,10)介護が必要となった原因の主な病気〔脳
1.日中独居要介護者の家族の介護生活とニーズ(A調査)
梗塞・脳出血・くも膜下出血などの脳の血管の病気,がんなど
家族との仲介を依頼した361ヶ所の訪問看護ステーションか
8肢〕(複数回答),11)現在の身体状態〔口や鼻からの吸引が
らは94通の返信があった。うち20ステーションから家族を紹介
必要である,胃瘻をつけているなど20肢〕(複数回答),12)利
する協力の承諾が得られ,計87名の家族に調査票を配布した。
用している訪問サービス〔訪問看護サービス,ホームヘルプサ
そのうち44名から調査票の返送があった(配布した家族での回
ービスなどの8肢〕(複数回答),13)介護の協力者の有無〔他
収率50.6%)
。残りの74通分のステーションからは,調査協力
の同居家族,別居家族など8肢〕,14)訪問看護に期待するこ
の時間がとれない,家族の了解が得られない,現在は該当家族
と〔頻繁な訪問,利用者の身体状態の詳細な報告など7肢〕
(複
がいない,訪問看護サービスを提供していないなどで協力でき
数回答),15)現在の心配なこと,困ったこと(自由記述式回答)
。
ない意思の返信があった。
B調査
結果の記述にあたって,自由記述式の回答結果の詳述では,
1)現在の総利用者数,職員数,2)日中独居の利用者数及び
【 】はカテゴリー名を示し,その説明に具体的な実際の記述
昼間/昼間以外の独居者数,3)日中独居の理由〔家族が就労
内容を紹介する際は,
「 」にて表す。
している,家族の就労以外の2肢〕と各該当利用者数,4)日
1)
対象者(家族)の概要(図1)
中独居の利用者の要介護度別人数,5)自宅で医療処置が必要
平均年齢は57.8歳(27歳~92歳)
,男性31.8%,女性68.2%。
な日中独居の利用者数〔吸引,胃瘻経管栄養など16肢〕(複数
対象者の被介護者は,父親又は母親67.4%,妻又は夫25.6%が
回答),6)日中独居の利用者の病状と各人数〔がんターミナル,
ほとんどを占めた。
骨折後寝たきりなど9肢〕,7)日中独居であることに配慮した
日中,自宅を不在にする理由は,仕事88.6%,社会活動(ボ
看護活動(自由記述式回答),8)看護ケアを提供する上で感じ
ランティア活動,地元組織の役員活動,政治・社会運動勉強会
る問題(自由記述式回答)。
など)9.1%,その他(シルバー体操,コーラス,社交など)9.1
%であった(一部複数回答)
。
4.分析方法
自宅を留守にする平均時間は,8.7時間(最大16時間,最小1
数量及び選択式回答のデータは単純記述統計を行い,自由記
時間)で,日中の留守の平均は8.8時間,夜間では5.0時間であり,
述式回答の文字データは帰納的分析を行った。記述を一意味ご
これは夜勤勤務のためであった。
とに切片化し,類似の意味内容で集め,意味内容を損なわない
2)対象者の要介護者の概要(図1)
配慮をしながら代表するラベル名を付けた。類似のラベルが見
要介護者の平均年齢は79.7歳,女性71.1%,男性28.9%。介護
つからなくなるまでカテゴリー化を繰り返し,最終的なカテゴ
が必要となってからの期間は,平均5.0年(0.16年~23.0年)。要
リーに名前をつけた。
介護度別では,要介護5が61.4%,要介護4が13.6%,要介護
3が13.6%,要介護1と2を合わせて11.4%であった。要介護者
Ⅴ.倫理的配慮
の主たる疾患は,脳血管障害後遺症43.2%,骨折25.0%と続い
本研究の予想される有害事象は,研究に協力した家族,訪問
た(複数回答)
。要介護者に必要な処置・ケアは,入浴介助97.7
看護ステーションの人権及びプライバシーの侵害であり,安全
%,おむつ交換68.2%が多かった(複数回答)
。何らかの医療処
性を確保するために次のような対策をした。
置があるのは,回答のあった44名中27名(61.3%)で,胃瘻,吸
自由意思での参加の保証:いずれの調査票においても,その表
引,褥創処置などで,人工呼吸器の使用も1名いた。複数の処
紙に本研究の目的,方法,自由意思での参加であること,研
置を受けている者は,44名中27名(61.3%)であった。吸引,胃
究不参加による不利益はないことを提示し,調査票の返送を
瘻,褥創処置の3つの処置が必要な者も3名(6.8%)いた。介護
もって研究への協力の同意を得たものとした。
を手伝う者は,特にいないが34.9%,同居家族27.9%,別居家
個人情報の保護:匿名性を守るため,調査票や返信用封筒は無
族20.9%であった。複数の介護協力者がいるのは44名中6名(13.6
記名にすることを依頼した。ただし,A調査での訪問看護ス
%)であったが,「兄弟にもあまり協力してもらえない」と記
― 41 ―
春日 広美 石垣 和子
研究論文 日中独居要介護者の家族のニーズと訪問看護による援助の課題
図1.日中独居要介護者の家族および要介護者の概要
◆対象者(家族)の概要
1.対象者(家族)の性別 N=44
2.要介護者との関係 N=43
舅または姑
1名
2.3%
祖父または祖母
1名
2.3%
男性
14名
31.8%
兄弟姉妹
1名
2.3%
妻または夫
11名
25.6%
女性
30名
68.2%
3.日中留守にする理由
その他
4名
9.1%
社会活動
4名
9.1%
仕事
39名
88.6%
父親または母親
29名
67.4%
※一部の回答者に複数回答あり
◆対象者(家族)の要介護者の概要
4.要介護者の性別 N=45
5.要介護度 N=44
要介護1
4名
9.1%
要介護2
1名
2.3%
男性
13名
28.9%
女性
32名
71.1%
要介護3
6名
13.6%
要介護5
27名
61.4%
要介護4
6名
13.6%
※1名の対象者家族は2名の要介護者を介護していた
6.主たる疾患(複数回答)
心臓疾患
9.1%
老衰
9.1%
7.要介護者に必要な処置・ケア(複数回答)
痛
(内服)
9.1%
がん
4.5%
酸素
6.8
人工呼吸器
2.3%
脳血管障害後遺症
43.2%
難病
13.6%
その他
25.0%
人工膀胱ケア
2.3%
痛
(坐薬)
2.3%
経鼻チューブ
近隣の人
2.3%
9.3%
痛
(貼付)
15.9%
褥創処置
15.9%
肺炎等
9.1%
骨折
25.0%
吸引
8.2%
胃瘻
29.5%
入浴介助
97.7%
食事介助
34.1%
口腔ケア
61.4%
8.介護協力者(複数回答)
おむつ交換
68.2%
その他
63.6%
友人
7.0%
その他
9.3%
特にいない
34.9%
親族
16.3%
別居家族
20.9%
同居家族
27.9%
述している者もあった(複数回答)。
問看護へ期待すること(複数回答)
(表1)は38名から回答があ
自由記述式回答を帰納的に分析した結果では,現在の心配・
り,介護の方法について相談にのってほしい44.7%,要介護者
困ったこと(表1)は,【訪問サービスへの不安】と【不在中
の身体状態を詳細に報告してほしい39.5%,介護者の心の面の
の要介護者の身体状態】が各10ラベルで多かった。【経済的理
相談にのってほしい31.6%,行っているケアを詳細に報告して
由での退職困難】が7ラベルで続いた。【訪問サービスへの不
ほしい18.4%,頻繁に訪問してもらいたい13.2%と続いた。また,
安】では,「留守中のホームヘルパーや訪問看護の対応に不安
調査票の最後に設けた自由な意見・感想の記述欄には,
「いつ
がある」「ホームヘルパーが逃げ腰で吸痰してもらえない」
「往
自分や子供たちが(要介護者に)手をかけるのではと心配」,
「私
診時にも家族がいることを求められる」などがあった。また訪
が長期入院したら(要介護者は)どうなるのか」
,
「私の心のケ
― 42 ―
春日 広美 石垣 和子
研究論文 日中独居要介護者の家族のニーズと訪問看護による援助の課題
表1.家族の心配・困ったことと訪問看護サービスに期待する
こと
◆家族の現在の心配・困ったこと(自由記述回答)
カテゴリー名
(ラベル数)
訪問サービスへの不安(10)
不在中の要介護者の身体状態(10)
経済的理由での退職困難(7)
自身の身体的・精神的負担(5)
自身の介護技術(4)
護者がひとりとなるなどの例もあった。
3)要介護者の状態(表2)
要介護度は,要介護2の20.3%,要介護1の16.5%の順で多
サブカテゴリー
ラベル数
留守時の訪問サービスの
対応に不安がある
7
訪問サービスの継続的な
受給に不安がある
3
要介護者の身体状態が心
配である
7
自分の不在中の要介護者
の様子が心配である
3
経済的な理由などで仕事
は辞められない
7
人工呼吸療法0.5%であった。
自身の健康に不安がある
3
4)日中独居であることに配慮した訪問看護活動とケア提供上
精神的に負担である
2
介護の方法や対応に不安
がある
4
45.5%となった。主たる疾患は,脳血管障害後遺症17.8%,難
病16.5%,心臓疾患11.7%と続いた(複数回答)。日中独居の利
用者における医療処置は,443名に対して総数150件あり,胃
瘻を受ける利用者は20名で,全日中独居要介護利用者の4.5%,
皮下注等4.1%,ストーマ管理4.1%と続いた。頻回な実施や観
察を要する処置では,中心静脈栄養2.0%,吸引1.6%,侵襲的
で感じる問題点(自由記述回答)
(表3)
看護師が,利用者が日中独居であることに配慮して行ってい
ると回答した看護活動は,利用者の身体状態を把握するために,
通常時から他機関と連携することで情報を交換したり,利用者
◆訪問看護サービスに期待すること(複数選択回答) n=38
選択肢
かったが,重度要介護状態である要介護3,
4,
5を合わせると
回答者数(%)
にとって安全な環境を整備するような【異常事態を起こさない
1
介護の方法についての相談にのってほしい
17(44.7)
配慮】(55ラベル)が多かった。次いで,連絡ノートやメモを
2
要介護者の身体状態を詳細に報告してもらいたい
15(39.5)
使用して家族に連絡をするなど,家族とコミュニケーションを
3
介護者の心の面の相談にのってほしい
12(31.6)
4
行っているケアを詳細に報告してほしい
7(18.4)
はかって【信頼関係の構築・維持】
(36ラベル)を行っていた。
5
頻繁に訪問してもらいたい
5(13.2)
6
特に期待していない
3(7.9)
7
その他
また,利用者に異常があった際の家族への連絡体制を準備して
おく,
【即座の対応の準備】
(15ラベル)を行っていると回答し
た。看護師がケア提供上で感じる問題点は,訪問看護での対応
11(28.9)
※その他の内訳:訪問看護の質の向上を望む(6名),リハビリテーション
をしてほしい(2名)
,担当者を固定してほしい,着替えや爪切りをして
ほしい,利用者の話し相手になってほしい
の限界がある,看護師の観察が行き届かない心配があるなどの
【迅速な対応が困難な状況】
(42ラベル)であった。他に,対面
して会うことができない【家族とのコミュニケーション不足】
(11ラベル),【他職種連携の難しさ】(3ラベル),【利用者の個
アを誰がしてくれるのか」などがあった。しかし中には,心配
性への対応の難しさ】
(3ラベル)という問題を感じていた。
はなく,「訪問看護師とはE-mail,電話,打ち合わせ,伝言ノ
ートなどでコミュニケーションし,非常にうまくいっている」
Ⅶ.考察
という記述もあった。
1.日中独居要介護者と家族の状況
日中独居要介護者は,回答の得られた訪問看護の利用者全体
2.日中独居という状態を考慮した訪問看護活動(B調査)
の15.0%を占め,利用者全体の比率として,少なくはないと確
調査票を配布した260ヶ所の訪問看護ステーション中,59ヶ
認した。訪問看護サービスは医療管理や継続的な身体観察が必
所から調査票を回収した(回収率22.7%)。
要な者に導入されるサービスであるため,まだ訪問看護を受け
1)訪 問看護ステーションの概要と日中独居利用者の概要
ていない,軽症な身体状態の日中独居者,云わば,日中独居要
(表2)
介護者予備軍は更に多いと予測する。
59ヶ 所 の ス テ ー シ ョ ン の 総 利 用 者 数2,951名 の う ち443名
要介護度が重度になると,結果的に受ける医療処置も多くな
(15.0%)が日中独居の利用者で,1ステーションあたり平均9.3
り,家族が自宅で行う,要介護者の身体管理や医療処置も高度
名であり,最多のステーションでは27名の日中独居の利用者が
化,複雑化する。本調査の要介護者の疾患や行われている医療
居た。
処置の結果から,典型的な経過を紹介すると次のようである。
2)
利用者が日中独居となる理由
脳出血などの脳血管障害による片麻痺状態・嚥下障害の発生→
家族の就労が82.1%であるが,その他17.9%は多岐にわたり,
誤嚥性肺炎の発生→栄養摂取不良と身体可動性の低下で寝たき
「家族が血液透析に行く」などの健康問題,「宗教活動」などの
り状態へ移行→頻繁な誤嚥による肺炎の重症化:吸引処置の開
社会的活動,また別居の家族が日中は数時間おり,夜間は要介
始,ベッド上での自力体動の困難による褥創の発生:褥創処置
― 43 ―
春日 広美 石垣 和子
研究論文 日中独居要介護者の家族のニーズと訪問看護による援助の課題
表2.訪問看護ステーションと日中独居の利用者の概要(n=59)
◆訪問看護ステーションの概要
総利用者数
日中独居利用者数
昼間の独居者数
夜間の独居者数
総数(名)
2,951
443
407
72
1ステーション
平均
59.6
9.3
8.8
1.6
最大値
157
27
25
11
最小値
2
1
1
0
◆日中独居の利用者の概要 (n=443)
要介護度
要支援
要介護1
要介護2
要介護3
要介護4
要介護5
その他
%
8.9
16.5
20.3
15.9
14.1
15.5
8.9
主たる疾患名
(全日中独居利用
者中の%)
(複数回答)
脳血管障害
後遺症
難病
心臓疾患
肺疾患
がん治療中
老衰
がん
ターミナル
骨折後
寝たきり
その他
79(17.8)
73(16.5)
52(11.7)
28(6.3)
30(6.8)
20(4.5)
20(4.5)
6(1.4)
154(34.8)
※その他の内訳:脊椎・脊髄系疾患,関節疾患,消化器疾患,両下肢動脈閉鎖症,放射線療法後遺症,ヘルペス,直腸脱。子宮脱,糖尿病,
認知症,腎疾患,精神疾患,交通外傷,廃用性変化
医療処置
胃瘻
皮下注等
ストーマ
管理
件
20
(4.5)
18
(4.1)
18
(4.1)
(全日中独居利用
者中の%)
(複数回答)
総数 150件
疼痛
疼痛
中心静脈
管理
管理
栄養
(内服) (貼付)
15
(3.4)
10
(2.3)
9
(2.0)
吸引
化学
療法
末梢
点滴
経鼻
栄養
7
(1.6)
5
(1.1)
5
(1.1)
3
(0.7)
侵襲的 非侵襲的
疼痛
人工呼吸 人工呼吸
管理
療法
療法
(注射)
2
(0.5)
2
(0.5)
2
(0.5)
その他
34
(7.7)
※その他の内訳:膀胱留置カテーテル,在宅酸素療法,褥創処置,腸瘻処置
※腹膜透析,輸血の選択肢の回答は0件であった
の実施→誤嚥と栄養低下への対策として,胃瘻の造設または経
の不安が生まれるのか。
鼻栄養カテーテルの挿入:経管栄養の注入,胃瘻創部の処置の
家族サポートについて,訪問看護のような援助者は,これま
開始。吸引は痰の貯留時に速やかに実施することが必要であり,
で家族の介護負担感や介護方法の習得に注目し,介護は家族の
経管栄養は消化管の機能状態に合わせた,時間による栄養剤の
日常生活に影響を及ぼすことについては一般に知られてきた。
注入が求められる。褥創処置は排泄のたびに創部を汚染するた
しかし,家族自身の仕事と介護との関連を重要視していたとは
め,その都度創部を洗浄し,清潔を保持することが要求される。
言いがたい。例えば,高齢夫婦同士などの,いわゆる老老介護
このような要介護者のケアや処置のスケジュールに,仕事のあ
などでは,高齢の介護者への看護師の介入の視点は比較的見え
る家族が単独で対応するのは不可能である。
やすく,援助の焦点は絞りやすい。往々にして,若年の家族は,
他方,家族が要介護者をひとり家に残して留守にする理由は,
重労働の介護行為にも耐える体力があり,複雑な医療管理方法
やはり就労のためが多かった。生活を守るという【経済的理由
の習得も速やかで,家族自身から強い訴えがなければ,看護師
での退職困難】な状況であった。不在時の介護を訪問サービス
の視点からは問題が見えにくいと考える。仕事を持つ家族が抱
で補うにも金銭は必要である。退職は自身だけではなく,家族
える問題は,高齢の介護者が抱える問題とは背景が異なると考
全体にも影響する。家族は,要介護者が重度な要介護状態,複
える。高齢の介護者では,できないところを訪問サービスが観
雑な医療処置が必要であっても,介護と仕事を両立しなければ
察して補完できる。しかし,日中不在の家族には,どんな支援
いけない状況にあることを確認した。
が必要なのか,家族の介護が援助者にも見えず,気づきにくい。
同様に,訪問サービスのケアも家族には見えず,家族にとって
2.日中独居要介護者の家族に必要な看護による援助
は,何かをしてもらえた実感がないのではないだろうか。要介
家族は【不在中の要介護者の身体状態】を不安に思い,その
護者がいつもの状態を維持するようにケアを行うのが訪問サー
不安への対処の一部として,看護師に介護方法の相談,要介護
ビスである。家族から見ると,仕事から帰宅して見た要介護者
者の詳細な身体状態の報告,自身への精神的な支援を求めてい
の姿は,朝出勤前に見た姿と同じである。しかしその背後では
たと考える。つまり,家族のニーズは,要介護者の身体的安定
本調査の結果のように,異常が起きないように腐心する,看護
と,自身に対する看護師の支援である。そのため,【訪問サー
師をはじめとする,サービス提供者のケアがある。その努力が
ビスへの不安】を感じていたことは,訪問看護に対するものだ
家族に伝わっているのか疑問が残った。家族の【訪問サービス
けではないとしても,重く受け止めなければいけない。なぜこ
への不安】の原因のひとつには,そのような背景があるのでは
― 44 ―
春日 広美 石垣 和子
研究論文 日中独居要介護者の家族のニーズと訪問看護による援助の課題
表3.日中独居であることに配慮した訪問看護活動とケア提供上で感じる問題点(自由記述回答)
♦日中独居であることに配慮した訪問看護活動
カテゴリー名(ラベル数)
サブカテゴリー名
ラベル数
安全な環境を整備する
17
通常時から他機関と利用者情報を交換する
異常事態を起こさない配慮 (55)
20
利用者の異常発生の予防に努める
12
訪問回数・時間を考慮する
4
介護者への日常的な精神的ケアを行う
2
連絡ノート・メモ・記録を利用して連絡する
13
家族との連絡を取る
8
鍵を預かり施錠する
信頼関係の構築・維持 (36)
9
不信をまねく行動はしない
即座の対応の準備 (15)
6
異常時の家族への連絡体制を準備しておく
11
サブカテゴリー名
ラベル数
看護師の観察が行き届かない心配がある
7
異常時に速やかに他職種と連携できるようにする
4
♦日中独居の利用者に対するケア提供上で感じる問題点
カテゴリー名(ラベル数)
迅速な対応が困難な状況 (42)
訪問看護での対応の限界がある
情報収集が困難なために状態把握が不十分である
緊急時の対応が困難である
家族の準備や対応が不十分である
利用者ひとりの状態では対応が遅れる
8
7
6
6
8
家族とのコミュニケーション不足 (11)
家族とのコミュニケーションが不足している
11
利用者の個性への対応の難しさ (3)
利用者の個性に対応するのが難しい
3
他職種連携の難しさ (3)
他職種との連携が難しい
3
ないかと推測する。つまり,家族のニーズと訪問サービスのケ
となるためには,
記録的,
連絡的な内容では不足する。
ケアが「見
アには「ずれ」があり,両者に相互理解の欲求があるにもかか
える」と家族が感じるような記述の研究が必要である。しかし,
わらず,お互いを理解するための方法は確立されていないので
看護師にとっては,自身の看護行為を意図的に顕示することは
はないだろうか。ここに日中独居要介護者の家族に対する訪問
馴染まない。「此れ見よがし」と感じ,抵抗をおぼえるかもし
看護活動の課題があると考察した。解決策は,訪問看護師も自
れない。大きな意識転換が必要であると予測する。しかし,利
覚していたように,家族との「コミュニケーションの充実」以
用者との契約で活動をする訪問看護は,病院看護とは質的に異
外にはない。しかし,日常的に看護師が電話をするなどの方法
なることが多い。今後は看護の基礎教育の中で,自分のケアを
では,仕事をする者にとって煩わしい場面もある。家族の回答
対象に表明する意識も持つ必要があると考える。
には,訪問看護師とE-mail,電話,打ち合わせ,伝言ノートな
どでコミュニケーションして非常にうまくいっているというも
3.仕事と介護が両立できる社会の構築に向けて
のがあった。連絡ノートなどの目に見え,後に残る記述物を利
本研究における家族のように,退職はできない状況の中で,
用することは有効と考える。連絡ノートは,保育や幼年教育で
親族の介護が始まるケースはこれから益々増えていくと予測さ
は以前より利用されてきた
89
。保護者との「連絡」のためだ
れる。看護師をはじめ,訪問サービス担当者の努力は,日中独
けではなく,教育的な視点を包含する,子どもと保護者への支
居の要介護者に極力頻回にサービス担当者の目が入り,対応す
援の記述内容である。現在,連絡ノートは訪問サービスでも頻
ることへ傾けられている。しかし,看護師が訪問看護で対応す
繁に利用されているが,重要なのは記載する内容である。訪問
ることに限界を感じていたように,少なくとも訪問看護におい
看護師が連絡ノートに記載しているのは,家族の療養能力を高
ては,これまでの看護のあり方では,要介護者と家族のニーズ
めるために,その日の要介護者の身体状態のデータを書いたり,
を網羅することは難しい局面になっているのではないだろうか。
購入してもらいたい物品を「連絡」する,記録的,連絡的なも
仕事と介護が両立できる社会のために,まずひとつ目に看護の
10
のであるという報告がある 。看護師の「ケアが見える」記述
立場からは,明確に家族も看護の対象であると,理念だけでは
― 45 ―
春日 広美 石垣 和子
研究論文 日中独居要介護者の家族のニーズと訪問看護による援助の課題
なく,通常業務に反映して実践することである。家族を総体と
11
謝辞
して対象とする福祉サービスの提供を提唱する研究者 もいる
調査にご協力いただいた日中独居要介護者とそのご家族の皆
ように,要介護者個人を対象とする保険やサービスのあり方で
様,訪問看護ステーションの管理者の皆様に深く感謝申し上げ
はなく,家族全体への包括的援助として,現実に評価される社
ます。
会システムの整備も必要であろう。
ふたつ目に,社会全体の努力として,仕事と介護は両立する
本研究は,2010年1月の第14回日本在宅ケア学会学術集会,
べきものであると,国民の誰もが了解することである。親への
2011年6月の10th International family nursing conferenceに
忠孝の精神を美徳としてきた日本人にとっては,抵抗感がある
おいて,一部を発表した。
ことは否めない。しかし,要介護者または家族のいずれかが,
我慢を一手に引き受けるのではなく,皆が少しずつ譲歩して過
引用・参考文献
ごすことで,全員が納得できる生活をおくることにつながるの
ではないだろうか。この了解は,若年のうちから意図的に学習
することも必要であると考える。
1)国立社会保障・人口問題研究所 人口統計資料集2009.(総務省「国勢
調査」より作成)
2)厚生労働省 平成23年国民生活基礎調査.
3)民生委員・地域包括支援センター・高齢者支援課協働事業 平成18年
度西東京市 75歳以上高齢者実態把握調査報告書.
Ⅷ.結論
1.日 中独居要介護者の家族は,仕事のために一日に平均8.7
時間,自宅を留守にしていた。ひとりで過ごす要介護者の約
半数には,胃瘻,吸引,褥創処置など,何らかの医療処置が
必要であった。家族のニーズは,要介護者の身体的な安定,
看護師による家族への支援,職業生活の継続であったが,訪
問サービスに対しては不安を持っていた。
2.日中独居という状態を考慮した訪問看護師の活動は,異常
事態を起こさない配慮,家族との信頼関係の構築・維持など
であったが,同時に,迅速な対応ができない,家族とのコミ
ュニケーションが不足しているなどの問題を感じていた。
3.家族に見えないところでの看護師の努力と家族のニーズに
はずれがあり,両者には相互理解の欲求があるにもかかわら
ず,コミュニケーション不足によって,看護師のケアが家族
に「見えない」ことが,訪問サービスへの不安につながる原
因のひとつであり,この解決が訪問看護活動の課題であると
考察した。家族に看護師の活動が「見える」コミュニケーシ
ョンの工夫と充実,意図的にケアの実施を表明する看護師の
意識の転換が必要である。更に,家族看護の実践を評価する
社会システム,仕事と介護は両立するべきものであると了解
できる社会づくりが必要であると考察した。
Ⅸ.研究の限界
両調査とも回収率を考慮すると,それぞれの調査地域全体を
代表しているとは言い難く,調査方法を工夫した更なる調査が
必要である。また,調査地域の社会・産業・家族構造の中での
結果を,わが国全体の傾向としてとらえることは難しい。全国
規模の調査が必要である。しかし,これまで注目されなかった
対象の状況を明示した点で,本調査には意義があると考える。
― 46 ―
4)浅野祐子・堀内ふき・川上智美 在宅高齢者の服薬管理 茨城県内に
おける調査から,茨城県立病院医学雑誌,24⑶,135-142,2006.
5)田中正巳・中村博志・岡村ゆか里・宮崎康 高血糖性高浸透圧性昏睡
を示した高齢者5例の臨床像,糖尿病,49⑽,797-800,2006.
6)鹿野由利子・花上憲司・木村哲朗・本間昭 痴呆の早期受診はなぜ難
しいのか 家族からみた障壁要因と情報提供の必要性,日本痴呆ケ
ア学会誌,2⑵,158-181,2003.
7)内閣府 平成23年版 高齢社会白書.http://www8.cao.go.jp/kourei/
whitepaper/w-2011/zenbun/23pdf_index.html
8)林悠子 連絡帳の記述に見る保護者と保育者の関係変容過程,乳幼児
教育学研究,⒅,121-132,2009.
9)高杉展 連絡帳という記録をどう読み取るか(2.保育フォーラム,保
育の質を高める記録,第3部 保育の歩み(その2)),保育学研究,47⑵,
248-250,2009.
10)春日広美・石垣和子 日中独居要介護者の家族に対する訪問看護師
の連絡ノートの活用に関する研究,家族看護学研究,17⑵,64-74,
2012.
11)田村惠一 障老介護についての一考察,淑徳短期大学研究紀要,46,
19-31,2007.
聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 47-53(2012)
フランスにおけるダンス指導者国家資格制度
-その概要と社会的背景-
市瀬 陽子
The state diploma system of dance teaching in France: Its outline and social context
ICHISE, Yoko
要 旨
フランスにおけるダンス指導者資格制度 Diplme d'Etat de professeur de danse(DE)は,独自の文化的・社会
的背景のもと,強制力の強い国家資格として構想されたものである。その目的は,ダンスの指導を受ける側に対
して「教育内容の質」ならびに「指導環境の安全と衛生」を国家が保証することとされ,この前提に立って,国
の定める指針のもと,指定機関による一貫性のある教育プログラムが用意され資格審査が実施されている。資格
制度を設けることの意義としては,当該分野の質を保持できること,職能について社会的な位置づけが明確になり,
それが就業意識の喚起に結びつくことなどが挙げられる。折しも我が国においては,本年平成 24 年,中学校にお
けるダンスの必修化を受けて,ダンス業界として初めての公的指導者資格が制定されたところである。それにつ
いても併せて触れながら,今後さらにダンス業界に活力を与えるような制度,日本の文化や経済の発展向上に何
らか寄与するような資格制度が考案され機能していくことを願い,ダンス指導者資格の一例として,フランスに
おける国家資格制度について述べる。
Ⅰ.フランスにおける
認しておきたい。そもそも資格の名称がそれを表しているのだ
ダンス指導者国家資格制度の概要
から敢えて強調するまでもないと思われるかもしれないが,こ
Ⅰ-1.概略
の後日本における指導者資格の問題に言及する際に,もう一度
1989年7月10日施行の政令により,フランスでは国内でダン
触れることになるからである。
ス(クラシックバレエ,ジャズダンス,コンテンポラリーダン
スの三分野)を指導することに対して国家資格〈ダンス指導者
Ⅰ-2.教育プログラムとその内容
国家資格Diplme d'Etat de professeur de danse〉を取得するこ
この資格を取得するための教育プログラムは,以下の三つの
1
とが義務づけられた 。その資格を持たない者がダンスを教え
段階から成っている。まず第一に基本的なダンス技術の習得度
ることは法的に許されなくなり,この政令に基づいて,現在,
文化・コミュニケーション省の管轄下,国立ダンスセンター
【ダンス指導者国家資格取得のプロセス】
Centre National de la Danse(CND,1998年設立)などをはじ
前提条件:ダンス実技能力
(EAT=Exament d'Aptitude Technique)
|
EATの審査に通過した者は第一部門に進む
↓
第一部門(EAT取得者対象)
a)音楽基礎形成(100時間)
b)舞踊史(50時間)
c)解剖学・生理学(50時間)
|
第一部門の審査に通過した者は第二部門に進む
↓
第二部門(EAT取得及び第一部門通過者対象)
指導法(400時間)
↓
第二部門の審査を通過した者に対して,
申請した分野のDEが付与される
め国内各地域の指定機関においてディプロマ取得のための教育
プログラムが組まれており,志願者はそのプログラムを修めた
後,最終的に審査を受けて資格の認定を得ることになる。
この制度の趣旨は制令において明確にされており,まず「教
師が一定の基準を満たした指導能力を有すること」
,そしてダ
ンス指導は身体的なリスクを常に伴うものである以上,
「安全
で衛生的な環境でレッスンが行われること」を,生徒とその家
族に対して「国家が保証する」というものである。ここで最初
に指摘しておきたいことは,この資格が「ダンサー」(実演家・
表現者,あるいは振付師や制作者)としての資質や才能ではな
く,
「指導者」としての資格,能力を保証するものだというこ
とである。両者を明確に区別して扱っていることを,ここで確
聖徳大学音楽学部音楽総合学科・准教授
― 47 ―
市瀬 陽子
研究論文 フランスにおけるダンス指導者国家資格制度
(EAT=Exament d'Aptitude Techniqueダンス技能審査)が審
のうち200時間は,志願者が実際にレッスンを行う,いわば教
査され,それを通過すると,指定機関において提供される4ユ
育実習のような形で指導を受ける。子どものクラスでは,4~
ニット・計600時間のプログラムを消化し,その後最終的に試
6歳(導入期)
,6~8歳(入門期)で指導内容が違ってくる。
験に臨む。これらのユニットに関しては,志願者が何らかの関
1)
生徒の年齢やレベルに合わせた指導ができる
連資格を有する場合,それに応じて免除の措置が取られること
2)
レッスンの構成力
になっている 。
3)
生徒のレベルに合った,音楽の効果的な使用
上記のうち,EATおよび第二部門(指導法)に関しては,ク
4)
解剖学・生理学の知識を指導に応用する能力
ラシックバレエ,ジャズダンス,コンテンポラリーダンスのう
5)
心理学,脳科学の知識を応用し考察する
ちの一分野を選択することになっている。これに対して第一部
6)
指導実習(200時間)
2
門のユニットでは受験者が志望する分野による区別はなく,ダ
ンスに関わる基礎的な知識に関しては,専門分野に偏らない配
ダンス指導者資格のコンセプトは,この教育プログラム自体
慮がなされている。自分の分野にだけ詳しいのではなく,ある
が雄弁に語っている。前提としてまず一定レベルの
「実技能力」
程度バランスの取れた基礎知識が必要とされているのである。
が必須とされ,しかる後に通過すべき条件として「解剖学・生
それぞれの教育内容の概略は次の通りである。
理学」
,またそれに等しく「舞踊史」に時間を割き,さらに「音
楽基礎形成」に対してより多くの時間が費やされるなど,必要
EAT
な知識や教養のガイドラインが明示され,学習の目安となって
1) 身体動作についての正確な知識
いる。教える能力については教育実習が重視されているが,そ
2) 音楽性・テンポ感
れを効果的に行うための前提となる論理的な学習にも,同等の
3) 芸術的なセンス
時間が割かれる。ガイドラインを踏まえたものであれば,指導
4) 選択した分野に応じたテクニックの分析・説明
内容などの具体的な面については,各教育機関,さらには現場
5) 創作能力
で実際に指導に当たる教師に,多くが委ねられている。例えば
第一部門のユニットの一つである舞踊史に関しては,目安とな
音楽基礎形成
る教科書がCND より出版されているが,それは各志願者が参
考とすべきものとして捉えられており,指導プログラムにおけ
1) 音楽の聴き取り能力
テンポや拍子の理解,楽器の分類と音色の理解,読譜能
る活用方法,テーマの選び方などは現場の指導者に委ねられて
力,メロディーやリズムの記憶・再現,音楽形式の理解と,
いる。
中世から現代までの音楽史及び様式の把握など
I-3.審査方法
2) ソルフェージュ能力
リズムの表現,音の強弱,速度の変化,音程,用語,
それぞれのユニットについて要綱・審査方法が明文化され公
ポリフォニーや対位法等の理解など
開されており,審査は次に挙げるような方法によって行われる。
EAT
舞踊史
1) ドキュメント・リサーチ方法の基礎
資格取得のための単位取得に進む前提条件となっているダン
2) 歴史に関する知識(中世から20世紀まで)
スの実技能力については,以下の試験が課される。(実技審査
3) コンテンポラリーダンスの歴史
の準備講座やレッスン等も,教育プログラム実施機関で併せて
4) ジャズダンスの歴史
行われていることが多い)
5) 現代フランスの動向
a)
ヴァリアシオン(指定された振付)
:
解剖学・生理学
文化省が決定する,1分30秒から3分までの振付
b)
創作:
1) 頭部・体幹・上肢・下肢に関する知識
2) 各部の関連や機能
志願者自ら選んだ音楽を使い,1分30秒から2分の振付
3) 生理学的知識など
を作り,自分の選択分野(クラシックバレエ,ジャズダンス,
コンテンポラリーダンス)の技量を最大限に発揮するように
指導法
踊る
ダンスを教える能力を培うことを目的とする科目。400時間
― 48 ―
市瀬 陽子
研究論文 フランスにおけるダンス指導者国家資格制度
・教室の床は,滑らないものであり,柔らかく,滑らかで,耐
c)即興:
審査員が詳細な指示を行い,志願者はそれに則して30秒か
久性の高い材を均質に敷いたものでなければならない。コン
ら1分,短い即興を踊る
クリート等に直接リノリウムを張ったようなものは不可。
・教室の代表者は,事故に備えて救急用品と電話機を教室に設
各ユニットの試験
置する。非常時に対応する組織,その住所と電話番号を,見
単位時間数を満たした志願者が受ける審査は次の通りである。
えるところに掲示する。
・事故があって入院せざるを得ない場合は8日以内に所属の県
第一部門
に告する。
・教 室には最低トイレ1つとシャワー1つが設置されること
a)
音楽基礎形成:口頭試問(25~30分)
(生徒数が一度に20名を超える場合は2つずつ,40名では3
楽曲の聴き取りと分析,リズム理解,記憶・再現
つ,60名では4つなど)
。
b)
舞踊史:筆記試験(3時間)
基礎知識を問う設問10題,および舞踊史に関して自ら選ん
また生徒の成長や健康を配慮して,以下の配慮が義務づけら
だテーマについて記述する
れている。
c)
解剖学・生理学:口頭試問(45分)
志願者が当日引き当てた主題について,30分の準備時間が
・4~7歳の子どものクラスでは,各分野に独特の技術を導入
与えられた後,15分の口頭試問
してはいけない。また強制された動き,過度のストレッチ,
第二部門(指導法)
関節の無理な動きなどをさせてはいけない。
第一部門の全てに合格すると,さらに第二部門,つまり志願
・教師は年度始めに,生徒全員がダンスを習っても差し支えな
者の選択した分野における「指導法」についての試験を受ける。
い旨の医師の診断書を持っていることを確認する。教師が必
内容は次の通り。
要と判断した場合は,さらに詳しい検査を行った証明書を提
示する必要がある。
a)
試験時間1時間10分のうち,30分間は4~6歳あるいは6
~8歳までのクラス,残りの40分間は9歳以上の生徒に実技
Ⅱ.フランスのダンス指導者国家資格制度の背景
レッスンを行う
Ⅱ-1.文化政策と社会的な背景
b)
志願者が行った実技指導について,口頭試問30分
当然のことではあるが,資格制度はダンスの分野にだけ特別
ここでは,レッスンの構成能力,解剖学・生理学の知識の
に設けられているわけではない。芸術系の資格の例としては,
応用,年齢に即した対応かどうかなどが審査対象とされる。
このダンス教師資格以外にも,音楽教師,ダンサーや演奏家と
いった実演家,他の分野では造形芸術(美術),建築,文化財
資格取得に向けた教育内容の大枠は以上の通りである。指導
保存修復,映画,演劇,さらに音響やマルチメディア,サーカ
者資格の取得はあくまでもキャリアのスタートラインとして理
ス,人形劇等々,多岐にわたる。フランスにおいて,これらは
解されるべきものであり,指導者として完成されゴール地点に
特に1980年代の文化政策のもと,芸術の機会拡充,概念拡大へ
到達したことを意味するのではない。スタートラインに立った
の方針に伴って展開されてきたものである。
指導者たちには,資格取得後も様々な形で勉強を続けたり,専
1981年に社会党政権が成立すると,ミッテラン大統領の後押
門的な講座を受講したりする機会が設けられている。例えばC
しによって文化政策は政府の重点項目となった。文化大臣に就
NDでは,常時,様々な講座やワークショップ,イベントやパ
任したジャック・ラングは文化省の使命を明確に宣言し,現実
フォーマンスなどの企画が展開されており,研鑽を積む機会が
に文化省の予算はそれ以前の倍近くにまで増加,ラングの在任
用意されている。それらの情報はCNDのホームページから誰
中に文化省設立以来の目標であった国家予算の1%レベルが達
でも容易に得ることができる。
成されるに至る。文化施設等大規模な改築・設立が相次いで行
われ、 各地の文化会館(文化の家)Maison de Culture整備,オ
Ⅰ-4.ダンスのレッスン場等に関する法令
ペラ・バスティーユ,ミッテラン図書館,ルーヴルのピラミッ
ダンスのレッスンが行われるスタジオについても,法令によ
ド等々を含む「グラン・プロジェ(grand projets:大計画)」は
る定めがある。教室の責任者は法令に則した施設でレッスンを
世界中の注目を集めることになった。この時期,文化政策の対
行う責任がある。すなわち,
象領域は絵画や彫刻などいわゆる純粋芸術だけでなく,ポピュ
ラー文化や生活文化,ファッション,ロック,サーカス,スト
― 49 ―
市瀬 陽子
研究論文 フランスにおけるダンス指導者国家資格制度
リート芸術,漫画などにまで広がっていき,また芸術教育にも
そのホームページでは,誰でも関心のある分野の職種につい
大きな力が注がれることになった。
て簡単に調べることができ,希望する職業に就くために必要な
多大な予算を割いて運営された国家主導型の文化政策に対し
情報を得ることができる。例えば舞台芸術の職種を検索すると,
ては,1995年のジャック・シラク大統領就任後にその見直しが
歌手,俳優,衣装デザイン,ダンサー,照明,楽器制作,音響,
課題としてつきつけられることになった。しかし1996年秋に発
舞台美術,音楽家,そして指導者(音楽とダンス)などがヒッ
表された報告によれば,文化事業を公共サービスとして実施す
トする。それぞれに,仕事内容,場合によっては初任給などの
るフランス型の意義が再確認され,国が地方公共団体等と協力
収入に関する情報,その職に就くために必要な準備と取得すべ
して事業を実施する形が評価され,維持されることになる。
き資格,資格を取得するための教育機関などを次々と検索して
そうした流れに添う形で,1989年にダンス教師国家資格制度
いくことができるようになっている。情報はよく網羅されてお
が定められ,その取得についても,文化芸術におけるパリ一極
り,芸術分野も,社会の一角を担う就業の場として扱われてい
化を緩和する前提に立ち,フランス全土において,各地の該当
ることが伺える。同様の就業サポートサイト《JOBENTREE》
機関で教育を受けられる機会が提供されるような仕組みが整え
では,ダンサーという仕事について,同時にそれが定収入を得
られた。理念的な整合性だけではなく,このような形で制度が
難い職業であることにも言及,5,000人のプロダンサーに対し
現実に運営され,教育環境が整えられたことによって,学ぶ者
てバレエ団などに所属するのは500人という数字が参考として
にとっては目標が明確になり,資格取得者には自信の裏づけと
挙げられている。職業としてリアリティを持つための情報が,
なって,雇用に繋がる道も開かれる。さらには資格制度を維持
様々な形で提供されているのである。
運営するためにも雇用が創出され,全体として就業意識を刺激
こうしてみると,フランスのダンス指導者資格は国家資格の
する効果があることもまた見逃せない。
一つとして社会制度の一環に組み込まれ,教育制度や国の就業
支援策ともリンクした形で運営されていることがわかる。資格
Ⅱ-2.就業サポート
制度を構想するに当たっては,その教育内容はもちろんのこと,
医療や法律などをはじめとする専門職について分野ごとに資
社会的な関連にも視野を広げることが不可欠なのだ。このこと
格があり,取得が義務づけられていることは,フランスも日本
は,今後日本におけるダンス指導者の資格や教育制度の可能性
も事情はほぼ同じである。フランスでは現在までに資格の種類
を考える上でも大切な視点の一つとなるはずである。
は約17,500タイトルにのぼり,その取得が就業への鍵となって
いる。多種多様な資格を一括検索できるウェブサイトが複数運
Ⅱ-3.制度の意味するもの
営され,特定の職業に就くために必要な資格,その概要・取得
この項の最後に,フランスの資格制度に関して二つのことを
方法,関連の教育機関などの情報を,誰でも容易に得ることが
指摘しておきたい。まず一つは,この制度の強制力についてで
できるような体制が整えられていて,このサイトを活用すれば,
ある。フランスで該当分野のダンスを教えるには,既述の通り
ダンス指導者になるための教師資格についても他の資格と全く
ダンス指導者国家資格を取得することが義務づけられている。
同等に,十分な情報を得ることができるようになっている。つ
資格を持たない者が教えることは法的に許されない,そのよう
まりフランスにおいては,ダンスを含む芸術分野に対して何か
な強制力を持った資格なのである。したがってこの資格制度は,
別枠の資格が用意されているのではなく,芸術分野についても,
指導者の質を保証すると同時に,就業に具体的に結びつく,非
他の様々な業種と同様の資格制度があり,同じように社会的な
常に現実的なものだと言って良い。資格取得のために学ぶ機会
位置づけがなされているということである。
を広く提供することは,すなわち,職業訓練を充実させるとい
資格制度は,就業はもちろんのこと,教育とも密接に関わっ
う配慮でもある。芸術,特にダンスについては,日本では些か
ている。舞踊分野も含めて,国民の就学から資格の取得,就業
浮き世離れしたような漠然としたイメージが先行しがちで,職
までをリンクさせた形での情報提供も充実している。若者向け
業意識と結びつきにくい面があるように思われるが,それとは
の情報発信には特に教育的な配慮が行き届いており,国民教育
対照的な環境である。
省の国立教育・職業情報機構Office national d'information sur
そしてもう一つは,フランスにおけるダンスの歴史,資格制
les enseignements et les professions(ONISEP)という組織が
度を生んだ文化的な背景である。クラシックバレエはフランス
主導的な役割を果たしている。ONISEPにおいては,進路指導
の伝統芸術の一つと言って良いほどの存在感があり,ジャズダ
情報の探索と収集・作成,雇用・訓練に関する情報収集と,資
ンスやコンテンポラリーダンスといった分野は,それに対する
料の編集,教育及び職業に関する情報の自動処理システムの開
新しいムーヴメントとしてダンスの概念を刷新する意味を持つ
発,進路指導の観点から広報活動に必要な資料の作成,出版物
存在となった。現在,それら三分野が総体としてダンス指導者
配布の方針作成,実施等が業務として推進されている。
の資格制度を成り立たせている。フランス独特の歴史的・文化
― 50 ―
市瀬 陽子
研究論文 フランスにおけるダンス指導者国家資格制度
的背景の中,ダンス関係者の様々な議論を経て,ダンスの指導
ジャイブEX基本技能指導士」,「レクリエーションダンス編 ヒ
者として備えるべき基本的な(あるいは最低限の)知識や技能
ップホップダンスセラピー基本技能指導士」の一つであること
などの条件が絞り込まれ,一定のバランスを保った教育プログ
がわかる。さらに,この5つの区分それぞれが,指導士資格/
ラムが作り出されていったのである。したがって異なる背景を
子供・一般検定(STAGE1~3,STEP1~5)/基本・応用・
持つ他の国,例えば我が国で資格制度を構想しようとする場合
中級・上級などに内訳されていて,結果として資格の種類はか
には,当然,その歴史や環境に見合った制度を独自に考案しな
なりの数に上る。このように検定区分が体系化され細分化され
ければならない。
ているところから,基本的な設計において,この制度は資格を
段階的に取得していくシステムとして構想されているように思
Ⅲ.日本におけるダンス指導者公的資格制度
われる。
Ⅲ-1.日本の資格制度
協会側が想定する受験者層としては,1)小・中学校,高校
平成20年3月,文部科学省は中学校学習指導要領の改訂を告
の教職員,また将来教育関係へ就職を希望する者,2)スポー
示した。新学習指導要領においては,中学校保健体育について
ツ科等の専門学校の講師,フィットネスクラブ等のインスト
武道・ダンスを含めた全ての領域が男女ともに必修とされ,今
ラクター,3)ダンス教室等の経営者・インストラクター,こ
年度(平成24年度)より既に完全実施の運びとなっている。ダ
れから指導者を目指す者,4)医療,福祉,介護等に携わるカ
ンスの分野については,今般の改訂において新たに「現代的な
ウンセラー,リハビリ等のアドバイザーなどが挙げられてい
リズムのダンス」としてヒップホップが採用され,現場の対応
る。これを見る限り,
「ヒップホップダンス基本技能指導士」は,
が話題にもなった。その必修化を受ける形で新しい資格制度
「ヒ
学校教育やスポーツ活動,医療との関連を念頭に置いたもので
ップホップダンス基本技能指導士」が制定され,この夏までの
あって,ヒップホップを専門的に教えるための厳格な資格とい
間に既に2度の検定が実施されている。これまで公的資格が存
うことではないようである。
在しなかったダンス業界において,これは初めての制度である。
検定はこの5月に第1回(受験対策研修参加者111名),8月
日本の資格制度においては,国家資格,公的資格,民間資格
に第2回目(同53名)が行われており,協会が実施したアンケ
の三種が区別されている。国家資格とは,法律に基づいて国あ
ートによると,参加者の満足度は総体として高い。期間2日間
るいは国から委託を受けた機関が実施する資格で,有資格者は
(検定試験の実施を含む)の検定試験対策の研修内容は,ダン
知識や技術が一定水準に達していることを国によって認定され
ス実技,理論講習の他,心理学講習,ビジネスマナー講座で構
るものである 。公的資格とは,国家資格と民間資格の中間に
成されており,単なる実技講座とは確かに違っている。しかし
位置づけられる資格で,民間団体や公益法人が実施し文部科学
ながら指導法を直接に扱う枠は特に用意されておらず,「自分
省や経済産業省などの官庁や大臣が認定する資格である。権威
が踊れるようになること」と「正しく指導できること」との区
のある団体から認定されている資格では知名度があり信用度も
別は明確ではない。
高いが,特別な権限が与えられるものではなく,取得者の実力
また,講座の参加費や資料購入費,受験料が生じるのは当
を裏づける意味合いのものである。そして民間資格とは,文字
然といえるが,資格の取得と保持のためには年会費(12,000円)
通り民間団体や企業が独自の審査基準を設けて任意で与える資
や更新料(5,000円)を収めることが必要とされているところは,
格を指す。民間資格については法規制がない。
この検定の性格をよく表している。つまりこの資格を取ること
今般ダンス業界初の指導者資格として新たに制定され既に検
は,特定の組織への入会あるいは登録を意味しているというこ
定が行われた「ヒップホップダンス基本技能指導士」は,これ
とである。受講者,受験者はそれを事前に十分に理解しておく
らのうち公的資格に該当し,主催・認定機関は厚生労働省認可・
必要があるだろう。
3
4
財団法人職業技能振興会 ,その下で一般財団法人ワールドリ
ズムダンス技能協会5が実際の運営に当たる形をとっている。
Ⅲ-3.制度発足の背景
ワールドリズムダンス技能協会が発行したニュースリリー
Ⅲ-2.制度の概要と性格
ス(平成24年4月18日付)によれば,今回の資格制度は,文部
ワールドリズムダンス技能協会のホームページを確認する
科学省による中学校学習指導要領改訂に伴うダンス必修化を受
と,今年検定が実施された「ヒップホップダンス基本技能指導
けて,先に記した二者(職業技能振興会とワールドリズムダン
士」は,実際には「ワールドリズムダンス基本技能指導士」の
ス技能協会)の協力により発足の運びとなったとある。文部科
5つの区分,「FUNK編 ヒップホップダンス基本技能指導士」,
学省,厚生労働省といった存在によって公的性格が強調されて
「FUNK編 ロッキング・ワッキング基本技能指導士」
,「JAZZ
はいるが,運営を担い「ダンス教育に精通する」
(同ニュース
編 基本技能指導士」,
「ラテン編 チャチャチャ・サンバ・ルンバ・
リリース)と謳われているワールドリズムダンス協会は,この
― 51 ―
市瀬 陽子
研究論文 フランスにおけるダンス指導者国家資格制度
1月に設立されたばかりの歴史の浅い団体である。資格制度発
例を一つとして,我が国においても,分野の活動を制限したり
足のこうした経緯に違和感を覚えるのは筆者ばかりではないよ
拘束力を強めたりする類の資格ではなく,といって単に現状を
6
うであるが ,前項に挙げた通りの細分化された資格構造や年
肯定するような形式上のものでもない,業界に活力を与える制
会費・更新料といった課金システムなどを全体として見た場合,
度,日本の文化や経済の発展向上に何らか寄与する制度を独自
公的な資格ではあっても,あくまでも特定の一団体が制定した
に考案することにも,一定の意義があるものと主張したい。
資格であることは念頭に置かれるべきである。この資格や制度
芸術分野における人材育成は,我が国における文化政策の課
の社会的な意味あるいは価値,協会の存在に対する評価などが
題の一つにも挙げられているはずである。体系的な教育システ
定まるには,まだ今後しばらくの時を要するものと思われる。
ムに基づいた指導者資格を制定するなど,芸術に関わる仕事に
対して社会的な位置づけを明確にしていくことも,その一助と
Ⅲ-4.ダンス指導者資格に対する反応
なるはずである。資格というわけではないが,日本における芸
ダンス(をはじめとする芸術)は自由で創造的なものであり,
術分野についての社会的な称号としては,芸術系大学の学位な
そこに国家や公権力が介入し資格制度を持ち込むことには疑問
どを挙げることはできる。しかしながら,ことダンスに関して
がある,そうした意見を耳にすることがよくある。評論家や研
は大学の専攻も数が限られている上,芸術というよりもむしろ
究者からも同様の発言を聞くことがある。今回,特にヒップホ
体育系あるいは教育系の専攻に位置づけられてきた歴史があり,
ップに資格が導入されたことは,一般に少なからぬ違和感,拒
その点で音楽や美術とは状況が異なっている。今年になって新
否感を招いたようである。今回の資格に関する個別の問題はさ
設されたダンス分野の公的資格制度も,やはりスポーツ活動の
ておくとして,そうした主張は果たして表現者と指導者とを区
一環としてのダンスという発想に基づくものであった。教育現
別とした上でのことなのだろうか。
場においてダンスの必修化が現実となった今,スポーツとして
芸術家が表現の自由を求めて既存の価値観に挑もうとすると
だけではなく,ダンスを芸術の一分野と位置づけた資格制度,
き,そこに公的な規制や方向づけがなされることに拒否感を持
さらにはそれを含む芸術分野全体に関わる指導者の教育や資格
つのは理解できる。しかし指導者についてはどうだろうか。資
の問題についても,議論が高まっていくことを望みたい。
格制度に関する否定的な言説の多くは,表現者と指導者を混同
したものであることが多いように思う。その背景には,ダンス
注
の分野において表現者として経済的に自立することが難しく,
1)法令が出された時点(1989年7月10日)において3年以上コンスタント
に教えてきた教師に対しては,申請により資格を免除するという措置
も採られた。「その後」を見据えた制度の実施に踏み切ったわけである。
多くの場合,表現者が同時に指導者であるという実情も働いて
いるのだろう。しかし指導者に対して,本当に資格はいらない
のだろうか。これは指導する側の利益の問題だけではない。指
導される側として考えるならば,指導内容や教師の資質にばら
つきがあっては不都合である。指導者資格は,指導を受ける側
の権利を守るためのものだということを忘れてはならない。ダ
ンスの指導には質の保証はいらない,全て個性の問題であって
当たり外れは相性の問題,怪我をするのも仕方がない,そのよ
うな環境が許されるとしたら,果たして芸術に対する理解や敬
意,期待感が本当に育まれるのだろうかと疑問に思う。
Ⅳ.結び
フランスにおけるダンス指導者資格制度は,独自の文化的・
社会的背景のもと,強制力の強い国家資格として構想されたも
のである。それはダンスの指導を受ける側に対して「教育内容
大学やコンセルヴァトワールでの学習状況等により様々な免除措置が
2)
ある。
3)弁護士など資格習得が業務遂行のための必須条件となっている業務独
占資格や,中小企業診断士などの有資格者だけが名乗ることを認めら
れている名称独占資格,特定の事業を行う際に法律で義務づけられて
いる設置義務資格(宅建など)が挙げられる。
4)昭和23年6月,労働省(現,厚生労働省)の認可団体として設立。技能
労働者の養成を図り,日本の労働環境の整備に協力する事を目的とす
る。
http://www.shokugyou-ginou.org/
5)平成24年1月設立。教育・文化・健康の各分野において,ダンスを通
じて人々に心身の鍛錬や豊かな心の醸成の機会を提供すること及びダ
ンス業界における雇用拡大に貢献することを目的とし,その目的に資
するための事業を行う。
http://www.worldrhythmdance.jp/
6)みんなの党・松田公太氏の発言に,認定利権や天下りの問題に言及し
た箇所がある。
http://ameblo.jp/koutamatsuda/entry-11227210685.html
参考資料
の質」ならびに「指導環境の安全と衛生」を国家が保証するも
のであり,その前提に立って,国の定めた指針のもと,指定機
関による一貫性のある教育プログラムが用意され資格審査が実
施されている。資格制度を設けることの意義としては,分野の
質を保持できること,職能について社会的な位置づけが明確に
なり,就業意識の喚起に結びつくことなどが挙げられる。この
― 52 ―
Diplme d'Etat de professeur de danse, Loi du 10 juillet 1989, Direction
de la musique, de danse, du thtre et des spectacles, juin 2002
小野田正利,園山大祐「フランスにおける〈知識/技能の共通基礎〉の
策定の動向」研究成果報告書『諸外国における学校教育と児童生徒
の資質・能力』国立教育政策研究所 平成18年度調査研究等特別推
進経費調査研究報告書
小林真理「フランスにおける文化政策と法に関する研究⑴~文化政策に
おける現代的課題」早稲田大学人間科学研究 第8巻第1号1995年
市瀬 陽子
研究論文 フランスにおけるダンス指導者国家資格制度
ワールドリズムダンス技能協会によるニュースリリース(平成24年4月18
日付)
:http://www.shokugyou-ginou.org/20120420.pdf
フランス国立ダンスセンター(CND):http://www.cnd.fr/accueil
一般財団法人ワールドリズムダンス技能協会:
http://www.worldrhythmdance.jp/
フランス国立教育・職業情報機構(ONISEP):
http://www.onisep.fr/onisep-portail/portal/group/gp
― 53 ―
フランス文化・コミュニケーション省:http://www.culture.gouv.fr/
聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 55-60(2012)
ドコロカについての一考察
佐藤 直人
On dokoroka 'let alone'
SATOW, Naoto
要 旨
本稿では,ドコロカという形式は節またはゼロ・レベル範疇を等位接続する等位接続詞であることを示す。こ
のことを示すにあたってはドコロカと前接要素の組み合わせにおけるアクセントのパターンに注目することが重
要である。アクセントのパターンには前接要素がアクセントを保持する場合と失う場合があるが,前者は節の等
位構造,後者はゼロ・レベル範疇の等位構造となる。このことは,アクセントを保持する場合には屈折要素,修
飾要素の生起を許すのに対し,アクセントを失う場合にはこれらを許さないことから確認される。さらにアクセ
ントを保持する場合には,従位構造では許されず,等位構造では許される等位構造縮約,右節点繰り上げが観察
されることから,これが等位構造であることが確認される。
1. はじめに
⑶ *ミシェルは英語しか話せるどころかロシア語まで話せる
本稿では⑴の下線部のようなドコロカという形式の統語的性
関連表現であるドコロデ(ハ)ナイからの類推によって,⑶
質について考察する。
は⑷のような部分構造を持つと考えられる。
⑴ ミシェルはスペイン語を話せるどころかナヴァホ語まで話
⑷ ... [NP [InflP [VP e NP-sika hanas-er] Infl] dokoro]-Neg ...
せる
本題に入る前に意味的性質について簡単に見ておこう。ドコ
ここでドコロカが含む否定要素 Neg は否定極性表現 NP-
ロカは次のような形で文の解釈に寄与する。
sika をC統御(c-command)しているが,間に節境界が介在し
ている。一般に日本語の否定極性表現はクローズ・メイト条件
⑵ a.ある事態から予想される事態とは全くかけ離れた事態
が生じたことを表す
(益岡・田窪1992, p.198)
b.“pか^pか”という問題設定の妥当性を打ち消し,実は
pよりも(または,^pよりも)高段階のqであることを示
(clause-mate condition)に従うとされており2,Negは遠すぎる
ためにNP-sikaを認可することができない。この,ドコロカに
おける否定の働き方は,同様に否定極性表現を認可しない(ノ)
デハナクに類似している。
(服部2006, p.175)
す
⑸ *ミシェルは英語しか話せるのではなくロシア語まで話せる
つまり⑴は,「ミシェルがスペイン語を話せる(こと)
」とい
う表現を妥当ではないとして否定し,この表現が指示する事態
1
つまりドコロカが持つ否定は,いわゆるメタ言語否定と同等
から予想される序列 上のはるかに上回る程度に位置づけられ
であると考えてよい。
る「ミシェルがナヴァホ語を話せる(こと)」(例えば,ミシェ
さて,ドコロカの統語範疇(品詞)については二つの説があ
ルがスペイン語という外国語を話せるというだけでもすごいこ
る。そのうちの一つは,ドコロカには副助詞の働きを持つもの
とだが,難しいことで有名なナヴァホ語まで話せるということ
と,接続助詞の働きを持つものがあるという,森田・松木(1989)
が事実であったこと)が妥当であるということを示している。
に代表される説である。⑹と⑺を見てみよう。
ドコロカの意味論的性質からその論理表示には否定を含む
と考えられるが,⑶に示されるように否定極性表現(negative
⑹ 副助詞の働きを持つもの
ウイスキーどころか,ビールも飲めません
polarity item)は認可しない。
(森田・松木1989, p.72)
聖徳大学人文学部日本文化学科・講師
― 55 ―
佐藤 直人
研究論文 ドコロカについての一考察
本稿では,ドコロカには等位接続詞の性質があることを示し,
⑺ 接続助詞の働きを持つもの
のどが痛くて,ご飯を食べるどころか水も飲めないのです
(森田・松木1989, p.126)
アクセント保持型は屈折辞句 Infl(ection)P の(重文構造),ア
クセント消失型はゼロ・レベル範疇の,それぞれ等位構造であ
ると提案する。これを図式的に示したのが⑿である。
⑹では,ドコロカが名詞「ウイスキー」を前接させて副詞句
を構成しているように見え,それによってドコロカが副助詞の
⑿ a.[InflP [InflP ...]-[Conjドコロカ] [InflP...]]
働きを持つ,と見なされる。副助詞は一般に様々な構成素に添
b.[X° [X° ...]-[Conjドコロカ] [X°...]]
加されるわけであるが,ドコロカも,名詞だけではなく,⑻
2.アクセント保持型とアクセント消失型
のように副詞などにも添加可能である。
アクセント保持型とアクセント消失型は一見自由変異のよう
⑻ 娘は家の食材を,ちょっとどころか,ごっそり持っていっ
に見える。
た
⒀ a.あの評論家は生成文法についてキ˥ソドコロカ「セの
字」も知らない
「(誰かが)ご飯を食べる」という節にドコロカが添
⑺では,
b.あの評論家は生成文法についてキソド˥コロカ「セの
加されており,接続助詞の用法を持つと見なされる。もう一つ
字」も知らない
は服部(1995, 2006)の,副詞節を導く助詞とする説である。こ
の説では述語以外の要素がドコロカに前接するケースは,その
要素以外が省略されていると考える。例えば名詞や副詞にドコ
(13a)はアクセント保持型,
(13b)はアクセント消失型である。
ロカが添加された⑹や⑻のケースも述語にドコロカが添加され
ともに,
「あの評論家が生成文法について基礎を知らない」と
たものであり,そこでは⑼や⑽の下線部の「である」が省略さ
いう表現を妥当ではないとして否定し,さらに極少の知識すら
れていると考える。
持ち合わせていない,ということを主張している。この両者は
アクセントを除く表層連鎖が同一で,解釈も同じであると考え
⑼ ウイスキーであるどころか,ビールも飲めません
られる。しかし ⒁ のようなペアでは序列における含意の方向
⑽ 娘は家の食材を,ちょっとであるどころか,ごっそり持っ
に関して違いが現れる3。
ていった
⒁ a.*あの数学者は生成文法についてキ˥ソドコロカ最前線
まで知っている
本稿の提案は,これら二つの説の中間的性質を持つが,後述
b.あの数学者は生成文法についてキソド˥コロカ最前線
する点で異なっている。
まで知っている
ところでドコロカとその前接要素のアクセントについては二
つのパターンがある。⑾を見てみよう。
⒀と⒁では,ドコロカに前接する表現を否定した場合に許容
⑾ a.ハナ˥ドコロカ
される序列上の含意の方向が異なっている。⒁ ではドコロカ
b.ハナド˥コロカ
で妥当性が否定されて導入される事態は,⒀ とは序列におい
(『明解日本語アクセント辞典第二版』p.510)
て逆の方向となっている。ドコロカがもたらす序列上の含意の
方向によるパターンの違いを服部(2006)は「延伸型配置」「対
ハナ「花」は尾高型のアクセントを持っている。これにドコ
極型配置」4と名付けているが,これに倣うと⒀は対極型配置,
ロカが添加された場合,ハナは(11a)のようにそのアクセント
⒁ は延伸型配置である。⒁のペアにおいて,アクセント保持
を保持する場合と,(11b)のようにそのアクセントを失い,音
型では延伸型配置が許されないが,アクセント消失型では許さ
韻上一語となってドコロカのアクセントが実現される場合があ
れる。アクセント保持型及びアクセント消失型と,延伸型配置
る。一般に平板型以外ではこの二つのパターンがある(平板型
及び対極型配置の対応については明らかではない。この相関性
にはvacuousに成り立つ)。本稿では,前接要素がアクセント
に関する問題は今後の課題としておいておくとしても,アクセ
をそのまま保つ(11a)のようなタイプを「アクセント保持型」
,
ント保持型とアクセント消失型は自由変異ではないことは確
失う(11b)のようなタイプを「アクセント消失型」と呼ぶこと
かである。意味用法に関する詳細な分析については服部(1995,
にする。アクセント保持型とアクセント消失型については,こ
2006)を参照されたい。
れらが自由変異であるのかという問題がある。
アクセント保持型とアクセント消失型にはまた,以下に示す
― 56 ―
佐藤 直人
研究論文 ドコロカについての一考察
ような統語論的な違いがある。ドコロカに前接する要素として
3.形容動詞活用語尾・コピュラ省略と等位構造
形容動詞を取る構造を考えてみよう。
ドコロカに前接する構造は⒅のように考えることができるが,
⒂ この商店街は静かどころか・・・
それによってドコロカの統語範疇が特定されたわけではない。
ここで再度,⒂に挙げたような,アクセント保持型とアクセン
アクセント保持型とアクセント消失型では,形容動詞の修飾
ト消失型で表層の連鎖がアクセントを除いて同一になる場合に
要素に生起を許すかどうかに関して違いがある。⒃を見てみよ
ついて考えてみよう。
う。
⒆ この商店街は静かどころか・・・
(=⒂)
⒃ a.この商店街は少しシ˥ズカドコロカ,静かすぎて気味
が悪いぐらいだ
特に連体形活用語尾に注目すると,⒆はアクセント保持型に
b.*この商店街は少しシズカド˥コロカ,静かすぎて気味
おいては次の下線部が省略されたものであった。
が悪いぐらいだ
⒇ この商店街は静かなどころか・・・
⒃において程度副詞「少し」は形容動詞「静か」を修飾する
こと意図しているが,この解釈の下でアクセント保持型の
(16a)
このような省略は,次のような等位構造にも見られる。
は容認可能であるが,アクセント消失型の(16b)は容認不可能
である。つまり,アクセント消失型は構造的に修飾要素の生起
㉑ この商店街は静か(で)
,かつ古い街並みを残している
を許さない,と言うことができる。
㉒ この商店街は静か(なの)ではなく,寂れているのである
さらに,連体形活用語尾の介在を許すかどうかということに
関してもアクセント保持型とアクセント消失型では異なる。⒄
この現象は形容動詞に限らず,服部(2006)が指摘するよう
を見てみよう。
に,名詞述語でも観察される。
⒄ a.この商店街はシ˥ズカナドコロカ,気味が悪いぐらい
㉓ あの人は平社員(な/である)どころか,多くの部下を持つ
だ
地位にある
b.*この商店街はシズカナド˥コロカ,気味が悪いぐらい
㉔ あの人は平社員(なの/であるの)ではなく,多くの部下を
だ
持つ地位にある
(17a)はアクセント保持型であるが,形容動詞語幹「静か」
ここには形容動詞活用語尾とコピュラ(繋辞)の関係という
とドコロカの間に連体形活用語尾「な」の介在を許す。一方,
問題が関与するが,ここではこの問題に立ち入らない。少なく
アクセント消失型の(17b)ではそれを許さない。
とも言えることは,アクセント保持型では,ドコロカに前接す
以上のことは,アクセント保持型では節相当の構造がドコロ
る形容動詞活用語尾やコピュラが省略し得るということである。
カに先行し,アクセント消失型ではゼロ・レベルの範疇がドコ
このような現象は(おそらく形態論的な事情によって)副詞節
ロカに先行している,と仮定することによって理解できること
には見られない。
である。また,服部(2006)が指摘しているように,ドコロカ
に先行する節相当の部分には主題が生起しない。これは,ドコ
㉕ あの人は平社員(*である)から,多くの部下を持つ地位に
はない
ロカに先行する部分は南(1974)の意味でのC段階である可能性
㉖ あの人は平社員(*である)のに,上司に従おうとしない
を除外するものである。
以上から,ドコロカに先行する部分は,アクセント保持型で
は屈折辞句 InflP(南のB段階),アクセント消失型ではゼロ・
もっとも,逆接解釈のナガラ節では,一見ここで問題にして
レベル範疇であると考えることができる。図式的に示すと ⒅
いるような省略と思われる現象が見られる。
のようになる。
㉗ 彼女は子供(であり)ながら既に大学を終えている
⒅ a.アクセント保持型: [InflP ...]-ドコロカ
b.アクセント消失型: [X° ...]-ドコロカ
しかしこれは節をとるナガラモと名詞をとるナガラニが省略
― 57 ―
佐藤 直人
研究論文 ドコロカについての一考察
によって同音になったものと考えるべきであり,ここで扱って
(32b)では(31b)同様に等位構造縮約が逆行的に作用してい
いる現象とは異なる。
る。ドコロカに前接する動詞-屈折辞複合体は(32c)の表示にお
いて文末の動詞-屈折辞複合体との同一性の下で削除される。
㉘ 彼女は子供 (
* であり)ながらも既に大学を終えている
また,X,Yが主語・述部動詞である場合には目的語削除と
㉙ 彼女は子供(*であり)ながらに既に大学を終えている
なる。目的語削除について,田川(2007)は日本語では英語と
異なり逆行削除によって空所(gap)を形成することは不可能で
等位構造ではこのような省略の他に様々な削除が観察される
あると指摘している8。
が,ドコロカを含む文でもそのような削除が観察されるかにつ
㉝ a.*太郎は教科書を買い,花子は教科書を借りた
いて見てみよう。
b.太郎は教科書を買い,花子は教科書を借りた9
4.等位構造に見られる削除とドコロカ
(田川2007)
等位構造には等位構造縮約(conjunction reduction)や右節
点繰り上げ(right node raising)などの削除(ellipsis)が見られ
5
これに対し副詞節による従位構造では,等位構造とは異なり
る 。ここではこのような等位構造における削除とドコロカを
逆行削除が可能であることに着目しておきたい。㉞と㉟を見て
含む構造における削除を対照させながら,ドコロカが等位接続
みよう。
詞の特性を備えていることを示す。
等位構造縮約とは,㉚によって図式的に示されるように,あ
㉞ 先輩が Ø 買えば,後輩が教科書を買わなくて済む
る等位項の対比焦点にある要素 X,Y を除いたすべてを同一
㉟ 先輩が Ø 買ったので,後輩が教科書を買わなくて済む10
性の下で削除する,という現象である。
㉞は条件節,㉟は理由節をそれぞれ持つ文である。
(33a)と
㉚ W0 X Z0 & W0 Y Z0 ⇒ Ø X Ø & W0 Y Z0,但しW0, Z0 は
0個以上の形式素
は異なり,逆行削除によって形成された空所を副詞節内に生起
させている。
等位構造と従位構造における目的語削除を踏まえてドコロカ
X,Yが主語・目的語である場合,㉛のような動詞削除となる。
について考えてみよう。
㉛ a.太郎ガ花子ヲブチ,次郎ガ夏子ヲブチ,三郎ガ秋子ヲ
㊱ a.*あの学生は友達に Ø 返すどころか勝手に教科書を自
分のものにしていた
ブッタ
b.あの学生は友達に教科書を返すどころか勝手に Ø 自
b. 太郎ガ花子ヲ Ø,次郎ガ夏子ヲ Ø,三郎ガ秋子ヲブ
分のものにしていた
ッタ
(久野1973, p.9)
c. ... but
] ... but
VP
] ... but
VP
] Infl
VP
]
(36a)は逆行削除によって形成された空所を持つが,このよ
InflP
うな構造は許されない。これに対し(36b)は順行削除によって
ここでは等位構造縮約が逆行的に作用している。第一等位項
形成された空所が許される。これは従位構造ではなく,等位構
と第二等位項の動詞主要部は(31c)の表示において最終等位項
造に見られる特性である。
6
の動詞主要部との同一性の下で削除される 。
次に,右節点繰り上げ11について見てみよう。右節点繰り上
同様の現象がドコロカを含む構造でも見られる。削除される
げとは,動詞句等位項の対比焦点にある要素を除いた同一形式
領域と同一の形式素列を下線で示し,削除される領域をØで示
素列のうち,非終端等位項の右端から任意の要素を括りだし,
す。
動詞句に付加するという現象である。図式的に示すと㊲のよう
になる。
㉜ a.その教師は遅刻した生徒を叱ったどころか,クラスの
全員を叱った
㊲ [X W & Y W
] ⇒ [[X & Y
VP
]W
VP
]
VP
b.その教師は遅刻した生徒を Ø どころか,クラスの全
員を叱った7
c.... sikar+ta
以下の文について見てみよう。㊳は右節点繰り上げの生じて
]-ドコロカ ... sikar+ta
InflP
]
InflP
いない文である。
― 58 ―
佐藤 直人
研究論文 ドコロカについての一考察
㊳ 兄は自分の好きなひとに花束をあげたのではなく,自分の
㊹ 兄は自分の好きなひとに花束をあげたどころか,自分の好
好きなひとの親友に花束をあげたのだ
きなひとの親友にまで花束をあげた
㊺ 兄は自分の好きなひとに どころか,自分の好きなひ
との親友にまで花束をあげた
この文の「名詞句-動詞-屈折辞-名詞化辞」の連続である「花
束をあげたの」が右節点繰り上げによって括りだされたものが
㊴である。
次に㊻と㊼のペアを見てみよう。
㊴ 兄は自分の好きなひとに ではなく,自分の好きなひ
㊻ 兄は自分の好きなひとに花束をあげたどころか,先輩の好
きなひとの親友にまで花束をあげた
との親友に,花束をあげたのだ
㊼ 兄は自分の どころか,先輩の好きなひとの親友にま
で花束をあげた
ここで重要なことは,「あげたの」は構成素ではない,とい
うことである。これは右節点繰り上げに見られる特徴である
(日
本語に関して,田川2007, 矢田部 2011)。㊴の第一等位項は㊵
㊼では,㊸における右節点繰り上げと同様に,属格要素「自
のような部分構造を持つ。
分の」を排除した領域を括りだしている。繰り返しになるが,
この括りだされた領域「親友に花束をあげた」は構成素ではな
㊵ ... zibun-no suki-na hito-ni hanataba-o age
] ta
VP
] no
InflP
] ...
い13。
さらに㊽から㊸のような助詞までを括りだす右節点繰り上げ
NP
も,㊾のように可能である。
ここで {自分の好きなひとに, 花束を, あげ, た, の} は構成素
であるが,{花束を, あげ, た, の} は構成素ではない。このよう
㊽ 娘は彼氏からプレゼントをもらったどころか,彼氏の父親
からプレゼントをもらいまでした
な非構成素に見られる削除は等位構造にのみ見られる現象であ
㊾ 娘は彼氏 どころか,彼氏の父親からプレゼントをも
る。
らいまでした
さらに㊶と㊷の対を見てみよう。
㊶ 兄は自分の好きなひとに花束をあげたのではなく,先輩の
好きなひとに花束をあげたのだ
このように,ドコロカを含む構造では等位構造でしか見られ
ない等位構造縮約や右節点繰り上げが観察される。このことか
㊷ 兄は自分の ではなく,先輩の好きなひとに花束をあ
げたのだ
ら,アクセント保持型では(50a)に示す構造を与えることがで
きる。帰無仮説(null hypothesis)として,アクセント消失型
にも(50b)に示す等位構造を仮定する。
㊷は㊶の等位項から「好きなひとに花束をあげたの」を右節
点繰り上げによって括りだしたものであるが,それに直接先行
㊿ a.[InflP [InflP ...]-[Conjドコロカ] [InflP...]]
する属格要素「自分の」は「ひと」を主要部とする名詞句の中
b.[X° [X° ...]-[Conjドコロカ] [X°...]]
にあり,「自分の」を排除した上述の連鎖は構成素ではありえ
ない。さらに,助詞を含むような非構成素にも右節点繰り上げ
12
による括りだしが観察される 。
5. まとめ
本稿ではドコロカには等位接続詞としての性質を持つことを
見てきた。ドコロカとその前接要素からなる構成素にはアクセ
㊸ 太郎は先生から辞書をもらい,花子は父親から辞書をもら
った
(田川2007)
ント保持型とアクセント消失型があるが,それぞれ屈折辞句及
びゼロ・レベル範疇の等位構造を構成する。屈折辞句の等位接
続であるアクセント保持型では,等位構造に見られる省略と削
このように右節点繰り上げでは非構成素を対象とした括りだ
除の現象が見られることから本稿の提案が支持されることを見
しが見られるのであるが,これがドコロカを含む文でも観察さ
た。
れることを見てみよう。㊹は㊴に対応する文である。㊺は,㊹
から非構成素である「あげた」を右節点繰り上げによって括り
だしたものであるが,これは等位構造の場合である㊵と同様に
注
1.この序列はマデやサエなどの取り立て詞の解釈に用いられるものとこ
こでは考える。
問題がない。
― 59 ―
佐藤 直人
研究論文 ドコロカについての一考察
2.但し架橋動詞(bridge verb)では長距離依存が許されるという観察もあ
る。
参考文献
久野暲. 1973.『日本文法研究』大修館書店.
3.同様の観察について,齋藤・三枝・佐藤(1999)。
齋藤学・三枝優子・佐藤直人. 1999.「ドコロカについて」,『東アジア日本
語教育・日本文化研究』1: 195-199.
4.PドコロカQにおいて,Qの指示する事態qがPの指示する事態pを大き
く上回るものが延伸型,pの否定^pを大きく下回るものが対極型であ
る。
田川拓海. 2007.「形態統語論における削除現象の取り扱いについて」,第
5回筑波応用言語学研究会ハンドアウト.
5.等位構造に見られる削除には他に空所化がある。通常空所化は,最終
等位項以外の等位項の非末端位置にある動詞が削除される現象を指す
が,日本語のような動詞末尾(verb-last)の言語では観察されないとさ
れる(田川2007)
。
服部匡. 1995.「『〜どころか(どころではない)』等の意味用法について」,
『同志社女子大学日本語日本文学』7: 43-59.
服部匡. 2006.「『〜どころか』,『〜どころではない』とその周辺の諸表現」
『複合辞研究の現在』和泉書院.
6.発音される形式である[butɕi]はPFへの出力後,等位構造縮約以降に母
音挿入によって得られたものと考えられる。
南不二男. 1974.『現代日本語の構造』大修館書店.
7.話者によってはこの文をやや不自然だと判断するかもしれない。この
不自然さは分裂文の焦点項が対格を残した場合にも観察される。
社長が解雇したのは部長をだ
益岡隆志・田窪行則. 1992.『基礎日本語文法−改訂版−』くろしお出版.
8.上述の動詞削除が逆行削除のみを許すことと異なっている。
矢田部修一. 2011.「非構成素等位接続に関する範疇文法に基づく分析と句
構造文法に基づく分析の比較」, ms. 東京大学.
9.この場合の空所は音声上空の代名詞(empty pro)であると考えられる。
太郎は教科書iを買い,花子は proi 借りた
10.副詞節ではさらに次のようなものも可能である。
先輩が教科書を買ったので,後輩が Ø 買わなくて済む
森田良行・松木正恵. 1989.『日本語表現文型-用例中心・複合辞の意味と
用法-』アルク.
『明解日本語アクセント辞典第二版』金田一春彦(監)秋永一枝(編),1998.
三省堂.
11.右節点繰り上げでは非構成素に削除が適用されるため,その理論的地
位については今なお議論が定まらない。一つの考え方はPFにおいて同
一性の下で削除する(deletion under identity)というものだが,次の
ような例はそのような考え方にとって問題となる(矢田部2011)。
次郎には本を,そして三郎には雑誌を,合計で10冊売った
12.但し田川(2007)の観察によると助詞によって可能なものとそうでない
ものがある。
13.こ こ で, マ デ は 右 節 点 繰 上 げ 適 用 後 に 付 置 変 換(attachment
transformation)によって文周縁領域から転位させられるものとする。
― 60 ―
聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 61-67(2012)
14 世紀末における there の文法上の機能
藤原 保明
On the grammatical function of there in the late 14th century
FUJIWARA, Yasuaki
1385 年頃の欠損版『マンデヴィル旅行記』で用いられている 465 例の þer ‘there’ のうち,関係副詞の 11 例を
除く 454 例について,意味と文法上の機能の観点から分析した。その結果,現代英語の存在文の there に対応す
る虚辞の機能を担っていると断定できる例は皆無であった。この結果は,ほぼ同時期のコットン版とボドレー版
の『旅行記』の there の場合と一致するだけではなく,1395 年頃のウィクリフ訳の聖書における there の用法上
の特徴とも一致する。現在のような虚辞の there の用法は 17 世紀初頭の『欽定訳聖書』では確立していることから,
虚辞の there が出現して一般化し始めたのは 1500 年頃と推定できる。
はじめに
虚辞の there が出現した時期については議論が分かれるが,
現代英語の there は(1a, b)のように指示作用のない虚辞とし
書記言語の場合は1500年前後とみなせる。その根拠としては,
て,名詞(句)や代名詞と同様に主文または補文の主語の位置
たとえば(1a, b)のような例はいずれも14世紀末の聖書では皆
に生じる。このような虚辞は音形(場所の副詞 there [ðéǝ(r)] に
無に近いが,17世紀初頭の聖書ではごく普通に用いられてい
対する [ðǝ(r)],場所の指示作用(deixis)の有無,共起する動詞
ることから,この200年余りの間に虚辞が一般化するためには,
の種類,文の意味上の主語の種類などから同定できる(Declerck
その中間の1500年頃に虚辞として用いられ始めたと考えるのが
妥当と思われるからである。本稿ではこの仮説を検証するた
(1991: 32, 266-9),Biber, et al.(1999: 944),Wells(2008: 819)
)
。
めに,虚辞の there がそれほど普及していなかったと思われる
1400年頃の文献における there 構文の発達状況を把握しておき
⑴ a.There is a book on the desk.
たい。
b.I don’t want there to be any mistake.
ところが,古英語や中英語の文副詞を除く副詞は,動詞を修
1.聖書における there 構文の史的発達
飾する場合,動詞の直前に生じることから,副詞が文頭にくる
虚辞の there の出現から一般化までの過程をたどるために,
と,無標の語順は必然的に副詞+動詞+主語となる。それゆえ,
本稿では最初に現代英語の聖書における虚辞の there の用例を
たとえば古英語の þǣr ‘there’ や中英語の ther が文(または節)
特定し,その次に中英語と初期近代英語の聖書の同じ個所で
の最初の位置に生じる ⑵ のような場合,これらの副詞は虚辞
there がどのように用いられているかを探ることにする。
なのか,それとも場所を指示しているのかを明確にせねばなら
1.1. 現代英語の聖書における there 構文
ない。
現 代 英 語 訳 の 聖 書 と し て は『 新 共 同 訳 聖 書 』
(The New
⑵ a.Þǣr mǣg nihta gehwǣm nīðwundor sēon
English Bible: The Old Testament)
(1970)が高い評価を得てい
(Beowulf 1365)
わち,
(3a)の最初の there と(3b)の there は補文での目的格の
b.Ther nas no dore that he nolde heve of harre
(The Canterbury Takes 550)
‘There was no door which he would not heave off its
hinge’
ることから,本稿ではその「創世記」の第1章の冒頭のいくつ
かの節で用いられている虚辞の there を分析対象とした。すな
‘There one may see each night a horrible marvel’
例として,
(3a)の2番目の there は主文での主格の例として挙
げた。なお,補文での there が名詞句と同等に用いられ,さら
に let の目的語(すなわち,補文の主語)となっているとみなす
根拠となる例として(3c, d)を示した。
聖徳大学人文学部英米文化学科・教授
― 61 ―
藤原 保明
研究論文 14 世紀末における there の文法上の機能
⑶ a.God said, ‘Let there be light’, and there was light;
b.and offer thou hym there in to brent sacrifice (xxii.2.)
(i.3.)
b.God said, ‘Let there be a vault between the waters, to
‘and offer him therein to burn the sacrifice’
(i.6.)
separate water from water.’
‘And when Jacob had slept there in that night’
c.sche castide awai the child vnder a tre that was there
(xxi.15.)
c.God said, ‘Let the waters under heaven be gathered into
‘she casted the child away under the tree that was there’
one place, so that dry land may appear’; and so it was.
(i.9.)
d.and there is founden delium, that is, a tree of spicerie
(ii.12.)
d.God said, ‘Let there be lights in the vault of heaven to
separate day from night, and let them serve as signs
both for festivals and for seasons and years.
‘and delium, that is a tree of spice, is found there’
(i.14.)
e.There thei spaken to him.
(xix.15.)
‘There they spoke to him.’
1.2. ウィクリフの『聖書』における there 構文
1395年頃の『ウィクリフ派訳聖書』(The Holy Bible)(以下,
それゆえ,ウィクリフの『聖書』に虚辞の there が生じない
ウィクリフの『聖書』と略す)の「創世記」から(3a~d)に対
のは,この聖書固有の特徴なのか,それとも虚辞の there が14
応する個所を特定し,虚辞の there を抽出しようとした。とこ
世紀末頃は未発達であったことによるのかを明らかにせねばな
ろが,⑷ に示したように,虚辞の there は主文にも補文にも全
らない。
1
く用いられていないことが明らかとなった。
1.3. 『欽定訳聖書』における there 構文
⑷ a.And God seide, Liʒt be maad, and liʒt was maad. (i.3.)
次 に,1611 年 に 刊 行 さ れ た『 欽 定 訳 聖 書 』(Authorized
‘And God said, ‘Light be made, and light was made.’
Version of the King James’ Bible)の「創世記」
(Genesis)では,
(6a)の2例の there,(6b)の there, および(6d)の there はいず
b.And God seide, The firmament be maad in the myddis of
(i.6.)
watris, and departe watris fro watris.
れも ⑶ の例とまったく同様に主文または補文の主語となって
いる。さらに,let の目的語(=補文の主語)についても,(6b)
‘And God said, ‘The firmament be made in the middle of
の it と(6d)の them は ⑶ の場合と同一の語が用いられている。
waters, and depart waters from waters.’
それゆえ,現代英語の虚辞の there の用法は17世紀初頭にすで
c.Forsothe God seide, The watris, that ben vndur heuene,
に確立していたと断定できる。
be gaderid in to o place, and a drie place appere; and it
(i.9.)
was doon so.
⑹ a.And God said, Let there be light: and there was light.
‘Truly God said, “The waters, that are under heaven, be
(i.3.)
gathered into one place, and a dry place appear”; and it
b.And God said, Let there be a firmament in the midst of
was done so.’
the waters, and let it divide the waters from the waters.
d.Forsothe God seide, Liӡtis be maad in the firmament of
(i.14.)
signes, and tymes, and daies, and ӡeeris;
(i.6.)
heuene, and departe tho the dai and niӡt; and be tho in to
c.A nd God said, Let the waters under the heaven be
‘Truly God said, “Let lights be made in the firmament of
gathered together unto one place, and let the dry land
heaven, and let them depart into day and night; and let
appear: and it was so.
(i.9.)
d.And God said, Let there be lights in the firmament of the
them be in as signs, and times, and days, and years;’
heaven to divide the day from the night; and let them be
そこで,この「創世記」で用いられているすべての there(44
for signs, and for seasons, and for days, and years:
(i.14.)
例)を精査したところ,⑸ のような例はすべて「前方照応的」
(anaphoric)に用いられている,すなわち,there は既出の場所
を指していて,また,後続の文中に場所を表す語句が生じてい
2.旅行記における虚辞の there
ないことが明らかとなった。
2.1. 旅行記と虚辞の there
ウィクリフの『聖書』とほぼ同時期の散文の中で分析対象と
⑸ a.And whanne Jacob hadde slept there in that nyӡt
して最適と思われるのは
『マンデヴィル旅行記』
(以下,
『旅行記』
(xxxii.13.)
と略す)であろう。旅行記であることから,当然のことながら,
― 62 ―
藤原 保明
研究論文 14 世紀末における there の文法上の機能
さまざまな国や地域,およびこれらに存在する山や川や教会な
þeire の場合,i は先行母音 e の開口度が狭いこと(すなわち,
どの場所を示す there はもとより,事物の存在を示す表現がき
[e:])を表す当時の写字生の便法であったと思われる。それゆえ,
わめて多い。加えて,コットン版,ボドレー版,欠損版をはじめ,
þer(e) の [θe:r] と þeire は書記上競合することになるが,同一
数種類の写本が残されていることから,ほぼ同時期の写本間の
母音が複数の形式で表される例は珍しくはない。最後に,(7e)
比較対照も可能となる。ちなみに,Van der Meer(1929: 158-60)
の there の th はフランス式の表記に基づくが,『欠損版』では
はコットン版の「予備の there 」(preparatory ‘there’)を分析し
この語に限らず,
古英語以来のルーン文字の þ「ソーン」
(thorn)
ているが,there の前方照応機能が無視されているため,彼の
がかなり広く用いられていて,th の例はわずか2回にすぎな
記述は信頼できない。本稿では欠損版を対象とするが,これは,
い。もっとも,þer に限らず,この写本の写字生は一見無造作
コットン版とボドレー版の there について,すでに藤原(2010)
に異形を用いているようであるが,たとえば語中に二重字
において,虚辞の there とみなせる例は確認できないことを指
(digraph)の ee を含む þeere は there を意味する語として用い
摘してあることから2,この結果と欠損版の分析結果を対比す
られることはなく,their に限られることは注目に値する。
ることが可能となるからである。
このように,5つの異形についての十分な音声情報は語源と
綴り字からは得られない。これは,音声情報が得にくい散文か
2.2. there の語形
ら例を抽出したことに原因がある。それゆえ,今度は文法上の
現代英語の場合,場所の there [ðéə] は強勢を受け,母音は完
機能の区別から異形の根拠を探らなくてはならない。なお,特
全音価を保持しているのに対して,虚辞の there [ðə] は無強勢
に支障のない限り,以下の記述では異形を þer に統一して用い
であり,母音は弱化している(Biber, et al.(1999: 944)
)
。もっ
ることにする。
とも,この発音上の原則は話者によって異なる場合があること
から,there の用法を区別する唯一の基準にはなりえない(Wells
2.3. þer の文法上の機能
(2008: 819)
)
。一方,今から600年以上も前の書記言語の場合,
『欠損版』では,場所を表す関係副詞は(8a, b, c)に示した
音形または語形を手がかりにして,there が場所を表す副詞か,
ように,一般に where が用いられる。しかし,
(8d, e, f)のよ
それとも主語として機能する虚辞かを区別することは容易では
うに þer または þer+as または þer+þat ‘that’ も時折用いられる。
ない。もっとも,古英語の þǣr [θæ:r] が現代英語の there [ðéə,
これは,þǣr が 副詞の there と接続詞の where を兼ねていた古
ðə] へと変化する過程においてどのような変化が生じ,異形が
英語期の名残であり,中英語期以降に where が関係詞の機能
機能上の区別を担っていたかどうかを明確にしておく必要はあ
を担うようになっても,かつての there+as(または þat)は引
る。
き続き関係詞の機能を担い,副詞の there との区別も示せたか
『欠損版』の場合,現代英語の there に対応する語形は ⑺ の
らである。それゆえ,
(8d, e, f)のような例は,
『欠損版』が書
5種類(合計465例)が用いられていることから,これらの異
かれた頃は where の関係詞としての機能が完全に確立してい
形が音声上の特徴や文法上の機能を担っていたかどうかを明ら
なかったことの証拠となりうる。いずれにせよ,(8d, e, f)のよ
かにせねばならない。
うな関係詞の þer(11例)は今回の分析では対象から外さねば
ならない。
⑺ a.þer(218例=46.88%)
⑻ a.for his bones were ybrouʒt fro Bretayne where he was
b.þere(168例=36.13%)
c.þeire(48例=10.32%)
yburied.
(10/30)
‘for his bones were brought from Britain where he was
d.þare(29例=6.24%)
e.there(2例=0.43%)
buried.’
b.and so to Marca whare he was chose to be byschope.
(15/5)
最初に,⑺ の異形に対応する古英語の þǣr [θæ:r] は無語尾で
あったことから,(7b, c, e)の þere, þeire, there の末尾の -e は非
語源的(inorganic)であり,音声面で対応してはいないと思わ
れる。一方,(7d)の þare の場合,OED (s.v. there)によれば,
2
‘and so(they go)to Marca where he was chosen to be
bishop’
c.And it falliþ ofte whare men fyndeþ water o tyme
(23/6)
古英語では一般的な þǣr と並んで,まれな þāre も用いられて
いたことから,音形は [ða:rə] であった可能性があるが,語尾
は発音されず [ða:r] であったとも考えられる。次に,語中の e
は狭めの [e:] か広めの [ɛ:] のいずれかを表す可能性が高いが,
― 63 ―
‘And it often happens that where men find water at one
time’
藤原 保明
研究論文 14 世紀末における there の文法上の機能
めたが,1400年頃はその初期の段階であったことがわかる。も
d.aboute þe place þere heo was grauen of aungels.
(22/17)
う1つ特筆すべき点は27例の þare はこの種の複合語に全く関
‘about the place where she was buried by angels.’
与しないことである。この点は there の語源を研究する上で貴
e.And þer as oure lord was don on þe cros is writun
重な情報であるが,本稿ではこれ以上触れないことにする。
(30/12)
ϸerfore を除く there 複合語の機能面の特徴は,þer が既出の
場所を前方照応的に指定し,第2要素の副詞はその場所を詳し
‘And(the place)where our lord was put on the cross
く述べる「詳述的」
(specific)な役割を果たすことにある。
is written’
f.kynge Alisaundre dide make a cite þeire þat he called
(69/11)
Alisaundre
‘king Alexander made a city where he called Alexander’
2.5. þer 複合語と副詞+þer の機能
『欠損版』の場合,þer の後に副詞が生じても ⑼ のように両
者が複合するとは限らず,
(10a)~
(10e)のように2語が場所の
2.4. 複合語の構成素 þer の機能
副詞句を形成する例も少なくない。これらの句の特徴は,þer
『欠損版』では þer は独立語として生じるとは限らず,後続
(anaphoric)機能を果たし,
が前述の場所を受ける「前方照応的」
の副詞と結合して,⑼ のような複合語を形成することがある
後続の副詞はその場所をより詳しく指定することにあることか
ら,⑼ と同様の機能を担っていることである。ちなみに,場
(以下,この種の複合語を「there 複合語」と呼ぶ)。
所の副詞を強調する場合,強意語は(10f)のように þer の後の
副詞の直前に生じ,また,(10g)のように両者が複合すること
⑼ a.þerfore(82例), þeirfore(2例)‘therefore, for that’
(合計84例)
もある。一方,
(10h)のように þer + 副詞という無標の語順が
倒置することがあるが,両者の機能は変わらない。要するに,
b.þerynne(20例), þeryn(3例), þereinne(2例)‘therein’
(合計25例)
þer と副詞の場合,þerfore を除いて,結合の有無や語順にかか
わらず,場所の指示機能は変わらないことになる。
c.þerof(10例), þereof(1例)‘thereof’(合計11例)
d.þerto(8例)
, þeireto(2例)‘thereto’(合計10例)
‘ there near >)near there’(18例)
⑽ a.þer nere (
e.þervpon(3例), þerupon(1例), þereupon(1例),
b.þer bysyde (
‘ there beside >)beside there’(3例)
þerevpon(1例)‘thereupon’(合計6例)
f. þereaboute ‘thereabout’(4例)
c.þare vppon (
‘ there upon >)upon there’(1例)
g.þerby(3例), þeireby(1例)‘thereby’(合計4例)
d.þeire fro (
‘ there from >)from there’(1例)
h.þerwiþ(2例)‘therewith’
e.þer aboute (
‘ there about >)about there’(3例)
i. þereundyr(1例)‘thereunder’
‘
very near>)very near there’(1例)
f. þare faste by (there
g.þare fast(e) by (
‘ there very near >)very near there’
(2例)
古英語の約30種類の there 複合語と比べると,『欠損版』の
h.nere þer ‘near there’(2例)
there 複合語は3分の1弱の9種類にすぎないが,これらの例
には注目すべき特徴がある。すなわち,場所の意味を留めてい
た古英語の接続詞 þærforan ‘before that’ は,
『欠損版』では(9a)
2.6. 前方照応の þer+前置詞句
のように結果や理由を表す副詞 þerfore ‘therefore’ へと変化し,
⑽ のような場所の副詞と同様に,⑾ にあげた場所を表す前
there 複合語の中で最も頻度が高く,全体の57.14%を占める。
置詞句(合計7例)も前方照応の þer の直後に生じる。この場
一方,他の8種類の there 複合語は(9b)~(9i)のようにす
合も,þer は既出の場所と照応し,直後の前置詞句はその場所
べて場所の意味を留めていることから,これらの語は虚辞の
を詳述指定することには変わりがない。この点において,⑾
there の史的発達のプロセスを解明する有力な手がかりの一つ
の例は現代英語の here in Japan や there in the corner のような
になりそうである。ちなみに,語源的に無語尾の þer という
表現とまったく同等である。いずれの þer も虚辞ではなく,明
形式で用いられているのは218例(=47.91%)であるのに対して,
確に場所を表しているところに特徴がある。
非語源的な語尾 -e を伴う þere, þeire, there は210回(=46.15%),
そして語源的な -e を伴う þare は27例(5.93%)用いられている。
⑾ a.But it is so hotte þare in þat yle
(72/18)
しかし,⑼ のような複合語では,無語尾形は 134例(=91.16%)
‘But it is so hot there in that isle’
対13例(=8.84%)と圧倒的に優勢である。このことは,there
b.Many oþer yles beþ þere in þe lond of Prestre Ioon
複合語が無語尾のまま確立し,その後,語尾 -e が添加され始
― 64 ―
(128/6)
藤原 保明
研究論文 14 世紀末における there の文法上の機能
(13c)のように þer が文頭に生じて
順が圧倒的に多い。次に,
‘There are many other isles there in the land of Prester
も主語と述語動詞が倒置しない有標の例もある。その他の場合
John’
(40/19)
c.And þer toward þe eest is a chapel
として,(13e, f)のように þer が節または文の末尾に来る例も
‘And there is a chapel there in the east’
かなり多い。第二に,⒀ のような例の場合,þer が虚辞だとす
d.And men seiþ þer biʒonde þat yle is anoþer yle
ると,非文となるか,場所についての情報が不足する文になっ
(122/9)
てしまう。
‘And it is said that there is another land there beyond
⒀ a.Þere dwelliþ many christen men
that isle’
(67/13)
‘There dwell many Christian men’
e.And þer nere at þe lyft side is Sabon and Rama
b.And þere liþ seynt Luke þe euangelist, (10/29)
(44/9)
‘And St Luke the evangelist lies there’
‘And at the left side near there are Gibeon and Ramah’
(3/7)
c.And þere he wolde suffer many repreuys
2.7. 前方照応の þer と副詞の分裂
‘And he would suffer many reproofs there’
それでは,⑿ のように,前方照応の þer と副詞または前置
d.Anoþer yle is þer þat men clepiþ Pytan.
詞句の間に動詞が介在する場合,両者にはどのような関係が存
‘There is another isle there that men call Pytan’
在するであろうか。これら13例の特徴は,古英語以来の無標の
e.mete and drinke is more honest in oure cuntre þan þere,
語順である場所の副詞+動詞という語順を維持し,しかも動詞
の主体である主語がその後に生じていることである。ちなみに,
‘food and drink are more respectable in our country
介在する動詞は(12a, b)
の2例を含む be 動詞が11例と(12c, d)
(127/30)
(94/19)
than there’
の come と brenneþ の自動詞に限られる。⑿ のような þer が現
f. for þe eir was so drie þere.
代英語の there と大きく異なるのは,þer の機能と前置詞句の
‘for the air was so dry there’
(11/31)
位置である。すなわち,現代英語では,主語名詞句が「不定」
(definite)である場合には,動詞に先行する there は虚辞であり,
2.9. 場所の副詞 þer と共起する動詞
場所を表す語句は意味上の主語の後に明記されねばならない
現代英語の場合,場所の副詞 there と共起する動詞の種類は
(Declerck(1991: 266-9)
)。ところが,⑿ の例では þer は前方照
豊富であり,be動詞以外にもさまざまな自動詞や他動詞も生じ
応の場所の副詞であり,主語は動詞の後ではなく,場所を表す
る。
『旅行記』の場合も ⒁ のように,動詞の種類は豊富であり,
副詞または前置詞句の後ろにある。
この点からも両者は共通している。ちなみに,節内で場所の
副詞が生じる位置は多様であることから,ここでは þer+動詞
⑿ a.but þer is ynne many laumpes liʒt.
(29/5)
‘but there is a light of many lamps within there.’
てみた。⒁ 以外の例としては,speke ‘speak’, dwelle, wed, come,
(57/7)
b.And þer was in þat cuntre a man
+主語という脈絡においてどのような動詞が生じるのかを調べ
mete ‘meet’, ende ‘end’, cast, ʒeue ‘give’, fynde ‘find’, brenne ‘burn’
などが用いられている。 ‘And there was a man there in that country’
(95/20)
c.and þer come to hym a kniʒt
⒁ a.And þei sey þat þer is non purgatorie
‘and there came a knight there in front of him’
‘And they say that there is no purgatory’
d.þer brenneþ in his chamber xli. grete vessels of crestal
ful of bawme
(13/9)
(117/23)
b.and þer passiþ men a brigge of stoon
(6/22)
‘and there men pass a bridge of stone’
‘there burn 41 great vessels of crystal full of balm there
c.And þere liþ seynt Luke þe euangelist in his chamber’
(10/29)
‘And there lies Saint Luke the Evangelist’
2.8. 副詞または前置詞句と共起しない þer
d.and þere makiþ þei a grete feste eche ʒere (11/18)
þer が場所を表す副詞または前置詞句と共起しない例はきわ
‘and there they make a great feast each year’
めて多く,いくつかの顕著な特徴がある。第一に,þer は ⒀
e.Þere growiþ riche wyn and strong
のように文中のさまざまな位置に生じる。すなわち,動詞を修
‘There grows rich and strong wine’
飾する þer が文頭に生じる場合,その無標の位置は動詞の直前
f. Þere bigynneþ þe vale of Ebron
であることから,(13a, b)のように副詞+動詞+主語という語
‘There begins the vale of Hebron’
― 65 ―
(15/6)
(24/27)
藤原 保明
g.And þere left Crist his disciplis
研究論文 14 世紀末における there の文法上の機能
(39/30)
ると考えられることから,この種の þer は本稿では場所の副詞
‘And there Christ left his disciples’
(15b)の場合,悪名高き3人のヘロデ王の名
とみなす。次に,
h.but þer lete Iulius Apostata take his boones (45/1)
前を聞くと,当時の人々は彼らが統治していた国や時代をだい
‘but there Julius Apostate let (him) take his bones’
たい思い浮かべられたはずである。それゆえ,この þer も外部
照応的な場所の副詞とみなせる。一方,
(15c)の þer の場合,
「多
2.10. 外部照応的 þer
くの道がある」のは「エルサレムに行くまでの間」のことであ
これまで欠損版の『旅行記』に生じる465例の þer の用法に
るから,この þer も外部照応的とみなせる。
(15d)もこれと同
ついて検討を重ねてきたが,このうちの454例の þer は場所の
様に,
「陸路をエルサレムに行く道」はどこのあたりなのか頭
副詞であると断定できる。そこで,この節では残りの11例のう
の中で概ね描けることから,
(15c)
と同じ解釈が成り立つ。
(15e)
ち,⒂ に示した9例の þer の機能について考察したい。
の場合も,神がどこにいるかはだれでも漠然と頭の中に描いて
いると考えられることから,þer は外部照応的であるとみなせ
る。(15f)の場合,これまで取り上げた国々を除く国々がどこ
⒂ a.And þei seiþ þat þer is non purgatorie ... vnto þe day of
dome.
(13/9)
にあるか大体想像がつくことから,þer は外部照応的とみなせ
(15g)の þer は,谷を通り抜けた時,そこには10名しかい
る。
‘And they say that there is no purgatory ... till the
なかったということから,
場所を指すと考えられる。
(15h)
は
「か
doomsday.’
b.And ʒe schul vndirstonde þat þer were þre Herodes
つてインドの皇帝がいた」という文であるから,þer は当然イ
ンドを指すと考えられる。最後に,(15i)の þer は(15f)の場合
(37/11)
とほぼ同様の解釈によって場所の副詞と考えられる。
‘And it should be understood that there were three
このように,明確に場所が指定できない例においても,漠然
Herods’
と場所を指定している場合には,þer は虚辞ではなく場所の副
c.Yf al it be so þat þer be many oþer weyes þat men
may go
(54/14)
詞とみなせる。
‘Although there be many other ways that men may go’
d.ʒit is þer a wey by londe to Iersalem
(54/16)
2.11. 虚辞の there の出現
‘Yet there is a way by land to Jersalem’
最後に,これまでの解釈が適用できそうにない(16a, b)の2
e.Þer is no god but oon and Macomet his messyngere.
例について考察してみたい。いずれも同一の節に þer は2回用
(63/19)
いられているが,この種の例は454例中わずか2例にすぎない。
‘There is no god but one and Mahomet, his messenger’
現代英語では,存在文は最も典型的なものとして there+be+
f.And þer beþ many oþere cuntrez ..., of whiche it were
(16c,
不定名詞句(または自動詞)という構造を示すことから,
to myche to speke.
(82/20)
する場合,存在の there の意味や虚辞としての機能は明確であ
‘And there are many other countries ..., of which it
)
。ところが,このような存在文の構
る(Biber, et al.(1999: 944)
would be too much to speak’
g.and when we come out þer were but x.
(121/14)
造が確立しているとは思えない時代の『旅行記』の場合,同一
節内での þer の共起の解釈は容易ではない。第一に,他の452
‘and when we came out there were only ten’
h.Þer was somtyme an emperor of Ynde d)のように there が同じ節内で here または場所の there と共起
(128/11)
例では最初の þer は明らかに前方照応であることから,
(16a, b)
‘There was sometime an emperor of India’
の2例の þer だけを虚辞とみなす積極的な根拠が見当たらない。
i.Þer be many oþer cuntreez ... whiche Y haue noʒt
第二に,強調のために写字生が þer を繰り返した可能性を否定
yseye,
(135/19)
できない。第三に,写字生が明確な意図がなく2番目の þer を
書いた可能性もある。残念ながら,
(16a, b)の2番目の þer の
‘There will be many other countries ... which I have not
機能や意味について現時点では明確な判断は下せない。
seen.’
(15a)では「(最後の)審判の日まで煉獄はない」と述べてい
⒃ a.for þere growiþ moneye olyues þare.
て,þer は特定の場所を指してはいない。しかし,当時の人々
‘for there grow many olives there.’
にとって煉獄はどのあたりにあるのか漠然と頭の中に描けたは
b.but ʒit þer beþ þer many of ham.
ずである。それゆえ,このような þer には言葉で明瞭に述べら
‘but still there are many of them there.’
れていないものを指す「外部照応的」(exophoric)な機能があ
c.There’s more gravy here.
― 66 ―
(40/5)
(124/1)
藤原 保明
研究論文 14 世紀末における there の文法上の機能
d.There’s still no water there, is there?
参考文献
Biber, Douglas, Stig Johansson, Geoffrey Leech, Susan Conrad, and
Edward Finegan(1999)Longman Grammar of Spoken and Written
English, Pearson Education, Harlow.
まとめ
本稿では1385年頃に書かれた欠損版『旅行記』で用いられて
いる465例の þer の意味と文法上の機能について分析し,考察
した。その結果,前方照応的または外部照応的な機能がないと
断定できる þer は見当たらなかった。この結果は,欠損版のみ
ならず,コットン版やボドレー版の『旅行記』のみならず,こ
れらの写本とほぼ同じ頃に作成されたウィクリフの『聖書』の
「創世記」に虚辞の there がまったく見当たらないことと一致
する。14世紀末頃は虚辞の there はきわめて例外的であるとい
う事実は,結果的に,この用法がかなり一般化する16世紀末ま
でに英語に何が生じたのかという新たな課題を提起することに
なるので,今後この点について考察してみたい。
Crystal, David(2008)A Dictionary of Linguistics and Phonetics, Sixth
Edition, Blackwell, Oxford.
Declerck, Renaat(1991)A Comprehensive Descriptive Grammar of
English, Kaitakusha, Tokyo.
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Containing The Old and New Testaments, Vol. I, Oxford University
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Seymour, M.C.(2002)The Defective Version of Mandeville’s Travels
(EETS, O.S. 319),Oxford University Press, Oxford.
Simpson, J.A., and E.S.C. Weiner(1989)The Oxford English Dictionary,
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The New English Bible: The Old Testament(1970), Oxford University
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The Holy Bible: Containing The Old and New Testaments, Oxford
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Van der Meer, Hindrikus Johannes(1929)Main Facts Concerning the
Syntax of Mandeville’s Travels, Kemink En Zoon, Utrecht.
注
1いわゆる「後期訳」のことであり,英語が粗雑な「初期訳」とは異なり,
当時の一般民衆の使う自然な話し言葉を反映した散文で書かれている
(Yonekura(1985: 8),米倉(1997: 226))。
22010年5月28日,京都大学において開催された近代英語協会第27回大会
でのシンポジウムでの口頭発表「There 構文の史的発達の要因―there
はいつ虚辞になったか」。
― 67 ―
Wells, John C. (2008) Longman Pronunciation Dictionary, Third
Edition, Pearson Education, Harlow.
Yonekura, Hiroshi(1985)The Language of the Wycliffite Bible, Aratake
Shuppan, Tokyo.
米倉 綽・水鳥喜喬(1997)
『中英語の初歩』(英語学入門講座・第5巻),
英潮社,東京。
聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 69-76(2012)
K.マンスフィールドの「船の旅」小論
-情景描写とフェネラの内面世界-
腹部 千代子
On K. Mansfield's "The Voyage"
FUKUBE, Chiyoko
要 旨
キャサリン・マンスフィールド(Katherine Mansfield, 1888-1923)の「船の旅」(“The Voyage”)は,1921 年
8月 11 日に書き始められ,同 14 日に完成された短篇作品である。この作品は,船出前のウェリントンの旧桟橋
の場面,船中での場面,旅が終わってピクトンに到着した場面の三つの場面から構成されている。そして , それら
の場面を時間的に見ると,巨大な闇に包まれた旧桟橋の場面は暗黒の夜の世界,船が夜明けにピクトンに到着し
た第三の場面は夜明けの世界を示し,第二の場面はその間の橋渡しの役割を果たしていることになり,夜の世界
と夜明けの世界のはざまを示す。本稿では,物語の筋を追いながら,原文を引用して,三つのそれぞれの場面の
情景描写と主人公の少女フェネラの内面世界に焦点を当てて,考察した。
第一の場面は,暗闇が支配し,すべてが暗黒の塊で彫って作られたように見える。そのような闇の中を人々が
急ぎ足で船に向かっていく。その情景は切迫感や緊迫感を表すとともに,母を亡くしたフェネラの内面の大きな
不安を象徴している。第二の場面では,船室に入った後,フェネラはまるで小さな箱の中に祖母と一緒に閉じ込
められたように感じるが,祖母は,きびきびとした様子で寝支度を始め,船旅に慣れないフェネラにいろいろと
指図を与え,また安心感をも与える。第三の場面では,夜明けに船がピクトンに到着し,フェネラは祖父母の家
で祖父に対面する。“small” や “white” という語が頻繁に使われているところから,フェネラにとっては恐怖感の
ない,安心して過ごせる安全な世界を表していると考えられる。こうして,船の旅は,フェネラを暗黒の世界か
ら連れ去り,夜明けの世界へと導いていくのである。夜明けの世界で物語が閉じるというその構成はまた,母を
亡くし,不安な気持ちでいっぱいであったフェネラが,祖母との旅によって父方の祖父母の元に導かれて,これ
から先彼らの庇護の元で安心して過ごすことができるだろうという希望を抱かせる。
Ⅰ.はじめに
の第二の安定期であったと言われている。
「入り江のほとり」,
キャサリン・マンスフィールド(Katherine Mansfield,1888-
「園遊会」
(“The Garden-Party”),
「人形の家」
(“The Doll’s
1923)の「船の旅」
(“The Voyage”)は,1921年8月11日に“Going
House”)等の傑作が書かれたのもこの時期であるが,
「船の旅」
to Stay with Granma”[sic]というタイトルで書き始められたこ
も含めてこれらはニュージーランドを舞台としているため,
「ニ
とがNotebookに記載されている(注1)。これは“The Voyage”と
ュージーランドもの」と呼ばれている。1908年にニュージーラ
(注2)
,7月末か
ンドを離れて渡英した後,マンスフィールドは二度と故郷に帰
ら書き始め,9月10日に完成した「入り江のほとり」(“At the
ることはなかったが,ニュージーランドを舞台にした作品群に
Bay”)を中断して書いたとアルパーズ(Antony Alpers)の伝記
は,ニュージーランドに住む家族たちや知人たちをモデルとし
タイトルを変えて,同14日に完成されているが
(注3)
には書かれている
。その後,同年12月24日に,この作品は
『ス
(注4)
フィア』誌に発表された
。1921年後半の6ヵ月間は,マン
た人物たち,およびニュージーランドにあるマンスフィールド
に縁のある場所等が登場してくる。
スフィールドにとって,創作意欲に溢れていた時期であり,作
マンスフィールドは,
「船の旅」について,1922年3月11日に,
家として最も充実していた時期とされている。マンスフィー
友人の作家ガラーディ(William Gerhardi,1895-1977)に宛てて,
ルドは,1918年の2月に発症した肺結核の治療のためにイギ
次のような手紙を書いている。
リスを離れ,転地療養を繰り返していたため,夫のマリ(John
Middleton Murry,1889-1957)とは別居していることが多かっ
But when I wrote that little story I felt that I was on that
た。しかし,1921年6月から翌年1月までは,マリがスイスで
very boat, going down those stairs, smelling the smell of the
療養中のマンスフィールドに合流して,モンタナ・シュル・シ
saloon. And when the stewardess came in and said, ‘We’re
エール(Montana-sur-Sierre)の地にあるサパン荘(Chalet des
rather empty, we may pitch a little.’ I can’t believe that my
Sapins)を借りて二人で一緒に過ごした時期であり,結婚生活
sofa did not pitch. And one moment I had a little bun of silk-
聖徳大学人文学部英米文化学科・准教授
― 69 ―
腹部 千代子
研究論文 K.マンスフィールドの「船の旅」小論
white hair and a bonnet and the next I was Fenella hugging
玉が手袋の先を濡らして染み込み,石竹の芳しい香りが寒い朝
the swan neck umbrella. It was so vivid - terribly vivid -
の中に溶け込んでくる。フェネラが祖母に促されて祖父の寝て
especially as they drove away and heard the sea as slowly it
いる部屋に入っていくと,大きなベッドに寝ていた祖父が,年
turned on the beach. Why-I don’t know. It wasn’t a memory
老いた鳥が大きく目を開けているかのように,やってきたフェ
of a real experience. It was a kind of possession. I might
ネラに優しく声をかけてくる。物語はここで閉じる。
have remained the grandma for ever after if the wind had
ピクトンは,ニュージーランドの南島最北部に位置する小さ
changed that moment. And that would have been a little bit
な港町であり,南北島間のクック海峡(Cook Strait)を渡るフ
embarrassing for Middleton Murry. . . But don’t you feel that
ェリーが発着する海上交通の要所になっている。一帯は,マー
when you write? I think one always feels it.(イタリック体は
ルボロ海洋公園(Marlborough Sounds Maritime Park)に指定
原文のまま)(注5)
されており,数多くの入り江や島々が点在する美しい海岸線を
持つ。ピクトンの町は,それらの入り江の一つ,クイーン・シ
この文面から,「船の旅」を執筆していた時のマンスフィー
ャーロット・サウンド(Queen Charlotte Sound)の奥に位置し
ルドは,自分も船の中にいたように感じたり,祖母になったよ
ている(注6)。
うに感じたり,白鳥の首がついた祖母の傘を抱きかかえている
ピクトンには,実際,マンスフィールドの父方の祖父母が住
フェネラになったように感じたりしたということがわかる。執
んでいた。また親戚も南島に住んでいたために,マンスフィー
筆中は,日常生活の中でも作品世界から離れられず,いかにの
ルド自身は何度もピクトンを訪れていたとのことである。初め
めり込んでいたか,作家魂の一端が窺える。
てピクトンに連れて行かれたのは,1889年のことであり,その
さて,作品の概要は以下のとおりである。主人公は,母を亡
時彼女はまだ6ヵ月足らずであった。
「船の旅」の最後の頃に,
くしたばかりの少女フェネラ(Fenella)である。彼女と祖母は
祖父が祖母に対して,“Is that you, Mary?”(
「メアリー,お前
ある夜,ピクトン(Picton)行きの汽船に乗るために,見送り
かい?」)と呼びかけているところから,この作品に登場する
の父に伴われてウェリントン(Wellington)の旧桟橋を歩いて
祖母は,マンスフィールドの父方の祖母であるメアリー・ビ
いく。旧桟橋の上はとても暗く,羊毛置き場や家畜運搬車,高
ーチャム(Mary Beauchamp)をモデルにしていると推測でき
くそびえているクレーン車,小さなずんぐりした鉄道の機関車
る(注7)。ただし,作品中の祖父の名前は実名のArthurではなく,
といったすべての物が固い暗闇から彫り抜かれたように見える。
Walterとなっている。
そして,それらはまるで巨大な黒いキノコの茎のように見えた。
「船の旅」は,その内容から,船出前のウェリントンの旧桟
ランタンがぶら下がっていて,その灯りは臆病な震える光を暗
橋の場面,船中での場面,旅が終わってピクトンに到着した場
闇に広げることを恐れているかのように静かに燃えている。第
面の三つに分けることができる。そして,第一の場面は暗黒の
二の汽笛が鳴り響くと,見送りに来ていた父はフェネラの手に
夜の世界,第三の場面は夜明けが象徴する明の世界を示し,第
「何か必要な時のために」と一シリングのお金を押し込んで船
二の場面はその間の橋渡しの役割を果たしていると考えられる。
を降りて行く。彼女の心の中に,「これからいつまで祖母の家
本稿では,物語の筋を追いながら,原文を引用して,三つのそ
で過ごさなければならないのだろうか」という不安が募ってく
れぞれの場面の情景描写とフェネラの内面世界に焦点を当てて
る。黒いロープの大きな輪が空中に飛んで桟橋に落ちると,船
考察していくことにする。
は沖の方へ向ってゆっくりと進みだす。父の姿を捜しつつ,陸
の方を見つめるフェネラの目に見えるのは,二つ,三つの灯り
Ⅱ.暗黒の世界
と町の大時計の文字盤,もはや小さな点のようになった丘の上
まず,船出前のウェリントンの旧桟橋の情景から見ていきた
のいくつかの灯りだけであった。祖母のところに戻り,箱の中
い。フェネラ,父親,そして祖母の三人は馬車から降りて,旧
に閉じ込められたような小さな船室に入ると,祖母の顔見知り
桟橋を歩いて行く。フェネラと祖母はこれからピクトン行きの
の船室係の女性が話しかけてくる。翌朝,甲板に出ると,氷の
船に乗ることになっている。
ように冷たく,陽はまだ昇っていなかったが,光が薄れて冷た
く青白い空は冷たく青白い海と同じ色で,陸地には白い霧が動
It was dark on the Old Wharf, very dark; the wool sheds,
き,黒い森の影がはっきりと見えてくる。浮き桟橋が近づいて
the cattle trucks, the cranes standing up so high, the little
きてロープが空中を飛んできて甲板に落ちる。緩やかに岸辺を
squat railway engine, all seemed carved out of solid darkness.
打つ海は,眠っているかのような響きを立てている。人影も見
Here and there on a rounded wood-pile, that was like the
えないし,煙さえ見られなかった。出迎えの馬車に乗り,祖父
stalk of a huge black mushroom, there hung a lantern, but it
母の家に到着する。門に手をかけると震えているような朝露の
seemed afraid to unfurl its timid, quivering light in all that
― 70 ―
腹部 千代子
研究論文 K.マンスフィールドの「船の旅」小論
blackness; it burned softly, as if for itself. (p. 321)
人たちの意のままにどこかに引っ張られて行く様子である。こ
作品冒頭から暗い。“dark”,“darkness”,“black”,“blackness”
の場面では,特に,“quick”,“nervous”,“fast”,“a sharp little
という暗闇や暗黒を表す語が頻繁に出てくる。暗闇を背景にし
peck”,“skip”,“crackling”,“pushed”,“bustled”,“hurry”,
ながら,羊毛置き場,牛を乗せた無蓋貨車,非常に高くそびえ
“swung”,“scurried”,“was jerked”という語や語句が,人が急
ているクレーン車,小さなずんぐりした機関車,それらすべて
いている様子,あるいは急かされている様子を表し,その場に
の物が固い暗黒の塊で彫って作ってあるように思われる。そこ
漂う切迫感,緊迫感を表現している。
ここにある材木を積み重ねた丸い山の上に,それらは巨大な黒
船に向って歩いて行く彼らの耳に,突然汽笛の音が響く。あ
いキノコの茎のようにそびえているかのようだ。ランタンの灯
まりにも突然であったので,フェネラも祖母も飛び上がってし
りがあっても,暗黒の中でおどおどと震え,静かに燃えている
「最初
まうほどである。父だけが落ち着き払っているように,
にすぎない。作品の冒頭を支配するこの暗闇は,まるで人間を
の汽笛ですよ」と簡潔に言う。三人が船に乗り込んだ後,フェ
飲み込んでしまうかと思われるほど恐ろしいもののように描か
ネラと祖母が見送りに来た父といよいよ別れなければならない
れ,まさにフェネラが直面している現在の苦境を象徴している。
時が来る。父の声は厳しく硬い感じがするが,フェネラが熱心
「巨大な黒いキノコの茎」という表現も,幼い彼女に与える闇
に見つめると,彼は疲れて悲しげに見えることがわかる。二度
の圧迫感,今後の生活に対する大いなる不安を表していると言
目の汽笛までが“a voice like a cry”(p. 322)
(泣き叫んでいる
えよう。また,おどおどとした震えるランタンの灯りは心細さ
ような声)のように聞こえてくる。フェネラは「お父さんによ
を感じているフェネラの内面世界と重ねられる。
ろしく言って下さい」と祖母に対して父親の唇が言うのを目に
する。“'You’ll give my love to father,' Fenella saw her father's
Fenella’s father pushed on with quick, nervous strides.
lips say”(p. 322)という表現から,父の声が彼女にははっき
Beside him her grandma bustled along in her crackling black
りと聞こえていないことがわかる。祖母の方は,心が大変動
ulster; they went so fast that she had now and again to give
揺している。やがて,父が祖母に向かって,“God bless you,
an undignified little skip to keep up with them. As well as
mother!”(p. 323)と言うが,“she heard him say”(p. 322)と表
her luggage strapped into a neat sausage, Fenella carried
現されているので,父の声は今度はフェネラの耳にしっかりと
clasped to her her grandma’s umbrella, and the handle,
届いているようだ。
which was a swan’s head, kept giving her shoulder a sharp
祖母はすすり泣きながら父に別れを告げる。その情景はフェ
little peck as if it too wanted her to hurry.... Men, their caps
ネラにとって見るに耐え難く,素早く背を向けて,一,二度喉
pulled down, their collars turned up, swung by; a few women
をごくりとさせて,船のマストの上の小さな緑の星を見て,ひ
all muffled scurried along; and one tiny boy, only his little
どく眉をしかめる。そうして,涙をこらえていると,父が「さ
black arms and legs showing out of a white woolly shawl,
ようなら,フェネラ。いい子にしているんだよ」とフェネラに
was jerked along angrily between his father and mother; he
言う。これからどれくらいの間祖母のところにいなければなら
looked like a baby fly that had fallen into the cream.(pp. 321-
ないのかと不安そうに訊いても,父は彼女の顔を見ようとせず
322)
に,ただ「そのことについては何とか考えておくよ」と言うだ
けだ。そして,「何か必要な時のために」と,彼女に一シリン
桟橋をのんびりと歩く者は誰もいない。フェネラの父親は神
グをくれる。
経質そうに大またで速く歩いて行く。黒いアルスター外套がバ
リバリと音を立てて,祖母は急ぎ足で歩いて行く。大人の二人
A shilling! She must be going away for ever! “Father!”
は非常に速く歩いて行くので,フェネラはなかなか追いつけな
cried Fenella. But he was gone. He was the last off the ship.
い。見苦しいけれども,時々小走りに駆けなければならない。
The sailors put their shoulders to the gangway. A huge coil
フェネラの持つ祖母の傘の柄の白鳥の首までがフェネラを急か
of dark rope went flying through the air and fell “thump” on
すように彼女の背中を鋭く突っつく。彼ら以外の他の大人の男
the wharf. A bell rang; a whistle shrilled. Silently the dark
たちも女たちも皆急ぎ足でさっさと歩いて行く。しかし,フェ
wharf began to slip, to slide, to edge away from them. Now
ネラと同様に小さな男の子は速く歩けず,両親の間でぐいぐい
there was a rush of water between. Fenella strained to see
と手を引っ張られていく。その様子は,まるでクリームの中に
with all her might. “Was that father turning round?”
落ちてしまって必死に這い上がろうとしている蝿の子どものよ
waving? ― or standing alone? ― or walking off by himself? うにも見える。大人たちとは違って子どもたちはどこへ行くの
The strip of water grew broader, darker. Now the Picton
か,どこに連れて行かれるのかもわからず,ただ急いている大
boat began to swing round steady, pointing out to sea. It was
― 71 ―
― or
腹部 千代子
研究論文 K.マンスフィールドの「船の旅」小論
no good looking any longer. There was nothing to be seen
and at Fenella’s black coat and skirt, black blouse, and hat
but a few lights, the face of the town clock hanging in the
with a crape rose.
Grandma nodded. “It was God’s will,” said she.
air, and more lights, little patches of them, on the dark hills.
The stewardess shut her lips and, taking a deep breath,
(p. 323)
she seemed to expand.
彼女にとって一シリングほどの大金をもらうとなると,
「も
“What I always say is,” she said, as though it was her own
う永久に帰れないに違いないのではないか」と考えてしまう。
discovery, “sooner or later each of us has to go, and that's a
とうとう父も船を降りて行き,船が桟橋を出て行く。黒いロ
certingty.” She paused. (p. 325)
ープの大きな輪が空中を飛び,桟橋の上にドサリと落ちる。ベ
ルが鳴り,汽笛がかん高い音を出す。静かに桟橋が動き,滑り
船室係は祖母とフェネラの服装からフェネラの母が亡くなっ
始め,じりじりと離れて行く。間の水は激しく動く。フェネラ
たことを知る。祖母はもはや動揺することもなく,船室係と話
は父の姿を求めて全力を振り絞って岸の様子を見張っている。
をする。「神様の思し召しです」という言葉からも,祖母はも
細長い水の面はだんだん広がっていき,陸の光が遠くに消えて
うすでにフェネラの母の死を穏やかに受け止めていることがわ
辺りが闇に包まれていく。ピクトン行きの船は沖の方を目指し
かる。実は,この作品の冒頭からここまでのところで,フェネ
て,着実に向きを変え始める。町の方を見ていてももう暗すぎ
ラの母が亡くなったということは一言も書かれていないのであ
て,二,三の灯り,空に浮かんでいる町の時計塔の文字盤,暗
る。船が出る前の緊迫した状況,父との別れといったことから,
い丘の上にあちこち小さく固まっているさらにいくつかの灯り
読み手はこの家族に何かが起こったのだということを察するの
以外には何も見えない。ピクトン行きの船が向きを変えたこと
みであるが,ここで船室係と祖母の会話から,そして,フェネ
は,また,フェネラの人生が方向転換したことを象徴している。
ラと祖母の服装からやっと,フェネラの母が亡くなったのでは
ないかということを確信することになるだろう。そして,作品
Ⅲ. 暗黒の世界と夜明けの世界のはざま
の冒頭から7ページ目のところにある“Poor little motherless
船の旅が始まり,船室でのフェネラと祖母の様子が描かれる。
mite”(p. 327)という船室係の言葉によって,フェネラが母を
フェネラが祖母のところに戻ると,祖母はもう悲しんでいるよ
亡くしたことが明かされることになる。さらにまた,祖母はこ
うには見えず,顔には熱心な明るい様子が見られた。そのこと
れまで何度もこの船を利用していても船室に泊まるということ
はフェネラをほっとさせる。祖母はフェネラを連れて船室を見
はしていないということ,今回はフェネラの父が二人のために
に行く。彼女は,“Keep close to me, and mind you don’t slip.”
特別に配慮して船室を予約したのだということ(“But this time
,さらに,“And be careful the umbrella isn’t caught
(p. 324)
)も読者に明らかに
my dear son’s thoughtfulness ―”(p. 325)
in the stair rail. I saw a beautiful umbrella broken in half like
される。
that on my way over.”(p. 324)と,フェネラに,傘を階段の手
船室はとても小さく,フェネラには,祖母と一緒に箱の中に
擦りに引っ掛けて折らないようにと注意を促す。この白鳥の首
閉じ込められてしまったかのように感じられる。彼女は勝手が
のついた傘が祖母からフェネラに預けられたことから,フェネ
わからず,手荷物と傘を持ったまま,ドアにもたれて立ったま
ラはこれを大切に持ち運ぶという重要な役目を与えられたこと
までいる。そして,こんな狭い場所で洋服を脱がなければなら
がわかり,作品の中で何度もこの傘が言及されるのも納得がい
ないのかと考えている。すると,祖母はすでに頭からボンネッ
く。祖母からは父との別れ際に見せた動揺した様子がすっかり
トを取って,帽子掛けに掛けている。祖母が帽子をかぶらない
消え,いつものしっかり者の祖母に戻ったようだ。
姿をほとんど見たことのないフェネラには祖母が見知らぬ人の
二人が船室に入ると,青い制服を着た女性の船室係がやって
ように見えてくる。祖母は荷物の紐をほどいて,スカーフを取
くる。彼女と祖母との会話から,彼女はすでに祖母とは顔なじ
り出し,頭のまわりに巻く。そして,胴着を脱ぎ,次々に着て
みであることがわかる。そのことから,祖母はピクトンとウェ
いる物を脱いでいく。フェネラも祖母にならって,上着やスカ
リントンを船で何度か行き来しているということが推察される。
ートを脱ぎ終わり,フランネルの化粧着を着る頃までには,祖
さらに,フェネラの母はおそらくずっと病に臥せっていて,祖
母はすっかり寝る用意ができている。
母が看病のためにウェリントンに来ていたのではないか,また,
Then she undid her bodice, and something under that,
フェネラの母は病死したのではないかということが察せられる。
and something else underneath that. Then there seemed a
― ” began the stewardess. Then she turned
short, sharp tussle, and grandma flushed faintly. Snip! Snap!
round and took a long, mournful look at grandma’s blackness
She had undone her stays. She breathed a sigh of relief and,
“I hope
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腹部 千代子
研究論文 K.マンスフィールドの「船の旅」小論
sitting on the plush couch, she slowly and carefully pulled off
聞こえてくる。本当に,何もかもがいつもとは異なる様子を見
her elastic-sided boots and stood them side by side.
せている。しかし,慣れた様子でてきぱきと寝る準備をする祖
By the time Fenella had taken off her coat and skirt and
put on her flannel dressing-gown grandma was quite ready. 母は,フェネラにとっては実に心強い存在となっていたことだ
ろう。
いよいよ船がピクトンの港に近づいてきた頃,フェネラが目
(p. 326)
を覚ますと,彼女の頭上の空中で何かが揺れているのを目にす
上 記 の 引 用 の 中 で,“something under that”,“something
る。
else underneath that” と, 畳 み か け る よ う に “something”,
What was it? What could it be? It was a small grey foot.
“under”,“that”が 続 く 部 分, ま た,“a short,sharp tussle”,
“flushed faintly”,“Snip! Snap!”といった頭韻の連続,“slowly
Now another joined it. They seemed to be feeling about for
and carefully”の箇所の “and”を挟んだ副詞の連続によって“-ly”
something; there came a sigh.
が連続されること,“had taken off her coat and skirt and put
“I’m awake, grandma,” said Fenella.
on”の箇所の“and”の連続によって,リズム感が生まれ,調子よ
“Oh, dear, am I near the ladder?” asked grandma. “I
く滑らかに文章が進む。このように,同語や同音の連続によっ
thought it was this end.”
“No, grandma, it’s the other. I’ll put your foot on it. Are
て,祖母がいかにも手馴れた様子で衣服を脱ぎ,寝る準備をし
ていくということが効果的に表現されている。祖母はまた二段
we there?” asked Fenella. (p. 328)
になった寝台の上段に軽々と上がって行って,フェネラを驚か
せる。
“What was it?”と“What could it be?”は,自分の目の前で揺
手際よく寝る準備を整えていく祖母とは異なり,フェネラに
れている物が何なのかわからないフェネラの不安を表している
は,身内を亡くしたことも,父と別れて生活することも,船室
ようだ。目が慣れてくると,それは上の段に寝ている祖母の足
に泊まることも,すべてが初めての経験である。フェネラの方
であり,祖母が寝台から降りようとして足で梯子を探している
は旅慣れず,何をしたらよいのかわからず,祖母のすることを
ことがわかってくる。フェネラは宙ぶらりんになった祖母の足
見ながら真似ていく。
を梯子のところに導いてあげようとする。ここでは祖母を手助
けしてあげようとするフェネラの様子が窺える。
The hard square of brown soap would not lather and
the water in the bottle was like a kind of blue jelly. How
寝台から飛び起きたフェネラが丸い船窓をのぞくと,陸が視
界に入ってくる。彼女は,祖母に陸が見えてきたことを告げる。
hard it was, too, to turn down those stiff sheets; you simply
had to tear your way in. If everything had been different,
“It’s land, grandma,” said Fenella, wonderingly, as though
Fenella might have got the giggles. . . . At last she was
they had been at sea for weeks together. She hugged herself;
inside, and while she lay there panting, there sounded from
she stood on one leg and rubbed it with the toes of the other
above a long, soft whispering, as though someone was gently,
foot; she was trembling. Oh, it had all been so sad lately.
gently rustling among tissue paper to find something. It was
Was it going to change? But all her grandma said was,
grandma saying her prayers. . . . (p. 327)
“Make haste, child. I should leave your nice banana for the
stewardess as you haven’t eaten it.” And Fenella put on her
前にも述べたが,フェネラは小さな箱のような船室に閉じ込
black clothes again and a button sprang off one of her gloves
められたような気がしているが,その中では日常的なことであ
and rolled to where she couldn’t reach it. They went up on
ってもいつもとはまったく違った感じがする。茶色の硬く四角
deck. (p. 328)
い石鹸は泡立ちにくく,ビンの中の水は青いゼリーのようだ。
硬いシーツをめくるのもやりにくい。無理にもぐり込まなけれ
彼女たちの船は午後11時にウェリントンの岸を離れ,夜明け
ばならない。事情が違っていれば,もしかしたらフェネラはく
頃にピクトンに到着するので,彼女たちが船の中にいたのはご
すくすと笑い出すところであったろうが,そうはいかない。寝
く数時間ほどであったろう。しかし,フェネラには何週間も船
台の上の段からは祖母がお祈りをしている静かなささやき声が
に乗っていたかのように感じられる。“Oh,it had all been so
聞こえてくるが,その声はまるで誰かが何かを見つけようとし
sad lately.” という文からは,前夜とは違ってフェネラに少し
て薄葉紙の中を静かにまさぐっているかのような音に聞こえる。
余裕が出てきて,自分の置かれた状況が客観視できてきている
聞き慣れているはずの祖母のお祈りの声もまるで違ったように
ようにも感じ取れる。そして,これからは状況が変わるだろう
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腹部 千代子
研究論文 K.マンスフィールドの「船の旅」小論
かと考える(Was it going to change?)。しかし,祖母は非常に
of round white pebbles they went, with drenched sleeping
現実的で,
「急ぎなさい。食べていなかったからバナナは船室
flowers on either side. Grandma’s delicate white picotees
係の人にあげましょう」とフェネラに言う。フェネラの片方の
were so heavy with dew that they were fallen, but their
手袋からボタンがはじけて飛んでいき,彼女の手の届かないと
sweet smell was part of the cold morning. The blinds were
ころに転がっていく。そのボタンは,これからどういう人生を
down in the little house; they mounted the steps on to the
送っていくのかまったくわからないフェネラの状況を象徴して
veranda. (p. 329)
いるかのようだ。
船室も寒かったが,甲板はもっと寒く,氷のようだった。太
この引用の中では,“little”や“white”という語が目立つ。ま
陽はまだ昇っていなかったけれども,星の光は薄れて,冷たく
た,この部分以外のところでも,“the little cart”(p. 329)や
青白い空は冷たく青白い海と同じ色をしていた。陸上には白い
“the little horse”(p. 329)のように“little”が頻繁に使われている。
霧が上下に動いていた。また,黒い茂みや奇妙な銀色のしおれ
そして,フェネラが通された居間は,“a small dusky sitting-
た木もはっきりと見ることができた。やがて,浮き桟橋,箱の
room”と描かれているが,“small”は上の“little”と同義語である。
蓋にくっついている貝のように固まっている青白い小さな家々
“little”や“white”と形容された世界はおそらくフェネラに安心
も見えてくる。一日の始まり,新しい人生の始まりを予期させ
感を与えたであろう。作品の冒頭ではウェリントンの旧桟橋が
る夜明けの世界が彼らを出迎えるのである。
巨大な暗闇に包まれていたが,それに対して,“little”や “small”
と形容された世界はフェネラの身の丈に合った世界であり,さ
Ⅳ.夜明けの世界
らに“white”は暗闇と喪からの解放を表す。また,祖母はフェ
いよいよ船が陸に近づくと,浮き桟橋が船の方へ迎えに出て
ネラを居間にそっと(“gently”)押していくが,その副詞からも
くる。ロープの輪を持っている男や,首をうな垂れている小さ
フェネラに対する優しさが感じ取れる。巨大な闇に包まれた不
な馬が引く馬車や,馬車のステップに腰を下ろしている男も船
安な世界から,優しさに包まれた安心できる世界にフェネラが
の方にやって来る。その男は祖母とフェネラを迎えに来たペン
導かれてきたことがわかる。
レディ氏(Mr. Penreddy)であることがわかり,祖母は喜んで
祖母が祖父に“Walter!”と声をかけると,即座に“Is that you,
いるようだった。フェネラは祖母の後について桟橋を降り,ペ
「メアリー,
お前かい?」
)
(p. 329)と応える祖父の「半
Mary?”(
ンレディ氏の小さな馬車に乗り込み,祖父の待つ家に向かう。
ばこもったように響く深い声」
(“a deep voice that sounded
half stifled”, p. 329)が聞こえてくる。フェネラは祖父の姿を見
The hooves of the little horse drummed over the wooden
る前に,祖父の声を聞くのである。祖父と祖母はお互いの姿を
piles, then sank softly into the sandy road. Not a soul was
見ないうちから互いに声をかけ合う。この二人の声のかけ合い
to be seen; there was not even a feather of smoke. The mist
もまたおそらくフェネラに安心感を与えたのではないだろうか。
rose and fell and the sea still sounded asleep as slowly it
さらに,その居間の中は次のように描写されている。
turned on the beach. (p. 329)
On the table a white cat, that had been folded up like a
彼らが降り立ったピクトンの陸地は早朝であるためか,まだ
camel, rose, stretched itself, yawned, and then sprang on to
人の姿も家々の煙突から出てくる煙さえも見えない。海さえ
the tips of its toes. Fenella buried one cold little hand in the
もまだ眠っているように見える。すべてがまだ目覚めていず,
white, warm fur, and smiled timidly while she stroked and
静けさに包まれている。上の引用の中には,“sank”,“softly”,
listened to grandma’s gentle voice and the rolling tones of
“sandy”,“soul”,“seen”,“smoke”,“sea”,“still”,“sounded”,
grandpa. (p. 330)
“slowly”と[s]の子音で始まる語が数多く使われている。[s]の音
は静かで穏やかな音感覚を持っているから,すべてが静けさに
ここでもまた,“white”と“little”という形容詞が多く使われて
包まれている様子がまさに言語によっても裏打ちされている。
いる。また,p. 329の引用にも出てくる“cold”が再び顔を出す。
ついに,小さな馬に引かれた小さな馬車が祖父の待つ家に到
この場面では,フェネラが冷たくなった片方の手を白い猫の温
着する。その家は“one of the shell-like houses”と表現されてい
かい毛並みの中に埋めて,毛をなでながら,祖母の「優しい声」
(“gentle voice”)と祖父の「よく響く声」(“the rolling tones”)
る。
を聞きながら,遠慮がちに微笑んでいる。祖父母たちの声は,
Fenella put her hand on the gate, and the big, trembling
dew-drops soaked through her glove-tips. Up a little path
彼らがこれからフェネラを優しく包んでくれるのではないかと
いう期待を持たせる。
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腹部 千代子
研究論文 K.マンスフィールドの「船の旅」小論
やがて,船がピクトンに到着すると,夜が明け始め,空も海
祖母に促されてフェネラは祖父の寝ている部屋に入る。
も青白い色を呈している。陸上には白い霧が高く,低くたなび
There, lying to one side of an immense bed, lay grandpa.
き,青白く小さな家々は箱の蓋にくっついているような貝のよ
Just his head with a white tuft and his rosy face and long
うに固まって見える。船出前の,大きな暗黒の世界から,一転
silver bead showed over the quilt. He was like a very old,
して,フェネラたちは薄明かりの世界,明の世界に入っていく。
wide-awake bird. (p. 330)
“small”や“white”という語が頻繁に使われているところからも,
フェネラにとって恐怖感のない,安心して過ごせる安全な世界
祖父はとても年老いた,すっかり目を覚ました鳥のようだっ
を表していると考えられよう。祖父の家に到着したフェネラに
たが,ここでも“white”という形容詞が使われている。そして,
は初めて微笑が戻り,彼に会ったフェネラは,彼が自分にウイ
フェネラが祖父にキスをすると,彼女は祖父に,“Her little
ンクをしたのだと思うほどである。船の旅は,フェネラを暗黒
nose is as cold as a button.”と言われてしまう。船の中でフェ
の世界から連れ去り,明の世界へと導いていったのである。そ
ネラの手袋についていたボタンがはじけて飛んでいき彼女の手
して,その旅は,また,母を亡くし,父と二人だけになってし
の届かないところに転がっていってしまったという場面があっ
まったフェネラを,父方の祖父母の元へと導き,彼らの庇護の
たが,上記の祖父の言葉からは,行方知れずになっていたボタ
元で安心して過ごすことができるだろうという希望を抱かせて,
ンがまるで祖父に拾われてフェネラの元に戻って来たかのよう
物語が閉じる。
に感じられる。フェネラは再び微笑み,祖父のベッドの手擦
旅の間中,フェネラは祖母に頼まれて,ずっと白鳥の首のつ
りに白鳥の首のついた祖母の傘を掛ける。祖父は,“his white
いた祖母の傘を守り続け,無事に祖父のベッドの手擦りに立て
tuft”をくしゃくしゃにして,フェネラをとても愉快そうに見つ
かけて,その役割をきちんと果たす。「非常に年老いて,すっ
めたので,彼女は彼が自分にウインクしたのだと思うほどであ
かり目を覚ました鳥のようだ」と描写された祖父が鳥のイメー
った。祖父のベッドが “an immense bed”(大きなベッド)と表
ジで捉えられるのであれば,祖父の横たわる大きなベッドは鳥
現されているが,この言葉からは祖父の包容力がイメージされ
の巣と見なされ,祖母の傘についた白鳥は,親鳥の待つ巣に戻
る。
ってきたことになる。フェネラはずっと祖母の傘を守り続けて
いたのであるが,そのことはまた,フェネラが祖父の分身にず
Ⅴ.終わりに
っと守られていたと考えることも可能であり,結局のところ,
「船の旅」の作品を,船出前のウェリントンの旧桟橋の情景,
フェネラは旅の間もずっと祖母だけではなく,祖父にも守られ
船中,そして,旅が終わってピクトンの祖父母の家に到着した
ていたと見なすこともできるだろう。彼らの名字が“Crane”(鶴)
場面の三つに分けてそれぞれの情景とフェネラの内面世界を考
であることも鳥のイメージと強い結びつきがあることがわかる。
察してきた。
意味は異なるが冒頭にも“crane”(起重機)という語が出ている。
船の旅が始まる前のウェリントンの旧桟橋は,暗闇が支配し,
「船の旅」の作品の中での中心核となるのは,特に船室の中
すべてが暗黒の塊で彫って作られたように見える。ランタンが
でのフェネラと祖母との,守られる者と守る者との関係である。
ぶら下がっていても,おどおどした震える光を広げるのを恐れ
父との別れの際には涙を見せ,動揺した祖母であったが,船が
ているかのように思われ,そのような闇の中を人々が急ぎ足で
出帆した後の船室の中では,もはや涙を見せることはない。フ
船に向かっていく。その情景は切迫感や緊迫感を表すとともに,
ェネラをしっかりと守ろうとする気丈さを持ち,狭い箱のよう
母を亡くしたフェネラの内面の大きな不安を象徴している。フ
な船室の中で戸惑っているフェネラを元気づける。船旅と言っ
ェネラの父との別れの場面では,祖母でさえもすすり泣き,フ
ても一晩だけの,おそらく数時間足らずの短い旅である。が,
ェネラは自分の今後の人生に対してなお一層心細く感じる。そ
この短い時間の中でフェネラと祖母はなおいっそう心の結びつ
して,いよいよ船が向きを変えて,ピクトンに向けて出帆する
きを強くしたのではないだろうか。
と,父の姿も町の情景もすべて暗闇の中に包み込まれるように
この船中での場面は,ウェリントンの暗黒の世界からピクト
消えていく。
ンの明の世界への橋渡しの役割を果たす。船に乗り,海を渡っ
船が港を出た後に祖母のところに戻ったフェネラは,祖母が
て一つの陸からもう一つの陸へと移動する中で,祖母がフェネ
落ち着きを取り戻したのを見て安心する。船室に入った後,フ
ラの不安を和らげ,新しい世界に向かう心の準備をさせるので
ェネラはまるで小さな箱の中に祖母と一緒に閉じ込められたよ
ある。 うに感じるが,祖母は,きびきびとした様子で寝支度を始め,
作品の冒頭の第一文,“The Picton boat was due to leave
船旅に慣れないフェネラにいろいろと指図を与え,また安心感
at half-past eleven.”は,時間に支配される人間世界,あるい
をも与える。
は,人間の感情にはおかまいなしに情け容赦なく進んでいく
― 75 ―
腹部 千代子
研究論文 K.マンスフィールドの「船の旅」小論
現実世界を象徴している。一方,作品の最後の頃に出てくる,
祖父のベッドの上に掛けられた黒い額縁の中の格言,“Lost!
One Golden Hour / Set with Sixty Diamond Minutes. / No
Reward Is Offered / For It Is Gone For Ever!”(p. 330)
(失わ
れたり!かけがえのない黄金の一時間 / 60のダイアモンドが
1分ごとに散りばめられている / どんな謝礼も与えられない /
1時間という遺失物は永久に所有者の元に戻ってはこないのだ
から)は,時間の大切さを教えている。「時間はどんどん過ぎ
ていき,決して戻ってくることはない。一分一秒でも無駄にし
てはいけないのだ」という祖母の大切な教えである。主人公の
フェネラは母を亡くし,父と別れて,これからはしばらくの間
祖父母と暮らさなければならない。予期せぬ不幸が襲ってきた
わけだが,それでも,時間は人間の状況にかかわらず否応なし
にどんどん過ぎていく。自分の置かれた苦境に負けることなく,
前向きにしっかりと生きていくことが大切なのだということを,
この祖母の格言は教えているのではないだろうか。巨大な暗闇
の世界の描写から始まるこの作品は,主人公の少女フェネラが
祖母との船の旅によって,祖父母の住む優しさに包まれた世界
注
引用作品のテキストには,Collected Short Stories of Katherine Mansfield
(London: Constable,1945)を使用した。本文引用はすべてこれからであり,
頁数は引用に続けて括弧内に示した。
1)Katherine Mansfield,The Katherine Mansfield Notebooks II,ed. by
Margaret Scott(Minneapolis: University of Minnesota Press, 1997)
,
p. 273. 以下のような記述がある:“I don’t know how I may write this
next story. It’s so difficult. But I suppose I shall. The trouble is I am
so infernally cold.”この中の“this next story”は,“The Voyage”の作品
のことである。
2)J ulie Kennedy,Katherine Mansfield in Picton(Auckland: Cape
Catley Ltd., 2000),p. 30.
3)Antony Alpers,The Life of Katherine Mansfield(Oxford: Oxford
University Press, 1980),p. 339.
4)Katherine Mansfield,The Collected Letters of Katherine Mansfield,
Vol.4,ed. by Vincent O’Sullivan and Margaret Scott(Oxford:
Clarendon Press, 1996),p. 253.
5)Katherine Mansfield,The Collected Letters of Katherine Mansfield
Vol.5,ed. by Vincent O’Sullivan and Margaret Scott(Oxford:
Oxford University Press, 2008),p. 101.
6)
『地球の歩き方 ― ニュージーランド2008~2009年度版』(株式会社ダイ
ヤモンド・ビッグ社,2007年),p. 116.
7)Julie Kennedy,p.1.
参考文献
に導かれてきたところで閉じられる。それはまさに明るい未来
へと歩き始めたフェネラの新しい人生を象徴するものだろう。
C.A. Hankin,Katherine Mansfield and Her Confessional Stories(New
York: St. Martin’s Press,1983),pp. 214-216.
冨塚博之「『船の旅』に見られる暗闇と光の意味」(南半球評論21,2005)
.
吉野啓子『キャサリン・マンスフィールド作品の醍醐味』(朝日出版社,
2009).
― 76 ―
聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 77-83(2012)
1960 年代ネパールにおける教育制度改革の背景と特徴
- NNEPC および ARNEC の教育制度構想における国民概念を比較して-
中村 裕
The backgrounds and characteristics of the reform of education system in Nepal in 1960's :
Comparing the educational plans of NNEPC and ARNEC
NAKAMURA, Yutaka
要 旨
本研究の目的は,1960 年代のネパールにおける教育制度改革の背景と特徴を,ARNEC 報告書(1961)を対象
にして,特に,NNEPC 報告書(1955)における教育制度構想の国民概念と,ARNEC のそれの比較を通じて,明
らかにすることである。
王政復古後のネパールにおいて,国民意識に乏しい民衆を,国家における共通のコードや規範を身に付けた「ネ
パール国民」として育成し統合することは,国家開発における重要課題であり,教育制度は,国民統合の主要な
担い手として構想された。このような国民教育制度の構築は,1962 年の憲法が,国王への忠誠や,国語のほか多
様な国家の象徴を初めて明文化していることから,主として 1960 年代に具体化したと考えられている。
NNEPC は,王政復古後の政治的混乱の中で任命された。同委員会の教育計画は,「普遍的教育の実現」,「民衆
のニーズに応じた教育の提供」という教育理念に基づいた,総合的な教育制度創設の構想である。同計画におい
て想定されているネパール国民とは,自らと家族の生計を立てるに足る知識や技能を有する「職業人」の側面が強い。
ARNEC は,国王親政体制が発足し,パンチャーヤト民主主義が標榜される状況において任命された。同委員
会の教育改革案は,新しい政治体制はもとより,一部を除いて,ネパールの宗教,文化,伝統,歴史,民族など
との関連に乏しく,基本的には,NNEPC の教育制度構想を踏襲している。同改革案において育成が目指されるネ
パール国民像においても,ネパール語能力をのぞいて,彼らが保持すべきネパールのナショナル・アイデンティティ
は明示されていない。すなわち,教育制度を通じた国民統合は,ARNEC 以後の教育計画・政策に基づいて進捗
したと推測できる。
なお,ARNEC は,サンスクリット教育の導入については強く提言した。特に,中等教育におけるサンスクリッ
ト専攻の設置は,1970 年代以後の教育制度改革にも直接の影響を与えたという意味で,ネパール教育史上におい
て重要な意味を持つ。
はじめに
しかし,近年のネパール教育研究の成果をより意義あるもの
本 研 究 の 目 的 は,1960年 代 の ネ パ ー ル 王 国(Kingdom of
とするためには,まず教育問題をめぐる同国の現状について深
*1
Nepal. 以 下, ネ パ ー ル )
における教育制度改革の背景と
く理解すること,具体的には,ネパールという国家の文脈にお
特 徴 を,1961年 の「 国 家 教 育 審 議 会 」(All-Round National
ける当該問題の背景を探究し,教育計画や政策の歴史的展開を
Education Committee. ARNEC)の報告書を対象にして,特
解明することが求められる。この解明において有効であるのは,
に1950年代における「ネパール国家教育計画委員会」
(Nepal
近年の教育計画に直接関係しつつ,遡行し得る最前の時期以後
National Education Planning Commission. NNEPC)の教育制
の教育計画および政策に注目し,その特徴や現代に至る展開を
度構想における国民概念と,ARNECのそれの比較を通じて,
明らかにすることである。そこで本研究は,冒頭の目的を設定
明らかにすることである。
した。
ネパールは,小国ながら希有な特徴を有し,様々な研究領域
1960年代に注目する理由は,第一に,1950年代については,
において内外の研究者の注目を集めてきた。近年では,ネパー
既に中村(2012a, 2012b)など別稿における追究を通じて,教育
ルが,多様な教育問題を抱え,さらに,多文化,多民族,多言
開発過程の一端を明らかにしつつあるからである。すなわち,
語,多宗教など教育に係る主要トピックをはらむことから,教
これらの成果をもとに,より後の年代におけるネパール教育史
育学においても,現在の同国を対象とする成果が増加しつつあ
を解明することが,現在求められている研究上の課題である。
る。他方で,同国の特異な教育の開発過程について,歴史を遡
第二に,本文で述べるとおり,1960年代は,ネパールの教育開
り直接解明しようとする試みは,必ずしも多くなされていない
発が本格化し,教育行政組織や教育法規が整備され,「国際連
(中村, 2012a, p.9)。
合教育科学文化機関」
(United Nations Educational, Scientific
聖徳大学短期大学部保育科・講師
― 77 ―
中村 裕
研究論文 1960 年代ネパールにおける教育制度改革
and Cultural Organization. UNESCO)調査団を複数回にわた
による暫定内閣が成立し,一時的な国内統治の組織と機能を定
って受け入れるなど,ネパール教育史においてきわめて重要な
める暫定統治法(The Interim Government of Nepal Act)が公
時期であるからである。
布されてもなお,各地で強盗団が跋扈し暴徒が武装蜂起するな
また,NNEPCおよびARNECの教育制度構想における国民
ど,国内の治安は悪化の一途をたどる。こうした状況に対して,
概念を比較する理由は,第一に,両委員会報告書がそれぞれの
各政党は無力であったのみならず,内外の抗争を繰り返して国
年代における主要な教育計画文書であるからである。さらに,
内の安定化に失敗したため民衆の支持を失った。
NNEPCとARNECの成立背景に鑑みれば(本文参照),両委員
このように,反ラナ体制という旗幟を喪失したことによっ
会の構想における類似点と相違点の比較は,両委員会による教
て分裂した政治集団が,自らの利益をしばしば過激な手段で
育計画の重要性とともに,1960年代以後の,「ネパールの文脈
主張して混乱に拍車を掛ける中で,Tribhuvan国王(1906-1955,
に沿った」教育開発についてより深く理解する端緒たり得る。
在位1911-1955)は,国軍と接近して権力を伸長させる。同王
第二に,ネパールの教育の歴史的展開を追究する上で,王政復
は,1952年8月に自らの助言機関である顧問委員会(Advisory
古後の教育開発が国民教育制度創設の試みであったという視点
Committee)を組織して親政を開始し,さらに,新法の制定な
を欠くことはできないからである(中村, 2012a, pp.9-10)
。また,
どによりさらなる王権の拡大を志向した。これは,ラナ専政打
NNEPCとARNECの報告書の範囲は広く,特に前者は長大で
倒と新体制樹立において利害の一致をみた,国王とネパール会
あるため,本論文では,両委員会の教育制度構想における国民
議派の協力関係の終焉を告げ,国王を軸とするネパール政治史
概念に限定して,両者を比較する。
の幕を開く象徴的な出来事であった。
先行研究に関して,前述のように,王政復古後に限っても,
ただし,顧問委員会による政治が充分に機能せず,また,自
ネパールにおける教育の歴史追究そのものが寡少である。欧米
身の健康も悪化したため,国王は,1953年8月に組閣を宣言し
の文化人類学や政治学においては,教育を通じた国民統合とい
て政党政治を復活させた。しかし,国内の政治的混乱がかえっ
うネパールの試みが研究者の注目を集め,王政復古以後,とり
て激化したため,国王は,暫定統治法の改正により王権を増強
*2
わけ1960年代の教育開発がその嚆矢であるとも見なされるが ,
しつつ,内閣を改組し,また政党間の対立を調停して事態の収
当該年代の教育計画や政策等と国民統合について直接追究した
束を図った。こうした方策も充分な成果を上げられず,反政府
成果は少ない 。
運動や暴動が続発する中で完全に機能を失った内閣は,1955年
以下では,まず,王政復古前後のネパールの政治状況を確認
3月に総辞職した。なお,同月にTribhuvan国王は療養先のス
した後,中村(2011)などに基づき,NNEPC任命の背景やその
イスで客死し,その全権は生前にMahendra皇太子(1920-1972)
教育制度構想の概要について簡潔に整理することで,1950年代
に移譲されている。
*3
における教育開発の背景と特徴を明らかにする。次に,1950
年代末から1960年代初めの政治動向を踏まえて,ARNEC任命
2 教育行政組織の整備とNNEPCの任命
の背景を確認し,同委員会の教育制度構想の骨子を,NNEPC
王政復古後の教育行政における最初にして最大の変革は,ネ
のそれとの比較を通じて明らかにする。その後,NNEPCと
パール最初の教育に係る独立専門部局である教育省の創設であ
ARNECの教育制度構想を,特に両者の国民概念を中心に比較
る(1951)
。しかし,1950年代において,教育相は少なからず
し,ARNEC構想の特徴をより明確化する。最後に,1960年代
他の省庁大臣との兼任ポストであり,また,前節のごとき不安
におけるネパールの教育開発をめぐる状況を再確認しつつ,今
定な政治状況によって教育相が頻繁に交替したばかりか,教育
後の課題を述べる。
相あるいは教育担当の顧問委員が置かれぬこともしばしばであ
った。さらに,暫定統治法の度重なる改正によって,教育省の
Ⅰ 1950 年代における教育開発の背景と特徴
位置や機能,教育相の職責も頻繁に変更された。
1 政党政治の混乱と王権の拡大
このように,王政復古直後において,教育省が国家の教育の
ネパールでは,シャハ(Shah)王朝の祖らにより,18世紀後
管理運営機関として機能していなかったため,政府は,総合
半までにほぼ現在の版図が獲得されたが,間もなく王宮内の抗
的な教育制度の構築のために,1952年に教育評議会(Board of
争が王権の弱体化と廷臣の専横を招く。そして,19世紀半ばに
Education)を任命している。同評議会は,1953年に,教育相
は,ラナ(Rana)家が,国内の混乱に乗じて国権を掌握し,国
および対ネパール「アメリカ合衆国援助事業使節団」
(United
王を名目的君主として戴く間接的な専制政治体制を確立した。
States Operation Mission)と会合し,同会合において,ネパー
このラナ体制は,インドにおける独立運動の影響などにより弱
ルの教育状況の調査と,国家の教育開発に向けた提言を行う特
体化し,1951年に打倒され,いわゆる王政復古が達成される。
別委員会の設置が勧告された。この特別委員会が,1950年代の
しかし,政党ネパール会議派(Nepali Congress)とラナ政府
教育開発計画を主導したNNEPCである。
― 78 ―
中村 裕
研究論文 1960 年代ネパールにおける教育制度改革
3 NNEPCの教育制度構想の概要
総選挙を実施する旨を宣言した。さらに,国王と主要政党は,
NNEPCは,およそ1年間の活動の後,1955年3月に報告書
内閣の組織等について協議を重ねたが,これは不調に終わる。
を政府へ提出した。同報告書は,当時の教育事象の現況調査
そのため,Mahendra国王は,1956年1月以後,政党指導者
(第1編)と,多様な教育段階や領域におよぶ教育計画群(第2
に組閣を命じるも,ネパール会議派の倒閣運動や,閣僚と中央
*4
編)から構成される 。NNEPC報告書,とりわけこの第2編は,
省庁職員との確執などによって短命政権が続く。さらに,超政
各教育段階および領域の単独計画の集成ではなく,「普遍的教
党連合組織である民主戦線
(Democratic Front)
を中心とした反
育の実現」,「民衆のニーズに応じた教育の提供」という教育理
政府・国王運動が一層激化したため,危機に陥ったMahendra
念に基づく総合的な教育制度創設の構想であり,1950年代の同
国王は,1957年11月に内閣を突然解散して国王親政を宣言した。
国における教育開発の指針となった。
しかし,この国王親政の再開に対する非暴力不服従運動が各地
その主な特徴は,①複線型学校体系から単線型学校体系への
に波及し,国内情勢がさらに悪化するにおよんで,国王は,翌
移行,②5年制の国民学校(national school)による職業教育を
12月に総選挙の実施を布告せざるを得なくなり,1958年2月に
重視した初等教育の導入,③5年制多目的ハイスクールによる
は選挙管理委員会を組織し,また同3月には憲法起草委員会を
コア科目を中心とした中等教育の提供,④総合大学の創設と高
結成して混乱の収拾を図った。そして,総選挙の目的や方法を
等教育制度の整備,⑤成人識字プログラムの迅速かつ広範な実
めぐる紛糾がありながらも,1959年2月にMahendra国王が新
施,⑥多数の初等学校教員の即時養成,⑦教具・教材の開発お
憲法の発布と暫定統治法の廃止を宣言し,2月から4月にかけ
よび出版機関の設置,⑧地方コミュニティによる初等中等学校
てネパール史上初の総選挙が挙行された。ここに,ネパールの
の運営,⑨校地,校舎,設備および備品などの教育環境の整備,
王制復古以後における政治発展の第一段階は終わりを告げたの
⑩教育関連法令の制定,⑪初等中等教育におけるネパール語の
である。
教授用語化などである。
しかし,総選挙の結果を受けた内閣が5月に誕生した後も,
このうち,NNEPCの教育計画の双輪は,民衆への迅速な教
反政府運動や独立運動が頻発するなど不安定な国内状況は続い
育普及を目的とした初等教育・成人教育・教員養成計画と,大
た。こうした中,1960年12月に,国王が国軍を動員して,閣僚,
学の創設を基盤とする高等教育計画である。
政党の党首,幹部,活動家を一斉に逮捕した,いわゆる「王室
初等教育・成人教育・教員養成計画は,初等学校とその教員が,
クーデター」が勃発する。国王は,
さらに,
非常事態を宣言して,
周辺の人的物的資源を有効に活用しながら,成人教育など各村
内閣を解任し議会を解散するとともに,憲法のほとんどの条項
落における教育事業の中心として活動しコミュニティ改善にも
を停止し,国家の全権を掌握して親政を再開した。また,反国
貢献するという,言わば「村落教育制度」の構想であり,相互
王運動や武力闘争が開始される中,国王は,翌年初めには政党
に連関している。この村落教育制度は,普遍的教育の実現とい
の禁止や,「パンチャーヤト民主主義」の導入を宣言し,行政
う理想とともに,初等教育が大多数の民衆にとって最後の学校
区画の再編も行った。そして,1962年12月には,強大な王権や,
教育の機会であるという現状認識のもとで,民衆のニーズに応
パンチャーヤト体制*5,政党活動の禁止などを明記した新憲法
じた教育を提供しつつ,彼らをネパール国民として育成するも
を公布したのである。
ので,NNEPCの教育制度構想の根幹である。
この憲法は,言うまでもなく国王親政およびパンチャーヤト
他方で,高等教育計画については,NNEPC報告書において,
体制の法制化であり,1959年憲法が国王に全権を集めながらも
大学の創設と高等教育制度の構築および整備が全体計画におけ
その一定の抑制条項を含んでいたのに対して,国権の源泉であ
る優先事項と表明されている。しかし,高等教育は,初等教育
り行使者である国王の絶対性不可侵性をより強めた内容となっ
や成人教育と異なり,民衆に広くそして直接関わる教育とは見
ている。国民統合の観点からは,国王に対する願望や,忠誠と
なされておらず,その他の教育段階ないし領域の計画と必ずし
いう絆に結ばれた「国民」
(第2条)
,
「独立,不可分,主権的,
も深く連関していない。
君主制ヒンドゥー国家」としての「国家」
(第3条)
「国語」で
,
あるネパール語(第4条)の定めとともに,国旗,国歌,国花,
Ⅱ ARNEC 任命の背景とその教育制度構想
国色,国獣,国鳥など多様な国家の象徴の明文化など,それま
1 総選挙の実施と「王室クーデター」
での国内最高法に比べて,ネパールのナショナル・アイデンテ
Mahendra新国王(在位1955-1972)は,即位後まもなく,王
ィティを公定し,より強調している点に,新憲法の特徴がある*6。
室顧問会議を設置して国王による直接統治体制の構築を試みた。
しかし,王室顧問会議や国王の直接統治がほとんどの政党から
2 1950年代における教育開発の成果とARNEC任命の背景
強硬な反対を受けたことから,国王は1955年6月に同会議を解
1950年代中葉から1960年代初めにおけるネパールの国家開発
散し,また,同8月には議会制民主主義体制を樹立するために
は,社会資本の整備や村落開発,農業の発展に焦点を当てた第
― 79 ―
中村 裕
研究論文 1960 年代ネパールにおける教育制度改革
1次5か年計画(1956-1961)のもとで進められた。教育は,同
2領域から構成される3年間の前期中等教育,④4領域から成
計画における重点開発対象とは位置付けられていないが,同時
る3年間の後期中等教育,⑤継続的な成人識字プログラムを重
に,独立した計画(教育5か年計画)のもとで開発が行われた
視した社会教育,⑥初等中等学校教員の即時養成,⑦教具・教
特異な領域でもあった。この教育5か年計画は,教育委員会
材の開発および出版機関の設置,⑧初等中等教育におけるネパ
構想など一部を除いて ,NNEPC報告書の要点をほぼ採納し,
ール語の教授用語化,⑨すべての高等教育施設在籍者による地
若干の修正や補足をしつつ開発コストを算定したものであった。
方等でのサービス活動などである。
すなわち,1950年代のネパールの教育開発は,事実上NNEPC
これらの多くは,概観して明らかなように,数点を除いて
の教育制度構想に基づき計画され,実施が試みられたと考えて
NNEPCの教育制度構想に近似している。それは,教育および
良い。
民衆の現況認識について,ARNECが,基本的にはNNEPCの
*7
第1次5か年計画期間中において,教育は,学校数や在学者
それを踏襲しているからであろう。たとえば,ARNECが初等
数など,数量的には急速に拡大した 。たとえば,初等教育に
教育修了資格の授与を勧告したのは,当該教育が大多数の男女
ついては,1951年に321校,8,970人,0.9%であった学校数,在
にとって最後の学校教育の機会であるという,NNEPCと同様
学者数および在学率は,1961年においてそれぞれ4,001校,約
の現状把握に基づく(MoE, 1961, p.17)
。他方で,NNEPCの構
18万人,15.8%に達している(MoE, 1971, p.3)。また,高等教
想とARNECの改革案において明確な差異も存在する。
育に関しては,NNEPCはその抑制を勧告していたものの,カ
そ の 差 異 は, ま ず, 中 等 教 育 の 構 成 で あ る。 す な わ ち,
レッジや在学者数が急増し,1959年には,大学法が制定さ
NNEPCが中等教育学校として5年制の多目的ハイスクールを
れネパール最初の大学であるトリブヴァン大学(Tribhuvan
提案したのに対して,ARNECは,3年制の前期中等教育およ
University)が創設された。また,成人教育および教員養成に
び後期中等教育をそれぞれ勧告している。この両者は,多様な
おいても,プログラムの不規則な運営といった問題を抱えつつ,
科目選択の可能性や,職業科目の導入など共通点もあるが,コ
多数の教員を養成し,少なくない民衆(約4.6万人)に識字教育
ア科目ないし共通科目を軸にして職業教育を提供する多目的ハ
ないし技術訓練を提供するなど,これらの開発領域は,数量的
イスクールと比較して,ARNECが構想した中等教育は,カレ
*8
拡大という意味では,むしろ目標を上回る結果を残している 。
ッジ準備教育の性格が強く,NNEPCが批判した従来のそれと
他方で,既存学校から新式学校への移行,学校体系の統一,
大きく異なるものではない(中村, 2007, p.60)
。
新カリキュラムの導入,成人教育における省庁等関係機関の協
ARNECの 教 育 改 革 案 とNNEPCの 教 育 制 度 構 想 に お け
同,大学による高等教育施設の監督運営など,これらの領域に
る差異としては,サンスクリット教育の奨励も挙げられる。
おけるNNEPCの教育計画の眼目は,充分に実施されることは
NNEPCは,英学学校やサンスクリット学校など*10,多様な学
なかった。
校の並存状況を批判して,単一の学校および教育制度の構築
このように,王室クーデターにともない新体制が発足した時
を提言した。同委員会の構想では,サンスクリット語の学習
点において,教育は,NNEPCの教育制度構想から乖離しつつ,
は,初等学校においては提供されず,多目的ハイスクールにお
学校や在学者数が秩序なく急増する状況にあった。政府は,数
いて初めて選択可能となる位置付けであった。それに対して,
量的には急激に拡大した1950年代の教育開発を総括し,それを
ARNECは,サンスクリット教育が,ネパールの文化および文
踏まえて新しい教育制度を計画し構築するべく,1961年5月に,
明と非常に密接な関係にある故に,特別な優先事項であると言
教育相を長とし,11人の委員から構成されるARNECを任命し
明し,それが正規の教育に含まれ無償で提供されることや,サ
たのである。
ンスクリット教育の学習者に対する奨学金の提供などを提言し
*9
た(MoE, 1961, p.2)
。具体的には,初等学校の第4,5学年次
3 ARNECの教育制度構想の骨子
においてサンスクリット語を選択可能とすることや,中等教育
ARNECは,約2か月の活動の後に,政府へ報告書を提出し
において一般教育専攻とともにサンスクリット教育専攻を設置
た。同報告書は,ネパール教育史を概観した後に,初等教育,
することが提案されたのである。他方で,従来の学校教育にお
中等教育,サンスクリット教育,教員養成,社会教育,社会文
いて大きな位置を占めていた英語の教授について,ARNECは,
化プログラム,高等教育,教育行政について,現況と改革案を
NNEPCと同様に,初等学校におけるそれを明確に否定してい
提示する構成になっている。教育財政や教育法規には,単独の
る(MoE, 1961, p.17)
。
項目こそ設けられていないが,各教育段階・領域において適宜
ARNECは,75郡ないし14県の中心部における幼稚園の設置
言及されている。
や,社会教育を通じた障害者への教授や訓練なども提言して
同委員会の教育改革案の主な特徴は,①複線型から単線型学
いる。就学前教育および障害者教育は,NNEPCは重要性を指
校体系への移行,②職業科目を導入した5年間の初等教育,③
摘しつつも具体的には言及しておらず,ARNECにより初めて,
― 80 ―
中村 裕
研究論文 1960 年代ネパールにおける教育制度改革
王政復古後のネパールにおける教育計画の俎上に載せられたの
の具体的な目標や活動は,民衆の「職業人」としての育成へ傾
であった。なお,教育行政に関して,ARNEC報告書において,
斜している。同様に,
NNEPCの教育制度構想の眼目である「村
郡県数など新しい行政区分は反映されているが,パンチャーヤ
落教育制度」に関して,その担い手である初等学校教員の養成
ト体制に応じた教育行政組織はもとより,新体制に関する記述
についても,彼らが村落の教育的市民的指導者として,ネパー
そのものを確認できない。
ル国民の範型としての能力を身に付けることが提言されつつも,
具体的な養成プログラムは,
「職業人」としての教員養成が強
く意識された内容となっている(中村, 2012a, pp.13-15)。
Ⅲ NNEPC および ARNEC の教育制度構想におけ
る国民概念
他方で,ネパールにおける教育を通じた国民統合を追究す
る上で,きわめて重要な意味を持つのが,ネパール語の教授
1 NNEPCによる「職業人」育成の重視とネパール語の教授
用語化
用語化である。NNEPCは,1959年および1962年憲法において
ネパール語が国語として規定される以前に,すでにネパール語
王政復古以後のネパールにおいて,国民意識に乏しい民衆
能力をネパール国民の要件と事実上想定していた。たとえば,
を,国家における共通のコードや規範を身に付けた「ネパール
NNEPCは,初等学校カリキュラム案の言語領域において,第1,
国民」として育成し統合することは,国家開発における重要課
2学年における地方語使用を認めつつも,原則としてネパール
題であり,教育制度は,国民統合の主要な担い手として構想さ
語を学校における唯一の教授用語および学習言語とすることを
れた。このような国民教育制度の構築は,前述の1962年憲法が,
強調した(Pandeyほか, 1956, p.96)。これは,ネパール語の教
国王への忠誠や,国語のほか多様な国家の象徴を初めて明文化
授用語化が,効率的な教育普及や効果的な学習,および,国民
していることから,主として1960年代に具体化したと考えられ
統合を推進する方途と考えられたからである。このネパール語
ている(註2参照)。
の教授用語化は,成人教育計画や教員養成計画においても,ヒ
確かに,1950年代のネパールでは,不安定な国内の状況に
ンディー語などへの一定の配慮はありながらも,確認すること
より,憲法の制定が遅延し法規の整備も進捗せず,それ故
ができる。
に,育成すべき「ネパール国民」の定義は必ずしも明確では
ない。しかし,中村(2012a)で明らかにしたように,NNEPC
2 ARNECによる国民の「習性」と,その中立性
は,教育制度の建設において独自の国民像を想定しており,か
ARNECが任命されたのは,王室クーデターに伴う国王親政
つ,NNEPC報告書が当時の教育制度構想の基軸である故に,
の開始直後である。ただし,
すでに言及したように,
その提言は,
NNEPCによって提示された国民像は,1950年代のネパールの
新体制に応じた教育制度の再編というよりは,NNEPCの教育
教育計画における国民概念の特徴を,最も端的かつ適切に示し
制度構想を継承しつつ修正を加えたものであり,Joshi(2003)
においても,その報告書が政治的に中立であると評されている
ていると考えて良いであろう。
すなわち,NNEPCの教育制度構想の基本目標にて想定され
(Joshi, 2003, p.46)
。
る「ネパール国民」とは,国家や地方自治体に投票,納税とい
他方で,任命と活動においてアメリカの強い影響を受けた故
った履行すべき義務や責任を負い,民主主義国家における協同
か,ネパール文化などへの言及が乏しいNNEPCの報告書に対
行為,多数決等の原則を理解するなど国政に適切に参加する
して*11,ARNECの教育改革案では,ネパールという「国家」や,
能力を有する市民(以下,適宜「市民」),また,健康で文化的
その「文化」
,あるいは,
「国王」と教育との関わりが散見され
な生活を営み得る文化的,審美および身体能力を保持する個
る。たとえば,前述のサンスクリット教育の奨励もこの具体例
人(同「文化人」),かつ,自らと家族の生計を立てるに足る知
であるし,ARNECが提示する望ましい「習性」
(habits)にも,
識や技能を有する職業人(同「職業人」)と理解し得る。従って,
これらとの連関を確認できる。
NNEPCが構想する教育制度とは,さらには,当該制度を構築
すなわち,ARNECは,初等中等教育の改革案において,そ
するための教育計画は,窮極的には,ネパールの民衆を,上記
れぞれの目標などに先行して,15の「優れた,必要な習性」を
国民,すなわち,「市民」,「職業人」,「文化人」として育成す
挙げている。これは,初等中等教育によって育成されるべき人
ることを一義的な目標としていると推測できる。
間の範型であり,畢竟,ARNECが想定する国民概念と見なし
しかし,この三つの国民像は,NNEPCが策定した各教育段
得る。その多くは,清潔さ(①)
,協同の精神(②)
,法,政府
階ないし領域計画において必ずしも等しく扱われてはいない。
の指示,社会習慣の尊重(③)
,教員や親など年長者の尊重(④),
たとえば,初等学校のカリキュラム案において重要な位置を占
互助の精神(⑨)など,NNEPCが日々の教育活動を通じて育成
める手工芸(craft)体験では,間接的に「市民」,「文化人」と
すべきとした資質と重複するが,神,国家および国王への充分
しての資質能力の伸長にも触れられてはいるけれども,同体験
な敬意(⑤)
,飲酒の禁止(⑫)などは,ARNECによって初めて
― 81 ―
中村 裕
研究論文 1960 年代ネパールにおける教育制度改革
示された習性である。また,中等教育については,これらの習
遍的教育の実現」
,
「民衆のニーズに応じた教育の提供」という
性に加えて,さらに三つの目標が設定されているが,その第一
教育理念に基づく総合的な教育開発計画を作成した。同計画の
に,国家にとって能力があり有用な市民の育成,第三に,国家
うち,相互に連関する初等教育・成人教育・教員養成計画は,
の財産となるような優れた資質を持つ生徒の育成が挙げられて
いわば「村落教育制度」の構想である。この村落教育制度は,
*12
。
初等教育が大多数の民衆にとって最後の学校教育の機会である
なお,ARNECは,教科書が上記習性の育成に非常に重要で
という現状認識のもとで,民衆のニーズに応じた教育を提供し
あるという認識を示しつつ,教科書の執筆者および出版者が,
つつ,彼らをネパール国民として育成するものである。ここで
可能な限りネパール人であること,また,王国全体において同
想定されているネパール国民とは,自らと家族の生計を立てる
一の教科書を使用することを提言している。特に後者について
に足る知識や技能を有する「職業人」の側面が強い。
は,多様な教具・教材を認め,その適切な選定方法を提案した
ARNECは,国王親政体制の発足直後に任命された。パンチ
NNEPCとは,見解を異にしているといえる。また,ネパール
ャーヤト民主主義が標榜される状況において策定された同委員
語の教授用語化について,NNEPC報告書ではそれが示唆され
会の教育改革案は,しかし,新しい政治体制はもとより,一部
るにとどまっている箇所も散見されるが,ARNECは,教授用
を除いて,ネパールの宗教,文化,伝統,歴史,民族などとの
語について単独項目を設けて,すべての科目における教授用語
関連に乏しく,基本的には,NNEPCの教育制度構想を踏襲し
をネパール語と明言している。ただし,ARNECは,他言語で
た内容となっている。同改革案において育成が目指されるネパ
の教授も許容しており(MoE, 1961, p.17),事実上,第3学年
ール国民像も,ネパールという国家の文脈から設定されるとい
以後における非ネパール語使用を認めていないNNEPCに比べ
うより,
NNEPCが想定する中立的な「市民」の姿に近い。なお,
て,むしろ寛容な立場を示している。
NNEPCが教育制度構想において重点を置いた「職業人」の育
こうした傾向は,政府カリキュラムにおける国家や歴史
成についても,ARNECは,初等学校カリキュラム案に自助自
の扱いに対するARNECの認識にも確認できる。すなわち,
立教育を含めており,NNEPCの構想を継承している。ただし,
ARNECは,1959年の政府カリキュラムがネパールの歴史,宗
NNEPCが中等教育においても「職業人」の育成を重視してい
教,文化規範を含み,それが適正であると述べつつ,それらに
たのに対して,ARNECのそれは,職業教育に必ずしも重点を
加えて,他の宗教や文化における公正な説話もカリキュラムに
置いていない。
含まれるべきと提言している。また,初等中等学校のカリキュ
なお,ARNECは,ネパールという国家やその文化に対して
ラムにおいて,勇士,愛国者,慈善家,王族,偉人,理想的な
比較的中立的な立場を示しながらも,サンスクリット教育の導
女性や子どもなどの伝記を最大限紹介することが肝要であると
入については強く提言した。特に,中等教育におけるサンスク
しているが,これらも,必ずしもネパール人であることを求め
リット専攻の設置は,1970年代以後の教育制度改革にも直接の
ていないのである(MoE, 1961, p.16)。
影響を与えたという意味で,ネパール教育史上において重要な
ARNECが 設 定 し た 上 記 の ご と き ネ パ ー ル 国 民 概 念 は,
意味を持つ。
NNEPCのそれと比較すると,
「市民」としての傾向が強い。で
以上のように,ARNECの教育制度改革案は,その国民概念
は,
NNEPCの教育制度構想において強調された「職業人」とし
も含めて,「王室クーデター」以後の国家体制と強く連関して
ての国民育成について,ARNECはどのような立場をとったか。
いない。一般に,1960年代以後のネパールでは,国王や国家へ
この点について,ARNECが勧告した初等学校カリキュラム
の忠誠や,共通の象徴に基づく国民の紐帯を強調する教育制度
指針が参考になる。すなわち,ARNECは,初等学校カリキュ
を通じて,国民統合が進捗したとされるが,それは,ARNEC
ラムとして,ネパール語,社会学習,科学と衛生,算数,芸術,
以後の教育計画・政策に基づくと推測できる。さらに,ネパー
体育の教科群に加えて,
「自助自立教育」
(Self-reliant education)
ルの教育開発の過程において,1960年代は,教育行政組織の再
を勧告した。これは,学校および家庭の衣食住に係る職業教育
編,教育法規の制定,UNESCO調査団の受け入れなど,熟慮
を提供する教科であり(MoE, 1961, pp.9-17),NNEPCの初等教
と模索の中で教育制度が徐々に整備されていく,重要な時期で
育計画において最も重要であった手工芸領域とほぼ同一内容で
ある。ARNEC報告書における各段階・領域計画の詳細な検討
あると考えて良く,「職業人」としての国民の育成という点で
も含めて,今後の課題としたい。
おり,ともに国家への貢献が意識された内容になっている
NNEPC報告書が後の教育計画および政策に影響を与えた事例
謝辞
として注目できる。
本研究は,科研費(22730676)の助成を受けたものである。
おわりに
王政復古後に任命されたNNEPCは,政治的混乱の中で,
「普
― 82 ―
中村 裕
研究論文 1960 年代ネパールにおける教育制度改革
*1現在のネパール政局はきわめて流動的である。本研究が王政復古期を
主たる論究時期としていること,また,同国の今後の国家再建の前途
が必ずしも明瞭でないことから,本研究において,現在進行中の変化
に沿って今日のネパール像を提示するのは適切ではない。従って,本
研究における「現在のネパール」とは,特に断りがない限り,「王国」
時代のネパールを指すこととする。
【参考文献】
*2Whelpton(1997)では,王政復古以後の教育拡大,とりわけ1960年代
における「標準化された」(standardized)国家規模の教育制度の導入
によって,子どもが自らを国家の一員として理解するような教育が強
力に推進されたと述べられている(Whelpton, 1997, pp.47-48)。
*31960年代のネパールの教育状況について直接言及する成果には,たと
えば,Reedほか(1968)や,Gaige(1975)がある。前者は,1960年代
半ば以後の教育普及に係る問題点とその解決への方途を,特にネパー
ルの文化,地勢,政治,経済,宗教等のトピックに応じて追究してい
る。しかし,1960年代におけるネパールの教育計画および政策,状況
については,表面的な記述にとどまっている。後者は,タライ(Terai/
Terai)地方の特性とその国民統合の過程について,現地調査および豊
富な資史料の読解に基づき論じている。同書は,ネパールにおける国
民統合と教育の関係に関する重要な成果であるが,研究対象地域が限
定されており,国家レベルの教育計画・政策への言及も多くない。
*4NNEPCの教育計画は,独立した章が設けられているものだけでも,
初等教育,中等教育,高等教育,成人教育,教員養成,教具・教材開
発,教育行政と視学,教育財政,教育環境などにおよぶ。
*5国家,県,郡,市町・村落それぞれに地方組織であるパンチャーヤト
を置く制度である。市町・村落パンチャーヤトの成員は国民の直接選
挙によって選出されるが,その他のパンチャーヤトは,直下のそれの
成員によって選出される。
*6国語については,1959年憲法においても,ネパール語がそれであると
定められていた(第70条)。
*7NNEPCの教育委員会構想については,中村(2012b)を参照のこと。
*81950年代の教育開発の成果については,中村(2012a, 2012b)など別稿
を参考のこと。
中村裕(2007).「ネパール・王政復古期における中等教育計画の特徴と帰
結-NNEPCの多目的ハイスクール構想に焦点を当てて-」
関東教
育学会『関東教育学会紀要』第34号 39-62頁.
中村裕(2011).「ネパール・王政復古期における国民教育制度構想の再検
討-NNEPCの教育法規整備計画に焦点を当てて-」 聖徳大学『研
究紀要 短期大学部』第43号 17-23頁.
中村裕(2012a). 「王政復古期ネパールの教育計画における国民概念の特
徴-NNEPCの教育制度構想における国民像に焦点を当てて-」
聖
徳大学『研究紀要 短期大学部』第44号 9-16頁.
中村裕(2012b). 「王政復古期のネパールにおける教育行政制度整備過程
の特徴と帰結-NNEPCの教育行政計画における教育委員会構想に焦
点を当てて-」 日本教育制度学会『教育制度学研究』第19号 212215頁.
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Kathmandu: The Bureau of Publications, College of Education.
College of Education(1959). Six years of educational progress in Nepal.
Kathmandu: The Bureau of Publications, College of Education.
Gaige, Frederick H. (1975). Regionalism and national unity in Nepal.
Berkeley: University of California Press.
Gupta, Anirudha(1964). Politics in Nepal 1950-60. Bombay: Allied
Publications Private Ltd.
Ministry of Education(1961). Report of the Overall National Education
Committee, 2018B.S. Kathmandu: Author.
Ministry of Education(1971).National education system: plan for 197176. Kathmandu: Author.
Joshi, Govinda Prasad(2003). The story of the primary education of
Nepal. Pokhara: Maiya Kumari Joshi.
Joshi, Bhuwan Lal, & Rose Leo E.(1966). Democratic innovations in
Nepal. Berkeley: University of California Press.
*9こうした1950年代における教育の数量的拡大は,ネパールの国家開発
に係る様々な領域から注目されている。たとえば,王政復古後の政治
的変化とその影響について解明した,Joshiほか(1966)では,この時
期における最も重要な近代化の指標として,「主として地方コミュニ
ティのイニシアティブに基づく,国家全体における教育施設の尋常な
らざる増加」が挙げられている(Joshiほか, 1966, pp.511-512)。
Pandey, Rudra Raj, Bahadur K.C., Kaisher, & Wood, Hugh Bernard
(eds.)
(1956). Education in Nepal: report of Nepal National Education
Planning Commission. Kathmandu: The Bureau of Publications,
College of Education.
*10王政復古以前のネパールにおいては,英語教育を含むイギリスの文物
についての教育を提供する英学学校,サンスクリット語による宗教教
義等の学習を提供するサンスクリット学校,インドのベイシック・エ
デュケイション(Basic Education)を実践するベイシック・スクール
など多様な学校が並存していた。NNEPCが新しい初等学校を提案し,
それが設置されて以後も,旧来の学校の並存状態は継続した。
Rose, Saul(1963). Politics in Southern Asia. London: Macmillan & Co
Led.
*11NNEPCの活動におけるアメリカの影響は,たとえば,その教育行政
計画における教育委員会構想から看取できる。教育委員会構想が,教
育5か年計画において事実上撤回されていることからも,同構想がネ
パールの文脈から生起したとは考えにくい(中村, 2012b, p.219)。他方
で,NNEPCの教育制度構想は,例外的なネパール語の教授用語化を
除いては,きわめて「中立的」であり,ネパールの宗教,文化,伝統,
歴史,民族などとの関わりが希薄である。
*12なお,中等教育における第二の目標は,経済生産,輸送,農業,工業,
軍事などの分野に貢献し得る労働者の育成である。
― 83 ―
Reed, Horace B., & Reed, Mary J.(1968).Nepal in transition. Pittsburgh:
University of Pittsburgh Press.
Whelpton, John (1997). Political identity in Nepal. In D.N.Gellner et al.
(eds.), Nationalism and ethnicity in a Hindu Kingdom (pp.39-78).
Amsterdam: Harwood Academic Publishers.
Wood, Hugh Bernard(1965). The Development of education in Nepal.
Washington, D.C.: U.S. Department of Health, Education, and
Welfare, Office of Education.
Wood, Hugh Bernard, & Knall, Bruno(1962). Educational planning in
Nepal and its economic implications. Kathmandu: UNESCO Mission
to Nepal.
聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 85-88(2012)
ミラー式足型計測法の年少児への適用
-その問題点と結果-
櫻木 真智子
The form of plantae in early childhood including three-year-old children
SACRAGI, Machiko
要 旨
直立と歩行などの運動に足の形態は大きくかかわる。そこで足の発達が著しい幼児期において足裏がいかなる
形態をしているのかを調査した。具体的には足裏の写真を分析してその特徴を示した。計測項目は2点間距離と
して足長と足幅,足型形状として足型接地面積と接地面の周囲長である。また,本研究に先立つ一連の研究では
年中児以上の幼児を対象としてきたが,今回は年少児男女 79 名の計測を試み,年中児と年長児のデータを加えて
分析した。年少児は通常の計測に要する数秒間,静止していることが困難で,足型計測の信頼性が心配されたが,
今回の測定時の子どもたちの様子や測定された写真を観察した限りにおいては,問題ないと判断できる。本研究
で採用している計測方法において,年少児の計測は十分に可能であるであることが確認された。
年少児,年中児,年長児のそれぞれについて年齢変化,性差などについて検討した。結果は足のアーチ構造を
示す「接地面積・周囲長比」の値が年中児から年長児の変化よりも年少児から年中児の変化の方が大きくなる傾
向がみられ,アーチ構造の進行が年少児で大きいという結果が得られた。また,この値の性差については女児の
値が男児より小さく,年少児と年中児では有意差がみられた。形態の発育は女児が先行するという結果を得るこ
とができた。
1.緒言
きた。対象者を年中児以上としたのは,同様の研究を踏襲した
ヒトの最大の特徴は直立二足歩行であることは広く知られて
からである。研究対象の選択基準はまず計測に耐えられるかど
いる。足に対する関心は,二足歩行を支える土台であるという
うかということである。年少児は短時間でも静止していること
点でも高くなっている。我々の生活において,立つ,バランス
が難しいので,生体計測的な研究の対象とするには不向きであ
をとる,移動する,物を運ぶなどヒトとして「生きる」ことの
ると思われがちである。しかしながら,本研究において採用し
基本を支える構造のうち重要な一つが,足である。
ているミラー式計測法はデータを取得する時間が100分の1秒
幼児期は一生のうちでもとくに成長・発達が著しい時期であ
から60分の1秒と極めて短く,子どもがじっと静止していなけ
り,身体の形態・運動機能ともに大きな変化をとげる。形態の
ればならない時間は一瞬と呼べるほど短い。それに対して,デ
発育においては,4歳児を例として挙げると,形状の変化と同
ータの取得に数秒を要する他の方式では,その数秒間は子ども
時に体重は出生時の約5倍,身長は出生時の約2倍となる。ま
が静止していることが求められる。これはたしかに年少児には
た,運動機能においても興味深いことが明らかにされている。
難しい。今回は,協力をお願いした園の先生の指示で年少児で
歩く,走る,跳ぶなどの基本的な動作の獲得は幼児期後半まで
も1秒から2秒くらいはじっとしていた。また,測定時の子ど
に成人の約90%にまで達しているとされている。
もたちの様子からも実際に得られた写真データからもとくに問
幼児期の発達の著しさは,足の形態においても例外ではない。
題はなかった。生体計測的研究において,年少児でも計測方法
足の形態の変化は,前述の理由から身体活動のすべての発達を
次第では十分に信頼できるデータを取得することは可能である
知る手がかりとなるものと考えられる。本研究に至る足型に関
ことが確認された。
する一連の研究では,足の形態の一つである床への接地面に着
目して計測・解析の結果,一定の成果を得ることができた。年
2.方法
中児の段階までに,すでに足の形態の発達はかなり運動に適し
幼稚園児の足型を計測し,その形状を分析した。
た状態になっており,足の形態変化の特徴である土踏まずの発
達もこの時期にはすでに進んでいた。
⑴ 対象者
前回までの研究では被験者として,年中児と年長児を対象と
対象者は,千葉県我孫子市にある幼稚園の園児,年少男児37
して足の形態,床への接地面,運動能力などについて報告して
名,年少女児42名,年中男児42名,年中女児34名,年長男児35
聖徳大学短期大学部保育科・准教授
― 85 ―
櫻木 真智子
研究論文 ミラー式足型計測法の年少児への適用
表1 幼児の身体的特徴
月齢
年少
年中
年長
身長(㎝)
体重(㎏)
BMI
平均値
標準偏差
平均値
標準偏差
平均値
標準偏差
平均値
標準偏差
男児(N=37)
49.0
3.93
100.8
4.30
15.3
1.63
15.1
0.91
女児(N=42)
49.5
3.13
  99.7
3.78
15.1
1.98
15.1
1.24
男児(N=42)
56.3
4.22
105.1
4.37
17.2
1.68
15.5
1.10
女児(N=34)
56.1
3.40
103.2
4.39
16.5
2.20
15.4
1.24
男児(N=35)
68.6
3.47
111.3
3.48
18.8
1.61
15.2
1.00
女児(N=27)
67.1
3.08
108.9
4.92
18.7
2.20
15.7
1.30
名,年長女児27名,計217名である。計測日は年中児と年長児
足の下面観を真正面からカメラで撮影するというものである。
が2009年6月,年少児2011年10月である。子どもの身体的特徴
カメラはOLYMPUS社製デジタルカメラ(μ-40)を使用した。
を表1に示した。なお,身長と体重は健康診断時に測定された
子どもには計測器上では自然に立つように指示した。
ものを使用した。
この計測方法,すなわちミラー投影式の利点は何と言っても安
全性である。被験者にいかなる電子機器も近づけずにデータを
⑵ 足型計測方法
取得することが可能だからである。さらに,得られる1次デー
足型計測の方法は,本研究に至る一連の足型研究で採用して
タは被験者の足底面の写真であるため,パターンを取得する他
いる「ミラー投影式」である。計測方法およびその一つであ
の方式に比べて情報量が非常に多いこと,そしてデータ取得に
るこの方法についての詳細は前報告(櫻木2006)に示したので,
かかる時間が極めて短時間なので形態を示すデータとして信頼
ここでは概要を述べるにとどめる。
性が高いことなどが挙げられる。
ミラー投影式の測定方法は次の通りである。前面と後面が開
放している直方体の木箱の上部をくりぬき,透明アクリル版を
⑶ 数値データについて
はめ込む。木箱の中には床面から前方に向かって45度に傾斜さ
データの取得方法についても前回報告と同様である。デ
せた鏡をセットし,透明版の上が鏡に映り,前方から見えるよ
ジタルカメラで得られたデータをAdobe社製ソフトウェア
うにした。子どもにアクリル板上に立ってもらい,鏡に映った
Photoshop Elementsで 読 み 込 み, 画 像 処 理 し た あ と,ACD
図1 足の軸・足長・足幅及び接地面積と接地面周囲長
可能な数値データへと変換した。
Systems of America社製ソフトウェアCanvasⅩを用いて解析
今回算出したものは,接地面積(足が床に接地している部分
の面積),接地面の周囲長,接地面積・周囲長比(接地面積/
足幅
周囲長の2乗)
,足輪郭の長さ(生体の足長)
,足輪郭の幅(生
体の足幅)である。
(図1)
⑷ データの分析
接地面積を求める際,接地面に足指を入れるかどうかについ
ては,前報告の方法を踏襲した。すなわち足指は接地面に入れ
足長
接地面周囲長
ないこととした。接地面とは,足が体重を支えるにあたって実
際に床と接してその役割を果たしている面のことである。正常
接地面積
な姿勢で立ち,静止しているとき足指は体重支持には関わって
いないからである。
足の形状を表す指標としては,前回と同様に足型接地面の面
積と足型接地面の周囲長2乗の比を用いた。
足の長さと幅に関しては,映し出された足型写真の輪郭の長
足の軸
(櫻木 2012より改変)
さと幅をもって足長,足幅とした。計測方法はマルチン式生
― 86 ―
櫻木 真智子
研究論文 ミラー式足型計測法の年少児への適用
体計測法における方法に準拠した(保志宏『生体の線計測法』
表2 足長と足幅(右足)
1989年,てらぺいあ)。どの部位を計測することをもって足長,
足長(㎝)
足幅とするかについて次に示す。まず足の軸を決定した。足の
軸は踵の後端と第2指の前端を通る直線とした。マルチン式計
年少
測法では第2指あるいは第1指のうち最も前方に突出している
点を選ぶことになっているが,足の軸を基準線として用いる本
年中
研究においては,計測を行なう足によって軸の位置が大きく異
なることは好ましくないので,第2指に統一した。足幅は足の
年長
軸に垂直な直線で足の最外側点と最内側点の距離とした。
足幅(㎝)
平均値
標準偏差
平均値
標準偏差
男児
15.66
0.84
6.76
0.39
女児
15.39
0.81
6.56
0.37
男児
16.57
0.70
6.92
0.34
女児
16.29
0.81
6.79
0.29
男児
17.39
0.61
7.11
0.35
女児
17.12
0.82
7.03
0.34
3.結果および考察
⑴ 足長,足幅
足の骨がつくるアーチ構造が反映されていれば,接地面の形
足長と足幅が示す値を表2に示した。当然のことであるが,
状は内側がくびれた,いわゆる「足跡の形」になる。逆に年齢
年少児,年中児,年長児と順を追って足長・足幅ともに数値が
の低い幼児の場合は軟らかい足底面全体で支えるという性格が
大きくなっている。この結果は年少児から年長児へと順調な成
強いために,形状は単純になるはずである。前回の報告におい
長がみられることを示している。すなわち,ここから得られる
て「接地面積・周囲長比」を求め,足の形状を検討した。単純
データが足型の形態変化を分析するという本研究の目的に適合
な円に近い形の場合は値が大きくなり,逆に骨格のアーチ構造
することを意味している。
で支えるという機能が反映された複雑な形状では値が小さくな
⑵ 接地面形状からわかること
る。すなわち床への足底接地面の面積と周囲長比をもってアー
幼児期の足の形状の変化は,成長にともなう骨格のアーチ構
チ構造の指標とすることができる。
造がしっかりしてくるにしたがって,床への接地面の形状とし
てあらわれる。骨格のアーチ構造により足が床に接地していな
⑷ アーチ構造の年齢変化
部分を「土踏まず」と呼ぶ。土踏まずは直立時のバランスを保
接地面積,周囲長,接地面積・周囲長比の平均値と標準偏差
つ,歩行や走行を助けるなどのはたらきが知られているが,何
は表3に示した通りである。接地面積・周囲長比の平均値を年
と言ってもその役割は歩行時の衝撃を吸収することである。
齢ごとにみてみると,成長とともに小さくなる傾向がみられ,
乳児期では足の骨格のアーチ構造は体表面にはあらわれない
男児では年少児2.74,年中児2.51,年長児2.33となった。女児に
ため,接地面は足の形そのものとなる。すなわち足全体が接地
おいても同様の傾向がみられる。すなわち女児の接地面積・周
している,いわゆる「ベタ足」となる。これは本研究を含む一
囲長比の平均値は成長とともに小さくなり,年少児2.50,年中
連の研究の中における分類による。このベタ足というタイプは
児2.29,年長児2.29と成長とともに小さくなる傾向がみられた。
成長とともに減少していくことが知られている。本研究におい
平均値の有意差検定(t検定)を行ったところ,年中女児から
ても,年少児では男児37名中11名,女児42名中3名がベタ足で
年長女児への変化には有意の差がみられるには至らなかったが,
ある。年中児と年長児をみると,それぞれ年中男児42名中4名,
それ以外の年齢変化にはすべて有意の差が認められた。接地面
年中女児年34名中6名,年長男児35名中0名,年長女児27名中
積・周囲長比の値が小さいということは接地面の形状が複雑で
0名とほぼ減少していったといえる。
あることを示している。すなわち足のアーチ構造がしっかりで
きているということである。男女ともに年齢が上がるにしたが
⑶ 足の骨格のアーチ構造について
って接地面積・周囲長比の値が小さくなり,発達にともなって
ヒトの足の骨格は3つのアーチ構造を備えている。そのうち
足の機能的な発達が進んでいることが示されたのである。
最も大きなアーチである縦方向のアーチは中足骨から踵骨に至
次に,アーチ構造形成の進み方を接地面積・周囲長比の年齢
る骨格がつくるアーチである。幼児期の足は,骨格によるアー
ごとの変化の大きさから検証する。年少男児と年中男児の接
チ構造を支えとして接地している成人の足型と異なり,軟らか
地面積・周囲長比の差は0.23,年中児と年長児の差が0.18とな
い素材でできた足底面が床に接地するという傾向が強い。成長
り,年少児から年中児への変化の方が大きいという結果になっ
の過程で足を構成する骨,筋,腱膜,靭帯,などの各組織がそ
た。これによって,アーチ構造の変化が年中児から年長児より,
れぞれに発達する。これによって骨格がつくるアーチがしっか
年少児から年中児への方が早く進むということが示された。女
りでき上がった状態で接地するという成人の足底面の構造に近
児においても同様の傾向がみられ,その傾向は男児より明確で
づいていく。
あった。年少女児から年中女児への差は0.21,年中女児から年
― 87 ―
櫻木 真智子
研究論文 ミラー式足型計測法の年少児への適用
表3 接地面積,周囲長,接地面積・周囲長比の年齢変化と性差
接地面積(㎠)
男児
女児
性差
年少
平均値
44.11
年中
44.14
年少
40.83
年長
年中
年長
年少
年中
年長
46.92
40.02
46.24
周囲長(㎝)
標準偏差
平均値
5.81
**
**
40.38
4.80
42.16
4.53
44.97
5.42
**
**
**
40.55
5.58
42.13
4.57
45.09
**
**
**
**
平均値
2.63
2.51
2.94
**
2.01
2.38
**
**
接地面積・周囲長比
標準偏差
3.00
2.21
2.74
2.33
2.50
2.29
2.29
標準偏差
**
**
**
0.48
**
0.40
0.23
0.38
**
**
0.51
0.28
*
**:P<0.01
* :P<0.05
長女児への差はほとんど見られず,平均値の差は数値としては
において女児の方が大きく発達しているという結果は岩崎ら
0となった。年少女児から年中女児では1%水準で有意の差が
(1981)
,中野ら,根本の報告と一致していた。今回の結果から,
みられた(t検定)。
年少児ですでに形態面で女児の方が進んでいることを示すこと
年少児から年中児の変化が大きい原因として先ず考えられる
ができた。
ことは,遊び環境の変化による運動量の増加と運動の質の向上
である。幼稚園に入園する前は,日常の遊び場所として家の中
謝辞
や公園などに限られている。またそのころの遊びの特徴として
今回の研究にあたってご協力いただいた二階堂幼稚園の先生
は,遊ぶ友達もそう多くはなく,集団で遊ぶことが少ない。す
方,職員の皆様に感謝申し上げます。
なわちこの時期の幼児の運動量は入園後に比べて少ないとされ
ている。それに対して,幼稚園は子どもたちの遊ぶ環境が整え
参考文献
られており,入園すると室内遊び,外遊びと体を動かす機会が
確実に多くなる。また,同年齢の友達との関わりも増えること
から,運動量が増える。さらに,数多くの動作を経験するよう
になり動きも洗練されてくる。このように家庭での生活から,
幼稚園の生活に入ったことによって遊びの環境が充実し,それ
に伴って足の機能的構造が発達したと考えられる。入園して間
もない年少児の方が環境によるこれらの影響を受けやすく,そ
のことを支持する結果を得ることができた。
1)浅見高明,1974:接地足跡の発達に関する研究,スポーツ研究報,4
⑴:37-47.
2)生田香明,2005:遊び足りない子どもの足の危機,チャイルドヘルス,
8⑴:26-29.
3)岩崎洋子・上村映雄,1981:土踏まずの形成と運動能力(調整力)と
の関係について,日本保育学会第34回大会研究論文集,180-181.
4)小山吉明・藤原勝夫・池上晴夫・岡田守彦,1982:幼児の足の形態
発育について,体育学研究,26⑷:317-325.
5)櫻木真智子,2006:幼児の足型計測法の検討,聖徳大学研究紀要 短期大学部,39:73-78.
6)櫻木真智子,2007:ミラー投影式足型計測によって得られる子ども
の足型データとその解析法,聖徳大学研究紀要 短期大学部,40:
41-45.
⑸ アーチ構造の性差
接地面・周囲長比,すなわち骨格のアーチ構造の発達度にお
ける性差を検討した結果,男児より女児の方が小さい傾向がみ
られ,その差は年少児0.24,年中児0.22においては1%水準で
有意差がみられた(t検定)。すなわち男児より女児のアーチ
構造がしっかりしており,機能面での発達が進んでいるという
ことである。
機能的発達の目安となる運動能力において考えると,年中児
ですでに男児の成績の方が良いことが報告されている。年少児
の運動能力については,測定の信頼性の観点から実施しないこ
との方が多いため,年少児からすでに男児の方が優れているか
どうかは明らかになっていない。年少児,年中児の足の形状
― 88 ―
7)櫻木真智子,2009:幼児の足型形態における性差と年齢差,聖徳大
学研究紀要 短期大学部,42:41-45.
8)中野裕史・大石和典・水町澄子・幸坂佳代子,2005:幼児における
疾走スピードの増加と土踏まずの形成に関係がない,中村学園大学・
中村学園大学短期大学部研究紀要,37:163-168.
9)根本茂男,1966:幼児の接地足跡発育変化に関する研究,体育学研究,
11⑵,110-115.
10)
橋本勲・相川りゑこ,1986:乳幼児の発育・発達の評価法としての
土踏まず形成と栄養及び日常身体活動状況に関する研究,国立栄養
研究所報告,35:45-62.
11)原田碩三,2004:幼児の足の最近の問題,チャイルドヘルス,7⑿:
26-29.
12)保志宏,1989:生体の線計測法,てらぺいあ,240-247.
13)山崎信寿編,1999:足の事典,朝倉書店,62-63
聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 89-95(2012)
被災地におけるソーシャルワーカーの支援に関する課題
-社会福祉士の活動を通じて-
須田 仁
Issues of the social support workers in disaster-striken areas
SUDA, Hitoshi
要 旨
福祉の専門職である社会福祉士が東日本大震災によって被災した地域をどのように支援し,その課題を明らか
にすることを目的とした。被災地としては福島県いわき市北部および南西部をフィールドとした。
被災地支援としては発災後の時間的経過ごとに支援の内容が異なる。今回は発災後1ヶ月半が経過し,ライフ
ライン等が復旧する中,外部からの支援者(社会福祉士)がコミュニティワークの手法を援用することで,被災
地既存の福祉・介護事業者の事業再開を妨げることなく住民の安否確認,福祉ニーズを把握することができるか
を検討した実践記録である。具体的には被災した地区を選定し,その地区内の福祉・介護事業者,相談機関等へ
の聞き取り調査と住民がどのような状況に置かれているのかを把握する地域踏査を行った。
実践の検討から明らかになったことは,地元の援助機関・事業者を飛び越えて外部の支援組織が支援すること
は被災地の復旧を妨げるおそれがあるということがわかった。外部の支援組織が被災地支援に入る際には,第一
に発災後,被災地がどのような現状であるかをアセスメントした上で慎重に支援に入ることが肝要である。
1 はじめに
特殊な状況の下では直に影響を受けやすい。難を逃れることが
平成23年3月11日に起きた東日本大震災は,青森県から千葉
できたとしても,震災前に受けていた福祉・介護サービスが受
県にいたる太平洋沿岸に甚大な被害を及ぼした。特に岩手県,
けられず,生命の危機に陥ることは想像に難くない。避難所で
宮城県,福島県では大津波によって 沿岸部が壊滅的なダメー
の暮らし,ライフラインの停止,物流の停止などはすぐさま生
ジを受けた。また,地震によって東京電力福島第一原子力発電
命の危険に直結する。
所(以下福島第一原発と略)も被災し,特に福島県では放射能
汚染が広範囲に渡るという二重の災害に見舞われた。本稿では
被災地支援の場合,まずは被災地にある既存の援助機関・社
筆者と千葉県社会福祉士会が共同で行った,被災地支援を取り
会資源が援助・支援を行うのが第一である。その援助機関等が
上げ,社会福祉士(ソーシャルワーカー) が行う被災地支援の
機能していない場合にはその他の地域から支援団体・機関が支
あり方について課題提起をする実践研究として記録しておきた
援に入るという形になる。地元の援助機関等を飛び越えて,外
い。
部の団体が支援をすることは長期的にみると好ましくないと考
これまでソーシャルワーカーによる被災地支援はそれぞれの
えられる。外部の団体が支援に入ることによって一時的には支
所属する機関からの職員派遣という形で実施されてきた。社会
援することができる。しかし外部の支援団体はいずれ撤退する
福祉士が国家資格化されて以降,大規模な震災は阪神・淡路大
ことは想定できる。外部の支援団体が地元の援助機関の力以上
震災や新潟中越地震が挙げられる。しかし被災地支援をソーシ
の支援をしてしまうことによって撤退後の援助が後退してしま
ャルワークの中に体系化する試みは端緒についたばかりである。
うのである。そのため被災地支援は初期段階においては外部の
通常,被災地支援を行う場合は発災後の時間的経過ごとに支援
支援団体が集中して支援する必要があるが,その後は地元の援
の内容が異なる。初期の段階では,生存者の確認,不明者の捜
助機関に引き継げるソフトランディングが求められる。よっ
索,遺体の収容,医療サービスの提供,食料などの配給が中心
て外部の支援団体は福祉ニーズ(課題)を把握するだけでなく,
に速やかに行われる。第二段階では初期段階に引き続いて避難
被災地の援助機関・団体がどれくらい機能しているのか,アセ
所の設置,生活物資の配給,瓦礫等の撤去等が行われる。さら
スメントが必要になる。アセスメント方法としてはコミュニテ
には長期的には生活再建に向けたさまざまな支援が行われ,そ
ィワーク(地域援助技術)の技法を援用した。コミュニティワ
の中には仮設住宅の入居や就職等の斡旋が含まれてくる。しか
ークとは,地域社会において地域住民の福祉ニーズの把握,福
しながら災害弱者と呼ばれる高齢者や障害者などは被災という
祉サービスの開発や連絡・調整などを行う援助技術である。
聖徳大学心理・福祉学部社会福祉学科・講師
― 89 ―
須田 仁
研究ノート 被災地におけるソーシャルワーカーの支援に関する課題
コミュニティワークの展開過程として,初動段階としては地
ン停止,物流の停止,福祉・介護サービスの停止している状況
域における福祉ニーズ(課題)を把握しなければならない。地
によって生活ができていないのではないかと予想されていた。
域の福祉ニーズを把握することを「地域アセスメント」と呼び,
そこで千葉県社会福祉士会では5月の連休前に「在宅高齢者等
その方法としては,①行政や関係団体が作成している既存の統
のニーズをキャッチすることが可能かどうか」を検討するため
計資料や文献から把握する,②事業や相談に関わる専門家や当
の実態調査を行うこととした。同時期に行われていた宮城県石
事者などからの聞き取り調査,③住民座談会など一定の地区ご
巻市での,医療関係者によるローラー作戦(自宅に居住する高
とに住民を集めて話しあう中からニーズを把握する,④実際に
齢者宅に全戸調査を行い,医療ニーズの高い高齢者に対して医
地域に出向き,地理的な状況や交通, 道路,施設,環境など現
療を行う)をイメージし,同じように福祉・介護ニーズの高い
地を具体的にチェックして回る地域踏査,⑤把握したいニーズ
高齢者を発見し,支援することができるのか,を検討したので
について調査票を郵送したり,面談で調査したりする社会調査
ある。4月下旬の災害ボラセンの活動からは在宅高齢者の実態
法,などが挙げられている 。「地域アセスメント」の方法と
把握がされていないということがわかった。ローラー作戦がい
して上記の①の既存の統計資料や文献からの把握と②介護保険
わき市で実施することが可能なのか,ローラー作戦を行う必要
事業者などからの聞き取り調査,④地域踏査の方法を実施する
があるのかを判断するための情報収集を行うことを大きな課題
ことにした。
としたのである。
(以下の本論は実際の活動を時系列に表記し
⑴
ている。その方が災害時のソーシャルワークの対応を検討する
2 発災後1ヶ月の状況
素材として意義があると考えたためである。
)
千葉県社会福祉士会は4月以降,福島県いわき市に入り,い
わき市社会福祉協議会災害救援ボランティアセンター(以下,
3 実践記録(4月29日)
災害ボラセンと略)を支援する形で被災地支援を行ってきた。
上記の課題のために以下の2点を実施した。
いわき市は人口約34万人,面積1231.34㎢ある,日本の中でも
1つ目はいわき市内の介護保険事業者の訪問系事業者,居宅
有数の広さを持つ市である。マスコミなどの話題は岩手県,宮
介護支援事業所,配食サービスの事業所の一覧,いわき市内地
城県沿岸部の市町村の状況を取り上げることが多く,福島県の
区ごとの高齢者数,高齢世帯数,要介護度別高齢者数の一覧を
状況は福島第一原発の状況を伝えることが中心であった。その
入手することである。初めて関わる土地であることから,公表
ため南相馬市の市長がインターネットの動画サイトを通じて支
されている情報を収集し,概要をつかむことをまず行った。
援を求める声明を出すことでやっと注目されるという状況であ
いわき市は東京23区の倍以上の面積を持つ市であり,ローラ
った。いわき市は発災後,市内のライフラインが停止したのに
ー作戦を全市的に行うのは時間的にも人的にも難しいと考えら
加えて放射能の問題があったことから 復旧作業が遅れ,物流
れた。そのため,高齢者数が多い地区はどこか,高齢化率が高
がストップ,生活物資等がなかなか届かない状況が続いていた。
い地区はどこか,介護保険事業者の少ない地区はどこかなど,
このような状況を受け,4月上旬,千葉県社会福祉士会では会
ハイリスクが考えられる地区はどこであるかについて検討に入
長を中心に先遣隊としていわき市内に入り,被害状況を確認し
った。いわき市は被害地域が津波を受けた沿岸部に集中してい
た。そして,災害ボラセンを支援する形で継続的に支援をする
ることも地区を抽出することを判断させた要因である。
ことを決定,会員である社会福祉士を派遣することになった。
介護保険事業者は自身の顧客である高齢者を把握している可
いわき市の場合,上記にも述べたが広い面積を持つ市である
能性が高い。この時点では,自宅で暮らしている高齢者の情報
ため,同じ市内でも被災状況が異なっている。甚大な被害を受
を把握している可能性が高いのではないかと推測した。2つ目
けた海岸部と3月11日の地震の影響を受けなかった山間部(後
は上記で収集した介護保険事業所に対して災害ボラセン支援の
日4月11月の余震によって道路が寸断,避難を余儀なくされ
必要な高齢者がいる場合,災害ボラセンに連絡をしてもらうよ
る),いち早く復旧した市街地域,福島第一原発30㎞圏内のた
う,住民に対して周知・広報活動を行うこととした。
め避難地域となった北部と,同じ市内でも全く様相が異なって
まず始めに介護保険事業者がどこに,どのくらい数があるの
いるのが特徴である。このことは高齢者や障害者に対してどの
かを調査する必要があった。まずはいわき市の「保健福祉の手
ような影響を及ぼすのだろうか?避難所などに避難している高
引き」及び「介護保険事業計画」を入手するためにいわき市役
齢者に関しては行政や様々な支援団体等の支援が用意されるの
所に来庁し地域の基礎データ把握のために必要な介護保険事業
が通常である。そのため福祉・介護ニーズや問題が生じたとし
計画と事業所の情報把握のために必要な市内の介護保険等の事
ても何らかの対応をすることができると想像できる。しかし,
業所の一覧を入手することができた。次にいわき市長寿介護課
避難せず自宅にそのまま暮らしている独居高齢者や高齢者夫婦
長に対して市内の介護保険事業者の状況についても併せて聞き
のみ世帯,障害を持つ家族のいる世帯等に関してはライフライ
取りを行った。介護老人福祉施設については,全施設が機能を
― 90 ―
須田 仁
研究ノート 被災地におけるソーシャルワーカーの支援に関する課題
復帰したとのことだった。(実際には1施設の入所者全員が避
併せていわき市災害対策本部へ挨拶を行った。災害対策本部
難をしていた。ただ,避難先で業務を継続していることを確認
は市内全ての災害に対応する中枢機関である。国はもとより,
している。
)老人保健施設については,3つの施設以外は機能
福島県,市内からも情報が集まってくる。その情報を共有する
を復帰し,その3施設は系列病院などに移送するなどの対応を
ことによって災害ボラセンが機能的に動くことができる。また
しているという話であった。(この3施設のうち1施設が千葉
我々の支援活動に関して災害対策本部から了解を得ておくこと
県鴨川市のかんぽの宿に避難していた。)
で今後の活動をスムーズに進めることができるであろう。
いわき市長寿介護課長に現時点で福祉ニーズの高いと思われ
災害ボラセンのセンター長に四倉包括を訪問することを伝え
る地区があるかを尋ねたところ,「四倉,久之浜・大久地区」
たところ,久之浜町の末続という集落を見てきてほしいとのオ
とのことであった。この地区は津波による被害が甚大であった
ーダーがあったので併せて調査することとした。災害対策本部
こと,その後の福島第一原発事故によって地区の一部が30㎞圏
(行政)と災害ボラセンは組織上別組織になっていることもあ
内に含まれていた。ただし,この地区の一部のみ30㎞圏内なの
る。いわき市の場合は別組織であった。我々は災害ボラセンに
でそこに居住する住民のみを避難させ,それ以外の住民は避難
所属して支援する立場であることから,常に所属する組織(こ
しなくてもよいと分けることは現実的ではなかったため,いわ
の場合,災害ボラセン)の長へ報告し了解を得ることが重要で
き市は久之浜・大久地区全域を自主避難地域と指定した。ただ
ある。
5月の連休に入り自主避難地域が解除されるとのことで,住民
この日の午後,四倉包括を訪問,ソーシャルワーカーのY氏
が帰宅している可能性があるので状況が変わっているとのこと
から久之浜・大久地区の状況を確認した。話によるとこの地区
だった。
は震災後,自主避難地域の対象エリアとなり,退避するように
地域の高齢者についてはいわき市内の地域包括支援センター
との指示がいわき市から住民にあった。しかしながら自主避難
によって実態把握が行われている可能性もあることを予想し,
地域のため,そのまま残る住民もいた。残った人に対しては防
長寿介護課長を通じて我々が訪問することを連絡しておいても
衛医大医療チームが医療支援,物資支援に入っている,とのこ
らえることとなった。
とだった。四倉包括では5月の連休を前に避難先から人が戻っ
次にいわき市社会福祉協議会が運営しているホームヘルプセ
てきている,という情報をキャッチしているとのことだった。
ンターを訪れ,センター従事者とお会いすることができた。現
四倉包括では発災後,いわき市から一人暮らし高齢者,高齢
時点では,片付け等の必要性に関しては,ヘルパー達が独自で
者のみ世帯の情報,社協の緊急時連絡カードを入手したので,
対応したとのことだった。これは片付け等が終わらないと訪問
安否確認訪問調査を行ったとのことだった。件数は400人くら
介護サービスの提供ができないため訪問介護員が仕方なく対応
いであり,その全てにおいて安否確認やサービスへの結びつけ
したものと思われた。地域の高齢者については地域包括支援セ
を行ったという。さらに物資の配布リストを作成,ライフライ
ンターがニーズを把握しているのではないかという話であった。
ンの復旧後は,配布を縮小方向で見直すこととしている。
このように行政では今まで地域で活動している機関等を通じて
また震災直後,地元の病院が患者を全員一時帰宅させたため,
住民の状況を把握することに努めている。いわき市では災害時
四倉地域包括では退院援助も行い,業務としてはかなり厳しい
要援護者名簿を作成しており,災害時にはこの名簿に記載され
状況であったとのことだった。四倉包括では地区の高齢者等の
ている要援護者の安否確認をすることになっており,地域包括
安否確認と物資の配布リスト作成,震災によって通常のサービ
支援センターがその役割を担うことになっていた。災害時要援
ス提供が困難なため,他地区からのサービス提供へ切り換えな
護者名簿作成は市町村に義務付けられているわけではない。市
どの手続きを行っていた。
町村によって,手あげ方式と言われる希望者のみが名簿登録す
ここで安否確認を行う際に使用した緊急時連絡カード(名簿)
る作成方法や全戸について名簿化している市町村,作成してい
の問題点が浮き彫りになった。基本的に緊急時連絡カード(名
ない市町村までまちまちである。その市町村の既存のシステム
簿)への登録は手上げ方式である。これは個人情報を提供する
をまず把握し,足りない部分を補っていくことが我々外部の支
了解をした人のみが対象となる。全ての高齢者を対象としてい
援者には求められる。よってこの時点で,地域包括支援センタ
ないため,緊急時連絡カードから漏れている高齢者が出てしま
ーが地域の高齢者情報を集約している可能性があると判断した。
う。この方式では,安否確認をする基礎情報として不足してい
上記長寿介護課長の話と四倉地区には多数の事業を持っている
ることが明らかであった。行政情報による四倉・久之浜大久地
1つの社会福祉法人があることを勘案して四倉・久之浜大久地
区の要介護要支援認定者数は約800人であり,仮に緊急時連絡
域包括支援センター(略,四倉包括)に実態調査をすることとし,
カードに登録した高齢者が全て要介護要支援認定者であったと
午後に訪問することを決めた。四倉包括に事前連絡したところ,
しても要介護要支援認定者数の半分に過ぎない。単純に高齢者
出勤しているとのことだった。
数だけでカウントすればこの地区に6000人程度は存在している
― 91 ―
須田 仁
研究ノート 被災地におけるソーシャルワーカーの支援に関する課題
ことになっている。そのため緊急時連絡カードに登録されてい
とが考えられた。
ない多数の高齢者の安否確認ができていないと判断できた。
1)
久之浜周辺にある介護保険事業所を引き続き訪問調査する。
さらにはライフラインが止まってしまった場合,病院は入院
特にこの地区にある特別養護老人ホームS園へ訪問し,実態
患者を退院させる可能性があること,併せて在宅の高齢者は介
を把握すること。
護保険事業者からのサービスがストップする可能性があること
2)
久之浜支所にある地区社会福祉協議会へ赴き,この地区の
がわかった。
区長,婦人会長,寺院の住職等を紹介してもらうこと。
(地
四倉包括の今後の予定としては5月の連休明けに久之浜・大
域包括支援センターの安否確認調査から漏れている高齢者に
久・四倉地区の高齢者の安否確認を再々度行う予定である。し
対して,インフォーマルなネットワークから把握することが
できるかどうかの情報収集のため)
かしながら包括職員の手が足りないことから専門職である社会
福祉士会の人たちに手伝ってもらえるなら実態調査を支援して
地域包括支援センターの委託を受けているNPO法人の事
3)
務局長にアポを取ること。
ほしいという声があった。
次に,久之浜町末続への現況調査を行った。この地区はJR
4)
市役所内障害福祉担当課へヒアリングをすること。
常磐線の東側にある。津波はこの常磐線まで(常磐線は高架に
5)
障害者福祉関係の事業所についてもヒアリングをすること。
なっていたため,津波はここで遮られる形となった)到達して
6)
精神病院,精神科等の所在地の確認をすること。
(精神障
おり,線路の東側は壊滅状態となっており調査を行ったときは
害者に対しては緊急度が高いのではとの判断からまずは情報
被災したままの状態であった。他の地区では瓦礫の撤去や片付
収集する)
けなどが始められている中で,生存者の確認・遺体の捜索・道
特に2)のインフォーマルなネットワークに対してアプロー
路の確保だけが行われたのみの状況であった。これは福島第一
チすることは,この地区では有効であると考えられた。通常,
原発事故による30㎞圏内のため,住民が避難をしていたためで
区長や婦人会の会長はキーパーソンとして様々な情報を持って
あると予想できた。
いることも多く,また情報を広めてくれる可能性がある。また
寺については,檀家を抱えていることから,情報が集まってく
そのような状況であったが末続に入ったところ,避難してい
る可能性がある。実際,この地区には大きな寺院が点在してい
た住民が戻って,家の片付けをしており,災害ボラセンの支援
ることからインフォーマルなネットワークとして有効であると
の必要性が高い地域と認識できた。我々は片付け等をしていた
考えられた。
住民に対して災害ボラセンのチラシを配布し,現況を把握する
ことに努めた。それによると住民は避難していたため,瓦礫等
(4月30日)
は手つかずであり,今やっと手をつけ始めたとのことだった。
この日は久之浜を中心に,在宅で生活する高齢者・障害者の
住民は災害ボラセンの存在を知らず,手伝ってもらえるなら助
ニーズ把握をするための状況調査を中心に行った。
かるとの話を聴くことができた。今後,瓦礫の撤去・室内の片
実施したこととしては,まず,いわき市役所障害福祉課へ訪
付けなどのニーズが出てくることは予想できた。しかし放射能
問し,市内の障害者施設のリストを入手した。久之浜地区には
の影響や被災状況から安全性を考慮する必要もあるだろうとも
知的障害者の授産施設があることを確認した。しかし運営して
判断できた。災害ボラセンが支援に入ることができるかどうか
いる社会福祉法人の理事長が東京に避難しているとのことで現
はセンター本部の判断が必要になると我々は考えた。このよう
在,サービスは休止しているとのことだった。地域の障害者に
に地域踏査によって地域の様子を把握することができる。この
ついては地区保健福祉センターが状況を把握しているとのこと
場合災害ボラセンがこの地区で支援をする必要性があるのか,
だった。この時点で行政では障害者の動向については把握をし
危険ではないのかを判断する情報を収集することによって次の
ていないことがうかがえた。
援助につながっていくであろう。
次にいわき中央警察署地域安全課へ行き,久之浜駐在所に災
我々の地域踏査の中で久之浜・大久地区はこの時点で,震災
害ボラセンのチラシを置くことについて依頼を行った。地域安
直後のまま,時間が止まっているかのように感じられた。それ
全課では問題ないということで了解が得られた。これは久之浜
は住民が避難をしていたこともあり,復旧作業が進んでいない
に,避難していた住民が戻ってきているので,久之浜駐在所に
ことが大きな要因である。四倉包括の高齢者の安否確認・実態
相談等が入る可能性を考慮し,災害ボラセンの広報活動の一貫
調査に関しても漏れている部分が多い。被災状況も甚大である
としての活動であった。我々は地元の福祉関係者・専門職でな
ことからこの久之浜・大久地区を緊急度の高い地区と推測し,
いため,災害ボラセンのチラシを配布しても訝しく思われるこ
次の日以降もさらに調査することとした。
とも多い。被災地には有象無象の様々な支援団体等が入ってい
4月29日の調査を受けて,30日以降の課題としては以下のこ
るため混乱している。そのため,所轄の警察署を通じて災害ボ
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須田 仁
研究ノート 被災地におけるソーシャルワーカーの支援に関する課題
ラセンのチラシ配布を行うことが重要と考えた。その後,久之
るNPO法人との打合せが必要となるだろうと我々は判断した。
浜駐在所へ行き,災害ボラセンのチラシを置かせてもらった。
ただその前に他地区の包括の状況も把握をすることとした。久
もし住民から相談があったら,駐在所を通じて紹介する旨了解
之浜と同様に津波による被害を受けた小名浜地区の小名浜地域
が得られた。
包括支援センターを訪問し,ニーズキャッチの可能性を探るこ
次に久之浜支所近くにある,居宅介護支援事業所を訪問し現
とである。また総合保健福祉センターゆったり館へ訪問し,利
状を把握した。この居宅介護支援事業所の介護支援専門員によ
用者や介護職員の状況がどうなっているのか,施設へ戻るのは
ると,電話・水道がここ数日でやっと再開した,とのことだっ
いつなのか,その際に必要なマンパワーはあるのかを検討する
た。それまでは避難する利用者がいるなど自主避難期間中は居
こととした。
宅介護支援事業を実施できないでいた。しかし休止していた介
昨日の時点では,我々の四倉包括への支援については,実態
護サービス事業者も徐々に再開している状況がある。自主避難
調査の協力を考えていた。しかし仮に協力ができない場合の第
期間中は他地区の介護サービスにつなげるなどの対応でやりく
2案として,久之浜地区社協が区長,民生委員,婦人会などと
りしていた,とのことだった。困難な中,できる限りの支援を
の連携を進める予定とのことなので,5月2日に久之浜地区社
行っていることがうかがえた。
協と四倉包括との顔つなぎを行い,久之浜地区の実態調査の助
次に特別養護老人ホームS園へ訪問した。しかし3月13日か
けになるようにしたい。これは緊急時連絡カードから漏れてい
ら,市内にある総合保健福祉センターゆったり館へ避難してい
る可能性がある在宅高齢者をインフォーマルなネットワークを
るとの張り紙があった。ゆったり館では,同じ職員が介護をし
通じて,地域包括支援センターに把握してもらう方法である。
ているのだろうが,被災している職員もいると予想される。こ
本日の活動終了後,Y病院のHPを確認したところ,総合病
の特別養護老人ホームはこの地域の介護保険事業を行っていた
院ではなく,精神科病院であることがわかった。となると入院
と思われるが,この地区での機能を停止していることから,在
患者は転院もしくは退院したと思われた。退院した患者は帰宅
宅の介護サービス提供が減少していることが予想された。
した可能性があり,自宅等での生活であることが予想されるの
次に久之浜・大久地区の3つの寺院へ訪問,災害ボラセンの
で福祉ニーズが極めて高い可能性があった。5月2日には外来
周知を行った。寺院も被災はしているが,檀家によって片付け
診療があるので,そこで状況調査やニーズキャッチ等を行うこ
などが行われているようであった。そこで寺院にチラシを置か
とを確認した。
せてもらい,もし檀家さんなどから相談があったら,災害ボラ
さらに,いわき市では障害者相談員制度を設けており,相談
センを紹介してほしい旨お願いをした。寺院からは檀家さんも
員の連絡先も障害福祉の手引きに記載されている。また手をつ
ちりぢりになってしまい,よくわからないとのことだがしかし
なぐ育成会もあり,このネットワークから在宅障害者の情報や
最近は徐々に戻ってきている話もあがってきたとの話がうかが
ニーズが上がってくる可能性があることからここにも連絡を取
えた。
り,情報収集に努めることとした。
やはり予想通り,檀家などのインフォーマルなネットワーク
が存在しており,高齢者からの情報を収集・ニーズを把握する
(5月1日)
ために活用することができるのではないかと考えられた。
この日はいわき市内の地域包括支援センター等の状況を把握
最後に四倉・久之浜大久地区保健福祉センター(四倉支所)
することを重点的に行った。段取りとしては,①小名浜地域包
へ訪問し,地区の障害者の状況を伺った。この地区の精神障害
括支援センター・勿来・田人地域包括支援センターへ訪問し,
者はどこの病院に受診しているか尋ねるとY病院であるとのこ
ニーズキャッチの可能性を探ること,②総合保健福祉センター
とだった。6月には障害者対象に市内全域で実態調査を行う予
ゆったり館へ訪問し,特別養護老人ホームS園利用者や介護職
定であるとのことだった。久之浜・大久地区については,担当
員の状況を把握することにした。
がいないのでわからないとのことだった。
まずは小名浜地域包括支援センターへ訪問した。小名浜地域
Y病院を訪ねてみると,入院病棟は閉鎖されており,外来の
包括支援センターでは要援護者名簿,施設利用者,介護サービ
みの対応となっていた。隣接する同一医療法人の老人保健施設,
ス利用者,要介護要支援認定されているが介護サービスを利用
デイケアは開設していることがわかった。
していない人の名簿をいわき市から提供してもらい,約1ヶ月
以上が4月30日の活動であった。この日の調査によって,久
かけて安否確認を行い無事終了した,とのことだった。しかし
之浜地区の在宅高齢者のニーズ発掘と支援のためには,地域包
名簿になく避難せずに自宅に残っている高齢者,周囲の人達と
括支援センターのエンパワメントが必要と考えられた。具体的
つながっていない高齢者が心配なので,区長,組長と連携し,
には,地域包括支援センターの総合相談支援業務を進めるた
フォローをしている,とのことだった。
めには,いわき市内の地域包括支援センターの母体法人であ
避難所にいる高齢者のケアについては,行政が避難所で高齢
― 93 ―
須田 仁
研究ノート 被災地におけるソーシャルワーカーの支援に関する課題
者を把握しているので,必要に応じて,契約しているケアマネ
ーしてもらって現在の場所に避難した,とのことだった。要介
ージャーがいる場合はそのケアマネージャーに対応してもらい,
護度が高く医療依存の高い入所者に関しては市内にある特養K
地域包括支援センターは包括的・継続的ケアマネジメント事業
園に20名受け入れてもらった。残り60名がゆったり館へ移動し
としてケアマネージャーをバックアップする形で対応,必要に
ている。3月中は職員も少なく一般ボランティアスタッフの協
応じて介護サービスを入れている,とのことだった。
力を得たが,4月からは正規職員が対応できるようになった。
次に勿来・田人地域包括支援センターへ訪問した。対応者は
S園は避難所指定を受けたこともあり物資も足りている。5月
管理者のK氏,ワーカーS氏であった。勿来地区は海岸部に面
12日には,施設に戻ってサービスが再開できるように調整して
しており,3月11日の地震で,11名死亡1名不明であった。こ
いる,とのことだった。
の地区の緊急時連絡カード登録者は2100人であり,この登録名
簿を基に,ケアマネージャー,民生委員と連携し電話・訪問等
4 実践の検討結果
による安否確認を行った,とのことだった。
以上の聞き取り調査によって我々は今後の支援の方向性を見
田人地区では,4月11日の余震で,土砂崩れがあり道路が寸
出すことができた。まず,在宅で暮らしていると思われる高齢
断され,4名が死亡した,とのことであり,道路の寸断により,
者に関しては,NPO法人地域福祉ネットワークいわきの地域
いわき市内中心部からの介護サービス提供が難しくなった。古
包括支援センター7ヶ所である程度ニーズキャッチを行ってい
殿町の社協が運営する地域包括支援センターと連携し,古殿町
る,もしくは行うだけの力を有していると判断した。被災前か
のサービス事業所へつなぐことで対応した。また避難所支援は
ら地域の民生委員や区長,医師会などのフォーマル・インフォ
いわき市が行っているので,地区保健福祉センターを通じて地
ーマルなネットワークを構築し,地域包括支援センター職員の
域包括支援センターにニーズをつなげてもらっている。
人的配置も通常の地域包括支援センターよりも厚く用意,体制
次にいわき市の地域包括支援センターの委託を受けている
自体も事務局長を中心にシステマティックに機能している。人
NPO法人地域福祉ネットワークいわきの事務局長から状況を
的配置が薄かったのは四倉包括の担当地区で被災をしていると
伺った。四倉包括は,5月いっぱいまでに地区の高齢者の安否
いうことが挙げられる。母体法人としては四倉包括へフォロー
確認をする予定であり,その際には他の地域包括支援センター
することも予定されていることから今後は通常業務戻るよう進
から職員を応援してもらう予定である。今まで四倉包括では,
めていくと思われる。
災害直後と,その後の生活について2度の安否確認を行い,ニ
我々千葉県社会福祉士会としては被害が大きく,復旧が遅れ
ーズキャッチをしている,とのことだった。
ている久之浜地区を最優先地域として,四倉包括と久之浜地区
さらに全国各地に避難しているいわき市民が避難先において
社会福祉協議会及び災害ボラセンが連携できるように顔つなぎ
介護サービスを利用していることから,避難先の行政等と介護
役を行うことが良いと判断した。また5月12日に再開予定の特
サービス利用の調整を行うことが増えている現状がある。この
別養護老人ホームS園が総合保健福祉センターゆったり館から
ことと関連して周辺町村の広野町,楢葉町から避難している住
引越しする際には人手がいることが予想された。そこで災害ボ
民の介護サービス利用についてもいわき市内の地域包括支援セ
ラセンが支援するニーズが出てくると思われる。例えば移動の
ンターで対応することにしている(2町の地域包括支援センタ
際の荷物の搬出,バスの乗降,片付けなどが挙げられる。
ーが機能していないらしいとのこと)という状況であった。
さらに避難所住民が借り上げ住宅へ移る際にも人手がいると
次に住民の状況として要介護者などを抱える家庭では,被災
思われる。災害対策本部から情報収集を行い,引越しの際には
後のストレスフルな生活状況から高齢者虐待の相談が最近出始
災害ボラセンが支援することによって,把握することが難しい
めており,地域包括支援センターの職員が医師会への会合に出
避難住民の支援の継続ができると判断した。災害ボラセンと地
席し,医師の協力が得られるよう依頼をしているとのことだっ
域包括支援センターが連携を取り,避難所住民が借り上げ住宅
た。今後は避難所に避難している住民が一時提供住宅(借り上
へ引越しするまでを災害ボラセンが支援し,その後,地域包括
げ住宅)へ移ることから,誰がどこに移るのか行政から情報を
支援センターへ受け渡すことによって継続的な支援と住民の自
もらい,地域包括支援センターで対応することが必要であると
立生活復帰につながると考えられた。借り上げ住宅への引越し
認識している,とのことだった。事務局長の話から現時点での
は,被災前の人間関係やコミュニティから離脱し,避難者が孤
地域包括支援センターの今後の役割や活動方針が明確になって
立しがちである。仮設住宅への入居は行政等の手によって管理
いる印象を我々は持った。
し見守りを受けることも可能である。それは阪神・淡路大震災
次にいわき市総合保健福祉センターゆったり館に緊急避難し
の際の仮設住宅の入居が「孤立化」を招き,孤独死や自殺など
ている特別養護老人ホームS園へ訪問した。S園は発災2日後
が生じた苦い経験があったからである。しかし,借り上げ住宅
の3月13日にいわき市からの指示があり,観光バスをチャータ
による入居は仮設住宅よりも生活環境は格段とよいかもしれな
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須田 仁
研究ノート 被災地におけるソーシャルワーカーの支援に関する課題
いが,孤立がさらに進む可能性が高い。そこで災害ボラセンが
引越しを手伝い,地域包括支援センターにつなげることによっ
て,高齢者等の実態把握につながりその後のケアが進めやすく
なろう。
以上のことから,我々は地域のアセスメントをすることによ
って現状を把握し今後,どのような支援を行っていけばよいか,
その材料を提供することができた。結果的には直接被災者に対
して何の支援も行っていない。しかし,限られた社会資源の中
で一番効果がある支援を行うためにどこを支援すればいいのか
見極め,被災地の復興を妨げないことも必要ではないかとの結
論に達した。
以上が3日間に渡る活動である。結果として,外部団体によ
る全戸を回って安否確認・生活ニーズを把握するローラー作戦
は行わないこととなった。それは既存の援助機関による安否確
認・実態把握が機能しており,外部団体がローラー作戦を実施
すれば混乱をきたすであろうと考えたのである。社会福祉士が
行う支援としては,被災している地域・住民と被災地の福祉サ
ービス事業者・福祉機関との間に入って,円滑に支援できるよ
う段取りをつけることが求められる。短い期間の中で支援でき
る事柄は限られる。地元の福祉・介護事業者や相談機関の活動
を妨げることなく,外部の支援団体が被災地住民を支援する方
法としてコミュニティワークの援用はとても有効である。しか
しながら一方で被災し疲弊している福祉・介護事業所や相談機
関に対する支援をどのようにすればよいか考える必要がある。
今後はこのような被災した福祉・介護事業所や相談機関の職員
に対してどのようにエンパワメントしていけばよいかを考えて
いきたい。
― 95 ―
⑴ 平野隆之・宮城孝・山口稔編「コミュニティとソーシャルワーク」
有斐閣2001年 p.139
聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 97-102(2012)
タイ伝統芸術舞踊の舞踊技法に関する研究
-上肢・下肢以外の身体部位に関する舞踊技法用語を中心に-
中野 真紀子
A study of the techniques of Thai traditional art dancing:
Mainly on the terms of dancing techniques concerning the body parts except arms and lower limbs
NAKANO, Makiko
要 旨
本研究はタイ伝統芸術舞踊の舞踊技法研究の基礎として位置付けられる。拙稿「タイ伝統芸術舞踊の舞踊技法
に関する研究―上肢に関する舞踊技法用語を中心に―」(2008)及び「タイ伝統芸術舞踊の舞踊技法に関する研究
―下肢に関する舞踊技法用語を中心に―」(2009)において,上肢舞踊技法用語から上肢の動作特性を,下肢舞踊
技法用語から下肢の動作特性を明らかにした。本研究は継続研究として,上肢・下肢以外の身体部位の舞踊技法
用語に注目し,それら身体部位の動作特性を明らかにしようとするものである。
上肢・下肢以外の身体部位に関する舞踊技法用語は,頭,顔,首,肩と座る姿勢に関する用語に分けられたが,上肢・
下肢の舞踊技法用語に比べて数は少なかった。
頭,顔,首,肩に関する用語の中には,各部位が互いに連動して動きをなすものが多く,似通っていたが,そ
れぞれの技法は微妙な差異を区別していた。また,これらの技法は共通して曲線的な動きが特徴となっていた。
この曲線的な動きの微妙な差異は,タイ伝統芸術舞踊の表現性をより繊細なものとし,奥行きを与える要因となっ
ていると考えられる。
以上の動作特性の結果に,更に上肢技法,下肢技法との関連から考察を進め,以下のように推察した。上肢の
曲線美に頭,顔,首,肩の曲線的な動きが伴うことで,上体の動作は,滑らかで柔らかな流麗さや優美さといっ
た表現性が増幅すると考えられる。また,上肢の曲線と下肢の角というコントラストを具えたタイ伝統芸術舞踊
の型に,頭,顔,首,肩の曲線的な動きが付随することにより,タイ伝統芸術舞踊の厳格な形式美は,さらに繊
細で微妙な味わいが付加され,より立体感をもって立ち現われると考えられる。これらを実証するには,これま
での舞踊技法用語に関する研究結果を踏まえ,実際の舞踊作品の中で舞踊技法を分析することが必要であり,今
後の研究課題としたい。
Ⅰ.はじめに
に細かく規定されているという意味において,顕著に発達して
本稿は,タイ伝統芸術舞踊の舞踊技法に関する継続研究であ
いた。それに対して,下肢の舞踊技法用語に表された形,動き,
る。筆者は,舞踊技法からタイ伝統芸術舞踊の動作特性を導く
足運びは,技巧的には単純であった。しかし下肢技法も厳密に
べく,技法の詳細な調査・分析を課題としてきた。そして,タ
規定されており,上肢と同様限定的であった。上肢・下肢の形
イ伝統芸術舞踊の厳格な継承を支える伝承言語として重要な機
や動きが厳密に規定されることにより,タイ伝統芸術舞踊の厳
能を果たしてきた舞踊技法用語に着目した。既に,拙稿「タイ
格な型1が形成されると考えられる。
伝統芸術舞踊の舞踊技法に関する研究―上肢に関する舞踊技法
更に,上肢技法は,腕のカーブや手首の回旋運動が多用され
用語を中心に―」(中野;2008)及び「タイ伝統芸術舞踊の舞
ており,手の形や軌跡を見ると,全体的に曲線的なものが多い。
踊技法に関する研究―下肢に関する舞踊技法用語を中心に―」
この柔らかい曲線美と対照的に,下肢技法は形や動きに直線的
(中野;2009)において,上肢及び下肢の舞踊技法用語につい
な角を含んでいることが特徴となっており,このコントラスト
てそれぞれ意味を解明し,上肢技法・下肢技法の動作特性につ
がタイ伝統芸術舞踊の形式美となっている。
いて考察した。具体的には以下の通りである。
本研究は,その継続研究として,上肢・下肢以外の身体部位
上肢の舞踊技法用語は,その用語に表された形や動きを見る
に関する舞踊技法用語について詳細に調べ,タイ伝統芸術舞踊
と,高さ,方向,距離など,空間に占めるポジションを厳密に
の舞踊技法研究の資料としたい。
規定することにより,形も動きも限定していた。また,似通っ
て見える動きについても,回旋方向によって,また,手首や腕
Ⅱ.目的
の運動の微妙なニュアンスの違いによって用語を使い分けてい
タイ伝統芸術舞踊の上肢・下肢以外の身体部位に関する舞踊
た。つまり上肢技法は繊細な表現性を有しており,それが厳密
技法用語の意味を解明し,技法の動作特性を明らかにし,タイ
聖徳大学短期大学部保育科・准教授
― 97 ―
中野 真紀子
研究ノート タイ伝統芸術舞踊の舞踊技法に関する研究
表1 上肢・下肢以外の身体部位に関する舞踊技法用語
通りである。
(写真:チャナダー・ガンニーウォン氏)
ⅰ 頭に関する用語
ⅰ頭に関する用語
①イアング・シーサ〔頭を傾ける〕
①イアング・シーサ〔頭を傾ける〕
ⅱ 顔に関する用語
顔と首を真っ直ぐに立て,前方を見る。片側に少し頭を傾け
る。耳と肩がずれないように頭をしっかり支え,顔がねじれな
①グローム・ナー〔顔を円く動かす〕
いように気をつける。
ⅲ 首に関する用語
①ラック・コー〔ラック:くすねる,コー:首〕
ⅳ 肩に関する用語
①イアング・ライ〔肩を傾ける〕
②ゴット・ライ〔肩を押す〕
③ヤック・ライ〔肩を上下に動かす〕
④グローム・ライ〔肩を円く動かす〕
⑤ユアング・ライ〔肩をねじる〕
⑥ティー・ライ〔肩をよじる〕
ⅱ顔に関する用語
①グローム・ナー〔顔を円く動かす〕
ⅴ 胴体に関する用語
顔と頭の動かし方。まず,前方の一点を真っ直ぐに見る。右
①ヨー・トゥア〔体を傾ける〕
から始めると仮定する。右に頭を傾ける。顔の面が下を向いた
ⅵ 座る姿勢に関する用語
り上を向いたりしないように保つ。そこから段々と顎を左側に
①ナング・クック・カウ〔膝を曲げて座る〕
向けていく。このとき,右耳の付け根のところを押しやるよう
③グラトップ・ゴン〔臀部をかち合わせる〕
ンジし,最後に頭は左に傾く。
にして,顔をゆっくりとそむけていく。それから少しずつチェ
②ナング・グラドック〔座った姿勢でのグラドック〕
*番号は本文の番号を示す。
伝統芸術舞踊の舞踊技法研究の基礎的な資料とする。
Ⅲ.方法
ⅲ首に関する用語
タイ語文献により舞踊技法用語について調べ,上肢・下肢以
①ラック・コー〔ラック:くすねる,コー:首〕
外の身体部位に関するものを抽出する。意味を読み解く作業と,
首の動かし方。頭が右に傾くとき右肩上左肩下に傾き,頭が
実際に用語が示す形や動きを確認する作業により動作特性を導
左に傾くとき左肩上右肩下に傾くように首を使う。
き出す。
なお,タイ語には日本語の発音にない音や声調があるため,
正確にカタカナ表記できない。そのため,本稿におけるタイ語
のカタカナ表記については,なるべくタイ語の発音を意識して
以下のようにしたい。母音の後のk,t,p,ŋの子音の発音に
ついては殆ど音として聞こえないため,下付文字で表記する。
Ⅳ.上肢・下肢以外の身体部位に関する舞踊技法用語
文献より,タイ伝統芸術舞踊2 の舞踊用語3 の中から上肢・
ⅳ肩に関する用語
下肢以外の身体部位に関する舞踊技法用語をできる限り抽出し
①イアング・ライ〔肩を傾ける〕
た。それらは,頭に関する用語,顔に関する用語,首に関する
肩の動かし方。傾けるほうの肩に適当な重さの錘が肩先に置
用語,肩に関する用語,胴体に関する用語,座った姿勢に関す
いてあるような感じで下に傾ける。反対の肩が上がらないよう
る用語に分けられた。
(表1)それぞれについては以下に示す
にする。
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中野 真紀子
研究ノート タイ伝統芸術舞踊の舞踊技法に関する研究
⑤ユアング・ライ〔肩をねじる〕
「グワーング・ダーン・ドング」6の型に見られる肩の動かし方。
片方の肩を落とし,同じ側に頭を傾ける。そこからわずかに円
を描くように動かす感じでチェンジし,もう一方の肩を落とす。
このとき,頭は肩よりも少し遅れてラック・コー(ⅲ①参照)に
なる。
②ゴット・ライ〔肩を押す〕
例えば「イーク・チャー」4の型において,右手は右肘を伸ば
してタング・ムー5にし,右肩がイアング・ライ(ⅳ①参照)にな
っている。そこから次のポーズに移行する際,傾いている右肩
をさらに押すように下げ,傾ける。このときの右肩の動作がゴ
ット・ライ〔肩を押す〕である。
⑥ティー・ライ〔肩をよじる〕
肩の動かし方。右肩から始めると仮定する。右肩を下げると
同時に頭を左に傾ける。そこから徐々に右肩を後方に回してい
く。それに従って頭を右に傾けていく。このとき,眼はずっと
前方の1点を真っ直ぐ見ていなければならない。肩は元に戻っ
てきて右肩下に傾く。
頭は少しずれて左に傾く。
右左交互に行う。
③ヤック・ライ〔肩を上下に動かす〕
肩と首の動かし方。脇の下を使って左右の肩を交互に下げる。
右肩を下げたら頭は左に傾ける。次に左肩を下げたら同時に頭
は右に傾ける。このときもう一方の肩は上がらないようにする。
ⅴ胴体に関する用語
①ヨー・トゥア〔体を傾ける〕
体を右に傾けると同時に体重を右に移し,体を左に傾けると
同時に体重を左に移す。ヨー・トゥアするとき,クロスした前
方と後方の両足で体重を支えるのを助けるために,常に膝を曲
げて腰を低くした状態で行わなければならない。
④グローム・ライ〔肩を円く動かす〕
頭と肩の動かし方。右肩から始めると仮定する。まず右肩を
下に傾け,頭も右に傾ける。そこから徐々に左を向いていくよ
うな感じでゆっくりと肩を回し,左肩を下げ傾け,頭も一緒に
左に傾く。このとき右肩が円を描くように動かなければならな
い。右左交互に行う。
ⅵ座る姿勢に関する用語
①ナング・クック・カウ〔膝を曲げて座る〕
膝を曲げて膝頭を床に付けて座る姿勢。両踵を付け,男役(プ
7
ラ)
は両膝頭を25センチ程離す。女役(ナーング)は両膝頭を付
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中野 真紀子
研究ノート タイ伝統芸術舞踊の舞踊技法に関する研究
ける。臀部を両踵の上に等しく体重がかかるように置き,体を
Ⅴ.結果
真っ直ぐに保つよう腰を据え,両肩を開き,顔を真っ直ぐに立
以上,文献より上肢・下肢以外の身体部位に関する舞踊技法
て眼は前方を見る。両手は中指の先を膝頭の方向に向けて両腿
用語を抽出し,それらの意味を解明し,更に実際に舞踊技法を
の上に置き,指先をぴんと張り,腕は適度に曲げる。
再現し確認することを通して,以下の点が明らかになった。
女役(ナーング)
前向き
1.上肢・下肢以外の身体部位に関する舞踊技法用語は,頭に
後ろ向き
関する用語が1個,顔に関する用語が1個,首に関する用語
が1個,肩に関する用語が6個,胴体に関する用語が1個,
座る姿勢に関する用語が3個,合計13個確認された。(表1)
2.同じ性質をもった動作について部位の使い分けがされてい
た。(表2⑴⑵)例えば,イアング・シーサ〔頭を傾ける〕と
イアング・ライ〔肩を傾ける〕はともに傾く動作を示している。
また,
グローム・ナー〔顔を円く動かす〕とグローム・ライ〔肩
を円く動かす〕はともに軌跡が横8の字を描くように動かす
②ナング・グラドック〔座った姿勢でのグラドック〕
動作である。これらのように身体部位を区別することにより,
8
動作の大きさの微妙な差異を使い分けていることが分かる。
ナング・クック・カウから左脚をグラドック すると仮定する。
左脚を曲げ折りたたむようにして,ふくらはぎをできるだけ太
3.肩に関する用語は,肩と頭の傾きが同じ側か反対側かを区
腿部と重なるようにする。そして足の親指がむこうずねに向く
別し,その上で更に微妙な差異を詳述していた。(表2⑶)
ように足首を折る。足の裏が右や左に傾かないようにする。足
例えば,肩と頭の傾きが反対側である関係をラック・コー〔ラ
の指は5本ともぴんと張る。両方の膝頭を土台とする。
ック:くすねる,コー:首〕と呼ぶ。それとヤック・ライ〔肩
を上下に動かす〕,ユアング・ライ〔肩をねじる〕,ティー・
ライ〔肩をよじる〕の技法の解説はみな似通っていたが,肩
の動きの微妙な差異を区別し限定することによって,それぞ
れ別の呼称を当てていた。舞踊技法用語の呼称に日本語訳を
当てるとかえって分かりにくくなってしまい,混乱を来す。
4.頭,顔,首,肩に関する舞踊技法用語の多くが,実際は用
語に示された部位単独の動きではなく,他の部位と連動した
表2 頭,顔,首,肩の舞踊技法用語
③グラトップ・ゴン〔臀部をかち合わせる〕
腰でリズムを刻む。このグラトップ・ゴンは,大抵ポーズ(タ
⑴ 部位が片側に傾く動き
ー・ラム)から別のポーズ(ター・ラム)へ移行するとき9に用
いる。まずナング・クック・カウ(ⅵ①参照)で座る。臀部を踵
の上に置き,体を真っ直ぐに保ち,腰と背中を緊張させる。臀
部を真っ直ぐ上に僅かに持ち上げる。このとき体を前方に突き
部位
ⅰ①イアング・シーサ〔頭を傾ける〕
頭
ⅳ①イアング・ライ〔肩を傾ける〕
肩
ⅳ②ゴット・ライ〔肩を押す〕
肩
⑵ 横8の字を描く動き
出さないように気をつける。そこから適度な強さで元の位置,
ⅱ①グローム・ナー〔顔を円く動かす〕
顔
つまり踵の上に臀部を下ろす。
ⅳ④グローム・ライ〔肩を円く動かす〕
肩
⑶ 頭・顔・首と肩が反対側に傾く,もしくは傾き
にずれが生ずる動き
ⅲ①ラック・コー〔ラック:くすねる,コー:首〕
首
ⅳ③ヤック・ライ〔肩を上下に動かす〕
肩
ⅳ⑤ユアング・ライ〔肩をねじる〕
肩
ⅳ⑥ティー・ライ〔肩をよじる〕
肩
*番号は本文の番号を示す。
― 100 ―
 
中野 真紀子
研究ノート タイ伝統芸術舞踊の舞踊技法に関する研究
動きになっていた。例えば,ヤック・ライ〔肩を上下に動かす〕
となっていることは先述した。上肢・下肢以外の身体部位に関
は,右肩を下げたら頭は左に傾け,左肩を下げたら頭は右に
する舞踊技法用語も微妙な差異を詳述することにより,動作を
傾けるというように,肩と首の関係が重要になっている。
限定していた。さらに頭,顔,首,肩の技法は曲線的な動きが
5.頭,顔,首,肩,胴体に関する舞踊技法用語が示す動作は,
特徴であり,繊細な表現性を生む要因となることが推察された。
運動エネルギーはどれも小さく,空間に占める部位の移動も
これらのことから,上肢・下肢・その他の身体各部位の技法
小さかった。全体的に曲線的な動きが多い。
が統合されることにより,さらに以下のことが推察できる。上
6.座る姿勢に関する用語は,形を表すものが2個,ポーズか
体の動作は,上肢の曲線美に加え頭,顔,首,肩の曲線的な動
ら別のポーズへ移行するときの区切りとしてリズムを刻むも
きが伴うことで,滑らかで柔らかな流麗さや優美さといった表
のが1個,合計3個あった。
現性が増幅すると考えられる。また,上肢の曲線と下肢の角と
7.座る姿勢に関する用語のグラトップ・ゴン〔臀部をかち合
いうコントラストを具えたタイ伝統芸術舞踊の型に,頭,顔,
わせる〕の動作は,運動エネルギーは僅かであり,また空間
首,肩の曲線的な動きが付随することによって,タイ伝統芸術
に占める部位の移動も僅かであった。
舞踊の厳格な形式美は,さらに繊細で微妙な味わいが付加され,
より立体感をもって立ち現われると考えられる。これらを実証
Ⅵ.まとめ
するには,これまでの舞踊技法用語に関する研究結果を踏まえ,
⑴上肢・下肢以外の身体部位技法の動作特性
実際の舞踊作品の中で舞踊技法を分析することが必要であろう。
上肢・下肢以外の身体部位の舞踊技法用語の意味を解明し分
析した結果,上肢・下肢以外の身体部位技法の動作特性として
Ⅶ.今後の課題
以下のことが言える。
拙稿「タイ伝統芸術舞踊の舞踊技法に関する研究―上肢に関
上肢・下肢以外の身体部位の舞踊技法用語は,合計13個抽出
する舞踊技法用語を中心に―」(中野;2008)及び「タイ伝統
できた。用語で表された形や動きはどれも運動エネルギーは小
芸術舞踊の舞踊技法に関する研究―下肢に関する舞踊技法用語
さく,空間に占める部位の移動も小さかった。
を中心に―」(中野;2009)に続き,本研究において上肢・下
頭,顔,首,肩に関する用語の中には,各部位が互いに連動
肢以外の身体部位に関する舞踊技法用語を解明したことにより,
して動きをなすものが多く,似通っていたが,それぞれの技法
タイ伝統芸術舞踊の舞踊技法用語の全容を解明した。
は微妙な差異を区別していた。また,これらの技法は共通して
今後の課題としては,まず頭,顔,首,肩,胴体の形や動き
曲線的な動きが特徴となっていた。この曲線的な動きの微妙な
について,実際の舞踊作品を取り上げ,今回明らかにした舞踊
差異は,タイ伝統芸術舞踊の表現性をより繊細なものとし,奥
技法用語と照合し検証する作業をしなければならない。さらに,
行きを与える要因となっていると推察される。
上肢技法,下肢技法の結果と合わせて,身体各部位の技法が実
さらに,頭,顔,首,肩,胴体に関する舞踊技法に関して,
際の舞踊の構造においてどのように関連し,舞踊運動を構成し
実際の動作の再現を試みた結果,微妙な差異を正確に再現する
ているのかについて詳細に調べなければならない。実際の舞踊
ことは難しいと思われた。顔や肩で描く曲線的な動きは,正確
作品において舞踊技法を分析することにより,タイ伝統芸術舞
な軌跡を滑らかに柔らかに描くことにおいて難度が高く,熟練
踊の表現性についてさらに追究していきたい。
度によって個人の力量差の出るところではないかと考えられる。
謝辞
⑵上肢・下肢以外の身体部位の技法と上肢技法,下肢技法との
関連
本研究はJSPS科研費24652044の助成を受けたものです。タ
イ伝統芸術舞踊の研究に際し,ウィタヤライ・ナータシン(タ
以下,上肢技法,下肢技法と関連させて更に考察を進める。
イ国立舞踊芸術専門学校)の諸先生方にご協力頂いておりま
上肢・下肢以外の身体部位の舞踊技法用語は,合計13個であ
す。また,本研究の技法用語の確認作業及び映像記録において,
った。上肢に関する舞踊技法用語が33個,下肢に関する舞踊技
Chanutda(Waraporn)Kanneewong氏(タイ国立舞踊芸術専門
法用語が25個であったので,それらと比べると数は多くない。
学校卒。元,タイダンスグループワラポーンロイヤルタイ舞踊
数から言っても格段に上肢技法の発達が読み取れる。
団主宰。
)にご協力頂きました。深く感謝申し上げます。
上肢技法・下肢技法によって上肢・下肢の形や動きが厳密に
規定されることにより,タイ伝統芸術舞踊の厳格な型が形成さ
れると考えられた。そして上肢技法の柔らかい曲線美と対照的
に,下肢技法は形や動きに直線的な角を含んでいることが特徴
となっており,このコントラストがタイ伝統芸術舞踊の形式美
― 101 ―
中野 真紀子
研究ノート タイ伝統芸術舞踊の舞踊技法に関する研究
註
6)
中野真紀子(2009)タイ伝統芸術舞踊の舞踊技法に関する研究―下肢
に関する舞踊技法用語を中心に―,聖徳大学研究紀要短期大学部第
42号,pp.55 ‐ 62
1)
「形」はいわゆる「形状」の意で用い,
「型」は「タイ伝統
本稿では,
芸術舞踊で規定された特定の形」の意で用いることとする。
タイ語で「ナータシン」(ナータ:舞踊,シン:芸術)に当たる概念に,
2)
この訳語を当てた。
タイ語で「ナータヤサップ」という。
3)
4)
タイ伝統芸術舞踊の基本舞踊メー・ボットに出てくる型の名称。タイ語
の意味は,イーク:もっと,チャー:ゆっくりで,「もっとゆっくり」。
5)
タング・ムーは上肢技法の一つ。タイ語の意味は,タング:立てる,ムー:
手で,
「手を立てる」
。親指以外の4本を伸ばし,揃えて付け,4本の
指が真っ直ぐ立つように手首を折り,親指は軽く折って手のひらの前
に置いた形。
6)
タイ伝統芸術舞踊の基本舞踊メー・ボットに出てくる型の名称。タイ語
「鹿が森を歩く」。
の意味は,グワーング:鹿,ダーン:歩く,ドング:森で,
7)タイ伝統芸術舞踊では,男役を「プラ」
,女役を「ナーング」という。
8)
下肢に関する舞踊技法用語の一つ。膝と足を後ろに上げる形。片足で
重心を支えて立ち,もう一方の足は膝を折って後方に上げる。足首を
折って足の甲をすねに向ける。
タイ伝統芸術舞踊には,ター・ラム(ター:姿勢,ラム:踊り)という
9)
概念がある。タイ伝統芸術舞踊の構造を見ると,ター・ラムからター・
ラムへ(一つの型から別の型へ)の移行が確認でき,構造上の特徴となっ
ている。
7)
波照間永子(1997)琉球古典舞踊「女踊り」における上肢動作の特性:
伝承言語の分析を手がかりに,日本体育学会 第48回大会,p.630
8)
富燦霞(2001)京劇戯曲舞踊における写意の表現技法に関する研究:
頭部と手の表現技法を中心に,人間文化研究年報25,お茶の水女子
大学人間文化研究科,pp.42-53
9)富燦霞(2004)台湾における京劇戯曲舞踊の基本技法研究―部位技法
の原理,舞踊学27,pp.13-25
10)
富燦霞(2007)台湾における京劇戯曲舞踊の基本技法研究―全身の動
きにみる身体表現の原理―,演劇研究センター紀要Ⅷ早稲田大学21
世紀COEプログラム(演劇の総合的研究と演劇学の確立)8,pp.225
‐ 238
11)
又吉静江(1997)琉球舞踊における身体技法:「ガマク入れ」 に関す
る研究,沖縄県立芸術大学紀要5,pp.5-32
12)
丸茂美惠子(佑佳)(2006)日本舞踊における奴形技法の体系化への
試み,日本大学芸術学部紀要43,pp.13-26
タイ語文献
1)พนิดา สิทธิวรรณ(1979 )รำ�ไทย และ เบิกโรงมหรสพ, คณะบ้านปลายเนิน
パニダー・スィティワン(1979)タイ舞踊と舞台上演,プライヌーン
の家
2)
เรฌู โกศินานนท์(2001)นาฏยศัพท์ภาษาท่านาฏศิลปไทย, ไทยวัฒนาพานิช
レーヌー・ゴースィナーノン(2001)タイ伝統芸術舞踊の舞踊用語と
型,タイワッタナーパーニット
参考文献
日本語文献
1)
蒲生郷昭(2007)技法用語から見た舞楽と能(第一四回[楽劇学会]大会
奏演とシンポジウム舞う:舞楽と能),楽劇学14,pp.46-57
2)
川田禮子;三隅治雄(2004)琉球舞踊:その伝統技法と特色(<02年
芸能セミナー>講演),年刊藝能10,pp.91-105
中野真紀子(1995)タイ舞踊の表現性―厳格な形式美の継承―,女子
3)
体育37⑶,pp.52-56
中野真紀子(1999)タイの仮面舞踊劇コーン,女子体育41⑽,pp.594)
60
5)
中野真紀子(2008)タイ伝統芸術舞踊の舞踊技法に関する研究―上肢
に関する舞踊技法用語を中心に―,聖徳大学研究紀要短期大学部第
41号,pp.63 ‐ 70
― 102 ―
3)เรฌู โกศินานนท์(2002)นาฏศิลปไทย,ไทยวัฒนาพานิช
レーヌー・ゴースィナーノン(2002)タイ伝統芸術舞踊,タイワッタ
ナーパーニット
4)สุมนมาลย์ นิมเนฅิพันธ์(1989)การละครไทย,ไทยวัฒนาพานิช
,タイワ
スモンマーン・ニムナートパン(1989)タイの演劇(舞踊劇)
ッタナーパーニット
5)อาคม สายาคม(2002)รวมงานนิพนธ์ ของ นายอาคม สายาคม, กรมศิลปากร
アーコム・サーヤーコム(2002)アーコム・サーヤーコム著作集,タ
イ国芸術局
6)อาภรฌ์ มนตรีศาสตร์ ・จาตุรงค์ มนตรีศาสตร์(1982)
นาฏศิลปเพือการศกษาเบองต้น,องค์การค้าของคุรุสภา
アーポーン・モントリーサート,ヂャートゥロン・モントリーサー
ト(1982)初等教育のためのタイ伝統芸術舞踊,タイ国教師会商業会
聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 103-109(2012)
学生支援員の活動実態と活動へのサポート上の課題
河村 久*1 腰川 一惠*2
A survey of the actual conditions and the problems of activities
of student school supporters
KAWAMURA, Hisashi and KOSHIKAWA, Kazue
要 旨
近年,大学において教職課程を履修する学生の多くが,何らかの形で小学校等においてボランティア活動等に
従事するようになっており,小学校等の教育活動を円滑に進める上で欠かせない人的資源の一つとなっている。
これは,学生にとって教師としてのキャリア形成に向けた基礎を培う上で大切な機会であると考えられる。しかし,
障害のある児童を含む様々な児童に対する学生の支援活動については,学校とのコミュニケーションが十分図れ
ない,支援員を育成する研修のプログラムがないなど課題も多いと指摘されている。
そこで,本調査研究ではS大学で教職課程を履修し,教師を目指して小学校において学生支援員を行っている
学生を対象に,活動実態と活動上の課題,課題解決への意見,学校からのサポートの状況等を調査し,児童の発
達と学校の教育活動の充実に資する支援活動の改善方策について検討するとともに,学生の育成という観点から
も考察する。
Ⅰ.はじめに
く,学習支援員なども含めて「学生支援員」として調査を実施
2007年から文部科学省は,「特別支援教育支援員」を配置
した。
するための地方財政措置を開始した。初年度は小・中学校に
特別支援教育が推進される中で,学校が支援員をサポートす
22,602人の配置(実数)であったものが,2012年には小・中学校
る,有効に活用するための体制作りを整えていることも報告さ
に約36,500人,幼稚園,高等学校も含めると約41,500人分の予
れてきている。例えば,富山県における学生支援員(スタディ
算措置(事業費,約476億円)を行うに至っている。「特別支援
メイト・ジュニア)の取組である。富山県では2007年から学生
教育支援員」は,幼稚園,小・中学校,高等学校において,校
支援員をスタディメイト・ジュニアと称することとし,その養
長,教頭,特別支援教育コーディネーター,担任教師等と連携
成に当たっては富山大学の授業科目を利用することとし,受け
の上,日常生活上の介助,発達障害等の幼児児童生徒に対する
入れ校と大学,県教育委員会による連絡協議会を設置した(小
学習支援,幼児児童生徒の健康・安全確保,周囲の幼児児童生
林・水内・武蔵,2008)
。
徒の障害理解促進等を行うものとされている。特別支援教育支
また,東京都足立区では,文教大学との間で特別な支援を必
援員には,教員免許状などの資格は特に求めておらず,したが
要とする児童生徒への教育内容・方法等についての研究交流に
って自治体によって大学生を活用する例,地域の人材を活用す
関する協定を結び,大学と自治体の連携による学生支援員の派
る例など,様々である。このような実態を踏まえ,文部科学省
遣を行っている(霜田・伊澤・星野,2010)
。
は2007年「特別支援教育関係ボランティア活用事例集」を発行
しかし,小・中学校を対象もしくは学生支援員を対象とした
し,支援員の活用を推進している。
調査では,問題点として,学生支援員が学校に対して問題点
一方,小・中学校側からは,特別支援教育の本格実施に当た
や課題を認識しても,学校側はそのことを理解していない場
って,指導・支援のための補助的な人材の確保が強く求められ
合が少なくない(甲斐・片岡・雲井,2009),支援員を対象と
た。「特別支援教育支援員」の配置もその要請に応える行政措
した研修も実施されていないもしくは研修時間の少ない自治
置の一環である。冒頭に示したように,支援員の配置に対する
体が多い(庭野・阿部,2008)
,担任教師との連携の問題(庭野,
学校からのニーズは年々高まっており,その中で学生が果たす
2011)などが指摘されている。学生支援員の場合,支援員とし
役割も特別支援教育の推進上重要な課題となっている。本研究
ての活動を長年継続することが困難であること,学生という立
では,学生に対する各地域・学校の名称や位置付けが様々であ
場で支援の困難さを学校に伝えることが十分できないことも予
ることを踏まえ,特別支援教育支援員と銘打ったものだけでな
測され,学校に学生支援員が必要とするサポートが十分に伝わ
*1:聖徳大学児童学部児童学科・教授/*2:聖徳大学児童学部児童学科・准教授
― 103 ―
河村 久 腰川 一惠
調査研究 学生支援員の活動実態と活動へのサポート上の課題
表1 回答者の概要
っていないことが考えられる。
学生支援員には,学校の教育活動を円滑に行うための支援活
学年
動を行う中で,障害のある児童を含めて様々な児童への理解を
深め,指導・支援の技能を高めること,小学校の現状と課題を
把握することにより将来の教員としての資質を向上させていく
所属
ことが期待される。支援員を受け入れる学校にも,学級運営や
学習指導の難しさを学生支援員等の導入により回避するといっ
た消極的な受け入れにとどまらず,支援員の能力向上に積極的
に取り組むことが求められる。
そこで本研究では,現在,学生支援員である学生を対象にし
3年次
44名(62.9%)
合 計
70名
(100.0%)
4年次
児童学科小学校教員養成コース 66名(94.3%)
児童学科幼稚園教員養成コース 2名 (2.9%)
社会福祉学科(養護教諭養成)
特別支援教育支援員
小学校での 学習支援員
支援活動の
理科支援員
種別
(複数回答) その他
不明
て,学生が感じる支援員としての問題点や課題,学校の学生支
1年未満
援員に対するサポートの現状を把握する。また,学生が学校に
希望する支援員としての問題・課題の解決方法を把握し,学校
支援経験
における学生支援員のサポート体制について考察する。
26名(37.1%)
1年以上
不明
平均
2名 (2.9%)
5名 (7.1%)
63名(90.0%)
3名 (4.3%)
3名 (4.3%)
1名 (1.4%)
45名(64.3%)
24名(34.3%)
1名 (1.4%)
0.41年
Ⅱ.研究方法
1.調査対象
Ⅲ . 結果
教員資格取得を希望し,小学校において支援員として活動し
1.調査回答者の概要
ているS大学3,4年生を対象に質問紙調査を実施し70名から
回答者の概要は表1のとおりである。
回答を得た。
2.支援活動の場
2.調査方法・時期
複数回答であるが,通常学級66,特別支援学級16,教育相談
特別支援教育関係授業及び小学校教員養成コース3年次担任
室1であった。
に依頼して実施。実施時期は2012年5月~6月。
3.支援活動の形態
3.調査内容
個別指導20件,クラス全体又は小集団指導62件であり,その
⑴学生に関する情報
うち,特定の支援対象児童がいると回答した件数は31件であっ
年齢,学年・学科・コース,取得予定免許・資格,小学校で
た。特定の支援対象児童がいる場合でも,クラス全体の指導補
の支援活動の種別,支援経験,支援先
助をしながら対象児童への支援に気を配るという形態での支援
⑵支援活動の場・支援形態等
活動が31件中25件で行われていた。
支援先,担当学年,支援形態,支援記録の有無
⑶支援活動の内容
4.配属学年
支援活動の内容を18項目あげ,
「ぜんぜんあてはまらない」
「あ
学生が支援に入っている学年は,1年39,2年41,3年38,
まりあてはまらない」
「どちらでもない」
「だいたいあてはまる」
4年29,5年31,6年29と,比較的低学年が多いものの,全学
「ぴったりあてはまる」のいずれかに○をつけてもらった。ど
れにも当てはまらない場合は「その他」として記述してもらった。
年に散らばっている。そのうち,複数学年にまたがるものが41
件(全学年に入っているものが21件)あった。
⑷①支援員が感じた支援上の問題点・課題,②問題や課題を解
決するための方途,③学校における支援員へのサポート内容,
5.支援記録の有無
④支援活動を通じての気付き・学び。以上4項目について,自
支援活動を行っている学生がその活動記録を作成しているか
由記述をしてもらった。
どうかを尋ねたところ,
「作成している」学生が35(50.0%),
「作
成していない」学生が30(42.9%)
,回答無しが5(7.1%)であっ
4.分析方法
た。支援記録は,学生の様々な気付きを促すツールであるとと
支援活動の内容では,「ぴったりあてはまる」「だいたいあて
もに,学級担任等と連携するためのツールとしても有効に活用
はまる」と回答した数を抽出し,⑷の自由記述に関しては,回
できるものである。
答の内容を分類し,各分類の人数を算出した。
― 104 ―
河村 久 腰川 一惠
調査研究 学生支援員の活動実態と活動へのサポート上の課題
表2 支援員の活動内容(回答数順)
n=70 複数回答
活動内容
回答数
制作,調理,自由遊び等で指導補助
他傷,自傷等の防止
適切な接し方をする児童の賞賛
安全確保,居場所の確認
読みの困難な児童への黒板の読み上げ
周囲の児童に支援や接し方の伝達
37
れたため,1項目を増やして19項目で集計した。
28
答した支援活動を回答数順に整理したものが,表2である。
22
かったのが「行動上の課題がある児童の介助と安全確保」であ
31
学生が「ぴったりあてはまる」
,
「だいたいあてはまる」と回
28
この結果を,内容から5つにまとめ分類したところ,最も多
21
周囲の児童に特性等を伝達
り,次いで「実技を伴う授業や遊ぶ等の場面での指導補助・介
21
聴取困難児童に繰り返し聞かせる
助と安全確保」であった。逆に「日常生活動作の介助」に関す
19
整理場所を教える等の介助
る内容が最も少ない結果であった(表3)
。
17
書字困難児童への代筆
12
衣服の着脱の介助
支援員の活動内容を活動形態別に2群に整理してみると,ク
10
校外学習の際の介助
てんかん発作等の掌握
 8
ラス全体又は小集団での指導を行っている群は,全体集計と同
 2
「行動上の課題がある児童の介助,安全確保」が第3位,「支援
 1
外に直接支援対象の児童の支援にかかわる活動が少ないという
様の結果であった。それに対し個別指導を行っている群では,
 6
排泄の介助
車いすを押す
 1
車いすの乗降介助
不登校児童へのカウンセリング補助
対象児童の学習・生活困難に対応した支援」が第4位と,予想
 1
食事の介助
支援員としての活動内容を18項目で尋ねたところ,選択肢に
なかった「不登校児童へのカウンセリング補助」が記述回答さ
41
実技を伴う授業で介助,安全確保
6.支援員としての活動内容
結果であった(表4)。すなわち,個別指導を行っている群の
 0
支援員も,実際の活動は「周囲の児童の理解推進」や「実技を
表3 支援員の活動内容(分類別)
n=70(複数回答)
分類
件数(構成比)
内容内訳
行動上の課題がある児童の介助,安全確保
84(27.6%)
他傷,自傷等の防止,安全確保,居場所の確認,整理場所を教える
等の介助,校外学習の際の介助
実技を伴う授業や遊ぶ等の場面での指導補
助・介助,安全確保
78(25.7%)
制作,調理,自由遊び等で指導補助,実技を伴う授業で介助,安全
確保
周囲の児童の理解推進
70(23.0%)
周囲の児童に支援や接し方の伝達,特性等を伝達,適切な接し方を
する児童の賞賛
支援対象児童の学習・生活困難に対応した
支援
60(19.7%)
読みの困難な児童への黒板の読み上げ,聴取困難児童に繰り返し聞
かせる,書字困難児童への代筆,てんかん発作等の掌握,不登校児
童へのカウンセリング補助
日常生活動作の介助
12 (3.9%)
食事,衣服の着脱,排泄,車いすの介助
※構成比は,端数処理の関係で100%になっていない。
※回答件数は内容内訳に示した各項目の回答を分類項目にまとめて合計しているので,nを上回るものがある。
表4 支援員の活動内容(活動形態別)
n=70(複数回答)
クラス全体又は小集団での支援
個別指導実施
行動上の課題がある児童の介助,安全確保
63(29.4%)
21(23.1%)
実技を伴う授業や遊ぶ等の場面での指導補助・介助,安全確保
56(26.2%)
22(24.2%)
周囲の児童の理解推進
47(22.0%)
23(25.3%)
支援対象児童の学習・生活困難に対応した支援
40(18.7%)
20(22.0%)
日常生活動作の介助
  9 (4.2%)
  5 (5.5%)
分類
(n=49)
※%は各群ごとの構成比を示す。
― 105 ―
(n=21)
河村 久 腰川 一惠
調査研究 学生支援員の活動実態と活動へのサポート上の課題
表5 その他,学生が記述した具体的な活動内容
学で学んだことと現場との違いがある」1(1.4%)のように関係
・授業中(国語,算数が中心)個別に学習
支援。
・学習支援(学習の進んだ子にはもっと高
い課題を,遅れた子にはヒントを与えた
り,一緒に解いたりする)。
・授業中わからないところがあったら教え
る。問題ができたら丸付けをする。
授業における学
習支援
・授業内での問題の採点,机間指導,個別
指導。
・調理実習や体育,クラブなどの安全確認。
・全体での学習が困難な児童に個別学習を
行う。
・補習ボランティアとして算数の勉強の補
助をしている。
・漢字ドリルや宿題の採点。
採点業務の補助 ・テストや提出物の採点。
・授業内での問題の採点。
教室環境の整備
て分析したところ,1年未満の学生の回答傾向は「児童への接
し方」が圧倒的に多く32(71.1%)
,次いで「支援の程度」が22
(48.9%)であった。これに対し,1年以上の学生の回答傾向は
「支援の程度」13(54.2%)
,
「児童への接し方」13(54.2%),「教
師間の指導方針,方法の違い」6(25.0%)
,
「学校側との連携」
3(12.5%)
,
「大学で学んだことと現場との違い」1(4.2%)と問
題意識が広がっていることが見受けられた(表7)
。
支援の必要な児童の理解を深め,特性等を踏まえた接し方,援
生活指 導 補 助, ・偏食をなくす支援。
遊び相手
・掃除指導。
・1年生の帰宅指導。
・あいさつ運動。
学校行事補助
この結果を支援員としての経験1年未満と1年以上とに分け
週に1回程度,あるいは不定期に支援に赴く学生にとって,
・休憩時間に児童と遊ぶ。
・給食の準備の手伝い,配膳補助。給食指導。
水泳指導補助
者間での差があることへの戸惑いがうかがわれた(表6)。
助を行うというのは,一定の経験があっても非常に難しいこと
であることを示している。学生の記述からその内容を拾ってみ
ると,次のようであった。
「支援の程度が分からない」と回答した学生の中で1年未満
の学生は,
「援助する範囲が分からなくて,手を出してよいの
・プールの指導補助。
・プール見学の児童への指示。
か,出さなくても大丈夫なのか分からなかった。」,「どこまで
児童を注意したらよいか分からなかった。どこまで手を貸して
・校外活動の引率。
・3年生の梨園見学,市内見学に参加。
・運動会練習の補助。
よいのか,
どこまで自分の力でできるのかが分からない。」など,
児童の実態について十分把握できない中で支援行動を求められ,
困惑した経験を綴っていた。このことは「児童への接し方が分
・環境整備(教室)。
・掲示物の手伝い。
からない」という回答にもつながる。児童への接し方をあげた
学生の回答をみると,1年未満の学生では「どのように接した
伴う授業や遊ぶ場面での指導補助,安全確保」に向けられてい
らよいか分からない。距離感がつかめない。」といった回答の
ると考えられた。
他に,「何をどのように教えたらよいのか,一人一人違うので
その他,学生が記述した具体的な活動内容には表5のような
悩んだ。学習意欲の乏しい児童が何人かいて,つきっきりにな
ものがあり,多岐にわたっていることが分かる。
ってしまうことが多くあった。」
,
「学習についていけない子ど
もが,黒板を写すことで精一杯となっている。いろいろな方法
7.学生支援員の問題・課題
で算数を教えるのだが,伝わっていないようだ。自分の指導力
学生が感じた支援上の問題点・課題では,「児童への接し方
のなさを実感した。」など,個々の児童の状態等に応じた指導
が分からない」という回答が最も多く,45(64.3%)を占めており,
方法で悩んだ経験が語られていた。また,1年以上の経験のあ
次いで,支援対象の児童の支援をどこまでしたらよいか分から
る学生でも「担任との関係であまり出しゃばって指示はできな
ないという「支援の程度が分からない」が36(51.4%)と多かった。
い。」
,
「担任教師の指導方針もあるので児童を叱ることができ
また,人数は少なくなるが,「教師間で指導方針,方法の違い
なかった。」といった,学級担任との関係を考慮し,担任と児
がある」9(12.9%)「学校側との連携の仕方」7(10.0%)
,
「大
童との間で判断に迷う場合も少なくないことが示された。
表6 学生支援員の感じた支援上の問題点・課題
さらに,「教師間での指導方針,指導方法の違い」をあげた
n=70(複数回答)
児童への接し方が分からない
支援の程度が分からない
教師間で指導方針,方法の違いがある
学校側との連携の仕方
大学で学んだことと現場との違いがある
45
(64.3%)
36
(51.4%)
9
(12.9%)
7
(10.0%)
1(1.4%)
学生では,「学級によって決まりが違うので,提出物をいつ出
すのかと児童に聞かれたとき,答え方が曖昧になってしまっ
た。」
,
「他の学年ではやっていけなかったことをやっていたの
で注意したら,その学年ではやってよいことであった。クラス
によって違いがある。」といった回答が寄せられた。複数学年
に配置されている学生が6割近くを占める状況を考えると,こ
― 106 ―
河村 久 腰川 一惠
調査研究 学生支援員の活動実態と活動へのサポート上の課題
表7 学生支援員の感じた問題点・課題(経験別)
児童生徒への
接し方
支援の程度
n=70(複数回答)
教師間の指導方
大学で学んだこと
学校側との連携
針,方法の違い
と現場との違い
なし
1年未満(n1=45)
32
(71.1%)
22(48.9%) 3(6.7%)
4(8.9%)
0
(0.0%)
3
(6.7%)
1年以上(n2=24)
13
(54.2%)
13(54.2%) 6
(25.0%)
3
(12.5%)
1
(4.2%)
0
(0.0%)
0(0.0%)
0(0.0%)
0
(0.0%)
0
(0.0%)
不明(n3=1)
0(0.0%)
1
(100.0%) ※%は n1 ~ n3 それぞれの中での割合を示した。
表8 学生が考える課題解決の方途(経験別)
n=70(複数回答)
回答内容の分類
1年未満
1年以上
不明
合計(割合)
担任教師と支援方法等について打ち合わせや情報交換が必要
22
(48.9%) 16
(66.7%) 0 (0.0%) 38
(54.3%)
支援が必要な児童の情報収集,情報共有が必要
10
(22.2%) 3
(12.5%) 0 (0.0%) 13
(18.6%)
0(0.0%) 2(8.3%) 0 (0.0%) 2(2.9%)
学級の決まりについて支援員にも周知する必要
5
(11.1%) 4
(16.7%) 0 (0.0%) 9
(12.9%)
他の支援員と情報交換などする機会を設ける
0(0.0%) 1(4.2%) 0 (0.0%) 1(1.4%)
TTにより個別指導を強化
コーディネーターや特別支援学級担任,スクールカウンセラーなど,
5
(11.1%) 0(0.0%) 0 (0.0%) 5(7.1%)
担任以外の関係者とも話ができる機会を
教員の共通理解が必要
1(2.2%) 0(0.0%) 0 (0.0%) 1(1.4%)
11
(24.4%) 6
(25.0%) 1
(100.0%) 18
(25.7%)
無回答
※1年未満 n=45,1年以上 n=24,不明 n=1. % は経験別回答数の中での割合を示した。
のような学年間・学級間での指導方針や指導方法の違いは,支
あるいは放課後に指示や助言がある」15(21.4%),「支援ノー
援を行う際の困難要因の一つとなっていることが推察できる。
トを活用したり,休み時間などを活用したりして助言や伝達等
がある」3(4.3%)
,
「授業以外の業務についても理解を深める
8.学生支援員が考える課題解決のための方途
指導があった」3(4.3%)であった(表9)
。
学生の回答が多かった項目は,「担任教師と支援方法等につ
具体的には,
「場や必要に応じて助言や指導が行われている」
いての打ち合わせや情報交換が必要」であり38(54.3%)
,次い
では,「けんかの際の対応について,具体的にどこがいけない
で「支援が必要な児童の情報収集,情報共有が必要」13(18.6%)
のかを指導するよう助言を受けた。」,「学級での指導時,どの
であった。また,他の支援員や担任以外の関係者と児童や支援
ような立ち位置にいればよいのか助言をもらった。
」などがあ
に関する情報交換を求める回答も,合わせると14(20.0%)を占
げられた。また,「支援に入る前,あるいは放課後に指示や助
めていた。その他「学級の決まりについて支援員にも周知する
言がある」では「朝の時点で一日の動きを示してもらい,注意
必要がある」,
「TTにより個別指導を強化する必要がある」
「教
,
点などを助言してもらう。」,「朝の会や放課後に『今日はこの
員の共通理解が必要である」という回答が記述されていた(表
ように指導してください』と,その日の児童に応じた援助方法
8)
。
学生の支援経験1年未満と1年以上で回答傾向を比べてみる
と,双方とも担任教師との打ち合わせや情報交換が最も必要で
あると考えていることに違いはないが,1年未満の学生は次い
で児童の情報収集,共有を求めているのに対し,1年以上の学
生は他の支援員との情報交換の機会を求めていることが明らか
になった。
表9 支援先の学校が行っている支援員へのサポート
n=70(複数回答)
サポートの内容
回答数
支援に入る前,あるいは放課後に指示や助言
15(21.4%)
がある
支援ノートを活用したり,休み時間などを活
3(4.3%)
用したりして助言や伝達等がある
場や必要に応じて助言や指導が行われている 21(30.0%)
9.学生支援員への学校からのサポート
方法や時間帯は異なるが教員からの助言や指導があると回答
した学生は47名(67.1%)であり,その内訳は,「場や必要に応
じて助言や指導が行われている」21(30.0%),「支援に入る前,
担任教師以外からの助言があった(通級指導
2(2.9%)
担当者,スクールカウンセラー等)
教材や理解資料等を配布された
2(2.9%)
授業以外の業務についても理解を深める指導
3(4.3%)
があった
― 107 ―
河村 久 腰川 一惠
調査研究 学生支援員の活動実態と活動へのサポート上の課題
を教えてくれる。
」などである。支援ノートを活用して一人一
のに対し,1年以上では「②支援員等としての活動の在り方に
人の児童について共通理解を図っているという回答は1名のみ
ついての気付き」に50.0%,
「①児童の個性・特性・実態等につ
であった。「授業以外の業務についても理解を深める指導があ
いての気付き」に41.7%と,この2項目に回答が集中している
った」の具体的な内容は,「職員会議その他授業以外の業務に
ことが示された(表11)
。
ついて教えてもらった。」,「研究授業に参加させてもらった。」
Ⅳ.考察
である。
本研究では,現在,学生支援員である学生を対象にして,小
10.学生の気付き
学校における支援活動の実態について調査した。その結果の要
支援活動を通して気付いたこと,学んだこと若しくは感じた
点は以下のとおりである。
ことを記述してもらい,その内容を分類したところ,次の5項
1.支援活動の形態としては,クラス全体又は小集団指導にお
目に集約された。
ける支援活動が多く,個別指導を行っているケースは全体の
① 児童の個性・特性・実態等についての気付き
3割であった。また,特定の支援対象児童がいる場合でもク
② 支援員等としての活動の在り方についての気付き
ラス全体の指導補助をしながら対象児童に気を配るという形
③ 学習指導,授業の在り方・進め方についての気付き
態での支援活動が多かった。これは,児童の支援ニーズによ
④ 学級経営についての気付き
ることもあるが,学級担任の困り感と保護者の困り感が一致
⑤ 小学校通常学級の実態についての気付き
していないため,クラス全体への支援を行いながら対象児童
内容分類別では,①児童の個性・特性・実態等についての
を見守るといった方法をとらざるを得ない場合が少なくない
気付きが最も多く25(35.7%),次いで②活動の在り方につい
ことを示唆している。
ての気付き23(32.9%),③学習指導,授業の在り方・進め方に
2.学生支援員の配属学年は,全学年に散らばっていた。この
ついての気付き20(28.6%),④学級経営についての気付き15
ことが意味することは,第1に,支援を必要としている学年
(21.4%),⑤小学校通常学級の実態についての気付き14(20.0%)
がほぼ全学年に広がっていること,第2に,支援の必要な児
の順で続いた(表10)。
童の状態の変化に応じて,その都度入る学年・学級を選択し
ている結果,様々な学年・学級に配属せざるを得なくなって
いる結果とも受け取れる。
学生の気付きを,支援経験1年未満と1年以上とで比較して
みると,1年未満では①から⑤の各項目に回答が分散している
3.支援記録の作成については,半数の学生が行っていると回
答した。支援記録を作成するかどうかは,活動内容によって
も異なるとはいえ,学生の児童理解や問題意識を深め,教員
表10 支援活動を通しての学生の気付き
n=70(複数回答)
気付きの内容分類
児童の個性・特性・実態等についての気付き
支援員等としての活動の在り方についての気
付き
23(32.9%)
20(28.6%)
小学校通常学級の実態についての気付き
14(20.0%)
無回答
いかと考えられる。今回の調査結果からはその有効性を確認
25(35.7%)
学習指導,授業の在り方・進め方についての
気付き
学級経営についての気付き
を目指す者としての資質を向上させる上で有効な方法ではな
回答
することはできなかったので今後の課題としたい。
4.支援活動の内容については,行動上の課題のある児童の介
助・安全確保や実技を伴う授業や遊ぶ場面での指導補助・安
全確保が多かった。通常学級に在籍する発達障害のある児童
15(21.4%)
を含め,様々な教育的ニーズを有する児童が在籍している実
態の中で,学生等の支援員に学校側が期待している内容も,
8(11.4%)
それらの面にあることが改めて確認できた。
表11 支援活動を通しての学生の気付き(経験別)
n=70(複数回答)
児童の個性・特性・ 支援員等としての 学習指導,授業の
小学校通常学級の
学級経営について
実態等についての 活動の在り方につ 在り方・進め方に
実態についての気
の気付き
気付き
いての気付き
ついての気付き
付き
無回答
1年未満(n1=45) 15
(33.3%)
11
(24.4%)
14
(31.1%)
11
(24.4%)
10
(22.2%)
6(13.3%)
1年以上(n2=24) 10
(41.7%)
12
(50.0%)
6
(25.0%)
4
(16.7%)
4
(16.7%)
1 (4.2%)
0(0.0%)
0(0.0%)
0(0.0%)
0(0.0%)
0(0.0%)
1(100.0%)
不明(n3=1)
※%は n1 ~ n3 それぞれの中での割合を示した。
― 108 ―
河村 久 腰川 一惠
調査研究 学生支援員の活動実態と活動へのサポート上の課題
本研究では,このような活動実態を踏まえ,学生が感じる支
上で述べたように学生にとって教師としてのキャリア形成に向
援員としての問題点や課題,その問題点・課題の解決方法への
けた基礎を培う上で大切な機会となっているといえる。しかし,
学生の意見,学校の学生支援員に対するサポートの状況につい
本調査で明らかとなったように,学生は支援員として活動する
て調査した。
中で様々な課題に直面し,適切なサポートを求めている。この
その結果,「児童への接し方が分からない」という回答が最
ことを学校現場と学生を派遣する大学とが共通理解し,適切な
も多く,次いで「支援の程度が分からない」という回答が多く
サポート体制を構築していくことが重要である。また,学生を
みられた。週に1回程度,あるいは不定期に支援に赴く学生に
派遣する大学と小学校や教育委員会との連携の在り方,大学で
とって,支援の必要な児童の理解を深め,特性等に応じた援助
の学生支援プログラムの在り方等について,今後検討が必要で
を行うというのは非常に困難な課題である。しかも,複数学年
ある。
に配属される学生が多いというデータから,学校を訪問する度
に異なった学年・学級への支援を求められている状況が推測で
付記
きる。とすれば,児童の理解を深めること自体が難しいという
本調査研究のデータの一部は,2012年9月日本特殊教育学会
ことも考えられる。学生は課題解決への意見の中で,児童につ
第50回大会において発表されている。
いての情報の共有や指導方法等についての打ち合わせや情報交
換を強く求めている。小学校の教員は今,非常に多忙であり,
文献
打ち合わせ等を行う時間を確保することも難しい現状であるこ
とは十分理解できる。また,児童に関する情報については,高
度の個人情報に属する内容もあることから,学生支援員等への
情報提供に慎重になるといった事情もあるのではないかと推察
するところである。
そこで,児童への支援体制を充実させ,学生等の支援員を有
効に活用するためには,次のような工夫が必要なのではないか
と考える。①計画的な配置,活動の充実を図るコーディネート
業務を行う担当者を明確にすること,②コーディネーターと配
属先の学級担任との連絡調整を行い,学年・学級によって食い
違いが生じないような配慮を行うこと,③本調査では支援ノー
トの活用という回答は少なかったが,支援員と打ち合わせする
時間が取りにくい場合,ノートや連絡票などを使って指示を行
うなどの工夫を行うことなどが考えられる。
また,児童の情報共有については,支援員等外部のスタッフ
にも守秘義務が課せられていることを踏まえ,支援に必要な情
報については積極的に提供し,支援員も立場を自覚して支援に
当たるという体制を構築していくことが大切であろう。
学生は,支援活動を通じて様々なことに気付き,成長してい
ることが分かる。児童の個性や特性等についての気付き,学習
指導の在り方や授業の進め方についての学び,学級経営につい
ての気付きなどは,将来の教員として必要な職業的な専門性の
基礎を身に付けていると受け取ることができる。また,支援活
動1年以上の学生では,支援員としての自らの在り方を振り返
り,学校・教員の実情を踏まえて活動をどのように行ったらよ
いか考えている様子が浮かんでくる。
近年,大学において教職課程を履修する学生の多くが,何ら
かの形で小学校等においてボランティア活動等に従事するよう
になっており,小学校等の教育活動を円滑に進める上で欠かせ
ない人的資源の一つとなっていることは疑いがない。これは,
― 109 ―
文部科学省初等中等教育局特別支援教育課(2007) 「特別支援教育支援
員」を活用するために
文部科学省初等中等教育局特別支援教育課(2007) 特別支援教育関係ボ
ランティア活用事例集
小林真・水内豊和・武蔵博文(2008)富山県における学生支援員(スタデ
ィメイト・ジュニア)について⑴支援員を派遣するための体制づくり
日本LD学会第17回大会論文集,pp.414-417
霜田浩信・今野義孝・足立区教育相談センター(2008)特別支援教育に
おける学生支援員の活用の在り方 日本LD学会第17回大会論文集,
pp.646-647
霜田浩信・伊澤信三・星野常夫(2010) 大学と自治体・学校が連携した
学生支援員による支援の検討 日本特殊教育学会第48回大会論文集
pp.394
甲斐更紗・片岡美華・雲井未歓(2009) 学生支援員の活用状況とその効
果-A地区のアンケート調査の結果より- 鹿児島大学教育学部教
育実践研究紀要19,pp.255-261
庭野賀津子・阿部芳久(2008) 東北地方の小中学校における特別支援教
育支援員の配置状況と研修ニーズに関する調査研究 東北福祉大学
研究紀要32,pp.305-320
庭野賀津子(2011) 特別支援教育支援員活用の現状に関する調査-学級
担任との連携における課題- 東北福祉大学研究紀要35,pp.265-277
吉原真寿美・都築繁幸(2010) 小学校の特別支援教育支援員の在り方に関
する事例的考察 愛知教育大学研究報告59(教育科学編),pp.21-28
聖徳大学研究紀要 聖徳大学 第 23 号 聖徳大学短期大学部 第 45 号 111-119(2012)
定期健康診断において貧血・貧血傾向と判定された
女子学生の食事摂取状況について
川野 直子*1 桂 きみよ*2 田島 悦子*3 濱田 朋美*4 所 敏治*5
A survey of the dietary of female students with anemia
or anemic tendencies diagnosed by the periodical health examination
KAWANO, Naoko, KATSURA, Kimiyo, TAJIMA, Etsuko, HAMADA, Tomomi and TOKORO, Toshiharu
要 旨
【目的】
学校保健安全法では,定期健康診断(以下,定期健診)の実施を定めており,実施者に肥満や貧血の有無等の
栄養状態の把握を求めている。しかし実際の定期健診時に食事調査を実施している大学は殆どなく,血液検査に
よって貧血・貧血傾向と判定された者の栄養素等摂取状況については,不明な点が多い。そこで本研究では,定
期健診において貧血・貧血傾向と判定された学生を対象に,栄養素等摂取状況と貧血との関連について基礎的知
見を得ることを目的とし実態調査を行った。
【方法】
平成 22 年度定期健診において血中ヘモグロビン(以下,Hb)値が 12g/dL 未満の学生を貧血群,Hb 値 12g/dL
以上の学生を健常群とし,自記式記入法による食事歴調査を依頼し各種結果について比較した。また結果に対す
る選択バイアスの影響を調べる為に,専攻学部別に層別解析を行った。
【結果・考察】
貧血群は健常群と比較し,平均 BMI やエネルギー調整後の 1 日あたりの平均 K,Mg,Fe,Cu,VC,VK,
VB1,VB6,葉酸,パントテン酸,総食物繊維ならびに豆類,緑黄色野菜,その他野菜および卵類摂取量が有意に
少なかった。しかし,貧血群の結果について専攻学部別に層別解析したところ,人間栄養学部(以下,管理栄養
士養成課程)では,K,Mg,Cu 摂取量が短期大学部より有意に多く,VC および総食物繊維摂取量が他3学部と
比較し有意に多かった。貧血群は健常群と比較し,鉄欠乏性貧血のリスクファクターと考えられる BMI や幾つか
の栄養素が低値を示したが,選択バイアスの影響を十分に考慮し,解釈する必要があることが示唆された。
Ⅰ.緒論
大による鉄欠乏を回避する為の予防教育は,特に若年女性教育
鉄欠乏は,世界的に最も多く見られる栄養素不足問題であ
において意義深い1516。20歳代の若者の体格・食生活の特徴と
り,特に思春期の女性に多いことが知られている。アメリカ1
して,男女とも痩せの者の割合や朝食欠食率が高く,野菜摂取
2
やイギリス では若年から中年女性の11~18%が貧血であると
3
量が他の年齢階級と比較し最も少ないことなどが指摘されてい
の報告があるが,日本では1992年にUchidaら が11~90歳の女
る13。特に20歳代女性は,痩せの者が増え続けている,脂肪エ
性3,015人を対象に調査し,約40%が鉄不足,うち約8.5%が鉄欠
ネルギー比率が高い者の割合が多い(30%エネルギーの者が約
4
乏性貧血であることを報告した。またMaedaら は1990年以降,
4割)
,運動習慣が少ないなど,他の年齢階級と比較し問題点
東京都内の女子中高生の貧血有病率が増加傾向にあることを指
も多い13。
摘している。平成17年および18年国民健康・栄養調査56 によ
学校保健安全法では,定期健診の実施を定めており,実施
ると20~49歳女性のうち,約25%がHb値12g/dL未満の貧血状
者に肥満や貧血の有無等の栄養状態の把握を求めている。本
態であることが示唆されている。
学では,定期健診の対象者である入学生(約1,300~1,500人/年)
鉄は,Hbや各種酵素の構成成分であり,欠乏によって貧血
8
9
のみならず運動機能,神経系機能 ,労働者生産性 ,免疫や
10
代謝機能 の低下を招く。また,妊娠期における貧血は,早期
12
11
に,血中Hb値を貧血の判定基準とした血液検査を実施してき
た。その結果,ほぼ毎年対象学生の約1,2割がHb12g/dL未
満の貧血傾向者であることが分かってきた。また,これらの貧
出産 の危険や子どもおよび妊婦死亡率 に寄与することが報
血傾向の学生を対象に,講義形式の貧血改善指導を実施してき
告されている。月経血による鉄の損失や,妊娠中の鉄需要の増
たが,対象者の具体的な食習慣については不明のままであった。
*1:聖徳大学人間栄養学部人間栄養学科・講師/*2:聖徳大学人間栄養学部人間栄養学科・教授/*3:聖徳大学保健センター・准教授
*4:聖徳大学保健センター・講師/*5聖徳大学保健センター・所長 教授
― 111 ―
川野 直子 桂 きみよ 田島 悦子 濱田 朋美 所 敏治
調査研究 定期健康診断において貧血・貧血傾向と判定された女子学生の食事摂取状況について
わが国において,これまで20歳代の女子学生を対象に貧血・
倫理委員会の承諾の下で実施した。
貧血傾向者と健常者の栄養素摂取状況について調べた研究報告
が幾つかある1415。しかし実際の定期健診において食事調査を
3.統計解析法
実施している大学は殆どなく,健診時に血中Hb12g/dL未満の
結果の集計解析には,Excel2007(マイクロソフト社)を使用
貧血或いは貧血傾向と判定された者の栄養素等摂取状況につい
した。Body Mass Index(以下,
BMI)
,
その他計量値の検定には,
ては不明な点が多い。
paired 或いはunpaired t-testを使用した。多群間の検定では,
そこでこれらの現状を踏まえ,本研究では,定期健診におい
一元配置の分散分析(One-wayANOVA)およびTukey-Kramer
て,貧血・貧血傾向と判定された学生の栄養素等摂取状況と貧
法 を 用 い た。 統 計 処 理 に はSPSS Ver.11.5,PASW Statistics
血との関連について,基礎的知見を得ることを目的とし,実態
Base ver.18(エスピー・エスエス(株)
)またはExcel2007を使用
調査を行ったので報告する。
し,有効性の評価における有意水準は全て両側検定で5%未満
とした。
Ⅱ.方法
1.調査対象者ならびに方法
Ⅲ.結果
対象者は,平成22年4~5月の間に実施された定期健診にお
1.解析対象者
いて,血中Hb値が12g/dL未満と判定された244名のうち,本
貧血群として調査依頼した192人のうち同意が得られた143人
学保健センター主催の貧血改善指導講習会に任意参加した192
の調査結果を解析対象とした。143人の学部別内訳は,管理栄
名を貧血群とした。
養士養成課程が45人,児童学部が52人,その他文系学部が18人,
また本来ならば,貧血群と同等の多様な学部に所属する学生
文系短期大学部が28人であり,これらの者を対象とした食事調
を健常群として設定する必要があったが,調査実施について協
査用紙の回収率は100%であった。また対照群として調査依頼
力が得られた同大学管理栄養士養成課程の入学者のうち,血中
した204人のうち202人から同意が得られたが,そのうち調査用
Hb12g/dL以上の者204名を対照群(以下,健常群)とした。食
紙未提出3人,調査用紙記入方法に不備があった者7名分を除
事調査は,簡易型自記式食事歴法質問調査(以下,BDHQ
1718
)
く192人分(回収率95%)の調査結果も解析対象とした。
を用いた。調査用紙は,健常群については平成22年4月20日に
実施された「人間と栄養」の講義後に配布し,貧血群について
2.貧血群・健常群におけるBMIならびに1日あたりの鉄の摂
取状況について
は6月17日,25日,7月1日に実施された「貧血改善指導講習
会」の講義前に配布し,回答用紙をその場で回収した。調査用
各群における平均BMIは,貧血群20.6±2.3,健常群21.2±2.9
紙は無記名としたが,用紙の管理の為に学籍番号のみ記載させ
であり貧血群の方が有意に低かった(表1)。日本肥満学会の
た。調査結果を基に栄養素等摂取量および食品群別摂取量につ
肥満判定基準で正常範囲とされるBMI18.5以上25.0未満の者の
いて貧血群と健常群との比較を行うと共に,貧血群については
割合は,貧血群で78.3%,健常群では79.2%,BMI18.5未満の痩
専攻学部別に層別解析を行った。
せの者の割合は,貧血群17.5%,健常群12.0%,BMI25以上の
肥満者の割合は,貧血群4.2%,健常群8.9%であった。貧血群
2.倫理的配慮
と健常群における鉄摂取量のヒストグラムを図1に示す。
調査実施にあたり,貧血群には,「貧血改善指導講習会」に
鉄 の 摂 取 量 は 健 常 群 で は 平 均 値6.8±2.5mg/日, 中 央 値
おいて本調査は貧血傾向者と健常者の双方の食事内容比較し,
6.6mg/日,貧血群では平均値6.3±2.6mg/日,中央値6.2mg/日
貧血予防の為の基礎資料を得ることを目的としていること,任
であり,貧血群は健常群と比較し,2~4mg/日の者の割合が多
意の調査であること,いつでも調査の途中辞退ができ,それに
い傾向が見られた。
より被験者が不利益を被ることはないこと,個人情報保護法に
関すること,結果は研究以外の目的には使用しないこと,およ
3.貧血群と健常群における栄養素等摂取量および食品群別摂
取量の比較(表2,3)
び回答をもって調査協力に同意したこととすることを口頭で説
明し,回答用紙を回収した。また,健常群については,「人間
貧血群と健常群の栄養素等摂取量について粗データ,および
と栄養」の初回講義後に,貧血群と同様の内容を口頭で説明し,
エネルギー1,000kcalあたりの栄養素摂取量に調整したデータ
(以下,栄養素密度法)を用い比較した。
同意書と回答用紙の提出をもって調査への同意を確認した。
本試験は,ヘルシンキ宣言(1964年承認,2008年修正)の趣
粗データでは貧血群は健常群と比較し,ビタミンK,葉酸,
旨に沿うとともに,「疫学研究に関する倫理指針」(2002年制定,
ビタミンCおよび総食物繊維摂取量が有意に低かった。栄養素
2007年全部改正;文部科学省・厚生労働省)ならびに聖徳大学
密度法では,同栄養素に加え,更にカリウム,マグネシウム,鉄,
― 112 ―
川野 直子 桂 きみよ 田島 悦子 濱田 朋美 所 敏治
調査研究 定期健康診断において貧血・貧血傾向と判定された女子学生の食事摂取状況について
Ⅳ.考察
表1.貧血群ならびに健常群におけるBMIと分布
貧血群
健常群
(n=143) (n=192)
BMI
平均値±SD
20.6±2.3
18.5未満:人(%)
21.2±2.9
鉄は,成人の体内に約3~5g存在し,全体の60~70%は赤
p値
血球中にHb鉄として存在し,血液中の酸素運搬を担う。また,
0.036
約25% は肝細胞や肝・脾の網内系マクロファージにフェリチ
  25(17.5)   23(12.0)
-
ンやヘモジデリンなどの貯蔵鉄として存在する24-26。その他で
18.5以上25未満:人(%)
112(78.3) 152(79.2)
-
は,筋肉ではミオグロビン,血漿ではトランスフェリンとして
25以上:人(%)
    6(  4.2)   17(  8.9)
-
各組織に鉄は分布し,筋肉中の酸素運搬,カタラーゼ,過酸化
水素,チトクロームの構成成分として細胞の酸化反応に関与し
p 値 Student の t 検定
ている24。健常人の鉄出納は厳格に調節されているが27,鉄欠
乏により貯蔵鉄が少なくなると,Hbの合成が滞り,鉄欠乏性
図1.貧血群と健常群における1日あたりの鉄摂取量
%
20
貧血が起こる。
食物を通して摂取する鉄が不足する理由としては,鉄を含む
貧血群
15
食物を摂取しない,食事の絶対量が少ない,鉄の吸収や阻害に
健常群
関係する物の摂取量などが挙げられる。
鉄の吸収を促進する因子は,ビタミンC1419,肉,魚および
10
鶏(卵)の様な良質たんぱく質を含む動物性食品20,クエン酸
5
0
や乳酸などの有機酸,発酵食品,システイン含有ペプチド21
およびビタミンA22,B614,B12,葉酸,銅などが知られている。
-
-
-
-
-
9 10 11 12 13 14 16
10 11 12 13 14 15 17
-
8
9
-
-
7
8
-
6
7
-
5
6
-
4
5
-
3
4
-
2
3
-
1
2
-
-
0
1
鉄摂取量
(㎎ / 日)
貧血群(n=143),健常群(n=192)
対照的に,フィチン酸,ポリフェノール,カルシウム,乳製品,
醤油たんぱく質および食物繊維は体内への非ヘム鉄の吸収を阻
害することが知られている152023。
通常の生活を営んでいる一般集団では,多くの栄養素摂取量
は,総エネルギー摂取量と正相関を示すことが多い28。その為,
銅,ビタミンB1,ビタミンB6,パントテン酸摂取量が貧血群に
栄養疫学調査では,総エネルギー摂取量が栄養素摂取量に及ぼ
おいて有意に少なかった。
す影響を取り除いたうえで,栄養素摂取量(原因)と疾病等(結
食品群別摂取量について調べたところ,貧血群は健常群と比
果)
との関連を分析することが求められる。そこで,
本調査では,
較し豆類,緑黄色野菜,その他野菜および卵類の摂取量が少な
栄養素密度法にて統計的有意差が見られたものについて考察す
く有意差が見られた。
る。
本調査では,貧血群は健常群と比較しBMIが有意に低く(表
4.貧血群におけるHb値,BMIならびに食事摂取量(専攻学部
別層別解析)
1)
,鉄,鉄の吸収を促進するビタミンC,赤血球の合成に欠
かせない銅,マグネシウム,ビタミンB6,葉酸摂取量が有意に
貧血群の血中Hb値,BMIならびに栄養素等摂取量および食
少なかった(表2)。更に貧血群は健常群と比較し,たんぱく
品群別摂取量について専攻学部別に層別解析を行った。その結
質摂取量に差は見られなかったが,良質たんぱく質源であり,
果,Hb値とBMIについては,専攻学部別に差が見られなかっ
且つ赤血球の合成に関連するビタミンB群の供給源ともなる豆
たが(表4)
,1日あたりの栄養素等摂取量については,粗デ
類,卵類の摂取量が有意に少なかった(表3)
。
ータでは,管理栄養士養成課程は,ビタミンC摂取量が児童学
一方,Asakuraら15は,栄養士養成校の学生を対象に食事調
部および短期大学部より有意に多かった(表5)。
査を行い,鉄や鉄の吸収を促進する各種栄養素等摂取量は,貧
一方栄養素密度法では,同対象者はカリウム,マグネシウム
血傾向者と健常者との間に有意差が見られないこと,月経血へ
および銅摂取量が短期大学部より有意に多く,ビタミンCおよ
の鉄損失が貧血の発生と強く関連していたことを報告した。ま
び総食物繊維摂取量が他3学部と比較し有意に多かった
(表6)
。
た彼らは,当該研究の対象者が全て栄養士養成課程の学生であ
1日あたりの食品群別摂取量(粗データ)は,短期大学部は
ることから,研究結果をそのまま一般学生に適応することが難
その他群と比較し,調味料・香辛料類が有意に少なかった。し
しい可能性があることも考察している15。本調査では,対象者
かしその他は特筆すべき有意差は見られず(表7),栄養素密
の月経については調査しなかったが,貧血群の一部と健常群の
度法でも同様の結果となった。
全てが管理栄養士養成課程の学生であった為,選択バイアスが
かかっている可能性が高い。
― 113 ―
川野 直子 桂 きみよ 田島 悦子 濱田 朋美 所 敏治
調査研究 定期健康診断において貧血・貧血傾向と判定された女子学生の食事摂取状況について
表2.貧血群と健常群における1日あたりの栄養素等摂取量比較
栄養素等
群
エネルギー
kcal
たんぱく質
g/日
脂質
g/日
炭水化物
g/日
カリウム
mg/日
カルシウム
mg/日
マグネシウム
mg/日
リン
mg/日
鉄
mg/日
亜鉛
mg/日
銅
mg/日
レチノール当量
μg/日
ビタミンD
μg/日
αトコフェロール
mg/日
ビタミンK
μg/日
ビタミンB 1
mg/日
ビタミンB2
mg/日
ナイアシン
mg/日
ビタミンB6
mg/日
ビタミンB12
μg/日
葉酸
μg/日
パントテン酸
mg/日
ビタミンC
mg/日
コレステロール
mg/日
総食物繊維
g/日
食塩相当量
g/日
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
平均値
1569
1556
58.0
58.7
49.5
48.2
217.0
216.9
1928
2107
416
438
186
198
839
862
6.3
6.8
6.9
7.0
0.94
0.98
590
660
9.8
10.3
6.4
6.8
225
266
0.64
0.67
1.06
1.10
12.9
13.2
0.99
1.05
7.4
7.5
271
305
5.28
5.51
93
107
335
350
9.4
10.5
9.4
9.1
粗データ
±
SD
±
580
±
452
± 24.8
± 19.6
± 21.4
± 16.9
± 90.5
± 70.1
±
861
±
840
±
201
±
200
±
75
±
70
±
355
±
303
±
2.6
±
2.5
±
2.8
±
2.2
± 0.35
± 0.31
±
406
±
385
±
8.7
±
6.8
±
2.7
±
2.5
±
128
±
146
± 0.28
± 0.23
± 0.45
± 0.43
±
6.4
±
5.2
± 0.46
± 0.40
±
5.7
±
4.4
±
129
±
136
± 2.13
± 1.91
±
56
±
55
±
167
±
152
±
4.2
±
4.2
±
3.1
±
2.5
貧血群(n=143)
,健常群(n=192)
p値Studentのt検定*<0.05**<0.01
― 114 ―
p値
0.824
平均値
0.790
37.0
37.7
31.6
31.0
138.2
139.4
1248
1353
270
280
120
127
538
554
4.1
4.4
4.4
4.5
0.60
0.63
377
419
6.2
6.6
4.2
4.4
146
171
0.41
0.43
0.69
0.71
8.2
8.5
0.63
0.67
4.8
4.8
178
196
3.38
3.54
62
69
214
223
6.1
6.8
6.2
6.0
0.529
0.988
0.057
0.332
0.138
0.524
0.081
0.744
0.196
0.110
0.519
0.206
0.007 **
0.323
0.410
0.585
0.166
0.969
0.022 *
0.300
0.024 *
0.421
0.014 *
0.316
栄養素/1000kcal
±
SD
p値
-
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
8.3
6.7
7.0
6.3
20.3
17.9
416
393
109
105
31
30
134
116
1.1
1.1
0.7
0.6
0.10
0.10
223
214
4.9
4.0
1.1
1.0
74
82
0.09
0.09
0.21
0.20
2.7
2.2
0.19
0.17
3.2
2.5
74
70
0.69
0.71
35
30
75
73
2.1
2.0
1.5
1.2
0.396
0.411
0.582
0.019 *
0.399
0.030 *
0.260
0.008 **
0.163
0.003 **
0.081
0.398
0.081
0.005 **
0.043 *
0.327
0.270
0.029 *
0.904
0.019 *
0.048 *
0.039 *
0.248
0.002 **
0.122
川野 直子 桂 きみよ 田島 悦子 濱田 朋美 所 敏治
調査研究 定期健康診断において貧血・貧血傾向と判定された女子学生の食事摂取状況について
表3.1日あたりの食品群別摂取量比較(粗データと栄養素密度法)
食品群
群
穀類
g/日
いも類
g/日
砂糖・甘味料類
g/日
豆類
g/日
緑黄色野菜
g/日
その他の野菜
g/日
果実類
g/日
魚介類
g/日
肉類
g/日
卵類
g/日
乳類
g/日
油脂類
g/日
菓子類
g/日
嗜好飲料類
g/日
調味料・香辛料類
g/日
粗データ
平均値
±
健常群
358
±
151
健常群
46
±
37
貧血群
貧血群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
360
38
4
5
32
39
91
107
119
健常群
146
健常群
95
健常群
63
貧血群
貧血群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
88
62
71
66
31
36
111
健常群
104
健常群
10
貧血群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
貧血群
健常群
10
47
46
479
437
224
212
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
±
SD
186
0.900
35
0.062
3
0.246
3
27
0.031 *
64
0.031 *
79
0.004 **
94
0.510
52
0.869
54
0.374
22
0.043 *
31
74
86
±
98
±
40
±
±
±
±
±
±
35
24
101
0.555
5
0.907
51
0.903
324
0.223
134
0.382
±
102
±
5
±
±
±
±
±
±
±
p値
34
294
123
平均値
232
231
25
29
3
3
20
25
59
68
78
95
57
62
40
41
44
42
20
23
73
66
6
6
28
29
324
290
145
139
栄養素/1000kcal
±
±
SD
±
78
0.955
19
0.060
2
0.368
71
±
±
24
±
±
2
±
16
0.011 *
40
0.063
48
0.003 **
62
0.511
29
0.803
24
0.455
14
0.048 *
69
0.330
3
0.735
22
0.593
235
0.155
67
0.356
±
20
±
±
41
±
±
50
±
±
66
±
±
22
±
±
18
±
±
14
±
±
63
±
3
±
±
±
±
19
±
202
±
65
±
p値
貧血群(n=143),健常群(n=192)
p値Studentのt検定*<0.05**<0.01
表4.貧血群における専攻学部別のHb値ならびにBMI
専攻学部
Hb
BMI
g/dL
管理栄養士養成
(n=45)
児童学部
(n=52)
その他学部
(n=18)
短期大学部
(n=28)
One-way
ANOVA
11.1 ± 0.9
20.4 ± 2.3
11.2 ± 0.6
20.6 ± 2.3
10.8 ± 0.8
20.9 ± 1.9
11.0 ± 0.7
20.6 ± 2.3
0.189
0.878
貧血群(n=143)
― 115 ―
参考:管理栄養士養成 
(Hb12g/dL以上)
 
(n=192)
13.1 ± 0.7
21.2 ± 2.9
川野 直子 桂 きみよ 田島 悦子 濱田 朋美 所 敏治
調査研究 定期健康診断において貧血・貧血傾向と判定された女子学生の食事摂取状況について
表5.貧血群おける学部別1日あたりの栄養素等摂取量(粗データ)
専攻学部
管理栄養士養成
(n=45)
児童学部
(n=52)
その他学部
(n=18)
短期大学部
(n=28)
One-way
ANOVA
kcal
1575 ± 528
1497 ± 613
1690 ± 606
1615 ± 592
0.626
脂質
g/日
50.1 ± 19.4
47.5 ± 19.6
49.6 ± 24.3
52.4 ± 25.9
0.800
ナトリウム
mg/日
カルシウム
mg/日
栄養素等
エネルギー
たんぱく質
炭水化物
カリウム
g/日
59.1 ± 18.3
55.7 ± 23.2
62.0 ± 36.1
57.9 ± 28.8
g/日
217.7 ± 83.3
205.9 ± 97.1
241.2 ± 107.3 221.2 ± 77.6
mg/日
2161 ± 883
1789 ± 756
1959 ± 1155
1793 ± 746
201 ± 68
175 ± 70
195 ± 104
177 ± 71
5.9 ± 2.5
6.6 ± 3.5
3728 ± 947
461 ± 191
3703 ± 1197
403 ± 202
3991 ± 1553
401 ± 277
銅
mg/日
0.99 ± 0.33
0.88 ± 0.34
1.03 ± 0.45
0.90 ± 0.33
ビタミンD
μg/日
9.8 ± 6.9
9.5 ± 7.5
10.6 ± 15.0
9.8 ± 8.3
ビタミンK
μg/日
199 ± 108
223 ± 163
ビタミンB2
mg/日
亜鉛
レチノール当量
mg/日
872 ± 282
6.8 ± 2.4
mg/日
7.0 ± 2.2
μg/日
662 ± 371
αトコフェロール mg/日
ビタミンB1
ナイアシン
ビタミンB6
7.0 ± 2.5
255 ± 138
809 ± 338
6.6 ± 2.6
6.9 ± 3.2
266 ± 146
1.04 ± 0.43
0.538
13.9 ± 10.2
13.0 ± 7.7
7.3 ± 5.0
7.6 ± 9.6
0.92 ± 0.40
4.99 ± 2.02
mg/日
344 ± 131
9.4 ± 2.4
μg/日
316 ± 146
mg/日
117 ± 77a
g/日
10.8 ± 4.8
g/日
1.03 ± 0.69
7.0 ± 2.2
0.198
6.4 ± 2.8
12.2 ± 5.6
7.5 ± 4.9
6.8 ± 2.5
226 ± 118
13.2 ± 4.4
1.06 ± 0.39
0.631
862 ± 303
10.3 ± 6.8
mg/日
mg/日
0.305
198 ± 70
0.974
617 ± 433
0.63 ± 0.31
1.04 ± 0.63
0.793
438 ± 200
0.98 ± 0.31
0.68 ± 0.39
1.02 ± 0.44
0.326
3604 ± 1003
0.292
0.61 ± 0.25
1.15 ± 0.39
5.56 ± 1.86
総食物繊維
6.1 ± 2.7
0.68 ± 0.23
mg/日
食塩相当量
6.6 ± 3.3
819 ± 365
mg/日
パントテン酸
コレステロール
610 ± 649
5.9 ± 2.4
μg/日
ビタミンC
7.6 ± 3.9
507 ± 297
ビタミンB12
葉酸
876 ± 532
2107 ± 840
0.315
mg/日
48.2 ± 16.9
0.147
378 ± 151
鉄
58.7 ± 19.6
216.9 ± 70.1
0.732
mg/日
1556 ± 452
0.549
3578 ± 1377
マグネシウム
リン
0.803
参考:管理栄養士養成 
(Hb12g/dL以上) 
(n=192)
0.95 ± 0.48
0.290
0.224
660 ± 385
6.8 ± 2.5
0.571
0.67 ± 0.23
0.788
13.2 ± 5.2
0.484
1.10 ± 0.43
1.05 ± 0.40
7.3 ± 5.0
0.996
5.45 ± 2.95
5.26 ± 2.18
0.610
5.51 ± 1.91
322 ± 165
335 ± 216
346 ± 192
0.906
350 ± 152
9.4 ± 3.0
10.1 ± 3.9
9.1 ± 3.5
0.734
241 ± 107
276 ± 153
81 ± 37b
90 ± 47ab
8.5 ± 3.6
9.7 ± 4.1
252 ± 105
80 ± 40b
8.6 ± 3.5
0.028*
0.006**
0.030*
7.5 ± 4.4
305 ± 136
107 ± 55
10.5 ± 4.2
9.1 ± 2.5
貧血群(n=143)
p値One-wayANOVA*<0.05**<0.01
Tukey-Kramerアルファベットa,bは有意差を示す
観察研究において因果関係を調べる際に,バイアスを防ぐこ
生と比較し,系統的に偏った対象者であったことは,十分に考
とは最も重要である。バイアスとは,真の値から結果を歪める
慮しなければならない。
ものであり,選択バイアス,情報バイアス,交絡などがある。
そこで貧血群については,更に専攻学部別に栄養素等摂取量
選択バイアスは,調査対象者の選択方法によって生じてくる影
および食品群別摂取量について層別解析したところ,管理栄養
響の推定の偏りであり,対象群の無作為割付によりその影響を
士養成課程では,カリウム,マグネシウムおよび銅摂取量が短
29
最小限に防ぐことができる 。一方,情報バイアスとは,一つ
期大学部より多く,ビタミンCおよび総食物繊維摂取量が他3
以上の変数に関し,測定の誤りや対象者の誤分類などにより系
学部と比較し有意に多く摂取していることが分かった(表6)。
統的誤差が生じ,結果に偏りが出てしまうことであり,診断バ
一般に自己申告に基づく食事調査法では,対象者は実際に食
イアス,質問者バイアス,思い出しバイアスがある
3031
べた量よりも過小に申告する傾向がある32。本調査結果に,何
。
本調査対象者のうち,管理栄養士養成課程の学生は,一般学
らかの過大・過小申告が関連しているのかどうかは分からない。
生と比較し入学前から元々食に対する意識が高く,入学後に学
しかし管理栄養士養成課程の学生から構成される健常群と,そ
んだ内容が個々人の食生活に日々反映されている可能性がある。
れ以外の学部生を含む貧血群との間に有意差が見られた栄養素
また,任意調査とはいえ「学科教員の協力要請に応えなければ
については,単に貧血と関連づけるのではなく慎重に解釈する
ならない」といった心理的影響があった可能性もあり,一般学
必要がある。参考までに管理栄養士課程の学生のみに絞って貧
― 116 ―
川野 直子 桂 きみよ 田島 悦子 濱田 朋美 所 敏治
調査研究 定期健康診断において貧血・貧血傾向と判定された女子学生の食事摂取状況について
表6.貧血群における学部別1日あたりの栄養素等摂取量(栄養素密度法)
専攻学部
栄養素等
たんぱく質
脂質
炭水化物
ナトリウム
カリウム
カルシウム
マグネシウム
リン
鉄
亜鉛
銅
レチノール
g/1000kcal/日
g/1000kcal/日
g/1000kcal/日
mg/1000kcal/日
mg/1000kcal/日
mg/1000kcal/日
mg/1000kcal/日
mg/1000kcal/日
mg/1000kcal/日
mg/1000kcal/日
mg/1000kcal/日
μg/1000kcal/日
ビタミンD
μg/1000kcal/日
ビタミンK
μg/1000kcal/日
αトコフェロール mg/1000kcal/日
ビタミンB1
ビタミンB2
ナイアシン
ビタミンB6
ビタミンB12
葉酸
パントテン酸
ビタミンC
コレステロール
総食物繊維
食塩相当量
mg/1000kcal/日
mg/1000kcal/日
mg/1000kcal/日
mg/1000kcal/日
μg/1000kcal/日
μg/1000kcal/日
mg/1000kcal/日
mg/1000kcal/日
mg/1000kcal/日
g/1000kcal/日
g/1000kcal/日
管理栄養士養成
(n=45)
児童学部
(n=52)
38.1 ± 6.7
37.2 ± 6.9
137.7 ± 17.1
1415 ± 528a
31.7 ± 6.6
2478 ± 558
303 ± 118
短期大学部
(n=28)
One-way
ANOVA
36.6 ± 14.3
35.3 ± 7.8
0.539
137.3 ± 18.5
141.8 ± 28.3
138.6 ± 22.9
0.873
139.4 ± 17.9
1204 ± 310ab
1161 ± 448ab
1116 ± 269b
0.008**
1353 ± 393
31.8 ± 6.6
2564 ± 557
270 ± 100
29.9 ± 8.4
2437 ± 745
236 ± 130
32.0 ± 7.5
0.174
241 ± 80
0.047*
118 ± 24
115 ± 40
110 ± 23
4.4 ± 1.2
3.9 ± 1.0
3.9 ± 1.3
3.8 ± 1.0
565 ± 119
4.5 ± 0.6
0.63 ± 0.12a
228 ± 146
6.4 ± 4.6
4.6 ± 1.3
167 ± 85
0.44 ± 0.10
0.75 ± 0.20
8.6 ± 2.4
0.69 ± 0.21
4.9 ± 3.0
208 ± 92
ab
542 ± 116
4.4 ± 0.6
0.59 ± 0.09ab
203 ± 155
6.3 ± 4.5
4.0 ± 1.0
136 ± 68
0.41 ± 0.08
0.68 ± 0.19
8.2 ± 2.3
0.62 ± 0.16
4.9 ± 2.9
165 ± 58
ab
515 ± 222
4.4 ± 1.3
0.60 ± 0.12ab
193 ± 266
6.0 ± 7.8
4.0 ± 1.2
131 ± 70
0.40 ± 0.13
0.62 ± 0.26
8.3 ± 4.6
0.60 ± 0.27
4.4 ± 5.2
167 ± 74
0.748
2261 ± 543
131 ± 36
a
参考:管理栄養士養成 
(Hb12g/dL以上) 
(n=192)
その他学部
(n=18)
b
0.039*
4.4 ± 1.1
4.2 ± 0.5
0.484
242 ± 231
0.742
4.0 ± 1.0
0.048*
0.034*
0.986
142 ± 63
0.144
0.65 ± 0.19
0.075
0.38 ± 0.08
0.088
7.8 ± 2.4
0.681
4.5 ± 2.4
0.905
0.58 ± 0.14
160 ± 52
280 ± 105
127 ± 30
0.246
6.0 ± 4.0
2374 ± 473
0.027*
504 ± 109
0.56 ± 0.09b
37.7 ± 6.7
31.0 ± 6.3
0.087
0.010*
554 ± 116
4.5 ± 0.6
0.63 ± 0.10
230 ± 171
6.6 ± 4.0
4.4 ± 1.0
171 ± 82
0.43 ± 0.09
0.71 ± 0.20
8.5 ± 2.2
0.67 ± 0.17
4.8 ± 2.5
196 ± 70
3.58 ± 0.67
3.35 ± 0.60
3.20 ± 1.02
3.25 ± 0.58
0.109
3.54 ± 0.71
221 ± 59
214 ± 76
198 ± 93
211 ± 83
0.718
223 ± 73
6.3 ± 1.4
6.5 ± 1.4
6.2 ± 1.9
5.7 ± 1.4
0.177
6.0 ± 1.2
77 ± 51a
7.0 ± 2.8a
56 ± 20b
5.7 ± 1.5b
55 ± 25b
5.8 ± 1.3b
51 ± 21b
5.5 ± 1.6b
0.003**
0.003**
69 ± 30
6.8 ± 2.0
貧血群(n=143)
p値One-wayANOVA*<0.05**<0.01
Tukey-Kramerアルファベットa,bは有意差を示す
血群と健常群における栄養素等摂取量について比較したところ,
また,本調査の貧血群の定義には血中Hbを用いたが,末梢血
全ての栄養素等摂取量について有意差が見られず,貧血群と健
中の鉄の総量は3~4mgに過ぎず23-27,常に貯蔵鉄からの鉄の
常群の栄養素等摂取状況に差が無いと示唆するAsakuraら15の
供給を受け恒常性を保っている。その為,体内の鉄量が減少し
解釈と同様の傾向になることも分かった。
ていく過程で最初に減少するのは貯蔵鉄であることから,Hb
こうしたバイアスを考慮し,一般学生を母集団として調査す
よりも貯蔵鉄の動きと相関の強い血清フェリチンなどを指標に
る場合,多様な学部学科からなる対象者にて調査するか,食・
食事摂取量と貧血との関係を調べることも必要かもしれない。
栄養について専攻としない学部・学科を対象者とするなど工夫
しかし大学の定期健診において貧血・貧血傾向と判定された
が必要である。また本調査で用いた食事調査用紙は,自記式法
群は,健常群と比較し,鉄欠乏性貧血のリスクファクターと考
による食物摂取頻度調査であったことから,対象者が用紙に収
えられるBMI,鉄,マグネシウム,銅,ビタミンC,ビタミン
載されていない地域独特の食べ物を日常的に摂取していた場合,
B6および葉酸摂取量が低値を示したことは,一概に無視するこ
それらが調査結果に十分に反映されない可能性があるなど,調
とができない結果でもある。今後は,本調査で明らかになった
査方法の限界点が幾つかある。
バイアスとなり得る因子を十分に考慮し,更なる調査を進めて
今後は,同一地域内に住む食・栄養に関する専門教育を受け
行く必要がある。
ている学生とそうでない学生とを区別した調査や,各学部のサ
ンプルサイズを等分化後に調査を実施し,貧血群と健常群にお
ける栄養素等摂取状況について調査結果を蓄積する必要がある。
【謝辞】
調査にご協力いただきました皆様に心より感謝申し上げます。
― 117 ―
川野 直子 桂 きみよ 田島 悦子 濱田 朋美 所 敏治
調査研究 定期健康診断において貧血・貧血傾向と判定された女子学生の食事摂取状況について
表7.貧血群における1日あたりの食品群別摂取量(粗データ)
管理栄養士養成
(n=45)
専攻学部 食品群
穀類
いも類
砂糖・甘味料類
豆類
緑黄色野菜
その他の野菜
果実類
魚介類
肉類
卵類
乳類
油脂類
菓子類
嗜好飲料類
調味料・香辛料類
児童学部
(n=52)
その他学部
(n=18)
短期大学部
(n=28)
One-way
ANOVA
0.121
g/日
350 ± 167
340 ± 164
458 ± 291
353 ± 160
g/日
4 ± 3
4 ± 2
4 ± 2
5 ± 4
g/日
g/日
g/日
g/日
g/日
g/日
g/日
g/日
g/日
g/日
g/日
g/日
g/日
43 ± 42
37 ± 28
106 ± 80
35 ± 28
48 ± 46
29 ± 24
28 ± 30
81 ± 58
95 ± 56
30 ± 26
31 ± 28
81 ± 48
146 ± 97
103 ± 62
114 ± 86
110 ± 61
64 ± 48
61 ± 46
64 ± 81
60 ± 50
121 ± 143
74 ± 54
64 ± 37
69 ± 44
127 ± 108
119 ± 120
33 ± 20
10 ± 5
48 ± 48
480 ± 332
224 ± 91ab
64 ± 50
82 ± 71
30 ± 24
27 ± 21
79 ± 65
9 ± 4
11 ± 6
44 ± 55
44 ± 46
486 ± 351
413 ± 262
226 ± 132ab
294 ± 232a
77 ± 55
77 ± 80
32 ± 22
90 ± 58
10 ± 7
54 ± 52
505 ± 304
178 ± 95b
0.235
0.608
0.487
0.226
参考:管理栄養士養
成(Hb12g/dL以上)
(n=192)
358 ± 151
46 ± 37
5 ± 3
39 ± 31
107 ± 74
0.047*
146 ± 86
0.987
63 ± 40
0.040*
0.596
0.761
0.217
0.713
0.823
0.814
0.042*
95 ± 98
66 ± 35
36 ± 24
104 ± 102
10 ± 5
46 ± 34
437 ± 294
212 ± 123
貧血群(n=143)
One-wayANOVA p値*<0.05
Tukey-Kramer アルファベットa,bは有意差を示す
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川野 直子 桂 きみよ 田島 悦子 濱田 朋美 所 敏治
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厚生労働省,日本人の食事摂取基準策定検討会報告書(2009)pp.44-61,
第一出版,東京
執筆者一覧(掲載順)
藪 中 征 代
聖徳大学大学院教職研究科
准教授
教育心理学
1-8
宇佐美尋子
聖徳大学心理・福祉学部社会福祉学科
助教
心理学(ストレス心理学)
9-14
川 口 一 美
聖徳大学心理・福祉学部社会福祉学科
准教授
社会学
15-22
大 倉 正 臣
聖徳大学心理・福祉学部社会福祉学科
教授
社会保障
23-30
都 築 忠 義
聖徳大学児童学部児童学科
教授
臨床心理学
31-37
相 良 順 子
聖徳大学児童学部児童学科
教授
発達心理学
宮 本 友 弘
聖徳大学大学院教職研究科
准教授
教育心理学
家 近 早 苗
聖徳大学児童学部児童学科
准教授
学校心理学
松 山 武 士
聖徳大学大学院教職研究科
教授
教科教育
佐 藤 幸 雄
聖徳大学児童学部児童学科
准教授
教科教育
春 日 広 美
聖徳大学看護学部設置準備室
准教授
看護学
石 垣 和 子
石川県立医療保健大学
学長
看護学
市 瀬 陽 子
聖徳大学音楽学部音楽総合学科
准教授
芸術(ダンス)
47-53
佐 藤 直 人
聖徳大学人文学部日本文化学科
講師
日本語学
55-60
藤 原 保 明
聖徳大学人文学部英米文化学科
教授
英語学
61-67
腹部千代子
聖徳大学人文学部英米文化学科
准教授
英文学
69-76
中 村 裕
聖徳大学短期大学部保育科
講師
教育制度学
77-83
櫻木真智子
聖徳大学短期大学部保育科
准教授
保育内容〔健康〕
85-88
須 田 仁
聖徳大学心理・福祉学部社会福祉学科
講師
社会福祉学
89-95
中野真紀子
聖徳大学短期大学部保育科
准教授
舞踊
97-102
河 村 久
聖徳大学児童学部児童学科
教授
特別支援教育
103-109
腰 川 一 惠
聖徳大学児童学部児童学科
准教授
発達心理学
川 野 直 子
聖徳大学人間栄養学部人間栄養学科
講師
公衆栄養学
桂 き み よ
聖徳大学人間栄養学部人間栄養学科
教授
食事設計実習
田 島 悦 子
聖徳大学保健センター
准教授
保健学
濱 田 朋 美
聖徳大学保健センター
講師
保健学
所 敏 治
聖徳大学保健センター
所長 教授
児童保健学
― 121 ―
39-46
111-119
紀要委員
増 井 三 夫
青山みゆき
中 野 沙 惠
李 後 藤 潔
今 井 悦 子
坂 崎 紀
鳥 井 俊 之
相 良 順 子
椨 瑞 希 子
松 浦 信 夫
宮 本 茂 樹
牧野由美子
正道寺康子
哲
権
髙 橋 克 典
齊 藤 ゆ か
石 原 孝 臣
聖徳大学 研究紀要
聖 徳 大 学 第23号
聖徳大学短期大学部 第45号
平成25年3月14日 印 刷
平成25年3月21日 発 行
編 集 聖徳大学紀要委員会
発 行 者 川並弘純
発 行 所 聖徳大学
〒271-8555 千葉県松戸市岩瀬550
電話 047-365-1111(大代表)
印 刷 所 ㈲セイワコーポレーション
Bulletin of Seitoku University
Volume 23
Bulletin of Seitoku University Junior College
Volume 45
(2012)
13.03.1.MP