仕える天使、君臨する御子

仕える天使、君臨する御子
ヘブライ書の福音 2
仕える天使、君臨する御子
1:5-14
天使、天の使い、御使い。三つの訳語が使われますが、原典では同じ言葉
です。エンジェルですね。御使いの御は「神の」という意味、御霊の御など
と同じですし、天の使いの「天の」も「神の」の代わりに使ったヘブライの
慣用から来ています。「天使」という熟語は「天の使者」つまり神の使者を
短く縮めたものです。
私たちがたいてい持っている天使のイメージというのは、主として中世の
画家の残したもので、特にあの羽根を持っている姿は一応聖書からは、イザ
ヤ書のケルビムからの類推と言われますけれど……。ケルビムの場合は六つ
の翼でしょう。あれはイザヤの見た幻の中の姿ですから、神の使者すべてに
当て嵌めるのは、やや空想力過剰でしょうね。ほんとは、あの羽根を二枚つ
けたもののルーツは古代アッシリアの神殿の、コマイヌさんみたいな怪物が
ありますが……。あのワシのような嘴をして翼を持った精霊の姿が起源であ
ろうとされます。
天使がああいう形でポピュラーになるのは 4 世紀くらいからでそれ以前は、
古代ローマのカタコンベの壁画などにも、天使は全く見当たりません。それ
が、4 世紀ごろになると初めて、頭の上にあの nimbus と言われる輪を載せ
て、羽根を二枚生やした姿が描かれるようになります。初期の聖ミカエルの
絵なんかは、ギリシャ人の作ったモザイクを見ますと、戦士の姿をした凛々
しい男性で、槍を手にしていますが、フィレンツェにある 16 世紀の絵で“Due
Putti”(二人の童子)というのは、かわいい裸の幼児で、一見して、ああ、
森永のマークの原型はこれだなと思わせます。天使が初めて女性の姿になる
のはルネサンス以降で、女の天使はオーソレミオの国、イタリア人の発明で
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す。「君は僕の天使だ」なんかは劇のセリフとして様になりますが、「あな
たは私の天使よ」では変ですか。でも、最近はどうでしょう……?
天使に出会う体験を、実生活の中に見いだすことはありませんか。行き詰
まって絶望かと思われる時に、どこからともなく助力をもたらしてくれたり、
疲れた心に優しさとか潤い、慰めを運んで来てくれる者を「天使!」と感じ
ることがありますね。我が家では 2 日連続して天使の訪問を受けました。一
昨日は真奈美が、昨日は直人が半日いて、老夫婦は大いに慰められて嬉しか
ったんですが、これも本当は、主なる神がこういう形で恵みを送って下さる
ことを考えれば、その媒介をしてくれている幼い者たちを広い意味で angels
と考えてもおかしくはないのでしょう。もともと「御使い」というのは神か
らの「使者」、なんらかの形の使者という意味で、これはヘブライ語のマル
アーク
%a'l.m;
もギリシャ語のアンゲロスも伝令や使者を指す言葉
でしたから、人間でも使命を帯びて遣わされている人は angel(アンゲロス)
でありマルアークだったのです。「ヒラムはダビデに使者を送り」とか、「ユ
ダの王は使者をエジプトに送り」という所は、みんなマルアーク(angel)な
んです。「天の」使い、「神の」使いという時だけ、「天使」という意味が
出てきます。
このヘブライ書の 1 頁に出る御使いはその God's angels, Hisangels, the
angels で、ここは一読して分かりますように、人間の使者のことではなく、
明らかに何か人間以上の存在、霊的存在でありますから、「天使」という訳
語が適切でありましょう。人に神の意志を伝えたり、隠れた所で神のお仕事
を進めている、聖なる縁の下の力持ちであります。私たちは今朝は「天使」
という言葉を、できれば森永のマークやギリシャ人の残した絵のイメージを
一度消して、もっと素朴な、聖書の中のルーツと言いますかたとえばアブラ
ハムを訪れた三人の使いとか、ヤコブと争った天の使いなどと二重写しにし
て考えたいのです。外にも、ダビデが罪を犯した時に、エルサレムを滅ぼす
べくアラウナの麦打ち場まで迫った恐ろしい天の使いでもいいし、反対に、
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ヨブ記に出てくる慰めの天使を考えてもいい。キリスト降誕の夜に、ベツレ
ヘムの羊飼いたちに「大きな喜び」を伝えた主の天使も含めて、まず聖書の
イメージから考えて行きましょう。
前回、ほんの少し予告編をいたしましたが、この部分は、旧約の中から七
つの引用文が(実際は八箇所からですが)メドレーになって並んでおります。
そしてこの聖句メドレーは、「天使がどんなに神聖な存在、貴重な使者であ
っても、天使は、いわば縁の下で神様の事業を支える雑務係りに過ぎないが、
キリストは神の右に座に着いておられて、私たちの命を握っていらっしゃる」
という、天使とキリストの力のコントラストを描くのであります。では、そ
の七つの引用文を……。
引用その一。
5.いったい神は、かつて天使のだれに、「あなたはわたしの子、わたしは
今日、あなたを産んだ」と言われ……たでしょうか。(そんな事は一度だっ
て無い、ということですが。)
これは詩篇 2:7 からの引用です。「わたしの子」というのは my son わが
男子、わが息子です。この前の箇所に「神ご自身の似姿」でしかも神の「刻
印」という表現がありましたし、神がお持ちになる万物を完全に握る所有者
という言葉もありました。古代社会の長子の譬えも含めて、Son という言葉
の絵には、父の権威を代表する者という比喩もこめられます。
「今日産んだ」は決して、創造したとか、作り出したという意味ではあり
ません。これは 6 節の「この世界に送る」と同じ意味で、神様が「これはわ
が子なり!」と人の前にお示しになることを「産んだ」と表現しているので
す。「今日」はここでは、御子が贖いの業を終えて天の栄光の座に上げられ
た時点を指す、と見ましょうか。
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引用その二。
5.更にまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と言われ
たでしょうか。……つまり、そんな密接な関係の断定や宣言は、どんな天使
にもなさったことがない。
ここはサムエル記下の 7 章 14 節からの引用です。原文ではダビデ王が主な
る神に、香柏の木材で作った壮大な神殿をお建ていたしましょうと、誇らか
に大計画を申し上げた時に、主が預言者の口を通して「ダビデよ、私はエジ
プトを出て以来、荒れ野で天幕を住まいとして、一度として、香柏の家を建
てよなどと命じたことがあろうか」とダビデをたしなめた後に、「お前が私
の家を建てるなどは、本当はは逆だ。私がこれから、お前の家を建てるのだ。
そのために、お前の身から出る息子ソロモンを祝福しよう。私は彼の父にな
る。彼は私の子になる」とおっしゃる所……サムエル記の中でも最も感動的
な場面の一つですが……。
このヘブライ書ではこれを、ダビデの血筋から出るメシアとしての永遠の
王に移し変えて、特別な意味で神はイエスの父、イエスは比類がない意味で
の神の子―神の愛と保護と寵愛を、外のどんな人間も言えないような独自
の意味で子として受ける―という事に絞っているのですね。
引用その三。
6.更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、「神の天使たちは皆、
彼を礼拝せよ」と言われました。
長子と言われたのは多分、私たちのような後から神の子とされる者の先駆
けという意味で、これはパウロもローマ書 8 章で同じ表現を使っています。
ローマ書のパウロの言い方では「長子キリストの兄弟となる光栄」(8:29)
です。
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実はこの引用文はヘブライ語の詩篇にも、ギリシャ訳の詩篇にも、この通
りの文はありません。恐らく詩篇 96:3 のギリシャ訳(七十人訳)と申命記
32:43 が二重写しになっているものと想像されます。私たちが学んだパウロ
の手紙の中では、フィリピ書の 2 章に「天上のもの、地上のもの、地下のも
のがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリスト
は主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」とあります。天使たち
も、この方の前には顔を上げ得ないのです。
引用その四。
7.また、天使たちに関しては、「神は、その天使たちを風とし、御自分に
仕える者たちを燃える炎とする」と言われ、……ここは詩篇 104 の 4 節です
けれど、旧約聖書のここの文章は日本語訳やヘブライ語本文を見ると「神は
風を御使いとし」で、英文法式に言うと、いわゆる第 5 構文の O と C が逆に
なっているんですが、著者は敢えてこの「御使いたちを風とし」と訳してい
るギリシャ語訳(LXX)の方を引用したとすると、ここの趣旨は一体何か…
…です。
このままで素直に理解すると、神は天使を、ある時は風として使い、あり
時は炎にして使う……で、たとえば、シナイ山頂の炎と雲は、神が天使をあ
のような形にして使っておられた(出 19:18)。葦の海を二つに分けた風(出
14:21)、エリヤが見ている前で山を裂き岩を砕いた風も(王上 19:11)も、
あれは、神が天使をそのような自然現象の形に変えて使っておられた……と
いう意味になりますか。
もう一つは、シリア語の文献などに、神はいつでも、役目が済んだら、天
使なんぞは風か火に変えて消してしまわれる、というような説明がある所を
見ると、そういうものが引用の背後にあると見てもいいでしょうね。そのシ
リア語の第 4 エスドラ書というのはこうです。「神の御前に天使の万軍は震
えおののく。神の命(めい)により彼らは風と火に変えられる。」天使の一
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時性、そのはかなさ、天使も風と火以上のものではない……という所がポイ
ントと見ましょうか。
引用その五。
天使については、せいぜい風と炎だとあるが、8.一方、御子に向かっては、
こう言われました。「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、また、公正の笏が
御国の笏である。 9.あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ、あ
なたの神は、(ここは新共同訳や新改訳のように訳すのが正しいのでしょう)
喜びの油を、あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」
「仲間」というのは、玉座に座って王笏を持って治める「王たち」
のことでしょう。「どんな王とも比べられぬ位、あなたという王に油を注が
れたのだ」と訳しましょうか。
ここは、ヘブライ語の詩篇 45:6,7 とは句読も文も、明らかに違っていま
して、七十人訳(LXX)のギリシャ語の読み方をそのまま取っています。ヘ
ブライ語の聖書とそのギリシャ語訳については、昨晩 NHK の海外ドキュメ
ンタリー「西洋文明の功罪」でもやっていましたが、映っていたのはヘブラ
イ語の方の巻物で肝腎の七十人訳(ギリシャ語)の巻物は画面には出ません
でした。ギリシャ語の聖書では、ここはメシアに向かって語りかける形にな
っているので、「神よ」は、神を地上で代表する者という意味での「神よ」
です。詩篇 82 のスタイルと似ています。引用の趣旨は一言で言えば、「メシ
アである御子の玉座は、実質上、神が王として治めておられるのと同じだ」
ということでしょう。別の読み方もありますけれども、略します。
引用その六。
一番長い所ですが、前半が詩篇の 102(25-27)、後半がイザヤ書 50 章、
34 章などからの自由な編集です。10,11,12.
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10. また、こうも言われています。「主よ、あなたは初めに大地の基を据
えた。もろもろの天は、あなたの手の業である。 11.これらのものは、やが
て滅びる。 だが、あなたはいつまでも生きている。すべてのものは、衣のよ
うに古び廃れる。 12.しかし、あなたの年は尽きることがない。」
最初の 2 行は、天地創造の業における主なる神の偉大な業を、そのあとは、
美しい言葉の絵を重ねて、被造物の移ろい易さと神の永遠に変わらぬ確かさ
が対照されています。ここは「主よ」で始まって神を称えているので、「御
子と天使の比較」というテーマとどうつながるか、問題ですが……。
一つの見方は、そんな動かぬ確かな神によって「わが子よ」と宣言されて
いるのだ……と 5 節後半へつなぐ見方。もう一つは 8 節の「御子については」
が最後の引用までずっと、かぶさってつないでいるとすれば、ここは元々の
詩では、主なる神を称える形にはなっているけれども、ここの「主よ」は多
分 8,9 節の「神よ」と同じで、初代教会の「主よ」の用例から見れば、御子
キリストへの呼び掛けと見た方が、少なくとも最後の三つの引用に一貫性が
できる……。その上すでに 2 節の終りで「御子によって世界を創造されまし
た」がある……。
こう見てくると、ここのひとつながりの流れは、所詮風や炎に過ぎない一
時的な天使たちとは対照的に、この方は御座に座して神を代表する方、変動
する宇宙を押さえて支配する方、否、我々が神に対するように「主よ」とお
呼びすべき方であられる。さすがの天使たちも、この方の前には膝を屈して
ただ崇めるのみ……と 6 節のテーマへ戻ってくるのでしょう。
最後の引用七。
これは割りと短くて、福音書にも使徒行伝にも引用されていたものです。
使徒たちは、この言葉のこういう解釈をイエス様から直接伺って、確信を持
ったものですが、マタイ 22 章で主のお口から出て以来、これは使徒たちのキ
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リスト理解の中心にあった重要な聖句です。引用符の中は詩篇 110 の言葉で
す。
13. 神は、かつて天使のだれに向かって、「わたしがあなたの敵をあなた
の足台とするまで、わたしの右に座っていなさい」と言われたことがあるで
しょうか。
人間の最終的な敵を征服して、死を形骸化して踏み砕くまで、天の父の右
に座って、神の勝利を自分の勝利として見ておられる。御子はそんな方だ。
これだけは、どんな神聖な天使がする事も比較にならない。
最高の天使というと、何を連想なさいますか。私はやはり、ナザレのマリ
アを訪れたガブリエルを思い起こすのですが、そのガブリエルが浸しのヨハ
ネの父ザカリアに告げた言葉の中に「わたしはガブリエル、神の前に立つ者」
という所があります。「御前に立つ」はたいてい、この天使の神聖さや位の
高さを想像してしまうのですけれど、それよりも、神の前に「立っている」
というのは、いつでも命令を受けて行動開始できるよう待機しているしもべ
の姿だというのです。「侍立」という古い言葉があります。家来の侍がいつ
でも走れるように待機する姿が「神の前に立つ」であります。最高のガブリ
エルにして、それであったと。
これに対し、御子は神の右に、神のふところに「座って」君臨する。この
誠に印象的な絵が、最後の 14 節につながりますが、これは著者独特の適用、
著者自身の結論であります。
まとめ―天使の本領と使命。
14. 天使たちは皆、奉仕する霊(は仕え専門の霊、仕える仕
事を本領とする存在です)奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっ
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ている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。
ここの所は、前講の結論で申し上げた事とよく似ております。この前は、
モーセのした事もアブラハムの信仰も「私たち抜きでは完結しない」という、
11 章の不思議な言葉に驚きました。つまり、せっかく神様が御子の清い血で
確保して下さった命をこの私たちがガッチリ受け止めねば、あの人たちの信
仰も、せっかくしてくれた事も、全部宙に浮いて無意味になると!!
今日の結びの句は、「天使たちの存在だってそうだ」と言うのです。もし
この貴重な救いを、あなたが頂いてしっかり自分のものにしなかったら、何
のための天使か……。あなたがイエス様を仰がなかったら、神は御使いを無
駄に待機させたことになる。なす事もなく徒に侍立させたことになる。
「仕える御使い、君臨する御子」という題でした。御使いは救わない。キ
リストが救うのです。
《 結びの勧め 》
天使を見た経験を持つ人は稀でしょう。たいていの場合、それは夢か幻か、
願望の投影か、あるいはその人の体質や病気かも知れません。けれども、本
当に天使(主の使者)の訪れを受けることも無いことはありますまい。かつ
て、ギリシャのコリントで勇気を失いかけていたパウロに天使をお送りにな
った主は、今日でもそれと同じ必要が生じたら、やはり天使を送って下さる
と思います。あなたがもし、そんな祝された経験をなさったら、羽根がほん
とにあったか確かめて見るのも一興ですが、あれは多分、かつて天使の訪れ
を受けた人たちの感激が生やした羽根なんだと思います。つまり「天の父の
ひざ元から、こんな私の所まで、緊急のニードを見て、一瞬に飛んで来て下
さった」という appreciation があの絵になったのでしょう。昔の人には、そ
うとしか考えられなかった。今なら、例えば手塚さんが天使の訪問をお受け
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になれば、羽根じゃなくてロケット・エンジン百万馬力が靴の底に付くのじ
ゃありませんか。
かつてコロサイの教会では、天使を見たとか、幻を見たとか、そんな事を
有り難がったり、誇ったりした人がいて、使徒パウロの叱責を受けています。
多分、本当に天使の訪問を受けた人は、むしろ畏れに打たれて、一層謙虚に
なる筈です。そんな事でキリスト教の初段から二段に上がったみたいなエリ
ートには、間違ってもなる筈はないのです。
天使はヘブライ語でもギリシャ語でも「使者」を指す言葉だと申しました。
天使は当然、普通の人間の姿を取ることもあります。これはアブラハム以来
の前例がたくさんある訳です。その上、前に引用した「神は天使たちを風と
も炎ともされる」から考えれば、天使は有形無形の色々な形にもなり得る訳
ですね。たとえば、もう少しで罪と死の淵に落ちそうになったあのとき、私
を救ったのは、あれは天使の羽根の音だった! ということもある。
先程は、幼い者の中に天使の訪れを感じる話をしましたが、本当は、ここ
にいらっしゃる皆様の中の何人かが、天使になって下さって、私が勇気を失
いかけた瞬間に主に目を向けさせて下さった事も一再ならずありました。ど
なたが、いつ、天使であって下さったかは恥ずかしいから言わないですが、
……もっと「外来」の天使の話に切り替えましょうか。年末から正月にかけ
て健康を害して、疲れて最低の時に、どなたかから戴いた手紙の一節に、天
使がほほ笑みかけていて下さいました。別にその手紙の中に、特に聖書を引
用したり意識的に励まして下さったのでなくてもです。ほんの短い、優しい
言葉の中に天使がおられるんです。
昨日も、天使が郵便切手を付けて来て下さいました。これは手紙じゃなく
て、十分あまりのカセット・メッセージです。実はこの方のお声を私は初め
て、自分の耳で聞きました。今まではいつも代筆の葉書でした。斉野みつ子
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さんという 54 才の婦人の方です。鹿児島県の指宿近くの病院に入院なさって
から、もう何年になられるのでしょう……。かつては名古屋の湯瀬美智子さ
んの同僚で、看護婦をしておられたのですけれど、26 年前の夏、突然「スモ
ン病」に罹られて 40 度以上の熱が続き、脊髄と視神経を冒されて全盲になっ
てしまわれたのです。以前この方のお作りになった和歌を後ろに貼り出して
いましたから、御記憶の方もおありでしょう。その斉野さんからの声のお便
りです。
ウォルター・マクセイさんと吉野教会の方々の助けを得られて信仰に入っ
て良かったこと。希望と平安の中で日々を送っていらっしゃること。百巻近
い私のカセット・テープを利用して聖書を学ばれたことも感謝して下さいま
した。ちょうど直人が隣の部屋で遊んでいたものですから、イヤフォンを掛
けて、じっと耳を澄ませて斉野さんのお話を伺いながら、私はそこに天使の
声を聞きました。主の使いのお声です。「お前の仕事……止めちゃいけない。
どこかで誰かに届いて、役に立っている!」ちょうどコリントでパウロに現
れた御使いが「恐れるな。語りつづけよ」と語りかけ、「私があなたと共に
いる」とおっしゃった時のように、私はそのテープの中の天使の声で勇気づ
いたのです。
「神の右に座して君臨する御子は天使にはるかに優る」という主題から、
最後は脱線したような話になりましたけれども、「天使は仕え専門の霊で、
仕える事を本領とする」という 14 節の御言葉から、正直な感想を述べました。
(1987/01/17)
《研究者のための注》
1.前置きで触れたアブラハムを訪れた天使は、創 18 章。ヤコブと組み打ちした主の使い
は創 32 章。アラウナの麦打ち場で止まった死の使いはサム下 24 章。ヨブ記に言及さ
れている天使は 33:23 以下。ベツレヘム郊外の御使いはルカ 2:9 です。結びの勧め
で触れましたコリントで使徒パウロを励ました天使は、使徒行伝 18:9,10 に出てき
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ます。
2.天使の姿の描写とその変遷については Encyclopedia Britanica の Angel の項を参考に
しました。
3.引用その一:
5 節の「今日」がどの時点を指すかについては、受肉の時点、ヨルダ
ン川での浸しの時点、山上の変貌の時点、復活の時点、昇天して神の右に挙げられた
時点等の見方があります。私は使 2:36 を参考に最後の見方を取りました。
4.引用その三:
6 節はマソラ本文にも、LXX にも、この通りの形では無いと申しまし
た。ヘブライ語の 97 篇 7 節の第 3 句は
`~yhila/-lK' Al-Wwx]t;v.hi
で、聖書協会訳のよう
に「もろもろの神は主の御前にひれ伏す」と直説法のようにも訳せますし、また
Wwx]t;v.hi
を命令法と取れば、新改訳のように「すべての神々よ、主にひれ伏せ」とも
訳せます。「神々」はその前の二つのフレーズを対句と見る限り、「偽りの神」「偶
像神」でしょう。D.Kidner も指摘する通り、超自然的存在を
`~yhila/-lK'
と言ってい
るとも考えられます。ギリシャ語(LXX)の 96 篇 7 節の 3 行目は
と訳しています。~yhila/ を偶像神と取らず、と
解釈した訳です。ヘブライ書では、命令法の動詞は 3 複でですか
ら、この詩篇よりも申命記 32:43 の MT に無い最初の 2 行の 2 行目と一致します。
もっとも、申命記の方の主語はではなくです。ヘブライ書
の著者は(キリスト)と(天使)とを対立させたいのですから、申命
記のを天使の意味に使うことは避けたかったのでしょう。引用したフィリ 2:9
-11 と二重写しにすれば、「神が長子を世界に導き入れる」はやはり、昇天着座と結
び付けるのが自然です。
5.「世界に導き入れる」は再臨を指すという理解もあります。この七つの引用文全体の
流れを考えずにの意味だけからかんがえれば「再臨」という解
釈も自然です。尤も、再臨の意味に取る人は 6 節のと結び付けて「再
び二度目に導き入れるに当たり」と読みます。私自身は 5 節のの外、2:13, 4:
15,10:30 での使い方を見てもこのはにかかるのではなく、同じポ
イントを論証するために引用句を重ねる時の著者の文体のクセであろうと考えます。
6.引用その四:
詩篇 103:4 の二つの解釈は、いずれも第2エスドラ書 8:2 以下によ
るものです。ラテン訳が「神の前に天使の万軍は震えおののき、その仕える霊は風と
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炎の形を取る」。シリア訳が「……震えおののき、神の命によって彼らは風と炎に変
えられる」で、本文中で紹介した二つの解釈の根拠を提供しています。
7.引用その五: メシアに対する呼び掛けとしては「神よ」は不自然と見る人は
を主格と見て、「あなたの御座は神である」「神があなたの御座」と解釈します。こ
の場合 9 節のも主格で次のと重複していると見て、聖書教会口
語訳の 9 節のように訳します。
8.引用その七: 詩篇 110:1 については、録音シリーズのルカによる福音第 82 回「『わ
が主』キリスト」およびマルコによる福音第 44 回「ダビデの主」を参照して下さい。
9.14 節の「仕える霊」から、信仰者各人の「守護の天使」を多
くの人は考えました。使 12:25 などもペテロの守護の天使と取る訳ですが、守護の天
使を教義として固定するには根拠不充分と思います。
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