メディアはなぜ戦争を止められなかったか

2012 年 5 月 23 日(水)17:30~19:14
於 参議院議員会館地下1階 B103 会議室
民主党オープンフォーラム(近現代史研究会)
開会のあいさつ
松井孝治(民主党近現代史研究会幹事・党筆頭副幹事長・参議院議員) 皆さん、お疲れさま
でございます。
民主党オープンフォーラム(近現代史研究会)
、きょうは早野透桜美林大学教授、というより
は朝日新聞の政治部で本当に長く筆を振るわれた早野先生にお越しいただきました。聞くとこ
ろによると、東京高等師範の先輩・後輩というご縁もあって藤井先生から、ぜひ近現代史研究
会の中でお話をいただきたいと。戦争に至る道でメディア、特に当時の新聞がどういう役割を
果たしたのかという議論がございまして、早野先生はお立場上なかなか言いにくいこともある
かもしれませんが、今、大学の教授として、メディアのかつての役割はどうだったのかという
ことも含めてお話をいただくということでおいでをいただきました。
それでは、藤井座長から一言ごあいさつをお願いいたします。
(拍手)
藤井裕久(民主党近現代史研究会座長・党最高顧問・衆議院議員) お忙しい皆さんにお集ま
りいただいて、ありがとうございます。
早野さんと私の関係は今申し上げたとおりですが、初め早野さんにお願いしたときは、
「戦前
マスコミはどうしてこんなに堕落したのか、ということで頼むよ」と言ったのです。しかし、
実際はそうでない面もありまして、ここにあるように「メディアはなぜ戦争を止められなかっ
たか」ということになって、これが客観的に正しいと思っております。
私ども素人は、マスコミが堕落したのは、昭和6年の満州事変のとき朝鮮軍司令官林銑十郎
が鴨緑江を渡河して、
「越境将軍」とマスコミがものすごく持ち上げたんです。その次に、昭和
8年に国際連盟を脱退するときも(マスコミは)
「脱退してしまえ」と言ったことは間違いがな
い。しかし、私は朝日新聞さんのことだけ言うわけではありませんが、緒方竹虎は一部の者の
間違った考え方に対して敢然として闘ったことは事実です。そういうあたりを早野さんがきょ
うお話しいただけると思います。なぜマスコミが堕落したかというような角度だけではなく、
抵抗しながら結局ああいうふうになってしまったことについて、客観的にお話しいただけると
思います。
個人的な話は言わないつもりだったのですが、早野さんは『政治家の本棚』を 10 年ぐらい前
1
に書いてくださいました。私のことも書いてくださいまして、実は選挙の真っ最中に、夜、エ
ドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を読んでいる、とまで書かれたら、選挙区で「おれ
たちは夜中まで選挙の努力をしているのに、おまえは帰ったらそんなことやっているのか」と
怒られました(笑)
。しかし、早野さんは高く評価をしていただいておりました。
きょうは早野さんがそういうお立場を離れて来ていただいたことに心から感謝し、お話を伺
いたいと思います。よろしくお願いいたします。
(拍手)
講演 「メディアはなぜ戦争を止められなかったか」
早野 透(桜美林大学教授) 早野透でございます。ここ(永田町)に来ると「朝日新聞の早
野です」と言っちゃいそうですが、今は桜美林大学で、3年目になりましたが、これがもう全
員平成生まれの女子学生、男子もちょっといますが、そういう中で話していますと、小泉(純
一郎)さんのことなんか全然知らないですからね、ギャップを感じながら日々暮らしておりま
す。きょうは高校の先輩である藤井さんからかく語れという命令が来ましたので、これはもう
お断りするわけにもいかない。本当はその任にたえないのでありますが、せっかくのことなの
で「メディアはなぜ戦争を止められなかったか」と、やや大上段に構えたテーマでしゃべって
みようかなと思って参りました。
「近現代史研究会」ということで半藤一利さんなどいろいろな
方が話された記録がアップされたのを読むと、
すばらしい講演をされています。
近現代史と
「近」
が入っているものですから、きょうは明治からの 100 年の中で、このテーマについて考えてみ
たいと思います。
レジュメをお手元に届けておりますが、作り出すと何だか凝っちゃって(笑)
、これも載せよ
う、あれも載せようとなって、合計6ページあります。それに沿ってお話をしていこうかと思
っております。100 年間を短い時間に話すわけですから超特急でお話しさせていただきますが、
皆さんもうこの世界にいらっしゃるので、平成生まれの女子学生に話すよりはるかにスキップ
してお話し申し上げて大丈夫かと思っております。
■明治期
・帝国議会
メディア、当時は新聞ですが、その活動は言うまでもなく議会とともに始まったわけです。そ
れ以前は、自由民権運動などがありましたが、これは政治とメディアが同じようなところで活
動していたのかと思います。明治 22 年(1889 年)に大日本帝国憲法ができまして、その1年
後に帝国議会が発足しました。そのときに大阪朝日新聞はこんな論評をしています。
2
あ
その
「厭うべきサーベル政治、憲法の発布に遇いて、其跡を収めたり。代わりて現われくるは、其
こんぼう
棍棒政治なるか」
。それまでは「サーベル政治」
、切れば血が出る、そういうような明治政府だ
った。
それが今度は棍棒でぶん殴り合うような政治になるのかな、
という論評をしております。
おお
議会の発足とともにこの頃から、それまでの政論中心の大新聞に対して報道中心の大衆紙が
こ
台頭してきたわけであります。
「小新聞」と明治初期は申しました。朝日新聞も読売新聞もみん
な「小新聞」です。下世話なまちのスキャンダルなどをもっぱら書いておったのでありますが、
だんだん政治報道に進出していって、これが大衆紙として日本の社会風土になじんでいったの
でしょうか、ここからスタートしたわけです。
・日清戦争
「戦争とメディア」ということでいくと、最初にあったのは明治 27 年~28 年の日清戦争で
す。このとき大阪朝日-朝日新聞は大阪が出発点で、大阪朝日と東京朝日は別々に発行して
いたのです。後でいろいろな新聞のことも申し上げますが、この辺は朝日中心でお話しさせて
いただいて申しわけありません。大阪朝日の高橋健三さんという人が社説を書いています。日
清戦争に関連して「交戦国人民の心得」なんていうタイトルで書いています。何を書いてある
すで
かというと、
「其国已に敵国たるの故を以て、併せて其の人民を悉く敵とし視るが若きことあら
ず」
。つまり、敵国になったからといってその人民、そこの国民が全部敵だというわけじゃない
んだぞ、と。不戦者に対し、身体虐遇、財貨略取、営業妨害があってはならないと。つまり戦
争というのはある種の国際法の中で行われるのであって、そこには人道も尊重しなくちゃいけ
ない、国際法規を尊重しなくちゃいけないと、啓蒙しているのです。最初の「戦争とメディア」
の関係はこういうことから始まったのかなぁと思うんであります。
日清戦争のハイライトは黄海の海戦でした。その海戦で清国の軍艦の「定遠」
「鎮遠」の2隻
の軍艦と戦ったわけです。そこで三浦虎次郎3等水兵のエピソードがありました。傷ついて死
にそうな中で「定遠はまだ沈みませぬか」と言ったのが「勇敢なる水兵」という唱歌になって、
明治の少国民も歌ったわけです。歌詞を見ますと。
1.煙も見えず雲も無く 風も起こらず波立たず
鏡のごとき黄海は 曇り初めたり時の間に
6.呼びとめられし副長は 彼のかたへにたたずめり
声をしぼりて彼は問う 「まだ沈まずや定遠は」
ということでこの水兵をほめたたえたというエピソードもありました。
そして高橋健三さんはまた社説を書いて「日清戦争の目的はあくまで東洋の平和であって、
戦争そのものは手段にすぎない。
(中略)政府は国力充実を計るとともに、東洋和平確立のため
3
に根本策を急がねばならない」なんて、ちゃんとしたことを書いています。新聞が最初から戦
争、戦争とはしゃいでいたわけではないというのが日清戦争あたりの雰囲気だったのではない
かと思います。
しかし、そこで三国干渉が起きて、せっかく取った遼東半島を返さなければいかんというこ
とになった。ここから悔しいぞ、臥薪嘗胆ということで、西村天囚という朝日新聞のコラムニ
ストは、
「泣て大詔を読む。億兆臣庶、捧読数過、大御心の深きに対し奉り唯血涙あるのみ」と
書いています。おそらく残念ながら三国干渉を受け入れるということを、天皇陛下の大詔とい
う形で国民に発布したのでございましょう。それに対して残念だと涙を流しているという社説
です。
ここから若干天皇制ナショナリズムの匂いがいたしますね。しかし、まだまだ日清戦争の頃
は「若き日本の台頭、老朽大国清」というような対比。いわば比較的健全なナショナリズムの
中にあったのかなという感じがいたします。
・日露戦争
その 10 年後、日露戦争で状況が少し変わりました。日露戦争になると非戦論が登場いたしま
す。司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』には非戦論の動きは全く載っていないのです。司馬さん
がそのことをわかっていなかったわけではもちろんないでしょうが。
よろずちょうほう
代表的な非戦論を唱えたのが「 萬 朝 報」
、当時では一番部数のあった新聞です。この経営者
ああ
は黒岩涙香、
『噫無情』などを訳した人です。その紙面で「非戦論」
、ロシアと戦うべからずと
いうのを開戦前に議論していたのが幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三の3人です。幸徳秋水は言う
までもなく、戦争をすればひどい目に遭うのは農民、労働者、そういう連中だということで非
戦論でしたし、内村鑑三は「神は殺すべからずと言っている」というキリスト者の立場です。
しかし、黒岩涙香は途中で自分の新聞を「開戦論」に転換したいということで、開戦論に変
わってしまうのです。これは売れ行きが悪いというのが理由であります。国民のほうは「北方
の熊と戦うべし」というのが盛り上がってきている。
「萬朝報」は「戦争するな」なんて書いて
いて、一体これは何だと。こういう状況で、経営上の理由で黒岩涙香は開戦論に変えようと。
しかし、ペンは曲げるべからず、堺利彦、幸徳秋水、内村鑑三の3人は退社しました。
黒岩涙香の懐の深いところは、堺利彦と幸徳伝次郎の連名の「退社の辞」を一面トップに載
せているんです。
「退社の辞」には、
「戦争を目するに、貴族・軍人等の私闘を以てし、国民の
多数は其為に犠牲に供せらるる者と為すこと」
、
こういうことを凛然として書いている一幕があ
りました。
堺・幸徳は辞めてから「平民社宣言」を出して、
「平民新聞」を出します。幸徳秋水は共産党
4
とか社会党の源流のように思われていますが、
「平民社宣言」を読むと、まことに民主党ぐらい
のところで、自由・平等・博愛、平民主義、つまり平等であるべきだと。門閥・財産・男女差
別を打破すべきだと。社会主義も唱えていますが、当時の社会主義ですから、今の年金とか医
療等は、当時の幸徳秋水だってびっくりするほど社会主義なんじゃないでしょうか。
そして平和主義を唱えています。
「吾人は人類をして博愛の道を尽さしめんが為めに平和主義
を唱導す、故に人種の区別、政体の異同を問はず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶せ
んことを期す」と、憲法9条の先ぶれみたいなことが書いてあります。
しかし、これは時代が早過ぎたということでしょう。その6年後、1911 年には大逆事件とい
う冤罪事件で、幸徳もその愛人である管野スガ、大石誠之助らもみんな処刑されてしまう。当
時の山縣有朋、桂太郎、平沼騏一郎などの司法ファッショの先駆けですな。司法界というのは
ここからずっと戦後も変わっていないのです。
まあ、
それはちょっと余分なことであります
(笑)
。
・朝日新聞
それでは朝日新聞はどうだったか。
「東朝」というのは東京朝日新聞のことですが、池辺三山
という主筆がおりまして、対ロシア強硬論を唱えます。この人は夏目漱石を朝日新聞に入社さ
せた人ですが、漱石によると「西郷隆盛のような雄大な人物だ」
、こう言うんですが、さあ、ど
んなものでしょうか。私は、この池辺三山というのは今の読売のナベツネさんみたいなタイプ
だなと思いますけどね(笑)
。伊藤博文や山縣有朋のところを歴訪して、ロシアと開戦しろと言
うわけです。国民は開戦を熱望しておる、みたいなことを説得して歩くわけです。伊藤博文や
山縣有朋はさすがにその頃はまだためらっていた様子があります。とりわけ伊藤博文は。しか
し、それを池辺三山が張り切っちゃって、紙面ももちろん開戦論で張ります。
「大朝」は大阪朝日ですが、ここはまた内藤湖南が「我邦は実に人口の繁殖の為に土地の必
要あり。而して工業生産物の排泄のために新市場の必要あり。
(中略)永く他国の圧迫より脱す
るは戦争の結果による外なし」
、てらいもなく帝国主義の論法を書いています。どうなっちゃっ
てるんだ、
という感じです。
社会面には旅順沖海戦での初の戦死者の家族訪問記が載りました。
今でもあるようなタイプの記事であります。そういうのを見て盛り上がってしまうものですか
ら、戦死者のお父さんが「私の息子が記事にならないなら、広告にさせてくれ」と、広告の掲
載を要望しに来たというようなエピソードもあります。
このときも歌ができました。広瀬武夫少佐の戦死、文部省唱歌「広瀬中佐」というのができ
たんです。
つつおと
1.轟く砲音、飛び来る弾丸 。
荒波洗ふ デッキの上に 、
5
闇を貫く 中佐の叫び。
いずこ
「杉野は何処 杉野は居ずや」。
杉野というのは何だろう。
藤井 兵曹長です。
早野 兵曹長ですか。兵曹長が、戦っている軍艦の中なんでしょう、どこかにいなくなっちゃ
ったという。
みたび
2.船内隈なく 尋ぬる三度 、
呼べど答へず、さがせど見へず、
船は次第に 波間に沈み、
敵弾いよいよ辺りに繁し。
3.今はとボートに 移れる中佐、
た ま
飛び来る弾丸に
たちま
忽 ち失せて、
旅順港外 恨みぞ深き、
軍神廣瀬と その名残れど
このとき初めて「軍神」という言葉が出てきたのだそうであります。広瀬少佐は1階級上が
って中佐になったのですが、ロシアに留学していて恋人もいたんですね。このあたりはNHK
の「坂の上の雲」で少しすてきな場面として登場しておりました。
旅順が陥落して池辺三山、
「吾人は喜び極まって殆んど言うべき所を知らざるなり」なんて言
っちゃっているんですけれども、いいんでしょうか。
この頃、与謝野晶子なんかは「君死にたまふことなかれ」という弟を思う詩を書いて、当時、
評論家の大町桂月に「国賊」と言われちゃっているんですね。この頃から「国賊」とか「軍神」
とか、そういう言葉がぼつぼつ出てくるんです。
そんなふうに盛り上がって勝ったつもりでいたのに、ポーツマス条約で日露交渉をしてみた
ら全然取るものが取れない。ロシアはウィッテ(Sergei Witt)
、日本は小村寿太郎が交渉したの
ですが、このときもウィッテのほうがメディア対策が上手で、尋ねている記者にケーキをごち
そうしちゃったりして、どんどんしゃべる。小村寿太郎はまじめな人だから、
「 交渉中はしゃ
べれない」なんて言っているうちに、どんどん世界じゅうがロシアの論調で書かれてしまった
わけです。こういうところはやはり「メディアと外交」のある一面だったのでしょう。
そして小村寿太郎は帰国したのですが、樺太の半分を取ったりして、私なんかは十分取った
なと思うのですが、賠償金が取れなかった。司馬遼太郎は、乃木大将は愚将だと言っています
ね。二〇三高地を落とすのにたくさんの兵が死んでいますから、
「金ぐらい取れよ」という国民
感情だったのかもしれません。
6
もちろん、戦争で死んだ息子を抱えた親たちが嘆き悲しむ声が聞こえるといったことを書き
残している、あるいは言い残している日本で最初の良心的兵役拒否をしたキリスト者などもい
ますが、さまざまな中でやっぱり新聞というのは上部構造というか、政治の上っ面のところで
追いかけているところが多分にあって、ポーツマス条約で取れなかったから池辺三山はコロッ
と変わって、
「桂内閣けしからん」という反対の論陣を張った。
「桂に近過ぎる」と池辺はさん
ざん言われたのを少し気にしたという話もあります。
そして日比谷焼き討ち事件、民衆も暴動を起こしたんですね。
「国民新聞」というところが焼
き討ちに遭いました。ここは政府寄り新聞といわれているのですが、政府寄りなだけあって「日
露戦争はこのぐらい取れればもう十分だ。日本はとてもじゃないがもうヘトヘトだったんだか
ら」というような論調に対して、民衆は怒っちゃっているわけです。ここは徳富蘇峰がいたの
かな。いわゆる政府寄り新聞と民衆寄り新聞で、朝日は民衆寄りのほうにいたわけですが、さ
あ、それが本当に正しいメディアだったのかどうか、今から考えるといかがかなとは思います
が。
小村がポーツマス条約から帰ってきたときの朝日新聞を見ますと、
「請和條件」と書いてあり
ます。それが黒枠で囲ってあり、下に「白骨の涙」という絵が描いてあります。新聞はこの頃
まだ写真があまりないのです。
日露戦争のときに初めて戦場の写真が載ったということでした。
絵がなかなかインパクトがあります。日露戦争のとき朝日新聞は大いに盛り上げて、うまくい
かないことになったということで今度は「白骨の涙」
、ちょっと、どんなものかなと思うんであ
りますけれども。
司馬遼太郎さんなどは
「明治というのは国民国家形成の明るいプロセスだ」
と言っています。
私が大学で学んだ丸山真男先生も「明治というのは明るい」
、いろいろあったけれども、まだ明
るい国家だったと言っておられます。ある種の近代国家としての成長過程、その中での政治と
メディアも、多少スッタモンダしながらもこんなことで推移していたのかなという感じであり
ます。
その明治が、大逆事件と韓国併合の二つが 1910 年に起きて終わるけですが、その次が大正デ
モクラシーであります。
■大正デモクラシー
世の中というのはずいぶん変わるものだなぁと思うんですが、大正時代は何といっても大正
デモクラシーです。権力側、という言い方をするとなんですが、結構しっかりしていて、明治
42 年には新聞紙法をちゃんとつくっています。
「内務大臣ハ新聞紙掲載ノ事項ニシテ安寧秩序
ヲ紊シ、マタハ風俗ヲ害スルモノト認ムルトキハ其ノ発売及頒布ヲ禁止シ」と、つまり安寧秩
7
序を乱すと新聞は発禁になっちゃうんですな。それが常態化しているわけです。
そういう中で韓国併合、このときに朝鮮総督府ができました。ここに寺内正毅総督が赴任し
たわけです。この寺内総督とメデイア、といっても当時は新聞しかありませんから、新聞との
関係が非常に悪かった。寺内という人はすぐ弾圧してコソコソといろいろなことを調べ回る。
「密偵はなち『某は某夜蕎麦屋にて蕎麦幾拝を食いたり』
」
、そこまで調べ上げて、新聞も「其
の器が余りに小なり」
「楊枝を以て重箱の隅をほじくる」などと、結構あからさまに寺内攻撃を
しています。新聞はまだこの辺は自由だと言えば自由だったのです。活字も「桂」というのを
ひっくり返して新聞記事をつくったこともあったりしました。
・憲政擁護運動(大正元年)
そして大正はまず憲政擁護運動でスタートします。このときに陸軍2個師団増設問題、これ
は朝鮮半島の軍備強化ということだろうと思いますが、上原陸軍大臣がこれを要求したのです
が、通らない。それで辞表を提出した。このとき「大阪朝日」は「周囲の事情と国力の如何を
も顧みず、国防問題を絶対的のものと為さんとするが如きは、真に愚者の見のみ」
。要するに上
原陸相の2個師団増設要求を批判しているわけです。これはバカだ、と言っているわけです。
日露戦争のときはそうでもなかったのですが、大正デモクラシーという流れの中で、近代国家
成立とともにもう一つは民衆の力、吉野作造の「民本主義」に代表されるような、一般大衆と
いうことが天皇制の中でも台頭してきたのはこの時代でありました。
結局、これは上原陸軍大臣が辞めて、その後、軍部が大臣を出さないものだから、西園寺内
い あく
閣は崩壊してしまいます。ここが帷幄上奏権とか統帥権のいわばハシリ。これが昭和をメチャ
クチャにしていった統帥権だというのが藤井さんのお考えでもありますかね。そういうことが
この辺から始まっていたのではないかと思います。
あに
大阪朝日は「山縣一派の奸智奸策」
「国民を離れて軍隊なし、軍隊豈閥族の私有ならんや」
などと言って、軍部の要求を非常に強く批判しているわけです。このときの群衆は逆に「軍は
けしからん」
というほうに傾いていたのでしょうか。
筒井さんにその辺は伺いたいところです。
群衆が政府系の新聞社を襲う。
「国民新聞」
「報知新聞」
「読売新聞」が襲われました。桂内閣は
そういう勢いの中であっという間に総辞職。宇野政権より短い内閣があったんだな(笑)
。
そして大隈内閣の 21 箇条の要求、これが 1915 年(大正4年)
。ここから日本の夜郎自大とい
うか、侵略主義のスタートが非常にはっきりしてきた。これも藤井さんの解釈ではなかったか
と思います。
はっこう
・白 虹事件(大正7年8月 26 日)
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大正時代のもう一つ大きな出来事は大正7年の白虹事件です。寺内朝鮮総督が総理大臣にな
ってあらわれた。
「ビリケン人形」というのが当時はやっていました。寺内は頭がとんがってい
てそれに似ているというので、
「寺内ビリケン内閣」と言っていたのですが、大阪朝日は「果然
コレラより忌まわしきビリケン菌」なんて書いています。これは週刊誌レベルといえば週刊誌
レベルですが、週刊誌はそろそろ「週刊朝日」
「サンデー毎日」ができる頃でしょうか、あまり
なかった時代ですから、新聞の表現も今のように抑制されていないところもありました。
ロシア革命、シベリア出兵がちょうどこの頃で、発禁に次ぐ発禁。そして米騒動が起きまし
かく
た。
「寺内内閣は其の如き理由の下に各地の米騒擾に関する一切の記事掲載を禁止せり」
。
「白
虹日を貫く」というのは、いわば天皇を暗殺することを示唆したものだというようなことで、
これを朝日新聞がうっかり米騒動の報道の中で使ってしまったものですから、右翼がすごく攻
撃して「国賊大阪朝日を葬れ」
。ちょうど後藤新平が内務大臣でした。後藤新平は「帝都復興」
でものすごく評価されているのですが、新聞弾圧にはなかなかすご腕を発揮した人で、多少強
権的なところがあるのでしょう。だから「帝都復興」ができたのでしょうか。新聞紙法違反で
これを起訴するという脅しをかけてくるのです。村山龍平社長も右翼に襲われて、電信柱にく
くりつけられて「国賊」なんてビラを貼られることが起こりました。
吉野作造は立派な人でした。なお「言論の自由の社会的圧迫を排す」と言う論文を書きまし
た。右翼に脅されたのですが、堂々と立会公開演説会をやって論破していくということもあり
そ せん
ました。朝日新聞のほうは若干ヘナチョコになって、村山社長が辞任し、鳥居素川編輯局長、
長谷川如是閑、丸山幹治という当時の論説の中心人物が退社していきました。
■昭和の言論
抵抗と弾圧
・普通選挙と治安維持法(大正 14 年3月)
そんな中でいよいよ昭和になってきました。昭和の始まりで象徴的なのは、まあ大正の終わ
りとダブっていますが、一つは、普通選挙ができました。アメとムチのアメの方ですね。普通
選挙は 25 歳以上の男性。女性はまだありません。一方で治安維持法、国体を揺るがす者に対し
ては懲役 10 年以下という弾圧法、3年後には死刑、無期刑が加わりますが、ムチも合わせ技で
やるわけです。一方で減税して一方で消費税を上げるというのと似ているかもしれません。
もう一つは、その同じ年、1925 年3月 22 日にラジオ戦争が始まったのです。JOAK、電波メ
ディアがついに登場する。天気予報、相場、新聞記事の紹介などが最初のメニューでした。普
通選挙に関してはさすがに新聞はみんな盛り上がって、
「普選を求める共同宣言」
、15 社宣言な
ど、主なる新聞はみんなそこに連なりました。治安維持法に対しても一応は批判しているので
す。
9
大阪朝日は「現代の国家は、社会秩序の維持と言論の自由による文化の発展といふ二つの社
会的欲求を調節する任務を課せられている。この両者は対等の地位にある」
。社会秩序の維持と
言論の自由が対等だということをメディア側から言うと、これはいかがなものか。半分、治安
維持法を認めちゃったような感もしないではない。まだまだ言論というものの十分な自己認識
がなかったのかな、とも思える社説であります。しかし、一応は「言論の自由も大事にしてく
れ」ということを唱えているわけであります。大正から昭和初期、朝日新聞は自由主義と報道
第一主義、そして「朝日新聞は議会主義の信者である」ということも言って、当時の新聞とし
ては一応自由主義陣営の旗頭として位置を占めてきたということであったのだろうと思います。
・ロンドン条約と統帥権干犯(昭和5年4月)
さあ、その次が、
「政治とメデイア」の関係で重要なロンドン条約と統帥権干犯です。昭和5
年、浜口内閣が海軍の軍備を制限するロンドン条約に調印しました。これに海軍が異を唱えて
「これは統帥権の干犯である」と。海軍の軍令部総長などは天皇に直接報告することができる
のです。内閣に報告しなくても、天皇には報告できるというようなことがこの「統帥権」です
が、それを、内閣が勝手に軍備を制限するとは何事かと。これに政友会が乗ってしまった。当
時は浜口民政党と政友会の二大政党で政権交代していたのですが、政権交代のだめさかげんと
いうのはこういうところからあって、相手を引きずりおろすためにはどんな手段でもとるとい
う見事な例だったのではないかと思います。
「海軍の統帥権干犯だ」と民政党内閣を攻撃して、
その結果が一体どうなったかはご承知のとおり。両方の政党が滅びて軍閥政治を招き、その先
は大政翼賛会と日本の敗戦へとつながっていくわけです。
東京朝日の社説は「かくの如きは、軍事を国家最上最大の国務として、他の国務はすべてこ
の目的のために奉仕せしめんとする軍事国家のことであって」と、統帥権干犯論を批判してい
るのです。まだこの時期は「自由主義朝日新聞」は健闘していると言うべきでしょうか。
しかし、一方で伏せ字が新聞に登場するのがこの頃であります。山本有三の『風』という連
載小説で少年兵が口に馬糞を入れられるシーンが×××になっています。軍隊の中の非人間的
場面を新聞に載せさせない。こういう風潮の中で朝日はだんだん「反軍的だ」という批判を受
けるのです。
・満州事変(昭和6年9月 18 日)
そして、先ほど藤井さんがおっしゃった満州事変が起きました。これは言うまでもなく関東
軍が仕組んだ謀略、柳条湖事件でレールを爆破した。朝日新聞の報道が「明らかに支那側の計
画的行動があることが明瞭になった」と、根拠もないのにこういうことを言って盛り上げてい
10
ってしまったのです。現地では薄々、どうもこれは謀略みたいだとわかっていたというんです
な。しかし、そこの特派員なんか1人か2人しかいないから、軍部と癒着していないと情報が
取れないというのがこのときの間違いの理由だったのだろうと私は思います。その頃、東京で
は軍部と新聞と政党幹部の懇親会などが持たれていました。これは今の星ヶ岡のホテルあたり
でやっている。東京朝日の緒方竹虎編輯局長はこのとき「満州独立などとは時代錯誤もはなは
だしい。もしそんなことをたくらんでも、今の若い者は1人もついて行かぬだろう」と言って
いるのに対して、小磯国昭陸軍省軍務局長が、まあ一緒に一杯飲んでいるんでしょう、
「いや、
日本人は戦争が好きだから、火蓋を切ってしまえばついてくるさ」
。そして大阪毎日の主筆高石
真五郎は「まあ、小磯の言うとおりだな」と、見通したようなことを言っていたと。
この満州事変というのはすこぶる盛り上がってしまいまして、毎日新聞は親軍で、
「毎日後
援・関東軍主催・満州事変」などと言われました。軍部とメディアとの癒着がここから始まっ
ているのです。
朝日新聞は一体どうしたのか。緒方竹虎はそんなことを言っていたのですが、それでも東京
朝日は永田町に近いものですから若干権力寄りなんです。でも、大阪朝日は割と反権力で、今
の大阪本社でも護憲派が多い。当時の大阪朝日の編輯局長の高原操、この孫が私の同期生です
が、それはともかくとして、ずっと「国権の発動としての戦争の否定」を唱えていました。憲
法9条みたいなことを言っていたのです。ところが、10 月1日になって大阪朝日の社説が「国
民政府が日本の有する相当の権益をも一掃してしまおうとするにおいては、必ず近き将来にお
いて日本との衝突は免れないであらう。これ満州緩衝国設置の必要なるゆえんである」
、このよ
うに社論を転換してしまうのです。つまり「満州国をつくれ」になってしまうのです。
この間のいきさつは、いろいろ議論が東京朝日との間であったのですが、細かいので省略し
ますが、これに対しては中堅記者が反発して、
「朝日は軍部のシリを押すのか」などという反論
があったりして、大阪の紙面をレイアウトする整理部はわざと満州事変の記事を小さく扱った
りする。そうすると現役や予備役の軍人が朝日の不買運動を起こす。ここが新聞の情けないと
ころで、今はそういうことはありませんが、大阪毎日は「朝日の部数が減れば、オレのほうが
取れる」というので、朝日攻撃にかかってくるのです。さすがにちょっとやり過ぎだというの
で社長が謝りに来た、なんていうエピソードもありました。
ということで、満州事変でせっかくの「自由主義朝日」も、何だかしらないけれども、戦争
を応援する方向に変わってしまいます。これは一つは「国賊」というレッテルが怖かった。も
う一つは、不買買動ですな。経営に響くということ。それから情報源の喪失。当たり前なんで
すが、なぜ戦争をメディアが止められなかったかといっても、そんなに深々とした理由がある
わけではなくて、
やはり新聞がそんなところで動いてしまうということを感じざるを得ません。
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それでも理想と使命感に燃えて新聞社の中でも頑張っていたのも多々いるのですが、このあた
りからすると「ペンは剣よりも強し」というよりも、やっぱり剣はペンよりも強いのかもしれ
ません。そういう時代に差しかかってきたのです。
だから、この時代から思う新聞記者としての反省というのは、そういうのに負けないメディ
アというのはどうしたらつくれるか。これは政治記者としてすごく大きな課題であります。か
といって、いつも突っかかって単純な批判をしていればいいわけではない。もっと大きな、あ
る種人間としての教養みたいなものが備わっているメディアでないと、こういうときに本当に
防げない。それこそ吉野作造や小林多喜二、幸徳秋水もそうですが、命をかけて闘っていると
きに、それがなぜできなかったのか。石橋湛山が東洋経済新報で、日本は四つの島で十分なん
だ、と言い続けていた。そのことを朝日新聞がなぜやれなかったのかということは大いに反省
というか、残念に思うところであります。
・上海事変と肉弾三勇士(昭和7年1月)
翌昭和7年、上海事変と「肉弾三勇士」の事件がありました。肉弾三勇士というのは、上海
事変の上海で3人の 20 歳ぐらいの庶民の息子たちですが、
特攻隊になって突っ込んでいって攻
撃の血路を開いたということなんです。ここになってくると、満州事変でいわば操を売ってし
まった新聞としては、もう盛り上がる以外にない。朝日と毎日は「肉弾三勇士の歌」なんてい
うのを募集しちゃって、賞金 500 円というと幾らでしょうか、今の 50 万円ぐらいかな、もうち
ょっとあるかもしれません。募集したらものすごい数の応募が来た。毎日新聞には与謝野鉄幹
が応募してきて、1等になりました。与謝野鉄幹が言ってくると、こりゃあ1等にせざるを得
ません(笑)
。
いや、鉄幹という人はおもしろい人で、そこに三つ歌を書いておきましたが、最初の頃は、
例の「人を恋うる歌」
妻をめとらば才たけて みめ美しく情ある
なぁんていう青春の歌を歌っていたんです。
それから大逆事件が起きたとき、
大石誠之助という新宮のお医者さんが処刑されたのですが、
友だちだったんですね。それで一篇の詩を書きました。
誠之助と誠之助の一味が死んだので、忠良な日本人は之から気楽に寝られます。おめで
とう
これは反語なんです。やっぱりおかしい、大逆事件、ああやって社会主義者を一網打尽で弾
圧するような司法ファッショというのはおかしい、
と思っていたのですが、
こんな表現でした。
しかし、この「爆弾三勇士の歌」になってくると
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びょうこうちん
1. 廟 行鎮の敵の陣
我の友隊すでに攻む
折から凍る如月の
二十二日の午前五時
4.我等が上に戴くは
おお み
い
つ
天皇陛下の大 御稜威
しりえ
後 に負うは国民の
意志に代われる重き任
なんて、国民の責任みたいなものも書いている。天皇制ナショナリズムがここにもう、いわば
突き詰めたところに来てしまった。
折々の戦争のときにも歌ができましたが、それまでは戦死したかわいそうな3等水兵などを
歌っていたのが、ここに来ると特攻をほめたたえるのです。特攻を軍神としてほめたたえると
いうメディアに変わってきて、ここから先は、最後はカミカゼ特攻隊まで一瀉千里ということ
だったのかもしれません。
・二・二六事件(昭和 11 年2月 26 日)
そして昭和 11 年2月 26 日、メディアがとどめを刺されたのであります。政治家も殺されま
したが、朝日新聞にも襲撃隊が参りました。兵 50 人が襲撃して、緒方竹虎主筆と美土路昌一編
輯局長が応対した。そのときもやはり「国賊朝日を叩き壊す」ということで、活字箱をひっく
り返されちゃったのです。それでも、夕刊は出せなかったけれども、次の朝刊は出そうという
ことで、緒方竹虎が社説に「暴力否定」というテーマで書き上げたのですが、これは結局掲載
が中止になりました。まだまだ反乱兵が燃え盛っていたときですから、まだ天皇の征伐が始ま
っていないときで、かわりに前田多門が「職業紹介制度の改正」という社説を書いたのです。
これは外国のいろいろな職安制度みたいなことなんでしょうか。というので、当時校閲部だっ
たか整理部だったかにいた土岐善麿、歌人として有名な人が一首残しています。
物言わぬ新聞あわれ社説には外国のこと書きて済ませり
二・二六事件で結局メディアは息の根を止められ、この後はもう大本営発表を一生懸命に書
き写すだけのメディアになって、昭和 20 年を迎えるわけです。
■戦後 政治批判の復活
あまりに暗い末路ではちょっと寂しいので、最後にちょっと見てください。民主主義の回復
の登場とともに、政治批判の復活。しかし、依然として GHQ のプレスコードもあって、軍部
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のプレスコードと大して変わらない状況にあったのでありますが、NHK のラジオ、これが戦後
の大きなメディアとして登場しました。戦前はほとんど権力の道具です。なぜなら、ラジオの
ニュースは事前検閲があったものですから、軍部の言うことしか伝えられなかったのが大半で
ありました。
しかし、戦後になって一体 NHK はどういうふうに報道すべきか、
「国営放送ではない。公共
放送なんだ」という自覚のもとで番組をつくっていく。公共放送というのはとういうことかと
いうと、政治批判ができる、すべきだということです。
丸山鉄雄というプロデューサーがおりました。丸山真男先生のお兄さんです。NHK に入って、
主に軟派の分野で歌謡曲とかの音楽などを担当していました。
「日曜娯楽版」という番組を作り
ました。戦後の NHK は街頭録音とか、いわば民衆の声を拾っていくのだ、という決意で始め
たのですが、
「日曜娯楽版」は政治風刺番組として非常に痛烈でした。丸山鉄雄さんの『歌は世
につれ』という本からその一節をコピーしたのですが、この頃「モロッコ」とか「パリの屋根
の下」
、戦後はやっていた映画の状況などを書きつつ、こう書いています。
「当時、ラジオの「日曜娯楽版」で、三木鶏朗の冗談音楽は
男「大臣! またまた列車妨害です」
大臣「ウン、共産党のシワザだろう」
男「大臣! 電車が暴走しました」
大臣「犯人は共産党にきまっとる」
男「大臣! 台風が襲来するそうです」
大臣「共産党のせいだ」
男「大臣! いよいよ暑くなって来ました」
大臣「チキショー! 共産党のヤツめ!」
こういうコントが放送されているんですね。当時、松川事件はじめ怪しげな、どうやらアメリ
カ軍の謀略機関の犯行ではないかというようなこともありましたが、今ではこんなのはとても
じゃないけどラジオやテレビで放送されないでしょう。いわば、ある種の民主主義の開花とい
うか、本当にどこまでメディアが表現していいのか、そんなことがまことに自由な時代が来ま
した。
さあ、その後はもう皆さんご承知のとおりの戦後。何といったってこの間、戦争しないで今
日まで 67 年来たのは戦後政治の大きな成果だと私は思っているのです。
メディアもその中でお
っつかっつ、何とか戦前のような大失敗をしないで来ているのだろうと思います。
民主党の諸兄も政権を取って、メディアには腹の立つこともいっぱいあると思いますが、し
かし、それはそういう構造なんですから、ということを最後に申し上げて、一応任を果たさせ
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ていただきます。ありがとうございました。
(拍手)
質疑・意見交換
松井 ありがとうございました。
「せっかくの機会ですから1時間お話しいただいて結構です」
と申し上げてお話をいただきました。質疑応答をさせていただきたいと思いますが、きょう筒
井清忠先生がお見えでございまして、また来週の水曜日に筒井先生の2回目の研究会がありま
すので、皆さんぜひおいでいただきたいと思うのですが、実は前回、筒井先生にお話をいただ
いたときのメインのエピソードが「朴烈怪写真事件」で、それが一つの政局につながっていく。
当時から実はポピュリズムというものがあったのだというお話がございました。当時の新聞は
ある種、今でいう週刊誌的な要素があった、芸能というかそういうことも含めて朴烈怪写真事
件は一つの話題をかっさらって、それが政局につながったという話がありました。
バックグラウンドとして早野さんにお聞きしたいのですが、きょうのお話の中で新聞紙法の
話や放送の事前検閲の話もありました。
要するにメディアがこういう流れをたどった背景には、
そういう権力的な制約があったこともお話をいただきました。メディアに対する不買運動が起
こることがプレッシャーになったのではないかという話もありましたが、当時、新聞はどのぐ
らいの発行部数があって、どのぐらいの世論の支配力、逆にいうと不買運動がどのぐらい新聞
に影響を与えていたのか、あるいは国家による規制がどれぐらい影響があったのか、あるいは
星ヶ岡で懇談をしていたという話がありましたが、今、いろいろ議論になっている「クラブ制
度」みたいなものがいつ頃からあって、当時の行政とメディアとの関係がどうだったのか、な
ぜメディアがこういうふうに変節したのかということについての若干の補足をいただければあ
りがたいと思うのですが。
早野 いっぱいあって、ちょっとわからなくなっちゃったのですが(笑)
、また、うまく答えら
れない部分も多いんです。
レジュメにも少し書いておきましたが、日露戦争の頃は3万部とか5万部とか、そんなレベ
ルです。幾つも新聞はありましたが、ごく少数の、知識層と、割と上級階級ということなので
しょう。田舎でも「うちのおやじはずっと新聞取っているんだ」なんていう、村に1軒とかそ
ういう感じの時代だったかと思います。
昭和の初め、ラジオ放送が始まった頃は、東京朝日・大阪朝日合わせて 120 万部というレベ
ルになっていますから、これは相当なものですね。他の新聞ももちろん同規模であると想定す
れば、かなり新聞の普及が進んでいる。
やはり戦争が部数をふやしたんです。なぜなら、うちの息子は無事かなんて、ほかにメディ
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アがないんですから、新聞しかないんですから、ともかく何かの手がかりをつかみたいという
のはみんな新聞です。だから、ある意味では反戦論・非戦論が滅びて主戦論・開戦論になっち
ゃうのは、部数がふえるというところがあるんですな。日本の歴史の中では典型的に、戦争の
たびに新聞はガンガンと部数をふやしたというのが実態であります。
昭和の戦争になってくると、今度は総力戦過ぎちゃって物資が不足する。紙がなくなって、
紙の割り当て、これもまた権力統制の絶好の手段になっちゃったのですね。だんだんペラペラ
の1枚紙になってしまうというような、別の要素で新聞はあまりかんばしくない状況になって
いきました。そしてラジオが登場するというところが戦争時代でした。
戦後は、ようやく紙の統制が取れて、昭和 35 年、安保ぐらいまでは新聞の時代だったと思い
ます。それから 1953 年にテレビが登場して、そこからはやはりテレビ主導、と言ったらちょっ
と新聞記者として残念だけど、大衆の中にテレビが大きな存在になっていく。これは何といっ
ても画期は美智子さんの(ご成婚)パレードですな。
ですから、当時の不買運動がどの程度経営に響いたかということはちょっと僕もよくわかり
ませんが、やはりナショナリズムの大きな胎動の中には乗っかっていかないと、新聞も商売が
上がったりだというところはあったのではないかと思うんです。新聞も主張を貫くためには最
後つぶれてもいいんだ、というぐらいの覚悟がなければ本当はいけなかったと思いますが、や
はり社員の生活はどうするんだとか、いつもそういう同じようなジレンマの中で、結局戦争を
止められなかったということなのだろうと思うんです。
何かすごくメディアの責任だとか、メディアのとんでもない堕落だということよりは、やは
りある種の日常の中でそうした抵抗力を失っていって、あの戦争に結局協力してしまったので
はないかと思うんです。
きょう申し上げたようないろいろ節目の事件や戦争もありました。しかし、総じて言うと、
現時点での反省として言えば、新聞が結局、ある種のデマゴーグ、軍部のデマゴーグみたいな
ものにやはり弱い。そしてポピュリズムにやはり乗っかっていく。新聞がデマゴーグとポピュ
リズムに対する十分な対抗力、批判力、分析力を結局持ち得なかった。結果論としてはそうい
うことだったのかなと思うんです。これは常に、今の政治だってデマゴーグがどこかにいます
し、ポピュリズムもばっこしているわけであって、その中で新聞やテレビなどのメディアがど
ういうふうに日々の、まさに大きな出来事じゃないんです、日々の報道。その中で一つ一つ試
されていくことなのかなとは思うんです。クリアな回答ではもちろんありませんが、そんな感
じを持っております。
松井 それでは、皆さんのほうからご質問などあればと思いますが。
仙谷由人(衆議院議員) さすがに資料を大変渉猟されているので、参考になりました。
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きょうのテーマではなかったのかもわかりませんが、1925 年に普通選挙が実施された。これ
は男子普通選挙であります。たぶん新聞を読む層と、税金を払うか払わないか、あるいは投票
権を持つかどうかというのは、
当時の普通選挙を実施するについても、
要するに無知蒙昧なる、
文字も読めないとか、文字を読んでものを考える人たちが多い少ない、だから普通選挙をする
のかしないのか、みたいな議論があったような記憶があるんです。政治との絡みではこの 1925
年の普通選挙が新聞にどう影響したのかということを考える必要がある。
それと、早野さんに一度どこかでお話を聞きたいのでありますが、さっき言論統制の話、特
に戦前は基本的に商業主義的にナショナリズムにどう迎合するかというか、つき合うかという
か、そのこととメディアの消長とは関係があると。あるいは権力、暴力、それと抵抗しながら
どう屈服していったのかという歴史、それから戦後は GHQ との関係というのがあるわけです
が、どこからか、メディアというか新聞及びテレビ、とりわけテレビかもわかりませんが、
「マ
スコミは」という言い方か、
「メディアは」という言い方かはともかくとして、
「第4の権力で
ある」と、こういう言い方がずいぶんあります。
私の弁護士時代も、要するに「報道と人権」とか「メディアと人権」というのは、弁護士的
にはちょっとしたテーマになっておりますね。個人の立場が、ひどい言い方だと「言論の暴力
によって人権が侵害される」と。一度言論がある種の暴走をし出すと取り返しのつかないこと
になるという、それを身をもって体験した人も個人のレベルでもいる。あるいは片方に流れて
いって、今の日本的状況の中では正しい意味で権力と言えるかどうかは別として、やはり一つ
の方向に流す力はある。影響力を与える力は新聞、テレビ、最近だとインターネット複合体み
たいなのがそういうことになっていて、最近の政治との関係でいうと、2005 年の郵政選挙、あ
るいは 1993 年の新党選挙というか細川内閣ができたときの選挙もそうですし、2001 年の選挙
もそうでありますし、さらには 2005 年、2009 年もそうだったと、こういう言われ方をするわ
けであります。
「第4の権力」の、あるいはメディアの影響とポピュリズム。これについてのメディア及び
政治のレベルの踏みとどまり方というか、踏みとどまるだけでいいのかどうなのか、この問題
についてどう考えているのかというのをどこかで聞かせていただければと思います。
早野 きょうはいわば「政治権力とメディア」という切り方に限定して話したので、今、仙谷
さんの重大な問題提起の部分には入らないでお話ししました。戦後になってくると、メディア
自体がいわば権力化していく。
おっしゃるとおりです。
そしてさまざまな問題を起こしていく。
端的に言えば人権を、
それこそ犯罪被害者や災害被害者などにみんなでマイクを突き付けて
「ど
うです」
「どうです」というようないわばスクラム取材みたいなものから始まって、大きな政治
動向に対する一本調子の報道であるとか、さまざまな問題があります。メディアは被害者どこ
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ろではなくて加害者の部分が大きいというのも、今の仙谷さんの問題提起なんだろうと思いま
すが、そこのところはきょうはテーマとしては取り上げませんでした。
しかし、この問題はなかなかメディア自身も収拾がつかないでいる状況です。日々いろいろ
報道する中で橋下市長がやたら出てきますが、僕なんかが見ていると、毎回なんでこういうふ
うに出てくるのかと思う。しかし、とにかく聞いてみなければいかん、ほかが聞いていればう
ちも聞かなければいかん、こういうような状況が常にあって、困ったものだな、これは、本当
に。
これはもう一つのメディアの問題性。きょうは、メディアが権力に最終的には従わざるを得
なかった歴史を申し上げたけれども、今度はメディア自体が一体どういうふうに世の中を正し
く動かし、あるいは誤って動かし、というところを考えなければいけませんね。これは確かに
日々の実害もあり得る局面であって、にもかかわらず、やはりメディアの意味と大切さを私は
もちろん信じておりますが、そのあたりは難しいッ。申しわけありません、なかなか明確に答
えられません。
石黒三男 65 歳の普通の国民ですが、最近、メディアというものをちょっと考え方を変えたほ
うがいいのではないかと思っているんです。メディアは絶えず権力を持つ者のプロパガンダ機
関だと、そういうふうに定義しちゃったほうがまず間違いなくて、そうでないこともあると。
きょうは戦前の歴史の話をされました。でも、現状も変わらないんですよね。それから世界を
見ても、欧米系のメディアはみんな国家権力の代弁者みたいだ。中国の新華社でも、北朝鮮の
国営放送でも、みんな基本的にそれが属する地域の代弁者ですよね。うそつきというのは全部
うそをつくわけじゃない。時々本当のことも言う。でも、一番重要なところでうそを言う。こ
れがうそつきなんです。すべてうそをつくのだったら、これは正直者なんです。先生はメディ
アの本来あるべき姿ということをおっしゃる。どうもそういうふうに考えないほうが、逆に国
民がメディアを見る目を間違えないのではないかという、これは意見です。
早野 確かに。私も学生たちには「メディアの言うことを鵜呑みにするな。ちゃんと疑ってそ
れを見なくちゃいかんぞ。それだけの知性と教養を身につけろ」
、こう言っているんです。だか
ら今おっしゃったことは基本的に正しいのではないかと思います。
しかし、にもかかわらず、言論ということ、その中にやはり命をかけてきた人物も多々いる
し、やはりそれによって民主主義が支えられ、そしていわば人間社会が進展してきたことも事
実であるし、やはりそこは肯定的にとらえたいと思いますね。メディアで一生を棒に振った人
間としては、なお信じたいと思っています。
松井 私はいつもは最初に聞かないのですが、先ほど聞きましたのは、メディアの中立・公正
というのがあるのかどうかわかりませんが、一つは、国家の言論統制が当時あったことは事実
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ですね。今と戦前、昭和の前期とは全く違う環境です。
もう一つは、これは今と若干類似性があるのですが、情報ソースとメディアとの関係。要は
いい情報を早く取りたい。きょうも私の上司の番記者さんもいらっしゃいますが、いい情報を
早く取りたい。典型的にいうとクラブを構成して、ここになるとギルド的要素がありますが、
情報ソースからいい情報を取るためにもその特定の関係がありますね。
もう一つは、購読者との関係とかマーケットとの関係、テレビの人もいらっしゃいますが、
視聴率をたくさんとれるような記事を書いてということから、どうしても記事に対してバイア
スがかかっていく部分がありますね。
この後ろ二つは現代にも濃厚にある。
むしろ現代のほうがやや過熱していると思うわけです。
しかし、当時からあったこの三つの要素に分けて早野さんのご意見を聞くと、いろいろな要素
でメディア自身も戦争をあおってしまった部分があると思うんです。それは何もメディアだけ
の責任ではないのだけれども、そこの要素をどう見られるか。実はこの三つの要素について私
は質問がしたかったわけであります。
早野 言論統制の問題と、情報ソースの問題と、マーケットの問題、まさにその三つの問題で
すね。言論統制はきょう十分にお話しし切れませんでしたが、これは相当厳しいものがあった
わけです。言論を統制してしかるべきだという国家体制が一方にあったわけであります。それ
プラス暴力ですね。
「情報ソースとメディア」
、そこの関係は戦前から重要な要素でした。記者クラブ制度という
こくちょう
点でいえば、軍の記者クラブですね。海軍省の記者クラブは「黒 潮 会」でしたか。当時の戦争
報道に関してはそういうあたりがやはり非常に大きい。真実をかぎつけているところも結構あ
っただろうと思うんです。しかし、記者クラブがあり、かつもちろん検閲していましたから、
そこで何も報道しないままやり過ごしていて、戦争が終わったときに「おれたちはなんて情け
ないことをしてきたのか」という反省があって、むのたけじさんは朝日新聞を辞めて山形に帰
っちゃうわけですね。そしてとうとう(1945 年 11 月 7 日)朝日新聞も「国民と共に立たん」
という宣言を出して、戦前の戦争報道の、いわば「うそ」を書き続けてきたことへの謝罪をし
て、再スタートしているわけです。そういう意味で言うと、黒潮会に象徴されるような、記者
がまさにクラブの中で囲い込まれていた時代、それが戦争の時代だったと思うんです。
戦後も、記者クラブ制度への批判は、そういうものをかぎ取っているフリージャーナリスト
などがそこに問題意識を持っているのだと思います。私などもやはり記者クラブの中で育った
わけで、平河クラブだとか野党クラブだとかやっていました。この記者クラブの中で昔はマー
ジャンやったりで、情報は届けてくれるのをそのまま書き写して、なんていう記者もないわけ
ではなかった。しかしまあ、新聞記者に自覚があれば、逆にそういう政府機関の中の橋頭堡と
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も言えるのであって、そこを利用して大いに本当のことを書くべく頑張ればいいじゃないかと
思ったりもしたのです。
しかし、どうかなぁ……、やはり大きな意味でいうと、記者クラブというのは政府との緊張
関係を根本的に失わせている仕組みかもしれませんな。メディアの取材システムというか、取
材のあり方はまだまだこれから変わっていかなくてはいけないと思うんです。
とりわけ、これまでは自民党政権が前提の時代でしたから、そうしたある種の癒着関係が隠
されていたけれども、これから政権交代が起こる時代になってくるとそこは根本的に変わって
くるんですよね。
政治記者としては 2009 年の政権交代の大きな意味を酌み取らなくてはいけな
いと私は思っているのですが、それが本当の意味で自覚があるのかないのか……。後輩が一生
懸命やっているのであまり文句も言えませんが、心配なところもあります。
そしてもちろん部数と視聴率とが常に気にかかっていることは事実であって、これはむしろ
ポピュリズムの問題になってきちゃうわけです。歯を食い縛っても頑張り抜くというようなこ
とがこれからちゃんと持てるのかどうか。メディアの精神的基盤というか、しっかりしたもの
をこれからも、いや、これからであればこそ、持てるのかどうかというところは重要なところ
ではないかと思ったりしております。
「政治とメディア」というのは、それ自体がいつも混沌の中にあるんですな。だからこれで
いいとかいう状況はあり得ないわけであって、
常にいろいろな問題も起きてくると思いますが、
メディアがやはりもう一つ大きな自覚というか、自分たちの責任とは何なのかということを考
えるべきときなのだろうと、それは思っています。
仙谷 早野さんなんかはそういうことについて自覚的でもあったし、あえてそこにこびるよう
な記事の書き方をしなかったのでしょうが、一説に、僕が最近のメディアを見ていて、つまり
これは一つの商品であると。記事そのものが。特に見出しをつければもう立派な商品だ。売れ
る商品を書かなければならない、あるいは、売れる商品にしなければならないという意識がど
こかで働いておる。それは整理部の段階なのか、デスクの段階なのか、キャップの段階なのか、
一線の記者の段階なのか知らんけれども、どうもそことポピュリズムなり……。絶妙の見出し
がついたときには、これは一つの例ですね、
「爆弾三勇士」でしたか。
早野 毎日が「爆弾三勇士」で、朝日が「肉弾三勇士」ですね。
仙谷 ええ、
要するに命名とか見出しとかそういうことは、
戦前は諸条件が今と違うんですが、
今の場合には割と、そういう言い方をしてはなんですが、商業ジャーナリズムとして“純化”
しているから、
他とどう差別化するか、
どういう記事でどういう見出しでいけば売れるかとか、
そういうことは「ジャーナリズム」といわれている括弧つきの言葉との関係で、本来はどう自
戒をしながら新聞あるいはテレビがつくられなければならないのか。その点はどのくらい意識
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して皆さんやっていますか。やはりデスク、キャップの覚えがめでたいようにとか、それによ
って部数が伸びたかもわからないとか、視聴率がピッと上がったかもわからないということを
記者さんは意識して毎日動いているのでしょうか。
早野 いろいろな段階で、記事の見出し、記事の書き方を含め、メッセージの出し方というの
は判断が加わります。最初に書くのはむろん普通の前線の記者ですな。それをデスクが請負っ
て、そして記事を直して、整理部が見出しをつける、そこに編集局長だとか当番の編集局長代
理みたいな人が全体を見渡してと、こういう構造です。社長が一々口を出すことはまずはない
ですな。ナベツネさんはどうか知らないけれども。そういうことで動いていますから、どこで
どういうふうに
「売れる見出し」
にするために権限を発揮したかというのはわからないんです。
一線の記者で気のきいたやつは、うまく仕立て上げて、デスクがおもしろがって飛びつくよ
うな記事を書くことができるし、地道に書いていると、
「これ、おまえ、つまんねえじゃねえか」
とか、
「ここんところをちょっと強調しろよ」なんて言ってデスクが手を入れて、
「ああ、そう
ですね」なんて、おもしろおかしく仕立て上げていくような記事、具体例を言うと差しさわり
があるかもしれませんが、そういうような構造。
そして「これを1面トップに持っていけ」
。
「民主党の失敗の本質」
、きょうはこれトップでい
こうとかいうのは、もう一つ上の判断ですな。
いろいろなところでいろいろな判断をして、何しろこの新聞という商品は、毎日毎日出して
いるものですから、ある意味では全部やっつけで出すわけですよ。ぎりぎりのところまで頑張
るのだけれども、最後はしょうがない、ここで締め切り、で出す、こういう商品です。誰がど
こでどういうふうに決めて、最終責任はここでもって出す、というようなことが実際にはあま
りありません。形式的には編集局長ですが。
というのは、これは一つの空気の中でつくるんです。
「きょうはこうだな」と、なんとなくみ
んな共有しているんです。
「きょうは民主党批判でいこう」とか、
「やはり自民党もけしからん
から自民党もやっつけよう」とか、その日のニュースに即して、ある種の空気ができるんです。
これはもう山本七平さんの『
「空気」の研究』と同じなんだな。つまりメディアというのは結局
のところ、もっと大きく歴史的に見たって、その時代、時代の流れの中でつくっているんです
よ。
そういうときに、さあ大きな時代を間違えないように、どういうふうにブレーキをかけたり、
「ここはだめだぞ」という譲れない一線をどう持っているのか。そのメディア機関なり新聞記
者の中に自分の一つの原理を持っていないと、結局これは負けていっちゃうんです。流れに追
随してしまう。どこかで何か自分の原理をきちっと持っていることが記者のいわば要諦だと思
うんです。日々はいいかげんなこともいっぱい起きますけれども、どこかで譲れないところは
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持っていないと。メディアという社会的な機能の大きさを果たす、そしてそれが失敗すると大
ごとになってしまうという、これが戦争でもあり、あるいは原発だったのかもしれません。そ
ういうようなことをつらつら思ったりするわけです。
したがって、
「ここをこう直せばこうなる」というようなものでもないんですな。まことに怪
物ですよ、メディアというのは。しかし、メディアがないと日々暮らせないことも事実で、も
うメディアに囲まれて我々生きているわけであってね。たまたまごく一部は新聞記者として発
信者であるけれども、実際はみんな受信者ですな。しかし、最近になってようやく、ネットだ
とかブログだとかメールで民衆自身が発信できるようになってきたわけであって、ここから先
はちょっと違ってくるなと私は思っているのですが。
松井 次回の講師の筒井先生もいらっしゃいますが、先ほど戦前の海軍の記者クラブの話もあ
りましたが、前回と次回のつなぎにもなりますので、一言ご意見があれば。
筒井清忠(帝京大学教授) あくまで早野さんのおっしゃったことを補足するだけですが、94
年か 95 年に『朝日新聞百年史』というのが出て、頼まれて朝日新聞に紹介の記事を書いたので
すが、その見出しは「大記者から大卒記者へ」と書きました。それが明治と昭和初期の対比を
象徴していると思うんです。
どういうことかというと、ここはさっき久しぶりに名前を見てうれしかったのですが、西村
天囚という大阪朝日の大記者で、
『学界乃偉人』なんていう著書もある。江戸時代の儒学者で今
知られている人はこの人が発掘した人が多いんです。漢文も名手で、日本じゅうで知られてい
た。下関に日清講和条約を結びに来た李鴻章が撃たれて大変な騒ぎになって、日本政府は非常
に困ったんです。中国では大官・高官が大病になったりしたときは慰問の文章を書くという習
慣があったのですが、日本政府の外務省にその文章を書ける人がいなかった。それでわざわざ
大阪朝日の西村天囚に頼みに行って、彼が書いた。それが非常な名文で、李鴻章もだいぶ機嫌
をよくしてくれた。また、内藤湖南とか、大記者が朝日新聞社にはいて、そういう人たちはお
そらく野人ではあったが尊敬され、堂々たる存在という感じだったのです。
それが昭和初期になるとどういうことになるか。非常に簡単に言うと、大正期ごろから新聞
社は大学卒業者の採用がふえていって、入社試験が難しくなっていった。明治時代の入社試験
というのは、今では考えられませんけれども、
「政治部の記者になりたいやつは、桂首相のとこ
ろに行って、今度の予算案はどういう見通しか聞いてこい」とか、むちゃくちゃなことをやっ
ていた。非常に大ざっぱだったのです。
昭和初期になると非常に難しい大学卒の入社試験になって、東大の法学部なんか出たような
人がたくさん入ってくる。そうすると新聞記者はサラリーマンの仕事になる。今の状態を無難
にこなして順調に昇進していきたいという、明治の西村天囚から見たらもう思いもつかんよう
22
な感じになっていった。その辺が戦前にちょっと新聞が残念だった理由の大きな一つの条件が
あると思う。
じゃあ、どうしたらいいかと言われても困るんですが、何とか今の中でも西村天囚のような
人が出るような方向を考えてもらえばいいのではないかなと思ったりしております。
閉
会
松井 今の筒井先生のコメントも踏まえて、
最後に早野先生から結びのコメントをいただいて、
きょうの会の終わりにしたいと思います。
早野 最後の質疑では自分でも何を言っているかよくわからないことをいろいろ申し上げたの
で、もうちょっと頭をクリアに、また考えてみたいと思っています。
そじんかん
確かに私なども、例えば昔でいえば杉村楚人冠みたいな記者になりたいなとか思ったりして
いたのですが、日々バタバタ追っかけて、毎週コラムなんか抱えて、来週はどうしようとか。
それでも、
「このことを書きたい。このことを書けば翌日死んでもいい」と思ったりして書いた
こともないわけじゃないんです。例えば今の毎日の山田(孝男)君なんかも、賛否あるでしょ
うが、もう本当に命がけで書いていますな。大メディアと称される中でもやはり何人か、
「この
人のは読みたい」というのもありますから、希望を捨てずに、大記者をつくっていかなくては
いけませんね。私はもう卒業して終わりですけれども、後輩の、またちょっと違った「新聞時
代」をつくりたいなと思います。
以上、大変ありがとうございました。
(拍手)
松井 ありがとうございました。早野先生には予定時間を 30 分以上超過して、熱心な質疑応答
にもお答えをいただきまして、心から感謝でございます。早野先生、きょうはありがとうござ
いました。皆さん、もう一度拍手をお送りください。
(拍手)
ありがとうございました。以上で閉会といたします・
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