教会による栄光 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

教会による栄光
エフェソ書の福音 8
教会による栄光
3:14-21
ローマ・カトリック教会と西洋の大多数の教会では、キリストの復活を今
日記念する習慣ですが、世界中全部がそうだというわけではなく、ギリシャ
とソ連、それにシリアやエチオピア等の東方教会では来週 26 日に復活祭です
から、例えばアテネにいる私の友人たちは今日から受難週を守ることになり
ます。幸いに私たちは、1 年に 52 回復活祭を祝うことにしているので、日付
のことで迷うことがなくて便利です。
その上、今日のエフェソ書の箇所は、まさにイースターに相応しい聖句で
す。17 節によると復活のキリストが私たちの心に住んで、神のはち切れるほ
どの力で満たして……何と言いましょうか、私ども大阪人の言葉で言います
なら、パンパンになるまで一杯にして下さる……というのが 19 節の趣旨であ
ります。
「神の充満でで一杯にされる」というパウロのこの言葉から私が連想する
のは、何かこう巨大な圧搾空気のボンベのようなものがあって、我々一人ひ
とりが、まるで小さなミニサイクルのタイヤのような器に夫々一発で「バッ」
と空気を入れてもらえる……とか、或いは何 t というソーセージの中身の詰
まった機械から、ウィンナーのチューブみたいなものに一瞬の間に、次々に
中身が詰められていく……詰めても詰めてもタンクの中身は減らない……そ
ういう感じです。
もっとも、あれは最後には材料を補給しないと空になりますが、圧搾空気
だってそうです。しかし「神の充満」―「神の満ち溢れる力の泉」という
のは無限です。「神の力」とギリシャ人が言った言葉、私たちが“主
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の祈り”の中で、私は無限の力と訳しましたが、神の持っておられる可能性
ということでしょうか。もし、私たちがそのことを忘れて、勇気を失ったり、
気落ちしているとしたら、キリストを復活させた方の力を今日受けて、顔を
あげることにしたいものです。
さて、この 14 節から 21 節までは、使徒パウロの祈りと、神への讃美です。
この前触れましたように、実はパウロは 3 章の初めの所で、「この私パウロ
は今、天の父に祈らずには居れない。」と言うつもりだったのですけれど、
「キリスト・イエスの囚人」と言った途端に、自分が囚人の身になってまで
何を曲げずに伝えようとしているのか、その背後にある神の目的は何か……
ということを語らずにはいられなくなって、あれだけの長い話をしたのです。
それで 3 行目の「このパウロは……」という所が宙ぶらりんのままになっ
たのですけれど、14 節で改めて「こういう訳で、私は」と、前と同じ言い方
を繰り返して、父に祈るのだ―と、いよいよ自分の祈りの気持ち、祈りの
内容をここに披瀝します。
14.こういうわけで、わたしはひざをかがめて、 15.天上にあり地上にあっ
て「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。
神をもっぱら父とお呼びになったのは、イエス様もそうでしたが、ここで
面白いのは、この父はあらゆる父の心、父と子という関係の原型だ言うこと
をパウロが言っている所です。父と子、家族のつながり、父が父として子に
接する心は天の父の心の影のようなものだ……という言い方です。ここで一
体パウロは何を言おうとしたのでしょうか?
私は、福音書の中でイエスがおっしゃった次の言葉を思い起こします。
「お
前たちの中に、自分の子供がパンを欲しがっている時に、形のよく似た石を
あてがって済ます父親がいるか? 自分自身は根性のねじ曲がった人間でも、
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人の子の父とあれば、子には与えるべきものをちゃんと与えるとすれば、ま
して天の父は求める者に良きものを下さる筈ではないか!」私はここはやは
りそういう……今、子に何が必要か、弱って倒れないためには何を与えて支
えてやらねばならぬかを知っていて下さる父に祈るのだという、パウロの安
心感のようなもの、不安と懸念の中での信頼をこの一風変わった表現に込め
ているのだと思います。
イスラエル人は普通は起立して天を仰いで、両手を上げて祈ったと言いま
すし、跪いて祈ったという事例は聖書の中でもソロモン、ステファノ等の例
はありますが稀です。ということは、跪いて父に祈るというこの表現には、
並々ならぬ真剣さ、切実さがこもっていると言えます。パウロが鎖につなが
れているのを見て、挫折幻滅するような頼りない友人たちであってもらって
は困るのです。……そのパウロの祈りの内容を見てみましょう。
1.強さを与えて下さるように
16.どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなた
がたの内なる人を強くして下さるように、 17.また、信仰を持つことを通し
て、キリストがあなたがたの心のうちに住んで下さるように。
内なる人……というのは、御霊によって新しく生まれた本当の人間性です。
「神を仰いで安らぎ得る人間」としての私です。
外なる人、肉の人間の方は、色々な方法や知恵を使って、私たち自身の手
で強くできます。ジョギングをする人もいれば、テニスをする人もいます。
私のように何もやっていないようでも、毎朝 6 分間大股で競歩をいたしまし
て、階段は 2 段ずつ走って上がるというのもあります。頭がボケたり鈍った
りせぬように、色々なものを読んだりして頭を訓練しています。
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こうして、外なる人を我々は何とか強めるのですが……ただ、内なる人だ
けは人間、自分の手ではどんなテクニックを駆使しても補強できません。外
の人が落ち込んだ時は、山を歩いたり、友人と語ったり、花を見たり、音楽
を聞いたりして立て直せます。それに大抵の落ち込みや憂鬱は、一晩よく寝
たら直るものです。「状況はそれ程悲観的ではない。別な道もあるじゃない
か」ということは、睡眠を取ったら翌朝には大体発見できるものです。
でも「内なる人」が光を見失った時だけは、直しようは一つしかない。そ
れは、天の父がご自分の力を注いで、聖霊によって強めて下さる方法しかあ
りません。だからパウロは、落胆しかけた友人たちのために父に祈ったので
す。「父よ、助けてやって下さい」と。
ここで「聖霊を通じて強さを与えて下さる」ということと「キリスト自ら
心の中に住み込んで下さる」ということとが、クリスチャンの体験としてど
う違うのか……です。私は、これは事実上同じ体験を二つの面から、別な言
葉で言ったものと理解しています。
何故かというと、このエフェソ書を書いた同じ人がローマ書の 8 章などで
は、「あなた方の内には、現に神の御霊が住み込んでいて下さる」と言った
そのすぐ後、次の行とその次の行では「キリスト御霊をもっているのだ」「い
や、キリストご自身があなたの内におられるのだ」と言っています。後で確
認なさる方のために、ローマ書 8 章 9 節以下と申し上げておきましょう。
ただ、神学的厳密さということが気になる方には、正確に言えば、やはり
神が聖霊をあなたに宿らせて、その聖霊がこの強さの源泉になっていて下さ
るという言い方がそのものズバリの言い方だと思います。これを別な角度か
ら譬えて言えば、「それは復活したキリストが、復活のエネルギーを持った
ままあなたの中に永住して守って下さるのと事実上同じである」ということ
になりましょう。ヨハネ伝にもそういう言葉の使い分けがありますね。復活
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祭を 1 年に 1 回やっているようなことでは間に合わない位、ずっと居続けて
下さるのだという感じが、この「キリストが住む」“定住する”
という動詞から感じられます。ギリシャ人は一時的に宿るとか滞在するのは
と言ってとは言わなかったもので、パウロがこの
自分の内の聖霊の臨在をどんな感覚で捕えていたかがよく分かります。
2.キリストの愛の大きさを極限まで知らせて下さるように
17b.あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、(これは
決して、「完全な愛の人になることにより」というのではなくて、「キリス
トの愛に動かされ、支えられて、そこから発した生き方がしっかり定まるこ
とにより」ということでしょう)18.すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、
高さ、深さを理解することができ、19.また人知をはるかに越えたキリストの
愛を知って、神の全充満ではち切れるまで満たして頂けるように、私は祈る。
ここで、「広さ、長さ、高さ、深さ」というのは、何の広さを言うのかに
ついては、人によっては「神の救いの奥義」―つまり前段に述べられてい
たような、異邦人、無資格者も全く同じ一つの体に連なる……という、神の
計り知れぬ深いご意図を理解できるような、徹底して神のお心を洞察できる
ような、そんな力を1人ひとりが与えられて、そこから歴史の全部を見通す
こともできるし、人間関係も見通せるようになることだ……という人と、
そうではなく、ここは「愛に根ざし、愛に土台を据え」からすぐ続く所だ
から、その愛の広さ、長さ、高さ、深さだと見る人に分かれます。私たちの
持っている訳文は、「その広さ」の「その」という言葉で、すぐ前の愛に言
及することを暗示していますし、今度の共同訳では、ハッキリ言葉を補って
「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」と訳しています。私も同じよう
な理解をしています。
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ところで、この「広さ、長さ、……」というのは、そんな寸法や量では元々
計算したり測量したりできないもののことですから、その愛がどこまで大き
くて凄いものか徹底したものか……ということを詩的に表したものでしょう。
そういう意味から言っても、私たち平凡人がそういう限りない大きさを体
験で確かめられるのは、愛だけだと思います。神の摂理やご意図の深さへの
洞察ということになると、これはごく限られた宗教的天才や神学者にだけ開
かれている世界です。
けれども、罪あるこの自分がキリストによって、どれだけ大きな愛で愛し
て頂いたかということ、まさに異邦人である私にどんな大きな愛が及んだか
ということであれば、これは霊的に大人である限り、どんな平凡な人、どん
な無学な者にも分かるだけではなく、それこそ「広さ、長さ、高さ、深さ」
を味わう度合いには際限はないのです。
パウロは『どうかあなた方みんなが、それを深く体験してほしい』『神よ、
どうか一人ひとりに、このことの理解だけは、限りなく与え続けて下さい。
それによって神様の命の力で一杯にふくらませて、本当の勇気で奮い立たせ
て下さい』と祈ったのです。
《まとめ》
最後に、パウロの口を思わずついて溢れた讃美の言葉と、そこからの感想
で結びます。
20.どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めている
以上に、心に思っている以上に、それら全てをはるかに越えてかなえて下さ
ることがおできる神に、 21.教会により、また、キリスト・イエスにより、
栄光が世々限りなくあれ、まことに栄光あれ!
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「ここにあるのは神の無限の可能性にかけた地上最大の楽観論である」と
言った人がいます。尻込みを知らぬ最も大胆なお願いであるとも言われます。
パウロはこれを全部エフェソやラオデキヤのクリスチャンに与えて下さい
と祈った。いや、自分がお願いする何倍ものスケールで叶えて下さる神に栄
光あれ……と喜びの叫びを上げています。
そして考えてみると、パウロは同じことを今、これを日本語で読む私たち
のためにも祈って、信じて、楽観していてくれるのです。
私はこの結びの言葉の中で、「教会により」神に栄光あれ……という一句
が好きです。これは教会がそんな「晴れがましい立派なものになれ」とか、
「恥ずかしくないだけの実績を上げることにより、神に栄光」ということで
はないと思うのです。
もちろん、教会が立派な輝かしいものに成長すれば、神は決してガッカリ
はなさらないでしょう。多分、少しくお喜びになるとは思いますが……。
でも、神様がお喜びになるとか、神の栄光が上がるというのは、あなたや私
が成績を上げることによって上がるのではないのです。
本当は、教会の存在自体が神の栄光である。イエス・キリストによる愛に
気づいて、これをガッチリ受け止めて、本当に喜んでいる人がいるというこ
と自体が、最大の栄光なのです。父はそのおつもりであるし、パウロが「教
会により、神に栄光」と言ったのも、そのつもりだと思います。
つまり、私たちがほんのちょっと位立派になったとか、人に見せられるカ
ッコイイ信者だ位のことで、父は「あぁ、私は晴れがましい。嬉しいなぁ。
でかした、我が息子よ」などと悦に入って下さるのではない。神は私たちの
失敗もブサイクも全部引き受けて下さった上で、私たちを誇りにし、ご自分
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の栄光と見て下さっている。
私はこの祈りを、パウロが父への祈りだと言っていること、それも天上地
上のあらゆる父という名の原型、家族、部族の人間関係の源、父の極限、理
想の父であるような、真の父への祈りだと言っていることに凄く興味を覚え
ます。
父というものは、そういうもんじゃありませんか? 一枚の卒業証書を持っ
て帰ってくれば、そのことで少しは嬉しく思う。月給をもらってきて妻に渡
しているのを見て嬉しくないことはないです。でも、そんなことで父は子を
誇りにするのではない。進学や進級をもたついて手間取っている時も同じよ
うに誇りに思っているし、月給もらってこない時も同じように誇りに思って
いる。この世では点数の多い方を誇りにする家もあるが、我々の所ではおお
よそ、そんなことはない。例えば三番目が再来年浪人しても充分誇りに思う
し、二浪三浪して我が家の記録を更新しても、やはり誇りに思うのです。
主が言われた言葉で言うならば、「自分自身、根性のねじ曲がった人間の
父親でも」です。彼は家族によって栄光を受ける。仮に、「オダハンとこの
息子クリスチャンやのに、あんなことしてる!」とか「織田の息子は私に失
礼な態度をとった」とか言う人がいても、それも含めて私は誇りにしている
訳で、欠点も失敗も全部含めた今のそのままで、三人とも私の栄光なのです。
私はこれ決して子供たちのご機嫌を取るのに申しておるのではありません。
むしろ、こんなことを公衆の面前でヌケヌケ話すのは、私としても恥ずかし
いし、聞いている子供たちだってコソバユイのを辛抱して聞いていると思う。
私はこれ、ただただ心理を語るためにだけ、恥を忍んで勇気を出して言って
いるのです。
まして天の父はなおさら……ということが言いたいだけです。天の父は、
あなたや私を誇りにして、教会により栄光を受けておられるのです。パウロ
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は本気であの頌栄を口にしたのです。「教会により、キリスト・イエスによ
って栄光、世々限りなく父にあれ!」
そしてもし、神が本気で私たちのことをそう思っていて下さるとすれば、
私たちは自信を持って―ケチな人間の自信じゃなく、私は天の父の栄光な
のだということを知って、その父の心を分かることにだけ集中したいもので
す。
(1981/04/19)
《研究者のための注》
1.15 節のという語は、元々「父性」fartherhood という抽象名詞ですけれど、
実際には普通名詞として、家族、部族、種族という意味に使われました。ですから、
地上の家族であれ、天上のそれであれ、全ての被造物は創造者に由来するということ
がここのポイントで、父性とか父子関係ということは前面に出ないという人もいます。
Konzelmann 等がそうです。私は、これが確かに家族という意味であったにせよ、や
はり、,という語のつながりの中で、真の父性を持つ父への祈りとい
うことが強調されていると見て、その角度から説明しました。
2.跪いて祈った実例は、列王記上 8:54 ソロモンの祈り、使徒言行録 7:60 ステファノ
の祈り、同 9:40 ペテロ、20:36 と 21:5 パウロ。それにルカ 22:41 ゲッセマネの
イエスの祈りがあります。
3.根性のねじ曲がった人間の父親でも……という所ですが、引照箇所はマタイ 7:9-11、
それにルカ 11:11-13 です。
4.16-17 節の所で、聖霊の内住をキリストご自身が内に住んで下さることと、事実上同
じだという所で引用したのは、ローマ書 8:9-11 です。なお、ヨハネ福音書の 14:
23 では、父とキリストが一緒に来て住む……という言い方をしていますが、これは
14:17 にある聖霊の内住を別な言葉に託したのでありましょう。どちらかと言えば、
聖霊の内住というのが、そのものズバリの表現、キリストが内住するとか、父とキリ
ストが……というのは、事実上そのことと同じというような、比喩的といって悪けれ
ばひとクッションおいた言い方でありましょう。
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5.「広さ、長さ、高さ、深さ」については、エゼキエル書 40 章の神殿の測量の幻と結び
付ける人もいます。私は、結び付けて考えない方が、ここの言葉が生きてくるように
思います。Simpson が 81 頁で述べていることに私は同感です。
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