NO.106 / 2009.1 月号 カトリック厚木教会 〒243-0014 神奈川県厚木市 旭町 2-7-11 TEL.046-228-4164 FAX.046-228-4150 主任司祭から 主任司祭 パトリック・ブランチフィールド ざまな活動を実施するのを大勢の人たちが手助 新しい年を迎え、1月も半ばを過ぎようとして います。元日からの短い休みの後、わたしたちの けしているのですが、よく見ると、同じ人たちが 共同体は、再び活動を開始しています。子供たち 非常に長い間働いているということに気付きま の初聖体に関する準備クラスも、毎週土曜日に再 した。新しい人たちが、共同体の生き生きとした 開されています。そして復活祭(4月12日)の次の 活動のために、快く、すすんで手伝いをしてくれ 日曜日(4月19日)を初聖体の日として目標にして るということを、わたしたちは必要としています。 わたしたちは一つの家族なのであり、互いに対 います。 して責任を持っているのだということを、理解す 広報部は次の教会報の発行に向けて、教会委員 会は2月に予定されている年次信徒総会に向けて る必要があると思います。この問題は、多くの人 準備を進めています。わたしはといえば早いもの たちがお互いをよく知らないという事実に起因 で、あと2ヶ月と少しで、厚木教会に赴任してか しているとわたしは思っています。そして、共同 ら満一年になります。 体が何を必要としているか、教会のさまざまの部 会が実際に何をやろうとしているのかが、知られ この一年間、皆さまと多くの仕事を一緒にして きて、厚木教会共同体の数多くのよい点に気づき ていません。この問題についての一つの解決法は、 ました。8月15日に行われた国際ミサと納涼会は、 年に数回、ミサの後に小グループに分かれて、お 10月に行われた堅信式と共に、昨年の一 互いにどんな活動をしているか、話し つのハイライトだったと思っています。 合うことに力を入れてはどうかと思っ 堅信式にあたっては、準備に大変な努力 ています。そのような場で、さまざま を要しましたが、その結果、堅信式は非 な事柄に関してそれぞれの意見を自由 常に実り多いものになりました。 に出し合い、それらを通じて皆が互い に知り合うことが出来るようになると 昨年のクリスマスと今年の元日もま た、大変よかったと思います。クリスマスの日の 思うのです。理想としては、まず第一に、信徒の 子供たちのミサにあんなに数多くの子供たちが 皆さまが、ミサ典礼の中のいろいろな役割を、順 参加したことを見て、わたしの心は浮き立ちまし 番に受け持つことを、積極的に担うべきだと思い た。そして、新年のミサにも、大勢の人たちが列 ます。同様に、他のコミュニティの役割にも、喜 席したということは、わたしにとって心温まるこ びを持ってすすんで参加するべきだと思ってい とでした。 ます。 また、子供たちの面倒を見るという点でも弱み しかし、この一年間で、この厚木教会のいくつ があります。クリスマスのミサに来られた人は気 かの弱点も明らかになったように思います。さま づいたと思います。厚木教会には多くの子供たち 1 共に祝い、祈りました。 がいるという点で、非常に恵まれています。この 一人ひとりの置かれた立場は異なります。キリ 大きな功績は、長い年月に亘って教会学校のため に働いてくださったリーダーたちのお陰なので ストの生誕は 2000 年以上昔の出来事ですから、 す。しかしながら、この活動をもっと効果的に続 2000 回以上の「クリスマス、おめでとう」とい けていこうとするなら、もっと多くのリーダーが う言葉が毎年のように繰り返されてきたことに 必要になります。そして、子供たちに、十分なス なるでしょう。「おめでとう」の意味するところ ペース、時間および十分なケアを向けるためには、 は普遍ですが、暗い時代や逆境に置かれている時 には、言い難いこともあるでしょう。 教会学校を現在の忙しい日曜日から、土曜日に替 える必要が急務だと考えています。そのような変 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰 更をするためには、皆さま一人ひとりの理解と支 の地に住む者の上に、光が輝いた。 」 (イザヤの預 持が必要なのです。今から、何週間かの内に、心 言)。第一朗読で読まれる旧約聖書の一文です。 ある多くの人たちが、厚木共同体の生き生きとし キリストは世の光りであり、そのご降誕は人々に た活動を維持していくために、積極的な行動にで 現された救いの約束です。そのことを感謝すると、 てくれるものと、心より祈っています。 同時に今この瞬間にも辛い立場に置かれている 人々が希望を見出すことができるよう、祈りまし ょう。 クリスマスのミサが行われました 「皆さん、クリスマスおめでとうございます。し かし厳しい社会情勢の中、『おめでとう』と心か ら祝えない方もおいででしょう。」 今年のクリスマス・ミサは午前 0 時の深夜のミ サも含めて 3 回行われました。 一人でも多くの方に座っていただけるよう、急 遽、椅子席を 40 席増設して臨みましたが、第一 ミサにはたくさんの人が訪れ、聖堂一杯に立って 参加される方もいるほどの盛況振りでした。深夜 ミサは久しく行われていなかったのですが、夜遅 今年もクリスマスを迎えました。 い時間でありながら 80 名ほどの参加を得ました。 この一年を振り返ると、品物の値上げ、社会保障 全体としては、3 回のミサを通して 700 名以上の の不安、数々の凶悪な事件、急速な景気の後退、 方がクリスマス・ミサに参加されました。 そして内定取り消しや解雇等の雇用不安と暗い ミサの終わった後、信徒会館で茶話パーティー 話題の続く一年でした。冒頭の言葉は、クリスマ が行われました。お菓子とお茶などが振舞われ、 スのミサの説教で神父様が発したものです。 参加者の皆さんが談笑する光景が見受けられま した。この夜は、とても気温が低く寒い夜で、暖 この夜、厚木教会のミサに多数の方が参加され、 かい飲み物は好評でした。 2 翌 25 日はクリスマスです。この日のミサは、 行われました。例年、大人から子どもまで参加す 例年と異なり、子ども中心のミサとして行われ、 るコンサートを開いておりましたが、今年は内容 多くの子どもたちが参加しました。 を大人向けのものにしました。 ミサの後は、子どもたちのためのクリスマスパ ーティーが開かれ、多くの参加を得ました。 第一部は、演奏家の方々によるクリスマスにちな んだ曲の演奏が行われました。 このように子ども中心でミサとパーティーを 行うことは新たな試みで、教会学校の保護者の方 吉田杏奈さん、清田絵里子さん、吉田早織さん が随分前から準備をしておられました。準備段階 によるフルート・ピアノ・ファゴットの三重奏で ではいろいろと懸念事項もありましたが、保護者 は、馴染みの深いクリスマスソングを中心に 8 曲 や信徒の皆さんの協力で無事に乗り切ることが が演奏されました。 でき、深く感謝する次第です。 渡辺令子さん、渡辺雅彦さんによるハーモニカ とピアノの二重奏では軽快な曲が 3 曲演奏されま (広報部 した。 永田) 各々、アンコールの大拍手を受け、1 曲ずつア ンコール演奏を行ってくださいましたが、生の演 奏に客席はうっとりと聞き入っている姿が印象 第 6 回クリスマス・コンサートが開催 されました。 的でした。 クリスマスが近づくと世の中は賑やかになり ます。本厚木駅前の大広場にクレーン車が来て、 電飾の飾り付けをしているのを見たのは 11 月末 頃の出来事だったかと思います。 クリスマスという冠をつけたイベントも各地 で行われているわけですが、厚木教会でもクリス マス直前に、チャリティー・コンサートを行って います。教会の近隣の方々にもご案内を差し上げ、 過去 5 年に渡り開催され、教会行事としてすっか り定着してきました。 休憩を挟み、第二部は、厚木教会信徒による合 奏・合唱が行われました。 お馴染みのブラジルコミュニティによる演奏、 アオザイカルテットとベトナムコミュニティー による演奏、フィリピンコミュニティーによる合 唱の 3 つの演目が披露されました。 国際色豊かなことが、厚木教会の特徴であるわ けですが、各々の国の言葉で歌われる曲はどれも 美しく響いていました。 今年はチャリティーという冠を余り表に出さ なかったことも影響したのか、収益自体は例年よ 今年も 12 月 21 日、クリスマス・コンサートが 3 り少ないものでした。後日、寄付先へ送金いたし ださる。洗礼を受けてキリストに結ばれる。そし ます。皆様の献金に深く感謝いたします。 て、洗礼はキリストの死と復活にあずかる秘跡。 堅信では聖霊降臨の神秘により、神様が聖霊を与 (広報部 えてくださる、そして聖体によりキリストの体に 永田) 結ばれる。 入信の秘跡は、イニシエーションという言葉を 入信の秘蹟についての黙想会 使います。キリストに結ばれる秘跡であり、キリ スト者の共同体に入ることです。新しいメンバー 2008 年 10 月 5 日第二ミサ後、堅信式を迎える がどのようなプロセスを経てそのグループの一 に当たり「入信の秘跡」について、国井健宏神父 員になるのか。原始民族の社会においても文明社 様(御受難会)指導による講話が行われました。 会においても同じようなことがみられます。その 講話の内容を以下に記します。 グループ独特の価値観、厳密な約束があり、段階 〔講話〕 を経て経験して入っていく。修道会に入り修道者 になるには長い修行の年月が必要です。ちょうど きょうは黙想会と研修会をかねたような形に ヤクザの世界と同じように・・・(笑い声)一人 なると思います。 前になるまでに何年も何年もかかり、根性が必要 です。善意だけでは入れない特別な世界です。修 道院も神学校も同じです。特別な社会であればあ るほど新しく入ってくる人を選びます。 キリスト信者になるプロセス(洗礼、堅信、聖 体)を通してキリストに結ばれて共同体の一員と なっていく。これがイニシエーションです。 幼児洗礼であれば信者の家庭の信仰の中で祈 り方などを学び信仰を成長していくものです。大 人になってからの信者にも同じことが言えます。 堅信の準備がおこなわれていますね。秘跡は教 会のめぐみ。堅信の秘跡を通して共同体の皆さん 入信の秘跡はキリスト信者を作る秘跡であり、教 に恵みが与えられる。西洋では葡萄が生活に欠か 会を作る秘跡です。イニシエーションがきちんと せないものなので、よく葡萄の木の例えが用いら されないと、そのグループはつぶれてしまう。訓 れますが、それは日本に置き換えれば「田んぼ」 練をし、きちんとした価値観を作り、責任を負う です。私達は「主の田んぼ」なのです。教会とい メンバーに成長することが大切です。大人になっ うのは、そこに集まる私達のこと、神の民のこと てからの入信の準備は、日本の司教団は数ヶ月か です。今日の聖書朗読では教会は主のぶどう畑と ら1年としておりますが、日本の社会ではそれで ありましたが、日本の私達には「主の田んぼ」と は少ないと思います。私は2年間くらい必要だと いえるでしょう。 思います。 入信には例外をのぞいて時間がかかります。 どんな風にこの共同体に入るのか? キリス ところで皆さん、若狭湾を知っていますか。そ ト信者になる入信の秘跡には3つの秘跡ありま この宮津教会というのは木造の古い美しい教会 す。①洗礼 です。訪れる信者もたくさんいます。その教会が ②堅信 ③聖体 建てられたときのエピソードです。明治の初めパ 入信の秘跡というのは神様の働きであり、この リミッション会の神父様がその地に目をつけて、 働きを通して神様が私達をキリスト者にしてく 4 土地の持主に交渉したところ、「わしゃヤソは嫌 て、秘跡を受けるときが、復活徹夜祭。教会 いじゃ」の一言で追い返された。昔、キリスト教 はイエス様の死と復活を記念し、志願者はそ は耶蘇教と言われていました。とにかく頑固な持 の日の儀式の中で洗礼を受け、キリストの死 主でどうすることもできない。そうこうするうち と復活に与り、油を塗られて、聖霊降臨の神 にその持主が結核になり、東京の病院に入院しま 秘に与り、初聖体を頂き、キリストの体に連 した。病状が進み絶望的になっていたとき、偶然、 なるものとなる。 別の神父様がその病院へ行きました。当時の神父 様は臨終近い人には洗礼を受けるよう話をする 昔と違い、現在はこのような形になっており、 のが使命でしたが、信者の病人が隣室に死にそう 共同体全体が求道者を育てていくという姿勢に な人がいることを神父様に教え、その病人と面会 変わっています。求道者の時から少しづつ共同体 したところ、病人は洗礼を受けました。「ヤソは に入り、メンバーとなる準備をします。 嫌いじゃ」と言っていた人だが藁にもすがる思い 今回堅信を受けられる方は、堅信によって神様 で、神を信じました。そしたら奇跡的に全快して は私達をキリスト信者にしてくださる、その中で しまった。故郷へ帰ったその人は自分の土地を教 特に、聖霊降臨、神様が聖霊をおくって下さる、 会に提供し、そこに今の宮津教会が建てられたの 神様の愛の霊に与る秘跡、それを通して私達はキ です。 リストの共同体の一員となります。秘跡に与るこ しかしこういう例はまれです。たいていは入信 とで強められ、共同体に参加するだけでなく、共 には時間がかかるのが普通です。大人がキリスト 同体を作っていく、共同体の働きを進んで引き受 信者になるためには入信の秘跡の けていくもの、積極的な参加を促すもの プロセスを通らなければなりませ となるのです。 ん。きっかけは千差万別ですが、 ――――ここで、アメリカの小教区での その人達がイエス様のことを自分 復活徹夜祭のビデオが上映されました。 の「生き方」の問題として知りた (スクリーンが用意され、英語と通訳の い、そのような人が求道者になる テープが同時に流される。) ようです。 洗礼・堅信・聖体の秘跡がどんなにすばらしい ① 入門式(第1段階) :求道者になる式で、この か、見てください。(ビデオ上映)ビデオのなか 段階は、共同体の準会員として扱われる。結 では共同体が一体となって、新しいメンバーを迎 婚式や葬儀があった場合には教会でとりおこ える洗礼式と堅信式の感動的なシーンが写し出 なうことができる。聖書を学び、祈りをする。 された。これは、第二バチカン公会議の大人の入 そこでは知識を増やすことが目的ではなく、 信の秘跡を、どうやったらふさわしい形として現 求道を通して信仰と回心が進み、回心が進む わせるか、十数年模索し祈って出来た形である。 と生き方が変わる。その求道者が困っている このビデオが国際会議で上映されたときには、参 人々の面倒をみたり、助けたり、また生活の 加者全員が【Standing Ovation】で、大拍手であ 改善等々がチェックされ、回心の進み程度が った。 チェックされる。 ② 洗礼志願式(第2段階) :四旬節の最初の日曜 ビデオのあとの講義: 日。洗礼準備の為に始められる。40 日間の準 四旬節:第 3 主日 備をする。第3主日、第4主日、第5主日の 洗礼志願者が代父、代母と一緒に並ぶ。この人 ミサでは洗礼志願者のための典礼が行われる。 ③ 復活徹夜祭(第3段階):40 日間の準備を経 たちを迎え入れるのは共同体の責任。 ビデオの なかでは人々が生き生きと神の現存を感じてい 5 ることが表情にでていた。代父、代母の人達も按 臨の神秘に与っており、神様の救いの働き、イ 手している。参加している人々も手をさしのべ、 エス様の死と復活、イエス様の過ぎ越しの頂点 皆、志願者のほうへ向けて手をかざしている。 として聖霊が父の右の座から送られた、その神 秘に与るもの。 人々がイエスに従う道を選んでいる。私達もイ エスに従う道を選ぶという意識が強められてい くと、復活徹夜祭は古い自分を捨てる決心をする ② プロテスタントでは十字架に像がついていな 時である。 いようだが、カトリックでは像がついている。 ビデオでは、志願者が洗礼を受ける日を待ち望 どういうことでしょうか。 んでいたこと、喜んでいる様子がわかる。やはり 応答:カトリックでも両方あるようですが、最近、 体験しないとわからない秘跡である。洗礼式の場 像をつけることに決まった。 面が素晴らしい。プールの用意。ヨルダン川を再 現しているような大きな現実感(神の霊)を感じ ③ る。周囲の人々が受洗者を囲み、皆の前で信仰を 応答:拝領のとき、洗礼を受けていない人にする 「祝福」は司祭でなくてもできるのか。 宣言する素晴らしい場面である。水に浸り、油を 「祝福」のことですか? あふれるほど使い、豊かであたたかく洗われるよ するな、ということはできません。していいと うな体感。 思います。また、父親が子供を祝福する、これ 厳密に言うと「洗礼」という日本語訳は正しく は当然の事であって、古来、やめるようにとは ない。洗うのではなく、原語は、 「浸す」である。 言えなかったでしょう。 プロテスタントで使っている「バプテスマ」が浸 多分司祭しか祝福することができないと決めた すという意味である。父と子と聖霊の命に浸され のは、中世以降の非常に司祭中心の典礼になっ るという意味。 て、しかし段々共同体性が復活するにつれて、 洗礼は一度だけだが、聖体の秘跡は何度でも受 司祭でなくても、例えば助祭でも集会祭儀の後 けられる。また堅信は聖霊降臨のしるしであり、 に祝福しているところもある。司祭でなければ イエスの過ぎ越しの神秘に与るものである。 祝福してはいけないというのは、神学的な根拠 ミサにについては、「司祭のミサ」に与るのでは でなく、習慣だと思う。司祭の祝福の方がお恵 ない。司祭もミサに司式者として参加しているの みがある、司教様の方が更にお恵みがあると考 である。共同体、皆のミサである。 えるのは、こちら側の考えで神様がどのように 考えているか分からない。 質疑応答: このあと、黙想会参加者の感想や質問があり、神 ④ ミサにはどのくらいまで遅刻が認められてい 父様に応答いただいた。 るのか。遅刻してもどのくらいまでならご聖 ① 巡礼に行ったときヨルダン川での洗礼を見て 体はいただけるのか。 感動したことがある。そのとき洗礼を受けて 応答:決まりはありません。各自の良心の問題で いたのはプロテスタントだったが、今日のビ す。時間通り来るつもりでも電車が遅れたり デオを見てイエス様がヨハネから洗礼を受け してやむを得ない場合もある。 る場面を思い出し感動しました。 応答:聖体は入信の秘跡の頂点で、キリストの ⑤ 聖変化のとき、昔は鈴を鳴らしたが今は鳴ら 死と復活に与るもので、カトリック教会では堅 さない。 信を洗礼から離してしまったので、後で説明が 応答:昔は司祭が会衆に背中を向けて一方的にミ できなくなってしまった。本来、堅信は聖霊降 サをあげていたので、与っている会衆は何がお 6 こなわれているのかわからなかった。クライマ ムというダビデの町に上って行った。”と書かれ ックスである聖変化を会衆に知らせるため鈴 ている。しかし歴史的に見るとその時代にローマ を鳴らした。今は対面ミサなので、ミサの式進 皇帝アウグストゥスが人口調査の勅令を出した 行次第がわかるから合図はいらなくなった。) はずは無いと言われている。ルカは福音書の中で イエス様の誕生を大切な出来事として非常に荘 (宣教部 佐々木 /(広報部 山内)) 厳な形で表現したかったのでしょう。アウグスト ゥス皇帝は初代のローマ皇帝として、広大なロー マ帝国を築き、「パックスロマーナ」即ち「ローマ 待降節の黙想会が行われました の平和」を確立した。その時代にイエス・キリス ト様が生まれた。そして、ルカは「キリストの平 和」の確立を宣言したかったのでしょう。旧約聖 12 月 14 日第 2 ミサ後に待降節黙想会が行われ、 朝山神父様より講話がありました。講話の概要は 書の時代にダビデが牧童として育ったのは、この 以下の通りです。 ベツレヘムなのだ。ダビデがこの町で油を注がれ、 黙想会ではどういうことをすればよいのでし 王になっていくのです。ルカはこの伝承を無視せ ょうか?キリスト様の愛の中に、そして観想の中 ずに旧約聖書の伝承で正しいと思われることは に入ることは難しい。しかし、少しの時間をとっ 新約聖書にも取り入れた。 て、神様のことを考えて祈りましょう、と考えた 旧約時代メシアはダビデの子孫から出ると言 らよいでしょう。私たちにとって黙想会で大切な い伝えられていた。だからイエス様が生まれる場 ことは、神様と私の間に邪魔ものがあれば、それ 所はベツレヘムでなければならない。ルカ福音書 を取り除くことです。邪魔ものが ではマリア様はナザレでお告げ あれば、私たちは神様とお話する を受けたが、伝承通りにするに ために、まず静かに心を落ちつか はマリア様をベツレヘムに動か せましょう。心を落ちつかせると さねばならない。そこでローマ 自然に私たちの心は神様に向かう 皇帝の勅令により人口調査があ のです。日常生活では、身の回り れば、ベツレヘムに動かすこと のことに追われ、自分の事に向い ができたのでしょう。 てしまう。少しの間でよいから、 マタイ福音書 1 章には、ヨセ 自分の心を神様に向けてみようと努めなければ フもマリア様もベツレヘムにおり、“イエスは、 ならない。祈りをしているとき、直ぐに心が神様 ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生ま から離れてしまう。これは、私たちの心に本当の れになった。 ”と書かれている。 平和が無いからでしょう。平和というのは、秩序 ベツレヘムとエルサレムの間には神殿に捧げ です。神様と私たちの間に平和が訪れなければな られる羊が飼われていた。ルカは羊飼いたちを非 らない。もしも邪魔ものがあったら、それを取り 常に大切にして、このお告げ物語や誕生物語を書 除くことが黙想会の目的のひとつです。 いているわけです。イエス様がお生まれになるこ とによって、私たちの心に平和が訪れた。 赦しの秘跡は、大きな恵みを与えてくださる。 私たちは素直に悔い改め神様に罪の赦しを願え この黙想会において、まず自分の心の中を掃除 ば、神様は赦して下さる。 しましょう。神様と私の関係において、きちっと ルカ福音書 2 章「イエズスの誕生」では、ダビデ した秩序が守られているかどうか、考えましょう。 家の血筋に属していたヨゼフはマリア様を伴っ 秩序が守られていれば、私たちの心の中にキリス て“ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘ ト様の平和が宿ることになる。 7 めて重要なこの機会にあたって私はこの人々に 今日の答唱詩篇では、“マリア様の賛歌”が唱 えられた。「神は卑しいはしためを顧みられ、」 霊的に寄り添うことを約束します。日本の私達の 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、こ 兄弟姉妹と共に前もって喜ぼうではありません の身に成りますように。」 か」と呼びかけられたそうです。 ルカは神学的な意味合いを込めて書いたので 列福式当日 11 月 24 日、昨夜からの雨は時折激 しょう。マリア様は自分から従順な主の女奴隷と しく降り続いている。上下のカッパに身をまとい、 仰った。主よ、あなたの仰ることは何でもします。 使い捨てカイロ持参でホテルを出発。9 時 30 分に 私たちはマリア様と同じ気持ちで神様と私との は会場入りした。バスでの移動だがなにせ 200 台 関係を見ていき、私たちも神様の奴隷でなければ もの観光バスの駐車とあって会場までは歩く。そ ならない。“マリア様の賛歌”をもう一度読んで こには交通整理のボランティアが活躍。会場に着 いただきたい。 くと雨も小降りになり時折、日も差した。その中 (広報部 山内) でニコニコしながら濡れた椅子を全て拭いてく れるボランティアの姿。思わず「有り難う。ご苦 列福式と巡礼(その1) 労様」と感謝の言葉。この列福式を支えるボラン 山田照子 ティアスタッフが 2,000 人以上も頑張ってくれて いるそうだ。 実行委員長の高見三明長崎大司教はたくさん 188 殉教者の列福式参加のため 11 月 23 日午前 の方々の協力がなければできなかった。長崎の信 の飛行機で長崎に向かう。お昼には長崎(大村) 者を誇りに思い感謝申し上げたいと話されたそ 空港に到着。そのまま長崎市、外海地区を巡礼し うだ。 パリミッションの宣教師ド・ロ神父の偉業を目の 私は札幌教区の列福巡礼に参加したので中央 当たりにする。明治から大正にかけて私産を投じ の前の方の座席を確保できた。教区ごとに決めら 教会を建て農業改良、殖産、薬学、婦人科などあ らゆる分野で外海の人達を助けられたド・ロ神父。 れた席には小教区の教会名の旗がなびいていた。 この広い会場で厚木教会の 14 名にも会えた。11 ド・ロ記念館ではドロ様がフランスから取り寄せ 時 30 分からは大スクリーンで 188 殉教者が紹介 た 100 年前のオルガンで 90 歳になるシスターが される。 美しい音色で聖歌を弾いてくれる。 長崎市内の教会は今日は何処もミサの予約で 混み合っている。私達も 16 時から黒崎教会を予 約していたが 17 時 30 分からに変更された。 王たるキリストの主日に殉教者の列福への感 謝のミサを通して殉教者に倣いキリストの為に 愛の証、最も小さい者となれるよう祈った。私達 のミサが終わった頃から雨が降り出した。丁度そ の頃バチカンの聖ペトロ広場では教皇によるお 昼のお告げの祈りが始まっていた。その祈りの中 12 時 5 分入祭の賛歌が流れるなか全国の青年達 でベネディクト 16 世は、 「明日、日本の長崎で 188 が企画し 14 教区を回ったロウソクリレーミサ「証 名の殉教者の列福式が行われます。188 名全員 17 し灯」ロウソク、殉教者ゆかりの各地の土、マカ 世紀初頭に殺された日本人男女です。日出づる国 オから返還された殉教者の聖遺物が祭壇に安置 のカトリックの共同体と全ての国民にとって極 8 された。そして聖書が祭壇に奉納され司祭団 500 ✝列福宣言 人、最後に教皇代理のサライバ・マルティンス枢 私は兄弟である日本の司教たちとほかの多くの 機卿の入堂まで 25 分。 司教たち、及び日本の兄弟姉妹である全信者の請 【教皇書簡の朗読】 願を受理し列聖省の助言に基づく審査の結果 1603-1639 年に日本各地で殉教した神のしもべ、 イエズス会盛式誓願修士ペトロ・カスイ岐部司祭 と 187 の尊者を使徒的権威によって福者の列に加 えます。イエス・キリストの福音を勇気を持って 証し、自分の血を流した、この殉教者たちの記念 日は、法令の定める場所と形式に従い、毎年 7 月 1 日に祝うことにいたします。 <11 月 21 日教皇在位 4 年目ベネディクト 16 世> 列福宣言に続き殉教者の肖像画が除幕され、 188 羽のハトが空に放たれた。アレルヤ・アレル ヤと会場は喜びに包まれた。 ミサの終りに教皇代理サライバ・マルティンス 枢機卿からメッセージを頂いた。 「188 人の殉教者 の列福式を主催する名誉を頂いたこのミサ聖祭 の終りにここに列席しておられる皆さんと又遠 くで分かち合っておられる皆さんと喜びを共に したいと思います。教皇ベネディクト 16 世が代 (長崎新聞社提供) りとして赴くことを私に委ねたこの意義深い出 来事を私は幸せに思い教皇からの使徒としての 白柳枢機卿司式でミサが始まった「皆さん!つ 又、父としての祝福をお届けします。・・・・」 いに喜びの日が参りました。今日、教皇様は特使 その後、列福運動を 27 年間先導してこられた を送ってくださいました。サライバ・マルティン 溝部司教が謝辞を述べた。「27 年間の歩みの中で ス枢機卿様です。他に教皇庁から 2 人、今日の列 感謝申し上げたい方々がいます。これを発案なさ 福式にはアジアの司教を代表してインドの司教、 った司教様方。その多くは現役を引いていますし ベトナムからは枢機卿と 3 人の司教、韓国からは この世を去っています。特に最初からご尽力くだ 8 人の司教、台湾から 1 人、聖公会からは大阪の さった白柳枢機卿、平山司教にはこの場を借りて 司教、ルーテル教会からは総会議長」と紹介した。 お礼申します。 そして日本の司教団 18 人の司教が祭壇の左側 歴史調査委員会で資料の大半を提示し提出す に座し、会場は世界の各国そしてアジア、日本の る文章の大半を書いて下さった故ティスリー神 各地から参加した 3 万人の人々が、殉教者への厚 父そして 7 日前に亡くなり、老いてなお列聖の情 い思いで寒ささえ忘れ白柳枢機卿司式のミサに 熱を失わず働き続けてきた日本 26 聖人記念館前 殉教者へ思いをはせ、信仰の原点を見直す機会を 館長の結城神父に格別のお礼を申し上げます。」 頂いた思いがした。憐れみの賛歌に続き、≪✝列 福の儀≫ と述べると会場から拍手がわき起こった。 「邪宗」 列福宣言の要請を日本カトリッ を奉じる罪人として抹殺された殉教者の記録は ク司教協議会会長の岡田武夫大司教、それに続き 国内には殆ど残っていない。内外の資料をかき集 殉教地ゆかりの各教区司教による殉教者の紹介。 9 め歴史に埋もれた日本の殉教者の存在に光を当 教会を思い起こさせる八角形、教会の前の湖はガ てたのは主に結城神父の功績。毎朝 4 時 30 分に リラヤ湖。聖堂内のステンドグラスは殉教の場面 起き祈りを捧げた後は一日中机に向かい文献を と聖体が賛美されますようにとの島原の信者の 調べることが日課となっていた。スペイン生まれ 信念が描かれていた。 の神父は 1978 年に帰化しディエゴ結城了吾と名 教会の前には内堀作右衛門の 5 歳の息子イグナ 乗った。この名前も今回列福された大阪の殉教者 チオが両手の 3 本の指を切り落とされ天を仰いで ディエゴ結城了雪からとったそうだ。 いる像、マグダレナ林田と中浦ジュリアン神父の 4 時間弱のミサも感動で時間のたつのも忘れ皆一 像もあった。案内は島原・雲仙教会の主任司祭、 つになって祈り賛美し感謝の一日だった。 葛島神父によると中浦ジュリアンは 13 歳で有馬 のセミナリオの一期生として入学した。4 人の少 年使節としてローマへ渡り 8 年の旅を終え帰国。 宣教師として活動した。キリシタンの迫害が厳し くなり潜伏しながら活動を続けたが捕まり 10 ヶ 月にわたる拷問を受けた後、64 歳で西坂の殉教者 となった。 島原教会のミサの後、お城の近くで昼食になっ た。そこには白柳枢機卿、札幌教区の懐かしい上 杉神父も一緒に名物の具雑煮をいただいた。午後 は有馬のセミナリオ、原城、有馬川の殉教地を巡 り天草へと渡った。 (「さあ!皆さん恐れずに進みましょう」と 有馬川の殉教地では 8 本の火柱とそれを見守る 祝福を与えながら退場する白柳枢機卿) 2 万の信者の祈りが炎となって天を染めたそうだ。 少年使節だった中浦ジュリアンとイエズス会の フィレイラ神父も有馬で捕えられ長崎の西坂に ミサが終り感動を胸にバスに戻ったのは 17 時 送られた。キリシタンに対する最も残酷な拷問と だった。その日は雲仙に宿泊し、次の日は雲仙の される「穴吊り」の刑。 29 人が殉教したお糸地獄で祈った フィレイラ神父はそれに耐え切れず棄教した。神 雲仙の殉教者は島原で捕えられ雲仙まで歩き、 煮えたぎる湯に突き落とされ又引き上げられ傷 父はイエズス会日本管区長代理だった。キリシタ ンの誰もが予想しなかったことであり、日本の信 の手当てをし、再び突き落とされることを繰り返 徒の信仰を揺るがしかねない出来事だ。拷問する しそれでも信仰を捨てることはしなかった。 側もされる側も地獄を体験した。一方中浦ジュリ 役人は煮えたぎる湯の前に連れて行き飛び込め アンは拷問で棄教を迫る役人に向かって叫んだ。 と命令する。パウロ内堀作右衛門ほか 29 人は聖 「我はローマを見た中浦ジュリアンである」と。 体に信頼し団結していた。役人が背中を押すまで 私達の最後の巡礼地は大分県国東半島のペト 絶対に飛び込んではならぬ。役人も自分の手を汚 ロ岐部の生誕地国見町。ペトロ岐部は江戸で穴吊 したくないので飛び込めと命令をする。島原から りの刑で殉教した。彼を尋問したのは将軍家光、 雲仙までの道のりはカルワリオの十字架への道、 彼らは「ご聖体が賛美されますように」と遺言を 柳生但馬守、沢庵和尚だった。いかに彼を重要人 物と見なしたかが伺える。先に棄教し沢野忠庵と 残した。 名乗らされ生ける屍のようになっていたフィレ 私達は雲仙教会から島原教会へと下った。 イラ神父は幕府の手先にまで落ちていた。奉行は 10 時にミサを予約していた。そこは山上の垂訓の 10 残酷にも彼をペトロ岐部に対面させた。彼らの気 持ちはどんなものであったろうか。 「列福式巡礼その2」 穴吊りの刑は汚物を入れた穴に逆さに吊るし、 山内 寛勝 苦しみを長引かせる為、耳に穴を開け少しづつ血 を流す。地上からは一言「転ぶ」と言えば命も助 厚木教会の私たち 3 人は新潟教区菊地司教様 かり金銭も与えようと悪魔のささやきが繰り返 (以下司教様)団長の「カトリック新聞列福式と される。ペトロは苦痛の中から毅然として言い放 五島・平戸・生月」4 泊 5 日の巡礼(29 名)に参加 った。「貴下たちはこれらのことを了解する事も し、列福式の翌日から 3 日間、11の教会を巡礼 理解する事もできない。したがって貴下たちに説 し、祈りを捧げ、そして毎日司教様司式のミサに 明しても無駄である」と。 与り、巡礼団の共同体の中で大変感動する説教を 聴くことができました。以下に説教の概要を記し ます。 1.中ノ浦教会(11 月 25 日)のミサ説教: 新潟教区に関わる米沢の殉職者について話さ れた。米沢藩の殉職者は、他藩の殉職者に比べて 過酷な殉職で無かった。上杉景勝に仕えた上級武 士ルイス甘糟右衛門(フランシスコ会第三会員) が一族に信仰を伝え、他の武士にも伝え、そして 農民にも伝え、その数は 3 千人を越えるまで増え た。上杉景勝の跡を継いだ定勝は幕府の圧力を避 けることができなくなり、その代表者 53 人を殉 (捕えられたペトロ岐部と井上奉行) 職させた。刑執行の前夜は仲間の武士達と酒を酌 み交わし、別れを惜しんで最後の時間を過ごし、 巡礼最後のミサはペトロ岐部記念聖堂で捧げ 雪が降る処刑当日は殉職者を道に座して人々は た。岐部の縁者にあたる方がミサの準備をしてく 見送ったそうだ。死んで殉職することが目的では れていた。ペトロ岐部から 14 代目の子孫で近く なく、それまでの信仰の証し人としての生き方が に住んでいるそうだ。 大事。 列福を通して思うことは殉教者は長い厳しい 拷問に耐え主への愛の証を成し遂げた喜びのう 2.鯛ノ浦教会(11 月 26 日)のミサ説教: ちに殉教。棄教した人達の心の苦闘も殉教以上だ 当教会に関わる修道女 8 人もミサに与り、司教 ったのではないでしょうか。 様はアフリカで宣教された経験を話された。1986 250 年の間、信仰を守ってきた信者の発見で世 年から 1994 年まで、アフリカのガーナに赴任し、 界を驚かせた浦上の信者も一度は転び、又戻って 1987 年 5 月に 3000 人の教会の主任司祭代理に任 信仰を伝えたのではないでしょうか。一度は棄教 命された(28歳のとき)。 した人がいたから今の自分があるのではと思う 山あり、谷あり、水の出ない、電気もない、山 のは私だけだろうか。 奥の教会で、5 年間ひとり生活をした。22の巡 神に感謝 回教会を1週間かけて回り、日曜日には 500 人が ミサに与る教会で2回ミサを行った。1回のミサ は歌、踊りを交え3時間を要し、説教は 30 分程 度かけないと満足してくれなかった。復活祭の頃 11 は 100~200 人に洗礼を授け、5年間で 1000 人 トン神父(黒人)の墓に行った。ワシントンは黒 以上に授けた。しかし、受洗者数が多いことを人 人の神学校を卒業して神父になった。この神父に は評価されるが、神が求めていることとは異なる。 は色々な逸話があり、ガーナに行った後にこの話 をしたら、人々は懐かしそうに話を聞いてくれた。 私達は数字で評価しがちだ。 後に司教になったワシントン神父は人々のため 現在、司教様は司教をしながら、カリタスジャ に働き、人々に語り継がれた、正にこれこそ宣教 パンの仕事もしている。 1994 年のルワンダ難民大量虐殺問題に関わり、 師なのだ。ガーナの人々から愛されていたのだ。 人口が 800 万人のルワンダで 80~100 万人が虐 イエスの最後の晩餐で「わたしの記念として」 殺された。人口の8割がクリスチャンで、その 6 という言葉は、ガーナの言葉で言うと「わたしを 割がカトリック信者で人間の目から見たら、宣教 忘れるな」となる。イエスは私たちに「わたしを が成功したように見える。しかし、大切なことが 忘れるな」と呼びかけている。 伝えられていなかったことを痛感した。ガーナの 私たち一人ひとりがイエスを忘れてはならない 枢機卿大司教がアメリカで講演し、「神が求めて ことを、面々と後世に伝えてきたのだ。 いることをしっかり伝えることが大切であった。 殉教者の列福式に出席した感激を自分だけの 人々の心に福音の真理が、しっかり伝わっていな ものとしないで私たちは他の人に、また後世に伝 かった。ほんの一握りの人々にしか伝わっていな えていきましょう。「このことを忘れないでね!」 かった。」と。 毎年多くの人に洗礼を授けたが、何を伝えたか反 追記:風光明媚なところに所在する教会の巡礼を 省している。 進めるうちに、異なる小教区信者との交わりを深 その点、殉教者は信仰に生きぬいたからこそ、 め、神様の豊かなお恵みを頂き満たされた心で巡 私たちに伝わってきた。私もそのように生きたい 礼を終えることができました。更に教会ホームペ し、どう生きるかが重要で、知恵だけでは不十分。 ージなどの広報活動に努めねばと思いを強くし 信仰の証しをつくること、残すことが大切。その ました。 ように信仰を伝えていきたい。 なお、菊地司教様は“司教の日記”というブロ グで日々の活動や思いを公開しております。是非 アクセス下さい。 神に感謝!! 列福ミサの映像がインターネットで鑑 賞できます。DVD も販売予定です。 (菊地司教様と大曽教会で) カトリック中央協議会のホームページで 11 月 3.平戸ザビエル記念教会(11 月 27 日)ミサ説 24 日に行われた列福ミサの映像が無料で公開さ 教:今日は、仙台教区と名古屋教区の巡礼団との れています。約 67 分に渡る録画映像です。 合同ミサで、平賀司教様(仙台教区)司式で、説 インターネットにてカトリック中央協議会の 教は菊地司教様が行い、その他に高橋神父、佐々 ホームページにアクセスの上、案内に従い操作し 木神父が加わった。 ていくとご覧になれます。 1986 年ガーナに赴任する途中、アメリカのニ http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/ ューオリンズに立ち寄ったとき、友人のブラザー から聞いたガーナの大先輩のカーティス・ワシン 12 ”神様への(祈り、召命)ボールを作って投げ なお、KTNテレビ長崎(フジテレビ系列局) の関連会社である株式会社 KTN ソサエティより よう” 列福式の模様を録画した DVD が販売される予定 れて、直径1m近い祈りのボールを製作されまし です。詳しい案内は KTN ソサエティのホームペ た。完成した二個の大きな祈りのボールには、各 ージに掲載されておりますのでご確認ください。 自の氏名、霊名が記載され、午後の大会ミサで奉 DVD についてのお問い合わせは、恐れ入ります 納されました。 をテーマに雙葉学園体育館で二班に別 が各自、KTN ソサエティまでお願いいたします。 http://www.ktn.co.jp/ktns/ 3.大人のプログラム: 基調講演のテーマは、 「司祭職に向かって」 東 京神学院院長 (広報部) 平田豊彦神父様 略歴:昭和26年11月11日生。1981年3 一粒会大会参加報告 月8日司祭叙階、名古屋教区司祭歴任2003年 植木 貞一 4月東京カトリック神学院院長赴任 2007 年銀祝を迎える 2008年10月13日 秋晴れの日 ☆ 横浜 長崎県浦上教会出身、周辺では大半がカトリッ 雙葉学園講堂ならびに体育館にて開催、主テーマ は ク信者であること、松岡神父様(後の名古屋教区 ”心をすませて主の呼びかけに応えよう” サブテーマは 司祭職への動機 司教)の小神学校への呼びかけに対し、両親は兄 ”子供とともにささげるミサ” です。教区からは、多数の子供たちが集いました。 弟も多く、“一人くらい司祭職奉職しても”との ことで、小神学校に進み毎日がわくわくでした。 中1ー高3の6年間松岡師の関係で名古屋教 1.開会の挨拶: 一粒会本部委員長舛田英郎氏 ”祈りのつどいー心を 区で学び1981年司祭叙階、名古屋教区司祭奉 すませて(神の声を聞く)主の呼びかけに応えよ 職、2003年現職となりました(実質的には2 う” 001年4月司祭召命実務担当) 第41回一粒会大会 すなわち「私たちひとりひとりが、あなた の呼びかけを聞きとめ、すすんで司祭の召し出し ☆ 司祭、司教の仕事とは?/司祭のあるべき姿 (召命)に応えることができること」を強調され とは? この部分は「一粒会だより 2008 年 12 月」発行の ました。 3 ページ目に詳しい内容が掲載されていますので、 2.子供プログラム: 子供プログラムでは学生がリーダーを務め、 そちらを参照ください。 (神様と)”キャッチボール、する?” ☆ 東京カトリック神 学院は 主の呼びかけに応え、 主のぶどう畑で労苦を 惜しまず働くカトリッ クの教区司祭を養成す る場です。養成される 教区司祭の召命は、司 教に結ばれた司祭団の 13 一員となり、信徒、修道者、司祭、司教が協力し ”信徒、司祭が共に元気な教会を構築実現するこ ながら、この社会のすべての人々を対象にした福 とによりに召命が生れる” 音宣教を目的とします。教区司祭は、信徒や修道 ☆ 者の召命の意義を充分に理解し、信頼と尊敬の中 Q:司祭養成に関し年間の費用は・ に互いに協力し神の民を豊かにすることが求め A:300万円(生活費含む)年/人です 質疑応答 (一つのみ抜粋) られます。 東京カトリック神学院は日本カトリック司教 4.大会ミサ 団によって直接運営され、 札幌、仙台、新潟、 (子供とともにささげるミサ) 梅村昌弘司教司式のもとで行われました。 さいたま、東京、横浜、名古屋、京都、大坂、高 (神父様22名、助祭4名の参列) 松、広島の11教区の司祭を養成する神学校とな 奉納では子供たちが体育館で製作した、大き っています。 現在、院長平田豊彦神父を含む5 な神への祈りのボールが奉納されました。 名の教区司祭がモデラトール(責任者)として直 接養成にたずさわっています。そのうち4名が東 ☆子供のミサ説教では今春叙階された新司祭谷 京の神学院、1 名が初年度養成のため那須ガリラ 脇神父の「司祭職への動機」について話されまし ヤの家を担当しています。またコーペラトールと た。 して学事担当司祭が 1 名、霊的養成担当司祭が 1 長崎県佐世保地区で生まれで、周りのほとんどが 名、おもに神学生の知的養成、霊的養成の主任と カトリック信者であり、小神学校へは、基調講演 して協力してくださっています。 された平田豊彦神父様同様わくわくと生き生き 現在、当神学院の神学生は35名、神学生たち した気持ちで楽しく小神学校に通いました。 東 は養成担当司祭と生活を共にしながら、司祭にな 京大神学校で 4 年間学びましたが、”司祭になり ってからも一生深め続ける主イエスとの共なる たい、やめたい”との気持ちの葛藤に悩み、許可 生活の基礎を築いていきます。神学院の養成では、 を得て3年間、実社会で労働経験を積みました。 志願者たちの心に「主イエスへの愛」とともに、 その後神学校に戻り司祭叙階を受けました。 「主イエスの教会」への奉献の精神が、深く根付 くことが求められます。また将来の日本に於ける 5.閉会の挨拶 宣教・司牧活動を精力的に推し進めることができ 2008年静岡東地区担当の予定でしたが都合 るように、哲学と神学の専門的知識と、司牧活動 上常任委員会預かりとなり神奈川第三、四地区担 に求められる実際的能力を身につけるように特 当が実務担当、特に山手教会、施設提供を快諾さ 別に配慮しています。 れた横浜雙葉学園のご尽力に感謝します。 ☆ 「よろこびのうちにあなたの呼びかけを聞きとめ、 大神学校一本化に向けて 東京練馬、福岡両キャンパスを活かし司祭教育と すすんで司祭の召し出しに応えることができま して(哲学2年、神学4年)東京地区、九州地区 すように」 養成過程を一本化し、初年度は那須ガリラヤの家、 2-5年は福岡地区、最終学年は練馬で研修しま す。 福祉部の中心荘のボランティア活動が表彰 細目は2007 年4月25日カトリック新聞記事 されました を参照ください。 ☆ 最近の司祭、助祭叙階状況 福祉部は、海老名市にある老人介護施設「中心 横浜教区では濱田荘久助祭が 5 月 3 日に 司祭叙 荘」でボランティア活動を実施しています。活動 階など5名の実績がありました。 の歴史は古く、昭和 63 年から車椅子や手すり、 14 窓などの施設内外の清掃等を行っております。 れた。親子の関係は人間の関係の中で一番基礎に この都度、ボランティア功労者として、平成 20 なっているが、その家族の絆以上に神様の家族が、 年 10 月 17 日に厚生労働大臣より表彰されました。 より大切であること、それは神様の愛によって結 福祉部ではボランティアを募集しております。 ばれている共同体、それが教会です。単なる人間 教会の掲示板にも掲示しておりますが、お手伝い 的な親子、血縁、絆、理解、利益、損得などの関 いただける方は、ぜひご一報ください。 係ではなく純粋に神様を愛し愛される家族、それ が教会です。宣教師たちはまさに、その血縁関係、 絆を断ってそれを乗り越えて、より普遍的な神様 の家族をつくる為に私達の所に来て下さいまし た。私達も同じですが神様の家族、霊的家族に属 するためにはある種の絆を清算する“死”が必要 です。 そして新たに神様の愛によって、より高い時点 から愛を持って自分の家族も大切にするように なる。 宣教師達は神の家族を私達の間につくり広める 為に家族の絆を断って一度も国へ帰ることなく 神様の恵みと愛が、入居されている方々、職員 家族の顔を見ることなく神の家族を大切にし働 の方々、お手伝いをしている多くのボランティア いて下さいました。ここであらためて感謝しよう。 団体とそのメンバーの上に注がれますように。 (広報部) パリ外国宣教師たちの故郷を訪ねる 21 日間の旅(5)最終回 山田照子 ド・ロ神父の故郷へと向かう当日シスターに 「山田さんお願いがある」と言われた。出津教会 出身の シスターでド・ロ様には感謝しても感謝しきれな (ド・ロ神父出身教会で外海出身のシスター) い恩があり直接お礼が言いたくてこの旅に参加 宣教師達の犠牲を思い、彼等のために祈ろう“と した。 話された。 記念に教会の前で写真を撮っていただきたいと。 聖パトリス教会がド・ロ神父の出身教会で今は ド・ロ神父は横浜でサンモール会の修道院を新 設。横浜のヨーロッパ海軍工廠に関する使徒職に 巡回教会となっていた。主任司祭が留守とのこと 従事。1879 年に外海地区に任命され出津に定住 でバイユの司教様とテモテ会の修道士が出迎え した。そこに教会、司祭館を建てた。彼はあらゆ てくれ共に日本語のミサを捧げた。 る種類あらゆる分野の仕事の最高の教師だった。 高見大司教は説教の中で“イエスは「私の父の 農場改良、殖産、薬学、建築、婦人科などなど、 御旨を行う者が私の家族である」「わたし以上に 明治から大正にかけて外海の人々のため尽力し 自分を愛する者はわたしに相応しくない」と言わ た。色々の分野で外海の人々を支え、さらに貧し 15 い婦女子が自分で生きていけるようにと、そうめ ェル塔が良く見える丘で別れた。大司教様は空港 ん製法を教え、今でもそうめんはド・ロそうめん までお見送りしたいといったが全コースを巡る 4 として外海の特産品となっている。外海とド・ロ 人はパリ市内の見学をと望んだ。でも案内なしに 様の出身地フォースフォは姉妹都市になってい は何も出来ないと泣いた。司教様も涙には勝てず る。外海のド・ロ記念館には、お母様と妹さんが パリ市内の見学をすることとなった。私たちは行 刺繍を施した祭服が展示され叉ド・ロ様が取り寄 きたい所を勝手気ままに言った。まずエッフェル せられたオルガンが今でも綺麗な音色を響かせ 塔に上りたい。 訪れる人の心を和ませている。出津教会はド・ロ 様の設計で建てられ外海地区の人々の信仰の支 えの場となっている。また世界遺産暫定候補にも なっている。ド・ロ様は出津教会の共同墓地で今 も外海の人々を見守っている。 地下鉄に乗ってサンドニー教会へ。パリ郊外に あるこの教会は地下鉄で乗り換えながら 40 分位 (ド・ロ様の生誕地 だった。 有名な「ド・ロ館(ウ オの館)」を背にシェガレ神父と・・・) サンドニー(聖デオニジオ)はパリの初代司教 私達の巡礼も前半を終えようとしていた最後 でモンマルトの丘で首を切られて殉教したがそ はパリ外国宣教会本部で感謝のミサを捧げるこ の首を持ってここまで来て命尽きたといわれて とになっていた。そこはパリの中心地にあり不思 いる。教会の入口には、その首を主に捧げている 議のメダイ教会の隣だった。シェガレ神父はパリ 聖デオニジオの彫刻が私達を迎えてくれた。 にいる時は節約の為に本部に泊っていた。広い敷 地はフランスの首相官邸の隣で 24 時間警備され ていて安心だ。 そこの庭園は年に一度パリ市のお祝いの時だ け解放される。それを見せていただくことになっ た。パリミッションはアジアの宣教を主に活動し ている。庭園には感謝のモニュメントが韓国、中 国、ベトナムなどから贈られたものがあったが日 ここはまた王家のお墓があることでも有名であ 本からのものはなく残念。高見大司教は信徒発見 る。中央祭壇は聖デオニジオの心臓が納められて 150 年記念に何か考えようと言っていた。あと 7 いた。側廊はお墓で、その中でも私達の目当ては 年後だ。 コンコルド広場でギロチン刑に処せられたマリ 12 日間巡礼を共にしたフランス西部コース 26 ーアントアネットのお墓。そこにはルイ 16 世と 名は今日で日本に帰り明日は次の巡礼グループ 並んで眠っていた。ホテルに帰るにもまた地下鉄 東部コースの方と合流する。最後はパリのエッフ だったが初めての経験で楽しかった。パリの地下 16 コボと S 天使の戦い(創世記:30)を描いた大き 鉄はテロの関係で厳重で二重の改札になってい る。パリを走る地下鉄は手動の扉で相模線のよう。 な絵があった。 今夜は日本に帰ったシスターから使い切れなか その後、近くのフランス銀行に両替のため立ち ったユーロを頂いたのでホテルのレストランで 寄ったがフランスでは夏のバカンスは長い休暇 ワインを頂きながら大司教様と 5 人だけのディナ を取る。両替の係りの人が休暇中なので取り扱え ーは 10 時過ぎまで続いた。 ません。日本では考えられない言葉。なんでも体 験と外にある両替機を利用する。 朝のミサは不思議のメダイの教会に予約して いた。5 人だけの小さな聖堂と思っていたが、中 ノートルダム大聖堂の近くのセーヌ川の岸辺 央祭壇でしかも、日本語でのミサ。日本人 5 人の にはサハラ砂漠から運ばれた砂場に水着姿で日 他は皆、外国人、それは 7 月 27 日カタリナ・ラ 光浴を楽しんでる人が大勢いた。バカンスに行け ブレ列聖 60 年の記念日で特別な聖書朗読も用意 ない人の為にパリ市の計らいとか。今や観光名所 されていた。私達もそれぞれに祈願を立て日本語 になっている。次も地下鉄でモンマルトの丘へ。 で祈った。最前列のカタリナ・ラブレのご遺体の ここでも体験とばかりにケーブルカーでサクレ 前で。閉祭の歌は皆で歌えるように♪天の后を選 クール大聖堂まで登る。そこからはパリの街が一 んだ。アヴェ 望できた。サクレクール(聖心)大聖堂からサン アヴェと皆一つになって歌い祈れ た感動的なミサとなった。 ドニー教会も見えた。2000 年に行われたフラン カタリナは愛徳姉妹会に入会してからは何時 ス・ワールドカップの競技場の近くだった。ここ もこの聖堂で祈っていた。その時マリアの出現を で首を切られ、それを手にあそこまで歩いた 受けたが最初の出現の時はマリアと 2 時間くらい の?・・・ 話された。その時マリアが腰をおろされた椅子が 聖堂の右祭壇に置いてあった。そこでカタリナは 不思議のメダイを作る事をマリアに頼まれた。そ れを世界に広める任命を受けた。不思議のメダイ の教会の中央祭壇にはメダイと同じ形のマリア 像でご像の周りのアーチにはラテン語で原罪な く宿り給いし聖マリア我らのために祈り給いと 記されていた。 昼食は冷やし中華 1700 円を食べ満足して空港へ。 東部コース巡礼団を迎え、次の巡礼地ランスへ。 ランスはシャンパンで有名な所。シャンパンの父 ドン・ピエール修道士が発明したシャンパン工場 モンテ・シャンドンもこの地にある。ランスのカ テドラルは王の戴冠式が行われていたことでも 有名。屋根の上部は王家の紋章ゆりの花で覆われ ていた。内部のステンドグラスはシャンパンの故 ミサの後、司教様は見せたい所があると言って私 郷だけあってドン・ピエール修道士がシャンパン 達を案内してくれたのはサンスルピス会の聖堂 を作る行程が描かれていた。東部コースの最初の だった。大きな教会で映画ダビンチコードの撮影 訪問地はブレル神父の故郷です。ブレル神父は五 が行われたそうだ。そこには有名な画家の絵でヤ 島に多くの教会を建てた。野首教会、大水、鯛の 17 浦養育院、などなど オリンピックの生みの親と言われるクーベルタ 2007 年 2 月 12 日、漏電のため焼失した江袋教 ンを奉献している絵です。 会も 125 年前ブレル神父によって建てられた聖堂 宣教師によって伝えられる幸せの御言葉(福 だった。江袋出身の私としては感謝の気持ちと申 音)をオリンピックのようにリレーしてバトンタ し訳ない気持ちで祈った。パリミッションの宣教 ッチしながら伝え続けていくことを表している。 によって辺鄙な五島にも信仰の種が蒔かれまし この絵はクーベルタンのお父さんが描いたもの た。江袋教会では禁教令が解かれた後の厳しい迫 との説明。 害もパリミッションの宣教師によって養われた この尊い信仰を世々に伝え守っていけますよう 強い信仰によって耐え得ることが出来ました。そ に御国が来ますように!と祈りながら・・・ してブレル神父様が建てて下さった教会を大切 に守ってきましたが、2 月 12 日漏電のため焼失し 信者たちは悲しみに打ちひしがれています。一日 異動情報 も早い復元が実現し信者の拠り所となりますよ うに! ブレル神父は海で遭難した。終油の秘蹟を授け て欲しいと出津に出張中の神父を五島から迎え が来た。ド・ロ神父は止めたが自分のことよりも 個人情報のため削除しました。 信徒のことを思い、船を出し数時間で海底に沈ん だ。熱烈な献身の殉職者(38 歳)であった。 最後に、皆様の大切な広報あつぎの紙面をお借 りし一年間連載させて頂きましたパリ外国宣教 師のふるさとを訪ねる旅も今回で終わりたいと 思います。5 回にわたりお読みいただき有り難う ございました。フランス西部コース・東部コー ス・両方のコースがあり今回は西部コースを取り 上げてみましたが東部コースでは奇跡的とも言 われた日本の信徒発見のプチジャン神父を始め 12 名の宣教師の故郷も訪問しました。 この巡礼で宣教師達が全てを捨てて宣教に来 編集後記 られたように私たちにも宣教への熱意が与えら れ、自分に死ぬことが出来ますようにとの願を込 今年はインフルエンザが流行っているそうで めて祈り巡礼を続けました。潜伏キリシタンの時 す。マスク、うがい、手洗いなどちょっとした心 代に命をかけて、日本のため、国、教区をあげて がけで予防できます。皆様も、くれぐれもご自愛 援助を惜しまなかったフランス・パリミッション ください。2009 年も宜しくお願いいたします。 に感謝です。私たちの横浜教区にもパリミッショ ンの足跡が今も残っています。山手教会の庭のマ (広報部:永田・山内・山田照子) リア像・松本教会の旧司祭館は今は長野県宝とし て保存。等など・・パリミッション本部の聖堂入 口に一つの絵がありました。 18
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