102号(1月 - カトリック厚木教会

NO.102 / 2008.1 月号
カトリック厚木教会
厚木市 旭町 2-7-11
TEL.046-228-4164
FAX.046-228-4150
新しい出発をするために
主任司祭
ガブリエル
鵜飼
好一
今年に入って大変寒い日が続いています。今日
かと思っていましたが、横浜教区の事情からして
この冬初めて雪が降りました。皆さんはきっと新
残念ながら移らざるを得ません。司教様の人事に
年を迎えて新しい心で歩んでいることと思いま
おけるご苦労を思えば、司教様の決定に従うこと
す。新年のご挨拶は1月のニュースレターでさせ
は当然のことですし、私たちは自分の思いを実現
ていただきましたが、今年は少々いつもと違う状
するためではなく、主が必要とされるところで委
況の中で新しい一歩を踏み出すことになりまし
ねられた務めを果たすようにいつも心がけてい
た。皆様にとっても私にとっても主の恵みと祝福
なければならないでしょう。信仰において大切な
に満ちた良い一年になるように願っています。
ことは主に対する従順ですが、主のご意志は司教
様を通して私たちに示されます。
人事異動が発表されてから1ヶ月になります。
復活祭後の一週間の内に移動することになりま
引越しの時にいつも思うことは、捨てることの
す。復活祭で丁度6年間厚木教
難しさです。神学校を出る時に
会で過ごさせていただいたこと
はほとんど何も持っていなかっ
になります。まだ2ヶ月ほど居
たと言っても良いでしょう。し
りますが、引越しの準備なども
かし、気がつけばたくさん荷物
少しずつすすめていかなければ
が増えています。母に対して、
なりません。新年を迎えて教会
思い切って捨てることをしない
も信徒大会に向けての準備や、
といけないと時々言っているの
四旬節の準備などで忙しくしています。次の神父
ですが、いざ自分のことになると簡単ではありま
様と交代するにあたって、まず教会のことを考え
せん。
なければなりませんが、私的なことも整理してい
信仰は、自分を捨てて主に従うこと。そう思い
かなければなりません。今年はだいぶいつもとは
ますが、いろいろなこだわりにがんじがらめにな
違う新年を迎えました。
っている自分に気付きます。本当に捨てるという
ことは難しいことです。この地上に宝を積むより
この6年間は今の感覚では短く感じています。
年齢を重ねるほどに時の流れが速いように感じ
も天に宝を積みなさいと主は言われましたが、こ
られます。公私共にこれまでのことにけじめをつ
の世に宝を積めば積むほど自由が利かなくなる
けていかなければと思いながらも、作業がなかな
ようです。身軽にいつでもどこへでも行けるよう
か思うように進んでいきません。少しあせりも感
に普段から心がけていなければいけないと今更
じています。
ながら反省しています。今まで積み上げてきたも
今まで幾つかの教会に赴任いたしましたが、一
のはとても大切かもしれませんが、これからは過
つの教会に6年間というのは一番長い期間です。
度に過去に捉われず、未来に向かって力強く歩ん
実際のところもう少し長くいられるのではない
でいければいいなと思います。
1
いかと思います。
待降節の黙想会が行われました。
子どもたちのための黙想会では、聖堂に入って
から席に着くまでの作法について、子どもたちに
待降節を迎え、教会暦は世間より一足早く新し
実演させ、一つ一つの動作に意味があるというこ
い年度へと変わりました。祭壇脇のアドベントの
とを教えていただきました。それらの中には、大
蝋燭に一本一本火の灯るごとに、クリスマスが近
人でも知らないこともあり、子どもたちにとって
づき、私たちの祈りも深くなってきます。
は有意義だったのではないかと思います。
黙想会の最後にはベネディクションが行われ
そのような中、12 月 8 日(土)、9 日(日)に
ました。タントゥム・エルゴの歌声が響く中、参
札幌教区の田村忠義神父様を指導司祭として迎
加者は祈りを深め、神との対話を行う貴重なひと
え、待降節黙想が行われました。
時を送ることが出来ました。
例年、黙想会は一回のみの開催でしたが、本年
は開催回数を増やし、子どもたちのための黙想会
田村神父様にはこの黙想のため、厚木にご宿泊
を一回、大人向けの黙想会を三回と、合計四回の
いただきました。北海道からの移動も含めますと、
黙想会を 2 日間に渡り行いました。
大変なご苦労をおかけすることになりましたが、
黙想指導を快諾していただき感謝の念に堪えま
第一回講話会は 8 日(土)の夕方のミサの後
せん。
に行われました。開催時間が 20:00 という遅い
(広報部
永田)
時間であったため、信徒の皆さんのご都合に差し
障りがあるのではないかと懸念されましたが 41
ご降誕ミサが行われました
名の参加を得ました。
第二回講話会は、翌 9 日の午前中に行われ 90
名の参加を、第三回講話会は午後に行われ、80
12 月 24、主のご降誕ミサが捧げられました。
人の参加を得ました。
今年は装い新たになった聖堂で初めて迎える
ご降誕になりました。
ミサは 18:00 と 20:00 の二回行われました。
昨年同様、休日に当りましたので第一ミサの参列
列者は非常に多く、相当数の立ち客が出るほどの
超満員の状態でした。
田村神父様は、多岐に渡る配布資料を用意され、
わかりやすい口調で語りかけ、時には笑いも交え
ながら講話を進められました。時折、「あなた自
身の場合はどうですか?」と、私たち自身を振り
返らねばならない問いかけも発せられ、自分の信
仰を見つめ直すきっかけを頂戴できたのではな
2
第二ミサでは幼児洗礼を含む 3 名の方の洗礼式
した。だって、宣教部は、私が自らまたは、教会
も行われました。私たちの共同体に新たに加わっ
の福音宣教活動のお手伝いをしなければならな
た方々に、神様の愛と恵みが深く注がれますよう
いのでしょう。だけど、自分の信仰さえ、覚束(お
にお祈りいたします。
ぼつか)ないのに、ましてや他の方のお世話など
(広報部
出来ませんよ。
永田)
II.胸ときめいて
9月初めに、新谷さんをお招きして、憲法問題
を話すという企画が、尊敬する信仰の先輩より提
案がありました。
新谷さんは、僕が中学1年の年に、「フランシ
ーヌの場合」というデビュー曲で一躍、憧れのス
ターになった方です。私の記憶の中では、某電機
メーカーの CM ではありませんが、新谷さんは、
彼女が1969年デビューした当時の「美しいお
憲法 9 条を新谷のり子さんと考える
姉さん」のままです。うれしいな。新谷さんにお
会いできる。
閑話休題。まじめなクリ
はじめまして、宣教部長の松永です。
スチャン風の文体で書か
今まで、新任の宣教部長として皆様にごあいさつ
なければ、もう2度と、
をする機会がありませんでした。原稿の趣旨から
原稿依頼が来ないかもし
外れますが、この場を借りて、ご挨拶させていた
れない。
だきました。
閑話休題。以下は、宣教部長の所信
表明とか自己紹介ではなくて、表題の
会を企画し、実行まで携わった経験に
関するエッセイです。
I.若葉マークの私が「宣教部長」だっ
て
私は、クリスチャン歴は20年以上ありますが、
30代、40代と神様ではなく、仕事、名誉、お
金を追い求め教会から遠ざかっていました。(偶
この企画は、私が宣教部に加わってから初めての
宣教活動となりました。
III.裏方は大変だけどうま味もしっかり
像礼拝)今年3月、50歳(+1歳(~_~;))になっ
たのを機会に、教会にもどってきた信仰若葉マー
そうはいっても、現実は大変でした。新谷さん
クです。
との公演時間の設定と打ち合わせ、チラシ、ポス
若葉マークの僕が、宣教部長ですって((@_@;))
ターのデザイン、根回し、修正等々。
この就任の話があった時は、神様もおかしな御用
ポスターのデザインなどは、(小学校の図工の時
をお命じになるものだなあという思いがありま
3
同新聞でも掲載されませんでした。
間でやらされたことがあったかもしれません
が、)やったことがないことばかりで、大変でし
次回は、自分が失敗しないで役回りを果たすか
た。
という私の視点ではなく、いかに、皆様に感動、
しかし、裏方は裏方なりの役得があります。新
喜び、神様への気づきを与えることができるかと
谷さんから、直々にお電話をいただいたり、(あ
いう視点から、宣教部の役割を引き受けたいと思
いにく、私は留守でしたが、留守電に、「もしも
います。
し、新谷です。
・・・」と伝言が入っていました)、
新谷さんご夫妻と、親しく食事をしながらお話を
最後に、宣教部の皆様、委員会のみなさま、ほ
お伺いしたり等々。おいしい役回りは十分にあり
か、多くの方々に支援、励ましをいただきました。
ました。
また、特定の名前はあげませんが「サトウキビ畑」
で感動されたアナタから、やってよかったという
満足感を与えていただきました。ありがとうござ
IV.感動を与えることができた!
いました。
当日、音合わせの時間が十分に取れず、第二ミ
また、泣かせちゃうからね。
サ後、急きょ、予定していなかったその日2度目
の音合わせを行うために、来場された方々をいっ
(宣教部
松永
ひろあき)
たん御聖堂の外で待機してもらったり、(そのた
めか、帰宅された方がおられたり)等々、予定外
クリスマス会が行われました
のハプニングもいくつかありました。しかし、歌
とお話も半ば、新谷さんが「さとうきび畑」を情
クリスマス直前の 12 月 23 日、恒例のチャリテ
感細やかに歌い上げるころには、多くの方々がハ
ンカチを目に当てて感動されて泣いていました。
ィー・クリスマス会が開催されました。この催し
(私は、その瞬間、不謹慎にも、この会を実行し
は早いもので、今年で五回目を迎えることになり
てよかったと、腹の中で、にんまりしていました。
ます。教会内外の皆様のお陰で、厚木教会の楽し
すいません。
)苦労が報われた一瞬でした。
いイベントとして定着することができました。
公演後、新谷さんからもねぎらいの言葉をいただ
昨年、お昼休みを挟み、午前・午後と通しで行
きました。感謝です。
う開催スタイルを模索してみましたが、本年もそ
れに倣い、二部構成で実施しました。
V.次回へ思うところ
出演された皆さんは、この日のために猛練習を
積んでこられたわけですが、その成果を遺憾なく
教会にマーケティングが必要かどうかは、議論
発揮し、客席を拍手の渦に巻き込んでいました。
があるところだと思います。しかし、私は、「い
舞台は教会学校の合奏で幕を開けました。低学
かに、私たち宣教部がミスをしないでこの会を終
年の子どもたちはメロディー・ベルで『きよしこ
わらせることができるか」という観点から、動い
の夜』を演奏してくれました。ハラハラ見守る観
ていたのではないかと思います。その結果、いか
客の心配をよそに、本人たちは至って冷静。息の
に多くの人に来ていただき、楽しんで(感動、考え
合った演奏で大きな拍手を得ていました。全員で
て)いただけるかというマーケティングの視点が
合唱した SMAP の『世界で一つだけの花』は、k
欠けていたのではないでしょうか。カトリック新
客席で一緒に口ずさむ方も多く、和気藹々とした
聞にこの会の広報を依頼したのも、1週間前でし
ひと時でした。
た。また、確認をしなかったので、結果として、
4
にする機会にはなかなか出遭えないゆえか会場
には期待のムードが高まります。聖堂に流れる調
べに観客がうっとりとしている姿が印象的でし
た。
ベトナムの皆さんによる合唱は何かしら田園
的な響きを感じます。メロディーは万国共通です
が、流れるようなベトナム語の歌詞はとても美し
く感じられました。
毎回陽気な歌声で会場を楽しませるフィリピ
ンの皆さんは、今年は目も楽しませてくださいま
した。ヨゼフと身重のマリアに扮した男女が登場
さて、子どもたちへのご褒美でしょうか、会場
し、いかにもクリスマスらしい雰囲気を演出して
には二人のサンタクロースが登場しました。背中
くださいました。来年はどのようなアイデアが飛
には重そうな白い大きな袋を背負っています。
び出すのか楽しみです。
その姿に、なぜか子どもたちから
最後は聖歌隊の合唱の後、会場一同で日本語、
「怪し~い!」
英語、ベトナム語の三ヶ国語による『きよしこの
という突っ込み。予想外の展開に、サンタさんが
夜』が歌われ、クリスマス会は幕を閉じました。
タジタジになる一幕もありましたが、「おうちの
人や学校の先生の言うことを聞いて、よい子にな
このクリスマス会の寄付は、国境なき医師団、
りましょう」とサンタさんとお約束。こうしてプ
マリア・ミカエラの家、焼失した長崎・江袋教会
レゼントは子どもたちの手に渡りました。
再建のために寄付されます。暖かいご支援、あり
がとうございました。
昼休みは信徒会館で 80 コミュニティの皆さん
が腕を振るった料理の数々がテーブルに並び、ラ
(広報部
ンチタイムです。大勢のお客で部屋は溢れかえり
永田)
大盛況でした。
第 40 回横浜教区一粒会大会に参加して
午後の部のトップバッターは第七地区の中高
生会 17 名による合唱です。この日のために清水
今年の大会は神奈川第 5 地区が担当で「あなた
教会からも2名の方が駆けつけてくださいまし
がたが、私を選んだのではない。私が、あなたが
た。皆、所属協会は異なりますが、心を一つにし
たを選んだのである。」をテーマに聖園女学院で
て歌う結束力には脱帽です・
10 月 8 日に行われました。
二番手は宮崎カリタス修道女会のシスターに
今回の大会の特徴は、子供プログラムを充実さ
よる合唱です。例年、志願者の学生が舞台に立っ
せたことであり、厚木教会も教会学校を中心にリ
ていましたが、今年は開催日が冬休みにかかって
ーダーを含め 19 名が子供プログラムに参加しま
しまったため残念ながら参加できませんでした。
した。
販売されているCDにも収録されている御馴染
木の葉の形の色紙に自分の祈りを書いて、大き
みの曲が歌われ、美しく洗練された歌声に会場は
な祈りの木を作り上げ、感謝のミサで奉納しまし
静かに聞き入っていました。
た。
続いて披露されたのが琴の演奏です。日本の伝
統的な楽器でありながら生の演奏を目の当たり
5
大会は「召出し・家庭・ぺトロ岐部」と題して、
のようなニュアンスで話されましたが、主ととも
上智大学川村神父さまの講話があり、キリシタン
に歩む人の行いは、忍耐強く、慎み深く、そして
迫害時代の信徒の生き様を知り、そ
の強い信仰心に感銘を受けました。
ペトロ・カスイ岐部は司祭召命を
求めて、陸路シルクロードを歩いて
聖地エルサレムまで巡礼し、ローマ
に渡り神学校に入り、やっと念願の
司祭に叙階されました。叙階されて
すぐイエズス会員になり、苦難の末
8 年をかけて、信仰弾圧に苦しんで
いる日本の信徒のもとに帰国しまし
た。熱心に活動してきましたが、ま
何よりも力強い、と感じました。
もなく捕らえられさまざまな拷問にもくじけず、
800 人のミサは梅村司教の司式で捧げられまし
穴吊りの刑になっても、最後の最後まで周囲の人
た。ミサは子供たちが中心になって進め、講話で
を励ましてきました。そのため途中で、首を切ら
話された信仰に基づいた祈りと実践の大切さを
れてなくなりました。
改めて思い、子供たちの祈りの木とともに感謝の
神に選ばれて忠実にその使命を果たし、迫害者
心が奉納されました。
に抵抗せず、へりくだりと、謙虚な心でその一生
を捧げたその姿は、私たちの心を揺さぶります。
(一粒会
これは大会のテーマである「私があなたを選ん
上田啓二)
だのである。」の言葉通り神様の力がペトロ岐部
神父に働いていた証であると感じました。
避難訓練が行われました
「このような強い信仰は家庭から生まれるも
のです。親の祈る姿、神に従う姿、言葉よりもそ
の行いによって子供の信仰心が育まれるもので、
10 月 28 日、第 2 ミサ後に、厚木教会として初
教会にいっているとかいないとかの問題ではな
めてであろう避難訓練が厚木消防署救助隊の指
く、家庭や共同体で大人が、どれほど祈っている
導の下で行われました。
か、そして神に従って謙遜な生き方をしているか
はじめに聖堂内で救助隊長よりユウモアを交
が、肝要であり、召命の要はそこにある。」と力
えながら約 40 分間説明が行われ、引き続き隊長
強く述べられました。
の合図で聖堂の非常口と出入り口から 90 名の方
午後からはシスター中村のアフリカでの宣教
が避難しました。その後、駐車場で参加者が熱心
について聞きました。アンゴラでの活動中、反政
に見守る中で、子供を含めた 10 人の方が実際に
府ゲリラに人質として(シスター5 人
水消火器から水を放出する訓練を行いました。消
神父 3 名)
誘拐され 4 ヶ月に渡り厳しい捕虜生活を経験した
火器訓練では、消火作業に入る前に、近隣に大声
にもかかわらず、解放後、新たにフランス語を勉
で火災発生を知らせる場面がありましたが、緊張
強してザイール(コンゴ共和国)で子供たちの教
して声が出ない人もいました。しかし、このよう
育のために活躍されています。「何にもない、何
な訓練を経験することにより、いざという時の心
のとりえもないこんな私に、あなたは声をかけら
構えができるのではないかと強く感じました。
れた。その声にしたがって歩いてきただけ。」そ
6
「聖書祈り会」分かち合いより(3)
聖書の言葉:「外の人々」(マルコ 4 の 11)
「あなた方には神の国の秘密が打ち明けられ
ているが、外の人々には、すべてがたとえで示さ
れる。それは『彼らが見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰
って赦されることがない』ようになるためであ
Ⅰ.説明内容事項は以下の通り。
る。」
1..火災関連
「神は愛である。」と言われているのに、ここ
(1)厚木消防署管内の状況:18 年度の救急車出
はよく理解できないとの声を聞いた。
動回数は 9600 件(5隊合計)、年間火災件数は
これは、「イエスが1人になられた時、12人
100 件。
と一緒に、イエスの周りにいた人たちが、例えに
(2)避難時注意事項:①押さない、駆けない、
ついて尋ねた。」(マルコ 4 の 10)ときの、イエス
しゃべらない、戻らない。
の答えです。私達は「外の人」なのか「内の人」
②口をハンカチで押さえ、低い姿勢でかがんで誘
なのか、心配になってきました。ここでは主イエ
導非常口から逃げる。
スは弟子達を「内の人」として、認めておられる
(3)消防署に通報事項:・火災発生住所、・近
ようです。従って、キリスト者である私達は、主
隣の建物名称、・目標物。通報手段は携帯電話で
の弟子ですから、「外の人」には属さないと考え
も可能。
られます。でもそんなに単純に割り切れるのでし
(4)その他:①煙の上昇速度は 1 秒間に 3~5
ょうか。
メートル、②横方向の速度は歩く速度程度、③消
マルコは、6章でイエスが神の福音を宣べ伝え
火器は国家検定合格証または NS 検定マークのあ
た後、5000 人に食べものを与える奇跡を行い、
るものを備える。8 年は有効。消火器の大きさに
8章でも 4000 人に食べ物を与えます。その後、
もよるが 20~30 秒程度消化剤を噴出できる。④
ファリザイ派の人々が、天からのしるしを求めて、
避難訓練は年 2 回以上行う。
議論を仕掛けたことが記されています。イエスは
2.地震関連
それをきっぱり拒否し、心の中に深く嘆かれて、
・身の安全を確保するため、机の下や構造的に頑
「どうして、今の時代の者達はしるしを欲しが
丈なところに逃げる。・マンションの場合、玄関
るのだろう。しかし、今の時代の者達には、決し
の戸を開け、また隣家とのベランダ仕切り板を破
てしるしは与えられない。」と言われています。
って逃げ道を確保する。
そして彼等をそのままにして、また舟に乗って
向こう岸に行かれます。その舟の中でイエスは弟
Ⅱ.消化訓練
子達に「ファリザイ派とヘロデのパン種によく気
①消火器のピンを上げ、ノズルを上げて、レバー
をつけなさい」と戒められますが、弟子達は主の
を握ると消化剤は噴出する。
言われた例えを理解できません。弟子達は自分達
②近隣に聞こえるような大声で「火事だ、火事だ、
がパンを持っていないから主はこんな事を言わ
誰か消防署に通報お願いします。」と叫んで火事
れたのだと論じ合ったのです。その時イエスは、
の発生を知らせ、初期消火活動を行う。
(広報部
「なぜパンを持っていないことを議論するの
山内)
7
か。まだ分からないのか。悟らないのか。
に感謝しながら、なかなか悟らず、心がかたくな
心がかたくなになっているのか。
であった日のことを思い出して、心の片隅に痛み
眼があっても見えないのか。
を噛みしめたのではなかったでしょうか。そんな
耳があっても聞こえないのか。
自分を見捨てず、宣教者として立たせて下さる喜
覚えていないのか。
びを、感謝しながら。
私が 5000 人に五つのパンを裂いた時,集めた
(聖ドミニコ会
シスター宮内永子)
パンで一杯になった籠は、いくつあったか。」
弟子たちは
典礼部より皆様へ、ご協力とお願い
「十二です」と言った。
「七つのパンを 4000 人に裂いた時には、集め
たパンで一杯になった籠はいくつあったか」
「七つです」と言うと、イエスは
1.ミサでのお願い
「まだ悟らないのか」と言われます。そこには
(1) 特に参列者の多い《日曜日の第二ミサ》では一人
主イエスの深い嘆き、うめきにも似た弟子達への
でも多くの方に座席を、後から来られる方がスムース
失望があるのではないでしょうか。
に座れますようにご協力お願いします。
私がこんなに明瞭に神の国の秘密を打ち明け
ているのに理解できないのか。「お前達も外の人
●座席は前列から、横列は中央に詰めてお座り
ではないか」とイエスは問うて居られます。
くださるようお願いします。(出来れば窓側
の方の席を空けるようにしていただければ
神の支配の外に立ってしまっている人には、神
幸いです)
の支配は見えない。主は私達にも同じように問わ
れた事はなかったでしょうか。
●手荷物は座席の下へ置くようにしてください。
「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じな
さい」
(マルコ 1 の 15)。神の心を行なう人になっ
(2) 携帯電話は電源 OFF にするか、マナーモードに
てくださいと頼んでも、ファリザイ人のようにイ
しておいてください。
エスを愛さない人はうなずくところがない。イエ
(3) 出来るだけミサ開始前にご入堂くださいますよう
スの言葉は分からないで、謎(なぞ)になります。
お願いします。
「聴く耳のある者は聞きなさい」(マルコ 4 の
9)。群集のように、病がいやされる事だけを願い、
2.典礼奉仕のお願い
イエスの奇跡の力を利用したいと押しかけ、悔い
(1) あらかじめ典礼奉仕のお願いを「お願い用紙」に
改める事がなく、柔らかな心がないと、聴く耳が
て(1~2ヶ月前) トレーに入れさせていただきます
開けてこない。こんな時、人はみずから救いの外
ので、よろしくお願いします。
に立ってしまう。そのかたくなな心、悔い改めを
なお、お願いした日がご都合の悪い場合は早目に
知らない心は、遂にイエスを十字架へ追い込みま
その用紙の下段「当日は都合で出来ません」に丸
す。しかし、イエスは地に落ちて芽を出す、一粒
印をつけて【典礼部トレー】に入れておいてください。
の麦となって死んでくださった事によって、神の
(【典礼部トレー】は事務室入口の直ぐ右にあります)
奥義が完成して、光栄の復活に至ることをマルコ
<お願い>(打合せが必要なときがありますので) 当
福音書は、始めから言おうとします。
日はミサ開始の 15 分前位までにお越しください。
「神の子イエス・キリストの福音の初め」
(マル
また、急に来られなくなった場合、速やかに典礼
コ 1 の 1)。
部または教会事務<046―228-4164>まで、
弟子は御聖体を戴いた日、ともに居て下さる主
ご連絡いただければ幸いです。
8
“きれい!”と喜びの表情を素直に表していまし
(2) 典礼奉仕は出来るだけ多くの方にお願いし
たいと思っています。ミサ中の朗読、答唱、
た。今日、来られなかったお子様も共に今の素直
先唱、オルガン伴奏などに、ご興味ある方、
な気持ちで神様の豊かなお恵みを受け神様の子
可能な方がおられましたらどうぞ典礼部
供として成長されますように共同祈願でも祈ら
までお申し出ください。
れました。
今まで典礼奉仕の経験がなくても、やって
(広報部
山田(照))
見たいと思われる方は、ぜひ典礼部員まで
お申し出ください。典礼部員はミサのとき、
成人の日のお祝い
聖堂内(祭壇に向かって)後部右側の【典礼部
席】ベンチにいます。
1 月 13 日第 2 ミサの中で成人式が行われまし
た。
3.典礼部へ参加のお願い
今年は 2 名の出席。朝山神父様より「2 人の若者
現在、典礼部員が少なくて、ミサ準備などに困っ
ています。典礼部員を募っております。
が、キリスト様の光に照らされ、聖霊が下り、立
どうぞよろしくお願いします。
派な大人に成長しますように」との御言葉と共に
祝福をお受けになった。2 名は成人を迎えられた
事を神様に感謝され、そして今後は心と力と愛を
~七五三のお祝い~
尽くして主のお望みになる人格形成、主のお望み
になる社会への奉仕に励みたいと力強く述べら
11 月 11 日(日)第 2 ミサの中で七五三の祝福
れた。
が行われました。今年は 10 名のお子様が七五三
聖堂の外は8℃にも達しない寒空の下でした
を祝われました。
が、参加者は用意されたつきたての御餅を食べな
朝山神父様は「七五三はカトリックの習慣には
がら歓談され、また新成人の 2 名は杵を手に餅つ
ないけれど日本の伝統的な文化、正しい習慣で無
きも体験され、つきたての餅を食べながら喜びを
視することはない。昔、まだ医療が発達していな
分かち合いました。
い時代に子供が3才を迎えられることは大変喜
今回担当されたコミュニティーの方々に感謝
ばしいことでした。昔から奇数は縁起の良い数と
致します。
いわれてきたようです」と話され、子供達が元気
で健やかに育つようにと祈られました。
ミサ後、神父様から一人づつメダイを胸にかけ
ていただき、子供達は嬉しそうにメダイを見て、
9
(広報部
山内)
前、この教会で洗礼を受けた 26 歳の若いフレノ
パリ外国宣教師たちの故郷を訪ねる
21 日間の旅(2)
神父が福音の喜びを分かち合うために日本に行
山田照子
った事を時間と共に忘れていた。日本からの巡礼
者が来る知らせを受け資料を集めた。皆さんのお
はじめに:原文では、訪問先の教会、交流会の
陰で記憶が蘇りました。160 年の歴史が、私たち
様子、移動中の情景、そして宣教師の活動史など、
の歩みの原動力となり、迫害に打ち勝つ可能性を
きめ細かく綴られているが、スペースが限られた
教えてくれます。殉教の国から平和の祈りが届く
本誌ではダイジェスト的に圧縮して前号を含め
ことを信じています。」と。
て 4 回シリーズで掲載予定しています。この旅を
フランスでも司祭不足は深刻らしい。一人の司
通して 23 人の宣教師の故郷を訪ねられたが、今
祭が 4,000 人くらいの信徒を受け持っている。巡
号では特に長崎県五島列島に関わりのあった 3 人
回教会は 20 位といわれ、
ミサは 2 ヶ月に 1 回位。
の宣教師に関して掲載します。(広報部山内)
その対策として各教会に終身助祭がおり、ミサの
ない主日は終身助祭が集会祭儀を行っている。
*フレノ神父の出身地ジョンザックの教会に
今回、訪問した教会は終身助祭やカテキスタが
着くと歓迎のアンゼラスの鐘が鳴り響き、12 時か
中心となり活動していた。今日の交流会には巡回
ら高見大司教司式による感謝のミサが、司祭 7 名
教会の信徒も参加していた。こうした交流会は必
と助祭 1 名でフランス語と日本語で行われた。言
ず地元の村長・町長・市長が中心となり進められ
葉は違っても祈りによって一致する素晴らしい
ていた。
ミサ。普遍的教会がここにあります。
高見大司教は説教の中で「キリストの愛は、自
さて、パリ外国宣教会はフレノ神父を 1873 年
分自身を捨てること、キリストを知り、キリスト
(明治 6 年)に日本に送り、フレノ神父は 1877 年か
を生きて分かち合う事です。宣教師達が全てをお
ら五島列島で宣教を始めた。その頃の五島には、
いて日本に宣教に来られたのはキリストの愛に
隠れキリシタン・潜伏キリシタンがいることは分
動かされて、キリスト信者として徹底的に生きる
っていた。彼等の第一の目的は、潜伏キリシタン
ことを日本人と分かち合う為でした。・・・キリ
を探し出すこと、破滅状態の教会を建て直すこと
ストのくびき・重荷はキリストの愛です。それを
だった。多くの教会を、丘の上とか目立つ所に建
担いキリストの愛に生きる人は、人々を癒し、慰
てた。彼等は建設技術を持っていたので日本の優
め、助け、キリストの愛を新に感じる事が出来る
れた建築家と組んで立派な教会を建てた。また、
と思います。
」と話された。
典礼を意識して、荘厳でみんなの心を引くような
聖歌、典礼を作り、大きな十字架を腰に差し、ス
ータンを着て目立つように振舞って、自分はカト
リックの司祭だと分るように、カトリックのアイ
デンティティを強調していたようです。
フレノ神父
1847 年 10 月 10 日生まれ
教区:ラ・ロシェル
司祭叙階:1871・7・2
出発日:
また、主任司祭は挨拶の中で「皆さんを迎える
ことは大きな喜びであり誇りであります。160 年
10
1873・5・7
1880 年 10 月にマルマン神父は大泊という信者
フレノ神父はこの地方の組織化、伝道学校を設
立、また、巡回宣教師として五島で 3 年滞在した。
の村に「子部屋(捨てられた子供達を育てる家)」
その後、キリシタンのいない、福岡、熊本、大分、
を開いた。その発端は梅木マセという産婆が、貧
宮崎と宣教しましたが、外人ということで宿は断
しさ故に赤子を捨てるという風習が江戸時代か
られた。集会を開くときは警察の許可を取り、公
ら続いていることを、マルマン神父に涙ながらに
民館のような所で講演会を行い、必ず僧侶も入っ
訴え、マルマン神父は「捨てられた子を拾って育
てもらった。宣教師は日本語も片言でしたが、そ
てる」提案をしたのだ。そして神父は、大泊に一
の一生懸命さ熱心さに心を動かされ洗礼を受け
軒の空家と畑を借り、「子部屋(捨てられた子供
る人もいた。
達を育てる家)」にしたのだった。
フレノ神父は 10 年後再び五島に任命され上五
その後、神父は協力者の一人を呼んで、「子部
島の江袋に小神学校の全身となる学校を設立し
屋がこれから大きくなると育児や農業するだけ
た。1889 年からは長崎の浦上に任命され、浦上
じゃなく事務を執る人も必要になる。そこで長崎
天主堂の設計、建設を始めたが資金不足で度々中
に行って勉強してもらいたい」と長崎の学校に通
断を余儀なくされた。フランスの教会に援助を求
わせた。そして子部屋を大泊から堂崎の聖堂の隣
め、自分も托鉢をしながら資金を集めた。しかし、
に完成させ移転し名前を養育院とした。
資金不足のため完成を見ることなく 64 歳で亡く
1886 年長崎での 5 年間の勉強を終えた梅木イ
なった。浦上の教会で 22 年間働いた。
サが帰ってきた、19 歳になっていた。彼女は養育
*1880 年(明治 13 年)フレノ神父の後を引き継
院の事務と渉外を担当した。翌年マルマン神父は
ぎマルマン神父(当時 31 歳)が下五島に着任し
鹿児島県の奄美大島に任命され、琉球列島に福音
た。その頃のキリシタンは五島の山奥のやせた土
の門戸を開いた。1897 年佐世保の沖に浮ぶ黒島
地、不便な所に住んでいた。
に任命され、煉瓦造りの現教会建築を開始するが
マルマン神父の故郷はベレー教区のシマンド
病気療養のため帰国。1 年後また黒島に戻り教会
ルという所で、こんな山奥に村があるのかと思え
建築を完成させた。黒島で 19 年間働きマルマン
るような田舎だったが、教会だけは立派だ。私た
神父が建てた教会は 1998 年、国の指定重要文化
ちのバスは一時間も遅れて着いたが、皆が待って
財に、そして、世界遺産の候補にも上がっていま
いてくれた。どこの村も高齢者が多い。杖を突い
す。1912 年 8 月 23 日亡くなり今も黒島に眠って
たまま立って待っていてくれた。同じ信仰を持つ
いる。
兄弟がここにもいたことに感謝!感激である。
* さて五島ではマルマン神父の後任にペルー
マルマン神父
1849 年 3 月 26 日生まれ
教区:ベレー
叙階:1876・9・23
出発:1876・11・2
出身地:シマンドル
4 人の神父様の共同司式であったが、ミサの後、
1848・3・20 生まれ
主任司祭は自分も一緒に共同司式をしたかった
教区:ル・マン
が祭服が足りなくて残念だったと言って皆を笑
叙階:1870・9・23
わせていた。
出発:1872・6・5
11
帰天:1918・3・4
神父が堂崎に着任。135 年前 24 歳の若き神父は
異動情報
(2007.10.1~2007.12.31)
マルセイユの港から日本へ向けて出発した。横
浜・新潟・神戸・長崎・佐賀で宣教活動。1887 年
敬称略
から全五島の主任司祭となった。その頃養育院で
は養蚕業を始めた。 ペルー神父は織物の技能を
教会事務へのお届出時に掲載を希望されない
修得させ、子供達や自分の着る物だけでなく注文
方の情報は割愛しています。
に応じ貴重な現金収入を得た。また新に産婆の免
許も取らせ、そこに住む娘達の生活も安定させた。
彼は広範囲を任され勇敢な船乗りとなって命が
けで巡回した。
個人情報につき削除しました。
1897 年(明治 30 年)井持ヶ浦に木造教会を増築
した。地開きしている時、湧き水が出た。それを
見たペルー神父はこの地にルルドの泉を再現す
ることを思いついた。ルルドの信心が高まってい
た五島の信者は、この提案に喜んだ。
ルルドの創設に当たっては強い信仰のペルー
神父と少しも労苦をいとわない信者達は洞窟や
その周辺の石にもこだわりながら、五島各地の美
石を探し小さな艪舟で運んだ。全五島の信者の協
力が実を結び、1899 年(明治 32 年)2 月 11 日、
日本最初のルルドの洞窟が完成した。クザン司教
が来島し、約 1,000 人の信者出席のもとに井持ヶ
浦ルルドの祝別が行われた。ペルー神父は洞窟の
マリア様をフランスから取り寄せ、水も毎年ルル
ドから送ってもらい、そこに注ぐことも欠かさな
かった。
ペルー神父は堂崎から 2k 離れた高台にフラン
スのお母さんの遺産で土地を買い養育院を移転
し 1909 年(明治 42 年)に養育院を「奥浦慈恵院」
と改名した。法律的にも認められ僅かながら国か
らの補助金が出る施設となった。慈恵院にも医師
編集後記
の必要性を感じ娘達に東京の女子医大に通わせ
ることにした。
鵜飼神父様の下、最後の発行になります。6年
1948 年慈恵院の者が福江で買った一枚の宝く
間ありがとうございました。
じが、一等 30 万円当たった。特別な神の御計ら
(広報部:永田・山内・山田照子)
いと、それを基に福江に新しい病院が誕生した。
「聖マリア診療所」である。
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次号は有名地に関わることを中心に掲載予定
です。
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